AZ-3-5

エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)

「『資本論』探求」で欠落しているものと不破哲三氏の誤った主張(その5)

⑤「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。

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不破さんの謬論を暴露する最後のページ

 このページは、これまで不破さんが行なってきたマルクス・エンゲルス・レーニンの著作の歪曲と彼らに対する誹謗・中傷を暴露する最後のページとなる予定です。なぜなら、このページとこれまで掲載してきたページで、不破さんのマルクス・エンゲルス・レーニンを「利用」しての科学的社会主義の思想の修正のすべてを網羅し尽くしているからです。

 内容は、「第六篇 超過利潤の地代への転化」に関する不破さんの謬論の批判と第六篇の内容が教えてくれる教訓を明らかにした「章」と「第七篇 諸収入とその源泉」に関する不破さんの謬論の批判と第七篇の内容が教えてくれる教訓を明らかにした「章」、そして、この前のページ(「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)」)の「不破さん、黙して語らず」の「項」で「私は、このページの結びの部分で、マルクスの産業循環の理論の可能なかぎりの「まとめ」と不破さんの言う「恐慌の運動論」の総括を行ない「恐慌の運動論」なるものを雲散霧消させるる予定です」と申し上げましたが、紙数の都合で果たせず、そのページの最後で「どうぞ、「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その3)」(完結篇)をご期待下さい。」と「お詫びとお知らせ」をしましたが、その、マルクス・エンゲルスの資本主義的生産様式のもとでの産業循環の論究の総括的な姿と不破さんが発見した「恐慌の運動論」との差異を明らかにする「章」、この三つの「章」からなるページを予定しています。

 どうぞ、ご期待下さい。

Ⅰ不破さんの「第六篇」に関する謬論の検証と「第六篇」から私たちが学ぶべきこと

「(12)第六篇の執筆まで」を検証する

 不破さんは、まずはじめに、マルクスのエンゲルスあての手紙、それは、マルクスが地代論の研究を1863年には終えたこと、しかしその原稿は「ほとんど一冊の本をなしている」内容・ボリュームであるが「現在の形では途方もないもので、僕(マルクスのこと──青山)以外のだれのためにも、君(エンゲルスのこと──青山)のためにさえも、出版できるものではない」ことを述べた手紙を紹介します。

 そして、この手紙を「導入」として、以降、不破さん得意のマルクスへの誹謗・中傷がはじまります。

 まず、不破さんは、マルクスが地代を「絶対地代」と「差額地代」とに区分したことを述べ、続けて、自分の理解力の無さを論拠に「マルクスが、この新理論を、一般的利潤論の『例解』問題として第三部に滑り込ませるという、かなり無理筋の計画を立てたことは、すでに説明しました」と、マルクスがまるで不破さん並みの自己顕示欲の強い人ででもあるかにように、「無理筋の計画を立て」て「滑り込ませる」などと言って、不破さんが「(4)『資本論』第三部の構想の歴史的な変化」の「節」で行なったマルクスへの誹謗・中傷を、性懲りも無く、繰り返します。

 私は、ホームページ4-27-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)」(PDFのP44参照)で、不破さんが「(4)『資本論』第三部の構想の歴史的な変化」の「章」で行なったマルクスへの誹謗・中傷に関して次のように述べました。

「なお、不破さんは、マルクスが「『経済学批判』第一冊」の続編のなかの利潤に関する篇にその「例解」として「地代」の問題を入れようとしたことについて、「利潤の研究の一部のような顔をして」とか「マルクスが編み出した苦肉の策」とか言って、マルクスを不破さんと同様に次元の低い人間に見せようとしていますが、「利潤の研究」における「例解」として「地代」というアイデアは非常にいい考えで、『資本論』の構想が固まっていなかった1862年の段階では大正解だと思います。「地代」が「利潤の研究の一部のような顔をして」いるものなのか、みなさんは、是非、『資本論』の「第三部」を読んで下さい。」と。

 私は、〈「地代」が「利潤の研究の一部のような顔をして」いるものなのか、みなさんは、是非、『資本論』の「第三部」を読んで下さい。〉と言いましたが、「第六篇 超過利潤の地代への転化」をお読みいただけば分かるとおり、そしてこのページをご覧いただければ分かるとおり、「地代論」の研究とは、「利潤の研究の一部」そのものなのです。不破さんは、「第六篇」にかこつけて自らの謬論の普及に努めていますが、そもそも『資本論』の「地代論」とは、資本主義的生産様式のもとでの地代論であることを「理解できない(?!)」のでしょうか。

 そして、不破さんは、『資本論』の地代論には、①「土地所有そのものの歴史的研究が、計画から除外されてしまうことになる」ということと、②「「差額地代」の問題については、…マルクス自身、満足のゆくような解決にはまだ到達していなかった」という問題があったと誹謗します。

 しかし、①については、問題でも何でもありません。まさにマルクスが言っているように、『資本論』において「土地所有をそのさまざまな歴史的形態において分析することは、本書の限界外にある」ことなのです。「『資本論』続刊構想」なるものを知っているという不破さんの蘊蓄を披露するために、「問題」扱いされただけです。まったく困った人です。

 そして、②については、「差額地代論は、第二形態で迷走に陥ります。」と言います。まったく、不破さんという人は、他人の「不備」を「誤り」に仕立てて、自分を偉そうに見せるのが好きな人だ。不破さんが冒頭で紹介したマルクスのエンゲルスあての手紙のなかで、マルクスが「理論的な研究」は「終えた」が文章のまとめ方として非常に完成度が低いことを率直に述べていることをいいことに、不破さんは「迷走」に陥ったと言うのです。

 不破さんが「差額地代論は、第二形態で迷走に陥ります」と揶揄し、マルクスが「でき上がったとはいえ、この原稿は、その現在の形では途方もないもので、僕以外のだれのためにも、君のためにさえも、出版できるものではない」と言い、エンゲルスが第三部の序文で「地代に関する篇(第六篇、第三七章~第四七章──青山)は、ずっと完全に書き上げられていたとはいえ、けっしてよく整理されてはいなかった」。「いちばん手がかかったのは、差額地代Ⅱのところの表であり、また、第四三章ではそこで取り扱われるべき差額地代Ⅱの第三の場合が全然検討されていないということを発見したことだった。」という地代論は、その「理論的な研究」が終えていたからこそ、努力を伴ったとはいえ、エンゲルスが立派にまとめ直すことができたのです。その際、人の出来ている、同志であるエンゲルスは、「迷走」などという中傷など一切しません。不破さんとエンゲルスの人間性の差がよく現れています。

「(13)緒論と絶対地代論」を検証する

① 不破さんの「第三七章 緒論」の解説

 不破さんの「第三七章」の解説は、実にアッサリしていて、要点を外しています。

 不破さんは、まず、「『第三七章 緒論』でまず大事なことは、この篇の研究対象が、資本主義社会における農業一般ではなく、次の文章に規定されるような、資本主義的生産様式のもとでの農業の典型的な形態──農業資本家(借地農場経営者)と土地所有者の関係だということです。」と述べて、マルクスの『資本論』での「地代」(資本主義的生産様式のもとでの「地代」)の「規定」の文章を引用します。

 続けて不破さんは、「現在、日本の農業で支配的な、農民とその家族が自分で土地と農業用具をもって営む農業──小農経営は、ここで研究する資本主義的農業には属さないのです。」と言い、当時、「近代社会の骨組みをなす三つの階級(賃金労働者、産業資本家、土地所有者のこと──青山)」が揃っていたのは「イギリス以外には存在しなかったでしょう」と述べ、最後に、「このことを(「三つの階級が、全部そろって、互いに対立し合いながら登場する」ことを──青山)まずしっかり頭において、絶対地代論および差額地代論を読んでゆきたいと思います。」と述べて「第三七章」の解説を終えます。

 この文章を読んで、不破さんは「まず大事なこと」と言っているのに、青山は「次に大事なこと」等を書いていないのは、青山が不破さんの文章を「実にアッサリしている」ように見せるために、「まず大事なこと」に続く大事なことを隠蔽したのではないかと疑う人もいるかと思いますので、あえて申し上げますが、不破さんはこれ以外に「大事なこと」として書いていることはありません。私は絶対にそのようなことなどしませんから、ご安心ください。

 私は、エンゲルスの『資本論』第三部の序文のなかの「科学的な問題に携わろうとする人は、なによりもまず、自分が利用しようとする書物をその著者が書いたとおりに読むことを、またことに、そこに書いてないことを読み込まないようにすることを、学ばなければならないのである。」(大月版④P30)という言葉を忠実に守れるよう努力しています。エンゲルスのこの言葉は、科学的社会主義者のモラルであり、基本精神を表しています。お互いにこのような精神を持ってコミュニケーションをとらなければ会話は成り立たないし、理論的な進展もありません。しかし、不破さんの他者の書物にたいする接し方は、攻撃しようとするものについての「歪曲」と「推測」で成り立っています。不破さんの「『資本論』探究」のなかの誤りのほとんど全てが「推測」と「歪曲」に基づくものです。その代表例が、ホームページ4-27-2「エセ『マルクス主義』者の『資本論』解説(その2)」で指摘した、マルクスが「お手上げ」のように見える文章です。お手上げかどうか、PDFの41ページを参照して、確かめて下さい。

 さて、話を本題に戻すと、ここで不破さんは、「この篇の研究対象」は、「次の文章に規定され」た「資本主義的生産様式のもとでの」「農業資本家」と「土地所有者」の関係だと言い、「小農経営は、ここで研究する資本主義的農業には属さない」と言います。どうも不破さんは少しズレて(要点を外して)いるようです。不破さんが引用した文章は、第六篇の「研究対象」ではなく第六篇の「研究内容」である「地代」について「規定」したもので、「ここで研究する」のは「資本主義的農業」ではなく、資本主義的生産様式のもとでの「地代」についてです。

 「第三七章 緒論」では、「第六篇」の研究テーマが、資本主義的生産様式のもとでの「地代」であることを述べ、その「資本主義的生産様式」の「農業」における功罪や「地代」研究の留意点を明らかにし、「土地所有者が地球の一断片の賃貸によって毎年受け取る一定の貨幣額で表され」る「地代」は資本主義的生産様式の発展とともにその「特有なこと」も大きくなることを指摘しています。

 これだけでは、不破さんの「解説」同様に抽象的で、何のことかサッパリ分からないと思いますので、次の「『第三七章』のポイントと現代の私たちが留意すべき点」をお読み下さい。なお、より詳しくは、PDFファイル「第三部「第三七章 緒論」」を、是非、参照して下さい。

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3-37第三部「第三七章 緒論」.pdf
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「第三七章」のポイントと現代の私たちが留意すべき点

「第三七章」のポイント

 この「章」は、「地代」論の〝緒論〟として、以降の研究課題が「資本主義的生産が発展している国の農業地代である」(P808)こと、「土地所有の独占は資本主義的生産様式の歴史的前提であ」り、「その永続的な基礎である」(P795)ことを述べ、資本主義的生産の全精神が直接眼前の金もうけに向けられているということから、資本主義的生産における農業の否定的側面を述べるとともに、「資本主義的生産様式の大きな功績」として「一方では農業の合理化がはじめて農業の社会的経営を可能にしたということ、他方では土地所有の不合理を示したということ」(P796)を述べています。

 そしてマルクスは、地代が「土地所有者が地球の一断片の賃貸によって毎年受け取る一定の貨幣額で表され」、「一定の貨幣収入はすべて資本還元されることができる」(P804)ことを述べたあと、地代の科学的な分析のためには、「地代を不純にしおおい隠すいっさいの混合物を取り去って地代を純粋に考察する」と同時に、「土地所有の実際上の諸効果を理解するためには、また、地代の概念や性質とは矛盾していながらしかも地代の存在様式として現れる多くの事実を理論的に認識するためにも、」地代の「理論の混濁の源泉になる諸要素(地代の資本還元など──青山)を知っておくことが重要」(P806)であることを指摘します。

 最後に、「地代」の分析を不明瞭にする三つの誤りをあげ、農業人口の相対的減少は資本主義的生産様式の本性に根ざしていることを述べ、地代に特有なこととして、資本主義的生産様式の発展とともに、「土地所有が自分の関与なしにつくりだされたこの価値のうちのますます増大する一部分を取得する力もまた発展し、剰余価値のうちのますます増大する一部分が地代に転化する」(P825)ことを言います。

現代の私たちの課題

 私たちは、「地代」論の学習を通じて、「地球の一断片」を資本主義的生産様式のもとで所有することの経済的意味を理解するとともに、資本主義的生産様式のもとでの「土地所有の不合理」についての現代の現れをより深く論究する契機とする必要があります。

 なお、マルクスは、地代の資本還元によって、地代を「土地の買い手にとってとる利子形態と混同する」ことの誤りを指摘していますが、資本主義的生産様式のルールは「一定の貨幣収入はすべて資本還元」することなので、バブルとか恐慌のような異常事態でないときは、資本主義的生産様式の社会では資本還元された地代が「土地価格」の一つの指標となります。

②不破さんの「『絶対地代』の発見」について

 不破さんは、次に差額地代の考察を飛ばして、「絶対地代の問題」の『資本論』の解説に移りますが、『資本論』の「第四五章 絶対地代」は「あまりわかりやすい説明ではないので、ご参考のために、マルクスがこの発見をエンゲルスに説明した時の手紙を紹介しておきたいと思います。」(P128)と言って、土地所有者が「土地所有」によって「価値と生産価格との差額をすくい上げる」ことをマルクスが手紙に書いていることを述べます。 そして不破さんは、『資本論』でマルクスが、この独占価格(「生産価格」を越えた「市場価格」)が、他の独占価格とは違って、独占によって価格を価値以上に吊り上げるという性質のものではないことを述べていることを紹介し、最後に、「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう。」という、いかにも不破さんらしい、もったいぶった、意味不明──現実を見ない、検討対象にもならない無意味な言葉──の文章で結ばれています。

「第四五章」のポイントと現代の私たちが留意すべき点

 不破さんは、『資本論』の「第四五章」が不破さんにとって「あまりわかりやすい説明ではないので」、あまりよく読まなかったようだ。不破さんの「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう」という蛇足の文章がそのことをよく示しています。この文章は二つの点で焦点がズレています。

 「第四五章 絶対地代」のポイントと現代の私たちが留意すべき点について、一緒に見ていきましょう。

「第四五章」のポイント

 『資本論』は、「資本主義的生産様式に対応する諸関係が存在するところでは、地代と借地料とは一致しなければならない。しかも、ここで研究しなければならないのは、まさにこのような正常な関係なのである。」(P971) この研究は、「研究の眼目が、資本の投下場面としての土地を土地所有者が制限しているところでは土地所有は土地生産物の価格や地代にどのように作用するか、ということにある」(P972)と述べ、「土地所有者にとっては、自分の土地を借地農業者にただで貸してこの取引相手にたいしては無償信用を開始するほど博愛的に振る舞うという理由にはけっしてならないのである。……制限としての土地所有は、差額地代としての地代がなくなるところでも、すなわち土地種類Aでも、やはり存続するのである」(P964)ことを述べています。そして、超過利潤は土地所有の原因ではないが、「もし最劣等地Aが──その耕作は生産価格をあげるであろうにもかかわらず──この生産価格を超える超過分すなわち地代を生むまでは耕作されることができないとすれば、土地所有はこの価格上昇の創造的原因である。土地所有そのものが地代を生んだのである」(P969-970)、「投資は土地所有者のために地代を生まなければならない。彼は、彼への借地料の支払いができるようになったとき、はじめて賃貸するのである。だから、市場価格は、生産価格を超えてP+rまで上がり、土地所有者への地代の支払ができるようになっていなければならない」(P973)、「土地所有が設ける制限のために、市場価格は、この土地が生産価格を超える超過分すなわち地代を支払うことができるようになる点まで、上がらざるをえない」(P978)と述べています。

 つまり、生産価格が価値以下(農業が平均より低い資本構成をもつ生産部門)であろうが、価値以上(農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門)であろうが、土地所有者への地代の支払ができるように市場価格がなっていなければ、一般的に土地所有者は資本家に土地を貸さないのです。「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門」になったとしても、「事態はまったく違った様相」など呈しません。

 上記の文章のもう一つの焦点のズレについては、この後の「現代の私たちが留意すべき点」で述べさせていただきます。

 もちろん、『資本論』は、「土地所有は土地生産物の価格をその生産価格よりも高く押し上げることができるとはいえ、市場価格がどれほど生産価格を超えて価値に近づくか、つまり、与えられた平均利潤を越えて農業で生産された剰余価値がどの程度まで地代に転化し、どの程度まで平均利潤への剰余価値の一般的平均化に参加するかは、土地所有によって定まるのではなく、一般的な市場状態によって定まるのである。いずれにせよ、この絶対的な、生産価格を超える価値の超過分から生ずる地代は、ただ、農業剰余価値の一部分でしかなく、この剰余価値の地代への転化、土地所有者によるそれの横取りでしかないのであって、ちょうど、差額地代が、一般的規制的生産価格のもとで、超過利潤の地代への転化、土地所有によるそれの横取りから生ずるのと同じことである。地代のこの両形態は唯一の正常な形態である。……

 ……絶対地代というのは、つねに、ここで述べた意味でのそれ、すなわち、差額地代とも違うし本来の独占価格にもとづく地代とも違う地代のことである。」(P980-982)と述べ、続けて、現実の「絶対地代」について、本来の独占価格と剰余労働の一部としての「地代」の違いを農業の「自然発生的な生産性」のもつ特殊性等から説明しています。また、「絶対地代は、一見では地代を単なる独占価格のおかげにしてしまうようないくつかの現象を説明する。」(P985)として、「造林の生産物としてではなしに存在する森林」を例にとって、絶対地代を説明しています。

 そして最後に、「この絶対地代は本来の採取産業ではいっそう重要な役割を演ずる」(P990)と述べて、「採取産業」が「最低の資本構成が無条件に支配的」な点を指摘しています。

現代の私たちが留意すべき点

 せっかく『資本論』に編集されている「第四五章 絶対地代」を「あまりわかりやすい説明ではない」などと言って無視すると、最後に、「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう」などとまったくトンチンカンなことを言う羽目になるのです。

 ですから、是非、『資本論』を読んで下さい。どうしても、手っ取り早く「第四五章 絶対地代」の内容全体を知りたい人は、とりあえず、PDFファイル「第四五章 絶対地代」を参照して下さい。

 私も、最後に、不破さんの「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう」という文章が、いかい焦点がズレているのかのもう一つの理由を申し上げます。

 『資本論』の「第四五章 絶対地代」は「本来の農業では資本の構成が社会的平均資本の構成よりも低いとすれば、このことは、一見して明らかに、生産の発達している諸国では農業は加工工業と同じ程度には進歩していないということを表しているであろう。」(P975)と述べています。このことは、農業労働者が常に低賃金に放置される可能性があること、社会として農業の資本構成を高める努力が必要であることを、私たちに、示唆しています。そのことをしっかりと受け止めることをせず、前「共産党」の委員長だった人が、「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう」などとノー天気なことを言う。何とも、悲しい限りです。

「(14)差額地代論──マルクスの『展開の独自性』」を検証する

  不破さんの第一四章「(14)差額地代論──マルクスの『展開の独自性』」は、『資本論』の「第三八章 差額地代 総論」から「第四四章 最劣等耕作地でも生まれる差額地代」までを、不破さん流に「解説」(?)したものです。

 その中には、エンゲルスが序文で、「地代に関する篇(第六篇、第三七章~第四七章──青山)は、ずっと完全に書き上げられていたとはいえ、けっしてよく整理されてはいなかった」。「いちばん手がかかったのは、差額地代Ⅱのところの表であり、また、第四三章ではそこで取り扱われるべき」差額地代Ⅱの第三の場合が全然検討されていないということを発見したことだった。」と述べた部分が含まれています。

 まず、不破さんの「解説」(?)を見てみましょう。

不破さんの「差額地代」の解説

「差額地代」──落流を使っての例解

 不破さんは、マルクスが落流利用の工場と蒸気機関利用の工場を例にとって、落流利用の工場に超過利潤が生まれること、その源泉は土地にあることを説明し、「この例を、農地に読み換え」て、優良地と劣等地の豊度の差による超過利潤が地代として土地所有者の手に入る理由を説明したことを述べます。これは、「第三八章 差額地代 総論」の解説です。不破さんの触れてない、マルクスらしさを後ほど見たいと思います。

リカードゥとは異なるマルクスの「展開の独自性」

 不破さんは、マルクスが、リカードゥの①資本と労働の同量の使用によって得られる生産物の差が地代となること、②その差が小さくなれば地代は引き下げられ、その逆もまた逆に作用するということのほか、地代論の「展開の独自性」として耕作地の面的拡大と質的向上の問題を論究したことを述べます。

農業発展の法則性をめぐって

 不破さんは、『資本論』の説明に依拠して、「市場の需要を満たすために必要な範囲内の、最も悪い条件の土地(最劣等地)での生産価格が市場を規制します。」と述べ、〔*〕として、わざわざ、「この部分の解説で、マルクスは、〝最劣等地の生産価格が市場を規制する〟ということの原理的な説明を飛ばしてしまっています。」と述べてマルクスに噛みつきます。

 続けて不破さんは、リカードゥの「土地収穫逓減の法則」の説明をし、マルクスが「リカードゥのこの法則を頭において」、ウェスト、マルサス、リカードゥの「差額地代は必然的に、つねにより劣等地への進行、または、農業の豊度の絶え間ない減少」という誤った前提を「くつがえした」ことを述べます。

これはマルクスの年来の宿題だった

 ここで、不破さんは、1851年にマルクスがエンゲルスに出したリカードゥの「土地収穫逓減の法則」の誤りを指摘する手紙を持ち出して、「1865年の差額地代の研究は、一四年前に自ら課したこの宿題を果たす意味をもったのでした。」と蘊蓄を披露します。

「虚偽の社会的価値」とは?

 次に不破さんは、「第三九章 差額地代の第一形態」の中の「虚偽の社会的価値」という語句が含まれる一連の文章の中から「虚偽の社会的価値」という語句が含まれる断片を抜粋し、続けて、「この言葉をどう解釈するかは、経済学界でも長く論争されてきた問題ですが、私は、その答えは、マルクス自身の次の言葉のなかにある、と思います。」と述べ、読者にその答えを言うかのように思わせますが、「虚偽の社会的価値」とは資本主義的生産関係のもとで認められている「土地の私有権の価値」のことであり、その具現化したものとしての「地代」のことであるという、肝心の、「『虚偽の社会的価値』とは?」という自ら立てたこの「節」のタイトルにはまったく答えずに、一連の文章の中の最後の文章(残念ながら、不破さんの抜粋した文章は訳があまりよくないので、意味が通じづらい)を抜粋し、「この差額地代の源泉は何か、だれがそれを負担しているのか」と言う問題を提起します。

 「虚偽の社会的価値」という語句の意味にまともに答えなかったこと、文章を中抜きにしてしまったこと(下記参照。)、ここに不破さんの『資本論』にある『資本論』の精神を読み取る能力の欠如がはっきりと現れています。

 みなさんに、全体を理解してもらうために、少し長くなりますが全文を紹介します。なお、文章中のブルーで表記したもの破さんが「抜粋」した一連の文章の「断片」です。

これ(優等地の生産価格よりも市場価格が高いということ──青山)は、資本主義的生産様式の基礎の上で競争の媒介によって実現される市場価値による規定である。この規定は、(地代という──青山)ある虚偽の社会的価値を生みだす。これは、土地生産物が従わされる市場価値の法則から生ずる。……この行為は必然的に生産物の交換価値にもとづくもので、土地やその豊度の相違にもとづくものではない。社会の資本主義的形態が廃止されて社会が意識的な計画的な結合体として組織されているものと考えてみれば、……社会はこの土地生産物を、それに含まれている現実の労働時間の二倍半で買い取りはしないであろう。したがってまた土地所有者という階級の基礎はなくなってしまうであろう。それは、外国からの輸入によって生産物が同じ金額だけ安くなるのとまったく同じに作用するであろう。それだから、──現在の生産様式は維持されるとするが、差額地代は国家のものになると前提して──他の諸事情が変わらなければ土地生産物の価格は同じままであろう、と言うのは正しいとしても、結合体が資本主義的生産にとって代わっても生産物の価値は同じままであろう、と言うのはまちがいである。同じ種類の諸商品の市場価格は同じだということは、資本主義的生産様式の基礎の上で、また一般に個々人のあいだの商品交換にもとづく生産の基礎の上で、価値の社会的な性格が貫かれる仕方である。消費者として見た社会が土地生産物のために過多に支払うもの、それは土地生産での社会の労働時間の実現のマイナスをなすのであるが、それが今では社会の一部分にとっての、土地所有者にとっての、プラスをなすのである。」(P852-853)

 この文章を読めば、「虚偽の社会的価値」とは、資本主義的生産関係のもとで認められている「土地の私有権の『価値』」のことであり、その具現化したものとしての「地代」のことであり、この文章全体が、「地代」というものを通じて、私的所有を前提とする資本主義的生産様式の社会の分配の不合理を鋭く告発した文章であることがわかります。

 不破さんは、「差額地代の総額は、農業生産物の実際の生産価格を超える超過部分です。土地所有が限定されているという事情から、市場価値の法則の作用のもとで、その超過部分が、『消費者とみなされる社会』の負担(マイナス)で土地所有者の収入(プラス)となるのです。」と述べ、差額地代は「社会が負担するしかない」などと、呑気な解説をしていますが、私的所有を前提とする資本主義的生産様式の社会の不合理を告発し、「意識的な計画的な結合体として組織され」た新しい「社会」の優位性を示すという『資本論』にある『資本論』の精神がまったく欠落しています。

 『資本論』解説のこのような思想的弱点と、未来社会は「余暇」を実現することだというマルクスの未来社会論の歪曲と否定が、現在の「共産党」の政策の最大の弱点となり、革命の党を「改良」の党にし、活力、エネルギーを失わせ、若者を現実的「改良」の党である自民党に向かわせています。

 なお、不破さんは、「この差額地代の源泉は何か」と自ら課した設問にしっかりと答えていませんが、「差額地代」の真の「源泉」は、当然ながら、農業労働者が生み出した「超過利潤」で、それが地代に転化したのです。また、不破さんは、「差額地代の総額は、農業生産物の実際の生産価格を超える超過部分です」と言いますが、差額地代の総額は、最劣等地の農業生産物の市場価格よりも安くなる部分の総額です。

 最後に、後述の「『資本論』の「差額地代」の論究をつうじて私たちが学ぶべきこと」の「『第三九章 差額地代の第一形態』の要約と現代の私たちが留意すべき点」の中であらためて述べますが、私は、『資本論』のこの文章から、資本主義的生産様式の社会で、錦の御旗のように、振り回されている「知財権」という所有権についての認識を一層深めることができたことも報告しておきます。

差額地代の「第二形態」をめぐって

 不破さんは、まず、マルクスのいう「地代の第二形態」の説明をしますが、結果として、「しかし、率直に言って、私には、マルクスの理論の筋道が、何度読んでも理解できませんでした。そこには、二つの大きな疑問が最後までつきまとったからです。」と、白旗をあげます。

 疑問の一つは、「マルクスは、第一次資本投下(Ⅰ)、第二次資本投下(Ⅱ)などのそれぞれについて、それによって収穫がどれだけ増えるかの数字を出し、それを比較しながら議論を進めますが、……第一次の収穫がこれ、第二次の収穫はこれこれといった中間的区分は、ありえないはず」だと言う。

 第二の疑問は、借地契約の更新のとき、問題になるのは、「その期間の資本投下によって土地の豊度がどれだけ増したか」であって、「それぞれの追加投資の効果の個別の判定などは、まったく問題になりえない」という。(*この不破さんの文章からでは、不破さんが何を「疑問」としているのかさっぱり分かりません。)

 これらから、「この二つの理由から、差額地代の『第二形態』議論については、そこでのマルクスの『展開の独自性』に大きな疑問を抱いている、というのが、この部分に取り組んでの私の率直な感想です」というのが、不破さんの『資本論』の「地代の第二形態」の解説です。

 以上が、不破さんの「差額地代」の解説です。

 これでは、マルクスとエンゲルスが『資本論』で「差額地代」について何を言い、現代の私たちが『資本論』から何を学べるのかが、全然見えてきません。

『資本論』の「差額地代」の論究をつうじて私たちが学ぶべきこと

 それでは、「第三八章 差額地代 総論」から「第四四章 最劣等耕作地でも生まれる差額地代」までを、〝現代の私たちが何を学ぶか〟という観点で、「章」ごとに見てみたいと思います。

「第三八章 差額地代 総論」

 マルクスは、「第三八章」を「差額地代」の論究の導入の「章」として、「自然の落流を動力として用いる生産者」を例にとり、「このような落流の利用から生ずる超過利潤は、資本から生ずるのではなく、独占ができ独占されてもいる自然力を資本が充用することから生ずるのである。このような事情のもとでは超過利潤は地代に転化する。」(P833)ことを述べ、①この地代はつねに差額地代であるということ、②この地代は、充用資本の、またはそれによって取得される労働の、生産力の絶対的な上昇から生ずるのではなく、この上昇は一般にただ商品の価値を減少させることができるだけであること、③自然力は超過利潤の源泉ではなく、超過利潤の自然的基礎であるだけであること、④落流の所有者は、剰余価値(利潤)のこの部分、それ自体としてはなんの関係もないこと、⑤落流の価格、この工場主の個別的費用価格にははいるとしても、さしあたり商品の生産価格にははいらないということ、という差額地代の一般的概念を明らかにしています。

 この五つの点をしっかりと押さえておきましょう。

※より詳しくは、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-38第三部「第三八章 差額地代 総論」.pdf
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「第三九章 差額地代の第一形態」の要約と現代の私たちが留意すべき点

 この「章」では、それぞれ豊度の違っている同面積の土地に投下された等量の諸資本の生産性の相違の結果としての差額地代を考察しています。

「第三九章」の要約

 二つの等量の資本および労働が等面積の土地で用いられて不等な結果を生む場合に、その超過利潤は、地代に転化する。資本主義的生産様式による農業の占領、自営農民の賃金労働者への転化は、事実上この生産様式一般が行なう最後の征服なので、より一層不等な結果を生む。

 この「章」では、「同じ面積のいろいろな土地に充用される等量の資本から生まれる不等な結果」と「面積が同じでない場合」の「同じ大きさの面積について計算した結果」について考察する。

 地代は、生産物の交換価値にもとづく市場価値の法則によって生みだされる「虚偽の社会的価値」である。だから、社会の資本主義的形態が廃止され、「意識的な計画的な結合体として組織されている」社会では、土地所有者という階級の基礎はなくなってしまう。消費者として見た社会が土地生産物のために過多に支払うもの、それは土地生産での社会の労働時間の実現のマイナスをなすのであるが、それが今では社会の一部分にとっての、土地所有者にとっての、プラスをなすのである。

 総面積のなかで優等地が占める割合が大きければ大きいほど、等額の投資によって等面積の土地で得られる生産物量はそれだけ大きく、拡張が優等地で行なわれるのに比例して生産物量がふえるだけではなく、それよりももっと急速に穀物地代も貨幣地代もふえて行く。」※これは、日本農業を考えるうえで重要。

 各土地部類の不均等な耕作地の外延的拡大によって、単位耕作地当たりの平均地代の相対的な高さも、土地に投下された総資本にたいする地代総額の割合も、増加または減少することがありうる。このことは、われわれの研究の進行にとって重要である。

 以上に関連して、四つの補足的論及を行なう。

 ①土地の価格は、地代が資本還元されたものにほかならないから、未耕地の価格は「純粋に幻想的」である。「土地投機」は、このような、資本と労働とが未耕地に投ずる反射にもとづいている。

 ②耕作地の拡張の進行は、一般に、より劣等な土地のほうに向かって行なわれるか、またはいろいろな与えられた土地種類の上で、それらのあり方にしたがって、いろいろに違った割合で行なわれる。

 ③穀物をより安く輸出することのできる植民地や一般に若い国々は、その土地の自然的豊度がより高いのだということは、まちがった前提である。

 ④たとえ平均価格の高さが生産にたいして阻害的な作用もしないし促進的な作用もしない場合でも、農業では(資本主義的に経営されるすべての他の生産部門でと同様に)絶えずあの相対的な過剰生産が生ずるのである。……需要は絶えず増大する。そして、これを予想して絶えず新たな資本が新たな土地に投下される。

現代の私たちが「第三九章」から学び、留意すべき点

 まず、「地代」は、二つの等量の資本および労働が等面積の土地で用いられて不等な結果を生む場合の超過利潤であり、資本主義的生産様式のもとでの市場経済の結果であり、「虚偽の社会的価値」なので、社会の資本主義的形態が廃止され、「意識的な計画的な結合体として組織されている」社会では、土地所有者という階級の基礎はなくなり、土地生産物にプラスされていた「地代」もなくなること、この私的所有を前提とする資本主義的生産様式の社会の不合理を告発し、「意識的な計画的な結合体として組織され」た新しい「社会」の優位性を示すという『資本論』にある『資本論』の精神に私たちは特に留意し、資本主義的生産様式の変革の必要性を再認識することが重要です。

 私は、このことに関連して、資本主義的生産様式の社会で、錦の御旗のように、振り回されている「知財権」について、一言、述べたいと思います。

 最近、米サンノゼ連邦地裁でクアルコムに対する判決がでましたが、それによるとクアルコムは携帯端末メーカーに対し端末価格の5%程度のロイヤルティーを求めるライセンス契約を強制しているとのことです。このように「知財権」も地主の「土地の所有権」同様、「知的財産の所有権」であり、「土地の所有権」同様の作用を社会にもたらし、「所有権」の独占にもとづいて製品価格に「ロイヤルティー」の上乗せを強制します。その結果、社会は余分な負担を強いられるとともに、文明の進歩の恩恵を受けられない人も生み出します。

 資本主義的生産様式の社会のこのような限界を乗り越えて、「意識的な計画的な結合体として組織され」た新しい「社会」は、「社会」として進歩的技術の開発を進め、その恩恵を社会全体で受けられるようにして、一層の技術的進歩の発展を図ることができます。もちろん、資本主義的生産様式の社会との共存が強いられる状況の中では、資本主義的生産様式の社会にたいし「知財権」の縮小を働きかけるとともに、それらの国々との対等な利益の維持のための「知財権」の行使もせざるを得ないでしょう。

 米中貿易摩擦が激化する中で、「知財権」に関する科学的社会主義の見方を、今こそ明確にする必要があります。

 つぎに、農業技術の進歩によって規模の拡大が進み、単位面積の小さいことが劣等地の条件の一つとなるなかで、日本はいかにして優等地の多い諸国とのハンディーを埋めるかが日本農業の大きな課題であることを再認識する必要があります。

 また、土地の価格は利用の高度化により一般的に上昇傾向があるなかで、「地代が資本還元された」ものとしての「幻想的」な価格をもつ「土地」はかっこうの「投機」対象であることも再認識する必要があります。

 なお、「穀物をより安く輸出することのできる植民地や一般に若い国々」の記述に関し、それらの国々の労働者にたいする帝国主義な収奪についても留意することを忘れてはなりません。

 そして、「資本主義的生産様式による農業の占領、自営農民の賃金労働者への転化は、事実上この生産様式一般が行なう最後の征服なのだから、これらの不等(租税の賦課や農業の発展度や資本配分等が均等でないこと──青山)は農業では他のどの産業部面でよりも大きいのである。」(P838)との指摘も忘れてはならないでしょう。

※なお、「第三九章」の主要な抜粋等より詳しくは、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-39「第三九章 差額地代の第一形態」.pdf
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「第四〇章 差額地代の第二形態の要約と留意すべき点」

 「第四〇章」のテーマは、「それぞれ生産性の違う諸資本量が次々に同じ地所に投下される場合と、それらの資本量が相並んで別々の地所に投下される場合とでは、ただ結果は同じだということだけを前提して、二つの場合のあいだになにか区別がありうるであろうか?」(P868)という問題意識をもとに論究されています。

「第四〇章」の要約

 それぞれ生産性の違う諸資本量が次々に同じ地所に投下される場合(差額地代Ⅱ)と、それらの資本量が相並んで別々の地所に投下される場合(差額地代Ⅰ)とでは、生産価格が同じままであり、また差額も同じままであるならば、差額地代Ⅰでは一エーカー当たりまたは資本当たりで計算した現実の地代の高さは、同じままであが、差額地代Ⅱでは、同じ前提のもとで、投下資本について計算した地代率は同じままでも、一エーカー当たりで計算した地代の高は増大することができる。

 そして、差額地代Ⅱでは、豊度の相違のほかに、借地農業者たちのあいだの資本(および信用能力)の配分の相違が加わってくる。したがって、超過利潤の形成が経営資本の大きさによって規定されているかぎりでは、ある程度の大きさの経営資本のもとでの地代の高さがその国の平均地代に加算され、したがって、新たな借地農業者は同じように集約的な仕方で耕作を続けるのに十分な資本を自由に処分できるということを要求される。

「第四〇章」の留意すべき点

 土地利用の高度化は地代と地価の上昇をもたらすということ。これは、都市部においても、当てはまり、土地利用の高度化が地代と地価の上昇をもたらし、地代と地価の上昇が一層の土地利用の高度化を強制し、地代と地価は上昇します。「知財権」においても、ベースとなる技術の「価値」は、それをもとに一層技術が発展すればするほど、高くなります。

※なお、「第四〇章」の主要な抜粋については、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-40「第四〇章 差額地代の第二形態」.pdf
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「第四一章」の要約と「第四一章」の中でも繰り返し私たちに教えていること

「この前提には、市場価格は相変わらず最劣等地Aに投下された資本によって規制されるということが含まれている。」(P883)

「第四一章 差額地代Ⅱ 第一の場合 生産価格が不変な場合」の要約

追加資本が追加生産量におよぼす影響の違いによる四つの区分

①地代を生む土地種類B、C、Dのどれかに投入された追加資本が、土地Aで同じ資本が生産するのと同じだけしか生産しないとすれば、すなわち、すこしも超過利潤をあげないとすれば、その場合には地代への影響はゼロに等しい。

②追加資本が、いろいろな土地種類のそれぞれで、それぞれの資本の大きさに比例する追加生産物をあげる場合は、地代は、ただ土地への投資の増加の結果としてのみ、そしてただこの資本増加に比例してのみ、増大する。

③追加資本が超過生産物をあげ、したがって超過利潤を形成するが、その率が低下して資本の増大に比例しない場合は、地代はすべてのこれらの土地種類において、たとえ追加的に投下される資本に比例してではないにしても、絶対的に増大する

④優等な土地種類での追加投資が最初の投資よりも大きい生産物を生むという場合は、②以上に地代は増大する。この場合には追加投資が改良と結びついている。

総括

 われわれの前提のもとでこの追加投資がA地自体で可能なのは、ただ、生産性が変わらないでその土地が相変わらず地代を生まない場合か、または生産性が増大する場合だけで、このあとのほうの場合にはA地に投下された資本の一部分は地代を生み、他の部分は生まないであろう。

 追加投資のあげる超過生産物が追加投資の大きさに比例していても、この割合を超えても、それに達しなくても、一エーカー当たりの超過生産物もそれに対応する超過利潤も増大し、したがってまた結局は地代も、穀物地代も貨幣地代も、増大する。総生産および超過生産物の量および価格を考察するかぎりでは結果は前と同じでも、より狭い地面での資本の集積は一エーカー当たりの地代の高を増大させるのであるが、同じ事情のもとでより広い面積にわたる資本の分散は、ほかの事情が変わらないかぎり、このような結果をひき起こさないのである。これは、差額地代Ⅱに特有であって差額地代Ⅱを差額地代Ⅰから区別する現象である。

関連して、ちょっと別の話

 ①以前の半分の生きている労働と対象化されている労働とで以前と同じ生産物をあげることと、②以前と同じ労働で二倍の生産物をあげることと、③以前の二倍の労働で四倍の生産物をあげるということとはけっして同じことではない。第一の場合には資本が遊離させられる。第二の場合には、もし二倍の生産が必要ならば、そのかぎりでは追加資本が節約される。第三の場合には、増加した生産物が得られるのは、ただ、前貸資本が増大するからである。

 そして、また、話は変わるが、個々の資本家にとっては、生きている労働は彼の生産費のうちで最も費用のかかる要素であり、とりわけ最低限度まで縮減されていなければならない要素であるように見えることがありうるのである。資本主義的生産の立場に立って、剰余価値の増大ではなく費用価格の低減の点から見れば、生きている労働に比べての過去の労働の相対的に大きい充用は、社会的労働の生産性の上昇と社会的富の増大とを意味するので、不変資本の充用はつねに可変資本の充用よりも安上がりである。

 競争の立場から見れば、すべてがこのように資本家的にゆがめられ、まちがっており、すべてがこのように逆立ちして現れるのである。

 なお、これに続く文章として、「100ポンドの不変資本からは、それが固定資本として投下されるかぎり、ただ消耗分が商品の価値にはいるだけであるが、労賃のための100ポンドのほうは商品の価値のなかに全部再生産されていなければならないという相違である。」(P889)という文章があるが、この場合の「不変資本」は「100ポンド」ではなく「消耗分の価値」だけであり、「100ポンドの不変資本」という場合、「消耗分の価値」が100ポンドでなければならない

「第四一章」の中でも繰り返し私たちに教えていること

 資本主義的生産様式のもとでは、価値を生み出す可変資本も価値を生み出さない不変資本も利潤を生み出すための「資本」として捉えられ、不変資本の充用は生産性の向上をもたらし、生産性の上昇によって一時的に特別利潤をもたらすことから、不変資本の充用はつねに可変資本の充用よりも安上がりに見え、資本家は不変資本の充用に血道をあげます。

 しかしその結果、社会全体でみれば、不変資本の充用によって拡大された生産に見合う消費力、または、相対的に余剰となった可変資本の充用先が不足します。

 資本主義的生産様式の社会は、常にこのような矛盾をもって発展することを丁寧に説明し、その克服の必要性を明らかにすることが大切です。

※なお、「第四一章」の主要な抜粋については、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-41「第四一章 差額地代Ⅱ 第一の場合 生産価格が不変な場合.pdf
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「第四二章 差額地代Ⅱ──第二の場合 生産価格が低下する場合」のケーススタディー

 「第四二章」は「差額地代Ⅱ」の「生産価格が低下する場合」について、「追加資本の生産性」が「不変な場合」、「低下する場合」及び「上昇する場合」という三つの「節」をおこして、論究されています。

 なお、エンゲルスは、「第三部」の「序文」で「「地代に関する篇(第六篇、第三七章~第四七章──青山)は、ずっと完全に書き上げられていたとはいえ、けっしてよく整理されてはいなかった」。「いちばん手がかかったのは、差額地代Ⅱのところの表であり、また、第四三章ではそこで取り扱われるべき差額地代Ⅱの第三の場合が全然検討されていないということを発見したことだった。」と述べていますが、草稿を生かし、「第一節」の表の差し替えなど必要最小限の補正に留めています。

 不破さんと違ってエンゲルスの偉いところは、不破さんのように鬼の首でも取ったかのようにマルクス・エンゲルス・レーニンを罵倒することなどせず、優しくフォローしている点です。エンゲルスとレーニンの著作と不破さんの著作を読むとき、この点も留意して、お読み下さい。不破さんの自己顕示欲の強さがよくわかります。

「第四二章」の概略

第一節…追加投資の生産性が不変な場合

 このような前提のもとで規制的生産価格が下がることができるのは、Aの生産価格に変わって、Aのすぐ上の優等地Bの生産価格または一般にAよりも優等などの土地かの生産価格が規制的となるからにほかならない。そうなるための条件は、与えられた前提のもとでは追加投資の追加生産物が需要を充たし、したがってAなどの劣等な土地の生産が供給量の生産のためには余分なものになるということである。

 A地から資本を引きあげてA地なしで供給を充たすためにいくらかの追加資本が必要だったかぎりでは、それに伴って、一エーカー当たりの地代が、すべての土地でではないにしてもいくつかの土地では、そして耕作される土地の平均では、変わらないことも増加することも減少することもありうるということがわかる。

第二節…追加資本の生産性の率が低下する場合

 この場合にも、生産価格の低下がありうるのは、ただ、Aよりも優等な諸土地種類での追加投資によってAの生産物が余分になり、そのためにAから資本が引きあげられるか、またはAが他の生産物の生産に振り向けられる場合だけである。

 この場合には、一エーカー当たりの穀物地代および貨幣地代は、増加することも減少することも前と変わらないこともありうる。

第三節…追加資本の生産性の率が上昇する場合

 生産性の率は変わらないで生産価格が下がるとう変化Ⅰ(「「第一節」)では、土地Aは必然的に脱落し、そして変化Ⅱ(「第二節」)ではなおさらそうである。ところが、追加資本の生産性が上がるので生産価格が下がるというこの変化Ⅲ(「第三節」)では、この追加資本は、事情によっては、優等な土地種類に投下されるのと同様に土地Aに投下されることもありうるのである。

 追加投資に伴って生産性の率が上がるのだから、この投資には改良が含まれている。

 A地のいくらかのエーカー数がこの追加経営資本を受け取らないあいだは、生産価格が変わらないためにA地のうちでよりよく耕作されているエーカーでは地代が生みだされ、また優等な諸土地種類B、C、Dのすべてで地代が高められる。とはいえ、新たな経営方法が広く行き渡ってそれが標準的になってしまえば、生産価格は下がる。

 豊度が同じ割合で高くなる場合に優等地ではA地でよりも多くの追加資本が投下されるとすれば、または、優等地では追加投資がより高い生産性の率で作用するとすれば、貨幣地代は増大するであろう。どちらの場合にも差額は増大するであろう。

 追加投資による改良が差額を全部または一部減少させ、B地やC地に作用するよりもより多くA 地に作用する場合には、貨幣地代は減少する。貨幣地代は、最優等地の生産性の上昇が少なければ少ないほど、ますます減少する。

 貨幣地代が上がり、穀物地代もまた上がるのは、次のような場合である。すなわち、いろいろな土地種類の追加豊度の差の割合が同じままで、地代を生む土地には無地代地Aによりも多くの資本が追加され、また地代の高い土地には地代の低い土地によりも多くの資本が追加される場合か、または、追加資本は同じで、豊度が優等地や最優等地ではA地でよりもより多く上がる場合かであって、しかも、あとのほうの場合にはこの豊度の上昇が高級地では低級地でよりも大きいのに比例して、貨幣地代も穀物地代も上がるのである。

 しかし、生産力の上昇が資本追加の結果であって、投資が不変で単に豊度が高くなったことの結果でない場合には、どんな事情のもとでも、地代は相対的に増大する。これは絶対的な観点であって、地代は絶対的には下がったとしても、資本追加が地代の相対的な高さの原因であることには変わりはないのである。

 以上が「第四二章」の要約ですが、「第四三章」でエンゲルスが「結論」として、明快な補足説明をしていますので、是非、参照してください。

※なお、「第四二章」の主要な抜粋については、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-42「第四二章 第二の場合 生産価格が低下する場合」.pdf
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「第四三章 第三の場合 生産価格が上昇する場合 結論」と現代の私たちがインスパイアされること

あらためて、「第六篇 超過利潤の地代への転化」を読むにあたって

 『資本論』第三部の草稿の完成度については、エンゲルスが「序文」で詳しく述べており、その概略については、ホームページ4-27-3「 エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3) ③「『資本論』第三部を読む」を検証する。(1/3)」で紹介しています。

 「第六篇 超過利潤の地代への転化」を読むと、あらためて、エンゲルスの「草稿」との格闘の様子がよくわかります。

 エンゲルスは序文で、「おもな困難」が「第五篇にあった」ことを述べ、当初エンゲルスが試みたのは、非常に不十分な草稿の「すきまを埋めることや暗示されているだけの断片を仕上げることによってこの篇を完全なもの」にすることでしたが、そのような方法で編集が完了したとしても、「(あまりにも多くのすきまや暗示のために、それを補うことによって──青山補足)それはマルクスの著書ではないものになる」と思い、その結果、「私に残された道は、ある点で仕事を切り上げ、現にあるものをできるだけ整理することに限り、ただどうしても必要な補足だけを加えるということしかしなかった」と、その忸怩たる思いを告白しています。

 そして「第六篇」についても、エンゲルスは序文で「地代に関する篇(第六篇、第三七章~第四七章──青山)は、ずっと完全に書き上げられていたとはいえ、けっしてよく整理されてはいなかった」。「いちばん手がかかったのは、差額地代Ⅱのところの表であり、また、第四三章ではそこで取り扱われるべき差額地代Ⅱの第三の場合が全然検討されていないということを発見したことだった」と述べています。

 それには理由があります。

 マルクスは、「第六篇」を「第三七章」(緒論)→「第四五章」(絶対地代)~「第四七章」(資本主義的地代の生成)→「第三八章」(差額地代総論)~「第四四章」(最劣等耕作地でも生まれる差額地代)の順に執筆し、マルクスのいつものやり方どおり、メインの「第三八章」から「第四四章」は最後の最後にまとめ上げる計画でした。「第四三章」はその中心の「章」として差額地代のまとめ(結論)と「第六篇」全体の計画を簡単に細説することを意図していたようです。ですから、第四三章と一体の第四一章と第四二章は、お読みいただければ分かるとおり、「けっしてよく整理されてはいな」い文章であり、第四三章は手もつけられていませんでした。

 だから、エンゲルスが「第六篇」の中心である差額地代論の本論(第四〇章から第四三章)を「完全なもの」にしようとすると、「それはマルクスの著書ではないもの」になってしまいます。そこでエンゲルスは、第四一章と第四二章は、読みにくさは残るものの、「現にあるものをできるだけ整理することに限り」、第四三章で「必要な補足」として、第四一章から第四三章までの内容の整理をおこない、「差額地代Ⅱ」全体のまとめを「結論」として補足しました。

 このような編集上の苦労と編集方針にもとづいて、「第六篇 超過利潤の地代への転化」は、エンゲルスによって、立派に編集されました。

 なお、『資本論』での農業・地代に関する〝要チェック〟文章は、ホームページ5「温故知新」→「1マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「E、資本主義社会Ⅲ」の「16、農業」を、是非、ご覧ください。

「第四三章」のポイント

 「第四三章」は、まずはじめに、「第三の場合 生産価格が上昇する場合」が論究されています。

 それに続くエンゲルスが加筆した「結論」で、エンゲルスは次のように述べています。

「前記の第三の場合は原稿では書き上げられていなかった──そこには表題があるだけである──ので、以上のようにそれをできるだけ補完することが編者の仕事として残されていた。ところが、編者には、そのほかになお次のことも残されている。すなわち、差額地代Ⅱの三つの主要な場合と九つの派生的な場合とについての以上の全研究から、帰結される一般的な結論を引き出すということがそれである。」(P920)と。

 エンゲルスはこの使命を果たすために、「無地代地をゼロ点として起算した豊度の差」にもとづく一三の表を新たに作成し、これらの表から、「まず第一に、」として、「諸地代の列は無地代の規制的な土地をゼロ点として見た豊度の差の列にちょうど比例しているということである。絶対的収益ではなく、ただ収益の差だけが地代にとっては規定的である。」ことをのべ、「しかし、これよりもはるかに重要なのは、同じ土地に投資が繰り返される場合に地代総額に関して生ずる結果である。」として、一三の表を地代総額の増加区分に応じて四つの群に分けて、以下のような結論を導き出します。

「要するに、すべての可能な場合のうちの大多数の場合に、地代は、土地への投資の増加によって、地代を生む土地の一エーカー当たりでも、またことにその総額でも、増大するのである。ただ、研究された一三の場合のうちの三つだけでは、地代の総額は変わっていない。……しかし、これらの場合でも、最優等地での地代は、第一の投資による地代に比べて増大する。……

 地代総額が第一の投資のときの高さよりも下がることが可能なのは、ただ、土地Aのほかに土地Bも競争圏外に退いて土地Cが規制的になり無地代になるような場合だけであろう。

 要するに、土地に投ぜられる資本が多ければ多いほど、一国の農耕と文明一般との発展が高ければ高いほど、それだけ一エーカー当たりの地代も地代の総額もますます大きくなり、社会が超過利潤の形で大土地所有者に支払う貢ぎ物はますます大きくなるのである──といっても、それは、ひとたび耕作されるようになった土地種類がすべて競争能力を保っているあいだのことであるが。

 この法則は、大土地所有者階級の生命の驚くべきねばり強さを説明する。……この階級は絶えず再び立ち直る──というのは、土地に投ぜられた他人の資本が、そこから資本家が引き出す利潤とはまったく不釣り合いに、この階級に地代を運んでくれるおかげである。

 しかし、この同じ法則はまた、なぜこのような大土地所有者の生命のねばり強さがだんだん尽きて行くのか、ということをも説明する。

 ……ヨーロッパでは土地の一部分は穀物耕作では決定的に競争圏外に脱落し、地代はどこでも下がり、……価格が下がり追加投資の生産性が下がるという場合がヨーロッパでの常例となり、こうして、スコットランドからイタリアまでの、また南フランスから東プロイセンまでの、地主の悲嘆とはなったのである。幸いにしてまだまだすべての草原地帯が耕作されるまでにはなっていない。それは、まだヨーロッパの大土地所有の全部を破滅させ、なおそのうえに小土地所有をも破滅させるのに十分なだけ残されているのである。──F・エンゲルス」(P932-934)

 このあと『資本論』は、マルクスの草稿に戻り、「地代を取り扱う場合の項目」が書かれた文章が挿入され、続けて、「差額地代一般の考察の一般的結論としては、次のようになる。」として、

「第一に。超過利潤の形成は、いろいろな経路で行なわれうる。……

 第二に。超過利潤の新たな形成が問題にされるかぎり、追加投資の限界は、ただ生産費を償うだけの投資」(P935-943)であるという文章に続きます。※追加投資による生産物が規制的生産価格よりも高い費用を要しても、平均費用が規制的生産価格よりも低ければ、超過利潤は残る。

 そして、最後に、「これまでに述べたことからはまず次のことが明らかになる。」として、概略、次のような内容でが述べられています。

「第一に。追加資本が同じ土地に超過生産性を保ちながら投下されてい行くあいだは、たとえその生産性がだんだん下がっていくにしても、一エーカー当たりの穀物地代も貨幣地代も絶対的には増大する。……

 第二に。ただ平均利潤を生産するだけでその超過生産性はゼロであるような追加資本の投下は、形成された超過利潤の高さ、したがってまた地代の高さを、少しも変えない。……

 第三に。追加投資の生産物の個別的生産価格が規制的価格よりも高い場合、つまり、追加投資の超過生産性がゼロに等しいだけでなくてゼロよりも少なくてマイナスであり、言い換えれば、それが規制的な土地Aへの同量の投資の生産性よりも低い場合には、このような追加投資は、優等地の総生産物の個別的平均価格をますます一般的生産価格に接近させ、したがって、超過利潤または地代を形成する両価格間の差額を小さくする。」(P943-944)という点をあげ、「地代の低下の最低限界は、地代がなくなってしまう点」であり、「超過利潤も地代も全然なくなってしまうまでには、まだ長いあいだ、生産性の不足な追加資本が、そしてその不足がますますひどくなる追加資本でさえも、充用できるであろう。」ということが述べられている。

「第四三章」までの差額地代の考察と現代の私たちがインスパイアされること

「第四三章」までの差額地代の考察のまとめ

 ①土地に投ぜられる資本が多ければ多いほど、一国の農耕と文明一般との発展が高ければ高いほど、それだけ一エーカー当たりの地代も地代の総額もますます大きくなり、社会が超過利潤の形で大土地所有者に支払う貢ぎ物はますます大きくなる。

 この法則は、大土地所有者階級の生命の驚くべきねばり強さを説明する。この階級は絶えず再び立ち直る。というのは、土地に投ぜられた他人の資本が、そこから資本家が引き出す利潤とはまったく不釣り合いに、この階級に地代を運んでくれるからである。

 ②といっても、それは、ひとたび耕作されるようになった土地種類がすべて競争能力を保っているあいだのことである。

 この同じ法則はまた、なぜこのような大土地所有者の生命のねばり強さがだんだん尽きて行くのか、ということをも説明する。

 ヨーロッパでは土地の一部分は穀物耕作では決定的に競争圏外に脱落し、地代はどこでも下がり、地主の悲嘆となった。しかし、幸いにしてまだすべての草原地帯が耕作されるまでにはなっていない。それは、まだヨーロッパの大土地所有の全部を破滅させ、なおそのうえに小土地所有をも破滅させるのに十分なだけ残されているのである。

現代の私たちがインスパイアされること

 日本農業も、多くの分野で「競争圏外に脱落」しており、首都近郊においても、戦後の農地解放によって得られた細分化された農地を他者に貸す主たる目的は、ここに出てくるような地代を得ることよりも、土地の善良管理のためとなっている。

 〝競争圏外への脱落〟という言葉に私たちがインスパイアされるのは、資本の論理に従って、1970年代以降、電気産業を筆頭に強欲に利益を得ようと生産拠点を海外に移した結果、日本の産業全体が空洞化し活力を失い、競争圏外への脱落の道を着実に歩んでいることです。ここまま事態が推移すれば、丸の内の大地主も、〝結合労働の生産様式〟の社会へ土地を引き渡す前に、土地から〝超過利潤〟を得ることが困難になるということ、そしてその災難をまともに被るのは、私たち無産階級であるということも忘れてはならないということです。

※なお、「第四三章」の「第三の場合 生産価格が上昇する場合」の要約等については、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-43「第四三章 第三の場合 生産価格が上昇する場合 結論」.pdf
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「第四四章 最劣等耕作地でも生まれる差額地代」の概要

 差額地代Ⅱを媒介として、すでに地代をあげている優等地が価格を規制できるようになり、そうすることによってすべての土地が、これまで無地代だった土地も含めて、地代を生む土地に転化することがありうる。

 資本主義的生産様式の立場から見れば、同じ生産物を手に入れるために出費が必要な場合、つまり以前には支払われなかったものが支払われなければならない場合には、つねに生産物の相対的な騰貴が起きる。

 また、投資が行われてから土地が地代を生むのは、資本がその土地に投下されたからではなくて、投資がその土地を以前と比べてより生産的な投下部面にしたからである。

  ここまでが、不破さんの第一四章「(14)差額地代論──マルクスの『展開の独自性』」でカバーすべき『資本論』の内容です。

※なお、「第四四章」の主な抜粋については、下記のPDFファイルを参照してください。

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3-44「第四四章 最劣等耕作地でも生まれる差額地代」.pdf
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ここで、改めて『資本論』の読み方を考える

 マルクスは、「地球の一断片」である土地を資本主義的生産様式のもとで所有することの経済的意味を面的(空間的)、重層的(時間的)に可能な限り捉えることによって、資本主義的生産様式のもとでの「差額地代」と「絶対地代」のもつ意味を詳細に明らかにするとともに、「社会の資本主義的形態が廃止されて社会が意識的な計画的な結合体として組織されている」状況と対比しての資本主義的生産様式のもとでの「土地所有の不合理」についても、鋭く暴露しました。

 『資本論』の地代論の学習は、資本主義的生産様式のもとでの「土地所有の不合理」についての現代の現れをより深く論究し、暴露する契機とするだけでなく、「土地所有」と類似の所有形態である「知財権の所有」についても、私たちに多くのヒントを与えてくれています。是非、皆さんが『資本論』の学習をする際には、不破さんのようにあら探しや蘊蓄を深めるために学習するのではなく、現代の資本主義をつねに念頭に置いて読み進んで下さい。そうすれば、皆さんは、私がこのページで指摘したことを遙かに超える多くのヒントを得て、現代の資本主義をより徹底して暴露することができるでしょう。

 不破さんは、「差額地代の『第二形態』をめぐって」という最後の「節」で、「率直に言って、私には、マルクスの理論の筋道が、何度読んでも理解できませんでした。そこには、二つの大きな疑問が最後までつきまとったからです」などと述べ、「この二つの理由から、差額地代の『第二形態』議論については、そこでのマルクスの『展開の独自性』に大きな疑問を抱いている、というのが、この部分に取り組んでの私の率直な感想です」と第一四章「(14)差額地代論」を結んでいます。

 不破さんらしい『資本論』の「解説」だといえばそれまでですが、不破さんは本当に『資本論』をちゃんと読んだのでしょうか。不破さんは、資本論から何か学ぼうという気持ちが本当にあるのでしょうか。

 確かに、「差額地代Ⅱ」は、目を通すだけでは非常に分かりにくいのは否めません。そして不破さんがエンゲルス嫌いなのはわかりますが、マルクスの盟友であるエンゲルスがその分かりにくさを補って、「差額地代Ⅱの三つの主要な場合と九つの派生的な場合とについての以上の全研究から、帰結される一般的な結論を引き出」しているではありませんか。

 不破さんは、「差額地代」を重層的(時間的)に捉えることそのものを否定しているのでしょうか。もしも、そうであるならば、はっきりとそう言うべきです。しかし、それは事実を偽るもので、誤っています。「マルクスの『展開の独自性』に大きな疑問を抱いている」などという陰険な言い方でマルクスを否定するのはやめるべきです。もしも、そうでなく「差額地代Ⅱ」を認めるのであれば、マルクスの不備を誹謗するのではなく、不破さんにその能力があるならば、マルクスの述べていることをエンゲルスのように補足して「解説」すべきではないでしょうか。

 科学的社会主義の思想を自らの思想たらんと心得ている人は、「イタチの最後っ屁」のような文章の結び方をしてはなりません。

「第四六章」のポイントと現代の私たちが留意すべき点

 つぎに、不破さんの第一五章「(15)地代形態の世界史」の検討に入る前に、不破さんが触れていなかった「第四六章 建築地地代 鉱山地代 土地価格」を簡単に見ておきます。この「章」も大変大事な章で、私たちに様々な示唆を与えてくれています。また、「第七篇」の「第四八章 三位一体的定式」への導入的な文章も含まれています。是非、お読み下さい。

「第四六章」のポイント

建築地地代 鉱山地代

 差額地代は、およそ地代の存在するところならばどこでも現われ、どこでも農業差額地代と同じ法則に従う。およそ土地所有のうちには、社会の一部分が他の部分から、地上に住めるという権利の代償として貢ぎ物を要求するのであって、生命の維持と発展とを搾取するという、所有者の権利が含まれているのである。

 ただ人口の増加、したがって住居需要の増大だけでなく、固定資本の発達もまた必然的に建築地代を増大させる。急速に発展しつつある諸都市では、建築投機の本来の根本対象をなすものは地代であって家屋ではない。

独占価格が地代を生み出す場合

 独占価格とは、地球のなかでも特別な性質をそなえたある部分の所有権への買い手の購買欲と支払能力だけによって規定される価格のことであり、この場合には独占価格が地代を生み出す。

「所有権」という搾取する権利の源泉と、より高度な経済的社会構成体での土地のあり方

 一群の人々が社会の剰余労働の一部分を貢ぎ物としてわがものにし、しかも生産が発展するにつれてますます大きな度合いでわがものにすることを可能にするものは、ただこれらの人々が地球にたいしてもっている所有権でしかない。

 しかし、資本還元された地代、つまりまさにこの貢ぎ物が資本還元されたものが土地の価格として現われ、したがってまた土地がすべての他の取引物品と同様に売られることができるという事情によって、買い手にとっては、彼の地代請求権は、無償で手に入れたもの、すなわち労働も冒険も資本の企業精神もなしに無償で手に入れたものとしては現われないで、その等価を支払って手に入れたものとして現われることによって、地代は、ただ、彼が土地を、したがってまた地代請求権を、買い取るために用いた資本の利子として現われることによって、地代が「社会の剰余労働の一部分」であるということがおおい隠されるのである。

 それは、黒人を買った奴隷所有者にとっては、彼の黒人所有は、奴隷制度そのものによってではなく商品の売買によって得られたものとして現れるのとまったく同様である。しかし、権利そのものは、売買によって生みだされるのではなく、ただ移転されるだけである。権利は、それを売ることができる前に、存在していなければならないのであって、その権利をつくりだしたものは生産関係である。

 この生産関係がある一点に達して脱皮せざるをえなくなれば、権利とそれにもとづくいっさいの取引との物質的な源泉、経済的および歴史的に是認される源泉、社会的な生命生産の過程から発する源泉は、なくなってしまう。より高度な経済的社会構成体の立場から見れば、地球にたいする個々人の私有は、ちょうど一人の人間のもう一人の人間にたいする私有のように、ばかげたものとして現われるであろう。一つの社会全体でさえも、一つに国でさえも、じつにすべての同時代の社会をいっしょにしたものでさえも、土地の所有者ではないのである。それらはただ土地の占有者であり土地の用益者であるだけであって、それらは、よき家父〔boni patres familias〕として、土地を改良して次の世代に伝えなければならないのである。

土地価格

 土地の価格は、地代が増大するために上がることがありうるし、地代が上がらなくても上がることがありうる。土地価格の上昇から無条件に地代の上昇を推論することはできないし、また、地代の上昇はつねに土地価格の上昇を招くとはいえ、地代の上昇から無条件に土地生産物の増加を推論することはできないということになるにである。

農地と建築用地との違い

 農業では、土地そのものが生産用具として作用するので、逐次的投資を生産的に行なうことができるのであるが、これは、土地がただ基礎として、場所として、場所的な作業基礎として機能するだけの工場の場合にはないことであり、あるとしてもただ非常に狭い限界のなかでのことである。以前の投資の利益が失われることなしに、次々に行なわれる投資が利益をもたらすことができるという土地の長所は、同時にこれらの逐次的諸投資のあいだに収益の差が生ずる可能性を含んでいるのである。

現代の私たちが留意すべき点

 『資本論』は、都市における土地所有は、社会の一部分が他の部分から、地上に住めるという権利の代償として貢ぎ物を要求し、ことに貧困の無恥きわまる搾取、生命の維持と発展とを搾取するという所有者の権利を与えること、地代の源泉は社会の剰余労働の一部分であるにもかかわらず、この権利が資本主義的生産関係のもとで売買されることによって、地代の源泉があたかも資本にあるかのように映り、真の源泉がおおい隠されることを述べ、それは、黒人を買った奴隷所有者にとっては、彼の黒人所有は、奴隷制度そのものによってではなく商品の売買によって得られたものとして現れるのとまったく同様であり、これらの権利をつくりだしたものは生産関係であることを指摘します。

 そして、この生産関係がある一点に達して脱皮せざるをえなくなれば、権利とそれにもとづくいっさいの取引との物質的な源泉、経済的および歴史的に是認される源泉、社会的な生命生産の過程から発する源泉は、なくなってしまうこと、より高度な経済的社会構成体の立場から見れば、地球にたいする個々人の私有は、ちょうど一人の人間のもう一人の人間にたいする私有──奴隷制度のこと──のように、ばかげたものとして現われることを私たちに強く訴え、土地の持つ意味について、「一つの社会全体でさえも、一つに国でさえも、じつにすべての同時代の社会をいっしょにしたものでさえも、土地の所有者ではないのである。それらはただ土地の占有者であり土地の用益者であるだけであって、それらは、よき家父〔boni patres familias〕として、土地を改良して次の世代に伝えなければならないのである」と言い切ります。

 私たちも、これらのことをしっかりと言い続け、国民共通の理解になるよう努めなければなりません。

 なお、「急速に発展しつつある諸都市では、特にロンドンでのように建築が工場的に営まれるところでは、建築投機の本来の根本対象をなすものは地代であって家屋ではない」との論及は、1980年代の日本のバブルが見事に証明しています。

 そして、この章で私は、前述の「権利」の錯覚や資本主義的生産関係がもたらす「常識が不合理と見るものは合理的なものであり、常識で合理的なものは不合理そのものである」という環境で、あたかも「水中の魚のように気安さを覚え」日常生活を送っている人々に、それらをもたらしている「経済的諸関係」の「内的な関連」を明らかにし、一人ひとりがそのもつ意味をしっかりと理解するように、努めることの必要性を痛感させられました。

※なお、「所有権」という搾取する「権利」及び「常識が不合理と……」についての『資本論』での論及は、別添の、この「章」のPDFファイルを参照するか、ホームページ「温故知新」→「マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「E、資本主義社会Ⅲ」の「16、農業」のPDFファイル「16-7 土地は改良して次の世代に伝えなければならない」及びホームページ「温故知新」→「マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「C、資本主義社会Ⅰ」の「9、資本主義社会での物事の認識」のPDFファイル「9-3 内的な関連から疎外された、それだけとして見ればばかげたものである現象形態のなかで、彼らは水中の魚のように気安さを覚えるのである。 常識が不合理と見るものは合理的なものであり、常識で合理的なものは不合理そのものであるということがあてはまるのである。」を参照して下さい。

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「(15)地代形態の世界史」で不破さんが言っていること

 「第四七章 資本主義的地代の生成」についての不破さんの「解説」を一緒に見てみましょう。

  不破さんは、まず、『資本論』をもとに「資本主義社会の以前には、地代は、『剰余価値一般の正常な形態』とみなされて」いたが、「発展した資本主義のもとでは、地代は、……農業で生まれる剰余価値の一部分──『平均利潤を越える超過分』という脇役に後退してしま」ったことを述べ、「こういう質的変化が起こるためには、社会で資本主義的生産がかなりの程度に発達し、平均利潤が社会的規模で確立し、それが農業生産をもその規律に従わせる力をもつようになっていなければなりません。」と、〝資本主義的地代成立のための歴史的前提〟について解説します。

 続けて不破さんは、「土台と上部構造の関係。一歩深めた定式」と銘打った「節」で、マルクスが、「資本主義的地代に先行する地代形態として、『労働地代』、『生産物地代』、『貨幣地代』」をあげ、その転化の歴史をたど」ったことを述べ、よせばいいのに、「第1部で『本源的蓄積』の歴史を探究した時は、最も典型的な国イギリスを研究の対象としましたが、今回は、古代ではローマやカルタゴ、あるいはインド、中世と近代でもヨーロッパ諸国の歴史を広く取り上げ、いわば世界史的視野で研究を進めていることが、大きな特徴となっています」と、何ともトンチンカンなことを言います。

 そして、「この分析を進めるなかで、マルクスが、土台と上部構造の関係について、『経済学批判』「序文」での有名な定式を、一歩深める記述をおこなっていることも、見落とせない点です。」と述べて、蘊蓄を披露し、『資本論』から唯物史観に基づく記述の文章を抜粋しますが、何をどう「一歩深め」た記述なのかの説明は、一切ありません。「一歩深める記述」のどこが「見落とせない点」なのか、印象だけを植えつける、いかにも不破さんらしい文章ですが、不破さんは、何を私たちに言おうとしているのか、さっぱり分かりません。

 私は、先ほど、不破さんが「何ともトンチンカン」なことを言いますと申し上げましたが、マルクスは、不破さんが言うように、「『本源的蓄積』の歴史を探究した時」は視野が狭く、「今回」は、視野を広く「世界史的視野で研究を進め」たのではありません。マルクスが『資本論』でイギリスを例にとったわけは、「ただイギリスにおいてのみ、「本源的蓄積の歴史」の典型的な形をとるから」(大月版①P932-6参照。)で、世界を見ていなかったからではありません。そして、「『労働地代』、『生産物地代』、『貨幣地代』」の「転化の歴史」の論及にあたって、マルクスが「世界史的視野で研究を進めている」のは今に始まったことではありません。先に不破さんが「唯物史観の定式化」について、「土台と上部構造の関係について、『経済学批判』「序文」での有名な定式」と言った文章の中で、「大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式を、経済的社会構成が進歩していく諸時期としてあげることができる」と言っているように、『経済学批判』を刊行した1859年より以前から、マルクスは「世界史的視野で研究を進め」、その中で典型を見つけだしているのです。だから、不破さんの文章は、マルクスの意図をまったく理解しない、「何ともトンチンカン」な「蘊蓄」と言えるのです。

 そして、不破さんは、マルクスが「唯物史観の定式」を「一歩深め」たと言いながら、何をどう「一歩深め」たのか、一切私たちに明らかにしてくれませんが、もしかしたら、不破さんが21世紀になって「革命観の大転換」をして完全にマルクス修正主義者・改良主義者に転落してしまったように、マルクスを「マルクス修正主義者・改良主義者」に仕立てあげる、何か、ヒントでも見つけたのかも知れません。何しろ、マルクスの発見した〝唯物史観の定式〟は、不破さんがでっち上げた「恐慌=革命」説の前提になるものですから、「革命観の大転換」を果たした不破さんにとって、いつかは否定し去らなければならないものなのですから。

唯物史観はどのように定式化されてきたのか

 それでは、唯物史観の定式化はどのような経緯で行なわれ、どのような内容のものなのか、簡単に見てみましょう。

①仕事の序説、1844年『独仏年誌』への掲載

「1842年から1843年にかけて、『ライン新聞』の編集者として、はじめて私は、いわゆる物質的利害関係に口だしせざるをえなくなって、困惑した。……

 私を悩ました疑問の解決のために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であって、その仕事の序説は、1844年にパリで発行された『独仏年誌』に掲載された。私の研究の到達した結果は次のことだった。すなわち、法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般的発展からも理解できるものではなく、むしろ物質的な生活諸関係に根ざしているものであって、これらの生活諸関係の総体をヘーゲルは、18世紀のイギリス人およびフランス人の先例にならって、「市民社会」という名のもとに総括しているのであるが、しかしこの市民社会の解剖学は経済学のうちに求められなければならない、ということであった。」(マルクス『経済学批判』(序言) 全集、13巻、5-6ページ)

②1845年、『ドイツ・イデオロギー』での展開

 下記の、〈参考〉関連する文章のⅡ『ドイツ・イデオロギー』を、参照して下さい。

③1847年、マルクス『哲学の貧困』

・「われわれの見解の決定的な諸点は、プルードンに反対して1847年に刊行した私の著書『哲学の貧困』のなかで、たんに論争のかたちでではあったが、はじめて科学的に示された。」(マルクス『経済学批判』(序言) 全集、13巻、8ページ)

・「本書は、1846-1847年の冬、マルクスが彼の新しい歴史・経済観の基本点をはっきりと整えおえた時期に書かれたものである。」 (エンゲルス『「哲学の貧困」ドイツ語第1版への序文』)

 そしてマルクスは、1865年1月24日付けのシュヴァイツァーあての手紙(『プルードンについて』)で、マルクスが『哲学の貧困』で、①経済的諸範疇を、物質的生産の一定の発展段階に照応する歴史的な生産諸関係の理論的表現と見ていたこと、②プルードンのように、ユートピア主義者のやり方で、「社会問題の解決」のための公式を先験的にひねりだすのではなく、マルクスは、解放の物質的諸条件をつくりだす運動の現在の生産諸関係に対する批判的な認識のなかから科学をくみださなければならないと考えたことを述べています。

 なお、プルードンの、ユートピア主義者のやり方で、「社会問題の解決」のための公式を先験的にひねりだす手法は、2019年の参院選の選挙政策の作成手法であり、「マルクス修正主義者・改良主義者」の不破さんの手法です。

④1859年6月、マルクス『経済学批判』(序言)で唯物史観の定式化

 物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、既存の生産諸関係、所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときから社会革命の時期が始まる。

 これが、唯物史観の定式化の経緯とその大雑把な内容です。

 なお、『経済学批判』(序言)で唯物史観の定式化の詳しい内容については、下記の「〈参考〉関連する文章」の「Ⅰ、マルクス『経済学批判』(序言)の唯物史観の定式化の文章」を参照して下さい。

〈参考〉関連する文章

Ⅰ、マルクス『経済学批判』(序言)の唯物史観の定式化の文章1859年6月

「私の専攻は法律学であったが、しかしそれを私は、哲学と歴史を研究するかたわら副次的な学科として学んだにすぎない。1842年から1843年にかけて、『ライン新聞』の編集者として、はじめて私は、いわゆる物質的利害関係に口だしせざるをえなくなって、困惑した。……

 私を悩ました疑問の解決のために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であって、その仕事の序説は、1844年にパリで発行された『独仏年誌』に掲載された。私の研究の到達した結果は次のことだった。すなわち、法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般的発展からも理解できるものではなく、むしろ物質的な生活諸関係に根ざしているものであって、これらの生活諸関係の総体をヘーゲルは、18世紀のイギリス人およびフランス人の先例にならって、「市民社会」という名のもとに総括しているのであるが、しかしこの市民社会の解剖学は経済学のうちに求められなければならない、ということであった。この経済学の研究を私はパリで始めたのであるが、ギゾー氏の追放命令でブリュッセルに移り、そこでさらに研究をつづけた。私にとって明らかとなった、そしてひとたび自分のものになってからは私の研究にとって導きの糸として役だった一般的結論は、簡単に次のように定式化することができる。人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に照応する生産諸関係をとり結ぶ。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法的かつ政治的な上部構造がそびえたち、そしてこの土台に一定の社会的意識諸形態が照応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法的表現にすぎないが、所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときから社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、徐々にであれ急激にであれ変革される。このような諸変革の考察にあたっては、経済的生産諸条件における、自然科学的に正確に確認できる物質的な変革と、人間がそのなかでこの衝突を意識し、それをたたかいぬくところの法的な、政治的な、宗教的な、芸術的な、あるいは哲学的な諸形態、簡単にいえばイデオロギー的な諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人がなんであるかは、その個人が自分自身のことをどう思っているかによって判断されないのと同様に、このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を、物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。一つの社会構成は、それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化されおわるまでは、けっして古いものにとって代わることはない。それだから、人間はつねに,自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。というのは、詳しく考察してみると課題そのものが、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生成の過程にある場合にかぎって発生する、ということが、つねにわかるであろうから。大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式を、経済的社会構成が進歩していく諸時期としてあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的というのは、個人的敵対という意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。しかしブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。したがって、この社会構成でもって人間社会の前史は終わるのである。」(マルクス『経済学批判』(序言) 全集、13巻、5-7ページ)

Ⅱ、マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』1845年

6-2 マルクス=エンゲルスの歴史観の結論

「けっきょくのところ、これまで述べてきた歴史観から、なおつぎの結論が得られる。1.生産諸力の発展においてある段階に達すると、生産諸力と交通手段は既存の諸関係のもとでは、ただわざわいのもととなるだけで、もはや生産諸力ではなくて破壊力(機械装置と貨幣)となる──そしてこのことと関連して、社会のあらゆる重荷をになわされながらいかなる利益にもあずからず、社会から迫害され他のあらゆる階級と決定的に対立せざるをえない一階級が呼びだされる。この階級は全社会成員の大多数を構成する階級であり、そしてこの階級から根本的革命の必然性の意識、共産主義的意識が出てくる。この階級の地位を見てとることができれば、この意識が他の諸階級のうちにも形成されうるのは勿論である。2.一定の生産諸力は一定の諸条件のわく内でしか用いられえないのであるが、この諸条件は社会の或る一定の階級の支配の諸条件であり、この階級の所有から生じる、この階級の社会的な力は、そのときどきの国家形態のうちに実践的・観念論的に表現されるのであり、それゆえにどの革命的闘争も、これまで支配してきた一つの階級にほこ先を向ける。3.あらゆる従来の革命においては、活動のあり方には一指もふれられないままで、ただこの活動の分配を変えること、労働を他の人々に新しく分配することが問題とされたのにたいし、共産主義革命は従来の活動のあり方を槍玉にあげ、労働を取り除き、そしてあらゆる階級の支配を階級そのものとともに廃止する。なぜならこの革命を成就する階級は、社会のなかでもはや階級という意味をもたず、階級とは認められず、すでに今日の社会の内部でのあらゆる階級、あらゆる国籍等々の解体の表現であるからである。そして、4.この共産主義的意識の大量産出のためにも、また事柄そのものの成就のためにも、人間の大衆的な変化が必要なのであって、このような変化はただなんらかの実践的運動、なんらかの革命のなかでのみ行われうる。したがって革命が必要なのは、支配階級を倒すにはそれ以外に方法がないからというだけではなく、また倒すほうの階級はただ革命のなかでのみ古い垢をわが身から一掃して、社会を新しくつくりうる力量を身につけるようになるからである。」(レキシコン④-[10]P63上2~65上7) ※この続きが「6-3」です。

6-3 マルクス=エンゲルスの歴史観の基礎

上部構造と土台、交通形態・市民社会と宗教・哲学・道徳等々。

「したがってこの歴史観は、次のことにもとづいている──すなわち、現実的生産過程を、しかも直接的生の物質的生産から出発して展開すること、そして、この生産様式と結びついていて生産様式によって生みだされた交通形態を、つまりさまざまな段階の市民社会を、全歴史の基礎として把握すること、そして、市民社会をその国家としての行動において示すとともに、宗教・哲学、道徳等々、意識のあらゆるさまざまな理論的な産物と形態を市民社会から説明し、それらのものの成立過程を市民社会のさまざまな段階から跡づけることである。こうすれば、おのずからまたことがらをその全体性において(それゆえこれらさまざまな側面の相互作用をも)示すことができるのである。」(レキシコン④-[10]P65上8~下8)

不破さんにマルクスの唯物史観を歪めることはできない

 これまで見てきたように、不破さんが抜粋した『資本論』の唯物史観──「労働の社会的生産力の一定の発展段階に照応する」生産関係が「全社会構造」の「基礎」だという社会観・歴史観──と『経済学批判』「序文」での唯物史観とは、まったく同じ観点で述べられています。「革命観の大転換」など起こす余地のないことは、マルクスがシュヴァイツァーあてに書いた1865年1月24日付けの手紙(『プルードンについて』)を見れば明らかです。

 不破さんが唯物史観を「土台と上部構造の関係」などという曖昧な表現にし、プルードン流の「ユートピア主義者のやり方」を持ち込むために、マルクスを「一歩深め」ようとしても、徒労に終わるだけです。不破さんには、そのことを、前もって申し上げておきたいと思います。

『資本論』への不信を煽るだけの不破さんのマルクスの歪曲

 不破さんは、「農民的土地所有の前途をめぐって」という「節」で、「『貨幣地代』の項」のマルクスの「分析の基調は、資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということの証明におかれました。」と言います。

 そしていきなり、「マルクスが、一八四八年の革命の敗北以来、一貫して強調してきたのは、資本主義下の農民がめざすべき革命的活路は、小土地所有への幻想からはなれ、労働者階級との同盟、農業の社会化をめざす以外にない、ということでした。」とマルクスを歪曲し、その証拠として、『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』(1852年)の中の「ナポレオンの王政復古に絶望するとき、フランスの農民は自分の分割地にたいする信仰を捨てる。」という文章を持ち出して、「この同盟(労・農同盟のこと──青山)が成立する前提は、農民が小土地所有への幻想を捨てることだとされました。」と言います。

 不破さんのこの文章には、巧妙なトリックがあります。まず、ここでマルクスが述べているのは、「資本主義下の農民がめざすべき革命的活路」の問題ではなく、労働者階級が「めざすべき革命的活路」の問題であり、プロレタリア革命を成功させるための労・農同盟の不可欠性の問題でした。そして、労働者階級が、「資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということ」を農民に訴えて、資本主義社会での農民的小経営への幻想(小土地所有への幻想──農民の自分の分割地にたいする信仰)を暴露し、捨てさせることは、強固な労・農同盟を築くうえで大変重要なことです。そして、そのことなしにプロレタリア革命を成功させることができないことは、明らかです。口を開けば「多数者革命」──科学的社会主義の思想がいう〝革命〟とは、常に、人民大衆がおこなう〝多数者革命〟ですが──を言って、すべてのエネルギーを共産党の議席増大に矮小化している不破さんでも、そのくらいのことは分かるでしょう。そのことと、プロレタリア革命の課題として「農業の社会化」なる馬鹿げた課題を掲げることとは、まったくの別問題です。資本主義社会での農民的小経営への幻想をもつ農民が、「資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということ」を理解したとしても、小経営農民から農業労働者に没落した人たちの一部を除いて、「農業の社会化」のスローガンに諸手を挙げて賛同するものではないことは、不破さんはともかく、誰にでもわかることです。それなのに、不破さんは、「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」=「農業の社会化をめざす」とマルクス・エンゲルスの思想を歪曲してはばかりません。

 ただし、この「歪曲」が、善意なのか悪意なのか、つまり、不破さんのこれまでの認識の仕方に「悪意」はないと見て「善意」と見るのか、それとも、これまでの認識の仕方も今回も、正しく認識していながら、わざと「歪曲」した「悪意」によるものなのかは、直接不破さんにたずねる以外、知る由もありません。

 しかし、ここからが、不破さんの真骨頂の発揮どころです。「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」=「農業の社会化をめざす」ことという間違ったレッテルをマルクスに貼っておいて、すぐ、「その後、……『土地所有の社会化』とか『土地の国有化』を運動の目標とするのは誤りだという結論に達しました。」と、不破さん自らが創ったフィクションを否定し、マルクスの値打ちを低めておいて、「ですから、農民的土地所有についての『資本論』のこの分析を読むときには、マルクスの見解のその後の発展を理解することが、たいへん重要になります。」と述べて、私たちが『資本論』の「この分析」のもつ意味を理解することを妨げようとします。

 そもそも、「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」と「農業の社会化をめざす」こととは別問題ですが、「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」が問題であると不破さんが思うのであれば、『資本論』への不信感をあおるだけでなく、はっきりとそう言えばいいではないですか。

 しかし、いまの日本農業にとって必要なのは、TPPなどに反対することだけではありません。「資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということ」をしっかり訴えて、資本主義社会での農民的小経営への幻想を暴露し、捨てさせることに努力し、労働者階級と農民との強固な礎を築くことです。そのことをぬきに、自民党の農政と闘うことはできません。そのことを『資本論』の読者にしっかりと伝えることこそが、『資本論』の「この分析」のもつ意味をしっかりと理解した「解説」者のおこなうべき使命です。ところが不破さんは、この肝心要のことを行なわないだけでなく、マルクスの革命論を歪曲し、そこに焦点をあてることによって、「第四七章 資本主義的地代の生成」のもつ価値を著しく低めてしまいました。

 なお、科学的社会主義の〝革命思想〟をよく現すものとして、レーニンの次のような言葉がありますので、お読み下さい。

「わが国の革命がおこなっていることが偶然ではなく──われわれは、それが偶然ではないことを、深く確信しているが──、またわが党の決定の産物でもなくて、マルクスが人民革命と名づけたあらゆる革命、すなわち、人民大衆が、古いブルジョア共和国の綱領を繰りかえすことによってではなく、彼ら自身のスローガンにより、彼ら自身の奮闘によって、みずからおこなうあらゆる革命の不可避的な産物であるなら、もしわれわれがこのように問題を提出するなら、われわれはもっとも重要なものをなしとげることができるであろう」(レーニン全集第27巻P138)

 不破さんは、マルクス・エンゲルス・レーニンを誹謗・中傷し、「多数者革命」を口実に共産党の票を増やすことだけに淺知恵を絞って立党のこころざしを捨て去り、その結果、共産党を弱体化させてしまいましたが、〝多数者革命〟とは何か、上記のレーニンの言葉を煎じて飲んだほうがよいのではないか。

「第四七章」のポイントと現代の私たちが留意すべき点

 このように、21世紀になって「革命観の大転換」をして完全にマルクス修正主義者・改良主義者に転落してしまった不破さんは、「第四七章 資本主義的地代の生成」の「解説」を装ってマルクスの歪曲に努めてはばかりません。

 マルクス・エンゲルスは、「第四七章 資本主義的地代の生成」で何を述べているのか、一緒に見てみましょう。そして、この「章」がインスパイアしてくれることを一緒に考えてみましょう。

「第四七章」のポイント

緒論

 一般に封建時代に近い著述家たちは、地代を剰余価値一般の正常な形態とみなしていた。重農学派にあっては、地代は、剰余価値が存在する唯一の形態だった。重農学派における正しい点は、剰余価値の生産、したがってまた資本の発達は、事実上すべて農業労働の生産性にもとづいているということである。

 地代が生ずるのは、資本主義的生産様式のもとでの農業生産物の価格からではなくその量からであり、つまり社会的関係からではなく土地からである、という外観が、地代についての一つのまちがった見解を生む。

労働地代

 労働地代という最も簡単な形態での地代は、直接生産者が一週間の一部分では自分のものである労働用具(犂や家畜など)を用いて事実上自分のものである土地を耕作し、一週間の残りの日には領主の農地で領主のために無償で労働するという形態で支払われる。ここでは事態はまだまったく明瞭であって、地代と剰余価値とはここでは同じものである。利潤ではなく地代が、この場合に不払剰余労働を表わす形態である。

 もし、彼らに直接に土地所有者として相対するものが、私的土地所有者ではなくて、アジアでのように国家であるならば、地代と租税とは一致する。国家はここでは最高の領主である。この場合には私的土地所有は存在しない。といっても、土地の占有や用益は私的なものも公共的なものも存在するのではあるが。

 奴隷制の社会と違って、夫役義務者または農奴の側で財産の、そして相対的に言えば富の、独立な発展が行なわれうる、或る程度の経済的発展の可能性、この可能性がここでは与えられているのである。

生産物地代

 労働地代の生産物地代への転化は、経済学的に言えば、地代が剰余価値または剰余労働の唯一の支配的な正常な形態だという地代の本質を、少しも変えるものではない。

 しかし、生産物地代は、直接生産者のより高い文化状態、つまり彼の労働の、そして社会一般の、より高い発展段階を前提する。生産者が自分自身のために行なう労働と土地所有者のために行なう労働とは、もはや時間的にも空間的にもすぐわかるようには区分されていない。けれどもこの生産物地代は、やはり、現物経済を前提している。

 この形態の地代の場合には、剰余労働を表す生産物地代は、けっして農村家族の全超過労働を汲み尽くすとはかぎらない。この直接生産者が彼自身また他人の労働を直接に搾取するための手段をすでに手に入れているということの可能性がある。

貨幣地代

 ここで貨幣地代とは、生産物地代の単なる形態転化から生ずる地代のことである。

 彼の生産物の一部分は商品に転化させられなければならず、商品として生産されなければならない。そこで、生産様式全体の性格が多かれ少なかれ変えられる。しかし、この種の地代の基礎はすでに解消に向かいつつあるとはいえ、この基礎は、まだ、出発点をなす生産物地代の場合と同じままである。直接生産者は、相変わらず、その土地の占有者であって、彼はその所有者である領主に、余分な強制労働、すなわち不払いの、無等価でなされる労働を、貨幣に転化した剰余生産物の形態で支払わなければならない。

 しかし、貨幣地代は、剰余価値および生産条件所有者に支払われるべき不払剰余労働の正常な形態としての地代の、最後の形態であると同時にその解消の形態でもある。もし現実にこの地代のほかに利潤が生ずるとすれば、利潤が地代の制限なのではなく、逆に地代が利潤にとっての制限なのである。貨幣地代は、自由な農民所有への土地の転化か、または資本主義的生産様式の形態、すなわち資本家的借地農業者が支払う地代かに到達せざるをえない。現物地代の貨幣地代への転化は、さらに、無産の、貨幣で雇われる日雇労働者階級の形成を必然的に伴うだけではなく、これによって先行されさえもする。

 土地所有者と現実に労働する耕作者とのあいだに資本家的借地農業者が介在するようになれば、古い農村的生産様式から生じたすべての関係は引き裂かれる。借地農業者は、これらの農耕労働者の現実の指揮者となり、彼らの剰余労働の現実の搾取者となるのであって、他方、土地所有者は、ただこの資本家的借地農業者にたいしてのみ直接関係をもち、しかも単なる貨幣・契約関係をもつのである。それとともに地代の性質もまた変わってくる。地代は剰余価値および剰余労働の正常の形態から、この剰余労働のうちの搾取資本家によって利潤の形で取得される部分を超える超過分になり下がる。

 地代に代わって、今では利潤が剰余価値の正常の形態になり、地代は、剰余価値および剰余労働の正常の形態から、農業というこの特殊な生産部面に特有な剰余労働超過分に、つはわち、剰余労働のうちから資本が前もって当然自分に属するものとして要求する部分を超える超過分に、転化する。もはや土地ではなく、まさに資本こそが、今では農村労働をさえも自分と自分の生産性とのもとに直接に包摂してしまったのである。

分益農制

 地代の本源的な形態から資本主義的な地代への過渡形態と見てよいものは分益農制である。

 この場合には経営者(借地農業者)は彼の労働(自分のかまたは他人の)のほかに経営資本の一部分を提供し、土地所有者は土地のほかに経営資本の別の一部分(たとえば家畜)を提供し、生産物は一定の割合で借地人と土地所有者とのあいだに分割される。完全な資本主義的経営が行なわれるためには、この場合には一方では借地農業者に十分な資本が欠けている。他方ではこの場合に土地所有者が得る分け前は地代の純粋な形態をもっていない。

 一方では、借地人は自分の労働だけを充用するにせよ他人の労働をも充用するにせよ、労働者としての資格でではなく、労働用具の一部分の所有者としての資格、自分自身の資本家としての資格で、生産物の一部分にたいして請求権をもつことになる。他方では、土地所有者は自分の分け前をただ自分の土地所有にもとづいてのみではなく資本の貸し手としても要求する。

分割地所有

 農民はこの場合には彼の土地の自由な所有者であって、彼の土地は彼の主要な生産用具として現われ、彼の労働と資本とにとっての不可欠な従業場面として現われる。この形態では借地料は支払われない。したがって、地代は剰余価値の区分された形態としては現われない。

 このような、自営農民の自由な分割地所有という形態は、支配的な正常な形態としては、一方では古典的古代の最良の地代の社会の経済的基礎をなしており、他方では、近代の諸国民のもとで、封建的土地所有の解体から生まれてくる諸形態の一つとして見いだされる。

 分割地所有は、その性質上、労働の社会的生産力の発展、労働の社会的な諸形態、資本の社会的な集積、大規模な牧畜、科学の累進的な応用を排除する。資本を土地価格に投ずることは、この資本を耕作から引きあげることになる。生産手段の無限の分散化、そして生産者そのものの無限の孤立化。人間力の莫大な浪費。生産条件がますます悪くなり生産手段が高くなって行くということは、分割地所有の必然的な法則である。

資本主義的生産様式のもとにおける土地の私有の矛盾

 続いて、「小さな土地所有」の農民は、自分の生産物を商品として生産することができるような条件なしに、商人となり産業家となることによって、生産者は自分の生産物の貨幣価格に依存するという資本主義的生産様式の不利が、資本主義的生産様式の不完全な発展から生ずる不利といっしょになることを述べ、最後に、「小規模な耕作」と「大農業」のどちらの形態でも、資本主義的生産様式のもとでは、土地を共同的永久的所有として、入れ替わって行く人間世代の連鎖の手放すことのできない存在・再生産条件として、自覚的合理的に取り扱うのと違って、地力の搾取や乱費が現れることを指摘し、工業的に経営される大農業は、その工業的体制が農村労働者を無力にするとともに、工業や商業は農業に土地を疲弊させる手段を提供することを述べて、「第四七章」は結ばれています。

現代の私たちが留意すべき点

  『資本論』のこの「地代」の篇は、資本主義以前の搾取の仕組みと資本主義的生産様式のもとでの搾取の仕組みにおける「地代」の質的な違いを明らかにし、最後に、資本主義的生産様式のもとでの土地私有の不合理さを告発しています。

 その中で、何やら、日本農業の現状を現すかのように、「生産手段の無限の分散化、そして生産者そのものの無限の孤立化。人間力の莫大な浪費。生産条件がますます悪くなり生産手段が高くなって行くということは、分割地所有の必然的な法則である」(P1034)ことや、また、「小さな土地所有の場合」の「生産そのものとは無関係な、土地の価格という要素」にかんして、「この場合には、生産者が自分の生産物の貨幣価格に依存するという資本主義的生産様式の不利が、資本主義的生産様式の不完全な発展から生ずる不利といっしょになるのである。農民は、自分の生産物を商品として生産することができるような条件なしに、商人となり産業家となるのである」(P1040)ということが述べられています。

 同時に、資本主義的生産の特徴として、「資本主義的生産」は、社会のますます増大する一部分を直接的生産手段の生産から解放して、彼らを〔手のあいている人〕に転化させ、他の部面で利用できるようにすることが述べられています。

 そして、資本主義的生産様式のもとでは、土地を共同的永久的所有として、入れ替わって行く人間世代の連鎖の手放すことのできない存在・再生産条件として、自覚的合理的に取り扱うのと違って、地力の搾取や乱費が現れることを指摘し、工業や商業が農業に土地を疲弊させる手段を提供することが述べられています。

 マルクスは、地力の搾取や乱費が現れることを指摘していますが、資本主義的生産は目先の利益を求め、〝われ亡きあとに洪水はきたれ!〟の世界です。だから、農産物の安全性や地球環境の問題など当面緊急な対策が強く求められない事柄について、まったく無関心なのが、資本主義的生産様式のもとで農業です。この点を補足しておきます。

 これらを踏まえ、私たちは、資本主義的生産様式のもとでの、農業特有の生産性の低さ、生産性の漸増性にもとづく農業経営の不利について、日本の「小さな土地所有」にもとづく農業経営の不利について、科学的社会主義の思想にもとづく正しい認識と明確な展望をもって、広く国民にアピールする必要があります。

 なお、「この生産物地代の大きさは、労働条件の再生産、生産手段そのものの再生産をほんとうに危くし、生産の拡張を多かれ少なかれ不可能にし、直接生産者の生活手段を肉体的最低限度まで圧し下げるほどになることもありうる。ことに、この形態が、征服者である商業国民、たとえばインドでのイギリス人のようなものに見つけられて利用される場合には、そうである。」(P1021)という文章は、帝国主義者のあくどさを鋭く描写していますが、今日でも、農業に限らず、「知財権」等を振りかざして資本主義帝国主義者による同様な行為が堂々と行なわれています。

※この章の『資本論』からの抜粋は、別添のこの「章」のPDFファイル及びホームページ「温故知新」→「マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「E、資本主義社会Ⅲ」の「16、農業」のPDFファイル「16-8封建的生産様式の地代と資本主義的生産様式の地代」、「16-9 中世の都市と農村との関係」、「16-10 分割地所有の限界」及び「16-11 資本主義下の『小さな土地所有』と『大きな土地所有』の弊害」等を参照して下さい。

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不破さんの「第七篇」についてのとんでもない謬論と「第七篇」から私たちが学ぶべきこと

 不破さんの「(16)第七篇。『三位一体的定式』と未来社会論」という「章」の不破さんの「解説」の順序に従い、まずはじめに、『三位一体的定式』についての不破さんの「解説」を見てみましょう。

隔靴掻痒の「三位一体的定式」の解説

  不破さんは、まず、『新メガ』の成果にもとづき、文章Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの編集順序を組み換える必要があることを述べ、続けて、「第48章 三位一体的定式」には「三位一体的定式」に係わる部分といわゆる「未来社会論」に係わる部分とが混在していること指摘し、はじめに、「三位一体的定式」に係わる部分の「解説」を行ないます。

 不破さんは、「『三位一体』的定式とは?」という「節」を設け、「三位一体的定式」について、「私たちが対面するのは、資本と名付けられた貨幣そのものが利潤、利子を生み、土地そのものが地代を生み、すべての価値の源泉である労働は、資本や土地と並んで、そのより低位の仲間として、控え目に労賃を受け取るという、神秘化が極限に達した世界です。」と述べたあと、「三位一体的定式」の持つ意味を詳しく説明(暴露)した『資本論』の文章の一部を「抜粋」し、続けて、「三位一体」という言葉について、「マルクスはこの言葉によって、資本主義社会を支配する神秘化の極致を表現したのでした。」と、「『三位一体』的定式とは?」の「意味」を解説します。

 続けて不破さんは、上記の『資本論』の文章につづく文章について、「簡潔な論評ですが、ブルジョア経済学の両派(「古典派経済学」と「俗流経済学」(今日、主流の「経済学」)のこと──青山)にたいする的確な特徴づけがおこなわれています。」、と述べて「『三位一体』的定式とは?」という「節」の解説を終えてしまいます。

 この、不破さんの「解説」は、マルクスが『資本論』の草稿を書き、エンゲルスが『資本論』を編集した時代のマルクス・エンゲルスの歯痒さと『資本論』の資本主義経済学批判としての意味を忘れた、「隔靴掻痒」の文章で、科学的社会主義の経済学を学ぼうとする人たちにとって、けっして、適切な〝解説〟とは言えません。

※不破さんが部分的に抜粋した上記の文章は、ホームページ4-27-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)」(PDFファイルP20参照。)で、既に、その全文(大月版 ⑤ P1063-1065)を「抜粋」して紹介していますが、「第48章」の論及の最後に添付してあるPDFファイル「第48章 三位一体的定式」にも全文が載っています。

まちがった外観と偽瞞の「三位一体的定式」に騙されるな

 マルクスは、『資本論』の上記の文章で私たちに何を訴えているのか、見てみましょう。

 マルクスは、既に、『資本論』第一部「第六篇 労賃」「第一七章 労働力の価値または価格の労賃への転化(大月版② P696~ )で、既に、資本家に買われた労働力の価値が、「労働の価格」=「貨幣で表現された労働の価値」として資本主義的生産関係のなかで現されると、価値の源泉である労働者は、その寄生虫である資本家の価値を創造するための手段のように転倒して見えることを指摘しています。

 「三位一体的定式」のまちがった外観と偽瞞に騙されないために、マルクスのいう「三位一体的定式」とは何か、もう一度、その要点を確認してみましょう。

※.資本主義社会での事物の認識についての『資本論』からの抜粋については、ホームページ5「温故知新」→「C、資本主義社会Ⅰ(7.資本主義社会、8.近代(現代)の国家、9.資本主義社会での事物の認識)」のPDF「9-1 現象では事物が転倒して現れることがよくある」(大月版②P696 )」を参照して下さい。

『資本論』の「三位一体的定式」の要点

 資本家に買われた労働力の価値が、「労働の価格」=「貨幣で表現された労働の価値」として資本主義的生産関係のなかで現わされ、そのことを通じて、生産関係の物化と富のいろいろな社会的要素の相互間の独立化と骨化がおこなわれる。その結果、いっさいの内的関連が消し去られた、まちがった外観と偽瞞によって、魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界として、資本主義的生産様式の神秘化がおこなわれる。つまり、資本─利子、土地─地代、労働─労賃という疎外された不合理な形態である「経済的三位一体」が「定式」として承認される。

 この定式は同時に支配的諸階級の利益にも一致している。なぜならば、それは支配的諸階級の収入源泉の自然必然性と永遠の正当化理由とを宣言して、それを一つの教条にまで高めるものだからである。

 しかし、この経済的神秘化は、以前のいろいろな社会形態では、ただ、おもに貨幣と利子生み資本とに関連してはいってくるだけである。資本主義的生産様式においてはじめて──ここで原稿は中断していますが、青山は中断された欠損部分の内容を次のように推測します──①経済的三位一体が完成し、あからさまな暴力による支配から「経済的神秘化」による「まちがった外観と偽瞞」による支配が完成したこと、②資本主義的生産様式においてはじめて資本も労働も社会から無拘束なものとして現われたこと、③その結果、資本主義的生産様式は(資本主義)社会そのものを掘り崩す矛盾を抱えこんでしまったこと、をマルクスらしい表現で力強く述べているであろう、と。

 以上が、「三位一体的定式」の要点です。

『資本論』が私たちに訴えていること

 これらを通じて、ここで『資本論』が訴えていることは、おおむね下記のとおりです。

①「三位一体的定式」による資本主義的生産様式の「神秘化」にごまかされてはいけないということ。「三位一体的定式」とは「まちがった外観と偽瞞」の表現であり、支配的諸階級の階級的利益に一致している認識であり、不破さんのように「資本主義社会を支配する神秘化の極致を表現した」などと述べるだけで、「三位一体的定式」の「まちがった外観と偽瞞」の暴露の必要性・重要性を「解説」しないのは、まったく、正しくありません。

②俗流経済学は、「現実の生産当事者たちの日常観念の教師的な多かれ少なかれ教義的な翻訳以外のなにものでもなく」、「いっさいの内的関連の消し去られている三位一体のうちに、自分の浅はかな尊大さの自然的な、いっさいの疑惑を越えた基礎を見いだす」ものであり、だから、「この定式は同時に支配的諸階級の利益にも一致している」ことを述べています。だから、不破さんのように、「ブルジョア経済学の両派にたいする的確な特徴づけがおこなわれています」などと呑気なことを言っている場合ではなく、「俗流経済学」の存在意義を正しく認識して、「俗流経済学」を徹底的に暴露する必要性があること。このことが認識できない不破さんの弱点が、今日の資本が「国家」を捨て我が物顔で振る舞っているグローバル資本主義を弁護する「俗流経済学」への無関心な姿勢につながっています。

③資本主義的生産様式においてはじめて資本も労働も社会から無拘束なものとして現われ、あからさまな暴力による支配から「経済的神秘化」による「まちがった外観と偽瞞」による支配が完成した。その結果、資本主義的生産様式は(資本主義)社会そのものを掘り崩す矛盾を抱えこんでしまったが、それはそれでまた、新しい国民の共同社会への途を開く準備となるということ。このことを変革の立場で「解説」すれば、今日の日本を変えるためには、現在の状況のわずかな改善の要求だけに留まっていてはだめだということがはっきり分かり、新しい国民の共同社会への展望を示すことが科学的社会主義の思想の必然であり義務であることが明らかになります。

 「資本主義的生産様式においてはじめて資本も労働も社会から無拘束なもの」となり、自由に行動する資本のグローバルな活動により産業の空洞化が進み、われわれは今、日本社会そのものの存亡の危機に直面しています。「三位一体的定式」についての『資本論』の解説は、このように、現在の日本を頭の真ん中に置いたものでなければならないと思います。そういう点で、不破さんの「解説」は科学的社会主義の思想にもとづく解説といえるものではありません。

不破さんは、『資本論』そっちのけで自らの非民主的な振る舞いを自慢し、マルクスの「未来社会論の核心をついたスケッチ」を突然の「ひらめき」の賜物のように言う

 つぎに不破さんは、「未来社会論の核心をついたスケッチ」という「節」で、「第四八章」の中にある「必然性の国」と「自由の国」とに関するマルクスの論及に「解説」を移したかと思いきや、『資本論』の「解説」のための著作であるにもかかわらず、「二〇〇四年に最初の研究結果を発表して以来、いろいろな機会にかなり詳しい解説をしてきましたので、ここでは解説を控えます」と「解説」しないことを宣言して、「解説」の載っている自分の他の著作を紹介して「解説」をおえます。

 恐れ入る以外、なにも言うことはありません。

独裁者同様の「本末転倒」の不破さんの「提案」

 その代わり、不破さんはここで、「最初の研究結果を発表し」た経緯に関して、不破さんの「民主集中制」がスターリン並みの非民主的な決定方法であることを、臆することなく語ってくれます。

 不破さんは、2003年6月の中央委員会総会で、不破さんが考えた「未来社会についてのマルクスの見地」を織り込んだ党綱領改定案を決定したが、その不破さんの考えを「理論問題としてより詳しく説明したのは、」2003年8月の党本部での学習会と2004年2月の全国都道府県学習・教育部長会議での講義の時になってからで、「最初の研究結果を発表し」たのは、その後の2004年になってからだと言うのです。

 マルクスの名を借りた「不破さんの『未来社会論』」は、このような「本末転倒」の提案のされかたがなされ、党綱領に織り込まれることとなったのです。

 本来の〝民主集中制〟とは、党員全員が十分な資料を得て自由闊達な十分な討論をおこない、その結果が中央の方針に反映される仕組みのはずです。しかし、不破さんの「民主集中制」は、不破さんの影響力のもとで「選出」された少数の中央委員会メンバーの会議でいきなり決定され、その後、「党本部での学習会」→「全国都道府県学習・教育部長会議での講義」→最後に「最初の研究結果を発表」とトップダウンで周知されていくシステムなのです。不破さんは、こんな「本末転倒」なことを行なって「共産党」の方針を修正し、それを自慢し、依然として強い影響力を保ち続けています。

※なお、関連して、現在の共産党の意見集約の仕方や党運営の仕方についての問題点と科学的社会主義の党としての本来のあり方を皆さんと一緒に考えるホームページ3-2-2「民主主義を貫く党運営と闊達な議論の場の設定を」も、是非、参照して下さい。

不破さんの「未来社会論」の諸成分

 続けて不破さんは、『資本論』の「解説」の代わりに、『剰余価値学説史』の中の文章を「未来社会で人間がもつ『自由に利用できる時間』の意義について鋭く解明するとともに、それによって、労働する時間そのものも『はるかにより高度な質をもつ』だろうことを、次のように指摘しました。」と言いって紹介します。

 不破さんは、21世紀になって「資本主義観の大転換」と「革命観の大転換」をする程度の認識能力しか持ち合わせていない凡人なのですから、上記のようにマルクス・エンゲルス・レーニンの文章をつなぎ合わせているだけなら間違いは起こしません。しかし「資本主義観の大転換」をして、「革命観の大転換」を決意した不破さんに残された途は、科学的社会主義の思想からの逸脱と資本主義への回帰以外にはありません。

 マルクス・エンゲルス・レーニンが、そして私たち科学的社会主義の思想をもつものがイメージする〝未来社会〟の〝自由の国〟とは、〝共産主義社会の高い段階〟のことで、〝自由な時間〟があるだけでなく、その「基礎」としての新しい共同社会があり、新しい共同社会で生まれ、新しい共同社会を支え発展させる新しい人がいて、〝自由な時間〟の一部となった質的に変化した〝労働時間〟を使って労働する〝労働〟そのものが〝生きがい〟となる「諸個人が分業に奴隷的に従属する」システムから解放され、〝諸個人の全面的な発展〟が完全に保障された社会のことです。

 そのことを理解できない不破さんは、「未来社会」の「自由の国」とは「自由な時間」のことで、「自由に利用できる時間」で、資本主義社会にもある「余暇」のことだという、とんでもないマルクスの歪曲(*)を行ないますが、『剰余価値学説史』の中のこの文章は不破さんの誤りのルーツに係わる文章なので、少し長くなりますが全文を転載したいと思います。(*)マルクスの歪曲の詳しい内容はホームページ4-26-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」及びホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を、是非、参照して下さい。

 不破さんがどんな勘違い──頭の回転だけはいい不破さんなので、「勘違い」ではないと思いますが──をするのか、一緒に見てみましょう。

 これから見る『剰余価値学説史』の中の文章は、『国民的苦難の根源と救済策…ジョン・ラッセル卿への書簡』というタイトルの匿名のパンフレット(約40ページ)の中の「一国は、資本に利子が支払われないとき、一二時間ではなく六時間だけ労働がなされるとき、はじめて真に富裕である。富とは、自由に利用できる時間であって、それ以外のなにものでもない。」という文章に関してマルクスが述べたものです。

 なお、上記の文章の中の「資本に利子が支払われないとき」とは、労働者階級が剰余労働・剰余生産物を搾取されないときのことです。そして、上記の文章は、「資本に対立する労働者階級の利益」を主張するパンフレットの著者が、労働者階級の搾取がなくなり、怠け者たちも労働者階級と同じだけ労働することによって、「万人が、自由に利用できる時間を、自分たちの発展のための自由な時間を、もつこと」の意味を、筆者(匿名氏)自身はっきりわからずに書いたものだと、マルクスは言います。

 マルクスは言います。

「このようなこと(「賃金労働者たちの奴隷労働」によって、それが「社会の他の部分のために余暇を、自由な時間を、つくりだすということ」──青山)をこの筆者は廃棄する。労働時間は、たとえ交換価値が廃棄されても、相変わらず富の創造的実体であり、富の生産に必要な費用の尺度である。しかし、自由な時間、自由に利用できる時間は、富そのものである──一部は生産物の享受のための(一部は生産力の享受のための)、一部は自由な活動のための。そして、この自由な活動は、労働とはちがって、実現されなければならない外的な目的(の強制)によって規定されてはいないのである。この目的の実現が自然必然性であろうと、社会的義務であろうと。

 自明のことであるが、労働時間そのものは、それが正常な限度に制限されることにとって、さらにそれがもはや他人のためのものではなく自分自身のためのものとなり、同時に雇い主対雇い人などの社会的な諸対立が廃止されることによって、現実に社会的な労働として、最後に自由に利用できる時間の基礎として、まったく別な、より自由な性格をもつようになる。そして、同時に自由な(に利用できる)時間をもつ人でもある人の労働時間は労働者(労働するだけの人間)の労働時間よりもはるかにより高度な質をもつにちがいないのである。」(大月文庫版『剰余価値学説史』⑧P43)と。

※なお、不破さんの『剰余価値学説史』からの引用では、()内のような表現や補足がされていますが、特に「一部は生産力の享受のための」という訳の部分の文意が理解しにくいので、私は大月文庫版の訳を採用しました。また、私は、本文中の「最後に自由に利用できる時間の基礎として」は、文脈からみて、「最後に自由な活動のための時間の基礎として」と読み換えるのが自然であると考えます。

 不破さんは、この文章をしっかり読み込んでいれば、「マルクスは、人間の生活時間のうち、この時間(物質的生産にあてるべき時間──青山補注)部分を『必然性の国』、それ以外の、各人が自由にできる時間部分を『自由の国』と名付けました」とか、「必然性の国」以外の余暇時間をマルクスは「自由の国」と呼び、資本主義社会にも〝余暇〟があり「自由の国」があるなどと言ったり、物質的生産にあてるべき時間を「必然性の国」と呼ぶ理由を、「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動」だからなどとは言わずにすんだでしょう。

 なぜなら、マルクスはこの文章で、未来社会の「自由な時間、自由に利用できる時間」の構成部分として、労働による生産物の享受のための時間と自由な活動のための時間とをあげており、社会が進めば進むほど「労働時間そのもの」が「より自由な性格をもつように」なり、「高度な質」をもつた時間となることを述べ、「労働」と「自由な活動」とを対立した概念として捉えていないからです。付け加えて言えば、マルクスは『ゴータ綱領批判』で、「共産主義社会のより高度の段階の社会」では、「労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととな」ることを述べ、「生活」そのもの、人生そのものであることを明らかにしています。

 このことを理解できない不破さんは、科学的社会主義の思想が理解できず、この文章の中にある「社会的義務」という言葉や、賃金労働者たちが「社会の他方の部分のために──したがってまた賃金労働者たちの社会のためにも──余暇を、自由な時間を、つくりだす」(同前P41)というマルクスの言葉に目が眩んでしまい、物質的生産にあてるべき時間「部分を『必然性の国』、それ以外の、各人が自由にできる時間部分を『自由の国』と名付け」、資本主義社会にも「余暇」があり「自由の国」があると言い、物質的生産にあてるべき時間を「必然性の国」と呼ぶのはそれが「社会の構成員にとって義務的な活動」だからだなどと、とんでもないことを言うようになってしまいました。

 もっともらしい言葉のすり替えを通じて最後に出てきた結論は、反共主義者も思いつかないような滑稽な代物でした。

不破さんは、マルクスを「ひらめき」しかもたない不破さん並みの人間だと「推測」する

 つぎに不破さんは、「第四八章」の中にある「必然性の国」と「自由の国」とに関するマルクスの論及の「解説」をする代わりに、「なぜマルクスは、その未来社会論を、〔〕付きの不完全な形で、『三位一体的定式』の論述の冒頭に書き込んだのか」と自問し、「未来社会の特質を、『自由の国』と『必然性の国』との相互関係でとらえる」という「ひらめきが、『三位一体的定式』を書き始めた時点でマルクスをおそ」ったからではないかと、自ら「推測に過ぎ」ないことを認めたうえで、マルクスが不破さん同様に思想の薄い人間であることを「推測」します。

 科学的社会主義の思想を理解できない人が「ひらめき」に頼って、二一世紀になって、70歳を過ぎて、「革命観の大転換」をするのも、「推測に過ぎない」ことを言うのもその人の自由ですが、『資本論』の中でもたいへん有名な、それなのに不破さんが「解説」しなかった、これから紹介する一節は、科学的社会主義の思想に貫かれたマルクス・エンゲルスの思想そのものです。だから、エンゲルスもマルクスに倣って、『反デューリング論』では「自由の国」と「必然性の国」という言葉(『空想から科学へ』では「自由の王国」と「必然性の王国」という言葉)を、「第三篇 社会主義」の「二 理論的概説」の中で使って、科学的社会主義の思想を展開しているのです。

 そして、マルクスはエンゲルスあての1868年の手紙で、『資本論』で資本の一般的本性を究明するとともに、三つの階級、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴き、資本主義的生産様式の「解体」を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもりであることを予告していました。だから、マルクスは、そしてエンゲルスも、これらの文章を、最後に一気に書き上げる最後の「章」で使う重要な文章の一部として考えていたのだと思います。しかし、エンゲルスが「編集」においてそれをしてしまったら、エンゲルスが序文で述べているように、『資本論』は最後の肝心なところでマルクスの作品ではなくなってしまいます。だから、エンゲルスは、創作などせず、あるがままの編集を、序文で示した編集方針に従って、おこなったのでしょう。そのような事情には一切触れずに「不完全な形」などと言い、文章が、あたかも一時的な「ひらめき」の産物ででもあるかのようにいうのは、科学的社会主義の思想を共有することのできない不破さんだからできる、マルクスとエンゲルスに対して大変失礼なものいいではないでしょうか。

 そして、不破さんは、この「節」の最後に、下記『資本論』抜粋の緑色に示した最後の文章を載せて、あたかも一時的な「ひらめき」によって作られたかのように言っていた文章を、今度は、面従腹背の虎の威を借るキツネかタヌキのように、「ここにあるのは、未来社会のスケッチですが、マルクスの未来社会論の核心を鋭く表現したスケッチだと思います。」と言います。不破さんは、「マルクスの未来社会論の核心」を表現した科学的社会主義の思想の産物を「ひらめき」によって作られたかのように「推測」して、マルクスを不破さん並みの凡人にしようとしています。

マルクスの言う〝自由の国〟と〝必然性の国〟とは

 さて、それでは、不破さんが「解説」をしなかった、マルクスの言う〝自由の国〟と〝必然性の国〟とは、『資本論』の当該部分でマルクスは何を言っているのか、ちょっと長くなりますが、まず、『資本論』の原文から見てみましょう。

  「……しかしまた、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行なわれるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」(大月版 ⑤ P1050-1051)

  以上、ここで述べられていることを簡単にまとめてみましょう。

①一定の時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によってきまる。だから、社会の富の増加も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、その生産性を保障する生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっている。

②ここで言う、「自由の国」は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まる。

③未開人も文明人も、どんな社会形態のなかでもどんな生産様式のもとでも、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならない。

④この自然「必然性の国」での「自由」とは、資本主義社会から「社会主義社会」になることによって、社会化された人間、結合された生産者たちが、資本の盲目的な力によって支配されるのをやめ、自分たちと自然との物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くことができるようになることである。

⑤しかし、資本主義社会から「社会主義社会」になること、これはやはりまだ「必然性の国」である。

⑥この「必然性の国」である「社会主義社会」をその基礎として、この「必然性の国」の先に、自己目的として認められる人間の力の発展が万人に保障される、真の「自由の国」が始まることができるのである。

⑦「社会主義社会」が資本主義的生産様式の持つ生産性向上の壁を打ち破って、「自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとで」生産性を保障する生産条件を豊富にすることによって、労働の生産性の飛躍的向上をはかり、労働日を短縮することこそが「自由の国」実現のための根本条件である。

 もう一つ、 別の機会に要約したものも紹介します。

「物(富)がどれだけ生産されるかは生産性の高さにかかっており、生産設備等の進歩にかかっている。『自由の国』は強制されてはたらく必要がなくなったときに、はじめて始まる。つまり、それは、当然のこととして、遠い将来のことである。未開人も文明人も自然と格闘しなければならない。この『自然必然の国』は社会の発展につれて拡大する。この『自然必然の国』での『自由』とは、盲目的な力に支配されていた生産が計画的、意識的におこなわれるようになり、共同的統制のもとに置かれることである。しかし、この『自由』を獲得した『社会主義社会』もまだ『必然性の国』である。この国のかなたで、強制的な労働のない、自分の人間的な能力の発展のみを追求する真の『自由の国』が始まる。しかし、それは、『社会主義社会』という『必然の国』を基礎として、その上にのみ花開くことができる。そのための根本条件は労働日の短縮、つまり、生産性の向上である。」

  これがマルクスが『資本論』で述べていることです。そして、エンゲルスも『空想から科学へ』で同様なことを述べています。このように、『資本論』と『空想から科学へ』をごらん頂けばわかるとおり、マルクスもエンゲルスも「自由な時間」を「自由の国」などと一言もいっていません。「自由な時間」とは「自由の国」で、人間がやっと、自由に得ることができるようになった強制されることのない〝生活そのものの時間〟のことです。

  このように、ここで論及されていることは、不破さんが創作した「未来社会論」とはまったく異なります。だからといって、「『資本論』探究」と銘打った『資本論』の「解説」書で、「解説を控え」るのは、あまりにも子供じみています。

※なお、『空想から科学へ』での共産主義社会への論究については、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」を参照して下さい。

不破さんの「続く章での未来社会論」での科学的社会主義の経済学の無理解

 不破さんは「続く章での未来社会論」という「節」で、マルクスが、資本主義的生産様式の解消後の剰余労働のあり方と資本主義的生産様式の解消後の価値規定の重要性について論及していることをのべます。

 資本主義的生産様式の解消後の剰余労働のあり方については、下記の『資本論』の文章を「解説」しており、さすがに、歪曲や間違いがないので、安心して読んで下さい。

「それ(保険財源としての剰余価値の一部分──青山)はまた、剰余価値および剰余生産物のうちの、つまり剰余労働のうちの、蓄積のために、すなわち再生産過程の拡大のために役立つ部分のほかに、資本主義的生産様式の解消後にも存続せざるをえないであろうただ一つの部分でもある。このことは、もちろん、直接生産者によって規則的に消費される部分が現在のような最低限度に制限されてはいないであろうということを前提する。年齢から見て、まだ、またはもはや、生産に参加できない人々のための剰余労働のほかには、労働しない人々を養うための労働はすべてなくなるであろう。」(大月版 ⑤ P1085)

 資本主義的生産様式の解消後の価値規定の重要性については、次の文章の内の「第二に、」として論及されている部分を抜粋しています。

「第一に、その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である。

 第二に、資本主義的生産様式が解消した後にも、社会的生産が保持されるかぎり、価値規定は、労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後にそれに関する簿記が以前よりもいっそう重要になるという意味では、やはり有力に作用するのである。」(大月版 ⑤ P1090)

 この文章は、先に見た『剰余価値学説史』の「労働時間は、たとえ交換価値が廃棄されても、相変わらず富の創造的実体であり、富の生産に必要な費用の尺度である」という言葉と符合しています。

 不破さんは、この緑色の文章について、「商品生産社会では、あれこれの商品について、社会がその商品をどれだけ必要としているかは、市場での価格の運動によってしか計れません。………新しい共同社会では、この分配を、市場での動揺を通じての結果としてではなく、最初から計画的、意図的におこなうことが可能になります。価値規定こそが、その基準となる、ここにマルクスの言明の意味があるのでした。」と述べて、科学的社会主義の経済学をまったく理解していないことを暴露します。

 不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだといって、マルクス・エンゲルス・レーニンの考えを否定する人ですから、上記のように言い張るのはやむを得ないことかもしれませんが、こんな人にレーニンの〝記帳と統制〟の概念についてとやかく言われていたかと思うと、レーニンが、あまりにも、可哀想すぎます。

 普通の人なら、不破さんが抜粋した文章の前の「第一に、その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である。」という文章を読んでいるでしょうから、不破さんのような誤りはしないでしょう。

 不破さんの言う、「商品生産社会では、あれこれの商品について、社会がその商品をどれだけ必要としているかは、市場での価格の運動によってしか計れません」という認識は、大まちがいで、資本家(ムッシュー・ル・カピタル)の立場からの認識です。①市場での商品の価格は一義的には需要と供給によって決まりますが、つねに利潤が平均利潤に収れんするのにしたがって商品の価格も収れんしていきます。これが商品交換を規制する資本主義的生産様式の原則です。②しかし、需要は購買能力のある人の購買意欲によってきまるもので、「社会がその商品をどれだけ必要としているか」によってきまるものではありません。③供給も「社会がその商品をどれだけ必要としているか」にもとづいてきまるものではなく、ただ単にその商品の需要にもとづいて儲かる範囲でおこなわれるだけです。④だから、社会全体が国民的欲望を満たすために「その商品をどれだけ必要としているか」ということと、その商品の「市場での価格の運動」とは、まったく無関係です。

 そのことを理解できない不破さんは、「新しい共同社会では、この分配を、市場での動揺を通じての結果としてではなく、最初から計画的、意図的におこなうことが可能になります」と誤りを重ねます。不破さんは、「富」の「分配」という共通点だけから、購買能力のある人への需要と供給にもとづく市場での「富」の「分配」と社会全体が国民的欲望を満たすために計画的、意図的におこなう「富」の「分配」とを、この質的に異なる二つの「富」の「分配」を、同一視して「この分配」と言いうのです。開いた口がふさがりません。

 「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」を否定し、「資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみな」して、「賃金が上がれば日本は良くなる」としか言わない、不破さんならではの謬論です。

 なお、蛇足ですが、不破さんは、『カール・マルクス』の中に商品交換が「何十億回となくくりかえされる」という言葉があることから、いつもけなしているレーニンから学び損ねて、レーニンが説明しているマルクスの商品の分析の意味を理解するのではなく、商品交換は「何十億回となくくりかえされる」のだから、「市場経済」(=資本主義社会)は神聖な「公理」で、だから触れてはいけないなどという、とんでもない結論にたどりついてしまったことも、申し添えておきます。

※不破さんの資本主義の矛盾の捉え方の誤りについての詳しい説明は、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を、不破さんのレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲についての詳しい説明は、ホームページ4-12「☆不破哲三氏によるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲」を、「市場経済」は神聖な「公理」だから触れてはいけないという不破さんの暴論については、ホームページ4-10「☆不破さんの、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」と言う暴言」を、是非、参照して下さい。

不破さんの「未来社会を表現する用語について」で述べられていることのウソ

  不破さんの「未来社会」についての主張のデタラメぶりは既に見てきたところですが、不破さんの混乱の原因の一つは、資本主義社会から生まれた社会を「未来社会」=「社会主義社会」=「共産主義社会」と一律に見ているところにあります。

 マルクスもエンゲルスも〝共産主義社会〟を、「生まれたばかりの共産主義社会」、「共産主義社会の第一段階の社会」と「発展した共産主義社会」、「共産主義社会のより高度の段階の社会」というように区分し、前者を「民主主義」や「平等な権利」が残り、「労働が義務」で「死滅しつつある国家」のある「必然性の国」とみて、後者を「民主主義」や「平等な権利」という概念の不要な、「労働が生活にとってまっさきに必要なこと」となる「国家」のない「自由の国」と見ていました。

 「未来社会を表現する用語について」という「節」を設けた不破さんは、この「節」で、レーニンを悪者に仕立てあげてマルクスとエンゲルスの「未来社会」についてのこのような見方を否定するために、レーニンが『ゴータ綱領批判』の「注意書き」を見落としたために「独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした」とレーニンへの驚くべき非難をおこないます。

 それでは、不破さんの『ゴータ綱領批判』の歪曲と捏造、デマで固めたレーニンへの非難の実態を、一緒に、しっかりと、見ていきましょう。

『ゴータ綱領批判』の不破さんの解説

 不破さんは、『ゴータ綱領』(草案)の中の第三パラグラフの文章にかんしてのマルクスの「評注」について、「マルクスは、このなかで、未来社会でも、生産物の分配の方法は固定したものではなく、社会の発展とともに変化するものだということを例をあげて示し、未来社会論の根本問題は別のところにある、ということを懇切に説明しました。そして、その論の締めくくりの部分で、ここでは、ラサール批判の必要から分配問題を論じたが、未来社会への中心問題は『生産手段の社会化』という生産様式の変化にあるのだ、そこを見ないで、もっぱら分配問題で大騒ぎをして、未来社会を分配問題を中心に考えるような誤りに落ち込んではならないよ、という注意書きで、この議論をしめくくっていました。」と「解説」し、続けて、「ところが、レーニンは、この注意書きを見落としたのか」と述べて、あたかもレーニンが『ゴータ綱領批判』の「注意書き」を見落としたかのように言い、それを前提にレーニンが「独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした」と、あたかもレーニンが「二段階発展論」をつくったかのような創作をしてレーニンを非難します。

 「レーニン批判」の必要からなされた、不破さんのこの文章は、読者への印象操作とそれを前提とした『ゴータ綱領批判』の歪曲と捏造があり、不破さんの人間性と人格をよく現しています。

『ゴータ綱領批判』でマルクスが言っていること

 『ゴータ綱領批判』は『ゴータ綱領』(草案)へのマルクスの「評注」の文章で、文章全体が「評注」で、「注意書き」の文章です。しかし、ずる賢い不破さんは、「注意書き」という言葉を巧みに使って、「ところが、レーニンは、この注意書きを見落としたのか」と述べて、あたかもレーニンが『ゴータ綱領批判』の「注意書き」を見落としたかのような印象を読者にあたえ、そのために、あたかもレーニンが「独特の二段階発展論」をつくったかのように言います。

 ここで不破さんが「解説」しているのは、『ゴータ綱領批判』の中の第三パラグラフの文章、「労働の解放のためには、労働手段を社会の共有財産に高めること、そして労働全体を協同組合的に規制して労働収益を公正に分配すること、が必要である。」という文章に関してですが、そこでマルクスがなにをいっているのか、一緒に見てみましょう。

 『ゴータ綱領批判』でマルクスはまず、「労働手段を共有財産に高める」という表現について「労働手段を共有財産に転化すること」と書くべきだと指摘しますが、「もっともこの点はあまり大したことではない」と述べて、「労働収益を公正に分配すること」という「お座なり」で意味不明な表現の批判、暴露に論点を集中します。

 そのなかでマルクスは、「今日の分配」が「今日の生産様式という基礎のうえでは唯一の『公正な』分配」であること、「法的な諸関係は経済的諸関係から発生する」ことを述べ、「今日の生産様式」の批判を「利潤第一主義」に矮小化し、「社会的バリケードをかちとり、『ルールある経済社会』へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだという」今日の「ラサール主義者」ともいうべき不破さんの謬論をも暴露・批判しています。

 続けて、マルクスは、第一パラグラフの「労働はすべての富とすべての文化の源泉である。そして効用を生む労働は、ただ社会のなかでのみ、また社会を通じてはじめて可能であるがゆえに、労働の全収益は、平等な権利にしたがって、すべての社会成員に属する。」という文章の「労働の全収益は、平等な権利にしたがって、すべての社会成員に属する」という言葉を取り上げて、科学的社会主義の観点からみて、「『すべての社会成員』とか『平等な権利』とかは、明らかにお座なりのことばでしかない」ことを指摘します。

 さらに続けて、マルクスは、「社会的総生産物」から六つの性質の異なる「控除」があることを明らかにし、これに対し「ラサールの影響をうけて、この綱領は偏狭にも『分配』しか眼中においていない」ことを指摘し、これらの「控除」によってようやく「個人的な生産者たちのあいだで分配される消費資料の部分に到達する。」ことを述べます。

 そして「労働収益」ということばについて、「生産手段の共有にもとづいた協同組合的な社会」では、生産物を「価値」として交換(実現)することがなくなり、「個人的な労働は、もはや間接にではなく直接に、総労働の諸構成成分として存在する」ようになるので、「『労働収益』ということばは」、「まったくその意味をうしなってしまう」ことを述べ、いよいよ「生まれたばかりの共産主義社会」での「消費諸手段の分配」の問題の論及に移っていきます。

 「発展した共産主義社会」ではなく、「生まれたばかりの共産主義社会」では、「個々の生産者は、彼が社会にあたえたのときっかり同じだけのものを──あの諸控除(前述の「六つの控除」のこと──青山)をすませたあと──とりもどす」のであり、「ある形態の労働がそれと等しい量のべつの形態の労働と交換される」ことを述べ、「だから、平等な権利とは、ここでもまだやはり──原則的には──ブルジョア的権利である。」と、マルクスは言います。

 そして、この労働の量で測られる「平等な権利」は、「労働者の不平等な個人的天分」にもとずく「不平等な労働にとっての不平等な権利である。」「だからそれは、すべての権利と同様に、内容においては不平等の権利である」ことを述べ、「これらすべての欠陥を避けるためには、権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなければならないだろう」と、マルクスは言います。

 続けてマルクスは、このような「共産主義社会の第一段階の社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」との差異を明らかにし、「発展した共産主義社会」=「自由の国」を展望した、下記の、有名な文章を述べます。

「しかしこのような欠陥は、長い生みの苦しみののち資本主義社会から生まれたばかりの、共産主義社会の第一段階では避けられないものである。権利は、社会の経済的な形態とそれによって制約される文化の発展よりも高度であることは決してできない。

 共産主義社会のより高度の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち──そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」(『ゴータ綱領批判』岩波文庫P38-39)

 先に私たちは、「マルクスの言う〝自由の国〟と〝必然性の国〟とは」で、マルクスが『資本論』で「発展した共産主義社会」を〝自由の国〟と言っていることを見てきましたが、マルクスは『ゴータ綱領批判』でもこのように、「共産主義社会」を「生まれたばかりの共産主義社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」をというように区分し、その違いを明確にしています。

 だから、不破さんが、レーニンが『ゴータ綱領批判』の「注意書き」を見落としたために「独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした」と言うのは真っ赤なウソで、不破さんの捏造以外の何ものでもありません。

 次に、不破さんが『ゴータ綱領批判』の「注意書き」ででもあるかのように読者の誤解を誘う「締めくくりの部分」でマルクスが何を言っているのか、一緒に、見てみましょう。

 マルクスは、これまで、「労働の全収益」や「平等な権利」、「公正な分配」という「時代おくれの駄弁」や「観念的な駄ぼら」に「かなり詳しく立ち入って」論及し、それを党に押し付けようとすることが、「どんなに犯罪的な行為であるかを示そう」としてきたことを述べ、続けて次のように言います。

「これまで述べてきたことは別にしても、いわゆる分配について大さわぎをしてそれに主たる力点をおくことは、なんといっても誤りであった。

 どんなばあいにも、消費諸手段の分配は生産諸条件の分配そのものの結果にすぎないのであって、生産様式そのもののひとつの特徴をなすのは生産諸条件の分配のほうである。たとえば資本主義的生産様式の基礎は、物象的な生産諸条件が資本所有と土地所有という形態で働かざる者たちに分配されている一方、大衆は人格的な生産条件つまり労働力の所有者でしかない、ということにある。生産の諸要素がこのように分配されているからこそ、消費手段の今日のような分配方式がおのずから生まれているのである。」(マルクス『ゴータ綱領批判』(ドイツ労働者党綱領評注)岩波文庫P39-40)と。

 以上が、『ゴータ綱領批判』(ドイツ労働者党綱領評注)の中で、『ゴータ綱領』(草案)の第三パラグラフの文章にかんしてマルクスがおこなった「評注」の概要です。

以上から分かる、不破さんの『ゴータ綱領批判』の歪曲と捏造

 もう一度、不破さんの、──マルクスは、このなかで、未来社会でも、生産物の分配の方法は固定したものではなく、社会の発展とともに変化するものだということを例をあげて示し、未来社会論の根本問題は別のところにある、ということを懇切に説明しました。そして、その論の締めくくりの部分で、ここでは、ラサール批判の必要から分配問題を論じたが、未来社会への中心問題は『生産手段の社会化』という生産様式の変化にあるのだ、そこを見ないで、もっぱら分配問題で大騒ぎをして、未来社会を分配問題を中心に考えるような誤りに落ち込んではならないよ、という注意書きで、この議論をしめくくっていました。──と言う『ゴータ綱領批判』の「解説」を見て下さい。

 不破さんは、『ゴータ綱領批判』の中にある文章を自分の都合のいいように言い換えて、自分の都合のいいように組み合わせて、『ゴータ綱領批判』の内容とは似ても似つかないものにしていることがよくわかります。

 まず、マルクスは、「未来社会でも、生産物の分配の方法は固定したものではなく、社会の発展とともに変化するものだということを例をあげて示し、未来社会論の根本問題は別のところにある、ということを懇切に説明し」たのではありません。

 不破さんは、マルクスが、「未来社会でも、生産物の分配の方法は固定したものではなく、社会の発展とともに変化するものだということを例をあげて示し」たと言って、「分配方法は固定したものではない」とか「社会の発展とともに変化する」とかいう「お座なり」で意味不明な表現を使って「分配の方法」の問題を述べ、ここでの論点が「分配の方法」の問題であるにもかかわらず、こともあろうに、「分配の方法」の問題が「未来社会」の問題の「例示」ででもあるかのように言います。

 しかし、これまで見てきたように、マルクスはここで、「労働の全収益」や「平等な権利」と「公正な分配」という「時代おくれの駄弁」や「観念的な駄ぼら」を党に押し付けようとする「犯罪的な行為」を暴露し、「共産主義社会の第一段階」での「消費諸手段の分配」の意義と限界を述べ、「共産主義社会のより高度の段階」との違いと展望を述べており、「分配方法は固定したものではない」とか「社会の発展とともに変化する」とか「お座なり」で意味不明なことを言っているのでもなければ、「分配の方法」の問題を「未来社会」の問題の「例示」として出したのでもありません。ましてやそのことを通じて「未来社会論の根本問題は別のところにある、ということを懇切に説明し」たものなどではありません。不破さんの、まったくの、創作「解説」(=『ゴータ綱領批判』の捏造)です。

 次に、「ここでは、ラサール批判の必要から分配問題を論じたが、未来社会への中心問題は『生産手段の社会化』という生産様式の変化にあるのだ、そこを見ないで、もっぱら分配問題で大騒ぎをして、未来社会を分配問題を中心に考えるような誤りに落ち込んではならないよ、という注意書きで、この議論をしめくくっていました」と言うのも、まったく間違っています。

 前述のとおり、『ゴータ綱領』(草案)の第三パラグラフの「評注」は、はじめに、「労働の全収益」や「平等な権利」と「公正な分配」という「時代おくれの駄弁」や「観念的な駄ぼら」を党に押し付けようとする「ラサールの影響をうけ」た「綱領」(草案)の「犯罪的な行為」を暴露しようとしたもので、「ラサール批判の必要から分配問題を論じた」のではありません。「労働収益の公正な分配」という「分配問題」の捉え方を批判したもので、不破さんの捉え方は、『ゴータ綱領批判』を自分の考えに都合がいいように文脈を合わせようとして、『ゴータ綱領批判』を「本末転倒」させています。

 不破さんは、「未来社会への中心問題」とか「未来社会を分配問題を中心に考える」とか「未来社会」という言葉を使って「問題」を曖昧にしますが、ここでの主要な論点は、資本主義の問題点を「労働収益の公正な分配」の問題に矮小化することの誤りについて述べているのであり、不破さんの言う「自由の国」は「余暇」で「自由な時間」であるという「未来社会」について述べているのではありません。不破さんは、曖昧で意味不明な言葉をちりばめて、『ゴータ綱領批判』を読んでいない人に、『ゴータ綱領批判』でマルクスが不破さんと同じようなことを言っているかのように誤解させようと、テクニックを駆使しますが、マルクスがここで言っているのは、不破さんが『賃金、価格、利潤』の「講義」で「ルールある経済社会」に解消しようとした、マルクスが〝核心〟としたテーマであり、『空想から科学へ』ででも『資本論』ででも、繰り返しマルクス・エンゲルスが注意喚起してきたことです。

 不破さんは、資本主義的生産様式の変革、社会変革を「未来社会」と言い換え、『ゴータ綱領』(草案)の第三パラグラフの「評注」の中に「注意書き」があるかのように、巧みに、読者をミスリードして、「ところが、レーニンは、この注意書きを見落としたのか」と言います。不破さんは、「という注意書きで、この議論をしめくくっ」たと言いますが、この文章は「労働収益の公正な分配」という「分配問題」だけを問題にする考えに対し引導を渡したもので、「注意書き」などではなく、マルクスが『資本論』でも述べている本論中の本論です。レーニンが見落とすはずがないことは多少科学的社会主義の思想を学んだ人なら誰でも分かることです。しかし、不破さんは、レーニンが見落としてくれないと今後の「創作」が続きません。だから不破さんは、「ところが、レーニンは、この注意書きを見落としたのか」と言うために、『ゴータ綱領批判』の本論を「注意書き」ででもあるかのように私たちに見せようとしたのです。

 涙ぐましい努力だが、じつに情けない。

〈参考〉『資本論』で同様なことを述べている文章

「だから、いわゆる分配関係は、生産過程の、そして人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、またこの諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表しているだけである。……

 ただ分配関係だけを歴史的なものと見て生産関係をそういうものと見ない見解は、一面では、ただ、ブルジョア経済学にたいするすでに始まってはいるがしかしまだとらわれている批判の見解でしかない。」(大月版 ⑤ P1128-1129)

※『賃金、価格、利潤』でのマルクスの主張と不破さんによるその歪曲についての詳しい説明は、ホームページ4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」及びホームページ4-2「☆不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない。」を、是非、参照して下さい。

デマで固めたレーニンへの非難とデマから生まれた修正主義「綱領」

 不破さんの文章は、基本的に、マルクス・エンゲルス・レーニンの文章の歪曲、それにもとずくマルクス・エンゲルス・レーニンの誹謗・中傷、そして自らの出来損ないの修正主義理論の展開という三要素からなっています。そして今回は、レーニンの誹謗・中傷とそのデマから生まれた修正主義「綱領」の誕生秘話がテーマです。

 上記の「『ゴータ綱領批判』の不破さんの解説」の「項」の不破さんの文章、「……という注意書きで、この議論をしめくくっていました。」は、下記のように続きます。

「…………という注意書きで、この議論をしめくくっていました。

 ところが、レーニンは、この注意書きを見落としたのか、マルクスのこの文章を根拠に、生産物の分配方式の進化にこそ未来社会の発展の尺度があるとし、『労働に応じての分配』を原則とするのが低い段階、『必要に応じての分配』が原則になるのが高度に発展した段階だとする、独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした。これは、マルクスが未来社会の最大の積極的内容がここにあるとした『自由の国』──そこでの人間の能力の限りない発展など、まったく視野の外において(ママ──青山)貧しい未来社会論でした。」と。

 先ほど私たちが「『ゴータ綱領批判』でマルクスが言っていること」の「項」で見てきたように、共産主義社会の「共産主義社会の第一段階の社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」という区分、不破さんの言う「独特の二段階発展論」は、レーニンが「注意書き」を見落としたから「長く世界の共産主義運動の定説」になったのではありません。

 不破さんが「注意書き」などと特殊な表現をしている文章は、先ほど見たように「分配関係」は独立しているものではなく──だから、不破さんのように、賃金が上がれば経済が成長するとか言うのは誤りで──、「生産関係」から生まれるもので、生産関係の変革こそ必要だ──だから、不破さんのように、「社会的バリケード」の積み重ねで世の中の変革ができるかのような幻想をふりまくのは誤りだ──、ということを言っており、マルクスとエンゲルスが繰り返し注意喚起している科学的社会主義の思想の〝核心〟となる考えです。そして、不破さんが「注意書き」などと特殊な表現をしている文章は、『ゴータ綱領』(草案)の第三パラグラフに関する『ゴータ綱領批判』の最後の結びの文章です。だから、レーニンが「見落とす」はずなどありません。そして、万々が一、レーニンが読まなかったとしても、『資本論』等のマルクスとエンゲルス著作群から、充分学んでいることはレーニンの著作群をみれば明らかです。

 ご覧のとおり、そもそも、この最後の結びの文章は、共産主義社会を「共産主義社会の第一段階の社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」の二つの発展段階に区分することを否定した文章ではありません。ヤクザが因縁を付けるという言葉を聞きますが、不破さんが言っていることは、全く関係ないこと──それも「推測」にもとづいて──を結びつけて、不等な非難をおこなう、まさに「因縁を付けるヤクザ」のように見られてもしかたがないでしょう。

 なお、『前衛』の2014年12月号と2015年1月号で、不破さんは、『レーニンと「資本論」』(1998-2001年)の執筆当時、「恐慌論解決のヒント」を求めてレーニンの著作を勉強したときは気付かなかったが、レーニンが20代のとき書いた『ロシアにおける資本主義の発展』に「『資本論』全体のなかで恐慌論を代表する文章」が入っていることに、「最近」になってやっと、気づいたことを告白しています。この程度の集中力の持ち主の人であるならば、最後の結びの文章を「見落とす」ことも十分考えられますが、自分がそうだからといってレーニンもそうではないかと、得意の「推測」をするのは、レーニンにたいしてあまりにも失礼ではないでしょうか。なお、不破さんのために弁明すると、不破さんが「恐慌論解決のヒント」を「見落とし」たのには立派(?!)な理由があります。それは、不破さんの、「かなり以前から、これまで〝これがマルクスの恐慌論だ〟として説明されている〝恐慌論〟について、どこかに理論的な欠落があるのでは、という違和感を持ち続けていました」との言葉が明らかにしてくれます。不破さんは、今では、恐慌の原因の一つにすぎない「信用」による「価値」実現の短縮にもとづく「架空の需要」をすべての恐慌の原因とし、それを「恐慌の運動論」などと命名し、正しい恐慌論ででもあるかのように自画自賛していますが、当時は、この、「どこかに理論的な欠落があるのでは」という「違和感」という、いささか薄弱な思想、つきつめて考えようとしない態度にもとづいて、暗中模索していたのです。だから、見ていても「見落とし」てしまったのでしょう。そして「恐慌論解決のヒント」から不破さんが「激しい理論的衝撃」を受けて導き出した結論は、資本主義は、恐慌を乗り越え、労働者の闘いの成果である「社会的バリケード」も資本の知恵として取り込み、新たな発展を遂げるという、「資本主義観の大転換」と「革命観の大転換」でした。真に、恐れ入ります。

不破さんのデマを打ち破るのは『国家と革命』を読むこと

 不破さんは、レーニンが「つくりあげてしまった」「独特の二段階発展論」は、「マルクスが未来社会の最大の積極的内容がここにあるとした『自由の国』──そこでの人間の能力の限りない発展など、まったく視野の外においた貧しい未来社会論」だと言います。

 そして、不破さんは、「『資本論』探究〈上〉」では、「──未来社会の問題。この問題では、第三部第七篇の冒頭に、マルクスの比較的簡潔な記述があります。これまで見過ごされる場合が多かったのですが、『全三部を読む』(2003年出版──青山)ではここに注目して、かなり詳細な解説をおこないました(第七冊一五〇~一六三ページ)。しかし、その時は、マルクスがここで展開した未来社会論が、社会主義・共産主義社会についての本論であって、生産物の分配方式の変化を最大の基準にして未来社会を論じた従来の理論(レーニンが『国家と革命』で理論化)と両立するものでないことにまでは、考えがおよびませんでした。この問題は、日本共産党の綱領を改定した二〇〇三~〇四年に全面的な研究をおこない、その成果に立って党綱領の未来社会の諸規定を一新しました。」(P15)と、2003年までレーニンが「つくりあげてしまった」「独特の二段階発展論」を不破さんの「科学の目」が正しいと思っていたことを告白しています。そして、この「『資本論』探究〈下〉」P166)では、「私たちは、この誤りをおおもとから打破して、二〇〇四年の第二三回党大会で採択した新しい党綱領のなかで、マルクスの本来の理論を現代的に発展させた未来社会論を定式化しました。そこでは、『社会主義』も『共産主義』も未来社会を表現する同意義の用語として、位置づけられています。」(P166)と言います。「科学の目」もへったくれもない、実に見事な、変わり身の速さです。

 不破さんがやり玉に挙げた『国家と革命』は、ご承知のとおり、「1917年の今日」、「労働者が決戦を強いられて」、「蜂起が事実」となる数ヶ月前に、ヨーロッパの革命の一環としてのロシア革命のまっただ中で、全権力をソヴェトに移すべき時に、「国家の問題について」、「国家機構」のあり方について、既存の「機構」をどうすべきか、新しい「機構」はどうあるべきかを、「国家についての革命の諸任務を」、「国家にたいするプロレタリア革命の関係」にテーマを絞って、「国家が死滅するさいの政治と経済との関係」までを書いたパンフレットです。だから、「人間の全面的な発達が保障される社会」について、章を改めて詳細に書かれていないからと言って、不備を指摘するのは筋違いの話です。

  不破さんは『国家と革命』を「人間の能力の限りない発展など、まったく視野の外においた貧しい未来社会論」と誹謗しますが、『国家と革命』にはマルクス・エンゲルスの思想を受け継いだ、不破さんにはない、唯物史観にもとづいた未来社会への展望が、必要な範囲でちゃんと、述べられています。

 『国家と革命』で、レーニンはまず、「民主主義を徹底的に発展させること、このような発展の諸形態を探しだすこと、これらの形態を実践によって点検すること等々、すべてこうしたことは、社会革命のために闘争するという任務を構成するものの一つである」(国民文庫P113)ことを述べ、社会革命と民主主義との切っても切れない関係と民主主義の多彩な発展の必要性について述べるとともに、「エンゲルスは、習慣(人間は、暴力なしに、服従することなしに社会生活の根本的な諸条件をまもる習慣──青山)のこの要素を強調するために、新しい世代についてかたっている。新しい世代が、『新しい自由な社会状態のもとに成長してきた一世代が、ついに国家の』──民主的共和制をもふくめたあらゆる国家の──『がらくたをすっかりなげすててしまえるときがくるだろう』」(P119)と、エンゲルスを引用して、「共産主義社会の第一段階の社会」に新しい習慣をもった新しい世代が生まれることを述べています。

 そして、不破さんが、「レーニンが『国家と革命』で示した未来社会の定式というのは、結局、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです」(『前衛』2014年1月号等)と揶揄する『国家と革命』は「第5章 国家死滅の経済的基礎」で、マルクス・エンゲルスを引用しながら「未来社会」について必要・十分な説明をおこなっています。

 レーニンは、「共産主義社会の第一段階」=「過渡期」=「社会主義社会」は「あらゆる点で旧社会の母斑のくっついている」共産主義社会であるが、「すべての人が社会的生産を自主的に管理することをまなび」「生産力の巨大な発展」を図ることによって、「国家の完全な死滅の経済的基礎」が築かれ、「精神労働と肉体労働との対立」もなくなり、「自由の国」=「共産主義社会の高い段階」に到達することを、はっきりと述べています。

 このマルクス・エンゲルス・レーニンの社会の発展の見方と不破さの「未来社会」論との決定的な違いは二つあります。その一つは、「国家死滅の経済的基礎」をしっかり見てその発展を通じて「共産主義社会の高い段階」を展望するのか、それとも、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆく」として「国家死滅の経済的基礎」を「あまりうらやましくない」と言って捨て去るのかの違いです。そして二つ目は、不破さんのように「指揮者はいるが支配者はいない」といういわゆる「社会主義社会」を「未来社会」として捉え、労働を未来永劫にわたって義務的で強制されたものとみるるのか、それとも、マルクス・エンゲルス・レーニンのように「精神労働と肉体労働との対立」もなくなり、「諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり」、恒常的な「指揮者」などいない「自由な結合的労働」の社会を「共産主義社会の高い段階」として、「未来社会」を発展的に捉えるのかの違いです。

 私は、不破さんを少しでもマルクス・エンゲルス・レーニンに、科学的社会主義の思想に近づけて見ようと努力してきましたが、「自由の国」は「自由の時間」で資本主義にもある「余暇」のことだとまで言う始末で、どう逆立ちしても、科学的社会主義の思想を尺度にその枠内で不破さんを測ることが不可能なレベルまで達してしまっているようです。

 みなさんは、是非、『国家と革命』を読んで、また不破さんの言動については、下記のホームページで出典を確かめて、実際に確認して、何が真実なのかを、自分の目で確かめて下さい。

※『国家と革命』への誹謗・中傷等についての詳しい内容は、ホームページ4-6「☆不破さんは、エンゲルスが「取得形態という角度から生産関係をとらえている」とエンゲルスを曲解している。」ホームページ4-12「☆不破哲三氏によるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲」ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」及びホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、「自由の国」は「自由の時間」で資本主義にもある「余暇」のことだと言う不破さんの暴言については、ホームページ4-26「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏」を、是非、参照して下さい。

日本共産党に科学的社会主義の思想を取り戻そう

 不破さんは、『レーニンと「資本論」』(1998-2001年)を書き終えて、『資本論』の「草稿の全体を読む仕事を始め」、第二部第一草稿で「マルクスの発見」のヒントを発見し、「激しい理論的衝撃」を受け、資本主義は恐慌を乗り越え、労働者の闘いの成果である「社会的バリケード」も資本の知恵として取り込んで、新たな発展を遂げるという、「資本主義観の大転換」と「革命観の大転換」を成し遂げます。

 続いて不破さんは、『全三部を読む』(2003年出版──青山)の執筆後、共産主義社会を「共産主義社会の第一段階の社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」の二つの発展段階に区分することは、『資本論』の「自由の国」は「自由の時間」のことだという「未来社会論」に合わない──実際は、これまで見てきたように、マルクス・エンゲルス・レーニンは共産主義社会を「共産主義社会の第一段階の社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」の二つの発展段階に区分しており、それを前提に『資本論』の「必然性の国」や「自由の国」は書かれているのだが──から、「二〇〇四年の第二三回党大会で採択した新しい党綱領」で、いわゆる「『社会主義(共産主義社会の第一段階の社会のこと──青山)』も『共産主義(「共産主義社会の第一段階の社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」の両方のこと──青山)』も未来社会を表現する同意義の用語として、」「未来社会論を定式化」したと自慢します。そして、「自由の時間」とは資本主義にもある「余暇」のことだとまで言うのですから、開いた口がふさがりません。

 学園民主化闘争と革新自治体が燎原の火のように全国に拡まった時代に青春時代を過ごした団塊の世代の人たちが、不満を抱えながらも、現在の「共産党」を支え続けています。「未来社会を表現する用語について」などという表題で書かれいるこの「節」の内容は、このように歯を食いしばって「共産党」を支え続けてきたこの人たちに、私たちが不破さんの本当の姿を明らかにすることによって、不破さんを科学的社会主義の陣営から追い出し、日本共産党に科学的社会主義の思想を取り戻すことの必要性を痛感させる、「『資本論』探究」二分冊のなかでも特筆すべき「節」たと言うことができるでしょう。

「『スミスのドグマ』批判」という『資本論』を理解しない捉え方

 不破さんは、前の「章」(「(16)第七篇。『三位一体的定式』と未来社会論」)の中の「続く章での未来社会論」という「節」で、『資本論』の「『第四九章 生産過程の分析によせて」のなかの〝資本主義的生産様式の解消後の剰余労働のあり方〟に関する文章と、この「第四九章」の結びに書かれている〝資本主義的生産様式の解消後の価値規定の重要性〟について注意喚起している文章を「未来社会論」として取り上げ、この「(17)『スミスのドグマ』批判」という「章」では、「第四九章」の前半はスミス批判の序論としての「再生産論の復習」であり、「『第四九章 生産過程の分析によせて』の後半と『第五〇章 競争の外観』はすべてスミスのドグマ批判に充てられてい」ると言います。

 しかし、「第四九章 生産過程の分析によせて」を「未来社会論」と「スミスのドグマ批判」として捉える不破さんの『資本論』「第四九章」の捉え方は、残念ながら、「第四九章」の趣旨を理解しない、『資本論』の「解説」としては失格の代物という以外ありません。

「第四九章 生産過程の分析によせて」の概要と現代の私たちが留意すべき点

 まずはじめに、不破さんの「再生産論からスミス批判へ」という「節」の『資本論』第三部「第四九章」に関する部分を見てみましょう。

 この章のなかの〝資本主義的生産様式の解消後の剰余労働のあり方〟に関する文章と、〝資本主義的生産様式の解消後の価値規定の重要性〟について注意喚起している文章に関しては、このページの「不破さんの『続く章での未来社会論』で述べられていること」ですでに論及しましたが、「第四九章 生産過程の分析によせて」全体でマルクスが私たちに何を注意喚起しているのか、内容を極々大雑把に見ながら、一緒に、考えてみたいと思います。

「第四九章」は「三位一体的定式」に幻惑された考えの誤りの原因と私たちが中心に置くべきテーマについて論及したもの

 「第四九章 生産過程の分析のために」は「第四八章 三位一体的定式」でおこなった「三位一体的定式」の「まちがった外観と偽瞞」の暴露の続きとして、「セー氏に見られるような、全収益、総生産物は、一国にとっては純収益になってしまうとか、それと区別されないとかいう幻想、つまり、このような区別は国家的立場から見ればなくなってしまうという幻想は、ただ、アダム・スミス以来全経済学を一貫している次のようなばかげた説の必然的で最後の表現でしかないのであって、その説によれば、諸商品の価値は結局は残らず諸収入に、つまり労賃と利潤と地代とに、分解する」(P1076)という「三位一体的定式」に幻惑された考えの誤りの原因と私たちが中心に置くべきテーマについて論及したものです。

 「第四九章」は、「第四八章」で明らかにしたように、「利潤〈企業者利得・プラス・利子〉と地代は、商品の剰余価値の別々の部分がとる特有な形態にほかならない」こと、「収入の第三の独特な形態をなしている労賃は、つねに資本の可変部分に等しい」こと、「年間生産物の価値は、労賃・プラス・利潤・プラス・地代・プラス・Cに等しい」ことを述べ、単純再生産の表式(第二部第二〇章第二節)による再生産過程の説明をし、続けて、総生産物の内訳と総収入の内訳の説明をします。

 これらを踏まえ、「これに反して、」上記のような誤った考えに至る原因は、「要するに次のようなものである」として、次の五点を挙げます。

 (1)不変資本と可変資本との根本関係、したがって剰余価値の性質、したがってまた資本主義的生産様式の全基礎が理解されていないということ。

 (2)労働が、新たな価値をつけ加えることによって、古い価値を、この価値を新たに生産することなしに、新たな形態で保存するその仕方が理解されていないということ。

 (3)再生産過程の関連が、個別資本の立場からではなく総資本の立場から見た場合に、どのように現れるか、ということが理解されていないということ。

 (4)剰余価値のいろいろな成分が互いに独立ないろいろな収入の形で現れるようになり、収入と資本という固定した規定が入れ替わってその位置を変え、その結果、それらはただ個別資本家の立場からの相対的な規定でしかなく、総生産過程を見渡す場合に、不変資本はただ商品価値の一つの外観上の要素でしかなく、この要素は全体の関連のなかではなくなってしまうかのように見えること。

 (5)商品の価値は労賃、利潤、地代の価値総額から生じ、そして労賃、利潤、地代の価値はそれ自身また商品の価値によって規定されているという、価値がそれ自身の諸成分から発生するかのような外観と関連して、商品の価値が基礎だということは忘れられてしまうこと。

 このような事情から、「すべての新たな資本は利潤や地代やその他の収入形態から、すなわち剰余労働から生ずるという事情は、商品の全価値が収入から生ずるというまちがった観念をもたせるようになる。」

 しかし、「前年から受け継がれた古い不変資本は、その価値から見れば、新たに追加される労働によって再生産されるのではない」こと、そして、「利潤の資本への転化が意味するものは、超過労働の一部分が新たな追加生産手段の形成に充用されるということにほかならない。これが利潤の資本への転化という形で行なわれるということは、ただ、労働者がではなく資本家が超過労働を自由に処分することができるということを意味しているだけである」こと。

 だから、「三位一体的定式」の「まちがった外観と偽瞞」に騙されることなく、資本主義的生産様式の社会の経済をしっかり学んで、「第一に、その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である」ことを国民に明らかにし、「第二に、資本主義的生産様式が解消した後にも、社会的生産が保持されるかぎり、価値規定は、労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後にそれに関する簿記が以前よりもいっそう重要になるという意味では、やはり有力に作用するのである」ということをしっかり踏まえ、〝国民の新しい共同社会〟づくりは、国民福祉のための社会的労働の配分を正しく行なうための記帳と統制の民主的制度をしっかりと創り、合理的なものとしなければならない。

 「第四九章 生産過程の分析のために」は、私たちにこのようなことを明らかにし、注意喚起をしています。

 なお、〈注53の最後の言葉〉「ブルジョア世界のなかに、ありとあらゆる世界のうちの最良の世界を発見しようとする親切な善意が、俗流経済学では、真理愛や科学的探究欲のどんな必要にもとって代わるのである」は、21世紀になって「資本主義観の大転換」と「革命観の大転換」を成し遂げた不破さんのことを言っているように思えてなりません。

「第四九章」をスミス批判に矮小化し、「第四九章」の意味を理解できないものにする不破さん

 「第四九章 生産過程の分析のために」は、概ね上記のようなことを述べていますが、不破さんは「第四九章」を「スミスのドグマ批判」の文章と矮小化したために「第四九章」の意味が理解できず、「第四九章の前半は、一見、再生産論が主題のように見えますが、……不変資本の再生産と流通が再生産過程のなかに位置をしめていることを確認したうえで、スミス批判に入るというところにあったのだと思います」と強引に「スミス批判」に話をもっていこうとします。そして、続けて不破さんは、「スミス批判」のはずの「第四九章」にもかかわらず、「マルクスの考察は、その誤りの立証よりも、なぜこのドグマが、無批判に『全経済学』を貫いてきたのかの状況分析に向けられます」と述べて、「スミス批判」のはずの「第四九章」が「その誤りの立証よりも」前述の「諸商品の価値は結局は残らず諸収入に、つまり労賃と利潤と地代とに、分解する」という誤った考えに至る五つの原因の詳細な論及に「向けられ」たことを認めざるをえません。しかし、「革命観」や「資本主義観」まで確たる根拠もなく思い込む人ですから、今まで誰も気付かなかった「第四九章」を「スミス批判」の「章」と見るアイデアを一度発見したからには捨てる訳にはいきません。「誤った考えに至る五つの原因」の粗雑な説明のあと、続けて、木に竹を接ぐように、「まさに、スミスのドグマは、古典派経済学の弱点の集中的表現だったのでした。」と「第四九章」がまるで「スミス批判」ででもあるかのように言います。恐れ入りました〟というか、〝開いた口がふさがらない〟というか、何とも表現のしようがありません。ただ、言えることは、エンゲルスが不破さんのような人でなくて、本当に、よかったということです。不破さんのような人が『資本論』の編集をしていたら、とんでもない代物ができあがっていたことでしょう。こんな取り越し苦労にたいして、〝私たちは友を選ぶ〟と、マルクスとエンゲルスに叱られそうです。

 このように、不破さんは、「第四九章」を編集した意図、意味がまったく理解できません。資本はそっくり残り、労働者が諸商品の価値を生みだすのであり、「諸商品の価値は結局は残らず諸収入に、つまり労賃と利潤と地代とに、分解する」という誤った考えに騙されてはいけないこと。「三位一体的定式」の「まちがった外観と偽瞞」に騙されることなく、資本主義的生産様式の社会の経済をしっかり学んで、「第一に、その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である」ことを国民に明らかにし、「第二に、資本主義的生産様式が解消した後にも、社会的生産が保持されるかぎり、価値規定は、労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後にそれに関する簿記が以前よりもいっそう重要になるという意味では、やはり有力に作用するのである」ということをしっかり踏まえ、〝国民の新しい共同社会〟づくりを行なわなければならないととを「第四九章」は私たちにアドバイスしているのです。

 このような内容なのに、不破さんは『資本論』の中身抜きで、「スミス批判」に「第四九章」を矮小化してしまいます。不破さんにとっては『資本論』の中身など、まったくどうでもよいことかもしれませんが、『資本論』の「解説」だと思って買った科学的社会主義の思想を学ぼうとする人たちにとっては、詐欺同然の行為と言うべきものでしょう。

※なお、「第四九章」の主要な抜粋とその解説については、下記のPDFファイルを参照して下さい。

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3-49「第四九章 生産過程の分析のために」.pdf
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「第五〇章 競争の外観」の概要と現代の私たちへのヒント

 不破さんは、まず、「第五〇章では、」として、「第四九章」と同様に「第五〇章」の──「第四九章」は三行半でしたが、「第五〇章」は、たったの、三行だけの──粗雑な説明を行ないます。

 不破さんは、「そこでは、スミス理論が『資本─利潤、土地─地代、労働─労賃』という『三位一体』的定式に支配されている生産者たちの日常意識にとって、きわめて受け入れやすい見方であることが実証されてゆきます。」と「第五〇章」が「スミス理論」の暴露の「章」ででもあるかのようなミスリードを行ない、「マルクスが、スミスのドグマ批判を、第七篇の中心をなす主題と位置づけた意味が、腑に落ちた思いがしました。」と、不破さん自身が「第四九章」と「第五〇章」を「スミス批判」に歪曲しただけなのに、今度は、「マルクスが、」「第七篇の中心をなす主題と位置づけた」と捏造して、悦に入ります。まさに、向かうところ敵無しです。恐れ入ります。

 そして、『資本論』の構想を報告しているマルクスのエンゲルスあての手紙(1868年4月30日付け)を抜粋し、その中に「さらに、これまでのすべての経済学の礎柱となってきたアダム・スミスの愚論、すなわち、諸商品の価格はかの三つの収入から、つまりただ可変資本(労賃)と剰余価値(地代、利潤・利子)とだけから、成っている、という愚論が、ひっくり返される。」という文章があることを示し、「これが、マルクスが書いた第七篇の最後の構想となりました。」と述べ、先ほどの「マルクスが、」「スミス批判」を「第七篇の中心をなす主題と位置づけた」という不破さんの言葉と合わせて、あたかもマルクスがスミス批判を第七篇の中心をなす主題と位置づけたかのような印象を与えようとします。

 しかし、先ほど見たように、「第四九章 生産過程の分析のために」は「三位一体的定式」に騙されないために資本主義的生産過程を科学的に見ることの必要性を訴えた「章」であり、「第五〇章 競争の外観」はこれから見るように、「三位一体的定式」が資本主義的生産様式の社会ではなぜ「定式」としてみなされ、スミスのような誤りが生まれるのかを徹底的に暴露した「章」です。これらは、「経済的諸関係がブルジョア社会の諸表層で現れている物象的外観」(大谷禎之介「『マルクスの利子生み資本論』2」のMEGA「成立と来歴」P401)を科学的に解明している「章」です。

 だから、不破さんが抜粋した先ほどのマルクスのエンゲルスあての手紙の中の「アダム・スミスの愚論」に関する文章は、『資本論』の第一部と第二部の論究によって、そして第三部での利潤・利子および地代の論究によって、諸商品の価格が労賃と利潤・利子と地代という三つの収入だけから成っているという「愚論」の存在余地のないことを述べた文章であり、不破さんがいくら印象操作をしようとしても、「スミス批判」などという小さな問題を「第七篇の中心をなす主題と位置づけた」ことを宣言した文章などでないことは、明らかです。

「第五〇章」の概要

 生産価格は、補填すべき不変資本部分、可変資本価値部分(労賃)、剰余価値部分(資本の利子+企業者利得+地代)の総計であり、新たにつけ加えられた労働を表しているかぎりでは、つねに、三つの収入形態をなしている三つの部分(労賃、利潤、地代)に分解する。しかし、労賃の価値と利潤の率と地代の率とはそれぞれ独立の価値構成要素をなしていて、それぞれ別々の特有な法則によって規定されており、不変成分を無視すれば、それらの合計から商品の価値が発生するのだと言うのは、まちがいである。

 労賃の最低限界は、労働者が自分の労働力を維持し再生産するために手に入れなければならない生活手段の肉体的最小限によって与えられている。しかし、彼の労働力の現実の価値は、肉体的な必要によって定まるだけではなく、第二の自然となる歴史的に発展した社会的な必要によっても定まる。労働日のうち労働者が自分の賃金の価値を再生産するために必要とする部分が彼の賃金の肉体的最低限にその最後の限界をもつとすれば、労働日のうち彼の剰余労働を表す他方の部分は、労働者が自分の労働力を維持し再生産しながらおよそ与えることのできる一日の労働時間の総量にその限界をもつ。

 利潤の利子と企業者利得とへの分裂では、その分割比率は、ただ競争関係によって規定されているだけである。他の場合には、需要と供給との一致は、市場価格のその規制的平均価格からの偏差の解消に、すなわち競争の影響の解消に、相当するのであるが、この場合には競争がただ一つの規定的なものである。

 不変価値部分を引き去ったあとの商品価値が元来の統一体で、それが労賃、利潤、地代の三つの部分に分かれるのであるが、まちがった見解では、労賃、利潤、地代は三つの独立な価値量であって、それらの総量が商品の価格を形成するようにみる。この労賃、利潤、地代という三つの部分への分解は、資本主義的生産のむきだしの表面では、したがってまたそれにとらわれている当事者たちの観念では、転倒されて現われる。ここではいっさいの価値概念がなくなってしまい、残るものは、ただ、いくらかの貨幣量が労働力や資本や土地の所有者たちに支払われるという意味での、価格の観念だけである。

 なぜ、そのように見えるのか。 

 その理由は、

 第一には、商品のいろいろな価値成分はそれぞれ独立な収入として互いに相対しており、これらの収入はそのようなものとして労働、資本、土地という三つのまったく別々な生産要因に関係させられており、したがって、これらの生産要因から発生するように見えるからである。

 第二に、ひとたび労賃(労働の価格)と労働によって生みだされた価値とが一致するように見えるならば、利潤や地代の価格すなわち貨幣表現は、労働にも労働によって生みだされた価値にもかかわりなしに規制されることにならざるをえず、いろいろな価値成分の独立な転倒された形態による外観を得るように見えるのである。

 第三に、社会的価値生産物の分配も生産価格の規制も資本主義的な基礎の上で行なわれるので、個別資本やその商品生産物の現実の運動では、商品の価値がそれの分解の前提として現われるのではなく、必然的に転倒された姿で、それが分解して行く諸成分が商品の価値の前提として機能するのである。利子や地代は、剰余価値が分解したものであるのに、個別資本家にとっては費用価格の諸要素として与えられ、商品価格中の一部を形成するものとして現れる。

 資本主義的生産そのものが存続するかぎり、新たにつけ加えられる労働の一部分は絶えず労賃に分解し、もう一つの部分は利潤(利子と企業者利得)に、そして第三の部分は地代に、分解する。いろいろな価値部分がそれぞれ一定の姿で相対するということが前提されているのは、その姿が絶えず再生産されるからであり、また、それが絶えず再生産されるのは、それが絶えず前提されているからである。

 第四に、商品がその価値通りに売れるとか売れないとかいうこと、つまり価値規定そのものは、個々の資本家にとってはまったくどうでもよいことである。与えられた大きさの価格として彼の商品の生産にはいる生産手段の価値のほかには、限界を画し規制する大きさの価格としてこの生産にはいるものは、まさに労賃、利子、地代にほかならないのである。だから、彼にとってはこれらのものが商品の価格を規定する要素として現れるのである。

 第五に、資本主義的生産様式の基礎の上では、新たにつけ加えられた労働を表す価値を労賃、利潤、地代という収入形態に分解させることがまったく自明なことになるので、この方法が、もともとこれらの収入形態の存在条件がないところでも、いっさいが類推によってこれらの収入形態のもとに包摂されるのである。このように、資本主義的生産様式に対応しない生産形態でも資本主義的生産様式の収入形態のもとに包摂されることができるので、資本主義的な諸関係が他のどのような生産様式の自然的な諸関係ででもあるかのような外観が固まるのである。

 このように述べた後、最後に、分配の資本主義的な性格を剥ぎ取った姿について、次のように、論及している。

「とにかく、労賃をその一般的な基礎に、すなわち労働者自身の労働生産物のうちの労働者の個人的消費にはいる部分に、還元するとしよう。この分け前を資本主義的な制限から解放して、一方では社会の現存生産力が(つまり現実に社会的な労働としての彼自身の労働の社会的生産力が)許し他方では個性の十分な発展が必要とする消費範囲までそれを拡張するとしよう。さらに、剰余労働と剰余生産物を、社会の与えられた生産条件のもとで一方では保険・予備財源の形成のために必要な、他方では社会的欲望によって規定された程度での再生産の不断の拡張のために必要な限度まで縮小するとしよう。最後に、第一の必要労働と第二の剰余労働とのうちに、社会の成員のうち労働能力のある者がまだそれのない者やもはやそれのない者のために常に行なわなければならない労働量を含めるとしよう。すなわち、労賃からも剰余価値からも、必要労働からも剰余労働からも、独自に資本主義的な性格をはぎ取ってしまうとしよう。そうすれば、そこに残るのは、もはやこれらの形態ではなくて、ただ、すべての社会的生産様式に共通な、これらの形態の基礎だけである。」(大月版『資本論』⑤ P1119B6-1120F4)

現代の私たちへのヒント

 このように、「第四九章 生産過程の分析のために」と「第五〇章 競争の外観」とはセットで、「第四九章」は「三位一体的定式」に騙されないために資本主義的生産過程を科学的に見ることの必要性を訴えて、「第五〇章」は「三位一体的定式」が資本主義的生産様式の社会ではなぜ「定式」としてみなされるのかを徹底的に暴露しています。私たちは、マルクス・エンゲルスから学んで、資本主義的生産様式の社会で市民権を得ている、新たにつけ加えられた労働を表す価値を労賃、利潤、地代という収入形態に分解させることの不当性を、国民に広く、徹底的に明らかにしなければなりません。そのことこそが、この「章」を学ぶ意義であり、「第四九章」と「第五〇章」とは「スミス批判」の文章だなどと言うだけでは、なんの役にもたちません。

 つぎに、この「章」を読んでいて感じたことを一つ述べさせていただきます。

 それは、「ある国では、資本主義的生産様式が一般に発展していないために労賃や土地の価格は低いが資本の利子は高く、別のある国では労賃や土地の価格は名目的に高いが資本の利子は低いとすれば、資本家は一方の国ではより多く労働や土地を充用し、他方の国では比較的より多く資本を充用する。この場合に両国間の競争がどの程度まで可能かという計算には、これらの要因が規定的な要素としてはいる。だから、この場合に経験が理論的に示しており資本家の利害計算が実際的に示していることは、商品の価格は、労賃、利子、地代によって、すなわち労働、資本、土地の価格によって、規定されているということであり、また、実際にこれらの価格要素が規制的な価格形成者であるということである。」という文章についてです。

 まさに「資本家」は上記のような行動をとり、それ以外の行動を取れば「資本」にたいする背信行為になります。しかし、この「資本家」の行動には〝社会〟への視点が欠落しています。現代の世界は、「資本家」のこのような行動によって、「別のある国」の労働者の「職」が失われ、「ある国」の労働者の「労働条件」が「別のある国」の労働者の「労働条件」よりも悪くなることが前提にされていますが、「資本家」にとってそれは考慮の外の問題です。

 だから、現代の「国家」は「資本家」のこのような行動を「権力」によって封じ込める義務があります。そのための世論喚起に私たちは努めなければなりません。

※なお、「第五〇章」の主要な抜粋とその解説については、下記のPDFファイルを参照して下さい。

 このように、「第五〇章 競争の外観」は、「三位一体的定式」が資本主義的生産様式の社会ではなぜ「定式」としてみなされ、スミスのような誤りが生まれるのかを徹底的に暴露した「章」です。それを「スミスの批判」のための「章」ででもあるかのように矮小化するのは全くの誤りであり、「解説」者として失格だといっても間違いないでしょう。

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不破さんの「マルクス、最後のスミス批判」のミスリード

 不破さんは、続けて、「マルクス、最後のスミス批判」という「節」を設けて、「マルクスは、第三部第七篇をスミス批判の決着をつける場にするつもりでしたが、その後、もう一度、この問題を取り上げる気になったようです」と、これまで見てきたような「第三部第七篇」についての自らの誤った認識を前提として、それに輪をかけて、「その後、もう一度、この問題を取り上げる気になったようです」と一人相撲を取って、読者をミスリードします。

 まず、「その後、もう一度、この問題を取り上げる気になったようです」などと言うのは第二部の「第一八章」~「第一九章」~「第二〇章」の流れを全く理解していないか、ヤクザのような単なる言いがかりか、それともその両方の何れかで、「第一九章 対象についての従来の諸叙述」にその主たる論者のスミスを取り上げるのは当たり前のことです。

 次に、不破さんは、第二部の「解説」、「(7)再生産論の学習のすすめ」(「『資本論』探究」〈上〉P214)で、マルクスの「スミス批判」が「第三部第七篇」でもおこなわれていることを述べ、そして、第二部の「第一九章」「第二節」のほうが「内容がずっと系統だったものになってい」て、「本格的なスミス批判」であることを述べていますが、ここ「マルクス、最後のスミス批判」でも、「第三部第七篇」の「スミス批判」は「一点に絞った批判」で第二部「第一九章」の批判は「スミスが主著『諸国民の富』の各所でおこなっている弁明的、あるいは言い逃れ的な議論を網羅的に取り上げた全面的なものとなっているのが大きな特徴でした。」と第二部の「解説」と同様なことを述べ、「第一九章」の「全体の九割近くをスミス批判が占めるという独特の構成に」なったのは、「全経済学を貫いてきたこのドグマにとどめを刺しておきたいというマルクスの執念」の現れだと言います。スミスの「ドグマにとどめを刺す」ための「マルクスの執念」の発露の場に『資本論』をしたという、いかにも自己顕示欲の強い不破さんらしい見方です。

 不破さんの言う「スミス批判」が、第三部「第七篇」では「生産物の価格が労賃、利潤、地代の三つの部分に分解する」という「一点」に絞られていて、第二部「第一九章」では「網羅的に取り上げた全面的なもの」となっているのは、当たり前のことです。前者は「三位一体的定式」という「一点」に関して論究されるべきものであり、後者は再生産に関するスミスの諸叙述について全面的、網羅的に論及すべき内容だから「網羅的に取り上げた全面的なもの」となっているのです。そして、「第一九章 対象についての従来の諸叙述」の「全体の九割近くをスミス批判が占める」のは、スミスの『諸国民の富』が「従来の諸叙述」の代表的な著作だからであり、「独特の構成」でもなんでもありません。

 なお、不破さんは、第二部の「解説」の「(7)再生産論の学習のすすめ」の「章」で、「本書では、立ち入ったスミス批判の検討は、第三部第七篇のところでおこなうことにしたいと思います。」と述べ、「立ち入ったスミス批判の検討」を「第三部第七篇のところでおこなうこと」を約束していましたが、これまで紹介したことが不破さんの「検討」の全てです。「(7)再生産論の学習のすすめ」の「章」よりも「立ち入っ」て「検討」していると思われるのは、「独特の構成」という誤った評価とそれにもとづく「このドグマにとどめを刺しておきたいというマルクスの執念」などと言う、『資本論』を科学的社会主義の著作として学ぶことの意味をまったく理解することのできない不破さんが、自らのスケールに合わせてマルクスを〝推測〟したということだけです。

 そしてこのように「第四九章」と「第五〇章」を「スミス批判」に矮小化して、「第四九章」と「第五〇章」をまともに読もうともしない不破さんは、次の「(18) 最後の諸章について」の「章」で、目を疑うような、とんでもない、いや、もしかしたら不破さんの『資本論』にたいする正直な気持ちを現した、「解説」を行ないます。不破さんの口からどんな言葉が飛び出すのか、ご期待下さい。

 なお、私は、ホームページ4-27-2「 エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説②「『資本論』第二部を読む」を検証する。」で「第二〇章」──「第二〇章」は、大月版『資本論』第二部全645ページのうち123ページを占めていますが、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」などとマルクスが揶揄された以外に「解説」などなく、不破さんに「清く飛ばすべし」と「清さ」などまったくなく後足で砂をかけるように「飛ば」された「章」──について、「第二〇章で、マルクスは私たちに何を訴えているのか、二一世紀に生きる私たちは何をつかむことができるのかを、一緒に見てみましょう。」と述べて、「第二〇章 第九節」でのマルクスによるアダム・スミスの謬論への批判について、下記のように紹介いたしました。

「前節で「社会的年間生産物の再生産は、一見、このような不合理な仕方で行われるように見える(年間総労働日全体は消費手段の生産に支出され、不変資本部分は含まれていないかのように見えること──青山)」ことが述べられているが、「第九節 アダム・スミス、シュトルヒ、ラムジへの回顧」は、シュトルヒはその理由を説明できないが「察知」していることを述べ、ところが、アダム・スミスは「社会的生産物価値の全体が収入すなわち労賃・プラス・剰余価値」であるという「とりとめのない説を立てている」として、そのもっともらしさを説明し、「第八節」に立ちかえってアダム・スミスを論破しています。

 この「第九節」を取り上げようともしない不破さんは、アダム・スミス同様、生産的消費を見ることができず、生産的消費の重要な意味が理解できないようです。だから、日本における「産業の空洞化」に何の興味も示さず、「賃金が上がれば経済はよくなる」などと、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」に成り下がってしまったのでしょう。」(ホームページ4-27-2のPDFファイルP35参照。)、と。

 もしも不破さんが「第二〇章」を「清く飛ばす」ことをせず、内容を多少理解して「解説」をしていたら、不破さんのことですから、マルクスのことを「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」などと揶揄するだけでなく、「第二〇章」を「スミス批判」の「章」と命名していたかもしれません。

 マルクスが資本主義的生産様式の転倒した姿を暴露すると、不破さんは、転倒した世界で踊っている人をマルクスが批判していると、マルクスを歪曲します。

不破さんは、「三位一体的定式」とそれに関連する謬論とを解明し暴露することを「うんざりしていた」と言う

 不破さんは、「(18)最後の諸章について」という「章」のはじめの「節」(「資本主義的生産様式を歴史のなかでとらえる」)の冒頭で、「三位一体的定式」という資本主義的分配関係に焦点をあてて書かれた『資本論』第三部の「第四八章」から「第五〇章」までについて、つぎのように述べて、驚くべき評価をしています。

「『第五一章 分配諸関係と生産諸関係』は、『三位一体的定式』が支配する非科学的、神秘的な世界とそれへの批判にうんざりしていた頭が、久方ぶりに科学的な資本主義世界論に出会い、またそこで『資本論』全巻の簡潔きわまる科学的総括というべきものに出会って、爽快な思いをする章です。」、と。

 不破さんは、マルクスが「第四八章」で「三位一体的定式」とは「まちがった外観と偽瞞」の表現であり、支配的諸階級の階級的利益に一致した認識であり、「三位一体的定式」による資本主義的生産様式の「神秘化」にごまかされてはいけないということを述べているのに、「三位一体」という言葉によってマルクスは「資本主義社会を支配する神秘化の極致を表現した」などと言うだけでした。そして、「第四八章」は「資本主義的生産様式においてはじめて資本も労働も社会から無拘束なもの」となることっを述べており、その結果、日本は、自由に行動する資本のグローバルな活動により産業の空洞化が進み、日本社会そのものが存亡の危機に直面している、そのことを私たちに教えてくれる大事な「章」でもあります。それもわからず、「第四八章」を「うんざりし」たと言うのです。そして、「第四九章」と「第五〇章」を「スミス批判」と歪曲して解説らしい「解説」もぜず、「それへの批判にうんざりし」たと言うのです。ここまで『資本論』を歪曲し、ここまで『資本論』の悪口を言うのですから、公安警察も経団連も笑いがとまらないことでしょう。

肝心な解説を避けた、不破さんの「第五一章」の「解説」

 続けて、「第五〇章」までで「うんざりしていた頭」の不破さんは、「第五一章」の「解説」に移りますが、「解説」自体は『資本論』に忠実に、『資本論』の抜粋をまじえて行なわれており、とくに問題はないので、安心して読んで下さい。

 しかし、不破さんが「抜粋」した文章(このページの次の「項」で緑色に表示した文章)は、「抜粋」するだけでなく、不破さんに是非とも「解説」して欲しかったですが、不破さんが従来の──不破さんが二一世紀になって大「発見した」新しい資本主義観以前の──誤った資本主義観として攻撃し、捨て去った、資本主義的生産様式の矛盾の捉え方がマルクスによって明確に述べられていますので、次の「項」、〈「第五一章」の概要と私たちが押さえておくべきポイント〉で改めて見てみたいと思います。

 なお、この「節」(「資本主義的生産様式を歴史のなかでとらえる」)の「解説」の最後で、不破さんは、「第一部、蓄積論の最後の部分で叙述された、変革の主体的条件についての論究はまだありませんが、この文章は、社会変革の歴史的必然性について記述した、『資本論』全体のなかでもっとも重要なものの一つだと思います。」と言います。不破さんもこの文章が「『資本論』全体のなかでもっとも重要なものの一つだと思」うのであれば、この文章の「解説」を「清く飛ば」されたのは、返す返すも残念です。

 この不破さんの文章に関して、簡単に二つの点に触れておきたいと思います。

 一つは、「……についての論究はまだありません」いう文章についてですが、マルクス・エンゲルスに代わって弁明させていただきますと、「第五一章」は「分配諸関係と生産諸関係」を扱っている「章」で、「……についての論究」は「第五二章 諸階級」で扱うメインテーマです。だから「論究」はまだないのです。なお、この文章はそんな意図をもって述べられたのではないことを期待しますが、不破さんはしばしば、マルクス・エンゲルス・レーニンの著作で彼らがテーマにしていないことを持ち出して、そのことを「述べていない」といって非難します。ホームページ4-10「☆不破さんの、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」と言う暴言」及びホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」等を参照して下さい。

 二つ目は、つぎの「第五二章 諸階級」のところで詳しく論及する予定でしたので、不破さんの「(14)資本の蓄積過程(その四)『必然的没落』論の定式」(「『資本論』探究〈上〉」( P153、ホームページ4-27-1のPDFファイルP26を参照。)の内容を検討したときには触れませんでしたが、不破さんが創作した「『必然的没落』論の定式」なるものは、「第一部、蓄積論の最後の部分で」マルクスが「叙述」している内容とは異なります。

 マルクスは、〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟を述べ、そのなかで、「資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大する」ことを述べていますが、不破さんは〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟の内の〝新たな社会の形成要素〟だけを取りだして「『必然的没落』の客観的条件」と言い、「資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗」を「『必然的没落』の主体的条件」と言って、これがマルクスの「『必然的没落』論の定式」だと言います。つぎの「第五二章 諸階級」のところで詳しく論及しますが、〝古い社会の変革契機〟をしっかり見ることをせず、資本主義的生産様式の害悪をすべて「利潤第一主義」に還元して一件落着とするだけで、いま資本がどのような行動をおこなっており、その結果どのような矛盾が現れているかをしっかり見ようとしません。

 とりあえず、ここでは、このことだけを申し上げておきます。

「第五一章」の概要と私たちが押さえておくべきポイント

 それでは、「第五一章 分配諸関係と生産諸関係」でマルクスとエンゲルスは私たちに何を訴えかけているのか、一緒に見てみましょう。

「第五一章」の概要

 「第五一章」はまず、「普通の見方にとっては、これらの分配関係(「三位一体的定式」のこと──青山)は、自然的関係として、あらゆる社会的生産の本性から生じ人間的生産そのものの諸法則から生ずる関係として、現れる」こと、「三位一体的定式」という分配関係が資本主義的生産関係と一体不離のものであることに論及し、「とはいえ、もっと教養のある、もっと批判的な意識は、分配関係の歴史的に発展した性格を承認する」が、「しかし、そのかわりに、生産関係そのものの、変わることのない、人間の本性から生まれてくる、したがっていっさいの歴史的発展から独立な性格を、」主張することを述べます。

 そしてマルクスは、「ところが、資本主義的生産様式の科学的な分析は」、資本主義的生産様式も「他のすべての特定の生産様式と同様に、社会的生産力とその発展形態との一定の段階を自分の歴史的条件として前提しており、この条件はそれ自体が先行過程の歴史的な結果であり産物であるが、それをまた自分の与えられた基礎として新たな生産様式がそこから出発するということ。この独自な歴史的に規定された生産様式に対応する生産関係──人間が彼らの社会的生活過程において、彼らの社会的生活の生産において、取り結ぶ関係──は、一つの独自な、歴史的な、一時的な性格をもっているということ」を述べ、いわゆる分配関係そのものを見てみると、「労賃は賃労働を前提し、利潤は資本を前提する。つまり、これらの特定の分配形態は、生産条件の特定の社会的性格と生産当事者たちの特定の社会的関係とを前提するのである。だから、特定の分配関係は、ただ歴史的に規定された生産関係の表現でしかないのである」ことを述べ、つまり、「分配関係は本質的にこの生産関係と同じであり、その反面であり、したがって両方とも同じ歴史的な一時的な性格をもっているということ」を、詳しく、述べています。

 その論及の中で、マルクスは、「資本主義的生産様式をはじめから際立たせる二つの特徴」として、①この生産様式はその生産物を──商品であることがその生産物の支配的で規定的な性格であるという──商品として生産すること、②生産の直接的目的および規定的動機が剰余価値の生産であることを述べ、そのなかで資本主義的生産の無政府性が現れることを明らかにします。ここも重要です!!

 そして最後に、「だから、いわゆる分配関係は、生産過程の、そして人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、またこの諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表しているだけである。資本主義的分配は、他の生産様式から生ずる分配形態とは違うのであって、どの分配形態も、自分がそこから出てきた、そして自分がそれに対応している特定の生産形態とともに消滅するのである。」と述べ、資本主義的生産様式における特定の分配関係が特定の生産形態とともに消滅する理由を、「この過程の特定の歴史的な形態は、それぞれ、さらにこの過程の物質的な基礎と社会的な形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したということがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立とが、広さと深さとを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。」(大月版⑤ P1128-1129)と述べて、この章を結んでいます。

私たちが押さえておくべきポイント

 もう一度、この章の結びの部分(緑色に印字した不破さんが「抜粋」した文章)を見て下さい。

 マルクスは、「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立」について述べています。

 一方の分配関係、それに対応する生産関係の特定の歴史的な姿(=私的資本主義的分配と資本主義的生産関係)と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展(=社会化された生産力とその一つ一つの生産能力およびその発展可能性)とのあいだの矛盾と対立。これは、資本主義を終わらせなければ解決しない資本主義的生産様式がもつ「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」で、エンゲルスの言う「根本矛盾」です。

 このエンゲルスの言う「根本矛盾」を、不破さんは、エンゲルスが唱えた謬論だと言って否定します。その結果、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月『資本論』② P995)という有名な言葉の意味も、まったく分からなくなってしまいます。

 「生産手段の集中も労働の社会化も」とは「生産の社会的性格」ということであり、「その資本主義的な外皮」とは「資本主義的私有」、つまり「取得の資本主義的形態」のことであるということが分からなくなってしまった不破さんは、資本主義的生産様式の「桎梏」──それは、「資本主義的私有」の最高形態である「独占資本」が社会的生産力の発展の足かせになるということ──の意味が理解できません。科学的社会主義の思想が理解できない不破さんは、資本主義的生産様式の内在的矛盾から取り出した「利潤第一主義」、それにもとずく資本主義の弊害の全てを「桎梏」だと言うに至ってしまいます。

 その結果、「利潤第一主義」の改善、「ルールある資本主義」の確立が最大の目的となり、不破さんの眼中から資本主義的生産様式の「桎梏」である独占資本(資本主義的私有)は消え去り、「利潤第一主義」にもとづく「地球温暖化」等ありとあらゆる未解決課題が「桎梏」化(?)のあらわれとなり、大企業の内部留保の一部を吐き出すことが「利潤第一主義」を緩和させて経済成長を実現させる大道になってしまいます。

  「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」を認めたくない不破さんは、エンゲルスもレーニンも配分方法のみを問題にし「夢がない」と言って、資本主義的生産様式を変え私的資本主義的取得を変革することを「夢がない」と否定し、マルクスは労働時間の短縮による「自由の国」を未来社会として描いたと、マルクスの考えを捏造します。

 労働者を搾取する私的資本主義的取得の変革を「夢がない」と否定する不破さんは、「夢のある自由の国」の実現のために日本共産党の綱領から労働者階級の歴史的使命を取り除き、労働者階級は社会変革の主体から「社会変革の闘士」に格下げされてしまいました。

 このように、「第五一章 分配関係と生産関係」は、科学的社会主義の思想のポイントを表現した、現代の私たちが留意しべき内容を含んだ大変重要な「章」ですが、不破さんにとっては鬼門の「章」とも言えるでしょう。不破さんが「『資本論』全体のなかでもっとも重要なものの一つだと思います」と言いながら、一切「解説」しなかったのは、こんな理由からなのでしょうか。

※なお、ホームページ4-27-1「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その1)①「『資本論』第一部を読む」を検証する。」で、私は、マルクスが、『資本論』第一部の「第一三章 機械と大工業」で、唯物史観と弁証法の助けをかりて、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことを、事実に基づいて明らかにしていることを述べ、この「章」の結びの文章とシームレスに繋がっていることを明らかにしています。

※「第五一章 分配諸関係と生産諸関係」の主要な抜粋とその解説については、下記のPDFファイルを参照して下さい。

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3-51「第五一章 分配関係と生産関係」.pdf
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不破さんの「思想」をよく現した「第五二章」の解説

 不破さんは、つぎの(最後の)「『階級闘争』とその前途」という「節」で、「労働者階級による資本主義社会の変革こそが、『諸階級』の章の最大の主題となったであろう」と正しいことを述べ、加えて、「そしてそこ(「第五二章 諸階級」の「章」のこと──青山)がまた、未来社会論を本格的に展開する舞台となったであろう」と述べて、マルクスが「資本主義社会の変革」と「未来社会論の本格的な展開」という二つのテーマを「第五二章」で論述しようとしたと考えるのは「決して無理な予想ではないと思います。」と言います。

 そして最後に、不破流「未来社会論」の「自由の国」を資本主義社会の「余暇」にまで発展させた不破さんは、「マルクスは、未来社会論のこの本論は書かずに終わりましたが、……未来社会論を理論的に完成させ、さらにはその実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す、ここに、マルクスのあとを継いだ後世に活動する私たち自身の任務があることを、ここでも痛感するものです。」と、不破流「未来社会」の「実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す」という、不破さんならではの仰天「思想」を大公開します。

上記の不破さんの「解説」へのコメント

 不破さんの「第五二章」の「解説」が上記のようなものだったので、まず、上記の不破さんの「解説」へのコメントをおこない、つぎに、「第五二章 諸階級」でマルクスは私たちに何を訴えようとしたのか、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

 先ほど私は、不破さんが「第五二章」の内容について、「労働者階級による資本主義社会の変革こそが、『諸階級』の章の最大の主題となったであろう」と正しいことを述べた点について評価いたしましたが、その内容は私がここに書いたことがすべてです。不破さんは、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と言ってはばからない、〝社会変革〟についてのなんの知識も持ち合わせていない、資本主義の「利潤第一主義」を「賃上げ」と「社会的バリケード」でやめさせようと考えている人ですから、これまで見てきた『資本論』の思想から「労働者階級による資本主義社会の変革」の展望を具体的に明らかにすることなど無いものねだりで、上記程度の「解説」で、良しとしなければならないのかもしれません。

 「社会変革」については、なんの展望ももっていない不破さんが、「社会変革」とは別個に、「未来社会論を理論的に完成させ」、「さらにはその実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す」「活動」をすることが不破さんたちの「任務」だと言うのですから、マルクスやエンゲルスやレーニンが聞いたらビックリして卒倒してしまうことでしょう。

 不破さんは、「新しい社会」では、社会発展の推進力は自分自身のために使える「自由な時間」を使って人間が発達することだといい、「未来社会」では「人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆく」と言いますが、不破さんの言う「未来社会論」には「社会変革」の過程と「社会変革」によって創り変えられてゆく現実の〝社会〟の発展が欠落していて、すべてが個人に還元されているようです。

「第五二章 諸階級」でマルクスは私たちに何を訴えようとしたのか

 エンゲルスは『資本論』第三部の「序文」で、第七篇の「最後の章ははじめのほうがあるだけである。ここでは、地代、利潤、労賃という三つの大きな収入形態に対応する発展した資本主義社会の三つの大きな階級──土地所有者、資本家、賃金労働者──と、それらの存在とともに必然的に与えられている階級闘争とが、資本主義時代の事実上現存する結果として示されるはずだった。このような最後の総括をマルクスは印刷直前の最後の改訂のために保留しておくのが常だったが、その場合には最新の歴史的な諸事件がいつもまちがいなくきまって彼の理論的展開の例証を最も望ましい現実性において提供したのである。」と、述べています。

 そして、大谷禎之介の「『マルクスの利子生み資本論』2」のMEGA「成立と来歴」(P401)でも、マルクスのエンゲルスあて1868年4月30日の手紙から、『資本論』で「資本の一般的本性」を究明したマルクスが第七篇で「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもりで」であったことが推測されています。

 また、マルクスは、『資本論』の「初版序文」で「この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式と、これに照応する生産諸関係および交易諸関係である。……一国は他国から学ばなければならないし、また学ぶことができる。たとえある社会がその運動の自然法則の手がかりをえたとしても、──そして近代社会の経済的運動法則を暴露することがこの著作の最終目的である──、その社会は自然的な発展の諸段階を跳び越えることも法令で取り除くこともできない。しかし、その社会は、分娩の苦痛を短くし緩和することはできるのである。」(大月版①P8-10)と述べ、資本論の最終目的が近代社会の経済的運動法則を暴露し、分娩の苦痛を短くし緩和することであることを述べています。

未完の「第五二章 諸階級」は、私たちへのマルクスの宿題

 マルクスが、エンゲルスの「序文」に書かれているようなかたちで、そして、マルクスのエンゲルスあて1868年4月30日の手紙のとおり「第五二章 諸階級」を完成させていてくれたら、私たちはどんなに多くのことを学ぶことができ、同時に、「科学の目」などともっともらしいことを言って人々を騙す似非マルクス主義者たちが大手を振って跋扈するのを、今よりもっとたやすく、防ぐことができたことでしょう。

 しかし、同時に、マルクス・エンゲルスが生きた時代とレーニンが生きた時代と私たちが生きている時代とでは資本主義社会の発展度合いが違い、国家と資本、国際社会と資本との係わり方が違いますから、私たちはマルクス・エンゲルス・レーニンから〝学ぶ〟ことはできても「真似」することはできません。似非マルクス主義者の不破さんは、マルクス・エンゲルス・レーニンが生きた時代と現代との違いを利用し、逆手にとって、マルクス・エンゲルスは「恐慌=革命」説をとっていたとか、レーニンは「『革命近し』という世界的危機論なるもの」を主張していたとか、マルクス・エンゲルス・レーニンを歪曲して、誹謗・中傷を繰り返しています。しかし、このように、マルクス・エンゲルスとレーニンが生きていたそれぞれの時代が提起する変革の道筋を正しく理解することができないうえに、マルクス・エンゲルス・レーニンが言っていることを歪曲・捏造してマルクス・エンゲルス・レーニンを誹謗・中傷するのは、教条主義者と同様に、マルクス・エンゲルス・レーニンから〝学ぶ〟ことのできない人たちです。

 これまでマルクスとエンゲルスが『資本論』で教えてくれた資本主義的生産様式が必然的に辿り着く諸結果が、現代の日本でどのように現れるのか、そしてそれはどの様に解決されるのか、未完の「第五二章 諸階級」は、私たちに、『資本論』を学んだものへの宿題として、その答えを書くことをマルクス・エンゲルスが求めているようにみえてなりません。

 だから、私たち『資本論』を学んだものとして、上記のような観点で、「第五二章 諸階級」の編集意図に従って、マルクス・エンゲルスの期待に応えられるよう、現代の日本の危機的な経済状況を変革し、〝新しい国民の共同社会〟を創るための革命の展望を国民に提示することは、私たちにとって、今という時代から負わされた歴史的な責務であると考えます。

マルクス・エンゲルスは私たちに何を与え何を求めているのか

 その、今という時代の歴史的な責務の「答え」に近づくために、もう一度、『資本論』全体のなかで、〝社会の変革〟に論及している文章を見てみましょう。

『資本論』第一部「第一三章 機械と大工業」((大月版①P654)

 マルクスは、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことを、事実に基づいて明らかにしています。

『資本論』第一部「第二四章 いわゆる本源的蓄積」(大月版② P995)

 マルクスは、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」という有名な文章をのこしています。

『資本論』第三部「第五一章 分配関係と生産関係」(大月版⑤ P1129)

 マルクスは、「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立」について述べています。

 これらの文章に共通して論及されているのは〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟で、それを整理すると下記のようになります。

新たな社会の形成要素

◎生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させる

◎生産手段の集中も労働の社会化も(=生産の社会的性格)

◎他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展(=社会化された生産力とその一つ一つの生産能力およびその発展可能性)

古い社会の変革契機

◎生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを成熟させる

◎資本主義的な外皮(=「資本主義的私有」、つまり「取得の資本主義的形態」のこと)

◎一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿(=私的資本主義的分配と資本主義的生産関係)

 このように、〝新たな社会の形成要素〟とは、資本主義的生産様式における私的資本主義的性格をもった、技術的進歩であり、〝古い社会の変革契機〟とは、私的資本主義的性格による、社会的欠落面のことで、〝新たな社会の形成要素〟によって〝古い社会の変革契機〟が形成されます。だから、〝新たな社会の形成要素〟がどのように形成されたか、つまり、資本がどのような行動をしたかということをしっかり見ることが重要です。

 それでは、これらは今、どうなっているのか、その現状を見てみましょう。

 この間、その蓄積を増大させた資本は、対外的には、資本のグローバル展開という形で生産の国際化を推進しましたが、資本の進出先の国の労働者の賃金は低く抑えられ、加えて、知財権という名目での収奪がおこなわれ、富は資本に吸い上げられ、貧しい国は貧しいままでいます。

 そして日本国内に目を移せば、高い生産性を獲得した富の源泉である製造業が海外に出て行った結果、生産性の低いサービス業の比重が増し、経済の低成長と低賃金が長期にわたって続き、その結果、年金・福祉・医療の基礎が掘り崩され、社会的分業の恩恵を受けることを前提に暮らしが成り立つ労働者階級は、生きる術がなくなりつつあります。

 このように、今の日本は、〝新たな社会の形成要素〟の空洞化が進むという、きわめて深刻な事態に直面しています。マルクス・エンゲルス・レーニンの時代には想像できなかったような事態が、本当の危機が、進行しつつあります。資本主義的生産様式を「解体」し、ブルジョア社会を克服するための階級闘争は、この現実の克服のための闘いから始まります。そのことをマルクス・エンゲルスは『資本論』を通じて私たちに教えてくれています。だから、私たちの闘いの方向は明確です。

今の日本の〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟を見ることのできない不破さん

 しかし、「共産党」の前委員長の不破さんは、『前衛』2015年5月号の「社会変革の主体的条件を探究する」という立派なタイトルの「論文」で、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と言い、「この危機的な世界」などと、なにが「危機」であるかを理解しているかのような、もっともらしい枕詞を使っていますが、その実、今の日本の「社会変革」の「形態」をつかむことができず、「この危機的な世界」なるものが何であるかもわからず、社会変革の道筋をまったく「探究」できないことを告白しています。

 不破さんが社会変革の道筋をまったく「探究」できないのには理由があります。不破さんは、『『資本論』探究〈上〉』(P154)で「『必然的没落』の客観的条件」としてマルクスの言う〝新たな社会の形成要素〟だけを挙げ、資本主義的生産様式のもとでの〝新たな社会の形成要素〟が〝古い社会の変革契機〟を形成することを視野の外に置きます。不破さんの「資本主義的生産様式の『必然的没落』」の理論は、この〝古い社会の変革契機〟を欠いた「『必然的没落』の客観的条件」と「『必然的没落』の主体的条件」とで成り立っています。

 不破さんが〝古い社会の変革契機〟の形成を視野の外に置くのは、マルクスが恐慌について「資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」ということを解明し、「資本主義観の大転換」をおこなったと述べ(『前衛』No903参照。)て、マルクスの「資本主義観の大転換」を捏造し、捏造したマルクスの虎の威を借りた不破さんが、「恐慌」のたびごとに資本主義は発展するとの見方に立って資本主義の発展をみることにより、資本主義の矛盾の深まり、〝古い社会の変革契機〟を正しく見ることができなくなってしまったためです。

 不破さんは、資本のグローバル展開による〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟がどのようになっているのかを見ようともぜず、資本主義の諸悪の根源は「利潤第一主義」だと言うだけで、不破さんがその「改訂」を自慢する現在の日本共産党の綱領には「労働者階級」という言葉は出てきますが、「社会変革の主体」という意味での出番はありません。そういう人が「社会変革の主体的条件を探究する」ことなど、逆立ちしても不可能なことで、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と正直(?)に白旗を振る以外ありません。

書かれなかった『資本論』の最後の章に私たちが書き込むべきこと

 だから、私たちが書かれなかった『資本論』の最後の章に書き込むべきことは、衆知を結集して、日本の現状をしっかり見て、資本のグローバル展開による〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟の変化を正しくつかみ、資本主義的生産様式を「解体」し、ブルジョア社会を克服するための階級闘争をすすめるための旗幟鮮明な日本革命の展望をつくりあげること。そして、その実現のためには、旗幟鮮明な日本革命の展望を倦むことなく伝わるまで広く国民に訴え続けるとともに、その時、その場所で、より少しでも国民のためになることには躊躇することなく加担すること。これらをはっきりと書き込むとともに、科学的社会主義の思想を捨て去り社会主義者のふりをして「自由の国」談義に現を抜かす不破さん、いまだ献身的に党のためにたたかい続ける団塊世代をだまし続け、日本共産党から革命の展望とそのために闘うエネルギーを奪い去り人々の結集を妨げ続けてきた不破さんに、科学的社会主義の思想にもとづく正当な批判をおこない、労働戦線から放逐すること。これらのことを、『資本論』の書かれなかった最後の章の〝現代〟の論究のなかに見いだすことは、不破さんが書いた「『資本論』探究」を『資本論』に照らして見てきた私たちにとって、時代が私たちに与えた義務とも言えるのではないでしょうか。

お詫び

 以上が『資本論』第三部第七篇「第五二章 諸階級」までの不破さんの「『資本論』探究」での「解説」についての私の〝異議〟を申し述べたページです。

 このページの冒頭でも述べたように、当初、このページは「不破さんの謬論を暴露する最後のページ」にする予定でした。しかし、「第七篇 諸収入とその源泉」のなかの「三位一体的定式」に関する部分での不破さんの「解説」が、レーニン批判にかこつけての『資本論』を離れての科学的社会主義の思想の否定やマルクスが「三位一体的定式」に関して書いた「第四八章」から「第五〇章」までの無理解──不破さんはこれらの諸章を「うんざりしていた」という──などから、マルクスの真意を伝え、科学的社会主義の思想を守るために、思わぬ頁数を食い、全体で70ページ弱のものとなり、一つのページの限界を超えるものとなってしまいました。

 そこで、やむをえず、ホームページAZ-3-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)」の「不破さん、黙して語らず」の「項」で「私は、このページの結びの部分で、マルクスの産業循環の理論の可能なかぎりの「まとめ」と不破さんの言う「恐慌の運動論」の総括を行ない「恐慌の運動論」なるものを雲散霧消させるる予定です」と申し上げた約束を再び破ることとなってしました。

 皆さんとの約束を再々破る羽目になってしまいましたが、「恐慌の運動論」なるものを持ち込んでの不破さんの『資本論』の改竄の全体像を明らかにするために、新たに、ホームページAZ「自らの虚構にあわせるための『資本論』の変造」を編集することとし、『資本論』変造の壮大なカラクリを明らかにし、マルクス・エンゲルスと不破さんと世界観・革命観の違いの核心である「産業循環」に対する見方の違いを明示することによって、あらためて、不破さんの科学的社会主義の思想からかけ離れた姿を見て頂くことと致しました。