AZ 「自らの虚構にあわせるための『資本論』の変造」

──2003年にルビコン川を渡った不破さんの『資本論』変造の虚構──

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このページの作成意図

 このホームページAZ「自らの虚構にあわせるための『資本論』の変造」は、不破さんの『資本論』変造の壮大なカラクリを明らかにし、マルクス・エンゲルスと不破さんとの世界観・革命観の違いの核心である「産業循環」に対する見方の違いを明らかにすることによって、「AZ」シリーズ──主として不破さんの『資本論』の変造を暴露することを通じて科学的社会主義の思想を再確認し現代の課題を考えるページ──をより理解していただくための導入のページとして、作成しました。

 なお、「AZ」シリーズをお読み頂くにあたって、できれば、「AZ-1」→「AZ-2」→「AZ-3」→「AZ-4」の順にお読み頂ければ、私の舌足らずで稚拙なページも多少はご理解がすすみやすいのではないかと思いますので、よろしくお願いいたします。

 

 

不破さんの謬論を暴露する〝導入のページ〟であるとともに〝まとめのページ〟

 そして、このページは、これまで不破さんが行なってきたマルクス・エンゲルス・レーニンの著作の歪曲と彼らに対する誹謗・中傷を暴露する〝導入のページ〟であるとともに〝まとめのページ〟でもあります。

 このページは、不破さんのニセ「マルクス主義」を歴史のクズ籠に捨て去るために、まず初めに、不破さんの立脚点(思想)にもとづく不破さんの壮大な虚構を明らかにし、つぎに、その不破さんの壮大な虚構(マルクス主義の偽造)を手品の種として自らの思想がマルクスの思想の最新の到達点を引き継ぐものででもあるかのようにいう不破さんのデマを完膚なきまでに論駁し、最終的に、不破さんがマルクスのお面をかぶったブルジョアジーに操られるピエロであることを明らかにしています。

 日本経済の危機の深まりを見ようとせず、ニセ「マルクス主義」で日本共産党のエネルギーを奪って長期の停滞に導き、その結果、日本国民に計り知れない損害を与え続けたマルクスのお面をかぶったピエロを、マルクス・エンゲルス・レーニンがしてきたように、みんなで歴史のクズ籠に捨て去りましょう。

 

不破さんの壮大な虚構づくりの舞台としての『資本論』の改竄の根拠

 不破さんは、「『資本論』探求 全三部を歴史的に読む」の最後の文章「結び 連載を終わって」の冒頭で、「『資本論』は、マルクスの著作のなかでも、〝歴史的に〟読む必要性が最も高い著作だと言ってよいでしょう。」と述べ、その理由に次の二点を挙げています。

 一つは、草稿の「執筆を終えるまで、その完成に四〇年近い研究と思索のすべてをそそぎこんだ著作です。そのなかには、考察途上の問題や分野も少なからずあり、その後の著作やノートのなかにより前進した見解が示されたものもあれば、マルクスが誤りとして乗り越えた見解が現行の『資本論』のなかにそのまま残っている部分」があること。

 二つ目は、『資本論』の第二部、第三部は「マルクスが残した草稿をエンゲルスが編集したもの」だが、エンゲルスは「マルクスの生前に手紙などで知らされていたごく一部の論点をのぞけば、第二部、第三部草稿の内容について、(マルクスと──青山)知識を共有して」おらず、「『資本論』の執筆に先立つ『五七~五八年草稿』や『六一~六三年草稿』については、大まかに目を通す機会はあったかもしれませんが、本格的に研究する余裕はなかった」と推察できること。

 不破さんは、これらの「推察」から、エンゲルスがマルクスと「知識を共有して」いなかった(という不破さんの推測)ので、エンゲルスの編集のなかで「マルクスが誤りとして乗り越えた見解が現行の『資本論』のなかにそのまま残っている部分」を修正しなければならないという『資本論』改竄の根拠を見い出します。

 このように、推測に推測を重ねて『資本論』改竄の完璧な根拠を見い出した不破さんは、「『資本論』の内容をより深くつかむことは、現代の私たちにとっても不可欠の課題です。かなりテンポを急いだ連載でしたが、それが読者のみなさんの『資本論』研究に役立つことを願って、筆をおきます。」と言って文章を結んでいます。

 

不破さんの『資本論』を「歴史的に読む」というもっともらしい主張は、不破さんの壮大な虚構づくりのための舞台として『資本論』を改竄して使うための口実

 不破さんは、科学的社会主義の思想をまったく理解できていない、誤った考えにもとづき、『資本論』の「テンポを急いだ」決めつけと思い込みによる『資本論』の改竄をおこない、それを「歴史的に読む」というもっともらしい言葉でカモフラージュします。

 私たちは、不破さんの言う「全三部を歴史的に読む」ということが、マルクスの考えを「修正」しようとする不破さんの方便であることを、「テンポ」を急がず、不破さんの「テンポを急いだ」「『資本論』探求」の内容と『資本論』を含むマルクスとエンゲルスの著作の内容とをしっかり照らし合わせ、一つ一つ丹念に確認し、不破さんの主張がマルクスの考えを「修正」しようとする口実にであり、誤りであることを、ホームページAZ-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説」シリーズ及びホームページAZ-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏」シリーズで検証してきました。

※詳しくは、ホームページAZ-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説」シリーズ及びホームページAZ-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏」シリーズを、是非、ご覧下さい。

 このように、不破さんの『資本論』を「歴史的に読む」というもっともらしい主張は、不破さんが〝科学的社会主義の思想〟に挑戦し修正するための壮大な虚構づくりのための舞台に〝科学的社会主義の思想〟を抜き去った『資本論』を使うために、『資本論』を台無しにするための合い言葉なのです。

 不破さんの〝科学的社会主義の思想〟に挑戦し修正するための壮大な虚構づくりは、どのようにはじまり、不破さんの修正主義の「核」となる考えは何か、一緒に見ていきましょう。

 

2003年の不破さんの「大発見」

 2003年にルビコン川を渡たることを決意した不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった「大発見」───レーニンどころか、科学的社会主義の思想の正しさを確信している、宮顕さんを含む、世界中のすべての共産主義者が気づかなかった「大発見」──を、21世紀になっておこないます。

 不破さんの「大発見」とは、1865年より前のマルクスは、「恐慌が必ず革命を生む」と考えており、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まる」と考えていたが、1865年以降のマルクスは、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がなく、資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」(『前衛』2013年12月号P97)と考えるようになり、資本主義観の大転換をおこなった。その結果、「もう資本主義の見方も、革命の見方も変わっているのです。その立場から、労働者の運動が資本主義を変革する運動に発展する道筋についても、そういう闘争を積み重ねるなかでの労働者の自覚の成長・発展を軸に社会変革が日程にのぼってくるという新しい見方が、短い言葉できちんと説明されています。」(同前P98)と言うものです。

 

不破さんの壮大な虚構

  不破さんは、自らの反「科学的社会主義」思想に権威を持たせ、共産党員を騙し続けるために、マルクスが1865年に「資本主義観と革命観の大転換」をしたことにして、「変節」前のマルクスとマルクスの文章をエンゲルスやレーニンと同様の未熟な誤った考えにもとづくものとし、「変節」以降のマルクスを現在の不破さんの「思想」につながる思想の萌芽の持ち主に仕立てあげるという壮大な虚構を考案します。

 「『資本論』探求 全三部を歴史的に読む」は、『資本論』を不破さんの「思想」(修正主義)という「プロクルステスの寝台」のサイズに合わせて、改竄するための「テンポを急いだ」創作です。

 

不破さんの「新しい見方」の迷走のしかた

 不破さんは、「資本主義の見方も、革命の見方も変わって」、「その立場から、労働者の運動が資本主義を変革する運動に発展する道筋についても、そういう闘争を積み重ねるなかでの労働者の自覚の成長・発展を軸に社会変革が日程にのぼってくるという新しい見方」をもった唯一無二の世界のリーダーとして、現在も「日本共産党」を導き続けています。

 不破さんは「そういう闘争を積み重ねるなかで」「社会変革が日程にのぼってくる」という「新しい見方」(これを、古い言い方をすると「運動が全てで、目的は無」となり、たたかっているうちに何とかなるという考え)の持ち主ですがら、「賃金が上がれば経済は良くなる」と「そういう闘争を積み重ねる」だけで、社会変革の客観的条件も社会変革の具体的展望も持てず、日本革命の展望を党員に提起できないことを恥じることなく、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」(『前衛』2015年5月号)と居なおるだけです。

 不破さんの言う「危機的な世界」とは何で、不破さんの言う「社会変革」とは現代のグローバル資本主義とどのような関係があるのだろうか。

 

不破さんの「大発見」はウソか誠か、一緒に見ていこう

 不破さんの壮大な虚構のバックボーンとなる不破さんの「大発見」(マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたということ)は、不破さんが『資本論』から「恐慌の運動論」なるものを「発見」したことによります。

 私は、ホームページ4-26-2-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)」の「不破さん、黙して語らず」の「項」で「私は、このページの結びの部分で、マルクスの産業循環の理論の可能なかぎりの「まとめ」と不破さんの言う「恐慌の運動論」の総括を行ない「恐慌の運動論」なるものを雲散霧消させるる予定です」と申し上げました。しかし、『資本論』第一部に「無知は十分な根拠になる」(大月版 ①P404)という言葉がありますが、不破さんの論拠なき断定にもとづくマルクス・エンゲルス・レーニンの思想の歪曲と誹謗・中傷から『資本論』と科学的社会主義の思想を守るために、新らたに二つのページを追加する羽目になってしまい、なかなか約束を果たすことができませんでした。

 けれどもやっと、今ここで、不破さんの言う「恐慌の運動論」の総括を行ない、マルクス・エンゲルスと不破さんとの「産業循環」に対する見方の違いとそこから派生する「資本主義観」の違いについて明らかにする機会がやってきました。 

 不破さんの言う「資本主義観と革命観の大転換」とは何か。マルクス・エンゲルス・レーニンの思想と「大転換」した「資本主義観と革命観」の違いは何か。不破さんは、「大転換」した「資本主義観と革命観」にもとづいて「共産党」を何処に導いているのか。

 不破さんの「大発見」はウソか誠か。一緒に見ていきましょう。

Ⅰ、不破さんの「恐慌の運動論」とマルクスの産業循環の理論

 

不破さんの「恐慌の運動論」

 不破さんが21世紀になって発見したという「恐慌の運動論」なるものは、資本主義的生産様式のもとでの「信用システム」を前提に、生産の社会化の中での資本主義的分業、生産と販売の分離による産業資本の価値「実現」の短縮と「生産と消費の分離」、「価値実現を前提としない貨幣資本の取得とその再投資」等をふくむ〝資本の現象的な流通形態から〟、生産と販売の分離による産業資本の価値「実現」の短縮と「生産と消費の分離」を取り出して、そこに「架空の需要」が起こることを「恐慌」の唯一の根拠と考える、不破さんならではのオリジナルな考えです。これを、不破さんは短縮して「『流通過程の短縮』を主眼とする恐慌の運動論」と言っています。

  不破さんは、マルクスの「産業循環」論の中の一部の現象を取り出して「恐慌」の原因の全てででもあるかのように言う不破さんオリジナルの「恐慌の運動論」を、マルクスの権威を借りるために、マルクスの産物ででもあるかのように言います。

 なお、多少経済学をかじったことのある者なら特に驚くことでもない「恐慌の運動論」なるものを、二一世紀になって発見したことを自慢していた不破さんも、自分の知識の足りなさに気づいたのか、「『資本論』探究」では、「貨幣資本の投入が再生産過程、とくに恐慌問題におよぼす影響という問題の研究にあたって」の「マルクスの二つの視角」の内の一つに格下げされています。

 この、不破さんの「恐慌の運動論」は資本主義的生産の存立条件及び資本主義的生産の諸法則に基づく経済の拡大と縮小により起こる「産業循環」についての論究などまったくありません。

 

 

マルクスの産業循環の理論

①産業循環の捉え方

 マルクスは、拡大再生産が存立条件である資本主義的生産様式のもとでの「産業循環」について、「産業循環の局面転換の単なる兆候でしかない信用の膨張や収縮」を「産業循環」の「転換の原因」と見ることを、「経済学(ブルジョア経済学のこと──青山)の浅薄さ」として痛烈に批判し、「近代産業の生活条件として」の「産業予備軍または過剰人口の不断の形成、その大なり小なりの吸収、さらにその再形成」(大月版②P824)という「近代産業の全運動形態」との相関関係を指摘し、固定資本の耐用年数、資本の流通期間の短縮と延期、利子率の変化など資本主義的生産様式の社会における資本主義的生産の諸法則に基づく経済の拡大と縮小の様々な原因と結果が影響し合うトータルな周期性をもった循環運動として捉えています。

 そして、「信用制度と経済恐慌との相互連関について」、「すでに、50年代の初頭に一定のイメージを得て」(後述「不破さんのように考えていなかった理由」の「項」参照)いたマルクスは、思惑と投機によって「繁栄期」に増幅された「産業循環」の最後に起こる「恐慌」は、「一見したところでは、全恐慌がただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現われる」けれども、しかし、信用の「多くは現実の売買を表しているのであって、この売買が社会的な必要をはるかに超えて膨張することが結局は全恐慌の基礎になっている」ことを明らかにしています。

 恐慌は、資本主義的生産様式をはじめから際立たせる二つの特徴(大月版『資本論』⑤ P1124-1126参照。)と結びついた、資本主義的生産様式に特有なものです。恐慌の究極の根拠(原因)は資本主義生産に内在する矛盾=マルクスの「基本的矛盾」のあらわれである「生産と消費の矛盾」にありますが、資本主義的生産様式は、商品の価値「実現」を円滑にし一層の資本の蓄積を図るための「信用の創造」や「産業資本と商業資本の分離」によって、来たるべき恐慌の可能性と規模とを一層拡大させ、資本主義的生産様式の存立条件である拡大再生産を強引に進めます。

 その結果、市場の繁栄と興奮のなかで、生産手段の生産、つまり、「生産過程での消費」は最終消費財の生産に比べて跛行的に拡大し、繁栄のなかで資本の有機的構成は高まり、利潤率は低下しますが、あらゆる種類の魅力ある泡沫企業への無謀な投機も始まり、すべての資本が我が世の春を謳歌しはじめます。「銀行と信用とは、資本主義的生産をそれ自身の制限をのりこえて進行させる最も強力な手段となり、恐慌や思惑の最も有効な媒介物の一つとなるのである。」(大月版『資本論』Ⅲ P782-3)この興奮の絶頂期に、生産過剰・資本の過剰(=現在の利潤率では利潤が確保できない状態)が突然あらわれ、支払いの滞りの連鎖が起き、資金ショートした弱いものから恐慌の渦に飲み込まれ、生産の縮小の連鎖が起きます。資本主義的生産の無政府性、「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」(エンゲルスのいう「根本矛盾」)の中で攪乱された均衡は、この「恐慌」の強力的な爆発を通じて、一時的に回復します。

 マルクスはこのように、「恐慌」を資本主義的生産様式の社会における資本主義的生産の諸法則に基づく経済の拡大と縮小の様々な原因と結果が影響し合う、総合的な周期性をもった、循環運動の一環として捉えていました。そして、資本主義的生産様式の社会は常に拡大再生産を維持し続けなければ存立し得ない社会ですから、「中位の活気と活気の増大」→「繁栄」→「過剰生産と過剰取引」への道を求めて拡大再生産を維持し続けることができる限界まで、「過剰生産と過剰取引」を押し進めます。

 

②マルクスの生きた時代と現代のバブル

 マルクスの生きた時代には、現代のように経済の実態をある程度正確につかみ、景気の山と谷をある程度緩和する技術もそれらを踏まえて各企業が原材料や製品在庫を効率的に管理する技術もありませんでしたから、資本主義的生産様式における「信用システム」のもとで、生産と販売の分離による産業資本の価値「実現」の短縮と「生産と消費の分離」、「価値実現を前提としない貨幣資本の取得とその再投資」等を梃子として、「過剰生産と過剰取引」が、拡大再生産を維持し続けることができる限界を越えるまで拡大され続けました。不破さんは、この資本主義的生産様式における経済の循環運動の一部を取りだし、歪曲して、「恐慌の運動論」なるものを創作しました。

 しかし、現代ではこのような古典的な「架空の需要」による「過剰生産と過剰取引」は基本的にコントロールされ、資産価値の増加を梃子としての拡大再生産の維持・拡大が「恐慌」の可能性、経済危機の可能性を高めています。資産価値の増加を梃子としての経済拡大が金融恐慌の一歩手前まで行ったのがリーマンショックです。

 そういう意味で、不破さんの「『流通過程の短縮』を主眼とする恐慌の運動論」──不破さんが「恐慌の運動論」を最も短く定義したもの──なるものは、マルクスの時代の、いまは退化して無くなった、化石の一部を取り出してデタラメな解説をしているようなものです。しかし不破さんは、この資本主義的生産の諸法則抜きの「恐慌の運動論」を『資本論』と科学的社会主義の思想を修正する基礎におきます。

 

 

③資本主義的生産の諸法則など歯牙にもかけない不破さんの資本主義観

 そして、〝利潤率の傾向的低下の法則〟のもつ意味を全く理解できない不破さんが、まったく無視しているのが、拡大再生産を維持し続けることができる限界を越えたとき何が起きているかということです。資本主義的生産の諸法則抜きの「恐慌の運動論」のただ一人の首唱者の不破さんには、「いわゆる資本の過多は、つねに根本的には、利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本──そして新たに形成される資本の若枝はつねにこれである──の過多に、または、このようなそれ自身で独自の行動をする能力のない資本を大きな事業部門の指導者たちに信用の形で用だてる過多に、関連している。……資本の過剰生産というのは、資本として機能できる、すなわち与えられた搾取度での労働の搾取に充用できる生産手段──労働手段および生活手段──の過剰生産以外のなにものでもない。……労働者の過剰人口が過剰資本によって充用されないのは、それが労働の低い搾取度でしか充用できないからであり、また少なくとも、与えられた搾取度のもとでそれが与えるであろう利潤率が低いからである。」(大月版④ P314-321)という『資本論』の文章など、歯牙にもかけません。だから「恐慌」の先に、不破さんに見えるものは、バラ色の資本主義の新たな発展しかありません。

 マルクスの時代には、企業の資金ショートを防ぐ施策も製品在庫を管理する技術もなく、経済の壊滅的な危機を先延ばしさせる手段も考案されておらず、「産業循環」の最後に「恐慌」が起きることは必然性をもっていました。だからマルクスは、景気循環を労働者階級の団結を促すものと捉え、「恐慌」を社会変革の「槓杆」の一つになると考えていました。しかし、「恐慌」の先に資本主義のバラ色の新たな発展しか見えない不破さんは、これを歪曲して、「マルクスの『恐慌=革命』説」なるものを創作して、マルクスを攻撃します。

 マルクスの言う、「恐慌は、つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかない」(大月版 ④ P312)という「攪乱された均衡」の回復とは、生き残った資本が生産過剰・資本の過剰の状態から脱することであり、恐慌が不変資本と可変資本の価値の減価と極端に下がった利潤率の上昇をもたらし、後の生産拡大の準備を整えることですが、恐慌へと導く資本主義的生産様式の社会における資本主義的生産の諸法則を捨象してマルクスの産業循環の考えの一部を取りだして「恐慌の運動論」なるものを創作した不破さんは、「マルクスの『恐慌=革命』説」なるものを創作して、自らでっち上げた古い(1865年以前の)マルクスを攻撃し、資本主義的生産様式の社会における資本主義的生産の諸法則を捨て去った(=科学的社会主義の思想から「解放」された)「恐慌の運動論」を新しいマルクスの思想にでっち上げ、それを基礎に、「恐慌」より先の資本主義社会をバラ色に展望します。

 その詳しい内容は、次の「不破さんの資本主義発展論とマルクスの「産業循環」の見方と資本主義の変革の展望」の「章」で見ていきます。

 

④産業循環の周期

 沈静状態、好転、中位の活気と活気の増大、繁栄、過剰生産と過剰取引、恐慌、停滞、沈静という「循環」をもつ「産業循環」についてマルクスは次のように述べています。

 産業循環の「10年ごとの循環をなしている形態は、産業予備軍または過剰人口の不断の形成、その大なり小なりの吸収、さらにその再形成にもとづいている。……近代産業の全運動形態は、労働者人口の一部分が絶えず失業者または半失業者に転化することから生ずるのである。……社会的生産も、ひとたびあの交互に起きる膨張と収縮との運動に投げこまれてしまえば、絶えずこの運動を繰り返すのである。結果がまた原因になるのであって、それ自身の諸条件を絶えず再生産する全課程の変転する諸局面は周期性の形態をとるのである。ひとたびこの形態が固まれば、経済学でさえも、相対的な、すなわち資本の平均的な増殖欲求から見ての、過剰人口の生産を、近代産業の生活条件として理解するのである。」(大月版② P824-P825)、と。

 そして、著者認定のフランス語版では、この箇所に、「競争に加わる工業国の数が十分なものになったとき、このとき以来はじめてかの絶えず再生産される循環は始まった」こと、その循環の終点として一般的恐慌があること、「これまでのところでは、このような循環の周期の長さは10年か11年であるが、しかし、この年数を不変なものと見るべき理由はなにもない。反対に、いまわれわれが展開してきたような資本主義的生産の諸法則からは、この年数は可変だということ、そして、循環の周期はしだいに短縮されるということを推論せざるをえないのである。」ことの挿入文があります。

 なお、エンゲルスは第三部第三〇章で「従来は循環周期が10年だった周期的過程の急性的形態は、相対的に短くて弱い景気好転と相対的に長くて決定的でない不況との、より慢性的な、より長く引き伸ばされた、いろいろな工業国に別々の時期に分かれて現れる交替に変わったように見える。しかし、たぶん問題はただ循環周期が長くなったということだけであろう。世界貿易の幼年期だった1815~1847年には、ほぼ五年の循環周期を指摘することができる。1847~1867年には循環周期は明確に一〇年である。われわれは前代未聞の激しさの新しい世界恐慌の準備期にあるのだろうか?いろいろなことがそれを暗示しているように思われる。」と述べてマルクスを優しく訂正しています。マルクス・エンゲルス・レーニンに対して、鬼の首でも取ったかのように噛みつく不破さんとは大違いです。そして、実に卓見である。現代の景気循環も三年程度の短期の循環と長期の循環とが組み合わさって「産業循環」が形成されています。

 

「恐慌の運動論」の評価と前途

 このように、不破さんの発見した「資本主義観と革命観の大転換」のルーツになる「恐慌の運動論」なるものは、マルクスの産業循環の考えの一部を取りだして、それが「恐慌」の原因ででもあるかのようにいう、資本主義的生産様式の社会を正しく全面的に見ることのできない、まったくの、謬論です。

 「『流通過程の短縮』を主眼とする恐慌の運動論」という資本主義的生産の諸法則抜きの「恐慌の運動論」は、『資本論』と科学的社会主義の思想を修正する基礎として、科学的社会主義の思想から「解放」された「恐慌」を夢想し、「資本主義観と革命観の大転換」への道を開き、「恐慌」の先に資本主義のバラ色の新たな発展を見るとともに、「マルクスの『恐慌=革命』説」なるものを創作して、マルクスを攻撃する、不破さんの知識の集大成の一つです。

Ⅱ、不破さんの資本主義発展論とマルクスの「産業循環」の見方と資本主義の変革の展望

 

不破さんの資本主義発展論

 不破さんは『前衛』(2013年12月号、P97)で、恐慌について「資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」ということをマルクスが解明し、「資本主義観の大転換」がおこなわれたことを述べ、「『資本論』探求〈上〉」で、マルクスを「代弁」して「恐慌期が過ぎると、資本主義は前回の周期を大きく上回る繁栄を取り戻し、衰退現象を見せないのです」と述べ、「新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機」のことなどすっかり忘れて、「衰退現象を見せない」と資本主義に自信をもって、資本家の立場で、「可変資本の相対的な減少によって進む資本構成の変化は、資本主義的生産の危機や没落の要因ではなく、資本主義的蓄積の急速な進行にともなう当然の、むしろ積極的な現象として意義づけられています。」(P136)といい、「新しい見地では、可変資本部分の相対的減少は、否定的な現象ではなく、独自の資本主義的生産様式の蓄積過程の当然の、積極的な現象なのです。」(P137)とマルクスをブルジョア経済学者に仕立て上げます。

 そして、マルクスをブルジョア経済学者に仕立て上げた不破さんは、『前衛』2015年4月号で「資本主義の側から見ても、その実現は、労働者階級の衰退などの社会的破局を防止して、経済の安定的発展を支える積極的作用をはたしたのです。その意味では、そこには、〝資本主義の知恵〟の発揮があった、と見ることもできます」(P36)と、『賃金、価格、利潤』のテーマから社会変革の課題を取り除き「社会的バリケード」だけに矮小化した不破さん(*)は、資本家と一緒に作る「社会的バリケード」を〝資本主義の知恵〟の発揮として、〝資本主義〟を褒め称えます。

 この「資本主義発展論」を一層発展させているのが、『前衛』誌上等で不破さんの著書の宣伝のための鼎談に、不破さんの「介さん」「角さん」の一人として出ている石川康宏氏です。石川氏は「資本主義発展論」に立って、『経済』2015年1月号で一歩前に進みます。石川氏は、マルクスは「労働者の闘いの前進を」、「より巨大な資本主義の発展をもたらす要因としてとらえました」と言って、資本主義社会の墓堀人である労働者を、「より巨大な資本主義」を「発展」させるためのアシスタントにしてしまいます。

 以上が、不破さんの「恐慌」という資本主義の「危機」の象徴を含む資本主義についての見方とその思想的影響を受けている思われる人の資本主義観です。

(*)『賃金、価格、利潤』のテーマから社会変革の課題を取り除き「社会的バリケード」だけに矮小化した不破さんについての詳しい説明は、ホームページ4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」を、是非、参照して下さい。

 

マルクスの「産業循環」の見方と資本主義の変革の展望

①「攪乱された均衡」の「一時的な回復」

 マルクスは、「恐慌は、つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかない」(大月版『資本論』④ P312)と、言います。

「では、どのようにしてこの衝突が再び解消して、資本主義的生産の「健全な」運動に対応する諸関係が回復するであろうか?」「均衡は、大なり小なりの範囲での資本の遊休によって、または破滅によってさえも、回復する」「主要な破壊、しかも最も急激な性質のものは、価値属性をもつかぎりでの資本に関して、資本価値に関して、生ずるであろう。…金銀の現金の一部分は遊休し、資本として機能しない。…この攪乱や停滞は、…資本と同時に発展した信用制度の崩壊が生ずることによってさらに激化され、このようにして、激烈な急性的恐慌、突然のむりやりな減価、そして再生産過程の現実の停滞と攪乱、したがってまた再生産の現実の減少をひき起こすのである。」「生産の停滞は労働者階級の一部分を遊休させ、そうすることによってその就労部分を、平均以下にさえもの労賃引下げに甘んぜざるをえないような状態に置いたであろう。…繁栄期は労働者のあいだの結婚に幸いし、また子女の大量死亡を軽減したであろう。…価格低下と競争戦とはどの資本家にも刺激を与えて、…自分の総生産物の個別的価値をその一般的価値よりも低くしようとさせたであろう。…労働の生産力を高くし、不変資本にたいする可変資本の割合を低くし、…充用される不変資本の量は可変資本に比べて増大したであろうが、しかしこの不変資本量の価値は低下したかもしれない。そこに現れた生産の停滞は、後の生産拡大──資本主義的限界のなかでの──を準備したであろう。……資本の過剰生産というのは、資本として機能できる、すなわち与えられた搾取度での労働の搾取に充用できる生産手段──労働手段および生活手段──の過剰生産以外のなにものでもない。……労働者の過剰人口が過剰資本によって充用されないのは、それが労働の低い搾取度でしか充用できないからであり、また少なくとも、与えられた搾取度のもとでそれが与えるであろう利潤率が低いからである。」(大月版『資本論』④ P317-321)

 このように、「恐慌」を通じて「不変資本量の価値は低下」し、「労働の低い搾取度」は「改善」され、「資本主義的生産の『健全な』運動に対応する諸関係が回復する」。

 しかしそれは、「つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡」の「一時的」な「資本主義的生産の『健全な』運動に対応する諸関係」の「回復」にすぎない。「資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること」=「資本主義的生産の『健全な』運動」≠「一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく」、「資本主義的生産の『健全な』運動」のなかで「資本主義の危機」は「深まっています」。

 

②「資本主義的生産の『健全な』運動」さえ出来なくなった日本

 不破さんは、『資本論』の次の文章の一部を誤解したか、あえて誤って理解して自分の修正主義に利用しているようです。

 「現実資本すなわち生産資本および商品資本の蓄積については、輸出入統計が一つの尺度を与える。そして、いつでもそこに示されているのは、10年の循環周期で運動するイギリス産業の発展期(1815-1870年)のあいだは、いつでも、恐慌の前の最後の繁栄期の最高限が、次にくる繁栄期の最低限として再現し、それからまたそれよりもずっと高い新たな最高限に上がって行くということである。……{このことはイギリスについては言うまでもなくただ事実上の産業独占の時代だけにあてはまる。しかし、世界市場がまだ膨張を続けているあいだは、一般に、すべての近代的大工業国にあてはまるのである。}」(大月版 ⑤P641-642)

 資本主義的生産様式の社会は常に拡大再生産を維持し続けなければ存立し得ません。そのことは、不破さんがその意義を隠そうとした第二部「第二一章 蓄積と拡大再生産」のところ(ホームページAZ-3-2「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説②「『資本論』第二部を読む」を検証する。」を参照して下さい。)で見たとおりです。「恐慌の前の最後の繁栄期の最高限が、次にくる繁栄期の最低限として再現し、それからまたそれよりもずっと高い新たな最高限に上がって行くということ」は、資本主義的生産様式の歴史的使命であり、「資本主義的生産の『健全な』運動」です。この「資本主義的生産の『健全な』運動」を通じて、「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」が成長していきます。

 不破さんのように、「恐慌期が過ぎると、資本主義は前回の周期を大きく上回る繁栄を取り戻し、衰退現象を見せないのです」と、「恐慌」のあと「衰退現象を見せない」でバラ色の資本主義が続くかのように国民に信じ込ませようとしているのは、「財界」と彼らにうまい汁を吸わせて貰っている「経済学者」や「政治家」や「マスコミ関係者」などのペテン師たちで、マルクスの『資本論』の立脚点とは、まったく、無縁な人たちです。「恐慌」を通じて、資本の集中は進み、格差は拡大し、「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」が成長します。

 いま、資本主義のもとにいる私が最も心配しているのは、米国以外の先進資本主義国の金利がマイナスになり、「資本主義的生産の『健全な』運動」を続けるための余地がますます少なくなる中で、科学的社会主義の思想が世界の大きな潮流になっていないということです。そして、そのことによて無意味な暴力が世界中で荒れ狂う恐れです。資本主義のもとにいる私が今の日本に強い危機感をもっているのは、「世界市場がまだ膨張を続けている」のに日本は「産業の空洞化」によって「部品」と「原材料」の基地に成り下がり、1995年以来約25年間GDPは頭打ちで、この25年間、国民は「資本主義的生産の『健全な』運動」の一環であるはずの経済の「繁栄期」を味わったことがなく、「労働者のあいだの結婚に幸いし」た経験を一度も持ったことがなかったということです。 

※「恐慌」についてのマルクスの考えは、ホームページの5「温故知新」→「1マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「F資本主義社会Ⅳ」をご覧下さい。また、不破さんの言う「マルクスの『恐慌=革命』説」についての詳しい説明、及び「『恐慌』のあとバラ色の資本主義がはじまる」と見る不破さんの「恐慌」の捉え方については、ホームページの4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」をお読み下さい。なお、マルクスの「恐慌」の捉え方について著作の抜粋もこのページに収録してありまます。 

 

マルクス・エンゲルスの世界観、歴史観と残念な不破さん

 「1846-1847年の冬、マルクスが彼の新しい歴史・経済観の基本点をはっきりと整えおえた時期に書かれたものである」 (エンゲルス『「哲学の貧困」ドイツ語第1版への序文』)『哲学の貧困』において、プルードンのようにユートピア主義者のやり方で「社会問題の解決」のための公式を先験的にひねりだすのではなく、現在の生産諸関係に対する批判的な認識のなかから解放の物質的諸条件をくみださなければならないと考えたことを、マルクスは1865年1月24日付けのシュヴァイツァーあての手紙(『プルードンについて』)で述べています。

 そして、1865年に資本主義観の大転換をおこない、その結果、「もう資本主義の見方も、革命の見方も変わった」と不破さんが言うマルクスは、1865年の三年後の1868年に、エンゲルスあての手紙で、『資本論』について、「資本の一般的本性」を究明し、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもり」であると述べ、「第2巻は大部分があまりにも高度に理論的なので、ぼくは信用に関する章を、ぺてんと商業道徳との実状の告発に利用するだろう」と言っています。

 このように、マルクスは、「1846-1847年の冬」から、『経済学批判』(序言)で唯物史観を定式化した1859年6月を経て「1865年1月24日」まで、「解放の物質的諸条件をつくりだす運動の現在の生産諸関係に対する批判的な認識」を科学的社会主義の認識の基礎として、ぶれることなく『資本論』を執筆してきたことは、1868年のマルクスのエンゲルスあての手紙からも明らかです。だから、不破さんのように「恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」という資本家の立場にたって、「新しい見地」から「ユートピア主義者のやり方で」抽象的な「多数者革命」を「ひねりだす」ことなど、マルクスは、毛頭、考えていませんでした。

 ところが不破さんは、エンゲルスがマルクスの科学的社会主義の思想からの転落を知らなかった理由(わけ)は、マルクスが無二の親友であり同志であるエンゲルスにエセ科学的社会主義の「資本主義観」と「革命観」に転落したという重大なことを「報告」すると、エンゲルスに『資本論』を「〝速く仕上げよ〟と言われるから」「報告」しなかったと言うのです。もう、開いた口がふさがりません。

 そして、ご承知のとおり、1878年11月には第2巻(第2部と第3部)の刊行が1879年の末には可能だと考えていたマルクスは、1879年に、「『現在のイギリスの産業恐慌がその頂点に達する以前には』第2巻を刊行しない、と言明し」、1880年には、「『ちょうどいましがた、若干の経済現象が新しい発展段階にはいった』ところであり、これらの現象が、新たな仕上げを要求していたのである」と述べています。

 このように、「信用制度と経済恐慌との相互連関について」、「すでに、50年代の初頭に一定のイメージを得て」(『受救貧困と自由貿易──迫りくる経済恐慌』『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1852.11.1付等を参照。)いたマルクス(*)は、1880年に「若干の経済現象が新しい発展段階にはいった」ことは、「理論的内容と内的構造とは主要な点においてすでに与えられて」いるが「もともとはあらゆる研究がもっている……荒削りの形態」である『資本論』の「草稿」を完成させる絶好の機会が来たと考え、「信用に関する章」を資本の「ぺてんと商業道徳との実状の告発」する「章」として完成させ、恐慌の進展をつうじて、『資本論』の最終章である「第五二章 諸階級」において「イギリスのプロレタリアートの労働条件や生活条件に関する諸事実」を「資本主義批判の『例証』とし」て使って、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもり」でした。

 その場合、マルクスの生きた時代には、企業の資金ショートを防ぐ施策も原材料や製品の在庫を管理する技術もなかったので、「産業循環」の最後に必ず「恐慌」が起きます。だからマルクスは、景気循環を労働者階級の団結を促す重要な要素と位置づけ、「恐慌」を社会変革の「槓杆」の一つと位置づ、「活用」しようとしたこともまた、当然であり、明らかであり、そのことは決して誤りではありません。

 だから、産業循環と恐慌についての研究において、1880年に「理論的内容と内的構造とは主要な点においてすでに与えられて」いることを確信しているマルクスが、もう少し元気で、もう少し長生きして、とりあえず『資本論』を完成させていてくれたら、不破さんが、1865年にマルクスが「恐慌の運動論」なる「珍発見」をしたことを二一世紀になって「大発見」したなどと言って、『資本論』を修正する余地など、まったく、なかったことでしょう。残念でなりません。

 そして、そのこと以上に残念でならないのは、マルクスの世界観、歴史観に逆らう不破さんによって、不破さんの影響下にある「共産党」が目を塞がれ、「産業の空洞化」によって「資本主義的生産の『健全な』運動」であるまともな「産業循環」さえ起こせなくなってしまった日本の財界のグローバル戦略に対し、何の対案も示すことができないでいることです。

(*)「繁栄が興奮に移行し、一方では過度の輸入取引、他方ではあらゆる種類の魅力ある泡沫企業への無謀な投機が確実に始まる」、…「興奮は繁栄の絶頂なのだ。それが恐慌を生みだすわけではないが、恐慌勃発のきっかけをつくるのである。」(マルクス-レキシコン⑨-[346]P137上9-13 (マルクス『受救貧困と自由貿易──迫りくる経済恐慌』『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1852.11.1付)

 

 

不破さんの運動の進め方と科学的社会主義の運動の進め方

不破さんの「革命」観と運動の進め方

 不破さんが「恐慌と革命の相互作用によって資本主義社会の変革の時代が始まるのだ──これが、マルクス、エンゲルスが当時の革命経験から引き出した資本主義社会の『必然的没落』の理論でした。この見方を、『恐慌=革命』説と呼ぶことにします」(『前衛』2015年1月号P25)と言って、自ら創作した「『恐慌=革命』説」を否定して提起しているのは概ね次のような革命観と運動の進め方です。

 「恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」という資本主義社会の認識から、①「資本主義の側から見ても、その実現は、労働者階級の衰退などの社会的破局を防止して、経済の安定的発展を支える積極的作用をはたしたのです。その意味では、そこには、〝資本主義の知恵〟の発揮があった、と見ることもできます」(『前衛』2015年4月号P36)という「社会的バリケード」を築いて「ルールある資本主義」を実現し、「日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる」(「前衛」2013年12月号)こととが社会主義に通じるという「革命観」と②「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」という「多数者革命」の立場に立つことを運動を進める基本にするという、誰もが認める「多数者革命」を枕詞にして、今の世の中を変えたいと願う人はみんな共産党員になる資格があるといってひたすら党勢拡大をおこなうという「運動の進め方」です。

 そのような「革命観」と「運動の進め方」をもつ不破さんは、「資本主義的生産関係」を「利潤第一主義」に読みかえ、「私は、資本主義が生産力の発展を制御できなくなって、そのことが社会に大きな危機をもたらす場合には、それも資本主義的生産関係の『桎梏』化の一つの深刻な表れだと思うんですよ。」(「前衛」2014年1月号P108)と、なんでもかんでも『桎梏』化の表れだと言って、いまどのように「生産力と生産関係の矛盾が発展し」、どのような形で「生産関係が生産力発展の『桎梏』になった」のかを具体的に?んで具体的に曝露することを放棄してしまい、社会変革の「環」となるべき矛盾を?むことができません。その結果、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」(『前衛』2015年5月号)と、サジを投げて、居直ります。

 社会変革が、グローバル資本による「資本」のための経済から人民による「人間」のための経済へ大変革であることを理解できない不破さんは、生産様式の変化と「生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくか」ということのもつ意味を理解できないために、新しい生産様式の社会をつくるうえで、「生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくか」ということと「人間の全面的な発達が保障される社会」をどのようにつくってゆくかということとが同じ過程であるということを否定します(『前衛』2014年1月号)。

 なお、不破さんは「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」と1865年にマルクスが悟ったと、二一世紀になって「大発見」した不破さん同様の遅咲きの桜ででもあるかのようにマルクスを誹謗しますが、マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』をはじめ全ての著作で資本主義的生産様式の変革の必要性と団結した労働者階級の形成の必要性を訴えており、これらを訴えることが科学的社会主義の使命であると考えていた彼らの思想を全否定するもので、反論するのも馬鹿馬鹿しいかぎりです。

 そして、マルクスもエンゲルスも、一貫して、資本主義的生産様式のもとでの景気循環における〝恐慌〟のもつ役割・意義を明確に述べ、「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と考えていましたが、しかしそれは、不破さんが「恐慌」と「革命」を「=」で結びつけて『恐慌=革命』説などとレッテルを貼って否定されるようなものではありません。

※詳しくは、ホームページ「5温故知新」→「1マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「H、闘争・団結・未来」の「24-3おまけ(革命の引き金)」を参照して下さい。

 

不破さんが言う「多数者革命」とは

 なお、不破さんは、レーニンが『国家と革命』で「武力による革命を社会主義革命の普遍的法則として定式化した」とねじ曲げて非難し、「多数者革命」なるものを対置します。しかし、不破さんの言う「多数者革命」なるものが、暴力は古い社会が新しい社会をはらんだときにはいつでもその助産婦になる(大月版 ②P980)という事実にもとづく「暴力の役割」の指摘を否定するものなのか、それとも、ロシア革命で「全権力をソヴェトへ」とボルシェヴィキがいうことが誤りだということなのか、民族解放闘争を否定するものなのか、不破さんの明確な定義を見たことがないので、何を言おうとしているのかさっぱり分かりません。

 しかし、はっきりしていることは、唯物史観にもとづく、労働者の解放は同時に全社会の解放なしには不可能であるとの「根本思想」は、もっぱらマルクスひとりのものであるというエンゲルスの言葉に表されているような、そして、レーニンが「わが国の革命がおこなっていることが偶然ではなく──われわれは、それが偶然ではないことを、深く確信しているが──、またわが党の決定の産物でもなくて、マルクスが人民革命と名づけたあらゆる革命、すなわち、人民大衆が、古いブルジョア共和国の綱領を繰りかえすことによってではなく、彼ら自身のスローガンにより、彼ら自身の奮闘によって、みずからおこなうあらゆる革命の不可避的な産物であるなら、もしわれわれがこのように問題を提出するなら、われわれはもっとも重要なものをなしとげることができるであろう」(レーニン全集第27巻P138)と言ったような、マルクス・エンゲルス・レーニンが持ち続けていた、労働者階級のヘゲモニーのもとに新しい生産様式の社会をつくる〝人民革命〟ではないらしい。

 「多数者革命」を二一世紀になって悟った不破さんの努力によって「改訂」された共産党の「2004年綱領」には「労働者階級」の歴史的使命に関する記述はまったくない。そして、『前衛』2015年4月号の不破さんの「社会変革の主体的条件を探究する」では労働者階級は社会変革の主体から「社会変革の闘士」に格下げされてしまっています。

 労働者階級の歴史的使命を捨て去って、自らの増殖を唯一の目的とする資本の企業支配と対峙して個々の生産点で〝経済は国民のため、社会のためにある〟という産業の役割を発揮させるために企業に民主主義を組織するするために必要不可欠の存在である労働者階級を何だかわけの分からない「社会変革の闘士」に格下げするような政党は、もはや、「前衛党」とは無縁です。

 どうやら、不破さんの言う「多数者革命」とは、科学的社会主義の思想を捨て去って、グローバル資本の行動は放置し、税についても労働者階級の党として原則的で明確な主張もせず、民主主義と正反対の天皇制の存続に祝意を表し、他党と同じような「政策」を、無差別に、猫撫で声で、数十秒間ずつ電話をかけ続けることによって、議会で「共産党」が「多数」の支持を得るための、科学的社会主義の思想とは無縁な、組織拡大を行なうためのスローガンのようです。

 

〈参考〉

革命の平和的または強力による方法に関してのマルクスの考え、及び、マルクスとエンゲルスが「恐慌」をどのような政治的な意味で捉えていたのかを見てみよう

ホームページ「5温故知新」→「1マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「H、闘争・団結・未来」の「24-1 革命の(平和的または強力による)方法と国際連帯」及び、「24-3 おまけ(革命の引き金)」から。

24-1 革命の(平和的または強力による)方法と国際連帯

『ハーグ大会についての演説』

「労働者は、新しい労働の組織をうちたてるために、いつかは政治権力をにぎらなければならない。労働者は、古い制度を支えている古い政治をくつがえさなければならない。そうしなければ、このことを怠り軽んじた古代のキリスト教徒と同様に、この世で天国を得る機会を喪失することになるであろう。

 しかし、われわれは、この目標に到達するための方法がどこでも同じだと主張したことはない。

 われわれは、それぞれの国の制度や風習や伝統を考慮にいれなければならないことを知っており、アメリカやイギリスのように──そしてもし私があなたがたの国の制度をもっとよく知っていたならば、あるいはオランダもここにつけくわえたかもしれないが──、労働者が平和的な方法によってその目標に到達できる国々があることを、われわれは否定しない。だが、このことが正しいとしても、われわれはまた、この大陸の大多数の国々では、強力がわれわれの革命のてことならざるをえないことをも、認めなければならない。強力こそ、労働の支配をうちたてるためには、いつかはそれに訴えなければならないものなのである。……

 市民諸君、インタナショナルのあの基本原理、すなわち連帯を、忘れないようにしよう。活力を与えるこの原理を万国のすべての労働者のあいだに、強固な基礎のうえで確立したときにのみ、われわれは、われわれがかかげた偉大な終局目標を達成できるであろう。革命は連帯しあったものでなければならない。このことは、パリ・コミューンの偉大な戒めが教えている。パリ・コミューンは、すべての中心地で、ベルリンで、マドリード等々で、パリのプロレタリアートのこの最も壮大な蜂起に匹敵する大きな革命的運動が起こらなかったために、倒れたのであった。」(マルクス-レキシコン⑤-[136]P253-255の下線部 (『マルクス・エンゲルス全集』18巻157-9ページ、マルクス『ハーグ大会についての演説』: 1872年9月8日のアムステルダムの大衆集会での演説の新聞通信員による記録)

24-3 おまけ(革命の引き金)

 エンゲルスは「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつであることは、すでに『共産党宣言』のなかにも述べられており、『新ライン新聞』の「評論」でも1848年までを含めて詳論されています。しかし同時にまた、そのあとの繁栄の回帰は革命を挫折させて反動の勝利を基礎づける、ということもそこに述べられています。」(レキシコン⑧-[279] P289ベルンシュタインあてのエンゲルスの手紙(1882年1月25-31日))と述べていますが、マルクスとエンゲルスは、「恐慌」と「繁栄」の政治への影響について、「恐慌」は「政治的変革の最も強力な梃子のひとつである」が「そのあとの繁栄の回帰は、革命を挫折させて反動の勝利を基礎づける」ものであると考えていました。

  当時、マルクスもエンゲルスも「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と考えていたが、不破さんの言うような『恐慌=革命』説などとっていませんでした。

 そして、当時、マルクスとエンゲルスが「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」と考えていたとしても、何の不思議もありません。理由は二つあります。一つは、当時の資本主義社会の発展段階、資本の蓄積段階からして、資本主義の危機を最も鮮明にあらわすものとして「恐慌」があったこと。もう一つは、マルクスも指摘しているように、危機に際して貨幣価値をまもることが第一に考えられ、危機を一層悪化させる政策がイングランド銀行でとられるなど、危機に対応したブルジョア経済学がまだ存在していなかったことです。だから、当時のマルクスとエンゲルスが「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」と考えていたとしても、何の不思議もないことです。

 そして、レーニンの時代の革命の引き金は「帝国主義」であり、現代の先進資本主義諸国の革命の引き金は「産業の空洞化」です。

 

 

科学的社会主義の運動の進め方

ア、不破さんの景気循環の捉え方(資本主義観)の行き着く先

 私はホームページAZ-3-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)」で、不破さんが社会変革の展望をまったくもてない理由を次のように述べました。少し長くなりますが、我慢してお読み下さい。

「「共産党」の前委員長の不破さんは、『前衛』2015年5月号の「社会変革の主体的条件を探究する」という立派なタイトルの「論文」で、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と言い、「この危機的な世界」などと、なにが「危機」であるかを理解しているかのような、もっともらしい枕詞を使っていますが、その実、今の日本の「社会変革」の「形態」をつかむことができず、「この危機的な世界」なるものが何であるかもわからず、社会変革の道筋をまったく「探究」できないことを告白しています。

 不破さんが社会変革の道筋をまったく「探究」できないのには理由があります。不破さんは、『『資本論』探究〈上〉』(P154)で「『必然的没落』の客観的条件」としてマルクスの言う〝新たな社会の形成要素〟だけを挙げ、資本主義的生産様式のもとでの〝新たな社会の形成要素〟が〝古い社会の変革契機〟を形成することを視野の外に置きます。不破さんの「資本主義的生産様式の『必然的没落』」の理論は、この〝古い社会の変革契機〟を欠いた「『必然的没落』の客観的条件」と「『必然的没落』の主体的条件」とで成り立っています。

 不破さんが〝古い社会の変革契機〟の形成を視野の外に置くのは、マルクスが恐慌について「資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」ということを解明し、「資本主義観の大転換」をおこなったと述べ(『前衛』No903参照。)て、マルクスの「資本主義観の大転換」を捏造し、捏造したマルクスの虎の威を借りた不破さんが、「恐慌」のたびごとに資本主義は発展するとの見方に立って資本主義の発展をみることにより、資本主義の矛盾の深まり、〝古い社会の変革契機〟を正しく見ることができなくなってしまったためです。

 不破さんは、資本のグローバル展開による〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟がどのようになっているのかを見ようともぜず、資本主義の諸悪の根源は「利潤第一主義」だと言うだけで、不破さんがその「改訂」を自慢する現在の日本共産党の綱領には「労働者階級」という言葉は出てきますが、「社会変革の主体」という意味での出番はありません。そういう人が「社会変革の主体的条件を探究する」ことなど、逆立ちしても不可能なことで、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と正直(?)に白旗を振る以外ありません。」、と。

 

イ、現代の「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」をしっかり摑む

 新たな社会の形成要素とは、社会的生産諸力と社会的生産が発展することですが、資本はより一層の資本蓄積を求め先進資本主義諸国の枠を越えて新興諸国での生産を加速させ、世界全体をグローバル資本の活動の場とし、世界全体が新しい生産様式の社会に生まれ変わる基礎を築いています。

 古い社会の変革契機とは、私的資本主義的生産による「生産の無政府性」とその矛盾の現れである恐慌など私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾の深化と労働者階級の運動の前進のことですが、上記のようなグローバル資本の活動は私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾を一層拡大させています。

 資本が新興諸国での生産を加速させ、資本と雇用を新興諸国に輸出することにより、先進資本主義諸国での生産に携わる中間層の雇用と賃金の減少による中間層そのものの縮小、中間層以下の所得層の雇用と生活不安の広まりのなかでの「移民・難民」問題の顕在化と貧富の格差の拡大が、自国第一主義の台頭を惹起させています。そして、資本主義が勢いを増す新興諸国では、労働者の低賃金による搾取と特許等の知的財産権にもとづく収奪が当たり前のことのように行なわれています。

 「社会的生産諸力」という「新たな社会の形成要素」が、先進資本主義諸国では「資本」と「雇用」の海外への「移出」により「空洞化」して「社会的生産」が崩壊し、その結果、「新たな社会の形成要素」の新たな再生ということが「古い社会の変革契機」に転化します。「産業の空洞化」の再生が「古い社会の変革契機」になります。このことを踏まえて、「私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾の深化」を捉え直し、その実態とその根源を明らかにして、「株主資本主義」からの「グレート・リセット」(2021年ダボス会議のテーマ)を行ない〝経済は国民のため、社会のためにある〟という社会と企業を実現させ、それを担保するための力強い労働運動を実現させなければなりません。

 そして、新興諸国では、「社会的生産諸力と社会的生産」の発展という「新たな社会の形成要素」と「私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾の深化と労働者階級の運動の前進」という「古い社会の変革契機」とが本格的に発展して行きます。

 この先進資本主義諸国と新興諸国の労働者階級は、資本に分断されることなく「古い社会の変革契機」をしっかり摑んで、連帯して統一した運動をすすめていく以外に、未来を切り拓くことはできません。そして、資本による分断は、先進資本主義諸国と新興諸国とで資本の論理を国民に受け入れさせることだけではありません。右翼政党による民族主義の国民への浸潤も資本による分断の主要な手段であることを忘れてはなりません。

※なお、日本の労働者階級が取るべき連帯の施策については、ホームページ2-5「国際社会とどう向き合うか」を、そして「知財権」についてより詳しい考えは、ホームページAZ-3-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)」及びホームページ6-2-22「トランプ大統領が仕掛けた貿易戦争と科学的社会主義の思想」を参照して下さい。

 

ウ、修正主義を粉砕して、共通の国際連帯の旗をひろめよう!!

 「新天皇の即位に祝意を表します。」(『赤旗』2019/05/01)と〝祝意〟を表し、2019年5月3日のBSフジのプライムニュースでは小池書記局長が憲法第一条の天皇の地位を肯定的に評価して、民主主義の根幹に係わる「天皇制」を翼賛し、科学的社会主義の思想の原則からして絶対認めることのできない消費税は現状維持を主張し、グローバル資本の税逃れについても「国際ルールの確立」をまって「大企業の民主的規制」をするといい、グローバル資本の国際展開には何の政策ももたない「党」に共産党を変質させた資本主義観の修正主義、これを粉砕すれば、国民に大きな勇気を与え、共産党も再び国民から大きなエネルギーをもらうことができます。そのことは、今回の参院選(2019年7月)での「れいわ」の躍進が証明しています。

 マルクスは『ヘーゲル法哲学批判』において、理論が人の心をつかむためには「ものごとを『一般論』ではなく、現実の矛盾を根底において(ラディカルに)つかみ、曝露すること」、人間そのものの生き方を問うことを教えています。ブルジョア「民主主義者」の仲間に入れてもらおうとして、原則を曲げ柔軟さを示しても、それは現実の矛盾を糊塗するだけで、真面目な労働者・国民から見捨てられるだけです。現実の矛盾を徹底的に暴露する共産党にしかできない全戸配布を、四半期に一度のペースで確実に行ない続けるだけで、現在の倍以上の支持を得ることができるであろうことは確実です。自分たちの主張は隠さず堂々と表明し、少しでもより国民のためになる政策の実現のためにはどの党にも協力し、少しでもより国民のためになる人が選挙に選ばれるよう力を尽くす。筋を曲げず、同時に、国民のためになることのために徹底的に尽力するという、マルクス・エンゲルス・レーニンの思想を貫き通すことが重要です。

 そしていま最も重要なのは、グローバル資本の日本と世界での行動とその結果を正確に見ることです。マルクスはアンネコフあての手紙で「社会の現状がわからないようなものには、この現状をくつがえそうとする運動や、この革命運動の文献上の表現は、なおさら理解できないはずだ、という私の意見」と述べていますが、マルクスの資本主義観を修正し「社会の現状」が分からなくなってしまった人の「革命運動の文献上の表現」の修正に惑わされることなく、グローバル資本の日本と世界での行動とその結果を正確に見て、この世界の人民の共通の敵に対する共同の闘いを組織することです。そのための旗幟鮮明な国際連帯の旗を世界の労働者階級は待っています。2019年9月1日投開票されたドイツの二つの州の選挙でのAfD(極右政党)の躍進とLinke(左翼党)の後退は、その必要性と切実さを現しています。

〈参考〉ザクセン州ではAfDが17.8%伸ばし27.5%に躍進し、Linkeが8.5%減らし10.4%に後退し、ブランデンブルク州ではAfDが11.3%伸ばし23.5%に躍進し、Linkeが7.9%減らし10.7%に後退した。なお、CDUも7.3%、7.4%と得票率を減らしました。

 

Ⅲ、このページのメッセージ

   ホームページAZシリーズは、不破さんがエセ「マルクス主義」者として、マルクス・エンゲルス・レーニンを誹謗し、マルクス・エンゲルス・レーニンの思想を歪めて、不破さんの景気循環の捉え方(資本主義観)にあわせて『資本論』を修正しようとする試みの一つ一つを事実と科学的社会主義の思想にもとづいて暴露し、その無益さを明らかにしています。

 その中で私たちは、私たちが科学的社会主義の思想に近づくのを妨げようとする不破さんの『資本論』の「解説」に対し、マルクス・エンゲルスが発見し、その基礎を築き、レーニンが発展させた、資本主義社会の現在と未来についての科学的社会主義の思想の本当の姿を再確認し、科学的社会主義の思想がもつ資本主義社会を変えるラディカルな力を再認識し、彼らの思想が現代にどのように生かされなければならないかを、一緒に、考えてきました。

 私たちは、不破さんとマルクス・エンゲルスとの『資本論』へのこのような二つの異なるアプローチの違いを明らかにし、一人でも多くの人が資本主義社会の矛盾と限界をしっかり認識して、資本主義的生産様式の社会(グローバル資本によって「産業の空洞化」が推し進められ、脆弱な社会にされてしまった日本)を根本から変えることの第一義的な重要性を、多くのみなさんとともに、共有することにありました。

 そして、このホームページAZ「自らの虚構にあわせるための『資本論』の変造」は、不破さんの断片的なマルクス・エンゲルスの思想の歪曲と誹謗中傷の骨格となる『資本論』変造の壮大なカラクリを明らかにし、マルクス・エンゲルスと不破さんとの世界観・革命観の違いの核心である「産業循環」に対する見方の違いを明示し、そこから必然的に出てくる〝経済は国民のため、社会のためにある〟という新しい社会と現在の資本主義社会の延長線上の社会という未来社会の目標の違いとそのための運動の違いを明らかにし、不破さんの景気循環の捉え方(資本主義観)が現在の革命運動にとっていかに有害かを示すことによって、「AZ」シリーズ──主として不破さんの『資本論』の変造を暴露することを通じて科学的社会主義の思想を再確認し現代の課題を考えるページ──をより理解していただき、同時に、世界が激動の渦の中に投げこまれつつある現代を知り、反動を断ち切り、〝経済は国民のため、社会のためにある〟という新しい共同社会を築くために、不破さんの謬論を葬り去ることが喫緊の課題であるとの思いから作成しました。

  これらのことが首尾よくできたかはいささか不安ですが、このホームページを読んで下さった皆さんが、そのような努力のあとを少しでも感じていただき、何かインスパイアされることがございましたら、私にとって、何よりの幸せです。

 みんなで力を合わせて、〝経済は国民のため、社会のためにある〟という〝国民の新しい共同社会〟を、一日でも早く、築きましょう。

下記のページを、是非、お読み下さい。