AZ-4-2

不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その2)

『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えさせるな!!!

このページのPDFファイルはこちら

ダウンロード
AZ-4-2不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(そ.pdf
PDFファイル 429.3 KB

『資本論』第一部での不破さんの歪曲と捏造

はじめに

 不破さんは、資本主義の結果の改善のための「ルールある経済社会」の実現のみを目標とし、原因であるグローバル資本の行動を暴露しコントロールすることを放棄した運動の進め方を『資本論』の修正によって正当化し、労働者階級から闘うエネルギーを奪い去ろうとしています。不破さんは、『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えようとしています。

 このページは、不破さんが「『資本論』探究」の中でおこなっているマルクス・エンゲルスにたいする誹謗・中傷と『資本論』の歪曲と捏造、そして、それらを利用して権威づけしようとする不破さんの「資本主義観」と「未来社会」論とそれらを構成する〝珍説〟の数々の概要の紹介を、関連する事項の紹介も挟んで、おこなっていきたいと思います。

 みなさんの『資本論』の学習を通じての科学的社会主義の思想の深耕の一助になれば幸いです。

※なお、このホームページに注釈なしで書かれているページは、「『資本論』探究〈上〉」のページです。

「第一篇 商品と貨幣」

P46「第一篇 商品と貨幣」の「解説」

 まず、不破さんは、最初の「第一篇 商品と貨幣」が四回の書き換えで仕上げられたと、「書き換え」などという特殊なニュアンスをもった言葉で述べます。しかし、『資本論』に直接つながる第一部の草案は、不破さんが「第一部初稿」──不破さん流に言うと三回目の書き換えということになる──と言っているもので、この草案は1863-64年に書かれ、これが、『資本論』第一巻の清書──マルクスからエンゲルスあての手紙によると、1866年1月1日から書きはじめられた──のための下書きです。だから、「第一篇 商品と貨幣」が四回も「書き換え」られた訳ではありません。不破さんは、誰もが認める、「草稿」のもつ「荒削りの形態」を認め、草稿を仕上げることを「書き換え」などとマルクスを揶揄するように言うのはやめたほうがいいでしょう。

「第三篇 第八章 労働日」

P82-83「第三篇 第八章 労働日」以降を読むにあたっての留意点

⦿不破さんの「恐慌の運動論の発見(より突っ込んでいえば資本主義観の発展)にともなう著作(『資本論』)の構想の根本的な変化」、というウソ。

⦿「ここでは、マルクスの学説上の発展が構想のそうした変化を生みだし」とは、「資本主義観の発展」(=不破さんの「資本主義は発展する」という考えにマルクスが立つたという虚構)によって『資本論』の構想が変化したということ。

P88「第八章 労働日」の評価

⦿マルクスは、「彼ら(労働者階級)は階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない。」(P397)と述べて、「労働日」の章を結んでいますが、マルクスが『資本論』の「第8章労働日」の中で言っている「社会的障害物」と不破さんのいう「社会的ルール」(=「社会的バリケード」)とは、その位置づけがまったく異なり、その先にあるものがまったく違います。

⦿不破さんは、『賃金、価格、利潤』の講義で「社会的バリケードをかちとり、『ルールある経済社会』へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだということを強調して、講義を終わります」が、マルクスは、労働者の団結の重要性と資本の横暴を制限する「超強力な社会的障害物」を勝ち取るためにたたかうことの重要性を教えるだけでなく、資本主義的な生産関係の社会を変えるためにたたかうことこそが問題の真の解決の道であることを教えています。

⦿マルクスは、工場監督官報告書の言葉を借りて、標準労働日の確定、労働時間の短縮が、労働のため以外の自分自身の目的のための時間を与え、「ある精神的なエネルギーを彼ら(労働者)に与え、このエネルギーは、ついには彼らが政治的権力を握ることになるように彼らを導いている」(P398)ことを述べ、労働時間短縮のたたかいが資本主義的生産様式の社会を変える上で重要なことを確認しています。不破さんが資本主義的生産様式の社会における「余暇」も「自由の国」だなどと言っているのとは大違いです。

「第四篇 第一三章 機械と大工業」

P97-101 マルクスを誹謗する「推測」と不破さんの「仰天思想」への導入

⦿不破さんは、「第一三章 機械と大工業」に関して、マルクスが、第2草案とも「1861~1863年草稿」(23冊のノート)とも言われる草稿の「機械」についての執筆を中断して、「構想がほぼまとまっていた『第三章資本と利潤』の執筆」と『剰余価値学説史』の整理に着手したことを取り上げて、マルクスが「機械」についての執筆を中断した理由を、「私は、機械と大工業の実態についての自分の知識があまりにも少ないことを自覚したからだと、推測しています」と、マルクスの「知識があまりにも少ないこと」を中断の理由として「推測」し、続けて、その推測が「真実」ででもあるかのように、「いざその大工業を正面から研究しようという段になると、機械制大工業に対する自分の実際的知識の貧弱さを実感せざるを得なかった」と「断言」し、「第一三章 機械と大工業」について、「大工業の段階の研究成果をまとまったかたちで展開するところまではゆきませんでした」とマルクスの無知を埋める研究成果が「第一三章」にはないかのように言います。

⦿続いて、「第一三章 機械と大工業」の解説には関係のない、「不破さんの仰天思想」への導入がはじまります。

 不破さんは、「資本主義的生産のもとで形成され発展を遂げた『全体労働者』の態様こそが、労働者階級を未来社会の担い手として育成してゆく道だという問題にほかなりません」と言いますが、ここに不破さんの限界と根本的な誤りがあります。ここでマルクスが言っている「全体労働者」、労働者の社会的生産の発展は、資本主義的生産様式の社会の発展がもたらした技術的側面であり、「新たな社会の形成要素」の一つです。そして、不破さんが言っている「資本主義的生産のもとで形成され発展を遂げた『全体労働者』の態様」とは、資本主義的生産関係のもとで、まだ資本主義的生産の衣をまとわされた「様態」の「労働者」のことです。ですから、「労働者階級が生産過程と未来社会の担い手として成長してゆく」ために、彼らがまず行わなければならないことは、資本主義的生産の衣をまとった「様態」を脱ぎ捨てることです。そしてそれは、レーニンが言うように、「資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展とを結びつける」力、つまり、〝by the people〟の力を労働者階級のなかに育み、「彼ら(労働者階級──青山注)の国事参加を民主主義的に組織する」ために、労働者自らに、その階級的使命を自覚させることです。

 このように、「資本主義的生産のもとで形成され発展を遂げた『全体労働者』の態様」を見誤った不破さんは、とんでもない労働者の「未来社会」を描くことになります。そして、『赤旗』宣伝ページでは、「『全体労働者』について訳語を統一し」と山口富男氏が言っていますが、「新たな社会の形成要素」としての「全体労働者」を社会主義社会・共産主義社会での労働者階級と混同していないか、「新版『資本論』」を読むに当たって、十分注意して下さい。

「P88」と「P97-101」のエッセンスと不破さんの「未来社会」作りのキーワード

⦿不破さんは、「『社会的ルール』の獲得のための闘争は、その核心をなすもので」、「ここに、『賃労働』の部で展開する予定だった労働者階級論の第一の契機があり」、「労働者階級が生産過程と未来社会の担い手として成長してゆく過程の追跡、ここに、『賃労働』論(第七編)の第二の主要な契機がありました」(P101)と言います。

⦿不破さんは、かつて、『フランスにおける内乱』の第一草稿の「奴隷制のかせ」(資本主義的生産様式の社会での賃金奴隷制のかせのこと)からの解放について「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくりあげ」ることだというユニークな見解を創作しましたが、今度は、「第七篇 資本の蓄積過程」の解説のなかで、不破さんがどんな言葉をどう捉えるのか、興味津々で、その〝独走〟的な考えを固唾を呑んで注視してきました。

⦿しかし、不破さんの「第七篇 資本の蓄積過程」の解説には、「私たちは、『資本』の部と『賃労働』の部の統合という新しい構想のもとで、『絶対的剰余価値の生産』の篇(「第三篇」のこと──青山)では、自分と階級の生活と存続のための階級闘争の必然性を、『相対的剰余価値の生産』の篇(「第四篇」のこと──青山)では、資本主義的生産が機械制大工業の段階を迎えるなかで、労働者階級が未来社会で生産を担う主体として発展する姿(『全体労働者』)を見てきました。」(P129-130)という文章以外、不破さんの解説のどこにも、上記の二つの「契機」にもとづく、不破さんのユニークな「労働者階級論」も「『賃労働』論」も見つけることができませんでした。

⦿そこで、もう一度、ページをここに戻して、〝「社会的ルール」と「未来社会で生産を担う主体」が不破さんの「未来社会」で持つ意味〟について、簡単に、明らかにしておきたいと思います。

⦿不破さんの「社会的ルール」と「未来社会で生産を担う主体」は、不破さんの「未来社会」論を構成する、「自由な時間」につぐ重要な概念で、不破さんの描く「未来社会」、つまり、「不破さんの仰天思想」の重要な構成要素なので、不破さんが責任編集(改ざん)した「新版『資本論』」を理解するうえで大変重要です。

⦿不破さんの描く「未来社会」には、「労働者階級論の第一の契機」(何を言っているのかよくわからないが)の社会的バリケードで守られた「ルールある経済社会」と「労働者階級論の第二の契機」である「指揮者はいるが支配者はいない」生産現場で「生産を担う主体」と、その延長線上に、「自由な時間」を持った諸個人がいます。

⦿資本主義的生産様式の社会を前提につくられた「社会的ルール」の否定も、資本主義的生産を円滑に推進するための手段である「指揮者はいるが支配者はいない」という生産現場のイデオロギーの否定もありません。だから、不破さんが最も大切に思う「自由の国」とは「自由な時間」だといい「余暇」のことだと言う「余暇」には、資本主義社会での労働者の「余暇」をも含むものになってしまいます。

 不破さんの言う「社会的ルール」と「未来社会で生産を担う主体」と「自由な時間」とは、概ね、このようなものであるということを、是非、頭の片隅に置いて、不破さんの「新版『資本論』」を読み進んで下さい。

※「奴隷制のかせ」についての詳しい説明は、ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を、「自由な時間」に資本主義社会での労働者の「余暇」をも含むという「不破理論」については、ホームページ4-26-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。

P105-106「第一三章」の「解説」中の「各所に登場する未来社会論」の余談

⦿独自の「未来社会論」を持つ不破さんは、「各所に登場する未来社会論」と題して、児童の発達と生産的労働の関係、人間の全面発達の問題、家族構成員の役割の問題、農業と工業の在り方の問題について取り上げますが、マルクスが述べていることをそのまま書くだけで、本来の不破さんの特性である自説への誘導も、何の蘊蓄もひけらかしません。

⦿この四つテーマについての不破さんの「未来社会論」を、是非、拝聴したいところですが、マルクスの、すべての人間が「さまざまな社会的機能をかわるがわる行うような活動様式をもった、全体的に発達した個人」になるという人間の全面発達についての考えと、不破さんが「未来社会論」の中核として位置づけ、綱領まで変えた、「指揮者はいるが支配者はいない」職場づくりや「未来社会」の労働を「社会の構成員にとって義務的な活動」と捉える考え方とでは、雲泥の差があります。

⦿不破さんの「新版『資本論』」でどんな「新訳注」等が付けられのか、心配でなりません。この点も十分留意して「新版『資本論』」と向き合って下さい。

P107-109「第一三章」を自らの資本主義観に結びつけようとする不破さん

⦿マルクスは、「第一三章 機械と大工業」の章で、唯物史観と弁証法の助けをかりて、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことを、事実に基づいて明らかにします。

⦿このことを不破さんは、「ここには、資本主義の『必然的没落』の過程を究明するマルクスの新しい見地が、端緒的な形で顔を出していることを、頭においていただきたいと思います」と言います。あらゆるものを「不破さんの仰天思想」に結びつけようとする不破さんの「『資本論』探求」の邪な姿勢がよく現れています。

⦿エンゲルスはザスーリチへの手紙で、「革命的戦術を発見するには、問題となる国の経済的・政治的諸関係にマルクスの歴史理論を適用しさえすればよいのです」と誤解を恐れず言っていますが、マルクス・エンゲルスと不破さんとの違いは、マルクスとエンゲルスは「新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを」いまある現実のなかからつかみ出すのに対し、不破さんは「経済的・政治的諸関係」をリアルに見て「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」をつかむのではなく「『社会的ルール』の獲得」と「全体労働者」のいる社会という観念の実現とそのための合い言葉として「多数者革命」という労働者階級をワキに置いたスローガンを掲げます。

⦿なお、この『資本論』第一部第四篇「第一三章 機械と大工業」は、『資本論』第三部第七篇「第五一章 分配関係と生産関係」の、「労働過程がただ人間と自然とのあいだの単なる過程でしかないかぎりでは、労働過程の単純な諸要素は、労働過程のすべての社会的発展形態につねに共通なものである。しかし、この過程の特定の歴史的な形態は、それぞれ、さらにこの過程の物質的な基礎と社会的な形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したということがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立とが、広さと深さとを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。」(『資本論』第3巻 第2分冊 大月版⑤ P1129)という結びの文章とシームレスに繋がっています。

⦿そして、不破さんは『前衛』2014年1月号で、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、驚くべき発言をして、資本主義の矛盾を「利潤第一主義」に閉じ込め、科学的社会主義の理論を修正しますが、上記の文章は、不破さんの主張がマルクスの考えとは異なることをマルクスが証言した文章です。また不破さんはここで、エンゲルスとレーニンが「生産物の分配どまり、経済的土台の変化だけに目を向けて」いるから「「未来社会」といってもあまりうらやましくない」と言って誹謗・中傷していますが、上記の文章は、「生産関係の特定の歴史的な姿」に「目を向け」ることの重要性をマルクスが証言した文章でもあります。

※なお、不破さんの『前衛』2014年1月号でのエンゲルスへの誹謗と科学的社会主義の思想の否定についての詳しい説明は、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を、是非、参照して下さい。

「第七篇 資本の蓄積過程 第二二章」

P127-128「第七篇 第二二章」の「より高度な社会形態」の社会を理解できない不破さん

⦿不破さんは、「第七篇 第二二章 剰余価値の資本への転化」の中の言葉を使って、「その未来社会を、マルクスは、『各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態』と特徴づけます」と「未来社会」(いわゆる「共産主義社会」のこと)についてのマルクス・エンゲルスの考えを述べますが、その意味をまったく理解しようとしない不破さんは、続けて、「マルクスにとっては、人間の自由こそが、未来社会の最大の特徴なのです」と言い、「各個人の完全」「な発展を基本原理とする」ことも、そのことを保証する「より高度な社会形態」も眼中になく、ただ「自由」だけを持って飛び跳ねます。そしてこの「自由」とは、117ページで、「自由な時間の追求にこそ、未来社会論の本論がある」と述べているように「自由な時間」のことで、これが「未来社会論の本論」だと言うのです。

⦿不破さんは、階級社会の克服をふくめトータルな社会の発展のなかで、「各個人の完全で自由な発展」を捉えるのではなく、「自由」な「時間」だけを取り出して「自由な時間の追求にこそ、未来社会論の本論」だなどと言い、マルクスが各人の全面発達を基本原理とする、より高度な社会形態の社会を〝自由の国〟というと、そこから「自由」だけを取り出して騒ぎ立てます。「各人の自由な発展」など眼中になく、「自由」な「時間」だけがある不破さんは、マルクスとエンゲルスが、いわゆる「共産主義社会」を「自由の国」と言ったのを、「自由の国」とは「自由な時間」のことで、資本主義社会での労働者の「余暇」も「自由の国」だなどと言うようになる始末です。

※「自由の国」についての詳しい説明は、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」とホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」及びホームページ4-26-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。

「第二三章 資本主義的蓄積の一般的法則」

「第二三章」でのマルクスと不破さん

⦿不破さんは、「第二三章」について、「この章は、全体が、完成稿のために新たに書き下ろされたものです」(P129)と述べ、マルクスが、マルクス主義(科学的社会主義)の思想とは無縁の手法で導きだした従来の資本主義観を棄て、新しい資本主義観の出発点に立ったかのようにマルクスを描き出します。同時に不破さんは、当時の「第二三章」の枠内でしか〝今日〟を見ることのできない限界性を、「第二三章」の解説を通じて示します。

⦿これらを踏まえ、以下で、不破さんの解説の誤りと「今日の社会的格差拡大の問題」(P145)等を「第二三章」の枠内でしか見ることのできない、ずれた、「不破さんの目」を明らかにするとともに、「第二三章」のもつ歴史的限界等「第二三章」についての私の考えも述べたいと思います。

P132 マルクスをマルクス主義でないという不破さんの「推測」

⦿不破さんは、「これは私の推論ですが、マルクスが1857年に経済学の著作という念願の事業を開始する決断をした背景には、利潤率の低下の法則の科学的根拠を発見したことで、この著作を結論部分まで完成できるという見通しを得たことが、重要な要因の一つとしてあったのではないでしょうか。」と言い、『前衛』2015年1月号では、自ら創作した「『恐慌=革命』説」の罪を「利潤率低下の法則」になすりつけるために、「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がないというのは、あまりにも現実離れした議論に見えます。しかし、『恐慌=革命』説を背景に、利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定がさきにあり、そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込みが、マルクスを、こうした無理な立論に固執させたのではないでしょうか。」と「推論」しています。

⦿これほど無茶苦茶な「議論」はありません。まず第一に『資本論』を書く「決断」をした理由と、それに基づく『資本論』の内容についてです。

 不破さんは、マルクスが「利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われと」断定し、「そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込み」をし、そこから、この著作の「結論部分」を「完成できるという見通しを得た」ので、『資本論』を書く「決断」をし、その「断定」と「思い込み」に合わせて「無理な立論」をしたと、およそ事実を基礎に置く科学的社会主義の思想とは正反対の、まるで不破さんがするような「論立て」をする人間のようにマルクスを描いています。私たちはそんな「断定」と「思い込み」を根拠に書きはじめられ、「無理な立論」で埋まった『資本論』など糞食らえですが、不破さんは『資本論』をそのように見ています。許せません。

⦿次に、不破さんは、「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がない」と『資本論』で述べられているとウソをついています。

⦿最後に、「あまりにも現実離れした議論」というありもしないデマを振りまいて、そのデマの根拠が「利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定」にあるかのように言う。たとえ「ありもしないデマ」であっても、その根拠に「利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定」があると言うのであれば、なぜそれを根拠に「ありもしないデマ」のような論立てになるのか、不破さんには説明する義務があります。それをせずに、無関係な二つのことを結びつけて「利潤率低下の法則」とマルクスが言ってもいない「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がないという」デマがあたかも結びついているかのように言い、「無理な立論」だなどと言う。これこそ「無理な立論」をはるかに越えた〝無茶苦茶な議論〟だ。「もう、無茶苦茶でござりまするがな」(花菱アチャコ)。こんな訳の分からない「文章」で共産党員をだませると思ったら大まちがいだ。共産党員をなめてはいけない。

※『前衛』2015年1月号の「恐慌」は「すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がない」とマルクスが言ったという不破さんの発言がデマであることについては、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を参照して下さい。

P133-137 利潤率低下の法則の持つ意味を理解できない不破さん

 134ページで、不破さんは、「マルクスを悩ませた理論上の問題が、二つあったようです」と、不破さん得意の「推測」をして、「事実」をねじ曲げようとします。

⦿その一つとして、不破さんは、「利潤率の低下を恐慌と結びつける理論的な組み立てがうまく成立しなかったことです」と言って、自らの理解力の無さをマルクスのせいにします。

⦿マルクスの天才的な洞察力を理解できない不破さんは、二一世紀になって自ら作り上げた「『恐慌=革命』説」を責める根拠にマルクスが発見した「利潤率の傾向的低下の法則」を持ち出すことによって、資本主義的生産様式における「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ大切な意味を葬り去ろうとします。

 不破さんが創作した「『恐慌=革命』説」は別として、「利潤率低下の法則」を「背景として恐慌が反復し」、「生産力の発展と生産関係との衝突こそが、恐慌と革命の時代を生みだしている」のは、紛れもない、事実です。資本主義の経済現象は「利潤率の傾向的低下の法則」を「背景として」起きています。不破さんはそのことを理解できないから、「利潤率の低下を恐慌と結びつける理論的な組み立てがうまく成立しなかった」などと言って、マルクスに勝ったかのような錯覚に陥ってしまうのです。

⦿不破さんの「推測」のもう一つは、マルクスは、恐慌をともなう資本主義経済の破局の反復ののちに、「最後には、資本の強力な転覆にいたる」という理論的設定をしていたが、「恐慌期が過ぎると、資本主義は前回の周期を大きく上回る繁栄を取り戻し、衰退現象を見せないのです」と不破さんはマルクスの考えをねじ曲げ、それをマルクスの見る「現実」として、その「現実」とマルクスの「理論」との矛盾が「マルクスを悩ませた理論上の問題」だと言うのです。

⦿不破さんは、「恐慌期が過ぎると、資本主義は前回の周期を大きく上回る繁栄を取り戻す」ことを、「衰退現象を見せない」と言って、それが資本主義的生産様式の社会の「没落」過程の現象(資本主義の矛盾を一層拡大させる過程の現象)ではないかのようにマルクスの考えと異なる虚構の「現実」を作って、そこから、マルクスの「理論」と矛盾するものとして「マルクスを悩ませた理論上の問題」だったのではないかと「推論」するのです。

⦿不破さんは、くり返し起こる「恐慌」を含む資本主義の発展が、「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことが、十分に理解できないようです。

 このような不破さんの狡猾な文章にだまされないで下さい。

*なお、「利潤率の傾向的低下の法則」に関する詳しい論究は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を参照して下さい。

P136-137「第二三章第二節」マルクスを台無しにする、不破さんの「新しい見地」

⦿不破さんは一歩前に進んで、資本家の立場で、「可変資本の相対的な減少によって進む資本構成の変化は、資本主義的生産の危機や没落の要因ではなく、資本主義的蓄積の急速な進行にともなう当然の、むしろ積極的な現象として意義づけられています。」(P136)といい、「新しい見地では、可変資本部分の相対的減少は、否定的な現象ではなく、独自の資本主義的生産様式の蓄積過程の当然の、積極的な現象なのです。」(P137)と言います。

⦿マルクスは、第二三章について、「この章では、資本の増大が労働者階級の運命に及ぼす影響を取り扱う。この研究での最も重要な要因は資本の構成であり、またそれが蓄積過程の進行途上で受けるいろいろな変化である。」(大月版②P799)と述べていますが、「第二三章第二節」は「資本主義的生産様式の発展」について述べたもので、マルクスは、「可変資本部分の相対的減少」が労働者階級の資本主義社会での生存条件にとって「積極的な現象」であるとか、資本主義的生産様式の社会にとって「可変資本部分の相対的減少」による利潤率の低下が「否定的な現象ではない」などという「新しい見地」などまったく持っていません。

『資本論』第一部第二三章の歴史的限界と普遍性

⦿『資本論』「第一部第二三章」は、ご承知のとおり、資本主義の「黄金時代」と言われる1970年代前半頃までよりも100年近く前に書かれた、自国での資本主義の発展に十分な伸びしろがある時代に書かれたものです。だから、マルクスが論及した、可変資本が相対的に減少するという条件のもとでの資本の蓄積過程の検討も、自国での「可変資本部分の絶対的大きさの増加」を前提としたものが理論的に可能なだけでなく、現実におきていることでした。

 しかし、資本主義の「黄金時代」を過ぎると、先進資本主義諸国は自国での利潤率の低下を補うだけの高い需要が見込めなくなり、経済成長率は低下し、新興諸国への資本の輸出によって資本蓄積を進める道以外に「資本」が「資本」として進むべき道はなくなっていきます。その結果、先進資本主義諸国の産業の空洞化は進み、中間層がやせ細り、そうした中で、米国ではトランプ政権が誕生しました。輸出中心の「一本足打法」の日本の「産業の空洞化」は一層深刻で、その深刻な姿が明確に現れたのは1995年からのことで、1995年以降GDPは横ばいとなり、労資の力関係が資本優位となるなかで不安定雇用が増加の一途を辿ります。

 「第二三章」がこのような「独自の資本主義的生産様式」の発展を「資本主義的蓄積の一般的法則」のなかに見つけていなかったとしても、それは歴史的限界であって、マルクスが責めを負うべき問題ではありません。

 マルクスは、グローバル資本時代の「資本蓄積」とそのもとでの「独自の資本主義的生産様式」を論究することはできませんでしたが、「資本蓄積」とそのもとでの「独自の資本主義的生産様式」についての普遍的な関係を、下記のように、私たちに教えてくれています。この言葉は、不破さんが137ページに抜粋しています。

「ある一定程度の資本蓄積が独自の資本主義的生産様式の条件として現れるとすれば、逆作用としてこの生産様式が資本の蓄積の加速化を引き起こす。それゆえ、資本の蓄積にともなって独自の資本主義的生産様式が発展し、また独自の資本主義的生産様式にともなって資本の蓄積が発展する。」、と。

 私は、上記の訳よりも大月版のほうが、わかりやすいように思いますので、大月版も掲載します。

「ある程度の資本蓄積が独自の資本主義的生産様式の条件として現れるとすれば、後者はまた反作用的に資本の加速的蓄積の原因になるのである。それだから、資本の蓄積につれて独自の資本主義的生産様式が発展するのであり、また独自の資本主義的生産様式の発展につれて資本の蓄積が進展するのである。」(大月版②P815)

 ここでは、マルクスは拡大再生産の条件(需要)があるもとでの「剰余価値から資本への連続的な再転化」を前提に述べていますが、ここには、「資本蓄積の進展」とそのもとでの「独自の資本主義的生産様式の発展」についての普遍的な相関関係が述べられています。その意味をしっかり学べば、マルクスがグローバル資本時代の「資本蓄積の進展」とそのもとでの「独自の資本主義的生産様式の発展」について論及していなくても、私たちは正しい認識を持つことができます。

 しかし、残念ながら不破さんは、そのことを見落としただけでなく、マルクスの時代からぬけ出せなかったようです。そのために、グローバル資本時代の資本主義の行動の解明がまったくできません。

「第二三章」のその他の留意点のその①資本主義的生産での労働需要の維持

⦿不破さんは、下記の文章を抜粋して、「以前のマルクスだったら、利潤率が20%に低下することを心配したでしょう。」とお門違いのことを言います。

「なおまた、蓄積の進展は、可変資本部分の相対量を減らすとはいえ、けっして同時にその絶対量の増大を排除するものではない。かりに、ある資本価値が初めは50%の不変資本と50%の可変資本とに分かれ、後には80%の不変資本と20%の可変資本とに分かれるとしよう。その間に、最初の資本、たとえば6000ポンドが、18000ポンドに増大したとすれば、その可変成分も1/5だけ増大しているわけである。それは3000ポンドだったが、今では3600ポンドである。ところが、以前は労働需要を20%ふやすには20%の資本増加でよかったのに、今ではそのためには最初の資本を(約──青山補筆)三倍にすることが必要なのである。」(大月版、②P813-814)

⦿この文章は、「資本蓄積の進展」が、労働需要をふやすために一層多くの総資本を必要とすることを述べているもので、「利潤率の低下」を嬉しがったり、心配したりすることを求めているものではありません。そもそも、なぜマルクスが「資本蓄積の進展」によって「利潤率が低下する」ことを「心配」しなければならないのでしょうか。不破さんは、そんなことを資本家と一緒になって「心配」などしていないで、この文章の持つ意味をしっかりと理解すべきです。

⦿この文章は、資本主義的生産様式が発展すればするほど労働需要をふやすためにはより一層多くの「資本蓄積」が必要となる資本主義的生産様式の法則性と限界性を述べたもので、そのためには、また、資本蓄積の進展のための価値実現、つまり、絶えざる需要の拡大が必要であることを意味します。不破さんは、マルクスが、「利潤率が20%に低下することを心配した」かどうかを気にかけるまえに、「産業の空洞化」がなぜ起きたのか、日本の現状について、「賃金が上がれば、経済は成長する」などとばかなことを言っていないで、『資本論』を熟読して、『資本論』からヒントを得て、熟考すべきです。

⦿不破さんは、マルクスの悪口をいうことばかり考えていて、『資本論』を真面目に読もうとしないから、21世紀のグローバル資本の行動とそれによって起こる社会・経済の変化など目に入らないのでしょうか。それとも、不破さんにとっては真実などどうでもよいことなのでしょうか。私には、最近ますます、不破さんが、後者のように見えてなりません。

その②不破さんが発見した「恐慌の運動論」を否定するマルクス

⦿不破さんは、「第二三章」について「この章は、全体が、完成稿のために新たに書き下ろされたものです」(P129)と、「第二三章」が1866年1月1日以降に書かれたので、不破さんの言う「新たに発見された恐慌の運動論」なるものの「発見がもたらした理論的転換の全体を頭においた上で、第二三章の執筆にあたりました」(P135)と断定(推測?)します。

⦿不破さんの言う、マルクスが1865年に「新たに発見した」という「恐慌の運動論」なるものとは、簡単にいうと「信用」による「流通過程の短縮」により短縮された価値「実現」、つまり、「信用」による「架空の需要」だけを取り出し、それが資本主義的生産様式の恐慌の原因であるとするもので、マルクスの考えではありません。「恐慌の運動論」なるものは、マルクスが1865年に「発見」したのではなく、不破さんが2002年以降に「大発見」したもので、不破さん流にいえば、「架空の需要=恐慌」説とでもいうべきもので、まったくの、不破さんの創作です。

⦿それでは、不破さんの言う「新たに発見された恐慌の運動論」がもたらした「理論的転換の全体を頭においた上で」マルクスが執筆したという「第二三章」で、マルクスは「産業循環」について、どのような認識をもっているのか、見てみましょう。

「……だから、近代産業の全運動形態は、労働者人口の一部分が絶えず失業者または半失業者に転化することから生ずるのである。経済学の浅薄さは、とりわけ、産業循環の局面転換の単なる兆候でしかない信用の膨張や収縮をこの転換の原因にしているということのうちに、現れている。……社会的生産も、ひとたびあの交互に起きる膨張と収縮との運動に投げこまれてしまえば、絶えずこの運動を繰り返すのである。結果がまた原因になるのであって、それ自身の諸条件を絶えず再生産する全課程の変転する諸局面は周期性の形態をとるのである。*ひとたびこの形態が固まれば、経済学でさえも、相対的な、すなわち資本の平均的な増殖欲求から見ての、過剰人口の生産を、近代産業の生活条件として理解するのである。」(大月版 P825)

⦿マルクスは、ご覧のとおり、「産業循環の局面転換の単なる兆候でしかない信用の膨張や収縮」を「産業循環」の「転換の原因」と見ることを、「経済学の浅薄さ」として痛烈に批判し、「過剰人口の生産を、近代産業の生活条件として」、その「過剰人口」と「近代産業の全運動形態」との相関関係を指摘するとともに、「産業循環」は資本主義的生産様式の社会の資本主義的生産の諸法則に基づく様々な原因と結果が影響し合うトータルな循環運動であることを指摘しています。

⦿「恐慌」は、資本主義的生産の諸法則がはたらく資本主義的生産様式の社会では、信用を使っての価値実現の短縮や資産価値の上昇など過剰生産が可能な条件さえあれば、必ず起こりえます。そして、産業循環は資本主義的生産様式の社会の生活条件なのです。不破さんの発見した「恐慌の運動論」なるものも、マルクス以前の「経済学」と同様に「浅薄」な代物であることを、この「第二三章」は明らかにしています。だから、繰り返しになりますが、不破さんの『古典』解説を読んだ人は、必ずその『古典』もお読み下さい。

P144-145 原因を見ることのできない、不破さんの「マルクスの目」

⦿不破さんは、「マルクスが『資本論』で分析した資本主義的蓄積の一般的法則の、一段と深刻な、現代的な現れを見ることができます」と述べて、「産業予備軍の固定化とその拡大が、政府の介入のもとにおこなわれて」おり、「現役の就業労働者の『予備軍』化」が進み、「いま企業の内部にまで『予備軍』化の体制を広げて、社会の中核をなすはずの就業労働者層への圧迫を強め、中間層の疲弊と没落、社会の格差の拡大という事態を年ごとに拡大再生産させているのです」と言います。そして、「今日の社会的格差拡大の問題を見る場合にも、『マルクスの目』で、ことの本質をつかむ態度が、いよいよ重大になっている、と思います」と述べて「第二三章」の解説をむすんでいます。

⦿しかし不破さんは、なぜ雇用環境が資本優位になってきたのかについては黙して語りません。科学的社会主義の思想は、「生産力と生産関係の矛盾」を注視し、その発展の仕方を研究し、その現れ方を暴露し、資本主義的生産様式の社会の限界を指摘して、その変革を呼びかけるものであり、エンゲルスはザスーリチへの手紙で、「革命的戦術を発見するには、問題となる国の経済的・政治的諸関係にマルクスの歴史理論を適用しさえすればよいのです」と言っています。

⦿1970年代以降の資本と経済の詳しい動きは、ホームページ「1、今を検証する」を参照していただきたいと思いますが、現在の日本の経済的・政治的諸関係はグローバル資本の行動とその結果としての「産業の空洞化」がもたらす諸関係によって規定されています。

⦿しかし、残念ながら「第二三章 資本主義的蓄積の一般的法則」の歴史的限界と普遍性とを学べなかった「不破さんの目」には、そんなことなど、網膜に映っても、まったく眼中にないのです。だから、不破さんには、グローバル資本によって「産業の空洞化」が進んだために、「ノーマルな景気循環」さえ起こらなくなってしまった日本経済の現実と、そこでの「新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機」などまったく理解することができません。不破さんは、ただ立ちすくんで、起きている「現象」の一部を述べて、「今日の社会的格差拡大の問題を見る場合にも、『マルクスの目』で、ことの本質をつかむ態度が、いよいよ重大になっている、と思います」などと言うのが精一杯です。「『マルクスの目』で、ことの本質をつかむ態度」などと言って、自らが「マルクスの目」を持っているかのようなトリックを使っても、「マルクスのお面」をかぶった不破さんが言えることは、「経済的・政治的諸関係」を無視して「ルールある経済社会」の夢を語り、「賃金が上がれば経済がよくなる」という、マルクスの言う「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」の言葉を繰り返すだけです。

⦿私たちは、不破さんの言う結果(起きている現象)の原因をなくさなければなりません。しかし、なぜ労働者が資本に圧倒されているのか、なぜ中間層が疲弊し薄くなってしまったのか、その答えに、元「共産党」委員長の不破さんよりも、バーニー・サンダース氏やトランプ米大統領のほうが、より近いのは残念です。彼らは、現在の「危機」の主要な原因が「産業の空洞化」にあることをしっかりと認識しています。

※詳しくはホームページ6-2-20「第1回大統領候補テレビ討論中継でCNNが伝えたことと、日本のマスコミが報道したこと」及びホームページ6-2-21「米国の歴史を一歩前に進めたトランプ」を参照して下さい。

⦿不破さんの言う結果の原因であるグローバル資本による「産業の空洞化」を、グローバル資本の行動を規制することによって回復させ、富の源泉である製造業の厚みを取り戻す道を発見することこそが、「マルクスの目」で資本の「本質」を摑むことです。不破さんの様に、現場に立ちすくんで、結果を嘆いているだけでは、なんの役にも立ちません。

「第二四章 本源的蓄積」

P155-156 「桎梏」が「桎梏化」になり、何でも「桎梏化」になる、不破さん

⦿155-156ページの「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月版 ② P995F6-9)という有名な文章に関して、不破さんは、文章のとんでもない悪用と「桎梏」いう言葉のとんでもない誤用をおこなっています。

⦿まず、文章のとんでもない悪用ですが、2014年9月9日に行われた「理論活動教室」第2講「マルクスの読み方」③によると、不破さんは、この文章を、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。」で区切り、つづけて、「私たちの経験のなかでも『桎梏』化はものすごい形で現れています」と述べ、日本共産党綱領を紹介し、その後で、「『資本論』の有名な一文」として後半部分を読み上げたそうです。

 二つに分離された文章を合体させれば、「桎梏」とは生産の社会的性格と資本の私的資本主義的性格が和解できないレベルに達し、その足かせになることを意味していることは、誰にでも分かることです。ひとかたまりの文章を二つに分け、真ん中に自分の主張を入れ、その主張が元の文章全体の趣旨を表しているかのような錯覚をあたえる。こんなせこいやり方で「マルクスの読み方」の講義をし、マルクスを修正し、「共産党」の幹部になるべき「理論活動教室」の受講生を真理から遠ざけようとする。悪意に満ちたまったく許されない「講義」といえるでしょう。

⦿不破さんは、このように、『資本論』のなかから、文章をバラバラに分解してその合間に自分の考えをすべり込ませたり、都合の悪い部分は無視したり、自分の謬論に使えそうな部分は歪めて紹介したり、ありとあらゆる悪知恵を働かせます。このような手法で作られた不破さんの寄稿・解説・論文とその宣伝のための鼎談等が、『赤旗』や『前衛』や『経済』の紙誌上を闊歩し、「共産党」と共産党員を科学的社会主義から、日々、遠ざけ、共産党からエネルギーを奪っています。

※このような不破さんの文筆上のテクニックについての詳しい説明は、ホームページ4-23 「総括1不破さんの「批判」の方法と思想」を、上記の例の詳しい説明は、ホームページ4-3 「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を参照して下さい。

P156  自らを顧みようとしない不破さん

珍造語「『桎梏』化」の誕生秘話

⦿「桎梏」いう言葉のとんでもない誤用について、マルクスを修正・利用しようとする不破さんの「『桎梏』化」なる意味不明な言葉はどうして生まれたのか、簡単に見てみましょう。

 事の発端は、『前衛』(2013年12月号)で、「土台で生産力と生産関係の矛盾が発展し、生産関係が生産力(発展──青山挿入)の『桎梏』になったときに社会革命の時代が始まる」(P108)というマルクスの言葉を引用して鼎談をすすめる中で、「利潤第一主義」を諸悪の根源とみる不破さんが、「私は、『桎梏』という言葉で、今日、利潤第一主義が人間社会の存続をおびやかすところに来ている、そのすべての事態をとらえたいと思っています。」(P111)と、トンチンカンなことを言いだしたことから始まります。

 不破さんは、「生産力と生産関係の矛盾」などそっちのけにして、マルクス主義(=科学的社会主義)を修正し、「桎梏」(生産関係が生産力を縛ること)の一時的な現れである恐慌と、次元の違う地球温暖化や原発を同列にあつかい、マルクス経済学と唯物史観を滅茶苦茶にしてしまいます。不破さんは、「資本主義的生産関係」を「利潤第一主義」に変え、「桎梏」を「人間社会の存続をおびやかす有害物」に変えて、マルクスのベルンシュタイン化をおこないます。

 そのとき、この鼎談につき合っている、『資本論』のかじり方を教えている石川康宏氏が、普段は不破さんの言うことに異論を唱えたことなどないのに、さすがに「地球温暖化」や「原発」を「桎梏」の現れと言うことには納得しませんでした。そこで、不破さんは、「地球温暖化や原発」を「桎梏」と言うにはちょっと無理があると思ったのか、翌月の『前衛』(2014年1月号)では、「私は、資本主義が生産力の発展を制御できなくなって、そのことが社会に大きな危機をもたらす場合には、それも資本主義的生産関係の『桎梏』化の一つの深刻な表れだと思うんですよ。」(P108)と、訳の分からないこと──「資本主義が生産力の発展を制御できない」のは今に始まったことではないが、不破さんは「資本主義が生産力の発展を制御できる」とでも思っているようだ──を言って、「桎梏」の現れを「『桎梏』化の一つの深刻な表れ」に格下げします。こうして、「桎梏」が「桎梏化」になり、何でもかでもが「桎梏化」になってしまいます。

 そして、頭が大混乱している不破さんは、「人類社会にとっての絶体絶命度からいったら、恐慌よりも温暖化の方がはるかに激しいわけです。」(P108)と、資本主義的生産様式などという狭い了見など捨てて、「人類社会にとっての絶体絶命度」という広い視野から、石川氏の疑問に答えようとします。不破さんは、「生産力と生産関係の矛盾」などそっちのけに「地球温暖化や原発」などの科学技術の「利潤第一主義」的な用い方の問題に「桎梏」をすりかえます。それを聞いた石川氏は、不破さんの熱意に負けたのか、諦めたのか、「そうですか。考えてみます。」(P109)と言うのが精一杯でした。そんな『資本論』のかじり方がまだおぼつかない石川先生ですから、不破さんが論点を「生産力と生産関係の矛盾」の問題から「利潤第一主義」の問題に変えたのですから、どうせなら、「利潤第一主義」から「人類社会にとっての絶体絶命度」という広い視野に論点を変え、せいぜい、「原発事故よりも巨大な隕石のほうが人類社会にとっての絶体絶命度からいったら、はるかに激しいですよね」くらいのことは言って、議論の大混乱を起こしていただきたいと思いました。『赤旗』等でお世話になっているから、「共産党」に最も影響力のある不破さんには何も言えないのでしょうか?

 ここで分かったことは、「利潤第一主義」を資本主義の諸悪の根源とみる不破さんは、資本主義的生産様式の社会の仕組みと矛盾について、そして『資本論』のなかでいわれている「桎梏」の意味について、まったく理解していないということです。そして、新しい思想には新しい概念が必要だといわれますが、「資本主義観」を大転換した不破さんは、『資本論』の中の「桎梏」という言葉をまったく新しい概念に変えてしまいました。 大したものです。

※なお、不破さんの「桎梏」についての驚くべき見解の詳しい説明はホームページ4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を、石川康宏氏の「『資本論』のかじり方」の程度については、ホームページ4-22 「☆石川康宏氏は、唯物史観を認識の中心に据えるべきではないのか」を参照して下さい。

不破さんのひとり相撲

⦿この、「『桎梏』化」の誕生秘話を踏まえて、155-156ページで不破さんが言っていることを見てみましょう。

⦿まず最初に、これから抜粋する文章の中に、「独占資本の『桎梏』化」という意味不明な言葉が出てきますが、これは、先に見た、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる」(大月② P995)から資本主義的生産様式、つまり、「生産力と生産関係の矛盾」の問題を取り除いて作った不破さんの造語ですが、この『資本論』の文章から「独占資本の『桎梏』化」という言葉の意味を復元すると、おおむね、「独占資本が資本主義的生産様式の桎梏になる」という意味ではないかと思われます。

⦿不破さんは、「マルクスが以前とは違って、恐慌を、独占資本の『桎梏』化と規定していないことは注意すべきことです」と述べ、「恐慌を、独占資本の『桎梏』化の唯一の代表的な表現と見る見方は過去のものとなってしまいました」と言います。

 本来なら、先に見たように、「独占資本の『桎梏』化」とは「独占資本が資本主義的生産様式の桎梏になる」という意味だと思いますが、それでは不破さんの文章の意味が通じないので、「独占資本の『桎梏』化」=「独占資本が資本主義的生産様式の桎梏になったその現れ」と、不破さんの気持ちになって、読み換えて見てみたいと思います。なお、エンゲルスも他の人の文章を読んでその人を批判する時は、不破さんのようにその人の文章を歪曲して自分が批判──こういうのは、「批判」というのではなく「誹謗」というのだと思うが──するのに都合がいいように読むのではなく、その人の気持ちになって読むように心がけていることを言っていますが、それが無ければ真の論争は成り立ちません。

 これらを前提に、不破さんの暴論を見てみましょう。

⦿不破さんは、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月版 ② P995F6-9)という文章に、「恐慌」が「独占資本の『桎梏』化」=「独占資本が資本主義的生産様式の桎梏になったその現れ」として登場させていないから、「恐慌を、独占資本の『桎梏』化の唯一の代表的な表現と見る見方は過去のものとなってしまいました」と言うのです。

⦿この文章は、資本主義の発展にともなって、不破さんが否定する「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」が深化し、社会変革が起こらざるをえないことを述べており、これはマルクス・エンゲルスの一貫した思想です。だから、不破さんにとってこの文章は、まともに読んだならば、自らの誤りを悔い改めるべき内容が書かれている文章です。

⦿その文章に「恐慌」は社会変革の「槓杆」の一つだとわざわざ書いてなかったから、マルクスが「恐慌」を社会変革の「槓杆」の一つだと考えるのをやめたと言うのです。いくら自分の謬論にマルクスを巻き込みたいからといって、ここまで『資本論』とマルクスをねじ曲げることはないだろう。だいたいにおいて不破さんは、「恐慌」を社会変革の「槓杆」の一つだとは思わないのだろうか。

⦿マルクスは恐慌について、「恐慌は、つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかない。」(大月版 ④ P312-314)と規定しています。そして、マルクスとエンゲルスは「恐慌」を資本主義的生産様式の矛盾の現れであり、社会変革の最も強力な「槓杆」の一つであると見ていましたが、「『桎梏』化」の「唯一の代表的な表現」などと見たこともないし、言ったこともありません。

 そして、マルクスは「資本主義的生産様式」が生産力の発展の「桎梏」(あしかせ・制限)となった現れとして「恐慌」を見ていましたが、「恐慌」を資本主義的生産様式の「桎梏」と見たことなどなく、ましてや、不破さんの言う「『桎梏』化」の表れである「地球温暖化や原発」と同列に見るような視点などマルクスとエンゲルスは持ち合わせていません。

⦿不破さんはマルクス・エンゲルスが恐慌を「独占資本の『桎梏』化の唯一の代表的な表現と見る」と見ていたなどと訳の分からないことをいいますが、「唯一の表現」と見ていたと言うのであればその証拠を示すべきですし、「代表的な表現」であるならばマルクス・エンゲルスに「『恐慌=革命』説」なる濡れ衣を着せるのをやめるべきです。

⦿そして、不破さんは「資本主義的外被は粉砕する者がいなければ粉砕されないし、鐘を鳴らす力をもったものが現れなければ、『資本主義的私的所有の弔鐘』は鳴らないのです。

 ここには、マルクスの社会変革論、資本主義体制の『必然的没落』論の新たな定式化がありました」と言います。

⦿もう、呆れてものが言えません。党綱領から労働者階級の歴史的使命を外してしまった不破さんが「マルクスの社会変革論の新たな定式化」を語るのです。

 『レーニンと「資本論」』(1998-2001年)を書き終えて、『資本論』の「草稿の全体を読む仕事を始め」、第二部第一草稿で「マルクスの発見」のヒントを発見し、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたという不破さんは、二一世紀になるまで唯物史観の意味がわからないエセ「マルクス主義者」だったのでしょうか。それとも、唯物史観を発見したマルクスが、不破さんがでっち上げた「社会変革論の新たな定式化」以前には、唯物史観を多少なりともかじった人ならば誰でも理解しているこんな当たり前のことさえ知らなかったエセ「マルクス主義者」だったのでしょうか。

 判断は、読者のみなさんにお任せします。

⦿なお、不破さんのこの文章には、マルクス主義者としての最も大切なことがぬけています。この不破さんの文章に欠けているものを労働者階級に自覚してもらうために、マルクスとエンゲルスは『資本論』や『空想から科学へ』や『共産党宣言』を中心とする著作群を執筆し、マルクス・エンゲルス・レーニンは命を賭してたたかったのです。それは、「労働者階級の側の革命的階級への成長と社会の多数者の支持を得る」ための──社会変革の事業をなしとげる主体的条件を築きあげるための──、資本主義的生産様式の社会の発展段階が特徴づける資本主義の姿の徹底的な暴露と、その変革の必要性と、向かうべき方向の明示です。そして、そのための国民運動の組織についての理論と実践です。つまり、不破さんに欠けていて必要なものは、現代の資本主義を変革するための、科学的社会主義の思想です。

P159-160 不破さんの二つの誤り

⦿159ページから160ページにかけての文章には、不破さんの、二つの誤った記述があります。一つは、マルクスが、「所有」の「転化」の期間を述べているところと資本主義社会から共産主義社会(発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階の社会)への「過渡期」の期間を述べているところを混同して、マルクスを誹謗している誤りです。そして、もう一つは、マルクスが資本主義的生産様式という賃金「奴隷制のかせ」からの解放を述べている部分を、不破さんは、「指揮者はいるが支配者はいない」という「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」問題、民主的な職場作りの問題と思い込んでしまった誤りです。

 それでは、順を追って見てゆきましょう。

「過渡期」をめぐる不破さんの混乱──資本主義社会から共産主義社会への移行期間が長期を要することは科学的社会主義の思想の常識──

⦿不破さんは、159ページで、「生産手段の所有」の「転化」をめぐる『資本論』の文章を抜粋し、「要約して言えば、小経営の私的所有から資本主義的な私的所有への過程は、資本主義からの社会主義的変革の過程よりも、比較にならないほど長くかかる苦しい過程だった、ということ、言い換えれば、社会主義的変革の過程はずっと短時間でおこなわれるだろう、こういうことです。」と解説し、続けて、「しかし、変革過程の長さという問題では、マルクスは、『資本論』第一部の刊行後に、新しい見地を発展させることになりました。」と言い、『フランスにおける内乱』を引用し、「資本主義社会から共産主義社会にいたる過程に『過渡期』が必要だという考え方も、そこから生まれてゆくのですが、この論点の紹介はここまでにとどめて、先に進むことにしましょう。」と述べて、『資本論』第一部の解説を終わります。

⦿「この論点の紹介」を「ここまでにとどめて」、先に進まれては、マルクスが『資本論』の第一部で間違ったことを言っていたという印象を読者に与え、読者のみなさんが消化不良になってしまうだけでなく、マルクスの名誉も守れません。

⦿不破さんは、『前衛』の2015年5月号で、マルクスは『資本論』第一部では「資本主義から共同社会への経済的な移行は、比較的短い期間しか要しないだろう」という見通しをたてたが、1871~73年以降に、「新しい共同社会の形成には」、「『長い過程』が必要になる」と『資本論』第一部での結論を訂正したと言います。これが、不破さんが「変革過程の長さという問題では、マルクスは、『資本論』第一部の刊行後に、新しい見地を発展させることになりました」と言っていることの中身です。

⦿しかし、待って下さい。『資本論』第一部でマルクスが述べたことは、資本主義的生産様式の社会への転化のための資本の本源的蓄積の時期と「資本主義的所有の社会的所有への転化」の時期との比較の問題です。資本主義的生産様式の社会への転化のための資本の本源的蓄積の時期とくらべ、「資本主義的所有の社会的所有への転化」の期間は比較的短期ですむだろうという見通しを述べたもので、「新しい共同社会(=「いわゆる共産主義社会」)の形成」のための期間を述べたものではありません。

⦿不破さんは、「資本主義的所有の社会的所有への転化」を「新しい共同社会の形成」に勝手にすりかえておいて、マルクスは、「過渡期」は比較的短い期間しか要しないだろうという見通しを立てていたと歪曲し、その歪曲を前提にして、マルクスは『フランスにおける内乱』で「過渡期」は「長い過程」が必要になると訂正したというのです。

⦿不破さんは、マルクスが、資本主義社会から共産主義社会への移行期間が長期を要するという科学的社会主義の思想の常識を『資本論』第一部の刊行(1867年9月)のときにはまだ知らなかったと言うのですから、ただただ、呆れるばかりです。

 ほんとうに、ただただ、呆れるばかりです。マルクスとエンゲルスは「1845年以来」、当然ながら、「必然の国」から「自由の国」への跳躍の期間としての「過渡期」があることを言い続けており、それは、資本主義社会から国家のない社会、いわゆる「共産主義社会」までの期間のことです。だから、「長期の闘争を経験し、環境と人間をつくりかえる一連の歴史的過程を経験しなければならない」のです。

⦿『資本論』第一部の、資本主義的生産様式の社会への転化のための資本の本源的蓄積の期間と「資本主義的所有の社会的所有への転化」の期間との比較は、資本主義社会の「革命的な転化の時期」=「政治的な一過渡期」における「資本主義的所有の社会的所有への転化」が、資本の本源的蓄積過程に比べてはるかに短期間であることをマルクスは述べているのです。そしてこの『資本論』第一部の文章と第三部の資本主義社会から共産主義社会への移行期間が長期を要するという見通しの文章とは対をなす文章なのです。だから、マルクスは、『資本論』第一部の記述を「修正」などしなかったのです。

「奴隷制のかせ」という言葉の不破さんの特異な解釈

⦿不破さんは、160ページで、マルクスが「パリ・コミューンの偉業をたたえるインターナショナルの声明を準備する中で、コミューンが開始した事業の前途を研究し、資本主義の胎内で発展した『社会的生産経営』を新しい社会の経済的基礎に変えるには、経営内の人間関係を、資本主義時代にそこに固着した〝奴隷制のかせ〟から解放することが必要だ、そのためには、『労働者階級は環境と人間をつくりかえる長期の闘争、一連の歴史的過程を経過しなければならない』(『フランスにおける内乱』)という結論に到達した」と述べて、「奴隷制のかせ」という言葉の不破さんの奇抜な「解釈」をあたかもマルクスの考えででもあるかのように読者に思わせたうえで、「経営内の人間関係を」、「指揮者はいるが支配者はいない」という民主的な職場にする「ためには」、「労働者階級は環境と人間をつくりかえる長期の闘争」が必要だという、画期的な「未来社会」論を披露します。

⦿この不破さんの文章には、「奴隷制のかせ」という言葉の誤った解釈と「経営内の人間関係を」変える「ためには」「長期の闘争」が必要だという「未来社会」論の誤りという、二重の誤りが、マルクスの考えででもあるかのように表現されています。

⦿しかし、「奴隷制のかせ」とは資本主義社会において労働者が賃金奴隷制に縛られて生存しなければならない状態をあらわしており、「奴隷制のかせ」からの解放ということが「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」だなどということを意味していないことは、不破さんとその影響を受けて同調している者以外、誰でも理解していることです。

⦿なお、不破さんが自ら生みだした「生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」という資本主義社会から「社会主義社会」への「過渡期」論は、不破さんが、『フランスにおける内乱』の第一草稿を正確に読みこなせていないために、資本主義社会から「社会主義社会」への「過渡期」論なのか、それとも、「共産主義社会」にいたる「過渡期」論なのか判然としません。

※「過渡期」に関する詳しい説明はホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」を、「自由の国」についての詳しい内容はホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

 以上が、「『資本論』探究〈上〉」の「Ⅰ『資本論』第一部を読む」で不破さんが言っていることの検証です。

引き続き、ホームページAZ-4-3「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その3)──『資本論』第二部での不破さんの歪曲と捏造──」をお読み下さい。

このホームページAZ-4-3「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その3)『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えさせるな!!!──『資本論』第二部での不破さんの歪曲と捏造──」は、不破さんの「『資本論』探求」の「『資本論』第二部を読む」での『資本論』の歪曲と捏造を明らかにし、不破さん責任編集の「新版『資本論』」を読む上での留意点を明らかにしています。是非、お読み下さい。

 なお、まだ、ホームページAZ-4-1「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その1)〈第一部 新版『資本論』の意図と『赤旗』宣伝ページの科学的社会主義の思想の歪曲〉」を読まれていない方は、ホームページAZ-4-1を、ぜひ、お読み下さい。

AZ-3 「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説」を読んでいない方へ