4-19

☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。

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目次

Ⅰ、要約

Ⅱ、詳しく見てみましょう!

1.不破哲三氏の言う、マルクスの革命観の大転換と資本主義観の大転換の内容

2.不破哲三氏の「マルクスの恐慌論を追跡する」を追跡する

 A.恥ずべきはずのことまで自慢する不破哲三氏

 B.不破哲三氏は深い思慮をもって、レーニン全集をもう少し先まで読み進めるべきだっ    た

  C.「これまでの恐慌論」とは、不破哲三氏が創作した「恐慌=革命」説なのか

   ・「これまでの恐慌論」とは、恐慌とは

  D.恐慌とはなにか、マルクス・エンゲルスの言葉を聞いてみよう

  E.マルクス・エンゲルスの言葉の抜粋のまとめ

3.「恐慌=革命」説とはマルクス・エンゲルスの思想なのか、それとも不破哲三氏の創作  か

  A.資本主義社会の発展段階を無視した不破哲三氏の「恐慌=革命」説は歪曲か創作か

4.不破哲三氏の「利潤率の傾向的低下の法則」に対する無理解

  A.マルクスがかわいそう

  B.「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ意味

    ・マルクス・エンゲルスの言葉を聞いてみよう

    ・マルクスから学び、現代的な意味を考える

  C.マルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」を理解できない不破哲三氏は、マルクスを    自分の自己顕示欲のレベルまで引き下げた

5.マルクス・エンゲルス・レーニンの頭と心でいまの日本を見る

6.不破哲三氏は、歪曲と捏造で、マルクスを観念論者に仕立てあげる

  A.不破哲三氏は自分の偏見と自己顕示欲から、マルクスの経済学を「現実離れした」教    義に変えてしまった

  B.マルクスは「経済恐慌やバブル現象を小資本の冒険のせい」だなどと言っていない

  C.マルクスは「経済恐慌やバブル現象に、大資本に責任がない」などと言っていない

  D.不破哲三氏は自分の「立論」の仕方に似せてマルクスを描くのか

7.マルクス・エンゲルスの研究態度と私たちが学ぶべきこと

8.不破さんの誤りの原因は、弁証法の無理解なのか、「自己顕示欲」病のせいなのか

9.マルクス・エンゲルスが教えた資本主義的生産様式における景気循環・恐慌の意義

10.「現代の経済現象」を「架空の需要=恐慌」説で説明する不破哲三氏の時代遅れの一面性

  A.リーマン・ショックは、不破哲三氏の言う古典的な「架空の需要」が原因ではない

  B.資本のためのグローバル経済の今日の特徴

 C.不破さんの「補論」には、肝心な、「諸国民の生活を豊かにするためのグローバル経  済のあり方」がない

  D.諸国民の生活を豊かにするためのグローバル経済のあり方

  E.「補論」についての、青山の感想とまとめ 

    ・「補論」についての感想

    ・「補論」に関するまとめ                                  

11.不破さんの言う、マルクスの「革命観の大転換」と「資本主義観の大転換」は真実か

  A.マルクスは革命が無準備のままで始まるなどと考えたことはないし、私たちもそう考

  えたことなどない

  B.変わったのはマルクスではなく、不破哲三氏ではないのか

このページの参考資料として。

レーニン『我が党の綱領草案』(1899年末に執筆)

『アンテグラリスト社会主義者』

ホームページ「国際社会とどう向き合うか」の原稿

〈要約〉

不破哲三氏はマルクスの恐慌論の転換が資本主義観の大転換をもたらし、革命観の大転換をもたらしたと言う

①マルクスは、恐慌論の転換を行うまでは「恐慌と革命の相互作用によって資本主義社会の変革の時代が始まる」と思っていた。「この見方を、『恐慌=革命』説と呼ぶこと」とする。

 不破さんは、マルクスの恐慌論について、『前衛』2014年12月号と2015年1月号で「マルクスの恐慌論を追跡する」と題して、「恐慌と革命の相互作用によって資本主義社会の変革の時代が始まるのだ──これが、マルクス、エンゲルスが当時の革命経験から引き出した資本主義社会の『必然的没落』の理論でした。この見方を、『恐慌=革命』説と呼ぶことにします」(12月号P25)と述べ、「マルクスは、利潤率低下の法則のなかに資本主義の『必然的没落』の最大の根拠を求め、そのことを背景として恐慌が反復し、そこから『資本の強力的な転覆』をもたらす社会変革の過程が始まるという見方を、それまでの資本主義的生産の分析から引き出される決定的な結論として、展開したのでした」と言います。

②マルクスの「恐慌」の見方が変化し、資本主義観の大転換と革命観の大転換が起きた。

 そして、不破さんは『前衛』2013年12月号(P97)で、「マルクスは、はじめは恐慌が必ず革命を生むと考えてい」たが、「革命観に大きな転換が起き」、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」と思うようになった、とマルクスの革命観の大転換について述べ、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がなく、資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」と、マルクスの資本主義観の大転換がおこなわれたことを述べています。

③その結果、マルクスの労働運動(社会を変革する運動)の捉え方が、「労働者の自覚の成長・発展を軸に社会変革」を行うという「新しい見方」に変わった。

 その結果、「ここでは、もう資本主義の見方も、革命の見方も変わっているのです。その立場から、労働者の運動が資本主義を変革する運動に発展する道筋についても、そういう闘争を積み重ねるなかでの労働者の自覚の成長・発展を軸に社会変革が日程にのぼってくるという新しい見方が、短い言葉できちんと説明されています」(P98)と不破さんは言う。

上記の不破さんの主張を検証してみよう。

不破哲三氏の言う「恐慌=革命」説は不破氏の創作で、マルクスとエンゲルスに「革命観の大転換と資本主義観の大転換」などなかった

 上記のように、不破さんによれば、1865年まではマルクスは大馬鹿者で、不破さんは21世紀になってそれを大「発見」したと自慢しています。しかし、結論から先に言うと、上記の不破さんのマルクスの「論究」は100%誤っています。

①マルクスもエンゲルスも「恐慌」は「政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と考えていたが、「革命」は「恐慌」によってのみ起こるなどとは考えていませんでした。つまり、「恐慌=革命」説などとっていませんでした。また、マルクスとエンゲルスは労働者の闘争の本当の成果は労働者の団結であることを『共産党宣言』でも訴えており、労働者の自覚の成長・発展をおろそかに考えていたことはありません。そして、マルクスとエンゲルスは「恐慌」を含む資本主義の歩みの一歩一歩が資本主義の矛盾を深め労働者の団結を拡げ社会主義社会への物質的基礎を準備するものと考えていました。

 私たちが学んできた──『科学的社会主義』(1977年)と『社会科学事典』(1978年)で説明されている──「これまでの恐慌論」は、マルクス・エンゲルスの思想に依拠しています。

 マルクスもエンゲルスも「恐慌」は「政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」が「そのあとの繁栄の回帰は、革命を挫折させて反動の勝利を基礎づける」ものであると考えており、恐慌は「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点」となるとともに、労働者の団結と社会主義社会への物質的基礎を一歩一歩準備するものと考えていました。そして、マルクスとエンゲルスは、労働者の闘争の本当の成果は労働者のますます広がっていく団結であることを『共産党宣言』(1847年)でも訴えており、空想的社会主義を乗り越え、無政府主義者とも闘ったマルクスとエンゲルスは、労働者階級の歴史的使命を発見し、私たちに革命を組織することを訴え続けました。私たちもマルクス・エンゲルスから、それを学び、ずーとそのように考えていました。不破さんはマルクスとエンゲルスがなぜ『資本論』を書いたかをまったく理解できていなかったようです。

 このように、マルクスもエンゲルスも、不破さんのいう「恐慌=革命」説などとっていませんでした。不破さんがマルクスの考えとする『恐慌=革命』説は、不破さんの創作です。

不破さんが創作した「恐慌の運動論」なるものは、〝資本の現象的な流通形態から〟の恐慌の説明を、資本主義は発展し続けるという資本主義弁護論の視点から見たもので、マルクス・エンゲルス・レーニンの視点とは根本的に異なります。また、不破さんは〝神の手〟を使ってマルクスを断罪し、「政治的変革の槓杆」に何がなるかということと革命期の政治情勢がどのようなものであるのかというまったく関連のないことを結びつけてマルクスが誤ったことを主張していたかのような創作をする。

 不破さんが21世紀になって発見したという「恐慌の運動論」なるものは、〝資本の現象的な流通形態から〟恐慌を説明したもので、私たちには既知のものです。しかし、不破さんの発見した「恐慌の運動論」なるものは、恐慌を「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」「一局面」としか見ず、資本主義が進むにしたがって深まり拡大する資本主義的生産様式の矛盾を見ることがでません。

 この不破さんの「恐慌の運動論」の発見・創作によるマルクスの「資本主義観の大転換」は、「恐慌」を「政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と捉えるマルクス・エンゲルスの従来の考えを否定するものです。不破さんとマルクス・エンゲルスとの違いを覆い隠し、「資本主義観の大転換」による「革命観」の大転換を証明するために、不破さんは、得意の〝神の手〟を使います。〝神の手〟とは、埼玉県教育委員会のある職員が秩父原人が居ることを証明するために自ら証拠品を埋めてそれを発掘したことから、自分で証明すべきものを捏造して証明して見せるというトリックのことで、不破さんがよく使う「手」です。今回は、マルクスの考えを「恐慌と革命の相互作用によって資本主義社会の変革の時代が始まるのだ」と捏造したうえで、マルクスは「恐慌=革命」説に立っていたというレッテルを貼りました。

 同時に、マルクスとエンゲルスが、「恐慌」を「政治的変革の最も強力な槓杆のひとつ」として社会変革の必要性を訴えたということとまったく関連のない、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まる」という不破さんが作った「革命観」を結びつけて、労働者階級の団結なしには社会変革は成功しないというマルクス・エンゲルス・レーニンがもっている革命観を否定しておいて、マルクスに「革命観に大きな転換が起き」たなどと言ってマルクスの革命観の大転換をでっち上げます。

 このように、マルクスもエンゲルスも「資本主義の見方も、革命の見方も」変わっていませんが、不破さんの発見した「恐慌の運動論」なるものから導きだされる不破さんの「資本主義観」と「革命観」に箔を付けるために、マルクスはいじり回さされます。よくもこのような創作ができるものだと、驚くばかりです。

 不破さんの発見した「恐慌の運動論」なるものは、恐慌を「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」「一局面」としか見ず、恐慌の原因を「架空の需要」に求め、不破さん流にいえば、「架空の需要=恐慌」説とでもいうべき誤った「大発見」であり、マルクスの経済学も『資本論』も台なしにするものです。

マルクスの経済学を忘れ、〝資本の運動〟を見ようとしない不破さんは、今日の資本主義を把握できないし、把握しようともしません。

 そして不破さんは、「恐慌の運動論」にかこつけて、「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ重要な意味をも葬り去ろうとします。しかし、剰余価値の発見によって証明された「利潤率の傾向的低下の法則」は、日本における「資本主義的生産の役割の終了」を国民に説明するための、ブルジョア経済学者も認める、重要な武器です。

 「恐慌の運動論」なるものを発見した不破さんは、マルクスの経済学と唯物史観を忘れ、資本主義の構造問題──資本主義的生産様式から起因する諸矛盾──から私たちの目をそらさせ、「賃上げ」と「バリケードづくり」にのみ労働者・国民の目を向けさせようとします。

 「恐慌の運動論」なるものを発見した不破さんは、リーマン・ショックについても、先進資本主義諸国の成長の限界とそのもとでの資本の運動を見ることができず、事実に合わない「架空の需要=恐慌」説をベースに、資本とマネーの「現象的な流通」に問題を矮小化し、「過剰生産恐慌と金融危機の結合」などという、分かったような分からないような、観念論的で抽象的な規定をおこなって満足しています。

 「恐慌の運動論」なるものを発見した不破さんは、現代の資本主義を解明する能力を完全に失ってしまいました。だから、生産の社会的性格の発展を妨げる資本主義的生産様式が今の日本でどう機能しているのか、資本主義的生産様式の矛盾がどう現れているのかをリアルにつかむことができず、産業の空洞化のもつ深刻な意味が理解できません。

 不破さんは、マルクスの資本主義観と革命観を忘れ、経済学を忘れ、大企業の内部留保の一部を使えば経済成長ができると考える、マルクスの言う、労賃が増加すれば恐慌がなくなると考える『健全で「単純な」(!)常識の騎士たち』になり下がり、党員を転落への道へと導こうとしています。

それでは、詳しく見てみましょう!

☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。

不破哲三氏の言う、マルクスの「革命観の大転換」と「資本主義観の大転換」の内容

 不破さんは『前衛』2013年12月号(P97)で「マルクスは、はじめは恐慌が必ず革命を生むと考えてい」たが、「革命観に大きな転換が起き」、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」と思うようになった、とマルクスの革命観の大転換について述べている。そしてマルクスは、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がなく、資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」ということを解明し、資本主義観の大転換がおこなわれたことを述べています。

 その結果、「ここでは、もう資本主義の見方も、革命の見方も変わっているのです。その立場から、労働者の運動が資本主義を変革する運動に発展する道筋についても、そういう闘争を積み重ねるなかでの労働者の自覚の成長・発展を軸に社会変革が日程にのぼってくるという新しい見方が、短い言葉できちんと説明されています。」(P98)と不破さんは言います。

 そして、『前衛』2014年12月号と2015年1月号で「マルクスの恐慌論を追跡する」と題して、マルクスの考えをねじ曲げ、マルクスの経済学を台無しにしてしまいます。どのようにマルクスの経済学を台無しにしたのか、一緒に見てみましょう。

不破哲三氏の「マルクスの恐慌論を追跡する」を追跡する

  順番が逆になるが、『前衛』2014年12月号と2015年1月号の「マルクスの恐慌論を追跡する」の検討から始めましょう。

 不破さんは、秩父原人の遺跡を発見したニセ考古学者のように、神の手を持っています。例によって、批判する対象の「考え」をねじ曲げたり自ら創作したりして、それに対して攻撃をして、自分の一面的な意見を自慢するという、不破さんのいつものパターンは今回も変わっていません。

 しかし、今回は、自慢だかなんだかよく分からない部分もあります。まずは、そこから見てみましょう。

〈恥ずべきはずのことまで自慢する不破哲三氏〉

 それは、「マルクスの発見」を不破さんが〝発見〟する経緯と関連して、不破さんがおこなったレーニンにたいする評価についてです。

 不破さんは「かなり以前から、これまで〝これがマルクスの恐慌論だ〟として説明されている〝恐慌論〟について、どこかに理論的な欠落があるのでは、という違和感を持ち続けていました」とのことです。「どこかに理論的な欠落があるのでは」という違和感とは、いささか薄弱な思想の持ち主の、つきつめて考えようとしない態度のように思われ、多くのまじめな党員がそういう人の書いた文章を真剣に読んでいたと思うと、なんとも気の毒な気がします。

 それはさておき、不破さんは、『レーニンと「資本論」』(1998-2001年)を書き終えて、『資本論』の「草稿の全体を読む仕事を始め」、第二部第一草稿で「マルクスの発見」のヒントを発見し、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたそうです。不破さんは、「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明すること」から、信用や商業が恐慌の可能性を拡大させ恐慌をより一層深刻なものにさせることを知った──21世紀になってこんなことを知るとは、ずいぶん大器晩成ですね!──ことが、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたと言います。

 不破さんは、『レーニンと「資本論」』の執筆当時、「恐慌論解決のヒント」を求めて勉強したときは気付かなかったが、「最近」、レーニンが20代のとき書いた『ロシアにおける資本主義の発展』に「『資本論』全体のなかで恐慌論を代表する文章」が入っていることに最近気づいたそうです。やはり、大器晩成です!! 同時に、私は『レーニンと「資本論」』を読んでいませんが、『資本論』の誤った解釈をしていて、レーニンをよく読みこなせなかった不破さんがもっともらしく書いた『レーニンと「資本論」』には一体どんな内容が書かれていたのか、宣伝に乗って買わされてしまった人は何を学んだのか、心配でならない。図書には「リコール」がないのが残念です。

 不破さんは、レーニンが不破さんのように、それが「大発見」であることに「気づかなかった」と、「気づいた」自分の偉大さを誇示しています。不破さんは、10年以上前に『レーニンと「資本論」』を書くに当たって「恐慌論解決のヒント」を求めてレーニンを勉強したときには気づかなかった「発見」を、「大発見」かどうかは別として、「最近」気づいたという。不破さんは、自分の感度の鈍さを棚に上げて、レーニンが不破さんのような「大発見」などという認識を持っていなかったことを、レーニンは「気づかなかった」と中傷します。

 しかし、不破さんが最近気づいたという文章は、レーニンにとっては当然のことで「大発見」でもなんでもないし、レーニンは他人の考えを歪曲して自分を誇示することを旨とするような人間ではないから、不破さんのように「大発見」して「激しい理論的衝撃」を受けたなどと大騒ぎをしなかったのでしょう。不破さんらしいと言えば不破さんらしいが、一般的には、こういうのを天にツバする行為というのではないでしょうか。

〈不破哲三氏は深い思慮をもって、レーニン全集をもう少し先まで読み進めるべきだった〉

 この時、不破さんはレーニン全集の第三巻の32ページまで読んだのなら、あと二ページ、10年以上前と同じように「眼を通す」のではなく、熟読すべきでした。

 そうすれば、「それ(生産の発展──青山)に照応する消費の拡大のないこの生産の拡大こそ、資本主義の歴史的使命とその固有の社会的構造とに照応している」こと、「マルクスの行った実現の分析は、『不変資本と不変資本とのあいだの流通が、……終極においては個人的消費によって制限されている』〔『資本論』第三巻336ページ〕ことをしめした」だけでなく、「この同じ分析は、この『制限』の真の性格をしめし、国内市場の形成においては消費資料が生産手段にくらべてより小さな役割しか演じないことを、しめした」ことが書かれており、トンチンカンな理解などしないですんだはずである。そうすれば、もしかしたら不破さんも、もう一度「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きて、〝産業の空洞化〟が日本経済にもたらす決定的に重要な意味も理解でき、「大企業の内部留保の1%を賃金にまわせば、日本経済は回復する」などというバカな主張を共産党と全労連から撤回させることになったかもしれません。まともなマルクス主義者なら必ずそうなるはずです。

 なお、不破さんには、より理解を深めていただくために、併せて、第二巻の『経済学的ロマン主義の特徴づけによせて』(1897年3月執筆)も読むことを、是非とも、お奨めしたい。

 さて、それでは、不破さんの大「発見」の検証に移りましょう。

〈「これまでの恐慌論」とは、不破哲三氏が創作した「恐慌=革命」説なのか〉

  21世紀になってから、「激しい理論的衝撃」を受け、「多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きた不破さんが、なにをもって「これまでの恐慌論」というのか──「恐慌」そのものをどう捉えるのかという問題なのか、それとも、「恐慌」と「革命」との関係をどう捉えるのかという問題なのか──よくわかりませんが、共産党がマルクス・エンゲルス・レーニンの考えを十分に引き継いでいた、エネルギーと若さと未来への希望をもっていたころの「恐慌」についての共産党の考えを、とりあえず「これまでの恐慌論」と捉えて、紹介しようと思います。なぜなら、この「恐慌」についての考え方が、かつてマルクス・エンゲルス・レーニンの古典をしっかり読み、いまでも日本共産党を〝コミュニストパーティー〟と信じて、必死に日本共産党を支えている多くの高齢党員の「恐慌」についての共通認識と一致すると考えるからです。

〈「これまでの恐慌論」とは、恐慌とは〉

 「これまでの恐慌論」とは、恐慌とは、何なのか、『科学的社会主義』(新日本出版、1977年、岡本博之日本共産党常任幹部会委員・教育局長・中央党学校長監修)と『社会科学事典』(新日本出版、1978年、社会科学事典編集委員会編)とから、見てみましょう。

  まずはじめに、『科学的社会主義』の「第三課経済学第四節資本蓄積と恐慌」の「恐慌と産業循環」以下の記述で必要な部分を抜粋します。

 「恐慌」は、「おもな生産部門が過剰生産におちいり、買手のない商品が市場にあふれ」る現象であり、「価格の下落、企業の利潤の減少と利潤率の急激な低下」等がおこり、「過剰な資本が整理され」て、「失われていた生産と需要とのつりあいを回復し、ふたたび生産を再開し拡大するための条件をつくりだ」すことが述べられています。

 そして、「恐慌の原因は資本主義の基本的矛盾」=「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」(エンゲルスのいう「根本矛盾」)にあること、「恐慌の究極的な根拠」は、「生産と消費の矛盾」(マルクスはこの「生産と消費の矛盾」をもたらす資本主義生産に内在する矛盾を「基本的矛盾」と言った)にあるが、「生産と消費の矛盾」から「ただちに恐慌がおこる」ものではなく、「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態」のもとでの資本主義的生産の無政府性により起こることを述べています。

 『科学的社会主義』は、「恐慌の社会的意義」として、「恐慌」が労働者階級の階級的団結を強め、「資本主義の内部矛盾を激化させ、資本主義制度そのものの危機を激化させるというところに恐慌の最大の社会的意義がある」ことも述べていますが、「恐慌=革命」説のかけらもみあたりません。

 注)マルクスは資本主義的生産の矛盾について二つの矛盾を述べており、一つは資本主義生産に内在する矛盾で、これをマルクスは「基本的矛盾」といい、もう一つは分配関係・生産関係と社会的生産力とのあいだの矛盾と対立で、エンゲルスのいう「根本矛盾」です。この「根本矛盾」が「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」であるからこそ、資本主義的生産様式は社会的生産力発展の「桎梏」になるのです。詳しくは、ホームページ4-9「☆不破氏は「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだという。」を参照して下さい。

  つぎに、『社会科学事典』では、「恐慌」が「商品の全般的な生産過剰にもとづいておこる資本主義に固有な諸矛盾の一時的な暴力的な解決」のことであることが述べられており、『科学的社会主義』の「恐慌の社会的意義」を除いた部分がコンパクトに書かれています。やはり、「恐慌=革命」説のかけらもありません。

 そうすると、「これまでの恐慌論」の誤りとは、何なのか。不破氏は、「恐慌の原因は生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」(エンゲルスのいう「根本矛盾」)にあるのではない、と言いたいのだろうか。

 それとも、恐慌は「利潤率の低下の法則とは関係ない」、あるいは、恐慌は「資本主義が循環的に運動してゆく」単なる「一局面」であり、「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点」であり、資本主義は発展し続け、矛盾も危機も深まりはしない、とでもいうことなのだろうか。

 21世紀になってはじめて知った「恐慌の運動論」に目を奪われ、マルクス経済学を忘れてしまった不破さんは、〝資本の運動〟を見失い社会の表面しか見ることができなくなってしまったようです。

 不破さんが21世紀になって発見したという「恐慌の運動論」なるものは、資本主義的生産様式のもとで、生産の社会化の中での資本主義的分業、生産と販売の分離による産業資本の価値「実現」の短縮と「生産と消費の分離」、「価値実現を前提としない貨幣資本の取得とその再投資」等をふくむ〝資本の現象的な流通形態から〟恐慌を説明すること(『前衛』2015年1月号P138)であり、不破さんにとっては大発見かもしれませんが、失礼ですが、こんなことは、私たちにはわかりきったことです。そして現代の〝市場の運動〟は、先進資本主義諸国が資本主義的成長の限界に突き当たり急激に成長が低下する中で、資本主義的生産様式の矛盾と危機の深まりに応じ、ドルの垂れ流しと意識的な資産価値の上昇によって、21世紀になって不破さんがやっと知った、「恐慌の運動論」なるものを陳腐なものにさせています。詳しくは、後に、不破さんのリーマン・ショックに関する謬論を見る中で、改めて触れたいと思います。

 それでは、つぎに、恐慌とはなにか、マルクス・エンゲルスの言葉を聞いてみましょう。

恐慌とはなにか、マルクス・エンゲルスの言葉を聞いてみよう

○資本主義的生産様式をはじめから際立たせる二つの特徴と資本主義的生産の無政府性〈『資本論』第3巻 第2分冊『資本論』⑤ P1124-1126〉
資本主義的生産様式をはじめから際立たせる二つの特徴
 「資本主義的生産様式をはじめから際立たせるものは、次の二つの特徴である。
  第一に。この生産様式はその生産物を商品として生産する。商品を生産するということは、この生産様式を他の生産様式から区別するものではない。しかし、商 品であることがその生産物の支配的で規定的な性格であるということは、たしかにこの生産様式を他の生産様式から区別する。」(P1124)「資本主義的生 産様式を特に際立たせている第二のものは、生産の直接的目的および規定的動機としての剰余価値の生産である。」(P1125)
資本主義的生産の無政府性
 「資 本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、(資本の──青山)厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過 程の、完全な階層性として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している。──といっても、この権威の担い手は、ただ労働に対立する労働条件の人格 化としてのみこの権威をもつのであって、以前の生産形態でのように政治的または神政的支配者として権威をもつのではないのである。──ところが、この権威 の担い手たち、互いにただ商品所有者として相対するだけの資本家たち自身のあいだでは、最も完全な無政府状態が支配していて、この状態のなかでは生産の社 会的関連はただ個人的恣意にたいする優勢な自然法則としてその力を現わすだけである」(P1126) 

 

○近代的過剰生産の基礎
「古代人の場合は過剰生産はなかった」。「一方では必需品の範囲内に閉じ込められている生産者大衆を・他方では資本家の利 潤による制限を・基礎とする、生産諸力の無制約的な発展、したがってまた大量生産、これこそが近代的過剰生産の基礎をなすものである。」 レキシコン⑦- [106](マルクス『剰余価値学説史』Ⅱ)


○恐慌の究極の根拠(原因)
「労働者たちの消費能力は、一方では労賃の諸法則によって制限さ れており、また一方では、労働者は資本家階級のために利潤をあげるように充用されうるかぎりでしか充用されないということにとって制限されている。すべて の現実の恐慌の究極の原因は、やはり、資本主義的生産の衝動に対比しての大衆の窮乏と消費制限なのであって、この衝動は、まるでただ社会の絶対的消費能力 だけが生産力の限界をなしているかのように生産力を発展させようとするのである。」(大月『資本論』Ⅲ P618-619)


○繁栄が興奮に移行し、あらゆる種類の魅力ある泡沫企業への無謀な投機が始まる
「繁栄が興奮に移行し、一方では過度の輸入取引、他方ではあらゆる種類の魅力ある泡沫企業への無謀な投機が確実に始まる」、…「興奮は繁栄の絶頂なのだ。それが恐慌を生みだすわけではないが、恐慌勃発のきっかけをつくるのである。」 レキシコン⑨-[346](マルクス『受救貧困と自由貿易──迫りくる経済恐慌』 『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1852.11.1付)

 

○恐慌の可能性の二つの形態は恐慌の必然性をあたえるものではない
「恐慌の可能性の二つの形態」――①「購買と販売との分裂」と②「支払い手段としての貨幣の機能」 レキシコン⑥-[23] (マルクス『剰余価値学説史』Ⅱ)


○恐慌の可能性が現実性に発展しうる債権と債務、購買と販売の関連について
資本主義的生産においては、…可能性が現実性に発展しうるところの、相互的な債権と債務との関連、購買と販売との関連を見いだすのである。」 レキシコン⑥-[59](マルクス『剰余価値学説史』Ⅱ)


○全般的な過剰生産恐慌にあっては、矛盾は…
 「全般的な過剰生産恐慌にあっては、矛盾は…産業資本と貸付可能資本とのあいだに… あるのである。」 レキシコン⑥-[25] (マルクス『経済学批判要綱』Ⅱ339~41P)


○現実の恐慌は競争と信用からのみ説明することができる
現実の恐慌は、資本主義的生産の現実の運動、競争と信用からのみ説明することができる」レキシコン⑥-[42] (マルクス『剰余価値学説史』Ⅱ)

 

○全恐慌の基礎、過程の転倒
「再生産過程の全関連が信用を基礎としているような生産体制のなかでは、急に信用が停止されて現金払いしか通用しなく なれば、明らかに、恐慌が、つまり支払手段を求めての殺到が、起こらざるをえない。だから、一見したところでは、全恐慌がただ信用恐慌および貨幣恐慌とし てのみ現われるのである。……しかし、これらの手形の多くは現実の売買を表しているのであって、この売買が社会的な必要をはるかに超えて膨張することが結局は全恐慌の基礎になっているのである。……とにかく、ここではすべてがゆがんで現れるのである。なぜならば、この紙の世界ではどこにも実在の価格やその実在の諸契機は現れないのであって、ただ、地金や硬貨や銀行券や手形や有価証券が現れるだけだからである。ことに、国内の貨幣取引の全部が集中する中心地、たとえばロンドンでは、このような転倒が現れる。全課程がわけのわからないものになる。生産の中心地ではそれほどでもないのであるが。」〈『資本論』 第3巻 第2分冊 大月版 ⑤ P598F8-600B7〉


○資本主義的生産の「健全な」運動に対応する諸関係が回復するのは
「では、ど のようにしてこの衝突が再び解消して、資本主義的生産の「健全な」運動に 対応する諸関係が回復するであろうか?」「均衡は、大なり小なりの範囲での資本 の遊休によって、または破滅によってさえも、回復する」「主要な破壊、しかも最も急激な性質のものは、価値属性をもつかぎりでの資本に関して、資本価値に 関して、生ずるであろう。…金銀の現金の一部分は遊休し、資本として機能しない。…この攪乱や停滞は、…資本と同時に発展した信用制度の崩壊が生ずること によってさらに激化され、このようにして、激烈な急性的恐慌、突然のむりやりな減価、そして再生産過程の現実の停滞と攪乱、したがってまた再生産の現実の 減少をひき起こすのである。」「生産の停滞は労働者階級の一部分を遊休させ、そうすることによってその就労部分を、平均以下にさえもの労賃引下げに甘んぜ ざるをえないような状態に置いたであろう。…繁栄期は労働者のあいだの結婚に幸いし、また子女の大量死亡を軽減したであろう。…価格低下と競争戦とはどの資本家にも刺激を与えて、…自分の総生産物 の個別的価値をその一般的価値よりも低くしようとさせたであろう。…労働の生産力を高くし、不変資本にたいする可変資本の割合を低くし、…充用される不変 資本の量は可変資本に比べて増大したであろうが、しかしこの不変資本量の価値は低下したかもしれない。そこに現れた生産の停滞は、後の生産拡大──資本主義的限界のなかでの──を準備したであろう。……資本の過剰生産というのは、資本として機能できる、すなわち与えられた搾取度での労働の搾取に充用できる生産手段──労働手段および生活手段──の過剰生産以外のなにものでもない。」 〈『資本論』第3巻 第1分冊 大月版④ P317-320〉


○恐慌の本質規定
恐慌は、つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかない。
 〈『資本論』第3巻 第1分冊 大月版 ④ P312B1-314F8〉


○消費の大部分は生産過程での消費である
 マルクスは『経済学批判要綱』で「消費の大部分は直接の使用のための消費ではなくて,生産過程での消費」であること、「労働者の消費は資本家にとってそれ自身で十分な消費ではけっしてない」ことを「正しい」指摘として確認している。
「た とえば,すでにシュトルヒがセーに反対して,消費の大部分は直接の使用のための消費ではなくて,生産過程での消費,たとえば機械,石炭,油,必要な建築 物,等々の消費である,と指摘しているが,これはまったく正しい。この場合の消費は,ここで問題にしている消費とはけっして同じではない。同様にマルサスシスモンディも,たとえば労働者の消費は資本家にとってそれ自身で十分な消費ではけっしてない、ということを正しく指摘している。」 レキシコン⑥- [25](マルクス『経済学批判要綱』Ⅱ339~41P)

マルクス・エンゲルスの言葉の抜粋のまとめ

  このように、恐慌は、前掲の資本主義的生産様式をはじめから際立たせる二つの特徴と結びついた、資本主義的生産様式に特有なものです。恐慌の究極の根拠(原因)は資本主義生産に内在する矛盾=マルクスの「基本的矛盾」のあらわれである「生産と消費の矛盾」にあるが、資本主義的生産様式は商品の価値「実現」を円滑にし一層の資本の蓄積を図るための信用の創造や産業資本と商業資本の分離により、来たるべき恐慌の可能性と規模を一層拡大させる。市場の繁栄と興奮のなかで、「生産過程での消費」、つまり、生産手段の生産は最終消費財の生産に比べて跛行的に拡大し、資本の有機的構成は高まり、利潤率は低下するが、あらゆる種類の魅力ある泡沫企業への無謀な投機さえ始まり、すべての資本が我が世の春を謳歌する。この興奮の絶頂期に、生産過剰・資本の過剰(=現在の利潤率では利潤が確保できない状態)が突然あらわれ、商品を売ることができなくなり支払いの滞りの連鎖が起き、資金ショートした弱いものから恐慌の渦に飲み込まれ、生産の縮小の連鎖が起きる。資本主義的生産の無政府性、「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」(エンゲルスのいう「根本矛盾」)の中で攪乱された均衡が、この「恐慌」を通じて一時的に回復する。しかし、恐慌は、つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかありません。

  攪乱された均衡の回復とは、生き残った資本が生産過剰・資本の過剰の状態から脱することであり、恐慌が不変資本と可変資本の価値の減価と極端に下がった利潤率の上昇をもたらし、後の生産拡大の準備を整えることです。

 このように、『科学的社会主義』と『社会科学事典』に示された「これまでの恐慌論」は、マルクス・エンゲルスの思想に依拠していることがわかります。

 そして不破さんが21世紀になって「恐慌の運動論」を発見したとき、前掲の引用文「○全恐慌の基礎、過程の転倒」をも合わせて、唯物史観の観点をもって注意深く読まれたならば、「〝資本の現象的な流通形態から〟恐慌を説明すること」と資本の行動との関係が理解でき、グローバル資本が牛耳る現在の日本経済を見る目も育ったのではないかと思われる。

 なお、レーニンは『経済学的ロマン主義の特徴づけによせて』(1897年3月執筆、全集 第二巻P150~151,154~155) で、恐慌は「ただ一つの制度――資本主義制度だけの特殊な標識」であり、「生産(資本主義によって社会化された)の社会的性格と取得の私的な、個人的な様式との矛盾」の現れとして必然的に起こること。つまり、資本主義的生産関係の基で、資本主義の固有の現象として起こるのであり、資本主義の歴史的に過渡的な性格を証明するものであり、「資本主義の批判」は、資本主義的生産関係ときりはなされた「全般的な福祉とか、『自由に放任された流通』のまちがいとかいう言葉のうえに基礎づけてはならないのであって、生産関係の進化の性格のうえに基礎づけなければならない」ことを述べています。


ちょっと、ひと休み  ことわざ、名言集


「悪魔の代言人」
元来は、カトリック教会で、死者を聖者に列するとき、その候補者についていろいろ故障を言いたてる非難役。転じて、人の弱点だけをみて難癖をつける人。


しかし、弱点をデッチあげる人は、「悪魔の代言人」より、より悪い。

「恐慌=革命」説とはマルクス・エンゲルスの思想なのか、それとも不破哲三氏の創作か

  不破さんは『前衛』2014年12月号で「恐慌と革命の相互作用によって資本主義社会の変革の時代が始まるのだ──これが、マルクス、エンゲルスが当時の革命経験から引き出した資本主義社会の『必然的没落』の理論でした。この見方を、『恐慌=革命』説と呼ぶことにします。」(P25)と述べ、「マルクスは、利潤率低下の法則のなかに資本主義の『必然的没落』の最大の根拠を求め、そのことを背景として恐慌が反復し、そこから『資本の強力的な転覆』をもたらす社会変革の過程が始まるという見方を、それまでの資本主義的生産の分析から引き出される決定的な結論として、展開したのでした。」と述べています。

資本主義社会の発展段階を無視した不破哲三氏の「恐慌=革命」説は歪曲か創作か

 マルクス=エンゲルスは『共産党宣言』で生産諸力の発展の所有諸関係による妨げと近代の労働者の歴史的使命について、「だが、われわれは次のことを知った。すなわち、ブルジョア階級の成長の土台をなす生産手段や交通手段は、封建社会のなかで作られたということ。……

 われわれの眼のまえに、その同じ運動が進行している。……近代的生産諸関係に対する、ブルジョア階級とその支配の生存条件である所有諸関係に対する、近代的生産諸力の反逆の歴史である。……社会が自由にすることのできる生産諸力は、もはやブルジョア的文明およびブルジョア的所有関係の促進には役立たないのだ。反対に、生産諸力はこの関係にとってあまりに強大となってしまい、この関係(ブルジョア的所有関係──青山)によって阻止されるのだ。……──ブルジョア階級は恐慌を、何によって征服するか?一方では、一定量の生産諸力をむりに破壊することによって、他方では、新しい市場の獲得と古い市場のさらに徹底的な搾取によって。要するにどういうことか?要するに、もっと全面的な、もっと強大な恐慌の準備をするのである。そしてまた恐慌を予防する手段を減少させるのである。……

 だが、ブルジョア階級は、みずからに死をもたらす武器をきたえたばかりではない。かれらはまた、この武器を使う人々をも作り出した──近代的労働者、プロレタリアを。」(岩波文庫P46-48)と述べている。

 つまり、マルクスとエンゲルスは「ブルジョア階級に死をもたらす武器」である「近代的生産諸力」の発展によって「もっと全面的な、もっと強大な恐慌」を準備をすることを述べているが、不破さんがデッチあげたような「恐慌=革命」説などとっていない。

  また、その約10年後に書かれた『経済学批判要綱』(1857-8年)でマルクスは「……それゆえ生産力の最も高度の発展は、現存の富の最大の拡大のほかに、資本の減価、労働者の退廃、そしてその生命力の最もあからさまな消尽とも時を同じくするであろう。これらの諸矛盾の結果、爆発、大変動、恐慌にたちいたるが、そうしたときには、労働の一時的な停止と資本の大きな部分の破壊が生じることによって、資本は、その再起可能な点にまで強力的に引きもどされる。これらの諸矛盾の結果、もちろん爆発、恐慌にたちいたるが、そうしたときには、いっさいの労働の一時的な停止と資本の大きな部分の破壊が生じることによって、資本は、自滅することなく、その生産力を十分に稼働できるようにする点にまで強力的に引きもどされる。だが、これらの規則的に繰り返される破局の結果、より高い段階での破局の反復へ、そして最後には資本の強力的な転覆へとたちいたる。」(レキシコン⑦-[176] P359)と述べ、規則的に繰り返される破局が、最後には資本の強力的な転覆へとたちいたる見とおしを語っている。

 同時に、エンゲルスはベルンシュタインあての手紙(1882年1月25-31日)で「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつであることは、すでに『共産党宣言』のなかにも述べられており、『新ライン新聞』の「評論」でも1848年までを含めて詳論されています。しかし同時にまた、そのあとの繁栄の回帰は革命を挫折させて反動の勝利を基礎づける、ということもそこに述べられています。」(レキシコン⑧-[279] P289)と述べ、マルクスとエンゲルスが「恐慌」と「繁栄」の政治への影響について、「恐慌」は「政治的変革の最も強力な梃子のひとつである」が「そのあとの繁栄の回帰は、革命を挫折させて反動の勝利を基礎づける」ものであると考えていたことを明らかにしています。

  このように、当時、マルクスもエンゲルスも「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と考えていたが、マルクスもエンゲルスも不破さんの言う『恐慌=革命』説などとっていなかった。

 そして、当時、マルクスとエンゲルスが「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」と考えていたとしても、何の不思議もない。理由は二つある。一つは、当時の資本主義社会の発展段階、資本の蓄積段階からして、資本主義の危機を最も鮮明にあらわすものとして「恐慌」があったこと。もう一つは、マルクスも指摘しているように、危機に際して貨幣価値をまもることが第一に考えられ、危機を一層悪化させる政策がイングランド銀行でとられるなど、危機に対応したブルジョア経済学が存在していなかったことです。だから、当時のマルクスとエンゲルスが「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」と考えていたとしても、何の不思議もありませんでした。

 不破さんとその仲間たちは、その時々の資本の行動と国家の行動を見てその時々の政策を判断することができません。だから、19世紀後半に生きたマルクスとエンゲルスが「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」だというと、間違いだという。だから、19世紀末から20世紀前半に活躍したレーニンの帝国主義の捉え方に嘲笑をあびせる。そのくせ、20世紀から21世紀にかけて活動している不破さんたちは、「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ意義を忘れ去り、マルクスの「基本的矛盾」から「利潤第一主義」を抽出して、それ(利潤第一主義)を克服するために、「労賃が増加すれば経済はよくなる」と、マルクスのいう「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」(『資本論』第2巻 大月版 P505~506)に成り下がり、「地球温暖化」が「桎梏」だなどと、訳の分からないことをいう。

  当時、マルクスとエンゲルスが「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と考えていたのとは大違いです。

不破哲三氏の「利潤率の傾向的低下の法則」に対する無理解

 不破さんは「マルクスは、利潤率低下の法則のなかに資本主義の『必然的没落』の最大の根拠を求め、そのことを背景として恐慌が反復し、そこから『資本の強力的な転覆』をもたらす社会変革の過程が始まるという見方を、それまでの資本主義的生産の分析から引き出される決定的な結論として、展開したのでした。」と述べています。

〈マルクスがかわいそう〉

  しかし、マルクスは、「利潤率低下の法則のなかに資本主義の『必然的没落』の最大の根拠を求め」てなどいません。

 〈「これまでの恐慌論」とは、恐慌とは〉で示したとおり、今から25年以上前の『科学的社会主義』と『社会科学事典』の「恐慌」についての説明でも、「恐慌の原因は資本主義の基本的矛盾」=「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」(エンゲルスのいう「根本矛盾」)にあること、「恐慌の究極的な根拠」は、「生産と消費の矛盾」(マルクスはこの「生産と消費の矛盾」をもたらす資本主義生産に内在する矛盾を「基本的矛盾」と言った)にあることが述べられていますが、「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」こそ「資本主義の『必然的没落』の最大の根拠」です。

 不破さんは『資本論』第一巻 第2分冊の「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる」(大月② P995F6-9)ではじまる、有名な文章を忘れてしまったのでしょうか。これは当時の共産党員の共通理解のはずです。不破さんが21世紀になって、出来損ないの「恐慌の運動論」をやっと発見したとたんに、なぜ、「資本主義の『必然的没落』の最大の根拠」まで変えられてしまうのでしょうか。これでは、マルクスがかわいそうすぎます。

〈「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ意味〉

  「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ意味について、マルクスから学び、その現代的な意味を考えてみましょう。

①マルクス・エンゲルスの言葉を聞いてみよう

○利潤率の低下の法則の作用のしかた

「この法則はただ傾向として作用するだけで、その作用はただ一定の事情のもとで長い期間のうちにはっきり現れるのである。」〈『資本論』第3巻 第1分冊 大月版④ P300〉

○資本の過多は、利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本の過多に関連している

「いわゆる資本の過多は、つねに根本的には、利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本──そして新たに形成される資本の若枝はつねにこれである──の過多に、または、このようなそれ自身で独自の行動をする能力のない資本を大きな事業部門の指導者たちに信用の形で用だてる過多に、関連している。このような資本過多は、相対的過剰人口を呼び起こすのと同じ事情から生ずるものであり、したがってこの相対的過剰人口を補足する現象である。といっても、この二つのものは互いに反対の極に立つのであって、一方には遊休資本が立ち、他方には遊休労働者人口が立つのであるが。」(同前 大月版④ P314-315)

○労働者の過剰人口が過剰資本によって充用されないのは、

「……労働者の過剰人口が過剰資本によって充用されないのは、それが労働の低い搾取度でしか充用できないからであり、また少なくとも、与えられた搾取度のもとでそれが与えるであろう利潤率が低いからである。」〈同前 大月版④ P321〉

 これらにプラスして、「恐慌とはなにか、マルクス・エンゲルスの言葉を聞いてみよう」の項の「○資本主義的生産の「健全な」運動に対応する諸関係が回復するのは(同前 大月版④ P317-320)」も参照して下さい。

②マルクスから学び、現代的な意味を考える

 「利潤率の傾向的低下の法則」は「剰余価値」の発見によってはじめて、科学的に明らかにされました。利潤率は「繁栄の絶頂期」には極限まで低くなり、資本主義的生産の「健全な」運動に対応する諸関係が回復する過程で資本の減価により上昇するが、長い期間のうちに利潤率は傾向的に低下します。そして、利潤率が傾向的に低下しても利潤の量によって償われれば、経済は拡大する。

 この法則の下に、資本主義的生産を前提として、国家の富を増大できるのは、拡大再生産が続く条件のもとにおいてのみです。先進資本主義国は60年代末から70年代初めに、日用品が国民に広く行きわたり、飛躍的に拡大していく生産に見合うだけの消費の拡大が見込めなくなり、利潤率の低下を利潤の量によって償うことがますます困難になってきました。「利潤率の傾向的低下の法則」が資本に「資本」としての機能を失わせ、私的資本主義的所有のもとにある「資本」がますます活用されなくなり、社会的生産と社会的生産力の「桎梏」へと転化し始めたのです。先進資本主義諸国の経済停滞、「産業の空洞化」、海外の安い労働力の受け入れ、これらすべて、「利潤率の傾向的低下の法則」のもとでの資本の行動によって引き起こされたものです。

〈マルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」を理解できない不破哲三氏は、マルクスを自分の自己顕示欲のレベルまで引き下げた〉

 マルクスの天才的な洞察力を理解できない不破さんは、「マルクスは、『利潤率の低下の法則』に現われた生産力の発展と生産関係との衝突こそが、恐慌と革命の時代を生みだしている、として、マルクスがとってきた『恐慌=革命』説の最大の根拠がここにあるとします」(『前衛』2014年12月号P36)と述べることによって、自ら作り上げた「『恐慌=革命』説」の咎を責める根拠にマルクスが発見した「利潤率の傾向的低下の法則」を持ち出すことによって、資本主義的生産様式における「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ大切な意味を葬り去ります。それだけではありません。不破さんは、『前衛』2015年1月号では「利潤率の傾向的低下の法則」の解明の意義を「これまでスミスもリカードゥも解明できなかった難問を自分が解決した」ことを誇っているだけだと、マルクスを自己顕示欲の強い不破さんのレベルまで引き下げています。

 不破さんの言う「『利潤率の低下の法則』に現われた生産力の発展と生産関係との衝突」とは、〝「利潤率の低下の法則」により、資本主義的生産関係のもとで「資本」がますます利益を得られなくなり、「社会の生産諸力の発展」の「桎梏」になる〟という意味で、不破さんの生きている21世紀で現に起きている事実です。この事実を見ることもできず、恐慌が資本主義的生産様式の一番の矛盾の現れであり、「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」とマルクスとエンゲルスが考えていた時代に、事実に立脚する科学的社会主義を旨とするマルクスとエンゲルスが、日用品が国民に広く行きわたった現代を推論しなかったからといって、不破さんのように「利潤率の傾向的低下の法則」の意義を否定し、「難問を自分が解決した」ことを誇っているだけだと、マルクスを自己顕示欲の強い不破さんのレベルまで引き下げ、現代の資本主義経済を解明する大切な武器を放棄することは、けっして許されることではありません。

 標的を自分が攻撃できるように創作し、時空を越えた批判を行うことを旨とする人、だからこそ、その人は、今の日本の現実などお構いなしで、スターリンやマルクスを自分の嗜好にあわせて「研究」し『前衛』等の貴重な紙面を占拠したかと思えば、沖縄に行って、「安保条約に基づいて通告すれば条約は破棄できる、これが伝家の宝刀だ」などと「講演」し、沖縄の「お」の字も理解できないノー天気ぶりを発揮します。

 日本共産党の前委員長で現在の「共産党」に絶大な影響力をもつこの人が無関心な今の日本は、1980年代から大変な危機に突入し、90年代の半ばには誰の目にも見えるように明らかになりました。このまま無策に時を過ごしてしまえば、日本は沈没してしまいます。

*なお、不破さんの沖縄での「講演」については、ホームページ「適時論題」→「那覇市での不破さんの講演に欠けているもの」を参照して下さい。

マルクス・エンゲルス・レーニンの頭と心でいまの日本を見る

 内閣官房内閣審議官などを歴任した水野和夫氏は、『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(2007年)では先進国は成熟化と利潤率の低下により「新しい中世」に移行し、近代はBRICsに引っ越してしまったと言い、「新しい中世」に移行した先進国は資産価格を上げる政策を進めなければならないと主張していました。しかし、その後に書いた『資本主義の終焉と歴史の危機』(2014年)では、日本の「異常なまでの利潤率の低下」が1974年から始まったこと、「資本主義の限界とは、資本の実物投資の利潤率が低下し、資本の拡大再生産ができなくなってしまうことです」と、資本が「資本」として機能しなくなることを述べています。水野氏はまだ、「資本主義の先にあるシステムを明確に描く力は今の私にはありません」とのことですが、資本主義の限界を悟り「資本主義の終焉」に行き着くところまで進歩しています。

  マルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」の解明の意義を、「これまでスミスもリカードゥも解明できなかった難問を自分が解決した」ことを誇ることだなどという不破さんとは雲泥の差があります。元内閣官房内閣審議官の水野和夫氏に元日本共産党委員長の不破哲三氏は越えられてしまったようです。

 なお、私は、ホームページ「日用品が充足されはじめた時から、日本社会の深刻な変化が始まった」で示したとおり、〈失業率〉が1970年に 1.1%とボトムをつけ、〈自己資本比率〉も1975-6年に15%と最小を記録し、〈製造業就業者数〉は1973年に1400万人と最多となっていることから、70年代のはじめに、日本の「資本主義の終わりの始まり」がはじまったと見ています。そして、「空洞化」の影響が顕在化したのが95年で、以降GDPが停滞し、賃金・雇用環境が急速に悪化しはじめました。

 国内需要の充足のもとで「利潤率低下の法則」がはたらくと、資本は、海外への「資本」の移転──それは、国民が創った富を海外に持ち出し、海外で活用し、雇用を海外に移転すること──と賃金の抑制にはしり、その結果、国内産業の空洞化がもたらされ、労働需給が資本家優位となり、賃金の一層の低下と雇用・労働条件の悪化が進行します。同時に、福祉をはじめ、国内の労働集約型の産業の健全な発展も阻害されます。まさに、私的資本主義的生産が社会の生産諸力の「桎梏」となるのです。このように、剰余価値の発見によって証明された「利潤率低下の法則」は、日本における「資本主義的生産の役割の終了」を国民に曝露し説明する、ブルジョア経済学者も認める、重要な武器です。

不破哲三氏は、歪曲と捏造で、マルクスを観念論者に仕立てあげる

  不破さんは「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がないというのは、あまりにも現実離れした議論に見えます。しかし、『恐慌=革命』説を背景に、利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定がさきにあり、そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込みが、マルクスを、こうした無理な立論に固執させたのではないでしょうか。」(『前衛』2015年1月号P129)とマルクスの身上の研究方法を誹謗することによって人格を傷つけ、言いたい放題のデタラメをふりまいています。

〈不破哲三氏は自分の偏見と自己顕示欲から、マルクスの経済学を「現実離れした」教義に変えてしまった〉

 括弧で示した文章は、今まで私が読んだ、不破さんのデタラメで礼節を欠いた文章の中でも、十本の指のなかに入るものの一つと言えるかもしれません。あまりにもひどい文章なので、私もつい「きつい」言い方をしてしまいました。お許しください。

 不破さんは、マルクスが「経済恐慌やバブル現象まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がない」と述べていると言います。しかし、マルクスはそんなことは一言も言っていません。

〈マルクスは「経済恐慌やバブル現象を小資本の冒険のせい」だなどと言っていない〉

 「マルクス・エンゲルスの言葉の抜粋のまとめ」で述べたように、マルクスは「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明する」なかで、繁栄・興奮期には利潤率は一層低下するが、低い利潤率でも利潤を確保することのできる条件が拡大し、あらゆる種類の魅力ある泡沫企業への無謀な投機さえ始まり、すべての資本が我が世の春を謳歌することを述べています。そして、この興奮の絶頂期に、生産過剰・資本の過剰が突然あらわれ、商品を売ることができなくなり支払いの滞りの連鎖が起き、資金ショートした弱いものから恐慌の渦に飲み込まれ、生産の縮小の連鎖が起きることは、不破さんにも理解できるでしょう。

 「小資本」も熱狂に参加し、最初に倒れる。この事実を指摘することが、なぜ、資本主義における「恐慌」発生にかんして、「小資本」と「大資本」の「責任」問題に発展しなければならないのでしょうか。まったく意味が分かりません。

 「興奮は繁栄の絶頂なのだ。それが恐慌を生みだすわけではないが、恐慌勃発のきっかけをつくるのである」と、マルクスはいう。そして、マルクスとエンゲルスな、恐慌の究極の根拠(原因)は資本主義生産に内在する矛盾=マルクスの「基本的矛盾」のあらわれである「生産と消費の矛盾」にあるといい、資本主義的生産の無政府性、「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」(エンゲルスのいう「根本矛盾」)の中で攪乱された均衡が、「恐慌」の強力的な爆発を生むことを述べています。体制が変革され「根本矛盾」がなくなり、社会内部の「基本的矛盾」が解消されない限り、「恐慌」はなくならないと、マルクスもエンゲルスも言っているのです。マルクスもエンゲルスも「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業」だなどと、一度も言ったことはありません。

  「資本の現象的な流通形態」の中に独自の「恐慌の運動論」を「大発見」した不破哲三氏には、こんなことも分からなくなってしまったのでしょうか。

〈マルクスは「経済恐慌やバブル現象に、大資本に責任がない」などと言っていない〉

  不破さんが、同じページで「恐慌にいたる経済攪乱には大資本は無関係だという意味の特別の解説までのべられています」として取り上げた箇所には、「確立された諸大資本」と「大資本」という言葉は出てきますが、「大資本に責任がない」などと言っているものでは、まったく、ありません。「自立して機能する新しい追加資本」の意義を述べているもので、低い利潤率のもとで投下される「新しい追加資本」が競争を激化させるのであって、「競争の激化」が「低い利潤率」をもたらすのではないことを述べているのです。そして、この部分は、先に『資本論』から抜粋した「○資本の過多は、利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本の過多に関連している」の文章に繋がるものです。マルクスの名誉のために、スペースの浪費ではあるが、再掲いたします。

「いわゆる資本の過多は、つねに根本的には、利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本──そして新たに形成される資本の若枝はつねにこれである──の過多に、または、このようなそれ自身で独自の行動をする能力のない資本を大きな事業部門の指導者たちに信用の形で用だてる過多に、関連している。このような資本過多は、相対的過剰人口を呼び起こすのと同じ事情から生ずるものであり、したがってこの相対的過剰人口を補足する現象である。といっても、この二つのものは互いに反対の極に立つのであって、一方には遊休資本が立ち、他方には遊休労働者人口が立つのであるが。」 (同前 大月版④ P314-315)

 不破さんの論法だと、悪いのは、能力のない「大きな事業部門の指導者たち」で、一番悪いのは、そこに資本を「信用の形で用だて」た金融資本ということになる。マルクスやエンゲルスはそんな次元の低いことを一生かけて論じているのではありません。資本主義的生産様式の矛盾の曝露、歴史の必然、労働者階級の歴史的使命を論じているのです。

  例によって自分に都合の良さそうな文章を持ってきて、「あまりにも現実離れした議論」をしているのは、不破哲三氏の方です。共産党員を古典など読まない、中央の言いなりの「でくの坊の集まり」とでも思っているのでしょうか。不破哲三氏は、こんな見えすいたウソでマルクスをバカ呼ばわりして、恥ずかしいとは思わないのでしょうか。

〈不破哲三氏は自分の「立論」の仕方に似せてマルクスを描くのか〉

 不破さんは、「『恐慌=革命』説を背景に、利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定がさきにあり、そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込みが、マルクスを、こうした無理な立論に固執させた」のではないでしょうかと、マルクスの研究態度を誹謗し人格を傷つける放言を行っています。

  私は不破哲三氏の『恐慌=革命』説なるものが不破氏の創作であること、「利潤率の傾向的低下の法則」の経済循環との関係、資本主義そのものの限界との関係について、マルクス・エンゲルスの文献を引用しながら論証してきました。

 マルクスもエンゲルスも、彼らの生きた時代に起きた事実にもとづき、事実を分析して、真理の解明に努力してきました。これは、科学的社会主義の学説の基礎にある、最も基本的な研究態度です。だからこそ「科学」ということができるのです。

 私が不破哲三氏を許せないのは、科学的社会主義を旨とする人が絶対にしてはいけないこと──それは、予断にもとづき「無理な立論に固執」することで、マルクスとエンゲルスの研究態度とは相容れないものですが──を、あたかも、マルクスがしているかのように断定し、マルクスの研究態度を誹謗し、その人格を傷つけるような放言をしていることです。不破さんは、マルクスを、まるで不破さんと同類の人間ででもあるかのように、おとしめようとしていることです。

 マルクスとエンゲルスの研究態度は不破さんの描くものとは180度異なります。そのことを簡単に見てみましょう。

マルクス・エンゲルスの研究態度と私たちが学ぶべきこと

 マルクスは自らの研究態度について、『(経済学批判(序言)』で「経済学の分野における私の研究の道すじについての以上の略述は、ただ、私の見解がどのように評価されようとも、また支配階級の利己的な偏見とはどれほど一致しないとしても、それが長年にわたる良心的な研究の成果であることを示そうとするものにすぎない。しかし、科学への入り口には、地獄への入り口と同様に、つぎの要求がかかげられなければならない。

   ここにいっさいの恐怖をすてねばならぬ

   いっさいの怯惰はここ死なねばならぬ*  *ダンテ『神曲』から  」(レキシコン③-[318]P397)と、「良心的な研究の成果であることを示そうとするものにすぎない」こと、だから、恐れるものは何もないことを述べています。

 そして、『エンゲルスあてマルクスの手紙1868年10月10日』では「相争う教議の代わりに、相争う諸事実とそのかくれた背景をなす現実の諸対立とをおくことによってのみ、われわれは経済学を一つの実証的な科学に転化することができるのだ。」(レキシコン②-[38]P131)と言い、マルクスとエンゲルスが、いかにして「経済学を一つの実証的な科学に転化」したかを述べています。

 このように、「経済学を一つの実証的な科学に転化」したからこそ、エンゲルスは、「マルクスの見解全体が、一つの教義ではなくて、一つの方法です。……それより進んだ研究のよりどころであり、またこの研究のための方法なのです。」と『ゾンバルトあての手紙1895/03/11』(レキシコン③-[309]P383)で、マルクスの見解のもつ意味を述べています。

 そして、エンゲルスは『ヨーゼフ・ブロッホあての手紙 1890.9.21/22』(レキシコン⑤-[151]P333-339)で「歴史における究極の規定要因は、」経済的要因であること。現実の世界にあるのは、「経済的な状態が土台ですが、しかし上部構造のさまざまの要因」の交互作用であり、「全ての無数の偶然事を通じて、終局的には経済的運動が必然的なものとして自己を貫徹」することを述べるとともに、この理論は、マルクス・エンゲルスの原典で研究してほしいこと、正しく理解しないと「おどろくべきがらくたをつくりだ」すことになることを述べています。

  だから、私たちは、「おどろくべきがらくた」からではなく、マルクス・エンゲルス・レーニンから直接学ぶことが何よりも大切です。

 

ちょっと、ひと休み。   ことわざ、名言集

 

 内的な関連から疎外された、それだけとして見ればばかげたものである現象形態のなかで、彼らは水中の魚のように気安さを覚えるのである。

〈『資本論』第3巻 第2分冊『資本論』⑤ P998B1-999B6〉

 

 資本主義的生産様式の内的関連をわすれると、「自由な時間」論のようなノー天気な考えが泉のように湧きでてくる。

不破さんの誤りの原因は、弁証法の無理解なのか、「自己顕示欲」病のせいなのか

  不破さんは、今回も、マルクス・エンゲルスの生きた年代とそのとき起きている事実を無視して、マルクス・エンゲルスの考えを歪曲し、それを単純化して『恐慌=革命』説なるものを創作しました。一方で、恐慌の究極の根拠であるマルクスいう「基本的矛盾」と恐慌の原因であるエンゲルスのいう「根本矛盾」、それらの様々な要素やその発展形態の分析を、マルクスの恐慌論からぬき去り、「資本の現象的な流通形態」の中の短縮された価値「実現」のなかに独自の「恐慌の運動論」を「大発見」しました。その結果、「利潤率の傾向的低下の法則」の経済循環との関係はもちろんのこと、資本主義的生産様式そのものの限界の探求も、不破さんは全て捨て去ってしまいました。そして不破さんは、科学的社会主義の学説についての一定の理解を持っている人なら驚くような、マルクスの文章の捏造と研究態度にたいする冒涜を行います。

 その原因は、弁証法の無理解なのか、「自己顕示欲」病のせいなのか。それとも不破氏のもつ根本思想のせいなのか?あるいは、何らかの理由で、科学的社会主義の思想の修正を誰かに強制させられているのか?

 残念ながら、知る由もない。

マルクス・エンゲルスが教えた資本主義的生産様式における景気循環・恐慌の意義

  不破さんが、本当に科学的社会主義の学徒であるならば、マルクス・エンゲルスが教えた資本主義的生産様式における景気循環・恐慌の意義について、少なくとも、次のことを私たちに伝えるべきでした。それは『前衛』を読む党員・読者への不破さんのコミュニストとしての義務です。

1、資本主義的生産様式における景気循環・恐慌の意義について

 A、当面の矛盾の解消

  a、生産と消費のアンバランスの解消

   b、生産手段の価値の減価による低下した利潤率の回復と過剰資本の甦生

 B、生産の社会化の促進、ただし資本主義的な 

   a、個別企業での生産管理体制の高度化

   b、生産手段の集中と再編の促進

   c、社会の危機管理能力の向上

 C 、労働者の階級的団結の強化、社会変革のエネルギーの蓄積について

2、恐慌の原因とその克服について

 恐慌の究極の根拠(原因)は資本主義生産に内在する矛盾=マルクスの「基本的矛盾」のあらわれである「生産と消費の矛盾」にあること。そして、資本主義的生産の無政府性、「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」(エンゲルスのいう「根本矛盾」)の中で攪乱された均衡が、「恐慌」の強力的な爆発を生むのこと。体制が変革され「根本矛盾」がなくなり、社会内部の「基本的矛盾」が解消されない限り、「恐慌」はなくならないこと。その任務は労働者階級が担うこと。

 不破さんの「論文」には、これらのことがいっさい欠落しています。あるのは、マルクスに対する誹謗と中傷だけです。

「現代の経済現象」を「架空の需要=恐慌」説で説明する不破哲三氏の時代遅れの一面性

 不破さんは、『前衛』2015年1月号の最後で、「恐慌の運動論で現在の経済現象を見る」との「補論」を書いています。内容は、リーマン・ショックを、今日の資本主義を無視して、不破さんの創作した「恐慌の運動論」に基づく「架空の需要=恐慌」説──それも、「『架空の需要』で住宅市場の拡大をはかった住宅業界の商法」などと住宅ローンを、マルクスの言う「架空の需要」とはまったく関係ないのに、「架空の需要」に仕立てあげて──で説明するというお粗末なものです。関連して、2009年に行われたという「日中理論会談」で、不破さんの創作した「恐慌の運動論」を説明し、設問に答えたことが述べられていますが、その内容は不明で、自著の宣伝なのか自慢話なのかよくわからないことが書かれています。

 詳しく見てみましょう。

  不破さんは『前衛』2015年1月号(P150)で「『流通過程の短縮』、『架空の需要』など、マルクスが分析した恐慌の運動論は、いまでも、さらに多様な現代的な形で生きており、現実に恐慌を生み出したのでした」と「架空の需要」が「恐慌を生み出した」ことを述べ、現在の経済現象を、不破さんの現代を見ることのできない歪んだ目で、説明しようとしています。

 不破さんは、一方で、マルクス・エンゲルスの考えを歪曲し、それを単純化して「恐慌=革命」説なるものを創作し、もう一方で、マルクスが「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明」するなかでの一つの環・要素である、短縮された価値「実現」による「架空の需要」だけを取り出し、それが資本主義的生産様式の恐慌の原因であるとする「恐慌の運動論」を「大発見」しました。不破さん流にいえば、「架空の需要=恐慌」説である。

〈リーマン・ショックは、不破哲三氏の言う古典的な「架空の需要」が原因ではない〉

  不破さんは、リーマン・ショックが起きたとき、「『架空の需要』にもとづく生産の無制限的拡大とその破綻という過程が典型的に現われていた」と言います。しかし、「リーマン・ショック」は、不破さんが言うような古典的な「架空の需要」が「典型的に現われ」たものではありませんでした。

  70年代のはじめ以降、先進資本主義諸国の経済成長が限界に達しつつあるなかで米国のドル垂れ流し体制が確立し、新興国の資本の吸収量を遙かに上回る余った資金が〝資本〟として機能する(G─G′として機能する)条件を失うなかで、資本主義社会──生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態を持つ社会──の末期現象として、それらの〝資本〟として行き場のない資金に虚業の場を提供するために、〝時価評価〟や〝ブラックボックス化した債権のパッケイジ〟や〝レバレッジ〟等を要素とした金融商品が、資産バブルを前提に金融資本主導で作られます。

 リーマン・ショックは、その金融商品の中にサブプライム・ローンといわれる住宅ローンが組み込まれていることによって起きました。

 米国は経済の活力を回復するために〝強いドル〟を演出し、自国に世界中からお金を集めようとし、世界のマネーも〝儲け〟をもとめてアメリカに群がりました。リーマン・ショックが起こる数年前、日経新聞のホームページ上で米国経済と株価の動向をめぐりドイツ証券の武者氏と野村證券のエコノミスト──梅津氏か千賀沼氏か記憶がはっきりしないが──との間で一年近くに及ぶ経済と株価をめぐる論争がありました。武者氏は経済のファンダメンタルズから米国経済の後退と株価の下落を主張し、野村證券のエコノミストは経済の勢いからまだ好景気が続き、株価も堅調に推移するというような内容でした。結局、その時は、野村證券のエコノミストが勝利しました。しかし、それから一年くらいたった後、忘れた頃に、やっと、リーマン・ショックが起きます。その間、米国の資産の価値は上がり、土地も住宅の価格も上がり、マネーを手にした米国人は旺盛な実需をつくりました。だから、武者氏は野村證券のエコノミストに負けたのです。この時の好景気は、不破さんの言うような、資本の価値実現の短縮のための信用の活用に起因する、古典的な、「架空の需要」にもとづく生産の無制限的拡大に起因するものではありませんでした。

  リーマン・ショックの引き金となったのはサブプライム・ローンといわれる所得の低い人向けの住宅ローンでした。米国にお金が流れ込むことによって米国の資産の価格はあがります。そうすると、ローンで借りて住宅を取得した人は、その住宅の価格が上がり、その人の信用力は増し、ローンの借り換えすれば以前の信用力との差だけ現金が入り、その現金を使うことができるようになります。現代の錬金術です。サブプライム・ローンは、ローンが払えなければ住宅を手放せばそれですむという仕組みの、お金を生み出す便利な装置でした。住宅も車も、その他もろもろの商品の「実需」は旺盛だった。だから、武者氏は野村證券のエコノミストとの論争に敗れた。不破哲三氏のいう古典的な「架空の需要」の問題など、社会主義的「記帳と統制」の技術的基礎をを準備する資本主義はほぼ解決し、需給動向を正確につかみ、商品が売れなくなる徴候が出ればすぐ労働者の首を切ればすむようになっています。しかし、不破氏の「恐慌の運動論」には出てこない致命的な欠陥が資本主義的生産にはあります。それは、生産を拡大すればするほど「利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本──そして新たに形成される資本の若枝はつねにこれである──の過多」(『資本論』 大月版④ P314)が顕在化するということです。それを補い、需要を増やすために、資産価格を増加させる政策がとられるのです。だから、前にも紹介したように、水野和夫氏は、『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』で、利潤率の低下した先進国は資産価格を上げる政策を進めることを主張したのです。

 リーマン・ショックは、米国への資金流入による資産バブルによりサブプライム・ローンに係わる個人の信用の増加、米国の好景気とサブプライムローンの価格上昇等による世界的なマネーの好循環が、資産バブルの行き詰まりにより一気に崩れたことに起因します。景気の循環過程の「架空の需要」などのせいではありません。資本主義的生産様式そのものが社会的生産能力の「桎梏」であることが、「資産バブル」の崩壊を通じて顕在化したためです。

 これまで深刻な恐慌が来なかったのは、米国のドル垂れ流し体制が確立したことと先進国で過剰になった資本が新興国に吸収されたことによります。だから、新興国に矛盾がたまった時とドルの価値が疑われた時、世界経済の大混乱が起こることは疑いありません。もちろん、ドルが世界中に余っている以上、2008年のような金融バブルによる危機が、今後も、繰り返し何度も起こることだけはまちがいありません。

〈資本のためのグローバル経済の今日の特徴〉

  70年代のはじめ以降先進資本主義国の経済成長は限界に達し、自国内で〝資本〟としての役割を果たせなくなってきたマネーは、一部はギャンブル資金として、一部は新興国での搾取の資金として使われています。

  〝先物〟や〝時価評価〟や〝ブラックボックス化した債権のパッケイジ〟等々に〝レバレッジ〟を効かせて作られた様々な金融商品の取引が「市場」を〝鉄火場〟としてギャンブルが行われます。〝鉄火場〟としての「市場」での取り引きは、現物の取引とは無関係に行われるは虚業であり、資本主義を円滑に運営するためのG─G′とは無関係です。まさに、資本主義の末期現象ともいえるものですが、このギャンブルによって、実体経済は翻弄され続けます。

*G─G′つまりG─G+ΔGは貨幣取引業者の貨幣資本、貸付(貨幣)資本家が生産資本家に貸し付ける貨幣資本の運動を表したもので、①そのΔGは生産資本家が労働者から生み出させた剰余価値=利潤がその源泉であり、②その水準は他の商品のように需要と供給が一致したとき商品の市場価格が生産価格と一致するような一定の水準があるものではなく、競争によって強制される法則よりほかに利子率の「自然的」率というものは存在しないことをマルクスが述べているものです。(資本論第3巻、第4篇第19章及び第5篇第21章を参照)

  新興国で〝資本〟としての役割を担うマネーは、次のような二つの否定的役割を演じます。一方で、労働者が創った富を海外に持ち去ることによって、母国の経済を空洞化させ、その国の労働者の労働条件を悪化させます。同時にもう一方で、〝資本〟の輸入先では、〝資本の本源的蓄積〟期のような農民の土地からの引きはがしや劣悪な労働条件の強要を含む、母国の労働者以下の労働条件での労働者の雇用が行われます。

〈不破さんの「補論」には、肝心な、「諸国民の生活を豊かにするためのグローバル経済のあり方」がない〉

 不破さんは、「架空の需要」が恐慌を生み出したこと、金融資産の規模が167兆ドルにのぼることを述べたあと、「この経済危機は、文字通り、『過剰生産恐慌と金融危機の結合』だったのです」と「現在の経済現象」を見ています。しかし、リーマン・ショックで明るみに出たのは、かつての様な「過剰生産」ではありませんでした。

 リーマン・ショックなるものの正体は、先ほど見てきたように、先進資本主義諸国における資本主義的生産様式のもとで利潤率の低下による社会的生産能力の過多のもとで、需要を作りだすことを自らの使命と考える資本主義にしがみつく学者たちの知恵を使っての、資産価格の上昇にともなう購買力の向上による景気の好循環と、それに寄ってたかってマネーが悪乗りした結果としての市場の「暗転」によるマネーのショートでした。

 残念ながら、不破さんからは、なぜ世界の「金融資産の規模が167兆ドル」になっているのかの説明も、グローバル資本の動向に対するマルクス主義的処方箋もありません。あるのは、不破さんが思い込んでいる、「恐慌」=「過剰生産」という「恐慌」と「過剰生産」との短絡的な結合の図式と、「金融危機」という目でみえた「現象」だけから、「過剰生産恐慌と金融危機の結合」という、観念論的で抽象的な、因果関係の説明も何もない、学び甲斐のない、結論があるだけです。そして、「日中理論会談」の話を持ち出しますが、私たちが「補論」を読んで分かるのは、不破さんが自ら創作した「恐慌の運動論」をマルクスの考えででもあるかのように説明し、設問に答えたということだけで、どのような「会談」がおこなわれたのか、さっぱりわかりません。

 私たちは、科学的社会主義に接しはじめたときから、先輩たちに〝変革の立場〟で生きることを教えられてきました。しかし、不破さんのこれらの文章には何が問題で、何をどう変える必要があるのかがありません。その代わりにあるのは、「日中理論会談」で「恐慌の運動論」を説明し、設問に答えたということだけです。不破さんにとっては「恐慌の運動論」がαでありωなので、それさえ書けばよいのかも知れませんが、『前衛』の読者にとっては、はなはだ不十分極まりない文章です。不破さんは、「日中理論会談」の話しをなぜ出したのでしょうか。「日中理論会談」のことを書いた自著の宣伝のためだったのでしょうか、それとも「恐慌の運動論」の偉大さをあらためてアピールするためだったのでしょうか。いずれにしても、これでは、「日中理論会談」のことなど書く必要はなかった。

 『前衛』は革命党の機関誌ならば、もうちょっとしっかりしなければならない。そうしないと、なんだか分かったような分からなかったような訳の分からない文章をよんで分かったような気になれる人以外、誰も、『前衛』を読む人などいなくなってしまう。

 書いているうちに、イライラして、つい脇道にそれてしまいました。

 グローバル資本、余剰マネー、そして富裕層が、無秩序な世界経済を利用して傍若無人にふるまい、富をむさぼっています。グローバル資本の横暴を押さえ、かれらへの富の集中をやめさせ、世界人民の国民福祉の増進のために、私たちは何をしなければならないのか。不破さんの「補論」には、肝心な、〝諸国民の生活を豊かにするためのグローバル経済のあり方〟が、まったく、ありません。あるのは、自らの偉大さの誇示だけです。

〈諸国民の生活を豊かにするためのグローバル経済のあり方〉

 世界のマネーをどう規制するのか、グローバル資本をどう規制するのか。それは、明らかです。それは、前述の〈資本のためのグローバル経済の今日の特徴〉に対応した施策を実施することです。

 まずはじめに、各国人民が国民国家としての権利を行使し、その国の国民が自国の資本をコントロールすることです。そして同時に、これらの権利を行使するうえでの障害を除去するための国際ルールを世界に認めさせる(標準化する)必要があります。「国際ルールの確立」をまって「大企業の民主的規制」をするのでは、国民国家としての権利を行使するうえで、肝心な点が抜け落ちることとなるとともに、その間のかれらの悪行を指をくわえて見逃すこととなり、国民の期待に応える政策的な探求をさまたげることになります。だから、残念ながら、日本共産党が言うように「国際ルールの確立」によって「大企業の民主的規制」を行うというのは、主体性のない、他力本願の、逆さまの議論だといえます。加えて、「共産党」にとってより一層問題なのは、「国際ルールの確立を」とお題目を唱えるだけで、「国際ルールの確立」のための考え方と具体的な提案が欠けていることです。

 このような観点から、グローバル資本等から国民国家と国民を守るために、①インターナショナルな視点で日本をどう変えるか②余剰マネーの市場攪乱にどう対応するか③国民の富を搾取・収奪した富裕層の富のもちだし、税逃れに対してどう対応するか、を具体的に提起し、何が問題かを国民に明確に示す必要があります。

 なお、「金融取引税」については、国際的な金融取引回数を抑制することと、消費税のように税収増を図るためのものであり、余剰マネーの動きを根本から抑えるものではなく、「金融取引税」を唯一の対策のように述べるのはまったくの誤りです。「金融取引税」は、架空の取引を止めさせるものではなく、資本主義国の増収策にすぎないことを付記しておきます。

 同時に、資本主義諸国が「タックスヘイブン」をなくすことや、グローバル資本の「移転価格操作」の根を断つことに真剣に取り組んでいないことも国民に徹底的に曝露する必要があります。

*詳しくは、ホームページ「国際社会とどう向き合うか」を、是非、参照して下さい。

〈「補論」についての、青山の感想とまとめ〉

①「補論」についての感想 

 「補論」について、やはり、不破さん流にいえば、「補論」を読んでまず感じたことは、「『架空の需要=恐慌』説にもとずき、『架空の需要』から資本主義の『恐慌』を説明できるとする断定がさきにあり、そこから「現在の経済現象」を説明すればよいという思い込みが、不破哲三氏を、こうした観念的で無意味な文章に固執させた」のではないかということです。レーニン全集の第10巻 P31『党組織と党文献』によれば、「すべての比喩は不完全である」というドイツの格言があるそうです。だから、私が不破さんに習って、不破さんの考えを単純化して言うのは「不完全」なことですが、マルクスにたいして乱暴な言い方で不破さんがおこなった、マルクスの思考回路にたいする批判は、実は、マルクスの思考回路ではなく不破さん自身の思考回路への批判であり、それがそっくり不破さんに当てはまることを示すためですので、その「不完全」をお許し下さい。

②「補論」に関するまとめ                                  

  第一に、先進資本主義諸国は、リーマン・ショックから脱出するために、一層深刻で新たな景気変動をもたらす可能性のある大規模な金融緩和を行い、ふたたび同様な「危機」を起こさないための金融機関の規制強化をおこなったが、とても、のちの「生産拡大の準備を整えるもの」とはいえない。それは、成長期の資本主義との違いをはっきりと現すもので、資本主義的生産様式の末期を示すものとなっている。

 第二に、不破さんは、自ら創作した「恐慌の運動論」という一面的で誤ったドグマからしか現代の資本主義を見ることができず、経済学という科学を放棄し、コミュニストとしての「変革の立場」を失ってしまった。

  第三に、「日中理論会談」に参加した人たちのなかに、マルクス・エンゲルス・レーニンの思想を受け継いでいる人がいるとしたら、その人たちは「会談」を通じて、世界経済の現実の動きを理解していない不破さんがマルクス主義者ではないことに気づいたと思う。この「会談」に参加した人たちが、同志と思い安心したのか、それとも失望したのか、は不明である。

 第四に、「恐慌」や「産業の空洞化」が資本主義的生産様式と生産力の発展との矛盾として存在し、資本主義的生産様式が社会の発展の「桎梏」であることが国民に意識されるならば、「恐慌」や「産業の空洞化」は社会変革の「火種」となりうる。リーマン・ショックが起きてもオキュパイ程度の運動しか起きなかったのは、強力な科学的社会主義の運動がなかったからであり、『赤旗』が『イスクラ』ではなかったからである。

不破さんの言う、マルクスの「革命観の大転換」と「資本主義観の大転換」は、真実か。

 不破さんは『前衛』2013年12月号(P97)で「マルクスは、はじめは恐慌が必ず革命を生むと考えてい」たが、「革命観に大きな転換が起き」、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」と思うようになり、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がなく、資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」ということを解明し、「革命観の大転換」と「資本主義観の大転換」がおこなわれたと述べているが、それは真実か。見てみましょう!

〈マルクスは革命が無準備のままで始まるなどと考えたことはないし、私たちもそう考えたことなどない〉

 不破さんがマルクスの考えとする『恐慌=革命』説は、〈資本主義社会の発展段階を無視した不破哲三氏の『恐慌=革命』説は歪曲か創作か〉で明らかにしたように、不破さんの創作でした。そして、当時、マルクスもエンゲルスも「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と考えていたが、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるもの」などとは考えてはいませんでした。

 マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』(1847年)で次のように述べ、労働者の闘争の本当の成果は労働者のますます広がっていく団結であることを訴えています。

「時々労働者が勝つことがあるが、ほんの一時的にすぎない。かれらの闘争の本当の成果は、その直接の成功ではなくして、労働者のますます広がっていく団結である。この団結は、大工業によって作り出される交通手段の成長によって促進され、異なる地方の労働者はそれによってたがいに結合される。そして、各地の一様な性格をもった多数の地方的闘争を一つの国民的な、階級闘争にまで結集するためには、この結合があればそれでよいのである。しかし、あらゆる階級闘争は政治闘争である。……

 階級としての、したがってまた政党としての、プロレタリアの組織は、労働者自身のあいだの競争によって、常にくりかえし破壊される。だがこの組織はそのたびに復活し、次第に強く、固く、優勢になる。そしてそれは、ブルジョア階級相互の分裂を利用することによって、労働者の個々の利益を法律の形で承認することを強制する。イギリスにおける十時間労働法はその一例である。」(岩波文庫P51-52)

 また、「恐慌」が「利潤率の低下」と深く関わっていることは先に見たとおりです。資本主義が続くかぎり、恐慌は、「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になり」ますが、同時に、社会主義社会への物質的基礎を一歩一歩準備します。そして、マルクスは、『ロシアのトルコに対する政策──イギリスにおける労働運動』(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1853.7.1付)で景気循環にともなう賃金の上下、賃金と利潤の変動、これらに照応しての「雇い主」と「労働者」とのあいだのたえざる闘争が労働者に自己解放の力を与えることを述べています。つまり、「事態の発展のなかで」「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」が「明るみに出て」、それを自己解放の力に変えることが労働運動の最も重要なことだと言うことをマルクスもエンゲルスも述べています(もちろんレーニンも)。

*なお、不破さんは「事態の発展のなかで」「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」が「明るみに出る」などというのはおかしいと、『前衛』2014年1月号で言っています。ホームページ4-8「不破さんは、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」は「資本主義の発生の時点から」あるのに、事態の発展のなかで明るみに出るのは矛盾だと、自分の理解力のなさを根拠にエンゲルスを誹謗している。」を参照して下さい。

 だから、労働者党が誤った方針を提起したり、自覚的労働者や労働者党が物理的打撃を受けないかぎり、「景気循環」の「一回ごとに資本主義の危機が深まるわけ」です。「危機が深まらない」、つまり、「労働者のますます広がっていく団結が実現しない」としたら、労働者党は自己の責任を強く感じなければなりません。そして、その責任の多くを不破さんが負わなければなりません。

 そして、何よりも重要なのは、不破さんがこのような主張──恐慌は、資本主義が循環的に運動してゆく一局面であり、資本主義の危機が深まるわけではないという主張──をするということは、不破さんが、現実をリアルに見る能力がないだけでなく、マルクス・エンゲルス・レーニンの革命論をまったく理解していないからです。

 資本主義社会は時の経過にしたがって矛盾を深めていきます。資本主義社会は、常に大きな需要がなければ成り立たない社会です。需要を生産性が上まわれば、資本主義社会は収縮していきます。高い生産性を獲得した資本主義社会は、社会の一層の発展を図るためには、資本の私的所有をやめ、資本の私的所有のもとで活用することができなくなった富を必要な分野へ円滑に移動できる社会、〝国民の新しい共同社会〟へ生まれ変わることが必要です。そのことによって、社会全体が必要とするモノ・サービスのバランスのとれた配分と大きな景気変動なしの一層の生産性の向上が実現します。

 そしてこの、「富を必要な分野へ円滑に移動できる社会」は、国民各自が自主的な判断をもって自らの意思で正しい決定をくだすことのできる社会でなければならず、その社会の中核を担う労働者階級の役割はとりわけ大きいのです。

 そのような歴史展開を理解したマルクスとエンゲルスは、全ての国民が新しい共同社会の担い手として、社会の主人公としてその役割を果たす〝革命〟の中核を担うものとし〝労働者階級〟を発見し、その歴史的使命を自覚させるための組織としての〝前衛党〟の役割を明らかにしました。この思想を受け継いだレーニンは「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織する」ことを社会主義建設の基本にすえ、そのために尽力しました。これがマルクス・エンゲルス・レーニンの革命論の中心点です。

  不破さんは、このことが理解できないからトンチンカンなことを言うのです。

*詳しくは、ホームページ4-24「マルクス・エンゲルス・レーニンへの誹謗中傷から現れる不破哲三氏の革命論」を参照して下さい。

〈変わったのはマルクスではなく、不破哲三氏ではないのか〉

  不破さんは、「ここでは、もう資本主義の見方も、革命の見方も変わっているのです。その立場から、労働者の運動が資本主義を変革する運動に発展する道筋についても、そういう闘争を積み重ねるなかでの労働者の自覚の成長・発展を軸に社会変革が日程にのぼってくるという新しい見方が、短い言葉できちんと説明されています。」(P98)と言います。

 宮顕さんがレーニンに習って党綱領を練り上げ、それを学んで共産党に近づいた私たちは、これまで私が述べてきたことを何の違和感もなく、マルクス・エンゲルス・レーニンの一貫した思想として、当然のこととして受け止めていました。そして私はマルクスとエンゲルスの言葉を引用して、マルクスとエンゲルスの「革命観に大きな転換」など「起き」ていないことを示してきました。

 「革命観に大きな転換が起き」、「資本主義の見方も、革命の見方も変わっている」のは、マルクスではなく、不破さんなのではないのか。それが生来のものなのか、80年代になってからなのかわからないが、2001年以降、不破さんは、公然とマルクス・エンゲルスを歪曲・修正してきました。2004年綱領には「労働者階級」という言葉は出てくるが労働者階級の歴史的使命は出てきません。そして、宮本顕治さんが『ロシア社会民主労働党綱領』から学んだと思われる、旧綱領にあった「労働者階級の歴史的使命」を果たす上での記述の明確さが現「綱領」から消えてしまいました。不破さんは、このころ完全に「革命観を転換」し、「アンテグラリスト社会主義者」に非常に近い立場を公然と表明するようになりました。「資本主義の矛盾」について、「桎梏」について、「『生産物の分配の仕方』より『人間の発達』の重視」について、etc、驚くべき考えが、不破さんにより、次々に表明されてきました。

 これに乗じて、『前衛』誌上には「新しい福祉社会」論が大手を振って闊歩しています。「ルールある資本主義」や「新しい福祉社会」では日本の「産業の空洞化」を食い止めることはできません。

 また、2013年1月24日付けの『赤旗』の山谷学習・教育局長の党員向けの〝檄〟文では、国民は「模索と探求の過程」で「さまざまな政治的体験を経ながら」「扉は開かれる」、「ここをしっかりと討議することが大切」だと言うが、何を討議するのかさっぱり分からない。そして、日本共産党は「〝北斗七星〟のような輝きを増す時代になっている」とか、「冬の時代」だとか「激動の時代」だとか、「運動には山や谷がある」とか「歴史には高揚期と停滞期がある」とかいう。マルクス主義の認識方法の欠片もない。もしも、党本部の中でこのような「討議」が違和感なく日常的に行われており、それが『赤旗』に現れてしまったのだとしたら、ことは深刻だ。

 もしかしたら、不破さんの非マルクス主義的な思想が党本部のなかに蔓延し尽くしているのかも知れない。そうであるならば、あまりにも悲しい。

このページの参考資料。

 

 

レーニン『我が党の綱領草案』(1899年末に執筆)

「綱領は、われわれの基本的な見解を定式化し、われわれの当面の政治的任務を正確にさだめ、煽動活動の範囲を標示すべき当面の諸要求をしめし、煽動活動に統一性をあたえ、煽動活動をひろめまたふかめ、煽動を小さな、ばらばらな要求のための部分的、断片的な煽動から、社会民主主義的な諸要求の総体のための煽動へたかめなければならない。……

 こうして、われわれの意見では、ロシア社会民主労働党の綱領の構成部分は、つぎのようなものでなければならない。(一)ロシアの経済的発展の基本的性格をしめすこと。(二)資本主義の不可避的な結果、すなわち、労働者の貧困の増大とその憤激の増大をしめすこと。(三)プロレタリアートの階級闘争をわれわれの運動の基礎としてしめすこと。(四)社会民主主義的な労働運動の終局目標、この目標の実現のために政治権力をたたかいとろうとするその志向、運動の国際的性格をしめすこと。(五)階級闘争の必然的な政治的性格をしめすこと。(六)ロシアの絶対主義は、人民の無権利と抑圧の条件となっている点で、また搾取者を庇護している点で、労働運動の主要な妨害物であり、したがって、政治的自由の獲得──それは社会発展全体のためにも必要である──こそ党の当面の政治的任務をなしていることを、しめすこと。(七)党は、絶対主義に反対して闘争するすべての党と住民層を支持するであろうし、わが国の政府のデマ的な脆計にたいして闘うであろうということを、しめすこと。(八)基本的な民主主義的諸要求と、つぎに(九)労働者階級のための諸要求、(一〇)農民のための諸要求を列挙し、これらの要求の一般的性格を説明すること。」(レーニン全集 第四巻 P244~270)

 

『アンテグラリスト社会主義者』

「十九世紀末 のフランス、ベルギー、イタリアの労働運動内にあった改良主義的・日和見主義的な一流派である。マルクス主義に反対して社会主義は労働者階級ばかりではなく、なやめる全人類に立脚すべきである、と主張した。したがって、科学的社会主義の「狭さ」に反対し、階級闘争に反対し、階級間の平和とブルジョアジーの「りっぱな分子」との協力を説いた。彼らはブルジョアジーにむかって、論理と公正の原理にしたがって行動するよう、そして彼らの個人的利益にしたがって行動しないように呼びかけた。彼らは、経済的要因が決定的要因であることを否認し、すべての社会的要因のアンテグラリテ(全体)を強調したが、このことは道徳的要因を優位におくことを意味した。」(レーニン全集 第14巻P443~444 事項訳注)

 

ホームページ「国際社会とどう向き合うか」の原稿

 グローバル資本、余剰マネー、富裕層が無秩序な世界経済を利用して傍若無人にふるまい、富をむさぼっています。グローバル資本の横暴を押さえ、かれらへの富の集中をやめさせ、世界人民の国民福祉の増進のために、私たちは何をしなければならないのか。

 それは、まず第一に、各国人民が国民国家としての権利を行使し、みずから彼らをコントロールすることです。そして同時に、これらの権利を行使するうえでの障害を除去するための国際ルールを世界に認めさせる(標準化する)必要があります。

 「国際ルールの確立」をまって「大企業の民主的規制」をするのでは、国民国家としての権利の行使の点で、肝心な点が抜け落ちることとなるとともに、その間のかれらの悪行を指をくわえて見逃すこととなり、政策的な探求をさまたげます。だから、残念ながら、日本共産党が言うように「国際ルールの確立」によって「大企業の民主的規制」を行うというのは、主体性のない、他力本願の、逆さまの議論だと思います。

 このような観点から、グローバル資本等から国民国家と国民を守るために、ただちに、次のこと(例示)をおこなう必要があると考えます。

○インターナショナルな視点で日本をどう変えるか(例示)

 ☆国民国家を疲弊させ、産業の空洞化をもたらす富の持ち出しを規制し、空洞化を止め、  日本経済の再生を図り、合理的な国際分業を推進する。

 ☆海外での安い労働力の利用を規制し、海外との賃金格差の解消(海外の労働者の労働条  件の改善)を図る。

 ☆お金の流れの徹底した透明化と海外での資産隠しの厳罰化、そのための税務調査権の強  化。

 ☆海外での投機の禁止

  ★これらを踏まえた、国民国家の安定性と資金の流れの透明性を保障する国際的ルール  づくりのためのイニシアティブの発揮。

○余剰マネーの市場攪乱にどう対応するか(例示)

  ☆実需を基礎にしない取引を規制し、実需を前提とした取引に限定。

 ☆金融商品の透明性の確保。

 ★これらを踏まえて、金融商品の透明性の確保と実需を前提とした取引に限定するよう

  取引を国際的に規制する国際的ルールづくりのイニシアティブの発揮。

 なお、「金融取引税」については、国際的な金融取引回数を抑制することと、消費税のように税収増を図るためのものであり、余剰マネーの動きを根本から抑えるものではなく、「金融取引税」を唯一の対策のように述べるのはまったくの誤りである。

○国民の富を搾取・収奪した富裕層の富のもちだし、税逃れに対してどう対応するか(例 示)

 ☆海外に富をもちだして稼いだ海外の富の税金逃れを規制する

 ☆海外に住所を移している場合、生活費を超える海外への富の持ち出しに対し特別の税  を徴収する

 ★これらを踏まえて、各国が税務調査への全面協力をするなど、国際的ルールづくりの  イニシアティブの発揮。

 これらの例示のように、何が問題かを国民に明確に示す必要がある。

 同時に、資本主義諸国が「タックスヘイブン」をなくすことや、グローバル資本の「移転価格操作」の根を断つことに真剣に取り組んでいないことを、広く、国民に示す必要がある。