レーニンの考えの紹介

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レーニンが生きた時代の特殊性は科学的社会主義に何を強いたのか

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レーニンが生きた時代の特殊性は科学的社会主義に何を強いたのか

〈目次〉

  1. レーニンが生きた時代の特殊性を学ぶ意義
  2. レーニンの若すぎる晩年期の「時代の特殊性」について
  3. 何がスターリンの専制を生み出したのか
  4. 民主が徹底されなければ〝集団の英知〟は生まれない
  5. マルクス主義政党の基本的な態度──みんなで考えよう

レーニンが生きた時代の特殊性を学ぶ意義

 レーニンはロシア革命について、第七回大会の「戦争と講和についての報告」(1918年3月)で、以下のように述べています。

「歴史のジグザグによって、社会主義革命をはじめなければならなかった国にとって、その国がおくれていればいるほど、古い資本主義的関係から社会主義的関係への移行は、それだけ困難である。ここでは、破壊という任務のうえに、新しい、前代未聞の困難な任務、──組織的任務がつけくわわる。

……この任務は、現在の労働条件のもとでは、われわれが首尾よく内乱の任務を解決したときのように、けっして「ウラー」をさけんで解決することをゆるさなかった。問題の本質そのものが、このような解決をゆるさなかった。

……ロシア革命は国際帝国主義の一時的な故障を利用したにすぎない。というのは、この機械が一時とまったからであり、この機械は列車が手押しの一輪車にむかってすすみ、それを粉砕してしまうように、われわれにむかってくるはずのものであったが、──二つの強盗グループが衝突したために、機械がとまってしまったのである。革命運動はここかしこで成長したが、例外なくすべての帝国主義諸国では、それは多くのばあい、まだはじめの段階であった。……われわれがまれにみる困難な、歴史における急転換を体験しなければならないのは、こういう客観情勢の仕業である。

……歴史は、いまやわれわれを異常に困難な立場においたのである。われわれは、前代未聞の困難な組織的活動をやりながら、一連のきわめて苦しい敗北をも経ていかねばならない。世界史的な規模でみるばあい、わが国の革命が単独のものにおわり、他の国々で革命運動がないとしたら、わが革命の最後の勝利は望みのないものであることは、すこしも疑問の余地がない。われわれはボリシェヴィキ党だけで全事業をとりくんだのであるが、われわれはつぎのように確信して、この事業を一身にひきうけたのである。すなわち、革命はすべての国々で成熟しつつあり、われわれがどのような困難を経験しようと、どのような敗北をなめる運命にあろうと、結局は──まずはじめにではなく──国際社会主義革命はやってくるだろう、──なぜなら、それはすすんでいるからである。それは成熟をとげるだろう、──なぜなら、それは熟しつつあり、成熟するであろうからである。これらすべての困難からわれわれをすくうものは──くりかえして言おう──、全ヨーロッパ的な革命である。この真理、まったく抽象的なこの真理から出発し、この真理に導かれながらも、われわれは、それが時とともに空文句にかわってしまわないように注意していかなければならない。」(全集第27巻P83-89、文中の……は青山の略)

 このように、ロシア革命は、帝国主義の「二つの強盗グループが衝突したために」、「国際帝国主義の一時的な故障を利用し」て、資本主義の遅れたツァーリのロシアで、世界で最初の労働者階級の国家が、期せずして、誕生したものです。

 だから、科学的社会主義の思想から見て、未完成で、不十分な点がたくさんあります。その未完成で、不十分な点を包み隠さずしっかり見て、正しい判断をしないと科学的社会主義の思想を歪曲することにもなりかねません。

 「レーニンが生きた時代の特殊性」から誤ったことを学ばないようにするために、「レーニンが生きた時代の特殊性」について、もう一度確認し、現代に生きる科学的社会主義の思想とその思想を信条とする党はどうあるべきかを考察することは、科学的社会主義の思想をレーニンから学んできたものの義務であると考え、このページを作成いたしました。

レーニンの若すぎる晩年期の「時代の特殊性」について

──がむしゃらに〝革命〟を守らなければならなかった時期の特殊性──

  レーニンはマルクス主義者として、人民による政治(〝by the people〟)の思想を堅持し、労働者党の役割を、

①労働者のもっとも緊切な必要の充足のための闘争において労働者に助力することによって労働者の階級的自覚を発展させること

②労働者の組織化に助力すること

③闘争の真の目標を示すこと

という労働者への三つの援助を通じて社会革命に貢献することを任務としてたたかい、革命後は、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織する」(全集第23巻『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』P16~20、1916年8月~9月に執筆 )ことを通じて新しい社会(社会主義社会)を実現しようと、資本主義的「民主主義」さえ育っていないロシアで、最大限の努力をおこないました。

  しかし、レーニンの、まだ若すぎる晩年期は、「客観的情勢が全人民に徹底的な方策をとることを要求」した「革命期」で、しかも、ボリシェヴィキが大きな歴史的な役割を担わざるをえない状況におかれ、実質的に「共産党」と「ソヴェト権力」が一体とならざるをえない環境が作り出されてしまいました。そうしたなかで、「共産党」が国家の指導機関としての役割を担うようになり、中央委員会が「党をとおして全国家機関を指導する」(レーニンの著作の抜粋14-46「国家の人民統制の手段としての労農監督部」参照)機関とならざるを得なくなり、労働組合運動においても、右翼的潮流から「革命」を守るために、「労働組合運動の指導的上層部の点検と一新のための専門委員会を、中央委員会組織局に設置する」ことをレーニンは提案(同前14-35「新経済政策の諸条件のもとでの労働組合の役割と任務について(草案)」参照)し、「共産党」を労働組合のいろいろな任務から出てくる「矛盾をただちに解決するだけの権威をもった最高の機関」として位置づけ(同前14-36「新経済政策の諸条件のもとでの労働組合の役割と任務について」参照)、危機打開に邁進せざるを得ませんでした。

 こうした事情のもとで、1922年12月16日に二度目の発作に見舞われたレーニンは、最後の力をふり絞って『大会への手紙』「三 覚え書のつづき」(1922年12月26日付け)を書き、「ソヴェト体制の献身的な支持者とするために労働者出身の中央委員の補充」を提案(同前21-4「スターリン、トロッキー等の評価と党組織上の対応について」参照)して、革命を担う人財を輩出させるために、「党」主導での人財育成の緊急性と必要性を訴えます。

 そしてレーニンは、『(中央委員の増員について)』(1922年12月29日)で、「中央委員が適当に増員され、その中央委員たちが、このような高度に熟練した専門家や労農監督部各部門の高い権威をもった部員の援助をうけながら、年々国家行政の課程を修了していくなら、われわれは、こんなにも長いあいだ解決できなかったこの任務をうまく解決できるようになるだろうと、おもわれる」(同前14-46参照)と述べ、「もっとも権威ある党機関(中央委員会──青山)を『普通の』人民委員部と融合させようと計画」(1923年3月4日、同前14-47「ソヴェト国家はどうしたら持ちこたえることができるか」参照)します。 これらのレーニンの提案は、共産党が「政権についていることを利用して、行政のすべての細部を勤労大衆の最優秀分子に教えるという責務」を果たす(1923年1月13日に口述した「論文『われわれは労農監督部をどう改組すべきか』の資料」、同前14-46参照)ためでした。

 

「マルクスが人民革命と名づけたあらゆる革命」に未来を託したレーニン

 レーニンは、このように、国家と「党」との緊急時での歪んだ関係の中でも、「行政のすべての細部を勤労大衆の最優秀分子に教え」て、革命を担う人財を輩出させる努力をおこない、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織する」ことを通じて新しい社会──社会主義社会──の実現をめざしました。

 だから、上記のような非常処置を通じて党内外に人財が育ってくれれば、もしもレーニンが元気に活躍していたならば、その本来の考えにもとづいて、この方針は必ず修正されるものと、私は確信しています。

 こう言うと、なぜ、青山は〝講釈師〟か不破哲三氏のように、「見てきたような勝手な『推測』をする」のかと、眉に唾をつけて私を見る人がいるかも知れません。

 しかし、私には確信があります。

 なぜなら、レーニンは1905年6~7月の段階で、「──労働者の解放は労働者自身によってしか行われえない、大衆の自覚と組織がなくては、また全ブルジョアジーとの公然たる階級闘争によって大衆を訓練し教育しないでは、社会主義革命は問題になりえない、と。だから、われわれがまるで社会主義的変革を延期しているかのように言う無政府主義的反対論にこたえて、われわれはこう言おう。われわれは社会主義的変革を延期しているのではなく、唯一の可能な方法によって、唯一の正しい道をとおって、すなわち民主的共和制という道をとおって、社会主義的変革への第一歩を踏みだすのである、と。政治的民主主義の道をとおらずに別の道をとおって社会主義にすすもうとするものは、かならず、経済的な意味でも、政治的な意味でも、愚劣で反動的な結論に達するのである。」(第9巻「民主主義革命における社会民主党の2つの戦術」P16~17、1905年6~7月に執筆)と述べており、激烈で困難な「革命」の時期に、「わが国の革命がおこなっていることが偶然ではなく──われわれは、それが偶然ではないことを、深く確信しているが──、またわが党の決定の産物でもなくて、マルクスが人民革命と名づけたあらゆる革命、すなわち、人民大衆が、古いブルジョア共和国の綱領を繰りかえすことによってではなく、彼ら自身のスローガンにより、彼ら自身の奮闘によって、みずからおこなうあらゆる革命の不可避的な産物であるなら、もしわれわれがこのように問題を提出するなら、われわれはもっとも重要なものをなしとげることができるであろう」(全集第27巻『ロシア共産党(ボ)第七回大会』「九綱領の改正と党名の変更についての報告」P135、1918.3.8(夜))と述べているからです。

 このように、レーニンは〝人民革命〟を真の革命と思い、ロシアの労働者階級と〝人民革命〟を信じて、それに命を捧げていたからです。

 しかし、残念ながら、レーニンは、現在の私たちから見れば、53歳という、若さで他界してしまいました。〝あと10年ながく生きていて欲しかった〟と心から思います。そうすれば、マルクスとエンゲルスがパリ・コミューンから感得し、レーニンがソヴィエトから感得した本当の民主主義を、ロシアの人民の中に植えつけることができたと確信しています。そのことが果たせなかったことが、残念でなりません。

 そしてもっともっと残念なのは、「粗暴」で「性急」で、「行政者的熱中」に陥るスターリン(同前21-4と21-5「スターリンについて」参照)が共産党の書記長になり、「党」を「プロレタリアートの階級組織の最高の形態」、「プロレタリア独裁の道具」として、共産党が国家を支配することが「レーニン主義」ででもあるかのようにレーニンの思想を歪め、党と国家の関係をマルクス主義(科学的社会主義=マルクス・エンゲルス・レーニンの思想)と異質のものに変えてしまったことです(スターリン『レーニン主義の基礎』参照)。

何がスターリンの専制を生み出したのか

 レーニンは、自分の影響力のなくなった後の党の分裂の危機を予想し、『大会への手紙』で次のように述べて、中央委員の数を増やすことによってソヴィエト国家の発展と党の健全な運営を確保しようとしました。

「さきに中央委員会の安定性について述べたのは、分裂を防止する措置──およそそういう措置がとれるかぎりで──のことをさしたものであった。……(青山の略)

 私がいま念頭においているのは、近い将来の分裂をふせぐ保障としての安定性のことであって、ここでは純然たる個人的な事情をいくつか検討してみようとおもう。

 私は、この見地からみた安定性の問題で基本的なのは、スターリンやトロッキーのような中央委員であると考える。私の見るところでは、分裂の危険の大半は、彼らの間がらからきている。この分裂は避けようとおもえば避けられるだろうし、私の意見では、中央委員の数を50人ないし100人にふやすことが、とりわけ、それを避けるのに役だつにちがいない。

 同志スターリンは、党書記長となってから、広大な権力をその手に集中したが、彼がつねに十分慎重にこの権力を行使できるかどうか、私には確信がない。他方、同志トロッキーは、彼が交通人民委員部の問題について中央委員会と闘争したことがすでに証明したように、めだった点は、すぐれた才能をもつ人物というだけではない。個人的には、彼は、おそらく現在の中央委員中でもっとも有能であろうが、しかしまた、度はずれて自己を過信し、物ごとの純行政的な側面に度はずれに熱中する傾きがある。

 現在の中央委員会のこのふたりのすぐれた指導者のもつこういう二つの資質はふとしたことから分裂をひきおこすことになりかねない。そして、もしわが党がそれを防止する措置を講じないなら、思いがけなく分裂がおこるかもしれない。」(同前21-4参照、第36巻、1922年12月24日)「中央委員の人数を50人または100人にふやすことは、私のみるところでは、二重の目的、いや三重の目的にさえ役だつにちがいない。中央委員が多ければ多いほど、それだけ多くの人が中央委員会の活動で訓練されることになり、また、なにか慎重を欠いたやり方のために分裂がおこる危険はそれだけ少なくなるであろう。多数の労働者を中央委員会にいれることは、まったくなっていないわれわれの機関を労働者たちが改善する助けとなるであろう。」(同前21-4参照、第36巻、1922年12月26日)

 しかし、「性急」で「気まぐれ」で「粗暴すぎる」スターリンが書記長になった「党」とソヴィエト国家は、中央委員の数を増やすだけではスターリンの横暴を阻止することも「党」と国家の没落への途を止めることはできませんでした。

 その原因を見ていきましょう。

 

自らの誤りの原因を見事に言い当てたスターリンの誤り

  スターリンは『レーニン主義の諸問題によせて』で、「プロレタリアートの独裁における主要なもの」として「党の指導(「独裁」)」を定式化し、それは「前衛と労働者大衆、党と階級とのあいだに、ただしい相互関係が現実に存在する」ことが前提条件であることを述べ、党と階級とのあいだのただしい相互関係が崩れるケースを三つあげていいます。

 スターリンは、「レーニン主義」と称して、〝国民の新しい共同社会〟をつくる助産婦になるという〝前衛党〟の役割を逸脱して、「プロレタリアートの独裁における主要なもの」として「党の指導(「独裁」)」を定式化するというとんでもないことをおこなって、科学的社会主義の思想と科学的社会主義の党を破壊し、ソビエト国家を破壊してしまいましたが、『レーニン主義の諸問題によせて』の中の党と階級とのあいだの正しい相互関係が崩れる三つのケースの記述は、まことに立派な、スターリンが起こした自らの誤りの原因を見事に言い当てた文章となっています。

 ちょっとスペースをとりますが、全文を抜粋します。

「(一)党が大衆のなかでの権威を、自分の活動と大衆の信頼とのうえにではなく、自分の「無制限な」権利のうえにきずこうとしはじめるようなばあい、

 (二)党の政策があきらかにまちがっており、しかも党が自分の誤りを再検討し、それを訂正しようとしないようなばあい、

 (三)党の政策は一般的にはただしいが、しかし大衆にまだこの政策を自分のものにする準備ができておらず、しかも党の政策のただしいことを、大衆自身の経験にもとづいて大衆が納得できるようにするために、党が時機をまつことをのぞまないか、または、まつ力がないようなばあい。」

  現代を見すえながら、上記の文章を素材に、科学的社会主義について考えてみたいと思います。

 

スターリンの専制はなぜ防げなかったのか

 「(一)党が大衆のなかでの権威を、自分の活動と大衆の信頼とのうえにではなく、自分の「無制限な」権利のうえにきずこうとしはじめるようなばあい」について考えてみましょう。

  ちょっと古い話ですが、いまから40年近く前に、政治学者の田口富久治氏と当時日本共産党の書記局長だった不破哲三氏との間で「前衛党」は分派を認めるべきかどうかという問題をめぐって、不毛な空中戦が行われ、その中で、ソ連の党が大衆のなかでの権威を、自分の「無制限な」権利のうえにきずいたことについて、これまた不毛な「論戦」がおこなわれました。

  内容をごくごく大雑把に言うと、田口氏の言い分は、スターリンが「『批判の自由と行動の統一』という意味で理解されてきた『民主集中制』の原則」を変質させることによってスターリンの「個人独裁」が成立したといい、不破さんは、「批判の自由と行動の統一」というのは党内に革命的潮流と日和見主義的潮流が混在していた1912年までで、「新しい型の党」は「批判の自由と行動の統一」を「民主集中制」の構成要素としていないと反論し、「スターリン的専制の一時代を生みだした歴史的要因は」、「スターリン個人の性格や資質だけに帰せられるべきものではない」として、その原因を「旧国家機関の残存物」と「全般的な文化水準の低さ」に求めました。その結果、不破さんによれば、スターリンの専制は「『官僚主義』をスターリンの専制というもっとも極端な形態にまで肥大化させた」問題、官僚主義の肥大化の問題となってしまいました。

 残念ながら、この二人の「議論」「論争」にはスターリンは居ても人民(労働者階級)は居ず、〝by the people〟の視点がまったく欠落していました。「論争」の中で不破さんは、「全住民が行政に参加するときにだけ」という文を含んだ文章を引用していますが、不破さんには、残念ながら、その意味がわかりませんでした。マルクス・エンゲルス・レーニンがパリ・コミューンで学んだことをまったく理解できませんでした。

 田口氏も不破さんも、お互いに、党が権力を持つことを前提に、分派を認めるか認めないかを論じるというトンチンカンな議論をし、不破さんに至っては「スターリンの専制」は「官僚主義」のなせる業だなどというとんでもない結論に到達してしまいました。このように、この二人にはマルクス主義が欠けてのるで、泥棒のケンカなら(曝露合戦によって)社会的に意味がありますが、マルクス主義を理解していない者同士のののしりあいなので何の意義もありませんでした。なお、不破さんは現在(2021年)でも、「スターリンの専制」は「官僚主義」のなせる業という考えから一歩も進歩していません。

  「スターリンの専制」を許したのは、「官僚主義の肥大化」などではありません。最大の問題は、レーニンの言う、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織する」ことが欠け、「指導」党の「無制限な」権利のうえにスターリンが君臨したからです。

 

二一世紀の日本の政治と社会の展望

──本当の民主主義への途──

 

 レーニンが生きたロシアとの対比で、二一世紀の日本の政治のあり方を一緒に考えて見ましょう。

  幸いにして、現在の日本は、当時のロシアとは違って資本主義的生産様式の基での「民主主義」を経験し、「産業の空洞化」のもとでも二一世紀の新しい技術と高い技術水準を持っており、米国に従属しているとはいえ、社会の変革を平和的にすすめることができる条件と可能性をもっています。

 このことは、レーニンが生きたロシアの党と次の二つの点で大きな違いがあります。

①党が革命(蜂起)の司令部、武力の中核として圧倒的な存在としてある必要はなく、宣伝・煽動を含む理論的なイニシアティブをもった集団として存在することができる条件にあるということ。

②変革の過程でより一層広範な層を結集する可能性が広がるとともに変革に必要な知識をもった人財が豊富に輩出する可能性が拡がるということ。その結果、「革命的情熱」と「二つの敵」とたたかうという「観念」しか持ち合わせていないような党員は運動の発展にとって桎梏となり、国家権力の一翼を担う国会議員は民主・革新勢力の共同代表として選ばれる方向に向かわざるをえなくなるということ。

 そして、注目しなければならないのは、現在進行中の情報技術の発展が政治における民主主義の発現方法を劇的に変える可能性があるということです。

 情報技術の発展によって、国民の意思をただちに集約する手段を獲得しつつある国民は、自らの意思を──代議制を通じてではなく──自ら表明することのできる手段を獲得する可能性を手にしつつあります。

 その結果、

㋐国権の最高機関である国会は施策の点検と新しい施策の調査・審議・法案作成の機関に変化し、国民自らが、直接、自らの進路を決定する可能性が拓かれつつあること、

㋑そして、この人民による政治(〝by the people〟)を形骸化させないために、行政を常時監督する機関として、裁判員制度のように国民の中からランダムに選ばれた「行政監督員」によって国家機関を「課」くらいに単位で監督する制度等を創設すること、

が近い将来、必要となると思われます。

 こうして、共産党の役割も〝歴史の発展の助産師〟に徹することが可能になり、社会が「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織する」ことが可能になります。このような「国家」には、党の独裁も個人の独裁も、その余地などありません。

 このように私たちはレーニンの時代の限界を正しく認識し、現代に適した人民による政治(〝by the people〟)のあり方を、今ある「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」から導き出すことができます。

民主が徹底されなければ〝集団の英知〟は生まれない

 これまで見てきたように、スターリンの「専制」は、自ら『レーニン主義の諸問題によせて』で書いた「(一)党が大衆のなかでの権威を、自分の活動と大衆の信頼とのうえにではなく、自分の「無制限な」権利のうえにきずこうとしはじめるようなばあい」によるものですが、「党」がどのような状況のとき、「(二)党の政策があきらかにまちがっており、しかも党が自分の誤りを再検討し、それを訂正しようとしないようなばあい」に陥るのか、一緒に見ていきましょう。

 話しは少し戻りますが、さきにあげた田口富久治氏と不破さんとの「論争」のなかで、不破さんは、日本共産の党運営について、「党大会が開かれるときには、議案について全党討議がおこなわれ、少数意見が一定の比重をもって存在する場合には、代議員選挙を通じてその意見を党大会に反映することができるし、代議員は、どんな反対・修正の意見でも、党大会で自由に開陳することができる。……とくに重要な意義をもつ問題の全党討議のさいには、特別の討論用機関紙(誌)を発行して、個々の党員の意見でもその内容が全党に知らされ、事前の討議が十分におこなわれるよう、特別の努力がはらわれてきた」と言い、だから、「民主」が確保されているといいました。

 今の日本、二一世紀の日本は、革命前のロシアや戦前の日本のように党員が大量逮捕されたり殺されたりすることもなく、公然と自由にはっきりした言葉で党の主張を国民に伝えることのできる時代です。私たちは、レーニンが生きていれば、革命運動を進めるうえで、夢のように感じるであろう時代に生きています。そして、その日本は、1970年代以降、産業の空洞化が進んで経済は停滞し、非正規雇用は増え、労働者の賃金は上がらず、社会保障制度が劣化して、日本経済と日本社会は危機的な状況に陥っています。

 それにもかかわらず、「産業の空洞化」とともに、残念ながら、日本共産党は活力を失い続けています。不破さんが言うように、本当に、共産党に〝民主〟が確保されていて、正しい認識に基づいて正しい方針が決められ、それにもとづいてたたかっているならば、日本共産党は資本主義の矛盾が発散する時代のエネルギーを吸収して、活力に満ちているはずです。

 「党がますます活力を失っている」のは「党が正しい方針を持てない」からで、その原因は「党に民主がない」からです。日本共産党に「民主」がどう欠落しているか、実態を見てみましょう。

  共産党の基礎組織は「支部」という少人数の蛸壺のような組織からなっています。「規約」では、党員の権利として「党の会議で、党の政策、方針について討論し、提案すること」、「中央委員会にいたるどの機関にたいしても、質問し、意見を述べ、回答をもとめること」、「出された意見や提起されている問題、党員からの訴えなどは、すみやかに処理する。党員と党組織は、党の政策・方針について党内で討論し、意見を党機関に反映する」旨の規定があります。しかし、「支部」という蛸壺のような組織から党員や「支部」の意見が広く他の党員や支部へ伝わる仕組みはなく、機関に党の政策・方針についての提案や意見を述べても、それについての回答などきたことがないのが通例であり、万一回答がきたとしても、それは当事者である党員や当該「支部」と関係「機関」との一対一の対応関係になっています。

 そのような状況のもとで、「国際的・全国的な性質の問題については、個々の党組織と党員は、党の全国方針に反する意見を、勝手に発表すること」が禁止されており、党としての集団的な認識の機能と条件が欠落しています。そのうえ、『前衛』等に掲載された「論文」への疑問という最低限の意見表明を読者の「投稿欄」に投稿しても採用されることはなく、「投稿欄」はそれらの「論文」を礼賛する感想で埋め尽くされ、中央の方針とその「成果」だけが、機関紙・誌や会議等を通じて、一方的に流される仕組みになっています。

 このような条件のもとで、定例の地区党会議以上の機関の会議で限られた時間の中で中央委員会の方針と異なる意見を述べた場合、十分な議論を尽くせば多数となるような考えの表明であっても、その意見が多数意見となる蓋然性などまったくありません。

 このように、現在の日本共産党には、「共通の認識」を得るための「民主的な議論をつくす」前提条件が欠けています。このような「民主」とともに「機関」のメンバーの「信頼に満ちた」──白紙委任的な──不思議な選出方法とが「党が自分の誤りを再検討し、それを訂正しようとしない」ような条件をつくりだしています。その結果、労働者階級の中にいない「党」中央は、独占資本の行動の分析を怠り、独占資本の行動が引き起こす労働者の苦悩を理解できず、労働者の社会変革のエネルギーを引き出すことができず、「賃金が上がれば経済は良くなる」と繰り返すだけで、現実にあわない提起をなんの疑問も持たず行ない続けるだけです。より詳しくは、ホームページ「新しい人、新しい社会」→「共産党よ元気をとりもどせ」→「民主主義を貫く党運営と闊達な議論の場の設定を」を見て下さい。

 科学的社会主義の党ならば、より闊達な討論を通じて真理に近づく方策を積極的に探究するのは〝あたりまえ〟のことです。激烈な階級闘争がたたかわれたレーニンの時代にもなかった蛸つぼ内に意見を閉じ込める「党」の組織原則は中央「独裁」をもたらす有力な手段の一つといってまちがいありません。このような現実があるなかで、田口氏との先の「論争」に於ける不破さんの発言は、よほどの認識不足か、資本家とその太鼓持ちが資本主義的生産様式の社会での「民主主義」を本物の民主主義と言いふらしているのと同様にペテン師としての言葉なのか、そのどちらかであることは間違いないでしょう。

 なお、不破さんが「論争」をいどんだ田口氏の論文『先進国革命と前衛党組織論』には上田耕一郎氏の文章が引用されており、その中に「党内民主主義は、前衛党が宣伝団体から構造的改良の党へと成長するとともに、いっそう重要性を増す」という文章があります。

 日本共産党の現指導部の路線が、人民による政治(〝by the people〟)の思想を忘れ、マルクス主義の闘争の根幹である曝露・宣伝・煽動を放棄し、賃金が上がれば経済は成長すると言って、「利潤第一主義」の改善をめざす改良主義の党(「構造的改良の党」)へと変質してしまったいま、先の田口氏との「論争」で、古い「統一戦線」型の党と「新しい型の党」との違いを述べ、古い型の党ならば分派は容認されると言っていた不破さんは、「民主」の欠落の責任も感じずに、〝民主〟を主張する真っ当な科学的社会主義の思想の持ち主を「分派」と認め、党の分裂を認めることにでもなるのだろうか。不破さんがレーニンの時代から学んだ「民主集中制」の思想が、その程度のものだとしたら、田口富久治氏と大差はない。

マルクス主義政党の基本的な態度──みんなで考えよう

  最後に、スターリンは、党と階級とのあいだのただしい相互関係が崩れるケースとして「(三)党の政策は一般的にはただしいが、しかし大衆にまだこの政策を自分のものにする準備ができておらず、しかも党の政策のただしいことを、大衆自身の経験にもとづいて大衆が納得できるようにするために、党が時機をまつことをのぞまないか、または、まつ力がないようなばあい。」を挙げています。

 これは、ことばを変えれば、「ただしい政策」とは何か、「大衆自身の経験にもとづいて大衆が納得できる」政策とは何か、正しい政策はどのように作られなければならないか、という問題です。

 今ある資本主義的生産様式の社会の矛盾を徹底的に曝露もせずに、国民を「主権者席」に座らせておいて、わが党はあれもやりますこれもやりますと猫なで声で電話で支持を訴えても、国民は目を白黒させるだけです。

 運動のなかで、運動を通じて、資本主義的生産様式の社会の矛盾をしっかりと認識し、今ある矛盾を解決して新しい生産様式の社会への途を開くようなたたかいだけが国民・労働者階級の革命的エネルギーを発現させ、科学的社会主義の党との共同闘争を発展させます。

 今、私たちにどのような闘いが求められているのか。ここから先は、人民による政治(〝by the people〟)の思想を根底において、みんなで考えましょう。