AZ-4-5

不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その5)

『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えさせるな!!!

──『資本論』第三部での不破さんの歪曲と捏造(その2)──

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AZ-4-5不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(そ.pdf
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※このホームページに注釈なしで書かれているページは、「『資本論』探究〈下〉」のページです。また、(大月版……)と書かれているページは『資本論』のページです。

「第三部 第五篇 利子と企業者利得とへの利潤の分裂 利子生み資本」(第二一章~第三六章)

 このホームページ「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その5)」は、「第三部 第五篇」を読む上での留意点を明らかにしていますが、不破さんの「『資本論』第三部を読む」の「(7)第五篇。利子生み資本の研究」(P64)の検証から始まります。

P64 やっとわかった「『資本論』全体の構想の再検討」の意味

 不破さんが「(7)第五篇。利子生み資本の研究」というタイトルを付けて「解説」しようとしているのは、『資本論』第三部「第五篇」の第21章から第24章までの部分で、「利子生み資本」の資本主義社会での定義づけについて述べられています。

⦿私は、不破さんの「解説」の冒頭の文章で、「マルクスが、恐慌の運動論の発見を転機に、『資本論』の構想プランを変更し、これまで予定していなかった新たな分野に挑戦した」との表現を見て、不破さんがこれまで「『資本論』全体の構想の再検討」と言ってきたことの中身が、「マルクスが」「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」することだということが分かりました。

⦿私はこれまで、「恐慌の運動論の発見」による、「その(恐慌の運動論の発見の)影響」によって、「『資本論』全体の構想の再検討」が「必要」となり、マルクスは「『資本論』全体の構想の再検討」をした、と不破さんは言っているのだと思っていました。

⦿ところが不破さんは、マルクスは「恐慌の運動論の発見」を「転機」に、つまり、「恐慌の運動論の発見」とは何の因果関係もなく「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」することが、「『資本論』全体の構想の再検討」だと言うのです。

⦿「恐慌の運動論の発見」によって、どのような「『資本論』全体の構想の再検討」が行なわれたのか期待して不破さんの「論究」を読んでいた人は、さぞがっかりしたことでしょう。

⦿とにかく、曖昧な表現で何となくその気にさせるのが不破さんの「身上」なので、ついその気にさせられてしまっていましたが、いかに奇想天外なことをいう不破さんでも、どんな詭弁をろうしたとしても、「『資本論』全体の構想の再検討」など出来るはずがありません。

⦿「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」などではなく「『資本論』全体の構想の再検討」を前提に不破さんと向き合っていた私は、ホームページ4-27-3「 エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)」の〈「『資本論』の成立過程」の概略〉のところ(同HPのPDFの43-44ページ参照)で、不破さんが、「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見」がなぜ「『資本論』全体の構想の再検討」を必要とすることとなったのかの根拠も、どのように「『資本論』全体の構想の再検討」をするのかも、まったく述べられていないこと、そして、そこで述べられているのは、私が〈「『資本論』の成立過程」の概略〉で指摘した『資本論』の成立過程の追認だけであることを指摘するという、〝無駄な努力〟まで行なってしまいました。

⦿同時に、私は、1862年12月のプラン草案の「8)産業利潤と利子とへの利潤の分裂。商業資本。貨幣資本。」を『資本論』では二つの「篇」に「分割して」「独立させ」たことについて、──今回、不破さんは、「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦した」(=「『資本論』全体の構想の再検討」)と言っていますが──MEGAの「成立と来歴」で述べていることも紹介し、その理由は、研究した問題の範囲がますます大きく広がって行くにつれ、そして、研究が煮詰まって行くにつれて、『剰余価値学説史』執筆前の研究の方法と叙述の仕方をかえる必要性に迫られた結果であることも、既に、述べました。

⦿このように、不破さんが創作した1865年のマルクスの「恐慌の運動論の発見」──不破さんの言う「恐慌の運動論」の内容は、1865年以前からマルクスは承知していたもので、遅咲きの不破さんが1865年のマルクスの草稿から二一世紀になって「発見」したもの──が「『資本論』全体の構想の再検討」などさせていないことを、不破さん自身が明らかにしました。

⦿そして不破さんは、「恐慌の運動論の発見」が「転機」となって「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」することになった言いますが、「転機」の意味が〝変わるきっかけ〟であるならば、そこには〝変わる理由〟があり、「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」するに当たっては、明確なテーマがなければなりません。

⦿しかし不破さんは、〝変わる理由〟も〝明確なテーマ〟も語らずじまいで、説明責任をいっさい果たそうとしません。

⦿それはなぜか?

 それは、それらを言ったら、不破さんが科学的社会主義の思想と対極にいる人であることが明らかになってしまうからです。

⦿二一世紀になってやっとマルクス・エンゲルスの時代の「産業循環」の一部を知り、それを全ての恐慌の唯一の原因ででもあるかのように恐慌の原因を矮小化し、「恐慌の運動論」と命名した不破さんは、この「発見」に「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたと『前衛』2015年1月号で言っていた不破さんは、不破さん責任編集の「新版『資本論』」で、是非、その正体をはっきりと現し、これらの説明責任をしっかりと果たしてもらいたいと思います。

※なお、上記の、『前衛』2015年1月号で言っていたことの詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、参照して下さい。

第三部 第五篇「第二一章」~「第二四章」

P67-70 不破さんのエンゲルスの中傷と私たちが「古典」等を読むうえで大切なこと

⦿不破さんは「『利子生み資本』とは何か」という「節」で、「貨幣資本」という言葉の意味の説明にかこつけて、エンゲルスを中傷します。

⦿不破さんは、『資本論』でエンゲルスが「その区別(資本の循環形態にある貨幣資本と利子生み資本の形態にある貨幣資本の区別──青山)を無視して、すべてを『貨幣資本』(ゲルト・カピタール)あるいは『貸付資本』に変えてしまったのですが、この区別はマルクスの文意を正確に理解する上でも重要なので、本書では、利子生み資本を表現する場合には『貨幣資本(m)』あるいは『貨幣資本家(m)』、『貸付資本(m)』など、(m)を付記すること」を言い、「エンゲルスが編集した文章のなかにも『マニド・キャピタル』という言葉が残っているところが何箇所かありますが、意識的な使い分けとは読みとれません。」などと述べて、読者にエンゲルスを不当に低く印象づけようとします。

⦿不破さんは、具体例を何も出さずに、(m)を付記しないと「マルクスの文意を正確に理解する」ことができず、エンゲルスは「monied capital」という言葉を意識して使ったとは思えないと言います。決めつけだけの、いつもながらの、不破さんらしい「論理展開」です。

⦿「マルクスの文意を正確に理解する」ことができないかどうか、不破さんが『資本論』から抜粋し、(m)を付記した文章を見てみましょう。

「しかし、貨幣資本(m)の利子については事情が異なる」(P71)「貨幣資本家(m)は、機能資本家によって代表される者として、労働者の搾取に参加する」(P74)「単なる資本所有者である貨幣資本家(m)に機能資本家が相対し、信用の発展につれてこの貨幣資本(m)そのものが社会的性格を帯び」(P75)「現実の蓄積からは独立していながらしかもそれに随伴するそのような諸契機によって、貨幣資本(m)の蓄積が膨張させられる、という理由からだけでも、循環の一定の諸局面ではつねにこの貨幣資本(m)のプレトラが生ぜざるをえない」(P111-112)

 以上が、「『資本論』第三部を読む」の中で不破さんが『資本論』から抜粋した(m)を付記した文章のすべて、のはず、です。

⦿『資本論』を最初からまじめに読んできた人ならもちろんのこと、マルクス経済学を学ぼうとして上記の文章を読んだ人なら、これらの文章の中の「貨幣資本」が資本主義的生産様式のもとでの「貸付可能な貨幣資本」=「利子生み貨幣資本」を現していることは「(m)」を付けなくても容易に理解できることで、「マルクスの文意を正確に理解する上で」なんの支障もありません。ましてや、資本主義的生産様式のもとでの「貸付資本」や「貨幣資本家」の話をしているのに、それらに「(m)」をとってつけるなど「蛇足」というものです。

⦿不破さんは、このようにエンゲルスに〝いちゃもん〟をつけ、エンゲルスを超えた人間ででもあるかのように見せようとしますが、不破さんがおこなったことは「貨幣資本(Geldkapital)」に「(m)」をとってつけただけでした。

⦿なお、エンゲルスが「monied capital」を「貨幣資本」と訳した理由については、ホームページ4-27-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)」の〈エンゲルスが「monied capital」を「貨幣資本」と訳した理由〉の「項」(PDFファイルの4ページ以降)で、そのいきさつを詳しく紹介していますので、是非、ご覧下さい。

⦿ついでですが、翻訳には誤訳もあるし、印刷物には誤植もあり、「言葉」は核となる意味から派生した複数の「意味」が含まれて存在します。だから、私たちが文章を読むときには、まず、文章全体の「意味」をつかむことに努力します。文章全体の「意味」を理解する過程で「単語」の「意味」もコンクリートになっていきます。

⦿このようにして、文章全体の「意味」を理解する過程こそ、読書において決定的に重要なことですが、不破さんの「『資本論』解説」は、自分の主張に『資本論』を合わせようとすることが目的のため、無駄なマルクスとエンゲルスに対する誹謗・中傷や『資本論』の歪曲と改竄が満ち溢れています。

P70-72 「利子率を規定する法則はない」とは

⦿不破さんは、つぎの「利子率を規定する法則はない」という「節」で、「資本商品の利子には、法則的な基準はまったく存在しない」と述べています。

⦿マルクスが述べていることを、分かりやすく、正確にいうと、「利子率を規定する法則は」「競争によって命令される法則のほかには、」他に「利子率を規定する法則はない」ということです。つまり、利子率は市場の競争によって決まるということです。

P73-76 隠蔽された階級的対立を暴露するのが科学的社会主義の使命

⦿続けて不破さんは、『資本論』に従って、労働者の搾取の果実である利潤が貨幣資本家に支払う利子と企業者利得とに分割され、そのことによって機能資本家が得る企業者利得は彼らの活動の果実のようにみなされ、そのことによって、「資本主義的生産の根本問題である労働者の搾取の問題や階級的対立の関係が見えなくなってゆくのです」(P74)と述べています。

⦿私は、不破さんが、「資本主義的生産の根本問題である労働者の搾取の問題や階級的対立の関係が見えなくなってゆくのです」と述べているのを見て、不破さんが、市場での諸商品の交換を通じておこなわれる資本主義的生産様式の社会における搾取の仕組みを本当に理解したのなら大変よろこばしいことだと思いました。

⦿なぜなら、不破さんは、『前衛』の2014年1月号では、「エンゲルスの分析の中で一番おかしいと思ったのは、この基本矛盾の一つの現象形態がプロレタリアートとブルジョアの対立だというところでした。プロレタリアートとブルジョアジーの対立というのは、資本主義の生産関係の一番の基本で、資本主義の発生の時点から始まっているものなのに、なぜそれが事態の発展のなかで明るみに出てくる現象形態なのか、という点です。」と述べていたのですから。

※この点についての詳しい説明はホームページ4-8「☆不破さんは、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」は「資本主義の発生の時点から」あるのに、事態の発展のなかで明るみに出るのは矛盾だと、自分の理解力のなさを根拠にエンゲルスを誹謗している。」を、是非、参照して下さい。

⦿不破さんは、イギリスにおける労働者階級の状態から「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」をつかみだし、明らかにしたエンゲルスを、上記のように中傷しておきながら、自らは、グローバル資本の資本蓄積行動による国内産業の「空洞化」という「事態の発展」のなかで、労資関係が資本家優位になり、不安定雇用の増大と賃金切り下げが進行し、国民の将来不安は増大し、日本の経済・社会が出口の見えない深刻な危機に陥っているにもかかわらず、「資本主義的生産の根本問題である労働者の搾取の問題や階級的対立の関係が見えなく」されている社会に屈服して、資本主義的生産様式の社会のもとでの「社会的バリケード」づくりと「賃上げによる経済再建」に国民の希望があるかのように思わせて、〝プロレタリアートとブルジョアジーの対立〟をますます見えなくさせて、国民の革新的エネルギーを眠り込ませ続けてきました。

⦿不破さんは、資本主義の結果の改善のための「ルールある経済社会」の実現のみを目標とし、原因であるグローバル資本の行動を暴露しコントロールすることを放棄した運動の進め方を『資本論』の修正によって正当化し、労働者階級から闘うエネルギーを奪い去ろうとしています。不破さんが責任編集の「新版『資本論』」によって、『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えさせてはなりません。

⦿なお、『資本論』は、ここで、「企業者利得からの管理賃金の分離」の問題も述べられていますが、日本ではいま個人事業者の事業承継について新たな制度が検討されています。科学的社会主義の党には社会的な公正と新しい社会を視野に入れた制度を提案する責任があります。私も、別の機会に改めてこの問題を取り上げてみたいと思います。

P76-80 指揮・監督労働の現在と未来

⦿マルクスは管理賃金に関連して、①多数の個人が協業するすべての労働において、「オーケストラの指揮者の場合」のような労働が現れること、そして、②この監督労働は、直接生産者を搾取するすべての生産様式においては、必然的に、その対立に起因する独特な諸機能を含んだものとしておこなわれるという、階級社会における監督・指揮労働について述べています。

⦿このマルクスの指摘にかこつけて、不破さんは、革命を「オーケストラの指揮者」をキーワードとする「生産現場」での「新しい人間関係」に矮小化する「自論」に、読者を誘導しようとします。

⦿不破さんは、エンゲルスとレーニンを「生産物の分配の仕方」だけしか考えていない物欲的のみの人たちのように歪曲し、「生産物の分配の仕方」と「生産物の生産の仕方」とが一体となって存在する資本主義的生産様式を見ようともしません。

⦿そのために、「生産物の分配の仕方」のアンチテーゼとしての「生産物の生産の仕方」も資本主義的生産様式抜きの「生産現場」の問題となり、不破さんの「革命」は「生産現場」での「新しい人間関係」に矮小化されてしまいます。

⦿不破さんは『前衛』(2014年1月号)で、マルクスが『フランスにおける内乱』の草稿で「奴隷制のかせから、その現在の階級的性格から救いだす(解放する)ことが必要であり」と述べていることから、想像たくましく、この「奴隷制のかせから」「救いだす」とは「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」だという意味だと、とんでもないことを、言っていましたが、ここでも、『フランスにおける内乱』の草稿をもちだして、「生産現場には、過去の遺産として『奴隷制のかせ』が根深く残っており」(P79)などと相変わらず独自の「解釈」をおこない、「資本主義的生産のもとで体制化された資本家的な指揮・監督の機能が、共同社会におけるオーケストラ的な指揮機能に転化してゆく過程にかかわる問題」(P78)にマルクスと読者を引きずり込もうとしています。

⦿不破さんが『フランスにおける内乱』の第一草稿からつまみ食いしようとした「奴隷制のかせからの解放」という言葉は、要旨──資本主義社会を「共産主義社会」に置き換えるには時間がかかる。そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならない。──という文章の中に出てくる言葉で、「奴隷制のかせ」とは資本主義的生産様式における賃金「奴隷制のかせ」のことで、その解放とは「資本主義的生産関係からの解放」のことです。そして、「対等な人と人との関係をつくりだす」というのは、生産関係を社会主義的に変革するということで、「生産現場」での「新しい人間関係」をつくることではありません。

※なお、「奴隷制のかせ」に関する詳しい説明は、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」を、是非、参照して下さい。

⦿なお、不破さんは、マルクスと違って、共産主義社会においても、労働を「指揮者」の指示に従う「義務」と捉え、『赤旗』連載の「『資本論』刊行150年に寄せて」の「マルクスの未来社会論(2)」で、物質的生産にあてるべき時間を「必然性の国」と呼ぶ理由を、「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動となります」と言っています。これは、マルクスの考えとはまったく異なります。不破さんがどのような考えを持とうと自由ですが、マルクスの考えではないものをマルクスの考えのように言って、権威づげをするのは詐欺行為というものです。

※未来社会における労働の位置づけ、「自由の国」と「必然性の国」等に関する詳しい説明は、ホームページ4-26-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」及びホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を、是非、参照して下さい。

第三部 第五篇「第二五章」~「第三五章」

 これから見る「(8)信用制度下の利子生み資本(その一)」(P81-94)は、エンゲルスの「第二五章」から「第三五章」までの編集の悪口とマルクスの草稿の「未完の労作」=「研究途上の考察」という決めつけの「章」です。

 根拠のない断定が続きますので、その反論にはどうしても多くのページを費やさざるを得ませんでした。しかし、不破さんが責任編集の「新版『資本論』」の虚構の大事な構成要素となると思いますので、是非、しっかりお読み下さい。

P81 いきなりエンゲルスを罵倒する不破さん

⦿不破さんは、第八章「(8)信用制度下の利子生み資本(その一)」(P81)の初めの「節」〈第五篇の後半部草稿とエンゲルス〉で、いきなりエンゲルスを罵倒して、次のように言います。

「マルクスのこの部分(第二五章~第三五章のこと──青山)の草稿は、未完成の初稿という性格をもっていた上、草稿そのものが性格を異にするさまざまな部分からなっており、エンゲルスがそのことを理解しないまま大幅な加工の手を入れて編集したために、現状では、執筆したマルクスの真意そのものがつかみにくい状態のものとなっています。」(P81)

⦿このように、いきなり論拠も示さずに「決めつけ」や「推測」を行なうのは不破さんの常套手段ですが、具体的内容が示されていないので、検証する側にとっては大変困ります。かといって、デマをそのまま放置する分けにもいきませんので、ここで不破さんが言っていることの論点整理程度に内容に触れてみたいと思います。

⦿まず、不破さんは、草稿が「未完成の初稿という性格をもっていた上、草稿そのものが性格を異にするさまざまな部分からなって」いるが、「エンゲルスがそのことを理解しないまま」「編集した」と言いますが、それはウソです。

⦿私は、ホームページ4-27-3 「エセ『マルクス主義』者の『資本論』解説(その3)」の〈第三部はどのように編集されたか、エンゲルスの声を聞いてみよう〉という〈項〉の◇「おもな困難は第五篇にあった」で、エンゲルスが序文で次のように述べているのを紹介しました。

 「ちょうどここでマルクスは書き上げのさいちゅうに前に述べたような重い病気の一つに襲われたのだった。だから、ここにはできあがった草案がないのであり、これから中身を入れるはずだった筋書きさえもなくてただ仕上げの書きかけがあるだけであって、この書きかけも一度ならず覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっているのである。」

⦿このように、草稿が「未完成の初稿という性格をもっていた上、草稿そのものが性格を異にするさまざまな部分からなって」いることは、エンゲルス自身が序文で述べていることであり、不破さん自身も、66ページで「序文」のこの部分を抜粋し、2ページ後の83-84ページでも同じ部分を抜粋しています。だから、不破さんは、草稿が「未完成の初稿という性格をもっていた上、草稿そのものが性格を異にするさまざまな部分からなって」いることをエンゲルスが十分理解していることを知りながら、「エンゲルスがそのことを理解しないまま」「編集した」と言うのですから、不破さんの言うことは、〝真っ赤なウソ〟というだけでは、言葉が足りません。

⦿次に、「大幅な加工の手を入れて編集したために」、──なにが「現状では」なのか意味不明ですが、──「執筆したマルクスの真意そのものがつかみにくい状態のものとなっています」という主張ですが、「現状では」という言葉があるので、不破さんは「マルクスの真意」を理解しているが、読者が「つかみにくい状態」だという不破さんの評価を述べているのだとすれば、具体的に、どこにどのような手入れがおこなわれた結果、マルクスのこういう「真意」がこのように「つかみにくい状態」になったと指摘していただかないと、何とも言えません。

⦿なお、エンゲルスはこのように不破さんから「理屈」ぬきの非難、いわゆるケンカを売られたわけですが、不破さんは、「大谷研究の到達点も踏まえながら、エンゲルスの編集の問題点を指摘し、この部分(第二五章~第三五章のこと──青山)でのマルクスの研究と考察のあとを、できる限り追跡してゆきたいと思います」(P86)と大谷氏の知恵を借りて「エンゲルスの編集の問題点を指摘」すると言うだけです。

⦿『資本論』の「第五篇」は、不破さんが知恵を借りようとする大谷禎之介氏が『マルクスの利子生み資本』②の56-57ページにその概略を示したような大がかりで複雑な編集作業をして、エンゲルスが序文で述べているような極めて不完全な状態の草稿から編集されました。例えば、次に見る第二五章などは、草稿のエンゲルスによる要約や入れ替え、草稿の他の箇所からの引用、エンゲルスの補筆を含め20以上の文章を編集して出来上がりました。

⦿エンゲルスが人生の晩年に、不完全な状態の草稿をなんとかしてマルクスの著作としての『資本論』に仕上げようと懸命の努力をして成し遂げたものを、「解説」の冒頭で何の根拠も示さずに、エンゲルスの編集を全否定して、「大幅な加工の手を入れて編集したために」、「執筆したマルクスの真意そのものがつかみにくい状態のものとなっています」などと言ってエンゲルスを非難する不破さんの品性には、あきれるばかりです。

「第五篇の編集上の困難」はエンゲルスの自業自得だという、不破さん

⦿そして、不破さんの品性のなさに、益々、あきれるのは、不破さんの言う「第五篇の編集上の困難」の理由です。

⦿エンゲルスは「序文」で、「第五篇の編集が困難」だった理由を詳しく述べていますが、不破さんは、エンゲルスの編集過程の試行と葛藤をまともに受け止めようともしないで、「序文」を読めば不破さん程度の理解力の人であっても理解できることを、「エンゲルスの言う編集方針の変更の意味するものが何であるかを、読み取ることはなかなか難しい問題ですが」とエンゲルスを揶揄して、編集方針を変えたことが「成功への転機になったと語った」などと、エンゲルスが序文で述べていることと違うことを、軽々しく、言います。

⦿不破さんのように自己顕示欲の強くないエンゲルスは、『資本論』をマルクスの著書として完成させるため、「私に残された道」として、次善の策としてこのような編集方法を選んだのです。エンゲルスは「成功への転機になった」などと語っていません。「成功」などという、軽々しい言葉を使うのは、エンゲルスに対して失礼です。

※なお、「序文」の「第五篇の編集が困難」だった理由の詳しい解説は、ホームページ4-27-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)④「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)」の「「第五篇の編集上の困難」はエンゲルスの自業自得だという、不破さん」(PDFファイルの11ページ)の「項」を参照して下さい。

⦿こんな不破さんだから、「第五篇の編集上の困難」についての不破さんのエンゲルスに対する非難は常軌を逸しています。

⦿不破さんは、「今日の時点からふりかえってみると、エンゲルスをなやませた第五篇の編集上の困難には、エンゲルスが最後まで気づかなかったいくつかの問題がありました。その一つは、エンゲルスが、第五篇後半の『信用』関連の草稿のなかに、マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノートが含まれていたことに気づかなかったことです。」と、事実と違うことを言います。

⦿不破さんは、エンゲルスの「第五篇の編集上の困難」は、「これから中身を入れるはずだった筋書きさえもなくてただ仕上げの書きかけがあるだけであって、この書きかけも一度ならず覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっている」草案にあるのではなく、エンゲルスが「『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノートが含まれていたことに気づかなかった」からで、エンゲルスの自業自得だと言うのです。

⦿例によって不破さんは、トンキン湾事件をでっち上げた謀略機関なみに、「気づかなかったいくつかの問題」とか「その一つは、エンゲルスが、第五篇後半の『信用』関連の草稿のなかに、マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノートが含まれていたことに気づかなかったことです」とか、具体例を出さずにイメージ操作をして、先入見を植えつけようとしています。なんとも、汚いやり方です。

⦿なお、不破さんの言う「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」なるものが、どこに書かれている「覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積」(なお、「混沌」以外のものを大谷氏は「雑録」、「捜論」、MEGAは「補録」等と言っています。)のことなのか分かりませんから、残念ながら具体的な反論はできませんが、エンゲルスは、『資本論』草稿に書かれている全てを使ってマルクスの荒削りな部分を補いながら、『資本論』をマルクスの著作として仕上げることに全身全霊で取り組んだことだけは申し上げておきます。

⦿そして、不破さんのエンゲルスに対する不当な誹謗についての防衛的な措置として、あらかじめ申し上げておきますと、不破さんは、不破さんの言う「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」と思われる部分や自分の気に入らない部分を除いて「解説」をしていますが、そのために『資本論』を通じてマルクスの経済学(科学的社会主義の経済学)を学ぼうとするものにとって、知見を狭め誤った理解に導く、非常に有害な「解説」になっています。不破さんが責任編集の「新版『資本論』」が、どのように編集されるのか心配です。

⦿なお、不破さんが知恵を借りてエンゲルスの評価を落とそうとする大谷氏は、『マルクスの利子生み資本論』2で、次のように述べていますので紹介します。

「マルクス自身が刊行できなかった第2部および第3部を編集・刊行して、彼の主著の理論的部分を完成させたエンゲルスの功績は、それらがもつ欠陥や不十分さにもかかわらず、不朽のものである。」(P360)といい、「エンゲルスの最晩年の悪戦苦闘によって、人類は、そしてとりわけ労働者階級は『資本論』の第2部および第3部をもつことができた。かりに、エンゲルスによる第2部および第3部の刊行がなかったとして、これまでに経済学者は、そこで分析され展開されている諸問題をそこでなされているような仕方で自ら展開し、さらにそれを資本主義的生産の理論的分析に適用することができていたであろうか。……

 エンゲルス編の第2部および第3部の欠陥をあげつらうことは、マルクスの草稿がかなりの程度にまで見ることができるようになったいまでは、むしろ手もない仕事だと言うことさえできる。しかしながら、第2部および第3部の編集・刊行というエンゲルスの不朽の業績は、言い換えればエンゲルス版『資本論』第2部および第3部の刊行の歴史的意義は、それらのもつ欠陥や不十分さによってけっして相殺されることはないであろう」(P363-4)、と。

⦿不破さんは、エンゲルスがつけた「資本主義的生産の総過程」という第三部の表題について、マルクスは「総過程の諸姿容」といっていたから主題は「総資本の諸姿容」だと、第三部の意義も分からずに、自ら大「発見」した「恐慌の運動論」に目が眩み、肝心かなめの「資本主義的生産の総過程」抜きの「総資本」の「諸姿容」を主張するくらいの第三部の理解力の持ち主ですから、マルクスが今度は草稿の「5)信用。架空資本。」(『資本論』第3部第二五章)の冒頭で「商業信用」といっている言葉の意味をどう捉え、大谷氏のいう「雑録」をふくむ第二五章の展開を「今日の時点からふりかえって」、どのように「欠陥をあげつらう」のか、不破さんの言うことを信じて先入見をもって『資本論』を学ぼうとする人にとっては大変不幸なことですが、「不破さん」を知るうえでは興味あることです。

エンゲルスが編集した『資本論』の第二五章から第二九章までの流れ

 これからくり広げられる不破さんの『資本論』への誹謗に備えて、第二五章から第二九章までの編集の流れを簡単に見ておきたいと思います。是非、頭に入れておいて下さい。

 マルクスは第二七章の〝むすび〟で、これまで「信用制度の発展」を「おもに産業資本に関連させて考察」してきたことを述べ、以下の諸章で「信用」を「利子生み資本そのものとの関連のなかで考察」すること述べています。

 これを踏まえて、エンゲルスは、この「信用制度の発展」の部分を①草稿「5)信用。架空資本。」全体の導入部分として、②「必要最小限の手入れ」──その結果、やむを得ず行なわれた第二五章と第二六章の編集──を行なうこととし、その最初の「章」である「第二五章」を「信用と架空資本」として編集しました。

 その概要は下記の通りです。

「第二五章」の概要

 産業資本の発展の中で発展してきた資本主義的生産様式に立脚した信用制度のもとでの「貨幣資本」は、本来、生産過程に入る「貨幣資本」を想定していますが、銀行に集められた「貨幣資本」は必然的に「利子生み資本」としての機能に転化されます。そこから、「銀行制度」の基での「信用」が生み出した〝貸付資本〟(「monied Capital」)と再生産過程の「貨幣資本」との関係に目が向けられ、信用制度のもつ資本(貨幣)創出機能とそのもとでの資本の行動について「第二五章」では述べられています。

「第二六章」の概要

 続く第二六章は、「第二五章」を受けて、オーヴァストーンらの、「信用制度の発展」の中で生じる「貨幣資本」の「利子生み資本」としての機能と生産過程の循環の一部としての「貨幣資本」との混乱した見方、「貨幣資本」の蓄積と利子率の関係との混乱した見方の紹介と、その批判が述べられています。

「第二七章」の概要

 そして第二七章は、「信用制度の発展」と産業資本の発展の問題に立ち戻って、「資本主義的生産における信用の役割」だけでなく、「信用制度の発展」による他人の資本や他人の所有に対する絶対的な支配力の獲得による「資本所有の潜在的な廃止」の問題まで述べられています。

「第二八章」と「第二九章」の概要

 つぎに、マルクスは第二七章の〝むすび〟で、「第二八章」以降の諸章で「信用」を「利子生み資本そのものとの関連のなかで考察」すること述べていますが、「第二八章」はそのための橋渡し的な「章」で、資本主義的生産様式における信用制度の中核を担う「利子生み資本」の本格的な論究は「第二九章」から始まります。

 なお、「第二八章」は、貨幣が流通手段、価値表現、資本の循環形態の一局面である貨幣資本、利子生み資本としての貨幣資本という機能をもっていることを述べ、トゥックやウイルソンが通貨と資本との区別と流通手段がそのときどきにもつ機能の区別を混乱させて、通貨の機能を㋐資本の流通という機能と㋑通貨の流通という機能とみていることを述べ、その混乱ぶりを指摘しています。

エンゲルスがこのような編集をした理由

 このようにエンゲルスは、「現にあるものをできるだけ整理することに限り、ただどうしても必要な補足だけを加えるということしかしなかった」という編集方針で「第二六章」も「第二八章」も草稿の順序通りに配置し、その後の論及の理解を助けられるような編集を行ないました。

 大谷氏は、「第二六章」を「第三三章」のあとに、「第二八章」を「第三二章」のあとにおき、「架空資本」そのものの論究は「第三五章」のあとに置くべきだと言います。しかし、エンゲルスが序文で述べているように、マルクスがこの篇に「与えようと意図したすべてのものを少なくともおおよそは提供するようにする」ために、エンゲルスがこれらの「章」を編集するとしたら、大谷氏の言う「雑録」も「捜論」も、マルクスの『混乱』も、最終稿のための材料の部品になり、オーヴァストーンらの混乱した考えの紹介とその批判はマルクスの論究の材料部品となって、その論述のされ方は主客が一八〇度転換されたものとなり、まさに「マルクスの著書ではないもの」となっていたことでしょう。

 私も、少しあとの〈第二六章のエンゲルスの編集〉の「項」で、もしも、エンゲルスが「マルクスの著書ではないもの」を編集するとしたら、第二六章(貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響)もその詳しい論究は第三〇章以降に置き、「架空資本」に関しても、第二九章(銀行資本の諸成分)と第三〇章(貨幣資本と現実資本)等の大幅な再編集が必要になったかもしれないこと、第二八章(流通手段と資本)の配置もその中で大きく変化したであろうことを述べています。

 エンゲルスが編集した『資本論』の第二五章から第二九章までの流れは、以上のようなものです。そのことを理解して、私たちは『資本論』を読み進んで行きましょう。

第二五章、第二六章の編集の経緯と第二六章

⦿不破さんは、〈エンゲルスは本文に草稿外の文章を混入させた〉(P86)の「節」で、「エンゲルスのこの編集の最大の問題は、この部分の草稿のうち、マルクスが『資本論』の本文の草稿として執筆した部分と、それ以外の準備材料的な部分とを区別せず、全部が本文だと思い込んで、編集にあたったことでした。」と述べ、「例えば」として、「第二六章」は「そうした失敗の典型」だと言います。

⦿この不破さんの誤った決めつけは、本当に不破さんが『資本論』の展開の道筋についても、『資本論』のための「準備材料的草稿」についてのエンゲルスの位置づけについても、無知であることをさらけ出すものとなっています。

⦿ここでのエンゲルスの編集の仕方についての不破さんのエンゲルスへの中傷に限って第二五章と第二六章の編集の経緯を見てみましょう。なお、第二五章から第二七章では、「資本主義のもとで生まれた『信用』制度」によって資本がどのような運動をし、資本主義がどのように発展するのかを考察しています。

⦿エンゲルスが編集方針を変更した経緯については、先ほど見てきたとおりですが、そのような編集方針のもとで、まさに、「覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっている」ものからエンゲルスが編集したのが第二五章と第二六章でした。

⦿第二五章と第二六章は、マルクスの草稿の317から325bまでの文章で、MEGAでいう「総論」と「補録」(大谷氏はMEGAの「補録」を「雑録」と「捜論」に分けていますが「雑録」という言い方はいかがなものかなと思います。)からなっています。第二五章は①「総論」と大谷氏のいう②「雑録」の大部分と③草稿の「他の箇所で見いだされた材料の挿入」と④エンゲルスの補足の文章とが、20近く集まって作られていることは前にも述べたとおりです。

⦿「現にあるものをできるだけ整理することに限」ったとはいえ、大変な努力です。

 第二六章は大月版『資本論』でいうと、最初の3ページが大谷氏のいう「雑録」で、残りの大部分が「捜論」からなり、それにエンゲルスの補足の文章が加わったものです。

⦿繰り返して言いますが、エンゲルスが編集に時間を費やしたのは、不破さんが言うような「編集上の困難」からではありません。

⦿エンゲルス自身が序文で述べているように、編集を困難にしたのは、「これから中身を入れるはずだった筋書きさえもない」草稿から「この篇を完全なもの」にしようとしたからです。そしてその努力を重ねれば重ねるほど、その大きな「すきまを埋め」、「暗示されているだけの断片を仕上げる」ための新たな研究が必要であり、その結果出来あがる「著書」はマルクスのものではなくなるということでした。エンゲルスがそのことを納得し、その方法を断念するまでには時間が必要だったのです。

⦿第二五章と第二六章のベースとなる草稿が「覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっている」ようなものであって、大きな努力を必要とするものであっても、先ほど見たよな経緯を経て、編集方針を変えることによって、「草稿」は二つの章にまとめ上げられ、『資本論』の中に生かすことができました。

⦿第二五章と第二六章を見れば分かるとおり、MEGAの「補録」の部分が『資本論』の「準備材料的な部分」であることは、エンゲルスの編集の仕方をみれば一目瞭然です。大谷氏も指摘しているように、そして私が再三述べているように、「第二五章」は草稿のエンゲルスによる要約や前後の入れ替え、草稿の他の箇所で見いだされた材料の挿入、そしてエンゲルスの補筆を含め、20近くの文章を編集して出来上がりました。

⦿それなのに、不破さんは、エンゲルスがこれだけ思い切った〝切った貼った〟をして「第二五章」を編集したというのに、エンゲルスが「全部が本文だと思い込んで」いると言うのですから、驚きです。

第二六章で『資本論』は何を言っているのか

⦿不破さんは、第二六章を「本筋とは関係のない議会討論の批判で飾ってしまった」「失敗の典型」だと言います。

⦿第二六章を見て下さい。

 第二六章は大谷氏のいう「雑録」の最後の部分から始まりますが、第二五章を引き継いで、「貨幣資本」の蓄積が経済に及ぼす影響を述べ、引き続き、大谷氏のいう「捜論」で、ノーマンとオーヴァストーンの「貨幣資本」の捉え方とその需要と利子率についての混乱した考えについての批判を通じて、利子率についての正しい認識を一層深めるものとなっています。

⦿不破さんの言うような、「本筋とは関係のない」、「議会討論の批判」などではありません。

⦿不破さんは、マルクスのノーマンとオーヴァストーンの批判のなかに「信用制度の発展」が述べられていないから、「本筋とは関係のない」、「議会討論の批判」などと言って批判しているのでしょうが、まさに不破さんらしい「理解力」に基づく批判のしかたです。

⦿オーヴァストーンらのこれらの混乱は、「産業資本」の発展にともなって「信用制度の発展」がなされるなかで、彼らが「貨幣」の機能を科学的に見ることができないために起きた混乱です。だからマルクスも草稿のこの場所でオーヴァストーンらの誤りを指摘し、読者の皆さんに注意喚起をしようとしたのでしょう。

⦿そして、これは、今日の日銀の金融政策を正しく評価する上でも重要です。資本主義的生産様式における「貨幣」の多面的な機能を科学的社会主義の経済学のうえに基礎づけてこそ正しい理解ができます。資金需要がなければ、金利は上がりません。金利を下げても、再生産過程での「資本の過多」があれば経済成長へはつながらず、「投機」マネーに変質するだけです。大事なのは国内での「資本の過多」をなくすことです。そのために、「産業の空洞化」をやめさせ「利潤」の源である「製造業」を復活させることです。

⦿このように、不破さんは、第二六章について「本筋とは関係のない議会討論の批判で飾ってしまった」「失敗の典型」としか「解説」できません。このような人の責任編集の「新版『資本論』」がどのようなものになるのか、心配でなりません。

第二六章のエンゲルスの編集

⦿「貨幣」と「信用」と「貨幣資本」と「現実資本」の資本主義社会での複雑な絡み合いのなかで、エンゲルスが決断し、行った手入れは、必要最小限のものでした。だから、第二六章は、『資本論』の草稿全体の順序を生かして、いま見ているような形に編集されることとなったのです。

⦿もしも、エンゲルスが序文で述べているように、マルクスがこの篇に「与えようと意図したすべてのものを少なくともおおよそは提供するようにする」ために、エンゲルスが「マルクスの著書ではないもの」を編集するとしたら、第二六章(貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響)もその詳しい論究は第三〇章以降に置き、「架空資本」に関しても、第二九章(銀行資本の諸成分)と第三〇章(貨幣資本と現実資本)等の大幅な再編集が必要になったかもしれません。第二八章(流通手段と資本)の配置もその中で大きく変化したことでしょう。その結果、大谷氏の言う「雑録」も「捜論」も、マルクスの『混乱』も、最終稿のための材料の部品になり、『資本論』第五篇は現在の『資本論』とはかなり異なるものになっていたことでしょう。

⦿同様に、このようにやむを得ず行われた章の編集の身近な例として、第二八章があります。

⦿第二七章の〝むすび〟の部分でマルクスとエンゲルスは『資本論』第五篇の編集について、「これまでわれわれは、信用制度の発展──そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な廃止──をおもに産業資本に関連させて考察してきた。以下の諸章では、信用を利子生み資本そのものとの関連のなかで考察する」と述べています。しかし、「信用を利子生み資本そのものとの関連のなかで考察」しているのは第二九章「以下の諸章」で、第二八章はその橋渡し的な文章ですが、第二八章も、上記のようなエンゲルスの『資本論』編集にあたっての試行錯誤から生まれたものです。

⦿なお、念のために申し添えますが、大谷氏は、「トゥクとフラートンとを批判した第二八章部分には、さまざまの混同を伴っているトゥクやフラートンの議論から、この重要な区別をつかみだして提示し、それにもとづいて彼らの区別のあいまいさや不十分さや誤謬を批判するという作業が──明示的にではないにしても──含まれていてもよいのではないか、と考えられるのであるが、これまで見てきたように、この部分でのマルクスの記述にはほとんどそのような形跡を見ることができなかった」と第二八章でのマルクスの論究を責めていますが、第二八章でマルクスとエンゲルスは「通貨と資本との区別と流通手段がそのときどきにもつ機能の区別」をしっかりと行なっています。

⦿以上が、第二六章が、エンゲルスによって、いま私たちが見ているような形に編集された理由です。

第二六章への大谷氏の批判

⦿なお、大谷氏は、第二六章について、第二六章の表題は小部分への小見出しをエンゲルスが全体につけられた表題だと勘違いしたもので内容と合っていないこと、第二六章を第二五章の本文部分および第二七章と対等に置くべきではない、との理由から「このような第二六章の表題と内容と位置とが、第五篇の第二五章以降の展開の筋道をきわめてわかりにくいものにし」たと言い、「草稿によって見ると、エンゲルス版で見られるのとはかなり異なった筋道が見えてくるようにも思われるのであるが、ここでは立ち入らないことにする」と述べています。

⦿しかし、もう一度、先ほど見た第二七章の〝むすび〟の部分の言葉を思い出して下さい。

 マルクスとエンゲルスは、「これまでわれわれは、信用制度の発展──そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な廃止──をおもに産業資本に関連させて考察してきた。以下の諸章では、信用を利子生み資本そのものとの関連のなかで考察する」と、『資本論』第五篇の編集についての共通認識をもっています。

⦿大谷氏が「第五篇の第二五章以降の展開の筋道をきわめてわかりにくいものにし」たと言うのなら、大谷氏にとってはそのとおりなのでしょう。しかし、「第五篇の第二五章以降の展開の筋道」は「草稿」でも「エンゲルス版」でも上記のように書かれているので、「草稿によって見ると、エンゲルス版で見られるのとはかなり異なった筋道が見えてくる」はずがありません。『資本論』に書かれている「筋道」以外にどのような「筋道」があるのか、大谷氏には、是非、ご教示願いたいと思います。

⦿不破さんも、大谷氏のこれらの主張を拠に「執筆したマルクスの真意そのものがつかみにくい状態」というのであれば、「マルクスの真意」が何で、どのようにつかみにくくなったのか、具体的に述べるべきです。そうでなければ、不破さんの決めつけの正否の判断のしようがありません。

ここまでのまとめ

⦿この「第五篇」の不破さんの「解説」(?、誤った主張。)は、本人も認めているとおり、大谷禎之介氏の『マルクスの利子生み資本論』の内容をデフォルメしての借用がベースにあるようですが、大谷氏にこの本の出版を促した不破さんの期待どおりの内容とは、残念ながら、必ずしもなっていませんでした。

⦿第二六章についても、大谷氏は第三三章の次に置くことを提案していますが、「本筋とは関係のない」ことだなどとは言っていません。(私は、上記の「エンゲルスが編集した『資本論』の第二五章から第二九章までの流れ」及び「第二六章のエンゲルスの編集」を踏まえて、第二六章はここでよいと思います。)自分の援軍に少しでもなればと大いに期待した不破さんにとっては、さぞ残念なことでしょう。

⦿みなさんは、不破さんが責任編集の「新版『資本論』」で不破さんが「マルクスの真意」をどのように「編集」するのか、注視して下さい。

「より大きな混迷をも生み出した」、「創作」だと叫ぶだけの不破さん

⦿『資本論』の第三一章の草稿に続いて、マルクスが「『混乱』という表題をつけた長い一篇」の文章が続いていますが、不破さんは、エンゲルスのこの編集についても、「編集ではなく、〝創作〟」(P90)だと言って非難します。

⦿エンゲルスは、この「『混乱』という表題をつけた長い一篇」の文章を含む第三〇章から第三六章までの『資本論』の編集の経緯について、序文で次のように述べています。

「ところが、第三〇章からはほんとうの困難が始まった。ここからは、引用文から成っている材料を正しい順序に置くことだけではなく、絶えず挿入文や脱線などに中断されながらまた別の箇所でしばしばまったく付随的に続けられている思想の進行を正しい順序に置くことも必要だった。こうして第三〇章は入れ替えや削除によってできあがり、この削除されたもののためには別の箇所で使いみちが見いだされた。」

「第三一章は再びかなりよくまとめて書き上げてあった。」

 次に、「『混乱』という表題をつけた長い一篇が続き」、それを「批判的に風刺的に取り扱おうと」「いろいろやってみたあげくに、この章を組み立てることは不可能だということをさとった。」

「その次には、私が第三二章で取り入れたものがかなりよく整理されて続いてい」た。

「『混乱』からあとの、そしてすでにそれ以前の箇所で取り入れられなかったかぎりでの、すべてのこれらの材料から、私は第三三~三五章をまとめ上げた。」

「『資本主義以前』(第三六章)は完全に書き上げてあった。」

⦿エンゲルスのこの『資本論』の編集について、エンゲルスの編集過程での苦悩など眼中にない不破さんは、『混乱』という表題をつけた長い一篇の文章は、マルクスが1865年にエンゲルスに手紙でオーヴァストーンその他の理論の「ごった煮の全部にたいする批判を僕はもっとあとの本の中ではじめて与えることができるだろう」と言った「もっとあとの本」のための「準備材料」であり、「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」(P85)であり、第三三章と第三四章は「編集ではなく、〝創作〟と呼ぶしかない作業」で「この錯覚は、より大きな混迷をも生み出しました」と、鬼の首でも取ったかのように言います。

⦿そして不破さんは、次の「『信用。架空資本』をどう読むか。五つの章を中心に読む」(P90-94)という「節」で、第二五章から第三五章の11の「章」うち第二五章、第二七章と第三〇~三二章の五つの「章」のみを「中心」にして読むといいます。これでは、エンゲルスが「序文」に書かれているような苦労をした意味がまったくありません。

⦿エンゲルスの編集方針変更の理由の一つは、『資本論』がマルクスの著作でなくなるのを避けるためでもありました。だから、このような編集をしたのです。

⦿だから、不破さんの援軍を期待した大谷氏も、『マルクスの利子生み資本』④でエンゲルスの第三三章と第三四章の編集ぶりについて、ただただ見事と言うほかはないと言い、第三五章についても前向きな評価をしています。

※詳しくは、ホームページ4-27-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)」のPDFの45ページ以降を参照して下さい。

⦿もしも不破さんが、大谷氏が指摘している、「monied Capitalの量と貨幣量」との関係について「マルクスが応えているかのような外観があたえられた」という言葉に飛びついて、〝創作〟だとか「より大きな混迷をも生み出しました」とか言っているのだとしたら、「解説」者として、第三三章と第三四章を堂々と取り上げて、エンゲルスの〝創作〟による「より大きな混迷」の誤りを正すべきではないですか。

⦿大谷氏を含め、『資本論』に代わる『資本論』がないことは、不破さん以外、みんなが認めていることです。

⦿不破さんは、エンゲルスに『資本論草稿集』でも出すべきだったとでもいうのだろうか。そんなことなら、不破さんにもできま

⦿大体において、資本論の草稿のなかに、一定のルールを持って書かれている「混沌」と書かれた文章やMEGAのいう「補録」等を「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」だなどといって『資本論』から切り離してしまうことが、マルクスの執筆意図を生かすことになるのでしょうか。

⦿「この篇が著者の与えようと意図した」ものを、少しでも多く伝えるために、草稿の「現にあるものをできるだけ整理することに限り、ただどうしても必要な補足だけを加えるということ」によって『資本論』を編集したエンゲルスが不破さんから罪人のように責められる。

⦿〝創作〟だ、「より大きな混迷」だと責めた本人は、その〝創作〟に誤りがあり、その結果「より大きな混迷」がもたらされているのならば正さなければならないはずなのに、無責任にもその「誤り」を正す気などない。攻撃のための攻撃をするだけで品性の欠片すらない。

⦿もちろん、エンゲルスの考えの中に勘違いと思われるような部分(例えば、大月版P544-547等参照)もあるし、それはマルクスにもある。しかし、それがなんだというのか。〝そんなことも気づかないのか〟とマルクス・エンゲルス・レーニンにしかられるだけだ。

暴露の絶好の機会を待つマルクスを理論的未完成という不破さん

いかにも不破さんらしいマルクスとエンゲルスに対する見方

⦿不破さんは、「『信用。架空資本』をどう読むか。五つの章を中心に読む」(P90)という「節」で、不破さんが「解説」する「五つの章」から除外された「章」の除外理由として『資本論』の「準備材料をエンゲルスが本文の草稿と誤認」したことなどをあげています。

⦿私は先ほど、エンゲルスの立場に立って、「これでは、エンゲルスが「序文」に書かれているような苦労をした意味がまったくありません」と申し上げましが、現在の『資本論』の編集は序文で述べられているようなエンゲルスの編集方針に基づくもので、エンゲルスも序文で「この書きかけも一度ならず覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっているのである」と認識しているとおり、「準備材料をエンゲルスが本文の草稿と誤認」したためなどではありません。

⦿例えば、第二六章が「失敗の典型」などとレッテルを貼られて誹謗されるべき「章」などでないことはすでに見てきたとおりです。ですから、不破さんが「解説」する「五つの章」から不当に除外された「章」についても、『資本論』を学ぶうえで必要不可欠な「章」ですから、飛ばすことなく、見ていきましょう。

⦿不破さんは、いかにも不破さんらしく、「『信用。架空資本』をどう読むか」の「注意」事項の〝いの一番〟に「エンゲルスの誤解から、マルクスの真意とは違った内容で編集された場合がある」ことを、何も具体的に示さず、述べてエンゲルスを誹謗し、「もう一つは」として、第五篇以降の草稿の「その少なくない部分が未完成」であったことをもって、マルクスの考察の「その少なくない部分が未完成の、いわば研究途上の考察」であったと、「草稿」の「未完成」なことを、「研究途上の考察」にすり替えて、断言します。

⦿もちろん、あらゆる科学上の研究は、現時点では、すべて「未完成の、いわば研究途上の考察」であることもまた事実です。ですから、マルクスが『資本論』の筆を断った1881年の時点で「真理」とマルクスが考えていたこと、1894年のエンゲルスが『資本論』の第三巻を刊行した時点でエンゲルスが「真理」と考えていたことの中にも、現時点での理論的補強と発展が必要なものがあるのは当然です。

⦿そして、それを行うのが科学的社会主義の思想を受け継ぐ者の使命です。だから、不破さんが『資本論』の「解説」者であり、科学的社会主義の思想の持ち主たらんとするのであれば──二一世紀になって『資本論』から「恐慌の運動論」なる時代遅れの大発見をするくらいですからあまり期待はもてませんが──、当然、マルクスの考察の「その少なくない部分が未完成の、いわば研究途上の考察」であることを述べている以上、つまり、「問題」を認識している以上、「解説」がその箇所に行ったとき、エンゲルスやマルクスの悪口を言ったり、「そこに未完の労作ならではの味わいがあるのではないでしょうか」などと呑気な軽口を叩くのではなく、現時点での「真理」を読者に伝えるのが『資本論』の「解説」者としての、科学的社会主義の思想の持ち主としての最低限の義務です。

⦿不破さんの責任編集の「新版『資本論』」が、エンゲルスやマルクスの悪口だけでなく、科学的社会主義の思想の持ち主としての最低限の義務を果たしているかどうか、注視して下さい。

不破さんは、自分の主張の正当化のためにマルクスを抜粋するのではなくマルクスの真意を伝えよ

⦿『資本論』の第三部第五篇の草稿を書いた時のマルクスの考察の「その少なくない部分が未完成の、いわば研究途上の考察」だと思い込み、第五篇の草稿の全てを「研究途上の考察」に拡大する不破さんは、ここで、当時のエンゲルスも気づかなかったマルクスの「研究途上の考察」の例を出して、マルクスの革命的な精神をまったく理解できない〝大間違い〟をしてしまいます。

⦿不破さんは、マルクスを「研究途上の考察」を行う未熟な研究者にしたてあげるために、マルクスが書いた二つの手紙を抜粋します。

⦿しかし、これらの手紙は、経済現象の新しい発展による新しい理論的発展の問題を述べているのであって、マルクスの理論に欠けたところがあることを述べているのではありません。

⦿だから、不破さんがマルクスを「研究途上の考察」を行う未熟な研究者にしたてあげようとして使った手紙のもう少しあとには、次のように書いてあります。

「いまこの恐慌がどのように進展しようとも──その詳細な観察は資本主義的生産の研究者や本職の理論家にとってはもちろん最高の重要性をもつとはいえ──それは以前の諸恐慌と同じように過ぎ去るでしょう。そして、繁栄やその他のいろいろな局面のすべてを伴う新たな『産業循環』を開始するでしょう。」と。

※なお、不破さんが抜粋した二つの手紙の詳しい内容については、ホームページ4-27-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)」のPDFの21ページ以降を参照を参照して下さい。

⦿マルクスは、このように、資本主義的生産様式の社会での「産業循環」についての理解にたいする自身の揺るがぬ確信を前提として、よりリアルに資本主義的生産様式の姿を暴露するために、新しい理論的発展をもたらす経済現象の新しい発展の「詳細な観察」の重要性に着目しているのであって、成り行きまかせの「研究途上の考察」を行う迷える研究者などではありませんでした。

⦿不破さんは、暴露の絶好の機会を待つマルクスを理論的に未完成な人物なように描き、マルクスの草稿の完成度が低いのを良いことに、自分の誤った主張をマルクスのなかに潜り込ませようとして、「重要な論点で、考察が途中で終わっているところや、時には研究の方向がどこに向かっているのかもつかめない場合も出てきます」などと言いますが、私たちに残されたマルクス・エンゲルスの著作群は、そんな不破さんの誤った主張を見事に排除してくれます。

エンゲルスは〝第二五章〟を第五篇後半部分全体の導入とみました

 わざわざ「(8)信用制度下の利子生み資本(その一)」という「章」を設けての14ページ(P81-94まで)におよぶ長いエンゲルスとマルクスの悪口が終わって、やっと「(9)信用制度下の利子生み資本(その二)」(P94-104)という「章」の最初の「節」である「第二五章部分を読む」に入ることができました。

 しかし、この「第二五章部分を読む」も前の「章」に負けず劣らずあるのは悪口だけで、楽しみにしていた、「第二五章」の内容の「解説」などまったくありません。とにかく『資本論』にケチをつけたいとしか思えないような不破さんの、『資本論』の内容にもその現代的意義にも触れようとしない、「第二五章部分を読む」という詐欺まがいのタイトルの「解説」を見る前に、まず最初に、『資本論』に何が書かれているのかを見ることにしましょう。

 そしてその後で、現代に生きる私たちがそこから何を学び、不破さんが何を学ばなかったのかを見ていきましょう。

第25章の極々大雑把な概略

 第二五章は、『資本論』の第一草稿の「5)」の次のような冒頭のパラグラフから始まります。

信用制度とそれが自分のためにつくりだす、信用貨幣などのような諸用具との分析は、われわれの計画の範囲外にある。ここではただ、資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考慮しないでおく。」(大谷氏訳)

 この文章のエンゲルスの編集が、「古典」研究家の間で重箱の隅を突っつくような議論の的にもなり、そして不破さんもそれに悪乗りしていますので、一言ご説明させていただきます。

 ご覧のとおり草稿は、信用制度とその諸用具との分析は、「ただ、資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけ」に留め、その詳しい分析は「われわれの計画の範囲外にある」ことを述べています。だから、エンゲルスは草稿の「分析」を「詳しい分析」として、より分かりやすくしました。これが一点めです。

 つぎに、エンゲルスは「われわれはただ商業信用だけを取り扱う」というフレーズの「商業信用」という単語について、誤解を避けるために「商業・銀行業者信用」に変えた点に関してです。その理由は、上記の文章に続くパラグラフ(マルクスの草稿〔317上③〕)では「生産者や商人どうしのあいだの相互前貸」という表現で、本来の「商業信用」についての叙述があり、その次のパラグラフ(マルクスの草稿〔317上④および⑤〕)では「銀行信用」についての叙述があり、草稿の「5)」では商業信用(再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用)だけでなく、「銀行業者の信用」についてより立ち入って論じており、本来の「商業信用」だけを取り扱っているのではないこと、そして、『資本論』の第三〇章から第三一章に該当する部分では、同じ「商業信用」という単語を「再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用」の意味で使っているため、上記の場合の「商業信用」という単語について、誤解を避けるために「商業・銀行業者信用」に変えたのです。なお、この「商業・銀行業者信用」という言葉は「大月版」等では「商業信用と銀行信用」と訳されています。

 なお、大谷氏も、ここでの「商業信用」という単語は、「私的信用一般」を指していて、「再生産に携わっている資本家が互いに与え合う信用」だけを意味するものではないことを認めています。

 このように、これらのエンゲルスの補足編集は極めて適切なものと思われます。

 そして、上記の文章で始まった「第二五章」は、第三五章までの導入の「章」として、「銀行制度」の基での「信用」が〝貸付資本〟という「monied Capital」を生み出すが、それは「現実資本」ではなく「架空資本」であることをMEGAでいう「総論」部分と「補録」の約半分を使って、エンゲルスによって〝編集〟されました。

 第25章は、エンゲルスの補足によって「恐慌」にまで踏み込んでいますが、資本の行動を規定する「信用」の機能の説明とともに、第二二章の「(後の仕上げのための覚え書)」で簡単にふれられていたことと、第二四章の「利子生み貨幣資本」の「資本の神秘化」、あるいは、将来の儲けから現在の「資本」の価値をはかる、「資本」の「架空性と投機性」とが、資本の行動と「信用」の機能を通じて、資本主義的生産の循環過程を支配する様子が十分に展開されています。信用制度の確立の経過と役割及び信用制度の抱える資本(貨幣)創出機能、そのもとでの資本の行動について、マルクスの草稿の趣旨が十分に生かされた編集となっていると思います。

※なお、「第25章」のより詳しい概略等についてはホームページ4-27-4エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)」のPDFの20~26ページを、是非、参照して下さい。

⦿そして、これに続く「第二六章」は、第二五章の続きで、貨幣資本の蓄積に関する「通貨理論論評」等からの抜粋、それを受けての、大谷氏の言う「捜論」部分での、『銀行委員会』での問答の引用を通じての、ノーマンやオーヴァストーン(主としてオーヴァストーン)の言い分を批判していますが、「貨幣資本」とはどのような「資本」かということの理解を一層深めさせてくれるものとなっており、面倒かもしてませんが、是非、読んで下さい。

不破さんの「第二五章部分を読む」で読者が学んだこと

⦿それでは、『資本論』の以上の前提にたって、不破さんの「第二五章部分を読む」で読者が何を学ばされたか、一緒に見てみましょう。

⦿不破さんは、大谷氏の受け売りかどうか分かりませんが、マルクスは第五篇の後半部分全体に「5)信用。架空資本。」という表題をつけたのに、第二五章を「信用と架空資本」というのはおかしいと言い、「エンゲルスの誤った編集ぶりを示すもの」(P95)だと非難します。

⦿そのくせ自分では、「5)信用。架空資本。」の意味をしっかり説明しようという態度などまったくなく、マルクスの草稿の「未完成さ」を強調し、当てこするかのように、「マルクスがこの草稿の全体に、『信用。架空資本』という表題をつけた意図を推定するのはなかなか難しいことですが」などと、マルクス経済学に真剣に向き合おうとしているのか疑がわれるようなことを言い、「『信用』という言葉でこの部分で研究する経済的舞台を表現し、『架空資本』という言葉でそこで活動する主役──銀行に集積され、そこを通じて再生産過程に投入される貨幣資本(m)── を表現したものと理解することも、一案ではないでしょうか。」(P95)と、これでも『資本論』の「解説」者かと目を疑うようなことを述べます。

⦿実はこの理解が、不破さんの理解力の無さをよく示しており、大いに間違っているのですが、そのことはもっと後でふれます。

⦿不破さん自身は「マルクスがこの草稿の全体に、『信用。架空資本』という表題をつけた意図を推定するのはなかなか難しい」と第五篇全体が何を言っているか分からないくせに、エンゲルスの編集の結果、「『注』としての役割」を果たさない「意義不明の文章」が挿入されたり、「この章の本来の主題とはかけ離れた内容のもの」が含まれているなどと言ってエンゲルスを非難します。

⦿そして、不破さんは、「ですから、この章でのマルクスの考察の本旨を理解するためには、さきほど紹介した(それは、文章の内容の紹介ではなく、『資本論』に書かれている場所の紹介です──青山)四ページ半ほどの文章を読むことが重要なのです。」と言って、エンゲルスの努力を水泡に帰させようとします。

⦿続けて不破さんは、一部大谷氏の受け売りのようですが、「まず、最初の文章ですが、重要なことは」として、第二五章の草稿の最初のパラグラフでマルクスは「信用制度そのものの分析を研究対象としないことを言明している」のに、エンゲルスが「『立ち入った』という一句をくわえ、第五篇での分析の主題についてのマルクスの限定づけを、あいまいにし」たことは、「全体の論旨を読み誤らせる改作だ」と述べ、「信用制度についての解明は、利子生み資本──銀行に集積され再生産過程に投入される貨幣資本(m)の活動舞台として、必要な範囲内での概説にとどめられています。」と言います。

 ⦿先ほど「第25章の極々大雑把な概略」で見たとおり、エンゲルスは、論及はされているが「必要な範囲内での概説にとどめられている」から、「立ち入った」論究はしないと補足しているのに、不破さんは、ヤクザが因縁を付けるに等しいような非難をエンゲルスに浴びせます。

⦿そして不破さんは、「まず、」と言って第一の矢を放ちましたが、二の矢三の矢は見つからなかったらしく、不破さんの「第二五章部分を読む」は、〝打ち方止め!!〟となり、「全体の論旨」がどのように「読み誤ら」されたのかの説明責任も果たされず、「その性格付けを明確にして読むと、第二五章の四ページ半ほどの本文には、銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説が含まれていることがわかるとおもいます。」とまったく内容に触れない「解説」(?)が行なわれているだけで、真剣に科学的社会主義の経済学を学ぼうとしている人たちに向けての解説とは思えない「解説」をして「第二五章」を終えてしまいます。

⦿このように、不破さんは、①「全体の論旨」どころか、ここでの研究対象すら明確にせず「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」が「含まれている」としか言わず、②第二五章でのマルクス経済学としての内容・到達点など明らかにぜず、「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」とはマルクスのどのような論究だったのかもサッパリ分かりません。

⦿「マルクスがこの草稿の全体に、『信用。架空資本』という表題をつけた意図を推定するのはなかなか難しい」などと言っている人が第二五章の「全体の論旨」を語り、エンゲルスが「全体の論旨を読み誤らせる改作」をしたなどというのですから、不破さんが何を言うのか、ハラハラドキドキしてしながら待っていたのに、非常に残念です。

⦿しかし、このような人の責任編集のもとに「新版『資本論』」が刊行されるのですから、科学的社会主義の思想を学ぼうと思って購入された方は、十分注意してお読み下さい。

不破さんとエンゲルスの違い

⦿不破さんは、「マルクスがこの草稿の全体に、『信用。架空資本』という表題をつけた意図を推定するのはなかなか難しいことです」と、自分では「信用。架空資本」という表題をマルクスがつけた理由も分からないくせに、エンゲルスが第二五章を「信用と架空資本」の導入の章にするのは「エンゲルスの誤った編集ぶりを示すもの」(P95)だと言って、「第二五章部分を読む」の冒頭でエンゲルスを非難します。

⦿そして、不破さんは、資本主義的生産様式の社会における「架空資本」の役割についての考察など我れ関せずという態度でエンゲルスの編集を否定しておいて、「『架空資本』という言葉でそこで活動する主役──銀行に集積され、そこを通じて再生産過程に投入される貨幣資本(m)── を表現したものと理解することも、一案ではないでしょうか」と、「架空資本」は「再生産過程に投入される」ものという一面的で誤った認識を読者にもたせることによって、自らの無知を告白し、最後に、「第二五章」が「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」であるとの「解説」によって「第二五章部分を読む」は結ばれるのです。

⦿不破さんの「第二五章」への、このような接し方、学び方は、不破さんの現代の資本主義を見る目の狭隘さ──それは、不破さんが二一世紀になって発見した「恐慌の運動論」と一体の狭隘さの原因でもあり結果でもありますが、その説明はもう少しあとでおこないたいと思います。

⦿まず不破さんは、エンゲルスの編集は①「この章の本来の主題とはかけ離れた内容のもの」が含まれており、「この章でのマルクスの考察の本旨を理解するためには、」「四ページ半ほどの文章を読むことが重要」で、第二五章は「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」だと言います。

⦿しかし、「第二五章」は、エンゲルスの補足によって「恐慌」にまで踏み込んでいますが、第五篇のこれ以降の「章」の導入として、資本主義的生産様式のもとでの信用制度の確立の経過と「信用」の機能と役割について、「利子生み貨幣資本」の「架空性と投機性」とが資本の行動と「信用」の機能を通じて資本主義的生産の循環過程を支配し翻弄する様子について、必要な展開がなされており、マルクスの草稿の趣旨が十分に生かされた編集となっています。

⦿不破さんとエンゲルスと、どちらが『資本論』(経済学批判)として的を射ているかの判断は、読者の皆さんにお任せいたします。

⦿つぎに不破さんは、②「注」を本文の一部にしたために、「『注』としての役割」を果たさない「意義不明の文章」が挿入されたと言ってエンゲルスを批判しています。

⦿確かに、「注」を本文の一部にしたのですから、「『注』としての役割」を果たさなくなったのは確かです。しかし、「意義不明の文章」が挿入されたと言うのはあたりません。エンゲルスは、「第二五章」を第五篇の以降の「章」の導入の「章」として『資本論』の中に位置づけ、その骨格的な総論を充実させ豊かにする役割と意義をもつものとして、「注」を活用したのです。論より証拠、是非、読んで下さい。

⦿最後に不破さんは、③「最初の文章ですが、重要なことは」として、第二五章の草稿の最初のパラグラフで「分析」の前にエンゲルスが「『立ち入った』という一句をくわえ、第五篇での分析の主題についてのマルクスの限定づけを、あいまいにし」たことは、「全体の論旨を読み誤らせる改作だ」とヤクザまがいの「因縁」を付けています。

⦿これがいかに不当な攻撃であるかは、すでに見たおりです。

⦿私は、「立ち入った」にケチをつけ、マルクスの草稿と少しでも異なるとすぐ文句を言う不破さんが、「商業信用」という単語を変えてしまったエンゲルスにどのような反応を示すか、興味津々でした。

⦿しかし、「商業信用」については、なんの反応もありませんでした。エンゲルスを誹謗する材料にならない、自分の立場を不利にすることは、見ても目に入らないようです。けれども、不破さんが責任編集の「新版『資本論』」においてどのように訳されるのか、心配でなりません。

不破さんとエンゲルスの違いが現代を解明する違いとなる

⦿このように、「全体の論旨を読み誤らせる改作」などと言って、「第二五章」を「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」としか理解できない不破さんは、第二五章と第二六章をまともに読もうとしません。そのために、「架空資本」のもつ「架空」性を正しく理解することができません。

⦿エンゲルスも序文で述べているように、『資本論』第五篇は、「草案」も「筋書きさえもなく」、「ただ仕上げの書きかけがあるだけ」の草稿でした。そこでエンゲルスが最終的に決断した編集方法は、「覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっている」ものを含む「書きかけ」の草稿の「現にあるものをできるだけ整理することに限った編集」をおこなうということでした。

⦿だから私たちは、そのことを踏まえて、マルクスという偉大な先人の思考のあとを辿ってマルクスの経済学を前進させなければなりません。そのために、第二五章と第二六章はしっかりと読まれる価値のある「章」です。

⦿不破さんも、不遜な気持ちを捨て、そのような態度で『資本論』を読んでいたなら、「恐慌の運動論」なる視野の狭い考えに取りつかれずに済んだかも知れません。そして、この不破さんの「第二五章」への接し方、学び方が、不破さんの現代の資本主義を見る目の狭隘さ──それは、不破さんが二一世紀になって発見した「恐慌の運動論」と一体の狭隘さの原因でもあり結果でもありますが、──につながっています。

⦿不破さんは、『資本論』から真摯に学ぼうとせず、「架空資本」=「銀行に集積され、そこを通じて再生産過程に投入される貨幣資本(m)」(P95)あるいは「利子生み資本」=「銀行に集積され再生産過程に投入される貨幣資本(m)」(P98)という誤った認識を得てしまったために、「架空資本(「利子生み資本」)」の本当の姿、モンスター性を見ることができなくなってしまいました。

⦿「貨幣」はその使用法により、①生産的資本の循環過程の中にある「貨幣」としての「貨幣資本」と②「利子生み資本」として市場で需要と供給にもとづいて取引される「貸付可能な貨幣資本」(moneyed capial)という二つの異なる機能をもつ「資本」になることができます。株式や債券と交換された最初の「貨幣」は、一般的に、生産的資本の循環過程の中に入り「現実資本」(=実物資本=生産的資本)を形成します。不破さんは、このことだけを言っています。

⦿「利子生み資本」がモンスターとして、「架空資本」として魔力を発揮するのはここからです。この、市場に出た、所有権原を表す「株式」や「債券」は「利子生み証券」であり「架空資本」です。なぜ「利子生み証券」を「架空資本」と言うのかといえば、その「利子生み証券」の資本価値は、生産的資本の循環過程の中にある「貨幣資本」と違って、その請求権の市場価格で決まる幻想的な資本価値だからです。

⦿この「架空資本」の架空性が遺憾なく発揮されたのがリーマン・ショックでした。リーマン・ショックのそもそもの原因はサブプライムローンにあります。まずはじめに、サブプライムローンを使って住宅を購入した人の住宅の資産価値が上がったために、ローンを組んだ人が儲かるとともにそのローンを組み込んで作られた債券を買った人も「架空資本」のプラスの架空性の恩恵を受けて大儲けし、資産価値上昇の好循環が生まれました。そのために、内閣官房内閣審議官などを歴任した水野和夫氏などは、当時、『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(2007年)で先進国は資産価格を上げる政策を進めなければならないと主張するほどでした。しかし、それが永遠に続くわけではなく住宅の資産バブルがはじけ、その結果サブプライムローンを組み込んで作られた債券が「架空資本」の負の架空性を発揮して暴落し、リーマン・ブラザーズの経営破綻をきっかけに、資本主義の100年に一度の危機といわれるような「危機」に発展してしまいました。「利子生み証券」の「架空資本」としての「架空」性が遺憾なく発揮された出来事でした。

⦿なお、水野氏の名誉のために申し上げると、2007年に上記のような考えを持っていた氏は、『資本主義の終焉と歴史の危機』(2014年)では、まだ「資本主義の先にあるシステムを明確に描く力は今の私にはありません」とのことですが、資本主義の限界を悟り「資本主義の終焉」に行き着くところまで進歩しています。

⦿しかし、不破さんは、この「架空資本」が資本主義的生産様式における「産業循環」で果たす役割をまったく理解できません。だから、不破さんは、『前衛』(2015年1月号)で、リーマン・ショックについて、「架空の需要」が恐慌を生み出したこと、金融資産の規模が167兆ドルにのぼることを述べたあと、「この経済危機は、文字通り、『過剰生産恐慌と金融危機の結合』だったのです」と、二一世紀になって大発見した「恐慌の運動論」、つまり「架空の需要=恐慌」説で「説明(?)」しています。

⦿しかし、ご覧のとおり、リーマン・ショックが明るみに出したのは、かつての様な「架空の需要」にもとづく「過剰生産」などではありませんでした。

⦿このように不破さんは、二一世紀になって自ら発見した「架空の需要=恐慌」説にしがみつき、「架空資本」についてマルクスとエンゲルスが教えてくれた知見を学ぼうともしないために、現代を解明することができなくなってしまいました。

⦿なお、「架空資本」の架空性と同様なものとして、新会社を次々に作ってその将来価値を「時価会計」に計上して帳簿上の利益をあげるという、エンロンがおこなったような行為もあります。

※なお、不破さんの「恐慌の運動論」と「リーマン・ショック」についての詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、参照して下さい。

⦿このようにマルクスの観点で「産業循環」を見ようとする読者の目を、その入り口で、覆ってしまう悪質極まりない「解説」を行なう人が責任編集の「新版『資本論』」がマルクスの名をかたってどのように編集されるのか、心配でなりません。

第二七章でのエンゲルスに対する支離滅裂な批判

⦿本当に不破さんには困ったものです。不破さんは、エンゲルスに対する支離滅裂な批判を行ない、「第二七章」についての「解説者」としての責任を果たしていません。

⦿まずはじめに、「第二七章」で何が述べられ「第二七章」から私たちは何を学ばなければならないのかを見て、そのあとで、不破さんの第二七章でのエンゲルスに対する支離滅裂な批判の中身を見てみましょう。

「第二七章」で述べられていること、「第二七章」から私たちが学ぶべきこと

⦿これまで見てきたように、第二一章から第二四章が「利子生み貨幣資本」について、そして、第二五章から第二七章までが産業資本の発展にともなう「信用制度の発展」について書かれており、「第二五章」はエンゲルスの補足によって「恐慌」にまで踏み込んでいることを述べましたが、第二七章も、生産的資本を発展させるうえでの「資本主義的生産における信用の役割」について、「信用制度の発展」による他人の資本や他人の所有に対する絶対的な支配力の獲得による「資本所有の潜在的な廃止」についてまで論及しています。

⦿第二七章は、「信用制度に内在する」資本主義社会を(架空資本によって──青山)「最も純粋で最も巨大な賭博・詐欺制度にまで発展させて、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格」と、信用が社会的生産諸力と社会的生産の発展を促し「資本所有の潜在的な廃止」を進める「新たな生産様式への過渡形態をなすいう性格」という、「古い生産様式の解体の諸要素」と「新たな社会の形成要素」の発展とを述べて、「第二七章」は結ばれています。(大月版④P562-563参照。)

 是非、『資本論』を読んで確かめて下さい。

⦿不破さんの援軍であるはずの大谷氏も、「第二五章本文部分と第二七章とを『信用制度概説』としてつかんでみる」ことによって、「第二五章本文部分は、信用制度とはどのようなものかを述べ、第二七章はその信用制度がどのような役割を果たすのかを述べている」ことが分かると言っていますが、「第二七章」のテーマは「資本主義的生産における信用の役割」ですが、マルクスはしっかりと信用制度が「新たな生産様式への過渡形態をなすいう性格」と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということを述べ、「第三六章」の結びの文章で述べている、「資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろう」という認識と共通の問題意識を持って論を進めています。

⦿ですから、ここで、『資本論』の解説者なるものを名乗るのであれば、「古い生産様式の解体の諸要素」とは何なのかを、文脈のなかでしっかりと読者に示さなければなりません。

⦿「古い生産様式の解体の諸要素」とは、『資本論』の第一部で述べられている「私的資本主義的生産による『生産の無政府性』とその矛盾の現れである恐慌など私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾と労働者階級の運動の前進」のことであること、そしてそれを現代日本に移し替えて考えると、「私的資本主義的生産による『生産の無政府性』とその矛盾の」最大の「現れ」とは、一方の極での対外直接投資・証券投資の拡大──直接投資の残高は185兆円(2018年9月末)で直接投資の収益は10兆308億円(2018年)、証券投資の残高は473兆円(同年9月末)で証券投資の収益は9兆8529億円──であり、他方の極での「産業の空洞化」とそれがもたらす低賃金・不安定雇用・低生産性・少子化・社会保障制度の崩壊であり、それにもかかわらず「労働者階級の運動の前進」が実現していない最大の弊害は、「前衛党」を名乗る政党がマルクスの言う「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の水準に転落してしまっていることであること、このことを不破さんはしっかりと読者に説明しなければなりません。

⦿これらは、私たちが「第二七章 資本主義的生産における信用の役割」の学習を通じ、現代をしっかりと考えて、学ぶべき大切なことですが、不破さんは、「信用制度は、そのことによって(信用制度が生産の内在的な束縛と制限とを絶えず破り、生産力の物質的発展と世界市場の形成とを促進し、新たな生産形態の物質的基礎としてある程度の高さに達するまでつくり上げるということ──青山補足)、同時に、恐慌という矛盾の強力的爆発を準備し、資本主義的生産様式の解体を促進します」と宗教者の説教のように一般的抽象的な言葉を並べるだけで、この文章でマルクス・エンゲルスが私たちに訴えかけている、最も大切なこと(科学的社会主義の真骨頂)を語ることは、一切、しません。

⦿なお、不破さんがここで一般的抽象的なことしか言えない理由の一つに不破さんが二一世紀になって発見した「恐慌の運動論」の存亡問題がありますが、その説明は、次の「第三〇章~第三二章部分」の不破さんの「解説」の解説の中でおこないたいと思います。ご了承願います。

第二七章でのエンゲルスに対する支離滅裂な批判

⦿不破さんは、第二七章の「解説」の「信用問題のこれまでの考察の総括」という「節」の冒頭で、次のようにエンゲルスに噛みつきます。

「第二七章部分にエンゲルスがつけた『資本主義的生産における信用の役割』という表題は、これから踏み入ろうとする第五篇全体の研究の主題そのもの」なのに、「その本格的な研究に先だつ序章的な位置にある」第二七章を「資本主義的生産における信用の役割」というのは「あまり適切なものではありません。」(P98)と。

⦿しかし、このエンゲルスに対する不破さんの「噛みつき」は、先ほど見たように、第五篇全体のなかで占める第二五章から第二七章までの役割とその内容をまったく理解していないことを示しています。

⦿そして、何にでも噛みつく「噛みつきガメ」のように噛みつく不破さんは、〝むすび〟の部分のエンゲルスの編集に噛みついて、馬脚を現します。

⦿不破さんは、これまで見てきたように、「第二七章部分にエンゲルスがつけた『資本主義的生産における信用の役割』という表題は、これから踏み入ろうとする第五篇全体の研究の主題そのもの」と言っていましたが、今度は、「項」が変わった五ページ先では、「マルクスが研究の主題を『利子生み資本そのものの考察』と規定した」のに、エンゲルスの編集によって、「引き続き信用が研究の主題であるかのようにその規定をゆがめた言い換え」をされてしまったと言います。

⦿不破さんは、まず最初にエンゲルスを誹謗するために、「第五篇全体の研究の主題」は「信用」だと言っていたのが、今度はまたエンゲルスを誹謗するために、「引き続き信用が研究の主題であるかのように」言い換えたと言うのです。こんなご都合主義には、いつも鼎談に付き合う「介さん」「角さん」と思われる二人の人物以外は、誰もついて行くことはできないでしょう。

⦿この文章で、マルクスは、「利子生み資本そのもの──信用制度による利子生み資本への影響、ならびに利子生み資本がとる形態──の考察」、つまり、資本主義的信用制度のもとにおける「利子生み資本」の考察、つまり、資本主義的生産様式のもとでの〝架空資本〟の考察を行なうと言っているのであって、不破さんのように没歴史的な「利子生み資本そのものの考察」なるものを行なうなどと言っているのではありません。

⦿マルクスは、資本主義的信用制度と一体不可分なものとしての「利子生み資本」の考察をすると言っているのです。だから、不破のように、資本主義的信用制度を抜きにした「利子生み資本そのものの考察」なるものがマルクスの「研究の主題」ででもあるかのようにようにいうことは、それこそ、「マルクスの考察の本旨」を見誤り、第二五章から第三五章までを「信用。架空資本」としたマルクス・エンゲルスの意図に反するものと言えるでしょう。

⦿不破さんはエンゲルスの文章の言葉尻を捉えてエンゲルスにツバをかけようと天にツバして、『資本論』に書かれていることについての自らの理解力のなさを暴露してしまいましたが、悲しいかな、自分が天にツバしたことを気づかないようです。そうでなければ、恥ずかしくて、「新版『資本論』」の編集責任者になどなれないでしょう。

⦿なおここに不破さんのエセ「マルクス主義者」としての面目を躍如させる名文がありますので紹介します。

「信用制度が協同組合工場の発展を助けるというマルクスの予見は実現しませんでしたが、株式企業の通過点的意義についての予見がどういう意味をもつかは、今後の世界的な変革の展望のなかで試される問題点の一つとなるでしょう。」(P101)

⦿自分は科学的社会主義の思想を理解し、その実現のために心血を注いでいると信じている人で、この迷文を読んで、不破さんをエセ「マルクス主義者」だと思わないとしたら、残念ながら、もう一度エンゲルスの『フォイエルバッハ論』からでも科学的社会主義の思想を学び直した方がよいかもしれません。

⦿「株式企業の通過点的意義についての予見がどういう意味をもつかは、今後の世界的な変革の展望のなかで試される問題点の一つとなるでしょう」とは、恐れ入ります。

⦿不破さんの、エンゲルスを誹謗しつつ行なわれた、もっともらしい『資本論』からの抜粋と「解説」は、煎じ詰めると、①マルクスが明らかにした「株式企業の通過点的意義」についての「意味」などまったく分からず、②「株式企業の通過点的意義」とは「どういう意味をもつ」「予見」なのか「今後」「試される問題点の一つとなる」と言うのです。

⦿「賃金が上がれば経済はよくなる」といい、「自由の国」とは〝余暇〟のことだと言う「未来社会」論を得意になって吹聴している不破さんが、「今後の世界的な変革の展望」などまったくもっていないことは『前衛』2015年4-5月号の「論文」(?)で自ら告白していることですが、自分の無知をこれだけ立派な文章に仕上げることのできる希有の才能の持ち主であることには驚くばかりです。

⦿「無知」といえば、不破さんは「信用制度が協同組合工場の発展を助けるというマルクスの予見は実現しませんでした」と言い切っていますが、国家独占資本主義国の中国の『華為技術』や日本の各種「生協」などをどのように見ているのか、あるいは、何も見ていないのかは、『『資本論』探究〈下〉』の「マルクスと日本」に示された不破さんの見聞の広さからでも推し測る以外に、知る由もありません。

※なお、不破さんの『前衛』2015年5月号での発言の詳しい説明は、ホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」を、「自由の国」とは〝余暇〟のことだと言う不破さんの発言についての詳しい説明は、ホームページ4-26-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。

不破さんのマルクス経済学への理解度を示す第二八章と第二九章の「解説」

⦿それでは、次に、「(10)信用制度下の利子生み資本(その三)」(P104-115)という「章」の不破さんの「解説」を見てみましょう。 その際、私たちは、不破さんが21世紀になって発見した「恐慌の運動論」なるものが、マルクスの資本主義的生産様式のもとでの「産業循環」の捉え方のなかで、どのような位置にあり、マルクスの「産業循環」論とは何なのか、私たちは何を理解しどのようなエネルギーを貯えることになるのか、そのことを意識しながら、見てみたいと思います。

⦿まずはじめに、不破さんは、最初の「二つの『経済学的論評』」という「節」で、第二八章の「テーマは、トゥックとフラートンのあいだの論争問題」で、第二九章の「テーマは、銀行資本の主要成分が資金的な実態をもたない架空の資本であることの解明で、本論への予備的な性格をもった部分なので、」「説明は割愛」すると言います。

⦿不破さんは、『資本論』の第五篇の後半部分を理解するうえで、その助けとなるMEGAでいう「補録」部分を無視したために、「架空資本」の説明(P95)において「架空資本」が「再生産過程に投入される」などと、とんでもない「解説」を行なっていますが、ここでも、第二八章の「テーマは、トゥックとフラートンのあいだの論争問題」であり、第二九章の「テーマ」も先の「架空資本」のデタラメな説明で分かるから「説明は割愛」すると言うのです。

⦿不破さんは、エンゲルスを自分より低く見せようと虚勢を張るあまり、第五篇の後半部分を理解するうえで必要な「経済学的な論評」さえも、MEGAでいう「補録」部分と同様に無視してしまったようです。

⦿「説明は割愛」せずに、ちゃんと説明しようと考えて、第二五章から第二九章までを真摯な態度で読んでいれば、資本主義的生産様式のなかでの「産業循環」における「架空資本」の役割も多少は理解でき、二一世紀になって、周回遅れのラストランナーのように「恐慌の運動論」なるものなど「発見」しないで済んだかもしれません。

⦿なお、「第二八章」のテーマは「トゥックとフラートンのあいだの論争問題」などではありません。貨幣の機能についてのトゥックやウイルソンやフラートンの混乱した考えを紹介し、貨幣の機能について論及したもので、「第五篇」を読み進むうえで、理解をたすけてくれる、必要な「章」です。

※なお、若干の混乱も見られますので、別添のPDFファイル「『資本論』第三部28章とマルクスとエンゲルスと大谷氏」も、是非、参照して下さい。

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第三部28章と大谷氏.pdf
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⦿不破さんは、一方で、マルクスの産業循環の考察の一部を取りだして「恐慌の運動論」なるものをでっち上げておきながら、「第二九章」については、「架空資本」という言葉で、銀行に集積され、そこを通じて再生産過程に投入される貨幣資本(m) を表現したものなどと、「簡単に説明」(デタラメな説明──青山)をしたから、「ここでは、説明は割愛」すると、「架空資本」から読者の目を遠ざけようとします。

⦿しかし、「第二九章」は、銀行資本の構成について述べ、蓄積された貨幣資本の転化形態である「利子生み資本」の基本的な特徴を説明するとともに、貨幣市場の逼迫の時期には「利子生み資本」の価格は二重に下がり、資本主義的信用制度は対応できないことなど、「利子生み資本」の「架空性」等、第三〇章以降の展開のベースとなる大切な論及がなされています。

※なお、「第28章の要旨」、「第28章でしっかりつかんでおきたいこと」及び「『第二九章銀行資本の諸成分』の要約」と「これらを踏まえて、現代の私たちが留意すべき点」については、ホームページ4-27-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)」を、是非、参照して下さい。

不破さん、黙して語らず

⦿私は先に、不破さんが「信用制度は、そのことによって、同時に、恐慌という矛盾の強力的爆発を準備し、資本主義的生産様式の解体を促進します」と一般的抽象的なことしか言えない理由の一つに、「不破さんが二一世紀になって発見した『恐慌の運動論』の存亡問題がありますが、その説明は、次の『第三〇章~第三二章部分』の不破さんの『解説』の解説の中でおこないたいと思います。」とのべました。

⦿不破さんは、第三〇章からはじまる、信用制度のもとでの、「現実の資本」と「貨幣資本」の運動が織りなす産業循環についてのマルクスの論究をまえに、自論との折り合いをどのように付けたらよいのかわからず、立ちすくみます。

⦿不破さんは、「Ⅲ)部分を読む。利子生み資本と恐慌」という「節」で、第三〇章~第三二章の部分は「貨幣資本(m)の投入が再生産過程と恐慌の問題にどのような影響を及ぼすかを大きな主題とした」ものであるが、「ここでは、問題をとらえる筋道の基本点の解説にとどめます」と言ったあと、次のように述べて、マルクスの論究と自論との折り合いをつけようとします。

「貨幣資本(m)の投入が再生産過程、とくに恐慌問題におよぼす影響という問題の研究にあたって、マルクスは二つの視角をもっていたと思います。一つは、『流通過程の短縮』を主眼とする恐慌の運動論からの視角であり、もう一つは、先ほど見た、信用制度が過剰生産と過剰投機を激発する梃子となり、恐慌という形態での矛盾の強力的爆発を促進する、という視角です。」(P106)

 なお、不破さんは同じことを104ページでも述べています。

⦿二一世紀になって「恐慌の運動論」を発見して、資本主義観も革命観も変わった不破さんは、リーマン・ショックを含め何でもかんでも「恐慌の運動論」だと言っていたのが、マルクスの論究と自論との折り合いをつけようとして、急に、「マルクスは二つの視角をもっていた」と言い出しました。

⦿しかし、言っていることが無茶苦茶です。

⦿まずはじめに、不破さんは「貨幣資本(m)の投入が再生産過程、とくに恐慌問題におよぼす影響という問題の研究」と言っていますが、これまで何回か指摘してきたように、マルクスは「貨幣資本」の活動の場を「再生産過程への投入」に限った問題設定などしていません。

⦿マルクスは「monied capital」という言葉を主として「信用制度のもとでの貨幣市場での利子生み資本」という意味で使っています。銀行の貨幣資本(monied capital)は、当初、資本の循環形態に入る「貨幣」として産業資本家に貸し付けられた場合でも、その「証書」は「利子生み資本」という形の「架空資本」として貨幣市場で取引されます。このような事情からくる混乱を避けるため、エンゲルスは、「利子生み資本」となる銀行の貨幣を「貨幣資本」とドイツ語で表記しました。ですから、この場合の不破さんの言う「貨幣資本(m)」とは主として「利子生み資本」のことで、不破さんの言うような再生産過程にはいる「現実の資本」に転化する貨幣のみを指しているわけではありません。

⦿そして、「信用制度が過剰生産と過剰投機を激発する梃子となり、恐慌という形態での矛盾の強力的爆発を促進する」という「信用制度」の中身は、「第二五章」でのべられている、「流通過程の短縮」のための「生産者や商人どうしのあいだの相互前貸」から発展した「信用制度」の側面と、貨幣取引業の発展が利子生み資本の管理という「信用制度」のもう一つの面を発展させ、銀行の貨幣資本(monied capital)の「利子生み資本」という形の「架空資本」へ転化させた側面との両面を含んでいます。

⦿だから、「二つの視角」と言うのは誤りで、「『流通過程の短縮』を主眼とする恐慌の運動論」なるものは、「信用制度が過剰生産と過剰投機を激発する梃子となり、恐慌という形態での矛盾の強力的爆発を促進する、という視角」の一部を構成するものです。

⦿マルクスは「第二五章 信用と架空資本」と「第二七章 資本主義的生産における信用の役割」でそのことを述べているのです。だから、独立の「恐慌の運動論」なるものなど、存在しません。

⦿だから、不破さんがいくらマルクスの論究と自論との折り合いをつけようとしても、無理なのです。だから、不破さんはここで言っていること以外、マルクスの「二つの視角」について、まったく、語ることができません。黙して語らず、です。

※なお、不破さんの触れたくないマルクスの「産業循環」についての探究は、「第三〇章」を中心に各「章」のテーマとの関連で行なわれており、その都度触れていきますが、マルクスの産業循環の理論の可能なかぎりの「まとめ」と不破さんの言う「恐慌の運動論」の総括をホームページ4-27-6「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その6)〈完結篇〉──2003年にルビコン川を渡った不破さんの『資本論』変造の虚構──」で行ない、「恐慌の運動論」なるものを雲散霧消させています。是非、お読み下さい。

マルクスの考察の「解読」の「不破流の試み」

⦿このホームページは不破さんの「『資本論』探究〈下〉の「(7)第五篇。利子生み資本の研究」という「章」の検証から始まっていますが、不破さんはこの「章」の冒頭の文章で、「マルクスが、恐慌の運動論の発見を転機に、『資本論』の構想プランを変更し、これまで予定していなかった新たな分野に挑戦した」(P64)と述べています。

⦿これを読んだ「読者」は、普通、「恐慌の運動論の発見」がマルクスに「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」をさせるような「『資本論』の構想プラン」の「変更」を決意させたと理解し、不破さんが、「恐慌の運動論の発見」によってマルクスがどのような「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」し「『資本論』の構想プラン」をどのように「変更」したのかを説明してくれるものと思い、だから、このような断定的な言い方をしたのだと思ったはずです。もしも、そうでないとすれば、それはデマの刷り込みですから。

⦿ところが、このような「読者」の期待もむなしく、産業循環過程をつじて貨幣資本と現実資本とが織りなす資本主義的生産様式の経済・社会の発展を総合的に論究した第三〇章以降の解説について、不破さんは次のように言います。

「マルクスのここでの考察は、いろいろと錯綜しており、筋道をたどるのは容易ではありませんが、恐慌の運動論を基礎に置きながら、貨幣資本の投入がどういう状況の下で『資本のプレトラ』あるいは過剰投機といった事態を生み出し恐慌の様相を激化させるのか、という点に、研究の焦点の一つがあったことは、間違いないと思います。以下の説明は、その観点からⅢ)を解読する不破流の試みとして、読んでいただければ幸いです。」(P106-107)、と。

⦿このように、不破さんは、『資本論』の展開について、「恐慌の運動論の発見」によってマルクスが何か「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」したのでも、「『資本論』の構想プラン」を「変更」したものでもないことをあっさり認め、マルクスの「考察」は、「いろいろと錯綜しており、筋道をたどるのは容易ではありません」から、「恐慌の運動論の発見」によって「新たな分野に挑戦」したことも「『資本論』の構想プラン」を「変更」したことも考えずに、不破さんが「研究の焦点の一つがあったことは、間違いないと思」う観点(視点か?)から「不破流の試みとして」『資本論』を「解読する」というのです。

⦿ここで述べられている不破さんの観点(視点か?)が『資本論』の内容とはだいぶずれていますので、『資本論』で述べられている内容を、極々、簡単に説明します。

 第三〇章は、「産業循環」のなかでの「現実の資本」の行動と第二九章で見た「銀行資本の諸成分」の動きと信用の展開──商業信用と利子生み資本の膨張と収縮──について、主として論及したもので、まずはじめに、その前提としての、商業信用とその延長線上の「商業証券、手形」のより詳しい論述をしています。

 つぎに、「第三一章」は貸付資本の量、「貨幣資本の蓄積」の変化の原因と結果とその影響等を考察するとともに、貸付可能な貨幣資本の蓄積は、再生産過程の現実の拡大に伴って信用制度が拡張されるごとに、それにつれて増大せざるをえないことを述べています。

 「第三二章」は、貨幣資本の蓄積方法と産業資本家と貨幣資本家について、貨幣資本の過剰について、利子率について、逼迫期の貨幣資本と商品と恐慌について、そして最後にオーヴァストーンの誤りについて述べられています。

  そして、第五篇の最後の「第三六章」の最後の文章で、マルクスとエンゲルスは「結合労働の生産様式」の社会が「貨幣資本」のなくなった搾取のない社会であることを示しています。

 これらを通じて、「第五篇」学習の意義は、信用制度が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということの意味をしっかりつかむことと、「貨幣資本」の行動をしっかりつかんで余すところなく暴露することの必要性を理解することにあることを学ぶことになります。

⦿ですから、上記のような「不破流の試みとして」『資本論』を「解読する」ことなど、絶対にしないで下さい。

P107-112 不破さんの「Ⅲ)」(貨幣資本と現実資本)を読む

⦿不破さんは、まずはじめに、「第三〇章 貨幣資本と現実資本Ⅰ」の冒頭で述べられている「貨幣資本と現実資本」の論究のポイント等の「解説」を飛ばして、商業信用の分析と、この商業信用に本来の貨幣信用が加わった場合の論究の「解説」を行ないます。

⦿ここでの不破さんの「解説」で気になるのは、「この商業信用は、『流通過程の短縮』に直接かかわる信用です。」(P107)という文章と「マルクスは、この二回にわたる追跡作業(商業信用の詳しい研究とそれに本来の貨幣信用が加わった場合の研究のこと──青山)によって、信用制度が過剰生産、過剰投機の槓杆になるとすれば、その危険をはらむ中心点は、商業信用ではなく、銀行業者の信用のなかにあるという結論を引き出したようです。」(P109)という二つの文章です。

⦿随分あいまいな文章ですが、これらの文章と不破さんがこれまで言ってきたマルクスは「恐慌の運動論を基礎に置きながら」これらの問題を考察しているという「推測」とマルクスは「二つの視角」を持っているという「推測」との折り合いを、不破さんは、どう付けようとしているのか、是非、教えていただきたいものです。

⦿同時に、後半の文章には、不破さんが一貫して持っている認識能力の欠陥、物事を弁証法的、立体的に見ることのできない「二次元的」認識方法の欠陥がよく現れています。

⦿資本主義社会になって現れた〝恐慌〟が資本主義社会以前からある商業信用ではなく、資本主義的生産様式のもとにおける信用制度に決定的に依拠していることはあきらかで、言わずもがなですが、不破さんが「恐慌の運動論」を「発見」して何でもかんでも「恐慌の運動論」で説明しようとしているように、マルクスは「銀行業者の信用」を「危険」の「中心点」として捉えようなどとはしていません。

⦿マルクスは、「貨幣資本」と「現実資本」の運動をふくむ資本主義的生産様式における「産業循環」を総合的・立体的に論究しており、それこそが資本主義的生産様式の諸矛盾を正しくつかみ資本主義的生産様式を克服していくための唯一の道です。なお、「銀行業者の信用」は「信用制度」の一部ですが、「銀行業者の信用」と「信用制度」とはイコールではありません。

⦿つぎに不破さんは、本題の「貨幣資本の蓄積」、「貨幣資本」と「現実資本」の運動の問題に移り、まず最初に貨幣資本の源泉の主なものについて説明し、続けて、「第三二章 貨幣資本と現実資本Ⅲ(結び)」の中の、「再生産する資本家たちの一方の部分から貨幣を借りる銀行業者が、再生産する資本家たちの他方の部分にその貨幣を貸し、そこで銀行業者が福の神として現われ、それと同時に、この資本の処分権はまったく仲介者としての銀行業者の手に握られてしまうという形態」が現れる(大月版⑤P647)という文章の「それと同時に」以下を抜粋して、マルクスの「予見」(?)の見事さを賞賛します。

⦿なお、不破さんは「不破流の試みとして」貨幣資本の源泉についての「解読」をしていますが、「これまでに述べてきたことで最も重要なのは、収入のうち消費に向けられている部分の膨張はさしあたりは貨幣資本の蓄積として現われるということである。つまり、貨幣資本の蓄積には、産業資本の現実の蓄積とは本質的に違った一つの契機がはいるのである。」(大月版⑤P646)という、「貨幣資本の蓄積」を論究するうえで最も肝心な事実の一つである「産業資本の現実の蓄積」との関係についてはいっさい触れていません。

⦿そして、「(10)信用制度下の利子生み資本(その三)」という「章」の「解読」は、最後に、「マルクスは、さらに、これらの考察からの一つの結論として、信用制度下の貨幣資本(m)の蓄積が、再生産過程に何を引き起こすかに、論を進めます。」(P111)と述べて、「第三二章」の下記の文章の「……このような、」以下の文章を抜粋します。

「貸付資本の蓄積とは、ただ単に、貨幣が貸付可能な貨幣として沈殿するということである。この過程は、資本への現実の転化とは非常に違うものである。それは、ただ、資本に転化できる形態での貨幣の蓄積でしかない。……このような、現実の蓄積からは独立したものでありながらしかもそれに伴って現れる諸契機によって、貸付資本の蓄積が拡張されるという理由からだけでも、循環の一定の段階では絶えず貨幣資本の過多が生ぜざるをえないのである。そこで、また同時に信用の発達につれて生産過程をその資本主義的制限を乗り越えて推進することの必然性、過剰取引や過剰生産や過剰信用が発展せざるをえないのである。それと同時に、これはまた、つねに、ある反動を呼び起こすような形で起こらざるをえないのである。」(大月版⑤P649)

⦿不破さんは、この抜粋に続けて、「マルクスは、第二七章部分の後半で述べていたように、信用制度下の利子生み資本を研究するにあたっての最大の問題意識を、それが『過剰生産および商業における過度投機の主要な梃子』となり、資本主義的生産様式の『矛盾の暴力的爆発』をどのように促進するかの探究においていました。」と事実と違うことを「事実」のように言い、それを前提に『資本論』の「探究」「研究」目標をマルクスとは異なるものに設定した上で、「この点から見ると、研究はいよいよその問題に立ち向かう本舞台に来たと言えるのですが、草稿の続く部分では、この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません。」とマルクスの能力の無さを批判する「不破流の」「解読」の「試み」をおこないます。

⦿私は、この文章を見て唖然とすると同時に〝またか〟という不破さんにたいする強い失望感と憤りの念を禁じえませんでした。

⦿私は、不破さんとそのお友達の書いた文章を読む時は必ず「元」になる文章を読むよう、これまで、幾度となく警鐘を鳴らし続けてきましたが、誠に残念ながら、前掲の文章もそういうたぐいのものと言わざるをえません。

⦿不破さんは、相手を打ち負かす手段として、①事実と違うことを「事実」のように言う②目標を勝手に変えて相手を攻撃する、という方法を多用しますが、今回はその両方を連続的に使って読者に誤った情報を伝えています。

⦿第一に、不破さんは、マルクスが、信用制度下の利子生み資本が資本主義的生産様式の「矛盾の暴力的爆発」をどのように促進するのかを探究することが、研究するにあたっての最大の問題意識であると第二七章部分の後半で述べていた、と事実とまったく異なることを「事実」のように言います。

⦿もう一度、思い出して下さい。

 「第二七章」のテーマは「資本主義的生産における信用の役割」ですが、生産的資本を発展させるうえでの「資本主義的生産における信用の役割」について、「信用制度の発展」による他人の資本や他人の所有に対する絶対的な支配力の獲得が、「資本所有の潜在的な廃止」であり、「新たな生産様式への過渡形態をなすいう性格」をもっていることにまで論及します。そして、マルクスは、第二七章の最後で、「なお前もって次のことを言っておきたい」として、信用が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということを述べ、「信用制度」には、①資本主義社会を「最も純粋で最も巨大な賭博・詐欺制度にまで発展させて、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格」と、②「新たな生産様式への過渡形態をなすいう性格」との「二面的な性格」が「内在する」ことを述べています。

※詳しくは、ホームページ4-27-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)」の「第二七章でのエンゲルスに対する支離滅裂な批判」(PDFの32-37ページ)を、もう一度、見て下さい。

⦿不破さんは、マルクスが、信用制度下の利子生み資本が資本主義的生産様式の「矛盾の暴力的爆発」をどのように促進するのかを探究することが、研究するにあたっての最大の問題意識であると第二七章部分の後半で述べていたと言いますが、マルクスは、「同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進する」という「信用制度」の役割・意義を述べているなかで、「矛盾の暴力的爆発」という言葉を使っていますが、「矛盾の暴力的爆発」をどのように促進するのかを探究することが、研究するにあたっての最大の問題意識などではありません。

⦿マルクスは、そんな小さな人間ではありません。マルクスは、不破さんと違って、革命家です。マルクスはしっかりと信用制度が「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ことを述べ、「第三六章」の結びの文章で述べている「資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろう」という認識と共通の問題意識を持って論を進めています。

⦿このように、不破さんは、事実とまったく異なることを「事実」のように言います。

⦿このように、マルクス・エンゲルスが述べたのは、「信用制度」は「新たな生産形態の物質的基礎」をある程度の高さに達するまでつくり上げる」という「資本主義的生産様式の歴史的任務」と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」という「信用制度」の役割・意義についてです。

⦿不破さんは、この「信用制度」の役割・意義の重みをしっかり受け止めるべきなのです。ところが不破さんは、上記の文章から自分の主張に使えそうなフレーズを切り取って継ぎ接ぎして自分の考えに合わせて「不破流の」「解読」をして、それをマルクスが言っているかのように言います。

⦿そして次に、その創作にもとづいて目標を勝手に作って、「この点から見ると、研究はいよいよその問題に立ち向かう本舞台に来たと言えるのですが、草稿の続く部分では、この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」と、マルクスの無能ぶりを攻撃します。

⦿なお、私たちは、このあとすぐ、第三〇章以降に書かれていることを大雑把に見ていきますが、「草稿の続く部分」である「第三三章」を見なくても、「信用制度下の利子生み資本」が産業循環のなかでどのような役割を果たすか、したがってまた、「資本主義的生産様式の『矛盾の暴力的爆発』をどのように促進するか」の探究は十分に行なわれており、「草稿の続く部分では、この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」などという不破さんの誹謗も、また、事実と異なります。

⦿「第二八章」以降の『資本論』の探究の主眼は「貨幣資本」と「現実資本」のリアルな絡み合いを明らかにし資本主義的生産様式の矛盾を明らかにするとともに「新たな生産様式」の社会への展望を示すことでした。そのことによって、現代の私たちにも現代の問題を解決するヒントと展望を与えてくれることができるのです。

⦿「第三〇章」でも述べられている、「信用制度下の利子生み資本」が産業循環のなかで果たす役割には目もくれず、「草稿の続く部分では、この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」と言う不破さんは、マルクスは「恐慌の運動論を基礎に置きながら」これらの問題を考察していると言ったものの、マルクスの論究が不破さんからどんどん離れていくのが気に入らなくてこのようなことを言っているのでしょうか。それともマルクスよりも「偉く」見せようと虚勢を張っているのでしょうか。

⦿二一世紀になって「恐慌の運動論」を発見し、その結果「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたという不破さんならば、マルクスの理論的未熟さを責め立てるだけでなく、自らの〝独想的〟な考え──これまで、私たちを仰天させた、「自由の国」とは「自由な時間」のことで、〝余暇〟のことだとか、共産主義社会とは〝指揮者はいるが支配者はいない〟、生産現場でこういう人間関係をつくりあげることだとかいう──を読者の皆さんに披露し、私たちをアッと驚かせるべきではないのか。

⦿それとも、不破さんが依拠し、消化し切れていない大谷禎之介氏の『マルクスの利子生み資本論③』で、大谷氏がmonied capital(信用制度のもとでの貨幣市場での利子生み資本)と実物資本の蓄積の関係及びmonied capitalの量と貨幣量との関係について、マルクスの論究が不十分であることを述べ、「この点から見れば、第3部第5章(第五篇のこと──青山)のかなめである「Ⅲ)」での論述の完成度は低い、その意味で第3部第5章は未完成のままに終わっている、と言うことができるであろう。」(P400)と言っているのを見て、とにかく、「この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」などと同調しただけなのでしょうか。

⦿ここまでで、不破さんの「第三二章」までの「不破流の」「解読」の「試み」は終わり、最後に、また、噛みつきガメのようにエンゲルスに噛みついて、続く「第三三章」と「第三四章」にはいっさい触れずに、「第三五章」については、「引用ノート的な部分」と「本文の草稿」からなっているが「本文部分も端緒的な考察だけで終わっていますので、解説は割愛することにしました。」とのことです。

⦿こんな調子で「新版『資本論』」の編集が行なわれたのでは、マルクスが泣きます。そして、『資本論』などと言わないでくれ、と怒ることでしょう。

⦿「第三三章」から「第三五章」までの編集について、エンゲルスは序文で、「『混乱』からあとの、そしてすでにそれ以前の箇所で取り入れられなかったかぎりでの、すべてのこれらの材料から、私は第三三~三五章をまとめ上げた。」と述べていますが、前出の大谷氏も『マルクスの利子生み資本論④』で、第三三~三四章の編集について、次のように絶賛しています。ただし、「monied capitalの量と貨幣の量」との関係の問題の明確化等、その編集が完璧であるがゆえにマルクスの構想と異なるものになったとの「批判」もしていますが。

「エンゲルスが『混乱』および『混乱。続き』(および一部は「地金と為替相場」)から第33章と第34章をまとめた編集ぶりは、ただただ見事と言うほかはない。草稿のこの両方の部分を読んでみると、このような抜粋の集録からよくもあのようなまとまった二つの章が編成できたものだと思わずにはいられない。エンゲルスにしてできたこの作業によって、第3部の第5篇は、草稿の状態からは考えられないほどの完成度の高いものに仕上がったのである。読者に完成度の高い、完結した第3部を提供するという観点から見るかぎり、エンゲルスはまさに巨匠的な仕事をしたと言うべきであろう。」(P50)

⦿さらに大谷氏は、第三五章について、「草稿の状態から見ても草稿での記述の内容から見ても、この章立てに十分な理由がある。……ここからエンゲルスが、そのうちの圧倒的な部分を利用して第35章をつくったのは、マルクスの草稿の意図を実現したものであったと見て差し支えないであろう。」と肯定的、積極的に評価しています。

 不破さんとは雲泥の差があります。

おわび

 先ほど、「なお、私たちは、このあとすぐ、第三〇章以降に書かれていることを大雑把に見ていきますが、」と申し上げましたが、詳しくはホームページ4-27-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)」の「「第三〇章 貨幣資本と現実資本Ⅰ」の要約と現代の私たちが留意すべき点」の「項」以降のページを参照して下さい。

  申し訳ありませんが、紙幅の都合上、幾つかの点に触れるだけになりますが、ご了承下さい。

「第三〇章」と現代の私たちが留意すべき点

⦿第三〇章は、「産業循環」のなかでの「現実の資本」の行動と第二九章で見た「銀行資本の諸成分」の動きと信用の展開──商業信用と利子生み資本の膨張と収縮──について、主として論及したものです。

⦿資本主義的生産様式における産業循環は、ひとたび最初の衝撃が与えられてからは同じ循環が周期的に再生産されざるをえないようになっています。

⦿現代の産業循環においては、信用による価値実現の短縮(商品資本が最終的に売れていないのに貨幣資本となって価値実現されること)による架空の需要はかなりの程度コントロールされていますが、資本主義的生産様式の発展とともに増大し続ける市場で取引される「利子生み資本」の価格は、予想され前もって計算された収入──現代の会計の言葉でいえば、時価評価にもとづく時価会計によって計算された収入──によって規定されるので、資産価値の増大とリンクして相乗効果を発揮する「利子生み資本」=「架空資本」の価格の膨張が「産業循環」のピークを演出します。

⦿この点で、不破さんの言う「恐慌の運動論」なるものは、現実を正しく反映したものではなく、資本主義的生産様式の初期により多くの有効性をもつ考え方です。

⦿マルクスが「恐慌や思惑の最も有効な媒介物の一つ」と言った「銀行と信用」の一部を抽出して、価値実現の短縮による架空の需要が恐慌の元凶のように言う不破さんは、資本主義的生産様式の矛盾を正しく認識することがでにないので、次の「第三一章」の文章から、資本主義に対するとんでもない理解に到達します。

 次の「第三一章」をみるなかで、みなさんと一緒に見ていきましょう。

「第三一章」と現代の私たちが留意すべき点

⦿「第三一章」は貸付資本の量、「貨幣資本の蓄積」の変化の原因と結果とその影響等を考察するとともに、貸付可能な貨幣資本の蓄積は、再生産過程の現実の拡大に伴って信用制度が拡張されるごとに、それにつれて増大せざるをえないことを述べています。

⦿不破さんは、ここに出てくる「現実資本すなわち生産資本および商品資本の蓄積については、輸出入統計が一つの尺度を与える。そして、いつでもそこに示されているのは、10年の循環周期で運動するイギリス産業の発展期(1815-1870年)のあいだは、いつでも、恐慌の前の最後の繁栄期の最高限が、次にくる繁栄期の最低限として再現し、それからまたそれよりもずっと高い新たな最高限に上がって行くということである。」(大月版 ⑤ P641-642)という文章から、とんでもない勘違い、というよりも、マルクス経済学と科学的社会主義の思想の修正を行ないます。

⦿二一世紀になってニセ「恐慌の運動論」を発見した不破さんは、この文章からとんでもない勘違いをします。不破さんは、この文章から、『前衛』2013年12月号で、マルクスが、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がなく、資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」という資本主義観の大転換をしたと述べて、マルクスの経済学と科学的社会主義の思想の大修正を行ないます。

⦿不破さんは、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がない」と言い放ち、恐慌によって「資本主義の危機が深まるわけではなく」、恐慌は「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」と言って、「産業循環」を通じて、資本主義的生産様式の進展を通じて、深まっていく「資本主義の危機」を否定します。

⦿この不破さんの経済と社会の見方は、『資本論』で論及されているマルクス・エンゲルスの経済学と科学的社会主義の思想とを真っ向から否定するものです。

⦿「恐慌」と「利潤率の低下の法則」との関係についていえば、百歩譲って、不破さんが「古い地層」として切り捨てた第三部第三篇を除外して、『資本論』を一瞥しただけでも、「利潤率の低下の法則」のもとでの利潤率の変化が「産業循環」の各局面に作用し、「産業循環」形成の重要な要因の一つになっていることは明らかです。

⦿そして、「第二七章」で、信用が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」といことが述べられていますが、「産業循環」の最終局面である恐慌によってそのことが白日の下にさらされ、「資本主義の危機が深まった」ことが明らかになり、繰り返される「信用」の発展と「恐慌」の繰り返しのなかで、「資本主義の危機」はますます深まって行きます。

資本主義発展論者になった不破さんの〝危機〟への鈍感力

⦿しかし、「一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではない」、恐慌は「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」などとノー天気なことを言って、産業循環がもつ社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素」の促進という側面を見ることのできない、「資本主義の危機」を見ることのできない、不破さんの「鈍感力」は、リーマン・ショックが起きたときに、「『架空の需要』にもとづく生産の無制限的拡大とその破綻という過程が典型的に現われていた」などと言って、二一世紀になって自ら作ったドグマで現実の「資本」の動きを覆い隠し、ブルジョア経済学でさえ「100年に一度の危機」と色を失った資本主義の〝危機〟に際し、何事もなかったかのように平然と構えています。

⦿この何にも認識できない「現状認識」に基づいて、不破さんの強い影響力のもとにある「共産党」は、グローバル資本の行動とそれと並走する「架空資本」にはまったく対峙しない「暮らし応援の経済成長戦略」などという、資本主義擁護政党が国民を騙すために掲げるような「政策」を掲げて闘っています。

⦿しかし、リーマン・ショックは、日本の金融機関には幸い深刻な影響を与えませんでしたが、製造業に深刻な影響を与え、「産業の空洞化」した日本経済に大きなダメージを与え、同時に、100年に一度の危機といわれたリーマン・ショックは、一部御用学者、一部の新自由主義者にも大きな影響をあたえ、資本主義の擁護者たちの一部に、グローバル資本が支配する現代の資本主義を「たちいかない」ものと思わせるまでに「資本主義の危機が深まった」ことを示しました。

⦿国民大衆がラディカルに政治・経済・生活をつかむ貴重なきっかけの時期である〝危機〟のときに、「一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではない」などといって自らの任務を放棄し、「『架空の需要』にもとづく生産の無制限的拡大とその破綻という過程が典型的に現われていた」などとトンチンカンなことを言って、政府に「暮らし応援の経済成長戦略」への転換を求めて、こと足れりとする。これでは〝前衛党〟失格だ。

⦿そして不破さんは、マルクスが恐慌を経て資本蓄積が進み生産力が向上することを述べると、恐慌は「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」とマルクスが言ったと、恐慌が「資本主義の危機」をリセットして資本主義の経済的発展をはかるための出発点ででもあるかのように言います。不破さんは、「生産力の向上」を「資本主義の発展」に読み替えて、資本主義に屈服します。

⦿マルクスは、恐慌を経て資本蓄積が進み生産力が向上することを述べましたが、恐慌が「資本主義の危機」をリセットするなどと考えたことはありません。

⦿「一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではない」と「資本主義の危機」をわきにおいて、「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」などと言うことは、手放しの「資本主義発展論」です。

⦿このように、「資本主義発展論」に立った不破さんは、「ここでは、もう資本主義の見方も、革命の見方も変わっているのです」とマルクスを修正し、『賃金、価格、利潤』の要点の修正から始まって、日本共産党の毛沢東盲従一派との闘いの輝かしい歴史すら修正してしまいます。

※詳しくは、ホームページ4「不破さんの思い違い」の各ページを、是非、参照して下さい。

⦿なお、「第三一章」では、貸付資本の量は通貨の量とはまったく別であること、利子率の変動は貸付資本の供給によって左右されるが、この貸付可能な貨幣資本の量は、流通している貨幣の量とは違ったものであり、またそれにはかかわりのないものであることが述べられていますが、黒田日銀総裁の「黒田バツーカ」、異次元の金融緩和の無力さは、このマルクスの指摘の正しさを、見事に、証明しています。

「第三二章」と現代の私たちが留意すべき点

⦿「第三二章」は、貨幣資本の蓄積方法と産業資本家と貨幣資本家について、貨幣資本の過剰について、利子率について、逼迫期の貨幣資本と商品と恐慌について、そして最後にオーヴァストーンの誤りについて述べられています。

⦿マルクスは、「労働の社会的性格が商品の貨幣定在として表れ、したがって現実の生産の外にある一つの物として現れるかぎり、貨幣恐慌は、現実の恐慌にはかかわりなく、またはそれの激化として、不可避である」と言っていますが、資本主義的生産様式は商品生産の基礎の上に成り立つことによって、あらゆるものを「商品」にし「貨幣定在」にします。

⦿そして、資本主義の発展とともに「貨幣資本」も増大していきますから、恐慌の前の繁栄期には不動産を中心とする高額の「商品」はより高額になり、庶民ですら「借り入れた他人の資本そのもの」によって資産を形成して消費を拡大し、実体経済を拡大して「繁栄期」を謳歌します。(このことについては、「第三三章」P685でも触れられています。)それが崩壊したのが「リーマン・ショック」です。不破さんは、産業循環のほんの一部にしがみついて自論を展開するのをやめて、現実を直視すべきです。

⦿またこの「章」では、「労働力にたいする需要の増大」の効果が述べられていますが、私が「しつこく」日本経済の空洞化と「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」の「賃金を上げれば景気はよくなる」というグローバル資本の行動を見ない謬論を「口撃」しているのは、このことに根拠があります。そして、「日本経済の空洞化」を回復することは、労働者階級だけでなく、グローバル資本以外のすべての者にとって利益になります。

「第三三章」と現代の私たちが留意すべき点

⦿「第三三章」は、流通手段の節約と流通手段の量と利子率について、投機の時期の高い利子率について、恐慌のときの貨幣と信用について、そして、イングランド銀行の「資本」の創造とその力等について述べられています。

⦿「投機の時期の高い利子率」に関しては、「第三二章」も、もう一度参照して下さい。

⦿関連して、エンゲルスの挿入文に、つぎのような文章があります。

「恐慌が突発すれば、問題はただ支払手段だけである。……市場にある支払手段すなわち銀行券を求めてほんとうの障害物競走が始まる。だれもが手に入れられるだけの銀行券をしまいこんでしまい、こうして、銀行券はそれが最も必要とされるその日に流通から姿を消してしまう。」(P676 )

⦿この「エンゲルスの挿入文」そのままの事態が二一世紀になって起こりました。それは、2008年9月15日に米証券大手リーマン・ブラザーズ(総資産約60兆円)が経営破綻し、それをきっかけに、世界経済が「100年に一度」の「危機」に見舞われたときです。

⦿そのとき、日本銀行は、いつも通り、9月16日~17日に定例の金融政策決定会合を開き、金融政策の現状維持を全員一致で決めます。しかし、日銀は、その翌日、18日の午後3時から臨時会合を開き、白川日銀総裁は「非常に急なことでまことに申し訳なかった」と言って頭を下げます。日銀が通常の会合を終えたその翌日に再び政策委員を招集するのは、歴史上初めてのことです。中曽市場局長は「市場にショックの波が走っている。ドル資金の極端な抱え込みが市場を逼迫させている」と、市場でドルが枯渇するという異常事態が起きていることを説明します。この会合で、日米欧の主要6中銀で総額約19兆円のドル資金を市場に供給する協調策に日本銀行が参加することを決定し、白川総裁は「日本の金融機関の外貨繰りが急に逼迫している印象は絶対に与えない」と力を込めたといいます。

※この文章は、日銀が2019年1月29日に2008年7~12月の金融政策決定会合の議事録を公開したのにともなう『日本経済新聞』(2019年1月30日付け朝刊)の「特集」記事に依拠しています。

⦿なお、この時のトラウマがグローバル資本に内部留保を増やさせたという者もいます。

 リーマン・ショックは、信用・「架空の資本」による錬金術にもとづく需要創出とそれ無しには十分な経済の発展が図れない経済システムの矛盾を白日の下に晒しだしましたが、残念ながら日本の「革命党」にはマルクス・エンゲルスのような感受性と理性とエネルギーをもった指導者はいませんでした。

⦿第三三章を学び、実物経済と貨幣の量との関係をしっかり理解して、「諸商品の価格と諸取引の量」が同じなかで「通貨の絶対量」を拡大するアベノミックス・日銀の「量的緩和」政策をみると、それは、貨幣資本の過剰をもたらしマネーゲームの基盤を拡大させるだけで経済を根本から強くするものではないことがよく分かります。

⦿それは、マルクスの言う「寄生階級」の力を強め、資本主義的生産様式を「貨幣貸付業者や高利貸し」が儲かるようにますます歪めるだけです。

「第三四章」と現代の私たちが留意すべき点

⦿エンゲルスは第三部の「序文」で、「『混乱』からあとの、そしてすでにそれ以前の箇所で取り入れられなかったかぎりでの、すべてのこれらの材料から、私は第三三~三五章をまとめ上げた」と述べていますが、第三四章は「エンゲルスの加筆部分」がたいへん多い章で、エンゲルスの加筆によって一つのまとまった「章」に仕上げられています。

⦿「第五篇」のエンゲルスの編集について〝辛口〟過ぎる大谷氏も、先に見たとおり、〝ただただ見事〟と「評価」するほどです。

⦿「第三四章」は、「恐慌」と「貨幣」に対する誤った見方とそれに伴うイギリスの誤った「銀行立法」が恐慌を激化させたこと、その銀行立法によって誰がもうけたかということ、そして、マルクス・エンゲルスは「通貨主義派」でも銀行主義論者でもないこと等について述べられています。

⦿エンゲルスは、この派(通貨主義者)を批判するトマス・トゥックらの銀行主義論者たちも「貨幣と資本との関係がどんなにわかっていなかったか」については、再三、「第三部の第二八章で見てきたところである」ことを述べています。

⦿「第四四九六号。『旺盛な輸出について言えば、……国内の取引が沈滞していれば、これは必然的に旺盛な輸出を呼び起こす。』」(P723)という文章がありますが、私たちは小学生、中学生の頃から、「日本は資源がないから、輸出立国で生きる以外に道はない」と教え込まれてきました。この教育効果は絶大です。輸出中心の一本足打法の哲学が国民の意識に染みついています。

⦿だから、黒字がどんなに大きくなっても「輸出」を拡大し続けてきました。そのことをマルクスは皮肉まじりに「節度ある勤勉な国民は、奢侈にふける富裕な国民の需要を満たすためにその活動力を使用する。……貧しい国とは、そこの人民が安楽に暮らしている国のことであり、富裕な国とは、そこの人民が通例貧しい国のことである。」 (マルクス『剰余価値学説史』Ⅰ)と言いました。

⦿そして、「輸出」だけでは物足りず、一層の利潤の拡大を求めて国内の生産を縮小して海外での生産を拡大し、国内の「産業の空洞化」を危険水域まで推し進めてしまいました。

⦿その結果、疲弊しきった日本経済は資本主義的生産様式における「正常な」──労働者にも多少の潤いをもたらす「好況期」のある──「産業循環」すら実現することができなくなってしまいました。

⦿「貨幣」が不足していないのに、日銀が、国債を買うだけでなく株まで買って、市場にジャブジャブ資金を供給し、株高・資産高を起こそうと躍起になっていますが、成功する見込みはありません。そこまで、日本経済は弱体化し、疲弊してしまっています。

⦿私たちは、「市場にジャブジャブ資金を供給」する当面の政策を批判するだけでなく、そのような政策をせざるを得なくなった日本の経済・社会の姿を正しく国民に伝え、その変革の道を明確に示す必要があります。

「第三五章」と現代の私たちが留意すべき点

⦿この章は、中央銀行の金属準備と貨幣と信用、産業循環の中での貴金属の輸出輸入、「金属準備や為替相場と利子率」及び「利子率と商品価格」を扱っています。

⦿まず、私たちが留意すべき点は、「第三五章 貴金属と為替相場」においても、「金属準備」や「為替相場」や「利子率」等を資本主義的生産様式における「産業循環」のなかにしっかりと位置づけている点です。

⦿「恐慌」問題で「信用」にもとずく「価値実現の短縮」による「架空の需要」だけしか眼中にない不破さんとは大きな違いがあります。

⦿そして、この章で述べられている商品の価格と貨幣利子との関係については、もう一度しっかりと理解しておきましょう。ブルジョア経済学のエセ理論──経済成長のためには2%程度の物価上昇が必要だ、そのためにはマネーの供給量を増やす必要があるという──にもとづいて、いま、ヨーロッパやアメリカ、そして、日本の金融政策が実行されていることを再認識してください。

エンゲルスを誹謗しようとして、無知をさらけ出した不破さん

⦿さて、それでは次に、「恐慌問題。マルクスの文章のエンゲルスによる改作」という「節」の不破さんのエンゲルスに対する誹謗・中傷を見てみましょう。

⦿不破さんは、「なお、これまで見てきた部分に、マルクスの恐慌論、あるいは経済循環論のうえで重要な命題があるので、補足として、紹介します。」と、「恐慌問題」にかこつけてエンゲルスに噛みつき、「エンゲルスによる恐慌論の改変は、信用論のほかの箇所でも見られますので、要注意というところです。」と、まるでエンゲルスが不破さん同様のペテン師ででもあるかのような心象を読者に与えようとします。

⦿不破さんが噛みついた文章は、下記の文章の「すべての現実の…」以下の部分です。

「労働者たちの消費能力は、一方では労賃の諸法則によって制限されており、また一方では、労働者は資本家階級のために利潤をあげるように充用されうるかぎりでしか充用されないということにとって制限されている。すべての現実の恐慌の究極の原因は、やはり、資本主義的生産の衝動に対比しての大衆の窮乏と消費制限なのであって、この衝動は、まるでただ社会の絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのように生産力を発展させようとするのである。」(第三〇章、大月版⑤P619)

⦿不破さんは、草稿は、「すべての現実の恐慌の究極の原因は、どこまでも、一方では大衆の窮乏、他方では生産諸力を、その限界をなすものがあたかも社会の絶対的な消費能力であるかのように発展させようとする、資本主義的生産様式の衝動なである」となっていて、マルクスは、「『大衆の窮乏』を自分でつくり出しておきながら、そんな制限など存在しないかのように、生産諸力を無制限に発展させようとする『資本主義的生産の衝動』そのものに焦点をあてた、生き生きした、能動的な告発の文章となってい」るのに、「エンゲルスの改作版では、それが消えて、二つの矛盾する傾向を指摘するだけの静態的な文章に変わっています。」と言うのです。

⦿上記の文章は、言わずもがなだと思いますが、まさに「すべての現実の恐慌の究極の原因」を捉え、資本主義的生産様式の矛盾を暴露したもので、下記の内容を述べています。

 すべての現実の恐慌の究極の原因は、やはり、資本主義的生産の衝動──この衝動とは、まるでただ社会の絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのように生産力を発展させようとするところの衝動──に対比しての大衆の窮乏と消費制限──それは、労賃の諸法則によって制限され、それとともに、労働者は資本家階級のために利潤をあげるように充用されうるかぎりでしか充用されないということにとって制限されているところの労働者たちの消費能力の制限──なのである。

※なお、マルクスは、「社会の絶対的消費能力」と言っていますが「社会の絶対的生産能力」いうほうが正しいと思います。つまり、資本の無限の利潤拡大への衝動です。

⦿私は、大谷氏の『マルクスの利子生み資本論』(③P446)で草稿の日本語訳を読んだとき、「恐慌の究極の原因」をマルクスが「一方」と「他方」と言って強調して読者に明確に提示するのはいいが、「他方では」以下がエンゲルスの編集に比べわかりにくい文章だったんだなと思うとともに、エンゲルスの編集をもとにした日本語訳のわかりやすさに敬意を表した次第です。

⦿だから、不破さんの推奨する「すべての現実の恐慌の究極の原因は、」「一方では大衆の窮乏、」「他方では生産諸力を……発展させようとする、資本主義的生産様式の衝動なである」と書いてある『資本論』を読まされる人は、「一方では大衆の窮乏」に対応するものが「資本主義的生産様式の衝動」だというのを読んで、「資本の衝動」でも「資本主義的生産の衝動」でもない「資本主義的生産様式の衝動」とは何かと、悩まれることでしょう。

⦿そして、不破さんの言う、マルクスが、「『大衆の窮乏』を自分でつくり出しておきながら、そんな制限など存在しないかのように、生産諸力を無制限に発展させようとする『資本主義的生産の衝動』」そのものに焦点をあてたという表現は正しくありません。

⦿マルクスは、「恐慌の究極の原因」について、「一方」として「大衆の窮乏と消費制限」をあげ「他方」として「資本主義的生産の衝動」をあげていますが、「資本主義的生産の衝動」とは「まるでただ社会の絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのように生産力を発展させようとするところの衝動」のことで、不破さんのように「『大衆の窮乏』を自分でつくり出しておきながら、そんな制限など存在しないかのように」などという枕詞をつけることは問題を不正確にし、誤りです。

⦿「資本主義的生産の衝動」をそのままにしておいて、資本主義的生産様式をそのままにしておいて、「大衆の窮乏と消費制限」が改善されたとしても、「恐慌」が無くなるわけではありません。

⦿マルクスは、「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」が「労働者階級はそれ自身の生産物のあまりにも少なすぎる部分を受け取っているのだから、労働者階級がもっと大きな分けまえを受け取り、したがってその労賃が高くなれば、この害悪(恐慌──青山補足)は除かれるだろう」(大月版『資本論』第2巻P505~506)と考えることの誤りを指摘していますが、不破さんの上記のような表現は読者を誤った理解に誘うものです。

⦿そして、不破さんは、「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の仲間入りをして、「賃金が上がれば経済が良くなる」といって、「他方」の「資本主義的生産の衝動」の現れである資本のグローバルな展開を視野の外に置いてしまいます。

⦿不破さんは、このように「恐慌問題」にかこつけてエンゲルスに噛みつき、エンゲルスに対するいわれのない中傷をおこないましたが、畢竟、「不破さん」とは、マルクスのいう「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の一人であり、「恐慌問題」を正しく理解していない人であることを暴露しただけでした。

恥の上塗りをする不破さん

⦿それだけではありません。不破さんは、「エンゲルスの恐慌論について」という注意書きまでつけて、自分に都合の良いような「推測」という「偽情報」まで流します。「噛みつきがめ」のように噛みつく、不破さんの「推測」を見てみましょう。

 ⦿不破さんは、「エンゲルスは、恐慌の原因をもっぱら資本主義的生産の『無政府性』に求める、という独特の恐慌論をもっていました。(『空想から科学へ』など参照)。それが、ここに直接影響したとする証跡はありませんが、恐慌問題でのマルクスの文章を安易に書き換えてしまうという編集態度には、そのことも多少は影響していたかもしれません。」と、言います。

⦿あらゆる前提ぬきで、この文章を見ただけでも、この文章を書いた人は、科学的社会主義の思想からはほど遠いところにいる人だということがわかります。

⦿「証跡」がなくて類推するのであれば、少なくともエンゲルスが「恐慌の原因」を二つに明定した──不破さんは、そのことを「二つの矛盾する傾向を指摘するだけの静態的な文章」と言い、エンゲルスの「改作」という──理由を「資本主義的生産の『無政府性』」から理論的に導き出すくらいのことをするのは「科学」をかたる人の最低限の義務ではないでしょうか。

⦿しかし不破さんは、なんの根拠も示さずに「独特の恐慌論」をもっていたから「マルクスの文章を安易に書き換え」「たのかもしれません。」と言うのです。

⦿私たちは、こういうふうに、マルクス・エンゲルス・レーニンに対して「推測」という「偽情報」を好んで流す人たちのことを〝札付きの反共主義者〟と呼んできました。

⦿そして、不破さんは、エンゲルスが、「恐慌の原因をもっぱら資本主義的生産の『無政府性』に求める、という独特の恐慌論をもっていました」と言いますが、『空想から科学へ』を読めば分かるとおり、エンゲルスは「恐慌」を「生産手段の膨張力」が「資本主義的生産様式がそれにはめた束縛を爆破する」行為とみており、まさにここで述べられていることとまったく同じことを言っています。これがどうして、「恐慌の原因をもっぱら」生産の「無政府性」に求めていることになるのでしょうか。

※詳しくは、ホームページ4-14「☆科学的社会主義の旗を掲げて共に闘ったマルクスとエンゲルスが、経済(社会の土台)についての共通認識を持っていなかったという不破さんの無責任な推論」を、是非、参照して下さい。

⦿ただし、科学的社会主義の経済学は〝資本主義的生産の無政府性と私的性格〟とを生産の社会的性格が発展した資本主義的生産様式の致命的弱点、社会主義・共産主義の社会へのパラダイムシフトの最大の理由の一つと考えてきました。

⦿「われ亡きあとに洪水はきたれ!」(大月版『資本論』① P353、注解P15(79))、これは、資本家の行動原理です。

⦿「恐慌の原因をもっぱら資本主義的生産の『無政府性』に求める、という独特の恐慌論をもっていました」とエンゲルスの思想をねじ曲げる不破さんは、『前衛』2014年1月号で、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、上記のようなマルクスとエンゲルスの共通の認識を否定する、驚くべき発言をしています。

⦿「資本主義的生産の無政府性」の意味を理解できない不破さんのエセ「科学的社会主義」に騙されないために、資本主義的生産の無政府性についての『資本論』での論及と資本主義的生産様式がもつ二つの矛盾──マルクスの言う「基本的矛盾」とエンゲルスの言う「根本矛盾」──について、もう一度確認して下さい。

※詳しい説明を、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」で確認してみて下さい。

⦿「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の一人に成り下がった不破さんは、エンゲルスをターゲットにして、マルクスの言う「基本的矛盾」とエンゲルスの言う「根本矛盾」からエンゲルスの言う「根本矛盾」を削除し、マルクスの言う「基本的矛盾」を「利潤第一主義」に矮小化して、科学的社会主義の思想の修正を完了させます。

※詳しくは、ホームページ4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を、是非、参照して下さい。

第三部 第五篇「第三六章」

「第三六章 資本主義以前」は「利子生み資本」の一生を展望したもの

⦿不破さんの「(11)「資本主義以前」(第三六章部分を読む」(P115-118)という「章」の「解説」を見る前に、『資本論』第五篇最後の「章」、「第三六章 資本主義以前」を一緒に見ていきたいと思います。

⦿「第三六章」は、高利資本の存立条件、高利資本の存在形態、高利資本の社会的影響、信用制度のもとでの高利資本と信用制度のもとでの企業家支援、資本主義の発展にともなう信用制度の発展、あらためて、信用と貨幣との関係と信用制度のもつ意味について、そして最後に、資本主義的生産様式の産物としての信用制度が結合労働の生産様式の社会への槓杆になることに論及し「資本主義的生産様式が存続するかぎり、利子生み資本はその諸形態の一つとして存続する」ことを述べています。

⦿なお、「第三六章」での、資本主義以前のすべての生産様式のもとで高利が革命的に作用するのは、ただ、高利が所有形態を破壊し分解するからであるとの洞察は、まさに卓見です。

現代の私たちが留意すべき点

⦿そして、現代の私たちが留意すべき点として、「信用制度のもとでの企業家支援と高利貸し」の問題、「資本主義的生産様式の産物としての信用制度を結合労働の生産様式の社会への槓杆にする」問題、最後に、「『利子生み資本』の未来」について述べられているので、簡単に見ておきましょう。

⦿信用制度のもとでの企業家支援と高利貸し

 「財産はないが精力も堅実さも能力も事業知識もある一人の男がこのようにして資本家に転化することができるという」「経済学的弁護論者たちによって非常に賛嘆される」信用制度のもとでの起業家支援策や中小企業支援策は、資本による「支配の基礎を拡大して、それが社会の下層からの新鮮な力によって絶えず補充されることを可能に」し、「被支配階級の最もすぐれた人物を自分のなかに取り入れる能力が支配階級にあればあるほど、その支配はますます強固でますます危険なのである。」(P775)ことを述べていますが、それは、支配をますます強固にするだけでなく、国民に資本主義の幻想を植えつけるうえでも非常に重要です。私たちはそのことをしっかり見ておく必要があります。

 同時に、資本主義的生産様式の発展に寄与しない諸個人や諸階級の借入れにたいしては、利子生み資本は、資本主義的生産様式以前の時代の産物である「高利資本」の形態を保持していると指摘していますが、いかにも資本主義らしいご都合主義をあらわしています。

⦿資本主義的生産様式の産物としての信用制度を結合労働の生産様式の社会への槓杆に

 利子生み資本は発展行程そのものによって産業資本や商業資本に従属させられてきましたが、「信用制度はそれ自身一方では資本主義的生産様式の内在的形態であるとともに他方ではこの生産様式をその可能なかぎりの最高最終の形態まで発展させる推進力だということである。……この資本の貸し手もその充用者もこの資本の所有者でもなければ生産者でもないのである。このようにして信用・銀行制度は資本の私的性格を廃棄するのであり、したがって潜在的に、しかしただ潜在的にのみ、資本そのものの廃棄を含んでいるのである。銀行制度によって、資本の分配は、私的資本家や高利貸の手から、一つの特殊な業務として、社会的な機能として、取り上げられている。しかし、これによって同時に銀行と信用とは、資本主義的生産をそれ自身の制限を越えて進行させる最も強力な手段となり、また恐慌や思惑(詐欺的幻惑)の最も有効な媒介物の一つとなるのである。」(P782-783)と言います。

 このように、第五篇の最後の「章」である第三六章は、「第二七章」──大谷氏の言う「信用制度概説」──で述べられている、信用制度が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということということを、再確認しています。私たちは、この意味を、労働者階級・国民に分かりやすくしっかりと伝えなければなりません。労働者階級・国民をバカにして、「賃金が上がれば経済が良くなる」としか言わず、労働者階級・国民を眠り込ませる人たちは、科学的社会主義の思想とは無縁の人たちです。だから、そのような人たちは、ここで、いま私が述べているようなことなど一言も言おうとはしません。

⦿「利子生み資本」の未来

 「利子生み資本」の資本主義以前を一瞥してきた「第三六章」は、最後に、利子生み資本の未来を展望します。

 まず下記の文章をお読み下さい。なお、緑色の文字の部分は不破さんの「解説」で触れられていないところです。注目しておいて下さい。

「最後に、資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろうことは、少しも疑う余地はない。とはいえ、それは、ただ、生産様式そのものの他の大きな有機的な諸変革との関連のなかで一つの要素として役だつだけである。これに反して、社会主義的な意味での信用・銀行制度の奇跡的な力についてのもろもろの幻想は、資本主義的生産様式とその諸形態の一つとしての信用制度とについての完全な無知から生まれるのである。生産手段が資本に転化しなくなれば(このことのうちには私的土地所有の廃止も含まれている)、信用そのものにはもはやなんの意味もないのであって、これはサン・シモン主義者たちでさえも見抜いていたことである。他方、資本主義的生産様式が存続するかぎり、利子生み資本はその諸形態の一つとして存続するのであって、実際にこの生産様式も信用制度の基礎をなしているのである。」(P783)

 資本主義的生産様式から結合労働の生産様式の社会へ移行が行なわれるということは、信用制度の基礎をなす生産様式がなくなり、生産手段が資本に転化しなくなり貨幣が利子を生まなくなるということです。貨幣が利子を生むことを前提とする「信用制度」はもはやなんの意味もなくなります。つまり、第二八章で述べられている資本主義的生産様式のもとで貨幣がもっている、①流通手段、②価値表現、③「資本」の循環形態の一局面である「貨幣資本」、④利子生み資本としての「貨幣資本」という四つの機能から③と④の機能がなくなるということです。

 関連してマルクスは、「資本主義のではなく共産主義の社会(この場合の「共産主義の社会」とはいわゆる「社会主義社会」のこと──青山)を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる。」(大月版『資本論』③P385)と言い「社会的生産では貨幣資本はなくなる。社会は労働力や生産手段をいろいろな事業部門に分配する。生産者たちは、たとえば指図証を受け取って、それと引き換えに、社会の消費用在庫のなかから自分たちの労働時間に相当する量を引き出すことになるかもしれない。この指図証は貨幣ではない。それは流通しないのである。」(大月版②P437-8)と述べています。

 なお、この点について、私は、「資本主義のではなく共産主義の社会を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる」という社会において、それがまだ「社会主義社会」であり人間の労働に依拠した社会である以上、人間の労働に根拠をおく「価値表現」はなくならないし、その価値に根拠をおく「流通手段」も必要だと考えています。

 第五篇の最後の「章」の最後の文章で、マルクスとエンゲルスが示した「結合労働の生産様式」の社会とは、「貨幣資本」のなくなった搾取のない社会の姿でした。私たちはこの「貨幣資本」の行動をしっかりつかんで余すところなく暴露しなければなりません。

⦿これらから、「第五篇」学習の意義は、信用制度が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということの意味をしっかりつかむとともに、「貨幣資本」の行動をしっかりつかんで余すところなく暴露することの必要性を理解することあると思います。

⦿そして私は、「貨幣資本」の「資本」的性格をなくしていくその度合いは、「社会的生産」の意義を社会(国民)が認識していく度合いの深さに依存していると思います。

⦿最初は企業の純利益を「株主」と社会がどう分け合うのか、そして最後は「企業」は社会のなかでどんな役割を担うのかまでの「社会」と「企業」との関係は、社会の「社会的生産」の意義の認識の度合いの深さに依存していると思います。そしてこの「社会」と「企業」との関係は、「株式」の所有のあり方と「株式」の機能の変化を通じて変化していくものと考えます。

不破さんの「第三六章」の「解説」と「第三六章」の現代的意味

⦿これらを踏まえ、不破さんの「(11)「資本主義以前」(第三六章部分を読む」という「章」の「解説」を見てみましょう。

⦿不破さんは、「資本主義以前」つまり、資本主義的生産様式のもとにおける信用制度の成立史、「資本主義以前」をはしょって、あらためて信用と貨幣との関係そして信用制度のもつ意味について述べられているところから「解説」をはじめます。

⦿まず、「信用=銀行制度が果たす」「社会的機能」を列挙し、これらの機能によって、「資本主義的生産様式の運命にかかわる二面的な結果を引き起こす」ことが述べられ、「信用=銀行制度」について、「マルクスが、資本主義社会の内部で社会主義社会の諸要素を準備するものとして、特別の注意を向けている」ことを指摘し、「レーニンも注目」していることを述べます。

⦿そして最後に、この章の最後のパラグラフの一部をとりだして、「現代における社会変革の展望にも、多くの示唆を含む文章」であることを述べ、「信用=銀行制度」の研究が、「『資本論』全体のなかでも、未来社会について最も多くの示唆を含む篇の一つとなった」と言います。

⦿しかし、不破さんは、何をもって、「信用=銀行制度」の研究が、「『資本論』全体のなかでも、未来社会について最も多くの示唆を含む篇の一つとなった」と言っているのか、なんの説明もしていません。不破さんの頭の中には、ことばの遊び以外のものは詰まっていないようです。

⦿マルクスとエンゲルスは、第五篇までの第三部全体を通じて資本主義的生産様式に未来がないことを明らかにするとともに、この章の最後のパラグラフで、「未来社会について最も多くの示唆」ではなく、〝未来社会についての最も肝心な示唆の一つ〟を行なっています。

⦿しかしそれは、最後のパラグラフで不破さんが省略した部分──上記の緑色で書かれた文章──に書かれています。

⦿不破さんが省略した部分に書かれている「利子生み資本」のもつ究極の意味を不破さんが理解できず、スルーしてしまったのは、「第三六章 資本主義以前」の「解説」で、「資本主義以前」をはしょってしまった不破さんへの、天罰なのでしょうか。

⦿「資本主義以前」をはしょって、資本主義以前と資本主義的生産様式での「利子生み資本」のもつ意味を理解できない不破さんは、〝未来社会についての最も肝心な示唆の一つ〟をおこなっている文章を省略してしまいました。

⦿このような『資本論』の理解力の人が責任編集の「新版『資本論』」が、どのように編集されるのか、本当に、心配でなりません。

⦿なお、不破さんは『経済』2000年2月号で、上記の「とはいえ、それは、ただ、生産様式そのものの他の大きな有機的な諸変革との関連のなかで一つの要素として役だつだけである」という、しごく当然な文から、レーニンにとんでもない攻撃をくわえ、自からの認識能力のなさを暴露しています。

※詳しくは、是非、ホームページ4-12「☆不破哲三氏によるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲」をお読み下さい。

以上が、不破さん責任編集の「新版『資本論』」の第三部第五篇を読むに当たっての留意点です。

⦿なお、この章の中で、マルクスがサン・シモンについて、オーエンと対比して、厳しい評価をしていることに関して、サン・シモンに対するマルクスのその後の評価を踏まえ、エンゲルスは文中の「注」で、マルクスへの優しいまなざしをもって、訂正しています。このことを不破さんは『前衛』2014年1月号で「相当なサン・シモンびいきでしたね。」(P89)とエンゲルスを嘲笑しています。

⦿また、エンゲルスが不正確な表現を用いた場合(『国家と革命』国民文庫P98参照)でも、レーニンはそれを責めることなどしていませんが、不破さんは、議会を通じての「革命」などできない情勢、歴史的な時期に、そのことを明確にしたレーニンの文章の一部を抜き出してレーニンを全否定し、悪口を言います。

⦿この不破さんのレーニンに対する態度は、共産党が科学的社会主義の立場に立っていて元気だった頃、「毛沢東一派」と闘った「4.28論文」のスタンスとはまったく異なりますが、不破さんは、2017年8月1日から14回にわたって『しんぶん赤旗』を占拠して掲載した「『資本論』刊行150年に寄せて」という科学的社会主義の思想の「修正」文章の第9回「マルクスの未来社会論(1)」で、共産党が輝きを増してきた60年代後半の理論的到達点(「4.28論文」)を否定して「レーニンの誤解をただし」たなどと真っ赤なウソをつきます。

※詳しくは、ホームページ4-26-3「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その3)」を、是非、お読み下さい。

⦿このように、マルクスのサン・シモンの評価へのエンゲルスの優しいまなざし、レーニンのエンゲルスへの優しいまなざし、これらと不破さんのマルクス・エンゲルス・レーニンへの接し方とは、大きく異なります。

⦿どうして、不破さんは、同志的なあたたかい眼差しでエンゲルスやレーニンを見ることができないんでしょうか。それは、不破さんにとっては、同志ではないからなのでしょうか。

さて、いよいよ次回は『資本論』最後の第三部「第六篇」と「第七篇」です

 予告編として、「新版『資本論』」の責任編集者である不破さんの「『資本論』第三部を読む」の「第六篇 超過利潤の地代への転化」と「第七篇 諸収入とその源泉」とに関する不破さんのビックリ発言の幾つかをピックアップしてみました。

ビックリ「発言」その1

☆不破さんは『資本論』の地代論について、資本主義的生産様式のもとでの「土地所有の不合理」についての「解説」などなにもせず、「第六篇」を「かなり無理筋の計画」とか「マルクス自身、満足のゆくような解決にはまだ到達していなかった」とか言って非難します。

ビックリ「発言」その2

☆不破さんは「第七篇」を、「スミスのドグマ批判」に矮小化し、「三位一体的定式」についてのマルクスの騙されないための科学的な見方の論及に「うんざりしていた」と言い放ちます。

ビックリ「発言」その3

☆「第七篇」のなかにある「必然性の国」と「自由の国」とに関するマルクスの有名な文章の「解説」もせずに、マルクスの突然の「ひらめき」のように言い、マルクスの「共産主義社会」の「第一段階」と「より高度の段階」という区別を否定するために、レーニンが「独特の二段階発展論をつくりあげてしまった」と言ってレーニンを非難します。

ビックリ「発言」その4

☆不破さんは「第五一章」の中の有名な文章について、「社会変革の歴史的必然性について記述した、『資本論』全体のなかでもっとも重要なものの一つだと思います」と言うが、その「解説」もせず、この文章が、不破さんが二一世紀になって否定することとなった、「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」をいい表したものであることを黙殺します。

ビックリ「発言」その5

☆不破さんは、「第五二章」の解説で、〝社会の変革〟のための革命の展望など一切語ることができませんが、「マルクスは、未来社会論のこの本論は書かずに終わりましたが、……未来社会論を理論的に完成させ、さらにはその実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す、ここに、マルクスのあとを継いだ後世に活動する私たち自身の任務があることを、ここでも痛感するものです」と述べて、「自由の国」を資本主義社会の「余暇」にまで発展させた不破流「未来社会論」の「本論」の「実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す」ことを宣言します。

  こんな不破さんにだまされないために、是非、AZ-4-6「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(完結編)」をお読み下さい。