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「桎梏」についての不破さんの仰天思想

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「桎梏」についての不破さんの仰天思想

〈目次〉

  1. 不破さんは、「資本主義的生産様式のもつ矛盾」を「利潤第一主義」で覆い隠し、「桎梏」を「人間社会の存続をおびやかすすべての有害物」に拡大するして、資本主義的生産様式のもつ矛盾を明らかにすることを曖昧にする…1
  2. 不破さんの得意のトリック…2
  3. 資本主義のもとでは「放っておけば絶体絶命の危機」をもたらすものは山ほどある …3
  4. 不破さんの、このような誤った考えが、「共産党」をどこに導いているのか…3
  5. 「桎梏」と科学的社会主義の任務と近代プロレタリアートの歴史的使命…4
  6. 『資本論』で述べられていることの現代的な意味…5
  7. 経済の現状と労働者階級の状態の大雑把な描写…5
  8. 機は熟した。しかし、残念ながら、日本に科学的社会主義の党がなかった…6
  9. 新しい社会を創る労働者階級の歴史的意義を明らかにし、労働運動を復興して、不破さんの「桎梏」化と「利潤第一主義」のデマを葬り去ろう…7
  10. 最後のダメ押し…8

不破哲三氏の「桎梏」についての驚くべき見解

不破さんは「資本主義的生産様式の矛盾」を「利潤第一主義」に、マルクスのいう「桎梏」を「人間社会の存続をおびやかす有害物」に読みかえることによって、マルクス・エンゲルスの思想を修正し、台無しにして、日本共産党員を科学的社会主義の思想から遠ざけ、労働者階級の社会変革のエネルギーを抑え込んでいます。

不破さんは、

「資本主義的生産様式のもつ矛盾」を「利潤第一主義」で覆い隠し、

「桎梏」を「人間社会の存続をおびやかすすべての有害物」に拡大するして、

資本主義的生産様式のもつ矛盾を明らかにすることを曖昧にする

ここで問題にする「桎梏」とは、不破さんも『前衛』(No903.2013年12月号)でマルクスを引いて述べている、「土台で生産力と生産関係の矛盾が発展し、生産関係が生産力(の発展──青山挿入)の『桎梏』になったときに社会革命の時代が始まる」(P108)という有名な文章の中で使われている意味での「桎梏」であることは言うまでもありません。

この「桎梏」の意味を正しく理解して、「生産力と生産関係の矛盾が発展し、生産関係が生産力発展の『桎梏』になった」ことを具体的に曝露することによって、労働者階級に新しい社会をつくることへの確信とプライドを与え、その実現のためのエネルギーを沸き立たせることができます。

 ところが不破さんは、『前衛』No903で、「私は、『桎梏』という言葉で、今日、利潤第一主義が人間社会の存続をおびやかすところに来ている、そのすべての事態をとらえたいと思っています。」(P111)と言って、「生産力と生産関係の矛盾」などそっちのけにして、マルクス主義(=科学的社会主義)を修正し、「桎梏」(生産力と生産関係の矛盾の発展結果)の一時的な現れである恐慌と、まったく次元の違う地球温暖化や原発とを同列にあつかい、マルクス経済学と唯物史観を滅茶苦茶にしてしまいます。「資本主義的生産様式のもつ矛盾」を「利潤第一主義」で隠蔽し、「桎梏」を「人間社会の存続をおびやかすすべての有害物」に拡大して、マルクスのベルンシュタイン化をおこないます。

 さすがに不破さんも、「地球温暖化や原発」を「桎梏」と言うにはちょっと無理があると思ったのか、翌月の『前衛』No904では、「私は、資本主義が生産力の発展を制御できなくなって、そのことが社会に大きな危機をもたらす場合には、それも資本主義的生産関係の『桎梏』化の一つの深刻な表れだと思うんですよ。」(P108)と言って、生産力の発展の「桎梏」が「資本主義が生産力の発展を制御できない」という生産力の発展の「爆走」に置換され、「桎梏」の現れが「『桎梏』化の一つの深刻な表れ」に格下げされて、延命が図られます。

「資本主義が生産力の発展を制御できない」のは、今に始まった話ではないし、「そのことが社会に大きな危機をもたらす」のもマルクス・エンゲルス・レーニンが再三指摘しているとおりです。

 そして、この『前衛』での鼎談につき合っている、『資本論』の「かじり方」を教えている石川康宏氏が、不破さんから「人類社会にとっての絶体絶命度からいったら、恐慌よりも温暖化の方がはるかに激しいわけです。」(P108)と言われたとき、「そうですか。考えてみます。」(P109)という言葉以外にどのような応答もできなかったのは、実に、寂しいかぎりです。石川先生も「かじり方」を間違えて『資本論』がよく分からないのであれば、不破さんに調子を合わせて、せいぜい、「原発事故よりも巨大な隕石のほうが人類社会にとっての絶体絶命度からいったら、はるかに激しいですよね。何しろ、恐竜を絶滅させて、地球の歴史を変えたんですから!」くらいのことは言って欲しかったと思います。(?資本主義的生産様式の矛盾の話しが、不破さんによって「人類社会にとっての絶体絶命度」の話しに流転されたので、もう、ちんぷんかんぷんで、何が何だか分からない!)

 

不破さんの得意のトリック

2014年9月9日に行われた「理論活動教室」第2講「マルクスの読み方」③によると、不破さんは『資本論』第一巻 第2分冊の「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月『資本論』② P995F6-9)を引用して、(不破さん一流のトリックの付いた──青山補足)講義をしたとのことです。

ここでのミソ、そのトリックとは、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。」で文章を切り、つづけて、「私たちの経験のなかでも『桎梏』化はものすごい形で現れています」と述べ、「日本共産党2004年綱領」を紹介し、その後で、「『資本論』の有名な一文」として先の文章の後半部分を読み上げたそうです。二つに分離されるべきでない文章を分離し、2004年エセ「綱領」(*)のなにを紹介したのかは不明ですが、「『桎梏』化」の例として──不破さんが「『桎梏』化」と言っているのでその確率は極めて高いと思われるが──「温暖化」等が「恐慌」よりも絶体絶命度が高いとして、「この生産様式(資本主義的生産様式)」の持つ本質的な矛盾を明らかにすることなく、「温暖化」等の改善の必要性が語られたとしたら、「マルクスの読み方」として根本的に誤っており、マルクスを修正し、受講生を真理から遠ざける、悪意に満ちた講義だといえます。

ひとかたまりの文章を二つに分け、真ん中に自分の主張を入れ、その主張が元の文章全体の趣旨に合った文章ででもあるかのような錯覚をあたえる、このトリックは、不破さんの常套手段の一つです。二つに分離された文章を合体させれば、「桎梏」とは生産の社会的性格と資本の私的資本主義的性格が和解できないレベルに達したときの状態を意味していることは、誰にでも分かることです。生産の社会的性格と資本の私的資本主義的性格を根拠に起こる事象を例にとるべきなのに、押しも押されもしない正真正銘の資本主義国であるドイツが率先して取り組んでいる「地球温暖化や原発」を「『桎梏』化」の例などにとるとしたらとんでもないことです。しかし、不破さんは、マルクスの代弁者としてマルクス主義(科学的社会主義)を修正しなければならないので、このような姑息なテクニックが必要とされるのです。

(*)科学的社会主義の思想が貫かれていた〝日本共産党綱領〟と「2004年綱領」以降の「綱領」との違いについては、ホームページ3-3-1〈「2004年綱領」にみる不破哲三氏の転落の証明〉ホームページ3-3-2〈「2020年綱領」を克服して、共産党よ元気をとりもどせ!!〉ホームページ3-3-9〈不破さんと志位さんの「共産党100年」史──科学的社会主義の大地に「資本主義発展論」の種を蒔く〉及びホームページ3-3-2-2〈“科学的社会主義の思想”とは何か…「日本共産党第29回大会決議」を検証する:蘇れ!Communist Party。〉を、是非、参照して下さい。

 

資本主義のもとでは、

「放っておけば絶体絶命の危機」をもたらすものは山ほどある

マルクスは、「資本主義的生産様式にたいしては最も簡単な清潔保健設備でさえも国家の側から強制法によって押しつけられなければならないということ」と述べて、「この生産様式を特徴づけ」(『資本論』第1巻 P627)ています。「資本主義的生産様式」は「私利」を追求し、「私利」を増やすことによって社会を歪んだ形に発展(成長)させることで存立することができるように設計されたシステムの社会です。だから、「放っておけば絶体絶命の危機」をもたらすものは地球温暖化や原発だけではありません。山ほどあります。「我が亡き後に洪水は来たれ!!」、これが資本主義です。そんなことは分かりきったことです。「地球温暖化や原発」は、独占資本に生産手段が集中し労働の社会化が進んだ資本主義のもとで、生産力の発展を阻害する〝桎梏〟として現れたものではありません。逆に、資本がより大きくなるための未熟な技術やその副産物として存在するものです。だから、そのような未熟な技術やその副産物の克服を新しい儲けの種にしようとして〝押しも押されもしない正真正銘の資本主義国〟が新しいルールづくりをして、その開発にしのぎを削ろうとしているのです。

 

不破さんの、

このような誤った考えが、

「共産党」をどこに導いているのか

生産性を上げるための人間性を無視した労働の組織や「地球温暖化や原発の問題」等の資本が儲けを拡大させるための未熟な技術やその副産物と独占資本がもたらす生産力の発展を阻害する〝桎梏〟とを混同させてはいけません。

不破さんは、「資本主義的生産様式のもつ矛盾」を「利潤第一主義」という言葉で覆い隠し、「人間社会の存続をおびやかすすべての有害物」を〝桎梏〟といううことによって、資本主義的生産様式のもつ矛盾を明らかにすることを曖昧にし、資本主義的生産関係からの解放の意味を労働者階級が理解するのを妨げています。

 2024年1月に開かれた「日本共産党」の「第29回大会決議」は、不破さんの絶大な影響力のもと、「社会主義・共産主義の目的」の〝いの一番〟に「『利潤第一主義』からの自由」を挙げています。

「利潤第一主義」の克服を目的とする不破さんのエセ「科学的社会主義」の影響下にある現在の「共産党」は、マルクスが資本主義社会にかわる新しい社会を〝結合労働の生産様式〟の社会と言った意味も、科学的社会主義の思想が労働者階級を〝結合労働の生産様式〟の社会をつくり運営する主たる担い手と規定した意味も、まったく理解することがでないようです。

 不破さんが改竄した「2004年綱領」は、〝日本共産党綱領〟にあった労働者階級の「階級的戦闘性と政治的指導力をつよめ」て労働者階級を主体とした革命を推進するという考えを、不要あるいは邪魔者(?)として捨て去り、「第29回大会決議」は、「全人民の民主主義的管理を組織する」ことを通じて〝民主主義の完全な発展〟を図ることにより社会を「社会主義的経済的有機体に組織する」というレーニンがめざしたような社会主義社会の建設をめざすのではなく、「利潤第一主義」が諸悪の根源だから、「共産党」が議会で多数をとって「生産手段の社会化」をして「『利潤第一主義』から自由になる」ことによって社会主義・共産主義を実現する、そのために、闇雲に「共産党」を大きくすること、「共産党」への支持を拡大させることに精力を注ぐことを決めました。

資本主義的生産様式の社会は、不破さんが導く、新しい歴史をつくる主人公のいない、「生産手段の社会化」をして「『利潤第一主義』から自由になる」などという無内容なたたかいで崩れ去るようなやわな社会ではない。

 

「桎梏」と科学的社会主義の任務と近代プロレタリアートの歴史的使命

マルクスは資本主義的生産様式のもとでの資本蓄積の進行が、「資本(資本主義的生産様式)の歴史的な任務(使命)であり、弁明理由である」が、その資本主義的生産様式そのものが資本主義の発展によって「人間労働の生産性の発展(社会的労働の生産力の発展)」の「桎梏」になるということを述べています(※読みにくいかも知れませんが、中身が摑みやすいようにあえて二種類の訳を併記いたしました)。

 資本主義的生産そのものが生産力の発展を阻害する原因となる。だからこそエンゲルスも『反デューリング論』で〝生産力が不断に発展していくためには社会が生産手段を掌握する必要があり、この事業を遂行することが近代プロレタリアートの歴史的使命であること、科学的社会主義(プロレタリア運動の理論的表現)の任務は、このプロレタリアートに世界解放の事業を遂行することが彼らの歴史的使命であることを意識させることである〟と述べているのです。そして、ここで大事なのは、「社会が生産手段を掌握」するということは「近代プロレタリアートの歴史的使命である」ということで、「共産党」が議会で多数をとって「生産手段の社会化」をして「『利潤第一主義』から自由になる」などという「議会主義的クレチン病」を夢想することなどではありません。

「資本主義的生産関係が生産力発展の『桎梏』になる」とは、資本の蓄積が進み、一方で資本の有機的構成が高まり利潤率が傾向的に低下し、他方で資本主義的生産関係の中での消費が制限され、「資本の過多(過剰)により資本が資本としての役割ができなくなる」ことであり、そのなかで独占資本が国家と国民におよぼす被害のことです。「資本は資本主義的生産関係の中でのみ資本として働く」(『資本論』第3巻P501)。その資本が「自己増殖する資本」としてその国の国民に「資本」としての役割を果たせなくなる。それが「資本主義的生産関係が生産力発展の『桎梏』になる」ということの真の意味です。

だから、不破さんが「古典教室」で解明すべきは、「放っておけば絶体絶命の危機」などの問題ではなく、資本主義的生産様式のもとでの資本蓄積の進行の結果〝今の日本の経済の状態はどうなっているのか〟を明らかにし、日本経済の危機的な状況を打開するために「近代プロレタリアート」は何をなすべきか、その「歴史的使命」を明らかにして、労働者階級が新しい社会と新しい企業の担い手としての自覚と意欲、闘うエネルギーを育むのを助け、〝政治は何をしてきたか〟も労働者に示し(暴露し)、労働者階級の団結を促すことです。

 

『資本論』で述べられていることの現代的な意味

このように、もしも、本当に、不破さんが科学的社会主義の伝道師たらんとするならば、『資本論』第一巻 第2分冊の「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月② P995F6-9)ことの現代的な意味を明らかにすることです。

 なお、ここでいう「独占資本」とは、現代の「グローバル資本」のことで、「独占資本は、この生産様式の桎梏になる」とは「グローバル資本は資本主義的生産様式の桎梏になる」という意味で、「資本主義的な外皮」とは「資本主義的生産様式」のことです。だから、この文章をいまの日本にあてはめれば、〈グローバル資本は、その飽くなき利潤追求欲求のために労働者が創った富と雇用を海外に持ちだして日本経済を空洞化させ、日本の資本主義的発展の「桎梏」となり、日本という国家とも日本国民の利益とも一致しなくなった。グローバル資本の行動を制御して〝経済は社会のため、国民のためにある〟という〝新しい国民の共同社会〟への道への歩みを進めなければならない時が来た。企業で支配されていた労働者階級が企業の支配者となる時が来た。その、「最後を告げる鐘」が、今、鳴っており、この〝危機〟を克服しなければ、日本は時代から取り残され、滅びゆく運命にある〉ということです。

 ちょっと、先回りして、結論の一部を言ってしまいましたが、マルクスが探求して本質を極め、レーニンが資本主義の発展的に即して理解した〝資本〟は、その後日本で今どんな行動をとってきたのか、とらざるを得なかったのか、まず、その足跡を簡単に見てみましょう。

 

経済の現状と労働者階級の状態の大雑把な描写

ブルジョア経済学者が「脱工業化」を叫びはじめた70年代に、日本を含む先進資本主義国における「資本」は国内での資本増殖の限界に突き当たり、その歴史的使命を基本的に終え、「資本主義的生産関係が生産力発展の『桎梏』になる」ときを迎えました。国内での資本増殖の限界に突き当たった資本は、経済のグローバル化による資本の増殖に自らの活路を求める動きを活発化させます。日本では、1985年のプラザ合意を受け、前川リポートを武器として、プラザ合意後の円高を背景に製品、資本の輸出が加速され、産業の第一次空洞化が始まります。この様な資本の方針転換の結果、労働者の創った富が海外に持ち出され、国内投資が減らされて雇用の海外移転が進行することにより、資本による労働者・国民への最初の一撃が与えられます。グローバル企業の労働者は企業の海外移転による国内の事業所の縮小に怯え、海外に移転することのできない企業の労働者は海外との競争に怯える日々がはじまります。

こうした中で、資本主義の基幹産業である製造業は1973年にその勢いを失い、空洞化の進行により、就業者数は1992年から2011年の間に約500万人減少し、1995年以降、製造業の全ての業種で就業者数が減少することとなります。製造業(=富の源泉)が、それも生産性の高い製造業が日本から逃げ出しはじめた結果、日本の失業率は、60年の1.7%から70年の1.1%をボトムに76年には2.0%を突破し、その後約10年間2%を維持していたが95年には3.2%と3%を突破します。そして、98年には、ついに、4%を越え、02年に5.4%とピークを打ち、以降4%台で推移することとなります。その結果、2002年1月を谷として「いざなぎ景気」を超える戦後最長の景気回復期──それは、グローバル企業に「いざなぎ景気」に次いで戦後二番目の実質経常利益の増益率をもたらした──にもかかわらず、資本主義の常識からして本来景気回復期には賃金は上がるはずであるが、労働者の名目賃金がマイナスになるというマルクスもエンゲルスも想定しなかった異常な事態が進行することとなります。

労働者の創った富が海外に持ち出され、国内投資が減らされて雇用の海外移転が進行し、グローバル企業の労働者は企業の海外移転による国内の事業所の縮小に怯え、海外に移転することのできない企業の労働者は海外との競争に怯える日々が続くなかで、労使の力関係が資本優位となり、労働需給も資本優位となって、不安定雇用が徐々に増加し、労働者の賃金も頭を押さえられていく。このような中で、80年代から、〝企業が労働者を正社員として定年まで安定して雇用し、労働力の再生産を保障し、必要な知識とスキルを身につけさせる〟という日本型の雇用形態の解体・崩壊が進行していきます。このような流れに合わせ、その流れを促進するために、90年代半ば以降、非正規雇用の大幅な拡大を認める規制緩和が推進されます。これらの結果、大量の不安定雇用労働者が企業年金から排除され、国民年金未加入者の大群を生み、社会保障全般を脆弱にさせて、結婚できない層の増加や少子化を加速させ、少子・高齢化社会を促進させ、90年代半ば以降、生活保護世帯は増加の一途をたどり、好況期でも生活保護世帯がまったく減らない異常な状態が続く社会に日本はなってしまいました。

これらの結果、日本の資本金10億円以上の企業の自己資本比率は75~76年の15%前後から2010年には43%へと30年以上にわたりほぼ一貫して上昇し続けているにもかかわらず、名目GDPは95年以降横ばいで、デフレが続き、97年以降労働者の賃金は上がらない。これが、日本で「資本主義的生産関係が生産力発展の『桎梏』になる」中で、資本の行動を強制的にコントロールしなかった結果、起きている現実です。グローバル資本の「資本」として当然の合理的な行動によって自国の生産力が衰え、国家と国民が衰弱していく。「資本主義的生産関係が生産力発展の『桎梏』になる」とは、こういうことです。

 これまで見てきたように、この現実は、不破さんが言うように、「利潤第一主義」が問題だからその是正のために賃金を上げろ、「賃金を上げれば経済は良くなる」などといって解決できるものではありません。

 

機は熟した。

しかし、残念ながら、

日本に科学的社会主義の党がなかった

このように、70年代初頭に、先進資本主義国での歴史的任務(製造業の発展を通じて「高い蓄積をテコに高い富の創造を図る」という)を終え、〝資本主義の黄金時代〟が終焉し、資本主義的成長の限界に突き当たった「資本」は、これまでの国家と結びついた帝国主義的な資本蓄積の方法の変更をよぎなくされ、かつて資源と労働を奪ってきた国々(後(のち)の新興国)での資本蓄積へと方針を変更した。その結果、世界の先進資本主義国は投資が減り、失業が増加した。先進資本主義国の中間層が薄くなり、資産を持つものと持たないものとの亀裂は深まった。先進資本主義国での資本主義の歴史的任務が終わり、国民が資本をコントロールする〝経済は社会のため、国民のためにある〟という〝国民の新しい協同社会〟を実現ことの必要性が高まり、その条件も整いました。

マルクスを知らない人たちは、グローバル資本の振る舞いによるこの変化を、変えることのできない、神の振る舞いと見て、先進国における「国民国家」=「近代」の終焉と見たり、「新中世主義」への移行過程とみる人さえでます。(*)

それとは逆に、マルクスを知っているはずだと思われていた人たちのなかにも日用品の生産を悪と見たり、ローテクによる寒村の「内発的発展」に希望を託したり、グローバル資本に「日本を出て行け」と言う人たちさえも現れます。これもまた「中世」への回帰と言えるでしょう。

そして、日本にとって何よりも間が悪かったのは、1982年に、「賃金が上がれば経済は発展する」などと呑気なことを言ってはばからない不破さんが〝日本共産党の委員長〟に就任し、日本共産党の「健全で〝単純な〟(!)常識の騎士たち」への転落が本格化し、日本共産党が「日本共産党」に変化したことです。返す返すも残念なのは、「日本共産党」にマルクスやエンゲルスやレーニンがいなかったことです。

(*)関連して、水野和夫氏の著作について知りたい方は、ホームページ6B-5-1「水野和夫氏は、なぜ、「中世」に閉じこもるのか(その1)『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』は現代をどう映しているか」及びホームページ68-5-2「水野和夫氏は、なぜ、「中世」に閉じこもるのか(その1)『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』は現代をどう克服したか」を、是非、ご覧下さい。

新しい社会を創る労働者階級の歴史的意義を明らかにし、

労働運動を復興して、

不破さんの「桎梏」化と「利潤第一主義」のデマを葬り去ろう

科学的社会主義の党には、まず最初に、日本における「産業の空洞化」を資本主義の今を映す絶好の教材として、経済と企業の運営を「資本」に任せて置いたら、資本は国民の利益に反することを「資本」としての当然の合理的な行動としておこなうということを事実に基づいて説明する義務がありました。そして、科学的社会主義の党には、国内の経済を発展させ〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会を実現するためには〝社会と労働者〟が企業の一番のステークホルダーとして企業の経営に関与しなければならないこと、とりわけ、その企業で働く労働者はその企業の内情を一番よく知ることのできる立場にいるので、かれらの企業への民主的関与が不可欠であることなどを明らかにするべき義務がありました。これらを通じて、科学的社会主義の党には、〝経済は社会のため、国民のためにある〟という〝国民の新しい協同社会〟を創る上での労働者階級の果たすべき歴史的意義を労働者が理解し、率先して行動するようサポートすることが求められ続けていたのです。

しかし、「全人民の民主主義的管理を組織する」ことを通じて〝民主主義の完全な発展〟を図ることにより社会を「社会主義的経済的有機体に組織する」という科学的社会主義の思想を捨て去り、レーニンを目の敵のように攻撃する不破さんは、『前衛』の2015年5月号で『フランスにおける内乱』の第一草稿の「労働の奴隷制の経済的諸条件(資本主義的生産様式のこと──青山注)」、「(資本主義の賃金──青山加筆)奴隷制のかせから、その現在の階級的性格から救いだす(解放する)こと」という文章に次のような独自の見解を展開します。不破さんは、「奴隷制のかせ」からの解放とは「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」だと言い、「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」とは「〝指揮者はいるが支配者はいない〟といういわば自治的な関係」をつくることだと言います。(*)しかし、不破さんの言う「生産現場」での「指揮者はいるが支配者はいない」職場の管理と資本主義社会での職場管理のリーダーシップ論とでは、どれほどの違いがあるでしょうか。資本主義社会での職場管理のリーダーシップ論もヘッドシップを排した「いわば自治的な関係」によって成り立っているのです。

労働者階級は、〝賃金奴隷制のかせ〟によって成り立っている資本主義的生産関係からの解放があって、企業を担う主役の一員となることによって、〝生産現場での人間関係〟という資本主義社会での〝狭い人間関係〟を超えた新しい人間関係を企業のなかでつくることができ、マルクスのいう「結合労働の生産様式」の社会を実現することができるのです。しかし、「残念ながら」というべきか、「当然に」というべきか、「『利潤第一主義』の問題を中心にすえることなしに、資本主義の害悪を語ることはできない」(『前衛』No904)と言う資本主義的生産様式の表層だけを問題にする不破さんの頭の中には、このような考えなど、微塵も存在しません。

企業に対し「賃金を上げろ!」というだけでなく、労働者階級の果たすべき歴史的役割とその意義について明らかにし、労働者階級の団結を発展させることを援助することは科学的社会主義の党の歴史的任務であり、その存在意義です。それなのに、不破さんとその弟子の志位さんは、この最も大切な仕事をまったくおこなってきませんでした。だから、どんなに地団駄を踏んでも、この二人が牛耳る「共産党」が衰退するのは、残念ながら、必然なのです。

 だから私は、これまで歯を食いしばって頑張ってきた日本共産党員の皆さんが、一日も早く、不破さんペテンを見抜き、科学的社会主義の思想に回帰することを願ってやみません。

(*)この不破さんの珍論の詳しい説明は、ホームページ4-16〈☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。〉及びホームページ4-20〈☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった〉を、是非、参照して下さい。

 

最後のダメ押し

「『利潤第一主義』の問題を中心にすえることなしに、資本主義の害悪を語ることはできない」(『前衛』No904)という不破さんの資本主義的生産関係を捨象した誤りは、エンゲルスが『空想から科学へ』(大月書店 国民文庫P48)で、「これら二つの偉大な発見、すなわち唯物史観と、剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露はマルクスのおかげである。これらの発見によって社会主義は科学になり、いまやなによりもまず問題なのは、この科学のあらゆる細目と関連をさらに仕上げることである。」と述べているますが、まさに、「剰余価値による資本主義的生産の秘密」を「暴露」することを止めたことによって社会主義を科学から遠ざけてしまいました。上記の不破さんの文章は、不破さんが科学的社会主義とは無縁の人物であることを自ら証明するものです。

「日本共産党第29回大会決議」は、「生産手段の社会化」をして「『利潤第一主義』から自由になる」ことによって「社会主義・共産主義」を実現するといいます。しかし、資本主義社会を変えるということは、「利潤第一主義」をなくすということではありません。資本主義的生産様式を新しい生産様式に変えるということで、モノとヒトの結びつきの価値観を変え、結びつきのあり方を変え、社会全体のシステムも考え方も一新されるということです。その基本は、「全人民の民主主義的管理を組織」して、マルクスのいう「結合労働の生産様式」の社会をつくることです。

人民革命の思想を捨て去ったスターリンが作ったソ連は「生産手段の社会化」をおこなったが、社会主義・共産主義の社会など実現しませんでした。「日本共産党」は、推論と一知半解で、マルクスを馬鹿にし、エンゲルスとレーニンを否定する不破さんからではなく、科学的社会主義の思想に基づく人民革命の思想をもって革命運動をリードしたマルクス・エンゲルス・レーニンから学び直さなければ消滅してしまいます。

共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。