Ⅰ、マルクスとエンゲルスの発見のポイント

5-2-1-4

マルクスとエンゲルスは未来社会の展望を示した

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マルクスとエンゲルスは未来社会の展望を示した

 Ⅰ

未来社会はどのように実現されるかを明らかにした

☆マルクスとエンゲルスは、新しい共同社会の未来像を次のようにスケッチしました。

①新しい共同社会は資本主義社会における資本と資本家の支配から労働者階級を中心とする勤労国民の社会の支配(制御)を通じて実現される。

②この「生まれたばかりの共産主義社会」は〝必然性の国〟であるが、この社会の結合労働の発展と生産諸力の成長が、精神的労働と肉体的労働との対立をなくし、諸個人の全面的な発展を促進する。

③その長い過程をへて、〝自由の国〟が実現される。

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資本主義社会から〝自由の国〟への途

マルクスは「共産主義社会のより高度の段階の社会」である〝自由の国〟への途について、『資本論』で次のように述べています。当該部分で何を言っているのか、ちょっと長くなりますが、見てみましょう。

  「……しかしまた、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行なわれるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」〈『資本論』第3巻 第2分冊 大月版 ⑤ P1050B3-1051B6〉

  ここで述べられていることを要約すると次のようになります。

「物(富)がどれだけ生産されるかは生産性の高さにかかっており、生産設備等の進歩にかかっている。『自由の国』は強制されてはたらく必要がなくなったときに、はじめて始まる。つまり、それは、当然のこととして、遠い将来のことである。未開人も文明人も、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならない。この『自然必然の国』は社会の発展につれて拡大する。この『自然必然の国』での『自由』とは、盲目的な力に支配されていた生産が計画的、意識的におこなわれるようになり、共同的統制のもとに置かれることである。しかし、この『自由』を獲得した『社会主義社会』もまだ『必然性の国』である。この国のかなたで、強制的な労働のない、自分の人間的な能力の発展のみを追求することのできる真の『自由の国』が始まる。しかし、それは、『社会主義社会』という『必然の国』を基礎として、その上にのみ花開くことができる。そのための根本条件(前提条件)は労働日の短縮、つまり、生産性の向上である。」

  これがマルクスが『資本論』で述べていることです。

 そしてエンゲルスも、『空想から科学へ』(新日本文庫P72と75)で、『資本論』のこの部分よりも1ページ先の部分を含めて基本的に同じ内容のことを言っています。ただし、エンゲルスは、ここでは、「必然の王国から自由の王国への人間の飛躍」の時期である「社会主義社会」までを述べ、「自由の王国」の内容については述べていませんが、P71で「自由の王国」の内容について、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保する」と述べています。

 マルクスとエンゲルスは、資本主義社会から「共産主義社会の第一段階の社会」へ、そして「共産主義社会のより高度の段階の社会」への途を、このようにスケッチしていました。

「生まれたばかりの共産主義社会」から〝自由の国〟へ

そして、マルクスは、「共産主義社会のより高度の段階」(〝自由の国〟)と「生まれたばかりの共産主義社会」との違いを『ゴータ綱領批判』(岩波文庫P38)で、「共産主義社会のより高度の段階において、すなわち諸個人が分業に隷属的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち──そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」と述べいます。

 このように、マルクスとエンゲルスは、「生まれたばかりの共産主義社会」=「共産主義社会の第一段階の社会」=いわゆる「社会主義社会」を「民主主義」や「平等な権利」が残り、「労働が義務」で「死滅しつつある国家」のある「必然性の国」とみて、「発展した共産主義社会」=「共産主義社会のより高度の段階の社会」=いわゆる「共産主義社会」を「民主主義」や「平等な権利」という概念の不要な、「労働が生活にとってまっさきに必要なこと」となる「国家」のない「自由の国」と見ていました。

 なお、不破さんは、『前衛』No904(2014年1月号)の「『古典教室』第2巻(第三課エンゲルス『空想から科学へ』)を語る」という山口富男氏と石川康宏氏との鼎談で、「レーニンが『国家と革命』で示した未来社会の定式というのは、結局、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです」と揶揄したあと、「人間の全面的な発達が保障される社会ということが、マルクスの未来社会像の核心にあるのです。私が『空想から科学へ』で〝飛んでいる〟点があるといった二つ目は、この問題でした」とエンゲルスを非難し、『国家と革命』と『空想から科学へ』が「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると党員にデマをまき散らしています。

 しかし、先ほど見たように、『空想から科学へ』では「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保する」と述べられており、「生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべて」などというのはウソで、不破さんの言う「人間の全面的な発達が保障される社会」という「マルクスの未来社会像の核心」なるものも、しっかりと述べられています。『空想から科学へ』の「講義」がこんなペテン師によって行なわれたのでは、マルクス・エンゲルスもたまったものではありません。

※なお、不破さんのこれらのデマの詳しい解説は、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」を、是非、お読み下さい。

資本主義の発展は新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる

それでは、資本主義的生産様式の社会はどのようにして新しい生産様式の社会を生み出すのか。

 マルクスとエンゲルスは、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことを明らかにしました。

 マルクス・エンゲルス・レーニンの目で今の世界と日本を見てみましょう。

世界を見る

マルクスは、「われ亡きあとに洪水はきたれ!(*)これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである」(大月版『資本論』① P353)と言い、レーニンは、革命後の社会主義建設の障害として「資本主義と『各人は自分のために、神だけが万人のために』という古い小ブルジョア的・有産者的習慣」、そして、「幾百万人の投機者」が存在すること(第28巻『全ロシア中央執行委員会、モスクワ・ソヴェト、労働組合全ロシア大会の合同会議での演説』P425、1919.1.17)を述べています。資本主義は社会的生産をしながら社会を壊すシステムです。

 だから、世界中が資本の論理で動くなかで、グローバル資本が世界を覆い、地球がますます小さくなり、無秩序が拡ろがり、経済成長と雇用、持続可能な生産と消費、平和、不平等、貧困、飢餓、保健・衛生、教育、ジェンダー、資源・エネルギー・気候変動、等々さまざまな問題が噴出しています。

 そこで、国連は、2015年9月に「国連持続可能な開発サミット」を国連本部において開催し、「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」を採択しました。そして、貧困や飢餓、エネルギー、気候変動、平和的社会など、持続可能な発展のため、2015年から2030年までに達成すべき行動計画の目標として「持続可能な開発目標(SDGs)」(17の目標と169のターゲットからなる)を定め、その達成のための「行動の10年(Decade of Action)」を2020年1月にスタートさせました。

 この、国連の「持続可能な開発のための2030アジェンダ」は、すべての人々が等しく恩恵を受けられるような経済・社会をめざし、地球の安定的で豊かな発展を保証する経済・社会の構築という課題を国際連帯のもとで実現するという、二一世紀の私たち人類の進むべき方向を示したものといえます。

 レーニンは『さしせまる破局、それとどうたたかうか』(第25巻P386~387、1917年9月10~14日)で、「わがエス・エルとメンシェヴィキは社会主義の問題を、空論的に、棒暗記したがよく理解できなかった教義の立場からとりあげている。彼らは、社会主義をなにか遠い先の、不明な、もうろうとした未来のことと考えている。

 ところが社会主義は、いまや、現代資本主義のすべての窓からわれわれをながめている。社会主義は、この最新の資本主義にもとづく一歩前進をなす一つ一つの重大な方策から、直接に、実践的に、うかびあがっている。」と言っていますが、SDGsの17の目標と169のターゲットのある「すべての窓」から社会主義が見えてくるのです。

※より詳しくは、ホームページ2-1-7「SDGsが実現される社会とは」をご覧ください。

(*)「この言葉は、宮廷で宴会やお祭り騒ぎばかりをやっていればその結果はフランスの国債がふえるばかりだという忠告を受けたときに、ポンパドゥール侯夫人が言ったものだといわれている。」(大月版『資本論』①注解P15(79))

 そして、2020年のダボス会議では、米セールスフォース・ドットコムのCEOマーク・ベニオフ氏は、「我々の知っている資本主義は死んだ」と言い、世界経済フォーラム(WEF)のクラウス・シュワブ会長は、2021年の年次総会──「COVID-19」の影響で中止された──について、いまや「社会的市場経済」が必要であるとして、2021年の年次総会のテーマを「グレート・リセット」にすると発表していました。

 2020年のダボス会議について「日経新聞」は、会議の主題は資本主義の再定義で、企業価値・株主利益の最大化をめざす「株主(Shareholder)資本主義」から格差是正や環境問題への貢献による長期的な成長をめざす「ステークホルダー(Stakeholder)資本主義」への転換を模索しているといい、2020年6月3日の『日経』電子版は、「世界経済フォーラム(WEF)は3日、2021年1月に開催する年次総会(ダボス会議)のテーマを「グレート・リセット」にすると発表した」との記事を配信し、クラウス・シュワブ会長の「世界の社会経済システムを考え直さないといけない。……人々の幸福を中心とした経済を(に──青山)考え直すべきだ……次の世代への責任を重視した社会を模索し、弱者を支える世界を作っていく必要がある。……自由市場を基盤にしつつも、社会サービスを充実させた『社会的市場経済(Social market economy)』が必要になる。政府にもESG(環境・社会・企業統治)の重視が求められている」とのインタビューでの発言を載せています。

 このように、現代の資本主義のオピニオンリーダーたちも、「ステークホルダー」のための経済、「人々の幸福を中心とした経済」に世界が向かわざるを得ないことを認めざるを得ないところまで資本主義の危機は進行しています。

 つまり、資本主義的生産様式が「再生産過程の強力的な拡張のこの人為的なシステム」であり、資本主義的生産様式が社会的に生産しているにもかかわらず、「生産が現実には社会的な過程として社会的な統制に服していないという事情」によってSDGsの目標が必要となり、その実現のためには「ステークホルダーのための資本(企業)」と「人々の幸福を中心とした経済」のための「社会的市場経済」が求められるところまで資本主義の危機が進行しているのです。

※ダボス会議に関するより詳しい説明は、ホームページ2-1-5「二一世紀はどこに向かって進んでいるのか」を参照して下さい。

日本を見る

本来、資本が社会の公共財であるならば、自国の繁栄と他国の繁栄を同時に考えて、貿易収支の一方的な黒字などめざさず、自国の産業と雇用を守りながら他国の産業の発展と国民生活の向上を図るべきなのです。

 しかし、資本主義的生産様式の基でのグローバル資本は、社会的生産が進む中で、一層の利潤追求に走るために国を捨て資本と雇用を他国に持ち出して、社会的生産を断ち切って「産業の空洞化」をもたらしました。「産業の空洞化」によって、高い生産性を獲得した富の源泉である製造業が海外に出て行った結果、生産性の低いサービス業の比重が増し、経済の低成長と低賃金が長期にわたって続き、その結果、年金・福祉・医療の基礎が掘り崩され、社会的分業の恩恵を受けることを前提に暮らしが成り立っている労働者階級の暮らしは年々厳しさを増し、結婚・出産・育児・教育という人間の再生産そのものが制約され、社会全体が脆弱なものになってしまいました。そして、同時に、他国に資本と雇用を持ち込んだグローバル資本は、その国に於いて、低賃金で労働者を搾取し、知財権でその国の国民を収奪し続けています。

 これが、今の日本の姿であり、グローバル資本の行動です。

 グローバル資本の行動によって、高度化された社会的生産は「産業の空洞化」によって破壊され、「産業の空洞化」によってもたらされる諸結果が「古い社会の変革契機」となって、労働者階級が新しい生産様式の共同社会をつくる歴史の歯車を前に進めることを促し続けています。

 しかし、残念ながら、今の日本には、このような〝世界を見る目〟と〝日本を見る目〟をもち、そのことを国民に知らせるべき任務をもった、科学的社会主義の思想の党が見当たりません。

※「産業の空洞化」に関する詳しい説明は、ホームページ2-4「パラダイムシフトとは何か、その結果、どんな社会が現われるのか」を中心に関連するページを、是非、ご覧ください。

資本の支配から人民の支配へ

資本主義的生産様式の社会は、資本が企業を支配し資本の論理に基づいて社会が支配されるシステムの社会です。

 マルクスは『資本論』で、この「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである」(大月版④P313)ことを明らかにするとともに、『資本論』第三巻「第三六章」で資本主義以前の「利子生み資本」を一瞥してきたマルクスは、その最後に、「生産手段が資本に転化しなくなれば(カッコ内略──青山)、信用そのものにはもはやなんの意味もないのであって、……資本主義的生産様式が存続するかぎり、利子生み資本はその諸形態の一つとして存続するのであって、実際にこの生産様式も信用制度の基礎をなしているのである。」(大月版⑤第三巻「第三六章」P783-784)と言って、「社会的生産では貨幣資本はなくなる」(大月版②P437-8、同③P385)こと、「結合労働の生産様式の社会」への移行によって貨幣の「利子生み資本」としての「貨幣資本」の役割がなくなることを述べています。

 資本主義的生産様式の社会を新しい生産様式の社会に変えるということは、資本の持つ権利を制度的に奪い去って、過去の労働の蓄積である富が「資本」として社会と経済を支配してきた機能を取り除き、富を社会の公共財として個人の支配から解放するということです。

 それでは、新しい生産様式の社会──結合労働の生産様式の社会──では、その「公共財」はどのように使われるのか。誰がどのように、その「公共財」を支配するのか。次の「Ⅳ、新しい生産様式の社会づくりの緒についたレーニン」で、見ていきます。

 なお、資本主義的生産様式から結合労働の生産様式の社会へ移行が行なわれるということは、資本主義的な信用制度の基礎がなくなり、生産手段が資本に転化しなくなって、貨幣が利子を生まなくなるということですから、貨幣が利子を生むことを前提とする「信用制度」はもはやなんの意味もなくなります。つまり、『資本論』第三巻「第二八章」で述べられている資本主義的生産様式のもとで貨幣がもっている、①流通手段、②価値表現、③「資本」の循環形態の一局面である「貨幣資本」、④利子生み資本としての「貨幣資本」という四つの機能から③と④の「貨幣資本」としての機能がなくなるということです。

 

「貨幣」についてのマルクスの考えについて

マルクスは「貨幣資本」と「貨幣」について、「資本主義のではなく共産主義の社会(この場合の「共産主義の社会」とはいわゆる「社会主義社会」のこと──青山)を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる。」(大月版『資本論』③P385)と言い「社会的生産では貨幣資本はなくなる。社会は労働力や生産手段をいろいろな事業部門に分配する。生産者たちは、たとえば指図証を受け取って、それと引き換えに、社会の消費用在庫のなかから自分たちの労働時間に相当する量を引き出すことになるかもしれない。この指図証は貨幣ではない。それは流通しないのである。」(大月版②P437-8)と述べています。

 この点について、私は、「資本主義のではなく共産主義の社会を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる」という社会において、それがまだ「社会主義社会」であり人間の労働に依拠した社会である以上、人間の労働に根拠をおく「価値表現」はなくならないし、その価値に根拠をおく「流通手段」も必要だと考えています。つまり、「貨幣」の「貨幣資本」の側面は除去されて、「流通手段」、「価値表現」としての貨幣は残ると思っています。

新しい生産様式の社会づくりの緒についたレーニン

新しい生産様式の社会──結合労働の生産様式の社会──では、「資本」に変わって何が生産を支配し、誰が社会を支配するのか。

 レーニンは十月革命の前から、「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織することなしには」、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには」資本主義に打ちかつことはできない、と訴え続けてきました。

 「資本主義から社会主義への過渡期の社会」=「民主主義の確立期の社会」の社会発展のための基本的な推進力は、私的資本主義的生産システムを公的協同システムに変えていくための、あらゆる社会機構への労働者階級を中心とする国民の民主的参加です。「社会の公共財」となった富の国民による民主的管理です。

 新しい生産様式の社会づくりの緒についたレーニンの探究を踏まえて、私たちはどのように新しい生産様式の社会を作るのか、ホームページ5-3「レーニンの考え方の紹介」→5-3-3「レーニンの発見のポイント(その3)国家と社会を民主的に組織することこそが社会主義社会への途であることを示した(作成中)」で見ていきましょう。