3-2-5

“科学的社会主義の思想”とは何か

「日本共産党第29回大会決議」を検証する

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3-2-5“科学的社会主義の思想”とは何か…「日本共産党第29回大会決議」を検証
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共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。

このページの目次

・はじめに

「第1章」について-P2

 ・ウクライナ問題

 ・日中両国関係

 ・台湾問題

 ・総括…このように「国際情勢」の見方を誤った理由

  その1…現実無視の「綱領第三章第九節」にしがみつく

  その2…マルクス主義(科学的社会主義)を忘れた「共産党」

〝科学的社会主義〟とは何か…共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。-P6

 ・〝科学的社会主義〟の思想の骨格

 ・〝科学的社会主義〟の思想を導きの糸として、今日の日本を見る

  ①日本資本主義の現状

  ②〝科学的社会主義〟の党が労働者階級に訴えるべきこと

  ③このような観点から見た、現在の「共産党」の姿

「第2章」について-P10

 ・「国民にとって希望の道」とならなかった「第6節」の問題点

 ・「失われた30年」を凝視せよ

 ・国土のバランスのとれた発展のための具体的な提案を

 ・自民党政治を変える統一戦線とは

 ・「市民と野党の共闘」という虚構を乗り越えよう

 ・「選挙」をめぐる現在の「共産党」の二つの欠落

 ・総括 このような「統一戦線」や「共闘」や「選挙」になる理由

  不破さんが21世紀になって発見した新しい「科学的社会主義」の思想とは

  その1、資本主義から社会主義への道・展望について

  その2、労働者階級と国民と革命との関係について

  この二つの違いが、「統一戦線」や「共闘」や「選挙」についての誤った考えを生み出している

「第3章」について-P18

 ・革命の事業に多数者を結集するための「日本共産党の役割」がまったく述べられていない「多数者革命と日本共産党の役割」という「節」

 ・「党」の性格・目的が分からないから、「党」を大きくする常道が提起できない

 ・「共産党」を科学的社会主義の党から益々遠ざける「学習運動」

 ・「第3章」の総括

「第4章」について-P21

 ・資本主義からの解放は、「利潤第一主義」からの自由ではない

 ・関連する若干の補足

  ①「『利潤第一主義』からの自由」と「自由の国」と不破さん

  ②社会の公器としての〝企業〟の統治の考えをもっていない不破さん

  ③私の『資本論』の引用部分と不破さん

 ・旧ソ連も現在の中国も自らも理解していない「共産党」

「第5章」について-P25

 ・「共産党の百年」史の不破さんの委員長就任以降を凝視せよ

 ・『前衛』や『赤旗』に載った不破さんの党史の捏造を糺せ

 ・「なにもしていない」ことを「している」ように見せるためのすり替えを許すな

“科学的社会主義の思想”とは何か

「日本共産党第29回大会決議」を検証する

共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。

科学的社会主義の党の復活を願って、「日本共産党第29回大会決議」を俎上に、現在の「日本共産党」が国民の未来を拓く前衛党に立ち帰るために何をなすべきか、欠けているものと捨てさるべきものを、みなさんと一緒に、見ていきましょう。

はじめに

日本の社会・経済の劣化が深刻さを増す中で、「科学的社会主義の党」を標榜し、資本主義社会の矛盾と限界を克服して新しい〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会を国民とともに実現するための“国民の前衛党”であるはずの「日本共産党」が低迷を極めています。

その原因は「日本共産党」が不破さんとその弟子の志位さんによって、“科学的社会主義の思想”からまったく離れてしまったことにあります。現在の「日本共産党」が“科学的社会主義の思想”からどれだけかけ離れているのか、「日本共産党第29回大会決議」を通じて見ていきます。

このレポートが、現在の「日本共産党」を“科学的社会主義の党”と信じ、困難な中で日夜歯を食いしばって共産党を支えてきた党員のみなさんのお役に、少しでも、立つことがで、新しい委員長が“科学的社会主義”への道を歩む機会を摑むための一助にすることができれば幸いです。共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。

「第1章」について

「第1章」は「国際情勢と改定綱領の生命力」です。田村副委員長(当時)は決議案の「提案報告」で「国際情勢をどうとらえるのかを明確にしてこそ、日本共産党が国内で正確なたたかいを展開することができます」と述べています。

 現在の「日本共産党」が「国際情勢」をどのように見ているのか、一緒に見ていきましょう。

 

ウクライナ問題

「決議」は、最初にウクライナ問題を取り上げていますが、「ロシアのウクライナ侵略」にいたる経過──2014年以降の米国の行動や東部二州でのウクライナの行動という歴史的経緯と東部二州の現状──をまったく無視しています。2022年2月に始まったロシアの「ウクライナ侵略」だけを取り上げて、「国連憲章を守れ」といって「ロシアの無法を厳しく批判し、ロシア軍の即時撤退を求め」ています。しかし、「国連憲章」の〈第一条の2項〉には全く触れていません。結果的に米国の世界戦略の意図に沿ったものとなり、ロシア軍が即時撤退しただけでは、ウクライナの東部2州などが第二の「パレスチナ」のようになってしまう蓋然性が高まるだけです。

 即時停戦とこれまでの歴史的経緯と東部二州の現状を踏まえた具体的な解決策を提起をすることこそが“科学的社会主義の党”の使命です。戦争で利益を得るのは支配階級だけであること、軍人を含め国民はその命が日々失われるだけであることをしっかり訴えて、即時停戦の人道的意義を明確に示し、戦争回避のための外交努力の成果の上に立ってさらなる外交努力を重ねることこそが平和への道であることを自信をもって主張すべきです。(*)

(*)ここで言うべき“具体的な提案”についての青山の考えは、ホームページ6A-2-4「ウクライナの平和への道と北東アジアの平和の維持のためのイニシアティブ」で示しています。是非、参照して下さい。

 

日中両国関係

「決議」は、「中国による覇権主義」の行動が続いているとして、「わが党は、尖閣諸島の領海や接続水域への中国公船の侵入・入域、中国周辺の広い海域を一方的に『管轄海域』とし、武器使用を含む強制措置など幅広い権限行使を可能とする海警法施行(2021年)などについて、国際法に照らして冷静な批判を続けてきた。」と述べ、「中国による東シナ海や南シナ海での力を背景とした現状変更の動き」を「日中関係が悪化した原因」にあげています。

 私は、これまで、ホームページ6A-2-4「ウクライナの平和への道と北東アジアの平和の維持のためのイニシアティブ」(2023年1月加筆・補充)やホームページ6A-1-7「誰が社会を変えるのか──反面教師から学ぶ〈〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会をつくるための助産師の役割と「共産党」志位委員長の「八中総」幹部会報告〉」(2023年8月公開)で、「共産党」が「尖閣諸島」をめぐる緊張緩和の具体的な提案のない点を批判してきました。

 しかし、「決議」は、「尖閣諸島の領海や接続水域への中国公船の侵入・入域」が「中国による東シナ海」での「力を背景とした現状変更の動き」であり、「日中関係が悪化した原因」であるとする政府・自民党の考えと平仄を合わせた現在の「共産党」の「独自の見解」や「立場」を〝横におくことなく〟「両国関係の前向きの打開のための外交努力をはかることを呼びかけ」ています。このように「外交努力」を呼びかけながら、「共産党」の「独自の見解」を主張し、緊張緩和のための具体的な提案をしないのは、現在の「共産党」が、そのことに頭が回らないのではなく、中国が一方的に悪いのだから、中国が改めろ、それが〝両国関係の前向きの打開ということだ〟ということなのでしょう。

 けれども、この独りよがりの認識は完全に間違っています。米国ですら「尖閣諸島の領海」などと言ったら、米国の対中戦略上は喜ばしいことでしょうが、表向きには眉をひそめざるをえないでしょう。尖閣諸島の主権の問題は「触れないでおこう」「棚上げしよう」というのが日中間の暗黙の了解だったはずです。ここから物事をどう前進させるかというのが外交です。そのための両者が納得できる“具体的な提案”(*)こそ必要なのです。尖閣諸島の国有化や周辺軍備の強化ではなく、尖閣諸島周辺の人々の平和で豊かな暮らしに向けた“具体的な提案”がいま求められているのです。「両国関係の前向きの打開のための外交努力をはかることを呼びかけた」などと、他人事のようなことをいい、日中両国が「肯定的な受け止めを表明した」などと、何の提案にもなっていないことを日中両国が認識し「肯定的な受け止め」たことを自画自賛しているようでは、政府とマスコミによって戦争の危機を煽り続けられいる国民からの信用を失うばかりです。

(*)この“具体的な提案”についても、ホームページ6A-2-4で行なっていますので、是非、参照して下さい。

 

台湾問題

なお、「決議」には、台湾問題がまったく触れられていません。米国は軍事、経済両面での覇権の維持のため中国への集中攻撃を行なっています。その一つが台湾有事をあおることです。台湾有事をあおることは、「台湾有事」を煽れば煽るほど、民主党も共和党もお世話になっている軍産学複合体が儲かるという米国の金儲け戦略に資し、「台湾積体電路製造」を「米国積体電路製造」に変質させて半導体分野の覇権をより確かなものにすることができ、日本を米国の覇権戦略に一層組み込むことによって軍事的経済的に日本から大きな利益を引き出すことができます。マスコミは米国の尻馬に乗って「習近平の野望」を喧伝し「台湾有事」を煽っていますが、私たちは、ご都合主義(ダブルスタンダード)の「自由」と「民主主義」を掲げて自国の覇権と利益だけを追求する米国の「台湾有事」を煽る意図を、しかり見抜くことが大切です。

そして、私たちは、「台湾問題」について、「米国が中国にどのような約束をしてきた」のか、「日本は中国との間にどのような約束をした」のかをふり返り、「台湾有事」で台湾や日本はどうなるのか、どうすれば「台湾有事」を防げるのかを真剣に考え、日本の軍拡を抑え、「台湾有事」を防ぐために、国民に積極的に訴えなければなりません。

“日本が中国との間に交わした約束”とは、1972年9月の日中両国の共同声明の「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」という約束と「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立する」という合意です。

 米国が約束を守れば、台湾は独立に向けた行動はせず、「台湾有事」など起こらないし、日本がこの約束を守れば、「台湾有事」に巻き込まれることなどありません。

私たちは、このように「台湾問題」でも外交によって積み上げられた〝事実を知り生かすこと〟が大切であり、怖い狼がいまにも襲ってくるかのような政府とマスコミのプロパガンダに迷わされることなく、その積み重ねられた成果を覆そうとする国や人の意図をしっかり理解して、その悪だくみを広く明らかにすることが重要です。米国の捨て駒になるような「台湾有事」を起こさせないために「共産党」はこれらのことを国民にしっかり訴えて、平和を守るために力を尽くすべきです。しかし、残念ながら、「決議」には、台湾問題がまったく触れられていません。

総括…このように「国際情勢」の見方を誤った理由

ウクライナ問題や日中両国関係や台湾問題など「国際情勢」についての見方が、なぜこのような誤ったものになるのか、一緒に考えてみましょう。

 

その1

現実無視の「綱領第三章第九節」にしがみつく

私はホームページ3-3-2「『2020年綱領』を克服して、共産党よ元気をとりもどせ!!」で、志位さんが、「日本共産党第28回大会」の「綱領第三章第九節」の提案報告で、「一握りの大国が世界政治を思いのまま動かしていた時代は終わり、」「一握りの大国から、世界のすべての国ぐにと市民社会に、国際政治の主役が交代した──ここに二一世紀の世界の希望ある新しい特徴がある」という「世界の構造変化」を受け、その「叙述のために新しく第九節をもうけ」たという主観的で誤った認識を述べ、それに基づいて「綱領」を一層改悪しようしていることついて、その誤りを指摘し、「この現実を見ず、『一握りの大国が世界政治を思いのまま動かしていた時代は終わり』などと呑気なことをいって、願望で現実を塗り替えたら帝国主義者の思うつぼです。」と述べ、警鐘を鳴らしました。(詳しくは、是非、上記のページを参照して下さい。)

 この志位さんの誤った認識が発展し花ひらいたのが「第29回大会決議」の「国際情勢」の見方です。

 ウクライナへのロシアの侵攻について、安倍元首相は、「エコノミスト」のインタビュー(2022年5月)でウクライナ問題について、「侵略前、彼らがウクライナを包囲していたとき、戦争を回避することは可能だったかもしれません。ゼレンスキーが、彼の国がNATOに加盟しないことを約束し、東部の2州に高度な自治権を与えることができた。おそらく、アメリカの指導者ならできたはずです。」(孫崎享氏『同盟は家臣ではない』から)と言っていますが、ウクライナ問題でも、日中両国をめぐる問題でも、台湾をめぐる問題でも、米国が覇権を維持し拡大しようとする意図・戦略が紛争の種をばらまき対立を激化させているのです。

 「一握りの大国から、世界のすべての国ぐにと市民社会に、国際政治の主役が交代した」という「綱領第三章第九節」における米国の覇権維持の野望と米国が相変わらず覇権国家として振る舞っている世界の現実を見ない、世界情勢についての誤った見方が、いま世界で起きている悲惨な戦争の真実を隠し、いまある問題のより正しい解決のための“具体的な提案”を棚上げさせ、いまある現実の問題を解決することを〝安全保障のあり方・安全保障政策〟の問題にすり替えて、「共産党」の「外交ビジョン」によって平和が実現できるかのようなレトリックによって願望と現実を混濁させ、党員の目を曇らせています。

「共産党」に、今、最も必要なのは、「国際会議」での安全保障のあり方についての願望の披瀝ではなく、現実を正しく見る目です。

なお、「決議」には「決議案」にはない、評価すべき点が一つあります。それは、「平和の地域協力の流れの前進と、日本共産党の『外交ビジョン』」という「項」に「項」のタイトルは変えてありませんが、取って付けたように「独自のとりくみ」と「国民的・市民的運動」が付け加えられたことです。これは、党員からの意見に基づき付け加えられたものかもしてませんが、問題点を大雑把に指摘するだけで、これまで青山が指摘してきたように〝変革の党〟としての提案はなく、課題として取り上げたのは「評価すべき点」ではあるが、答えは落第点です。党員からの意見に基づいて付け加えられたとしたら、その党員は〝答え〟をしっかり書いて欲しかったはずです。それでも、このような提案をした党員がいるとすれば、現在の「共産党」が再び“科学的社会主義の党”によみがえる希望が湧いてきます。

 

その2

マルクス主義(科学的社会主義)を忘れた「共産党」

「共産党」が「綱領第三章第九節」を金科玉条とするのは、現実を正しく見ることができないからです。それでは、「共産党」は、なぜ、現実を正しく見ることができないのか。

レーニンはマルクス主義者の考察のしかたについて、「マルクス主義の全精神、その全体系は、おのおのの命題を、(α)歴史的にのみ、(β)他の諸命題と関連させてのみ、(γ)歴史の具体的経験と結びつけてのみ、考察することを要求しています」(第35巻『111イネッサ・アルマンドヘ』1916年11月30日に執筆P262~263)と述べています。

 まず、私たちが第一に確認しておかなければならないのは、現在の世界は、米国を盟主とする「G7」が中心となって、彼らの作ったルールに基づいて、「資本」が世界中でより広範に搾取と収奪を継続できるような世界の管理を追求し続けているということです。そして、その先頭に立って「資本」の行動を守り拡大させようとしているのが米国であるということです。「決議」にあるような「対抗でなく対話と協力の地域」をつくるためには、資本の搾取と収奪のために対立を煽り覇権を維持し続けようとする米国の存在をしっかりと認識していなければなりません。

 その上で、物事を、(α)歴史的に、(β)他の諸命題と関連させて、(γ)歴史の具体的経験と結びつけて考察することが必要です。しかし、残念ながら、現在の『赤旗』にはこれらの考察が欠けているため、党員がマルクス主義者の考察をすることも、そのような考えを持つことも妨げられています。その責任は、マルクス主義(科学的社会主義)を忘れた「共産党」指導部にあります。

お知らせ

さて、これから、決議の「第2章:自民党政治のゆきづまりと日本共産党の任務」以降を、順次、検証していくわけですが、検証の手助けとするために〈〝科学的社会主義〟とは何か──共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。〉という「項」を設けることといたしました。

〝科学的社会主義〟とは何か

共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。

〝科学的社会主義〟の思想の骨格

 

〝科学的社会主義〟の思想の骨格

〝科学的社会主義〟とはどのような思想なのか、その骨格を見てみましょう。

 エンゲルスは『反デューリング論』で、「この二つの偉大な発見、すなわち唯物史観と、剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、われわれがマルクスに負うものである。これらの発見によって、社会主義は科学になった。」と言っています。

 その、マルクスは、唯物史観について、『ヴァイデマイヤーあてのマルクスの手紙』(1852.3.5)で次のように言っています。

「ところで、僕のことだが、現代社会における諸階級の存在にせよ、諸階級相互間の闘争にせよ、それを発見した功績は僕のものではない。僕よりもずっと前に、ブルジョア歴史家たちはこの階級闘争の歴史的な発展を、そしてブルジョア経済学者たちは諸階級の経済学的な解剖を記述している。僕が新しくやったのは、次のことを論証することであった。1.諸階級の存在はただ生産の特定の歴史的諸発展段階に結びつけられているだけだということ。2.階級闘争は必然的にプロレタリアートの独裁に導くということ。3.この独裁そのものは、ただ、いっさいの階級の廃止と無階級社会とへの通過点をなすにすぎないということ。」

 このマルクスが発見し論証した唯物史観は、これまでの空想的社会主義者のように社会主義を道徳的な願望として「理性」的に見るのではなく、資本主義体制の客観的分析を通じて資本主義の矛盾を明らかにし、社会的生産を担う労働者階級こそが資本主義的生産様式の先にある社会的生産に見合う新しい生産様式の社会の作り手であり、その担い手であることを、明らかにしました。

 だから、マルクスの盟友であるエンゲルスは、『反デューリング論』で、科学的社会主義を〝プロレタリア運動の理論的表現〟と言い、その任務は、プロレタリアートに世界解放の事業を遂行することがかれらの歴史的使命であることを意識させることであるということを強く訴え、マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』で「かれら(労働者階級──青山)の闘争の本当の成果は、その直接の成功ではなくして、労働者のますます広がっていく団結である」ことを述べています。これが、科学的社会主義の骨格をなす考えです。

科学的社会主義の党の任務は、労働者階級に世界解放の事業を遂行することがかれらの歴史的使命であることを意識させ、かれらの団結が広く強くなるように援助することで、そのことを通じ、その度合いに比例して科学的社会主義の党も大きく強くなることができます。

 この〝科学的社会主義〟の思想を導きの糸として、今日の日本資本主義の矛盾と現在の「共産党」のたたかい方を、一緒に、見てみましょう。

〝科学的社会主義〟の思想を導きの糸として、今日の日本を見る

 

日本資本主義の現状

先進資本主義国の生産力が高まり、脱工業化(資本主義の歴史的使命の基本的な終了)がブルジョア経済学者から叫ばれはじめた1970年代中盤以降、日本の大企業は、自己資本比率を年々高めるとともに海外で利益を上げることに、一層、重心を移しはじめました。

 1981年3月16日に発足した第二臨調は資本の海外展開を積極的に支援する方針を明確にし、プラザ合意(1985年9月22日)を受けて1986年4月7日に報告された前川リポートは、「国際的に調和のとれた産業構造への転換」として、①国際分業を促進するための積極的な産業調整②海外直接投資の促進③基幹的農産物を除く、農業の切り捨てを提言しました。

 これらを槓杆に、グローバル企業の製品と資本の両面の輸出が加速され、産業の空洞化が促進され、九二年版『通商白書』では、「企業活動の国際的展開が進むにつれ、従来の国家と企業との関係にも変化がみられるようになってきている。……ある国の資本による企業の利益がその国民の利益と一致する度合いが減少しつつある」として、「国際展開が進んだ企業は資本の国籍にかかわらず、現地の雇用者を多数擁し、現地の市場を中心として財・サービスを提供する。したがって自国籍企業の収益向上が直接に国民生活と関係するところは、収益の分配が主として当該国の投資家にたいして行われるという点に限定されていく傾向を有する。さらに投資家が国際的に分散していけば、その意味すら失われる」と述べるに至るところまで日本の「資本」と雇用の輸出は進行しました。

 そして、95年には、富の流出・雇用の流出・市場の収縮・社会の収縮という「産業の空洞化」が誰の目にも明らかになり、1995年以降、国内の設備投資は低迷し、GDPは伸びず、雇用需給が変化して労使の力関係が変わり、輸出拡大を口実に賃金は抑制され、現在に至るまで労働者の賃金は横ばいで、資本主義的生産様式が本来持っているはずの「好景気」での労働者の「いっときの生活改善」という「資本」からのおこぼれの享受すら受けることが出来なくなり、非正規雇用が激増しはじめ、長く続く国民生活の低迷と社会保障基盤の掘り崩しが本格的に始まります。

 労働者の勤勉によって高い生産性を獲得した富の源泉となる製造業が海外に出て行った結果、労働集約的であるがゆえに生産性が低く賃金の低いサービス業の比重が増し、残された企業は、GDPが伸びないなかで、「一円でも多く利益をあげる」という「資本の唯一無二の行動原則」にもとづいて、一円でも多く利益をあげるためにコストカットに励み、低賃金と低価格商品による経済の一層の弱体化が促進され、経済の低成長と低賃金が長期にわたって続くこととなり、加えて、企業は相次ぐ品質不正の体質まで身につけることとなります。

 これらの結果、年金・福祉・医療の基礎が掘り崩され、社会的分業の恩恵を受けることを前提に暮らしが成り立っている労働者階級の暮らしはますます厳しさを増し、結婚・出産・育児・教育という人間の再生産そのものが制約され、社会全体が脆弱なものになってしまいました。

 

〝科学的社会主義〟の党が労働者階級に訴えるべきこと

こうした「資本」の行動と日本経済の状況を踏まえて、〝科学的社会主義〟の党が労働者階級に訴えるべきことはなにか。一緒に見てみよう。

 資本主義社会において、「資本」にとって国家は、自らを大きくするための踏み台にしか過ぎません。そして、資本主義社会は「資本」が大きくなることによって発展する社会ですから、国民が多少でも豊かになるためには、その国にある企業が設備投資をして生産性をあげ、富を増大させて、そのおこぼれを労働者がもらう以外に方法はありません。

 しかし、「資本」をより大きくするために労働者がつくった富と雇用が海外に持ちだされたために、労働者が「資本」の利益のおこぼれをもらう道はたたれ、「資本」にとって合理的で利益になる方法が労働者・国民にとって不合理で不利益な方法として現れます。このような矛盾を克服して、経済と企業が社会と国民のために役立つようにするためには、「資本」をコントロールして富と雇用を国内に回帰させるという、社会主義への方向を志向するような道を進む以外に方法はありません。この現実にある矛盾を無視して、〝賃金が上がれば経済が発展する〟などと言うのは、問題のありかを隠蔽するもので、客観的には、資本家の回し者のようなものです。マルクスは、『ゴータ綱領批判』ででも、『資本論』ででも、口を酸っぱくして、〝いわゆる分配について大さわぎをしてそれに主たる力点をおくことは誤りである〟ことを述べています。

 そして、経済と企業を社会と国民のために役立つものにするためには、企業の支配権を資本家から社会と当該企業の労働者に移して、資本家と資本の儲けのための企業から地域経済の発展と当該企業の労働者の働き甲斐と豊かな生活を保障するための砦にする必要があり、科学的社会主義の党はこのことを政策化して労働者階級に訴え、彼らの力としなければなりません。

科学的社会主義の党には、このようなこと(資本主義社会の矛盾とその解決の道、そしてその解決の道が社会主義社会に通じていること、そして企業の主人公は労働者であること)を労働者に倦むことなく訴えて、〝経済は社会のため、国民のためにある〟という資本主義に変わる新しい生産様式の社会つくることが労働者階級の歴史的使命であることを意識させ、そのために労働者の団結だけでなく、労働者階級が広範な国民の団結(統一戦線)のためにエネルギーを発揮するようサポートすることが求められています。

 

このような観点から見た、現在の「共産党」の姿

しかし、現在の「共産党」は「2004年綱領」によって、〝日本共産党綱領〟で認めていた民主主義革命から社会主義革命への「連続的にに発展する必然性」を葬り去り、「資本主義」と「社会主義」、「民主主義」と「社会主義」を完全に分離し、資本主義社会でのたたかいの目標を「ルールある経済社会」(資本主義社会での改善)の実現において、資本主義から社会主義への発展の芽を封じてしまいました。

 そして、「2004年綱領」は、〝日本共産党綱領〟にあった、「労働者階級を科学的社会主義とプロレタリア国際主義の思想でたかめ、わが国の民主革命の勝利と社会主義の最後の勝利を確信させ、その階級的戦闘性と政治的指導力をつよめ」るという表現を削除して科学的社会主義の党の使命を放棄し、「労働者階級」は「独立、平和、民主主義、社会進歩のためにたたかう世界のすべての人民」の一員として数えられているだけで、革命の主体としての〝労働者階級〟の存在と役割は消失させられてしまいました。

 また、統一戦線についても、〝日本共産党綱領〟では、「労働組合、農民組合をはじめとする人民各階層の大衆組織を確立し、」「労働者階級の指導のもとに、労働者、農民の同盟を基礎とし」て「民族民主統一戦線をつくりあげる」ことを通じて〝あたらしい、人民の民主主義革命〟を実現することを明記していますが、「日本共産党第29回大会決議」を先回りして見てみると、政党同士の一時的な共闘を「市民と野党の共闘」と偽り、その上で、この政党同士の一時的な共闘を「統一戦線の力で政治を変えるという一貫した方針を、今日の状況のもとで大胆に発展させたもの」などと述べて、「政党同士の一時的な共闘」を「統一戦線」などと偽る「大胆」なことをおこなって、〝日本共産党綱領〟にあった統一戦線の思想を影も形もなく消し去ってしまいます。

プロレタリアートに資本主義的生産様式の社会を変革するという事業を遂行することがかれらの歴史的使命であることを意識させることが任務である科学的社会主義の党が、その綱領で自らの任務を明記することなく、今ある日本の資本主義の矛盾を労働者階級に暴露し、その解決への道が社会主義への道であるという展望も示さず、労働運動を中心に国民の団結を広め固めることから目を逸らして政党同士の一時的な共闘だけにうつつをぬかして自己満足し、労働者も国民もいないところで「拡大」「拡大」と大声を張り上げています。これが、現在の「共産党」の姿です。

 現在の「共産党」が採択した「日本共産党第29回大会決議」とは、どのようなものになったのか、不破さんと志位さんによって変質させられ弱体化させられてしまった「共産党」が再び科学的社会主義の党としてよみがえるためにはどうしたらよいのか、〝科学的社会主義〟の思想の骨格に照らして見ていきましょう。

それでは、これから、歯を食いしばって頑張っている党員のみなさんのためにも、〝共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。〟の願いを込めて、現在の「共産党」がこの恥ずべき姿を一日も早く克服して労働者階級と国民に勇気と希望を与える存在となり、労働者階級と国民のエネルギーが反映する党となることを祈って、「第2章」以降を、一緒に、見ていきましょう。

「第2章」について

「第2章」は「自民党政治のゆきづまりと日本共産党の任務」です。「第2章」については、「第1章」と関連する「第6節」に若干触れ、「経済再生プラン」と「(9)国民運動と統一戦線の発展のために」という「節」を中心に見ていきたいと思います。

 田村副委員長(当時)は「第29回大会決議案」の「提案報告」で「外交ビジョン」と「経済再生プラン」が「多くの国民にとって希望の道となっている」と自画自賛していました。どのような「決議」になったのか、見てみましょう。

 

「国民にとって希望の道」とならなかった「第6節」の問題点

「多くの国民にとって希望の道」とは、現在国民が持っている不安にしっかりこたえて、どうすれば希望のもてる日本をつくることができるかということを明らかにするということです。そのような論立てと内容になっているのか、一緒に、見ていきましょう。

「安保3文章」に対する国民の大反対の声が巻き起こらないのは、日本政府とマスコミが、ロシアのウクライナ侵攻を最大限に利用して、「北朝鮮」の「脅威」や中国との「尖閣諸島」をめぐる緊張や中国の「台湾侵攻」の切迫性を煽り、「決議」のいう「戦争国家づくり」の方向を甘受しつつあるからです。

 私は、ホームページ6-2-4「ウクライナの平和への道と北東アジアの平和の維持のためのイニシアティブ」で上記のような状態を打ち破るために明るいビジョンをもって外交で問題を解決するするための具体的な提案を行いました。しかし、この「決議」の「第1章」は、これまで見てきたように、そのような具体的な提案などなく、今ある喫緊の課題とかけはなれた、外遊で吹聴してきた、将来の「外交ビジョン」の自慢ばなしだけで、この「節」の沖縄問題の「項」でも「沖縄県民との連帯を心から訴える。」だけです。

 そして、私は、上記のページで、「決議」のいう「戦争国家づくり」の方向を甘受させようとする〝荒唐無稽〟な「反撃能力」のペテンを暴露することこそが求められており、「専守防衛を投げ捨てる暴挙」から「憲法」を、「日本に戦火を呼び込む」ことから「平和」を守ることを訴えるだけではダメだということを強く訴えてきました。しかし、「決議案」は補強修正されたましたが、「専守防衛を投げ捨てる暴挙」から「憲法」を、「日本に戦火を呼び込む」ことから「平和」を守ることを訴えること──そのこと自体は、大変重要なことですが──についての補強修正だけで、〝荒唐無稽〟な「反撃能力」のペテンを暴露して、国民が「戦争国家づくり」の方向を甘受しつつあることを転換させるための強いメッセージが欠けています。いま求められているのは、そのことであり、そのことをしっかり書くべきです。

「多くの国民にとって希望の道」となるような「決議」にするためには、しっかりした日本革命についての展望をもっていなければなりません。そして、その展望に基づいてそれぞれの「とりくみ」が行なわれることが、党員にも国民にも明らかでなければなりません。

 この点で、まったく不十分なのが「第4項」の日米安全保障条約にたいする「二重のとりくみ」についての、不十分な捉え方とその記述についてです。このような不十分な捉え方とその記述のしかたになった理由は、この「章」の「第9節」での統一戦線の日米安保に関する目標の混乱、そして、「第5章」の「第17項」での「政党同士の一時的な共闘」を「統一戦線」などいう戦線構築における大混乱、つまり志位さんの頭の大混乱に基づいています。

 党員と「多くの国民にとって希望の道」となるような「決議」にするためには、どうすれいいのか。そのためには、まず、この「項」で「第一は、」と書かれている部分を「第9節」で述べられている「自民党政治を変える統一戦線」にしっかりと位置づけて、その政治的位置づけと課題が党員と国民にはっきりとわかるようにしなければなりません。そして、「第6節」でこれまで述べられてきた課題が「第一は、」と書かれている部分に属する課題なのか、それとも、「第二に、」と書かれている部分に属する課題なのかを明確にしなければなりません。そのような作業をして、課題と解決の手順を党員と国民にも明らかにするためには、必然的に、「第6節」はこの「項」が一番最初の「項」になる必要があります。

 

「失われた30年」を凝視せよ

「決議」は「第7節」で、「『失われた30年』は自然現象ではない。財界・大企業の利益のための『コストカット』を応援し続けてきた自民党政治によってもたらされたものである」と断言し、大企業が「10年間で180兆円」も内部留保を積み増したことを述べ、「なかでも輸出で利益をあげる大企業は、内需がどれほど冷え込んでも巨額の利益を増やし続けており、日本経済に深刻なゆがみをもたらしている。

 どれだけ大企業の利益拡大を応援しても、富は一部の巨大企業と富裕層に滞留し、国民の暮らしは苦しくなり、経済は停滞する。内需が低迷し、輸出頼みのいびつな経済構造をつくりだしている。」と言います。

「決議」の「『失われた30年』は自然現象ではない。」というのは全部正しい。そして、「自民党政治によってもたらされたものである」というのは半分正しい。しかし、「財界・大企業の利益のための『コストカット』を応援し続けてきた自民党政治によってもたらされたものである」というのはまったく正しくない。

 マルクスは、『ゴータ綱領批判』でも『資本論』ででも、資本主義的生産様式全体を見ずに「分配」だけを問題にしてはダメだということを口を酸っぱく述べています。「内需が低迷し、輸出頼みのいびつな経済構造をつくりだし」、「失われた30年」を作った一番の当事者は、労働者階級が作った富と雇用を海外に輸出した〝資本〟家たちであり、自民党ではありません。

1995年以降「産業の空洞化」の影響が顕在化しますが、九二年版『通商白書』は、既に、「企業活動の国際的展開が進むにつれ、従来の国家と企業との関係にも変化がみられるようになってきている。……ある国の資本による企業の利益がその国民の利益と一致する度合いが減少しつつある」とし、「国際展開が進んだ企業は資本の国籍にかかわらず、現地の雇用者を多数擁し、現地の市場を中心として財・サービスを提供する。したがって自国籍企業の収益向上が直接に国民生活と関係するところは、収益の分配が主として当該国の投資家にたいして行われるという点に限定されていく傾向を有する。さらに投資家が国際的に分散していけば、その意味すら失われる」と述べて、帝国主義時代の資本と国家、国民との関係とグローバル経済の時代の資本と国家、国民との関係との違いを正しく指摘しています。

 そして、2012.7.25付け日経新聞は「経済産業省が6月に公表した今年のものづくり白書は『企業の海外展開が国内雇用に負の影響を与え、企業利益と国益が相克する懸念』に言及した。……根こそぎの空洞化への恐れを公式に認めたのだ。」と報じています。

これらは、支配階級に奉仕する官僚自らが資本のグローバル展開によって〝企業〟と〝国民〟が和解できない矛盾に陥っていることを認めたものですが、工藤昌宏氏も『前衛』8月号(2013年か?)のインタビューで、「産業の空洞化」が最大の産業構造問題であることを指摘し、〝産業の空洞化〟によって産業構造が変化し、「経済循環構造の〝破断〟」がおこなわれたこと、「長期不況を打開するには」、「産業の空洞化を抑えることが必要」であることを述べ、故大瀧雅之東大教授も岩波新書『平成不況の本質』で「有効需要の不足は、国内投資が対外直接投資に呆れるほどの速度で代替されているからである」と述べ、「産業の空洞化が著しく進んだ時期」、「日本は失業と利潤を輸入し、雇用機会と資本を輸出していたわけである」と述べ、〝産業の空洞化〟により国内設備投資が減り労働需給が資本優位になったことが労働条件の悪化をもたらしたことを指摘しています。

だから、「決議」の「『失われた30年』は自然現象ではない。」というのは全部正しい。〝資本〟家による人災です。

 そして、資本主義のエンジンであり富の源であり、70年代初頭まで急増してきた製造業の雇用が、70年代以降頭打ちとなり1995年以降急減し、国民の希望が奪われ、「失われた30年」という絶望の時代が今も続いているのは、〝資本〟による日本の〝産業の空洞化〟が根本原因であり、自民党が「財界・大企業の利益のための『コストカット』を応援し続けてきた」からではありません。だから、「財界・大企業の利益のための『コストカット』を応援し続けてきた自民党政治によってもたらされたものである」というのはまったく正しくありません。

 しかし、自民党は「財界・大企業」の日本の〝産業の空洞化〟を止めないばかりか、「応援し続けて」きました。自民党が「財界・大企業」を民主的にコントロールすれば日本の〝産業の空洞化〟は防ぐことができました。その意味で、「失われた30年」が「自民党政治によってもたらされたものである」というのは半分は正しいと言えます。

先ほど、2名の方の考えを紹介しましたが、まともに国民と日本経済のことを考えれば、今まで見てきたことは誰でも容易にわかることです。しかしなぜ、「共産党」がこんな的を外したことをいうのか。それには理由があります。「共産党」のなかに自民党同様に「財界・大企業」との共同正犯とでも言ってもいいような人物がいるからです。その人は、「なぜ空洞化するのかというと、日本の国内の需要が冷えているからですよ。だから外に出て行っちゃう。だから国内の需要──内需をよくする対策をやることが、空洞化対策にもつながると思っています。」(2017年10月16日のBS日テレの深層NEWS)と本末転倒なことを言って「財界・大企業」を喜ばせ、自民党同様に「財界・大企業」を民主的にコントロールすることから国民の目を逸らせています。その人とは、21世紀になって、公然と「資本主義発展論」を唱え、党綱領から資本主義から社会主義への発展の道筋を消し去って社会主義を科学的社会主義とは無縁な〝ユートピア〟に変えてしまった不破哲三氏の「思想」を引き継いだ「日本共産党」の志位和夫前委員長です。

 

国土のバランスのとれた発展のための具体的な提案を

「決議」は、「地域切り捨ての経済政策のもと、人口減少が加速し、顕著な働き手不足などで地域社会の維持が困難に直面している」と言いますが、相変わらず具体策らしいものは見当たりません。

これまで、自由な企業活動に依拠する地方自治体は、個別企業が立地に都合の良さそうなところを、確証もなく、恣意的に選んで工業団地等の造成してきた結果、誘致に失敗した地域にはぺんぺん草が生え、自治体財政にも少なからぬダメージを与えてきました。その結果、企業誘致が首尾良く進まないと「だから開発は反対だ」と抽象的な「内発的発展」を言う以外なんの対案も持っていない政党に揶揄され続けてきました。それでも、そんな無政府的な開発であっても、国民は、抽象的な「内発的発展」論を言うだけで、「資本をコントロール」して労働者の職を確保し地域を健全に維持するための「対案をもたない政党」を「何でも反対の党」とみなし、成り行きまかせの無政府的な開発に夢を託す開発政党を支持し、自治体は、企業が来るかどうかも分からずに基盤整備合戦をおこなうという〝博打〟を打ち続けてきました。

地域を豊かにするためには、富を生み出す企業があり、その生み出された富が極力その地域内で還流するようなシステムがあることが必要です。富を生み出す企業・産業がなければ地域社会の復興などできません。国土のバランスのとれた豊かな地域づくりのためには、国民の総意に基づき全国的な産業の配置計画等を定め、資本の自由な企業活動をコントロールして、これらの計画に企業を参加させ、企業にその地域の豊かな発展を支える役割を果たさせなければなりません。こうすることによって、「資本」の軛から解放された〝企業〟は、自治体が造成した産業団地等にペンペン草を生やすことなく、地域の豊かな発展を支えることができるようになります。そして、地域の豊かな発展のためには、生み出された富が極力その地域内で還流するような税等のシステムをつくることが必須です。

「地域切り捨ての経済政策のもと、人口減少が加速し、顕著な働き手不足などで地域社会の維持が困難に直面している」と言っているだけではだめです。上記のような未来を展望した施策を訴えなければ、科学的社会主義の党ということはできません。

 

自民党政治を変える統一戦線とは

「決議」は「第9節」の「第1項」で、「多様な要求運動を、自民党政治を変える統一戦線に結集することが求められている」として、「今日の情勢にふさわしく、革新懇運動のさらなる成長・発展へ、力をそそごう」と言います。

しかし、共産党が「自民党政治を変える統一戦線」に国民を結集させることを本当に望んでいるのであれば、第一にやるべきことは、「革新懇運動のさらなる成長・発展へ、力をそそく」ことではありません。革新懇運動の「三つの共同目標」は、いますぐにでも共産党と共同行動をとることのできる(昔の「革新共同」のような)人たちを結集するための旗印です。「自民党政治を変える統一戦線」をつくるために今やるべきことは、「党」と「党」の関係者全員が、無党派の人たちや〝立憲民主党〟や〝れいわ新撰組〟や〝社民党〟や〝新社会党〟や〝国民民主党〟等々の政党の人たちとその支持者たちと積極的に対話して、「自民党政治を変える統一戦線」のための目標を明確にし、「自民党政治を変える統一戦線」の結成のために全力を尽くすことです。

 その場合、「革新懇」の「三つの共同目標」(*)は「自民党政治を変える統一戦線」の目標にはなりえません。なぜなら、「三つの共同目標」のうちの「日米安全保障条約をなくし、非核・非同盟・中立の日本をめざす」という目標は、「自民党政治を変える統一戦線」の共通目標にはなりえないからです。「自民党政治を変える統一戦線」における安全保障についての目標を掲げるとしたら、〝同盟は家臣ではない〟(孫崎享氏の著書名)という──対米従属の軍事同盟からの脱却を志向する──スタンスこそ妥当な旗印だと思われます。

だから、「共産党」が「自民党政治を変える統一戦線」に国民を結集させるために「革新懇運動のさらなる成長・発展へ、力をそそく」ということは、「共産党」は「自民党政治を変える統一戦線」に国民を結集させるためになにもしないということと同じです。

 現在の「共産党」の「統一戦線」論がこのようなものになる根本理由については、後で触れますが、このページの「〝科学的社会主義〟とは何か──共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。」(P12)も、もう一度参照して下さい。

(*)「三つの共同目標」とは、「①日本の経済を国民本位に転換し、暮らしが豊かになる日本をめざす、②日本国憲法を生かし、自由と人権、民主主義が発展する日本をめざす、③日米安全保障条約をなくし、非核・非同盟・中立の日本をめざす」です。

 

「市民と野党の共闘」という虚構を乗り越えよう

「決議」は「第9節」の「第2項」で、2016年の参院選以降2021年の総選挙までの国政選挙の都度、「市民連合」が仲介して野党共闘が実現したことを「市民と野党の共闘」と称し、「『市民と野党の共闘』が政治を変える力である」との認識のもと、「市民と野党の共闘」と称する「野党共闘」を「発展」させることを述べています。

しかし、この「市民と野党の共闘」なるものは、「市民連合」という中央組織が「野党共闘」を仲介するというかたちで進められた〝市民と野党の共闘〟ならぬ〝市民ぬき〟の「野党の共闘」です。いくら「市民と野党の共闘」と称しても、国政選挙の都度仕切り直しをしておこなう「野党共闘」なので、「決議」でいくら「発展」させようと言っても発展の余地などありません。

いま必要なのは、政党の枠をこえた、国民が参加する「自民党政治を変える統一戦線」なのです。「自民党政治を変える統一戦線とは」で触れたような党派を“支持します”と表明しているような人たちを含む国民が政治の表舞台に躍り出ることができるような環境を力を合わせて作り出すことです。「市民と野党の共闘」という虚構、国政選挙の都度仕切り直しをしておこなわれる「野党共闘」を乗り越えて、国民が主役の〝by the people 〟の社会への道を科学的社会主義の党は労働者階級と力を合わせて踏み固めていかなければなりません。

 

「選挙」をめぐる現在の「共産党」の二つの欠落

「決議」は「第10節」の「第1項」で、「来るべき総選挙は、平和・暮らし・民主主義・人権など、日本のあり方の根本が問われる選挙になる」と述べ、「党」の「総選挙躍進」のための「とりくみ」が書かれています。しかし、この「決議」には致命的に欠けているものが二つあります。

「選挙結果」は、その時点での国民の政治的選択を現していますが、政党の選挙期間における活動によってのみその支持の有無が決まるものではありません。選挙は、選挙の時点で、各党のあり方や考えがその党が望むような方向で有権者に理解されていなければなりませんし、国民の政治的エネルギーを高めるものでなければなりません。

「決議」は、党への支持拡大の方法として、「声の宣伝」と「訪問での対話活動」と「SNS活用」を挙げています。そこには、年間を通じた系統的な機関紙号外の個別配布の重要性の指摘など一切出てきません。青山は、これまでも一貫して、国民との最も基本的で最も大切な意思疎通のための手段として、年間を通じた系統的な機関紙号外の個別配布の重要性を訴え続けてきました。いま、自民党の政治資金問題が世間を騒がせていますが、自民党議員の財政上の大きな負担は、あまねく政策宣伝をするうえで欠かすことのできない「ポスティング」のための費用だといわれています。「共産党」はマスコミによる歪んだ報道が溢れるなかで、お家芸のはずの最も大切な手段である系統的な機関紙号外の個別配布による国民とのコミュニケーション・相互理解を通じて国民に真実を伝えるという基本的で最も大切な日常活動を放棄しています。これが、致命的に欠けているものの一つです。☆もう一つは、これも、青山がかねがね一貫して指摘していることですが、革命運動の助産師しであるはずの「共産党」が「後援会」を作って国民に「後援」してもらうという本末転倒を発展させて、「決議」は、SNSを活用して「ボランティア、サポーターが参加する選挙にする」といいます。しかし、革命運動の主役は国民で、その核の一つになる可能性があるのが進化し、脱皮した〝革新懇運動〟です。国民を革命運動の主役にするために、「共産党」は、ただちに、本末転倒で、ほとんど党員だけで構成されているハダカの「後援会」を解散し、国民の共同闘争の組織として〝革新懇〟が脱皮するのをサポートして、「革新懇」の「三つの共同目標」を中心に据えた〝国民の共同闘争の組織〟の結成に努め、その一員として参加し、国民は、「ボランティア」でも「サポーター」でもなく政治に主体的に日常的に参加できるような政治環境をつくらなければならない。この、科学的社会主義の党としての基本的な認識が「決議」には、残念ながら、欠けています。

総括…このような「統一戦線」や「共闘」や「選挙」になる理由

なぜ、このような「統一戦線」や「共闘」や「選挙」になるのか。理由は簡単だ。それは、現在の「共産党」が、不破さんが21世紀になって発見した新しい「科学的社会主義」の思想に蝕まれてしまったからです。

 

不破さんが21世紀になって発見した新しい「科学的社会主義」の思想とは

その〝新しい「科学的社会主義」の思想〟とは、大雑把にいうと次のようなものです。

マルクスは数度の恐慌を体験するなかで、恐慌によって資本主義社会は矛盾を深めるのではなく、ますます発展していくものだと思うようになり、その結果、エンゲルスが考えるような人民革命によるのではなく、議会で多数を獲得して政権を担う「多数者革命」を志向するという「革命観の大転換」と「資本主義観の大転換」をおこなった。

このマルクスの「革命観の大転換」と「資本主義観の大転換」を21世紀になって大発見した不破さんは、これまでの「革命観」と「資本主義観」を捨て、資本主義はますます発展していくものだから、改良を積み重ねることを通じて「共産党」が支持を広げ、議会で多数者になって「革命」を成就とるという「多数者革命」論に到達します。(*)

 この「多数者革命」論に到達した不破さんは、「多数者革命」論に基づいて党綱領を「改定」します。次に、「改定」された「2004年綱領」の「多数者革命」論に関連する部分の〝要点〟を、再度、二つだけ挙げ、不破さんの「多数者革命」論の中身を明らかにします。

(*)不破さんの「革命観の大転換」と「資本主義観の大転換」についての詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、ご覧下さい。

 

その1

資本主義から社会主義への道・展望について

1961年の第八回党大会で採択され、その後若干の字句の修正はあるが、2004年まで共産党員の思想であり行動の指針であった〝日本共産党綱領〟は、〝あたらしい、人民の民主主義革命〟をめざす当面のたたかいにおいても、「独占資本主義の段階にあるわが国」では、経済の自主的平和的発展のためには独占資本にたいする人民的統制が必要であることを明らかにし、「独占資本主義の段階にある日本での反帝反独占の民主主義革命は、客観的には社会主義革命へと移行する基礎をきりひらく役割をはたしうる」(講師資料No1:中央委員会教育局)性格のものとして、たとえばいま求められている、独占資本の「産業の空洞化」などを規制し〝経済は国民のため、社会のためにある〟という〝民主主義〟の社会を実現するためのたたかいも、当然、想定されており、それらは、〝あたらしい、人民の民主主義革命〟と〝社会主義革命〟へとシームレスにつながっており、民主主義革命から社会主義革命へと「連続的にに発展する必然性をもっている」ことを明確に述べていました。

不破さんの大嫌いなレーニンも、「全人民の民主主義的管理を組織する」ことを通じて〝民主主義の完全な発展〟を図ることにより社会を「社会主義的経済的有機体に組織する」ことを目標にして社会主義社会の建設を進めましたが、このように、「民主主義の課題」と「社会主義の課題」とは分かちがたく結びついています。

しかし、「2004年綱領」は、発展し続ける資本主義の改善をめざす不破さんの「資本主義発展論」に基づき、資本主義的生産様式の矛盾を明らかにして、労働者階級を中心とする国民が、民主主義革命から社会主義革命へと発展する展望をすて、その発展の必然性を削り取ってしまいました。

 この「2004年綱領」に則って、不破さんの弟子の志位さんは、「独占資本主義──大企業・財界の横暴な支配をただすたたかいが、社会主義の課題でなく、民主主義の課題であることは、今では論じる必要もない」などと言って、「大企業・財界の横暴な支配をただす(「糺す」のではなく、よい資本主義に「正す」)たたかい」に矮小化して、「社会主義の課題」と「民主主義の課題」とを「水」と「油」のように対立させ、選挙の街頭演説では、「自民党政治を大本から変えるという大目標を背負っている。ただ、今度の選挙でそれを目指すのはちょっと早いですね」(「日経」志位委員長の東京都三鷹市での街頭演説)などと言いだす始末です。

 このように、不破さんと志位さんの言う「民主主義」は、「自民党政治を大本から変えるという大目標」を実現するための本当の〝民主主義〟ではなく、資本主義のもとで、資本主義が正し資本主義社会となるために容認する、「生活防衛のためのバリケード」としてのカッコ付きの「民主主義」になってしまいました。

 なお、不破さんは、資本主義の発達のなかで労働者階級が闘い取った「社会的バリケード」について、『前衛』(2013年12月号)によれば、『賃金、価格および利潤』の講義で「日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道」(*1)だと言い、『前衛』2015年4月号では、「資本主義の側から見ても、」「〝資本主義の知恵〟の発揮があった、と見ることもできます」(P36)(*2)と言っています。まったく、開いた口がふさがりません。

(*1)ホームページ4-2「☆不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない。」を、是非、参照して下さい。

(*2)ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を、是非、参照して下さい。

 

その2

労働者階級と国民と革命との関係について

〝日本共産党綱領〟は、「労働者階級を科学的社会主義とプロレタリア国際主義の思想でたかめ、わが国の民主革命の勝利と社会主義の最後の勝利を確信させ、その階級的戦闘性と政治的指導力をつよめ」、これらの要求を実現するために「労働組合、農民組合をはじめとする人民各階層の大衆組織を確立し、」「労働者階級の指導のもとに、労働者、農民の同盟を基礎とし」て「民族民主統一戦線をつくりあげる」ことを通じて〝あたらしい、人民の民主主義革命〟を実現することを明記しています。このように、日本共産党の「反独占」の民主主義革命は、労働者階級を「革命の指導階級」として、民族民主統一戦線を「革命の原動力」(教育要綱:第一課日本革命の性格)としています。

しかし、「2004年綱領」には、「労働者階級」という言葉が二カ所に出てきますが、「独立、平和、民主主義、社会進歩のためにたたかう世界のすべての人民」の一員として数えられているだけで、人民革命を成就させるうえで肝心かなめの役割を担う労働者階級が、その歴史的使命とのかかわりで述べられることはありません。エセ「綱領」は、「日本共産党と統一戦線の勢力が国民多数の支持を得て、」「民主連合政府をつくる」と言いますが、エセ「綱領」には、「統一戦線」を主体的に担う「革命の指導階級」の存在はなく、「日本共産党」と「統一戦線の勢力」とが並列に置かれ、労働者階級を中心とする「国民多数」こそが「革命の原動力」であるという観点は欠落し、革命の主体である「国民多数」は「日本共産党と統一戦線の勢力」なるものを「支持」する存在にその地位を低められています。

※〝日本共産党綱領〟と「2004年綱領」との違いについての詳しい説明は、ホームページ3-3-1「『2004年綱領』にみる不破哲三氏の転落の証明」ホームページ3-3-2「『2020年綱領』を克服して、共産党よ元気をとりもどせ!!」及びホームページ3-3-9「不破さんと志位さんの『共産党100年』史…科学的社会主義の大地に『資本主義発展論』の種を蒔く」等を、是非、お読み下さい。

 

この二つの違いが、

「統一戦線」や「共闘」や「選挙」についての誤った考えを生み出している

不破さんの影響下にある「共産党」は、資本主義は困難を乗り越えて益々発展するという不破さんが21世紀になって発見した「資本主義発展論」という新しい「資本主義観」のもとでの新しいエセ「革命観」により、「日本共産党と統一戦線の勢力」が国会で多数を取って「社会的バリケード」を山ほど築くことで「日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる」という、不破さんが名付けた「多数者革命」の実現ため、「共産党」を支持する国民を増やすために日夜奮闘しています。

しかし、資本主義から社会主義への道・展望は、「日本共産党と統一戦線の勢力」が国会で多数を取って、「日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる」などというような浅はかな方法で開けるものではありません。

レーニンは、社会主義への道について、『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』(全集 第23巻P16~20)で、「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織することなしには、全勤労大衆を、すなわち、プロレタリアをも、半プロレタリアをも、小農民をもひきいて、彼らの隊列、彼らの勢力、彼らの国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには、これらの革命的措置を実行することはできない」と述べ、社会主義社会の建設が「民主主義の完全な発展、すなわち、あらゆる事への、また資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展」と結びついておこなわれなければならないことを明確にしています。

労働者階級と国民の力で、企業を統制し、資本を統制して〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会をつくる。そのための資本主義社会から社会主義社会への道の展望、そして、新しい社会をつくる主人公である労働者階級と国民がつくる統一戦線についての思想、これらをもった科学的社会主義の党の〝綱領〟から、「2004年綱領」はそれらを消し去ってしまいました。その結果、「統一戦線」づくりに尽力し、「統一戦線」を支え、「統一戦線」の中で国民と一緒にたたかうべき「共産党」が、国民から後援してもらい、国政選挙の都度ご破算となった野党「共闘」をやり直し、国民が名実ともに社会の主人公となるために必要な、国民の深い理解を得るための、最も基本的で最も大切な意思疎通の手段である年間を通じた系統的な機関紙号外の個別配布の意味が理解できなくなってしまった。

心ある共産党員の方は、革命の主人公、新しい社会の主人公は誰か、労働者階級と国民がその主人公となるために、どうしたら共産党が市民革命の助産師なることができるのか、そのことを、是非、真剣に考えて欲しいと思います。(*)

(*)科学的社会主義の党の役割については、ホームページ3-3-6「〝前衛党〟は市民革命の助産師に徹しよう…科学的社会主義の党が輝くとき」を、是非、お読み下さい。

「第3章」について

「第3章」は、「党建設──到達と今後の方針」です。これまで見てきたような、科学的社会主義の思想とはかけ離れた運動方針をもつ「共産党」が、どのように「党建設」を進めようとしているのか、科学的社会主義の視点から見ていきましょう。

 

革命の事業に多数者を結集するための「日本共産党の役割」が

まったく述べられていない「多数者革命と日本共産党の役割」という「節」

その冒頭の「第11節」、「多数者革命と日本共産党の役割」の最初の「項」で「革命の事業に多数者を結集する──ここにこそ日本共産党の果たすべき役割がある。」とかつての共産党を思いおこさせるような立派な宣言しています。科学的社会主義の党に戻ってくれたのかと思いきや、しかし、続けてこの「節」で述べられているのは、「民主集中性の組織原則を堅持し、発展させる」ということだけでした。

私が「第2章」で述べたような、①「自民党政治を変える統一戦線」をつくるために、「革新懇」の「三つの共同目標」のうちの「日米安全保障条約をなくし、非核・非同盟・中立の日本をめざす」という目標を〝同盟は家臣ではない〟という──対米従属の軍事同盟からの脱却という──目標・旗印に変え、「自民党政治を変える統一戦線」=国民の結集をめさすためにどのような具体的な努力をするのかということも、②党は〝革命の助産師〟であり、革命は労働者階級と国民が遂行するものだから、本末転倒の党の後援会を解体し、革新懇運動の「三つの共同目標」を旗印にした共同組織を市民と共につくり、そこを市民との同志的連帯の砦として、国政選挙等においては、国民が主人公の政治を実現するためにその共同組織の中から最もふさわしい人を〝革新共同候補〟として担いでたたかう、などという、いま「日本共産党の果たすべき役割」について、まったく述べられていません。

 「革命の事業に多数者を結集する──ここにこそ日本共産党の果たすべき役割がある。」と念仏を唱えても、何も実現しませし、口先だけのカラ念仏は、国民を失望させるだけです。

なお、私は、現在の「民主集中性の組織原則」なるものについて、他のページで機会あるごとに申し上げていますが、その最大の問題は、「党中央」という一部の人間集団の考え(方針)が「支部」というタコ壺型の閉鎖空間のなかだけにとじこめられ、補助指導機関としての党委員会のあるところ以外では、その方針について、他の「支部」等との知識・意見の交流がなく、その考えが〝集団知〟として豊かに熟成されないということです。その結果、控えめに言っても、「党中央」が見過ごしていたり誤った認識をしていたこと等の発見が妨げられ、党員の闘うエネルギーが損なわれる可能性が常に存在することになります。だから、最低限、市町村レベルでの意見交換の場を設けることが必要です。

 

「党」の性格・目的が分からないから、

「党」を大きくする常道が提起できない

次の「節」以降に、「党づくりの到達点」と「党建設の強化方法」が細かく述べられています。そこには、「党員拡大の日常化」とか、「世代的継承を党づくりの目標・実践の中軸にすえ」た取り組みとか、「『しんぶん赤旗』中心の党活動」とか、不破さんの科学的社会主義を歪曲した著書の紹介等、様々な有害情報を含め、いろいろ書かれています。しかし、「党建設」にあたって、その前提となる、欠くことのできない、最も重要なことはまったく書かれていません。

「党建設」にあたってその前提となる最も重要なこととは、科学的社会主義の党は革命の助産師であるということと革命は労働者階級を中心とした自覚した国民一人ひとりが担うものであり、そうでなければ新しい生産様式の社会など実現できないということ、そのことを踏まえて〝党建設〟を行なわなければ科学的社会主義の思想をもった党は建設できないということです。

〝科学的社会主義の党は革命の助産師〟ですから、変革への労働者階級を中心とした国民の自覚の高りと党の拡大強化とは切り離しがたく結びついています。〝革命の助産師〟の役割を果たしていない「党支部」は、いくら「党員拡大の日常化」とか「世代的継承を目標・実践の中軸にすえた党づくり」をする等々と言っても、無から有を生み出すようなもので、いくら細かく「拡大」の必要性や技術を述べても、机上の空論に終わるだけです。

 〝党員〟は、展望を持った生き生きした労働運動や地域の様々な課題の解決のために積極的に参加して、親しい仲間をふやし、〝党支部〟は、そのなかで職場支部は労働者とともに、居住支部は市民とともに、革新懇運動で掲げられた「三つの共同目標」を旗印にした共同闘争の組織を職場や地域につくるために努力し尽くすことが求められています。

 このような運動なしに、「党員拡大の日常化」を訴え、「世代的継承を目標・実践の中軸にすえた党づくり」訴えても、この「決議」や「第28回大会決議」や「第27回大会決議」と同様に、反省を繰り返すだけです。

なお、〝革命は労働者階級を中心とした自覚した国民一人ひとりが担う〟ものですが、人にはみな個性があります。「党建設」で無視してならないのは、党員の個性を生かし、花開かせるということです。職場や居住の支部に属していても、そこでは得ることのできない、「経済」や「国際関係」や「東アジアの問題」や「核兵器の問題」や「教育の問題」等々、様々なことに興味や関心を持ち、かかわりを持ちたいと思っている人が少なからずいます。「未結集」になったかもしれない人たちが、そこに党での自分の居場所を見つけ、元気溌剌となって、思いもよらぬ力を発揮することだってあるかもしれません。思いもよらぬ力を発揮しなくても、元気溌剌となればいいんですが。いま、団塊世代が「居住支部」に流入し、様々な経験を積み優れた能力を持った人たちが沢山いることは、このようなテーマ別の学習サークルをつくる絶好のチャンスです。この人たちの力も生かし、地区委員会単位くらいで、公民館の学習サークルのようにサークルをつくり、それぞれのサークルが全国のネットワークをつくることができたら、労働者階級と国民にとって、科学的社会主義の党にとって大変貴重な財産を築くことになるでしょう。

 

「共産党」を科学的社会主義の党から益々遠ざける「学習運動」

私は、先ほど、「不破さんの科学的社会主義を歪曲した著書の紹介等、様々な有害情報を含め、いろいろ書かれています。」と書きましたが、①「党創立100周年の記念講演」は不破さんと志位さんの誤った考えが盛りだくさんなので、どのような誤りをしているのか、是非、ホームページ3-3-9「不破さんと志位さんの「共産党100年」史…科学的社会主義の大地に「資本主義発展論」の種を蒔く」でお確かめいただき、②「決議」には紹介されていませんが、不破さんの「『資本論』探求」は、『資本論』の歪曲のオンパレードで、且つ、マルクスとエンゲルスに対する揶揄と中傷に溢れていますにで、これも是非、ホームページAZ-3-1「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説…「『資本論』探求」で欠落しているものと不破哲三氏の誤った主張」でお確かめいただき、不破版ニセ『新版資本論』の真髄を理解して下さい。そして、不破さんの誤った考えを、電車の中でも、10分程度で読めるように編集したホームページAZ1-1「国民のための経済がある、新しい共同社会を創るために、不破さんのマルクス・エンゲルスと『資本論』の歪曲・捏造を暴き、科学的社会主義の思想のエネルギーを取り戻そう」をお読みいただき、マルクス通になっていただけたら、大変うれしく思います。

党員のみなさんは、是非、これまで私が述べてきた科学的社会主義の思想を参考にして、また、ホームページ4「新しい社会への歩みを邪魔する人」の各ページもご参照いただき、「共産党」を科学的社会主義の党から益々遠ざける「学習運動」から自己防衛し、科学的社会主義(マルクス・レーニン主義)に立脚した日本共産党を復活させて下さい。

「第3章」の総括

 

「第3章」の総括

科学的社会主義の党の〝党建設〟とは、この「決議」にあるように数字を羅列することによって「党」が大きく強くなるように考えることではありません。

 科学的社会主義の党の〝党建設〟とは、〝革命の助産師〟として労働者階級を中心とする広範な国民の結束を強め、資本を追い詰める戦いを全力でおこなうなかで、労働者階級と国民の先進的な部分を〝革命の助産師〟であり〝革命運動の前衛〟として向かい入れ、より大きな戦いの準備を整えることです。

 だから、米国とマスコミに屈服して、2014年以降の米国とウクライナの関係やウクライナ東部2州でのウクライナ政府容認のネオナチの住民虐殺を無視してプーチンだけを批難したり、北朝鮮や台湾を利用して危機を煽って政府自民党が大軍拡を試みようとしているときに「外交ビジョン」を自画自賛し、「軍拡反対」と「平和」だけしか言わず、いま求められている、国民の関心に真剣に向き合おうとせず、経済においては資本の行動から目を背け、資本主義的生産様式がもたらした結果を自民党政治だけに責任を押し付け、結果的に、資本による「産業の空洞化」がもたらした失われた30年を免罪し、労働者階級を中心とする広範な国民を結集するという科学的社会主義の党の本来の使命をかなぐり捨てて一回限りの野党共闘を「市民と野党の共闘」と偽り、「自民党政治を変える統一戦線」をつくるために努力しているかのように見せても、〝統一戦線〟のために何の努力もしていないのだから、労働者階級・国民も、お天道様も、だまされはしない。これだから、これまで選挙のとき「共産党」を支持していた人も、れいわ新撰組や社民党や立憲民主党に投票することにもなる。

 もしも、自らを科学的社会主義の党と思っているのであれば、このことを、「共産党」はしっかり考えて欲しい。

「第4章」について

「第4章」は、「世界資本主義の矛盾と科学的社会主義」です。この章で、残念ながら、現在の「共産党」が〝資本主義の矛盾〟の根源をまったく理解していないことがわかります。

 

資本主義からの解放は、「利潤第一主義」からの自由ではない

「第4章」は、最初の「節」で「空前の規模での格差拡大」の実態を述べ、次の「節」で「個々の資本家の手にある生産手段を社会の手に移す『生産手段の社会化』によって、生産の目的・動機が、資本の利益の最大化ではなく、社会と人間の発展にかわるならば、すなわち『利潤第一主義』から自由になるならば、この害悪は根底からとりのぞかれる。」と胸をはります。

 つまり、「この害悪(資本主義の害悪)」の原因は「利潤第一主義」で、「個々の資本家の手にある生産手段を社会の手に移す」生産手段の移管によって、「利潤第一主義」から自由になり、「資本主義の害悪は根底からとりのぞかれ」て、資本主義から解放されるというのです。これが、不破さんが『資本論』からマルクスを学び損ねた結果、出した答えです。こんな人が監修した不破版エセ『新版資本論』を「決議」は学習しろというのですから、困ったものです。(いま私が言っていることが、不破さんに対する誹謗・中傷かどうか、このページを読み進めて、確かめて下さい。)

 このように、目標の設定を「『利潤第一主義』からの自由」と間違えているから、資本主義の害悪を根底からとりのぞく手段を「個々の資本家の手にある生産手段を社会の手に移す」という〝生産手段の移管の問題〟という安易な方法に行き着いてしまうのです。

資本主義的生産様式は、労働者がつくった富を資本の富として搾取し、資本が大きくなることを通じて経済が発展する仕組みの社会です。資本主義社会は、この社会の仕組みを成り立たせ、労働者がつくった富を資本が搾取できるようにするために、工場や土地や特許等の所有権をもつ者が、それらを使って生み出される富を、彼らが合法的に取得できるような社会規範をつくりました。

 だから、資本主義的生産様式の社会から脱却するためには、このような社会規範を捨て去って、レーニンがその実現を追求したような、「民主主義の完全な発展、すなわち、あらゆる事への、」「全国大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展」を実現し、企業は社会の公器として、「資本」家が支配するのではなく、社会とその企業で働く労働者がステークホルダーとして管理する、このような新しい社会規範を確立する。このような社会をマルクスは「結合労働の生産様式」の社会と言いました。

マルクスは『資本論』で、「信用制度」に関して、「生産手段が資本に転化しなくなれば(このことのうちには私的土地所有の廃止も含まれている)、信用そのものにはもはやなんの意味もないのであって、……資本主義的生産様式が存続するかぎり、利子生み資本はその諸形態の一つとして存続するのであって、実際にこの生産様式も信用制度の基礎をなしているのである。」(第三部第三六章、大月版④P784)と言っています。

 ここでマルクスが述べているのは、資本主義社会では、「利子生み資本」が生産手段を取得するための「資本」としての意味を持つが、「結合労働の生産様式」の社会では生産手段は資本に転化しなくなるので、「利子生み資本」という概念そのものがなくなるということです。つまり、「結合労働の生産様式」の社会をつくるということは、生産手段が資本に転化しなくなる社会をつくるということなのです。

 「決議」がこの「章」の最初の節で指摘している「空前の規模での格差拡大」も、工場や土地や特許等の所有権をもつ者がそれらを使って生み出される富を彼らが合法的に取得できるようなシステムになっているから、自然に生じるのです。

 だから、このような状態から脱け出すためには、「『利潤第一主義』から自由になる」社会への社会の改良ではなく、〝生産手段が資本に転化しなくなる社会〟をつくることです。そして、資本主義の害悪を根底からとりのぞく手段は、〝あらゆる国事への国民の真に全般的な参加〟を実現することであって、「個々の資本家の手にある生産手段を社会の手に移す」という〝生産手段の移管〟ではありません。スターリンが作り上げた「ソ連」は「生産手段の社会への移管」はありましたが、〝あらゆる国事への国民の真に全般的な参加〟がなかったために、「結合労働の生産様式」の社会となることができませんでした。このような社会を目ざしているから、〝日本共産党綱領〟は、社会的生産を担う労働者階級こそが資本主義的生産様式の先にある社会的生産に見合う新しい生産様式の社会の作り手であり、その担い手であることを明確にしていたのです。「綱領」から労働者階級の歴史的使命・役割を捨て去った不破さんと志位さんにこれらのことが理解できないのは、残念ながら、当然のことです。

関連する若干の補足

「『利潤第一主義』からの自由」と

「自由の国」と不破さん

〝同志よ固く結べ〟という革命歌に「搾取なき自由の国、たたかい取らん」という歌詞がありますが、科学的社会主義の党の目的は〝搾取なき自由の国〟=〝生産手段が資本に転化しなくなる社会〟をたたかい取ることであって、「『利潤第一主義』からの自由」などではありません。

しかし、現在の「共産党」が「利潤第一主義」にこだわるのは、不破さんが『前衛』(No903)で、「私は、『桎梏』という言葉で、今日、利潤第一主義が人間社会の存続をおびやかすところに来ている、そのすべての事態をとらえたいと思っています。」(P111)との主張をして、「資本主義的生産関係の矛盾」を「利潤第一主義」に閉じ込めて、「桎梏」を「人間社会の存続をおびやかすすべての有害物」に拡大することで、資本主義の矛盾を曖昧にし、それに弟子の志位さんたちが従順に従っているからです。(*1)

そして、〝自由〟に関して言うと、マルクスとエンゲルスは、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保」された(『空想から科学へ』新日本文庫P71)〝共産主義社会のより高度の段階の社会〟を〝自由の国〟と言いまし。しかし、「革命観の大転換」と「資本主義観の大転換」をした不破さんは、マルクスの言う「自由の国」とは「自由な時間」のことで、資本主義社会の余暇も「自由な時間」だから「自由の国」だなどとととんでもないことを言っています。(*2)

(*1)詳しくは、ホームページ4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」及びホームページ4-11「☆不破さんは『資本主義の矛盾』を『利潤第一主義』に変え、社会主義革命を『資本主義の害悪』の改善に変えようとするのか」を、是非、参照して下さい。

(*2)詳しくは、ホームページAZ-2-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏」を参照して下さい。

 

社会の公器としての〝企業〟の統治の考えをもっていない不破さん

〝生産手段が資本に転化しなくなる社会〟=「結合労働の生産様式」の社会とは、〝あらゆる国事への国民の真に全般的な参加〟が実現している社会であり、生産現場に於いて「資本主義的生産関係」から労働者が解放された、社会の公器としての企業を社会とその企業で働く労働者がステークホルダーとして管理・運営する社会です。

 しかし、現在の「綱領」は、「生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない」と建て前をいいますが、「生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげ」てはならないというだけで、〝企業の統治〟への労働者階級の参加には一切言及していません。

その理由は、不破さんの、資本主義社会での今日の「民主的な職場管理」の理論なみの──人事院のJST研修に代表される──職場管理の考えにあります。

 不破さんは、『前衛』の2015年5月号で、パリ・コミューンの歴史的意義を明確にしたマルクスの『フランスにおける内乱』を取りあげ、「ここで最も重要なのは、(2)の文章です」と言って、「奴隷制のかせ」からの解放という字句を取り出し、その意味は、「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」ことだといい、「『奴隷制のかせ』からの解放」とは「〝指揮者はいるが支配者はいない〟といういわば自治的な関係──生産現場でこういう人間関係をつくりあげ」ることだという“独自の理論”を展開します。

 しかし、不破さんの言う「指揮者はいるが支配者はいない」職場の管理と資本主義社会での職場管理のリーダーシップ論とでは、いかほどの違いがあるのでしょうか。資本主義社会での職場管理のリーダーシップ論もヘッドシップを排した「生産現場」での「いわば自治的な関係」によって成り立っています。

労働者階級は、企業を担う主役の一員として、〝生産現場での(指揮者はいるが支配者はいないという)人間関係〟を超えた企業との新しい人間関係をつくりあげることを通じ、「賃金奴隷制のかせ」である資本主義的生産関係からの解放を名実ともに実現します。

 不破さんが理想とする、生産現場での「指揮者」と「指揮を受ける人」という「狭い空間」での固定的な役割分担も、「社会主義社会」が発展して「共産主義社会」に向かう過程で、質的な変化を遂げることになるでしょう。

 そして、不破さんが「奴隷制のかせ」からの解放を「生産現場」という狭い空間に閉じ込めて「未来社会」の理想とした、「指揮者はいるが支配者はいない」という職場での固定的な役割分担が、〝新しい生産様式の社会〟を動かす原動力でないことだけは明らかです。この「決議」は、このような、不破さんの、社会の公器としての〝企業〟の統治の考えをもっていない“独自の理論”に依拠しています。

※この「項」の詳しい説明は、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」及びホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」を、是非、お読み下さい。

 

私の『資本論』の引用部分と不破さん

私が先ほど『資本論』から引用したのは、「第三部」「第36章」の下記の文章の『』の部分です。

最後に、資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろうことは、少しも疑う余地はない。とはいえ、それは、ただ、生産様式そのものの他の大きな有機的な諸変革との関連のなかで一つの要素として役だつだけである。これに反して、社会主義的な意味での信用・銀行制度の奇跡的な力についてのもろもろの幻想は、資本主義的生産様式とその諸形態の一つとしての信用制度とについての完全な無知から生まれるにである。生産手段が資本に転化しなくなれば(このことのうちには私的土地所有の廃止も含まれている)、信用そのものにはもはやなんの意味もないのであって、これはサン・シモン主義者たちでさえも見抜いていたことである。他方、資本主義的生産様式が存続するかぎり、利子生み資本はその諸形態の一つとして存続するのであって、実際にこの生産様式も信用制度の基礎をなしているのである。」(大月版P783-784)

不破さんは、この文章の『』を「『資本論』探究」で引用して、「信用=銀行制度という資本主義の最も発達した制度の研究が、『資本論』全体のなかでも、未来社会について最も多くの示唆を含む篇の一つとなった」と言っていますが、『』で括った部分ではプルードン主義者たちへの批判以外に「未来社会について示唆」などなく、あるのは、「未来社会への移行の過程ではたす信用制度の(強力な槓杆、一契機としての──不破さんの文章に青山が補足)役割」だけです。

マルクスが「結合労働の生産様式」の社会について述べ、資本主義社会と資本・信用との関係を述べ、プルードン主義者たちの誤りを具体的に指摘しているのは、私が引用した『』の部分においてです。この大切な文章を見ることができないから、「結合労働の生産様式」の社会とは「生産手段が資本に転化しなくなった」社会だと言うことの意味が理解できないのです。

 このような人物が監修したエセ『新版資本論』を「決議」は学習しろというのですから、本当に困ったものです。

 

旧ソ連も現在の中国も自らも理解していない「共産党」

続けて「決議」は、「旧ソ連も、中国も、遅れた状態から」「革命が出発した」から「さまざまな否定的現象がうまれた。」と、「発達した資本主義の国」でなければ「社会主義・共産主義をめざす社会変革の道は」無いかのようなことをいって、旧ソ連や中国にうまれた「さまざまな否定的現象」の原因を突きとめようともせず、「私たちは、『日本共産党』の名がいよいよ輝く時代に生きている。」などとノー天気なことを言っています。

これまで、「第1章」、「第2章」、そして「第3章」を通じて、科学的社会主義の思想の観点で見てきたのは、革命の主役は労働者階級を中心とする広範な国民であり、科学的社会主義の党は革命運動の助産師であり、科学的社会主義の党が目指す社会変革が〝人民革命〟であるならば、そのような思想をもって運動を進めなければ成功することはできないということでした。「旧ソ連」が崩壊したのは、スターリンが、レーニンがめざした〝あらゆる国事への国民の真に全般的な参加〟を投げ捨てたからであり、中国に社会崩壊の危機を感じるのは、国旗(五星紅旗)が4つの小星(労働者、農民、小資産階級・愛国的資本家、知識人)が大星(共産党)の中心に向いていることを表現しているように「共産党」が国家の中心にあり、9600万人といわれる党員の多数にとってかれらの党籍は立身出世の方便だといわれ、「旧ソ連」同様、レーニンがめざした〝あらゆる国事への国民の真に全般的な参加〟が図られていないからです。

それでは、「発達した資本主義の国」の「日本共産党」はどうでしょうか?

 不破さんの歪んだ「多数者革命」に導かれている現在の「日本共産党」には、これまで見てきたように、残念ながら、科学的社会主義の党の使命は〝人民革命〟の助産師であるとの自覚などありません。だから、「統一戦線」はお題目だけで、その実現に向けての努力などない。胸に「ブルーのバッチ」を付けながら、何の努力もしない国会議員と同じだ。選挙では、同じこころざしを持つ人たちと〝人民革命〟のための共同闘争と組織づくりのための準備をするのではなく、自分の「党」を大きくするために〝主権者〟に「後援」してもらうという本末転倒に違和感を覚えないから、政党同士の一時的な共闘を「市民と野党の共闘」と看板を偽り、その上で、この政党同士の一時的な共闘を「統一戦線の力で政治を変えるという一貫した方針を、今日の状況のもとで大胆に発展させたもの」などと胸をはっている。「民主集中制」といいながら、〝集団の知〟を結集する組織体制がなく、組織が後退に後退を重ねても、不破さんが21世紀になって堂々と大っぴらにした「資本主義発展論」に基づく──〝人民革命〟をかなぐり捨てた──「多数者革命」から脱却できない「共産党」。

 〝人民革命〟を忘れ、政府と国会を支配する「党」が国を支配することができると勘違いして〝あらゆる国事への国民の真に全般的な参加〟など眼中にない、この現在の「共産党」が政府と国会の中枢を占めたとき、日本が「出来損ないの社会主義」にならないと断言するのは極めて難しい。

「第5章」について

「第5章」は「1世紀の歴史に学び、新たな1世紀に向かおう」です。

 この、現在の「日本共産党」から見た「決議」における「党」の百年史について、ここで書かれていることの真実性や書かれた事実についての認識の正しさや書かれるべき認識の変化等について、この場で全てを論じることはできないので、典型的なことだけを述べるに留めることをご了承ねがいます。

 

「共産党の百年」史の不破さんの委員長就任以降を凝視せよ

「日本共産党の百年」史は、大きく分けて五つに区分することができます。第一の時期は日本の侵略戦争の敗戦までの期間、第二の時期は「50年問題」に揺れた時期までの期間、そして第三の時期は宮本顕治さんを中心にレーニンから〝民主主義革命から社会主義革命へ〟という革命の展望を学び、そのために労働者階級を中心とする国民の統一戦線の力で日本革命を実現するという道を学び、労働運動が前進し全国に革新自治体が燎原の火のように拡がり──日本共産党の黄金期とでもいうべき──時期、次に第四の時期は、1981年3月に発足した第二臨調が資本の海外展開を積極的に支援する方針を明確にした直後の82年7月に不破さんが党の委員長に就任し、資本の行動を暴露し労働運動を活発にするために力を尽くすことをぜず、都道府県委員長に党勢拡大のハッパをかけ続けます。ハッパをかけられて、目標を達成することのできない都道府県委員長は、運動の進め方が誤っているのを反省するのではなく、自分の思想性が低く指導を貫き通すことができなかったことを自己批判するということを20年間繰り返します。それでも、日本共産党の黄金期の遺産によって、かろうじて組織の体面は保たれ、「60年代の初心」を現す〝日本共産党綱領〟も、まだ、破壊されずに残っています。しかし、その後、現在も続く第五の時期は、不破さんが公然と「革命観の大転換」と「資本主義観の大転換」を表明し、「資本主義発展論」に基づいて「2004年綱領」を定め、その時から本格的に始まります。

いま、最も大切なのは、しっかりと「第四の時期」の無策を見て、「第三の時期」と「第五の時期」との違いを知ることです。そのために、是非、ホームページ3-3-9「不破さんと志位さんの『共産党100年』史…科学的社会主義の大地に『資本主義発展論』の種を蒔く」ホームページ3-3-1「『2004年綱領』にみる不破哲三氏の転落の証明」及びホームページ3-3-2「『2020年綱領』を克服して、共産党よ元気をとりもどせ!!」をお読み下さい。

 

『前衛』や『赤旗』に載った不破さんの党史の捏造を糺せ

不破さんは重大な党史の捏造を幾つかおこなっています。その一つは、「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論はマルクスの死後も克服されることなく信じられてきました」と、反共ごろつきジャーナリスト並みに、党史を捏造していることです。

不破さんの『前衛』2014年12月号と2015年1月号の「マルクスの恐慌論を追跡する」によれば、不破さんはかなり以前から〝マルクスの恐慌論〟について、「どこかに理論的な欠落があるのでは、という違和感」を持ち続けていたが、『レーニンと「資本論」』(1998-2001年)を書き終えたあと、『資本論』の草稿を読んで、その中にこれまでのマルクスの「恐慌論解決のヒント」を発見したとのことです。そして、『前衛』2013年12月号では、「マルクスは、はじめは恐慌が必ず革命を生むと考えてい」たが、「革命観に大きな転換が起き」、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」と思うようになり「革命観の大転換」を行ない、これを知った不破さんも「革命観」を変えたというのです。このように、不破さんによれば、少なくとも、2001年以前は、不破さんは違和感を持ちながらも自分がでっち上げた〝マルクスの「恐慌=革命」〟を信じており、不破さんが指導していた「党」も信じていたというのです。

しかし、これは真っ赤なウソです。『科学的社会主義』(新日本出版、1977年、岡本博之日本共産党常任幹部会委員・教育局長・中央党学校長監修)を読んでも、『社会科学事典』(新日本出版、1978年、社会科学事典編集委員会編)を見ても、2001年以前の日本共産党は不破さんがでっち上げた「恐慌=革命」説などとっていません。このように党史を捏造するのは、革命運動を〝人民革命〟の運動から、不破さんの「資本主義発展論」に基づいて「共産党」が議会で多数を獲得するという、エセ「革命」に矮小化するための工作です。(*1)

なお、「違和感」を持ち続けながらも無責任に「党」の仕事を続けた不破さんのように無責任な人として前委員長の志位さんがいます。志位さんは、「過渡期論」について疑問を持ちながらも、平気で、初級教室の講義をしたとを『赤旗』で告白しています。このような告白をするのは正直な人ではあるが志位さんもかなり無責任な人だ。

 もう一つは、不破さんがレーニンを毛沢東主義者に変えて党史を捏造していることです。

不破さんは、『赤旗』に執筆した「『資本論』刊行150年に寄せて」の⑨「マルクスの未来社会論(1)」というところで、「革命論についてのレーニンの誤解については、1960年代に中国の毛沢東一派との闘争のなかで、レーニンの誤解をただし、多数者革命論にこそマルクスの理論的到達点があることを明らかにしました。」と述べて党史を捏造してしまいました。

 不破さんが言った文章は、一般に〝よんにいきゅう論文〟と呼ばれている文章で、1967年4月29日の『赤旗』に発表されたので「4・29論文」と呼ばれていますが、正式には「極左日和見主義者の中傷と挑発」というタイトルの『赤旗』評論員論文です。

☆論文は、日本共産党の綱領路線が、「暴力革命」を「日本における革命のただ一つの道であることをみとめず、革命の平和的な発展の可能性」を革命の発展の「ひとつの可能な展望としてみとめている」ことについて、当時の中国共産党とその盲従分子たちが「これこそ『暴力革命がプロレタリア革命の普遍的法則である』というマルクス・レーニン主義の原則にたいする裏切りであり、ブルジョア議会を美化して『議会による革命』をとなえた第二インターナショナルの修正主義路線への転落だ」といって攻撃をしてきたことに対し、マルクス・エンゲルス・レーニンの著作とその時代背景を示して、マルクス・レーニン主義(当時の〝科学的社会主義〟の呼称)の旗を守った傑作論文です。

 「4・29論文」には、レーニンが1917年4月9日の『プラウダ』で、「(労働者代表ソヴェトが)権力となるためには、自覚した労働者は、多数者を味方に獲得しなければならない。大衆にたいする暴力が存在しないあいだは、これ以外に権力に到達する道はない。われわれは、ブランキ主義者ではなく、少数者による権力の奪取を支持するものではない」(第二十四巻P23-24)と言っていたことは書かれていませんが、レーニンについての正しい評価をしています。

 いまも歯を食いしばって頑張っている多くの高齢者の中のかなりの人たちが、青春時代にこの「4・29論文」や「10・10論文」を読み、マルクス・エンゲルス・レーニンの思想と毛沢東の思想の違いを再認識して、日本共産党の路線の正しさに確信を持って活動してきた人たちです。この人たちのエネルギッシュな活動が、70年代から80年代の共産党の組織活動の黄金時代を築きました。

不破さんは、70代以上の殆どの人がウソだと分かる党史の捏造までして、〝人民革命〟を追求し続けたレーニンを不破さん流のエセ「科学的社会主義」から排除したいのです。(*2)

(*1)上記の「恐慌=革命」説等についての詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、お読み下さい。

(*2)上記の「もう一つ」の捏造についての詳しい説明は、ホームページAZ-2-3「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その3)」を、是非、お読み下さい。

 

「なにもしていない」ことを「している」ように見せるためのすり替えを許すな

「決議」は、「党史を貫く三つの特質」の一つとして「国民との共同」をあげ、政党同士の一時的な共闘を「市民と野党の共闘」と偽り、その上で、政党同士の一時的な共闘を「統一戦線の力で政治を変えるという一貫した方針を、今日の状況のもとで大胆に発展させたもの」と「統一戦線」の意味を「大胆に」変更して、「統一戦線で政治を変えるという姿勢を貫いたことである。」と自慢します。

これまで見てきたように、科学的社会主義の党の役割も、おこなおうとする社会変革である〝革命〟の意味もまったくわからなくてこんなことを言うのか、「なにもしていない」ことを「している」ように見せるため言っているのか、いずれにしても絶望的な文章です。

☆関連して、上記の文章と同じ文脈で「〝夜明け〟をひらく最大の力となり、保障となるのが、つよく大きな日本共産党の建設である。」という文章があります。

これも、ピントがズレています。「〝夜明け〟をひらく最大の力となり、保障となる」のは、「日本共産党」ではなく〝労働者階級を中心とする国民の統一戦線〟です。科学的社会主義の党は、労働者階級に資本主義的生産様式の社会を変革するという事業を遂行することがかれらの歴史的使命であることを意識させ、労働者階級のたたかいを共にたたかうなかで必然的に「つよく大きく」なることができるのです。

最後に、このページを閉じるに当たって、毎回、選挙の総括等のときに使う、もう一つの、ピントのズレた言い訳について指摘しておきたいと思います。この「章」でも、「党は、1980年代以降、長期にわたる党勢の後退から前進に転ずることに成功していない」といい、「最大の要因」として「『日本共産党をのぞく』の壁がつくられ」、「これを利用した熾烈な反共攻撃の影響があった」ことをのべています。

しかし、「日本共産党」が、本当に、科学的社会主義の党たらんとするならば、こんな言い訳をしてはだめです。資本主義的生産様式の社会で、「『日本共産党をのぞく』の壁がつくられ」、「これを利用した熾烈な反共攻撃」がおこなわれるのは、当たり前のことです。戦前のように、国家権力の弾圧によって党が物理的な損傷を被ったのなら、そのような言い訳も成り立つかも知れませんが、現在の日本のようにかなり自由に活動ができる状況のもとで、自らの能力と努力の足りなさの結果を他者のせいにしてはいけません。

〝科学的社会主義〟の思想を導きの糸として、共産党よ元気をとりもどせ。

蘇れ!Communist Party。