4-12

☆不破哲三氏によるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲

      『経済』2000年1-2月号から

  1. はじめに
  2. レーニンの考えを勝手に捏造してそれを批判する、〝神の手〟を使った「秩父原人」の発見者のような手法
  3. 『経済』のなかで不破さんが引用したレーニンの文章で、「記帳と統制」に関して述べられていること
  4. 「記帳と統制」に関してのマルクスとレーニンの考え
  5. レーニンの〝記帳と統制〟の捉え方と不破哲三氏の「記帳と統制」の捉え方

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☆不破哲三氏によるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲のもつ意味

  不破さんは、レーニンの〝記帳と統制〟の概念をマルクス・エンゲルスの思想から切り離し「配給制度」に矮小化して、「配給制度」を攻撃することを通じて、 レーニンの思想を「市場経済」敵視論と攻撃し、「市場経済」(資本主義的競争市場をもつ経済)を擁護する。そして、最後に「1921年、市場経済否定路線 から市場経済活用路線(新経済政策)への根本的な転換をおこないました」と言ってレーニンを評価する。
 不破さんは本音を語るべきだ。〝私は「市場経済」を敵視しない。私の夢は「ルールある資本主義」の実現だ。〟と。

1、はじめに──「記帳と統制」の概念の歪曲は、革命の根本思想〝by the people〟が眼中にない不破さんの、〝的外れ〟なレーニンに対する誹謗の集大成──今から一五年前の『経済』で不破さんが言ったことやったこと

 不破さんは『経済』2000年1-2月号で、『さしせまる破局、……』以降レーニンの「記帳と統制」の概念が変わったと言っていますが、それは事実に反しています。
 不 破さんは、レーニンの言う「記帳と統制」が「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織すること」であることが理解 できません。不破さんは、「記帳と統制」が「資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展と を結びつける」ものであることが理解できません。そして不破さんは、パリ・コミューンとロシア革命からマルクス・エンゲルス・レーニンが汲みとった〝by the people〟の思想がまったく理解できません。
 不破さんは、〝神の手〟を使って「秩父原人」を発見した人のように、「記帳と統制」の概念を「消費物資の分配や統制」と歪曲し、推測をまじえ、自ら歪曲し、創作した「記帳と統制」を攻撃します。
 不破さんには「市場」と「市場経済」との区別もなく、できの悪い落語家の「謎かけ」のような理論構成で、「何十億回となくくりかえされる」「市場経済」は神聖な「公理」だから、触れてはいけないといいます。
 不破さんは、レーニンが「経済的変革を意識革命から始めようという根本路線」を持っていたと捏造しますが、レーニンの思想には〝by the people〟の思想が貫かれています。
 不破さんは新経済政策を「市場経済否定路線から市場経済活用路線への転換」と戯画化しているますが、新経済政策の〝きも〟は資本(富)の活用と「市場経済」の全人民の「記帳と統制」によるコントロールでした。

2、レーニンの考えを勝手に捏造してそれを批判する、〝神の手〟を使った「秩父原人」の発見者のような手法

 不破さんは今から一五年前の『経済』(2000年1月号No52)で「記帳と統制」に関して、次のように述べています。
「前 にも述べたように、それまでは、たしかに「四月テーゼ」では、物資の生産にたいする「統制」が重要な項目としてあげられてはいたものの、「過渡的方策」を 具体的に論じる場合には、銀行の全国的な統合とかシンジケートの国有化などが前面に出されるのが常で、生産と分配にたいする「統制」の課題にはほとんど光 があてられませんでした。ところが、『さしせまる破局、……』では、「記帳と統制」の課題が、ただその重要性が強調されるにとどまらず、「過渡的方策」の 全体を包括しそれらを代表する地位をもつもの、文字通り「過渡的方策」の核心をなすものとして、新しい意義があたえられたのです」(P165-166) と。
 失礼な言い方で申し訳ありませんが、この文章は不破さんの思考の浅さ、経済を捉える能力の乏しさをよく現しています。同時にこの文章は、不破さんが、レーニンの「記帳と統制」に関する概念を歪曲する出発点でもあります。
  不破さんの思考の浅さ、経済を捉える能力の乏しさについていえば、不破さんは、資本主義社会での「物資の生産と分配」を変えるためには、何が必要なのかを、深く考えるべきです。
 不 破さんは、「銀行の全国的な統合とかシンジケートの国有化など」が「物資の生産と分配」にたいする「統制」の課題ではないかのように言う。返す刀で、『さ しせまる破局、……』では「記帳と統制」の課題が「過渡的方策」の核心をなすものとして新しい意義があたえられた、とも言う。不破さんが、「銀行の全国的 な統合とかシンジケートの国有化など」は「物資の生産と分配」にたいする「統制」の課題ではないと否定しておいて、「記帳と統制」にあたえた「新しい意 義」とは何か。それは、『経済』の翌月号で明らかになるが、「記帳と統制」を「配給制度」と「市場の廃止」に矮小化することでした。
 「記 帳と統制」の意味をまったく理解しようとしない不破さんは、レーニンの『さしせまる破局、……』(1917年9月)より前の理論活動をねじ曲げ、同時に、 『さしせまる破局、……』以降の「記帳と統制」の概念を矮小化します。その弊害が顕在化し、レーニン自身もその誤りを公然と認めた「市場の廃止」につい て、それだけが革命直後の数年間の「記帳と統制」のすべてであるかのように描く不破さんは、「記帳と統制」の持つ今日的な意義をまったく理解できません。 「記帳と統制」の概念の歪曲と矮小化の過程・トリックとそれを通じて抽出された「レーニン」と「ロシア革命」の貧弱な姿は、私たちに、不破さん自身の内面 の一部を、非常にわかりやすく、見せてくれます。
 『経済』(2000年1月号)で不破さんが引用したレーニンの文章のなかで、「記帳と統制」に関してどのように述べられているのか、本当の姿を見てみましょう。

3、『経済』のなかで不破さんが引用したレーニンの文章で、「記帳と統制」に関して述べられていること

  「物資の生産にたいする『統制』」=「記帳と統制」の概念とは、どのようなものなのか。『経済』(2000年1月号)で不破さんが「探究」するために引用 したレーニンの文章でレーニンは「記帳と統制」の概念についてどのように述べているのか。不破さんが「配給制度」と「市場の廃止」の課題を最前面におしだ したと言う『ソビエト権力の当面の任務』までの文章を、レーニンの執筆順に年代を追って、見てみましょう。
①1917年9月に執筆した『さしせまる破局、……』より前に執筆した文章
  『国際社会主義委員会およびすべての社会主義政党にたいする呼びかけのテーゼ原案』(全集第23巻P229、1916年12月25日以前に執筆)では、 「現代の資本主義社会は、すくなくとも先進諸国では、社会主義へうつるには十分に成熟」していることを述べ、たとえばドイツの国家資本主義は「わずか百か 二百の金融王または貴族、君主の一味の利益のために、6600万の国民の全経済生活を単一の中央機関から指導する」体勢ができているが、「無産者大衆は、 全国民の一〇分の九のために、これと同じことをなしとげることが完全にできる」こと、つまり、「無産者大衆」が「全経済生活」をコントロール(記帳と統 制)する条件が発展していることを述べています。
 そして、1917年3月9日付けの『遠方からの手紙』(全集第23巻P349-351)では、 「臨時政府をプロレタリアートと兵士が監視するという思想」を発展させて、「真に全人民的な、真にすべての男女を包括する労働者民兵または労働者国民軍」 の創設を提起し、その労働者国民軍は「純警察的機能だけでなく全国家的な機能を、軍事的機能ならびに物資の社会的生産と分配にたいする統制とを結びつける ことへとうつらなければならない」ことを述べています。これに続く3月11日付けの『遠方からの手紙』(全集第23巻P361)では、「物資の社会的生産 と分配にたいする統制」を「国家秩序および国家行政の主要な基本的機関の機能」と言い換えています。
 このように、「物資の社会的生産と分配にたいする統制」(=「記帳と統制」)とは、国家の警察的機能と軍事的機能とを除く広範な機能を指すもののことです。
②『さしせまる破局、……』
  1917年9月に執筆した『さしせまる破局、……』(全集第25巻)でレーニンは、「破局と飢餓にうちかつ方法」として、「国家による統制、監督、記帳、 規制」による「物資の生産と分配における労働力の正しい配分、人民の力を節約、あらゆる力のむだづかいの除去、力の節約」が必要であり、「これは、争う余 地のない、だれにもみとめられているものである」ことを述べています。
 そして『さしせまる破局、……』は、この「戦争と飢餓からロシアをすくお うとするあらゆる真の革命政府の綱領の問題」でもある統制の「もっとも主要な統制方策」として、「(一)すべての銀行を一つに統合し、その業務を国家的に 統制すること、すなわち銀行を国有にすること、(二)シンジケート、すなわち資本家の巨大独占団体(砂糖、石油、石炭、冶金などのシンジケート)を国有に すること、(三)営業の秘密を廃止すること、(四)工業家、商人、一般に経営者を強制的にシンジケート化すること(すなわち強制的に団体に統合するこ と)、(五)住民を強制的に消費組合に統合するか、またはその種の統合を助成し、それを統制すること」の五項目を提起しました。
 これらの思考と表現は、あきらかに、①の時期から引き継がれたものであり、「記帳と統制」に新しい意義など与えていません。
 このように(五)の「消費の規制」は、「さしせまる破局とたたかうため」の「革命的民主主義的政府」のおこなうべき「記帳と統制」の主要な分野の一つとして提起されたものであり、「配給制度」と「市場の廃止」が「記帳と統制」の全てなどではないことはあきらかです。
③第七回大会の「戦争と講和についての報告」の不破さんの引用した文章の意味
 不破さんは、1818年3月に開かれた第七回大会の「戦争と講和についての報告」の一部を引用(P174)して、レーニンの「記帳と統制」の考えに「注目すべき一つの新しい理論化」があったかのように述べています。引用した文章は下記のとおりです。
  「社会主義革命がブルジョア革命と異なる点は、後者のばあいには、資本主義的関係のできあいの形態があるが、ソヴィエト権力──プロレタリア権力──は、 資本主義のもっとも発展した諸形態をとりあげないとすれば、これらのできあいの諸関係をうけとるわけではないということにある。それも、このもっとも発展 した諸形態も、実は、工業の小さな上層をとらえていただけであって、農業にはまだほんのわずかしかふれていない。記帳の組織、巨大企業の統制、国家経済機 関全体を、一つの巨大な機構に、数百万の人々が一つの計画に指導されるような仕方で活動する経済的有機体に転化すること、──これこそわれわれの肩かかっ ている巨大な組織上の任務である」(全集第27巻P84-85)。
 不破さんが言うように、何か「注目すべき一つの新しい理論化」があったのか、引用した文章の意味を正確につかみ、レーニンが何を言っているのかを知るために、若干長くなりますが、その前後の文章をレーニン全集から抜粋します。
 不破さんの引用の前にある文章。
  「……ブルジョア革命が当面したただ一つの任務は、以前の社会のすべてのきずなを一掃し、すて去り、破壊するということであった。あらゆるブルジョア革命 は、この任務を遂行することによって、この革命にもとめられているいっさいのことを遂行する。すなわち、それは、資本主義の成長を強めるのである。
  社会主義革命はこれとはまったく異なった状態にある。歴史のジグザグによって、社会主義革命をはじめなければならなかった国にとって、その国がおくれてい ればいるほど、古い資本主義的関係から社会主義的関係への移行は、それだけ困難である。ここでは、破壊という任務のうえに、新しい、前代未聞の困難な任 務、──組織的任務がつけくわわる。1905年の偉大な経験をなめてきたロシア革命の人民的な創造力が、1917年2月に、まだソヴェトをつくりださな かったならば、ソヴェトは、10月にはけっして権力をにぎることはできなかったであろう。なぜなら、成功はただ、数百万人をふくむ運動の組織形態が、すで にできあいのものとして存在していたか否かにかかっていたからである。このできあいの形態こそソヴェトであった。だから、政治的分野でわれわれをまってい たのは、輝かしい成功であり、われわれの経験したひとつづきの凱旋行進であった。
 ……ソヴェト共和国は一挙に生まれた。だがまだ、二つのきわめ て困難な任務(「社会主義的経済的有機体に組織すること」と「国際問題」──注青山)がのこっていた。その解決は、わが国の革命が最初の数カ月におこなっ たような凱旋行進ではけっしてありえなかった。──これからさき社会主義革命が、巨大な困難を伴う任務に当面するだろうということについては、われわれに は疑問はなかったし、また、ありえなかった。
 第一に、それは、あらゆる社会主義革命が当面する内部的組織という任務であった。」(同前P83-84)
 この文章の後に不破さんの引用文が続き、その後に、下記の文章が続きます。
「この任務は、現在の労働条件のもとでは、われわれが首尾よく内乱の任務を解決したときのように、けっして「ウラー」をさけんで解決することをゆるさなかった。問題の本質そのものが、このような解決をゆるさなかった。
…… わが革命の任務にたいして考えぶかい態度をとろうとした人には、だれの目にも、自己規律という困難な、長い道によってのみ、戦争が資本主義社会にもたらし た腐敗にうちかつことができるということ、また、きわめて困難な、長い不屈の道によってのみ、この腐敗を克服し、増大していく腐敗分子を征服できるという ことが、ただちに明らかとなった。この腐敗分子は、革命とは、それからできるだけ多くのものをとりこんでおいて、古いきずなからのがれる方法であるとみな したのである。こういう連中が数多く出てくることは、信じられないくらいの崩壊の時期の小ブルジョア的な国では、避けられないことであった。そして彼らと の、百倍も困難な、すこしも目ざましい立場をあたえてくれる見込みのない闘争がひかえている──われわれはたったいまこのたたかいを開始したばかりであ る。われわれはこのたたかいの第一段階にある。われわれは困難な試練に当面しているのだ。この闘争では、その客観的事態から言って、どんなことがあろう と、カレージン一派にむかってやったときのように、旗をひるがえし凱旋行進をやることだけにとどまっていることはできないであろう。こういう闘争方法を、 革命の途上にひかえている組織上の任務におしおよぼそうとする人は、だれであろうと、政治家としては、社会主義者としては、社会主義革命の活動家として は、まったくの破産者であろう。
……ロシア革命は国際帝国主義の一時的な故障を利用したにすぎない。というのは、この機械が一時とまったからであ り、この機械は列車が手押しの一輪車にむかってすすみ、それを粉砕してしまうように、われわれにむかってくるはずのものであったが、──二つの強盗グルー プが衝突したために、機械がとまってしまったのである。革命運動はここかしこで成長したが、例外なくすべての帝国主義諸国では、それは多くのばあい、まだ はじめの段階であった。その発展テンポは、われわれのところとは、まったく異なっていた。ヨーロッパにおける社会主義革命の経済的前提についてよく考えて いた人にとっては、ヨーロッパで革命をはじめることははるかに困難であり、われわれのところでは、はるかに容易だが、革命をつづけることはヨーロッパより もいっそう困難であろうということは、だれの目にもはっきりしないわけにはいかなかった。そしてわれわれがまれにみる困難な、歴史における急転換を体験し なければならないのは、こういう客観情勢の仕業である。
 ……歴史は、いまやわれわれを異常に困難な立場においたのである。われわれは、前代未聞 の困難な組織的活動をやりながら、一連のきわめて苦しい敗北をも経ていかねばならない。世界史的な規模でみるばあい、わが国の革命が単独のものにおわり、 他の国々で革命運動がないとしたら、わが革命の最後の勝利は望みのないものであることは、すこしも疑問の余地がない。われわれはボリシェヴィキ党だけで全 事業をとりくんだのであるが、われわれはつぎのように確信して、この事業を一身にひきうけたのである。すなわち、革命はすべての国々で成熟しつつあり、わ れわれがどのような困難を経験しようと、どのような敗北をなめる運命にあろうと、結局は──まずはじめにではなく──国際社会主義革命はやってくるだろ う、──なぜなら、それはすすんでいるからである。それは成熟をとげるだろう、──なぜなら、それは熟しつつあり、成熟するであろうからである。これらす べての困難からわれわれをすくうものは──くりかえして言おう──、全ヨーロッパ的な革命である。この真理、まったく抽象的なこの真理から出発し、この真 理に導かれながらも、われわれは、それが時とともに空文句にかわってしまわないように注意していかなければならない。なぜなら、あらゆる抽象的な真理は、 もし諸君がなんの分析もせずに適用するときには、空文句にかわってしまうからである。(最近の共産党の文章を言い当てているようだ──青山)もし諸君が、 どのストライキの背後にも、革命というヒドラ(怪蛇)がひそんでおり、このことを理解しないものは社会主義者ではない、というならば──それは正しい。し かり、どのストライキの背後にも、社会主義革命がかくれている。だが、もし諸君がどのストライキもみな、社会主義革命への直接の一歩であるというならば、 諸君はもっとも空虚な文句を言っていることになる。」(同前P84-89)
 後半部分がちょっと長くなってしまいましたが、当時の情勢やレーニンの認識の仕方等を知っていただくために、そして何よりも、不破さんが『経済』2000年2月号で、〝いつも通りの推測をまじえた創作〟をおこなっているので、あえて長めに引用させていただきました。
 あとで詳しくふれますが、これらの文章を通読すれば分かるとおり、「記帳と統制」とは、「記 帳の組織、巨大企業の統制、国家経済機関全体を、一つの巨大な機構に、数百万の人々が一つの計画に指導されるような仕方で活動する経済的有機体に転化する こと」であり、経済を「社会主義的経済的有機体に組織する」ために「銀行の全国的な統合とかシンジケートの国有化など」をおこない、「生産と分配にたいす る『統制』」をおこなうことです。これは、レーニンが一貫して述べてきた考えを再確認したもので、不破さんの言うように、レーニンが何か「注目すべき一つ の新しい理論」を取って付けたものではありません。「注目すべき一つの新しい理論」とは、不破さんの〝いつも通りの推測をまじえた創作〟であることはすぐ明らかになります。少々お待ち下さい。
④『ソビエト権力の当面の任務』
  1918年4月『ソビエト権力の当面の任務』は、「物資の生産と分配とのもっとも厳格な、また普遍的な記帳と統制とを実施し、労働生産性をたかめ、実際に 生産を社会化することである」と、「もっとも厳格な全人民的な記帳と統制とを組織する」(全集第27巻P243)ことを述べています。
 不破さんはこれらの記述から「生産物の生産と分配にたいする全人民的な『記帳と統制』を、社会主義的改造のための決定的な中心任務と位置づけている」(P157)と、(レーニンの「記帳と統制」の意味を「配給制度」に歪曲しないならば、)「正しく」評価しています。
  さ てここで、もう一度、冒頭に引用した不破さんの言葉、「前にも述べたように、それまでは、たしかに『四月テーゼ』では、物資の生産にたいする「統制」が重 要な項目としてあげられてはいたものの、「過渡的方策」を具体的に論じる場合には、銀行の全国的な統合とかシンジケートの国有化などが前面に出されるのが 常で、生産と分配にたいする「統制」の課題にはほとんど光があてられませんでした。ところが、『さしせまる破局、……』では、「記帳と統制」の課題が、た だその重要性が強調されるにとどまらず、「過渡的方策」の全体を包括しそれらを代表する地位をもつもの、文字通り「過渡的方策」の核心をなすものとして、 新しい意義があたえられたのです」を思い出して下さい。
  こ のように、不破さんは「物資の生産にたいする『統制』」と「銀行の全国的な統合とかシンジケートの国有化など」とが別のものでもあるかのような印象を読者 に与えようとしています。しかし、①から④を一瞥すれば明らかなように、「銀行の全国的な統合とかシンジケートの国有化など」は「物資の生産にたいする 『統制』」の重要な構成要素であることがわかります。そして、「銀行の全国的な統合とかシンジケートの国有化など」と別物にされ、矮小化された「物資の生 産にたいする『統制』」(=「記帳と統制」)は、不破さんによって新しい意義があたえられ、「配給制度」と「市場の廃止」に変質させられます。
 資 本主義の矛盾を「利潤第一主義」と思い込み、生産の社会的性格と取得の私的資本主義的性格のもつ意味を理解できず、恐慌を信用と結びついた「現象形態」か らのみ説明しようとする「恐慌の運動論」なるものを発見し、「利潤第一主義」による弊害は資本主義社会の「桎梏」だという珍論を展開し、「分配」をたたか うのは夢がない「自由な時間」のためにたたかえという不破さんには、レーニンのいう〝記帳と統制〟の意味がわからなくて当然なのかもしれません。だ が、しかし、〝記帳と統制〟の概念に真っ黒な墨を塗って塗りつぶすことは、レーニンがおくれたロシアで知力を尽くしておこなった科学的社会主義の理論と実 践に泥をぬるだけで、科学的社会主義の理論を発展させるうえでなんの積極面もありません。あるのは、部分的な誤りをとりだして、それがすべてであるかのよ うに言う誤った認識と自己顕示欲だけです。
 産 業の空洞化が極限近くまですすみ、マルクスを知らない人からも資本主義の危機が叫ばれているにもかかわらず、マルクスを知っているはずの人たちが「賃金を 上げれば経済はよくなる」、「ルールある資本主義」で日本はよくなると言っている現代日本で、〝記帳と統制〟のもつ意味を再確認し、日本における〝国民の 新しい共同社会〟づくりに活用することはますます重要になっています
  だから、もう一度、〝記帳と統制〟についてのマルクスとレーニンの考え、科学的社会主義の考えはどのようなものなのか、見てみましょう。

4、「記帳と統制」に関してのマルクスとレーニンの考え

  マルクスは『資本論』で、社会主義社会での価値規定の役割について「資本主義的生産様式が解消した後にも、社会的生産が保持されるかぎり、価値規定は、労 働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後にそれに関する簿記が以前よりもいっそう重要になるという意味では、やはり有力に作用 するのである」(第3巻第2分冊大月版P1090)と述べ、社会主義社会では「労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後にそ れに関する簿記が以前よりもいっそう重要になる」ことを述べています。
 こ れらを深く学んだレーニンは、「記帳と統制」という概念について、不破さんとは異なり、マルクス同様、より広い意味をもって考えていました。だから、レー ニンは、『さしせまる破局、……』でも、「物資の生産と分配とに労働力を正しく配分すること、国民の労力を節約し、労力のむだづかいをいっさいなくし、労 力をはぶく」ために「国家が統制し、監督し、記帳し、規制する」ことの必要性をはきりと述べています。また、『さしせまる破局、……』よりも一年も前に書 いた、『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』(1916年8月~9月に執筆 全集 第23巻P16~20)は、レーニンの理論活動を『さしせまる破局、……』前後で区切る不破さんの歪曲をきぱりと否定しています。
 ちょっと長くなりますが、レーニンの思想を理解していただくために、お読み下さい。
「一般に資本主義、とくこ帝国主義は、民主主義を幻想に変える──だが同時に資本主義は、大衆のなかに民主主義的志向を生みだし、民主主義的制度をつくりだし、民主主義を否定する帝国主義と、民主主義をめ ざす大衆との敵対を激化させる。資本主義と帝国主義を打倒することは、どのような、どんなに『理想的な』民主主義的改造をもってしても不可能であって、経 済的変革によってのみ可能である。しかし、民主主義のための闘争で訓練されないプロレタリアートは、経済的変革を遂行する能力をもたない。銀 行をにぎらないでは、生産手段の私的所有を廃止しないでは、資本主義に打ちかつことはできない。しかし、ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいす る、全人民の民主主義的管理を組織することなしには、全勤労大衆を、すなわち、プロレタリアをも、半プロレタリアをも、小農民をもひきいて、彼らの隊列、 彼らの勢力、彼らの国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには、これらの革命的措置を実行することはできない。………… 社会主義は、あらゆる国家の死滅へ、したがってあらゆる民主主義の死滅へ導く。しかし社会主義は、プロレタリアートの独裁を通じるよりほかには実現されな い。ところでこのプロレタリアートの独裁は、ブルジョアジーすなわち国民のなかの少数者にたいする暴力と、民主主義の完全な発展、すなわち、あらゆる国事 への、また資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展とを結びつけるのである。」
 このように、レーニンは、「銀行をにぎる」こと「生産手段の私的所有を廃止」することとともに、人民がどう経済をコントロールしていくかということを片時も忘れることはなかった。こ のことを忘れる(気づかない)と不破さんのような誤った解釈に導かれることもある。それは、それなりの能力なのだからやむを得ない。しかし、レーニン全集 も読み、『資本論』も読んでいる者ならば、故意でないかぎり、滅多にそのような誤りは犯さないと思うし、共産党の幹部にはそのような誤りは許されないと思 う。
  マルクスとレーニンのこのような基本的な考え方にもとづく〝記帳と統制〟とは、「彼らの国事参加を民主主義的に組織する」ことであり、「資 本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展とを結びつける」ことであり、〝by the people〟の力で生産のあり方を「統制」し、富の使われ方を「記帳」することによって社会主義社会の経済運営を合理的にコントロールしようとするもの です。残念ながら、現在の不破さんにはそのことがまったく理解できない。
  不破さんが引用したもの以外のレーニンの文献も参照しながら、〝記帳と統制〟に関するレーニンの考察の過程を見てみましょう。

5、レーニンの〝記帳と統制〟の捉え方と不破哲三氏の「記帳と統制」の捉え方

レー ニンは、社会主義社会の計画的な経済運営、つまり、「記帳の組織、巨大企業の統制、国家経済機関全体を、一つの巨大な機構に、数百万の人々が一つの計画に 指導されるような仕方で活動する経済的有機体に転化すること」(第七回大会の「戦争と講和についての報告」、1818年3月)を〝記帳と統制〟という言葉 で表現しました。
 こ のように、マルクスとエンゲルスの思想を正しく引き継いだレーニンが、資本主義の無政府性を克服するために導き出した〝記帳と統制〟という概念は、その変 革の主体である労働者階級による「社会の民主的組織化」と一体のものとして結びつけられており、「生産の社会化」を全面的に、合理的に推しすすめるための スローガン(キーワード)でした。
マルクス経済学は、生産力の発展にともなう商品の一般化と市場の発展のなかで資本主義社会──生産手段の私的所有のもとで社会的生 産が行われる社会──が生まれ、「市場」は投機と価値実現の場として資本主義の発展を支え、資本主義社会では、商品は商品資本に、貨幣は貨幣資本に転化 し、「市場」は「市場経済」(=資本主義経済)のプラットホームとしての性格を持つことを認め、共産主義社会では、「貨幣資本」としての「貨幣」も「商品 資本」としての「商品」も「市場経済」の場としての「市場」も廃止されるべきものというような認識を、一般に持っていました。
 マルクスも『資本論』で、「その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である」(第3巻第2分冊大月版P1090)と述べています。
  しかし、生産手段の私的所有がなければ貨幣は貨幣資本に転化しないし、「市場」は「市場経済」のプラットホームとしての性格を持ちません。ただし、社会主 義社会でも小生産者は残り、彼らにとって「市場」は「市場経済」のプラットホームとしての性格を持つので、「市場経済」の復活をゆるさない「市場」の統制 とそのための社会的ルールを作ることが必要です。
レー ニンも、「マルクス主義のイロハなりとまなんだわれわれは、みなこの取引と商業の自由から不可避的に出てくることは、商品生産者が資本の所有者と労働力の 所有者とに分離し、資本家と賃金労働者とに分離すること、すなわち、資本主義的賃金奴隷制が再建されることだということを知っている」(「ロシア共産党 (ボ)第十回大会」六 割当徴発を現物税に代えることについての報告、1921年3月)という認識を持っていました。
10 月革命時の「危機」のなかで、計画的な経済運営、つまり、「記帳と統制」の一環として食料(穀物)を中心とする生活物資の民主的な配給を位置づけたレーニ ンは、配給制の強化とともに「市場」の廃止を「資本主義的賃金奴隷制が再建される」ことを阻む計画的な経済運営の柱の一つに位置づけ推進しようとしまし た。
  こ のように、消費財の「厳格な全人民的な」記帳と統制とを組織するという方策は、戦時経済のもとでの必要と「市場」がある限り資本主義は復活するから「市 場」を廃止しなければならないという考えを前提にして、「共産主義的な生産と分配に直接移行する」ために導き出されたものでした。
「市場経済」=資本主義経済を「統制」するのではなく、「市場」を廃止する方策は、小生産者の労働意欲を低下させ、物資の隠匿、物流の停滞をまねき、国民生活と国民経済とを危機的状況に陥らせました。
 このように、戦時の「危機」対応としての消費物資の分配制度が、〝市場の廃止〟の考えと結びつき、小経営からの生産品の徴用を含むものとなってしまったところに問題がありました。
こ の失敗から学んだレーニンは、「市場」の全面廃止から、小生産者の力を生かし、「市場経済」を監督・規制することと海外からの資本の導入を含む労働者階級 の権力のもとでの「国家資本主義」の強化による、産業発展・生産力の向上による社会主義経済の確立の道を探究し、確定しました。
  この「新経済政策」は、外国からの資本の導入も図りながら、生産性を高め、遅れたロシアに社会主義を実現するために、「記帳と統制」によって「われわれが 国家の概念と任務とを理解しているとおりの、国家資本主義のわくからはみだしているあらゆる資本主義を制限し、抑制し、統制し、犯罪を現場でとらえて、 こっぴどく処罰する」(『新経済政策のもとでの司法人民委員部の任務について』)ものであり、社会主義権力のもとで経済建設における〝人民民主主義〟をつ らぬくことを追求したものでした。
  参考に、レーニンが党幹部に内々に回した手紙である『新経済政策のもとでの司法人民委員部の任務について』(レーニンの抜粋14-37参照)から、関連部分の抜粋を掲載します。
 『新経済政策のもとでの司法人民委員部の任務について』の抜粋(第45巻P611-617、1922年2月20日に執筆)。
「司法人民委員部の活動は、どうやら、新経済政策にまだ全然適応していない。
 これまではソヴェト権力の戦闘機関は、主として陸軍人民委員部と全ロシア非常委員会であった。いまではとくに戦闘的な役割は、司法人民委員部がになっている。残念ながら、司法人民委員部の指導者たちや、主要な活動家たちはこのことを理解しているようにはみえない。
 ……
  新経済政策の分野での司法人民委員部の戦闘的な役割もそれに劣らず重要であるが、この分野での司法人民委員部の弱さと半睡状態は、いっそう言語道断であ る。われわれが認めたし、また認めていくのは、国家資本主義だけであること、国家とはつまりわれわれであり、われわれ意識的な労働者、われわれ共産主義者 である、ということを理解している気配が見られない。したがって、われわれが国家の概念と任務とを理解しているとおりの、国家資本主義のわくからはみだし ているあらゆる資本主義を制限し、抑制し、統制し、犯罪を現場でとらえて、こっぴどく処罰することを自分の任務として理解しなかった共産主義者たちは、役 だたずの共産主義者だと認めなければならないのである。
 ……新しい民法、「私的」契約にたいする新しい態度、等々をつくりあげなければならな い。われわれは、「私的なもの」をなにも認めない、われわれにとっては、経済の分野に見られるものはすべて、公法的であって私法的なものではない。われわ れはただ国家資本主義を容認するにすぎず、国家とは、前に言ったとおり、われわれである。だから、「私法的」諸関係への国家介入をいっそう広くしなければ ならない。「私的な」諸契約を取り消す国家の権利を拡大しなければならない。corpus juris romani[ローマ法大全]ではなく、われわれの革命的法意識を「私法関係」に適用しなければならない。
 ……
 商売したまえ、儲けた まえ、われわれは諸君にこれは許そう。だが、われわれは、正直にやる諸君の義務、正しい、正確な報告を出す義務、わが共産主義的立法の文面だけでなく、趣 旨を重視する義務、わが国の法律からいささかも逸脱しない義務を、三倍も高めよう──これこそ新経済政策についての司法人民委員部の基本的ないましめとな らねばならないのである。わが国で資本主義が「きびしいしつけをうけ」、「礼儀正しく」なるようにさせることが司法人民委員部にできなければ、司法人民委 員部がこの法規の違反を取り締り、恥ずかしいほどばかばかしい、「共産主義的に愚鈍な」一億ルーブリとか二億ルーブリといった罰金で処罰するのではなく、 銃殺で処罰することができるのを、一連の模範的な裁判で示さなければ──司法人民委員部はなんの役にも立たないことになり、そうなれば私は、中央委員会に 司法人民委員部の責任ある指導者たちを完全に更迭させることを自分の義務と見なすだろう。
 ……
               人民委員会議議長 ヴェ・ウリヤーノフ(レーニン)」
こ のようなレーニンの「記帳と統制」の概念を、不破さんは、その主たる政策が「配給」と「市場の廃止」にあるかのように描きだし、「記帳と統制」の意味を狭 めその重要な意義を低めるとともに、経済を「社会主義的経済的有機体に組織する」ために「全人民の民主主義的管理を組織する」ことを通じて「民主主義の完 全な発展」を図ることに努めようとしたレーニンの思想を隠蔽し、私たちの視野の外に置こうとします。
「資 本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力です」が、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」(『前衛』2014年2月号) と、唯物論的に社会主義建設をすすめ経済力の発展をめざすという観点に欠ける不破さんは、その仰天思想の仲間にレーニンを引き入れようとしたのか、レーニ ンが「経済的変革を意識革命から始めようという、根本路線」を持っているかのように言います。関連して、「4-20「社会変革の主体的条件を探究する」はずの不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった。(『前衛』2015年4-5月号)」も参照して下さい。
グ ローバル資本が総資本の賃上げの条件をますます狭めているなかで、賃金を上げれば景気はよくなるとか、資本の「利潤第一主義」にもとづくすべての行動が 「桎梏」だなどと言って資本主義の矛盾を〝超歴史的〟な「利潤第一主義」なるものに解消し、マルクスが言った「桎梏」という言葉のもつ革命的な意義を失わ せたり、みんなが認めるが何を言っているのか分からない、運動の主体も明確なビジョンも見えない──「あらゆる抽象的な真理は、もし諸君がなんの分析もせ ずに適用するときには、空文句にかわってしまう」という言葉がピッタリな──「ルールある資本主義」の枠の中に労働者の意識を閉じ込めようとする不破さん の思想からは、レーニンのいう〝記帳と統制〟のなかに経済の「全人民の民主主義的管理を組織する」ことも、「民主主義の完全な発展」のために労働者の民主 的な力を結集することの必要性も、その視野には入らないのだろう。不破さんたちは、風を頼りに、浅い思想、サル知恵で自らの組織に支持を集めるには、歪 曲、矮小化、トリックまがいの書き方さえあれば十分だとでも思っているのだろうか。
  このように、『経済』の2000年1月号では、不破さんがこの後に主張しようとすることの支援材料(?)が披露されたが、残念ながら、役に立たなかったようだ。これらをふまえて、『経済』(2000年2月号)での不破哲三氏の主張を検討してみましょう。

不破哲三氏の主張とレーニンの真実

  1. 不破さんは、「記帳と統制」を「消費物資の分配や統制」と歪曲
  2. 不破さんは、レーニンが、配給制度を人民の社会主義への体制的な要求と取り違えたのではないかと推測する
  3. 不破哲三氏の的外れな「推測」と「トリックまがい」の書き方
  4. 不破さんがレーニンを誹謗するために使った「ゴータ綱領批判」でマルクスが言っていること
  5. 不破さんは、「配給制度」によって「社会主義の経済組織」がつくられるというのは「社会の経済的変革を、あまりにも単純化してえがいた議論」だと、もっともなことを言う
  6. 不破さんはレーニンを皮肉るまえに、マルクス・エンゲルス・レーニンからすなおに学ぶべきではないのか
  7. 不破さんは「社会主義への移行過程における銀行の役割」を理解できない
  8. 不破さんはレーニンの一つの思想を二つに分解して、片方を矮小化したうえで批判する
  9. 不破さんは自ら矮小化した「記帳と統制」(本当は「記帳と統制」ではなく「市場」の廃止)にレーニンが陥った理由をいろいろと「推測」したあげく、説明できなくなって、レーニンは何も考えていなかったという
  10. 「市場」を神聖化する不破さんのトンチンカンな引用とトンチンカンな主張
  11. この「主張」がなぜトンチンカンなのか、詳しく見てみよう
  12. 不破さんは、レーニンが「経済的変革を意識革命から始めようという、根本路線」を持っていたという
  13. 不破さんは新経済政策を、「市場経済否定路線から市場経済活用路線への転換」と戯画化している

以下、順次、不破さんの『経済』(2000年2月号)での主張に沿って、その正しさを見てみましょう。なお、引用した文章とページは、不破さんの『レーニンと「資本論」』⑥からのものです。

1、不破さんは、「記帳と統制」を「消費物資の分配や統制」と歪曲

 『経 済』の1月号で「記帳と統制」に「新しい意義」を与えた不破さんは、「私は、レーニンの構想(不破氏の言う「記帳と統制」構想なるもの──青山注)の最大 の問題点は、国家独占資本主義という『資本主義のもっとも発展した形態』に注目したとき、社会主義的変革にむかって利用すべき『できあいの形態』として、 消費規制をふくむ『記帳と統制』の組織をとりだしたこと、なかでも、消費物資の分配の制度(配給制度)をとりだして、これを社会主義的な分配に移行する直 接の出発点にしようとしたことにあった、と思います」(P78)と述べ、「戦時経済という非常事態のもとで余儀なく始められたパンの配給制度など、消費物 資の分配や統制のうちに、国家独占資本主義のもっとも典型的なものが、事実上、『記帳と統制』の構想の最大の重点方針となったのでした」(P80)と「記 帳と統制」=「消費物資の分配や統制」と歪曲したうえで、レーニンの誤りを指摘しています。
 そして、その原因の第一として、「生産の社会化の諸形態ではなく、戦時の消費統制の諸形態のうちに、うけつぐべき『できあいの経済形態』をもとめたのです」(P81)と、ドンキホーテのように、不破さん自身が歪めたものを攻撃します。
 そして不破さんは、レーニンは「社会主義革命がブルジョア革命と異なる点は、後者のばあいには、資本主義的関係のできあいの形態があるが」、社会主義革命には『できあいの形態』はないと言っているのに、レーニンが『できあいの形態』として、消費物資の分配の制度(配給制度)をとりだしたと無茶苦茶なことを言いいます。
 し かし、これまで不破さんが一部を引用したレーニンの著作を含むこの間のレーニンの主張を見れば明らかなように、「消費物資の分配の制度」は「危機」への対 応として組み込まれたもので、「記帳と統制」全体をあらわすものでないことは明らかです。『経済』の1月号の不破さんの引用に関して、私が前後を含めて抜 粋した文章全体を見てもそのことは明らかです。
 あらためて、レーニンが何を言っているのか、第七回大会の「戦争と講和についての報告」の関連する部分を見てみましょう。
  ①レーニンがここで提起した課題は、「あらゆる社会主義革命が当面する内部的組織という任務」でした。そして、②その任務は、「記帳の組織、巨大企業の統 制、国家経済機関全体を、一つの巨大な機構に、数百万の人々が一つの計画に指導されるような仕方で活動する経済的有機体に転化すること」でした。③この任 務は、「内乱の任務を解決したときのように、けっして『ウラー』をさけんで解決する」ようなものではなく、「戦争が資本主義社会にもたらした腐敗に打ち勝 ち」、「増大していく腐敗分子」──彼らが数多く出てくることは、信じられないくらいの崩壊の時期の小ブルジョア的な国であるロシアでは、避けられないこ とであったが──を「征服する」「きわめて困難な、長い不屈の道によってのみ」可能である、ということです。
 レー ニンが提起した課題は、資本主義のもとで「もっとも発展した諸形態」を使って「記帳の組織、巨大企業の統制、国家経済機関全体を、一つの巨大な機構に、数 百万の人々が一つの計画に指導されるような仕方で活動する経済的有機体に転化すること」であり、経済を「社会主義的経済的有機体に組織する」ために「銀行 の全国的な統合とかシンジケートの国有化など」をおこない、「生産と分配にたいする『統制』」をおこなうということでした。
 そしてこの「生産と分配にたいする『統制』」は、当 然のこととして、労働者階級の権力のもとでの「国家資本主義の外皮を、投機者が、ここかしこで破」り、「専売制のぶちこわしをはかり」、「労働者権力をう ちたおす」行為を防ぐために、投機者(小ブルジョアジー・プラス・私経営的資本)を「国家的な干渉、記帳、統制」によって「服従」させ、「社会主義と国家 資本主義が、小商品生産や私経営的資本主義に次第に打ち勝ってゆく」ようにしようとする探究も含まれていました。
 しかし、これらの文章のどこをどう読めば、不破さんが言うように、「生産の社会化の諸形態ではなく、戦時の消費統制の諸形態のうちに、うけつぐべき『できあいの経済形態』をもとめたのです」(P81)となるのでしょうか。そ もそも、受け継ぐべき「できあいの経済形態」がないとレーニンは言っているのに、どうしてレーンが「できあいの形態」として、消費物資の分配の制度(配給 制度)などとりだすのでしょうか。これらの文章のどこに「消費物資の分配の制度(配給制度)」のことが書かれているのでしょうか。
 不 破さんが、自分に都合の良いように夢想するのは勝手ですが、レーニンが、「桎梏」の意味もわからず、「生産の社会化の諸形態」の発展と「私的資本主義的所 有」との矛盾もわからない人ならともかく、自らの認識の水準にあわせて、「生産の社会化の諸形態ではなく、戦時の消費統制の諸形態のうちに、うけつぐべき 『できあいの経済形態』をもとめたのです」というのはあまりにも無理があります。
 そ して、レーニンが「このもっとも発展した諸形態も、実は、工業の小さな上層をとらえていただけであって、農業にはまだほんのわずかしかふれていない」と 言っている「もっとも発展した諸形態」とは独占資本や金融資本がつくりだした、マルクスとエンゲルスのいう様々な「新たな社会の形成要素」のことです。 レーニンが『記帳と統制』でおこなおうとしたことは、この「新たな社会の形成要素」をつかって、「銀行の全国的な統合とかシンジケートの国有化など」をお こない、資本主義を社会主義的「経済的有機体に転化すること」でした。
 これまで詳しく見てきたように、不破さんの言うレーニンの誤りも、その第一の原因なるものも、完全に、不破さんが自分で作った「創作」でした。

2、不破さんは、レーニンが、配給制度を人民の社会主義への体制的な要求と取り違えたのではないかと推測する

  そして、不破さんが作りだしたレーニンの誤りの第二の原因として、「しかし、そこ(「さしせまる破局とたたかう緊急の方策」──青山注)から出発して、 『記帳と統制』(消費生活への統制)をきたるべき社会主義経済の基本政策とするという立場にふみだしたとき、レーニンは、実践的にも、戦時下の人民の要求 を、社会主義への体制的な要求と取り違えるという、一つの錯誤をおかしたのではないでしょうか」(P82)と不破さんは推測します。
  レー ニンは「配給制度」を緊急の重要な方策と考えましたが、問題は、緊急時の必要を満たすための「配給制度」の実施のなかではなく、「市場」の廃止にむけての 一連の措置のなかで、物資の隠匿が起こり、経済危機を招いたことです。「配給制度」を「社会主義への体制的な要求と取り違え」て「きたるべき社会主義経済 の基本政策」と考えていたのではなく、「市場」の廃止を資本主義を復活させないための保障と考えていたのです。
 不破さんの「第二」の誤り。不破さんは「問題」を正しく把握せず推測し、推測を根拠に自ら誤りを犯してしまった。

3、不破哲三氏の的外れな「推測」と「トリックまがい」の書き方

  不破さんはレーニンの誤りの第三の原因として、マルクスの『ゴータ綱領批判』を引き合いに出し、「これはあくまで私の推測ですが、もしレーニンが、そのこ と(共産主義社会における生産物の分配──青山注)から、共産主義の第一段階(社会主義社会)への中心問題は分配の問題にあるという結論を引きだし、それ を自分の『記帳と統制』論と結びつけたのだとしたら、そこにもまた、一つの問題があることを指摘しなければなりません」と、見当外れの「推測」をして「問 題」を「指摘」する。
 不 破さんは、『ゴータ綱領批判』の内容の一部に触れたあと、「ここで注意する必要があるのは」として、『ゴータ綱領批判』のなかの文章、「これまで述べてき たことは別にしても、いわゆる分配について大さわぎをしてそれに主たる力点をおくことは、なんといっても誤りであった」という文章を引用し、あたかもレー ニンが「分配」にこだわっており、マルクスはそれを批判しているかのような、読者に誤解を与えかねないような中途半端な解説をおこなっています。しかし、 不破さんはこの文章の肝心なところ、つまり、だれが誤っていたのかを明確に述べず、誤っている理由について(それはこの文章に続く文章でマルクスが明らか にするのだが)も何も触れていません。不破さんの文章は、事情に精通していない読者にはレーニンの「誤り」と関連するかのように思えるような唐突さで書か れています。
 こ のような文章に続いて、「ですから、もしレーニンが、『ゴータ綱領批判』における分配論から、共産主義の第一段階についてのマルクスのそこでの記述を『記 帳と統制』の決定的な重要性を指摘したものだとの結論を引きだし、それを『記帳と統制』の組織化を通じて社会主義への移行という構想と結びつけたのだとし たら、そこには、一つの理論的な錯覚があったと言わざるをえません。」と、不破さんの勝手な推測を根拠に、レーニンを断罪します。
  不破さんが何を推測しようがそれは本人の勝手かもしれませんが、不破さんが矮小化した「記帳と統制」とまったく関係のない文章を、トリックまがいの書き方で、推測の具体的な根拠も示さずにとりあげるのは、「論文」としてあまりにもお粗末なのではないでしょうか。

4、不破さんがレーニンを誹謗するために使った「ゴータ綱領批判」でマルクスが言っていること

  不破さんがとりあげた箇所でマルクスが言っているのは、①ラサールが「労働収益」という曖昧な概念をつかって「公平に分配する」という、日本共産党の 「ルールある資本主義」という言葉と同じような、「きまり文句」で綱領の記述をするのは誤っているということ②資本主義社会から生まれたばかりの共産主義 社会では、個々の生産者は、彼が社会にあたえたのときっかり同じだけのものを受けとる、つまり労働に応じて受けとる。能力の違う諸個人が不平等な条件で不 平等に受けとるということ③労働者は、これこれの量の労働を給付したという証書を社会から受けとり、その証書で同じ労働量の必要な消費手段を取得するとい うこと④ここで支配しているのは、商品交換を規制するのとあきらかに同一の原則であるということ、です。
 こ こには、「配給」も「市場の廃止」も出てきません。つまり、不破さんの「推測」の根拠などありません。創造力豊かな不破さんは、「証書」から想像力をふく らませて、レーニンを歪曲するヒントを得ようとしたのかもしれませんが、「歪曲」を「創造」することができず、自分の「推測」に「レーニン」というお面を 被せてこてんぱんにやっつけています。しかし、それは、不破さん自身を自分でぶん殴るようなもので、こんなことをしていたら信用を失うだけですから、やめ たほうがよいと思います。
  さて、不破さんが「中途半端」に脇道(『ゴータ綱領批判』)にそれたので、私もちゃんと脇道にそれさせていただきたいと思います。
 そ れは、『ゴータ綱領批判』でマルクスも「注意」してもらいたいと思い、不破さんと日本共産党にとって「注意する必要があるのは」、「これまで述べてきたこ とは別にしても、いわゆる分配について大さわぎをしてそれに主たる力点をおくことは、なんといっても誤りであった。」に続く文章です。引用します。「どん なばあいにも、消費諸手段の分配は生産諸条件の分配そのものの結果にすぎないのであって、生産様式そのもののひとつの特徴をなすのは生産諸条件の分配のほ うである。たとえば資本主義的生産様式の基礎は、物象的な生産諸条件が資本所有と土地所有という形態で働かざる者たちに分配されている一方、大衆は人格的 な生産条件つまり労働力の所有者でしかない、ということにある。生産の諸要素がこのように分配されているからこそ、消費手段の今日のような分配方式がおの ずからうまれているのである。」(マルクス『ゴータ綱領批判』(ドイツ労働者党綱領評注)岩波文庫P39-40)という文章です。
 マ ルクスは『ゴータ綱領批判』で、ラサールが「労働収益」を「公平に分配する」などと「大さわぎをして」、「それに主たる力点をおいて」、だれもが自分のい いように解釈できる「きまり文句」で「分配」について語るのは「誤り」だという。生産諸条件の分配を変えなければ消費諸手段の分配は変わらない。それなの に、「ルールある資本主義」にすれば日本はよくなる、賃金を上げれば日本経済はよくなるという。産業の空洞化をやめさせ、グローバル資本をコントロールし て「生産諸条件の分配を変え」ることよりも、曖昧な「ルールある資本主義」の実現に「主たる力点をおいて」たたかっている、不破さんが圧倒的な影響力をも つ日本共産党に、マルクスは『ゴータ綱領批判』をつうじて「誤り」だと言っているのです。
  こ のように、2000年に『ゴータ綱領批判』をもちだしてレーニンを陥れようとした不破さんは、14年後の『前衛』2014年2月号の鼎談で「従来の社会主 義論」について、「たいていが、生産物の分配どまり、経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心なことが出てこないのです。だから「未来社 会」といってもあまりうらやましくない」と、『ゴータ綱領批判』を忘れ去っています。マルクスは『ゴータ綱領批判』で「経済的土台の変化」の重要性をこれ ほど強調していたのに。語るに落ちるとはこのことでしょうか?「人間の発達」について、詳しいことはホームページ「4-18☆「人間の発達」は資本主義を社会主義に変え、生産力を発展させなければ保障されない〈階級社会の本質を曖昧にし、「生産物の分配の仕方」より「人間の発達」を重視する不破哲三氏〉」を参照して下さい。
 不破さんの「第三」の誤り。「推測」をもとに「創作」をしてはいけない。この「第三」の誤りを通じて、不破さんには『ゴータ綱領批判』のこの部分に関して解説をする資格がないことがはっきりした。

5、不破さんは、「配給制度」によって「社会主義の経済組織」がつくられるというのは「社会の経済的変革を、あまりにも単純化してえがいた議論」だと、もっともなことを言う

  不 破さんは、レーニンの誤りの「第四」の原因として、「レーニンの国家独占資本主義論の重要な命題の一つに、〝国家独占資本主義と社会主義とのあいだにはど んな中間の段もない〟という有名な命題があります」、「中間的段階を否定したレーニンの議論」は「国家独占資本主義論の基本命題として取り扱うわけにはゆ かない」とレーニンを歪曲したうえで、「国家独占資本主義」を「記帳と統制」することによって「社会主義の経済組織」がつくられるというのは「社会の経済 的変革を、あまりにも単純化してえがいた議論」だと言う。(P87-88)
  マルクスも言っているとおり、独占資本は資本主義から社会主義への社会発展の「桎梏」であり、レーニンが当時のドイツの「国家独占資本主義」を社会主義とのあいだにどんな中間の段もないものと見たことに誤りはありません。だから、社会主義建設のためのレーニンの「新経済政策」も、労働者階級の権力のもとでの国家資本主義を「記帳と統制」することによって「社会主義の経済組織」をつくることをめざしたのです。な お、ドイツに代表される当時の「国家独占資本主義」と現代の先進資本主義国の資本主義とでは、そのありようが異なります。特に〝現代の日本〟では、国家と 国民はグローバル資本に一方的に利用されるだけになっています。だから、〝現代の日本〟では、独占資本(グローバル資本)の国家と国民の支配か、国民の国 家と独占資本の支配か、その二つに一つしかありません。
 「記帳と統制」を「配給制度」に自分で歪曲しておいて、「国家独占資本主義」を「記帳と統制」することによって「社会主義の経済組織」がつくられるというのは「社会の経済的変革を、あまりにも単純化してえがいた議論」だと言う。こういう人の神経がわからない。
 不破さんの「第四」の誤り。「記帳と統制」を「配給制度」に歪曲しておいて、「あまりにも単純」だという。不破さんという人の神経がわからない。
 なお、以上の第一から第四までは、不破さんがレーニンの問題点として列挙しているものですが、第二と第三は不破さん自身が認めているように明らかに不破さんの「推測」なので、レーニンには関わりのないことなのですが、不破さんの誤った「推測」の言いたい放題で、レーニンがおとしめられるのでは、レーニンが可哀想なのでふれさせていただきました。

6、不破さんはレーニンを皮肉るまえに、マルクス・エンゲルス・レーニンからすなおに学ぶべきではないのか

  不破さんは『資本論』第二部第一篇、第六章流通の「簿記」を引用し、マルクスは「資本主義経済のもとでの簿記あるいは銀行の機能のなかに、社会主義のもと で新たな意義をもつ機能や形態がうまれ、発展していることを指摘したのです。これを、物資の生産と分配にたいする『記帳と分配(ママ)』に拡大し、社会主 義の経済組織そのものを意味させる概念にまで拡大したのは、独創的な仕事でした。」とレーニンを皮肉ったつもりでいます。(P90-91)
  社会的生産とはどういうことか、生産の無政府性はどうすれば解消できるのか、不破哲三氏はもう一度、マルクス・エンゲルス・レーニンから学び直したらよいのではないか。

7、不破さんは「社会主義への移行過程における銀行の役割」を理解できない

  不破さんは、金融の役割について、マルクスは「資本主義的生産様式から『結合された労働の生産様式』(社会主義的生産様式)への移行の時期に、『有力な槓 杆』として役立つであろうという見通しを語りましたが、すぐつづいて『とはいえ、それはただ、生産様式自体の他の大きな有機的諸変革と関連する一要素とし てでしかない』と書いています」と述べ、「レーニンの見解」を「社会主義への移行過程における銀行の役割の過大評価というべきものでした」と評価してい る。(P91-92)
  私はこの文章を読んで泣きたくなってしまいました。不破哲三氏という人は、自分の見解に合わせて物事を解釈する。その解釈を根拠に他人を誹謗する。そんな人が、「正義の味方、真実の友。」の党の党首だった。その党を守って生きてきたきた多くのひとたちの姿が目にうかぶ。
 不破さんは、私は何も解釈していない、ただ事実を述べて、そのあとで「レーニンの見解」を評価しただけだ、と言うかもしれない。だましたんじゃない。読者が無知だから勝手に思い込んだんだ、と言うかもしれない。しか し、ここでマルクスが言っていることは、「社会主義への移行過程における銀行の役割の過大評価」を戒めた文章では、まったく、ない。ここでマルクスが言っ ていることは、銀行が資本主義的生産様式から『結合された労働の生産様式』への移行の時期に『有力な槓杆』として役立つこと。とはいえ、それは独立したも のではなく、資本主義的生産様式全体を変える大変革のなかで、その一つの要素として、その『有力な槓杆』として役立つということを述べたものです。だんじて、「銀行の役割の過大評価」を戒めた文章などではありません。
  そもそも、マルクスを脇に置くとしても、ロシア革命で、「もっとも巨大な全国的銀行」をソヴェトがにぎることが「いわば社会主義の一種の骨格」を手にすることだと言うことが、どうして「銀行の役割の過大評価」なのか。不破さんは、金融の役割、その恐ろしさ等についてもう少し学ぶべきではないのか。共産党が、グローバルな金融投機にたいし、「取引税」で対応できるかのように考えているのも、不破さんのこのような認識が影響しているのだろうか。*「取引税」については、ホームページ「2パラダイムシフト」の「5国際社会とどう向き合うか」を参照して下さい。

8、不破さんはレーニンの一つの思想を二つに分解して、片方を矮小化したうえで批判する

  不破さんは、レーニンの「社会主義と国家資本主義が、小商品生産や私経営的資本主義に次第に打ち勝ってゆくのが、当面の段階の任務だとする展望──は、過 渡期の経済発展の特徴づけとして、『記帳と統制』路線の枠をこえる、より一般的な値打ちをもっていました。」と不破さん自らが矮小化した「『記帳と統制』 路線」なるものを、一般的でない、と批判し、そのうえでレーニンを評価しています。(P101)
  し かし、そもそも、レーニンの言う〝記帳と統制〟の概念は、不破さんの引用にある、マルクス主義者がいつも言ってきた、社会主義の存立要件である「高い生産 力」と「計画的な国家組織」のうちの、生産力を高め社会的に必要なところに資源をまわすための「計画的な国家組織」をつくるための方策について述べたもの です。
  レーニンは、「投機のおもな対象」を「穀物」として、労働者階級の権力のもとでの「国家資本主義の外皮を、投機者が、ここかしこで破」り、「専売制のぶち こわしをはかり」、「労働者権力をうちたおす」行為を防ぐために、投機者(小ブルジョアジー・プラス・私経営的資本)を「国家的な干渉、記帳、統制」に よって「服従」させ、「社会主義と国家資本主義が、小商品生産や私経営的資本主義に次第に打ち勝ってゆく」ようにしようとしました。このレーニンの思想、科学的社会主義の思想を二つに分解して、歪曲するのではなく、不破さんはもっとすなおになるべきではないでしょうか。

9、不破さんは自ら矮小化した「記帳と統制」(本当は「記帳と統制」ではなく「市場」の廃止)にレーニンが陥った理由をいろいろと「推測」したあげく、説明できなくなって、レーニンは何も考えていなかったという

  不破さんは、「記帳と統制」を「配給制度」に矮小化したうえで、レーニンは「市場経済」敵視論に陥ったが、「注目すべきことは、この『市場経済』敵視論 が、社会主義と市場経済との関係、あるいは社会主義への移行の時期における市場経済の役割などについての理論的な研究から引き出されたものではなかったと いうことです。」とレーニンが何の考えもなく「市場」の廃止の方向を目指したかのように述べています。(P104)
 「商品」が「市場」をつくり、生産力の発展によって「市場」が「資本主義」をつくった。そして、「市場」があるかぎり、資本主義が頭をもちあげる。これは事実です。
 こ のことから、マルクス経済学を学んだ少なくない人たちは、マルクスは「市場」があるかぎり資本主義は復活すると考えた、だから、「市場」は廃止されるべき ものであると思った。上記の不破さんの文章にもこのような「市場経済」=資本主義経済と「市場」との混同がおこなわれています。残念ながら、レーニンも、当初、「記帳と統制」という概念のなかの最終目標の一つに「市場の廃止」を含め、「市場経済」の「統制」と対になったものとして捉えていたのではないかと思います。
  私は、いまだに「市場経済」=資本主義経済と「市場」との混同から抜け出せずにレーニンを誹謗している人がいるなかで、レーニンの現代に残る大きな功績の一つは、マルクス主義者らしく現実を直視して、この考えを立派に乗り越えたことだと思っています。
 レー ニンの偉いところは、何事においても、実践して結果が違うと、探究し直し、すぐ誤りを改めることです(このような態度は、マルクスの理論活動でも同様で す)。誤りに気づいたレーニンは「市場の廃止」の誤りを捨て、社会主義建設のためのより重厚な「経済政策」を探究し、新しい経済政策の意義を国民が理解し やすいように「新経済政策」と名づけ、ただちに実践しました。資本を増やすための価値の実現の場としての「市場(しじょう)」は資本主義を生み育て発展させるが、価値の交換の場としての「市場(いちば)」は彩り豊かな社会主義を育てます。レーニンの「新しい経済政策」は「市場の廃止」を捨てただけではありません。「新しい経済政策」は労働者階級の権力のもとで、「市場経済」をコントロールする〝国家資本主義〟への道への模索も含んでいました。関連して、「4-13レーニンの資本主義観、社会主義経済建設の取り組み、革命論への、反共三文文筆家のような歪曲と嘲笑、これでもコミュニストか。(『前衛』2014年1月号)」も参照して下さい。
  不破さんは、いまだに、「市場経済」=資本主義経済と「市場」との混同をおこない、「社会主義と市場経済との関係、あるいは社会主義への移行の時期における市場経済の役割」などと言って、「市場経済」をコントロールするための〝記帳と統制〟など眼中にありません。レー ニンが、労働者階級の権力のもとでの「国家資本主義の外皮を、投機者が、ここかしこで破」り、「専売制のぶちこわしをはかり」、「労働者権力をうちたお す」行為を防ぐために、投機者(小ブルジョアジー・プラス・私経営的資本)を「国家的な干渉、記帳、統制」によって「服従」させ、「社会主義と国家資本主 義が、小商品生産や私経営的資本主義に次第に打ち勝ってゆく」ようにしようと〝記帳と統制〟を探究したとこはまえにも述べました。レーニンは、たたかいの 過程で、すべての「市場の廃止」という誤りをおかしましたが、実践を通じて誤りを認め修正しました。
 こ のように、結果からレーニンを誹謗する不破さんの「理論的な研究」と、世界で初めての困難極まりない大事業に挑んだレーニンの試行錯誤の「探究」とでは、 その価値は雲泥の差があるように思う。そして、これまで見てきたように、レーニンの足元にもおよばない自分の謬論に、マルクスの威信をかり、トリックを駆 使したり、トリックまがいの書き方をして、科学的社会主義を学ぼうとする純粋無垢な人たちを導こうとする不破哲三氏は、そろそろマルクスの威信をかりるの をやめて、本音をかたるべきではないのか。〝私は「市場経済」を敵視しない。私の目標は「ルールある資本主義」だ〟と。
 グローバル資本が産業の空洞化をすすめ、日本が抜け殻 のような国家になろうとしている時、社会主義建設のために〝資本をコントロール〟するレーニンの〝記帳と統制〟の思想は、グローバル資本をコントロールし て今日の日本の「危機」を救うために生かされなければならない最重要な考えの一つです。賃金を上げれば日本はよくなるという、マルクスの言う「健全で『単 純な』(!)常識の騎士たち」のような考えとは対極にある考え方だ。

10、「市場」を神聖化する不破さんのトンチンカンな引用とトンチンカンな主張

  不破さんは、レーニンが「十月革命後に、なぜ社会の経済的改造を市場経済の克服から始めようとしたのか、という疑問です。」と言い、その疑問を解くためにレーニンの『カール・マルクス』を抜粋します。『カール・マルクス』のその箇所でレーニンが言っているのは、「価値」の概念は資本主義、しかもそれは商品交換が一般化された社会という見地から見るときにはじめて理解できるといってる部分です。
  不破さんが何を引用しようとそれは不破さんの自由ですが、『カール・マルクス』のその文章の中に商品交換が「何十億回となくくりかえされる」 という言葉があることから、とんでもないことを思いつきます。不破さんは、レーニンが『哲学ノート』で、「何十億回となく」「人間の実践活動」が行われる ことによって「公理」は確定される旨のことを述べていることを思い出し、『カール・マルクス』のさきほどの文章からマルクスの商品の分析と「価値」の意味 を理解するのではなく、商品交換が「何十億回となくくりかえされる」「市場経済」(=資本主義社会)は神聖な「公理」だから触れてはいけないという、とん でもない結論にたどりつきます。
 こ の二つの文章で共通なのは「何十億回」という言葉だけです。才能のない落語家の、「『公理』の確定とかけて、市場の『不可侵性』と解く、そのこころはどち らも『何十億回』も同じことが繰り返されるから」という、訳の分からない〝なぞかけ遊び〟と同様な論法です。不破さんの論理を理解する能力の高さには恐れ 入ります。
 こ のことによって市場の『不可侵性』を得心した不破さんは、「また、かりに市場経済の克服という問題を目標として展望する場合にも、自分たちが対応するの が、何十億回もの交換現象という歴史の裏付けをもった経済的諸関係だということをふまえての、長期的で本格的な取り組みが、当然、日程にのぼるはずでし た。」と、『カール・マルクス』のこの部分でレーニンが私たちに教えている「価値」の意味とまったく関係のない、「市場」では「何十億回」も交換がおこなわれているのだから、資本主義「市場」のコントロールは「長期的」な取り組みを待てと言って、トンチンカンな理屈をつけて、レーニンたちの新しい共同社会を生みだそうとする必死の努力に対し、中傷し革命を妨害します。
 なお、この不破さんの市場の『不可侵性』を会得した「思想」は、いまの「共産党」に生きています。 それは、産業の空洞化をもたらすグローバル資本の行動を抑えようとしないこと。投機マネーの規制を「取引税」でお茶を濁そうとしていること。資産隠し、税 逃れを含むグローバル資本の行動を、資本主義国どうしの「国際的ルールづくり」をまって、民主的規制をおこなうと決め込んでいること。etc。市場の『不 可侵性』に得心した不破さんの、何もしないで「長期的で本格的な取り組み」を待つという思想が、現在の「共産党」の「政策」には脈々と流れているようで す。不破さんの「市場経済」(=資本主義社会)は神聖な「公理」だから触れてはいけないという思想が労働者の革命的なエネルギーを引きだす足かせとなっています。
*詳しくは、HP「2パラダイムシフト」の「2-5国際社会とどう向き合うか」と「3新しい人、新しい社会」の「綱領・大会決議に必要なもの」を参照して下さい。

11、この「主張」がなぜトンチンカンなのか、詳しく見てみよう

  ①、「かりに」と、「市場経済の克服という問題」を目標にするかどうかを明確にせずに論じており、具体的な提案がまったくない抽象的な「批判」(=深く考えられていない「いちゃもん」をつけるだけの文章)であること。不破さんには判断基準がない。
 ②、 「新経済政策」以前にレーニンのおかした誤りは、「市場経済の克服」ではなく「市場」の廃止だった。「市場経済」=資本主義経済は克服されるべきもので す。しかし、レーニンは「市場経済」を克服しようとして「市場」の廃止を行なおうとしてしまった。そのことをこの文章はまったく理解していないし、不破さ んには、「市場」と「市場経済」との区別もない。
 ③、 資本主義社会で価値を実現するための「何十億回もの交換現象」があったからといって、「市場経済」は神聖な「公理」でもなく、資本主義が永久不滅なもので もありません。新しい共同社会をつくるためには、「市場経済」の規制の「本格的な取り組み」は、革命後ただちに実行に移されなければならない課題でした。 なぜなら、当時のロシアでは、「市場」での投機や詐欺や隠匿を取り締まること、計画的な経済運営を行ううえでその基礎となる各企業の透明性を確保するため の「記帳」の実効性を保障させ、「市場経済」から個々ばらばらで利己的な資本主義の要素をとりのぞくことが、焦眉の課題だったからです。しかし、「市場経 済」=資本主義経済の擁護者の不破さんにはそのことがまったく理解できません。
 ④不破さんが『カール・マルクス』から引用した文章は、レーニンが「マルクスの経済学説」の「価値」について、『資本論』を使って説明をしている部分です。
  レーニンは商品には使用価値と交換価値があることを述べ、ありとあらゆる使用価値をもつ種々様々なものが等しいものとして交換されるための共通点は何かを 問い、その共通点とは、それらが労働生産物であるという点にあることを述べます。そして、商品生産が一般的な社会、社会的分業によって成り立っている社会 は、それぞれの生産物をつくる具体的労働ではなく抽象的な人間労働(人間労働一般)の量の等しさを基準に交換をおこなっているが、彼らは交換価値が等しい ということを人間労働の量が等しいこととは意識してはいないと述べ、「ある昔の経済学者」も「価値」の真の姿にたどりつけなかったことを述べます。
 こ のあとに、不破さんが「また、かりに市場経済の克服という問題を目標として展望する場合にも、自分たちが対応するのが、何十億回もの交換現象という歴史の 裏付けをもった経済的諸関係だということをふまえての、長期的で本格的な取り組みが、当然、日程にのぼるはずでした。」とトンチンカンなことを主張する根 拠(?!)となる文章がでてきます。どんな文章か全文を引用します。
 「価 値とはなにかということは、ある特定の歴史的な社会構成体の社会的生産関係の体制、しかも何十億回となくくりかえされる大量的な交換現象に現れている諸関 係の体制という見地から、これを見るときに、はじめて理解できるのである。『価値としては、すべての商品は、一定量の凝結した労働時間にすぎない』(『資 本論』大月版①P52-53)」
  この文章は、「検閲を考慮」したものか、科学的社会主義を学んでいないと抽象的で分かりづらい文章です。そ こで、私は間違った解釈をしないように、より正確な理解を得ようとして、『カール・マルクス』の「価値」の項の最後に引用されている『資本論』のページ (大月版①の222ページから223ページ)までの間に、レーニンが書いた内容と同様の意味をもつセンテンスがないか探してみました。しかし、残念なが ら、そのような文章は見つかりませんでしたが、次のような文章があり、安心しました。
㋐「資本の歴史的存在条件は、商品・貨幣流通 があればそこにあるというものではけっしてない。資本は生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじ めて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を 告げ知らせているのである。」(『資本論』大月版①P223)
㋑「生産物のすべてが、または単にその多数だけでも、商品という形態をとるのは、ど んな事情のもとで起きるのかを探究したならば、それは、ただ、まったく独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上だけで起きるものだということが 見いだされたであろう」(『資本論』大月版①P222)、つまり、資本主義時代に、はじめて、労働生産物の商品形態が一般化されるということ。
㋒ 「価値表現の秘密、すなわち人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民 衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の 一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。」 (『資本論』大月版①P81)
  これらをふまえて、不破さんが引用した文章をわかりやすく整理しなおすと、次のようになります。
 価 値とは何かというとき、資本主義的生産関係の体制、しかもそれは、何十億回となくくりかえされる大量的な交換現象をつうじて商品が価値として現れ、商品相 互の結びつきで社会が成り立っている体制という見地から、これを見るときに、すべての商品は、価値としては、一定量の凝結した労働時間にすぎないというこ とが、はじめて理解できるのである。これは、奴隷制社会に生きた偉大なアリストテレスには発見できないことだ。
 こ のように、㋐㋑㋒から「ある特定の歴史的な社会構成体の社会的生産関係の体制」とは、資本主義的生産関係の体制のことであり、「何十億回となくくりかえさ れる大量的な交換現象」とは、資本主義社会での価値の「実現」のことで、神聖で侵すことの出来ない真理でも何でもありません。不破さんの引用文の解釈をぜひ一度聞いてみたい。不破哲三氏とは、「落語家」でないとしたら、いったい何者なのだろうか。
 「科学的社会主義の『落後者』です」などと親父ギャグを飛ばさないで下さい。ことは深刻なのですから。

12、不破さんは、レーニンが「経済的変革を意識革命から始めようという、根本路線」を持っていたという

  同P107で『ソビエト権力の当面の任務』を引用して、不破さんは「経済的変革を意識革命から始めようという、根本路線に変わりありません」と述べていますが、レーニンは生産手段の社会化とそのあとの民主的統制の困難性について述べていますが、「経済的変革を意識革命から始めようという、根本路線」などもっていませんでした。これは、不破さんの事実に反する捏造です。
  な お、不破さんは、この14年後の2014年2月号の『前衛』の鼎談で「資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、こう して、人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう」、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」と仰天思想を披露して いますが、「レーニンの根本路線」なるものをその援軍にでもしようとしているのでしょうか。し かし残念ながら、マルクスもエンゲルスもレーニンも、不破さんの言う「未来社会」=社会主義社会で「発展の推進力が上部構造に移っていく」などとは思って いませんでした。資本主義社会では資本の私的資本主義的性格が経済発展の推進力ですが社会主義社会では生産手段の社会の共同所有が経済発展の基礎的推進力 となるのです。
  マ ルクスは、不破さんの言う「未来社会」では、「政治」よりも「経済」がいっそう重要になり、「生産力」を発展させることがすべての基礎であることを述べて います。社会の共同所有となった生産手段を使って「生産力」を発展させるために、レーニンは、「新しい組織者的才能のある人々を国家統治の仕事へ幅広く参 加させ」、「大衆を代表するソヴェト諸機関の成員の統制のもとで大衆によって実施されている諸原則を基礎として、短期間のうちに生産の実際的組織者の新し い層を生みだし、彼らに地歩をかためさせ、彼らにふさわしい指導的地位を占めるようにさせる」(第42巻『論文『ソヴェト権力の当面の任務』の最初の案 文』)ことを追求しました。このように〝by the people〟の思想に貫かれており、不破さんの言うように「指揮者」に従うだけの社会ではありません。共同の生産力の発展のための国民の参加、共同の生産力の発展のための民主主義の構築をぬきにした「人間の能力の発達」や「上部構造」の変化は、「未来社会」を正しく反映させたものになりえないことはあきらかです。
  マルクス・エンゲルス・レーニンのみならず、科学的社会主義を正しい認識だと思っている人は、「未来社会」では「発展の推進力が上部構造に移っていく」などと思うはずがありません。詳しくはHP4-20「『社会変革の主体的条件を探究する』という看板をかかげて不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった。」を参照して下さい。

13、不破さんは新経済政策を、「市場経済否定路線から市場経済活用路線への転換」と戯画化している

 同P125で、不破さんは、レーニンは「この綱領を採択した第八回党大会から二年後の1921年、市場経済否定路線から市場経済活用路線(新経済政策)への根本的な転換をおこないました」と述べています。
  なんと単純で明快な全否定でしょう。レーニンは「ロシア共産党(ボ)第十回大会」(1921年3月)での報告を見ても、共産主義社会では「市場」は廃止されるべきものと考えていました。し かし、社会主義社会では「新経済政策」によって、外国からの資本の導入も図りながら、生産性を高め、遅れたロシアに社会主義を実現するために、「われわれ が国家の概念と任務とを理解しているとおりの、国家資本主義のわくからはみだしているあらゆる資本主義を制限し、抑制し、統制し、犯罪を現場でとらえて、 こっぴどく処罰する」(『新経済政策のもとでの司法人民委員部の任務について』、1922年2月)ような「記帳と統制」をおこない、「市場経済」をコント ロールしようとしたのです。
  参 考に、地方的取引停止の誤りと中農を満足させるための新経済政策について述べている1921年3月15日のロシア共産党(ボ)第十回大会の「割当徴発を現 物税に代えることについての報告」と1921年10月14日の『十月革命四周年によせて』を抜粋したので参照して下さい。
1921年3月15日のロシア共産党(ボ)第十回大会の「割当徴発を現物税に代えることについての報告」
「取 引の自由とはどんなことか? 取引の自由とは、商業の自由であり、商業の自由とは、資本主義への後退を意味する。取引の自由や商業の自由は、個々の小経営 主間の商品交換を意味する。マルクス主義のイロハなりとまなんだわれわれは、みなこの取引と商業の自由から不可避的に出てくることは、商品生産者が資本の 所有者と労働力の所有者とに分離し、資本家と賃金労働者とに分離すること、すなわち、資本主義的賃金奴隷制が再建されることだということを知っている。こ ういう再建は、天から降ってくるものではなく、全世界で、ほかならぬ商品的農業から成長してくるものである。われわれはこのことを理論的によく知ってい る。そしてロシアでは、実生活と小農業経営の条件をよく見まもったものは、だれでもこのことを観察しないわけにはいかない。
 まさか、共産党が商業の自由をみとめ、 それに移っていけるものだろうか? そこにはあいいれない矛盾がありはしないか? いうまでもなくこの問題を実践的に解決することは、きわめて困難である と、これにはこたえなければならない。私が予見しているし、また同志諸君と話合って知っていることでもあるが、割当徴発を税にかえることについての草案 ──諸君に配布してあるこの草案は、交換を地方的経済取引の範囲内でみとめるという点について、もっとも多くの疑問を呼びおこしているが、こういう疑問は 当然であり、また避けられないものである。このことは第八項の終りに述べてある。これはなにを意味するか、その限界はどうか、どうやってこれを実現するの か? このような疑問にたいして、この大会で答をえようとおもう人があるとすれば、それはまちがっている。われわれはこの疑問にたいする答を、われわれの 法律からあたえられるだろう。われわれの任務は原則的方針を確定し、スローガンを提出することだけである。わが党は政府党であり、党大会がおこなう決定 は、全共和国にとって拘束力をもつであろう。だからここでわれわれはこの疑問を原則的に解決しなければならない。われわれはこの疑問を原則的に解決し、そ のことを農民に知らせなければならない。なぜなら作付は目前にせまっているからである。そのうえで、どうやればよいかを考えるために、われわれの全機構、 われわれの理論陣営全体、われわれの実践的経験全体をうごかすべきである。理論的に言って、プロレタリアートの政治権力の根底そのものを傷つけることなし に、そうすることができるであろうか、小農民のためにある程度まで商業の自由を、資本主義の自由を回復することができるであろうか? そういうことはでき るであろうか? それはできる。なぜなら、問題は度合にあるからである。もしわれわれがわずかの量であっても商品を手にいれることができ、それを国家の手 に、政治権力をもつプロレタリアートの手にたもっておき、これらの商品を流通させることができるならば──われわれは、国家として、自分の政治権力に経済 的権力を付けくわえることができるであろう。これらの商品を流通させるならば、それは、戦争と荒廃のひどい条件に圧迫され、小農業を拡大する可能性がない ことに圧迫されて、いまひどく麻痺している小農業を活気づけるであろう。小農民は小農民としてとどまっているかぎり、彼の経済的土台、すなわち小規模な個 別経営に応じた刺激、衝動、動機をもたなければならない。ここでは地方的な取引の自由からとびだすことはできない。もしこの取引が、工業製品と交換に、都 市、工場、工業の需要をみたすにたりるだけの一定の最小限度の量の穀物を、国家に提供するならば、経済的取引は回復され、国家権力はプロレタリアートの手 にとどまり、つよまるであろう。農民は、その手に工場、工業をにぎっている労働者が農民と取引することができることを実践のうえでしめしてくれるのを要求 している。他方では、交通の不便な、広大無辺の広がりと、いろいろな気候といろいろな農業条件その他をもった広大な農業国は地方的農業と地方的工業間の、 地方的規模の取引の自由を、不可避的に前提している。われわれは、さきばしりすぎてこの点で非常に多くのあやまちをおかした。われわれは商業と工業を国有 化し、地方的取引を停止するという道を、あまりにもさきまですすみすぎた。これは誤りであったろうか? 疑いもなくそうである。
 この点でわれわ れは多くのまったくの誤りをおかした。そしてわれわれが度合をまもらず、またどうやってまもったらよいか知らなかったということを、ここで見ようとも理解 しようともしないなら、それは最大の罪悪であろう。だがこれもまた必要をよぎなくされたものであった。われわれは、これまで、経済の分野でも軍事的に行動 するほかなかったような、激しい、前代未聞の苦しい戦争の条件のもとにくらしてきたのである。荒廃した国が、このような戦争にもちこたえたことは奇跡で あった。この奇跡は天から降ってきたものではなく、労働者階級と農民の経済的利害から生まれてきたものであり、彼らが大衆的に奮起してこの奇跡をつくりだ したのである。この奇跡によって地主と資本家にたいする反撃が生みだされた。だがそれと同時に、われわれが理論的にも政治的にも必要とされる以上に、すす みすぎたことは、疑いのない事実であり、このことを煽動・宣伝のうえでかくす必要はない。われわれは、プロレタリアートの政治権力を傷つけないで、つよめ ながら、かなりの程度に、自由な地方的取引をゆるすことができる。これをどういうふうにやるかは実践の問題である。これが理論的に考えられうることを証明 するのが私の仕事である。国家権力をその手ににぎっているプロレタリアートにとっては、なにほどかの資源があるなら、この資源を流通させ、それによって中 農にある程度の満足をあたえ、地方的経済取引にもとづいて中農を満足させることは、十分に可能である。」(第32巻「ロシア共産党(ボ)第十回大会」 (1921年3月8日~16日)「六 割当徴発を現物税に代えることについての報告」、P230~233)
  そして、レーニンは『十月革命四周年によせて』(1921年10月14日)で次のように述べています。
「わ れわれは、十分な考慮もせずに、小農民的な国で物資の国家的生産と国家的分配とをプロレタリア国家の直接の命令によって共産主義的に組織しようと、考えて いたのである。」しかし、革命の発展の客観的な経過は、「直接に熱狂にのってではなく、大革命によって生みだされた熱狂の助けをかりて、個人的利益に、個 人的関心に、経済計算に立脚して、小農民的な国で国家資本主義を経ながら社会主義に通じる堅固な橋を、まずはじめに建設するよう努力したまえ。さもなけれ ば、諸君は共産主義に近づけないであろう。さもなければ、諸君は幾百万幾千万という人々を共産主義に導くことができないであろう。実生活はわれわれにこう かたった。」(第33巻)と。
  こ のようにレーニンは「市場」を捉えていたが、ロシアでの社会主義建設のために、「われわれが国家の概念と任務とを理解しているとおりの、国家資本主義のわ くからはみだしているあらゆる資本主義を制限し、抑制し、統制し、犯罪を現場でとらえて、こっぴどく処罰する」(『新経済政策のもとでの司法人民委員部の 任務について』、1922年2月)ような「記帳と統制」をおこない、「市場経済」をコントロールしようとしていたのです。

このページの結論

  不破さんは、レーニンの〝記帳と統制〟の概念をマルクス・エンゲルスの思想から切り離し「配給制度」に矮小化して、「配給制度」を攻撃することを通じて、レーニンの思想を「市場経済」敵視論と攻撃し、「市場経済」(資本主義的競争市場をもつ経済)を擁護する。そして、最後に「1921年、市場経済否定路線から市場経済活用路線(新経済政策)への根本的な転換をおこないました」と言ってレーニンを評価する。
 不破さんは本音を語るべきだ。〝私は「市場経済」を敵視しない。私の夢は「ルールある資本主義」の実現だ。〟と。