AZ-3-1

エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説

ーー「『資本論』探求」で欠落しているものと不破哲三氏の誤った主張ーー

その1「『資本論』第一部を読む」を検証する。

「マルクス・エンゲルス」を見に、岩波ホールへ久しぶりに行ってきました。

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このページを作った理由

  不破さんは、21世紀になって「恐慌の運動論」をマルクスの著作の中で発見し、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたそうです。

 このように、21世紀になってパワーアップした不破さんは、

「未来社会の問題。この問題では、第三部第七篇の冒頭に、マルクスの比較的簡潔な記述があります。これまで見過ごされる場合が多かったのですが、『全三部を読む』ではここに注目して、かなり詳細な解説をおこないました。しかし、その時は、マルクスがここで展開した未来社会論が、社会主義・共産主義社会についての本論であって、生産物の分配方式の変化を最大の基準にして未来社会を論じた従来の理論(レーニンが『国家と革命』で理論化)と両立するものでないことにまでは、考えがおよびませんでした。この問題は、日本共産党の綱領を改定した二〇〇三~〇四年に全面的な研究をおこない、その成果に立って党綱領の未来社会の諸規定を一新しました。」(P15)

と述べて、70歳を過ぎてから、「生産物の分配方式」を変えることを含む資本主義的生産関係を変えるという、未来社会についての「従来の理論」を否定して、共産党を巻き込んだ大暴走をはじめたことを告白します。

 このような経過を経て書かれた「『資本論』探求」は、「多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違っ」た観点から、これまで大切だと思っていた多くのことを歪曲したり欠落させたりして、『資本論』の誤った理解を読者に押しつけることによって、読者をミスリードするものとなっています。

 この『資本論』の誤った解説により科学的社会主義の思想が徹底的に歪められ、『資本論』のもつ社会変革のエネルギーがそぎ落とされれることによって、不破さんの誤った指導によって弱体化され続けてきた日本共産党が、その力を、ますます失うことを少しでも軽減させるため、そして、健やかな精神をもつ若い人たちが科学的社会主義の思想の本当の姿と魅力に近づくのを不破さんによって妨げられることがないようにするため、少しでも役立つことができればとの思いで、このページを作成しました。

 ですから、このページは、不破さんの「『資本論』探求」を読んでいない人でも、不破さんの『資本論』の誤った理解がわかり、『資本論』が私たちに教えている、現代に生きる大切な考えがわかるよう、『資本論』からの抜粋も多めに取って編集いたしました。このページに触れることによって、みなさんが科学的社会主義の思想を知り、日本の現状に対す理解を深め、未来を展望する確かなよりどころを得るための、その一助となれば幸いです。

このページの構成

 不破さんは、21世紀になって、不破さんの思想が「従来の理論と両立するものでない」ことを公然と主張することができるまでに党内の支配力をパワーアップしてしまいました。「『資本論』探求」は、そんな不破さんが、科学的社会主義の思想とは無縁な不破さんの仰天思想で『資本論』を厚化粧させるために書かれたものです。

 不破さんが「『資本論』探求」で『資本論』の何を欠落させ、『資本論』にどのような間違った理解を押しつけようとしているのか、それを検証するうえで、その理解を容易にするために、まず、「科学的社会主義の思想」と「不破さんの仰天思想」との違いを認識しておくことが必要です。

 ですから、まず、「科学的社会主義の思想」と「不破さんの仰天思想」との違いを明らかにし、それを踏まえて、不破さんが「『資本論』探求」で『資本論』の何を欠落させ、『資本論』にどのような間違った理解を押しつけようとしているのかを、見てみたいと思います。

科学的社会主義の思想と「不破さんの仰天思想」

賃金闘争の意義と限界について

●不破さんは、マルクスがインターナショナル中央評議会(1865年6月)で、労働者に「どんな情勢の時でも賃金闘争で頑張らなければダメだという立場」で講演したのを踏まえ、「社会的バリケードをかちとり、『ルールある経済社会』へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだということを」強調した講義をしたという。

○マルクスは、上記の講演の記録『賃金、価格、利潤』(原題は『価値、価格、利潤』)で、①「賃金を上げても物価が上がって取り戻されるから無駄だ」とかいう考えは誤りであること、②「賃上げ闘争は、たんにそれに先だつ諸変化の跡を追うものにすぎず」労働者階級は「もろもろの結果とたたかいはしているが、それらの結果の原因とたたかっているのではない」こと、③労働運動は「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとはせず、その組織された力を労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に失敗する」ことを述べている。

 不破さんは、『賃金、価格および利潤』から、「根性」で頑張って、「ルールある資本主義社会」へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の「肉体的および精神的再生」であり、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だと言い、マルクスは資本主義的生産様式の搾取の仕組みを明らかにして、資本主義的生産様式の社会の変革の必要性を訴えた。

※詳しくは、ホームページの4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を『「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく』闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」ホームページの4-2「☆不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない。」とを、是非、ご覧下さい。

 

資本主義的生産関係を覆い隠す不破さんの「桎梏」論

○「土台で生産力と生産関係の矛盾が発展し、生産関係が生産力(発展──青山挿入)の『桎梏』になったときに社会革命の時代が始まる」(『前衛』2013年12月号 P108)と、マルクスが『資本論』で言っているように、科学的社会主義の思想は、「資本主義的生産関係」の中に生産力発展の「桎梏」を見ます。だから、「生産力と生産関係の矛盾」を注視し、その発展の仕方を研究し、その現れ方を暴露し、資本主義的生産様式の社会の限界を指摘して、その変革を呼びかけます。

●不破さんは、「人間社会の存続をおびやかす有害物」を「桎梏」と捉え、「桎梏」(生産力と生産関係の矛盾)の一時的な現れである恐慌と、まったく次元の違う地球温暖化や原発を同列にあつかうことによって、科学的社会主義の経済学と革命観・歴史観を滅茶苦茶にしてしまいます。

※詳しくは、ホームページ4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を参照して下さい。

 

資本主義の矛盾を資本の「利潤第一主義」だけに矮小化する不破さん

○マルクスは資本主義の矛盾について、大きく次の二つの矛盾を指摘しています。一つは資本主義的生産に内在する矛盾で、一方での無政府的に拡大される生産と無政府的に増大する諸商品と他方での生産者大衆の制限された最終消費という矛盾で、マルクスのいう「基本的矛盾」といわれるもので、もう一つは分配関係・生産関係と社会的生産力とのあいだの矛盾と対立で、エンゲルスのいう「根本矛盾」といわれるものです。この「根本矛盾」=「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」があるからこそ、資本主義的生産様式は社会的生産力発展の「桎梏」とならざるを得ないのです。

●不破さんは『前衛』2014年1月号で、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、科学的社会主義の思想を否定する驚くべき発言をしています。「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえるのはおかしいと思い、ほぼ10年間考えてきたという不破さんは、資本主義的生産に内在する「基本的矛盾」から「利潤第一主義」だけを抽出し、資本主義的生産様式の変革を視野の外におき、「利潤第一主義」を緩和するために資本家に「ルールある資本主義」を認めさせて、資本主義社会に「バリケード」を築くことに専念するよう共産党を導きます。その結果、グローバル資本による生産の社会的性格の破壊であり、日本の今日の経済・社会危機の最大の原因である「産業の空洞化」など、まったく眼中になくなってしまいます。

※詳しくは、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を、不破さんの資本主義的生産様式の超歴史的な「利潤第一主義」への歪曲については、ホームページ4-11「☆不破さんは「資本主義の矛盾」を「利潤第一主義」に変え、社会主義革命を「資本主義の害悪」の改善に変えようとするのか」ホームページ4-15「☆不破さんによって『空想から科学へ』から資本主義的生産関係の変革の課題が取り去られ、超歴史的な概念としての利潤第一主義の改善が目標になり、〝科学〟が「空想」に変革される。」を、是非、参照して下さい。

 

科学的社会主義の革命観と不破さんの革命観の違い

○科学的社会主義の革命観は、資本主義的生産様式の社会の分配関係・生産関係を変え、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織することを通じて」社会主義社会(=「生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階の社会」)を実現していくことです。

●不破さんは、このような従来の理論は「不破さんの仰天思想」と両立するものでないと言い、不破さんの未来社会論は、「自由な時間」の拡大と「指揮者はいるが支配者はいない」という「生産現場」(民主的な職場)作りだという。

 確かに、資本主義的生産様式の社会の変革と、不破さんの言う「自由な時間」の拡大と「指揮者はいるが支配者はいない」民主的な職場作りとは、次元の違う、「両立するものでない」というのは、正しい。

※詳しくは、ホームページ4-13「☆レーニンの資本主義観、社会主義経済建設の取り組み、革命論への、反共三文文筆家のような歪曲と嘲笑、これでもコミュニストか」及びホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

 

革命運動の担い手の位置づけの違い

○科学的社会主義の思想は、資本主義的生産様式の社会の変革は労働者階級の歴史的使命であり、労働者階級は社会変革の主体であると考えています。

●不破さんは、労働者を搾取する私的資本主義的取得の変革を「夢がない」と否定し、「夢のある自由の国」の実現のために日本共産党の綱領から労働者階級の歴史的使命を取り除いてしまい、『前衛』2015年4月号では労働者階級を「社会変革の闘士」に格下げしてしまいました。「不破さんの仰天思想」の実現のために、労働者を「社会変革の闘士」として「電話かけ」に酷使しようということでしょうか。

※詳しくは、ホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

 

「『奴隷制のかせ』からの解放」の意味の違い

○『フランスにおける内乱』の第一草稿でマルクスは、資本主義社会を「共産主義社会」に置き換えるには時間がかかること、そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならないことを述べています。『資本論』等の他の著作物同様、この場合の「奴隷制」も「賃金奴隷制」を意味しており、資本主義的生産関係からの解放と「対(つい)」の概念として使われています。

●不破さんは、「『奴隷制のかせ』からの解放」とは、「自由な生産者の連合という、生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」話で、「指揮者はいるが支配者はいない」という「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」だと言います。不破さんは「資本主義的生産様式の社会」を変革する「仕事」を「生産現場」での「仕事」の問題に矮小化し、科学的社会主義の思想を台無しにしてしまいます。

※詳しくは、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

 

未来社会に関して

①未来社会(=いわゆる共産主義社会=発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階の社会)論の修正

○マルクスは、「しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。」〈『資本論』第3巻 第2分冊 大月版 ⑤ P1051〉と述べ、「いわゆる共産主義社会」のことを〝自由の国〟と言っています。

●不破さんは、「赤旗」の「『資本論』刊行150年に寄せて」という連載の第10回「マルクスの未来社会論(2)」で、「マルクスは、人間の生活時間のうち、この時間(物質的生産にあてるべき時間──青山補注)部分を『必然性の国』、それ以外の、各人が自由にできる時間部分を『自由の国』と名付けました」と言い、マルクスは「必然性の国」以外の余暇時間を「自由の国」と呼び、資本主義社会にも〝余暇〟があり「自由の国」があると言います。不破さんの「自由の国」とは「自由な時間」のことで、マルクスの言う〝自由の国〟とはまったく異質です。

※詳しくは、ホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」ホームページ4-26「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。 

②未来社会での労働観について

<労働の意義の違い>

○マルクスは、「諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち」の社会を「いわゆる共産主義社会」と言い、労働について、「労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこと」となると考えています。

●不破さんは、物質的生産にあてるべき時間を「必然性の国」と呼ぶ理由として、「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動となります」と言い、未来社会においても、労働を「社会の構成員にとって義務的な活動」と捉えています。

※詳しくは、ホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」ホームページ4-26「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。

<労働の組織の仕方>

●不破さんは、「結合社会」の理想的な人間関係は「指揮者はいるが支配者はいない」という社会と考えています。

○科学的社会主義の思想の未来社会、「いわゆる共産主義社会」は、「分業」に「奴隷的に従属する」「精神的労働と肉体的労働との対立」のある社会、不破さんの言う「指揮者はいるが支配者はいない」という社会を超えた、その先にある社会のことです。

※詳しくは、ホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」ホームページ4-26「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。

 

 このように、科学的社会主義の思想と「不破さんの仰天思想」との間には天と地ほどの違いがあります。だから、タイトルで、あえて不破さんのことを、〝エセ「マルクス主義」者〟などと失礼な言い方をさせて頂きました。

 この違いを踏まえて、不破さんの「『資本論』探求」を読むと不破さんの意図がよく分かると思います。

 さて、それでは、「『資本論』第一部を読む」を、一緒に、検証していきましょう。

不破さんの「Ⅰ『資本論』第一部を読む」を検証する

不破さんにもっと温かい心があるならば、

「Ⅰ『資本論』第一部を読む」は、最初の「第一篇 商品と貨幣」が四回の書き換えで仕上げられたという、不破さんの蘊蓄から始まります。

 ここで私たちが注意しなければならないのは、不破さんの言う二回目までの「草稿」は、「草案」とか「草稿」と呼ばれる研究ノートのことで、直接『資本論』につながるものではありませんから、「書き換え」などという特殊なニュアンスをもった言葉で述べられるべき文章ではありません。『資本論』に直接つながる第一部の草案は、不破さんが「第一部初稿」と言っているもので、この草案は1863-64年に書かれ、これが、『資本論』第一巻の清書──マルクスからエンゲルスあての手紙によると、1866年1月1日からはじめられた──のための下書きです。だから、「第一篇 商品と貨幣」が四回も「書き換え」られた訳ではありません。

 なお、ここで私たちが注目したいのは、第二版での改訂をふくめ、マルクスの自らの仕事に対する姿勢についてです。コンラート・シュミットあての手紙(1890.8.5)でエンゲルスは、マルクスが、「彼の最善の仕事でさえも労働者にとっては依然としてじゅうぶんではないと考えていたこと、マルクスが最善のものより少しでも劣るものを労働者に提供することを犯罪だとみなしていたということ」を述べています。このようなマルクスの立派な姿勢が、不破さんが特殊なニュアンスをもって言う「書き換え」という、第二版での改訂をさせるエネルギーとなったのだと思います。

 このマルクスの姿勢は、マルクスによる『資本論』の完成をも葬り去ってしまいました。大谷禎之介の「『マルクスの利子生み資本論』2」のMEGA「解題」(P383)によれば、1878年11月には第2巻(第2部と第3部)の刊行が1879年の末には可能だと考えていたマルクスが、1879年には「『現在のイギリスの産業恐慌がその頂点に達する以前には』第2巻を刊行しない、と言明し」、1880年には「『ちょうどいましがた、若干の経済現象が新しい発展段階にはいった』ところであり、これらの現象が、新たな仕上げを要求していたのである」とのことです。

 ちょっとわき道にそれますが、1868年11月に書いたエンゲルスあての手紙に「第2巻は大部分があまりにも高度に理論的なので、ぼくは信用に関する章を、ぺてんと商業道徳との実状の告発に利用するだろう」(同上P393)と述べ、「信用制度と経済恐慌との相互連関について」、「すでに、50年代の初頭に一定のイメージを得て」(同上P392、マルクス『受救貧困と自由貿易──迫りくる経済恐慌』『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1852.11.1付等を参照。)いるマルクスにとって、1880年に「若干の経済現象が新しい発展段階にはいった」ことは、「理論的内容と内的構造とは主要な点においてすでに与えられて」いるが「もともとはあらゆる研究がもっている……荒削りの形態」(同上P408)である「草稿」を仕上げる絶好の好機が到来したと思われたのではないでしょうか。

 マルクスのエンゲルスあての1868年の手紙によれば、『資本論』は、「資本の一般的本性」を究明し、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもりであった」(同上P401)といいます。マルクスは、恐慌の進展をつうじて、「信用に関する章」で、資本の「ぺてんと商業道徳との実状の告発」をし、「イギリスのプロレタリアートの労働条件や生活条件に関する諸事実」を「資本主義批判の『例証』とし」(同上P408)、「恐慌」を革命の「槓杆」の一つとして「活用」しようとしたのではないでしょうか。

 マルクスがもう少し元気で、もう少し長生きして、とりあえず『資本論』を完成させていてくれたら、不破さんが「恐慌の運動論」なる「珍発見」などする余地などなかったでしょう。

 そして、不破さんが、「『資本論』探求」を通じて「不破さんの仰天思想」を科学的社会主義の思想ででもあるかのように思わせようとする意図などもたず、誰もが認める、「草稿」のもつ「荒削りの形態」を認め、草稿を仕上げることを「書き換え」などと言わない温かい心をもっていれば、私がここで紹介したマルクスの姿勢や第2巻(第2部と第3部)が完成に至らなかった上記のような事情も、当然、この「『資本論』探求」の中で紹介されたことでしょう。

 不破さんの性格からして、不破さんが「90年代の中ごろから取り組んできた『資本論』の形成過程についての研究」の成果を自慢したい気持ちは分かりますが、中心はあくまでもマルクスと『資本論』であることを忘れて、「四回も書き換えられた」といってマルクスにケチをつけているのでは、あまりにもマルクスがかわいそうではありませんか。

 不破さんは、マルクスがこの本を読んだとき、納得するような内容の本を書くべきではないでしょうか。

*この項の『資本論』の各章の執筆時期の記載等の大部分は大谷禎之介氏の『マルクスの利子生み資本論』に負っていますが、詳しくはホームページ4-26「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その4)」を参照して下さい。

P82-83

不破さん得意の「スリコミ」がはじまる

 不破さんは、「資本主義的搾取の発展過程の分析と、それに対応する労働者階級の発展過程の分析を、統一的に進めるという構想を確立したのです。」と述べたあと、「マルクスが著作の構想をこのように根本的に変化させた根本には、恐慌の運動論の発見にともなう著作の構想の根本的な変化、より突っ込んでいえば資本主義観の発展ともいうべき、学説上の大きな発展があったのですが、この点については、もう少し後で説明したいと思います。」といいます。

 不破さんの「恐慌の運動論の発見にともなう著作の構想の根本的な変化」うんぬんという言葉ほど、不破さんが人を騙しているか、無知なのかを示す文章はありません。

 エンゲルスはザスーリチへの手紙で、「革命的戦術を発見するには、問題となる国の経済的・政治的諸関係にマルクスの歴史理論を適用しさえすればよいのです。」(ザスーリチあてのエンゲルスの手紙 1885.4.23)と言っていますが、不破さんがグローバル資本の行動とその結果としての「産業の空洞化」を含む「経済的・政治的諸関係」に無知なのは十分理解できます。しかし、日本共産党の委員長をした不破さんが、「日本を良くしたいと思う人なら誰でも共産党員になる資格がある」と言われて入党した人ならともかく、〝マルクスの歴史理論〟を知らなかったとしたら驚きです。

 マルクスは、「人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に照応する生産諸関係をとり結ぶ。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法的かつ政治的な上部構造がそびえたち、そしてこの土台に一定の社会的意識諸形態が照応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法的表現にすぎないが、所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。」(『経済学批判』(序言) 全集、13巻、6ページ)ことを発見し、唯物史観を確立しました。

 そしてマルクスは、「資本の一般的本性」を究明し、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもりで」(マルクスのエンゲルスあて1868年の手紙)『資本論』を書き、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」(『資本論』大月版①P654)ことを明らかにしたのです。

 だから、「資本主義的搾取の発展過程の分析と、それに対応する労働者階級の発展過程の分析を、統一的に進めるという構想」はマルクスの根本思想に根ざすものであり、「新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機」の成熟についての記述は、『資本論』にくり返し出てくる『資本論』の大事な構成要素です。不破さんが創作した「恐慌の運動論」によって「構想の根本的な変化」が起きたなどというのは真っ赤なウソです。

 そして、このあとで、不破さんの真骨頂である、不破さん得意の「スリコミ」がはじまります。不破さんは、「学説上の発展」が何かも、なぜ「構想の変化」が起きたのかも説明せずに、先の文章に続けて「ここでは、マルクスの学説上の発展が構想のそうした変化を生みだし、少し前までは予定外だった『労働日』の章がその必然的な産物となった、ということだけを確認して、この章の内容にすすみます。」と言います。

 実に巧妙です。何の論証もなしに、「学説上の発展」があり、「学説上の発展」が「構想の変化」を起こしたかのように、読者に、「スリコミ」ます。〝お見事!!〟としか、言いようがありません。

P88

「第八章 労働日」の「超強力な社会的障害物」と不破さんの「社会的ルール」

 不破さんは、「第八章 労働日」の解説のまとめで、次のように述べます。

「一三〇ページを超えるこの章の内容を、重要なマルクスの文章を節々に引用しながら、きわめて圧縮して紹介しました。その全体が、労働者階級が自分とその階級の存続のためにたたかう階級闘争の発展の必然性を示しています。

 ここに、『賃労働』の部で展開する予定だった労働者階級論の第一の契機がありました。資本の暴圧から自分たちの生活と生存をまもる『社会的バリケード』、いまの言葉で言えば『社会的ルール』の獲得のための闘争は、その核心をなすものでした。」と。

 しかし、マルクスが『資本論』の「第8章労働日」の中で言っている「社会的バリケード」と不破さんのいう「社会的ルール」とは、その位置づけがまったく異なり、その先にあるものがまったく違います。

 『資本論』の「第八章労働日」でマルクスが何を言っているのか、簡単に、見てみましょう。

 まずはじめに、マルクスは、「資本は、剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望をもって、労働日の精神的な最大限度だけでなく、純粋に肉体的な最大限度をも踏み越え」(大月版 第1巻P346、以下の「(ページ)」は第1巻のページを表記。)て労働日の延長を求めること、「労働力の(=人間の)寿命を問題にしない」(P347)こと、「資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わない」(P353)ことを述べ、社会的強制の必要を指摘します。

 そして、「標準労働日の制定は、資本家と労働者との何世紀にもわたる闘争の成果」(P354)であり、1853年に、やっと、児童を含む全ての労働者の労働日が規制されたが、それは「最初の工場法の制定以来、今ではすでに半世紀が流れ去っていた」(P387)こと、「半世紀にわたる内乱によって一歩一歩かちとられた」ものであったことを述べ、「標準労働日の創造は、長い期間にわたって資本家階級と労働者階級とのあいだに多かれ少なかれ隠然と行なわれていた内乱の産物なのである」(P393)ことを私たちに教えています。

 マルクスは、労働者が市場で彼の「労働力」を商品として売るとき、外見上「彼が自由に自分自身を処分」した様に見える契約上の労働時間は、結果的に、「それを売ることを強制されている時間」であること、資本家はあの手この手を使ってその極限を追求してくることを述べ、だから、資本の攻撃にたいする「防衛」のために、「労働者たちは団結しなければならない。そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない。」(P397)と述べて、「労働日」の章を結んでいます。

 このように、マルクスは、資本が、「剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動」を持っていること、外見上労働者が「自由に自分自身を処分」した様に見える契約上の労働時間は、資本主義的生産様式の社会のもとでは、「それを売ることを強制されている時間」であること、だから、労働者を守る「超強力な社会的障害物を、強要しなければならない」ことを述べています。

 しかしそれだけではありません。マルクスは、工場監督官報告書の言葉を借りて、標準労働日の確定、労働時間の短縮が、労働のため以外の自分自身の目的のための時間を与え、「ある精神的なエネルギーを彼ら(労働者)に与え、このエネルギーは、ついには彼らが政治的権力を握ることになるように彼らを導いている」(P398)ことを述べ、労働時間短縮のたたかいが資本主義的生産様式の社会を変える上で重要なことを確認しています。

 また、マルクスは、労働日の制限についての「超強力な社会的障害物の強要」のもつ意味について、『賃金、価格、利潤』でも、「このように全般的な政治活動が必要であったということこそ、たんなる経済行動のうえでは資本のほうが強いことを立証するものである。」(国民文庫P84)と、資本主義的生産様式の社会での「労働日の制限」と「超強力な社会的障害物の強要」との関係を述べています。

 そして、この「超強力な社会的障害物の強要」に関して、『前衛』(2013年12月号)は、不破さんがおこなった『賃金、価格、利潤』の講義の素晴らしさを礼賛する鼎談を載せ、この鼎談の司会役の山口氏は、不破さんの『賃金、価格、利潤』の講義について、次のように述べています。

「(不破さんは──青山が挿入)、資本主義世界でも異常な日本社会の状態を打開して、社会的バリケードをかちとり、「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の「肉体的および精神的再生」であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだということを強調して、講義を終わります。……『賃金、価格および利潤』を読む中で、この呼びかけのところまで現代的には行き着くのだなと思いました」(P99)と。

 けれども、「ルールある資本主義社会」が「日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道」だなどということは、「奴隷制を基礎としながら自由」(『賃金、価格、利潤』同前P54)を保障するのと同じです。だからマルクスは、『賃金、価格、利潤』で、そんな戦いは「全面的に失敗する」と言っているのです。このように、不破さんの言う「社会的バリケード」とマルクスのいう「超強力な社会的障害物」とは、その位置づけが180度異なります。

 だから、『資本論』の「労働日」の章は、資本の「剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望」という資本の本質を告発するものですが、私たちがこの章を読んで学ぶべきことは、このような資本の本質をしっかり?み、労働者の団結の重要性、団結した力で要求を実現することの重要性をしっかり学び、資本の横暴を制限する「超強力な社会的障害物」を勝ち取るとためにたたかうことの重要性を確認するだけでなく、資本主義的な生産関係の社会を変えるためにたたかうことこそが、問題の真の解決の道であることを、しっかりと、確認することです。

 「第八章 労働日」を「社会的バリケード」についての誤った主張の支援材料にさせてはなりません。

※詳しくはホームページ4-1 「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」及びホームページ4-2「☆不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない。」を参照して下さい。

 つぎに取りあげる「第一三章 機械と大工業」は、「『社会変革の二つの要素と契機』で不破さんが語るべきこと」で詳しく述べますが、大変大事な章です。ご期待下さい。

P97-101

不破さんの無意味な「推測」と不破さんの「仰天思想」への導入

 このページは、「第一三章 機械と大工業」の解説にあてられたページかと思いきや、読んでみると、「第一三章 機械と大工業」にかこつけて、不破さんの「推測」をまじえた蘊蓄あふれる『資本論』の研究成果で読者を混乱させて、不破さんの「仰天思想」への導入を図るためのページでした。

不破さんの「推測」は何のため?

 不破さんのマルクス・エンゲルス・レーニンに対する「批判」(?)の常套手段の一つに、「推測して」、その推測を「真実」のように「断言」して相手をやっつけるという方法がありますが、ここでは、読者を混乱させるために、まず、マルクスの「知識の貧弱さ」を「推測」します。

 不破さんは、マルクスが、第2草案とも「1861~1863年草稿」(23冊のノート)とも言われる草稿の「機械」についての執筆を中断して、「構想がほぼまとまっていた『第三章資本と利潤』の執筆」と『剰余価値学説史』の整理に着手したことを取り上げて、マルクスが「機械」についての執筆を中断した理由を、「私は、機械と大工業の実態についての自分の知識があまりにも少ないことを自覚したからだと、推測しています」と言って、マルクスの「知識があまりにも少ないこと」を中断の理由として「推測」し、続けて、その推測が「真実」ででもあるかのように、「いざその大工業を正面から研究しようという段になると、機械制大工業に対する自分の実際的知識の貧弱さを実感せざるを得なかったのでした」と「断言」します。

 不破さんは、「いざその大工業を正面から研究しようという段になると、機械制大工業に対する自分の実際的知識の貧弱さを実感せざるを得なかった」マルクスが、10ヶ月もかけて勉強たものが、「大工業の段階の研究成果をまとまったかたちで展開するところまではゆきませんでした」と、「第一三章 機械と大工業」にマルクスの無知を埋める研究成果が反映されていないことを認め、マルクスは「あまりにも少ない」「知識」のままでよいことになってしまいます。不破さんの言う、「第一三章 機械と大工業」にとって不要な「あまりにも少ない」「知識」とは、何のために必要で、「1861~1863年草稿」の「機械」についての執筆の中断が何のために必要だったのか、不破さんの「推測」は何のために行われたのか、キツネにつままれたようです。

 このように、今回、「推測して」その推測を「真実」のように「断言」したマルクスの「実際的知識の貧弱さ」という「推測」は、肝心な、マルクスの「第一三章 機械と大工業」の執筆にあたっても、不破さんの「第一三章 機械と大工業」の解説にあたっても、何の意味もないだけでなく、「不破さんの仰天思想」への導入の役にさえも立っていません。

 マルクスは『資本論』の草稿となる第3草案の執筆においても、第一部草案を1863~64年に書いたあと、第三部の草案を第二章→第一章→第三章と書き、そのあとで第二部の草案の執筆に着手という執筆のしかたをしていますが、不破さんは、第2草案を順番どおり書かなかったからといってわざわざ取り上げて、その間にマルクスがいろいろと勉強を重ねたことをもって、マルクスの無能ぶりを誹謗します。

 不破さんは、マルクスの無能ぶりを誹謗して、自らの蘊蓄を披露し、混乱の中で読者をうならせたかったのでしょうか。私には、不破さんの意図がまったく分かりません。

不破さんの「仰天思想」への導入

 続いて、「『資本論』第四編での「全体労働者」論では、まだこういう展望までは、論及されていません」として、「第一三章 機械と大工業」の解説には関係のない、「不破さんの仰天思想」への導入がはじまります。

 不破さんは、マルクスが、第2草案=「1861~1863年草稿」(23冊のノート)で、「機械経営と大工業の発達とともに」労働者による社会的生産がすすむが、所有は「私的諸個人」のものであること、そして、この資本家の「私的諸個人」による所有をなくすことの意味について書いていることを述べ、「ここで述べられているのは、まさに、資本主義的生産のもとで形成され発展を遂げた『全体労働者』の態様こそが、労働者階級を未来社会の担い手として育成してゆく道だという問題にほかなりません」と言い、「労働者階級が生産過程と未来社会の担い手として成長してゆく過程の追跡、ここに、『賃労働』論(第七編)の第二の主要な契機がありました」と言ってこのページを結びます。

 不破さんは、「資本主義的生産のもとで形成され発展を遂げた『全体労働者』の態様」が「労働者階級を未来社会の担い手として育成してゆく道だ」と言います。ここに不破さんの限界と根本的な誤りがあります。ここでマルクスが言っている「全体労働者」、労働者の社会的生産の発展は、資本主義的生産様式の社会の発展がもたらした技術的側面であり、「新たな社会の形成要素」の一つですが、「資本主義的生産のもとで形成され発展を遂げた『全体労働者』の態様」とは、資本主義的生産の衣をまとわされた「様態」のことです。「労働者階級が生産過程と未来社会の担い手として成長してゆく」ために、彼らがまず行わなければならないことは、資本主義的生産の衣をまとった「様態」を脱ぎ捨てることです。そして、レーニンが言うように、「資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展とを結びつける」力、つまり、〝by the people〟の力を労働者階級のなかに育み、「彼ら(労働者階級──青山注)の国事参加を民主主義的に組織する」ために、労働者自らに、その階級的使命を自覚させることです。

 このように、「資本主義的生産のもとで形成され発展を遂げた『全体労働者』の態様」の意味を正しく理解できなかった不破さんは、とんでもない労働者の「未来社会」を描くことになりますが、それは、「『第八章 労働日』の『超強力な社会的障害物』と不破さんの『社会的ルール』」(P88)の行き着く先とともに、のちほど、見ることにします。

 このように、不破さんのこのページは、「第一三章 機械と大工業」の解説とまったく関係のない文章でした。

「P88」と「P97-101」のまとめ

「社会的ルール」と「未来社会で生産を担う主体」が不破さんの「未来社会」で持つ意味

 不破さんは、「第三篇第八章 労働日」の解説のまとめで、「一三〇ページを超えるこの章の内容を、重要なマルクスの文章を節々に引用しながら、きわめて圧縮して紹介しました。その全体が、労働者階級が自分とその階級の存続のためにたたかう階級闘争の発展の必然性を示しています。 ここに、『賃労働』の部で展開する予定だった労働者階級論の第一の契機がありました。資本の暴圧から自分たちの生活と生存をまもる『社会的バリケード』、いまの言葉で言えば『社会的ルール』の獲得のための闘争は、その核心をなすものでした」(P88)と言い、「第三篇第一三章 機械と大工業」の不破さんの「前置き」のまとめで、「労働者階級が生産過程と未来社会の担い手として成長してゆく過程の追跡、ここに、『賃労働』論(第七編)の第二の主要な契機がありました」(P101)と言っていました。

 だから、私は、不破さんの「第七篇 資本の蓄積過程」の解説のなかで、不破さんが、かつて、『フランスにおける内乱』の第一草稿の「奴隷制のかせ」(資本主義的生産様式の社会での賃金奴隷制のかせのこと)からの解放について「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくりあげ」ることだというユニークな見解を出したように、また、不破さんがどんな言葉をどう捉えるのか、その〝独走〟的な考えを固唾を呑んで見守っていました。

 そして、いよいよ、不破さんの「第七篇 資本の蓄積過程」の解説にはいり、P129~130ページに、「私たちは、『資本』の部と『賃労働』の部の統合という新しい構想のもとで、『絶対的剰余価値の生産』の篇では、自分と階級の生活と存続のための階級闘争の必然性を、『相対的剰余価値の生産』の篇では、資本主義的生産が機械制大工業の段階を迎えるなかで、労働者階級が未来社会で生産を担う主体として発展する姿(『全体労働者』)を見てきました。」という文章を発見しました。

 しかし、「第七篇」の解説のどこにも、上の二つの「契機」にもとづく、不破さんのユニークな「労働者階級論」も「『賃労働』論」も見当たりませんでした。

 そこで、ページを戻して、ここで、もう一度、〝「社会的ルール」と「未来社会で生産を担う主体」が不破さんの「未来社会」で持つ意味〟について、簡単に、明らかにしておきたいと思います。

 なぜなら、不破さんの「社会的ルール」と「未来社会で生産を担う主体」は、不破さんの「未来社会」論を構成する、「自由な時間」につぐ重要な概念で、不破さんの描く「未来社会」、つまり、「不破さんの仰天思想」の重要な構成要素なので、不破さんの『資本論』の解説を理解するうえで大変重要だからです。

 不破さんの描く「未来社会」には、社会的バリケードで守られた「ルールある経済社会」と「指揮者はいるが支配者はいない」生産現場の延長線上に、「自由な時間」を持った諸個人がいます。資本主義的生産様式の社会を前提につくられた「社会的ルール」の否定も、資本主義的生産を円滑に推進するための手段である「指揮者はいるが支配者はいない」という生産現場のイデオロギーへの否定もありません。だから、不破さんが最も大切に思う「自由な時間」は、資本主義社会での労働者の「余暇」をも含むものになってしまいます。

 不破さんの言う「社会的ルール」と「未来社会で生産を担う主体」とは、概ね、このようなものであるということを、是非、頭の片隅に置いて、不破さんの『資本論』解説を読みすすんで下さい。

※「奴隷制のかせ」についての詳しい説明は、ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を、「自由な時間」に資本主義社会での労働者の「余暇」をも含む点については、ホームページ4-26-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。

 なお、不破さんの『古典』の解説を読むときは、私が先に示した「科学的社会主義の思想と『不破さんの仰天思想』」との違いと、ここで述べた不破さんの描く「未来社会」の構成を頭の片隅に置いて読まれると、不破さんの解説の意図が理解しやすいと思います。

※また、不破さんの「批判」方法等の詳しい説明は、ホームページ4-23「総括1 不破さんの「批判」の方法と思想」を、是非、参照して下さい。

P105-106

「各所に登場する未来社会論」の余談

 独自の「未来社会論」を持つ不破さんは、「各所に登場する未来社会論」と題して、児童の発達と生産的労働の関係、人間の全面発達の問題、家族構成員の役割の問題、農業と工業の在り方の問題について取り上げますが、マルクスが述べていることをそのまま書くだけで、本来の不破さんの特性である自説への誘導も、何の蘊蓄もひけらかしません。

 この四つテーマについての不破さんの「未来社会論」を、是非、拝聴したいところですが、マルクスの、すべての人間が「さまざまな社会的機能をかわるがわる行うような活動様式をもった、全体的に発達した個人」になるという人間の全面発達についての考えと、不破さんが「未来社会論」の中核として位置づけ、綱領まで変えた、「指揮者はいるが支配者はいない」職場づくりや「未来社会」の労働を「社会の構成員にとって義務的な活動」と捉える考え方とでは、雲泥の差があるように思われます。

 なお、「人間教育の問題」として、マルクスは、未来の教育について、「全体的に発達した人間をつくるための唯一の方法として、一定の年齢以上のすべての児童にたいして、生産的労働を知育および体育と結びつけるであろう」と述べており、日本有数の発明家でありシームレス編み機で有名な島精機製作所の島正博氏やノーベル賞を受賞した益川敏英先生も、自らの体験を踏まえ、児童期の生産的労働の積極的意義について認めています。労働を「社会の構成員にとって義務的な活動」と捉え、社会の上部構造に重きを置く不破さんは、どんな考えを持っているのか、是非とも知りたいところです。

※不破さんの「未来社会論」についての詳しい説明は、ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

P107-109

「社会変革の二つの要素と契機」で不破さんが語るべきこと

 「不破さん得意の「スリコミ」がはじまる(P82-83)」でも書きましたが、マルクスは、「第一三章 機械と大工業」の章で、唯物史観と弁証法の助けをかりて、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことを、事実に基づいて明らかにします。

 このことを不破さんは、「ここには、資本主義の『必然的没落』の過程を究明するマルクスの新しい見地が、端緒的な形で顔を出していることを、頭においていただきたいと思います」と、言います。

 この言葉には、あらゆるものを「不破さんの仰天思想」に結びつけようとする不破さんの『資本論』探求の姿勢が、よく現れています。

 先に述べたように、マルクスはエンゲルスあての1868年の手紙で、『資本論』について、「資本の一般的本性」を究明し、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもりであった」(同上P401)と言っています。このように、『資本論』と科学的社会主義の思想の役割は、「資本の内在的法則」を突きとめ、それが「競争」を含む「資本主義的生産様式の社会」でどのように現れるのかを、「唯物史観」と「弁証法」にもとづいて検証し、社会発展の新・旧の要因と契機を明らかにし、労働者階級に自身の行動の条件と本性とを自覚させることです。だから、エンゲルスはザスーリチへの手紙で、「革命的戦術を発見するには、問題となる国の経済的・政治的諸関係にマルクスの歴史理論を適用しさえすればよいのです」と誤解を恐れず言っているのです。

 不破さんの言う「ここ」には、資本主義の『必然的没落』の過程を究明するマルクスの「新しい見地」などまったく「顔を出して」いません。「ここ」には、マルクスが発見しエンゲルスと共有した、これまでずっと持ち続けていた科学的社会主義の思想に導かれた事実が書かれているだけです。不破さんは、あらゆるものを自分の「仰天思想」に誘導するのをやめ、科学的社会主義の思想とは何か、『資本論』と「唯物史観」と「弁証法」について真摯に学び直し、そのことを「頭において」、『資本論』の正しい読み方を読者に訴えるべきでしょう。

 そして、この『資本論』第一部第四篇「第一三章 機械と大工業」は、『資本論』第三部第七篇「第五一章 分配関係と生産関係」の、「労働過程がただ人間と自然とのあいだの単なる過程でしかないかぎりでは、労働過程の単純な諸要素は、労働過程のすべての社会的発展形態につねに共通なものである。しかし、この過程の特定の歴史的な形態は、それぞれ、さらにこの過程の物質的な基礎と社会的な形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したということがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立とが、広さと深さとを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。」(『資本論』第3巻 第2分冊 大月版⑤ P1129)という結びの文章とシームレスに繋がっています。

 不破さんは『前衛』2014年1月号で、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、驚くべき発言をして、資本主義の矛盾を「利潤第一主義」に閉じ込め、科学的社会主義の理論を修正しようとしますが、ここに書かれていることは、不破さんの「仰天思想」こそ誤りであることをマルクスが証言した文章です。

※「資本主義の矛盾」についての詳しい説明は、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を参照して下さい。

P117とP127-128

「自由の国」の歪曲への道

 不破さんは、117ページで、「この研究史には、自由な時間の追求にこそ、未来社会論の本論があることが、きわめて具体的な内容で示されている、と思います。」と述べて、「自由な時間の追求」が「未来社会論の本論」だと言います。そして、不破さんは、127-128ページで、未来社会を、「マルクスは、『各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態』と特徴づけます」と正しいこと言って、「マルクスにとっては、人間の自由こそが、未来社会の最大の特徴なのです」と「自由」を持って飛び跳ねます。

 不破さんは、階級社会の克服をふくめトータルな社会の発展のなかで、「自由な時間」の問題を捉えないで、「自由な時間の追求にこそ、未来社会論の本論」だなどと言い、マルクスが各人の全面発達を基本原理とする、より高度な社会形態の社会(=発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階の社会=いわゆる「共産主義社会」)を未来社会だというと、そこから「自由」だけを取り出して騒ぎ立てます。

 「仰天思想」に陶酔する不破さんは、「各人の自由な発展」と「自由」との区別もできなくなって、マルクスとエンゲルスが、いわゆる「共産主義社会」を「自由の国」と言ったのを、「自由の国」とは「自由な時間」のことで、資本主義社会での労働者の「余暇」も「自由の国」だなどと言うようになってしまいます。

※「自由の国」についての詳しい説明は、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」及びホームページ4-26-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。

「第二三章 資本主義的蓄積の一般的法則」でのマルクスと不破さん

「第二三章」のページ展開について

 不破さんは、「第二三章」について、「この章は、全体が、完成稿のために新たに書き下ろされたものです」と述べ、マルクスが、マルクス主義(科学的社会主義)の思想とは無縁の手法で導きだした従来の資本主義観を棄て、新しい資本主義観の出発点に立ったかのようにマルクスを描き出します。同時に不破さんは、当時の「第二三章」の枠内でしか〝今〟を見ることのできない限界性を、「第二三章」の解説を通じて示しています。

 これらを踏まえ、以下で、不破さんの解説の誤りと「今日の社会的格差拡大の問題」(P145)等を「第二三章」の枠内でしか見ることのできない、ずれた、「不破さんの目」を明らかにするとともに、「第二三章」のもつ歴史的限界等「第二三章」についての私の考えも述べたいと思います。

P132

マルクスをマルクス主義でないという不破さんの推測

 不破さんは、下記のような「推論」をしますが、この「推論」には不破さんのマルクスの思索のしかたに対するとんでもない見方が隠されています。

 不破さんは、「これは私の推論ですが、マルクスが1857年に経済学の著作という念願の事業を開始する決断をした背景には、利潤率の低下の法則の科学的根拠を発見したことで、この著作を結論部分まで完成できるという見通しを得たことが、重要な要因の一つとしてあったのではないでしょうか。」と言います。

 合わせて、不破さんは、『前衛』2015年1月号で、自ら創作した「『恐慌=革命』説」の罪を「利潤率低下の法則」になすりつけるために、「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がないというのは、あまりにも現実離れした議論に見えます。しかし、『恐慌=革命』説を背景に、利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定がさきにあり、そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込みが、マルクスを、こうした無理な立論に固執させたのではないでしょうか。」と「推論」しています。

 ここで不破さんは、「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がないというのは、あまりにも現実離れした議論に見えます」とマルクスが言ってないことを述べて、デマをふりまき、「『恐慌=革命』説を背景に、利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定がさきにあり、そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込み」があったと推測して、「科学的社会主義」の理論は「断定」と「思い込み」で成り立っていると言って、すぐにでも『全貌』のような雑誌に重用されても不思議ではないようなことを、なんと、『前衛』で言います。

 これらの二つの文章を、整合性をもってつなぎ合わせると、不破さんがますますとんでもないことを言っていることが明らかになります。

 不破さんの言っていることを整理してみましょう。

 マルクスは、「利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われと」断定し、「そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込み」をし、そこから、この著作の「結論部分」を「完成できるという見通しを得た」ので、「経済学の著作という念願の事業を開始する決断をした」、と不破さんは言います。なお、マルクスが1857年に開始した経済学の著作という念願の事業とは、57~58年草稿(全7冊のノート)といわれるもので、『資本論』の第一草案のことです。そして、この著作の「結論部分」とは、不破さんがでっち上げた「『恐慌=革命』説」のことです。

 つまり、不破さんは、ここで、マルクスは、「断定」と「思い込み」を根拠に『資本論』を書くことを「決断」したと、驚くべき「推論」をしているのです。『資本論』は「断定」と「思い込み」を根拠に書きはじめられたと不破さんは言っているのです。マルクスを、マルクス主義の研究方法をもたない人だと、不破さんは推測しているのです。

 不破さんの「推測」には、くれぐれも、注意しましょう。

※「恐慌」は「すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がない」とマルクスが言ったという不破さんの発言がデマであることについては、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を参照して下さい。

P133-137

利潤率低下の法則の持つ意味を理解できない不破さん

  不破さんは『前衛』2014年12月号で「マルクスは、利潤率低下の法則のなかに資本主義の『必然的没落』の最大の根拠を求め、そのことを背景として恐慌が反復し、そこから『資本の強力的な転覆』をもたらす社会変革の過程が始まるという見方を、それまでの資本主義的生産の分析から引き出される決定的な結論として、展開したのでした」、「マルクスは、『利潤率の低下の法則』に現われた生産力の発展と生産関係との衝突こそが、恐慌と革命の時代を生みだしている、として、マルクスがとってきた『恐慌=革命』説の最大の根拠がここにあるとします」と、述べています。

 不破さんが創作した「『恐慌=革命』説」は別として、「利潤率低下の法則」を「背景として恐慌が反復し」、「生産力の発展と生産関係との衝突こそが、恐慌と革命の時代を生みだしている」のは、紛れもない、事実です。

不破さんは、「利潤率の傾向的低下の法則」を資本主義的生産様式の社会のなかに位置づけることができない

 134ページで、不破さんは、「マルクスを悩ませた理論上の問題が、二つあったようです」と、不破さん得意の「推測」をして、「事実」をねじ曲げようとします。

 その一つとして、不破さんは、「利潤率の低下を恐慌と結びつける理論的な組み立てがうまく成立しなかったことです」と言って、自らの理解力の無さをマルクスのせいにします。

 マルクスの天才的な洞察力を理解できない不破さんは、自ら作り上げた「『恐慌=革命』説」の咎を責める根拠にマルクスが発見した「利潤率の傾向的低下の法則」を持ち出すことによって、資本主義的生産様式における「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ大切な意味を葬り去ろうとします。

 不破さんの言う「『利潤率の低下の法則』に現われた生産力の発展と生産関係との衝突」とは、〝「利潤率の低下の法則」により、資本主義的生産様式のもとで「資本」がますます利益を得られなくなり、資本主義的生産関係が「社会の生産諸力の発展」の「桎梏」となることであり、同時に、死なないために泳ぎ続けるマグロのように、資本がより多くの価値実現によってそれを補うために一層の市場拡大を求め続けることによって生産と消費の矛盾を一層拡大していく〟ことを意味しています。つまり、「利潤率の傾向的低下の法則」を「背景として」生産と消費の矛盾は拡大せざるをえず、「恐慌」が起こる条件をますます拡大させます。

 「恐慌」の直接の原因は資本主義の発展につれて変化します。現代では、マルクスの生きた時代のような、不破さんの言う「架空の需要」を直接の原因とする「恐慌」は、ほぼ、コントロールされています。直近に起きたリーマン・ショックは、「利潤率の傾向的低下の法則」のもとでより多くの利潤を得るために資本が出ていくことによる先進資本主義諸国の産業の空洞化、そのことによる経済の一層の停滞から脱却するための資産価値の増加策とサブプライムローンによる消費能力の拡大による実需の拡大、そして突然はじまる資産価値の下落を直接の原因とするものでした。

 資本主義の経済現象は「利潤率の傾向的低下の法則」を「背景として」起きています。そのことを理解できないから、不破さんは、「利潤率の低下を恐慌と結びつける理論的な組み立てがうまく成立しなかった」などと言って、マルクスに勝ったかのような錯覚に陥るのです。

虚構を「現実」に仕立て上げ、マルクスの理論と「現実」との矛盾を突く不破さん

 「マルクスを悩ませた理論上の問題が、二つあったようです」という不破さんの「推測」のもう一つは、マルクスは、恐慌をともなう資本主義経済の破局の反復ののちに、「最後には、資本の強力な転覆にいたる」という理論的設定をしていたが、「恐慌期が過ぎると、資本主義は前回の周期を大きく上回る繁栄を取り戻し、衰退現象を見せないのです。」と不破さんの言う「現実」との矛盾です。

 私は、このページでもすでに何回か、不破さんの「推測」には気をつけるよう申し上げてきましたが、ここでも不破さんは虚構の「現実」を作って、そこから推論します。

 不破さんの言っていることと科学的社会主義の思想の認識との差はどこにあるのか、見てみましょう。

 不破さんは、「恐慌期が過ぎると、資本主義は前回の周期を大きく上回る繁栄を取り戻す」ことを、「衰退現象を見せない」と言って、それが資本主義的生産様式の社会の「没落」過程の現象ではないかのような印象を読者にもたせ、マルクスがその「現実」を知らなかったかのような印象を読者にあたえます。

 しかし、マルクスは57~58年草稿を書きはじめる以前から景気循環についての正しい認識をもっていました。資本主義が恐慌のあと「前回の周期を大きく上回る繁栄を取り戻す」ことができるからこそ、資本主義は存続することができ、恐慌はくり返し資本主義を襲うのです。「前回の周期を大きく上回る繁栄を取り戻す」ことができなかったら、「産業の空洞化」した日本と同様に「黄昏」の資本主義になってしまいます。

 不破さんは、繰り返す恐慌のあとも資本主義は「衰退現象を見せない」と、読者を虚構に導きます。

 マルクスは、1853.7.1付けの『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』で次のように述べます。

「……近代の産業は、沈滞、繁栄、過熱、恐慌、窮境、という大きな局面を経て周期的な循環を描き、それにともなって賃銀が上下し、また賃銀と利潤とのこうした変動に密接に照応して雇い主と労働者とのあいだのたえざる闘争が生じるのであるが、こうした局面の交替がなければ、大ブリテンと全ヨーロッパの労働者階級は、意気沮喪し、意志薄弱で、疲れきった、無抵抗な大衆にとどまり、古代ギリシャやローマの奴隷と同じく、自己の解放をなしとげることは不可能となろう。……」(『ロシアのトルコに対する政策──イギリスにおける労働運動』)、と。

 このように、景気循環が労働者階級の団結を促し、「恐慌」は革命を推進するための「槓杆」の一つとなります。そしてマルクスは、『資本論』で次のように述べていますが、「恐慌」は生産手段の集中と労働の社会化を、一層、推し進めます。

「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月『資本論』② P995F6-9)

 不破さんは、くり返し起こる「恐慌」を含む資本主義の発展が、「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことが、十分に理解できないようです。

*なお、「利潤率の傾向的低下の法則」に関する詳しい論究は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を参照して下さい。

マルクスを台無しにする、不破さんの「新しい見地」

 先に、「恐慌期が過ぎると、資本主義は前回の周期を大きく上回る繁栄を取り戻し、衰退現象を見せないのです」と述べた不破さんは、「新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機」のことなどすっかり忘れて、資本主義に自信をもって、資本家の立場で、「可変資本の相対的な減少によって進む資本構成の変化は、資本主義的生産の危機や没落の要因ではなく、資本主義的蓄積の急速な進行にともなう当然の、むしろ積極的な現象として意義づけられています。」(P136)といい、「新しい見地では、可変資本部分の相対的減少は、否定的な現象ではなく、独自の資本主義的生産様式の蓄積過程の当然の、積極的な現象なのです。」(P137)と言います。

 不破さんは、『前衛』2014年12月号と2015年1月号の「マルクスの恐慌論を追跡する」という寄稿で、『レーニンと「資本論」』(1998-2001年)を書き終えて、『資本論』の「草稿の全体を読む仕事を始め」、第二部第一草稿で「マルクスの発見」のヒントを発見し、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたことを述べていますが、上記の「『資本論』の解釈」は、現在の不破さんが、これまでのマルクス主義者とは「まったく違った」人物であることを明らかにしています。

 マルクスは、ここ(第二三章第二節)で、「可変資本部分の相対的減少」による利潤率の低下のもとで資本はどのようにして資本蓄積を進めるのかを解明します。そして、その資本蓄積によって資本主義的生産様式はどのように発展させるか、その相互作用を述べ、それらを通じて可変資本部分が不変資本部分に比べてますます小さくなることを述べています。

 この節は、資本蓄積によって資本主義的生産様式はどのように発展させられるかを労働者人口に焦点をあてて究明した、次の、第三節につながるものです。マルクスは、「可変資本部分の相対的減少」が労働者階級の資本主義社会での生存条件にとって「積極的な現象」であるとか、資本主義的生産様式の社会にとって「可変資本部分の相対的減少」による利潤率の低下が「否定的な現象ではない」などという「新しい見地」などまったく持っていません。「第二三章第二節」は「資本主義的生産様式の発展」について述べたものです。

 だから、「新しい見地では、可変資本部分の相対的減少は、否定的な現象ではなく、独自の資本主義的生産様式の蓄積過程の当然の、積極的な現象なのです」という不破さんの「視点」は、「マルクスの視点」ではなく、19世紀の「ブルジョアジーの視点」です。

 ここで、不破さんの「第二三章」の解説のまとめを見る前に、『資本論』第一部第二三章の位置づけ、第二三章の歴史的限界と普遍性、そのた幾つかの留意点等について、見ておきたいと思います。

 なお、不破さんの「以前のマルクスだったら、利潤率が20%に低下することを心配したでしょう。」というお門違いの言葉については、上記の「そのた幾つかの留意点等」のなかで触れたいと思います。

『資本論』第一部第二三章のテーマ

 マルクスは、第二三章について、「この章では、資本の増大が労働者階級の運命に及ぼす影響を取り扱う。この研究での最も重要な要因は資本の構成であり、またそれが蓄積過程の進行途上で受けるいろいろな変化である。」(大月版②P799)と述べています。

 このようにテーマは明確です。

 それなのに不破さんは、「資本の構成の変化が資本主義的生産の危機をもたらすといった見方や、その角度から事態を吟味するといった論調は、どこにも残っていません。」とか、「以前の見解では、第二節で扱う過程こそ、資本主義の危機が表面化する過程となるはずでした」とか、第二三章のテーマと関係のないマルクスへの非難をおこなっています。

 不破さんの、マルクス・エンゲルス・レーニンのやっつけ方には、先に指摘した「推測」に基づいて「断罪」するという方法のほかに、その著作のテーマではないものを持ち出してその著作と作者を非難するという方法があります。

 例えば不破さんは、『前衛』(2014年1月号)で、「レーニンが『国家と革命』で示した未来社会の定式というのは、結局、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです」と言って「人間の全面的な発達が保障される社会」のことが書かれてないと非難します(ただし、この非難はデタラメで、不破さんが『前衛』で述べている程度の内容を十分にうわまわることが『国家と革命』には書かれています。)。不破さんは、『国家と革命』が、革命前夜に、何のために書かれたか、まったく無視しています。(詳しくは、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」を参照して下さい。)このような不破さんの非難のしかたは、不破さんの常套手段とでも言うべきものです。

 みなさんは、是非、「第二三章」を読んで下さい。そして、不破さんに質問して下さい。

 不破さんなら、不破さんの言う、マルクスの間違った利潤率の低下の法則に依拠した革命論を使ってもかまいませんから、「資本の構成の変化が資本主義的生産の危機をもたらすといった見方」を「第二三章」の何処に書くのでしょうか?と。そして、マルクスが間違った利潤率の低下の法則に依拠した革命論を持っていると、どうして、「第二節で扱う過程」が「資本主義の危機」が表面化する過程として扱わなければならないのでしょうか?と。

 いくら文章を巧妙に操るのが得意の不破さんでも、この質問に答えられるはずがありません。なぜなら、「テーマ」が違い、「資本の構成の変化」と資本主義的生産様式の社会の「危機」の関係を明らかにするには、「第一部第七篇第二三章」はそのスタートラインに過ぎません。ここでは、「資本の構成の変化」が「労働者階級の運命に及ぼす影響を取り扱う」、つまり「資本主義的蓄積の一般的法則」──資本主義的生産・蓄積の労働者階級に対する敵対的な性格──、資本主義的生産様式の発展とそのもとでの労働者階級の状態とを明らかにすることが「テーマ」なのです。

 そして、マルクスは、この「テーマ」を追求するなかで、「資本の構成の変化が資本主義的生産の危機をもたらすといった見方」を棄ててなどいないことは、「テーマ」が「資本主義的蓄積の一般的法則」の暴露であることをみても明らかです。どうやら、科学的社会主義の思想を学ぼうとする者が、「『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」しまった不破さんとつき合うときは、眉につばしてつき合ったほうがよさそうです。

 不破さんのこのように、人を陥れて、巧妙に自説への誘導を図ろうとする罠に引っかからないようにするために、みなさんは是非、必ず原典をお読み下さい。

『資本論』第一部第二三章の歴史的限界と普遍性

 『資本論』第一部第二三章は、ご承知のとおり、資本主義の「黄金時代」と言われる1970年代前半頃までよりも100年近く前に書かれた、自国での資本主義の発展に十分な伸びしろがある時代に書かれたものです。だから、マルクスが論及した、可変資本が相対的に減少するという条件のもとでの資本の蓄積過程の検討も、自国での「可変資本部分の絶対的大きさの増加」を前提としたものが理論的に可能なだけでなく、現実におきていることでした。

 しかし、資本主義の「黄金時代」を過ぎると、先進資本主義諸国は自国での利潤率の低下を補うだけの高い需要が見込めなくなり、経済成長率は低下し、新興諸国への資本の輸出によって資本蓄積を進める道以外に「資本」が「資本」として進むべき道はなくなっていきます。その結果、先進資本主義諸国の産業の空洞化は進み、中間層がやせ細り、そうした中で、米国ではトランプ政権が誕生しました。輸出中心の「一本足打法」の日本の「産業の空洞化」は一層深刻で、その深刻な姿が明確に現れたのは1995年からのことで、1995年以降GDPは横ばいとなり、労資の力関係が資本優位となるなかで不安定雇用が増加の一途を辿ります。

 「第二三章」がこのような「独自の資本主義的生産様式」の発展を「資本主義的蓄積の一般的法則」のなかに見つけなかったとしても、それは歴史的限界であって、マルクスが責めを負うべき問題ではありません。

 マルクスは、グローバル資本時代の「資本蓄積」とそのもとでの「独自の資本主義的生産様式」を論究することはできませんでしたが、「資本蓄積」とそのもとでの「独自の資本主義的生産様式」についての普遍的な関係を、下記のように、私たちに教えてくれています。この言葉は、不破さんが137ページに抜粋しています。

「ある一定程度の資本蓄積が独自の資本主義的生産様式の条件として現れるとすれば、逆作用としてこの生産様式が資本の蓄積の加速化を引き起こす。それゆえ、資本の蓄積にともなって独自の資本主義的生産様式が発展し、また独自の資本主義的生産様式にともなって資本の蓄積が発展する。」、と。

 私は、上記の訳よりも大月版のほうが、わかりやすいように思いますので、大月版も掲載します。

「ある程度の資本蓄積が独自の資本主義的生産様式の条件として現れるとすれば、後者はまた反作用的に資本の加速的蓄積の原因になるのである。それだから、資本の蓄積につれて独自の資本主義的生産様式が発展するのであり、また独自の資本主義的生産様式の発展につれて資本の蓄積が進展するのである。」(大月版②P815)

 ここでは、マルクスは拡大再生産の条件(需要)があるもとでの「剰余価値から資本への連続的な再転化」を前提に述べていますが、ここには、「資本蓄積の進展」とそのもとでの「独自の資本主義的生産様式の発展」についての普遍的な相関関係が述べられています。その意味をしっかり学べば、マルクスがグローバル資本時代の「資本蓄積の進展」とそのもとでの「独自の資本主義的生産様式の発展」について論及していなくても、私たちは正しい認識を持つことができます。

 しかし、残念ながら不破さんは、そのことを見落としただけでなく、マルクスの時代からぬけ出せなかったようです。そのために、グローバル資本時代の資本主義の解明がまったくできません。

その他幾つかの留意点等について

資本主義的生産での労働需要の維持

 不破さんは、下記の文章を抜粋して、「以前のマルクスだったら、利潤率が20%に低下することを心配したでしょう。」とお門違いのことを言います。

「なおまた、蓄積の進展は、可変資本部分の相対量を減らすとはいえ、けっして同時にその絶対量の増大を排除するものではない。かりに、ある資本価値が初めは50%の不変資本と50%の可変資本とに分かれ、後には80%の不変資本と20%の可変資本とに分かれるとしよう。その間に、最初の資本、たとえば6000ポンドが、18000ポンドに増大したとすれば、その可変成分も1/5だけ増大しているわけである。それは3000ポンドだったが、今では3600ポンドである。ところが、以前は労働需要を20%ふやすには20%の資本増加でよかったのに、今ではそのためには最初の資本を(約──青山補筆)三倍にすることが必要なのである。」(大月版、②P813-814)

 この文章は、「資本蓄積の進展」が、労働需要をふやすために一層多くの総資本を必要とすることを述べているもので、「利潤率の低下」を嬉しがったり、心配したりすることを求めているものではありません。そもそも、なぜマルクスが「資本蓄積の進展」によって「利潤率が低下する」ことを「心配」しなければならないのでしょうか。

 不破さんは、そんなことを資本家と一緒になって「心配」などしていないで、この文章の持つ意味をしっかりと理解すべきです。

 この文章は、資本主義的生産で労働需要を維持するためには、たえざる資本蓄積の進展が必要であることを述べており、そのためには、また、資本蓄積の進展のための価値実現、つまり、絶えざる需要の拡大が必要であることを、21世紀に生きる私たちとしては、理解しておかなければなりません。不破さんは、マルクスが、「利潤率が20%に低下することを心配した」かどうかを気にかけるまえに、「産業の空洞化」がなぜ起きたのか、日本の現状について、「賃金が上がれば、経済は成長する」などとばかなことを言っていないで、『資本論』を熟読して、『資本論』からヒントを得て、熟考すべきです。

  不破さんは、マルクスの悪口をいうことばかり考えていて、『資本論』を真面目に読もうとしないから、21世紀のグローバル資本の行動とそれによって起こる社会・経済の変化など目に入らないのでしょうか。それとも、不破さんにとっては真実などどうでもよいことなのでしょうか。私には、最近ますます、不破さんが、後者のように見えてなりません。

不破さんが発見した「恐慌の運動論」を否定するマルクス

 不破さんは、「第二三章」について「この章は、全体が、完成稿のために新たに書き下ろされたものです」(P129)と、「第二三章」が1866年1月1日以降に書かれたので、不破さんの言う「新たに発見された恐慌の運動論」なるものの「発見がもたらした理論的転換の全体を頭においた上で、第二三章の執筆にあたりました」(P135)と断定(推測?)します。

 不破さんの言う、マルクスが1865年に「新たに発見した」という「恐慌の運動論」なるものとは、どのようなものか、簡単に見てみましょう。

  不破さんは、『前衛』(2015年1月号)で「『流通過程の短縮』、『架空の需要』など、マルクスが分析した恐慌の運動論は、いまでも、さらに多様な現代的な形で生きており、現実に恐慌を生み出したのでした」と「架空の需要」が「恐慌を生み出した」ことを述べ、「恐慌の運動論」なる新語を作りました。しかし、この「恐慌の運動論」なるものは、マルクスが「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明」するなかでの一つの環・要素である、──「信用」による「流通過程の短縮」により短縮された価値「実現」、つまり、「信用」による「架空の需要」──だけを取り出し、それが資本主義的生産様式の恐慌の原因であるとするもので、マルクスの考えではありません。「恐慌の運動論」なるものは、マルクスが1865年に「発見」したのではなく、不破さんが2002年以降に「大発見」したもので、不破さん流にいえば、「架空の需要=恐慌」説とでもいうべきもので、まったくの、不破さんの創作です。

 さて、それでは、「新たに発見された恐慌の運動論」がもたらした「理論的転換の全体を頭においた上で」マルクスが執筆したという「第二三章」で、マルクスは「産業循環」について、どのような認識をもっているのか、見てみましょう。

「……だから、近代産業の全運動形態は、労働者人口の一部分が絶えず失業者または半失業者に転化することから生ずるのである。経済学の浅薄さは、とりわけ、産業循環の局面転換の単なる兆候でしかない信用の膨張や収縮をこの転換の原因にしているということのうちに、現れている。……社会的生産も、ひとたびあの交互に起きる膨張と収縮との運動に投げこまれてしまえば、絶えずこの運動を繰り返すのである。結果がまた原因になるのであって、それ自身の諸条件を絶えず再生産する全課程の変転する諸局面は周期性の形態をとるのである。ひとたびこの形態が固まれば、経済学でさえも、相対的な、すなわち資本の平均的な増殖欲求から見ての、過剰人口の生産を、近代産業の生活条件として理解するのである。」(大月版 P825)著者認定のフランス語版では、この箇所に、「競争に加わる工業国の数が十分なものになったとき、このとき以来はじめてかの絶えず再生産される循環は始まった」こと、その循環の終点として一般的恐慌があること、「これまでのところでは、このような循環の周期の長さは10年か11年であるが、しかし、この年数を不変なものと見るべき理由はなにもない。反対に、いまわれわれが展開してきたような資本主義的生産の諸法則からは、この年数は可変だということ、そして、循環の周期はしだいに短縮されるということを推論せざるをえないのである。」ことの挿入文があります。

 マルクスは、この文章の少し前で、産業循環の「10年ごとの循環をなしている形態は、産業予備軍または過剰人口の不断の形成、その大なり小なりの吸収、さらにその再形成にもとづいている。」(同P824)ことを述べています。そして、マルクスはここで、ご覧のとおり、「産業循環の局面転換の単なる兆候でしかない信用の膨張や収縮」を「産業循環」の「転換の原因」と見ることを、「経済学の浅薄さ」として痛烈に批判し、「過剰人口の生産を、近代産業の生活条件として」、その「過剰人口」と「近代産業の全運動形態」との相関関係を指摘するとともに、「産業循環」が資本主義的生産様式の社会の資本主義的生産の諸法則に基づく様々な原因と結果が影響し合うトータルな循環運動であることを指摘しています。

 しかし、不破さんの「恐慌の運動論」なるものは、先に述べたとおり、「信用」による「流通過程の短縮」が「架空の需要」を作り、それが「恐慌」の原因であるというものです。確かに、「架空の需要」は、「産業循環の局面転換の単なる兆候」ではなく、「産業循環の局面転換」の一つの要素となりますが、「産業循環の局面転換」のすべてではありません。21世紀になって「架空の需要」を知った不破さんは、とんでもない早ガッテンをしてしまいました。ガッテン! ガッテン!! ガッテン!!!

 そして、現代の資本主義は、トヨタのカンバン方式を含め、在庫管理技術が向上し、「架空の需要」の余地は極めて少なくなっています。だから、最近起きたITバブルもリーマン・ショックも、資産価値の上昇に基づくもので、「架空の需要」に基づくものではありません。21世紀になって早ガッテンをした不破さんは、リーマン・ショックについて、「恐慌の運動論」が「いまでも、さらに多様な現代的な形で生きており、現実に恐慌を生み出した」と、事実を見ない歪んだ目で、今日の経済現象を説明することなく、断言します。

 「恐慌」は、資本主義的生産の諸法則がはたらく資本主義的生産様式の社会では、信用を使っての価値実現の短縮や資産価値の上昇など過剰生産が可能な条件さえあれば、必ず起こります。そして、産業循環は資本主義的生産様式の社会の生活条件なのです。

 不破さんの発見した「恐慌の運動論」なるものも、マルクス以前の「経済学」と同様に「浅薄」な代物であることを、この「第二三章」は明らかにしています。だから、繰り返しになりますが、不破さんの『古典』解説を読んだ人は、必ずその『古典』もお読み下さい。

P144-145

原因を見ることのできない、不破さんの「マルクスの目」

 不破さんは、「マルクスが『資本論』で分析した資本主義的蓄積の一般的法則の、一段と深刻な、現代的な現れを見ることができます」と述べて、「産業予備軍の固定化とその拡大が、政府の介入のもとにおこなわれて」おり、「現役の就業労働者の『予備軍』化」が進み、「いま企業の内部にまで『予備軍』化の体制を広げて、社会の中核をなすはずの就業労働者層への圧迫を強め、中間層の疲弊と没落、社会の格差の拡大という事態を年ごとに拡大再生産させているのです」と言います。

 そして、「今日の社会的格差拡大の問題を見る場合にも、『マルクスの目』で、ことの本質をつかむ態度が、いよいよ重大になっている、と思います」と述べて「第二三章」の解説をむすんでいます。

 不破さんは、「『マルクスの目』で、ことの本質をつかむ態度が、いよいよ重大になっている」と言いますが、上記のように現象の一部を言うことが「本質をつかむ態度」なのでしょうか。

 いや、違います。

 私は、前に、科学的社会主義の思想は、「生産力と生産関係の矛盾」を注視し、その発展の仕方を研究し、その現れ方を暴露し、資本主義的生産様式の社会の限界を指摘して、その変革を呼びかけるものであり、エンゲルスはザスーリチへの手紙で、「革命的戦術を発見するには、問題となる国の経済的・政治的諸関係にマルクスの歴史理論を適用しさえすればよいのです」と言っていることを紹介しました。

 1970年代以降の資本と経済の詳しい動きは、ホームページ「1、今を検証する」を参照していただきたいと思いますが、現在の日本の経済的・政治的諸関係はグローバル資本の行動とその結果としての「産業の空洞化」がもたらす諸関係によって規定されています。

 しかし、残念ながら「第二三章 資本主義的蓄積の一般的法則」の歴史的限界と普遍性とを学べなかった「不破さんの目」には、そんなことなど、網膜に映っても、まったく眼中にないのです。マルクスの生きた時代についての歪んだ認識をもつ不破さんには、グローバル資本時代の資本主義の解明などまったくできません。だから、不破さんには、グローバル資本によって「産業の空洞化」が進んだために、国民の生活が多少豊かになることを含む「ノーマルな景気循環」さえ起こらなくなってしまった日本経済の現実と、そこでの「新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機」などまったく理解することができず、ただ立ちすくんで、起きている現象の一部を述べて、「今日の社会的格差拡大の問題を見る場合にも、『マルクスの目』で、ことの本質をつかむ態度が、いよいよ重大になっている、と思います」などと言うのが精一杯です。「『マルクスの目』で、ことの本質をつかむ態度」などと言って、自らが「マルクスの目」を持っているかのようなトリックを使っても、「マルクスのお面」をかぶった不破さんが言えることは、「経済的・政治的諸関係」を無視して「ルールある経済社会」の夢を語り、「賃金が上がれば経済がよくなる」という、マルクスの言う「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」の言葉を繰り返すだけです。

 私たちは、不破さんの言う結果(起きている現象)の原因をなくさなければなりません。しかし、なぜ労働者が資本に圧倒されているのか、なぜ中間層が疲弊し薄くなってしまったのか、その答えに、元「共産党」委員長の不破さんよりも、バーニー・サンダース氏やトランプ米大統領のほうが、より近いのは残念です。彼らは、現在の「危機」の主要な原因が「産業の空洞化」にあることをしっかりと認識しています。(詳しくはホームページ6-2-20「第1回大統領候補テレビ討論中継でCNNが伝えたことと、日本のマスコミが報道したこと」及びホームページ6-2-21「米国の歴史を一歩前に進めたトランプ」を参照して下さい。)

 不破さんの言う結果の原因であるグローバル資本による「産業の空洞化」を、グローバル資本の行動を規制することによって回復させ、富の源泉である製造業の厚みを取り戻す道を発見することこそが、「マルクスの目」で資本の「本質」を摑むことです。不破さんの様に、現場に立ちすくんで、結果を嘆いているだけでは、なんの役にも立ちません。

P155-156

次につながるエピソード

 155-156ページの「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月『資本論』② P995F6-9)という、有名な文章は、このホームページの「P133-137利潤率低下の法則の持つ意味を理解できない不破さん」の「虚構を『現実』に仕立て上げ、マルクスの理論と『現実』との矛盾を突く不破さん」のところでも引用させていただきました。

 私は、「P107-109『社会変革の二つの要素と契機』で不破さんが語るべきこと」のところで、不破さんが『前衛』で、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、エンゲルスのいう「根本矛盾」を否定する驚くべき発言をしているのに対し、マルクスがそれを否定している文章を『資本論』から引用しましたが、この文章も、不破さんとマルクス・エンゲルスの考えとがまったく異なることを明確に示す文章の一つです。

 この文章を巡っては、不破さんの、なんとも情けないというか、せこいというか、不破さん得意のテクニックを使ったエピソードがありますので、ちょっとわき道にそれますが、紹介します。

 2014年9月9日に行われた「理論活動教室」第2講「マルクスの読み方」③によると、不破さんは、この文章を、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。」で区切り、つづけて、「私たちの経験のなかでも『桎梏』化はものすごい形で現れています」と述べ、日本共産党綱領を紹介し、その後で、「『資本論』の有名な一文」として後半部分を読み上げたそうです。「『桎梏』化」なる不破さんの造語の由来は次の項で触れますが、その例として、不破さんは「温暖化」や「原発」を挙げています。二つに分離された文章を合体させれば、「桎梏」とは生産の社会的性格と資本の私的資本主義的性格が和解できないレベルに達し、その足かせになることを意味していることは、誰にでも分かることです。ひとかたまりの文章を二つに分け、真ん中に自分の主張を入れ、その主張が元の文章全体の趣旨を表しているかのような錯覚をあたえる。こんなせこいやり方は、「マルクスの読み方」として誤っており、マルクスを修正し、「理論活動教室」の受講生を真理から遠ざける、悪意に満ちた「講義」といえるでしょう。

 不破さんは、このように、『資本論』のなかから、文章をバラバラに分解してその合間に自分の考えをすべり込ませたり、都合の悪い部分は無視したり、自分の謬論に使えそうな部分は歪めて紹介したりします。このような手法で作られた不破さんの寄稿・解説・論文とその宣伝のための鼎談等が、『赤旗』や『前衛』や『経済』の紙誌上を闊歩し、「共産党」と共産党員を科学的社会主義から遠ざけています。

※このような不破さんの文筆上のテクニックについての詳しい説明は、ホームページ4-23 「総括1不破さんの「批判」の方法と思想」を、上記の例の詳しい説明は、ホームページ4-3 「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を、エンゲルスのいう「根本矛盾」ついての詳しい説明は、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を参照して下さい。

P156

自らを顧みようとしない不破さん

珍造語「『桎梏』化」の誕生秘話

 先ほど、「『桎梏』化」なる不破さんの造語の由来は次の項で触れますと言いました。新しい思想には新しい概念が必要だといわれますが、マルクスを修正・利用しようとする不破さんの「『桎梏』化」なる意味不明な言葉はどうして生まれたのか、見てみましょう。

 事の発端は、『前衛』(2013年12月号)で、「土台で生産力と生産関係の矛盾が発展し、生産関係が生産力(発展──青山挿入)の『桎梏』になったときに社会革命の時代が始まる」(P108)というマルクスの言葉を引用して鼎談をすすめる中で、「利潤第一主義」を諸悪の根源とみる不破さんが、「私は、『桎梏』という言葉で、今日、利潤第一主義が人間社会の存続をおびやかすところに来ている、そのすべての事態をとらえたいと思っています。」(P111)と、トンチンカンなことを言いだしたことから始まります。

 不破さんは、「生産力と生産関係の矛盾」などそっちのけにして、マルクス主義(=科学的社会主義)を修正し、「桎梏」(生産力と生産関係の矛盾)の一時的な現れである恐慌と、次元の違う地球温暖化や原発を同列にあつかい、マルクス経済学と唯物史観を滅茶苦茶にしてしまいます。不破さんは、「資本主義的生産関係」が「利潤第一主義」に、「桎梏」が「人間社会の存続をおびやかす有害物」に、マルクスのベルンシュタイン化をおこないます。

 そのとき、この鼎談につき合っている、『資本論』のかじり方を教えている石川康宏氏が、普段は不破さんの言うことに異論を唱えたことなどないのに、さすがに「地球温暖化」や「原発」を「桎梏」の現れと言うことには納得しませんでした。そこで、不破さんは、「地球温暖化や原発」を「桎梏」と言うにはちょっと無理があると思ったのか、翌月の『前衛』(2014年1月号)では、「私は、資本主義が生産力の発展を制御できなくなって、そのことが社会に大きな危機をもたらす場合には、それも資本主義的生産関係の『桎梏』化の一つの深刻な表れだと思うんですよ。」(P108)と、「桎梏」の現れを「『桎梏』化の一つの深刻な表れ」に格下げします。

 ここで、分かったことは、不破さんは、「『桎梏』の現れ」のことを「『桎梏』化」と言い、「『桎梏』の現れ」と「『桎梏』化の一つの深刻な表れ」との違いが私にはよく分かりませんが、「『桎梏』化の一つの深刻な表れ」として「地球温暖化や原発」を捉えているということです。しかし、「地球温暖化や原発」が「利潤第一主義」と結びついていることは分かりますが、「資本主義が生産力の発展を制御できなくなる」ことと「地球温暖化や原発」との結びつきは依然として不明です。「資本主義が生産力の発展を制御できない」ことは、科学的社会主義の思想を石川氏程度に「かじった」人でも共通理解としてもっていることで、資本主義的生産様式がもつ絶対的な矛盾・限界と「地球温暖化や原発」等の科学技術の用い方の問題とは似て非なるものです。

 そして、頭が大混乱している不破さんは、「人類社会にとっての絶体絶命度からいったら、恐慌よりも温暖化の方がはるかに激しいわけです。」(P108)と、資本主義的生産様式などという狭い了見など捨てて、「人類社会にとっての絶体絶命度」という広い視野から、石川氏の疑問に答えようとします。それを聞いた石川氏は、不破さんの熱意に負けたのか、諦めたのか、「そうですか。考えてみます。」(P109)と言うのが精一杯でした。『資本論』のかじり方がよくわからない石川先生でも、せいぜい、「原発事故よりも巨大な隕石のほうが人類社会にとっての絶体絶命度からいったら、はるかに激しいですよね」くらいのことは言えるはずです。『赤旗』等でお世話になっているから、「共産党」に最も影響力のある不破さんには何も言えないのでしょうか?

 ここでもう一つ分かったことは、「利潤第一主義」を資本主義の諸悪の根源とみる不破さんは、資本主義的生産様式の社会の仕組みと矛盾について、そして『資本論』のなかでいわれている「桎梏」の意味もまったく理解していないということです。

 なお、これまで見てきたように、マルクスは『資本論』の中で、「桎梏」という言葉を、「資本主義的生産様式」の「桎梏」という意味と、「資本主義的生産様式」が生産力の発展(新しい共同社会)の「桎梏」になるという意味の場合との、二つのケースで使用しています。

※なお、石川康宏氏の「『資本論』のかじり方」の程度については、ホームページ4-22 「☆石川康宏氏は、唯物史観を認識の中心に据えるべきではないのか」を参照して下さい。

不破さんのひとり相撲

 この、「『桎梏』化」の誕生秘話を踏まえて、156ページで不破さんが言っていることを見てみましょう。

 まず最初に、これから抜粋する文章の中に、「独占資本の『桎梏』化」という意味不明な言葉が出てきますが、これは、「次につながるエピソード」で引用した、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる」(大月『資本論』② P995)から作った、不破さんの造語ですが、不破さんの文章の文脈からして、「資本主義的生産様式の桎梏の現れ」と読み替えて、ご理解いただきたいと思います。

 不破さんは、「マルクスが以前とは違って、恐慌を、独占資本の『桎梏』化と規定していないことは注意すべきことです」と述べ、「恐慌を、独占資本の『桎梏』化の唯一の代表的な表現と見る見方は過去のものとなってしまいました」と、まともに科学的社会主義の思想を学んできた人なら腰を抜かすようなことを言います。

 マルクスは、先に抜粋した155-156ページの文章で、不破さんが否定する「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」が深化し社会変革が起こることを述べており、これはマルクス・エンゲルスの一貫した思想です。不破さんにとっては、この文章は、まともに読んだならば、自らの誤りを悔い改めるべき内容の文章です。その文章に「恐慌」は社会変革の「槓杆」の一つだとわざわざ書いてなかったからといって、マルクスが「恐慌」を社会変革の「槓杆」の一つだということを否定したと言うのです。いくら自分の謬論にマルクスを巻き込みたいからといって、ここまでマルクスをねじ曲げることはないだろう。

 私が抜粋した不破さんの文章には、読者をミスリードする不破さんの誤りがぎっしりと詰まっています。マルクスは恐慌について、「恐慌は、つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかない。」(大月版『資本論』④ P312-314)と規定しています。そして、マルクスとエンゲルスは「恐慌」を資本主義的生産様式の矛盾の現れであり、社会変革の最も強力な「槓杆」の一つであると見ていましたが、「『桎梏』化」の「唯一の代表的な表現」などと見たことはありません。また、マルクスは「資本主義的生産様式」が生産力の発展の「桎梏」(あしかせ・制限)となった現れとして「恐慌」を見ていましたが、「恐慌」を資本主義的生産様式の「桎梏」と見たことなどなく、ましてや、不破さんの言う「『桎梏』化」の表れである「地球温暖化や原発」と同列に見るような視点などマルクスとエンゲルスにはまったくありませんでした。

 私が抜粋した不破さんの文章は不破さんの作った、完全な、フィクションです。フィクションでないと言うなら、「恐慌を、独占資本の『桎梏』化の唯一の代表的な表現と見る」マルクス・エンゲルスの文章を、私たちに、示して下さい。

不破さんに必要なのは、科学的社会主義の思想です

 先の『資本論』の有名な文章に「恐慌」の文字がないことを理由に、「マルクスが以前とは違った」かのような、マルクスが「恐慌」が「独占資本の『桎梏』化」だなどというわけの分からないことを言っていたかのような、フィクションを作り上げた不破さんは、最後に、次の様な珠玉の文章を読者にプレゼントします。

 「『桎梏』化を示す『一点』が客観情勢に現れても、客観的条件だけでは社会変革の事業は前進しません。それには、労働者階級の側の革命的階級への成長と社会の多数者の支持を得てこの事業をなしとげる主体的条件が必要です。資本主義的外被は粉砕する者がいなければ粉砕されないし、鐘を鳴らす力をもったものが現れなければ、『資本主義的私的所有の弔鐘』は鳴らないのです

 ここには、マルクスの社会変革論、資本主義体制の『必然的没落』論の新たな定式化がありました。」と。

 読者のみなさんがこの文章を読んだとき、はじめて科学的社会主義の思想に触れるのでなければ、最後の「ここには、マルクスの社会変革論、資本主義体制の『必然的没落』論の新たな定式化がありました」というセンテンスより前の文章について、至極もっともな、当たり前のことをいっていると思われることでしょう。しかし、それに続く、「ここには、マルクスの社会変革論、資本主義体制の『必然的没落』論の新たな定式化がありました。」というセンテンスを読んだとき、みなさんは、「社会変革論の新たな定式化」以前のマルクスは、こんな「至極もっともな、当たり前のこと」さえ知らなかったエセ「マルクス主義者」だったのかと思うはずです。

 不破さんはこのような悪罵をなんの論証もなしにマルクスに浴びせかけているのです。しかし、「天にツバを吐く」とはこのことです。不破さんは、『レーニンと「資本論」』(1998-2001年)を書き終えて、『資本論』の「草稿の全体を読む仕事を始め」、第二部第一草稿で「マルクスの発見」のヒントを発見し、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたというのですから、不破さんも、何を隠そう、少なくとも2001年までは、エセ「マルクス主義者」だったということです。マルクスについては、不破さんがウソの「レッテル」を貼っていますが、不破さんについては自分で言っているのですから、間違いないでしょう。

 そして、不破さんのこの文章には、マルクス主義者としての最も大切なことがぬけています。不破さんが書いた文章だけでは社会変革は起こりません。この不破さんの文章に欠けているものを労働者階級に自覚してもらうために、マルクスとエンゲルスは『資本論』や『空想から科学へ』や『共産党宣言』を中心とする著作群を執筆し、マルクス・エンゲルス・レーニンは命を賭してたたかったのです。それは、「労働者階級の側の革命的階級への成長と社会の多数者の支持を得る」ための、社会変革の事業をなしとげる主体的条件を築きあげるための、その発展段階が特徴づける資本主義の姿の徹底的な暴露と、その変革の必要性と、向かうべき方向の明示です。そして、そのための国民運動の組織についての理論と実践です。つまり、不破さんに欠けていて必要なものは、現代の資本主義を変革するための、科学的社会主義の思想です。

 不破さんには、科学的社会主義の思想がないから、グローバル資本の世界展開も「産業の空洞化」も眼中になく、「賃金が上がれば経済が良くなる」と「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」の見地に堕落し、不破さんが圧倒的な影響力をもつ「共産党」は、その影響のもと、「社会の多数者の支持を」選挙のときの電話かけだけで得ようと、労働者と市民からかけ離れたところで、涙ぐましい努力をしています。

岩波ホール内

P159-160

不破さんの二つの誤り

 159ページから160ページにかけての文章には、不破さんの、二つの誤った記述があります。一つは、マルクスが、「所有」の「転化」の期間を述べているところと資本主義社会から共産主義社会(発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階の社会)への「過渡期」の期間を述べているところを混同して、マルクスを誹謗している誤りです。そして、もう一つは、マルクスが資本主義的生産様式という賃金「奴隷制のかせ」からの解放を述べている部分を、不破さんは、「指揮者はいるが支配者はいない」という「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」問題、民主的な職場作りの問題と思い込んでしまった誤りです。

 それでは、順番に見てゆきましょう。

「過渡期」をめぐる不破さんの混乱

資本主義社会から共産主義社会への移行期間が長期を要することは科学的社会主義の思想の常識

 不破さんが『赤旗』に寄稿した「『資本論』刊行150年に寄せて」の連載第11回「マルクスの未来社会論(3)」で不破さんは、①マルクスがパリ・コミューンの「壮挙を歴史の記録にのこすために、パリ・コミューンの事業の全面的な研究にとりかか」ったこと、②マルクスは、パリ・コミューンの偉業をたたえる『フランスにおける内乱』で「過渡期」にかかわる見通しを書いたが、その文章の意味が「長い間、理解されないで」きたこと、③ところが、不破さんが21世紀になって『フランスにおける内乱』の「草稿」から「奴隷制のかせ」という言葉の〝珍説〟を発見して「過渡期」の意味が理解できたこと、④この〝大発見〟にもとづいて2004年に綱領を改定したこと、の4点を語っています。詳しくは、ホームページ4-26「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その4)」を参照して下さい。

 不破さんが「この文章の意味は、長い間、理解されないできました」と言う『フランスにおける内乱』の中の文章とは、「労働者階級は、社会のより高度な形態をつくりだすためには、長期の闘争を経験し、環境と人間をつくりかえる一連の歴史的過程を経験しなければならない」という文章です。

 しかし、この文章は、見てのとおり、『空想から科学へ』や『資本論』や『ゴータ綱領批判』を読んだ人なら誰でも理解できることで、古典と疎縁の党員でも1970年代までに入党したほとんどの党員は十分に「理解」していると思います。不破さんの嫌いな『国家と革命』を読んだだけでも、十分「理解」できます。

 なぜなら、マルクスとエンゲルスは「1845年以来」、当然ながら、「必然の国」から「自由の国」への跳躍の期間としての「過渡期」があることを言い続けており、それは、資本主義社会から国家のない社会、いわゆる「共産主義社会」までの期間のことです。だから、「長期の闘争を経験し、環境と人間をつくりかえる一連の歴史的過程を経験しなければならない」のです。

 しかし、不破さんは、上記の文章の意味を本当に理解できなかったのかも知れません。なぜなら、不破さんは、「過渡期」という言葉について、マルクスが『ゴータ綱領批判』で資本主義社会の「革命的な転化の時期」を「政治的な一過渡期」といっているのに飛びついて、「これが、マルクスが『過渡期』という言葉を使った最初の文章でした」と述べているからです。そして、今でも、不破さんの頭の中では、「過渡期」という言葉の意味が「臨機応変」に変化しています。この点については、次の「奴隷制のかせ」に関するところで詳しく見ますので、少々お待ち下さい。

「所有」の「転化」の期間と資本主義社会から共産主義社会への「過渡期」の期間を混同して、マルクスを誹謗する不破さん

 不破さんは、159ページで、「生産手段の所有」の「転化」をめぐる『資本論』の文章を抜粋し、次のように解説します。

「要約して言えば、小経営の私的所有から資本主義的な私的所有への過程は、資本主義からの社会主義的変革の過程よりも、比較にならないほど長くかかる苦しい過程だった、ということ、言い換えれば、社会主義的変革の過程はずっと短時間でおこなわれるだろう、こういうことです。」と。

 続けて不破さんは、「しかし、変革過程の長さという問題では、マルクスは、『資本論』第一部の刊行後に、新しい見地を発展させることになりました。」と言い、『フランスにおける内乱』を引用し、「資本主義社会から共産主義社会にいたる過程に『過渡期』が必要だという考え方も、そこから生まれてゆくのですが、この論点の紹介はここまでにとどめて、先に進むことにしましょう。」と述べて、『資本論』第一部の解説を終わります。

 「この論点の紹介」を「ここまでにとどめて」、先に進まれては、マルクスが『資本論』の第一部で間違ったことを言っていたという印象を読者に与え、読者のみなさんが消化不良になってしまうだけでなく、マルクスの名誉も守れませんので、不破さんの言う「論点」なるものを紹介して、その誤りを指摘したいと思います。

 なお、ここで不破さんが私たちに教えてくれたことの一つは、「資本主義社会から共産主義社会にいたる過程に『過渡期』が必要だという考え方」は、「そこから生まれてゆくのです」と述べて、マルクスが1871~73年以前にはここで不破さんが言う「過渡期」などないと考えていたということです。マルクスて、バカな人だったんですね。また、ここでは「過渡期」を「資本主義社会から共産主義社会にいたる過程」と規定していること、この「過渡期」の規定も、のちに変化しますので、頭に入れておいて下さい。

 それでは、不破さんの言う「論点」なるものを、『前衛』の2015年5月号での不破さんの文章から紹介します。

 不破さんは、マルクスが『フランスにおける内乱』の草稿で「資本と土地所有の自然諸法則の自然発生的な作用」(「ブルジョア的権利の狭い地平」のこと──青山注)が完全に踏みこえられた、「(諸個人が分業に奴隷的に従属することのない──青山加筆)自由な結合的労働の社会経済の諸法則の自然発生的な作用」が支配する「共産主義社会」は「新しい諸条件が発展してくる長い過程を通じてのみ」実現すると述べたことを取り上げて、マルクスは『資本論』第一部では「資本主義から共同社会への経済的な移行は、比較的短い期間しか要しないだろう」という見通しをたてたが、「新しい共同社会の形成には」、「『長い過程』が必要になる」と『資本論』第一部での結論を訂正したと主張します。これが、不破さんが「変革過程の長さという問題では、マルクスは、『資本論』第一部の刊行後に、新しい見地を発展させることになりました」と言っていることの中身です。

 しかし、待って下さい。

 『資本論』第一部でマルクスが述べたことは、資本主義的生産様式の社会への転化のための資本の本源的蓄積の時期と「資本主義的所有の社会的所有への転化」の時期との比較の問題で、資本主義的生産様式の社会への転化のための資本の本源的蓄積の時期とくらべ、「資本主義的所有の社会的所有への転化」の期間は比較的短期ですむだろうという見通しを述べたもので、「新しい共同社会(=「いわゆる共産主義社会」)の形成」のための期間を述べたものではありません。不破さんは、「資本主義的所有の社会的所有への転化」を「新しい共同社会の形成」に勝手にすりかえて、マルクスは、「過渡期」は比較的短い期間しか要しないだろうという見通しを立てていたと歪曲し、その歪曲を前提にして、マルクスは『フランスにおける内乱』で「過渡期」は「長い過程」が必要になると訂正したというのです。

 マルクスは、資本主義社会から共産主義社会への移行期間が長期を要するという科学的社会主義の思想の常識を『資本論』第一部の刊行(1867年9月)まで知らなかったと不破さんは言うのです。

 ただただ、呆れるばかりです。

不破さんは、マルクスをまったく理解しようとしない

 私は、〈「Ⅰ『資本論』第一部を読む」を検証する〉の冒頭の「不破さんにもっと温かい心があるならば」という項で、次のように書きました。

「なお、ここで私たちが注目したいのは、第二版での改訂をふくめ、マルクスの自らの仕事に対する姿勢についてです。コンラート・シュミットあての手紙(1890.8.5)でエンゲルスは、マルクスが、「彼の最善の仕事でさえも労働者にとっては依然としてじゅうぶんではないと考えていたこと、マルクスが最善のものより少しでも劣るものを労働者に提供することを犯罪だとみなしていたということ」を述べています。このようなマルクスの立派な姿勢が、不破さんの言う「書き換え」という第二版での改訂をさせるエネルギーとなったのでしょう。」と。

 このようにマルクスは、「最善のものより少しでも劣るものを労働者に提供することを犯罪だとみなして」、1881年に第二部第八稿で『資本論』の執筆を打ち切るまで、最善のものを求めて手を入れ続けてきました。

 資本主義社会から共産主義社会への移行期間が長期を要するという見通しを最もよく述べている文章は、「第三部 第七篇 諸収入とそれらの源泉 第四八章 三位一体的定式」の中の下記の文章です。

  「……しかしまた、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行なわれるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」〈大月版 ⑤ P1050B3-1051B6〉

  ここで述べられていることを要約すると次のようになります。

「物(富)がどれだけ生産されるかは生産性の高さにかかっており、生産設備等の進歩にかかっている。『自由の国』は強制されてはたらく必要がなくなったときに、はじめて始まる。つまり、それは、当然のこととして、遠い将来のことである。未開人も文明人も自然と格闘しなければならない。この『自然必然の国』は社会の発展につれて拡大する。この『自然必然の国』での『自由』とは、盲目的な力に支配されていた生産が計画的、意識的におこなわれるようになり、共同的統制のもとに置かれることである。しかし、この『自由』を獲得した『社会主義社会』もまだ『必然性の国』である。この国のかなたで、強制的な労働のない、自分の人間的な能力の発展のみを追求する真の『自由の国』が始まる。しかし、それは、『社会主義社会』という『必然の国』を基礎として、その上にのみ花開くことができる。そのための根本条件は労働日の短縮、つまり、生産性の向上である。」

  このように、マルクスは、「社会主義社会」よりもまだかなたに「自由の国」=「共産主義社会」があることを述べており、エンゲルスも『空想から科学へ』で同様なことを述べています。

 『資本論』第一部の、資本主義的生産様式の社会への転化のための資本の本源的蓄積の期間と「資本主義的所有の社会的所有への転化」の期間との比較は、資本主義社会の「革命的な転化の時期」=「政治的な一過渡期」における「資本主義的所有の社会的所有への転化」が、資本の本源的蓄積過程に比べてはるかに短期間であることをマルクスは述べているのです。そしてこの『資本論』第一部の文章と前掲の第三部の資本主義社会から共産主義社会への移行期間が長期を要するという見通しの文章とは、矛盾するどころか、対をなす文章なのです。だから、マルクスは、『資本論』第一部の記述を「最善のもの」として、修正などしなかったのです。

 不破さんは、マルクスをまったく理解しようとせず、科学的社会主義の思想とは無縁なマルクスの「研究成果」を創作して、マルクスを修正しようとします。しかし、マルクスを自分好みに修正しようとすればするほど、マルクスは不破さんから遠ざかってゆきます。不破さんはマルクスからどんどん遠ざかっているので、いま見てきたようなマルクスに対する筋違いの批判も、つぎに取り上げる『フランスにおける内乱』の草稿に出てくる「奴隷制のかせ」という言葉の不破さんの特異な解釈についても、不破さんがいくら詭弁を弄しても、科学的社会主義の「カ」の字も知らないよほど単純な人でないかぎり、騙されはしません。不破さんは、そのことを知るべきだと思います。

「奴隷制のかせ」という言葉の不破さんの特異な解釈

 不破さんは、160ページで、マルクスが「パリ・コミューンの偉業をたたえるインターナショナルの声明を準備する中で、コミューンが開始した事業の前途を研究し、資本主義の胎内で発展した『社会的生産経営』を新しい社会の経済的基礎に変えるには、経営内の人間関係を、資本主義時代にそこに固着した〝奴隷制のかせ〟から解放することが必要だ、そのためには、『労働者階級は環境と人間をつくりかえる長期の闘争、一連の歴史的過程を経過しなければならない』(『フランスにおける内乱』)という結論に到達した」と述べて、「奴隷制のかせ」という言葉の不破さんの奇抜な解釈をあたかもマルクスの考えででもあるかのように読者に思わせたうえで、「経営内の人間関係を」、「指揮者はいるが支配者はいない」という民主的な職場にする「ためには」、「労働者階級は環境と人間をつくりかえる長期の闘争」が必要だという、画期的な「未来社会」論を披露します。

 この不破さんの文章には、「奴隷制のかせ」という言葉の誤った解釈と「経営内の人間関係を」変える「ためには」「長期の闘争」が必要だという「未来社会」論の誤りという、二重の誤りが、マルクスの考えででもあるかのように表現されています。

 こういう、科学的社会主義の思想とは無縁な思想にもとづいてマルクスの著作を「解説」する書籍も、私たちは「解説書」と呼ばなければならないのでしょうか。

不破さんのいう「奴隷制のかせ」とは

 それでは、『フランスにおける内乱』の草稿に出てくる「奴隷制のかせ」という言葉の、不破さんの特異な解釈について、順を追って見ていきましょう。

 不破さんが、労働者階級が「社会と生産の主人公になる」には「環境と人間を変える」長期の歴史過程が必要だというあたりまえのことを〝大発見〟し、「社会と生産の主人公になる」ために「指揮者はいるが支配者はいない」という民主的な職場(経営内の人間関係)が必要だということを、マルクスの著作の中から発掘しようとして目を付けたのが、『フランスにおける内乱』の草稿でした。

 不破さんが「奴隷制のかせ」という言葉を探しだし、その誤った解釈をした『フランスにおける内乱』の第一草稿は、内容的には、資本主義社会から「民主社会への革命期の社会」=「政治的な一過渡期の社会」、そして「社会主義社会」を経て、「ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書く、各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」という社会、つまり「共産主義社会」までを概説し、最後にパリ・コミューンの歴史的意義を述べたものです。

 不破さんは、『前衛』2014年1月号で、マルクスの『フランスにおける内乱』の第一草稿をもとに、想像をふくらませて、「自由な生産者の連合という、生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく。この時期を卒業して初めて、資本主義から社会主義への過渡期が終わったと言える、これが、この時、マルクスが到達した『過渡期』論の大事な内容があったのでした」と言います。このとき、不破さんが言った「過渡期」とは、「資本主義から社会主義への過渡期」のことで、「政治的な一過渡期の社会」を経て「社会主義社会」へ至るまでの期間のことです。そして、不破さんの言う「社会主義」とは、生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階である「社会主義社会」のことです。

 ここで不破さんの言う「自由な生産者の連合」とは、「自由な結合的な労働」と同意義で、「共産主義社会」での労働形態のことですが、不破さんは、「指揮者はいるが支配者はいない」生産現場と捉え、「社会主義社会」と見ています。このような混乱がありますが、とりあえず、目をつぶって下さい。

 また、『前衛』の2015年5月号によれば、「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」とは「〝指揮者はいるが支配者はいない〟といういわば自治的な関係」だそうで、やはり、「諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなった」社会(=「共産主義社会」=「発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階の社会」)とは異なります。

 不破さんは、このような「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」ことが「奴隷制のかせ」からの解放だと言うのです。

 これらを踏まえて『フランスにおける内乱』の第一草稿を見てみましょう。

マルクスは『フランスにおける内乱』の第一草稿で何を言っているのか

 マルクスが『フランスにおける内乱』の第一草稿で何を言っているのか、不破さんが『前衛』の2015年5月号で草稿の文章を(1)から(5)に分けて掲載しているので、その区分に沿って、内容を要約して紹介します。

(1)コミューンの組織が全国に確立されると資本家(賃金奴隷の所有者)は反乱を起こすだろうが、それを鎮圧することによって、「労働の経済的解放」の運動は加速するだろう。

(2)資本主義社会を「共産主義社会」に置き換えるには時間がかかる。そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならない。

(3)この資本主義的生産関係を社会主義的生産関係に刷新する仕事、「共産主義社会」をつくる仕事は、既得の権益や階級的利己心の諸々の抵抗によって再三再四妨げられ、多くの困難にあうことを、パリの労働者階級は知っている。

(4)現在の資本主義社会で自然に見えているものが「共産主義社会」で自然に見えてるものにおきかわるためには、そう見えるようになるための様々な条件が成熟し整わなければならない。そのための長い過程が必要である。それは、奴隷制社会や農奴制社会が新しい社会に代わっていったときそうであったように。そのことをパリの労働者階級は知っている。

(5)このように、「共産主義社会」への道のりは長いが、労働者階級の政府であるコミューンをにぎった労働者は、コミューンが「労働の経済的解放」のための巨大な進歩、つまり、資本主義的生産関係からの解放を一挙に実現できること、そしてその時期がきていることを学んだ。

 これが、マルクスが『フランスにおける内乱』の第一草稿で言っていることです。

不破さんの洞察力と想像力

 この文章から、不破さんは、マルクスが(2)で「奴隷制のかせから」「救いだす」といっていることの意味は「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」だと言い、それが「過渡期」の仕事だと(2)でマルクスがいっいるかのように言います。

 (2)の部分でマルクスが何を言い、「奴隷制のかせ」とは何のことなのか、ちょっと長くなりますが、(2)の原文を、『前衛』から転載します。なお、分かりやすいように若干補筆しました。

 (2)「労働者階級は、彼らが階級闘争のさまざまな局面を経過しなければならないことを知っている。労働の奴隷制の経済的諸条件(資本主義的生産様式のこと──青山注)を、自由な結合的な労働の諸条件(共産主義的生産様式のこと──青山注)におきかえることは、時間を要する漸進的な仕事でしかありえないこと(その経済的変換)、そのためには、分配の変更(資本主義的生産関係が生みだす資本主義的分配の変更──青山注)だけでなく、生産の(社会主義的な──青山加筆)新しい組織が必要であること、言い換えれば、現在の組織された労働という形での社会的諸形態(資本主義的生産関係のもとでの社会的労働のこと──青山注)(現在の工業によってつくりだされた)を、(資本主義の賃金──青山加筆)奴隷制のかせから、その現在の階級的性格から救いだす(解放する)ことが必要であり、(労働者階級の──青山加筆)国内的にも国際的にも調和のとれた対等関係をつくりだすことが必要であることを、彼らは知っている」。

 私は先に、この文章を、「資本主義社会を『共産主義社会』に置き換えるには時間がかかる。そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならない」と要約しました。

 文脈から見ても、「分配の変更」だけでなく「現在の組織された労働という形での社会的諸形態」を変え、「現在の階級的性格から救いだす(解放する)」とは資本主義的生産関係から解放することであり、「奴隷制のかせ」とは資本主義社会において労働者が賃金奴隷制に縛られて生存しなければならない状態(=労働の奴隷制の経済的諸条件に縛られいること)をあらわしていることはあきらかです。

  つまり、社会主義社会を作っていくためには、社会を社会主義的生産様式に変えるためには、資本主義的分配を社会主義的分配に変えるとともに労働を真の社会的労働に変えて──一人は万人のために、万人は一人のために──の労働の組織にしなければならないということをマルクスは言っているのです。

 このように、不破さんがマルクスを修正するために利用しようとした『フランスにおける内乱』の第一草稿は、資本主義社会から「共産主義社会」までを概括して、それが、長い過程であることを述べていますが、不破さんのいわゆる「過渡期」論のメインテーマである「指揮者はいるが支配者はいない」という「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」ことが長い過程だなどということなど、一言も述べていません。そして、『フランスにおける内乱』の第一草稿は、パリ・コミューンの歴史的意義として、コミューンが「労働の経済的解放」のための巨大な進歩、つまり、資本主義的生産関係からの解放を一挙に実現できること、そしてその時期がきていることを、労働者階級の政府であるコミューンをにぎった労働者が学んだことを述べて、文章を結んでいます。

  また、マルクスは『ゴータ綱領批判』でも、同様に、資本主義的生産関係からの解放の意義を、次のように述べています。

「いわゆる分配について大さわぎをしてそれに主たる力点をおくことは、なんといっても誤りであった。

 どんなばあいにも、消費諸手段の分配は生産諸条件の分配そのものの結果にすぎないのであって、生産様式そのもののひとつの特徴をなすのは生産諸条件の分配のほうである。たとえば資本主義的生産様式の基礎は、物象的な生産諸条件が資本所有と土地所有という形態で働かざる者たちに分配されている一方、大衆は人格的な生産条件つまり労働力の所有者でしかない、ということにある。生産の諸要素がこのように分配されているからこそ、消費手段の今日のような分配方式がおのずからうまれているのである。」(マルクス『ゴータ綱領批判』(ドイツ労働者党綱領評注)岩波文庫P39-40)と。

 ここでもマルクスは、「分配」だけではだめだ、「生産諸条件」を変えることがかんじんなんだということを言っています。(2)の文章は、そのことを言っているのです。そしてマルクスは、『ゴータ綱領批判』の中で、資本主義的生産様式のもとでの「賃労働制度とはひとつの奴隷制度」(P47)であることも述べており、『資本論』の中でも「賃労働制度」を「奴隷制度」と表現しています。

 これらを踏まえて考えれば、「奴隷制のかせ」とは資本主義社会において労働者が賃金奴隷制に縛られて生存しなければならない状態をあらわしていることは明白で、「奴隷制のかせ」からの解放が「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」など意味していないことは明らかです。

 そして、上記の(1)~(5)を見れば分かるように、「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」が「過渡期」の仕事ででもあるかのような内容など、この草稿のどこにも出てきません。

 『前衛』の2015年5月号でも、不破さんは、資本主義的生産関係から解放された「対等な人と人との関係をつくりだす」という「社会主義社会」での「人と人との関係」を、「生産現場での人間関係の新しい体制」と言って「生産現場」での問題にすりかえ、それを「自由な生産者の連合」という「共産主義社会」の「人と人との関係」と同一のもののように混同させます。そして、この「生産現場での人間関係の新しい体制」をつくることが「資本主義から社会主義への過渡期」論で、「マルクスが到達した『過渡期』論の大事な内容」だと言います。しかし、同時に、「〝指揮者はいるが支配者はいない〟といういわば自治的な関係が完成したときには」、「社会全体が、次第に、強制的な権力を不要とする自治的な体制に移行してゆくでしょう」(P129)とも言い、今度は「共産主義社会」だと言いはります。

 このように、自ら生みだした「生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」という資本主義社会から「社会主義社会」への「過渡期」論は、不破さんが、『フランスにおける内乱』の第一草稿を正確に読みこなせていないために、資本主義社会から「社会主義社会」への「過渡期」論なのか、それとも、「共産主義社会」にいたる「過渡期」論なのか、やはり、判然としません。

 そして、不破さんは、「『資本論』刊行150年に寄せて」(『赤旗』2017年)の第10回連載で、「指揮者」がいて、「分業」があって、そこで労働者が「義務的」に働く社会を、「共産主義社会」だと言いうのですから驚きです。(ホームページ4-26「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏」(その2)の第10回連載関係を参照して下さい。)

 ここには、「社会主義社会」も「共産主義社会」も分からない不破さんと、その不破さんが考えた伸縮自在な「過渡期」論があります。

不破さんが私たちを混乱させる原因

 21世紀になって、『資本論』第二部の第一草稿で「マルクスの発見」のヒントを「発見」して「激しい理論的衝撃」を受け、パワーアップした不破さんは、『フランスにおける内乱』の草稿から「長い間、理解」できなかったマルクスの新しい「過渡期」論を「発見」します。

 その結果(なのか、もともと不破さんが持っていたもともとの「思想」なのか分かりませんが)、不破さんは、①「〝指揮者はいるが支配者はいない〟といういわば自治的な関係」という「経営内の人間関係」という、生産様式を基準としない曖昧な観念を「未来社会」の目標にし、②「民主社会への革命期の社会」=「政治的な一過渡期の社会」と「社会主義社会」を経て「共産主義社会」にいたる「過渡期」との区別がなく、③「社会主義社会」と「共産主義社会」との区別もなく、④「共産主義社会」でも、労働者は「指揮者はいるが支配者はいない」職場で「義務的」に働かなければならないという、不破さんの頭脳のカオス状態を反映した、カオスのような「未来社会」論を持つようになります。

 だから、不破さんが何を言っているのか分からないのは、私たちに理解力がないからではありません。

私たちが押さえておくべきこと

 不破さんの謬論を踏まえて、科学的社会主義の思想から導かれる〝未来社会〟への道程と、その〝未来社会〟へ向かって私たちが何をなすべきか、もう一度確認しておきましょう。

〈科学的社会主義の思想から導かれる未来社会への道程〉

 「必然の国」から「自由の国」への跳躍のために、「長期の闘争を経験し、環境と人間をつくりかえる一連の歴史的過程を経験しなければならない」期間とは、資本主義社会から国家のない社会、いわゆる「共産主義社会」にいたるために必要な期間です。

 所有関係を私的資本主義的所有から国民のための国民の共同所有の変えることは、共産主義社会へ至る小さな一歩ですが、搾取のない国民自身がつくる新しい共同社会に向かっての巨大な一歩です。

〈資本主義的生産様式の社会の革新とは〉

  資本主義的生産様式の社会の革新とは、不破さんが言うように「指揮者はいるが支配者はいない」という「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」ことではありません。生産手段を私的資本主義的所有から社会的な所有に変え、労働者を資本主義的生産関係から解放して、資本主義的分配関係を社会主義的分配に変えるとともに、労働を国民のための真の社会的労働に変えて「一人は万人のために、万人は一人のために」の理念を実現させ、国民一人ひとりの個性と能力が開花する社会をつくりあげるための基礎を築くことです。

 国民が政治・経済・社会の中心にいるためには、自覚的な個人がいて、その個人があらゆる社会的活動へ参加できる仕組みが必要です。「指揮者はいるが支配者はいない」という「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」ことではなく、〝by the people〟の〝新しい社会〟を創ることです。

※なお、「過渡期」に関する詳しい説明はホームページの4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」を、「自由の国」についての詳しい内容はホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

「『資本論』第一部を読む」の検証を終えて

  私は、「不破さんの「Ⅰ『資本論』第一部を読む」を検証する」の冒頭の項で、1868年のマルクスのエンゲルスあての手紙で、『資本論』について、「資本の一般的本性」を究明し、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもりであった」と述べていることを紹介しました。

 科学的社会主義の思想は、資本主義的生産様式を「解体」するための科学です。そして、共産党は、そのための、助産婦の組織です。だから、『資本論』の解説はそのような立場に立っておこなわれなければなりません。

 「P156 自らを顧みようとしない不破さん」の「不破さんに必要なのは、科学的社会主義の思想です」で指摘しましたが、「マルクスの社会変革論」には、不破さんが述べた私たちにとって常識的な一般論のほかに、「マルクス主義者としての最も大切なこと」があることを指摘しました。それは、資本主義を変革するための、その発展段階が特徴づける資本主義の姿の徹底的な暴露と、その変革の必要性と、向かうべき方向の明示、そして、そのための国民運動の組織についての理論です。つまり、社会変革の助産婦がもつべき科学的社会主義の思想です。

 しかし、残念ながら、不破さんの「Ⅰ『資本論』第一部を読む」は、マルクスの「資本主義を変革するための、その発展段階が特徴づける資本主義の姿の徹底的な暴露と、その変革の必要性と、向かうべき方向の明示」を正確に跡づけることもせず、マルクスから学んで、現代の日本の「資本主義を変革するための、その発展段階が特徴づける資本主義の姿の徹底的な暴露と、その変革の必要性と、向かうべき方向の明示」を「『資本論』第一部」を深化させるかたちで提起することもせず、自ら創作した「恐慌の運動論」という名の資本主義発展論に基づく自説を、マルクスの新しい見解ででもあるかのように装って、読者に刷り込もうとするものでした。

 ですから、私は、不破さんを、あえて、似非「マルクス主義者」と呼んで、厳しく批判した次第です。このページをご覧になった方の中に、このような不破さんとの接し方に不快を感じた方がいらっしゃいましたら、お許しください。