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☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった。「前衛」2015年4-5月号

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Ⅰ、『前衛』2015年4月号関係

 不破哲三氏の「社会変革の主体的条件を探究する」と題する『前衛』2015年4-5月号(No920、922)の「論文」の副題は「労働者階級の成長・ 発展に視点をおいて」となっている。現在の日本共産党の綱領には「労働者階級」という言葉は出てきますが、「社会変革の主体」という意味では出てきません。 現在の共産党に絶大の影響力をもつ不破さんが、「労働者階級」を「社会変革の主体」として捉えているとすれば、それは大変喜ばしいことです。しかし、残念ながら「探究」する内容が、私たちの望むものとは違っていました。

社会変革の必要性を全ての機会に語らない者は革命家とはいえない

 不破さんはP17で、『賃金、価格および利潤』の内容について「この講演は、…資本の搾取に反対する労働組合の闘争の意義を経済学的に根拠づけることに 主眼をおいておこなわれたものでした。しかし、講演はそこにとどまらず、労働者階級の闘争の将来の課題──賃金制度を廃止する社会変革の課題にまで、論及 したのです」とのべています。しかし、マルクスは「賃金制度を廃止する」ことを「労働者階級の闘争の将来の課題」として、現在の闘争と切り離して考えたことなど一度もありません。マルクスは『資本論』の「労働日」の章と『賃金、価格、利潤』で、「社会的障害物」を強要する闘いについて、「もろもろの結果と たたかいはしているが、それらの結果の原因とたたかっているのではない」ことを述べ、資本の本質をしっかり摑むこと、労働者の団結の重要性と団結した力で要求を実現することの重要性とともに、労働運動が「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとはせず、その組織された力を労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に失敗する」と述べ、労働者 の団結を組織して資本主義的な生産関係を変えることこそが、問題の真の解決の道であることを教えています。このようにマルクスとエンゲルスは、『共産党宣言』でも『資 本論』でも、「賃金」でも「労働時間」でも、それらの要求の必要性と正当性とともに要求実現の一時的な性格性と根本的な解決のための「社会変革」の必要性、そのための労働者の団結について、いつも一体のものとして私たちに教えています。不破さんはマルクスの当たり前の言動をほめて、自分の価値を低めてし まいました。 
  なお、『賃金、価格、利潤』に関する不破さんの謬論について、詳しくはHP「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道 を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えている。」をご覧下さい。

資本には自己増殖のため以外の「慈悲」の「知恵」などない

 また、不破さんはP36で「資本主義の側から見ても、その実現は、労働者階級の衰退などの社会的破局を防止して、経済の安定的発展を支える積極的作用を はたしたのです。その意味では、そこには、〝資本主義の知恵〟の発揮があった、と見ることもできます」とのべています。しかし、本当にそのように見ること ができるのでしょうか。
 また、不破さんの著書の宣伝のために『前衛』での鼎談に付き合わされている石川康宏氏に至っては、『経済』2015年1 月号で、マルクスは「労働者の闘いの前進を」、「より巨大な資本主義の発展をもたらす要因と」とらえたと、マルクスをずる賢いキツネたち(資本家連中)の同類のように言っていますが、これも不破さんと同類の考えで、類は友を呼ぶということではないでしょうか。
  しかし、マルクスは不破さんや石川氏のような認識などまったく持っていませんでした。不破さんも引用しているように、資本家の目的は〝利潤の拡大〟で、 「資本主義的生産は、人間材料についてはどこまでも浪費をこととする」(大月版『資本論』④P109)ものです。〝われ亡きあとに洪水はきたれ!〟(大月 版『資本論』①P353)こそ、彼らのモットーです。だから、ずる賢いキツネたちのような資本家連中は、〝利潤の拡大〟のためには転んでもただでは起きま せん。「労働日」の制限にしても、工場立法にしても、彼らは小さい資本を潰し、一層の〝利潤の拡大〟のために利用します。「労働者階級の肉体的精神的保護 手段として工場立法の一般化」も「矮小規模の分散的な労働過程から大きな社会的規模の結合された労働過程への転化を、したがって資本の集積と工場制度の単独支配とを、一般化し促進」し、「小経営や家内労働の諸部面を破壊するとともに、『過剰人口』の最後の逃げ場を、したがってまた社会機構全体の従来の安全弁をも破壊」(『資本論』大月版①P653-654)しました。けっして、不破さんが言うような「資本主義の知恵」などありません。ただ、資本主義は〝利潤の拡大〟を通じて、生産力を発展させ、資本の蓄積を進め、生産の社会化を拡めて、「新たな社会の形成要素」を発展させます。社会主義を準備する。これこそが、唯一の、資本主義の進歩的な側面です。間違ってはいけません。
 なお、より詳しくは、HP「☆不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない」を参照して下さい。
 ついでですが、この「工場立法」に関する文章は、不破さんが「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的性格の矛盾」など無い、そんな規定は誤りだと常々言っていることに見事に反論していますので、見てみましょう。
 マルクスは、要旨次のように言っています。
 工場立法の一般化によって、生産の社会化の進展と資本の集積と工業全体の資本主義化を一般化し、労資の直接の闘争をも一般化する。個々の作業場では均等 性、合則性、秩序、節約を強要するが、それは同時に、全体としての資本主義的生産の無政府性と破局、労働の強度、機械と労働者との競争を増大させる。小経営や家内労働の諸部面を破壊することによって、社会機構全体の従来の安全弁をも破壊する。資本の集積と工業全体の資本主義化の結果、社会的生産諸力と社会的結合が高まるとともに、全体としての資本主義的生産の無政府性もあきらかになり階級闘争も激化する。それは、社会的生産諸力と社会的生産を「新たな社会の形成要素」として発展させ、私的資本主義的生産による「生産の無政府性」とその矛盾の現れである恐慌など私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾と労働者階級の運動の前進が「古い社会の変革契機」つまり資本主義社会を社会主義社会に変えるエネルギーとして高まってゆく、と。
  社会的生産諸力と社会的生産を発展させるためには私的資本主義的生産という「桎梏」を取り除かなければならない。このマルクスの考えとエンゲルスの考えと は完全に一致しています。生産過程の私的資本主義的性格があるから、「全体としての資本主義的生産の無政府性」があり、それが社会的生産諸力の発展の「桎 梏」になっているのです。人間の生活を全面的に支える社会的生産を実現するためには取得の私的資本主義的形態を社会主義的形態に変えなければなりません。 マルクスは「工場立法の一般化」の意義として、工場立法の一般化によって、その条件──「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」──が日々整っ ていることを述べています。

「ルールある資本主義」をつくることだけを目標とする運動は労働者のエネルギーを汲みつくすことができず、かならず失敗する

 私は、P17の不破さんの発言に関して、マルクスは「賃金制度を廃止する」ことを「労働者階級の闘争の将来の課題」として切り離して考えたことは一度も ないことを述べ、マルクスが、要求を実現することの重要性とともに、労働運動が「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の 制度をかえようとはせず、その組織された力を労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面 的に失敗する」と述べていることも紹介しました。
  このことを学ばない不破さんはP38で「私たちが、日本の現状をふまえて、『国民の生活と権利を守る「ルールある経済社会」をつくる』(党綱領)という目 標をかかげ、あらゆる面で『社会的なルール』を実現する大運動にいま取り組んでいる意味も、そこにあるのです」と述べています。マルクスは「ルールある資 本主義」だけを「目標」にしたのではダメだと言っているのです。資本主義を曝露して、「生産過程の資本主義的形態」を変えるたたかいをしなければ元も子も なくなると言っているのです。前衛党がこんなことを言っているから、労働者の腹の底からの怒りを引き出せないのです。

労働者階級の歴史的使命を資本主義の内在的矛盾だけに求める不破哲三氏の近視眼

  不破さんには科学的社会主義の考え方(マルクス・エンゲルス・レーニンの考え方)とは異なる幾つかの「独創的」な科学的社会主義の歪曲があります。
  マルクスとエンゲルスは資本主義的生産に内在する矛盾と資本主義的生産様式そのものが持つ体制的矛盾の二つの矛盾を資本主義の矛盾と捉えていました。資本主義的生産に内在する矛盾とは、「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」(大月『資本論』④ P306-7)で、マルクスの『剰余価値学説史』で「一方では、生産力の無拘束な発展、および、同時に諸商品から成っていて現金化されなければならない富の増加、他方では、基礎(グルントラーゲ)として、必需品への生産者大衆の制限、という基本的矛盾」と述べられいるので、私は「マルクスの言う基本的矛盾」と言っています。資本主義的生産様式そのものが持つ体制的矛盾とは、マルクスが「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立」(大月『資本論』⑤ P1129)と述べているもので、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」で、エンゲルスは資本主義的生産様式の根本矛盾と言っていますので、 私はこれを「エンゲルスの言う根本矛盾」とよんでいます。この「エンゲルスの言う根本矛盾」を共産党は「基本矛盾」としてつい最近まで重要な概念として認めていました。
 しかし、不破さんは、「マルクスの言う基本的矛盾」をマルクスが「資本主義の本来の限界とか、資本主義の矛盾」といっていると言 い、「より大きい剰余価値の獲得、…(略)…、『利潤第一主義』の問題を中心にすえることなしに、資本主義の害悪を語ることはできない」と言って、「利潤第一主義」に資本主義的生産の害悪のすべてを矮小化してしまいました。
  同時に不破さんは、「エンゲルスの言う根本矛盾」をエンゲルスが唱えた謬論だと言って「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」を否定してしま います。その結果、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主 義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月『資本 論』② P995)という言葉の意味が分からなくなってしまいました。「生産手段の集中も労働の社会化も」とは「生産の社会的性格」ということであり、「その資本主義的な外皮」とは「資本主義的私有」、つまり「取得の資本主義的形態」のことであるということが分からなくなってしまった。その結果、不破さんは、資本主義的生産様式が生産力の発展の「桎梏」になるという意味が分からなくなってしまい、資本主義的生産様式の内在的矛盾から取り出した「利潤第一主義」にも とずく資本主義の弊害の全てを「桎梏」だと言うに至っています。その結果、「利潤第一主義」の改善、「ルールある資本主義」の確立が最大の目的となり、不 破さんの眼中から資本主義的生産様式の「桎梏」である独占資本は消え去り、「利潤第一主義」にもとづく「地球温暖化」等ありとあらゆる未解決課題が「桎 梏」化(?)のあらわれになって、大企業の内部留保の一部を吐き出すことが「利潤第一主義」を緩和させて経済成長を実現させる大道になってしまいました。
  「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」を認めたくない不破さんは、エンゲルスもレーニンも配分方法のみを問題にし、夢がないという。資本主義的生産様式を変え私的資本主義的取得を変革することを「夢がない」と否定し、マルクスは労働時間の短縮による「自由の国」を未来社会として描いたとマルクスの考えを捏造し、無政府主義者ばりに「自由の国」を吹聴する。労働者を搾取する私的資本主義的取得の変革を「夢がない」と否定する不破さんは、「夢のある自由の国」の実現のために日本共産党の綱領から労働者階級の歴史的使命を取り除いてしまいました。

不破さんによって、労働者階級は社会変革の主体から「社会変革の闘士」に格下げされてしまった

  P52で不破さんによって、社会変革の主体から「社会変革の闘士」に格下げされてしまった労働者階級は、なぜ社会変革の「闘士」になるのか。それは、資本 の「利潤第一主義」による社会の両極での「富の蓄積と貧困の蓄積」、「社会的規模に拡大した資本主義的搾取」からの「解放」、公正な富の分配、これがαで ありωである。「配分」など「夢がない」と言っていた不破さんが資本主義的生産関係はそのままに「配分」だけを問題にする。そこには、唯物史観などない。 「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和 できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」という、労働者階級の歴史的使命が欠 落している。あるのは、資本主義の矛盾を資本主義の内在的矛盾だけに求めて、「利潤第一主義」を「ルールある資本主義」に変えるための理性の勝利に求め、 「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」を認めない不破さんの歪んだ近視眼だけです。だから、労働者は「ルールある資本主義」社会をつくる盛田昭夫氏や品川さんたちを含む大勢の人たちの中の最も虐げられた一人にすぎない。だから、「主体」ではなく「闘士」に格下げされてしまったのです。だから、いまの日本をラディカルに色鮮やかに描いて労働者階級のエネルギーを引き出すことなど、到底、できない。「社会変革の主体的条件」など「探究」できるはずがない。主役を外しておいて、主役を見つけるのは不可能だ。

「補論」で、不破さんは自らデッチあげたマルクスの革命観の破綻を告白した

  不破さんは、マルクスは「恐慌=革命」説なる考えを持っていたが、1865年に「恐慌の運動論」を発見し、革命観・資本主義観の大転換をして「革命は、労 働者階級が無準備のままで始まるものではない」と思うようになったと言い、不破さんがこのことを「発見」したのは21世紀になってからのことであることを 『前衛』No903、916、917号で述べています。そして、不破さんは、この「恐慌の運動論」に「激しい理論的衝撃」を受けたそうですが、この「恐慌 の運動論」なるものは、「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明する」もので、経済についての知識を持っていれば、現代の私たちにとっては、一般的には、 「激しい理論的衝撃」を受けるようなものではありません。もっとも、不破さんは「かなり以前から、これまで〝これがマルクスの恐慌論だ〟として説明されて いる〝恐慌論〟について、どこかに理論的な欠落があるのでは、という違和感を持ち続けていました」とのことですから、不破さんのどこかに「理論的な欠落」 があったことだけは確かです。「どこかに理論的な欠落があるのでは」という違和感というのでは、ちょっと薄弱な思想の持ち主のように感じますが。(マルク スは「無知は十分な根拠になる」と『資本論』〈第一巻 第1分冊 大月版①P404〉で述べていますが、不破さんに関しては、「無知」の方が良いのか、「我流」を通すための屁理屈を見つけるために努力した方が良いのか、 判断しかねます。一番いいのは、謙虚に一から勉強し直すことだと思います。) そういう人の書いた文章を多くの党員が真剣に読んでいたと思うと目まいがしそうですが。
 それはさておき、不破さんは、「補論」で「以上をあわせて考えると、資本主義的生産様式のもとでの労働者階級の階級的成熟の問題は、『資本論』第一部完 成稿の仕上げの時点でにわかに提起された問題ではなく、それまでの草稿執筆の過程、とくに『六一~六三年草稿』以後の時期に、マルクスの内部で、問題意識が発展しつつあった問題であることが、分かります」と述べて、マルクスが1865年以前にも「労働者階級の階級的成熟の問題」を考えており、「恐慌=革 命」説なる革命観などもっていなかったことを、こっそりと認めています。  不破さんは、自分で作り上げた「恐慌=革命」説をどこかの時点でマルクスが否定したようなトリックを作らなければならない。そこで、マルクスは1865 年に「恐慌の運動論」を発見し、それによってこれまでマルクスがもっていた(不破さんのデッチあげた)「恐慌=革命」説なる革命観を大転換したというストーリーを 作った。そのことを不破さんは21世紀になって大発見したと大騒ぎした。しかし、科学的社会主義(マルクス・エンゲルス・レーニンの考えに基礎を置く、社会を科学的に見る思想体系)をまじめに勉強してきた者にとっては、資本主義社会から社会主義社会への社会発展のなかでの労働者階級の歴史的使命についての認識は万人の了解事項です。マルクスとエンゲルスは「労働者階級の階級的成熟の問題」を意識もせずに唯物史観を確立していったなどと考える不破さんの頭脳構造とはどういうものか不思議でならない。いづれにしても、不破さんが、あたりまえのことにすぎないが、誤りの一部を認めるのは良いことです。日本共産党「綱領」を民主党綱領にしてしまった不破さんは、「『六一~六三年草稿』以後の時期」だけでなく、『共産党宣言』(1847年)や『ロシアのトルコに対する政 策──イギリスにおける労働運動』(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1853.7.1付)を書いた時期までさかのぼり、謙虚に一から勉強し直し、「綱領」に〝労働者階級の歴史的使命〟をしっかりと位置づけて、党綱領を労働者のやる気の出るにものに改めることに力を注ぐべきだが、この「論文」を 読むかぎり、その道のりはまだそうとう長そうだ。
 21世紀になってから、「激しい理論的衝撃」を受け、「多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたと『資本論』の解釈まで にわかに変えた不破さんが、なにをもって「これまでの恐慌論」と言うのかよくわかりませんが、私たちがマルクス・エンゲルス・レーニンの古典をしっかり読み、共産党もマルクス・エンゲルス・レーニンの考えを十分に引き継いでエネルギーと若さと未来への希望をもっていたいたころの「恐慌」についての考えを、 「これまでの恐慌論」と言うのであれば、それは、「恐慌=革命」説なるものではありませんでした。いまでも日本共産党を〝コミュニストパーティー〟と信じて必死に日本共産党を支えている多くの党員も、1865年まで「恐慌=革命」説なる考えをマルクスがもっていたと不破さんから聞かされたとき、さぞ驚いたことでしょう。マルクスは1865年まで「左翼小児病」患者だったのかと。『資本論』の解釈を、ユニークな仰天思想に、にわかに変えた不破さんは、日本共産党「綱領」を民主党綱領に変え、労働者階級の歴史的使命をすて去り、「ルールある資本主義」によって明るい未来を約束している。  不破さんは「恐慌=革命」説なるものを創作しましたが、マルクスもエンゲルスも「恐慌」は「政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」が「そのあとの繁栄の回帰は、革命を挫折させて反動の勝利を基礎づける」ものであると考えており、不破さんのいう「恐慌=革命」説などとっていませんでした。だから、マ ルクスとエンゲルスに「革命観の大転換と資本主義観の大転換」など元々ありませ。 詳しくはHP4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を21世紀になっ ておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった」を参照して下さい。あわせて、HP4-24「マルクス・エンゲルス・レーニンへの誹謗中傷から現 れる不破哲三氏の革命論」も参照して下さい。

 

ちょっと、ひと休み。   ことわざ、名言集

 

 〈『資本論』第2巻 大月『資本論』③P385B6-5〉には、「社会的理性が事後になってからはじめて発現するのを常とする資本主義社会」という言葉があり、〈レーニン全集の第22巻P208〉には、「意識は存在に立ちおくれるものである」という言葉がある。

 

 似て非なる言葉だが、70~80年代には日本の現状を正しく認識できなかったとしても、21世紀になっても正しく認識できないとしたら、それは、深刻な「認識障害」病に罹っていることになる。

Ⅱ、『前衛』2015年5月号関係

  前月号の続きですが、前月号で取り上げた不破さんによるマルクスの考えの歪曲等をベースに、不破さんのユニークな仰天思想が披露されます。したがって、不破さんの「理論」についての私の説明も重複したものになってしまうことをご了承ください。

「社会変革の主体的条件を探究する」不破さんは、社会変革の客観的条件をまったく探究できないことを告白。社会変革の客観的条件を探究できなくて「社会変革の主体的条件」をどのように「探究」したのか?!

 五月号は「Ⅳ」「Ⅴ」「Ⅵ」の四つの章からなっており、「Ⅳ資本主義の『必然的没落』の新しい定式」には、不破さんが自ら創作した「恐慌=革命」説なる ものにたいする氏の独り相撲と「桎梏」についての仰天思想の説明がありますが、「恐慌=革命」説なるものについては、「Ⅴ」のパリ・コミューンに関わる部 分と一体で検討したいと思いますので、最初に、「桎梏」についての仰天思想に関して見ていくことにします。
  なお、不破さんの「桎梏」についての仰天思想についての詳細な説明は、HP「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を参照していただきたいと思います のでここでは詳しく述べませんが、そのトンチンカンな理解から科学的社会主義を理論的基礎とする者には考えられないような結論がここで述べられていますの でその点に限って触れたいと思います。

ミソもクソも「桎梏」化の現れにした不破さんは、社会変革の客観的条件をまったく探究できない

 不破さんの「桎梏」についての仰天思想についは前月号でも述べましたが、不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」を否定して 「『利潤第一主義』の問題を中心にすえる」ことによってマルクス・エンゲルスとの違いを際立たせます。不破さんにとっては、「独占資本は、それとともに開 花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。 そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」(大月『資本論』② P995F6-9)という『資本論』の文章の「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる」という文章と「生産手段の 集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴 る。収奪者が収奪される。」という文章とが関連性をもたない、独立した、単に隣り合わせの二つの文章であって欲しいのです。
 そんなことは、無理な話なのですが、そう見せるために不破さんは「古典講座」では涙ぐましい努力をしていますので、前出のHP「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を、是非、お読みください。
 ちょっと脇道にそれましたが、不破さんは、この二つの文章を独立した文章にするために「独占資本の『桎梏』化」なる新しい奇妙な概念を作りだし、「利潤 第一主義」に起因する、つまり、私的利益に起因する資本主義社会のすべての有害な事柄を「独占資本の『桎梏』化」の現れとして二つの文章にくさびを打ちま す(このミソもクソも「桎梏」化ということに関しては、いつも不破さんに同調している石川康宏氏さえも、さすがに、少しばかり異論を唱えています)。そし て、ミソもクソも「桎梏」化の現れにした不破さんは、前「前衛党」の党首でありながら、P117で「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこ で、どういう形態で起こるかの予測はできません」と、「社会変革の主体的条件を探究する」「論文」で社会変革の客観的条件をまったく探究できないことを告白しつつ、「明けない夜はない」、「谷があれば山もある」という革命的楽天主義で武装された「社会変革の主体的条件」の「探究」に挑みます。このように社会変革の客 観的条件をまったく探究できない人が「社会変革の主体的条件を探究する」のですから、それは、誰でも知っている抽象的で大雑把な結論が「探究」されること はほぼ間違いないと思われます。そして、これこそが不破さんの「革命的楽天主義」の導く先です。このようなリーダーのいる組織の党員は、ヘトヘト(野村證 券の社員のことを言っているのではない)に疲れが残るだけだ。もしも、その疲れにやりがいを感じている人がいるとしたら、とんでもない思い違いだ。
 私たちが運動を進めるうえで大切なことは、①矛盾の集中点をつかむこと、運動の環をしっかりとつかむこと②その現れと予想される結果を国民に曝露するこ とです。今を読むことです。その時々の「矛盾の集中点」がマルクス・エンゲルスの時代には「恐慌」であり、レーニンの時代には「帝国主義と帝国主義戦争」 でした。資本主義の矛盾のその時代々々の必然的で典型的な現れを国民に知らせることはマルクス・レーニン主義者にとって最も重要なことです。それを、マル クスに「恐慌=革命」説なる濡れ衣を着せ、レーニンは「帝国主義段階を『死滅しつつある資本主義』と規定し」たが「それらの発言からからもうほぼ百年たち ましたからね」とレーニンを揶揄する。そして自分は、賃金が上がれば経済が良くなると言い、「危機的な世界」の変革については「どういう形態で起こるかの予測はできません」という。確かに、占い師ではないから「予測」はできない。しかし私たちは科学的社会主義を会得した人間集団だ。問題が何かをつかむ能力を持ち、問題解決の方法を知っている。だから、「危機」の変革の形態について知っていなければならない。資本主義の大問題の点は「利潤第一主義」だ、「利潤第一主義」からくる弊害は資本主義の「桎梏」だ、と寝ぼけたことを言っているだけでは、100年たっても革命は起きない。そんな人間はマルクス・レーニ ン主義者ではない。これでは、反共三文文士であるとともに空想的社会主義者以下だといわれても弁明のしようがないと思う。
 なお、上記のレーニンへの不破さんの揶揄についての詳しい内容は「☆レーニンの資本主義観、社会主義経済建設の取り組み、革命論への、反共三文文筆家のような歪曲と嘲笑、これでもコミュニストか」を参照して下さい。

  さて、それでは科学的社会主義の見かたで、もう一度、先に引用した『資本論』を念頭において、日本の現状を見てみよう。
 70年代のはじめに国民の日用品にたいする需要を基本的に満たす水準まで生産力を高めた独占資本は、日本国内で資本主義的生産様式を発展させることと高 蓄積を実現させることとが両立できなくなった。そのため、独占資本が海外での高蓄積によって「資本主義的な外皮」(=資本主義的生産様式)のもとでの資本 の蓄積を実現させようとすると、日本国内の産業の「空洞化」により、「生産手段の集中も労働の社会化」も劣化し、社会システムの崩壊がはじまる。「生産手 段の集中と労働の社会化」(=「生産の社会的性格」)を強め発展させ、豊かな産業基盤を再び蘇らせようとするなら、グローバル資本の「資本主義的な外皮」 (=「取得の資本主義的形態」)を脱ぎ捨てさせなければならない。つまり、「独占資本」が発展すると「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛 盾」が「調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」。これがマルクスが『資 本論』で、私たち21世紀の労働者階級に、教えていることです。
 この教えから学んで私たちがやるべきことは、「社会変革が」、「現実に」、「どういう形態で起こるかの予測はできません」などとしゃじを投げることではなく、レーニンが当時の「帝国主義」を曝露したように、グローバル資本による「産業の空洞化」を曝露し、グローバル資本を〝国民の新しい共同社会〟に調和 させるためにコントロールして「資本主義的私有」を制限すること、その必要性を曝露しその歴史的な意義を明確にすることです。
 このような「社会変革の客観的条件」が進行し、「電機」産業が象徴するように、グローバル資本で働く労働者ですら職の保障はなくなり、労働者階級だけで なく、日本全体が沈没の危機にあります。「社会変革の主体的条件」はここにあります。ギリシャやポルトガルやスペインにならないために、いまこそ、このこ とを強く訴える必要があります。

 不破さんのように、「社会変革の展望」を「客観的条件とともに」「主体的条件の発展・成熟と統一的にとらえ」なければならない、資本主義の発展とともに 「労働者階級の主体的条件」は成熟する(P119参照)というだけでは、古いノートを何十年も使って講義をする「架空の」大学教授のようではありません か。わざわざ『前衛』を買い、こんなくだらない話につき合うのは、非常にむなしい行為だ。
 なお不破さんは、自ら創作した「『恐慌=革命』説」に関連付けて、P114で『賃金、価格、利潤』の意義について述べていますが、不破さんは『賃金、価 格、利潤』をテキストにした古典講座で『賃金、価格、利潤』のもつ価値を台無しにしています。是非、HP「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を 「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えている。」を参照 して、不破さんの言いたいことを確認してみて下さい。
  このように、不破さんは「社会変革の主体的条件」をまったく「探究」していません。

おまけ──不破さんたちのトリックにだまされないために

  不破さんたちのトリックに惑わされないために、彼らの文章に接するときは、つぎの二点に留意して下さい。
  一つは、マルクス・エンゲルスが「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」(エンゲルスのベルンシュタインあての手紙、1882年1月 25-31日)と考えると「『恐慌=革命』説」だと言ったり、レーニンが当時の帝国主義の特徴の一つとして「死滅しつつある資本主義」というと「帝国主義 段階を『死滅しつつある資本主義』と規定し」、「『革命近し』という世界的危機論の裏付けにもなった」と言い、不破さんたちは、「革命の可能性を曝露す る」ことが「革命がただちに起こるかのようにいう」ことでもあるかのように歪曲するということ。歪曲のための文章の恣意的な継ぎ接ぎにご注意下さい。
  二つ目は、マルクスもエンゲルスも、労働者は景気循環の中で鍛えられ団結を強めていくこと、しかし一般にこれまでの歴史の中では、人間の意識は現実に遅れ 悪い結果を受けてその改善の運動が発展すること、このような自然成長性を克服するために共産党があり、労働者党には、支配階級がふりまく妄想の空虚さが経 験によってはじけるより前にそのような妄想を退けるということが求められている、ということをしっかりと認識していました。しかし、不破さんたちはこの認識が欠落していることと、「人間社会の前史」を乗り越える〝新しい人〟がもつべき民主主義の立体構造と人民主権を成り立たせるための国民の政治への関わり 方についての理解を十分に持ちあわせていないので、運動にたいする根本の理解に欠け、マルクス・エンゲルス・レーニンが著作で述べていることの深い理解ができません。つまり、「人間社会の前史」を乗り越える〝by the people〟の革命論がありません。

 この点を十分認識して、かれらの言っていることを聞いて下さい。

『フランスにおける内乱』を突然もちだした不破さんは、その草稿の「最も重要」な文章は「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくりあげ」ることを書いた部分だという、驚きの自説を述べる

  「Ⅴ過渡期と労働者階級」の中で、不破さんはパリ・コミューンの歴史的意義を明確にしたマルクスの『フランスにおける内乱』を取りあげ、「ここで最も重要 なのは、(2)の文章です」として、「『奴隷制のかせ』からの解放」の重要性について述べています。ただし、不破さんの言う「『奴隷制のかせ』からの解 放」とは「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくりあげ」ることだそうです。あいた口がふさがりませんが、不破さんの巧 みな話術にごまかされないで下さい。

不破さんが引用した『フランスにおける内乱』の第一草稿に、なにが書かれているのか、いっしょに見てみましょう

  『前衛』を読んでいない方のために、不破さんが紹介した『フランスにおける内乱』の第一草稿になにが書かれているのか、紹介します。不破さんは文章を(1)から(5)に分けていますが、長文なので全体を分かりやすくするために、とりあえず、内容を要約して紹介します。
(1)コミューンの組織が全国に確立されると資本家(賃金奴隷の所有者)は反乱を起こすだろうが、それを鎮圧することによって、「労働の経済的解放」の運動は加速するだろう。
(2)資本主義社会を「共産主義社会」に置き換えるには時間がかかる。そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならない。
(3)この資本主義的生産関係を社会主義的生産関係に刷新する仕事、「共産主義社会」をつくる仕事は、既得の権益や階級的利己心の諸々の抵抗によって再三再四妨げられ、多くの困難にあうことを、パリの労働者階級は知っている。
(4)現在の資本主義社会で自然に見えているものが「共産主義社会」で自然に見えてるものものにおきかわるためには、そう見えるようになるための様々な条 件が成熟し整わなければならない。そのための長い過程が必要である。それは、奴隷制社会や農奴制社会が新しい社会に代わっていったときそうであったよう に。そのことをパリの労働者階級は知っている。
(5)このように、「共産主義社会」への道のりは長いが、労働者階級の政府であるコミューンをにぎった労働者は、コミューンが「労働の経済的解放」のため の巨大な進歩、つまり、資本主義的生産関係からの解放を一挙に実現できること、そしてその時期がきていることを学んだ。
 以上が要約です。 このように、不破さんが引用した『フランスにおける内乱』の第一草稿は、内容的には、資本主義社会から「社会主義社会への移行」、そして「社会主義社会」を経て、「ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書く、各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」という社会、つまり「共産主義社会」までを概説し、最後にパリ・コミューンの歴史的意義を述べたものです。

  そして、(2)の資本主義社会を新しい社会に置き換えるための「奴隷制のかせ」つまり「資本主義的生産関係」からの解放という課題は、この文章全体のなかで、たしかに、重要な文章です。しかし、それは不破さんが「重要」だと言っているのとはまったく意味が異なります。ここでマルクスが言っているのは、「生産物をどのように分けるか」という分配関係の問題はただ生産関係の一面を表しているだけだから、資本主義社会を「共産主義社会」に置き換えるにはまず、「『奴隷制のかせ』からの解放」つまり「資本主義的生産関係からの解放」が必要だということです。マルクスは、「分配」だけではだめだ、「生産諸条件」を変えることがかんじんなんだということを『資本論』でも『ゴータ綱領批判』ででも強調しています。詳しくは、ホームページ「4-6」「4-16」を参照して下さい。
 このように、(2)でマルクスが言っていることが、「『奴隷制のかせ』からの解放」とは「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくりあげる」ことだという不破さんの主張は、不破さんのまったくの創作だということです。
 不破さんがまともにマルクスの草稿を読むことができず、『ゴータ綱領批判』や『資本論』から学ぶことができないのは、「賃金が上がれば経済は成長する」という不破さんが、マルクスのいう「ただ分配関係だけを歴史的なものと見て生産関係をそういうものと見ない見解は、一面では、ただ、ブルジョア経済学にたいするすでに始まってはいるがしかしまだとらわれている批判の見解でしかない」(大月版『資本論』⑤P1128B7-1129B1)という程度の思想水準しか持ち合わせていないということなのでしょうか。
 そして、この草稿の(2)は(5)で述べられていること、つまり、労働者階級の政府であるコミューンを労働者が手にしたことは、「生産物をどのように分けるか」だけでなく「『奴隷制のかせ』からの解放」つまり「資本主義的生産関係からの解放」、「労働の経済的解放」のための巨大な進歩をなし遂げたというパリ・コミューンの歴史的意義そのものに直結する文章なのです。

パリ・コミューンは労働者階級による政治権力獲得の現実性を示し、「労働の経済的解放」の意義を学ばせた

 それでは、あらためて、パリ・コミューンの歴史的意義を考察したマルクスのこの文章で、何が重要なのか、見てみましょう。
  マルクスは、ヴァイデマイヤーあての手紙(1852.3.5、レキシコン⑤-[136]P255-257の下線部)で、マルクスが新しくやったこととして
 1、史的唯物論の発見
 2、階級闘争は必然的にプロレタリアートの独裁に導く
 3、この独裁は、いっさいの階級の廃止と無階級社会への通過点に過ぎない
ということの3点をあげています。
  そして、マルクスは『フランスにおける内乱』で、パリ市民がパリ・コミューンによって労働者階級の独裁の政治形態としてコミューン制度を発見したこと、このコミューン制度は共産主義社会をつくる槓杆となること、しかし共産主義的生産様式の社会をつくるためには長いたたかいが必要であることを述べています。まさに、パリ・コミューンによって、プロレタリアートの独裁のための政治形態としてコミューンが発見され、マルクスが1852年にヴァイデマイヤーあての手紙で述べた「マルクスが新しくやったこと」が現実に起きはじめたのです。だから、不破さんが抜粋した『フランスにおける内乱』の第一草稿の(5)でも、最後に、「しかし同時に彼らは、政治的組織のコミューン形態を通じて巨大な進歩を一挙に獲得できること、そして、彼ら自身と人類のためにその運動を開始すべき時がきていることを、知っている。」と、その意義を明確に述べているのです。
 前節で見てきたように、(2)の文章は、不破さんにとっては、不破さんの土俵に引き込むための目くらましの材料として「最も重要」なものかもしれませんが、パリ・コミューンの歴史的な意義を述べた(5)の文章と対になって、(2)は「労働の経済的解放」について述べた文章として重要な意味をもつのです。
  このパリ・コミューンについてのマルクスの文章から引き出した教訓についての不破さんの認識能力とマルクス・エンゲルス・レーニンとの認識能力の差が、今の日本共産党の「民主主義と多数者革命」についての薄っぺらなとらえ方と科学的社会主義の正しい運動のしかたとの差につながっています。
 なにしろ不破さんは、「『奴隷制のかせ』とは」、「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくりあげ」ることだという、独自の誤った解釈の見地、「この見地から、党綱領」に「『生産者が主役』という問題を社会主義の原則として強調」させました。不破さんの努力で「生産者」は「主役」に抜擢されましたが、「『奴隷制のかせ』からの解放」を「資本主義的生産関係からの解放」と見ることができない不破さんによって、労働者階級は主役の座から降ろされ、綱領から労働者階級の歴史的使命が消えてしまいました。不破さんは、このように共産党に絶大な影響力をもち、不破さんの個人的な能力の程度が今の日本共産党の運動に反映されます。なぜ特定の「幹部」の考えが「党」を支配するのかは、ホームページ3-2-2「民主主義を貫く党運営と闊達な議論の場の設定を」を参照して下さい。
 もう一度話をパリ・コミューンに戻すと、パリ・コミューンは人民自身が作った自らを解放するために〝ついに発見〟された人民と権力が一体になった真に民主的な政治形態です。だからこそ、コミューンは、「諸階級の、したがってまた階級支配の存在を支えている経済的土台を根こそぎ取り除くための槓杆となる」ことができるのです。しかし、コミューンによって権力を手にした労働者階級が一夜にしてすべてを解決することができるとは思っていなかったし、共産主義的生産様式の社会をつくるためには長いたたかいが必要であることをマルクスもエンゲルスも知っていました。
 この全体の意味をレーニンは理解し、不破さんは〝一知半解〟しかできませんでした。
  マルクスとエンゲルスがパリ・コミューンから学び、それを踏まえてレーニンがパリ・コミューンから学んだことは、コミューンが、ソヴェートが、革命の権力に転化できるということと、革命の中で労働者・国民が社会の主人公として主体的に生きる可能性とその重要性でした。だから、レーニンは封建的なロシアの、民主的な生活の乏しい社会の変革を武力によって成し遂げた十月革命の前から、一貫して民主主義の重要性を訴え続け、「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織することなしには」、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには」、資本主義に打ちかつことはできないことを訴え続けました(『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』1916年8月~9月に執筆 全集 第23巻P16~20)。そして、革命後のソヴェトロシアの経済建設について、世界革命の急速な発展が望めない中で、「もっとも困難」な、「もっとも未完成」な事業である経済建設にレーニンたちは挑み、知恵を絞り、悪戦苦闘し、失敗や誤りを繰り返しながらも実践を通じて勇猛果敢に「新しい経済政策」を探求し、労働者階級の権力が支配(コントロール)する〝国家資本主義〟をソヴェト経済の主要な構成要素と位置づけ、米国からの企業誘致にも努力しました。(全集第33巻P41~44、1921年10月18日付け「プラウダ」第234号の「十月革命四周年によせて」ほか)
  レーニンは、「市場の廃止」の誤りを克服した新しい目で、「生産の無政府性」をなくして、「労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分」を行うための「統制」と「それに関する簿記」を、全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織することを通じて実現していくことの重要性を誰よりもよく理解していました。レーニンには〝by the people〟の思想が、変わることなく、脈々と流れていました。社会主義をどう建設するか、民主主義とは何かを最もよく理解していました。不破さんが揶揄するように「国民経済にたいする『記帳と統制』を組織すれば、それがそのまま社会主義経済の建設につながる」などという薄っぺらな、ノー天気な考えなどレーニンは持っていなかったし、「『奴隷制のかせ』とは」、「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくりあげ」ることだとか、「生産者が主役という社会主義の原則」などという空論を排して、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織」することに力を注いだのです。
 これらを踏まえて、「生産者が主役という社会主義の原則」を掲げる日本共産党の、日本の変革をめざす、組織活動には大きな欠陥があります。それは、労働者階級ではなく「共産党」が議会で多数を獲得して社会変革を実現するという考えから「共産党」が議席を獲得することが目的とされています。労働者階級を革命の主役として組織することが放棄され、国民・労働者は「主役」席に座らされ、「共産党」が、「主役」席の国民の「要求」を列挙して、電話で「票」の「依頼」をする。労働者・国民の主体性を高め、団結を強め、民主主義の力を育んでいくというマルクス・エンゲルス・レーニンの考えを継承し、現代日本にふさわしく発展させるという観点が欠落しています。選挙の時以外ビラなどまかない。大衆集会が開かれることなど党員と関係者以外だれも知らない。だから、風が吹かなければ議席は増えないし、反共宣伝の影響ももろに受ける。今の共産党は、民主主義とは何か、国民の団結とは何か、人民の権力とは何かをもう一度学びなおす必要がある。
 なお、国民の民主主義の力を育む点に関してPH「自分の意見をもった〝新しい人〟が作る〝新しい社会〟──人民の人民による人民のための政治を担う〝新しい人〟に生まれ変わろう──」も参照して下さい。

不破さんは、マルクスの「『奴隷制のかせ』からの解放」という言葉を、どのように自分に都合の良いように変えてしまったか

 パリ・コミューンの歴史的意義を考察したマルクスの文章の「最も重要」な部分として「『奴隷制のかせ』からの解放」という言葉を含んだ文章をあげた不破さんは、「『奴隷制のかせ』とはなにか」と問い、「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくりあげ」ること、「ここに、マルクスが書きつけた『奴隷制のかせ』からの解放という言葉の真意がありました」と言い、「奴隷制のかせ」の意味を資本主義的生産関係という意味から資本主義の「指揮機能」という意味に矮小化し、階級的な本質を消し去ってしまいます。
 そして、草稿(5)の「自由な結合的労働の社会経済の諸法則の自然発生的な作用」が支配する社会とは「共産主義社会」のことですが、不破さんにおいては、「『自由な結合的労働』の名に値する新しい生産組織」とは「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくる」ことであり、それが「新しい共同社会の経済的基礎をつくりだす」ことだと言う。「共産主義社会」は「オーケストラの指揮者」がいる社会で、それが「新しい共同社会の経済的基礎をつくりだす」という。マルクスが機会あるごとに強調した資本主義的生産関係の変更、「資本主義的所有の社会的所有への転化」など、不破さんにはまたく眼中にない。「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」などないという不破さん(HP4-9「☆不破氏は「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだという。」を参照して下さい。)には、「資本主義的所有の社会的所有への転化」などまったく眼中にありません。
 不破さんは、「この見地から、党綱領は」、「『生産者が主役』という問題を社会主義の原則として強調しています」と自慢します。これで、「共産党」でありながら、現在の党綱領から労働者階級の歴史的使命についての記述がまったく抜け落ちている理由がよくわかります。余談ですが、共産党の「綱領」で「生産者が主役」なのは当たり前のことですが、党員の意見が党運営に反映される「党員が主役」の組織運営を党自身が心がけることを願ってやみません。
 社会主義へ向かっての巨大な一歩は「オーケストラの指揮者」だった。
 マルクスの『フランスにおける内乱』の第一草稿が当時のパリで出版され、それに不破さんが、この「奴隷制のかせからの解放」という意味は「オーケストラの指揮者」のいる生産現場をつくることだとの解説をのせたとしたら、マルクスとエンゲルスは激しく怒り、ブルジョアジーは小躍りして喜んだことでしょう。
  それでは、(2)でマルクスは何を言い、「奴隷制のかせ」とは何かを、もう一度見てみましょう。 不破さんの「『奴隷制のかせ』からの解放=『オーケストラの指揮者』」論が、この草稿のなかの「奴隷制のかせ」の意味とどれほど合わないか、ちょっと長くなりますが、(2)の原文を、『前衛』から転載します。なお、分かりやすいように若干補筆した。
 (2)「労働者階級は、彼らが階級闘争のさまざまな局面を経過しなければならないことを知っている。労働の奴隷制の経済的諸条件(資本主義的生産様式のこと──青山注)を、自由な結合的な労働の諸条件(共産主義的生産様式のこと──青山注)におきかえることは、時間を要する漸進的な仕事でしかありえないこと(その経済的変換)、そのためには、分配の変更(資本主義的生産関係が生みだす資本主義的分配の変更──青山注)だけでなく、生産の(社会主義的な──青山加筆)新しい組織が必要であること、言い換えれば、現在の組織された労働という形での社会的諸形態(資本主義的生産関係のもとでの社会的労働のこと──青山注)(現在の工業によってつくりだされた)を、(資本主義の賃金──青山加筆)奴隷制のかせから、その現在の階級的性格から救いだす(解放する)ことが必要であり、(労働者階級が──青山加筆)国内的にも国際的にも調和のとれた対等関係をつくりだすことが必要であることを、彼らは知っている」。
 私は、先に、この文章を「資本主義社会を『共産主義社会』に置き換えるには時間がかかる。そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならない」と要約した。
 文脈から見ても、「分配の変更」だけでなく「現在の組織された労働という形での社会的諸形態」を変え、「現在の階級的性格から救いだす(解放する)」とは資本主義的生産関係から解放することであり、「奴隷制のかせ」とは資本主義社会において労働者が賃金奴隷制に縛られて生存しなければならない状態をあらわしていることはあきらかです。
  つまり、共産主義社会を作っていくためには、そのために、社会を社会主義的生産様式に変えるためには、資本主義的分配を社会主義的分配に変えるとともに労働を真の社会的労働に変えて──一人は万人のために、万人は一人のために──の労働の組織にしなければならないということをマルクスは言っているのです。
  前節で簡単に紹介しましたが、マルクスは『ゴータ綱領批判』で次のように述べています。
「いわゆる分配について大さわぎをしてそれに主たる力点をおくことは、なんといっても誤りであった。
 どんなばあいにも、消費諸手段の分配は生産諸条件の分配そのものの結果にすぎないのであって、生産様式そのもののひとつの特徴をなすのは生産諸条件の分配のほうである。たとえば資本主義的生産様式の基礎は、物象的な生産諸条件が資本所有と土地所有という形態で働かざる者たちに分配されている一方、大衆は人格的な生産条件つまり労働力の所有者でしかない、ということにある。生産の諸要素がこのように分配されているからこそ、消費手段の今日のような分配方式がおのずからうまれているのである。」(マルクス『ゴータ綱領批判』(ドイツ労働者党綱領評注)岩波文庫P39-40)と。
 ここでもマルクスは、「分配」だけではだめだ、「生産諸条件」を変えることがかんじんなんだということを言っています。そして、マルクスは同じ『ゴータ綱領批判』で、資本主義的生産様式のもとでの「賃労働制度とはひとつの奴隷制度」(P47)であることを述べています。これらを踏まえて考えれば、「奴隷制のかせ」とは資本主義社会において労働者が賃金奴隷制に縛られて生存しなければならない状態をあらわしていることはあきらかで、「奴隷制のかせ」からの解放が「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」など意味していないことは明らかです。
 こんなことは、不破さんも百も承知のはずです。だが、不破さんはなぜ、〝真実〟を言えないのか。不破さんはなぜ、もはや特技ともなったマジックをつかってマルクス主義を歪曲し、公平な「分配」と支配のない「指揮」をもとめる「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」の一人になりさがり、せっかく社会に目を向けた人たちの頭を曇らせるのか。不破さんの、マジックをつかってのマルクス主義の歪曲はさておき、不破さんの主張には、不破さんなりの整合性がある。不破さんの使ったマジックと不破さんの主張の収れんする場所はもうちょっと先に見えてくる。
  賃金「奴隷制のかせ」からの解放を、不破さんはなぜ、「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくりあげ」ることだ、「生産者が主役」ということだ、と矮小化しなければならないのでしょうか?!
  それは、不破さんの歪んだ社会主義観にあります。マルクスは資本主義的生産様式から生みだされる資本主義的分配と私的に歪められた社会的労働を社会主義的生産様式におきかえることの必要性を述べています。しかし、小ブルジョアジーの不破さんは、『前衛』No904の鼎談の石川康宏氏との掛け合い漫才(P117)で、「従来の社会主義論」について、「たいていが、生産物の分配どまり、経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心なことが出てこないのです。だから「未来社会」といってもあまりうらやましくない」とマルクスを理解せず、エンゲルスとレーニンを誹謗し、マルクスから一言半句を借用して独創的で仰天させられるような「自由の国」づくりに励みます。「自由の国」についての不破さんの独創的な持論についたは後ほどふれますので、ご期待下さい。
  不破さんが「『奴隷制のかせ』からの解放という言葉の真意」が「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくりあげ」ることであるということを発見したのには、「経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心なことが出てこないのです」というマルクス・エンゲルス・レーニンにたいする不満があります。しかし、いくら不満があっても、自分にとって「あまりうらやましくない」「未来社会」であっても、捏造はよくない。捏造によって、不破さんの思想の一貫性、整合性を保ち、不破さんが独自色を強めれば強めるほど科学的社会主義──マルクス・エンゲルス・レーニンから遠ざかっていくだけです。
  不破さんは、P127で「スターリン式『社会主義』」について、生産組織が「指揮者はいるが支配者はいない」という見地から見ると、「スターリン体制下の経済体制が社会主義とは無縁のものであった」ことがいちだんと明確になると述べています。しかし、崩壊したソ連の最大の問題点とは何だったのでしょうか。それは、「生産手段の私的所有を廃止し」したが、「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織すること」、「全勤労大衆を、すなわち、プロレタリアをも、半プロレタリアをも、小農民をもひきいて、彼らの隊列、彼らの勢力、彼らの国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせること」、つまり、レーニンのいう民主主義を徹底する見地を欠き、ソ連を「社会主義的経済的有機体に組織すること」ができなかったからです。不破さんのように、「生産現場」での「人間関係」に矮小化させることはできません。
  ひるがえって、今の日本共産党の活動を見ると、グローバル資本の行動の曝露もせず、選挙のとき以外は全戸配布は一切せず、地域で住民を民主的に組織する観点などまったくなく、選挙の時に電話で支持を訴え、運動もなしに党を大きくすることが日常の活動として求められる。多くの党員がこれらの活動に少なからず疑問をもっていても狭い支部の中に閉じ込められ、勇気を出して県委員会や中央委員会に意見を出しても、回答すらこない。不破さんが歪曲、捏造しても、『赤旗』にも『前衛』にも『経済』にも、一言の批判も載らない。エリートの指揮者はいても民主的に組織された人民はいない。問題は「指揮者」ではない。民主的に組織された人民をつくることです。

不破さんは「社会変革の主体的条件」をどのように「探究」したのか、再び、見てみよう

 さて、それでは、不破さんは「社会変革の主体的条件」をどのように「探究」したのか。おもしろいと言うべきなのか、悲しいと言うべきなのか、再び、見てみよう。
 実は、不破さんが「社会変革の主体的条件」をどのように「探究」したのか、率直にいってよくわからない。不破さんは、科学的社会主義を学び社会変革を志すものならたいがいの者が知っている『資本論』からの引用で、誰もが常識と思っていること述べているだけで、『資本論』に書かれていることを導きの糸として現代日本の「社会変革の主体的条件」を「探究」しているわけではない。一般的な抽象的な教科書と違うところは、不破さん自らが創作した「恐慌=革命」説なるものを持ち出してマルクスとエンゲルスを誹謗中傷しているところと、「桎梏」についての独創的な持論で何でもかんでも「資本独占の『桎梏』化」の現れとして現代の危機を描き、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と社会変革の客観的条件をまったく探究できないことを告白しているところです。だから、不破さんが「社会変革の主体的条件」として何を「探究」したのか、まったくわかりません。
  なお、重複しますが、不破さんが創作した「恐慌=革命」説なるものの詳しい説明は、HP4-19「☆不破氏は、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、「桎梏」についての独創的な持論については、HP4-3「☆「桎梏」についての不破哲三氏の仰天思想」を参照して下さい。

 

ちょっと、ひと休み。

ことば・ことわざ・名言集

ユートピア

 「ユートピアというのはギリシアの言葉〔ウートポス〕である。「ウー」はギリシア語で「ない」という意味であり、「トポス」は「場所」という意味である。だから、ユートピアというのは、存在しない場所のことであり、幻想、架空のこと、お伽話である。」 (レーニン全集 第18巻P380『二つのユートピア』)

 

私たちは、社会の仕組みを変えることなく、〝ユートピア〟を求めることは、しないようにしよう。

不破さんは、「過渡期」は長く、生産現場での自由な生産者の共同が必要だという卓見を主張するために、「過渡期」を共産主義社会にまで拡大する

 前の章で社会変革の客観的条件をまったく探究できなかった不破さんは、「過渡期と労働者階級」という章では、不破さんの持論を展開するために「過渡期」を共産主義社会にまで拡大しますが、『前衛』読者ならみんなが期待するであろう「過渡期」の「社会変革の主体的条件」、労働者階級の歴史的使命などいっさい語りません。
 そのような不破さんの「過渡期」論とお付き合いし、議論が混乱しないようにするために、マルクス・エンゲルス・レーニンの論述と現代までの歴史的経験をふまえ、「社会」の区分を「民主社会への革命期の社会」、「民主主義の確立期の社会」、「社会主義社会」および「共産主義社会」という区分に便宜的に分け、私たちの共通認識として以下の通り確認したいと思います。
①「民主社会への革命期の社会」=「政治的な一過渡期の社会」とは
 マルクスは『ゴータ綱領批判』で、「資本主義社会と共産主義社会のあいだには、前者から後者への革命的な転化の時期がある。この時期に照応してまた政治的な一過渡期がある。この過渡期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない。」(P53)と述べています。そしてマルクスは、『フランスにおける内乱』の第一草稿で、コミューンの組織が全国に確立されると資本家(賃金奴隷の所有者)は反乱を起こすだろうが、それを鎮圧することによって、「労働の経済的解放」の運動は加速するだろうということを述べています。これらを踏まえ、『ゴータ綱領批判』のこの文章に続いて、当時のドイツが「ブルジョアジーの影響下にありながら官僚制的に組み立てられ警察に守られた軍事的専制政治以外のなにものでもないような国家」であり、民主的な要求を「『合法的手段によって』国家に強制できるなどと勘ちがい」(P54-55)してはならない国家である点等を指摘していることを考えると、この文章における「政治的な一過渡期」とは、革命が非平和的形態に移行した場合の、労働者階級が政治権力をにぎり、旧支配階級とたたかいながら、反革命を鎮圧し、銀行や独占資本を社会的所有にし、「社会主義社会」づくりの経済的基礎を築く政治的な努力をおこなう、非常事態における「革命的独裁」の比較的短い期間を意味しているものと理解しています。
 私はこのように考えていますが、そのような『ゴータ綱領批判』における「政治的な一過渡期の社会」についての理解が、すべての読者のみなさんの認識と一致しているとは限りませんので、無用な混乱をあたえることのないよう、この非常事態における「革命的独裁」の比較的短期の期間を「民主社会への革命期の社会」と呼ぶことにします。
②「民主主義の確立期の社会」=「資本主義から社会主義への過渡期の社会」とは
 「経済的にも道徳的にも精神的にも資本主義社会」の一部が保持されている社会で、革命が非平和的に進行した場合は、反革命の鎮圧とともに銀行や独占資本は社会的所有に移され、「民主社会への革命期の社会」を経て、「社会主義社会」づくりの経済的基礎が築かれた状態から「民主主義の確立期の社会」はスタートします。そして、革命が非平和的に移行した場合は、「民主権力」の確立後に〝by the people〟の思想にもとづく、真の〝民主主義〟が一定の時間を経るなかで実現されます。また、革命が幸いにして平和的に推移する場合は、労働者階級の政治権力の確立の程度、労働者階級を中心とする勢力の民主的団結の程度にしたがって、資本主義的生産関係の社会主義的生産関係への移行(銀行や独占資本の社会的所有への移行)が進展し、その移行は比較的長期間を要しますが、国家の全人民による民主的管理も同時進行で前進するものと思われます。
 先進資本主義国で銀行・独占資本を社会的所有に移すことは「理論的」には容易であり、「独占資本」が経済的に支配している社会を「社会主義社会」に変えるための技術的な基盤も労働の組織のしかたもほぼ整っていますが、革命の進行のしかたと民意の発展度合いによって「民主主義の確立期の社会」の期間は大きく変化するものと考えられます。
 「民主社会への革命期の社会」=「政治的な一過渡期」を経て「労働の経済的解放」の運動が政治的に勝利しても、「経済的にも道徳的にも精神的にも資本主義社会」の一部は保持され、それを克服するための「資本主義から社会主義への過渡期の社会」=「民主主義の確立期の社会」が必要となります。だから、レーニンはロシア革命後、「資本主義から社会主義への過渡期の国家」の建設のために尽力しました。残念ながら、道半ばで病に倒れてしまいましたが。
 この時期は、労働者階級を中心とする民主権力の確立期であり、日本共産党の日本革命の展望における民主主義革命の時期であり、マルクス・エンゲルス風に言えば、「うまれつつある共産主義社会」の時期です。政治的には、資本主義社会が資本家の階級的独裁の国家であるのの対し、プロレタリアートを中心とする民主連合勢力の独裁政権の時期です。
 「国家」は「社会の下に従属する」人民政府の「単純な機関」への道を歩み始めます。
 なお、マルクスとエンゲルスは「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」(『ゴータ綱領批判』)と言っていますので、プロレタリアートの階級的独裁のもとでの「民主主義的共和制」の国家も「生まれたばかりの共産主義社会」と見ていたのではないかと、私は考えています。
③「社会主義社会」=「生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階の社会」とは
  いわゆる「社会主義社会」とは、「生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階」の社会で、「経済的にも道徳的にも精神的にも、それが生まれてきた母胎である古い社会の母斑をまだ身につけている。それゆえ、個々の生産者は、彼が社会にあたえたのときっかり同じだけのものを──あの諸控除をすませたあと──とりもどすのである。」(『ゴータ綱領批判』岩波文庫P35)という社会で、能力に応じて働き、労働に応じて受けとる社会です。
 この、生産力の一層の発展が図られ、社会的所有にもとづく社会的生産を基礎にした新しい道徳と精神構造が形成されていく過程の社会は、「民主主義の確立期の社会」=「資本主義から社会主義への過渡期の社会」が必要とする「期間」よりも一層長期の「期間」を要するものと思われます。なぜなら、これまでの階級社会の一切の痕跡を消し去る過程なのですから。
 資本主義の経済的条件が消滅し、階級差異が消滅するなかで、プロレタリアートの階級的独裁も消滅していき、「国家」は「社会の下に従属する」人民政府の「単純な機関」への道を歩み続けます。
④「共産主義社会」=「発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階の社会」とは
  いわゆる「共産主義社会」とは、「社会主義社会」を経て、「ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書く」、「各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」という社会です。それは、「諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち」の社会です。
 それは、「分業」に「奴隷的に従属する」社会、不破さんの言う「指揮者はいるが支配者はいない」という社会を超えた社会です。そのとき国家は消滅する。これが「共産主義社会」です。
  これが、マルクス・エンゲルスのいう「政治的な一過渡期」から「共産主義社会」までと不破さんの言う「未来社会」等について、私がおこなった、大まかな「社会」の分け方・大雑把な整理です。

不破さんは二つの異なる事象を同一のものであるかのようなトリックを使ってマルクスを歪曲し、『資本論』を粗雑なものにする

  これらを踏まえて、不破さんの「過渡期」論を見てみましょう。
 不破さんはP119で『資本論』から「諸個人の自己労働にもとずく分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的生産経営にもとづいている資本主義的所有の社会的所有への転化よりも、比較にならないほど長くかかる、苦しい、困難な過程である」という文章を引用して、「この(資本主義から共同社会への歴史的──青山注)転化過程は急速に進めることができるだろう。これが、1867年に、マルクスが第一部完成稿の筆をおいた時にえた結論でした」と、あたかもマルクスがエンゲルスと同様に、「『国有化』で生産手段の社会化を実現する話から、その国家が死滅するという話にすぐ行く」(注『前衛』No904での不破さんの発言)と考えていたかのような、巧妙なトリックに私たちをかけようとします。
 しかし、『資本論』でマルクスが言っていることは、「資本主義的所有の社会的所有への転化」は「分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化」よりも比べものにならないほど簡単だということで、「資本主義から共同社会への転化」が簡単だなどと述べているのではありません。「資本主義的所有の社会的所有への転化」は、「事実上すでに社会的生産経営」になっている経営・所有権を独占資本がすなおに社会に引き渡せばすむことで、「分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化」のときのような「頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてきた」資本の本源的蓄積のときのような蛮行などありません。「資本主義的所有の社会的所有への転化」は、前節で述べた「民主社会への革命期の社会」=「政治的な一過渡期の社会」を経れば、基本的に行われたことになります。
 次節で述べますが、マルクスはパリ・コミューンの歴史的意義として、コミューンが「労働の経済的解放」のための巨大な進歩、資本主義的生産関係からの解放を一挙に実現できること、そしてその時期がきていることを労働者が学んだことを述べていますが、ここでも、「資本主義的所有の社会的所有への転化」の可能性とその意義について述べているのです。不破さんだってそのくらい分かっていたはずです。だから、私は「トリック」などという言葉をあえて使わせて頂きました。もしも、分かっていないとしたら、大ばか者でしょう。
 このように「トリック」を使い、重箱の隅をつつき、あげ足を取ってマルクス・エンゲルス・レーニンを攻撃する不破さんは、マルクスのサン・シモンに対する評価へのエンゲルスの優しいまなざし、レーニンのエンゲルスへの優しいまなざしのように、科学的社会主義の思想を切り開いてきた大先輩を、なぜ、同志的に見ることができないのでしょうか。詳しくはホームページ4-17「☆マルクスのサン・シモンに対する評価へのエンゲルスの優しいまなざし、レーニンのエ ンゲルスへの優しいまなざしと不破哲三氏」を参照して下さい。
 (注)について、詳しくはホームページ4-14「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から 科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」をご覧下さい。

不破さんの引用した『フランスにおける内乱』の第一草稿の当該文章は、不破さんのいわゆる「過渡期」について述べたものではない

 不破さんはP124-125で、いわゆる「過渡期」が長期にわたる根拠を示す文章を見つけ出したとしてマルクスの『フランスにおける内乱』の第一草稿を引用します。
 まえにも述べたように、不破さんが引用した『フランスにおける内乱』の第一草稿は、内容的には、資本主義社会から「民主社会への革命期の社会」=「政治的な一過渡期の社会」、そして「社会主義社会」を経て、「ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書く、各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」という社会、つまり「共産主義社会」までを概説し、最後にパリ・コミューンの歴史的意義を述べたものです。だから、『フランスにおける内乱』の第一草稿は、パリ・コミューンの歴史的意義として、コミューンが「労働の経済的解放」のための巨大な進歩、つまり、資本主義的生産関係からの解放を一挙に実現できること、そしてその時期がきていることを、労働者階級の政府であるコミューンをにぎった労働者が学んだことを述べて、文章が結ばれています。
 マルクスは『フランスにおける内乱』の第一草稿で、資本主義社会から「共産主義社会」までを概括していますが、不破さんのいわゆる「過渡期」論のメインテーマである、「オーケストラの指揮者」のいる生産現場をつくることが長い過程だなどということなど、一言も述べていません。詳しくは「不破さんが引用した『フランスにおける内乱』の第一草稿に、なにが書かれているのか、いっしょに見てみましょう」の節を振り返って下さい。

「自由な結合的労働の社会経済の諸法則の自然発生的な作用」が支配する「共産主義社会」は「新しい諸条件が発展してくる長い過程を通じてのみ」実現すると述べているのであり、不破さんのいう「過渡期」が長い過程だといっているのではない。

 P125で不破さんは、この文章の(5)のなかにある「現在の『資本と土地所有の自然諸法則の自然発生的な作用』は、新しい諸条件が発展してくる長い過程を通じてのみ、『(諸個人が分業に奴隷的に従属することのない──青山加筆)自由な結合的労働の社会経済の諸法則の自然発生的な作用』によっておきかわりうること」という文章を引用して、マルクスは『資本論』第一部では「資本主義から共同社会への経済的な移行は、比較的短い期間しか要しないだろう」という見通しをたてたが、「新しい共同社会の形成には」、「『長い過程』が必要になる」と『資本論』第一部での結論を訂正したと主張します。
  不破さんは、「不破さんは二つの異なる事象を同一のものであるかのようなトリックを使ってマルクスを歪曲し、『資本論』を粗雑なものにする」で指摘したように、『資本論』第一部でマルクスが述べている「資本主義的所有の社会的所有への転化」を「新しい共同社会の形成」に勝手にすりかえて、マルクスは、「過渡期」は比較的短い期間しか要しないだろうという見通しを立てたと歪曲する。そして、その歪曲を前提にして、マルクスが先の草稿で「資本と土地所有の自然諸法則の自然発生的な作用」(「ブルジョア的権利の狭い地平」のこと──青山注)が完全に踏みこえられた、「自由な結合的労働の社会経済の諸法則の自然発生的な作用」が支配する「共産主義社会」は「新しい諸条件が発展してくる長い過程を通じてのみ」実現すると述べたことを、マルクスが「過渡期」を「長い過程」が必要になると訂正したという。
 いつもながらの不破さんの論法といえばそれまでだが、マルクスと読者にとっては、いい迷惑だ。そして、この不破さんの独り相撲には、おまけが付く。それは、「奴隷制のかせ」の特異な解釈だが、すでにまえに述べたとおりである。

不破さんの、混乱した「過渡期」論と「過渡期」を変革する主体的条件の欠如

  不破さんはP129で、「〝指揮者はいるが支配者はいない〟といういわば自治的な関係が完成したときには」、「社会全体が、次第に、強制的な権力を不要とする自治的な体制に移行してゆくでしょう」という。
 ここには、混乱した「過渡期」論と「過渡期」を変革する主体的条件の欠如があるだけだ。まず、「過渡期」論がどう混乱しているのか、見てみましょう。
 先ほども述べましたが、「共産主義社会」という「自由な結合的労働」の社会では、「諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり」、恒常的な「指揮者」などいません。だから、「指揮者はいるが支配者はいない」というのは、狭義の「共産主義社会」のことではありません。また、「自由な結合的労働」が「完成したときには」、すでに「強制的な権力を不要とする自治的な体制」、つまり、「共産主義社会」に移行しています。次第に移行なんかしません。また、不破さんは、資本主義的生産様式のもとでの賃金奴隷制から「奴隷制」だけを取り出して、次に、「奴隷制のかせ」から〝指揮者はいるが支配者はいない〟という言葉を生みだし、何にでも使いたがり、なんだか訳の分からない「過渡期」より未来の社会を「社会主義・共産主義」とひとくくりにします。
 不破さんは、社会の発展を「指揮者はいるが支配者はいない」などという訳の分からない指標をもとに区分し、「社会主義」も「共産主義」も一緒くたにして、「民主社会への革命期の社会」と「民主主義の確立期の社会」の区別もなく、「過渡期」という言葉を臨機応変に使っています。「臨機応変」とは「混乱を顧みず」という意味です。
 そして、不破さんの「過渡期」論には「過渡期」を変革する主体が出てこない。不破さんの「過渡期」論には、資本主義的生産様式を変革する必要性と、そのために国民一人一人が主体的に現代社会と関わり、新しい共同社会をつくる〝新しい人〟たちをどのように形成し、どのように結集していくかが全くない。不破さんのいう「過渡期」にも、必要なのは、不破さんのような「一人の指揮者」ではない。その中心にいるのは未来を担い未来を代表する労働者階級であり、労働者階級は自らを民主的に組織するとともに、社会をも民主的に組織しなければならない。そのためには、資本主義社会において、資本主義を徹底的に曝露し、新しい社会がくる必然性を示し、そのための国民の団結の必要性を明らかにする科学的社会主義の理論と行動が正しく発揮されなければなりません。世の中に、〝by the people〟の思想を蔓延させ、その思想を持った人びとをウンカのごとく発生させなければなりません。
 社会変革の客観的条件を探究し、前衛党として国民に知らせ、国民一人一人が主体的に現代社会との関わりを深めるための援助をし、社会変革の主体的条件を強化するために全力を尽くすのが「共産党」のはずです。その「共産党」に最も影響力のある最高実力者の不破さんは、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と、「変革者」から「予測」を行う人に「脱落」し、「予測はできません」と居直ってしまいました。
 なぜ居直ったのか。その理由は、不破さんの「危機的な世界」についてのマルクス・エンゲルス・レーニンの考えとはかけ離れた特異な発想に由来します。不破さんは『前衛』No904で、「私は、資本主義が生産力の発展を制御できなくなって、そのことが社会に大きな危機をもたらす場合には、それも資本主義的生産関係の『桎梏』化の一つの深刻な表れだと思うんですよ」(P108)と述べて、「資本主義的生産様式」が必然的につくり出した「資本主義的生産関係」の「桎梏」となる「独占資本」にとって「死活的」意味をもつものでない、したがって、資本主義社会のもとでも制御するための方策が可能な、「地球温暖化」や「原発」などあらゆるものが資本主義社会の「危機」の原因になると思い、それらが「『桎梏』化」なる訳の分からない現象の表れと見ています。だから、不破さんの能力をもってしても、この的外れの「危機」だらけの世界で、社会変革がどのように起こるのかを「予測」できないのは当然のことです。
 なお、不破さんの「過渡期」についての混乱と謬論の詳しい説明はHP4-16「不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると言う。」を、「桎梏」についての謬論の詳しい説明はHP4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を参照して下さい。

不破さんの〝自由の国〟と〝必然性の国〟についてのとんでもない定義

 「未来社会」に関して不破さんが言っていることを検証してみるが、ますはじめに、「未来社会」に関して不破さんが言う〝自由の国〟と〝必然性の国〟の定義について見てみましょう。
 不破さんはP132で、「自由の国」と「必然性の国」について、マルクスの『資本論』から言葉を抜き書きして、「『必然性の国』とは、人間が物質的生産労働にあたる時間のこと、『自由の国』とは、それ以外の、人間が自分の思うがままに使える時間のことです。物質的生産労働にあてる時間を『必然性の国』と名付けたのは、それは、人間と社会の存続と発展のためには、どうしても避けることのできない、絶対的に必要な活動だという意味です」と述べ、「必然性の国」と「自由の国」の〝国〟とは「人間の生活時間の区別」だといいます。
 不破さんが自分で勝手にそのように定義づけをするのなら、分かりやすいか分かりにくいかは別にして、個人の自由の問題で、なにもコメントすることはありません。しかし、不破さんは、マルクスが上記のように言っているというのです。
  創作活動──マルクスやエンゲルスやレーニンが言っていないことを言ったと言い、ちゃんと言っていることを言っていないと言う──に明け暮れ、日本の危機的な現実を見ようともしない不破さん、「自分の思うがままに使える時間」を謳歌している不破さんは、マルクスを利用して、宣教師のように、「必然性の国」で苦しめられている私たちに「自由の国」、「自由な時間」を説き、唯物史観を転覆させ、マルクスを傷つけます。
  マルクスが〝自由の国〟と〝必然性の国〟についてどう捉えているのか、『資本論』の当該部分で何を言っているのか、ちょっと長くなりますが、『資本論』の原文から見てみましょう。
  「……しかしまた、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行なわれるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」〈『資本論』第3巻 第2分冊 大月版 ⑤ P1050B3-1051B6〉
  ここで述べられていることを簡単にまとめて見ましょう。
①一定の時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によってきまる。だから、社会の富の増加も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、その生産性を保障する生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっている。
②ここで言う、「自由の国」は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まる。
③未開人も文明人も、どんな社会形態のなかでもどんな生産様式のもとでも、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならない。
④この自然「必然性の国」での「自由」とは、資本主義社会から「社会主義社会」になることによって、社会化された人間、結合された生産者たちが、資本の盲目的な力によって支配されるのをやめ、自分たちと自然との物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くことができるようになることである。
⑤しかし、資本主義社会から「社会主義社会」になること、これはやはりまだ「必然性の国」である。
⑥この「必然性の国」である「社会主義社会」をその基礎として、この「必然性の国」の先に、自己目的として認められる人間の力の発展が万人に保障される、真の「自由の国」が始まることができるのである。
⑦「社会主義社会」が資本主義的生産様式の持つ生産性向上の壁を打ち破って、「自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとで」生産性を保障する生産条件を豊富にすることによって、労働の生産性の飛躍的向上をはかり、労働日を短縮することこそが「自由の国」実現のための根本条件である。
 もう一つ、 別の機会に要約したものも紹介します。
「物(富)がどれだけ生産されるかは生産性の高さにかかっており、生産設備等の進歩にかかっている。『自由の国』は強制されてはたらく必要がなくなったときに、はじめて始まる。つまり、それは、当然のこととして、遠い将来のことである。未開人も文明人も自然と格闘しなければならない。この『自然必然の国』は社会の発展につれて拡大する。この『自然必然の国』での『自由』とは、盲目的な力に支配されていた生産が計画的、意識的におこなわれるようになり、共同的統制のもとに置かれることである。しかし、この『自由』を獲得した『社会主義社会』もまだ『必然性の国』である。この国のかなたで、強制的な労働のない、自分の人間的な能力の発展のみを追求する真の『自由の国』が始まる。しかし、それは、『社会主義社会』という『必然の国』を基礎として、その上にのみ花開くことができる。そのための根本条件は労働日の短縮、つまり、生産性の向上である。」
  これがマルクスが『資本論』で述べていることです。エンゲルスも『空想から科学へ』で同様なことを述べています。このように、『資本論』と『空想から科学へ』(より詳しい論究は、前掲のHP4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」を参照して下さい。)をごらん頂けばわかるとおり、マルクスもエンゲルスも「自由な時間」を「自由の国」などと一言もいっていません。不破哲三氏のまったくの創作です。
 「自由の国」とは「自己目的として認められる人間の力の発展が」保障される国(『資本論』)、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保」された国(『空想から科学へ』P71)のことです。
 そして、その「自由の国」(「共産主義社会」)は、「それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができ」、生産性の向上、「労働日の短縮こそは根本条件である」とマルクスは言っています。
  つまり、「必然性の国」とは「社会主義社会」までのことで、「自由の国」とは「共産主義社会」のことです。これは、自明のことです。しかし不破さんは、この自明のことを認めたら、マルクスを援用しての科学的社会主義の観念論への歪曲ができなくなります。

不破さんは、「新しい社会」(?)では、社会発展の推進力は自分自身のために使える「自由な時間」を使って人間が発達することだといい、「未来社会」では「人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆく」と言う。

 その唯物史観の観念論への歪曲とは、P134の「資本主義社会では、社会的発展の推進力は、経済的土台に属する資本の利潤第一主義にありました。しかし、新しい社会では、発展の推進力は、明らかに、『自由の国』における人間の発達にあります」という不破さんの唯物史観を超越した独創的な持論です。不破さんは、一年前の『前衛』No904(2014年1月号)でも、「資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、こうして、人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう」と、すっかり同じことを言っています。
 ここで不破さんの言う「未来社会」、「新しい社会」とは、「利潤第一主義が経済発展の最大の推進力」である「資本主義社会」の次にくる社会をいっているのであるから、「民主主義の確立期の社会」=「資本主義から社会主義への過渡期の社会」のことをいっているとみるのが妥当と思われるが、生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階である「社会主義社会」のことを言っているのかもしれないが、判然としない。
 資本主義社会の社会発展の推進力は資本主義的生産関係を基礎とする資本主義的生産様式にあり、奇形的な「社会的生産」と私的資本主義的所有・取得にあります。不破さんが言う、超歴史的な「利潤第一主義」ではありません。「利潤第一主義」は、資本主義の内的諸法則は自由競争と不可分である(マルクス『経済学批判要項』ⅢP599~602参照)という「競争」の役割を認めてはじめて、資本主義的生産様式のなかで意味をもつのです。「競争」の役割を否定する不破さんが、「競争」の役割を認め、資本主義の内的連関を学びなおしたとき、不破さんの資本主義観はまた大転換し、グローバル資本による産業の空洞化も、理解できるようになるかもしれません。
 「民主主義の確立期の社会」=「資本主義から社会主義への過渡期の社会」の社会を発展させる基礎的推進力は、私的資本主義的生産システムを公的協同システムに変えていくための、あらゆる社会機構への労働者階級を中心とする国民の民主的参加です。そして、「社会主義社会」を「共産主義社会」へ発展させる基礎的推進力は、国民の生活を豊かにする真の社会的生産とそれを担保する生産手段の社会的所有と社会的管理とを深化させる、国民一人ひとりの力です。不破さんは、自分で引用した『資本論』の意味をもう一度確かめてください。とりあえず、私が要約した『資本論』の抜粋した部分だけでも、もう一度読みなおしてください。そして最後の「労働日の短縮こそは根本条件である」という文章の「労働日」を「短縮」させる「条件」は何かを考え、このフレーズの意味を吟味して下さい。
 今も日本共産党に絶大な影響力を持ち、「共産党」の前委員長である不破さんの文章に関して、なぜこんなことを言わなければならないのかと思うと、悲しくなる。
 不破さんは、「生産の無政府性」をなくし、「労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分」のための「統制」と「それに関する簿記」を、全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織することを通じて新しい社会(社会主義社会)を実現しようとしたレーニンにたいし、「国民経済にたいする『記帳と統制』を組織すれば、それがそのまま社会主義経済の建設につながる」と考えていたと誹謗中傷し、経済という社会の土台を無視して、新しい社会では、社会発展の推進力は、「自由な時間」を使って発達した人間だという。
 不破さんは、「唯我独尊」とは自分のことだと思って、すなおにマルクス・エンゲルス・レーニンの著作を読むことができないのだろうか。それとも、不破さんは、現実を忘れて自らの言う「自由の国」の住民になって文筆三昧をし、共産党の実質的な「指揮者」をしているからこそ、賃金奴隷や分業への隷属を余儀なくされている人たちに向かって、「自由の国」とは「自由な時間」のことだなどと、言うことができるのでしょうか。
 なお、「記帳と統制」に関する不破さんの謬論にたいする詳しい説明は、HP4-12「☆不破さんによるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲『経済』2000年1-2月号から」を、また、不破さんの「人間の発達」に関する謬論ついては、HP4-18「☆「人間の発達」は資本主義を社会主義に変え、生産力を発展させなければ保障されない」も参照して下さい。
 不破さんの言う「未来社会」がどの段階の社会をいうのかはっきりしないが、私たちがある程度イメージできる、最も遠い「未来社会」、といっても、最も近い「未来社会」である「民主主義の確立期の社会」=「資本主義から社会主義への過渡期の社会」とシームレスにつながっている「社会主義社会」での社会発展の推進力に関して、もう少し見てみましょう。
 先ほど述べたように、「社会主義社会」での社会発展の最大の推進力は、社会的生産の一層の発展と取得の社会的性格の深化、人類全体の真の利益と個人の利益との統一の進展を推し進める国民一人ひとりの力にあります。社会主義的生産様式のもとで、その発展を促進させる社会とその社会の国民一人ひとりの力にあります。そして、これこそが資本主義社会にたいする社会主義社会の優位性を示すものです。
 「社会主義社会」の「土台」での徹底した民主主義、分配の社会主義的なルールの確立と発展が、「労働日の短縮」と〝新しい人〟を生み育てます。それを経て、本当のコミュニストが生まれ育ちます。そして、この〝新しい人〟と「社会化され発達した生産力」が新しい上部構造を発展させます。当面私たちが、確実に、言えるのはここまでです。
 これより先を言うことは、根拠のない空想です。ユートピアです。
 残念ながら「自由の国」、「共産主義社会の高い段階」については、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」などと、いい加減な予想をすることはできません。なぜなら、未来社会の「土台」が経済に根ざすものではなくなっているかもしれませんが、何であるか分かりません。しかし、私たちにとって大事なことは、遠い未来社会の原動力が何なのかについてのご宣託を述べることでも、聞くことでもありません。今の日本の危機の原因の曝露と打開のプロセスを明らかにし、今の日本の経済力を土台に、溌剌とした社会主義日本の姿を、生き生きと描くことができることを示すことです。空論はいりません。理論を物質的な力に変えるにはそれで十分です。ユートピア(無いもの)を語って、目標を見失ってはなりません。
  だから、「たいていが、生産物の分配どまり、経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心なことが出てこないのです。だから「未来社会」といってもあまりうらやましくない」などと言って、資本主義から、資本主義的生産関係から労働者の目を背けさせてはなりません。なぜなら、この曝露にマルクスはその生涯をかけ、エンゲルスはそのマルクスの考えを守り通し、レーニンはそのマルクスの考えを確信して一生たたかい続けたのですから。
 不破さんは、『ゴータ綱領批判』の「ドイツの労働者党は、──少なくとも党がこの綱領を採用すると仮定してだが──、彼らの社会主義的理念がいかにうわっつらのものでしかないかを曝露している。なぜなら、この党は現在の社会(そしてこれはあらゆる将来の社会にもあてはまることだが)を現存の国家(あるいは将来の社会にとっての、将来の国家)の基礎として取り扱うどころか、むしろ国家を、それ固有の『精神的な、道徳的な、自由権的な基礎』をもつ一個独立の存在として取り扱っているからである」というマルクスの言葉を深くみつめ、ゆっくりとかみしめるべきです。カッコの中の「あらゆる将来の社会」のなかには「社会主義社会」も当然含まれています。
 不破さんの「自由な時間」が「自由の国」だという創作は、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」という、マルクスも仰天するような思想(空想)に発展してしまいましたが、「奴隷制のかせ」が解消に向かう「社会主義社会」は、不破さんのいう「指揮者」と「演奏者」の役割は固定されており、だからこそ、各人は能力に応じて受けとる社会であり、社会の発展の推進力は「上部構造」に移ってなどいません。「共産主義社会の高い段階」に至ってもいないのに、「上部構造」が社会を支配したら、その時点で「社会主義社会」は死んでしまいます。
  このように、「未来社会」、つまり「社会主義社会」での「社会変革」、つまり「共産主義社会」建設のための「主体的条件」は、不破さんの言う「『自由の国』における人間の発達」、つまり、自分自身のために使える時間を使って自己啓発すること、不破さんが社研の所長として研鑽しているように時間を過ごすこと、などではありません。
  それは、社会的生産を発展させ、取得の社会的性格を深化させ、豊かな個人的な使用価値・サービスの提供とともにますます比重を増す質の高い共同的な使用価値・サービスの提供を通じて、人類全体の真の利益と個人の利益との統一をはかることを目的とする「社会主義社会」の、「土台」での徹底した民主主義とその結果としての分配の社会主義的なルールの確立と発展とにあります。その主役は確固とした民主主義で武装した労働者階級であり、この労働者階級の活動が〝新しい人〟を生み、本当のコミュニストを育てます。「生産性の向上」によって、彼らは、豊かな人間性を形成するための物質的・精神的・時間的な余裕が得られます。この〝新しい人〟と「社会化され発達した生産力」が新しい上部構造を発展させるのです。これが、不破さんが21世紀になって大発見したマルクスの歪曲、マルクス主義(科学的社会主義)の否定の「理論」よりもはるかまえから、私たちがマルクス・エンゲルス・レーニンから学んだ科学的な社会の発展方向です。
  不破さんが「自由な時間」を使って考え出した転倒した「思想」が〝未来社会〟をつくるのではありません。労働者階級を中心とする勤労国民の「生産性の向上」が〝未来社会〟をつくるのです。
 先に引用した『資本論』はそのことを私たちに教えているのです。

不破さんのできの悪い弟子たちが、人々が科学的社会主義に近づくのを妨害し続けている

 不破さんのように、「生産力」と「富」を視野の外に置く指導者の影響を受けて、資本主義に対する社会主義の優位性や資本主義の歴史的進歩性の意味も分からなくなってしまった人たちが『前衛』等共産党の紙誌に堂々と登場し、跋扈している。
  「新福祉国家論」と「ルールある資本主義」がセットで、いま日本の「生産力」がどのような状況にあり「富」がどう使われているかなど無関係に、「生存権」や「平等」のみの視点から、その実現を求めることによって、「豊かな社会」が実現するかのような幻想がふりまかれている。
 また、資本主義的工場生産抜きで、地域の力を生かして地域内で富が循環するシステムを寒村に作ることによって「農村」が「都市」に対抗できるかのような「内発的発展論」の幻想もふりまかれている。しかし、農村内に高付加価値の産業があるか他の地域から「富」を移転しないかぎり、現在の農村の「生産力」水準で豊かな生活など保障されないことは明らかである。
 70年代までは、資本主義は、「社会の再生産過程の不断の拡張」を通じて、その発展とともに、「生産力」と「富」の拡大が図られてきた。不破さんも、不破さんの「弟子」たちの頭も、そこで停止してしまった。GDPの拡大を前提とした「改良」闘争と同じたたかいを相変わらずおこなっている。しかし、グローバル資本の行動はこれまでとは違う。資本主義の私的性格によって、労働者がつくった血と汗の結晶である「富」と「生産力」は海外に持ち去られ、日本は「産業の空洞化」が進行し危機的な状況にあることが、忘れ去られている。
 その結果、資本主義のラディカルな曝露と真に建設的な提言はなされず、社会に積極的に目をむける民主的な新しい人の集団をつくる努力もなされないまま、だれも反対しないなかみのない「政策」をかかげて、選挙の時だけ電話で「支持」を訴え、風だけを頼りに、いつの日か国民が立ちあがるのを信じ待っている人たちが、「革新」の代表のようにみなされ、一度はすてた自民党の「成長戦略」や「地方創生」に、国民のわずかな望みがたくされている。

結びにかえて。

「社会変革の主体的条件」はどのように探究しなければならないのか

 この「論文」で、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と、社会変革の客観的条件をまったく探究できないことを告白した不破さんは、常々、自分の「革命的楽観主義」の源を未来への大局的確信だと述べています。
  不破さんの弟子と思われる党の学習・教育局長の山谷氏は2013年1月24日付けの『赤旗』の〝檄〟文で、国民は「模索と探求の過程」で「さまざまな政治的体験を経ながら」「扉は開かれる」とか、「冬の時代」だとか「激動の時代」だとか訳の分からない観念論で党員を激励し、日本共産党は「〝北斗七星〟のような輝きを増す時代になっている」と新興宗教のようなことを言っていました。現在の日本の社会変革の客観的条件など眼中になく、「般若心経」を読むように、「資本主義の害悪の中心は『利潤第一主義』だ」、「賃金を上げれば経済は良くなる」と誤った経を読み、日本共産党が「〝北斗七星〟のような輝きを増す時代になっている」と言う。不破さんたちの「革命的楽観主義」とはそういうものらしい。
 しかし、レーニンは違う。レーニンは、「困難」について、『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』と『ヴェ・ザスーリッチはどのようにして解党主義をほうむるか』で次のように述べています。
 マルクス主義者の活動はつねに「困難」であり、その困難なことを不可能だと言わない点にあるが、自由主義者は、自分が困難な活動を放棄していることをかくそうとして、困難な活動を不可能だと称する点にあること。「任務の困難なことが問題なのではなく、任務の解決をどの道にもとめ、どうやってその解決を達成するかが問題なのだ、ということをわすれてはならないということ。革命の展開力を強力不敗なものにすることが容易であるか困難であるか、ということが問題なのではなくて、この展開力をつよめるためにどう行動すべきかが、問題なのである」こと。「二つのちがった問題──道の方向の問題、すなわち二つのちがった道の一つをえらぶ問題と、ある決まった道を通って目的を実現することが容易であるかどうか、あるいはその実現が間近いかどうか、という問題と──を混同」してはならないということ。そして、なによりも、活動が困難であるばあい、マルクス主義者は、その困難を克服するために、すぐれた分子をいっそう固く結束させるようつとめなけれがならないこと。
  私たちは、「問題」、「困難」をこのように捉え、いかに解決すべきかを率直に提起すること、これこそが、科学的社会主義者の信念に裏付けられた革命的楽観主義というべきものなのではないのか。〝社会変革の主体的条件を探究する〟とは、このような科学的社会主義者の革命的楽観主義を具体的に分かりやすくすべての国民に示すことではないのか。
 不破さんは、恐慌は「資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」と言って、資本主義の矛盾の深まりを見ることができなくなり、資本主義を変える闘いの困難さに負けて、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変え、「ルールある資本主義」が実現すれば日本は救われると、労働者階級の眼を曇らせる。
  不破さんは、Ⅱの「ミソもクソも「桎梏」化の現れにした不破さんは、社会変革の客観的条件をまったく探究できない」の項で見たように、「問題」の所在を摑むことができない。「問題」の所在を「日本の現状を正しく摑む」ことの中に求め、「問題」の解決を「日本の社会経済を危機に陥れている、グローバル資本の私利追求による産業の空洞化の解消」の中に求め、その解決の主体である労働者階級の階級的自覚を妨げている「困難」をどのように克服するのかに求めることができない。
 「社会変革の主体的条件を探究する」と題するこの「論文」の副題は「労働者階級の成長・発展に視点をおいて」となっているが、これまで見てきたとおり、不破さんはこの「論文」を通じて、唯物史観を否定し労働者階級の眼を曇らせ、「労働者階級の成長・発展」を妨げています。  そういう意味で、不破さんの今回の「論文」はまったく役に立たないだけでなく、科学的社会主義もどきの謬論によって労働者階級を混乱させるものであり、共産党員にとって有害な文章である。
 不破さんが、「労働者階級の成長・発展」を言うのであれば、まず第一になすべきことは、労働者階級の歴史的使命を党綱領に明記してその名誉を回復すべきである。そして、グローバル資本の亡国の行動を規制するための労働者階級の闘いの先頭に労働者党員が立つことを積極的に援助すべきである。労働者党員は労働者のために働いてこそ存在意義があり、「労働者階級の成長・発展」は、今の日本をリアルに見ることから始まる。
  なお、不破さんの『賃金、価格、利潤』の賃金論の歪曲については、ホームページ4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった」を参照して下さい。
  また、前出の『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』の該当部分はホームページ「温故知新」→「レーニンの大切な考え方」→「B.党」の「4-8」を、『ヴェ・ザスーリッチはどのようにして解党主義をほうむるか』の関連する部分は、同じく、「A.科学的社会主義」の「2-15」を参照して下さい。 なお、このページのPDFファイルには、上記の文章もあわせて転載しています。

最後にひとこと。不破さんに望むこと

 最後に不破さんがP135で「結び」に引用した『反デューリング論』のなかの、階級闘争をつうじて、「結合社会を形成した将来の人間が二度とふたたびぶつかることのないようなたいへんな困難を克服してきた経過」という文章に関連して、P119で不破さんが間違った解釈をした次の文章を思い出しました。
 それは、「諸個人の自己労働にもとずく分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的生産経営にもとづいている資本主義的所有の社会的所有への転化よりも、比較にならないほど長くかかる、苦しい、困難な過程である」という『資本論』からの引用文です。
  不破さんは是非とも上記の文章とともに、「諸個人の自己労働にもとずく分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化」過程の、「資本主義的生産様式の『永久的自然法則』を解き放ち、労働者と労働諸条件との分離過程を完成し、…自由な『労働貧民』に、この近代史の作品に、転化させるということは、こんなにも骨の折れることだった〔tantae molis erat〕のである。……資本は、頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてくるのである」〈『資本論』第一巻 大月版② P991B10-6〉というマルクスの言葉も思い起こしてもらいたい。そうすれば、不破さんにも、「諸個人の自己労働にもとずく分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化」と「事実上すでに社会的生産経営にもとづいている資本主義的所有の社会的所有への転化」との差もはっきりと理解できるはずです。不破さんには、自己顕示欲を棄てて、『資本論』を含むマルクス・エンゲルス・レーニンの著作を素直に読んでいただきたい。そのことを切に望むものです。お願いですから、これ以上の大発見などせず、科学的社会主義の道に立ちかえって下さい。