AZ-2-1

『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その1)

  『しんぶん赤旗』に2017年8月1日から14回にわたって不破哲三氏の「『資本論』刊行150年に寄せて」という文章が掲載されました。しかし、残念ながら、そこで述べられていることは、マルクス・エンゲルスが『資本論』を通じて私たちに伝えたかったこととは遠く離れています。
 まずはじめに、マルクス・エンゲルスが『資本論』を通じて私たちに伝えたかったことは何だったのか、その概要を見て、そのあと、不破さんの言っていることを検証してみましょう。

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『資本論』を通じてマルクス・エンゲルスが私たちに伝えたかったこと

 『資本論』は、資本主義的生産様式を他の生産様式から際立たせる特徴として、①生産物を商品として生産することを目的とすること、②生産の直接的目的および規定的動機として剰余価値の生産をすること、の二つをあげています。

 その剰余価値(=新たに付け加わる富)の源泉は労働であり、労働者の労働によって富は生みだされますが、資本主義的生産様式は生産手段を所有する資本家がその富を横取りしてしまいます。この生産手段から自由な労働者の「社会的な生産」と資本家の取得の「私的資本主義的形態」とが資本主義的生産様式を構成しており、商品として売るために作られたモノが買われてはじめて資本主義は機能し、商品は利益が出なければ作られません。

 資本主義的生産様式の一方の構成要素である資本の目的は利益を得ることですから、もう一方の構成要素である労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払いません。だから、労働者が生きていくためには、賃上げや社会によって顧慮を強制させるための「超強力な社会的障害物」を闘い取ることが必要となります。しかし、労資の分配関係を多少労働者に有利に変えても、資本主義的生産関係が続くかぎり、また元のもくあみに戻されてしまいます。だから、団結を強めて、資本主義的生産関係を変える闘いを行い、その勝利を目指さなければ、それらの闘いは結果的に失敗に終わってしまいます。

 資本主義社会は、社会の消費する力が資本の剰余価値を増加させようとする欲求によって制限さるという矛盾と生産の社会的な性格と取得の私的資本主義的な性格との矛盾という二つの矛盾を抱えています。だから、資本主義社会は、発展すればするほど生産力と消費する能力との矛盾を深め、資本家と労働者の格差を拡げ、儲かる商売だけが勢いを増し、利益の出ない社会的に必要な需要は抑制され、社会は歪められます。

 そして、資本主義的生産の発展によって、現在の社会的生産の到達点と社会的生産の発展に今後必要なさまざまな要素と諸力の発展とが「新たな社会の形成要素」として発展してゆきます。同時にこの過程で、私的資本主義的生産による「生産の無政府性」とその矛盾の現れである恐慌など──現代の日本ではその典型が「産業の空洞化」です──私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾とその反作用としての労働者階級の運動の前進が「古い社会の変革契機」──つまり資本主義社会を社会主義社会に変えるエネルギー──として高まっていきます。

 『資本論』は、これらを具体的に、緻密に、鮮やかに描き出し、そしてついに、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月『資本論』② P995F6-9)とマルクスとエンゲルスは断言します。

 また、マルクスとエンゲルスは、私たちが生きている資本主義社会、社会主義社会、共産主義社会における人間の「自由」の問題ついて、要旨、次のように述べています。

 「自然必然の国」での「自由」とは、盲目的な力に支配されていた生産が計画的、意識的におこなわれるようになり、共同的統制のもとに置かれることである。しかし、この「自由」を獲得した社会主義社会もまだ「必然性の国」である。この国のかなたで、当然のこととして、遠い将来、強制されてはたらく必要がなくなったとき、自分の人間的な能力の発展のみを追求する真の「自由の国」が始まる。しかし、それは、社会主義社会という「必然の国」を基礎として、その上にのみ花開くことができる。社会主義社会において、「自由の国」をつくるための根本に必要な条件は、生産性の向上のための労働日の短縮である、と。

 これが、不破さんが寄稿の中で取り上げたことに関して、マルクス・エンゲルスが『資本論』を通じて、資本主義を検証しながら、私たちに伝えたことのおおまかな内容です。

不破さんが『資本論』刊行150年にあたって言うべきこと

 不破さんが科学的社会主義の思想(=マルクス・エンゲルス・レーニンの思想)の持ち主であるならば、「いかなる歴史的時期においても、経済的生産と交換の支配的な様式、およびそれから必然的に生れる社会組織が土台をなし、その時期の政治的並びに知的歴史はこの土台のうえに築かれ、この土台からのみ説明される」(エンゲルス『共産党宣言』(1888年英語版への序文)岩波文庫、大内兵衛・向坂逸郎訳)という観点で、マルクス・エンゲルスの『資本論』から学んだことの現代的な意義(=現代に置き換え、現代に生かすこと)を、語るべきでしょう。

『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏

 しかし、残念ながら、不破さんの「『資本論』刊行150年に寄せて」という文章からは、こんにちの「経済的生産と交換の支配的な様式、およびそれから必然的に生れる社会組織」の分析も、そこから導きだされる現代の課題についての論究も、一切ありません。

 それでは、これらの文章で、不破さんが何を述べているのか、いっしょに見て行きましょう。

①「「資本主義」─マルクスの命名が世界語になった」で不破さんが言っていること

 ①では、「新聞」の1ページ全体の3/4弱を使って、概ね次のようなことが述べられています。

 いまから150年前の1867年9月(そのとき、マルクスとエンゲルスはすでに唯物史観を持っていたが*1)に『資本論』第1巻が刊行され、その冒頭ではじめて、マルクスが、私たちが生きているこの社会を「資本主義」と命名し、それが世界語になったこと。だから今年は「記念すべき年としてよいのではないでしょうか」と、3/4弱のページの3/4強のスペースを使って述べます。続けて「21世紀の資本主義の前途は?」と題したパラグラフでは、「21世紀の資本主義の前途」を語ることなく、「ブルジョア経済学の目でも資本主義が現状のままで存続しつづけるとはいえない、今日の事態の重大さ」などと言って、「前途」は「?」のままにして、「この連載では」、「世界の資本主義の現状」、「今日の世界の現状」を「探ってゆきたいと思います。(つづく)」と述べて、①を結んでいます。

 なお、このページ全体の残りの1/4強は、「ひと」という一段分のスペースと二段分のスターリンに関する不破さんの趣味の研究の「本の宣伝」*2がおこなわれています。

*1マルクスとエンゲルスが唯物史観を持った時期について

「われわれの見解の決定的な諸点は、…『哲学の貧困』のなかで、…はじめて科学的に示された。」(マルクス『経済学批判』(序言)、久留間鮫造氏レキシコン④-[30]、[36]参照)なお、『哲学の貧困』は1847年に書かれました。ホームページ「温故知新」→「Bものの見方、考え方」の「5、哲学」の5-1、5-3

*2なぜ「スターリンに関する不破さんの趣味の研究」と言うのかの理由。

『前衛』に不破さんが長期連載させた『スターリン秘史』には、スターリンがソヴィエトと党をどのように破壊していったかがまったく書かれておらず、スターリンの「独裁」を許した「組織原則」についての分析・評価もない。いまの「日本共産党」の少なくない居住支部等の組織の現状を見るとき、よくもこのようなノー天気な連載に『前衛』の貴重なスペースを割かせたものだと呆れるばかりです。 関連して、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」の「おまけ」の項及びホームページ5-3「レーニンの大切な考え」の後半部分「レーニンが生きた時代の特殊性から学ぶ」の部分を、是非、参照して下さい。

失望と期待の入り交じった導入のページ

 不破さんは、新聞「赤旗」のページの約3/4を使い「『資本論』刊行150年に寄せて」という連載の初回を書き、その大事な導入のページの3/4強のスペースを使って、マルクスが150年前に刊行された『資本論』で、この社会を「資本主義」と命名し、それが世界語になったこと、だから今年は「記念すべき年としてよいのではないでしょうか」と述べます。

 しかし、待って下さい。「導入」として、マルクスがこの社会を「資本主義」と命名し、それが世界語になったことを不破さんが述べるのになんの異論もありませんが、今年が「記念すべき年」なのは『資本論』が刊行されて150年という年だからであって、マルクスがこの社会を「資本主義」と命名したからではありません。「『資本論』を通じてマルクス・エンゲルスが私たちに伝えたかったこと」で、不破さんが寄稿の中で取り上げたことに関して、マルクス・エンゲルスが『資本論』を通じて私たちに伝えたことのおおまかな内容を述べさせていただきましたが、不破さんは、『資本論』刊行のもつ意義をしっかり語る義務があります。これでは、割烹に行って「刺身」を注文したら「ツマ」だけ出てきて、その「うんちく」を聞かされているようなものです。これでは「失望」としか言いようがないでしょう。

 次に、「導入」の文章の「21世紀の資本主義の前途は?」と題したパラグラフも、無責任と言えば無責任ですが、不破さんらしい文章と言えば不破さんらしい文章です。なにしろ不破さんは、自分の提起したテーマに答えなくても気になどするような神経の細い人物ではありません。なにしろ、不破さんは、『前衛』2015年4-5月号の「社会変革の主体的条件を探究する」という「論文」でも、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と、社会変革の客観的条件をまったく探究できないことを告白しつつ、「明けない夜はない」、「谷があれば山もある」という革命的楽天主義で武装された「社会変革の主体的条件」の「探究」に挑み、誰でも知っている抽象的で大雑把な結論の「探究」がなされます。(詳しくは、ホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。)

 このように、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と言う不破さんに「21世紀の資本主義の前途」を語ることなど出来るはずがありません。だから「前途は?」と「?」が付くのでしょう。実に正直です。しかし、不破さんのトリックのうまいところは、「ブルジョア経済学の目でも資本主義が現状のままで存続しつづけるとはいえない、今日の事態の重大さ」などと言って、あたかも、「21世紀の資本主義の前途」について不破さんが何か語っているかのような印象を与えることです。

 そして最後に、「この連載では」、「世界の資本主義の現状」、「今日の世界の現状」を「探ってゆきたいと思います。(つづく)」と述べて、私たちに「期待」を持たせて、文章を結びます。ここまで見てきただけでも、なかなか「期待」は持てそうにないと思うのが正常な感覚ですが、不破さんは私たちを裏切りません。不破さんは、「世界の資本主義の現状」についてはまったく触れず、「今日の世界の現状」については経済などそっちのけで、出てくるのは、「大国と小国の序列のない新しい世界秩序に向かって、大きく足を踏み出しつつあります」というマルクス・レーニン主義=科学的社会主義の思想とはまったく無縁な、「大国」と「小国」との「序列」に係わる問題だけです。

 このように、結論を先に明かしてしまうと面白くないと思う方もいるかもしれませんが、それは大きな間違いです。いっけん正しそうなことを言っているの不破さんなのか、私なのか、是非、このページを読み進んで正しいジャッジをして下さい。

マルクスの資本主義批判の輝きを消してしまった

②「現代に光るマルクスの資本主義批判(1)」

「警告」は改善の余地があるとき行うもの

 不破さんは、冒頭で、『資本論』から「資本主義社会では、社会的理性はいつも祭りが終わってからはたらく」( 社会的理性が事後になってからはじめて発現するのを常とする資本主義社会(大月版『資本論』③P385参照))という言葉を引用して、「これは、利潤第一主義を行動の原理とする資本主義社会が、経済を管理する理性的な力をもたないことを、痛烈な言葉で指摘したマルクスの警告です」と、「警告」というワードを削除すれば、一応まともなことを言っています。

しかし、そのあとがまずい。

 不破さんは、この文章のもつ革命的な意味を語ることなく、「この批判は、……資本主義の体質に向けられた言葉ですが、21世紀を迎えた今日、マルクスの警告は、いちだんと深刻な意味をもってきています」として、「原発問題」と「地球温暖化問題」を「社会的理性」が問われる「問題」として取り上げ、米国のトランプ政権と日本を「社会的理性」を放棄した国として非難します。

 このように、不破さんの「現代に光るマルクスの資本主義批判(1)」は、マルクスの資本主義的生産様式のもつ矛盾の告発の文章を、「資本主義社会の体質」への「警告」の文章に変え、資本主義的生産様式のもつ矛盾の問題を米国のトランプ政権と日本が「社会的理性」を放棄している問題にすり替えてしまいます。ここに不破さんの科学的社会主義の思想からの「背教者」としての姿がよく現れています。

不破さんが引用した冒頭の言葉のもつ意味

 不破さんの引用した冒頭の言葉は、このページの冒頭の「『資本論』を通じてマルクス・エンゲルスが私たちに伝えたかったこと」を前提として、マルクスの次のような考えに基づくものです。つまり、資本主義的生産様式の社会は、商品生産が一般化し、「恐慌」を含む景気循環を引き起こすまでに生産が社会化されているにもかかわらず、新しい生産様式の社会と違って、無計画な「社会的理性」をもたない私的生産の社会であり、神の手などない社会であること。だから、社会的理性が事後にはたらくことのない、社会化された生産に対応した社会システムをつくる必要がある、ということ。これが、不破さんが引用した冒頭の言葉に込められた、本当の意味です。是非、原典にあたって確認して下さい

科学的社会主義の思想から遠い不破さん

 だから、不破さんが科学的社会主義の思想の持ち主であるならば、「資本主義社会の体質」への「警告」として、資本主義社会の基でも解決可能な「原発問題」や「地球温暖化問題」を出すのではなく、現代の資本主義社会の矛盾の現れをしっかりと?み、現代の資本主義社会が示す資本主義社会では解決できない矛盾の現れを指摘しなければなりません。それは、独占資本が社会を支配する力がますます強くなる中で、「社会的理性」をもたない現代のグローバル資本による「産業の空洞化」が進行し、日本国民にとって深刻な「危機」が進行していること、そのことを曝露し、そのことに警鐘をならし、グローバル資本の無謀な行動を規制して〝国民の新しい共同社会〟をつくることの必要性・必然性を述べることです。そうしてこそ、「現代に光るマルクスの資本主義批判」というフレーズは意味をもちます。

 不破さんには、マルクスの冒頭の言葉をそのように学んでいただきたかったと思います。しかし不破さんは、「原発問題」と「地球温暖化問題」という、資本主義的生産様式から必然的に発生する問題ではない、だから資本主義的生産様式のもとでも解決可能な問題(=その場しのぎの儲けを増やすための手段の問題)に話を矮小化して、「資本主義的生産様式の社会」と〝国民の新しい共同社会〟との違いから『赤旗』読者の目をそらせてしまいました。自分が生きのびるための「その場しのぎ」も資本主義の特徴であり、『資本論』にも資本主義社会のその場しのぎの無責任さを現す言葉として「われ亡きあとに洪水はきたれ!」(大月版 ① P353)という言葉が出てきますが、マルクスの冒頭の言葉はそのことを指摘しているのではありません。

 なお、「原発問題」と「地球温暖化問題」に関する不破さんの珍論については、ホームページ「不破さんの思い違い」→4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」と4-11「☆不破さんは「資本主義の矛盾」を「利潤第一主義」に変え、社会主義革命を「資本主義の害悪」の改善に変えようとするのか」を、是非、参照して下さい。

以上を踏まえ、このページを読み進めるうえでの参考について

 不破さんはなぜこのようなマルクスの考えの歪曲を行うのか。それは、このページの展開を通じて、不破さん自身によって、明らかにされますが、不破さんの書いた文章を理解するうえで助けとなる不破さんの根本思想の一つを紹介します。

 私たちは資本主義の矛盾の根源を資本主義的生産様式にあると考えていますが、不破さんは、資本主義の諸悪の根源は「利潤第一主義」にあると思っています。そして、とにかく、「利潤第一主義」さえ抑えれば資本主義は発展すると思っています。だから、国民の所得が増えれば経済の好循環が実現し、一定の経済成長が可能で、日本経済は良くなるといいます。不破さんはこのような考えをもっています。

 この不破さんのもつ特質を理解したうえで、不破さんの書いた文章を読むと不破さんの文章に対する理解が一層深まると思います。なお、不破さんの書いた文章を読むときは、必ず、引用文等の原典にあたるように心がけて下さい。

 より詳しく不破さんの根本思想を知りたいとお思いの方は、是非、ホームページ「不破さんの思い違い」→4-23「 総括1 不破さんの「批判」の方法と思想」、4-24「総括2マルクス・エンゲルス・レーニンへの誹謗中傷から現れる不破哲三氏の革命論」及び4-25「総括3 マルクス・エンゲルス・レーニンへの誹謗中傷から現れる不破哲三氏の資本主義社会のとらえ方」をお読み下さい。

 不破さんはなぜこのようなマルクスの考えの歪曲を行うのか。それは、このページの展開を通じて、不破さん自身によって、明らかにされますが、不破さんの書いた文章を理解するうえで助けとなる不破さんの根本思想の一つを紹介します。
 私たちは資本主義の矛盾の根源を資本主義的生産様式にあると考えていますが、不破さんは、資本主義の諸悪の根源は「利潤第一主義」にあると思っています。そして、とにかく、「利潤第一主義」さえ抑えれば資本主義は発展すると思っています。だから、国民の所得が増えれば経済の好循環が実現し、一定の経済成長が可能で、日本経済は良くなるといいます。不破さんはこのような考えをもっています。
 この不破さんのもつ特質を理解したうえで、不破さんの書いた文章を読むと不破さんの文章に対する理解が一層深まると思います。なお、不破さんの書いた文章を読むときは、引用文等の原典に必ずあたるよう心がけて下さい。
 より詳しく不破さんの根本思想を知りたいとお思いの方は、是非、ホームページ「不破さんの思い違い」→4-23「 総括1 不破さんの「批判」の方法と思想」、4-24「総括2マルクス・エンゲルス・レーニンへの誹謗中傷から現れる不破哲三氏の革命論」及び4-25「総括3 マルクス・エンゲルス・レーニンへの誹謗中傷から現れる不破哲三氏の資本主義社会のとらえ方」をお読み下さい。

③「現代に光るマルクスの資本主義批判(2)」にみる

「二つの歴史的教訓」のマルクスと不破さんの差

「現代に光るマルクスの資本主義批判(2)」での不破さんの主張

 ③「現代に光るマルクスの資本主義批判(2)」で不破さんは、『資本論』の「労働日」の章でマルクスが「社会的障害物」を勝ち取ることの重要性を述べていることを指摘し、「21世紀の今日なお有効な、二つの歴史的教訓をひきだしました」といい、その後の「社会的ルール」の世界的な前進とそれらが進展した時期の立ち遅れた「日本の状態」を述べ、最後に、「この立ち遅れの克服こそ、日本社会が担っている大きな課題だということを強調したい、と思います。」と述べて、③の文章を結んでいます。

 また、『前衛』(2013年12月号)の座談会で司会役の山口さんは「(不破さんは、──青山が挿入)資本主義世界でも異常な日本社会の状態を打開して、社会的バリケードをかちとり、「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の「肉体的および精神的再生」であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだということを強調して、講義を終わります。……『賃金、価格および利潤』を読む中で、この呼びかけのところまで現代的には行き着くのだなと思いました」と述べています。

 つまり、不破さんは、立ち遅れを克服して、「社会的バリケード」をかちとり、「ルールある資本主義社会」へ道を開いてゆくことが、日本の勤労人民の肉体的および精神的再生であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だというのです。

『資本論』と『賃金、価格、利潤』でマルクスが私たちに教えていること

 マルクスは『資本論』の「労働日」の章と『賃金、価格、利潤』で、「労働日」をめぐる闘いは労働者の作りだした剰余価値をめぐっての“形を変えた”階級間の争いであり、だから、労働者の団結した闘いが必要であること、「最初の工場法の制定以来、今ではすでに半世紀が流れ去って」やっと労働者を守る「超強力な社会的障害物」を勝ち取ることができたこと、「社会的障害物」を強要する闘いについて、「もろもろの結果とたたかいはしているが、それらの結果の原因とたたかっているのではない」ことを述べ、資本の本質をしっかり?み、労働者の団結の重要性と団結した力で要求を実現することの重要性を述べるとともに、労働運動が「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとはせず、その組織された力を労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に失敗する」と述べ、労働者の団結を組織して資本主義的な生産関係を変えることこそが、問題の真の解決の道であることを教えています。

不破さんとマルクスの違い

 不破さんは「社会的バリケード」をかちとり、「ルールある資本主義社会」へ道を開いてゆくことが、日本の勤労人民の肉体的および精神的再生であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだといいます。しかし、「ルールある資本主義社会」が「日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道」だなどということは、「奴隷制を基礎としながら自由」(『賃金、価格、利潤』同前P54)を保障するのと同じことです。マルクスは、そんな戦いは「全面的に失敗する」と言っているのです。だから、不破さんの言う「社会的バリケード」とマルクスのいう「社会的障害物」の位置づけは180度異なります。

 不破さんはマルクスを歪曲し、労働者が団結して「工場法」を資本の横暴を妨げる「超強力な社会的障害物」として「強要」することの意義をミスリードしています。

マルクスと不破さんの「二つの歴史的教訓」の見方の差

  不破さんは、労・資の抗争の「二つの歴史的教訓」として、①「資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わない」②だから、労働者は「自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない」というのが「21世紀の今日なお有効な、二つの歴史的教訓」だと言います。

 私たちは、①「資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わない」ので、労働者は「自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない」②しかし、労働運動がこのような「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとはせず、その組織された力を労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に失敗する」ということをマルクスは『資本論』の「労働日」の章と『賃金、価格、利潤』を通じて私たちに教えた、これこそが「21世紀の今日なお有効な、二つの歴史的教訓」だと思う。

 このように、②「現代に光るマルクスの資本主義批判(1)」に続き今回も、不破さんの眼中には資本主義的生産様式などない。その不破さんが「『資本論』刊行150年に寄せて」マルクスを語っている。なんとも、不思議な話だ。

 なお、不破さんの「社会的バリケード」に関する謬論の詳しい説明は、4-2「不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない」を、是非、参照して下さい。また、4-1「不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えている」及び4-20「「社会変革の主体的条件を探究する」という看板をかかげて不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」にも関連した記述がありますので、是非、参照して下さい。

④「現代に光るマルクスの資本主義批判(3)」にみる

不破さんの大発見と大転落

不破さんの言うマルクスの「大発見」なるものが、なぜ、不破さんの資本主義観に結びつくのか

 ④「現代に光るマルクスの資本主義批判(3)」で不破さんは要旨次のようなことを述べています。

 不破さんは、①「生産と消費の矛盾と言っても、市場経済は、そのバランスが崩れたらすぐそれを直す調節作用を持っているはずです」と、とんでもないことを言い、②マルクスは1857年から7年半の間、「まったく間違った道──利潤率低下の法則の発動によって恐慌の運動法則を説明しようという、誤った道」に立っていたと言います。そして、不破さんは、③1865年に『資本論』第二部の「資本の循環」を書いているとき、マルクスは、商人資本が「再生産過程を、現実の需要から離れた『架空の軌道』に導き、生産と消費の矛盾を恐慌の激発にまで深化させるという、資本主義独自の運動形態を生みだす」という「大発見」をしたと言います。

 その結果、「この発見は、恐慌問題にとどまらず、?資本主義の現段階の見方から、?社会変革の理論のとらえ方、さらには、?『資本論』そのものの構想の立て方にまで影響を及ぼ」したそうです。

 そして最後に、この恐慌論の到達点は、『資本論』の第4編第18章で読むことができるので、「ぜひ、目を通していただきたいと思います」と述べて、「現代に光るマルクスの資本主義批判(3)」を結んでいます。

 以上が不破さんが「現代に光るマルクスの資本主義批判(3)」で述べていることです。

 ここで不破さんが述べていることの真偽は別としても、「マルクスの資本主義批判」が、何がどう「現代に光」っているのかさっぱり分かりません。マルクスの「大発見」なるものが、なぜ、不破さんの資本主義観に結びつくのか、さっぱり分かりません。マルクスが「大発見」したという「資本の現象的な流通形態から恐慌を説明する」だけなら、科学的社会主義の思想を持っていなくても、いまの日本で経済学者といわれる者なら誰でもできることです。この文章で「光」っているのはマルクスではありません。あるのは、マルクスが8年もかけて「資本の現象的な流通形態から恐慌を説明すること」を「大発見」したなどという偽の「大発見」を不破さんが「大発見」し、それを根拠(?)に不破さんのニセ「科学的社会主義」をマルクスの「光」を使って「光」らせようとする試みだけです。

不破さんの「大発見」の中身とは

 私は、前の文章で「マルクス」が「大発見」したと「不破さん」が「大発見」したことを述べましたが、不破さんが言っていることの真偽を確かめる前に、不破さんの主張のあら筋を過去の『前衛』での発言から見てみましょう。

 不破さんは『前衛』2013年12月号で、マルクスは、これまで、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるもの」と思っていたが、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がなく、資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」と、資本主義観の大転換をしたことにより、「ここでは、もう資本主義の見方も、革命の見方も変わっているのです。その立場から、労働者の運動が資本主義を変革する運動に発展する道筋についても、そういう闘争を積み重ねるなかでの労働者の自覚の成長・発展を軸に社会変革が日程にのぼってくるという新しい見方が、短い言葉できちんと説明されています」(P98)と述べています。

 つまり、マルクスは「恐慌」の見方が変わり、①恐慌は、「資本主義が循環的に運動してゆく一局面」であり、「資本主義の危機」を深めるわけではなく、「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」、②「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるもの」と思っていたが、「そういう闘争を積み重ねるなかでの労働者の自覚の成長・発展を軸に社会変革が日程にのぼってくる」と革命の見方が変わったと言います。なお、不破さんの著書の宣伝によく付き合わされ、不破さんの考えの真髄を学んでいる石川康宏氏は、この考えを発展させて、マルクスは「労働者の闘いの前進を」、「より巨大な資本主義の発展をもたらす要因としてとらえました」とまで言っています。

 そして、不破さんが「ぜひ、目を通していただきたいと思います」と言った第4編第18章とは、「第4編 商人資本 第18章 商人資本の回転 価格」というタイトルの付いた章で、内容はタイトルのとおり、商人資本の回転と価格の関連について述べています。

 具体的には、販売価格はこの商品に対象化された労働の総量に規定され、商人資本の利潤量は商人資本の大きさが与えられていればその一般的年間利潤率によって規定される。だから各商品には一般的年間利潤率を商人資本の回転速度で割った額が各商品の商人資本の利潤量として付け加えられる。ただし、この平均的「回転速度」よりも個々の商人や小売業者の「回転速度」が速ければ、彼らは超過利潤をあげることができる。

 これがこの章の本題ですが、その導入として、商人資本の回転の条件(①商人資本は直接には生産期間に作用しないが、産業資本の回転期間にとっての制限となり、これにより商人資本の回転にとって制限となること②「再生産的消費によって設けられる限界を別とすれば、この回転は総個人的消費の速度と範囲によって制限されている」こと)を述べます。関連して、商人資本は生産的資本から「すでに買ったものを最終的に売ってしまわないうちに、自分の買い入れを繰り返すこと」によって、「ある仮想的な需要がつくりだされる」ことを述べ、資本主義的生産様式の持つ「内的な依存性(②を含む──青山の注)、外的な独立性は、商人資本を追い立てて、内的な関連が暴力的に、恐慌によって、回復されるような点まで行かせるのである。 だからこそ、恐慌がまず出現し爆発するのは、直接的消費に関係する小売業ではなく、卸売業やそれに社会の貨幣資本を用立てる銀行業の部面だという恐慌現象が生じるのである」(大月版④P380)と述べています。

 不破さんが「目を通していただきたい」というのは、上記の「関連して、」以下の部分だと思います。私は、不破さんには、『資本論』のこの文章から、信用や商業が恐慌の可能性を拡大させ恐慌をより一層深刻なものにさせるという、「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明すること」(『前衛』2015年1月号)だけでなく、不破さん自身がこの文章で枕詞のようにつけた「生産と消費の矛盾を恐慌の激発にまで深化させる」という言葉の意味について、商人資本の回転の条件(特に②)や資本主義的生産様式の持つ「内的な依存性」について、「目を通す」だけでなく、熟考していただきたかった思っています。

天にツバはく不破さんの自慢話

 若干わき道にそれますが、「マルクスの発見」を不破さんが〝発見〟する経緯と、それに関連して、不破さんがおこなったレーニンにたいする「珍妙」な評価について述べさせていただきます。

 『前衛』(2015年1月、2月号)の「マルクスの恐慌論を追跡する」の中で、不破さんは「かなり以前から、これまで〝これがマルクスの恐慌論だ〟として説明されている〝恐慌論〟について、どこかに理論的な欠落があるのでは、という違和感を持ち続けていました」といいます。「どこかに理論的な欠落があるのでは」という違和感とは、いささか薄弱な思想の持ち主の、つきつめて考えようとしない態度のように思われ、多くのまじめな党員がそういう人の書いた文章を真剣に読んでいたのかと思うとなんとも気の毒です。

 それはさておき、不破さんは、『レーニンと「資本論」』(1998-2001年)を書き終えて、『資本論』の「草稿の全体を読む仕事を始め」、第二部第一草稿で「マルクスの発見」のヒントを発見し、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたとのことです。不破さんは、「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明すること」から、信用や商業が恐慌の可能性を拡大させ恐慌をより一層深刻なものにさせることを知った(21世紀になってこんなことを知るとは、ずいぶん大器晩成です。)ことが、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたと言います。

 不破さんは、『レーニンと「資本論」』の執筆当時、「恐慌論解決のヒント」を求めて勉強したときは気付かなかったが、「最近」、レーニンが20代のとき書いた『ロシアにおける資本主義の発展』に「『資本論』全体のなかで恐慌論を代表する文章」が入っていることに最近気づいたそうです。(レーニンは19世紀に引用し、不破さんはそれを見て21世紀にやっと気づいた。やはり、大器晩成です!! 同時に、私は不破さんの『レーニンと「資本論」』を読んでいませんが、「激しい理論的衝撃」を受けるまえの『資本論』のまったく違った解釈をしていた、レーニンをよく読みこなせなかった不破さんがもっともらしく書いた『レーニンと「資本論」』には一体どんな内容が書かれていたのか、宣伝に乗って買わされてしまった人は何を学んだのか、心配でなりません。)

 不破さんは、10年以上前に『レーニンと「資本論」』を書くに当たって「恐慌論解決のヒント」を求めてレーニンを勉強したときには気づかなかった「発見」を、「大発見」かどうかは別として、「最近」気づいたという。その不破さんが、レーニンが不破さんのように、それが「大発見」であることに「気づかなかった」と、「気づいた」自分の偉大さを誇示しています。不破さんは、自分の感度の鈍さを棚に上げて、レーニンが不破さんのような「大発見」などという認識を持っていなかったことを、レーニンは「気づかなかった」と中傷します。

 しかし、不破さんが最近気づいたという文章は、レーニンにとっては当然のことで「大発見」でもなんでもないし、レーニンは他人の考えを歪曲して自分を誇示することを旨とする人間ではないから、不破さんのように「大発見」して「激しい理論的衝撃」を受けたなどと大騒ぎをしなかっただけのことです。不破さんらしいと言えば不破さんらしいが、一般的には、こういうのを天にツバする行為というのではないでしょうか。

不破さんは深い思慮をもって、レーニン全集をもう少し先まで読み進めるべきだった

 この時、不破さんはレーニン全集の第三巻の32ページまで読んだのなら、あと二ページ、10年以上前と同じように「眼を通す」のではなく、熟読すべきでした。

 そうすれば、「それ(生産の発展──青山の注)に照応する消費の拡大のないこの生産の拡大こそ、資本主義の歴史的使命とその固有の社会的構造とに照応している」ことを知り、「マルクスの行った実現の分析は、『不変資本と不変資本とのあいだの流通が、……終極においては個人的消費によって制限されている』〔『資本論』第三巻336ページ〕ことをしめした」だけでなく、「この同じ分析は、この『制限』の真の性格をしめし、国内市場の形成においては消費資料が生産手段にくらべてより小さな役割しか演じないことを、しめした」ことが書かれていることが理解できたはずです。加えて現代の日本で、資本は、「消費資料」の不足を海外で補うだけでなく、海外での低賃金を利用して一層の利益をえるためにグローバル展開している。そのことに思いを巡らすことができるならば、そうすれば、もしかしたら不破さんは、もう一度「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きて、〝産業の空洞化〟が日本経済にもたらす意味も理解でき、「大企業の内部留保の1%を賃金にまわせば、日本経済は回復する」などというバカな主張を共産党と全労連にさせていることを撤回させようと考えようになったかもしれません。

今日の資本主義的生産様式における「景気循環」の特徴

 不破さんの主張の検証のまえに、恐慌について、資本主義経済の進展について見てみましょう。

 エンゲルスは恐慌を「社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾」の暴力的な爆発として、資本主義的生産様式が生産手段の膨張力にはめた束縛を爆破する行為として見ていました。資本は、資本主義的生産様式がもつ「生産と消費の矛盾」という絶対に逃れられない矛盾から逃れようと悪あがきします。だから、資本主義にひれ伏す竹中平蔵氏は、経済学の仕事は需要をつくることだなどと言う。もちろん、その「需要」とは、資本が利益を上げられるものでなければならない。「需要」があれば、「バブル」で結果がどうなろうが、知ったことではありません。「需要」はどうしてつくられるのか。マルクスが『資本論』を書いた時代は一般的に生産と販売は分離しており、商人資本は生産的資本から「すでに買ったものを最終的に売ってしまわないうちに、自分の買い入れを繰り返すこと」によって、「ある仮想的な需要がつくりだされる」ことが一般的でした。だから、恐慌を「資本の現象的な流通形態から説明する」ことが意味を持っていました。しかし現代のグローバル資本は生産から販売までの商品の流れをほぼ完全につかみ、コントロールしています。だから、生産と販売の分離による「仮想的な需要」に起因する恐慌の可能性は極めて少ないといえます。今日、「仮想的」な経済の拡大をもたらす「槓杆」は、景気拡大期の楽天性にともなう「時価会計」と「資産デフレ」とそれらを活用した「金融商品」です。「時価会計」を利用しての錬金術の典型は「エンロン事件」であり、「資産デフレ」を利用しての錬金術の典型は「サブプライムローン」で、「サブプライムローン」を構成要素とする「金融商品」が破綻したのが、リーマン・ショックです。これらを踏まえて、今日の資本主義的生産様式における経済の「景気循環」を見ると、概ね次のようになります。

 今日の資本主義的生産様式の社会も、生産力が社会の必要を満たすように有効に使われず、生産の無政府性と資本の自由な移動がおこなわれることによって、経済は山あり谷ありの景気の循環をもって進行しています。その「循環」の起点となるのは景気後退後の減価された生産手段と安くなった労働力を使っての実物経済の動きで、実物経済の動きに合わせ、実物経済の動きに遅行して利子が変動します。利子の変動に遅行して土地・株式等の投機的商品の価格が変動します。この過程で、竹中平蔵氏のような人たちがどうしたら経済を膨らませることができるか、その中で自分が儲けることができるか、一生懸命知恵をしぼります。そして、一般的に、投機的商品が何らかのきっかけで暴落するバブル崩壊で景気循環は一巡します。が、その根底にあるのは実物経済での生産に対する消費の過小と利潤率の低下です。利潤率はバブル崩壊によって回復しますが、景気循環を繰り返すなかで傾向的に低下し、それに伴って経済成長率も低下していきます。

 これが、今日の「概ね」の「景気循環」の姿です。

 リーマン・ショックを中心とする世界経済危機について、景気の循環過程の商人資本の行動に係わる「架空の需要」しか頭にない不破さんは、『前衛』(2015年2月号)で、「架空の需要」が恐慌を生み出したこと、金融資産の規模が167兆ドルにのぼることを述べたあと、「この経済危機は、文字通り、『過剰生産恐慌と金融危機の結合』だったのです」と、「現在の経済現象」を見ていること述べます。しかし、不破さんは、なぜ世界の「金融資産の規模が167兆ドル」になっているのかの説明も、「過剰生産恐慌と金融危機の結合」の因果関係の説明も、なにもしません。

 不破さんの言う2008年「恐慌」で明るみに出たのは、かつての様な「過剰生産」ではありません。この点だけからも、不破さんの『資本論』第4編第18章の「教条主義」的な読みかたは間違っています。

不破さんの主張の検証

①不破さんの、恐慌は、「資本主義が循環的に運動してゆく一局面」であり、「資本主義の危機」を深めるわけではなく、「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」という見方について

マルクスとエンゲルスは、恐慌を労働者の団結と社会主義社会への物質的基礎を一歩一歩準備するものと考えていた

 マルクスもエンゲルスも、恐慌は「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点」となるとともに、労働者の団結と社会主義社会への物質的基礎を一歩一歩準備するものと考えていました。マルクスもエンゲルスも、この「資本主義の見方」を変えたことはありませんでした。

 不破さんとマルクス・エンゲルスとの違いは、マルクスとエンゲルスは、「恐慌」を単なる「資本主義が循環的に運動してゆく一局面」と見るのではなく、資本主義の矛盾の現れと見ている点です。だから、「恐慌」は労働者の団結と社会主義社会への物質的基礎を一歩一歩準備し、「資本主義の危機」を深め、革命の「槓杆」となりうることを主張しました。それを不破さんは、マルクスの『恐慌=革命』説なるものにでっち上げます。

 そして、不破さんの言う「恐慌の運動論」なるものは、資本主義的生産様式がもつ諸矛盾の「恐慌」との内的関連が無視され、生産を拡大すればするほど「利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本──そして新たに形成される資本の若枝はつねにこれである──の過多」(『資本論』 大月版④ P314)が顕在化することなど「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ重要な意義は葬り去られ、「恐慌」を通じてあらわれる資本主義的生産様式がもつ致命的な欠陥の曝露は曖昧にされます。なお、剰余価値の発見によって証明された「利潤率の傾向的低下の法則」は、日本における「資本主義的生産の役割の終了」を国民に曝露し説明するための、ブルジョア経済学者も認める、重要な武器です。

 不破さんは、『資本論』第4編第18章から狭い一面的な「架空の需要=恐慌」説を導きだし、そこから現代の経済現象を説明し、「生産と消費の矛盾」の原因(=資本主義的生産様式)を忘れ、大企業の内部留保の一部を使えば経済成長ができるといいます。不破さんは、マルクスの言う、労賃が増加すれば恐慌がなくなると考える「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」への転落の道へ、党員を導こうとしているかのようです。

②不破さんは、マルクスは「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるもの」と思っていたが、「そういう闘争を積み重ねるなかでの労働者の自覚の成長・発展を軸に社会変革が日程にのぼってくる」と革命の見方が変わったという

マルクス・エンゲルス・レーニンと不破さんとの革命の見方の差

 マルクスとエンゲルスは、労働者の闘争の本当の成果は労働者のますます広がっていく団結であることを『共産党宣言』(1847年)で訴えています。空想的社会主義を乗り越え、無政府主義者とも闘ったマルクスとエンゲルスは、労働者階級の歴史的使命を発見し、私たちに革命を組織することを訴え続けました。だから、マルクスが「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるもの」と思っていたなどいう不破さんの主張は真っ赤なウソです。私たちもマルクス・エンゲルスから、それを学び、不破さんが「激しい理論的衝撃」を受けるずーと前から、そのように考えていました。

 次に、「そういう闘争を積み重ねるなかでの労働者の自覚の成長・発展を軸に社会変革が日程にのぼってくる」と不破さんが言う「闘争」と「革命」の、不破さんとマルクス・エンゲルス・レーニンとの見方のちがいを見てみましょう。

マルクス・エンゲルス・レーニンと不破さんとの「そういう闘争」の見方のちがい

 不破さんは、大企業の内部留保の一部を使って賃上げを行えば経済成長ができると言います。マルクス・エンゲルス・レーニンは、そんな戦いだけをしていたら敗北するといいます。マルクス・エンゲルス・レーニンは、資本主義的生産様式のもつ矛盾の現れを全面的に曝露し資本主義的生産様式を変える戦いと一体に現在の困難を変える戦いを提起します。不破さんは、資本主義的生産様式のもつ矛盾を超歴史的な「利潤第一主義」に還元し「利潤第一主義」に歯止めをかける「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だと言います。このように、「そういう闘争」の見方は、マルクス・エンゲルス・レーニンと不破さんとでは、まったく違います。「戦い方」と「目標」がまったく違うのです。

 詳しくはホームページ4-1「不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「『ルールある経済社会』へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えている」及び4-2「不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない」を参照して下さい。

 また、関連して、ホームページ4-3「『桎梏』についての不破さんの仰天思想」、4-6「不破さんは、エンゲルスが『取得形態という角度から生産関係をとらえている』とエンゲルスを曲解している」及び4-18「『人間の発達』は資本主義を社会主義に変え、生産力を発展させなければ保障されない」も、是非、参照して下さい。

マルクス・エンゲルス・レーニンと不破さんとの「革命の準備」の仕方のちがい

  まず、マルクス・エンゲルス・レーニンと不破さんとでは、「目標」が違います。マルクス・エンゲルス・レーニンは、「諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなった」社会、共産主義社会を目標としていますが、不破さんの目標とする「共産主義社会」は「指揮者はいるが支配者はいない」という社会です。この目標の違いは、「戦い方」と「組織のあり方」の違いとなって現れます。マルクス・エンゲルス・レーニンの思想は国民一人ひとりが自覚的に行動するための〝助産婦〟の思想ですが、不破さんの思想は「指揮者」が〝請負人〟として活躍する思想です。マルクス・エンゲルス・レーニンの思想にもとづく「戦い方」は、国民一人ひとりが自覚的に行動できるようになるための国民一人ひとりへの教育・宣伝が基礎となりますが、不破さんの思想にもとづく「戦い方」は、幹部が政策パンフを持って他の団体の幹部に理解を求め、党員が電話で、風を頼りに、請け負う政策の支持を訴えることが基本となります。マルクス・エンゲルス・レーニンの思想には〝by the people 〟の思想が中心にありますが、不破さんの思想には〝by the people 〟の思想がありません。レーニンは、「全人民の民主主義的管理を組織する」社会を目指しますが、不破さんは「指揮者はいるが支配者はいない」社会を目指します。

 このように、マルクス・エンゲルス・レーニンと不破さんとでは、「目標」も「革命の準備」の仕方も、全く、違います。

 詳しくは、ホームページ4-12「不破さんによるレーニンの『記帳と統制』の概念の歪曲」及び4-13「レーニンの資本主義観、社会主義経済建設の取り組み、革命論への、反共三文文筆家のような歪曲と嘲笑、これでもコミュニストか」ホームページ3-2-2「民主主義を貫く党運営と闊達な議論の場の設定を」、3-2-3「党支部は、党を作り、草の根から民主主義を組織するよりどころ」、3-2-5「前衛党が輝くとき」及び3-2-6「〝前衛党〟は市民革命の助産婦に徹しよう」を参照して下さい。

『資本論』にかこつけた不破さんのトリックにはまらないようにしよう

 このように、マルクスもエンゲルスも「資本主義の見方も、革命の見方も」変わっていません。そして、マルクスは不破さんが取り上げたこの章のなかで、「目に見える単に現象的な運動を内的な現実の運動に還元することが科学の仕事だ」と述べています。私たちが『資本論』を学ぶ意義は、マルクスが「内的な現実の運動に還元」したことを基礎として、現代の資本の運動を理解し、資本主義的生産様式によって現れる現代の矛盾を明らかにし、資本主義的生産様式の廃止の力を形成していくことです。しかし不破さんの「現代に光るマルクスの資本主義批判(3)」のタイトルは、「恐慌の〝秘密〟を解く」ですが、不破さんは、「利潤率低下の法則」の資本主義的生産様式のなかで持つ重要な意義を切り捨て、「恐慌の運動法則」の全てを景気の循環過程の商人資本の行動に係わる「架空の需要」に求め、それを口実にマルクスの思想が大転換したといい、不破さんの作ったニセ「革命論」をこっそり持ち込もうとします。『資本論』にかこつけた不破さんのトリックにはまらないように気をつけましょう。 

 詳しくはホームページ4-19「不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった」を参照して下さい。

 また、関連して、ホームページ4-20「『社会変革の主体的条件を探究する』という看板をかかげて不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」も参照して下さい。

補論

「恐慌と革命」との関係の捉え方と「恐慌」の原因と結果についての捉え方のマルクス・エンゲルスと不破さんとの違いについて

これまで、不破さんの寄稿に沿って「恐慌と革命」に関して見てきましたが、「恐慌」の原因と結果についての捉え方と「恐慌と革命」との関係の捉え方についてのマルクス・エンゲルスと不破さんとの違いについて、あらためて、「補論」として、より詳しく、触れることが、問題の所在を明らかにするうえでより適切であると考え、重複する部分もありますが、追加掲載することといたしました。是非、お読み下さい。

マルクス・エンゲルスを歪曲する不破哲三氏

 不破さんは『前衛』2015年1月号で「恐慌と革命の相互作用によって資本主義社会の変革の時代が始まるのだ──これが、マルクス、エンゲルスが当時の革命経験から引き出した資本主義社会の『必然的没落』の理論でした。この見方を、『恐慌=革命』説と呼ぶことにします。」(P25)と述べ、「マルクスは、利潤率低下の法則のなかに資本主義の『必然的没落』の最大の根拠を求め、そのことを背景として恐慌が反復し、そこから『資本の強力的な転覆』をもたらす社会変革の過程が始まるという見方を、それまでの資本主義的生産の分析から引き出される決定的な結論として、展開したのでした。」と述べています。

  そしてこの不破さんの『恐慌=革命』説によれば、マルクスは1865年まで、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるもの」と思っていたと、『前衛』2013年12月号で述べられています。

 不破さんのこの主張の誤りを順を追って見てみましょう。

マルクスとエンゲルスは「恐慌と革命」との関係をどう捉えていたか

  まずはじめに、マルクスとエンゲルスは「恐慌と革命」の関係をどのように認識していたのか見てみましょう。

 マルクス=エンゲルスは『共産党宣言』で、生産諸力の発展の所有諸関係による妨げと近代の労働者の歴史的使命について、次のように述べています。

「だが、われわれは次のことを知った。すなわち、ブルジョア階級の成長の土台をなす生産手段や交通手段は、封建社会のなかで作られたということ。……

 われわれの眼のまえに、その同じ運動が進行している。……近代的生産諸関係に対する、ブルジョア階級とその支配の生存条件である所有諸関係に対する、近代的生産諸力の反逆の歴史である。……社会が自由にすることのできる生産諸力は、もはやブルジョア的文明およびブルジョア的所有関係の促進には役立たないのだ。反対に、生産諸力はこの関係にとってあまりに強大となってしまい、この関係(ブルジョア的所有関係──青山)によって阻止されるのだ。……──ブルジョア階級は恐慌を、何によって征服するか?一方では、一定量の生産諸力をむりに破壊することによって、他方では、新しい市場の獲得と古い市場のさらに徹底的な搾取によって。要するにどういうことか?要するに、もっと全面的な、もっと強大な恐慌の準備をするのである。そしてまた恐慌を予防する手段を減少させるのである。……

 だが、ブルジョア階級は、みずからに死をもたらす武器をきたえたばかりではない。かれらはまた、この武器を使う人々をも作り出した──近代的労働者、プロレタリアを。」(岩波文庫P46-48)と。

 マルクスとエンゲルスはここで「ブルジョア階級に死をもたらす武器」について述べていますが、ここでいう「ブルジョア階級に死をもたらす武器」とは、「近代的生産諸力」のことと見るのが一般的だと思いますが、たとえ「恐慌」のことを指すとしても、「武器」と言っているだけです。マルクスとエンゲルスは、かれらの生きた時代の資本主義的生産様式の矛盾の最大の現れである〝恐慌〟をリアルに捉え、〝恐慌〟を「征服」しようとしても、そのことによってますます矛盾が深まることを述べ、新しい社会を担うのが「近代的労働者」であること明らかにしてプロレタリアを鼓舞しています。

  また、その約10年後に書かれた『経済学批判要綱』(1857-8年)でマルクスは「……それゆえ生産力の最も高度の発展は、現存の富の最大の拡大のほかに、資本の減価、労働者の退廃、そしてその生命力の最もあからさまな消尽とも時を同じくするであろう。これらの諸矛盾の結果、爆発、大変動、恐慌にたちいたるが、そうしたときには、労働の一時的な停止と資本の大きな部分の破壊が生じることによって、資本は、その再起可能な点にまで強力的に引きもどされる。これらの諸矛盾の結果、もちろん爆発、恐慌にたちいたるが、そうしたときには、いっさいの労働の一時的な停止と資本の大きな部分の破壊が生じることによって、資本は、自滅することなく、その生産力を十分に稼働できるようにする点にまで強力的に引きもどされる。だが、これらの規則的に繰り返される破局の結果、より高い段階での破局の反復へ、そして最後には資本の強力的な転覆へとたちいたる。」(レキシコン⑦-[176] P359)と述べ、規則的に繰り返される破局が、労働者階級の団結を強め、最後には資本の強力的な転覆へとたちいたるという見通しを語っています。

 これらを踏まえて、エンゲルスはベルンシュタインあての手紙(1882年1月25-31日)で「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつであることは、すでに『共産党宣言』のなかにも述べられており、『新ライン新聞』の「評論」でも1848年までを含めて詳論されています。しかし同時にまた、そのあとの繁栄の回帰は革命を挫折させて反動の勝利を基礎づける、ということもそこに述べられています。」(レキシコン⑧-[279] P289)と述べています。このように、エンゲルスは、マルクスとエンゲルスが「恐慌」と「繁栄」の政治への影響について、「恐慌」は「政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」が「そのあとの繁栄の回帰は、革命を挫折させて反動の勝利を基礎づける」ものであると考えていたこと、その認識は、『共産党宣言』を書いた時から1882年に至るまで変わっていないことを述べています。

  このように、マルクスもエンゲルスも、一貫して、資本主義的生産様式のもとでの景気循環における〝恐慌〟のもつ役割・意義を明確に述べ「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と考えていました。しかしそれは、不破さんが「恐慌」と「革命」を「=」で結びつけて『恐慌=革命』説などとレッテルを貼って否定されるようなものではありません。

 なぜなら、当時、マルクスとエンゲルスが「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」と考えていたとしても、何の不思議もないからです。その理由は二つあります。一つは、当時の資本主義社会の発展段階、資本の蓄積段階からして、資本主義の危機を最も鮮明にあらわすものとして「恐慌」があったこと。もう一つは、マルクスも指摘しているように、危機に際して貨幣価値をまもることが第一に考えられ、危機を一層悪化させる政策をイングランド銀行がとるなど、「恐慌」がもたらす危機に対応したブルジョア経済学が存在していなかったことです。だから、当時のマルクスとエンゲルスは「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」と考えたのです。

 不破さんとその仲間たちは、その時々の資本の行動や国家の行動をその発展段階のなかで正しく見ることができません。歴史の発展のなかでの情勢判断を理解できません。だから、19世紀後半に生きたマルクスとエンゲルスが「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」だというと、間違いだといい、20世紀になってレーニンが当時の国家と資本との結びつきを「帝国主義」と捉え、資本主義の世界的な危機を告発すると、いまだに資本主義は健全だといって嘲笑します。そのくせ、20世紀から21世紀にかけて活動している不破さんたちは、「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ意義を忘れ去って、マルクスの「基本的矛盾」から「利潤第一主義」を抽出して、それ(利潤第一主義)を克服するために、「労賃が増加すれば経済はよくなる」と、マルクスのいう「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」(『資本論』第2巻 大月版 P505~506)に成り下がり、現在の資本の行動がもたらす深刻な矛盾の現れである「産業の空洞化」など見ようともせず、「地球温暖化」が「桎梏」だなどと、訳の分からないことを言います。当時、マルクスとエンゲルスが「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と考えていたのとは大違いです。

 なお、マルクスは1865年まで、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるもの」と思っていた、との不破さんのとんでもない主張は、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』をはじめ全ての著作で資本主義的生産様式の変革の必要性と団結した労働者階級の形成の必要性を訴えており、これらを訴えることが科学的社会主義の使命であると考えていた彼らの思想を全否定するもので、反論するのも馬鹿馬鹿しいかぎりです。

マルクスは何に資本主義の『必然的没落』の根拠を求めたのか

 『資本論』第一巻 第2分冊の「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月『資本論』② P995F6-9)というマルクスの言葉は有名です。

  マルクスとエンゲルスは、資本主義的生産様式のもとでの独占資本による「近代的生産諸力」の発展と団結した「近代的労働者」の形成を、資本主義の『必然的没落』の根拠とみていました。そしてマルクスとエンゲルスは、当時の資本主義的生産様式のもとでの最も鋭い矛盾の現れが〝恐慌〟であるからこそ「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」と認め、レーニンは当時の資本主義的生産様式のもとでの最も鋭い矛盾の現れを〝帝国主義戦争〟と表現し、資本主義的生産様式からの解放を訴え続けたのです。現代の資本主義的生産様式のもとでの最も鋭い矛盾の現れは、グローバル資本の引き起こす諸結果であり、先進資本主義国における「産業の空洞化」です

 ところで、「たいていが、生産物の分配どまり、経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心なことが出てこないのです」と「経済的土台の変化」に目を向けることを誹謗中傷する不破さんは、何に資本主義の『必然的没落』の根拠を求めるのだろうか。(関連して、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」と4-18「☆「人間の発達」は資本主義を社会主義に変え、生産力を発展させなければ保障されない〈階級社会の本質を曖昧にし、「生産物の分配の仕方」より「人間の発達」を重視する不破哲三氏〉」もご覧下さい。)

マルクスは「恐慌」をどう見て、不破さんは「恐慌」をどう見るのか

〈恐慌とはなにか、マルクス・エンゲルスの言葉を聞いてみよう〉

恐慌の可能性

○恐慌の可能性の二つの形態は恐慌の必然性をあたえるものではない

「恐慌の可能性の二つの形態」――①「購買と販売との分裂」②「支払い手段としての貨幣の機能」レキシコン⑥-[23] (マルクス『剰余価値学説史』Ⅱ)

○恐慌の可能性が現実性に発展しうる債権と債務、購買と販売の関連について

「資本主義的生産においては、…可能性が現実性に発展しうるところの、相互的な債権と債務との関連、購買と販売との関連を見いだすのである。」レキシコン⑥-[59](マルクス『剰余価値学説史』Ⅱ)

恐慌の現れ方

○現実の恐慌は競争と信用からのみ説明することができる

「現実の恐慌は、資本主義的生産の現実の運動、競争と信用からのみ説明することができる」レキシコン⑥-[42] (マルクス『剰余価値学説史』Ⅱ)

○全恐慌の現れ方と全恐慌の基礎、過程の転倒

「再生産過程の全関連が信用を基礎としているような生産体制のなかでは、急に信用が停止されて現金払いしか通用しなくなれば、明らかに、恐慌が、つまり支払手段を求めての殺到が、起こらざるをえない。だから、一見したところでは、全恐慌がただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現われるのである。……しかし、これらの手形の多くは現実の売買を表しているのであって、この売買が社会的な必要をはるかに超えて膨張することが結局は全恐慌の基礎になっているのである。……とにかく、ここではすべてがゆがんで現れるのである。なぜならば、この紙の世界ではどこにも実在の価格やその実在の諸契機は現れないのであって、ただ、地金や硬貨や銀行券や手形や有価証券が現れるだけだからである。ことに、国内の貨幣取引の全部が集中する中心地、たとえばロンドンでは、このような転倒が現れる。全課程がわけのわからないものになる。生産の中心地ではそれほどでもないのであるが。」〈『資本論』第3巻 第2分冊 大月版 ⑤ P598F8-600B7〉

恐慌の究極の根拠

○近代的過剰生産の基礎をなすもの

「古代人の場合は過剰生産はなかった」。「一方では必需品の範囲内に閉じ込められている生産者大衆を・他方では資本家の利潤による制限を・基礎とする、生産諸力の無制約的な発展、したがってまた大量生産、これこそが近代的過剰生産の基礎をなすものである。」レキシコン⑦-[106](マルクス『剰余価値学説史』Ⅱ)

○恐慌の究極の根拠(原因)

「労働者たちの消費能力は、一方では労賃の諸法則によって制限されており、また一方では、労働者は資本家階級のために利潤をあげるように充用されうるかぎりでしか充用されないということにとって制限されている。すべての現実の恐慌の究極の原因は、やはり、資本主義的生産の衝動に対比しての大衆の窮乏と消費制限なのであって、この衝動は、まるでただ社会の絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのように生産力を発展させようとするのである。」(大月『資本論』Ⅲ P618-619)

恐慌から資本主義的生産の「健全な」運動に対応する諸関係の回復

○繁栄が興奮に移行し、あらゆる種類の魅力ある泡沫企業への無謀な投機が始まる

「繁栄が興奮に移行し、一方では過度の輸入取引、他方ではあらゆる種類の魅力ある泡沫企業への無謀な投機が確実に始まる」、…「興奮は繁栄の絶頂なのだ。それが恐慌を生みだすわけではないが、恐慌勃発のきっかけをつくるのである。」レキシコン⑨-[346](マルクス『受救貧困と自由貿易──迫りくる経済恐慌』『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1852.11.1付)

○資本主義的生産の「健全な」運動に対応する諸関係が回復するのは

「では、どのようにしてこの衝突が再び解消して、資本主義的生産の「健全な」運動に 対応する諸関係が回復するであろうか?」「均衡は、大なり小なりの範囲での資本の遊休によって、または破滅によってさえも、回復する」「主要な破壊、しかも最も急激な性質のものは、価値属性をもつかぎりでの資本に関して、資本価値に関して、生ずるであろう。…金銀の現金の一部分は遊休し、資本として機能しない。…この攪乱や停滞は、…資本と同時に発展した信用制度の崩壊が生ずることによってさらに激化され、このようにして、激烈な急性的恐慌、突然のむりやりな減価、そして再生産過程の現実の停滞と攪乱、したがってまた再生産の現実の減少をひき起こすのである。」「生産の停滞は労働者階級の一部分を遊休させ、そうすることによってその就労部分を、平均以下にさえもの労賃引下げに甘んぜざるをえないような状態に置いたであろう。…繁栄期は労働者のあいだの結婚に幸いし、また子女の大量死亡を軽減したであろう。…価格低下と競争戦とはどの資本家にも刺激を与えて、…自分の総生産物の個別的価値をその一般的価値よりも低くしようとさせたであろう。…労働の生産力を高くし、不変資本にたいする可変資本の割合を低くし、…充用される不変資本の量は可変資本に比べて増大したであろうが、しかしこの不変資本量の価値は低下したかもしれない。そこに現れた生産の停滞は、後の生産拡大──資本主義的限界のなかでの──を準備したであろう。……資本の過剰生産というのは、資本として機能できる、すなわち与えられた搾取度での労働の搾取に充用できる生産手段──労働手段および生活手段──の過剰生産以外のなにものでもない。」〈『資本論』第3巻 第1分冊 大月版④ P317-320〉

恐慌とは何か

○恐慌の本質規定

「恐慌は、つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかない。」〈『資本論』第3巻 第1分冊 大月版 ④ P312B1-314F8〉

 より詳しくは、ホームページ→温故知新→マルクス・エンゲルスの大事な発見→F資本主義社会Ⅳ→19恐慌をご覧下さい。

〈マルクス・エンゲルスの言葉の抜粋のまとめ〉

  このように、恐慌は、資本主義生産に内在する矛盾=マルクスの「基本的矛盾」のあらわれである「生産と消費の矛盾」を究極の根拠(原因)とする資本主義的生産様式に特有なものですが、資本主義的生産様式は商品の価値「実現」を円滑にし一層の資本の蓄積を図るための信用の創造や産業資本と商業資本の分離・購買と販売との分裂により、恐慌の可能性と規模を拡大させ、その結果、全ての恐慌は、ただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現われる。

 市場の繁栄と興奮のなかで、「生産過程での消費」である生産手段の生産は、最終消費財の生産に比べて跛行的に拡大し、資本の有機的構成は高まり利潤率は低下するが、あらゆる種類の魅力ある泡沫企業への無謀な投機が始まり、すべての資本が我が世の春を謳歌する。この興奮の絶頂期に、あらゆることがきっかけとなって、信用恐慌・貨幣恐慌が突然あらわれる。生産過剰・資本の過剰(=現在の利潤率では利潤が確保できない状態)が突然表面化し、膨れあがった資産の収縮がはじまる。支払いの滞りの連鎖が起き、資金ショートした弱いものから恐慌の渦に飲み込まれ、生産の縮小の連鎖が起きる。

 恐慌が不変資本と可変資本の価値の減価と極端に下がった利潤率の上昇をもたらし、生き残った資本が生産過剰・資本の過剰の状態から脱して、後の生産拡大の準備を整え、攪乱された均衡が回復する。しかし、「恐慌は、つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかない」。

 これが私たちがマルクス・エンゲルスを通じて恐慌について学んだことです。

〈不破さんの言うマルクスの「恐慌」についての見方〉

 不破さんは「『資本論』刊行150年に寄せて」(『しんぶん赤旗』への2017年8月1日から14回の連載)の第4回「現代に光るマルクスの資本主義批判(3)」で、マルクスは1857年から7年半の間、「まったく間違った道──利潤率低下の法則の発動によって恐慌の運動法則を説明しようという、誤った道」に立っていたが、1865年に『資本論』第二部の「資本の循環」を書いているとき、商人資本が「再生産過程を、現実の需要から離れた『架空の軌道』に導き、生産と消費の矛盾を恐慌の激発にまで深化させるという、資本主義独自の運動形態を生みだす」という「大発見」をしたと言います。

 また、不破さんは『前衛』の2015年1月号と2月号の「マルクスの恐慌論を追跡する」という寄稿で、マルクスが「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明すること」から、信用や商業が恐慌の可能性を拡大させ恐慌をより一層深刻なものにさせることを知り、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたと言います。不破さんが21世紀になって発見したというマルクスの「恐慌の運動論」なるものは、資本主義的生産様式のもとで、生産の社会化の中での資本主義的分業、生産と販売の分離による産業資本の価値「実現」の短縮と「生産と消費の分離」、「価値実現を前提としない貨幣資本の取得とその再投資」等をふくむ〝資本の現象的な流通形態から〟恐慌を説明することのことです。、不破さんにとっては大発見かもしれませんが、失礼ですが、「資本の現象的な流通形態から恐慌を説明する」だけなら、いまの私たちにはわかりきったことで、科学的社会主義の思想を持っていなくても、日本で経済学者といわれる者なら誰でもで説明できることです。

 そして不破さんは、『前衛』2013年12月号で、マルクスは、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がなく、資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」と、資本主義観の大転換をしたと言います。

恐慌についてのマルクスの捉え方と不破さんの歪曲・捏造

①マルクスは恐慌を競争と信用から説明し、不破さんは商人資本の行動に帰着させる

 マルクスは、「再生産過程の全関連が信用を基礎としているような生産体制のなかでは、急に信用が停止されて現金払いしか通用しなくなれば、明らかに、恐慌が、つまり支払手段を求めての殺到が、起こらざるをえない。だから、一見したところでは、全恐慌がただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現われる」(『資本論』第3巻 第2分冊 大月版 ⑤ )こと、だから、「現実の恐慌は、資本主義的生産の現実の運動、競争と信用からのみ説明することができる」(『剰余価値学説史』Ⅱ)ことを述べています。

 不破さんは、商人資本が再生産過程を『架空の軌道』に導くことで、生産と消費の矛盾を恐慌の激発にまで深化させるといい、これがマルクスの「恐慌の運動論」だと言います。

 ここでのマルクスと不破さんとの違いは、不破さんが「商人資本」と「信用」と「架空の軌道」で〝資本の現象的な流通形態〟を捉えているのにたいして、マルクスは〝資本の現象的な流通形態〟を「競争と信用」を含む資本主義的生産様式における「資本主義的生産の現実の運動」として捉えていることです。

 「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明すること」を21世紀になって学んで「激しい理論的衝撃」を受けた不破さんは、残念ながら、「架空の需要」が恐慌を生み出すということしか学ぶことができませんでした。マルクスとエンゲルスが、当時の資本主義的生産様式のもとでの最も鋭い矛盾の現れが〝恐慌〟であるからこそ「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」だというと、「恐慌=革命」説だとレッテルを貼る不破さんは、物事を状況の中で見ることができません。だから、『資本論』に書かれていることを頼りに「架空の需要」が恐慌を生み出すということしか学ぶことができなかったのでしょう。

  不破さんの〝恐慌〟についての認識は、このように、19世紀に固定されていますから、『前衛』の2015年2月号でリーマン・ショックの原因について、「『架空の需要』にもとづく生産の無制限的拡大とその破綻という過程が典型的に現われていた」と「架空の需要」が恐慌を生み出したと言い、「この経済危機は、文字通り、『過剰生産恐慌と金融危機の結合』だったのです」と訳の分からない抽象的な「文字」を並び立てています。しかし、不破さんは、「過剰生産恐慌」とか「金融危機」とかの言葉をならべていますが、「リーマン・ショック」の原因を「資本の現象的な流通形態から説明すること」がまったくできません。

 1970年代のはじめ以降、先進資本主義国の経済成長は限界に近づき、利潤率が低下し低成長が常態化するなかで、日本の不動産・株バブル、米国のITバブル等のように、資産価値のバブル化による経済の活況がつくりだされるようになりました。「リーマン・ショック」も、米国が経済の活力を回復するために世界中からお金を集め、世界のマネーも〝儲け〟をもとめてアメリカに群がり、米国への資金流入による資産バブルがサブプライム・ローンに係わる個人の信用を増加させ、米国の好景気とサブプライムローンの価格上昇等による世界的なマネーの好循環が演出されたことに起因し、米国の住宅バブル・資産バブルが一気に崩れたことにより起きました。不破さんの言うような、景気の循環過程の「架空の需要」などのせいではありません。現代の資本主義の〝危機〟に特有なものです。

 なお、「リーマン・ショック」に係る詳しい説明はホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を参照して下さい。

 なお、レーニンは『経済学的ロマン主義の特徴づけによせて』(1897年3月執筆、全集 第二巻P150~151,154~155) で、恐慌は「ただ一つの制度――資本主義制度だけの特殊な標識」であり、「生産(資本主義によって社会化された)の社会的性格と取得の私的な、個人的な様式との矛盾」の現れとして必然的に起こること、つまり、資本主義的生産関係の基で、資本主義の固有の現象として起こるのであり、資本主義の歴史的に過渡的な性格を証明するものであり、「資本主義の批判」は、資本主義的生産関係ときりはなされた「全般的な福祉とか、『自由に放任された流通』のまちがいとかいう言葉のうえに基礎づけてはならないのであって、生産関係の進化の性格のうえに基礎づけなければならない」ことを述べています。

②マルクスは恐慌からの回復はより高い段階での破局への道であるいうが、不破さんは一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく新しい循環の出発点だという

 マルクスは、「恐慌は、つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかない」、「これらの規則的に繰り返される破局の結果、より高い段階での破局の反復へ、そして最後には資本の強力的な転覆へとたちいたる」と述べ、規則的に繰り返される破局が、労働者階級の団結を強め、最後には資本の強力的な転覆へとたちいたるという見通しを語っています。

 これに対し、不破さんは、恐慌は「一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」とマルクスはいっていると、「資本主義の矛盾」の深まりを否定します。そして、しばしば不破さんの著作の宣伝に引っ張り出される石川康宏氏は『経済』の2015年1月号で、マルクスは「労働者の闘いの前進を」、「より巨大な資本主義の発展をもたらす要因と」とらえたと言い、資本主義が発展すると「国民による資本主義の民主的な管理」が進むという進化論まで述べています。

 マルクスは、「恐慌」は「攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかない」といい、これらの繰り返しが「より高い段階での破局の反復へ」と向かうと言いますが、不破さんは、「一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく」、より「高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点」だと言って「資本主義の矛盾」の深まりを否定します。

 このように、マルクスと不破さんとでは、「恐慌」の原因についての捉え方も「恐慌」の結果についての捉え方も、まったく異なります。

 以上が、「恐慌と革命」との関係の捉え方と「恐慌」の原因と結果についての捉え方のマルクス・エンゲルスと不破さんとの違いです。以上で「補論」での説明をおわります。

⑤「現代に光るマルクスの資本主義批判(4)」にみる不破さんの観念論

不破さんが「現代に光るマルクスの資本主義批判(4)」で述べていること

 不破さんは第5回「現代に光るマルクスの資本主義批判(4)」で、「マルクスは、『資本論』のなかで、この問題(資本主義が生み出す社会的格差の拡大の問題──青山)に特別の1章を当て(第一部第7篇第23章)、格差拡大を鉄則とする資本主義の仕組みを明らかにしました。」と述べ、マルクスが解明した「産業予備軍」の仕組みと役割について大雑把に説明します。そして、「マルクスのこの目で、日本社会を見」ると、「『資本論』で分析されたような関係が、より巧妙・悪質な形で横行して」おり、「『過労死』を生む異常な労働条件が、大企業の職場でも当然視されている」と言い、最後に「プロメテウス」と「マルクス」に関する不破さんのうんちくが披露されてこの節は結ばれています。

『資本論』の学び方を間違えた不破さん

 不破さんが『資本論』を学んで、私たちに教えてくれたことは、「『資本論』で分析されたような関係が、より巧妙・悪質な形で横行して」おり、「『過労死』を生む異常な労働条件が、大企業の職場でも当然視されている」と、「巧妙・悪質」な事実とそれが世間にまかり通っているということを述べただけで、「マルクスの目で、現代の日本社会を見た」ものとはとても言えません。

 皆さんが『資本論』を読んでいただければ気付くように、マルクスは、マルクスが生きた時代の資本(家)の行動や政策のもつ意味を解明し、それが新しい共同社会をつくる上でもつ意義を明らかにする、という態度を一貫させて『資本論』を書きました。

 しかし、『資本論』の学び方を間違えた不破さんは、いまなぜ、「『資本論』で分析されたような関係が、より巧妙・悪質な形で横行」できるのか、いまなぜ、「『過労死』を生む異常な労働条件が、大企業の職場でも当然視され」るような状況がつくられているのか、その解明など眼中になく、「プロメテウス」に関するうんちくを披露しつつ「プロメテウスとともに鉄鎖を断とう」と叫ぶだけです。

 こんな文章を読んでも、党員の質は絶対に上がらないし、こんな文章を読んで士気の上がる党員がいるとしたら、そら恐ろしいことだと思います。

今日の日本の「産業予備軍」の経済的要因

 日本も米国も、U6失業率は8%前半だといわれており、日本にいたっては、潜在成長率が低いうえに需給ギャップは明確なプラスになっていません。そしてヨーロッパは移民問題で揺れています。

 先進資本主義諸国は、1970年代に入り、国内市場での需要の限界を超える生産能力の飛躍的な拡大と資本の有機的構成の高度化による利潤率の低下により、国内での資本主義的再生産の壁にぶつかり、資本はその活路を一層のグローバル化、資本の海外直接投資に求めるようになり、国内産業の空洞化が進み労働需給が資本家優位になって不安定雇用の増大をもたらしました。特に日本の製造業は、輸出中心の一本足打法により海外の経済動向に大きく影響される体質になっています。実体経済で、リーマン・ショックの影響を最も強く受けたのが日本の製造業であったことが、そのことを見事に示しました。

 このように、今日の日本の「産業予備軍」の問題は、資本主義の上向過程での資本の搾取強化のための方策の問題ではなく、資本主義的生産様式のもとでのグローバル資本と国民・国家の最終的な分裂の問題です。ですから、不破さんのように、「『過労死』を生む異常な労働条件が、大企業の職場でも当然視されている」などと呑気なことを言っている場合ではありません。「『過労死』を生むような異常な労働条件」が「大企業の職場でも当然視されている」のは、労働条件を下げてでも戦わなければ生き残ることができないというグローバル資本のイデオロギー攻撃に、「労働者党」が、これらの問題を、資本主義的生産様式のもとでのグローバル資本と国民・国家の最終的な分裂の問題であることを明確にして反撃しないために、労働者が屈服してしまったからです。70年代の高度成長期の延長線上で、賃金が上がれば景気はよくなるなどとノー天気なことを言っているだけだからです。

「プロメテウスとともに鉄鎖を断とう」としか言えない不破さん

 今回の「現代に光るマルクスの資本主義批判(4)」のタイトルは「搾取と支配が社会全域に」です。「資本主義批判」(?)のタイトルとしてはあまりにも軟弱でお粗末ですが、党員への講義で、「社会的バリケードをかちとり、『ルールある経済社会』へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだということを強調して、講義を終わ」る(「③「現代に光るマルクスの資本主義批判(2)にみる「二つの歴史的教訓」のマルクスと不破さんの差」を参照して下さい。)不破さんが、「社会的バリケード」の先にある「鉄鎖」を「プロメテウスとともに鉄鎖を断とう」とまで言い切ったのは、まさに革命的なことです。

 しかし不破さんは、現代の「産業予備軍」のもつ意味も、グローバル資本の世界展開のもつ意味も、日本のリアルな現状といま日本の労働者階級が果たさなければならない歴史的な役割も、現在の日本の「産業の空洞化」がグローバル資本が支配する資本主義的生産様式の行き詰まった姿の現れであり、日本が〝国民の新しい共同社会〟に向かって前進しないかぎり解決不能な課題であることなども、まったく意識の外です。だから、不破さんには、現代の「産業予備軍」を解消する道を示すことができません。だからこの章のタイトルも、資本主義に白旗を掲げて、「搾取と支配が社会全域に」となり、「『資本論』で分析されたような関係が、より巧妙・悪質な形で横行して」おり、「『過労死』を生む異常な労働条件が、大企業の職場でも当然視されている」としか言えないのでしょう。実に正直だ。しかし不破さんは、「革命家」らしくみせなければなりません。だから、うんちくをひけらかしながら、何の根拠もなく「プロメテウスとともに鉄鎖を断とう」と勇ましく言います。「プロメテウスとともに鉄鎖を断とう」と、なんの展望も示さずに、このように不破さんが言うとき、世間ではそれを「革命的空文句」といいます。

 こんな文章に、だまされないようにしましょう。

ここまでのまとめと今後の展開について

 このページの冒頭の「『資本論』を通じてマルクス・エンゲルスが私たちに伝えたかったこと」で述べたように、マルクスとエンゲルスは、資本主義社会の矛盾を明らかにし、その解決のためには資本主義的生産様式を〝新しい共同社会の生産様式〟に変えなけば駄目だということと、そのための主体的条件と客観的条件とについて、常にセットで私たちに示してきました。

 しかし、これまで見てきたように、『資本論』にかこつけて不破さんがしてきたことは、マルクスの「資本主義批判」の今日的意義を明らかにすることではなく、マルクスの「文章」をちりばめることによって、自分の主張があたかもマルクスの思想ででもあるかのように見せることによって、不破さんの誤った考えを私たちに刷り込むことでした。

 このページに続く⑥「資本主義は人類史の過渡的一段階(1)」は、「マルクスの資本主義に対する見方は、批判一本やりではありませんでした。」という文章で始まります。これまで「マルクスの資本主義に対する見方」を歪めたうえで、自分の誤った考えを私たちに刷り込もうとした不破さんは、「批判一本やり」(?)を捨て、「資本主義は人類史の過渡的一段階(1)」から、その本領を発揮し、「『資本論』刊行150年に寄せて」は、マルクス・エンゲルスも驚くような展開をします。

 ホームページ「『資本論』刊行150年に寄せて」(その2)へジャンプします。是非、お読み下さい。 好評連載中!!!