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科学的社会主義の思想とは無縁な不破さんの「社会発展」論

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科学的社会主義の思想と無縁な不破さんが、「マルクスの目」を持っていると言える理由

 科学的社会主義の思想と無縁な考えの持ち主である不破さんは、「マルクスの目」を持っていることを自任しており、科学的社会主義の思想の体現者ででもあるかのように振る舞っています。

 科学的社会主義の思想と無縁な考えの持ち主が、なぜ、科学的社会主義の思想の体現者ででもあるかのように振る舞うことができるのか。それは、不破さんが①マルクス・エンゲルスの文章を歪曲して自分に都合の良いように解釈して自説を正当化する、②マルクス・エンゲルスが著作で述べていることとまったく違うことをマルクス・エンゲルスが述べていると言って自説を正当化する、③マルクスの思想の成立過程の捏造とそこでのマルクスの思想の変化の捏造をもとに自説を正当化する、そして、④科学的社会主義の思想と無関係な自らの考えを科学的社会主義の思想ででもあるかのように言って自らを科学的社会主義の思想の持ち主ででもあるかのように見せようとする、という四つのテクニックを駆使して読者を騙し続けているからです。

参考:不破さんの四つの騙しのテクニックの例

 

①マルクス・エンゲルスの文章の歪曲をして自説を正当化する例

 不破さんは、マルクス・エンゲルスが恐慌を社会変革の梃子の一つだというと、歪曲してマルクスは「恐慌=革命」説に立っていると言って攻撃したと思ったら、マルクスはその後不破さんと同じ「多数者革命」に立ったとか、マルクスの言う「自由の国」とは「自由な時間」のことだとか、マルクス・エンゲルスの言っていることを自分に都合の良いように解釈(曲解)して自説を正当化します。

 

②マルクス・エンゲルスが著作で述べていることとまったく違うことをマルクス・エンゲルスが述べていると言って自説を正当化する例

 マルクスは、『賃金・価格・利潤』ででも『資本論』ででも、「賃金闘争」や「社会的障害物」をつくるだけの運動では駄目だと言っているのに、「賃金が上がれば経済は良くなる」等と改良闘争で資本主義が変わるかのような自説を正当化するために、マルクス・エンゲルスが著作で述べている最も重要なことを言わず、マルクス・エンゲルスが著作で述べていることとまったく違うことを述べているかのような説明(解説)をします。

 

③マルクスの思想の成立過程の捏造とそこでのマルクスの思想の変化の捏造をもとに自説を正当化する例

 不破さんは、マルクスが「恐慌の運動論の発見」を「転機」に「『資本論』全体の構想の再検討」が必要だと考えていたと、マルクスの思想とその成立過程を捏造──不破さんは、「推測」だと言います──し、その「推測」をもとに、『資本論』の第三部「第三篇」(「第三篇」は「第一三章」から「第一五章」までの三つの「章」で構成されています。)につて、「第一三章」は「マルクスの最大の経済学的発見を記録した輝かしい章」などと言って茶化し、「第一五章」は「以後の草稿で取り消した章」だとデマを言い、「第一四章」は「第一五章が取り消されたために不要になった章」だなどと言って切り捨てて、『資本論』を自説に合うように改変し、自説を正当化しようとします。

 

④科学的社会主義の思想とは無関係な不破さんの「考え」を科学的社会主義の思想ででもあるかのように言う例

 不破さんは、「資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、こうして、人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう」と言います。この文章は、科学的社会主義の思想とは無関係な不破さんのオリジナル「思想」をあたかも科学的社会主義の思想ででもあるかのように言う例の一つです。

 この文章のデタラメぶりをお示しするのが、今回のホームページのテーマです。

 

なぜ、この文章を取り上げるのか

 この、「資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、こうして、人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう」という、もっともらしい文章は、不破さんが『前衛』No904(2014年1月号)の「『古典教室』第2巻(第三課エンゲルス『空想から科学へ』)を語る」という石川康宏氏と部下の山口富男氏との鼎談での文章です。不破さんが、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いているとエンゲルスとレーニンを誹謗・中傷するなかで、「資本主義社会」と「未来社会」との違いを示した不破さんのハイライトの文章です。

 この文章は、〝科学的社会主義の思想〟とは無縁の徹頭徹尾、誤った文章ですが、不破さんは科学的社会主義の思想の持ち主を自称して、このような〝もっともらしい〟文章を使って、共産党員と共産主義・社会主義にシンパシーを感じている人たちのなかに思想的な混乱を持ち込み、科学的社会主義の思想を混乱させ、彼らを科学的社会主義の思想から遠ざけます。

 この文章の〝解剖〟を通じて、「科学の目」をもつ不破さんの「科学的社会主義の思想」の理解度をお示しし、不破さんに騙されて科学的社会主義への道を遠回りする人が少しでも少なくなるように願って、そのための最適な例ではないかと思い、この文章を取り上げることと致しました。

 

不破さんは、「利潤第一主義」が資本主義社会の「経済発展の最大の推進力」だと言って、資本主義的生産様式の社会を隠蔽する

 不破さんは、「利潤第一主義」が資本主義社会の「経済発展の最大の推進力」だと言います。しかし、資本主義社会の社会発展の推進力は資本主義的生産関係を基礎とする資本主義的生産様式にあり、私的資本主義的所有・取得に基づく奇形的な「社会的生産」──金儲けという私利私欲だけの手段を使って歪んだ形で社会を発展させること──にあります。「資本主義的生産様式の社会」の欠陥は、個人がお金儲けをすることによって経済が大きくなり、そのことによって社会が支えられる、「資本」が社会を動かす原動力だということにあります。つまり、資本主義社会の「経済発展の最大の推進力」は資本主義的生産様式のもとで神聖不可侵な力を与えられている「資本」にあるのであって、超歴史的な──資本主義的生産様式を脇に置いた──「利潤第一主義」にあるのではありません。「利潤第一主義」が大手を振って闊歩できるのは資本主義的生産様式があるからです。そして、資本主義社会の〝経済発展の真の推進力〟は資本主義的生産様式のもとで搾取されている労働者階級の生産そのものです。

 

不破さんは、未来社会の発展の推進力についても正しく見ることができず、未来社会への展望を見えなくさせている

 このように資本主義的生産様式の社会の社会発展の推進力を正しく見ることのできなかった──見ようとしない(?)──不破さんは、未来社会についても、「人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆく」などと言って、未来社会=〝新しい生産様式の社会〟の社会発展の推進力についても、正しく見ることができません。

 資本主義的生産様式の社会の推進力は「資本」です。「資本」の支配力を制度的にそぎ落とした〝新しい生産様式の社会〟は、「経済は資本のためにある」という社会から〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会で、マルクスの言う〝結合労働の生産様式〟の社会です。その〝社会の発展の推進力〟は、企業と国家の運営に全面的に参画した労働者階級の結合した意志、つまり、〝人間の社会にたいする支配力〟です。そして、「社会主義社会」を「共産主義社会」へと発展させる基礎的な推進力は、国民の生活を豊かにする真の社会的生産と、それを担う自覚的な個人へと成長した国民一人ひとりの〝結合した力〟です。抽象的な、根拠のない、根なし草の「人間の能力の発達」が「社会発展の最大の推進力」になるのではありません。不破さんは、マルクスが論究しエンゲルスが編集した『資本論』を完全に忘れ去って──捨て去って(?!)──います。もしも、本当に不破さんが科学的社会主義の思想を自分の信条としたいのであれば、とりあえず、「第三部 資本主義的生産の総過程」「第七篇 諸収入とそれらの源泉」の「第四八章 三位一体的定式」の〝必然性の国〟と〝自由の国〟に論及している部分(大月版『資本論』第3巻 第2分冊 ⑤ P1049-1051)だけでも、もう一度読み直して、「労働日の短縮こそは根本条件である」という最後の文章の意味を熟考して、生産性の向上による「労働日の短縮」のできる社会とはどのような社会なのかを深く考え直すべきでしょう。ただ、残念ながら、資本主義的生産様式の社会にある「余暇」も「自由な時間」だから「自由の国」だなどという不破さんに、真摯な「熟考」を期待するのは、無いものねだりということなのかもしれません。

  このように、不破さんの言ったことの前半部分──資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力だということ──は、不破さんが「資本主義的生産様式の社会」について、正しく認識する能力を持ち合わせていないことを証明し、後半部分は、不破さんが、〝新しい生産様式の社会〟(社会主義社会)での社会発展の推進力が、社会的生産の一層の発展をもたらすための、人類全体にとっての真の利益と個人の利益とが統一された〝結合労働〟であることを覆い隠す──あるいは理解できない(?)──ものであり、不破さんが社会主義者としては「落第」の考えしか持ち合わせていないことを示すものです。

 なお、「自由な時間」が「自由の国」だという不破さんの創作は、唯物史観もヘチマもない「社会発展」論、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」という社会主義者としての「落第」思想(空想)を資本主義的生産様式の社会で先取りしたものです。※不破さんの「余暇」も「自由な時間」だから「自由の国」だという、マルクスの驚きの歪曲については、ホームページAZ-2-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を、是非、参照して下さい。

 

資本主義的生産様式の社会を克服した〝新しい生産様式の社会〟とその先にあるもの

 資本主義的生産様式の社会を克服した「社会主義社会」での徹底した参加・民主主義、分配の社会主義的なルールの確立と発展、これらを踏まえての「労働日の短縮」と人間性を高め豊かにするための「時間」の活用が〝新しい人〟を生み育てます。本当のコミュニストたちが、雲霞の如く、生まれ育っていきます。

 不破さんは、賃金「奴隷制のかせ」である資本主義的生産関係からの解放を棚上げにして、「奴隷制のかせ」からの解放とは「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」ことだと言い、『前衛』の2015年5月号によれば、「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」とは「〝指揮者はいるが支配者はいない〟といういわば自治的な関係」をつくることだと言います。しかし、不破さんの言う「指揮者はいるが支配者はいない」職場の管理と資本主義社会での職場管理のリーダーシップ論とでは、いかほどの違いがあるのでしょう。資本主義社会での職場管理のリーダーシップ論もヘッドシップを排した「いわば自治的な関係」によって成り立っているのですから。

 労働者階級は、「賃金奴隷制のかせ」である資本主義的生産関係からの解放があって、その上ではじめて、企業を担う主役の一員として、「生産現場での人間関係」を超えた〝結合労働の生産様式〟の社会の新しい人間関係を〝企業〟のなかでつくりあげることができます。不破さんの言う、生産現場での「指揮者」と「指揮を受ける人」という「狭い空間」での固定的な役割分担も、〝社会主義社会〟が発展して〝共産主義社会〟に向かう過程で、質的な変化を遂げることになるでしょう。

 そして、これまで見てきたように、不破さんが「奴隷制のかせ」からの解放を「生産現場」という狭い空間に閉じ込めて「未来社会」の理想とした、「指揮者はいるが支配者はいない」という「狭い空間」での「指揮者」と「指揮を受ける人」という固定的な役割分担の組織が、〝新しい生産様式の社会〟を動かす主役でないことだけは明らかです。

 なお、社会の新しい上部構造は、雲霞の如く生まれ育ったこの〝新しい人〟、本当のコミュニストたちによって、「社会化され発達した生産力」にもとづき発展させられて行くことは明らかですが、当面、私たちが確実に言えるのはここまでです。残念ながら、「自由の国」=「共産主義社会の高い段階」について、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」などと、軽々に言えるものではありません。少なくとも、未来社会においても、「土台」がなければ「上部構造」は成り立ちませんが、そもそも未来社会の「土台」が経済に根ざしたものなのか、何であるのか、残念ながら、いまの私たちには知る由もありません。

 

エセ「思想」の持ち主は労働者階級の隊列から出て行け

 このように、自らを科学的社会主義の思想の持ち主ででもあるかのように見せ、科学的社会主義の思想にもとづくものであるかのように述べた、不破さんの「資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、こうして、人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう」という文章は、科学的社会主義の思想とは縁もゆかりもない、無関係な、不破さんオリジナルな「考え」です。

 そして、この不破さんオリジナルな考えによって、資本主義的生産様式の社会を見る目が曇らされ、〝新しい生産様式の社会〟への道筋がわからなくされています。その結果、労働者階級の階級的自覚は妨げられ、日本の革新運動は停滞させられています。だから、不破さんのようなエセ「思想」の持ち主は労働者階級の隊列から出て行ってもらわなければなりません。

 

 いま、私たちがすべきこと

 そして、不破さんはこのようなエセ「思想」の持ち主なので、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」(『前衛』2015年5月号)と社会変革の客観的条件も、何をどう変えるかもまったくわからないことを、堂々と、告白します。

 私たちにとって大事なことは、今の日本の危機の原因──資本主義的生産様式の社会とそのもとでのグローバル資本の行動による諸結果──とその打開のプロセス──団結した労働者階級による〝新しい生産様式の社会〟への道筋──を白日の下にさらし出して、今の日本の経済力を土台に、溌剌とした社会主義日本の姿を、生き生きと描き出すことです。空論はいりません。現実から導き出された理論を物質的な力に変えるために、今ある資本主義を暴露しその克服の道を明快に示す、それで十分です。

 「利潤第一主義」が資本主義社会の「経済発展の最大の推進力」だと言って、賃金が上がれば日本経済は良くなると言い、「賃金奴隷制のかせ」である資本主義的生産関係からの解放ぬきの、「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」というこぢんまりした〝ユートピア〟を語って、資本主義的生産様式の社会と〝新しい生産様式の社会〟との根本的な違いを見失わせるようなことを言い、挙げ句の果てに「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」という程度のことしか言えないような人を、私たちはどのように遇したらよいのだろうか。