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共産党の歴史に背く『新版「資本論」のすすめ』のすすめ

──平野喜一郎氏も、21世紀になるまで、不破さんが作った「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論」なる稚拙で貧困な考えを、本当に、信じてきたのか。そして、不破さんは、なぜ「綱領」を変えたのか。──

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目を疑う『赤旗』の不破版〝エセ「資本論」〟の宣伝記事

 2021年3月28日付け『赤旗』の「本と話題」という欄に、三重大学名誉教授の平野喜一郎さんという方が『新版「資本論」のすすめ』という不破さん監修の〝エセ「資本論」〟を推奨する冊子の宣伝のための文章を書いています。

 その中で平野氏は、「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論はマルクスの死後も克服されることなく信じられてきました」と、二一世紀になって不破さんが創作した「恐慌=革命」論に基づく「資本主義の自動崩壊論」なるものが「克服されることなく」──それは、「反共主義者」が捏造した謬論が「克服されることなく」という意味ではなく、共産党員のなかで「克服されることなく」という意味で──「信じられて」きたと言います。

 この、目を疑うような、反共主義者が共産党にたいして行なうデマ攻撃のときに使う文章と同様な文章が、日本共産党の機関紙『赤旗』紙上で、堂々と述べられているのです。これを読んだ多くの方々が唖然とされたことと思います。

 こんなことは言う必要のないことですが、不破さんの誤った方針のもとで、今でも、歯を食いしばって頑張っている党員のみなさんの名誉のために申し上げると、今から30年近く前に出された『科学的社会主義』と『社会科学事典』での「恐慌」についての説明でも、「恐慌の原因」は「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」(エンゲルスのいう「根本矛盾」)にあり、「恐慌の究極的な根拠」は、「生産と消費の矛盾」(マルクスはこの資本主義生産に内在する矛盾のことを「基本的矛盾」と言った)にあることが述べられており、「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態」の基での経済の発展こそが「資本主義の『必然的没落』の最大の根拠」であることが明確に述べられています。だから、不破さんたちを除くほぼ全て共産党員は、「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論」などとることなく、資本主義的生産様式の社会の矛盾の暴露と資本主義社会に変わる新しい生産様式の社会の実現をめざして、広範な国民の統一した力を構築するために努力してきたのです。

 なお、「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論はマルクスの死後も克服されることなく信じられてきました」という呆れるばかりの党史の改竄の根拠の「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論」なる不破さんの創作についての説明はもうしばらくお待ち下さい。

 さて、それでは、このような衝撃的なことをさりげなく言う平野氏の『新版「資本論」のすすめ』のすすめですが、気を落ち着けて、一緒に見ていくことにしましょう。

 

不破版〝エセ「資本論」〟の出版の理由(意義)

 平野氏は、『資本論』と不破さん監修の〝エセ「資本論」〟には「大きな相違点」があり、不破さん監修の〝エセ「資本論」〟には「新しい視点を」(「を」が余分なのか、「新しい視点を提供した」と言いたいのか不明?──青山)があることを述べ、「これが新版(不破さん監修の〝エセ「資本論」〟のこと──青山)の意義である」と不破版〝エセ「資本論」〟の出版理由を述べ、そのことを『新版「資本論」のすすめ』が「わかりやすく語ってい」ると言って、「大きな相違点」と「新しい視点を」なるものについて語っています。

 平野氏は、まず、『資本論』とマルクスの思想を歪曲・捏造して、マルクスの「恐慌」の捉え方には時期により二つの「大きな相違点」があるという不破さんの「虚構」に則って「虚構」の解説をします。

  

「大きな相違点」とは、不破さんが創作したフィクションのこと

 平野氏は、「大きな相違点」とは、「1864年までのマルクスは」「利潤率の低下が恐慌を生み、それが革命につながると考えていた」が、それ以降マルクスは「生産者と消費者の間に商人が入り、現実の需要と消費から独立して生産がおこなわれます。このことから恐慌がおこる」と考えるようになったことだと、マルクスの二つの「考え」を捏造します。

 そして、平野氏は、そこから一足飛びに、「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論はマルクスの死後も克服されることなく信じられてきました。」と目を疑うような論理の跳躍と科学的社会主義の思想とその歴史の改竄を行ないます。

 これらはすべて、不破さんが創作したフィクションです。

 

平野氏は不破さんの「教議」に基づくのではなく事実に基づいてください

 平野氏は名誉教授ですから、60歳は超えておられることと思います。であるならば、大恐慌寸前まで行きかけたリーマン・ショックを覚えておられるでしょう。リーマン・ショックの原因は、「生産者と消費者の間に商人が入り、現実の需要と消費から独立して生産がおこなわれ」たことでしたか?違います。サブプライムローンと住宅資産価値の上昇を起因として起きたバブルが世界の金融市場を巻き込んで拡大したものです(※1)。マルクスは、不破さんの言葉からではなく、事実から真理を導き出すことを信条としてきました(※2)が、平野氏も、不破さんの言葉からではなく、事実を基礎に物事を考えて下さい。

※1、リーマン・ショックについてのより詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」(添付PDFファイルの21ページ)を参照して下さい。

※2、「相争う教議の代わりに、相争う諸事実とそのかくれた背景をなす現実の諸対立とをおくことによってのみ、われわれは経済学を一つの実証的な科学に転化することができるのだ。」(エンゲルスあてマルクスの手紙 1868年10月10日)

  

資本主義社会の生産の仕組みの簡単なお復習い

 資本主義的生産様式の社会は、資本が大きくなることによって「経済を発展」させる仕組みの社会です。そのために「生産者と消費者の間に商人が入り」消費を煽り、生産資本は資本の効率を上げるために商人の手元に商品資本があるうちに代金をもらって価値実現(商品資本の貨幣資本への転換)の短縮を図ったり、信用制度を発達させて資本の効率化や消費の促進を図ります。だから、ブルジョア経済学者の重要な役割の一つは、竹中平蔵氏が言うように、「需要」を見つけたり作り出したりすることです。

 しかし、この資本主義的生産様式の社会には三つの致命的な弱点があります。一つは、資本が大きくなるためには儲けなければなりませんが、儲けるためには商品を安く作る必要があり、商品を安く作るとその生産の担い手である消費者の購買能力が縮小するという矛盾が生じるということです。二つ目は、資本主義的生産が発展すればするほど資本の有機的構成──資本は不変資本と可変資本(労働力)とから成っており、マルクスはこの価値構成を「資本の有機的構成」と名づけ、不変資本の割合が高くなることを「資本の有機的構成が高くなる」と言った──が高くなり、利潤率は低下し、それを補うために益々生産を拡大し、益々商品を安く作る努力をしなければなたないということです。そして、もう一つは、資本主義社会は、資本が大きくなることによって「経済を発展」させる仕組みの社会ですから、資本が大きくならなければ経済は発展できませんが、資本は、どんなにたくさんあっても、大きくなることのできる条件のもとでのみ〝資本〟として機能することができるという宿命をもっているということです。

 

資本主義社会に付きものの景気循環

 資本主義社会の生産の仕組みは上記のようなものですから、資本は泳ぎ続けなければならないマグロのように、ブルジョア経済学者の知恵を使って、自己増殖をし続けなければなりません。経済が拡大しているうちはすべてが順調に進行しているように見え、投機が投機を呼んで経済は膨れあがります。そして様々なきっかけによって経済活動の一部が停滞すると、瞬く間に経済全体に伝播して〝資本の過多〟が白日の下に晒され、資産の価値の暴落がはじまります。これが〝恐慌〟です。この恐慌を経て資本主義経済はリセットされます。

 マルクスは、この「資本の過多」、つまり、資本が資本として機能しなくなることについて、次のように述べています。

「資本主義的生産様式の制限は次のような点に表れる。

 (1)労働の生産力の発展は利潤率の低下ということのうちに一つの法則を生みだし、この法則は、生産力の発展がある点に達すればその発展に最も敵対的に対抗し、したがって絶えず恐慌によって克服されなければならないということ。

 (2)不払労働の取得が、そして対象化された労働一般にたいするこの不払労働の割合が、または、資本主義的に表現すれば、利潤とこの利潤の充用資本にたいする割合とが、つまり利潤率のある高さが、生産の拡張や制限を決定するのであって、社会的欲望にたいする、社会的に発達した人間の欲望にたいする、生産の割合がそれを決定するのではないということ。それだからこそ、資本主義的生産様式にとっては、生産の拡張が他の前提のもとでは逆にまだまだ不十分だと思われるような程度に達しただけでも早くも制限が現われるのである。この生産様式は、欲望の充足が休止を命ずる点でではなく、利潤の生産と実現とが休止を命ずる点で休止してしまうのである。」(『資本論』大月版④P323-324)

 このような〝恐慌〟を含む産業循環について、マルクスは、固定資本の耐用年数、資本の流通期間の短縮と延期や利子率の変化など、資本主義的生産様式の社会における資本主義的生産の諸法則に基づく経済の拡大と縮小の様々な原因と結果が影響し合った、周期性をもった、トータルな循環運動と捉えています。(※1)

※1、産業循環と恐慌についての詳しい説明はホームページAZ「自らの虚構にあわせるための『資本論』の変造──2003年にルビコン川を渡った不破さんの『資本論』変造の虚構──」(添付PDFファイルの4ページ)を参照して下さい。

 

「大きな相違点」のウソ……その1、恐慌の捉え方

 このように私たちも、マルクス・エンゲルス・レーニンも、産業循環の一局面の劇的な現れである〝恐慌〟について、「生産者と消費者の間に商人が入り、現実の需要と消費から独立して生産がおこなわれます。このことから恐慌がおこる」とか「利潤率の低下が恐慌を生」むなどと単純に考えたことはありません。

 現代の資本の増殖の仕方について、米国と日本の違いを見て、なぜ日本は資本主義国としての「まとも」な景気循環すら起こらないのか、一緒に考えてみましょう。

 米国と米国資本の考えた米国経済の発展の方法は、簡単にいうと、金持ちの余った金を国民に貸して資産価値を高め、使える金を増やして消費させるという仕方で国内経済を拡大させるというものです。これに対し日本は、国内産業を空洞化させて海外で稼ぎ、国内は、専ら、経費削減に努めることによって資本の増殖を図るというものです。だから、1995年以降、米国はそれなりに賃金が上がっていますが日本はまったく上がっていませんし、この間、企業にとっての「好景気」が二度ほどありましたが、日本の労働者には、資本主義社会で唯一例外的に労働者階級がそのおこぼれにあずかることのできるはずの機会さえ、与えられませんでした。

 不破さんには神の手を使ってマルクスを「でくの坊」扱いすることはできても、キリスト教の聖人のように奇跡を起こすことなどできません。不破さんと平野氏が「生産者と消費者の間に商人が入り、現実の需要と消費から独立して生産がおこなわれ」ることから「恐慌がおこる」というのであれば、現在の日本もその条件はあるのですから、恐慌まで行くのは遠慮しますが、日本のバブル景気以来の好景気を作って、労働者にそのおこぼれ──雇用の改善と賃金のアップ──にあずからせてください。

 

「大きな相違点」のウソ……その2、革命の捉え方

 平野氏は、マルクスが「1864年まで」は、不破さんがでっち上げたような「恐慌観」をもち、「それが革命につながると考えていた」ので、「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論はマルクスの死後も克服されることなく信じられてきました」と言います。

 この「解説」には、二重三重の誤り・ウソがあります。(※1)

 まず第一に、これまで見てきたように、マルクスの「恐慌観」がでっち上げられていること。

 そして、第二に、「恐慌=革命」論というのは、不破さんが二十一世紀になって作った不破さんのオリジナル「商標」で、マルクスもエンゲルスも、当時、「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」になると考えてはいましたが、「恐慌=革命」などという不破さんのような単純な脳みそは持ちあわせていませんでした。

 第三に、マルクスもエンゲルスも「資本主義の自動崩壊論」などもっておらず、『共産党宣言』(1847年)でも、労働者の闘争の本当の成果は労働者のますます広がっていく団結であることを訴えており、『賃金、価格、利潤』でも──不破さんは『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消してしまいましたが──マルクスは、資本家に対する「超強力な社会的障害物の強要」は必要だが、それは「もろもろの結果とたたかいはしているが、それらの結果の原因とたたかっているのではない」ことを述べ、労働運動は「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとはせず、その組織された力を労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に失敗する」(大月書店国民文庫P89)と強く訴え、労働者階級の組織された力による〝資本主義の変革〟を主張しています。(※2)

 第四に、これは決定的ですが、「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論はマルクスの死後も克服されることなく信じられてきました」と言いますが、マルクスもエンゲルスもレーニンも、そして、一人の共産党員を除いてすべての日本共産党員は「資本主義の自動崩壊論」など「信じ」てきませんでした。一人の共産党員とは不破さんのことです。なぜなら、万一、二一世紀になって不破さんが「大発見」をするまで、共産党が「資本主義の自動崩壊論」を「信じ」てたたかっていたとしたら、不破さんの茶坊主として社研の副所長を勤めさせてもらっている山口氏を含む『新版「資本論」のすすめ』に名を連ねている人たちでさえ、いくらなんでも、声を上げていたことでしょう。だから、これらの人たちは、共産党の歴史を無視して、ことの重大さも分からず、不破さんの言うことに従っているだけだと思います。だから、平野氏がこれまで「資本主義の自動崩壊論」を「信じ」ていて、平野氏も共産党員であるならば、平野氏は「資本主義の自動崩壊論」を「信じ」ていた不破さんに次ぐ二人目の貴重な人物ということになるのかもしれません。

 マルクスもエンゲルスもレーニンも、そして科学的社会主義の思想を自らの思想とするすべての人々は、なぜ資本主義社会は〝必然的に没落する〟と考えているのか。それは、資本主義的生産様式そのものが解決できない矛盾を持っているからです。だから、科学的社会主義の思想を自らの思想とする人々は、資本主義的生産様式の社会の矛盾を暴露し、経済は社会のため国民のためにあるという新しい生産様式の社会の実現をめざしてたたかっているのです。

 不破さんと平野氏は日本共産党が「資本主義の自動崩壊論」に立っていたというなら、その証拠を示すべきです。

※1、この項全体の詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を参照して下さい。

※2、『賃金、価格、利潤』の不破さんの歪曲については、ホームページ4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」を参照して下さい。

 

平野氏が欠落させた2004年を境とする不破さんの「大きな相違点」

 不破さんがマルクスの「恐慌論」なるものを「1864年まで」と「その後」に分けて捏造したのには理由があります。

 それは、不破さんが捏造したマルクスの「1864年まで」の「恐慌論」なるものに「恐慌=革命」論というレッテルをはって、同じく不破さんが創作した、その後のマルクスの「恐慌論」なるものが正しいかのように見せることによって、不破さんが温め続けてきた「資本主義観の大転換」と「革命観の大転換」を、公然と、日本共産党に押し付けるためです。

 そもそも不破さんが21世紀になって『資本論』から発見したという、不破さんの創作した「恐慌の運動論」なるものは、資本主義的生産様式のもつ必然性・法則性から導き出されたものではなく、資本主義的生産様式のもとで、生産の社会化の中での資本主義的分業──生産と販売の分離による産業資本の価値「実現」の短縮と「生産と消費の分離」、「価値実現を前提としない貨幣資本の取得とその再投資」等──の〝資本の現象的な流通形態から〟恐慌を説明する(『前衛』2015年1月号P138参照)ものです。それを不破さんは新しい「恐慌論」ででもあるかのように吹聴していますが、「架空の需要=恐慌」説とでも呼べるような資本家とブルジョワ経済学にとっては痛くもかゆくもない、お笑いぐさの考えです。

 不破さんは、この自ら創作した「恐慌論」に立ったマルクスは「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がなく、資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」(『前衛』2013年12月号P97)ということを解明したと言います。つまり、マルクスは、「恐慌」は「革命を生む」ものではないと思っただけではなく、「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」と「資本主義観の大転換」と「革命観の大転換」を行なったと言うのです。

 物事を平板的一面的にしか見ることができない不破さんの面目躍如というところです。

 このニセ「マルクス」から学んだ不破さんは、資本主義の矛盾の深まりとそこから生まれる新しい社会の展望を明らかにして資本主義を変えようとするのではなく、「経済的発展が進む」資本主義の横暴を抑えるために「資本主義世界でも異常な日本社会の状態を打開して、社会的バリケードをかちとり、『ルールある経済社会』へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだ」(『前衛』2013年12月号P99)と主張して、科学的社会主義の思想から党員の目を逸らせて、選挙での電話かけに専念させます。

 平野氏は、不破さんが創作したエセ「マルクス」の新しい「恐慌論」を使っての不破さん自身が2004年に行なった「資本主義観の大転換」と「革命観の大転換」には一切触れません。

 しかし、次の「新しい視点を」を見る場合、このような「資本主義観の大転換」を理解していないと、〝なぜ不破さんがこんな馬鹿なことを言うのか〟ということがよく理解できません。

※この項の詳しい説明はホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を参照して下さい。

 

平野氏の「新しい視点を」の要約

 平野氏は、「新しい視点を」というタイトルで、まず、「新版(不破さん監修の〝エセ「資本論」〟のこと──青山)の画期的な編集は、」エンゲルス版の第3巻第48章にあった「マルクスの『未来社会論』を適切な場所に移したこと」だと言います。

 そして、「その未来社会では、みんなが平等に労働し、労働時間を短縮し、自由時間をゆたかにもつ。」「そのためには」として、『資本論』第一部「第八章労働日」の内容を中心に「資本主義の下」での改善の必要性等を紹介し、「この第1部の基本理論に、2部、3部のあらたな革命論・未来社会論がくわわって、新版『資本論』(不破さん監修の〝エセ「資本論」〟のこと──青山)は革命と未来社会への新たな展望をあたえてくれるでしょう。」と述べて「新しい視点を」というタイトルの文章を結んで(?)います。

 

平野氏は、〝エセ「資本論」〟の「新しい視点」の半分を隠している

 平野氏はここで、〝エセ「資本論」〟がすり替えた二つの「新しい視点」の場所──『資本論』の「第3部第48章」と「第1部第8章」──を紹介していますが、第3巻第48章にあった「マルクスの『未来社会論』」についての「新しい視点」に関しては、「適切な場所に移した」というだけで、「自由の国」とは資本主義社会にもある「余暇」のことだという「新しい視点」の「未来社会論」を隠しています。この「新しい視点」については、次の「項」で触れます。

 もう一つの「新しい視点」──不破さんにとっては一貫して持っている〝古い視点〟ですが──とは、第一部「第八章 労働日」の内容を歪曲して不破さんが考えた「新しい視点」です。平野氏は、『資本論』第一部「第八章」でマルクスが述べている「資本主義の下」での改善の必要性、つまり、労働者が団結して「工場法」を資本の横暴を妨げる「超強力な社会的障害物」として「強要」することの意義をミスリードして、「社会的バリケード」をかちとることが「第1部の基本理論」であるかのように歪曲し、その上で、「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」ことが「未来社会」に繫がるかのように言います。しかし、これは、これまで見てきたように、不破さんの「資本主義観の大転換」と「革命観の大転換」によって、不破さんが創作した「新しい視点」で、マルクスとエンゲルスの考えではありません。

 平野氏は、間違いだらけの『新版「資本論」のすすめ』をすすめるからには、「新しい視点」とは何なのか、〝エセ「資本論」〟がどのように「革命と未来社会への新たな展望をあたえてくれる」のかをはっきりと言うべきです。

※『資本論』第一部「第八章 労働日」の内容の不破さんの歪曲に関しては、ホームページ4-2「☆不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない。」を参照して下さい。

 

『資本論』の第三巻第48章の文章についての平野氏のとんでもないデマと不破さんの未来社会論の「新しい視点」

 平野氏は、先ほど見たように、「新版(不破さん監修の〝エセ「資本論」〟のこと──青山)の画期的な編集は、」エンゲルス版の第3巻第48章にあった「マルクスの『未来社会論』を適切な場所に移したこと」だと言いますが、不破さん監修の〝エセ「資本論」〟の「画期的」な「編集」の誤りは、「マルクスの『未来社会論』を適切な場所に移したこと」ではありません。

 不破さんの「画期的」な「編集」の誤りは、マルクス・エンゲルス・レーニンの思想(科学的社会主義の思想)を、「自由の国」とは資本主義社会にもある「余暇」のことだという「新しい視点」で「未来社会論」を塗り替えてしまったことです。

 しかし、平野氏の、間違いだらけの『新版「資本論」のすすめ』のすすめでは、不破さんが『資本論』第三巻第48章の「未来社会論」の文章をどのような「新しい視点」で見ているのか、不破さんは「革命と未来社会への新たな展望」をどのように描いているのか、さっぱりわかりません。

 ですから、まずはじめに、『資本論』第三巻第48章の「未来社会論」の文章とはどのような文章なのか、そして、不破さんの「新しい視点」は「革命と未来社会」をどのように「展望」しているのかを、一緒に見ることにしましょう。

 

「三位一体的定式」を暴露することを「うんざりしていた」という不破さん

 不破さんの言う「未来社会論」が述べられているのは「第四八章 三位一体的定式」の中でですが、「第四八章」は〝三位一体的定式〟の〝まちがった外観と偽瞞〟の暴露を行なっており、それに続く「第四九章 生産過程の分析のために」と「第五〇章 競争の外観」とはセットになっていて、「第四九章」は「三位一体的定式」に騙されないために資本主義的生産過程を科学的に見ることの必要性を訴えており、「第五〇章」は「三位一体的定式」が資本主義的生産様式の社会ではなぜ「定式」としてみなされるのかを徹底的に暴露しています。

 不破さんはこの「第四八章」から「第五〇章」までについて、「『資本論』探求」というマルクスとエンゲルスを誹謗し科学的社会主義の思想を台無しにすることを目的として書かれた冊子で、「『第五一章 分配諸関係と生産諸関係』は、『三位一体的定式』が支配する非科学的、神秘的な世界とそれへの批判にうんざりしていた頭が、久方ぶりに科学的な資本主義世界論に出会い、またそこで『資本論』全巻の簡潔きわまる科学的総括というべきものに出会って、爽快な思いをする章です。」と述べています。

 マルクスとエンゲルスを誹謗し科学的社会主義の思想を台無しにすることを目的とするだけあって、資本主義のバックボーン的な思想である「三位一体的定式」を暴露することを「うんざりしていた」というのですから、まさに、面目躍如というところです。

 

『資本論』の第三巻第48章の未来社会論とは

 それでは、不破さんの言う「未来社会論」が述べられているという文章を『資本論』で見てみましょう。

 ちょっと長くなりますが、関連する部分を『資本論』から抜粋します。

  「……しかしまた、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行なわれるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」(大月版 ⑤ P1050-1051)

 これが、不破さんの言う「未来社会論」が述べられているという文章です。

  ここで述べられていることを箇条書きにまとめてみましょう。

①一定の時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によってきまる。だから、社会の富の増加も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、その生産性を保障する生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっている。

②ここで言う、「自由の国」は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まる。

③未開人も文明人も、どんな社会形態のなかでもどんな生産様式のもとでも、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならない。

④この自然「必然性の国」での「自由」とは、資本主義社会から「社会主義社会」になることによって、社会化された人間、結合された生産者たちが、資本の盲目的な力によって支配されるのをやめ、自分たちと自然との物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くことができるようになることである。

⑤しかし、資本主義社会から「社会主義社会」になること、これはやはりまだ「必然性の国」である。

⑥この「必然性の国」である「社会主義社会」をその基礎として、この「必然性の国」の先に、自己目的として認められる人間の力の発展が万人に保障される、真の「自由の国」が始まることができるのである。

⑦「社会主義社会」が資本主義的生産様式の持つ生産性向上の壁を打ち破って、「自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとで」生産性を保障する生産条件を豊富にすることによって、労働の生産性の飛躍的向上をはかり、労働日を短縮することこそが「自由の国」実現のための根本条件である。

 もう一つ、 別の機会に、一つの文章に要約したものも紹介します。

「物(富)がどれだけ生産されるかは生産性の高さにかかっており、生産設備等の進歩にかかっている。『自由の国』は強制されてはたらく必要がなくなったときに、はじめて始まる。つまり、それは、当然のこととして、遠い将来のことである。未開人も文明人も自然と格闘しなければならない。この『自然必然の国』は社会の発展につれて拡大する。この『自然必然の国』での『自由』とは、盲目的な力に支配されていた生産が計画的、意識的におこなわれるようになり、共同的統制のもとに置かれることである。しかし、この『自由』を獲得した『社会主義社会』もまだ『必然性の国』である。この国のかなたで、強制的な労働のない、自分の人間的な能力の発展のみを追求する真の『自由の国』が始まる。しかし、それは、『社会主義社会』という『必然性の国』を基礎として、その上にのみ花開くことができる。そのための根本条件は労働日の短縮、つまり、生産性の向上である。」

  これがマルクスが『資本論』で述べていることです。そして、エンゲルスも『空想から科学へ』で同様なことを述べています。

※なお、『空想から科学へ』での共産主義社会への論究については、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」を参照して下さい。

 

資本主義社会での余暇も「自由の国」だと言う不破さんの「新しい視点」の「未来社会論」

 『資本論』と『空想から科学へ』をごらん頂けばわかるとおり、マルクスもエンゲルスも「自由な時間」を「自由の国」などと一言もいっていませんが、マルクスの「革命観の大転換」と「資本主義観の大転換」を21世紀になって発見(創作)し、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたという不破さんは、前掲の『資本論』の文章から、「自由の国」とは「自由な時間」のことで、資本主義社会にある〝余暇〟も「自由の国」だという大胆な解釈をしてはばかりません。(※1)

 不破さんは、『しんぶん赤旗』に2017年8月1日から14回にわたって掲載された「『資本論』刊行150年に寄せて」という連載の⑩「マルクスの未来社会論(2)」で、「マルクスは、人間の生活時間のうち、この時間(物質的生産にあてるべき時間──青山補注)部分を『必然性の国』、それ以外の、各人が自由にできる時間部分を『自由の国』と名付けました」と言い、物質的生産にあてるべき時間を「必然性の国」と呼ぶ理由を、「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動とな」るからだと言って、だから、「必然性の国」以外の余暇時間をマルクスは「自由の国」と呼び、資本主義社会にも〝余暇〟があり「自由の国」があると言います。

 しかし、先ほど見たように『資本論』はそんなことは言ってませんし、マルクスが序文で「科学的社会主義への手びき」と言って推奨しているエンゲルスの『空想から科学へ』でも、「自由の王国」の内容について、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保」された国のことだと述べています。

 個人の発達にとって「自由な時間」は欠くことのできない大切なものです。生産性が向上しても、資本主義社会では労働時間の短縮につながりません。「民主主義の確立期の社会」を経て「社会主義社会」が発展する中で「労働日の短縮」も本格的に実現し、個人の「自由な時間」も飛躍的に拡大します。同時にその過程で、個人の発展にともなって、「諸個人が分業に奴隷的に従属する」システムの解消も進み、「精神的労働と肉体的労働との対立」もなくなり「労働」そのものが「生きがい」となり、「諸個人の全面的な発展」が保障されます。そのときの社会をマルクスとエンゲルスは「共産主義社会」(共産主義社会のより高度の段階の社会)とよび、「自由の国」と呼んだのです。

※「自由の国」についてのより詳しい説明はホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」のPDFファイル24ページ以降及びホームページAZ-3-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)」のPDFファイル35ページ以降を参照して下さい。

 

不破さんは、共産主義社会の二の段階を区別できない

 しかし不破さんは、いわゆる「社会主義社会」(「生まれたばかりの共産主義社会」、「共産主義社会の第一段階の社会」)と共産主義社会(「発展した共産主義社会」、「共産主義社会のより高度の段階の社会」)の区別もできず、共産主義社会になって「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動とな」ると言います。この混乱した認識が「自由の国」とは「自由な時間」のことで、資本主義社会にも〝余暇〟があり「自由の国」があると言う大胆な発言になるのです。

 マルクスは「共産主義社会の第一段階の社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」を区別して、「共産主義社会のより高度の段階の社会」における〝労働〟の特徴を『ゴータ綱領批判』で、「共産主義社会のより高度の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち」(岩波文庫P38-39)と述べ、〝労働〟が「生活」そのもの、人生そのものであることを明らかにしています。

 そして、常に科学的社会主義の思想を共有していたエンゲルスも『空想から科学へ』で、マルクスと同じことを簡潔に、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保」(新日本文庫P71)された社会と表現しています。

 マルクスとエンゲルスは、「生まれたばかりの共産主義社会」、「共産主義社会の第一段階の社会」はまだ、「民主主義」や「平等な権利」が残り、「労働が義務」で「死滅しつつある国家」のある「必然性の国」ですが、「発展した共産主義社会」、「共産主義社会のより高度の段階の社会」では、「民主主義」や「平等な権利」という概念が不要となり、「労働が生活にとってまっさきに必要なこと」となる「国家」のない「自由の国」となる、と見ていました。

※「共産主義社会の二つの段階」についてのより詳しい説明はホームページAZ-3-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)」のPDFファイル43ページ以降を参照して下さい。

 

「指揮者はいるが支配者はいない」という不破さんの「未来社会」論

 このように不破さんは〝生まれたばかりの共産主義社会〟も〝共産主義社会のより高度の段階の社会〟も一緒くたにして「社会主義・共産主義」と言い、まだ「社会の構成員にとって義務的な活動」として「諸個人が分業に奴隷的に従属」せざるを得ない〝生まれたばかりの共産主義社会〟を「未来社会」として見ます。

 その結果、「資本主義観の大転換」を行ない、「新しい視点」を得た不破さんは、賃金「奴隷制のかせ」である資本主義的生産関係からの解放を棚上げにして、「奴隷制のかせ」からの解放とは「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」ことだと言い、『前衛』の2015年5月号によれば、「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」とは「〝指揮者はいるが支配者はいない〟といういわば自治的な関係」をつくることだと言い、これが不破さんの「未来社会」論だというのです。

 しかし、不破さんの言う「指揮者はいるが支配者はいない」職場の管理と資本主義社会での職場管理のリーダーシップ論とでは、いかほどの違いがあるのでしょうか。資本主義社会での職場管理のリーダーシップ論もヘッドシップを排した「いわば自治的な関係」によって成り立っています。

 〝生まれたばかりの共産主義社会〟と〝共産主義社会のより高度の段階の社会〟とを一緒くたにした雑ぱくな思想によって、労働が「社会の構成員にとって義務的な活動」の域を抜け出せない不破さんは、「未来社会」論を「指揮者はいるが支配者はいない」という「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」という資本主義社会での職場管理のリーダーシップ論に引き戻してしまいます。

 このような「貧しい未来社会論」を持つ不破さんは、「『資本論』探究〈下〉」でレーニンが「独特の二段階発展論をつくりあげてしまった」とウソをついて、「これは、マルクスが未来社会の最大の積極的内容がここにあるとした『自由の国』──そこでの人間の能力の限りない発展など、まったく視野の外において(ママ──青山)貧しい未来社会論でした。」(P165)と言うのです。これまでの事実にもとずく検証を見れば明らかなように、レーニンに対する「人間の能力の限りない発展など、まったく視野の外においた貧しい未来社会論」という誹謗は、そっくりそのまま不破さんに当てはまります。

 革命を成功に導いたレーニンが、宮顕さんの遺産を食いつぶして弱体化させ、日本共産党を破壊し続けている不破さんに、「貧しい」思想の持ち主だなどと言われるのです。

※不破さんの言う「指揮者はいるが支配者はいない」職場づくりについての詳しい説明は、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」のPDFファイル12ページ以降を参照して下さい。

 

不破さんのいうマルクスの「革命観・資本主義観の大転換」と「未来社会論」の成立過程

 平野氏が不破さんの妄言をオウム返しにいう「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論はマルクスの死後も克服されることなく信じられてきました」という不破さんの「革命観・資本主義観の大転換」と「未来社会論」はどのように成立したのか、その過程を見てみましょう。

 不破さんは『前衛』(2014年12月号)で、「『恐慌=革命』説を背景に、利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定がさきにあり、そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込みが、マルクスを、こうした無理な立論に固執させた」のではないでしょうかと言っています。

 この不破さんの「推測」──もちろん、不破さんの〝虚構の推測〟ですが──によると、マルクスは「『恐慌=革命』説」なる観念を持っていて、利潤率の傾向的低下の法則が「資本主義の『必然的没落』の表われ」だから、利潤率低下によって恐慌が起き、その恐慌が何の準備もなく自動的に革命を引き起こすと考えていたと言うのです。(なお、マルクスは、利潤率の傾向的低下の法則は資本主義的生産様式の矛盾そのものですから、「資本主義の『必然的没落』の表われ」ではなく「根拠の一つ」と見ていたのは確かで、それは正しい見方です。)

 蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘るといいますが、不破さんの脳裏に映る「マルクス」も相当な観念論者で強引に自分の主張に物事を合わせようとする人物のようです。

 しかし、このような観念論者が、今度は、1865年になると、信用による短縮された価値「実現」による「架空の需要」を「発見」して、それが資本主義的生産様式の恐慌の原因であり、「可変資本の相対的な減少によって進む資本構成の変化は、資本主義的生産の危機や没落の要因ではなく、」「新しい見地では、可変資本部分の相対的減少は、否定的な現象ではなく、独自の資本主義的生産様式の蓄積過程の当然の、積極的な現象」と見るようになり、恐慌は、「資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」という〝ブルジョアジーの視点〟に立った「恐慌の運動論」を「発見」して「資本主義観の大転換」を行なったと言うのです。

 そして、不破さんはこの「革命観・資本主義観の大転換」によって、「資本の側の搾取強化とそのもとで『訓練され結合され組織される』労働者階級の闘争を軸にした社会変革の必要性」を理解しない誤った「古い没落論」を持っていたマルクスが「闘争を積み重ねるなかでの労働者の自覚の成長・発展を軸に社会変革が日程にのぼってくるという新しい見方」に変わったと言うのです。そして、この時、「未来社会論」も刷新されたと言います。

 ここまで読んで、不破さんの言葉を信じるならば、マルクスは、「革命観・資本主義観の大転換」が起きる前も、起きてからも、科学的社会主義の思想を知らない〝大馬鹿者〟ということになるでしょう。なおこの「大馬鹿者」とは、2004年以前と2004年以降の不破さん自身のことでもあります。

※この「項」に書かれている詳しい説明は、ホームページ4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」及びホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」等を参照して下さい。

 

不破さんの「革命観・資本主義観の大転換」と「未来社会論」の成立過程

 さて、それでは、不破さんはどのようにしてマルクスがこのような大馬鹿者であることを発見したのか、一緒に見て行きましょう。

 不破さんは、『レーニンと「資本論」』(1998-2001年)を書き終えて、『資本論』の「草稿の全体を読む仕事を始め」、第二部第一草稿で「マルクスの発見」のヒントを発見し、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたそうですから、二一世紀になるまで、観念論者で大馬鹿者の1865年までのマルクス同様「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論」を「信じ」ていたことになります。

 そして、不破さんは、未来社会の問題について、『全三部を読む』(2003~04年に刊行)の時は、まだ、「マルクスがここで展開した未来社会論が、社会主義・共産主義社会についての本論であって、生産物の分配方式の変化を最大の基準にして未来社会を論じた従来の理論(レーニンが『国家と革命』で理論化)と両立するものでないことにまでは、考えがおよびませんでした。」(不破哲三「『資本論』探究〈上〉」P15)と述べて、「生産物の分配方式の変化を最大の基準にして未来社会を論じ」ることと「自由の国」とは資本主義社会にもある「余暇」のことで「自由な時間」のことだという「未来社会を論」とは矛盾しないと思っていたというのですすから、当時の不破さんには1865年までの大馬鹿者のマルクスと1865年以降の大馬鹿者のマルクスとが同居していたことになります。

 しかし、ちょっと待って下さい。ここで、事実をいうと、マルクスもエンゲルスも、そしてレーニンの『国家と革命』の中ででも、「生産物の分配方式の変化を最大の基準にして未来社会を論じた」ことなど一度もありません。マルクスは『ゴータ綱領批判』ででも『資本論』ででも、口を酸っぱくして、〝生産物の分配だけを考えていてはだめだ〟〝生産関係を考えなければいけない〟といって、資本主義的生産関係そのものの変革の必要性を述べており、不破さんの『賃金、価格、利潤』の〝とんでも解説〟のように賃上げだけを主張し、賃金論を「ルールある経済社会」への道に解消する「生産物の分配方式の変化を最大の基準にして未来社会を論じ」るような謬論を、厳しく批判していました。

 マルクスの思想が、二一世紀になるまで、「生産物の分配方式の変化を最大の基準にして未来社会を論じた」理論と「両立するもの」と思い込んでいた、科学的社会主義の思想をまったく理解していない不破さんは、それまで『ゴータ綱領批判』や『資本論』やレーニン全集を居眠りでもしながら眺めていたのでしょうか。

 もっとも、不破さんは、『レーニンと「資本論」』の執筆当時(1998~2000年)、「恐慌論解決のヒント」を求めて勉強したときは気付かなかったが、「最近」(『前衛』2014年12月号と2015年1月号を書いた頃)、レーニンが20代のとき書いた『ロシアにおける資本主義の発展』に「『資本論』全体のなかで恐慌論を代表する文章」が入っていることにやっと気づいたというのですから、「不破さんは居眠りをしながらレーニン全集を読んでいたのではないか」と〝不破さん流〟に〝推測〟したとしても、あながち誤りではないかもしれません。こんな皮肉めいたことを私が言うのは、不破さんがこの文章を見て、マルクスが不破さんに勝手な「推測」をされ、それを基に不破さんに勝手な断定をされるときの気持ちを、不破さんに少しでも理解していただきたいと思うからです。

 このような矛盾に満ちた不破さんは、「日本共産党の綱領を改定した二〇〇三~〇四年に全面的な研究をおこない、その成果に立って」(「『資本論』探究〈上〉」P15)「私たちは、(生産物の分配方式の進化を未来社会の尺度とする──青山)この誤りをおおもとから打破して、二〇〇四年の第二三回党大会で採択した新しい党綱領のなかで、マルクスの本来の理論を現代的に発展させた未来社会論を定式化しました」(「『資本論』探究〈下〉」P166)と言います。

 こうしてできた修正「綱領」は、ご存知のとおり、労働者階級という文字は刺身のツマのように三回ほど出てきますが、資本主義的生産様式の社会の変革をめざす科学的社会主義の思想の核心である労働者階級の役割、その歴史的使命は完全に削除され、生産と生産物の分配を含む新しい生産様式の社会を実現するという課題は、「生産手段の社会化」による「社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする」社会の実現へと変えられてしまいました。

 これが、不破さんの「革命観・資本主義観の大転換」と「未来社会論」の成立過程とその結果についての極々大雑把な概要です。

 不破さんは、これまで見てきたように、自分が誤った「恐慌=革命」論に陥った原因をマルクスの責任にし、自分が誤った「生産物の分配方式の変化を最大の基準にし」た「未来社会」論に陥った原因をレーニンの責任にし、自分が「未来社会」論を発見できなかった原因をエンゲルスの責任にして、自ら熟考することのできない頭で、デタラメな「革命観」、「資本主義観」そして「未来社会論」を『資本論』等から「発見」(=一知半解からくる「創作」)して、科学的社会主義の思想を台無しにしてしまいます。

 

不破さんの党史の捏造には前科がある

 不破さんは、「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論はマルクスの死後も克服されることなく信じられてきました」と反共ごろつきジャーナリスト並みに党史を捏造しますが、不破さんの党史の捏造には前科があります。

 

その1、白(レーニン)を黒(毛沢東主義者)く塗り替える不破さん

 不破さんは「『資本論』刊行150年に寄せて」の⑨「マルクスの未来社会論(1)」で、レーニンを毛沢東主義者に変えて党史を捏造します。

 不破さんは、「マルクスの未来社会論(1)」のむすびの小見出し「自主独立の立場でマルクスの本来の理論を解明」の「項」で「革命論についてのレーニンの誤解については、1960年代に中国の毛沢東一派との闘争のなかで、レーニンの誤解をただし、多数者革命論にこそマルクスの理論的到達点があることを明らかにしました。」と述べています。

 しかし、これは真っ赤なウソです。

 当時の共産党の綱領路線が、「暴力革命」が「日本における革命のただ一つの道であることをみとめず、革命の平和的な発展の可能性」を革命の発展の「ひとつの可能な展望としてみとめている」ことについて、中国共産党とその盲従分子が「これこそ『暴力革命がプロレタリア革命の普遍的法則である』というマルクス・レーニン主義の原則にたいする裏切りであり、ブルジョア議会を美化して『議会による革命』をとなえた第二インターナショナルの修正主義路線への転落だ、という」攻撃をしてきたことに対し、共産党は、1967年4月29日の『赤旗』に「極左日和見主義者の中傷と挑発」というタイトルの『赤旗』評論員論文を発表して、マルクス・エンゲルス・レーニンの著作とその書かれた時々の時代背景を明らかにして、マルクス・レーニン主義(=科学的社会主義)の旗を守り、当時の共産党の綱領路線の正しさを示しました。

 つまり、共産党として、「レーニンの誤解」をただしたのではなく、マルクス・エンゲルス・レーニンの著作を援用してマルクス・エンゲルス・レーニンの思想についての〝中国共産党とその盲従分子の歪曲・捏造〟をただし、マルクス・レーニン主義(=科学的社会主義)の思想の真髄を明らかにし、科学的社会主義の思想に基づく日本共産党の綱領路線の正しさを示したのです。

 だから、不破さんが「革命論についてのレーニンの誤解については、1960年代に中国の毛沢東一派との闘争のなかで、レーニンの誤解をただし、多数者革命論にこそマルクスの理論的到達点があることを明らかにしました」などと言うのは、真っ赤なウソで、輝かしい日本共産党の歴史の、許しがたい、捏造です。

 党員のみなさんは、是非、不破さんのデマを曝露している「429(よんにいきゅう)論文」を読んで下さい。とりあえず、ホームページAZ-2-3「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その3)」のPDFファイルの14ページ以降をお読み下さい。

 「『恐慌=革命』という資本主義の自動崩壊論」を「克服」することなく二一世紀になっても「信じ」ていた不破さんが、今になって、こんなことを言うのですから、唯々呆れるばかりです。

 

その2、科学的社会主義の〝未来社会論〟を〝世界の共産主義運動の担い手たちが発見できなかった〟というウソ

 不破さんは、エンゲルスが「未来社会論」を『資本論』の第3巻第48章の中に編集したから「世界の共産主義運動」の担い手たちが「未来社会論」を発見できなかったと言ったかと思うと、レーニンが『ゴータ綱領批判』を読み誤って、「生産力の増大に応じて『労働に応じた分配』から『必要に応じた分配』に発展するのが未来社会の発展法則だという定式化をおこなった」から、不破さんが発見(捏造)したニセ「未来社会論」が、「百年以上も」「ほとんど誰からも注目されず、見落とされてきた」と言い、「その最大の原因は、レーニンがその著作『国家と革命』で展開した議論にありました」(⑨「マルクスの未来社会論(1)」)といってレーニンの『国家と革命』にも罪をなすりつけます。

 このように、不破さんは、自分の認識能力の無さをエンゲルスに責任転嫁し、レーニンがマルクス・エンゲルスが示した〝資本主義的生産様式の社会の変革〟→〝共産主義社会の第一段階の社会〟→〝共産主義社会のより高度の段階の社会〟という認識を共有し、「発展した共産主義社会」を〝自由の国〟と理解していたから、不破さんが「自由の国」とは「余暇」のことだというビックリ大「発見」を二一世紀になっても「発見」できなかったと言ってレーニンを責めたてます。

 しかし、不破さんの「自由の国」とは「余暇」のことだというビックリ大「発見」はさておいて、「未来社会論」を「世界の共産主義運動」の担い手たちが発見できなかったというのは、これまた、真っ赤なウソです。当時、共産党の常任幹部会委員で教育局長であった小林栄三氏が監修した1977年刊行の『科学的社会主義〈下〉』にも当該文章は紹介されており、「世界の共産主義運動」の担い手たちどころか、日本共産党員はもちろん、この本を読んだ一般の人たちも、共産党の言う、科学的社会主義の思想が示す未来社会とは、資本主義的生産様式を変革して、社会主義の過渡期をへて実現される「肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような」社会のことだということは、当時の共通認識でした。そして、現在も、「自由の国」とは「余暇」のことだなどという「未来社会論」に騙されることなく、多くの党員の皆さんが当時の共通認識を持ち続けておられることを願うばかりです。

 詳しくは、ホームページAZ-4-1「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について」を参照して下さい。

 

不破さんはなぜ綱領を変え、『赤旗』はなぜ反共主義者が行なうデマ攻撃のような文章を堂々と紹介するのか

 まず、現代の〝世界の国家と資本の動き〟を概括し、「革命観・資本主義観の大転換」をした不破さんが、その資本主義観に基づきどのように「綱領」を変えて「現実」への拝跪を成し遂げようとしているのか、そしてなぜ、『赤旗』は反共主義者が行なうデマ攻撃のような文章を堂々と紹介することができるのか、一緒に見ていきましょう。

 

・世界の国家と資本の動きの概括

 マルクス・エンゲルスの生きた時代も、国家間の争いが激しさを増してきたレーニンが生きた帝国主義の時代も、国家と資本が一体となって国内の産業を振興し、好景気のときは国家も資本も国民さえもそれなりに「我が世の春」を謳歌することができた。「資本主義の黄金時代」といわれる1945年から1975年まではそのような経済の運営と経済構造が、基本的に、続きます。

 しかし、泳ぎ続けなければ死んでしまうマグロのように成長し続けなければその存在意義のない資本には、より一層の利潤の拡大を求めて、「資本主義の黄金時代」の終わり頃から積極的にグローバルな展開を試み始め、国家もそのあと押しを積極的行ないます。このときはまだ、国内産業も空洞化せず、労働者も中流意識を持って生活することができました。

 そして、この資本のグローバル展開は、資本と国家・国民との関係を大きく変えることになります。日本では1995年に完全に資本と国家・国民との関係が変わり、「産業の空洞化」の影響がはっきりと現れ、国内産業は活力を失い、労資関係は資本優位となって不安定雇用の増大と低賃金が恒常化し、GDPも停滞したまま現在に至っています。このように、資本は、国家と国民を捨て、労働者が生み出した富と雇用を海外に持ち出して富の蓄積を図るという、資本として当然の道を選びました。

 このような状況にもかかわらず、資本に至れり尽くせりの支援をしてきた政府自民党は、このような状況を歯牙にもかけず、資本の行動を放任し、「新産業の育成」というスローガンだけの中身のない「政策」で国民を煙に巻きつづけ、野党のトップランナーであるはずの共産党もクローバル資本の行動の結果である「産業の空洞化」には目をつむり、「賃金が上がれば経済は良くなる」、「どんな情勢の時でも賃金闘争で頑張らなければダメだ」(『賃金、価格、利潤』の不破さんの講演)と言うだけで、クローバル資本の行動を改めさせて健全な雇用を取り戻すことを国民に訴えることなどまったく行ないません。現在の日本のように「産業の空洞化」によって経済が衰退しているなかで、展望を示さず、「どんな情勢の時でも賃金闘争で頑張らなければダメだ」と言い「資本主義世界でも異常な日本社会の状態を打開して、社会的バリケードをかちとり、『ルールある経済社会』へ道を開いてゆく」などと、的外れの、勇ましそうなことを言っても何も勝ち取ることなどできません。

 しかし、ここでまた、政治と経済の潮目が変わり始めました。それは、米国で、2016年の大統領選挙において、このような資本と国家・国民との関係が変わるような選択を国民とトランプ氏が行なったことです。

 2016年9月26日、日本時間の27日午前10時から始まった米国大統領候補の第1回テレビ討論会で、クリントン氏が「最低賃金を引き上げ、インフラや先端技術、再生エネルギーへの投資で一千万人の雇用を創出する」と「再生エネルギーへの投資」を除けばアベノミクス同様の絵に書いた餅の万年政策を述べるだけだったのに対し、トランプ氏は、オハイオ州、ペンシルベニア州等具体的な地域をあげて産業空洞化の深刻さを指摘し、企業が海外に流出し雇用が海外に盗まれていることを述べ、「連邦法人税率を35%から15%に下げ、海外に流出した企業や雇用を取り戻す」ことを訴え、TPPについて「雇用が盗まれるような貿易協定は再交渉が必要」との主張を行ないました。

 トランプ氏は「産業の空洞化」にともなう国家独占資本主義による米国の世界覇権の衰退の危機を感じ、国民は「産業の空洞化」による生活の危機を悟り、互いが共鳴してトランプ大統領が誕生したのです。

 2020年の大統領選挙では、民主党のバイデン候補も「バイ・アメリカン」政策を掲げて国内製造業の復活をめざすことを約束するという政策転換を行ないました。バイデン氏とトランプ氏との違いは、トランプ氏が中国だけでなく、全ての先進資本主義国に「アメリカ・ファースト」を露骨に示して押し付けたのに対し、バイデン氏は「自由と民主主義」というイデオロギーを旗印にして、中国を標的として先進資本主義国を巻き込んで世界の経済と貿易の再編を世界に求めていることです。そして、中国から切り離された先進資本主義国は米国中心の産業資源の供給網に組み込まれて、「アメリカ・ファースト」に従わざるを得ず、その結果、米国が再び国家独占資本主義の国家として世界の覇権を確かにすることを、米国の支配層は知っています。

 これが、現在の「世界の国家と資本の動き」です。

※上記の不破さんの講演についての詳しい説明は、ホームページ4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」を、2016年の米大統領選の第1回テレビ討論についての詳しい説明は、ホームページ6-1-20「第1回大統領候補テレビ討論中継でCNNが伝えたことと、日本のマスコミが報道したこと」を参照して下さい。

 

・不破さんの資本主義観に基づく現実への拝跪

 恐慌の原因を資本主義的生産様式のもつ矛盾そのものから見るのではなく、「流通過程の短縮」による価値実現の短縮に求め、「資本主義発展論」者に転落して「賃金が上がれば経済は良くなる」などといって資本主義にどっぷりと浸かり、「水中の魚のように気安さを覚え」(大月版『資本論』⑤ P998)て現実に拝跪することとなった不破さんは、今の日本の経済と国民生活の危機を克服するために最も必要で焦眉の課題であるグローバル資本の民主的・社会主義的規制とその推進力となる労働者階級の役割の意義を消し去り、自分の都合の良いように日本共産党の綱領を変えてしまいました。

 不破さんの作った「綱領」は、「ルールなき資本主義」の現状を打破して「ルールある経済社会」をつくるといいます。「ヨーロッパの主要資本主義諸国」やそれらの国が主導して作った「国際条約など」も踏まえ「ルールある資本主義社会」をつくる、これが「民主主義革命と民主連合政府」の経済政策で、これによって「国民の生活と権利を守る」ことができるというのです。

 マルクス・エンゲルス・レーニンが聞いたら、腰を抜かして驚くことでしょう。「不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった」(ホームページ「4-1」のタイトル)人ですが、マルクスは『賃金、価格、利潤』でも『資本論』ででも、生活と権利を守るための「社会的障害物」をつくるためにたたかうことは重要で必要なことだが資本主義的生産様式の社会をかえるたたかいをしなければ必ず敗北することを、私たちに、繰り返し警告しています。

 「ヨーロッパの主要資本主義諸国」がギリシャに対して行なった仕打ちは新自由主義そのもので、それらの国々での右翼政党の台頭は「ヨーロッパの主要資本主義諸国」の混迷ぶりを見事に現しています。そして、米国とそれらの国々が主導して作った「国際条約など」の国際ルールは、グローバル資本が搾取と収奪を世界中で円滑に行なうための手段です。

 なお、「綱領」には、「大企業にたいする民主的規制」によって「その横暴な経済支配をおさえる」と、もっともらしいことが書かれています。しかし、日本経済と国民生活を疲弊させ続けている「産業の空洞化」をやめさて地域経済のバランスのとれた発展を図るためのグローバル資本の民主的・社会主義的規制の方策を提起したことなどありません。それは、「綱領」が、不破さんの「資本主義発展論」に基づき、「ヨーロッパの主要資本主義諸国」やそれらの国が主導して作った「国際条約など」を踏まえての「ルールある資本主義社会」づくりが目標だからです。だから、「大企業にたいする民主的規制」なるものは、「横暴な」「ルールなき資本主義」の暴走を一時的に阻止する以上には前に進むことなどできず、構造的な日本経済の衰退と国民生活の疲弊を止めることなどできません。

 グローバル資本の核心的利益に斬り込む民主的・社会主義的規制こそが、今の日本に求められているのです。

 そして、こうしてできた修正主義「綱領」は、資本主義的生産様式の社会の運動法則を科学的に見て、未来を切り拓く変革の主体とその役割を正しく見ることができませんから、ご存知のとおり、労働者階級という文字は刺身のツマのように三回ほど出てきますが、「綱領」のなかで、資本主義的生産様式の社会を変革する主役としての役割も出番も与えられることはありません。

 資本主義的生産様式の社会の変革をめざす科学的社会主義の思想の核心である労働者階級の役割、その歴史的使命は完全に削除され、〝自由の国〟の基礎をなす〝新しい生産と生産物の分配の仕方の社会〟──新しい生産様式の社会──を実現するはずの共産党は、「生産手段の社会化」による「社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする」社会の実現へと、その目標を変えられてしまいました。

 このように、現在の「綱領」は、見事に、不破さんの資本主義観に基づく現実への拝跪を成し遂げたものです。

 

・科学的社会主義の党の機関紙であるはずの『赤旗』が反共主義者が行なうデマ宣伝のような文章を堂々と紹介することができる理由

  不破さんがなぜこんなデタラメな「理論」(創作)をもとに「綱領」を変え、科学的社会主義の党の機関紙であるはずの『赤旗』に反共主義者が行なうデマ攻撃のような文章をなぜ堂々と載せることができるのか。

 その理由は二つあります。

 その最大の理由は、党員の意見がタコ壺のような狭い支部の中に閉じ込められ、正しい認識が妨げられていることにあります。

 そして、第二の深刻な理由は、指導部が不破さんの謬論に抗えないことにあります。

 この二つの理由の詳しい説明は、「AZ-0-2 付属ページ」をご覧いただきたいと思いますが、私の説明が誤解されたり反共攻撃の材料にされることを避けるため、科学的社会主義の思想に共感をもっておられる方のみがお読みになることを願っています。

 そして、科学的社会主義の党であるべき日本共産党が、不破さんのような間違った思想をもった「指揮者」を生み出さないために、党員をタコ壺のような狭い支部の中に閉じ込めるエセ「民主集中制」を速やかに改めることを期待します。