4-18

☆「人間の発達」は資本主義社会を社会主義社会に変え、生産力を発展させる運動を通じて保障される。

目次〈前半〉

・不破哲三氏と石川康宏氏の「奇想天外」な掛け合い漫才
・「生産物の生産と分配の仕方」を変えることは、資本主義的生産関係を変え社会の主役になること
・石川先生は「どんなテーマで何を学習しようとした」のか
・資本主義に退場してもらわなければ、「人間の発達」を保障することはできない
・不破さんはなぜ『国家と革命』を真摯な態度で読むことができないのか
・科学的社会主義の理論を矮小化させ変質させる人には、いまの日本を解明できない
・資本主義を見つめ、今を見つめ、現実をリアルに捉えて、ラディカルに問題提起を!
・資本主義とは、その限界は
・資本は限界から脱するために、国民を棄てる

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☆階級社会の本質を曖昧にし、「生産物の分配の仕方」より「人間の発達」を重視する不破哲三氏の観念論

不破さんと石川先生の「奇想天外」な掛け合い漫才

 『前衛』(No904)P117の鼎談での不破さんと石川先生の掛け合い漫才が実にふるっている。不破さんが、「従来の社会主義論」について、「たいていが、生産物の分配どまり、経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心なことが出てこないのです。だから「未来社会」といってもあまりうらやましくない」というと、石川先生が「そういうテーマでの学習会では、そんなにいっぱい物を消費しなくてもいいじゃないかとか、むしろ環境によくない、無駄じゃないか、という意見がよく出たものです」という。
 「従来の社会主義論」を吹聴してきた不破さんがいままで自分の信じていたものを「だから「未来社会」といってもあまりうらやましくない」と掃き捨てる。潔いといえば潔い、無責任といえば無責任、信念がないといえば信念がない、深い考えを持っていないといえば深い考えをまったく持っていない。しかし、不破さんという人はよくここまで「従来の社会主義論」を歪曲して言い切れるものだと感心する。とても普通の人間にはまねできないことだ。
 そしてこの不破さんの「従来の社会主義論」にからんでくる石川先生の「奇想天外」な掛け合い漫才は何とも言いようがなく、先生は『マルクスのかじり方』を商売にしているが、かじった人がこんな人だと分かったら、かじられたマルクスもさぞ困惑していることだろう。
 不破さんと石川先生の「奇想天外」なばかばかしい掛け合い漫才ではあるが、『赤旗』では有名な方々なので、わけも分からず信じ込んでしまう人もいないとも限らないので、その「奇想天外」さと「ばかばかしさ」を一緒に見ることを通じてマルクス・エンゲルス・レーニンの思想をみてみたい。

「生産物の生産と分配の仕方」を変えることは、資本主義的生産関係を変え、社会の主役になること

 まずはじめに、私たちがその正しさを確信し、〝搾取なき自由の国〟を〝闘いとる〟ために、すばらしい「未来社会」を実現するために学んできた「従来の社会主義論」について見てみましょう。
 「社会主義論」としての「経済的土台の変化」とは、資本主義的生産関係を変え、「生産物の生産と分配の仕方」をかえ、「収奪者の収奪」(=生産手段の社会的所有)を実現することです。それは、労働者を賃金奴隷から解放し、〝搾取なき自由の国〟を〝闘いとる〟(学園民主化闘争の中で肩を組んで歌った“同志よ固く結べ”の一節)基礎を築くことです。
  このたたかいについて、レーニンは『国家と革命』で、「民主主義を徹底的に発展させること、このような発展の諸形態を探しだすこと、これらの形態を実践によって点検すること等々、すべてこうしたことは、社会革命のために闘争するという任務を構成するものの一つである」(国民文庫P113)と言い、社会革命と民主主義との切っても切れない関係と民主主義の多彩な発展の必要性について述べること、そして、革命後も社会を民主的に組織するために全力でたたかい続けたことは、HP4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」などで再三指摘してきました。
  ここには、社会主義社会への社会変革は国民一人ひとりが担うものであり、その資格と能力を持っているのが労働者階級であり、その能力は現実の社会との格闘の中で鍛えられ発展するものであることを私たちに教えてくれた、マルクスとエンゲルスの思想が脈々と流れています。
  しかし、青春時代には、すばらしい「未来社会」を実現するために、熱い心を持って学んできたであろう「従来の社会主義論」を、「経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心なことが出てこない」「あまりうらやましくない」ものと決めつけるに至った不破さんには、〝by the people〟の思想が、マルクスとエンゲルスの思想が、民主主義とはなにかが、まったく理解できていないようです。不破さんは「多数者革命」を言いますが、変えるべきものが何か、変革の主体は誰か、まったく理解できていないようです。資本主義的生産関係を変える闘いを通じ、国民一人ひとりが社会を担う主体としての能力を発展させていく中で、民主主義が発展し、一人ひとりの能力が発展し、〝人間の発達〟が図られてゆくことが理解できないようです。
 マルクス・エンゲルス・レーニンの言っていることが理解できないのか、信じることができないのか、そのどちらなのか私にはわかりませんが、「多数者革命」をいう現在の「共産党」は、いまの日本を曝露し国民の政治的な目ざめを促す、全戸配布を含む広範な政治宣伝よりも、猫なで声で「共産党」の「要求」を電話で訴えて「共産党」への支持を依頼するという〝前衛党〟らしからぬ活動を続けています。これで国民の意識が変わるなら〝前衛党〟などいりません。いきなり「共産党」の悪口を言っていると思われる方もいるかと思いますが、実は、このような「共産党」の行動様式と不破さんが探究した「未来社会」像とは、ピッタリと一致しているのです。不破さんは、「未来社会」像として〝指揮者はいるが支配者はいない〟社会を夢みています(詳しくは、HP4-20「白星「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」した物は、唯物史観の否定だった」を参照して下さい)。しかしこの「未来社会」は「指揮者」のイメージを「演奏者」がかなでる社会で、学校の先生が援助者として助言を行い生徒たち皆が個性を出しあい主体的にクラスを創っていくような社会とは異なり、「諸個人が分業に奴隷的に従属する」社会です。マルクス・エンゲルス・レーニンが考えた未来社会、「諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり」、恒常的な「指揮者」などいない社会とは異なります。この不破さんの「未来社会」像には主体的な諸個人が欠けています。そして現在の「共産党」も、国民が主体となって「未来社会」をつくること、そのために党の内外に主体的な諸個人をウンカのごとく生みだすことなど考えも及びません。このように、「共産党」の行動様式は不破さんの「未来社会」像とピッタリ一致しています。
*「共産党」の行動様式の改善点についての詳しい説明は、「自分の意見をもった〝新しい人〟が作る〝新しい社会〟」の3-2「共産党よ元気をとりもどせ」3-2-2「民主主義を貫く党運営と闊達な議論の場の設定を」3-2-3「党支部は、党を作り、草の根から民主主義を組織するよりどころ」及び3-2-6「〝前衛党〟は市民革命の助産婦に徹しよう 」等を参照して下さい。
 もしも不破さんたちが科学的社会主義の思想を自らの信念としているのであれば、彼らがいまやるべきことは、「従来の社会主義論」を歪めて、「人間の発達」を資本主義的生産様式の社会から切り離すことではありません。いまやるべきことは、国民の活力を引きだすために、現在の日本「共産党」を、国民が社会を変えるための〝触媒〟という正しい位置に戻すこと、スターリンによって歪められた「従来の共産党」をマルクス・エンゲルス・レーニンが考えた〝前衛党〟に生まれ変わらせることです。

石川先生は「どんなテーマで何を学習しようとした」のか

 不破さんの無責任な発言に悪乗りした石川先生は、「そういうテーマでの学習会では、そんなにいっぱい物を消費しなくてもいいじゃないかとか、むしろ環境によくない、無駄じゃないか、という意見がよく出たものです」と、「従来の社会主義論(マルクス・エンゲルス・レーニンの社会主義論)」を学んできた私たちには理解不能なことを言っています。
 マルクスの『ゴータ綱領批判』の次の文章は有名です。
「共産主義社会のより高度の段階において、すなわち諸個人が分業に隷属的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち──そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」(岩波文庫P38)。
  石川先生がチューターになって、「どんなテーマで何の学習会をしたのか」まったく不明ですが、石川先生は「マルクスをかじって」いらっしゃるので、先生の得意の批判の仕方(詳しくはHP4-22「☆石川康宏氏は、唯物史観を認識の中心に据えるべきではないのか」を参照して下さい。)でマルクスを「そんなにいっぱい物を消費しなくてもいいじゃないか」と「批判」できそうなものを探して引用したのが上記の文章です。
 石川先生が『ゴータ綱領批判』の先の文章から、ワードやフレーズを切り取って、「マルクスは「生産諸力」が「成長し」、「富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるように」なる社会を「未来社会」として夢みていた」と、石川先生が得意の批判の仕方で「批判」できそうな文章です。
 資本主義社会の仕組みもマルクス・エンゲルス・レーニンの考えも教えず、上記のように石川先生言ったとしたら、「そういうテーマでの学習会」でそういう声が出るかもしれません。ただ、「そういうテーマでの学習会」で「そんなにいっぱい物を消費しなくてもいいじゃないか」と発言した学生の真意は分かりませんが、今の日本が、産業の空洞化が進行する中で、富の格差がひろがり、貧困層が増大し、福祉の基盤が劣化し、不安定雇用が増大し続けていることは確かです。
 そして、自治体の議員を含む多くの共産党員に、現在の「生産物の分配」のあり方を変えることと「人間の発達」という夢のある「未来社会」を語ることについて聞いてみると、「生産物の分配」・「経済的土台の変化」の切実性を訴えます。うれしいことに、まだ、不破さんの「思想」は浸透しきれてはいないようです。
 石川先生は、「マルクスをかじって」生計を立てている以上、「従来の社会主義論=マルクス・エンゲルス・レーニンの社会主義論」とは、資本主義的生産様式を変えて、生産の無政府性を除去することであり、国民にとって必要なものをバランスよく配置することであり、「無駄な消費を煽ることをやめる」ことだということを、生徒にしっかりと教えるべきです。
  なぜ、掛け合い漫才のような結論になるのか。反共主義者でもなければ、到底、理解できないところだ。

資本主義に退場してもらわなければ、「人間の発達」を保障することはできない

 百歩譲って、不破さんの言う「自由な時間の国」をつくり、それが「人間の発達」を保障するという観念的な「人間の発達」観に立つとしても、資本主義は退場してもらわなければなりません。
 マルクスは、資本主義的生産様式をなくすことによる労働日の短縮とその意義について、次のように述べています。
「労働 の生産力が増進すればするほど労働日は短縮されることができるし、また労働日が短縮されればされるほど労働の強度は増大することができる。社会的に見れ ば、労働の生産性は労働の節約につれても増大する。……労働がすべての労働能力ある社会成員のあいだに均等に配分されていればいるほど、……社会的労働日 のうちの物質的生産に必要な部分はますます短くなり、個人の自由な精神的・社会的活動のために獲得された時間部分はますます大きくなる。……資本主義社会 では、ある一つの階級のための自由な時間が、大衆のすべての生活時間が労働時間に転化されることによって、つくりだされるのである。」(『資本論』第一巻 第2分冊 大月『資本論』② P686F9~)
 つ まり、資本主義社会では、資本家階級の生活を維持し自由な時間を保障するために労働者の自由な時間が削られ資本家のための生産がおこなわれています。この 「生産物の生産と分配の仕方」をかえることによって、不破さんの言う「自由な時間の国」(マルクスはそんなことは言っていないが。)をつくることができま す。
 「生産物の生産と分配の仕方」をかえ、そのことを通じて、前述の『ゴータ綱領批判』でマルクスが述べている「共産主義社会のより高度の段階」に到達することができるのです。

蛇足
 私の友人にグラムシの研究をしている真面目な共産党員がいますが、党員の中にはほかにも「グラムシ」に関心をもち、その積極面を評価しながら、不破さんの誤りに気づかない人もいないとも限りませんので、「蛇足」ですがグラムシの関連する文章を抜粋いたします。
 「知識と道徳の革新は、経済改革のプログラムと結びつかずにはいられない。というよりも、経済改革のプログラムこそが、あらゆる知識・道徳改革の具体的なありかたなのだ」(『新君主論』)
 このグラムシの言葉は、唯物史観にもとづく考えを表現したもので、正しい認識を示しています。「生産物の生産と分配の仕方」と「人間の発達」とを分離して捉える不破さんの考え方とは、大きな隔たりがあります。

不破さんはなぜ『国家と革命』を真摯な態度で読むことができないのか

  なお、不破さんは『前衛』のこのページの前のページ(P116)で「レーニンが『国家と革命』で示した未来社会の定式というのは、結局、生産物の生産と分 配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです」と述べて、「従来の社会主義論」の筆頭に『国家と革命』をあげています。
 し かし、その『国家と革命』には、真摯な態度で読めば、『ゴータ綱領批判』の前述の部分が引用されていることや、社会主義建設での民主主義の発展の需要性に ついて、自覚的な個人の社会への参加の需要性や条件について、「新しい自由な社会状態のもとに成長してきた一世代」について、「社会主義が労働日を短縮 し、大衆を新しい生活へひきあげ」ること等について、この鼎談で「人間の発達」「人間の力の発達」と抽象的に語られている程度の内容ならば、十二分に含ま れていることは、誰にでもわかることです。

科学的社会主義の理論を矮小化させ変質させる人には、いまの日本を解明できない

 科学的社会主義の理論を「ものの生産と分配だけではたいしてうらやましくない」と、貧弱で矮小化されたものに変質させる人、その人は、唯物史観のなかにある豊かな内容を理解していない人、あるいは理解しようとしない人です。このような人たちが、〝経済〟を見ることに関心が無く、〝経済〟と〝人間〟との関係に理解がないのは当然です。だから、この人たちは、現在の経済のあり様から日本の〝危機〟を見ることができず、「上部構造」を見ることができず、国民を覆っている閉塞感を説明することができず、「ルールある資本主義」を一日千秋のごとく言う以外になにもできない人たちなのです。

資本主義を見つめ、今を見つめ、現実をリアルに捉えて、ラディカルに問題提起を!

  一生懸命勉強しても非正規社員にしかなれない今の日本の社会、ますます多くの人が不安定雇用に追いやられつつある社会、労働者なのに自営業者と同じ国民健 康保険にしか入れない歪んだ資本主義社会、社会的障害物(ルール)を築いても築いてもブルトーザーで撤去され、〝ルールある資本主義を!〟という「正義」 の叫び声がむなしく聞こえる社会。この社会を、努力すれば努力した人が報われ、平和な平凡な生活が保障される社会に変え、野蛮から文明への小さな一歩を踏み出すことは、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定して「未来社会」を語ることよりも現実的で、実践的で、〝未来〟につながる価値ある行為です。それを「たいしてうらやましくない」と言って否定する。この言葉を聞いて誰が喜ぶのか、ちょっとでも考えれば、すぐにわかることです。
 資本主義を、今の日本を、事実にもとづいて解明し、その改革の必要性と必然性を説明し、「未来社会」への小さな一歩の姿を国民に示すことは、民主主義の実現を目ざす運動とともに〝革命運動〟の二大テーマの一つです。今の日本の富の「生産と分配」のリアルな姿をマルクスの目で暴露し、「生産と分配」の仕組みを変えることがどれほど大切なことか、一緒に見てみましょう。

資本主義とは、その限界は

 ご承知の通り、資本主義は、主として日用品の大量生産のための生産手段を個々の企業(企業を通じて資本家)が持って労働者を使って商品を作り、他の企業との競争を通じて市場で価値を実現し、自己の利益の最大化を図る社会システムです。
 つまり、外部との関係では、他企業より有利な競争条件の確保に全力を尽くし、互いに競争し、時に停戦する。そして、内部においては、コストを最小限にするために、外部不経済を当然視しながら技術の革新と労働予備軍の不断の創出と賃金の引き下げに努める。
 日 用品の供給が需要を下回っているうちは生産は増加し、経済は発展し、賃金も上がり、雇用も増え、社会の富が全体的に増え国民生活が豊かになり、福祉や公共 投資にも資金がまわり、社会全体が豊になる。ここまでは、資本主義的生産様式が生産力の飛躍的発展のためにその歴史的役割を果たす時期です。
 しかし、日用品の供給能力が需要を上まわると、企業は儲けた金の使 い道がなくなり、資本が資本として機能する場がなくなる。一方で、私的資本主義的取得に依拠した社会的生産は、資本が資本として機能しなくなればなるほ ど、益々、社会的に必要なもののために富がまわらなくなる。これ以上資本主義的生産様式を続けても、資本主義的生産そのものが生産力の発展の〝桎梏〟とな る。1970年代に、日本の生産力はこのような水準に達したと考えられる。詳しくはHP今を検証する」を参照して下さい。

資本は限界から脱するために、国民を棄てる

 供給能力が需要を上まわるようになり国民の需要が満たされると、事業拡大のできなくなった資本は儲けるためにどんな行動をとるのか。二つ考えられる。
 一つは、同じ量の生産で儲けを増やし続けようとする。銀行に借金を返し、内部留保を厚くし、単純再生産のために設備を更新して生産性を高め、労働者の数を減らし、あれこれ理屈を付けて賃金を引き下げる。これが毎年続くと社会の富の生産が全体的に減り、社会は停滞する。
 二 つ目は、資本が国を棄て、国民を棄てることである。帝国主義は海外は搾取と収奪の対象であり、国内に富を蓄積することによって国と国民におこぼれを施すこ とによって国家の求心力を高め、海外での支配力を強化し、それによって一層の資本の蓄積を図る国家と資本が結びついた政治経済体制だった。しかし、資本主 義的生産様式のもとでの自国での成長の限界に達した資本は、国と国民を利用するだけ利用しながら国と国民におこぼれを施すことをやめ、海外で生産して海外 で富の蓄積を図る道を歩むことなる。その結果国内産業の空洞化がはじまる。
 この資本の二つの行動が合わさった姿、これが現在の日本の姿だ。

 

 

ちょっと、

ひと休み。

目次
・空洞化を隠蔽しようとする人、空洞化の意味を理解しない人
・解決策は「人間の発達」のための「ルールある資本主義」ではなく、「生産と分配」の仕組みを変えること
・無計画な「地域開発」の揶揄でなく、地域で高い生産力を生かさせる
・商売が住民の利便性本位に
・その結果、どんな特徴を持った社会が現れるか
・労働者の創意を生かし、生産性を高め、労働者を大切にして社会に貢献する企業は高く評価される
・いま頑張っている60代、70代が青春時代に自分の人生の拠りどころとした「従来の社会主義論」の本質をもう一度学びなおそう

空洞化を隠蔽しようとする人、空洞化の意味を理解しない人

 資本主義的生産様式が生産力拡大の「桎梏」となり、生産関係の変更が必要となったことを認めたがらない人、あるいは、理解しない人たちは次のように言う。
 あたかも空洞化のもとでも成長が可能であるかのように、ブルジョア成長論者は、「競争力の拡大を、そのためにTPP参加を!」と、「日用品の生産から高付加価値商品の生産へ!」と。
 ブルジョア改良主義者は、「大企業の内部留保を取り崩して一人一万円の賃上げを行えば景気は回復する!」と、「浪費的な部分が一掃されれば健康で文化的な生活ができる。これが未来社会だ!」と、「地方経済を活性化することによって日本経済を再建しよう!」と。
 ブ ルジョア改良主義者の言うことも高付加価値の商品を生産することも大切なことである。しかし、「大企業の内部留保を取り崩して一人一万円の賃上げ」を行っ ても、「高付加価値の商品生産」に力を注いでも、今の日本を再生させることはできない。お金(富)の流れを大転換させなければ日本を再生させることはでき ない。2014/01 /19付け『日経新聞』によれば、2012年度の国の正味財産が1.1兆円増えて3000.3兆円となり、その内訳として対外純資産が、企業の海外直接投 資や銀行の海外向け融資が大きく伸び、30.9兆円増え、296.3兆円になったという。単純に計算すれば、29.8兆円の国富が海外に持ち去られたこと になる。産業の空洞化が進み、国富は減り続け、対外純資産は増え続けている。この流れを変えなければ日本の再生はない。

解決策は「人間の発達」のための「ルールある資本主義」ではなく、「生産と分配」の仕組みを変えること

 そ のためには、HP4-9☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルク ス・エンゲルス・レーニンを否定する」で述べたとおり、生産様式の一部変更(グローバル資本の民主的統制)以外に道はない。生産様式の変更とは資本と利潤を私的企業の専有物にしないことである。とりあえず、産業の空洞化を阻止するためにグローバル資本の民主的統制をおこなうことである。こ れまで拡大再生産のために振り向けていた富、今となっては使いみちがなくため込んでいる資金、海外に投資することによって国内産業を空洞化させる富(労働 者が作った富)を、税として社会が吸い上げ、社会に還元し、社会はそれを原資として社会の発展・福祉の増進のための分野の利潤率を上げるために再配分す る。生産力を高める〝桎梏〟となっていた資本主義的生産関係を社会主義的生産関係に近づけることによって、「社会的生産と資本主義的取得形態の矛盾」の解消に向かうことによって、〝生産力〟に発展の自由が与えられ、日本再生の第一歩が踏み出される。

無計画な「地域開発」の揶揄でなく、地域で高い生産力を生かさせる

 工業立地の仕方も今までとは全く違うものとなる。これまでは、企業が都合の良さそうなところを恣意的に選んで立地した結果、誘致に失敗した地域はぺんぺん草が生え、自治体財政は大きなダメージをうけた。その結果、「だから開発は反対だ」と抽象的な「内発的発展」以外の対案をもたない政党から揶揄されていた。そ れでも、そんな無政府的な開発であっても、国民は、抽象的な「内発的発展」を言うだけで、「資本をコントロール」して労働者の職を確保し地域を健全に維持 するための「対案をもたない政党」を「何でも反対の党」とみなし、なんの具体的な計画・展望ももたないが、からだを一生懸命動かす、開発政党を支持してき た。しかし、〝国民の新しい共同社会〟の入口に立った民主的権力は「資本をコントロール」して、国民の総意で決められた国土のバランスのとれた地域づくりに資本を参加させ、あらかじめ決められた工業配置計画にもとずき基盤整備を行なう。自治体は企業が来るかどうかの〝博打〟をしなくてすむようになる。

商売が住民の利便性本位に

 流通も資本主義的生産関係から解放されるならば、価値の実現方法(物を売って貨幣をえること)も大きく変わる。例えば、ローソンもセブンイレブンもファミマも2013年の今と外見上は何の変化もない。若干ケバケバしさは薄れたが、街のネオンも綺麗だ。しかし、いまや、それぞれの店舗はそれぞれの個別資本の利益追求のための道具から国民の利便性向上のための拠点に変化している。その運営の基本方針は、国民の総意で決める。だから、儲かる都会の利益は、必要だが儲からない田舎の「コンビニ」づくりに使われる。

その結果、どんな特徴を持った社会が現れるか

 近未来社会では、「生産物の分配」の変化により、「経済的土台の変化」により、このように、万事が国民本位になる。その結果、このようにして作られる社会は次のような特徴を持つ。
 ①あらゆる便利さは今以上に改善される
 ②よけいな無駄がなくなる
 ③努力した人が報われる
 ④うまれながらの大金持ちがいなくなり、大金を配当や利子で稼ぐ人もいなくなる
 ⑤生活不安や(他をけおとすための)無意味な競争等がなくなり悪いストレスが軽減される
 ⑥外部不経済、集合の誤謬が排除される
 ⑦資本主義的生産関係がなくなることによって、生産力の発展を抑制する社会的条件が取り除かれ、全ての国民が豊かな生活と自由な時間を享受する最初の一歩が保障される
 ⑧あとは、みなさんがイメージして下さい。
 :

労働者の創意を生かし、生産性を高め、労働者を大切にして社会に貢献する企業は高く評価される

 このような社会づくりに貢献した企業は社会から高く評価され、そこで働く労働者はそれなりの待遇を受けるとともに「ブルジョア改良主義者」の夢も叶えられる。そして何よりも重要なのは、このような経済社会を築く運動を通じて、労働者のなかに、職場でも地域でも〝by the people〟の思想、民主主義が力強く育っていくということです。

いま頑張っている60代、70代が青春時代に自分の人生の拠りどころとした「従来の社会主義論」の本質をもう一度学びなおそう

 「生産物の分配」の変化、「経済的土台の変化」により、このように具体的で鮮やな姿(私は表現力に乏しいために鮮やではないが)を国民に提示することができる。このように変化した社会は、現代の若者にとって「うらやまし」すぎる社会ではないでしょうか。だから、日本共産党の綱領も「経済的土台の変化」を「社会主義的変革の中心」と言っているのではないでしょうか。
 不破さんの「未来社会」の空論に惑わされることなく、21世紀に生きる時代の精神をもってマルクス・エンゲルス・レーニンの古典を学び、集会で頑張っている60代、70代が青春時代に自分の人生の拠りどころとした「従来の社会主義論」の本質を学びなおし、21世紀に〝by the people〟の思想、民主主義をしっかりと根づかせる運動をすすめよう。