AZ-4-6

不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その6)

『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えさせるな!!!

『資本論』第三部での不破さんの歪曲と捏造(完結編)

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※このホームページに注釈なしで書かれているページは、「『資本論』探究〈下〉」のページです。また、(大月版……)と書かれているページは『資本論』のページです。

『資本論』第三部での不破さんの歪曲と捏造(完結編)

 このホームページ「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その6)」は、不破さんの「『資本論』探究」〈下〉での「第六篇」と「第七篇」とに関する不破さんの謬論を明らかにし、「第六篇」と「第七篇」の内容が私たちに教えてくれる教訓を再確認することによって、不破さん監修の「新版『資本論』」を読まれる方々が『資本論』の誤った理解に導かれないよう、『資本論』を読む上での留意点を明らかにしています。

「第三部 第六篇 超過利潤の地代への転化」(第三七章~第四七章)

P119-126「(12)第六篇の執筆まで」を検証する

 ⦿不破さんは、まずはじめに、マルクスのエンゲルスあての手紙、それは、マルクスが地代論の研究を1863年には終えたこと、しかしその原稿は「ほとんど一冊の本をなしている」内容・ボリュームであるが「現在の形では途方もないもので、僕(マルクスのこと──青山)以外のだれのためにも、君(エンゲルスのこと──青山)のためにさえも、出版できるものではない」ことを述べた手紙、を紹介します。

⦿そして、この手紙を「導入」として、以降、不破さん得意のマルクスへの誹謗・中傷がはじまります。

⦿まず、不破さんは、マルクスが地代を「絶対地代」と「差額地代」とに区分したことを述べ、続けて、自分の理解力の無さを論拠に「マルクスが、この新理論を、一般的利潤論の『例解』問題として第三部に滑り込ませるという、かなり無理筋の計画を立てたことは、すでに説明しました」と、マルクスがまるで不破さん並みの自己顕示欲の強い人ででもあるかにように、「無理筋の計画を立て」て「滑り込ませる」などと言って、不破さんが「(4)『資本論』第三部の構想の歴史的な変化」の「節」で行なったマルクスへの誹謗・中傷を、性懲りも無く、繰り返します。

⦿そのとき私は、〈「地代」が「利潤の研究の一部のような顔をして」いるものなのか、みなさんは、是非、『資本論』の「第三部」を読んで下さい。〉(ホームページ4-27-3エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)」PDFのP44参照)と言いましたが、「第六篇 超過利潤の地代への転化」をお読みいただけば分かるとおり、そしてこのページをご覧いただければ分かるとおり、「地代論」の研究とは、「利潤の研究の一部」そのものなのです。

⦿不破さんは、「第六篇」にかこつけて自らの謬論の普及に努めていますが、そもそも『資本論』の「地代論」とは、資本主義的生産様式のもとでの地代論であることを「理解できない(?!)」のでしょうか。

⦿そして、不破さんは、『資本論』の地代論には、①「土地所有そのものの歴史的研究が、計画から除外されてしまうことになる」ということと、②「「差額地代」の問題については、…マルクス自身、満足のゆくような解決にはまだ到達していなかった」という問題があったと誹謗します

⦿しかし、①については、問題でも何でもありません。まさにマルクスが言っているように、『資本論』において「土地所有をそのさまざまな歴史的形態において分析することは、本書の限界外にある」ことなのです。

⦿「『資本論』続刊構想」なるものを知っているという不破さんの蘊蓄を披露するために、「問題」扱いされただけです。まったく困った人です。

⦿そして、不破さんは、②については、「差額地代論は、第二形態で迷走に陥ります。」と言います。まったく、不破さんという人は、他人の「不備」を「誤り」に仕立てて、自分を偉そうに見せるのが好きな人だ。不破さんが冒頭で紹介したマルクスのエンゲルスあての手紙のなかで、マルクスが「理論的な研究」は「終えた」が文章のまとめ方として非常に完成度が低いことを率直に述べていることをいいことに、不破さんはマルクスが「迷走」に陥ったと言うのです。

⦿不破さんが「差額地代論は、第二形態で迷走に陥ります」と揶揄し、マルクスが「でき上がったとはいえ、この原稿は、その現在の形では途方もないもので、僕以外のだれのためにも、君のためにさえも、出版できるものではない」と言い、エンゲルスが第三部の序文で「地代に関する篇(第六篇、第三七章~第四七章──青山)は、ずっと完全に書き上げられていたとはいえ、けっしてよく整理されてはいなかった」。「いちばん手がかかったのは、差額地代Ⅱのところの表であり、また、第四三章ではそこで取り扱われるべき差額地代Ⅱの第三の場合が全然検討されていないということを発見したことだった。」という地代論は、「第三七章」(緒論)→「第四五章」(絶対地代)~「第四七章」(資本主義的地代の生成)→「第三八章」(差額地代総論)~「第四四章」(最劣等耕作地でも生まれる差額地代)の順に執筆され、マルクスのいつものやり方どおり、メインの「第三八章」から「第四四章」は最後の最後にまとめ上げる計画でした。「第四三章」はその中心の「章」として差額地代のまとめ(結論)と「第六篇」全体の計画を簡単に細説することを意図していたようです。

⦿このような草稿をもとに、エンゲルスが「第六篇」の中心である差額地代論の本論(第四〇章から第四三章)を「完全なもの」にしようとすると、「それはマルクスの著書ではないもの」になってしまいます。そこでエンゲルスは、「けっしてよく整理されてはいな」い文章である「第四一章」と「第四二章」は、読みにくさは残るものの、「現にあるものをできるだけ整理することに限り」、手もつけられていなかった「第四三章」は「必要な補足」をして、第四一章から第四三章までの内容の整理をおこない、「差額地代Ⅱ」全体のまとめを「結論」として補足しました。

⦿しかし、このような編集上の苦労と編集方針にもとづいて、「第六篇 超過利潤の地代への転化」をエンゲルスが立派に編集することができたのは、その「理論的な研究」をマルクスが終えていたからこそできることでした。

⦿その際、人の出来ている、同志であるエンゲルスは、マルクスに「迷走」などという中傷など一切しません。不破さんとエンゲルスの人間性の差がよく現れています。

「第三七章 緒論」と「第四五章 絶対地代」

P126-130「(13)緒論と絶対地代論」を検証する

不破さんの「第三七章」の解説

⦿不破さんの「第三七章」の解説は、実にアッサリしていて、要点を外しています。

⦿不破さんは、まず、「『第三七章 緒論』でまず大事なことは、この篇の研究対象が、資本主義社会における農業一般ではなく、次の文章に規定されるような、資本主義的生産様式のもとでの農業の典型的な形態──農業資本家(借地農場経営者)と土地所有者の関係だということです。」と述べて、マルクスの『資本論』での「地代」(資本主義的生産様式のもとでの「地代」)の「規定」の文章を引用し、当時、「近代社会の骨組みをなす三つの階級(賃金労働者、産業資本家、土地所有者のこと──青山)」が揃っていたのは「イギリス以外には存在しなかったでしょう」と述べ、「このことを(「三つの階級が、全部そろって、互いに対立し合いながら登場する」ことを──青山)まずしっかり頭において、絶対地代論および差額地代論を読んでゆきたいと思います。」と言って「第三七章」の「解説」を終えてしまいます。

⦿この文章を読んで、不破さんは「まず大事なこと」と言っているのに、青山が「次に大事なこと」等を書いていないのは、青山が不破さんの文章を「実にアッサリしている」ように見せるために、「まず大事なこと」に続く大事なことを隠蔽したのではないかと疑う人もいるかもしれませんので、あえて申し上げますが、不破さんはこれ以外に「大事なこと」として述べていることはありません。私は絶対にそのようなことなどしませんから、ご安心ください。

⦿一方、不破さんの他者の書物にたいする接し方は、そのほとんど全てが、攻撃しようとするものについての「歪曲」と「推測」で成り立っています。不破さんの「『資本論』探究」のなかの誤りのほとんど全てが「推測」と「歪曲」に基づくものです。その代表例が、ホームページ4-27-2「エセ『マルクス主義』者の『資本論』解説(その2)」で指摘した、マルクスが「お手上げ」のように見える文章です。お手上げかどうか、PDFの41ページを参照して、確かめて下さい。

⦿さて、話を本題に戻すと、ここで不破さんは、「この篇の研究対象」は、「次の文章に規定され」た「資本主義的生産様式のもとでの」「農業資本家」と「土地所有者」の関係だと言い、「小農経営は、ここで研究する資本主義的農業には属さない」と言います。

⦿どうも不破さんは少しズレて(要点を外して)いるようです。

⦿不破さんが引用した文章は、第六篇の「研究内容」である「地代」について「規定」したもので、「農業資本家」とか「土地所有者」とか「小農経営」とかの「研究対象」を述べたものではなく、「ここで研究する」のは「資本主義的農業」一般ではなく、資本主義的生産様式のもとでの「地代」についてです。

⦿「第三七章 緒論」では、「第六篇」の研究テーマが、資本主義的生産様式のもとでの「地代」であることを述べ、「地代」の「資本主義的生産様式」の「農業」における功罪や「地代」研究の留意点を明らかにし、「土地所有者が地球の一断片の賃貸によって毎年受け取る一定の貨幣額で表され」る「地代」は資本主義的生産様式の発展とともにその「特有なこと」も大きくなることを指摘しています。

※これだけでは、不破さんの「解説」同様に抽象的で、何のことかサッパリ分からないと思いますので、ホームページ4-27-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。完結篇」の「『第三七章』のポイントと現代の私たちが留意すべき点」をお読み下さい。より詳しくは、PDFファイル「第三部「第三七章 緒論」」を、是非、参照して下さい。そして、なによりも、『資本論』を読んで下さい。

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3-37第三部「第三七章 緒論」.pdf
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「第三七章」と現代の私たちが留意すべき点

⦿私たちは、「地代」論の学習を通じて、「地球の一断片」を資本主義的生産様式のもとで所有することの経済的意味を理解するとともに、資本主義的生産様式のもとでの「土地所有の不合理」についての現代の現れをより深く論究する契機とする必要があります。

⦿なお、マルクスは、地代の資本還元によって、地代を「土地の買い手にとってとる利子形態と混同する」ことの誤りを指摘していますが、資本主義的生産様式のルールは「一定の貨幣収入はすべて資本還元」することなので、バブルとか恐慌のような異常事態でないときは、資本主義的生産様式の社会では資本還元された地代が「土地価格」の一つの指標となります。

不破さんの「第四五章」の解説

⦿不破さんは、次に差額地代の考察を飛ばして、「絶対地代の問題」の『資本論』の解説に移りますが、『資本論』の「第四五章 絶対地代」は「あまりわかりやすい説明ではないので、ご参考のために、マルクスがこの発見をエンゲルスに説明した時の手紙を紹介しておきたいと思います。」(P128)と言って、土地所有者が「土地所有」によって「価値と生産価格との差額をすくい上げる」ことをマルクスが手紙に書いていることを述べます。

⦿そして不破さんは、『資本論』でマルクスが、この独占価格(「生産価格」を越えた「市場価格」)が、他の独占価格とは違って、独占によって価格を価値以上に吊り上げるという性質のものではないことを述べていることを紹介し、最後に、「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう。」という、いかにも不破さんらしい、もったいぶった、意味不明──現実を見ない、検討対象にもならない無意味な言葉──の文章で結ばれています。

⦿不破さんは、『資本論』の「第四五章」が不破さんにとって「あまりわかりやすい説明ではないので」、あまりよく読まなかったようです。不破さんの「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう」という蛇足の文章がそのことをよく示しています。この文章は二つの点で焦点がズレています。

⦿第一に、生産価格が価値以下(農業が平均より低い資本構成をもつ生産部門)であろうが、価値以上(農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門)であろうが、土地所有者への地代の支払ができるように市場価格がなっていなければ、一般的に土地所有者は資本家に土地を貸さないのです。だから、「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門」になったとしても、「事態はまったく違った様相」など呈しません。

⦿第二に、「第四五章 絶対地代」は「本来の農業では資本の構成が社会的平均資本の構成よりも低いとすれば、このことは、一見して明らかに、生産の発達している諸国では農業は加工工業と同じ程度には進歩していないということを表しているであろう。」(P975)と述べています。このことは、農業労働者が常に低賃金に放置される可能性があること、社会として農業の資本構成を高める努力が必要であることを、私たちに、示唆していますが、そのことをしっかりと受け止めることをせず、前「共産党」の委員長だった人が、「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう」などとノー天気なことを言う。焦点がズレているだけでなく、何とも、悲しい限りです。

⦿せっかく『資本論』に編集されている「第四五章 絶対地代」を「あまりわかりやすい説明ではない」などと言って無視すると、最後に、「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう」などとまったくトンチンカンなことを言う羽目になるのです。

⦿このような人が責任編集の「新版『資本論』」がどのように「編集」されるか、本当に心配です。ですから、皆さんは、是非、『資本論』を読んで下さい。どうしても、手っ取り早く「第四五章 絶対地代」の内容全体を知りたい人は、とりあえず、PDFファイル「第四五章 絶対地代」を参照して下さい。

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3-45「第四五章 絶対地代」.pdf
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「第三八章」~「第四四章」

P130-141「(14)差額地代論──マルクスの『展開の独自性』」を検証する

 不破さんの第一四章「(14)差額地代論──マルクスの『展開の独自性』」は、『資本論』の「第三八章 差額地代 総論」から「第四四章 最劣等耕作地でも生まれる差額地代」までを、不破さん流に「解説」(?)したものです。

不破さんの『資本論』の精神を読み取る能力の欠如

⦿不破さんは、「第三九章 差額地代の第一形態」の中の「虚偽の社会的価値」という語句が含まれる一連の文章の中から「虚偽の社会的価値」という語句が含まれる断片を抜粋し、続けて、「この言葉をどう解釈するかは、経済学界でも長く論争されてきた問題ですが、私は、その答えは、マルクス自身の次の言葉のなかにある、と思います。」と述べ、読者にその答えを言うかのように思わせます。

⦿しかし不破さんは、「虚偽の社会的価値」とは資本主義的生産関係のもとで認められている「土地の私有権の価値」のことであり、その具現化したものとしての「地代」のことであるという、肝心の、「『虚偽の社会的価値』とは?」という自ら立てたこの「節」のタイトルにはまったく答えずじまいで、一連の文章の中の最後の文章──残念ながら、不破さんの抜粋した文章は訳があまりよくないので、意味が通じづらい──を抜粋し、「この差額地代の源泉は何か、だれがそれを負担しているのか」と言う問題を提起します。

⦿「虚偽の社会的価値」という語句の意味にまともに答えなかったこと、そして、下記のように文章を中抜きにしてしまったこと、ここに不破さんの『資本論』にある『資本論』の精神を読み取る能力の欠如がはっきりと現れています。

⦿みなさんには、全体を理解してもらうために、少し長くなりますが全文を紹介します。なお、文章中の緑色の文字(PDFファイルではゴシックで表記したもの)が不破さんが「抜粋」した一連の文章の「断片」です。

これ(優等地の生産価格よりも市場価格が高いということ──青山)は、資本主義的生産様式の基礎の上で競争の媒介によって実現される市場価値による規定である。この規定は、(地代という──青山)ある虚偽の社会的価値を生みだす。これは、土地生産物が従わされる市場価値の法則から生ずる。……この行為は必然的に生産物の交換価値にもとづくもので、土地やその豊度の相違にもとづくものではない。社会の資本主義的形態が廃止されて社会が意識的な計画的な結合体として組織されているものと考えてみれば、……社会はこの土地生産物を、それに含まれている現実の労働時間の二倍半で買い取りはしないであろう。したがってまた土地所有者という階級の基礎はなくなってしまうであろう。それは、外国からの輸入によって生産物が同じ金額だけ安くなるのとまったく同じに作用するであろう。それだから、──現在の生産様式は維持されるとするが、差額地代は国家のものになると前提して──他の諸事情が変わらなければ土地生産物の価格は同じままであろう、と言うのは正しいとしても、結合体が資本主義的生産にとって代わっても生産物の価値は同じままであろう、と言うのはまちがいである。同じ種類の諸商品の市場価格は同じだということは、資本主義的生産様式の基礎の上で、また一般に個々人のあいだの商品交換にもとづく生産の基礎の上で、価値の社会的な性格が貫かれる仕方である。消費者として見た社会が土地生産物のために過多に支払うもの、それは土地生産での社会の労働時間の実現のマイナスをなすのであるが、それが今では社会の一部分にとっての、土地所有者にとっての、プラスをなすのである。」(P852-853)

⦿この文章を読めば、「虚偽の社会的価値」とは、「地代」のことであり、この文章全体が、「地代」というものを通じて、私的所有を前提とする資本主義的生産様式の社会の分配の不合理を鋭く告発した文章であることがわかります。

⦿不破さんは、「差額地代の総額は、農業生産物の実際の生産価格を超える超過部分です。土地所有が限定されているという事情から、市場価値の法則の作用のもとで、その超過部分が、『消費者とみなされる社会』の負担(マイナス)で土地所有者の収入(プラス)となるのです。」と述べ、差額地代は「社会が負担するしかない」などと、呑気な「解説」をしています。

⦿そこには、私的所有を前提とする資本主義的生産様式の社会の不合理を告発し、「意識的な計画的な結合体として組織され」た新しい「社会」の優位性を示すという『資本論』にある『資本論』の精神がまったく欠落しています。

⦿『資本論』解説のこのような思想的弱点と、未来社会は「余暇」を実現することだというマルクスの未来社会論の歪曲と否定が、現在の「共産党」の政策の最大の弱点となり、革命の党を「改良」の党にし、活力、エネルギーを失わせ、若者を現実的「改良」の党である自民党に向かわせています。

⦿なお、不破さんは、「この差額地代の源泉は何か」と自ら課した設問についても、しっかりと答えていませんが、「差額地代」の真の「源泉」は、当然ながら、農業労働者が生み出した「超過利潤」で、それが地代に転化したのです。

⦿また、不破さんは、「差額地代の総額は、農業生産物の実際の生産価格を超える超過部分です」と言いますが、差額地代の総額は、最劣等地の農業生産物の市場価格よりも安くなる部分の総額です。

⦿最後に、私は、『資本論』のこの文章から、資本主義的生産様式の社会で、錦の御旗のように、振り回されている「知財権」という所有権についての認識を一層深めることができたことも報告しておきます。

P139「差額地代の「第二形態」をめぐって」

⦿不破さんは、まず、マルクスのいう「地代の第二形態」の説明をしますが、結果として、「しかし、率直に言って、私には、マルクスの理論の筋道が、何度読んでも理解できませんでした。そこには、二つの大きな疑問が最後までつきまとったからです。」と、「地代の第二形態」の論究の意義を否定します。

⦿その疑問の一つは、「マルクスは、第一次資本投下(Ⅰ)、第二次資本投下(Ⅱ)などのそれぞれについて、それによって収穫がどれだけ増えるかの数字を出し、それを比較しながら議論を進めますが、……第一次の収穫がこれ、第二次の収穫はこれこれといった中間的区分は、ありえないはず」だと言います。

⦿第二の疑問は、借地契約の更新のとき、問題になるのは、「その期間の資本投下によって土地の豊度がどれだけ増したか」であって、「それぞれの追加投資の効果の個別の判定などは、まったく問題になりえない」と言います。

⦿そして、「この二つの理由から、差額地代の『第二形態』議論については、そこでのマルクスの『展開の独自性』に大きな疑問を抱いている、というのが、この部分に取り組んでの私の率直な感想です」と言います。

⦿これが、不破さんの『資本論』の「地代の第二形態」の「解説」であり、不破さんの「差額地代」の「解説」です。

⦿この「解説」では不破さんがマルクスの「地代の第二形態」の論究に「大きな疑問」をもっていたことはわかりますが、マルクスとエンゲルスが『資本論』で「差額地代」についてなぜそのような論究を行ない、それに基づきどのような論及をしたのか、そして、現代の私たちが『資本論』から何を学ぶことができるのかが、全然見えてきません。

⦿『資本論』でマルクスとエンゲルスが論及していることから学ぼうとせず、このような『資本論』の「解説」を行なう人が責任編集する「新版『資本論』」は、一体どのような「編集」がなされるか、どこまでマルクス・エンゲルスと離れていくのか心配でなりません。

『資本論』の「差額地代」の論究をつうじて私たちが学ぶべきこと

⦿これらを踏まえ、私たちは、「第三八章 差額地代 総論」から「第四四章 最劣等耕作地でも生まれる差額地代」までを、〝現代の私たちは『資本論』から何を学ぶのか〟という観点で、ごく簡単に、見ていきたいと思います。

※詳しくは、ホームページ4-27-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。完結篇」PDFファイルの該当ページをご覧下さい。

⦿マルクスは、「第三八章 差額地代 総論」を「差額地代」の論究の導入の「章」として、「自然の落流を動力として用いる生産者」を例にとり、「このような落流の利用から生ずる超過利潤は、資本から生ずるのではなく、独占ができ独占されてもいる自然力を資本が充用することから生ずるのである。このような事情のもとでは超過利潤は地代に転化する。」(P833)ことを述べ、①この地代はつねに差額地代であるということ、②この地代は、充用資本の、またはそれによって取得される労働の、生産力の絶対的な上昇から生ずるのではなく、この上昇は一般にただ商品の価値を減少させることができるだけであること、③自然力は超過利潤の源泉ではなく、超過利潤の自然的基礎であるだけであること、④落流の所有者は、剰余価値(利潤)のこの部分、それ自体としてはなんの関係もないこと、⑤落流の価格、この工場主の個別的費用価格にははいるとしても、さしあたり商品の生産価格にははいらないということ、という差額地代の一般的概念を明らかにしています。

⦿この五つの点をしっかりと押さえておきましょう。

※「第三八章」のより詳しい内容・説明は、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-38第三部「第三八章 差額地代 総論」.pdf
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⦿次の「第三九章 差額地代の第一形態」では、それぞれ豊度の違っている同面積の土地に投下された等量の諸資本の生産性の相違の結果としての差額地代を考察しています。

⦿まず、「地代」は、二つの等量の資本および労働が等面積の土地で用いられて不等な結果を生む場合の超過利潤であり、資本主義的生産様式のもとでの市場経済の結果であり、「虚偽の社会的価値」なので、社会の資本主義的形態が廃止され、「意識的な計画的な結合体として組織されている」社会では、土地所有者という階級の基礎はなくなり、土地生産物にプラスされていた「地代」もなくなることを述べます。

⦿この私的所有を前提とする資本主義的生産様式の社会の不合理を告発し、「意識的な計画的な結合体として組織され」た新しい「社会」の優位性を示すという『資本論』にある『資本論』の精神に私たちは特に留意し、資本主義的生産様式の変革の必要性を再認識することが重要です。

⦿私は、ここことに関連して、資本主義的生産様式の社会で、錦の御旗のように、振り回されている「知財権」について、一言、述べたいと思います。

 最近、米サンノゼ連邦地裁でクアルコムに対する判決がでましたが、それによるとクアルコムは携帯端末メーカーに対し端末価格の5%程度のロイヤルティーを求めるライセンス契約を強制しているとのことです。このように「知財権」も地主の「土地の所有権」同様、「知的財産の所有権」であり、「土地の所有権」同様の作用を社会にもたらし、「所有権」の独占にもとづいて製品価格に「ロイヤルティー」の上乗せを強制します。その結果、社会は余分な負担を強いられるとともに、文明の進歩の恩恵を受けられない人も生み出します。

 資本主義的生産様式の社会のこのような限界を乗り越えて、「意識的な計画的な結合体として組織され」た新しい「社会」は、「社会」として進歩的技術の開発を進め、その恩恵を社会全体で受けられるようにして、一層の技術的進歩の発展を図ることができます。もちろん、資本主義的生産様式の社会との共存が強いられる状況の中では、資本主義的生産様式の社会にたいし「知財権」の縮小を働きかけるとともに、それらの国々との対等な利益の維持のための「知財権」の行使もせざるを得ないでしょう。

 米中貿易摩擦が激化する中で、「知財権」に関する科学的社会主義の見方を、今こそ明確にする必要があります。

⦿つぎに、農業技術の進歩によって規模の拡大が進み、単位面積の小さいことが劣等地の条件の一つとなることが述べられていますが、日本はいかにして優等地の多い諸国とのハンディーを埋めるかが日本農業の大きな課題であることを再認識する必要があります。

⦿また、土地の価格は利用の高度化により一般的に上昇傾向があるなかで、「地代が資本還元された」ものとしての「幻想的」な価格をもつ「土地」はかっこうの「投機」対象であることも再認識する必要があります。

⦿なお、「穀物をより安く輸出することのできる植民地や一般に若い国々」の記述がありますが、それらの国々の労働者にたいする帝国主義な収奪についても留意することを忘れてはなりません。

⦿そして、「資本主義的生産様式による農業の占領、自営農民の賃金労働者への転化は、事実上この生産様式一般が行なう最後の征服なのだから、これらの不等(租税の賦課や農業の発展度や資本配分等が均等でないこと──青山)は農業では他のどの産業部面でよりも大きいのである。」(P838)との指摘も忘れてはならないでしょう。

※「第三九章」のより詳しい内容・説明は、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-39「第三九章 差額地代の第一形態」.pdf
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⦿「第四〇章 差額地代の第二形態」のテーマは、「それぞれ生産性の違う諸資本量が次々に同じ地所に投下される場合と、それらの資本量が相並んで別々の地所に投下される場合とでは、ただ結果は同じだということだけを前提して、二つの場合のあいだになにか区別がありうるであろうか?」(P868)という問題意識をもとに論究されています。

⦿このなかで、土地利用の高度化は地代と地価の上昇をもたらすということ。これは、都市部においても、当てはまり、土地利用の高度化が地代と地価の上昇をもたらし、地代と地価の上昇が一層の土地利用の高度化を強制し、地代と地価は上昇することが述べられていますが、「知財権」においても、ベースとなる技術の「価値」は、それをもとに一層技術が発展すればするほど、高くなります。

※「第四〇章」のより詳しい内容・説明は、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-40「第四〇章 差額地代の第二形態」.pdf
PDFファイル 100.7 KB

⦿「第四一章」から「第四三章」は「差額地代Ⅱ」(それぞれ生産性の違う諸資本量が次々に同じ地所に投下される場合)で、追加投資によって「生産価格が不変な場合」、「生産価格が低下する場合」および「生産価格が上昇する場合」について論究し、エンゲルスがそれらを「結論」として整理し、まとめています。

⦿「第四一章 差額地代Ⅱ 第一の場合 生産価格が不変な場合」は、市場価格は相変わらず最劣等地Aに投下された資本によって規制されるという前提で、地代を生む土地種類B、C、Dのどれかに投入された追加資本が、①土地Aで同じ資本が生産するのと同じだけしか生産しない場合、②それぞれの資本の大きさに比例する追加生産物をあげる場合、③追加資本が超過生産物をあげ、したがって超過利潤を形成するが、その率が低下して資本の増大に比例しない場合、④優等な土地種類での追加投資が最初の投資よりも大きい生産物を生むという場合の四つの区分について論究しています。

⦿「第四一章」では、関連して、「資本主義的生産の立場に立って、剰余価値の増大ではなく費用価格の低減の点から見れば、──そして剰余価値形成要素である労働での費用の節約も資本家のためにこの役立ちをするのであって、規制的生産価格が変わらないかぎり、彼のために利潤を形成するのである──、不変資本の充用はつねに可変資本の充用よりも安上がりである。」(P889)(※これは、特別利潤を捻出する手段。)ことを明らかにし、「個々の資本家にとっては、生きている労働は彼の生産費のうちで最も費用のかかる要素であり、とりわけ最低限度まで縮減されていなければならない要素であるように見えることがありうるのである。これは、ただ、次のような正しい見解が資本家的にゆがめられた形態でしかないのである。すなわち、生きている労働に比べての過去の労働の相対的に大きい充用は、社会的労働の生産性の上昇と社会的富の増大とを意味する、という見解がそれである。競争の立場から見れば、すべてがこのようにまちがっており、すべてがこのように逆立ちして現れるのである。」(P890)ことを述べています。重要!!

⦿そして「第四一章」は、総括として、「より狭い地面での資本の集積は一エーカー当たりの地代の高を増大させるのであるが、同じ事情のもとでより広い面積にわたる資本の分散は、ほかの事情が変わらないかぎり、このような結果をひき起こさないのである。これは、差額地代Ⅱに特有であって差額地代Ⅱを差額地代Ⅰから区別する現象である」ことを述べています。

※なお、「第四一章」のより詳しい内容は、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-41「第四一章 差額地代Ⅱ 第一の場合 生産価格が不変な場合.pdf
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⦿「第四二章」は「差額地代Ⅱ」の「生産価格が低下する場合」について、「追加資本の生産性」が「不変な場合」、「低下する場合」及び「上昇する場合」という三つの「節」をおこして、論究しています。「第四二章」の内容については、下記のPDFファイルを参照していただきたいと思いますが、「第四三章」でエンゲルスが「結論」として、明快な補足説明をしていますので参照してください。

※なお、「第四二章」の詳しい内容については、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-42「第四二章 第二の場合 生産価格が低下する場合」.pdf
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⦿前にも述べたとおり、エンゲルスは序文で「第六篇」について、「いちばん手がかかったのは、差額地代Ⅱのところの表であり、また、第四三章ではそこで取り扱われるべき差額地代Ⅱの第三の場合が全然検討されていないということを発見したことだった」と述べていますが、エンゲルスは、「第四一章」から「第四三章」までの編集について、第四一章と第四二章は、読みにくさは残るものの、「現にあるものをできるだけ整理することに限り」、第四三章で「必要な補足」として、第四一章から第四三章までの内容の整理をおこない、「差額地代Ⅱ」全体のまとめを「結論」として補足するということにしました。

⦿エンゲルスは「第四三章」の編集について、「前記の第三の場合は原稿では書き上げられていなかった──そこには表題があるだけである──ので、以上のようにそれをできるだけ補完することが編者の仕事として残されていた。ところが、編者には、そのほかになお次のことも残されている。すなわち、差額地代Ⅱの三つの主要な場合と九つの派生的な場合とについての以上の全研究から、帰結される一般的な結論を引き出すということがそれである。」(大月版⑤P920)と述べています。

⦿エンゲルスは「差額地代Ⅱの三つの主要な場合と九つの派生的な場合とについての以上の全研究から、帰結される一般的な結論を引き出す」ために、「無地代地をゼロ点として起算した豊度の差」にもとづく一三の表を新たに作成し、これらの表から、「まず第一に、」として、「諸地代の列は無地代の規制的な土地をゼロ点として見た豊度の差の列にちょうど比例しているということである。絶対的収益ではなく、ただ収益の差だけが地代にとっては規定的である。」ことをのべ、「しかし、これよりもはるかに重要なのは、同じ土地に投資が繰り返される場合に地代総額に関して生ずる結果である。」と言います。

⦿その最終的な結論として、「要するに、土地に投ぜられる資本が多ければ多いほど、一国の農耕と文明一般との発展が高ければ高いほど、それだけ一エーカー当たりの地代も地代の総額もますます大きくなり、社会が超過利潤の形で大土地所有者に支払う貢ぎ物はますます大きくなるのである──といっても、それは、ひとたび耕作されるようになった土地種類がすべて競争能力を保っているあいだのことであるが。

 この法則は、大土地所有者階級の生命の驚くべきねばり強さを説明する。……この階級は絶えず再び立ち直る──というのは、土地に投ぜられた他人の資本が、そこから資本家が引き出す利潤とはまったく不釣り合いに、この階級に地代を運んでくれるおかげである。

 しかし、この同じ法則はまた、なぜこのような大土地所有者の生命のねばり強さがだんだん尽きて行くのか、ということをも説明する。……。──F・エンゲルス」(大月版⑤P932-934)」ことを述べます。

⦿この観点は、資本の集積と地価を考えるうえで大変重要です。

⦿そして最後に、「差額地代一般の考察の一般的結論としては、次のようになる。」として、「第一に。超過利潤の形成は、いろいろな経路で行なわれうる。」こと等を述べ、「これまでに述べたことからはまず次のことが明らかになる。」として、概略、次のような内容でが述べられています。

「第一に。追加資本が同じ土地に超過生産性を保ちながら投下されてい行くあいだは、たとえその生産性がだんだん下がっていくにしても、一エーカー当たりの穀物地代も貨幣地代も絶対的には増大する。……

 第二に。ただ平均利潤を生産するだけでその超過生産性はゼロであるような追加資本の投下は、形成された超過利潤の高さ、したがってまた地代の高さを、少しも変えない。……

 第三に。追加投資の生産物の個別的生産価格が規制的価格よりも高い場合、つまり、追加投資の超過生産性がゼロに等しいだけでなくてゼロよりも少なくてマイナスであり、言い換えれば、それが規制的な土地Aへの同量の投資の生産性よりも低い場合には、このような追加投資は、優等地の総生産物の個別的平均価格をますます一般的生産価格に接近させ、したがって、超過利潤または地代を形成する両価格間の差額を小さくする。」(大月版⑤P943-944)という点をあげ、「地代の低下の最低限界は、地代がなくなってしまう点」であり、「超過利潤も地代も全然なくなってしまうまでには、まだ長いあいだ、生産性の不足な追加資本が、そしてその不足がますますひどくなる追加資本でさえも、充用できるであろう。」

⦿この章のなかに〝競争圏外への脱落〟という言葉が出てきますが、資本の論理に従って、1970年代以降、電気産業を筆頭に強欲に利益を得ようと生産拠点を海外に移した結果、日本の産業全体が空洞化し活力を失い、競争圏外への脱落の道を着実に歩んでいることです。ここまま事態が推移すれば、丸の内の大地主も、〝結合労働の生産様式〟の社会へ土地を引き渡す前に、土地から〝超過利潤〟を得ることが困難になるということ、そしてその災難をまともに被るのは、私たち無産階級であるということも忘れてはならないと思います。

※なお、「第四三章」の要約等については、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-43「第四三章 第三の場合 生産価格が上昇する場合 結論」.pdf
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⦿「第四四章」は最劣等耕作地に差額地代が生まれることの論究を行ない、投資が行われて土地が地代を生むのは、資本がその土地に投下されたからではなく、投資がその土地を以前と比べてより生産的な投下部面にしたからであることを述べています。

※なお、「第四四章」の主な抜粋については、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-44「第四四章 最劣等耕作地でも生まれる差額地代」.pdf
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これらを踏まえて、改めて『資本論』の読み方を考える

⦿マルクスは、「地球の一断片」である土地を資本主義的生産様式のもとで所有することの経済的意味を面的(空間的)、重層的(時間的)に可能な限り捉えることによって、資本主義的生産様式のもとでの「差額地代」と「絶対地代」のもつ意味を詳細に明らかにするとともに、「社会の資本主義的形態が廃止されて社会が意識的な計画的な結合体として組織されている」状況と対比しての資本主義的生産様式のもとでの「土地所有の不合理」についても、鋭く暴露しました。

⦿『資本論』の地代論の学習は、資本主義的生産様式のもとでの「土地所有の不合理」についての現代の現れをより深く論究し、暴露する契機とするだけでなく、「土地所有」と類似の所有形態である「知財権の所有」についても、私たちに多くのヒントを与えてくれています。

⦿皆さんが『資本論』の学習をする際には、不破さんのようにあら探しや蘊蓄を深めるために学習するのではなく、現代の資本主義をつねに念頭に置いて読み進んで下さい。そうすれば、皆さんは、私がこのページで指摘したことを遙かに超える多くのヒントを得て、現代の資本主義をより徹底して暴露することができるでしょう。

⦿不破さんは、「差額地代の『第二形態』をめぐって」という最後の「節」で、「率直に言って、私には、マルクスの理論の筋道が、何度読んでも理解できませんでした。そこには、二つの大きな疑問が最後までつきまとったからです」などと述べ、「この二つの理由から、差額地代の『第二形態』議論については、そこでのマルクスの『展開の独自性』に大きな疑問を抱いている、というのが、この部分に取り組んでの私の率直な感想です」と言って、第一四章「(14)差額地代論」を結んでいます。

⦿不破さんらしい『資本論』の「解説」だといえばそれまでですが、不破さんは本当に『資本論』をちゃんと読んだのでしょうか。不破さんは、資本論から何か学ぼうという気持ちが本当にあるのでしょうか。

⦿確かに、「差額地代Ⅱ」は、目を通すだけでは非常に分かりにくいのは否めません。そして不破さんがエンゲルス嫌いなのはわかりますが、マルクスの盟友であるエンゲルスは、その分かりにくさを補って、「差額地代Ⅱの三つの主要な場合と九つの派生的な場合とについての以上の全研究から、帰結される一般的な結論を引き出」しているではありませんか。

⦿不破さんは、「差額地代」を重層的(時間的)に捉えることそのものを否定しているのでしょうか。もしも、そうであるならば、はっきりとそう言うべきです。しかし、それは事実を偽るもので、誤っています。「マルクスの『展開の独自性』に大きな疑問を抱いている」などという陰険な言い方でマルクスを否定するのはやめるべきです。もしも、そうでなく「差額地代Ⅱ」を認めるのであれば、マルクスの不備を誹謗するのではなく、不破さんにその能力があるならば、マルクスの述べていることをエンゲルスのように補足して「解説」すべきではないでしょうか。

⦿科学的社会主義の思想を自らの思想たらんと心得ている人は、「イタチの最後っ屁」のような文章の結び方をしてはなりません。そして、このような人が責任編集をする「新版『資本論』」から、反面教師として以外にどのような学ぶべき点があるのか、想像するだけでも憂鬱になります。

⦿つぎに、不破さんが触れていなかった「第四六章 建築地地代 鉱山地代 土地価格」も大変大事な章で、私たちに様々な示唆を与えてくれていますので、そのうちの幾つかを紹介します。なお、この章には、「第七篇」の「第四八章 三位一体的定式」への導入的な文章も含まれていますので、是非、お読み下さい。

⦿『資本論』は、都市における土地所有は、社会の一部分が他の部分から、地上に住めるという権利の代償として貢ぎ物を要求し、ことに貧困の無恥きわまる搾取、生命の維持と発展とを搾取するという所有者の権利を与えること、地代の源泉は社会の剰余労働の一部分であるにもかかわらず、この権利が資本主義的生産関係のもとで売買されることによって、地代の源泉があたかも資本にあるかのように映り、真の源泉がおおい隠されることを述べ、それは、黒人を買った奴隷所有者にとっては、彼の黒人所有は、奴隷制度そのものによってではなく商品の売買によって得られたものとして現れるのとまったく同様であり、これらの権利をつくりだしたものは生産関係であることを指摘します。

⦿そして、この生産関係がある一点に達して脱皮せざるをえなくなれば、権利とそれにもとづくいっさいの取引との物質的な源泉、経済的および歴史的に是認される源泉、社会的な生命生産の過程から発する源泉は、なくなってしまうこと、より高度な経済的社会構成体の立場から見れば、地球にたいする個々人の私有は、ちょうど一人の人間のもう一人の人間にたいする私有──奴隷制度のこと──のように、ばかげたものとして現われることを私たちに強く訴え、土地の持つ意味について、「一つの社会全体でさえも、一つの国でさえも、じつにすべての同時代の社会をいっしょにしたものでさえも、土地の所有者ではないのである。それらはただ土地の占有者であり土地の用益者であるだけであって、それらは、よき家父〔boni patres familias〕として、土地を改良して次の世代に伝えなければならないのである」と言い切ります。

⦿私たちも、これらのことをしっかりと言い続け、国民共通の理解になるよう努めなければなりません。

⦿なお、「急速に発展しつつある諸都市では、特にロンドンでのように建築が工場的に営まれるところでは、建築投機の本来の根本対象をなすものは地代であって家屋ではない」との論及は、1980年代の日本のバブルが見事に証明しています。

⦿そして、この章での論及を通じて、私は、前述の「権利」の錯覚や資本主義的生産関係がもたらす「常識が不合理と見るものは合理的なものであり、常識で合理的なものは不合理そのものである」という環境で、あたかも「水中の魚のように気安さを覚え」日常生活を送っている人々に、それらをもたらしている「経済的諸関係」の「内的な関連」を明らかにし、一人ひとりがそのもつ意味をしっかりと理解するように、努めることの必要性を痛感させられました。

※なお、「第四六章」の詳しい紹介は、ホームページ4-27-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。完結篇」の該当箇所及び下記のPDFファイルを参照してください。

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3-46「第四六章 建築地地代 鉱山地代 土地価格」.pdf
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P142-148「(15)地代形態の世界史」で不破さんが言っていること

⦿「第四七章 資本主義的地代の生成」についての不破さんの「解説」で、不破さんは、まず、『資本論』をもとに〝資本主義的地代成立のための歴史的前提〟について解説し、続け、「土台と上部構造の関係。一歩深めた定式」と銘打った「節」では、マルクスが、「資本主義的地代に先行する地代形態として、『労働地代』、『生産物地代』、『貨幣地代』」をあげ、その転化の歴史をたど」ったことを述べ、よせばいいのに、「第1部で『本源的蓄積』の歴史を探究した時は、最も典型的な国イギリスを研究の対象としましたが、今回は、古代ではローマやカルタゴ、あるいはインド、中世と近代でもヨーロッパ諸国の歴史を広く取り上げ、いわば世界史的視野で研究を進めていることが、大きな特徴となっています」と、何ともトンチンカンなことを言います。

⦿そして、「この分析を進めるなかで、マルクスが、土台と上部構造の関係について、『経済学批判』「序文」での有名な定式を、一歩深める記述をおこなっていることも、見落とせない点です。」と述べて、蘊蓄を披露し、『資本論』から唯物史観に基づく記述の文章を抜粋しますが、何をどう「一歩深め」た記述なのかの説明は、一切ありません。「一歩深める記述」のどこが「見落とせない点」なのか、印象だけを植えつける、いかにも不破さんらしい文章ですが、不破さんは、何を私たちに言おうとしているのか、さっぱり分かりません。

⦿私は、先ほど、不破さんが「何ともトンチンカン」なことを言いますと申し上げましたが、マルクスは、不破さんが言うように、「『本源的蓄積』の歴史を探究した時」は視野が狭く、「今回」は、視野を広く「世界史的視野で研究を進め」たのではありません。マルクスが『資本論』でイギリスを例にとったわけは、「ただイギリスにおいてのみ、「本源的蓄積の歴史」の典型的な形をとるから」(大月版①P932-6参照。)で、世界を見ていなかったからではありません。

⦿そして、「『労働地代』、『生産物地代』、『貨幣地代』」の「転化の歴史」の論及にあたって、マルクスが「世界史的視野で研究を進めている」のは今に始まったことではありません。先に不破さんが「唯物史観の定式化」について、「土台と上部構造の関係について、『経済学批判』「序文」での有名な定式」と言った文章の中で、「大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式を、経済的社会構成が進歩していく諸時期としてあげることができる」と言っているように、『経済学批判』を刊行した1859年より以前から、マルクスは「世界史的視野で研究を進め」、その中で典型を見つけだしているのです。

⦿だから、不破さんの文章は、マルクスの意図をまったく理解しない、「何ともトンチンカン」な「蘊蓄」と言えるのです。

⦿そして、不破さんは、マルクスが「唯物史観の定式」を「一歩深め」たと言いながら、何をどう「一歩深め」たのか、一切私たちに明らかにしてくれませんが、もしかしたら、不破さんが21世紀になって「革命観の大転換」をして完全にマルクス修正主義者・改良主義者に転落してしまったように、マルクスを「マルクス修正主義者・改良主義者」に仕立てあげる、何か、ヒントでも見つけたのかも知れません。

⦿何しろ、マルクスの発見した〝唯物史観の定式〟は、不破さんがでっち上げた「恐慌=革命」説の前提になるものですから、「革命観の大転換」を果たした不破さんにとって、いつかは否定し去らなければならないものなのですから。

⦿しかし、不破さんが抜粋した『資本論』の唯物史観──「労働の社会的生産力の一定の発展段階に照応する」生産関係が「全社会構造」の「基礎」だという社会観・歴史観──と『経済学批判』「序文」での唯物史観とは、まったく同じ観点で述べられています。

⦿「革命観の大転換」など起こす余地のないことは、マルクスがシュヴァイツァーあてに書いた1865年1月24日付けの手紙(『プルードンについて』)を見れば明らかです。下記のホームページを参照して下さい。

⦿不破さんが唯物史観を「土台と上部構造の関係」などという曖昧な表現にし、プルードン流の「ユートピア主義者のやり方」を持ち込むために、マルクスを「一歩深め」ようとしても、徒労に終わるだけです。不破さんには、そのことを、前もって申し上げておきたいと思います。

※なお、唯物史観の定式化はどのような経緯で行なわれ、どのような内容のものなのかの簡単な説明は、ホームページ4-27-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。完結篇」の該当箇所を参照してください。

『資本論』への不信を煽るだけの不破さんのマルクスの歪曲

⦿不破さんは、「農民的土地所有の前途をめぐって」という「節」で、「『貨幣地代』の項」のマルクスの「分析の基調は、資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということの証明におかれました。」と言います。

⦿そしていきなり、「マルクスが、一八四八年の革命の敗北以来、一貫して強調してきたのは、資本主義下の農民がめざすべき革命的活路は、小土地所有への幻想からはなれ、労働者階級との同盟、農業の社会化をめざす以外にない、ということでした。」とマルクスを歪曲し、その証拠として、『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』(1852年)の中の「ナポレオンの王政復古に絶望するとき、フランスの農民は自分の分割地にたいする信仰を捨てる。」という文章を持ち出して、「この同盟(労・農同盟のこと──青山)が成立する前提は、農民が小土地所有への幻想を捨てることだとされました。」と言います。

⦿不破さんのこの文章には、巧妙なトリックがあります。まず、ここでマルクスが述べているのは、「資本主義下の農民がめざすべき革命的活路」の問題ではなく、労働者階級が「めざすべき革命的活路」の問題であり、プロレタリア革命を成功させるための労・農同盟の不可欠性の問題でした。そして、労働者階級が、「資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということ」を農民に訴えて、資本主義社会での農民的小経営への幻想(小土地所有への幻想──農民の自分の分割地にたいする信仰)を暴露し、捨てさせることは、強固な労・農同盟を築くうえで大変重要なことです。そして、そのことなしにプロレタリア革命を成功させることができないことは、明らかです。

⦿口を開けば「多数者革命」──科学的社会主義の思想がいう〝革命〟とは、常に、人民大衆がおこなう〝多数者革命〟ですが──を言い、その実、すべてのエネルギーを共産党の議席増大に矮小化している不破さんでも、そのくらいのことは分かるでしょう。

⦿そのことと、プロレタリア革命の課題として「農業の社会化」なる馬鹿げた課題を掲げることとは、まったくの別問題です。

⦿資本主義社会での農民的小経営への幻想をもつ農民が、「資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということ」を理解したとしても、小経営農民から農業労働者に没落した人たちの一部を除いて、「農業の社会化」のスローガンに諸手を挙げて賛同するものではないことは、不破さんはともかく、誰にでもわかることです。それなのに、不破さんは、「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」=「農業の社会化をめざす」とマルクス・エンゲルスの思想を歪曲してはばかりません。

⦿ただし、この「歪曲」が、善意なのか悪意なのか、つまり、不破さんのこれまでの認識の仕方に「悪意」はないと見て「善意」と見るのか、それとも、これまでの認識の仕方も今回も、正しく認識していながら、わざと「歪曲」した「悪意」によるものなのかは、直接不破さんにたずねる以外、知る由もありません。

⦿しかし、ここからが、不破さんの真骨頂の発揮どころです。「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」=「農業の社会化をめざす」ことという間違ったレッテルをマルクスに貼っておいて、すぐ、「その後、……『土地所有の社会化』とか『土地の国有化』を運動の目標とするのは誤りだという結論に達しました。」と、不破さん自らが創ったフィクションを否定し、マルクスの値打ちを低めておいて、「ですから、農民的土地所有についての『資本論』のこの分析を読むときには、マルクスの見解のその後の発展を理解することが、たいへん重要になります。」と述べて、私たちが『資本論』の「この分析」のもつ意味を理解することを妨げようとします。

⦿そもそも、「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」と「農業の社会化をめざす」こととは別問題ですが、「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」が問題であると不破さんが思うのであれば、『資本論』への不信感をあおるだけでなく、はっきりとそう言えばいいではないですか。

⦿しかし、いまの日本農業にとって必要なのは、TPPなどに反対することだけではありません。「資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということ」をしっかり訴えて、資本主義社会での農民的小経営への幻想を暴露し、捨てさせることに努力し、労働者階級と農民との強固な礎を築くことです。そのことをぬきに、自民党の農政と闘うことはできません。そのことを『資本論』の読者にしっかりと伝えることこそが、『資本論』の「この分析」のもつ意味をしっかりと理解した「解説」者のおこなうべき使命です。

⦿ところが不破さんは、この肝心要のことを行なわないだけでなく、マルクスの革命論を歪曲し、そこに焦点をあてることによって、「第四七章 資本主義的地代の生成」のもつ価値を著しく低めてしまいました。

⦿このように、21世紀になって「革命観の大転換」をして完全にマルクス修正主義者・改良主義者に転落してしまった不破さんは、「第四七章 資本主義的地代の生成」の「解説」を装ってマルクスの歪曲に努めてはばかりません。

⦿『資本論』のこの「地代」の篇は、資本主義以前の搾取の仕組みと資本主義的生産様式のもとでの搾取の仕組みにおける「地代」の質的な違いを明らかにし、最後に、資本主義的生産様式のもとでの土地私有の不合理さを告発しています。

⦿その中で、何やら、日本農業の現状を現すかのように、「生産手段の無限の分散化、そして生産者そのものの無限の孤立化。人間力の莫大な浪費。生産条件がますます悪くなり生産手段が高くなって行くということは、分割地所有の必然的な法則である」(P1034)ことや、また、「小さな土地所有の場合」の「生産そのものとは無関係な、土地の価格という要素」にかんして、「この場合には、生産者が自分の生産物の貨幣価格に依存するという資本主義的生産様式の不利が、資本主義的生産様式の不完全な発展から生ずる不利といっしょになるのである。農民は、自分の生産物を商品として生産することができるような条件なしに、商人となり産業家となるのである」(P1040)ということが述べられています。

⦿同時に、資本主義的生産の特徴として、「資本主義的生産」は、社会のますます増大する一部分を直接的生産手段の生産から解放して、彼らを〔手のあいている人〕に転化させ、他の部面で利用できるようにすることが述べられています。

⦿そして、資本主義的生産様式のもとでは、土地を共同的永久的所有として、入れ替わって行く人間世代の連鎖の手放すことのできない存在・再生産条件として、自覚的合理的に取り扱うのと違って、地力の搾取や乱費が現れることを指摘し、工業や商業が農業に土地を疲弊させる手段を提供することが述べられています。

⦿マルクスは、地力の搾取や乱費が現れることを指摘していますが、資本主義的生産は目先の利益を求め、〝われ亡きあとに洪水はきたれ!〟の世界です。だから、当面緊急な対策が強く求められていない事柄について、まったく無関心なのが、資本主義的生産様式のもとで農業です。この点を補足しておきます。

⦿これらを踏まえ、私たちは、資本主義的生産様式のもとでの、農業特有の生産性の低さ、生産性の漸増性にもとづく農業経営の不利について、日本の「小さな土地所有」にもとづく農業経営の不利について、科学的社会主義の思想にもとづく正しい認識と明確な展望をもって、広く国民にアピールする必要があります。

⦿なお、「この生産物地代の大きさは、労働条件の再生産、生産手段そのものの再生産をほんとうに危くし、生産の拡張を多かれ少なかれ不可能にし、直接生産者の生活手段を肉体的最低限度まで圧し下げるほどになることもありうる。ことに、この形態が、征服者である商業国民、たとえばインドでのイギリス人のようなものに見つけられて利用される場合には、そうである。」(P1021)という文章は、帝国主義者のあくどさを鋭く描写していますが、今日でも、農業に限らず、「知財権」等を振りかざして資本主義帝国主義者による同様な行為が堂々と行なわれています。

※なお、この章の詳しい紹介は、ホームページ4-27-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。完結篇」の該当箇所及び下記のPDFファイルを参照してください。

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3-47「第四七章 資本主義的地代の生成」.pdf
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「第三部 第七篇 諸収入とそれらの源泉」(第四八章~第五二章)

P148-166「(16)第七篇。『三位一体的定式』と未来社会論」

不破さんの「第七篇」についてのとんでもない謬論と「第七篇」から私たちが学ぶべきこと

 不破さんの「(16)第七篇。『三位一体的定式』と未来社会論」という「章」での不破さんの「解説」の順序に従い、まずはじめに、『三位一体的定式』についての不破さんの「解説」を見てみましょう。

隔靴掻痒の「三位一体的定式」の「解説」

⦿不破さんは、まず、『新メガ』の成果にもとづき、文章Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの編集順序を組み換える必要があることを述べ、続けて、「第48章 三位一体的定式」には「三位一体的定式」に係わる部分といわゆる「未来社会論」に係わる部分とが混在していること指摘し、はじめに、「三位一体的定式」に係わる部分の「解説」を行ないます。

⦿不破さんは、「『三位一体』的定式とは?」という「節」を設け、「三位一体的定式」について、「私たちが対面するのは、資本と名付けられた貨幣そのものが利潤、利子を生み、土地そのものが地代を生み、すべての価値の源泉である労働は、資本や土地と並んで、そのより低位の仲間として、控え目に労賃を受け取るという、神秘化が極限に達した世界です。」と述べたあと、「三位一体的定式」の持つ意味を詳しく説明(暴露)した『資本論』の文章の一部を「抜粋」し、続けて、「三位一体」という言葉について、「マルクスはこの言葉によって、資本主義社会を支配する神秘化の極致を表現したのでした。」と、「『三位一体』的定式とは?」の「意味」を解説します。

⦿続けて不破さんは、上記の『資本論』の文章につづく文章について、「簡潔な論評ですが、ブルジョア経済学の両派(「古典派経済学」と「俗流経済学」(今日、主流の「経済学」)のこと──青山)にたいする的確な特徴づけがおこなわれています。」、と述べて「『三位一体』的定式とは?」という「節」の「解説」を終えてしまいます。

⦿この、不破さんの「解説」は、マルクスが『資本論』の草稿を書き、エンゲルスが『資本論』を編集した時代のマルクス・エンゲルスの歯痒さと『資本論』の資本主義経済学批判としての意味を忘れた、「隔靴掻痒」の文章で、科学的社会主義の経済学を学ぼうとする人たちにとって、けっして、適切な〝解説〟とは言えません。

まちがった外観と偽瞞の「三位一体的定式」に騙されるな

⦿マルクスは、既に、『資本論』第一部「第六篇 労賃」「第一七章 労働力の価値または価格の労賃への転化(大月版② P696~ )で、資本家に買われた労働力の価値が、「労働の価格」=「貨幣で表現された労働の価値」として資本主義的生産関係のなかで現されると、価値の源泉である労働者は、その寄生虫である資本家の価値を創造するための手段のように転倒して見えることを指摘しています。

※.資本主義社会での事物の認識についての『資本論』からの抜粋については、ホームページ5「温故知新」→「C、資本主義社会Ⅰ(7.資本主義社会、8.近代(現代)の国家、9.資本主義社会での事物の認識)」のPDF「9-1 現象では事物が転倒して現れることがよくある」(大月版②P696 )」を参照して下さい。

⦿「三位一体的定式」のまちがった外観と偽瞞に騙されないために、マルクスのいう「三位一体的定式」とは何か、もう一度、その要点を確認してみましょう。

⦿資本家に買われた労働力の価値が、「労働の価格」=「貨幣で表現された労働の価値」として資本主義的生産関係のなかで現わされ、そのことを通じて、生産関係の物化と富のいろいろな社会的要素の相互間の独立化と骨化がおこなわれます。その結果、いっさいの内的関連が消し去られた、まちがった外観と偽瞞によって、魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界として、資本主義的生産様式の神秘化がおこなわれ、資本─利子、土地─地代、労働─労賃という疎外された不合理な形態である「経済的三位一体」が「定式」として承認されます。

⦿この定式は、支配的諸階級の収入源泉の自然必然性と永遠の正当化理由とを宣言して、それを一つの教条にまで高めたものとして、支配的諸階級の利益に一致しています。

⦿そして、「以前のいろいろな社会形態では、この経済的神秘化は、ただ、おもに貨幣と利子生み資本とに関連してはいってくるだけである。……(青山の略)……資本主義的生産様式においてはじめて」(大月版⑤P1064)──ここで原稿は中断していますが、青山は中断された欠損部分の内容を次のように推測します──①経済的三位一体が完成し、あからさまな暴力による支配から「経済的神秘化」による「まちがった外観と偽瞞」による支配が完成したこと、②資本主義的生産様式においてはじめて資本も労働も社会から無拘束なものとして現われたこと、③その結果、資本主義的生産様式は(資本主義)社会そのものを掘り崩す矛盾を抱えこんでしまったこと、を中心にして、草稿が中断されていなかったならば、マルクスらしい表現で力強く述べられていたことでしょう。

⦿以上が、「三位一体的定式」の要点です。

『資本論』が私たちに訴えていること

⦿これらを通じて、ここで『資本論』が訴えていることは、「三位一体的定式」による資本主義的生産様式の「神秘化」にごまかされてはいけないということです。

⦿「三位一体的定式」とは「まちがった外観と偽瞞」の表現であり、支配的諸階級の階級的利益に一致した認識であり、不破さんのように「資本主義社会を支配する神秘化の極致を表現した」などと述べるだけで、「三位一体的定式」の「まちがった外観と偽瞞」の暴露の必要性・重要性を「解説」しないのは、まったく、正しくありません。

⦿俗流経済学は、「現実の生産当事者たちの日常観念の教師的な多かれ少なかれ教義的な翻訳以外のなにものでもなく」、「いっさいの内的関連の消し去られている三位一体のうちに、自分の浅はかな尊大さの自然的な、いっさいの疑惑を越えた基礎を見いだす」ものであり、だから、「この定式は同時に支配的諸階級の利益にも一致している」ことを述べています。

⦿だから、不破さんのように、「ブルジョア経済学の両派にたいする的確な特徴づけがおこなわれています」などと呑気なことを言っている場合ではなく、「俗流経済学」の存在意義を正しく認識して、「俗流経済学」を徹底的に暴露する必要性があること。このことが認識できない不破さんの弱点が、現代の資本が「国家」を捨て我が物顔で振る舞っている「グローバル資本主義」を「俗流経済学」が弁護することへの無関心な姿勢につながっています。

⦿資本主義的生産様式においてはじめて資本も労働も社会から無拘束なものとして現われ、あからさまな暴力による支配から「経済的神秘化」による「まちがった外観と偽瞞」による支配が完成しました。その結果、資本主義的生産様式は(資本主義)社会そのものを掘り崩す矛盾を抱えこんでしまいましたが、それはそれでまた、新しい国民の共同社会への途を開く準備となるということです。

⦿このことを変革の立場で〝解説〟すれば、今日の日本を変えるためには、現在の状況のわずかな改善の要求だけに留まっていてはだめだということがはっきり分かり、新しい国民の共同社会への展望を示すことが科学的社会主義の思想の必然であり義務であることが明らかになります。

⦿「資本主義的生産様式においてはじめて資本も労働も社会から無拘束なもの」となり、自由に行動する資本のグローバルな活動により産業の空洞化が進み、われわれは今、日本社会そのものの存亡の危機に直面しています。

⦿「三位一体的定式」についての『資本論』の解説は、このように、現在の日本を頭の真ん中に置いたものでなければなりません。

⦿そういう点で、不破さんの「解説」は科学的社会主義の思想にもとづく解説といえるものではありません。

⦿「三位一体的定式」について、この程度の認識しか示せない人が責任編集をする「新版『資本論』」は、科学的社会主義の思想を学ぶ者にとって有害な図書の一つになると言っても過言ではないでしょう。

不破さんは、『資本論』そっちのけで自らの非民主的な振る舞いを自慢し、マルクスの「未来社会論の核心をついたスケッチ」を突然の「ひらめき」の賜物のように言う

⦿つぎに不破さんは、「未来社会論の核心をついたスケッチ」という「節」で、「第四八章」の中にある「必然性の国」と「自由の国」とに関するマルクスの論及に「解説」を移したかと思いきや、『資本論』の「解説」のための著作であるにもかかわらず、「二〇〇四年に最初の研究結果を発表して以来、いろいろな機会にかなり詳しい解説をしてきましたので、ここでは解説を控えます」と「解説」しないことを宣言して、「解説」の載っている自分の他の著作を紹介して「解説」をおえてしまいます。恐れ入る以外、なにも言うことはありません。

⦿その代わり、不破さんはここで、「最初の研究結果を発表し」た経緯に関して、不破さんの「民主集中制」がスターリン並みの非民主的な決定方法であることを臆することなく語っていますが、このページの論点ではないので省略させて頂きます。詳しくは、ホームページ4-27-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。完結篇」の該当箇所を参照してください。

⦿続けて不破さんは、『資本論』の「解説」の代わりに、『剰余価値学説史』の中の文章を「未来社会で人間がもつ『自由に利用できる時間』の意義について鋭く解明するとともに、それによって、労働する時間そのものも『はるかにより高度な質をもつ』だろうことを、次のように指摘しました。」と言いって紹介します。

⦿不破さんは、21世紀になって「資本主義観の大転換」と「革命観の大転換」をする程度の認識能力しか持ち合わせていない凡人なのですから、上記のようにマルクス・エンゲルス・レーニンの文章をつなぎ合わせているだけなら間違いは起こしません。

⦿ここに出てくる『剰余価値学説史』の中の文章は、『国民的苦難の根源と救済策…ジョン・ラッセル卿への書簡』というタイトルの匿名のパンフレット(約40ページ)の中の「一国は、資本に利子が支払われないとき、一二時間ではなく六時間だけ労働がなされるとき、はじめて真に富裕である。富とは、自由に利用できる時間であって、それ以外のなにものでもない。」という文章に関してマルクスが述べたものです。

⦿詳しくは、ホームページ4-27-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。完結篇」の該当箇所を参照していただきたいと思いますが、不破さんは、この文章をしっかり読み込んでいれば、「マルクスは、人間の生活時間のうち、この時間(物質的生産にあてるべき時間──青山補注)部分を『必然性の国』、それ以外の、各人が自由にできる時間部分を『自由の国』と名付けました」とか、「必然性の国」以外の余暇時間をマルクスは「自由の国」と呼び、資本主義社会にも〝余暇〟があり「自由の国」があるなどと言ったり、物質的生産にあてるべき時間を「必然性の国」と呼ぶ理由を、「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動」だからだなどと言わずにすんだでしょう。

⦿なぜなら、マルクスはこの文章で、未来社会の「自由な時間、自由に利用できる時間」の構成部分として、労働による生産物の享受のための時間と自由な活動のための時間とをあげており、社会が進めば進むほど「労働時間そのもの」が「より自由な性格をもつように」なり、「高度な質」をもつた時間となることを述べ、不破さんのように「労働」と「自由な活動」とを対立した概念として捉えていないからです。付け加えて言えば、マルクスは『ゴータ綱領批判』で、「共産主義社会のより高度の段階の社会」では、「労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととな」ることを述べ、「生活」そのもの、人生そのものであることを明らかにしています。

⦿つぎに不破さんは、「第四八章」の中にある「必然性の国」と「自由の国」とに関するマルクスの論及の「解説」をする代わりに、「なぜマルクスは、その未来社会論を、〔〕付きの不完全な形で、『三位一体的定式』の論述の冒頭に書き込んだのか」と自問し、「未来社会の特質を、『自由の国』と『必然性の国』との相互関係でとらえる」という「ひらめきが、『三位一体的定式』を書き始めた時点でマルクスをおそ」ったからではないかと、自ら「推測に過ぎ」ないことを認めたうえで、マルクスが不破さん同様に思想の薄い人間であることを「推測」します。

⦿科学的社会主義の思想を理解できない人が「ひらめき」に頼って、二一世紀になって、70歳を過ぎて、「革命観の大転換」をするのも、「推測に過ぎない」ことを言うのもその人の自由ですが、『資本論』の中でもたいへん有名な、それなのに不破さんが「解説」しなかった、これから紹介する一節は、科学的社会主義の思想に貫かれたマルクス・エンゲルスの思想そのものです。

⦿だから、エンゲルスもマルクスに倣って、『反デューリング論』では「自由の国」と「必然性の国」という言葉(『空想から科学へ』では「自由の王国」と「必然性の王国」という言葉)を、「第三篇 社会主義」の「二 理論的概説」の中で使って、科学的社会主義の思想を展開しているのです。

⦿そして、マルクスはエンゲルスあての1868年の手紙で、『資本論』で資本の一般的本性を究明するとともに、三つの階級、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴き、資本主義的生産様式の「解体」を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもりであることを予告していました。

⦿だから、マルクスは、そしてエンゲルスも、これらの文章を、最後に一気に書き上げる最後の「章」で使う重要な文章の一部として考えていたのだと思います。

⦿しかし、エンゲルスが「編集」においてそれをしてしまったら、エンゲルスが序文で述べているように、『資本論』は最後の肝心なところでマルクスの作品ではなくなってしまいます。だから、エンゲルスは、創作などせず、あるがままの編集を、序文で示した編集方針に従って、行なったのでしょう。

⦿そのような事情には一切触れずに「不完全な形」などと言い、文章が、あたかも一時的な「ひらめき」の産物ででもあるかのようにいうのは、科学的社会主義の思想を共有することのできない不破さんだからできる、マルクスとエンゲルスに対して大変失礼なものいいだと思います。

⦿そして、不破さんは、この「節」の最後に、下記『資本論』抜粋の緑色に示した最後の文章を載せて、あたかも一時的な「ひらめき」によって作られたかのように言っていた文章を、今度は、面従腹背の虎の威を借るキツネかタヌキのように、「ここにあるのは、未来社会のスケッチですが、マルクスの未来社会論の核心を鋭く表現したスケッチだと思います。」などと言います。

⦿不破さんは、「マルクスの未来社会論の核心」を表現した科学的社会主義の思想の産物を「ひらめき」によって作られたかのように「推測」して、マルクスを不破さん並みの凡人にしようとしています。こんな人が責任編集の「新版『資本論』」を読む人は、相当な覚悟をもって、眉につばして読むことをお勧めしたい。

マルクスの言う〝自由の国〟と〝必然性の国〟とは

⦿さて、それでは、不破さんが「解説」をしなかった、マルクスの言う〝自由の国〟と〝必然性の国〟とは、『資本論』の当該部分でマルクスは何を言っているのか、ちょっと長くなりますが、まず、『資本論』の原文から見てみましょう。

「……しかしまた、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行なわれるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」(大月版 ⑤ P1050-1051)

⦿以上、ここで述べられていることを簡単にまとめてみましょう。

①一定の時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によってきまる。だから、社会の富の増加も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、その生産性を保障する生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっている。

②ここで言う、「自由の国」は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まる。

③未開人も文明人も、どんな社会形態のなかでもどんな生産様式のもとでも、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならない。

④この自然「必然性の国」での「自由」とは、資本主義社会から「社会主義社会」になることによって、社会化された人間、結合された生産者たちが、資本の盲目的な力によって支配されるのをやめ、自分たちと自然との物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くことができるようになることである。

⑤しかし、資本主義社会から「社会主義社会」になること、これはやはりまだ「必然性の国」である。

⑥この「必然性の国」である「社会主義社会」をその基礎として、この「必然性の国」の先に、自己目的として認められる人間の力の発展が万人に保障される、真の「自由の国」が始まることができるのである。

⑦「社会主義社会」が資本主義的生産様式の持つ生産性向上の壁を打ち破って、「自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとで」生産性を保障する生産条件を豊富にすることによって、労働の生産性の飛躍的向上をはかり、労働日を短縮することこそが「自由の国」実現のための根本条件である。

⦿これがマルクスが『資本論』で述べていることです。そして、エンゲルスも『空想から科学へ』で同様なことを述べています。

⦿このように、『資本論』と『空想から科学へ』をごらん頂けばわかるとおり、マルクスもエンゲルスも「自由な時間」を「自由の国」などと一言もいっていません。マルクスが『剰余価値学説史』の中で言った「自由な時間」とは、人間がやっと、「自由の国」で、自由に得ることができるようになった強制されることのない〝生活そのものの時間〟のことです。

⦿このように、ここで論及されていることは、不破さんが創作した「未来社会論」とはまったく異なります。だからといって、「『資本論』探究」と銘打った『資本論』の「解説」書で、「解説を控え」るのは、あまりにも子供じみています。

※なお、『空想から科学へ』での共産主義社会への論究については、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」を参照して下さい。

不破さんの「続く章での未来社会論」での科学的社会主義の経済学の無理解

⦿不破さんは「続く章での未来社会論」という「節」で、マルクスが、資本主義的生産様式の解消後の剰余労働のあり方と資本主義的生産様式の解消後の価値規定の重要性について論及していることをのべます。

⦿資本主義的生産様式の解消後の剰余労働のあり方については、歪曲や間違いがないので、安心して読んで下さい。

⦿資本主義的生産様式の解消後の価値規定の重要性については、次の文章の内の「第二に、」として論及されている部分を抜粋しています。

「第一に、その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である。

 第二に、資本主義的生産様式が解消した後にも、社会的生産が保持されるかぎり、価値規定は、労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後にそれに関する簿記が以前よりもいっそう重要になるという意味では、やはり有力に作用するのである。」(大月版 ⑤ P1090)

⦿この文章は、先に見た『剰余価値学説史』の「労働時間は、たとえ交換価値が廃棄されても、相変わらず富の創造的実体であり、富の生産に必要な費用の尺度である」という言葉と符合しています。

⦿不破さんは、この茶色の文章について、「商品生産社会では、あれこれの商品について、社会がその商品をどれだけ必要としているかは、市場での価格の運動によってしか計れません。………新しい共同社会では、この分配を、市場での動揺を通じての結果としてではなく、最初から計画的、意図的におこなうことが可能になります。価値規定こそが、その基準となる、ここにマルクスの言明の意味があるのでした。」と述べて、科学的社会主義の経済学をまったく理解していないことを暴露します。

⦿不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだといって、マルクス・エンゲルス・レーニンの考えを否定する人ですから、上記のように言い張るのはやむを得ないことかもしれませんが、こんな人にレーニンの〝記帳と統制〟の概念についてとやかく言われていたかと思うと、レーニンが、あまりにも、可哀想すぎます。

⦿普通の人なら、不破さんが抜粋した文章の前の「第一に、その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である。」という文章を読んでいるでしょうから、不破さんのような誤りはしないでしょう。

⦿不破さんの言う、「商品生産社会では、あれこれの商品について、社会がその商品をどれだけ必要としているかは、市場での価格の運動によってしか計れません」という認識は、大まちがいで、資本家(ムッシュー・ル・カピタル)の立場からの認識です。

⦿市場での商品の価格は一義的には需要と供給によって決まりますが、つねに利潤が平均利潤に収れんするのにしたがって商品の価格も収れんしていきます。これが商品交換を規制する資本主義的生産様式の原則です。

⦿しかし、需要は購買能力のある人の購買意欲によってきまるもので、「社会がその商品をどれだけ必要としているか」によってきまるものではありません。

⦿供給も「社会がその商品をどれだけ必要としているか」にもとづいてきまるものではなく、ただ単にその商品の需要にもとづいて儲かる範囲でおこなわれるだけです。

⦿だから、社会全体が国民的欲望を満たすために「その商品をどれだけ必要としているか」ということと、その商品の「市場での価格の運動」とは、まったく無関係です。

⦿そのことを理解できない不破さんは、「新しい共同社会では、この分配を、市場での動揺を通じての結果としてではなく、最初から計画的、意図的におこなうことが可能になります」と誤りを重ねます。

⦿不破さんは、「富」の「分配」という共通点だけから、購買能力のある人への需要と供給にもとづく市場での「富」の「分配」と社会全体が国民的欲望を満たすために計画的、意図的におこなう「富」の「分配」とを、この質的に異なる二つの「富」の「分配」を、同一視して「この分配」と言いうのです。開いた口がふさがりません。

⦿「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」を否定し、「資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみな」して「賃金が上がれば日本は良くなる」としか言わない、不破さんならではの謬論です。

⦿なお、蛇足ですが、不破さんは、『カール・マルクス』の中に商品交換が「何十億回となくくりかえされる」という言葉があることから、いつもけなしているレーニンから学び損ねて、レーニンが説明しているマルクスの商品の分析の意味を理解するのではなく、商品交換は「何十億回となくくりかえされる」のだから、「市場経済」(=資本主義社会)は神聖な「公理」で、だから触れてはいけないなどという、とんでもない結論にたどりついてしまったことも、申し添えておきます。

※不破さんの資本主義の矛盾の捉え方の誤りについての詳しい説明は、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を、不破さんのレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲についての詳しい説明は、ホームページ4-12「☆不破哲三氏によるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲」を、「市場経済」は神聖な「公理」だから触れてはいけないという不破さんの暴論については、ホームページ4-10「☆不破さんの、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」と言う暴言」を、是非、参照して下さい。

不破さんの「未来社会を表現する用語について」で述べられていることのウソ

⦿不破さんの「未来社会」についての主張のデタラメぶりは既に見てきたところですが、不破さんの混乱の原因の一つは、資本主義社会から生まれた社会を「未来社会」=「社会主義社会」=「共産主義社会」と一律に見ているところにあります。

⦿マルクスもエンゲルスも〝共産主義社会〟を、「生まれたばかりの共産主義社会」、「共産主義社会の第一段階の社会」と「発展した共産主義社会」、「共産主義社会のより高度の段階の社会」というように区分し、前者を「民主主義」や「平等な権利」が残り、「労働が義務」で「死滅しつつある国家」のある「必然性の国」とみて、後者を「民主主義」や「平等な権利」という概念の不要な、「労働が生活にとってまっさきに必要なこと」となる「国家」のない「自由の国」と見ていました。

⦿「未来社会を表現する用語について」という「節」を設けた不破さんは、この「節」で、レーニンを悪者に仕立てあげてマルクスとエンゲルスの「未来社会」についての上記のような見方を否定するために、レーニンが『ゴータ綱領批判』の「注意書き」を見落としたために「独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした」とレーニンへの驚くべき非難をおこないます。

⦿不破さんの『ゴータ綱領批判』の歪曲と捏造、デマで固めたレーニンへの非難の実態については、是非、ホームページ4-27-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。完結篇」の該当箇所を参照して下さい。

⦿なお、大雑把に言って、不破さんのほとんどの文章は、基本的に、①マルクス・エンゲルス・レーニンの文章の歪曲、②それにもとずくマルクス・エンゲルス・レーニンの誹謗・中傷、③そして自らの出来損ないの修正主義理論の展開という三要素からなっています。

デマから生まれた修正主義「綱領」

⦿そして「未来社会を表現する用語について」という「節」は、「私たちは、この誤り(レーニンが「つくりあげてしまった」「独特の二段階発展論」というデマのこと──青山)をおおもとから打破して、二〇〇四年の第二三回党大会で採択した新しい党綱領のなかで、マルクスの本来の理論を現代的に発展させた未来社会論を定式化しました。そこでは、『社会主義』も『共産主義』も未来社会を表現する同意義の用語として、位置づけられています。」(P166)という不破さんの自慢話で結ばれています。

⦿しかし、レーニンの誹謗・中傷とそのデマから生まれた修正主義「綱領」誕生の秘話は、不破さんにとっては自慢話かもしれなせんが、科学的社会主義の思想にとっては大きな汚点です。

⦿不破さんは、日本共産党の綱領を改定した経緯について、「『資本論』探究〈上〉」で、「──未来社会の問題。この問題では、第三部第七篇の冒頭に、マルクスの比較的簡潔な記述があります。これまで見過ごされる場合が多かったのですが、『全三部を読む』(2003年出版──青山)ではここに注目して、かなり詳細な解説をおこないました(第七冊一五〇~一六三ページ)。しかし、その時は、マルクスがここで展開した未来社会論が、社会主義・共産主義社会についての本論であって、生産物の分配方式の変化を最大の基準にして未来社会を論じた従来の理論(レーニンが『国家と革命』で理論化)と両立するものでないことにまでは、考えがおよびませんでした。この問題は、日本共産党の綱領を改定した二〇〇三~〇四年に全面的な研究をおこない、その成果に立って党綱領の未来社会の諸規定を一新しました。」(P15)と述べ、2003年までレーニンが「つくりあげてしまった」「独特の二段階発展論」、──それは「マルクスが未来社会の最大の積極的内容がここにあるとした『自由の国』、そこでの人間の能力の限りない発展など、まったく視野の外においた貧しい未来社会論」──を不破さんの「科学の目」が正しいと思っていたことを告白しています。

⦿つまり、不破さんがこれまで述べていることをもとに、──もともとこれまで不破さんが述べていることはその場しのぎで整合性に欠けることが多いが──可能な限りの整合性をもって不破さんの成長過程をみると、不破さんは二〇〇一年以降に「恐慌の運動論」を発見して「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きた結果、これまで『資本論』も『国家と革命』も従来の「未来社会論」(「貧しい未来社会論」)だと思っていたのが二〇〇三年には『資本論』に従来の「貧しい未来社会論」でないものを発見し、二〇〇三~〇四年の全面的な研究によってそれが『国家と革命』の従来の「貧しい未来社会論」とは両立するものでないことを発見し、日本共産党の綱領を改定したというのです。

⦿そして不破さんが従来の「貧しい未来社会論」否定して作り上げた「未来社会論」とは、マルクスのいう「自由の国」とは「自由な時間」のことで、その「自由な時間」とは資本主義社会にもある「余暇」のことであり、マルクスのいう「『奴隷制のかせ』からの解放」とは労働者階級の賃金奴隷制からの解放のことではなく、「指揮者はいるが支配者はいない」という民主的な職場作りのことだというのです。

⦿共産党は、とんでもない人物に牛耳られてしまったものです。

⦿不破さんの『国家と革命』に対するデマを打ち破るのは『国家と革命』を読むことですが、『国家と革命』にはマルクス・エンゲルスの思想を受け継いだ、不破さんにはない、唯物史観にもとづいた未来社会への展望が、必要な範囲でちゃんと、述べられていることだけは申し述べておきます。

※なお、『国家と革命』への誹謗・中傷等についての詳しい内容は、ホームページ4-6「☆不破さんは、エンゲルスが「取得形態という角度から生産関係をとらえている」とエンゲルスを曲解している。」ホームページ4-12「☆不破哲三氏によるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲」ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」及びホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、「自由の国」は「自由の時間」で資本主義にもある「余暇」のことだと言う不破さんの暴言については、ホームページ4-26「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏」を、是非、参照して下さい。

P166-170「(17)『スミスのドグマ』批判」

「『スミスのドグマ』批判」という『資本論』を理解しない捉え方

⦿不破さんは、前の「章」(「(16)第七篇。『三位一体的定式』と未来社会論」)の中の「続く章での未来社会論」という「節」で、『資本論』の「『第四九章 生産過程の分析によせて」のなかの〝資本主義的生産様式の解消後の剰余労働のあり方〟に関する文章と、この「第四九章」の結びに書かれている〝資本主義的生産様式の解消後の価値規定の重要性〟について注意喚起している文章を「未来社会論」として取り上げましたが、この「(17)『スミスのドグマ』批判」という「章」では、「第四九章」の前半はスミス批判の序論としての「再生産論の復習」であり、「『第四九章 生産過程の分析によせて』の後半と『第五〇章 競争の外観』はすべてスミスのドグマ批判に充てられてい」ると言います。

⦿しかし、「第四九章 生産過程の分析によせて」を「未来社会論」と「スミスのドグマ批判」として捉える不破さんの『資本論』「第四九章」の捉え方は、残念ながら、「第四九章」の趣旨を理解しない、『資本論』の「解説」としては失格の代物という以外ありません。

「第四九章」は「三位一体的定式」に幻惑された考えの誤りの原因と私たちが中心に置くべきテーマについて論及したもの

⦿「第四九章」のなかの〝資本主義的生産様式の解消後の剰余労働のあり方〟に関する文章と、〝資本主義的生産様式の解消後の価値規定の重要性〟について注意喚起している文章に関してはすでに論及しましたが、「第四九章 生産過程の分析によせて」全体でマルクスが私たちに何を注意喚起しているのか、内容を極々大雑把に見ながら、一緒に、考えてみたいと思います。

⦿「第四九章」は「第四八章 三位一体的定式」でおこなった「三位一体的定式」の「まちがった外観と偽瞞」の暴露の続きとして、「セー氏に見られるような、全収益、総生産物は、一国にとっては純収益になってしまうとか、それと区別されないとかいう幻想、つまり、このような区別は国家的立場から見ればなくなってしまうという幻想は、ただ、アダム・スミス以来全経済学を一貫している次のようなばかげた説の必然的で最後の表現でしかないのであって、その説によれば、諸商品の価値は結局は残らず諸収入に、つまり労賃と利潤と地代とに、分解する」(P1076)という「三位一体的定式」に幻惑された考えの誤りの原因と私たちが中心に置くべきテーマについて論及したものです。

⦿「第四九章」は、「第四八章」で明らかにしたことを再確認し、単純再生産の表式(第二部第二〇章第二節)による再生産過程の説明をし、続けて、総生産物の内訳と総収入の内訳の説明を行ない、これらを踏まえ、「これに反して、」上記のような誤った考えに至る原因は、「要するに次のようなものである」として五っの点を挙げます。

⦿私たちは、だから、「三位一体的定式」のこのような「まちがった外観と偽瞞」に騙されることなく、資本主義的生産様式の社会の経済をしっかり学び、「第一に、その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である」ことを国民に明らかにし、「第二に、資本主義的生産様式が解消した後にも、社会的生産が保持されるかぎり、価値規定は、労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後にそれに関する簿記が以前よりもいっそう重要になるという意味では、やはり有力に作用するのである」ということをしっかり踏まえ、〝国民の新しい共同社会〟を作るに当たっては、国民福祉のための社会的労働の配分を正しく行なうための記帳と統制の民主的制度をしっかりと創り、合理的なものとしなければなりません。

⦿「第四九章 生産過程の分析のために」は、私たちにこのようなことを明らかにし、注意を喚起しています。

⦿なお、〈注53の最後の言葉〉「ブルジョア世界のなかに、ありとあらゆる世界のうちの最良の世界を発見しようとする親切な善意が、俗流経済学では、真理愛や科学的探究欲のどんな必要にもとって代わるのである」は、21世紀になって「資本主義観の大転換」と「革命観の大転換」を成し遂げた不破さんのことを言っているように思えてなりません。

※なお、「第四九章」の主要な抜粋とその解説については、是非、下記のPDFファイルを参照して下さい。

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3-49「第四九章 生産過程の分析のために」.pdf
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「第四九章」をスミス批判に矮小化し、「第四九章」の意味を理解できないものにする不破さんの「解説」

⦿しかし、不破さんは「第四九章」を「スミスのドグマ批判」の文章と矮小化したために「第四九章」の意味が理解できず、「第四九章の前半は、一見、再生産論が主題のように見えますが、……不変資本の再生産と流通が再生産過程のなかに位置をしめていることを確認したうえで、スミス批判に入るというところにあったのだと思います」と強引に「スミス批判」に話をもっていこうとします。

⦿けれども、不破さんにとって「スミス批判」のはずの「第四九章」にもかかわらず、「マルクスの考察は、その誤りの立証よりも、なぜこのドグマが、無批判に『全経済学』を貫いてきたのかの状況分析に向けられます」と述べて、「スミス批判」のはずの「第四九章」が「その誤りの立証よりも」誤った考えに至る五つの原因の詳細な論及に「向けられ」たことを認めざるをえません。

⦿しかし、不破さんは「革命観」や「資本主義観」まで確たる根拠もなく思い込む人ですから、「第四九章」を「スミス批判」の「章」と見る、今まで誰も気付かなかったアイデアを一度発見したからには捨てる訳にはいきません。

⦿「誤った考えに至る五つの原因」の粗雑な説明のあと、続けて、木に竹を接ぐように、「まさに、スミスのドグマは、古典派経済学の弱点の集中的表現だったのでした。」と「第四九章」がまるで「スミス批判」ででもあるかのように言います。

⦿〝恐れ入りました〟というか、〝開いた口がふさがらない〟というか、何とも表現のしようがありません。

⦿ただ、言えることは、エンゲルスが不破さんのような人でなくて、本当に、よかったということです。不破さんのような人が『資本論』の編集をしていたら、とんでもない代物ができあがっていたことでしょう。こんな取り越し苦労にたいして、〝私たちは友を選ぶ〟と、マルクスとエンゲルスに叱られそうです。

⦿このように、「第四九章」を編集した意図、意味がまったく理解できない不破さんが、「新版『資本論』」の編集責任者をするのです。なんとも、科学的社会主義の思想にとっては、恐ろしいことです。

「第五〇章 競争の外観」の概要と現代の私たちへのヒント

⦿不破さんは、まず、「第五〇章では、」として、「第四九章」と同様に「第五〇章」の粗雑な──「第四九章」は三行半でしたが、「第五〇章」は、たったの、三行だけの──説明を行ないます。

⦿不破さんは、「そこでは、スミス理論が『資本─利潤、土地─地代、労働─労賃』という『三位一体』的定式に支配されている生産者たちの日常意識にとって、きわめて受け入れやすい見方であることが実証されてゆきます。」と「第五〇章」が「スミス理論」の暴露の「章」ででもあるかのようなミスリードを行ない、「マルクスが、スミスのドグマ批判を、第七篇の中心をなす主題と位置づけた意味が、腑に落ちた思いがしました。」と言って、不破さん自身が「第四九章」と「第五〇章」を「スミス批判」に歪曲しただけなのに、今度は、「マルクスが、」「第七篇の中心をなす主題と位置づけた」と「スミス批判」を「第七篇の中心をなす主題」にまで格上げして、悦に入ります。

 まさに、向かうところ敵無しです。恐れ入ります。

⦿そして、『資本論』の構想を報告しているマルクスのエンゲルスあての手紙(1868年4月30日付け)を抜粋し、その中に「さらに、これまでのすべての経済学の礎柱となってきたアダム・スミスの愚論、すなわち、諸商品の価格はかの三つの収入から、つまりただ可変資本(労賃)と剰余価値(地代、利潤・利子)とだけから、成っている、という愚論が、ひっくり返される。」という文章があることを示し、「これが、マルクスが書いた第七篇の最後の構想となりました。」と述べ、先ほどの「マルクスが、」「スミス批判」を「第七篇の中心をなす主題と位置づけた」という不破さんの言葉と合わせて、あたかもマルクスがスミス批判を第七篇の中心をなす主題と位置づけたかのような印象を与えようとします。

⦿しかし、先ほど見たように、「第四九章 生産過程の分析のために」は「三位一体的定式」に騙されないために資本主義的生産過程を科学的に見ることの必要性を訴えた「章」であり、「第五〇章 競争の外観」は「三位一体的定式」が資本主義的生産様式の社会ではなぜ「定式」としてみなされ、スミスのような誤りが生まれるのかを徹底的に暴露した「章」です。

⦿これらは、「経済的諸関係がブルジョア社会の諸表層で現れている物象的外観」(大谷禎之介「『マルクスの利子生み資本論』2」のMEGA「成立と来歴」P401)を科学的に解明している「章」です。

⦿そして、不破さんが抜粋した先ほどのマルクスのエンゲルスあての手紙の中の「アダム・スミスの愚論」に関する文章は、『資本論』の第一部と第二部の論究によって、そして第三部での利潤・利子および地代の論究によって、諸商品の価格が労賃と利潤・利子と地代という三つの収入だけから成っているという「愚論」の存在余地のないことを述べた文章であり、不破さんがいくら印象操作をしようとしても、「スミス批判」などという小さな問題を「第七篇の中心をなす主題と位置づけた」ことを宣言した文章などでないことは、明らかです。

⦿このように、「第四九章 生産過程の分析のために」と「第五〇章 競争の外観」とはセットで、「第四九章」は「三位一体的定式」に騙されないために資本主義的生産過程を科学的に見ることの必要性を訴えて、「第五〇章」は「三位一体的定式」が資本主義的生産様式の社会ではなぜ「定式」としてみなされるのかを徹底的に暴露しています。

⦿私たちは、マルクス・エンゲルスから学んで、資本主義的生産様式の社会で市民権を得ている、新たにつけ加えられた労働を表す価値を労賃、利潤、地代という収入形態に分解させることの不当性を、国民に広く、徹底的に明らかにしなければなりません。そのことこそが、この「章」を学ぶ意義です。

⦿不破さんのように「第四九章」と「第五〇章」を「スミスの批判」のための「章」ででもあるかのように矮小化するのは全くの誤りであり、「スミス批判」の文章だなどと言うだけでは、なんの役にもたたず、「解説」者として失格だといっても間違いないでしょう。

⦿つぎに、この「章」を読んでいて感じたことを一つだけ述べさせていただきます。

 それは、「ある国では、資本主義的生産様式が一般に発展していないために労賃や土地の価格は低いが資本の利子は高く、別のある国では労賃や土地の価格は名目的に高いが資本の利子は低いとすれば、資本家は一方の国ではより多く労働や土地を充用し、他方の国では比較的より多く資本を充用する。この場合に両国間の競争がどの程度まで可能かという計算には、これらの要因が規定的な要素としてはいる。だから、この場合に経験が理論的に示しており資本家の利害計算が実際的に示していることは、商品の価格は、労賃、利子、地代によって、すなわち労働、資本、土地の価格によって、規定されているということであり、また、実際にこれらの価格要素が規制的な価格形成者であるということである。」という文章についてです。

 まさに「資本家」は上記のような行動をとり、それ以外の行動を取れば「資本」にたいする背信行為になります。しかし、この「資本家」の行動には〝社会〟への視点が欠落しています。現代の世界は、「資本家」のこのような行動によって、「別のある国」の労働者の「職」が失われ、「ある国」の労働者の「労働条件」が「別のある国」の労働者の「労働条件」よりも悪くなることが前提にされていますが、「資本家」にとってそれは考慮の外の問題です。

 だから、現代の「国家」は「資本家」のこのような行動を「権力」によって封じ込める義務があります。そのための世論喚起に私たちは努めなければなりません。

※なお、「第五〇章」の章の詳しい紹介は、ホームページ4-27-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。完結篇」の該当箇所及び下記のPDFファイルを参照してください。

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3-50「第五〇章 競争の外観」.pdf
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不破さんの「マルクス、最後のスミス批判」のミスリード

⦿不破さんは、続けて、「マルクス、最後のスミス批判」という「節」を設けて、「マルクスは、第三部第七篇をスミス批判の決着をつける場にするつもりでしたが、その後、もう一度、この問題を取り上げる気になったようです」と、これまで見てきたような「第三部第七篇」についての自らの誤った認識を前提として、それに輪をかけて、「その後、もう一度、この問題を取り上げる気になったようです」と一人相撲を取って、読者をミスリードします。

⦿その理由として不破さんは、「第三部第七篇」の「スミス批判」は「一点に絞った批判」だが、その後に執筆した第二部「第一九章」の批判は「スミスが主著『諸国民の富』の各所でおこなっている弁明的、あるいは言い逃れ的な議論を網羅的に取り上げた全面的なものとなっているのが大きな特徴でした」と述べ、「第一九章」の「全体の九割近くをスミス批判が占めるという独特の構成に」なったのは、「全経済学を貫いてきたこのドグマにとどめを刺しておきたいというマルクスの執念」の現れだと言います。

⦿スミスの「ドグマにとどめを刺す」ための「マルクスの執念」の発露の場に『資本論』をしたとは、いかにも自己顕示欲の強い不破さんらしい見方ですが、そんな見方しかできないから、『資本論』の「解説」者としては失格なのです。

⦿不破さんのように、「その後、もう一度、この問題を取り上げる気になったようです」などと言うのは第二部の「第一八章」~「第一九章」~「第二〇章」の流れを全く理解していないか、ヤクザのような単なる言いがかりか、それともその両方の何れかで、「第一九章 対象についての従来の諸叙述」にその主たる論者のスミスを取り上げるのは当たり前のことです。

⦿なお、「第二〇章」は不破さんに「清く飛ばすべし」と飛ばされてしまいましたが、もしも不破さんが「第二〇章」を「清く飛ばす」ことをせず、内容を多少理解して「解説」をしていたら、不破さんのことですから、マルクスのことを「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」などと揶揄するだけでなく、「第二〇章」を「スミス批判」の「章」と命名していたかもしれません。

⦿マルクスが資本主義的生産様式の転倒した姿を暴露すると、不破さんは、転倒した世界で踊っている人をマルクスが批判していると言って、マルクスを歪曲します。

※詳しくは、ホームページ4-27-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。完結篇」の該当箇所を参照して下さい。

⦿このように「第四九章」と「第五〇章」を「スミス批判」に矮小化して、「第四九章」と「第五〇章」をまともに読もうともしない不破さんは、次の「(18) 最後の諸章について」という「章」で、目を疑うような、とんでもない、いや、もしかしたら不破さんの『資本論』にたいする正直な気持ちを現した、「解説」を行ないます。

P171-174「(18)最後の諸章について」

不破さんは、「三位一体的定式」とそれに関連する謬論とを解明し暴露することを「うんざりしていた」と言う

⦿不破さんは、「(18)最後の諸章について」という「章」のはじめの「節」(「資本主義的生産様式を歴史のなかでとらえる」)の冒頭で、「三位一体的定式」という資本主義的分配関係に焦点をあてて書かれた『資本論』第三部の「第四八章」から「第五〇章」までについて、つぎのように述べて、驚くべき評価をしています。

⦿不破さんは、「『第五一章 分配諸関係と生産諸関係』は、『三位一体的定式』が支配する非科学的、神秘的な世界とそれへの批判にうんざりしていた頭が、久方ぶりに科学的な資本主義世界論に出会い、またそこで『資本論』全巻の簡潔きわまる科学的総括というべきものに出会って、爽快な思いをする章です。」と言います。

⦿不破さんは、マルクスが「第四八章」で「三位一体的定式」とは「まちがった外観と偽瞞」の表現であり、支配的諸階級の階級的利益に一致した認識であり、「三位一体的定式」による資本主義的生産様式の「神秘化」にごまかされてはいけないということを述べているのに、「三位一体」という言葉によってマルクスは「資本主義社会を支配する神秘化の極致を表現した」などと言うだけでした。

⦿そして、「第四八章」は「資本主義的生産様式においてはじめて資本も労働も社会から無拘束なもの」となることっを述べており、その結果、日本は、自由に行動する資本のグローバルな活動により産業の空洞化が進み、日本社会そのものが存亡の危機に直面している、そのことを私たちに教えてくれる大事な「章」でもあります。

⦿それもわからず、「第四八章」を「うんざりし」たと言うのです。そして、「第四九章」と「第五〇章」を「スミス批判」と歪曲して解説らしい「解説」もぜず、「それへの批判にうんざりし」たと言うのです。

⦿ここまで『資本論』を歪曲し、ここまで『資本論』の悪口を言うのですから、公安警察も経団連も笑いがとまらないことでしょう。

⦿こんな人が「新版『資本論』」の責任編集を行なうのですから、公安警察も経団連も、益々、笑いがとまらないことでしょう。もしかしたら、公安警察の「長」が部下に「不破哲三氏はわれわれが送り込んだのか」と聞くかも知れませんね。

肝心な解説を避けた、不破さんの「第五一章」の「解説」

⦿続けて、「第五〇章」までで「うんざりしていた頭」の不破さんは、「第五一章」の「解説」に移りますが、「解説」自体は『資本論』に忠実に、『資本論』の抜粋をまじえて行なわれており、とくに問題はないので、安心して読んで下さい。

⦿なお、この「節」(「資本主義的生産様式を歴史のなかでとらえる」)での「解説」の最後で、不破さんは、「第一部、蓄積論の最後の部分で叙述された、変革の主体的条件についての論究はまだありませんが、……」と言っていますが、マルクス・エンゲルスに代わって弁明させていただきますと、『資本論』の「第五一章」は「分配諸関係と生産諸関係」について論究・論及している「章」で、「変革の主体的条件についての論究」は「第五二章 諸階級」で扱うメインテーマです。だから「論究」も「論及」もまだないのです。

⦿不破さんのこの文章がそんな意図をもって述べられたのではないことを期待しますが、不破さんはしばしば、マルクス・エンゲルス・レーニンの著作で彼らがテーマにしていないことを持ち出して、そのことを「述べていない」といって非難する習癖がありますので、注意して下さい。

※具体例は、ホームページ4-10「☆不破さんの、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」と言う暴言」及びホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」等を参照して下さい。

⦿なお、つぎの「第五二章 諸階級」のところで詳しく論及する予定でしたので、不破さんの「(14)資本の蓄積過程(その四)『必然的没落』論の定式」(「『資本論』探究〈上〉」P153、ホームページ4-27-1のPDFファイルP26参照。)の内容を検討したときには触れませんでしたが、不破さんが創作した「『必然的没落』論の定式」なるものは、「第一部、蓄積論の最後の部分で」マルクスが「叙述」している内容とは異なります。

⦿つぎの「第五二章 諸階級」のところで詳しく論及しますが、不破さんは〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟の内の〝新たな社会の形成要素〟だけを取りだして「『必然的没落』の客観的条件」と言い、〝古い社会の変革契機〟をしっかり見ることをせず、資本主義的生産様式の害悪をすべて「利潤第一主義」に還元して一件落着とするだけで、いま資本がどのような行動をおこなっており、その結果どのような矛盾が現れているかをしっかり見ようとしません。とりあえず、ここでは、このことだけを申し上げておきます。

「第五一章」の概要と私たちが押さえておくべきポイント

「第五一章」の概要

⦿「第五一章」はまず、「三位一体的定式」という分配関係が資本主義的生産関係と一体不離のものであることに論及し、「資本主義的生産様式の科学的な分析は」、資本主義的生産様式も「他のすべての特定の生産様式と同様に、社会的生産力とその発展形態との一定の段階を自分の歴史的条件として前提しており、この条件はそれ自体が先行過程の歴史的な結果であり産物であるが、それをまた自分の与えられた基礎として新たな生産様式がそこから出発するということ。この独自な歴史的に規定された生産様式に対応する生産関係──人間が彼らの社会的生活過程において、彼らの社会的生活の生産において、取り結ぶ関係──は、一つの独自な、歴史的な、一時的な性格をもっているということ」を述ます。

⦿そして、「資本主義的生産様式をはじめから際立たせる二つの特徴」として、①この生産様式はその生産物を──商品であることがその生産物の支配的で規定的な性格であるという──商品として生産すること、②生産の直接的目的および規定的動機が剰余価値の生産であることを述べ、そのなかで資本主義的生産の無政府性が現れることを明らかにします。

⦿そして最後に、「いわゆる分配関係は、生産過程の、そして人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、またこの諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表しているだけである。資本主義的分配は、他の生産様式から生ずる分配形態とは違うのであって、どの分配形態も、自分がそこから出てきた、そして自分がそれに対応している特定の生産形態とともに消滅するのである。」と述べ、資本主義的生産様式における特定の分配関係が特定の生産形態とともに消滅する理由を、「この過程の特定の歴史的な形態は、それぞれ、さらにこの過程の物質的な基礎と社会的な形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したということがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立とが、広さと深さとを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。」(大月版⑤ P1128-1129)と述べて、この章を結んでいます。

私たちが押さえておくべきポイント

⦿もう一度、この章の結びの部分(茶色でかいた不破さんが「抜粋」した文章)を見て下さい。

⦿マルクスは、「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立」について述べています。

⦿一方の分配関係、それに対応する生産関係の特定の歴史的な姿(=私的資本主義的分配と資本主義的生産関係)と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展(=社会化された生産力とその一つ一つの生産能力およびその発展可能性)とのあいだの矛盾と対立。これは、資本主義を終わらせなければ解決しない資本主義的生産様式がもつ「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」で、エンゲルスの言う「根本矛盾」です。

⦿「三位一体的定式」という分配関係が資本主義的生産関係と一体不離のものであることを理解できず、エンゲルスやレーニンに対して「生産物の分配どまり、経済的土台の変化だけに目を向けて」いると非難する不破さんは、このエンゲルスの言う「根本矛盾」を、エンゲルスが唱えた謬論だと言って否定しています。

⦿その結果、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月『資本論』② P995)という有名な言葉の意味も、まったく分からなくなってしまいます。

⦿「生産手段の集中も労働の社会化も」とは「生産の社会的性格」ということであり、「その資本主義的な外皮」とは「資本主義的私有」、つまり「取得の資本主義的形態」のことであるということが分からなくなってしまった不破さんは、資本主義的生産様式の「桎梏」──それは、「資本主義的私有」の最高形態である「独占資本」が社会的生産力の発展の足かせになるということ──の意味が理解できません。

⦿科学的社会主義の思想が理解できない不破さんは、資本主義的生産様式の内在的矛盾から取り出した「利潤第一主義」、それにもとずく資本主義の弊害の全てを「桎梏」だと言うに至ってしまいます。

⦿その結果、「利潤第一主義」の改善、「ルールある資本主義」の確立が最大の目的となり、不破さんの眼中から資本主義的生産様式の「桎梏」である独占資本(資本主義的私有)は消え去り、「利潤第一主義」にもとづく「地球温暖化」等ありとあらゆる未解決課題が「桎梏化」(?)のあらわれとなり、大企業の内部留保の一部を吐き出すことが「利潤第一主義」を緩和させて経済成長を実現させる大道になってしまいます。

⦿「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」を認めたくない不破さんは、エンゲルスもレーニンも配分方法のみを問題にし「夢がない」と言って、資本主義的生産様式を変え私的資本主義的取得を変革することを「夢がない」と否定し、マルクスは労働時間の短縮による「自由の国」を未来社会として描いたと、マルクスの考えを捏造します。

⦿労働者を搾取する私的資本主義的取得の変革を「夢がない」と否定する不破さんは、「夢のある自由の国」の実現のために日本共産党の綱領から労働者階級の歴史的使命を取り除き、労働者階級は社会変革の主体から「社会変革の闘士」に格下げされてしまいました。

⦿このように、「第五一章 分配関係と生産関係」は、科学的社会主義の思想のポイントを表現した、現代の私たちが留意しべき内容を含んだ大変重要な「章」ですが、不破さんにとっては鬼門の「章」とも言えるでしょう。

⦿不破さんが「『資本論』全体のなかでもっとも重要なものの一つだと思います」と言いながら、一切「解説」しなかったのは、こんな理由からなのでしょうか。

なお、私は、ホームページ4-27-1「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その1)「『資本論』第一部を読む」を検証する。」で、マルクスが、『資本論』第一部の「第一三章 機械と大工業」で、唯物史観と弁証法の助けをかりて、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことを、事実に基づいて明らかにしていることを述べ、この「第五一章 分配諸関係と生産諸関係」の結びの文章とシームレスに繋がっていることを明らかにしています。

※「第五一章」の主要な抜粋とその解説については、下記のPDFファイルを参照して下さい。

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3-51「第五一章 分配関係と生産関係」.pdf
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不破さんの〝何も無い〟「思想」をよく現した「第五二章」の「解説」

⦿不破さんは、「『階級闘争』とその前途」という「節」を立てた最後の「解説」で、「労働者階級による資本主義社会の変革こそが、『諸階級』の章の最大の主題となったであろう」と正しいことを述べ、加えて、「そしてそこ(「第五二章 諸階級」の「章」のこと──青山)がまた、未来社会論を本格的に展開する舞台となったであろう」と言い、マルクスが「資本主義社会の変革」と「未来社会論の本格的な展開」という二つのテーマを「第五二章」で論述しようとしたと考えるのは「決して無理な予想ではないと思います。」と──「二つのテーマ」という捉え方は正しいとはいえないが──概ね正しいことを言います。

⦿不破さん流の「未来社会論」で「自由の国」を資本主義社会の「余暇」にまで発展させてしまった不破さんは、「マルクスは、未来社会論のこの本論は書かずに終わりましたが、……未来社会論を理論的に完成させ、さらにはその実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す、ここに、マルクスのあとを継いだ後世に活動する私たち自身の任務があることを、ここでも痛感するものです。」と、不破流「未来社会」の「実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す」決意を表明します。

⦿不破さんの「第五二章」の「解説」(?)が上記のようなものだったので、まず、上記の不破さんの「解説」へのコメントをおこない、つぎに、「第五二章 諸階級」でマルクスは私たちに何を訴えようとしたのか、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

⦿私は、不破さんが「第五二章」の内容について、「労働者階級による資本主義社会の変革こそが、『諸階級』の章の最大の主題となったであろう」と述べた点について評価いたしましたが、不破さんが「『階級闘争』とその前途」と銘打った「節」で「階級闘争」について述べている内容は、後にも先にも、この文章以外ありません。

⦿それもそのはず、不破さんは、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と言ってはばからない、〝社会変革〟についてなんの見識も持ち合わせていない人で、資本主義の「利潤第一主義」を「賃上げ」と「社会的バリケード」でやめさせることを大目標と考えている人ですから、「労働者階級による資本主義社会の変革」の展望を具体的に明らかにすることなど無いものねだりで、上記程度の「解説」(?)で、良しとしなければならないのです。

⦿「社会変革」については、なんの展望ももっていない不破さんが、「社会変革」とは別個に、「未来社会論を理論的に完成させ」、「さらにはその実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す」「活動」をすることが不破さんたちの「任務」だと言うのですから、マルクス・エンゲルス・レーニンが聞いたらビックリして卒倒してしまうことでしょう。

⦿不破さんは、「新しい社会」では、社会発展の推進力は自分自身のために使える「自由な時間」を使って人間が発達することだといい、「未来社会」では「人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆく」と言いますが、不破さんの言う「未来社会論」には「社会変革」の過程と「社会変革」によって創り変えられてゆく現実の〝社会〟の発展が欠落しており、すべてが個人に還元されているようです。

「第五二章 諸階級」でマルクスが私たちに訴えようとしたこと

⦿「第五二章 諸階級」でマルクスは私たちに何を訴えようとしたのか、簡単に見てみましょう。

⦿ご承知のとおり、エンゲルスは『資本論』第三部の「序文」で、第七篇の「最後の章ははじめのほうがあるだけである。ここでは、地代、利潤、労賃という三つの大きな収入形態に対応する発展した資本主義社会の三つの大きな階級──土地所有者、資本家、賃金労働者──と、それらの存在とともに必然的に与えられている階級闘争とが、資本主義時代の事実上現存する結果として示されるはずだった。このような最後の総括をマルクスは印刷直前の最後の改訂のために保留しておくのが常だったが、その場合には最新の歴史的な諸事件がいつもまちがいなくきまって彼の理論的展開の例証を最も望ましい現実性において提供したのである。」と、述べています。

⦿そして、大谷禎之介の「『マルクスの利子生み資本論』2」のMEGA「成立と来歴」(P401)でも、マルクスのエンゲルスあて1868年4月30日の手紙から、『資本論』で「資本の一般的本性」を究明したマルクスが第七篇で「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもりで」であったことが推測されています。

⦿また、マルクスは、『資本論』の「初版序文」で「この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式と、これに照応する生産諸関係および交易諸関係である。……一国は他国から学ばなければならないし、また学ぶことができる。たとえある社会がその運動の自然法則の手がかりをえたとしても、──そして近代社会の経済的運動法則を暴露することがこの著作の最終目的である──、その社会は自然的な発展の諸段階を跳び越えることも法令で取り除くこともできない。しかし、その社会は、分娩の苦痛を短くし緩和することはできるのである。」(大月版①P8-10)と述べ、資本論の最終目的が近代社会の経済的運動法則を暴露し、分娩の苦痛を短くし緩和することであることを述べています。

⦿不破さんのように、現代の資本の行動を暴露することを放棄して、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」などと言っていたのでは、分娩の苦痛を短くし緩和することなどできません。それは、自然成長性に拝跪することです。

未完の「第五二章 諸階級」は、私たちへのマルクスの宿題

⦿マルクスが、エンゲルスの「序文」に書かれているようなかたちで、そして、マルクスのエンゲルスあて1868年4月30日の手紙のとおり「第五二章 諸階級」を完成させていてくれたら、私たちはどんなに多くのことを学ぶことができ、同時に、「科学の目」などともっともらしいことを言って人々を騙す似非マルクス主義者たちが大手を振って跋扈するのを、今よりもっとたやすく、防ぐことができたことでしょう。

⦿しかし、同時に、マルクス・エンゲルスが生きた時代とレーニンが生きた時代と私たちが生きている時代とでは資本主義社会の発展度合いが違い、国家と資本、国際社会と資本との係わり方が違いますから、私たちはマルクス・エンゲルス・レーニンから〝学ぶ〟ことはできても「真似」することはできません。

⦿似非マルクス主義者の不破さんは、マルクス・エンゲルス・レーニンが生きた時代と現代との違いを利用し、逆手にとって、マルクス・エンゲルスは「恐慌=革命」説をとっていたとか、レーニンは「『革命近し』という世界的危機論なるもの」を主張していたとか、マルクス・エンゲルス・レーニンを歪曲して、誹謗・中傷を繰り返しています。

⦿このように、マルクス・エンゲルスとレーニンが生きていたそれぞれの時代が提起する変革の道筋を正しく理解することができないうえに、マルクス・エンゲルス・レーニンが言っていることを歪曲・捏造してマルクス・エンゲルス・レーニンを誹謗・中傷する人は、教条主義者と同様に、マルクス・エンゲルス・レーニンから〝学ぶ〟ことのできない人たちです。

⦿これまでマルクスとエンゲルスが『資本論』で教えてくれた資本主義的生産様式が必然的に辿り着く諸結果が、現代の日本でどのように現れるのか、そしてそれはどの様に解決されるのか、未完の「第五二章 諸階級」は、私たちに、『資本論』を学んだものへの宿題として、その答えを書くことをマルクス・エンゲルスが求めているように見えてなりません。

⦿だから、私たち『資本論』を学んだものにとって、上記のような観点で、「第五二章 諸階級」の編集意図に従って、マルクス・エンゲルスの期待に応えられるよう、現代の日本の危機的な経済状況を変革して〝新しい国民の共同社会〟を創るための革命の展望を国民に明示することは、今という時代から負わされた私たちの歴史的な責務であると考えます。

マルクス・エンゲルスは私たちに何を与え何を求めているのか

⦿その、今という時代の歴史的な責務の「答え」に近づくために、もう一度、『資本論』全体のなかで、〝社会の変革〟に論及している文章を見てみましょう。

『資本論』第一部「第一三章 機械と大工業」((大月版①P654)

 マルクスは、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことを、事実に基づいて明らかにしています。

『資本論』第一部「第二四章 いわゆる本源的蓄積」(大月版② P995)

 マルクスは、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」という有名な文章をのこしています。

『資本論』第三部「第五一章 分配関係と生産関係」(大月版⑤ P1129)

⦿マルクスは、「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立」について述べています。これらの文章に共通して論及されているのは〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟で、それを整理すると、概ね、下記のようになります。

新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機

*生産過程の物質的諸条件および社会的結合の成熟と生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係の成熟

*生産手段の集中と労働の社会化(=生産の社会的性格)と資本主義的な外皮(=「資本主義的私有」、つまり「取得の資本主義的形態」のこと)

*他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展(=社会化された生産力とその一つ一つの生産能力およびその発展可能性)と一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿(=私的資本主義的分配と資本主義的生産関係)

⦿このように、〝新たな社会の形成要素〟とは、資本主義的生産様式における私的資本主義的性格をもった技術的進歩であり、資本主義的に歪められた社会的生産のことで、〝古い社会の変革契機〟とは、私的資本主義的性格がもたらす矛盾、社会的な欠落面のことで、資本主義的生産様式の社会のもとでの〝新たな社会の形成要素〟によって〝古い社会の変革契機〟が形成されます。

⦿だから、〝新たな社会の形成要素〟がどのように形成されたか、つまり、資本がどのような行動をしたかということをしっかり見ることが重要です。

現代日本の『資本論』「第五二章」の導入部分(現状認識)について

⦿それでは、今日の日本を取り巻く〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟はどのような状態なのか、その現状を見てみましょう。

⦿この間、その蓄積を増大させた資本は、対外的には、資本のグローバル展開という形で生産の国際化を推進しましたが、資本の進出先の国の労働者の賃金は低く抑えられ、加えて、知財権という名目での収奪がおこなわれ、富は資本に吸い上げられ、合法的な搾取が行なわれ、貧しい国は貧しいままでいます。

⦿そして日本国内に目を移せば、富創出の中心をなす高い生産性を獲得した製造業が海外に出て行った結果、生産性の低いサービス業の比重が増し、経済の低成長と低賃金が長期にわたって続き、その結果、年金・福祉・医療の基礎が掘り崩され、社会的分業の恩恵を受けることを前提に暮らしが成り立つ労働者階級は、生きる術がなくなりつつあります。

⦿このように、今の日本は、〝新たな社会の形成要素〟の空洞化が進むという、きわめて深刻な事態に直面しています。マルクス・エンゲルス・レーニンの時代には想像できなかったような事態が、本当の危機が、進行しつつあります。

⦿資本主義的生産様式を克服し、ブルジョア社会を終わらせるための階級闘争は、この現実を克服するための闘いから始まります。そのことをマルクスとエンゲルスは『資本論』を通じて私たちに教えてくれています。だから、私たちの闘いの方向は明確です。

⦿しかし、「共産党」の前委員長の不破さんは、『前衛』2015年5月号の「社会変革の主体的条件を探究する」という立派なタイトルの「論文」で、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と胸を張って言います。

⦿不破さんは、「この危機的な世界」などと、なにが「危機」であるかを理解しているかのような、もっともらしい枕詞を使っていますが、その実、「この危機的な世界」なるものの「危機」が何であるかもわからず、その結果、今の日本の「社会変革」の「形態」をつかむことができず、社会変革の道筋をまったく「探究」できないことを告白しています。

⦿不破さんが社会変革の道筋をまったく「探究」できないのには理由があります。

⦿不破さんは、『『資本論』探究〈上〉』(P154)で「『必然的没落』の客観的条件」としてマルクスの言う〝新たな社会の形成要素〟だけを挙げ、〝古い社会の変革契機〟をしっかり見ることをせず、資本主義的生産様式の害悪のすべてを「利潤第一主義」に還元し、資本主義的生産様式のもとでの〝新たな社会の形成要素〟が〝古い社会の変革契機〟を形成することをリアルに見ることをしません。

⦿不破さんの「資本主義的生産様式の『必然的没落』」の理論は、この〝古い社会の変革契機〟のリアルな認識を欠いた「『必然的没落』の客観的条件」と「『必然的没落』の主体的条件」とで成り立っています。

⦿不破さんが〝古い社会の変革契機〟の形成をリアルに見ることができず、労働者階級を変革の主体として捉えることができないのは、マルクスが恐慌について「資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」ということを解明し、「資本主義観の大転換」をおこなった(『前衛』No903参照。)とマルクスの「資本主義観の大転換」を捏造し、捏造したマルクスの虎の威を借りて「恐慌」のたびごとに「資本主義の危機」は深まらず、資本主義は発展するとの見方に立つことによって、資本主義の矛盾の深まり、〝古い社会の変革契機〟を正しく見ることができなくなってしまったためです。

⦿このように不破さんは、資本のグローバル展開による〝新たな社会の形成要素〟について真面に見ようとせず、〝古い社会の変革契機〟についても真面に見ようとせず、ただひたすら、資本主義の諸悪の根源は「利潤第一主義」だと言うだけです。

⦿そして、不破さんがその「改訂」を自慢する現在の日本共産党の綱領には「労働者階級」という言葉は出てきますが、「社会変革の主体」という意味での出番などありません。

⦿そういう人が「社会変革の主体的条件を探究する」ことなど、逆立ちしても不可能なことで、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と正直(?)に白旗を振る以外ありません。

書かれなかった『資本論』の最後の章に私たちが書き込むべきこと

⦿だから、私たちが書かれなかった『資本論』の最後の章に書き込むべきことは、衆知を結集して、日本の現状をしっかり見て、資本のグローバル展開による〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟の変化を正しくつかみ、資本主義の諸悪の根源は「利潤第一主義」だなどと念仏を唱えるのではなく、グローバル資本が作り出した〝危機〟の克服の道を国民にはっきりと示さなければなりません。

⦿そして、その〝国民のプラン〟の実現のためには、趣旨を旗幟鮮明にし、国民に伝わるまで、倦むことなく、広く国民に訴え続ける努力を怠ってはなりません。同時に、その時、その場所で、1センチでも1ミリでも国民のためになることには躊躇することなく無条件に加担するという、国民の願いの真の体現者であることを、これまた、国民にはっきりと示し続けなければなりません。

⦿選挙の時だけ、どの党も言っているようなことを電話で一方的に訴えるだけではだめです。

⦿同時に、いまだ献身的に党のためにたたかい続ける団塊世代をだまし続け、科学的社会主義の思想を捨て去り社会主義者のふりをして「自由の国」談義に現を抜かしている不破さん、革命の展望を「予測はできません」と言い放ち、そのために闘う労働者階級のエネルギーを奪い去り続けている不破さん、その真の姿を徹底的に暴露することも、また、科学的社会主義の思想を持つ者の果たさなければならない義務の一つです。

⦿そして、日本経済の空洞化とそれにともなう国民のエネルギーの低下が深刻さを増すなかで、『資本論』から得た知識を基に、経済は国民のため、社会のためにあるという認識を国民の時代認識として共通理解・合意に高め、その阻害要因を抑え、経済が発展するための条件を整える〝改革運動〟を提起することは、科学的社会主義の思想を持つ者の責務です。

⦿資本主義の発展は、この〝改革運動〟が国民運動になる客観的条件を完全に整えています。

⦿「利潤第一主義」の「是正」では資本主義的生産様式の是正にはなりませんが、経済を国民のため、社会のためにする〝改革運動〟は、必然的に資本主義的生産様式の是正になります。

⦿経済を国民のため、社会のためにする〝改革運動〟の詳しい内容は、次に予定しているホームページ「科学的社会主義の思想が示すグローバル資本が作り出した〝危機〟の克服の道」(仮称)で論究していきたいと思います。一緒に考えて行きましょう。

 『資本論』の書かれなかった最後の章が〝現代〟の私たちに課した宿題への解答作りが、これから、壮大な共同作業として力を合わせて行なわれることを期待して、このページを閉じたいと思います。

連載を終えて

 これで「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について」という一連のホームページの連載を終えるわけですが、正直に言って、この仕事は、私にとって貴重な時間の〝浪費〟でした。〝浪費〟にもかかわらずこの仕事に係わることを決意したのは、マルクスの名を冠しての「新版『資本論』」の宣伝が『赤旗』でされ、それを見るたびに怒りの気持ちが私のなかに湧き上がるのを感じたからです。

 その〝怒り〟とは、不破さんによって『資本論』と科学的社会主義の思想が滅茶苦茶に歪曲され壊されていることへの〝怒り〟であり、その誤った考えが科学的社会主義の思想を学ぼうと真面目に考えている人たちに『赤旗』を通じて植えつけられようとしていることへの〝憤り〟でした。

 世間では「憲法」を巡って騒がしい状況が続いていますが、本当は今、そこに住む国民のベースとなる日本という国そのものが大変危機的な状況にあり、国民全員がそのことに注意を向けなければならない状況にあります。

 私は、そのことを訴えるために、新しいページ「グローバル資本が作り出した〝危機〟の克服への道」(仮称)の構想をあたためていましたが、科学的社会主義の思想を学ぼうと真面目に考えている人たちから科学的社会主義の思想と闘うエネルギーを奪い、労働者階級を骨抜きにしようとする、エセマルクス主義との闘いの重要性に鑑み、〝憤怒〟の念をもってこのページを作成することといたしました。

 そのような〝憤怒〟の念をもって作成されたページなので、不破さんに対してのいささか強烈な表現をもっての批判も多々ございましたことをお許し下さい。同時に私は、このページにおいて、根拠の無い誹謗・中傷、つまり、ケンカだけはしていないことも申し添えておきたいと思います。

 最後に、要領を得ない説明も多々あったかと思いますが、このページを読まれて私の認識に同意なされましたならば、是非、真面目に科学的社会主義の思想を学ぼうと考えている人たちに、このページの存在を周知してくださりますようお願いいたします。

乞う、ご期待!! 新しいページ

みんなで考えるための、問題提起のページ

〝「資本」主義経済から「人間」主義経済へ〟

生きるエネルギーが湧き、生きる喜びの実感できる日本を!!

──グローバル資本が作り出した〝危機〟の克服への道──

是非、ご覧下さい。上をクリックしてね!!