2-1-6

現代の資本主義が準備する新しい生産様式の社会

──「資本」のための経済から「人間」のための経済への転換の条件──

国民の新しい共同社会はどのように組織されるのか

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現代の資本主義が準備する新しい生産様式の社会

はじめに

独裁による社会経済の支配は破綻せざるを得ないし破綻させなければなりませんが、まったく同様に、私的資本による社会経済の支配も破綻せざるを得ないし破綻させなければなりません。現代の資本主義は何を準備し、新しい生産様式の社会はどのように組織されるのか、「資本」のための経済から「人間」のための経済への転換の条件を、みなさんと一緒に、探って行きましょう。

Ⅰ、「空洞化・属国化の克服と新たな資本主義の模索を」という支離滅裂なタイトルの論文

日本共産党の機関紙『赤旗』に、「空洞化・属国化の克服と新たな資本主義の模索を」という訳の分からないタイトルの論文が掲載された『経済』(雑誌)の宣伝広告が載っていたことがあった。このページへの導入として、この支離滅裂なタイトルが現代の資本主義の進路についての無知を見事に現わしているものであることを確認して、ページを前に進めたいと思います。

現代の資本主義

資本が大きくなることによって経済を大きくさせるという仕組みの資本主義のもとで、日本を含む先進資本主義諸国は、1960年代末から70年代のはじめころまでは先進資本主義諸国内での経済の発展に、まだ、伸びしろがありました。だから、経済の拡大にともなって労働者の生活も向上し、そのため、この頃のことは「資本主義の黄金時代」ともいわれます。しかし、この頃から、先進諸国では、生産性が向上し、日用品が国民の間に充たされるにつれて経済成長は鈍化し、先進資本主義諸国のあいだでの成長に限界が見えはじめてきました。

 こうした中で、「現代の資本主義」は先進資本主義諸国から新興国への資本のグローバル展開をつうじて資本の蓄積を図るという、資本にとって必然の途を歩むこととなり、日本の財界も〝輸出中心の一本足打法〟とともに〝海外生産で儲けを確保する道〟を通じて資本の拡大・蓄積を図ってきました。日本を捨てて、資本と雇用を海外に輸出する海外生産の進展が産業の空洞化を生み、1995年以降「空洞化」が顕在化し、GDPの伸びは停滞し、賃金も伸びず、失業率は70年に1.1%だったものが95年には3.2%と3%を突破し、同時に、非正規雇用も増大して、ぶ厚い中間層の存在のもとに成り立つ社会保障の基礎も掘り崩されてきました。

 このようなグローバル資本による世界の変革は、先進資本主義諸国に「産業の空洞化」による中間層の縮小と貧富の差の拡大をもたらし、貧しい国でのイスラム教徒の過激化をもたらしました。

 資本のグローバル展開は、巨大企業に存在理由を与え、資本主義の初期のような企業間の自由な競争が消滅し、〝神の手〟による利潤の平準化などが働かない、独占企業だけが自由を謳歌する資本主義になってしまいました。そして、それらの独占企業の主たるものを支えているのが米国で、その米国を中心に作った国際秩序が今の資本主義体制を支えています。そうしたなかで、今、成長著しい国家資本主義の中国の台頭に対し米国の覇権をかけたたたかいが仕掛けられています。

 これが、極々大雑把に見た〝現代の資本主義〟の状況です。

だから、米国の覇権に裏打ちされたグローバル資本による世界経済の支配をみとめ、その中に組み込まれれば組み込まれるほど、米国による日本の「属国化」もグローバル資本による「産業の空洞化」も深刻にならざるをえません。だから、資本が支配する社会を認めるかぎり、いくら「新たな資本主義」を「模索」しても、誰にも、グローバル資本の支配する「資本主義」以外の資本主義など見つけることはできません。

 この「空洞化・属国化の克服と新たな資本主義の模索を」というタイトルのレポートの筆者は、グローバル資本の支配のもとでも、不破さんのように、賃金を上げれば経済は成長し、新たな「資本主義」の発展があるとでも思っているのでしょうか。それとも、『住民と自治』の某編集委員が「大企業や金持ちなど亡国の輩は、海外にでていってもらったらいい」などと言って「大企業や金持ち」を追い出し、理事長が「中小企業を主軸に持続可能な地域経済を構築する」という自治体問題研究所の人たちのように、資本主義の歴史もその歴史的成果も無視してユートピア(何処にもない世界)を夢想しろとでもいうのでしょうか。

日本の「空洞化・属国化」は、

資本と政治をコントロールしなければ「克服」できない

富を国民のために使うのではなく、資本が労働者から取り上げた富を海外に持ち出し、国内産業の「空洞化」をもたらすことによって、生産力を高めるという資本主義の持つ歴史的な使命を国内で果たすことができず、〝社会の豊かさ〟を拡大再生産する〝足かせ〟となった日本の〝現代の資本主義〟の生産の仕方を変えるためには、次のような方法以外に、他に、道はありません。

 まず、政治の力を使って、資本主義のもとで、資本に逆らって資本をコントロールして「空洞化・属国化」を阻止することです。しかしこれは、「新たな資本主義の模索」などではありません。国民の利益を回復するための資本との血みどろのたたかいの第一歩であり、資本主義を変えるたたかいの、重要な、一環です。

 このたたかいを通じて、現代の資本主義がもつ矛盾と新しい生産様式の社会のグランドデザインを誰の目にも明らかにし、現代の資本主義を乗り越えた新しい生産様式の社会──社会が資本のくびきから解放された社会──の実現へと向かうことによって、日本の「空洞化・属国化」は、完全に、解消されます。

 このような、資本との激烈なたたかいを通じて新しい生産様式の社会を実現する以外に希望のもてる日本を創ることはできません。

「空洞化・属国化」を「克服」するということは、政治と経済における資本の支配を「克服」して政治と経済を民主的にするということで、「新たな資本主義」を「模索」することではありません。だから私は、「訳の分からないタイトル」だと言ったのです。

 さて、それでは、現代の資本主義が準備する、資本との激烈なたたかいを通じて実現する、新しい生産様式の社会とはどのような社会なのか、一緒に見てみましょう。

Ⅱ、現代の資本主義が準備する新しい生産様式の社会

①私的所有権が企業を支配しない、資本のない社会

 

マルクス・エンゲルスから学ぶ

マルクスは、資本の未来について、『資本論』で「資本主義のではなく共産主義の社会(この場合の「共産主義の社会」とはいわゆる「社会主義社会」のこと──青山)を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる。」(大月版③P385)と言い、「社会的生産では貨幣資本はなくなる。社会は労働力や生産手段をいろいろな事業部門に分配する。生産者たちは、たとえば指図証を受け取って、それと引き換えに、社会の消費用在庫のなかから自分たちの労働時間に相当する量を引き出すことになるかもしれない。この指図証は貨幣ではない。それは流通しないのである。」(同②P437-8)と述べ、第三部「第五篇 利子生み資本」では次のように言います。

「最後に、資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろうことは、少しも疑う余地はない。とはいえ、それは、ただ、生産様式そのものの他の大きな有機的な諸変革との関連のなかで一つの要素として役だつだけである。これに反して、社会主義的な意味での信用・銀行制度の奇跡的な力についてのもろもろの幻想は、資本主義的生産様式とその諸形態の一つとしての信用制度とについての完全な無知から生まれるのである。生産手段が資本に転化しなくなれば(このことのうちには私的土地所有の廃止も含まれている)、信用そのものにはもはやなんの意味もないのであって、これはサン・シモン主義者たちでさえも見抜いていたことである。他方、資本主義的生産様式が存続するかぎり、利子生み資本はその諸形態の一つとして存続するのであって、実際にこの生産様式も信用制度の基礎をなしているのである。」(同⑤P783)

 このようにマルクスは、新しい生産様式の社会では「貨幣資本」がなくなること、「生産手段が資本に転化しなくなる」ことを述べています。

このように、資本主義的生産様式から結合労働の生産様式の社会へ移行が行なわれるということは、信用制度の基礎をなす生産様式がなくなり、生産手段が資本に転化しなくなり、貨幣が利子を生まなくなるということで、貨幣がもっている、①流通手段、②価値表現、③「資本」の循環形態の一局面である「貨幣資本」、④利子生み資本としての「貨幣資本」という四つの機能から③と④の機能がなくなるということす。

※なお、私は、「資本主義のではなく共産主義の社会を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる」という社会において、それがまだ「社会主義社会」であり人間の労働に依拠した社会である以上、人間の労働に根拠をおく「価値表現」はなくならないし、その価値に根拠をおく「流通手段」も必要だと考えています。

 

「生産手段が資本に転化しなくなる」社会とは、

そして、それはどう創られるのか

それは、生産手段の所有者が企業を支配しない社会、私的所有権が企業を支配しない社会であり、私的土地所有や知的財産権の私的所有による搾取も法的に認められない仕組みの社会のことです。

 それでは、そのような構造の社会はどのように創られていくのでしょうか。

 私的所有権が「資本」的性格をなくし、企業を支配することができなくなっていく度合いは、〝社会的生産〟の意義を社会(国民)が認識していく度合いの深さに依存していると思います。そしてその萌芽は、目を凝らせて見ると、「現代の資本主義」のなかに見ることができます。

 2020年の「ダボス会議」(世界経済フォーラム(WEF)の年次総会)について、『日経』新聞は、「資本主義の再定義が主題になった。株主への利益を最優先する従来のやり方は、格差の拡大や環境問題という副作用を生んだ。そんな問題意識から、経営者に従業員や社会、環境にも配慮した『ステークホルダー(利害関係者)資本主義』を求める声が高まる。中国主導の『国家資本主義』に抗する新たな軸への模索が始まった。……今回の会議は『株主至上主義』の見直しをグローバルな場で再確認する機会になったといえる。」(2020/01/23)と報じています。

 このように、最初は企業の利益を「株主」と社会がどう分け合うのかにはじまり、そして、社会主義者の介入によって、「企業」は社会のなかでどんな役割を担わされているのかが問われ、社会における企業の〝社会的生産〟の意義の認識の深まり度合いに応じて、この「社会」と「企業」との関係は、「株式」の所有のあり方と「株式」の機能の変化とを制度的に定着させ、〝資本のない社会〟を実現させていきます。

 このような企業の再定義と〝資本のない社会〟を実現させるための、国民へのたゆまぬ説明がなければ、資本主義社会から新しい生産様式の社会への発展はありません。そして、その任を先頭に立って担うのは、正しい〝科学的社会主義の思想〟を身につけた人たちです。「科学的社会主義の思想」の持ち主を自認する人は、このことをしっかり考えて、肝に銘じて下さい。「賃金が上がれば、経済が発展する」などという「資本主義発展論」を吹聴するニセ「科学的社会主義」者を科学的社会主義の世界から追い出して下さい。

 それでは、このように資本の企業支配を法的に排除した新しい生産様式の社会は、資本に代わって何が社会を支配するのか、一緒に見てみましょう。

②全人民の民主主義的管理を組織する

 

レーニンから学ぶ

資本に代わって何が社会を支配するのかという問題について、レーニンは次のように言います。

「一般に資本主義、とくこ帝国主義は、民主主義を幻想に変える──だが同時に資本主義は、大衆のなかに民主主義的志向を生みだし、民主主義的制度をつくりだし、民主主義を否定する帝国主義と、民主主義をめざす大衆との敵対を激化させる。資本主義と帝国主義を打倒することは、どのような、どんなに『理想的な』民主主義的改造をもってしても不可能であって、経済的変革によってのみ可能である。しかし、民主主義のための闘争で訓練されないプロレタリアートは、経済的変革を遂行する能力をもたない。銀行をにぎらないでは、生産手段の私的所有を廃止しないでは、資本主義に打ちかつことはできない。しかし、ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織することなしには、全勤労大衆を、すなわち、プロレタリアをも、半プロレタリアをも、小農民をもひきいて、彼らの隊列、彼らの勢力、彼らの国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには、これらの革命的措置を実行することはできない。…………社会主義は、あらゆる国家の死滅へ、したがってあらゆる民主主義の死滅へ導く。しかし社会主義は、プロレタリアートの独裁を通じるよりほかには実現されない。ところでこのプロレタリアートの独裁は、ブルジョアジーすなわち国民のなかの少数者にたいする暴力と、民主主義の完全な発展、すなわち、あらゆる事への、また資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展とを結びつけるのである。」(『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』1916年8月~9月に執筆 全集 第23巻P17~18)

 

「あらゆる国事への」国民の「真に全般的な参加の完全な発展」とは

レーニンが言うように、資本に代わって社会を支配するのは、「民主主義の完全な発展、すなわち、あらゆる事への、また資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展」以外にありません。資本が倒れても、民主主義が、人民の参加がなければ特権階級を生み、特権階級の支配を生みます。そのことは、ソ連が証明しています。

 世界経済フォーラム(WEF)は、2020年6月3日、2021年のWEFの年次総会のテーマを「グレート・リセット」と決め、『日経』とのインタビューでWEFの創設者のクラウス・シュワブ会長は、「世界の社会経済システムを考え直さないといけない。第2次世界大戦から続く古いシステムは異なる立場のひとを包み込めず、環境破壊を引き起こしてもいる。持続性に乏しく、もはや時代遅れとなった。人々の幸福を中心とした経済を考え直すべきだ」「次の世代への責任を重視した社会を模索し、弱者を支える世界を作っていく必要がある。」と言い、「自由市場を基盤にしつつも、社会サービスを充実させた『社会的市場経済(Social market economy)』が必要になる。政府にもESG(環境・社会・企業統治)の重視が求められている」(2020/06/04付け)と述べています。(*)

 このように、「現代の資本主義」は資本主義に幻想を抱いている人たちにも私たちと同じ方向を向くことを強制しています。しかし、資本が支配する「自由市場」を「基盤」としたのでは、それは絵に書いた餅です。制度を変え、〝資本の支配〟から〝人民の支配〟へと社会のコントロールを〝グレート・リセット〟しなければ、問題は解決しません。

 政治の場で、生産の場で、生活の場で、「真に全般的な参加の完全な発展」を図ることが必要です。生産の場での、資本を排除した、地域と労働者の意向が反映されるような経営への労働者階級と国民の民主的参加は、特別に重要です。その小さな萌芽の一つともいえるのが、革新自治体が全国に燎原の火のように広まる中で自治体労働者が組織した〝自治研〟運動でした。労働者階級は自らの企業の経営にコミットできるだけの能力を身につける努力をしなければ、新しい生産様式の社会など望みようもありません。そして、その能力を生かせるような制度が実現したときから、新しい生産様式の社会が始まります。

(*)なお、WEFは毎年1月にダボスで年次総会を行いますが、2021年の年次総会は、「COVID-19」の影響で、延期に延期を重ね8月にシンガポールで開催される予定でしたが、中止となりました。

③新しい生産様式の社会は人間をどこへ導くか

 

新しい生産様式の社会は、

人間をどこへ導くか

このように、新しい生産様式の社会は〝資本の支配〟を法的に排除し、〝人民の支配〟が参加によって保証された社会です。そして、この〝新しい生産様式〟のことをマルクスは〝結合労働の生産様式〟と呼びました。

 この、人々の「真に全般的な参加」によって構成された〝結合労働の生産様式〟の社会で、〝労働〟はどのように変わっていくのか、二つの視点から見てみましょう。

 「ある人」は、「未来社会論」なるもので、マルクスのいう〝自由の国〟について、「自由の国」とは「自由な時間」のことで資本主義社会における「余暇」も「自由な時間」だから「自由の国」だと言い、未来社会において労働が「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動」となるから、物質的生産にあてるべき時間は「必然性の国」だと、わけの分からないことを言います。

 〝自由な時間〟とは、その時間を自由な意志にもとづいて使えるだけでなく、自由に使うための物質的条件が整っていなければなりません。そして、資本主義的生産様式の社会は、一般国民にとっては時間を自由に使うための物質的条件が非常に狭められていますが、この人は、「自由な時間」をどんな社会にでも必ず少しはある「余暇」に一般化し、矮小化してしまいます。

 今でも極わずかではあるが自分の望む研究に寝食を忘れて没頭することのできる〝自由な時間〟を得た人たちもいますが、マルクスとエンゲルスは、人々の「真に全般的な参加」によって構成された〝結合労働の生産様式〟の社会では、労働が「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わ」り、生産性の向上によって人間の労働から単純反復労働が排除され「労働日の短縮」も本格的に実現していくにしたがって、個人の「自由な時間」も飛躍的に拡大し、同時にその過程で、個人の発展にともなって「諸個人が分業に奴隷的に従属する」システムの解消も進んで「精神的労働と肉体的労働との対立」もなくなり、「労働」そのものが「生きがい」となり、「諸個人の全面的な発展」が保障される社会へと変化していくという展望を示しました。そして、そのようにして出来た未来社会をマルクスとエンゲルスは〝共産主義社会〟(共産主義社会のより高度の段階の社会)とよび、〝自由の国〟と呼びました。

 このように、この「ある人」とマルクス・エンゲルスとでは「自由の国」についても、「労働」と労働者との関係の見方についても、まったく異なります。

 そしてこの「ある人」は、未来社会のもう一つの特徴として「指揮・監督労働」が「指揮者はいるが支配者はいない」ものに変化することだと言いますが、この考えは、次のように、二重に間違っています。

 まず第一に、この人は社会の進歩によって「精神的労働と肉体的労働との対立」もなくなり「労働」そのものが「生きがい」となる社会を否定し、労働が、未来永劫に特定の指揮者のもとで「諸個人が分業に奴隷的に従属する」「社会の構成員にとって義務的な活動」として続くものと見ています。

 第二に、人々の「真に全般的な参加」によって構成された〝結合労働の生産様式〟の社会での企業経営の問題が、この人によって生産過程での「指揮・監督」の問題に矮小化され、革命──つまり、生産様式の変革──の本当の意味、革命の核心が隠蔽され、人民による統治(by the people)に多くの国民が目覚めることが妨げられます。

これまで、この「ある人」を俎上に載せて〝新しい生産様式の社会は人間をどこへ導くか〟ということを極々簡単に見てきましたが、新しい生産様式の社会への途は、あからさまな資本主義弁護論者とともにこのような人たちの誤った考えを国民が克服することを通じて前進します。そのたたかいを通じて生まれた新しい人たちが、〝諸個人の全面的な発展〟を保証する〝結合労働の生産様式〟の社会をつくり、長く続いた「野蛮」の時代を終わらせ、人間の新しい文明の時代を、立派に、築きあげていくことでしょう。

現代の資本主義に生きる私たちは、幸運にも、その岐路に立ち、最も生き甲斐のある時代に生を受けたのです。そのことを意識して悔いのない人生を生き抜きましょう。

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次のページでは、「資本主義的生産様式の社会」と「ポスト資本主義社会」との違いを、それぞれの「生産様式」のもつ法則に基づき箇条書きに整理し、日本の現状から日本の未来のための私たちの課題を見つめます。

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