3-2

レーニンは科学的社会主義の党のたたかい方を示した

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〈目次〉

Ⅰ、資本主義に変わる新しい生産様式の社会への道

Ⅱ、社会主義のための闘争と民主主義のための闘争の不可分性

 ①社会主義のための闘争と民主主義のための闘争との相違点

 ②レーニンから学ぶ

Ⅲ、二つの戦術──要求を改良主義的でなく革命的に定式化せよ

 ①レーニンから学ぶ

 ②共産党員を科学的社会主義の思想から遠ざける不破さん

 ③〝生産手段にたいする全人民の民主主義的管理が組織された社会〟のために

Ⅳ、科学的社会主義の党のたたかいの進め方

 ①鎖全体をおさえることができる鎖の特殊な一環をつかめ

 ②最も適切な合言葉、スローガンを示せ

  ⅰ、[社会的諸階級の激烈な闘争」の任務と目的とを定式化する

  ⅱ、敵と味方を区別することをたすけ、運動に方向をあたえる

  ⅲ、内容のない大言壮語は主観主義者の空文句

 ③宣伝、煽動のしかた

  ⅰ、暴露せよ!そして、暴露せよ!!

  ⅱ、口先だけの「政治家」になってはならない

  ⅲ、暴露する活動を狭い経済的暴露だけに留めてはならない

  ⅳ、煽動のポイントについて

 ④全国的政治新聞の意義

  ⅰ、機関紙の意義

  ①少数者による欺瞞とのたたかいでの留意点

  ②ほんとうに生き生きとした機関紙とは──日本共産党が学ぶべきこと

  ③煽動を空文句にしないための実践とのフィードバック

  ⅱ、どのように機関紙は作られなければならないか

  ①労働者を編集活動に系統的に参加させるべきである

  ②社会主義社会の実現をめざす明確な戦術と煽動の個性化

  ③新聞は社会主義の終局目標と労働者階級の歴史的任務を語り尽くせ

  ④全国的政治新聞の意義

 ⑤いま求められているもの

  ⅰ、問題の所在

  ⅱ、問題の解決の第一歩

  ⅲ、マルクス主義者は困難にどのような態度をとるのか

  ①不破さんの場合

  ②マルクス主義者の場合

3-2

レーニンは科学的社会主義の党のたたかい方を示した

資本主義に変わる新しい生産様式の社会への道

私たちは、ホームページ3-3「レーニンは国家と社会を民主的に組織することこそが社会主義社会への途であることを示した」で、マルクス・エンゲルス・レーニンが示したコミュニズムへの道は、資本主義的生産様式の社会を卒業するために、①「資本」が「生産手段」と企業を支配する権利を〝国法をもって〟剥奪し、知的財産権等「財産」に基づく特権を廃止し、②〝生産手段にたいする全人民の民主主義的管理を組織すること〟と〝全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織すること〟を中心に、社会を民主的に組織することであり、そのことを通じて〝経済は社会のため国民のためにある〟という社会をつくることであり、これらのことを国民の合意にしなければならない、ということを見てきました。

 そして、若干27歳(1897年)のとき流刑地で執筆した『ロシア社会民主主義者の任務』で、レーニンは、プロレタリアートだけが政治体制と社会体制の民主化を最後まで遂行する能力をもっており、新しくつくられる社会の管理は労働者階級の手にゆだねられることを明らかにし、労働者階級の歴史的な役割を明示しています。

 これらを踏まえ、まず、①科学的社会主義の思想が明らかにした、資本主義に変わる新しい生産様式の社会を実現するための〝民主主義〟と〝社会主義〟のための闘いはどのような関係に在るのかを見てみましょう。そして、次に、これを踏まえて、②改良主義と革命的改良との違いを明らかにし、最後に、これらを踏まえて、③科学的社会主義の党の戦い方を見ていきたいと思います。

*『ロシア社会民主主義者の任務』の中の上記のレーニンの論述については、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→「A-2、科学的社会主義・その2(2-3)」の2-7「社会民主主義者の実践活動──2つの任務」のPDFファイルをご覧ください。

社会主義のための闘争と民主主義のための闘争の不可分性

レーニンは、上記「Ⅰ」で紹介した『ロシア社会民主主義者の任務』で、〈周知のように、社会民主主義者の実践活動は、プロレタリアートの階級闘争を指導し、この闘争をそれの二つの現れ、すなわち、社会主義的な現れ(階級的体制をうちこわして、社会主義社会を組織することを目標とする、反資本家階級の闘争)と民主主義的な現れ(ロシアで政治的自由をたたかいとり、ロシアの政治体制と社会体制を民主化することを目標とする、反絶対主義の闘争)とにおいて組織することを、任務としている〉ことを述べ、〈当面の経済的要求〉と〈当面の政治的な必要や困苦や要求〉は〈一つのメダルの両面のように切っても切れないようにむすびつけられて〉おり、〈経済的煽動も政治的煽動もプロレタリアートの階級的自覚の発達のためには同様に必要であり、また、あらゆる階級闘争は政治闘争であるから、経済的煽動も政治的煽動もロシアの労働者の階級闘争の指針として同様に必要である。……(青山の略)プロレタリアートだけが政治体制と社会体制の民主化を最後まで遂行する能力をもっている。というのは、そういう民主化は、この体制を労働者の手にゆだねるだろうからである。〉と言っています。

 そして、レーニンは、『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」とについて』(1916年8月~10月に執筆)で、およそ「民主主義」とは、資本主義のもとではきわめてまれに、きわめて条件的にしか実現されない「権利」を宣言することであり、それを実現することであるが、いますぐこの権利のためにたたかわなければ、このような闘争を趣旨として大衆を教育しなければ、社会主義は不可能であることを述べ、〈社会主義は、つぎの二つの意味で、民主主義がなければ不可能である。(一)プロレタリアートは、民主主義のための闘争によって社会主義革命の準備をしていなければ、この革命を遂行することができない。(二)勝利をしめた社会主義は、民主主義か完全に実現しなければ、自分の勝利を維持し、人類を国家の死滅へ導くことができない。〉と、民主主義が社会主義にとって不可欠なことを強く訴えます。

*詳しくは、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→「C-2、各論・その2(9-12)」の9-6「社会主義に不可欠な民主主義」のPDFファイルをご覧ください。

民主主義が社会主義にとって不可欠なのは明らかです。

 レーニンは、『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』(1916年8月~9月に執筆)で、次のように述べています。

〈一般に資本主義、とくこ帝国主義は、民主主義を幻想に変える──だが同時に資本主義は、大衆のなかに民主主義的志向を生みだし、民主主義的制度をつくりだし、民主主義を否定する帝国主義と、民主主義をめざす大衆との敵対を激化させる。資本主義と帝国主義を打倒することは、どのような、どんなに「理想的な」民主主義的改造をもってしても不可能であって、経済的変革によってのみ可能である。しかし、民主主義のための闘争で訓練されないプロレタリアートは、経済的変革を遂行する能力をもたない。銀行をにぎらないでは、生産手段の私的所有を廃止しないでは、資本主義に打ちかつことはできない。しかし、ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織することなしには、全勤労大衆を、すなわち、プロレタリアをも、半プロレタリアをも、小農民をもひきいて、彼らの隊列、彼らの勢力、彼らの国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには、これらの革命的措置を実行することはできない。……(青山の略)社会主義は、プロレタリアートの独裁を通じるよりほかには実現されない。ところでこのプロレタリアートの独裁は、ブルジョアジーすなわち国民のなかの少数者にたいする暴力と、民主主義の完全な発展、すなわち、あらゆる事への、また資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展とを結びつけるのである。……(青山の略)

 ブルジョア民主主義の利用を通じて──ブルジョアジーに反対し、日和見主義に反対する、プロレタリアートの社会主義的な、首尾一貫して民主主義的な組織化へ。これ以外の道はない。これ以外の「活路」は、活路ではない。〉

*詳しくは、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→「C-2、各論・その2(9-12)」の9-4「社会主義革命と民主主義のための闘争Ⅱ」のPDFファイルをご覧ください。

このように、レーニンは、若干27歳のときから、「政治体制と社会体制の民主化」が「この体制を労働者の手にゆだねる」こと、つまり、労働者階級による「政治体制と社会体制の民主化」が社会を労働者階級の手にゆだねることを明らかにし、「Ⅰ」で見た社会主義社会の二つの構成要件の一つである《〝生産手段にたいする全人民の民主主義的管理を組織すること〟と〝全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織すること〟を中心に社会を民主的に組織する》という、社会主義社会の提要をしっかり摑んでいました。

社会主義のための闘争と民主主義のための闘争との相違点

このように、社会主義のための闘争のためにも必要で社会主義社会を建設する上でも必要不可欠な民主主義は、社会主義社会の構成要素ですが〝社会主義のための闘争〟そのものではありません。

 レーニンは、『小ブルジョア社会主義とプロレタリア社会主義』(1905年11月7日)で〈なぜ民主主義的闘争の条件と、社会主義的闘争の条件とは、同じでないのか?〉として、〈なぜなら、この二つの闘争では、労働者はかならずちがった同盟者をもつことになるからである。民主主義的闘争を、労働者は、ブルジョアジー、とくに小ブルジョアジーの一部といっしょに行う。だが、社会主義的闘争を労働者は、ブルジョアジー全体に反対して行う。〉と述べ、『社会主義革命と民族自決権』(1916年1-2月に執筆)では、〈民主主義もまた国家の一形態であって、国家が消滅するときには消滅しなければならないが、しかし、終局的に勝利を占め、強固になった社会主義から完全な共産主義へ移行するさいにはじめてそうなるであろう〉と述べ、〈社会主義革命は、ただ一回の行為でも、ただ一つの戦線におけるただ一回の戦闘でもなく、幾多の激烈な階級衝突からなる一時代であり、あらゆる戦線にわたる、すなわち、経済上および政治上のあらゆる問題にかんする戦闘の長い系列である。これらの戦闘は、ブルジョアジーの収奪によってはじめて完了することができる。民主主義のための闘争は、プロレタリアートを社会主義革命からそらせるか、あるいは、それをさえぎり、あいまいにする恐れがあるなどと考えるのは、根本的な誤りであろう。反対に、勝利をえた社会主義が完全な民主主義を実現しないということがありえないのと同様に、民主主義のための全面的な、一貫した革命的闘争を行わないようなプロレタリアートは、ブルジョアジーにたいする勝利の準備を整えることはできない。〉と言い、同時に、〈政治的民主主義のあらゆる根本的要求が、帝国主義のもとで「実現可能」であるのは、不完全な、かたわにされた形でにすぎず、またまれな例外としてにすぎない〉こと、だから、〈すべてこれらの要求を改良主義的でなしに革命的に定式化し実行することが必要となるのである。すなわち、ブルジョア的合法性の枠に制限されずに、それを打破し、議会演説や口さきだけの抗議に満足しないで、大衆を積極的な行動に引きいれ、あらゆる根本的な民主主義的要求のための闘争を拡大し燃えたたせて、ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの直接の突撃に、すなわちブルジョアジーを収奪する社会主義革命に導かなければならない。〉と述べています。

*ここで一部抜粋した『小ブルジョア社会主義とプロレタリア社会主義』と『社会主義革命と民族自決権』の抜粋全文は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→「C-2、各論・その2(9-12)」の9-1「なぜ社会民主主義者となのるのか」及び9-3「社会主義革命と民主主義のための闘争Ⅰ」のPDFファイルをご覧ください。

レーニンは、このように〝社会主義のための闘争と民主主義のための闘争との相違点〟と〝民主主義のための闘争〟の仕方を明らかにしています。

レーニンから学ぶ

カッコ付きの「民主主義」は「対資本主義」的な概念として捉えられず、一般的・理性的な〝あるべき姿〟として捉えられており、したがって、この「民主主義」に留まっている以上〝社会主義〟の構成要素としての真の〝民主主義〟にはなりません。

 しかし、〝経済は社会のため国民のためにある〟という社会は、一般的・理性的な〝あるべき姿〟ではあるが〝社会主義〟社会にならなければ実現せず、〝民主主義〟がなければ実現しません。だから、〝経済は社会のため国民のためにある〟という社会をつくるためには「民主主義」者は〝民主主義〟者に脱皮しなければなりません。

 私たちはこの意味をしっかりと理解し、現実のそれぞれの場での「民主主義」の限界を明らかにし、現実のそれぞれの場での〝民主主義〟を探究し、〈あらゆる根本的な民主主義的要求のための闘争を拡大し燃えたたせて〉、「民主主義」者に提起しなければなりません。

 その場合、〝民主主義〟の必要とされる場は、政治の分野だけでなく、人権と経済をふくむ社会全般でなければならず、議会で多数を獲得するだけの薄っぺらな「多数者革命」とは違って、労働者階級が〝社会を民主的に組織する〟ことへの助力が科学的社会主義の党の歴史的な任務となります。

二つの戦術

要求を改良主義的でなく革命的に定式化せよ

レーニンは、『ロシア社会民主主義者の任務』((1897年))で〈現代社会ですでに支配的な役割をはたしているこれらの階級利害をあいまいにすることはすべて、戦士を弱めるだけであろう〉と言い、『われわれの綱領草案にたいする批判への回答』(1903年)では〈マルクス主義者にとっては、任務は、ただつぎの二つの極端を避けることにしかない。すなわち、一方では、プロレタリアートの見地からすれば非プロレタリア的な、当面の一時的な任務などはわれわれになんの関係もない、と言う人々の誤りに陥らないこと、他方では、当面の民主主義的任務の解決へのプロレタリアートの参加が、彼らの階級意識とその階級的独自性をくもらせることのないようにすることである。………社会民主主義者は自分の綱領の農業の部だけをもって農村にはいっていくことができるとか、社会民主主義者は自分の社会主義の旗をたとえ一分間でも捲くことができるとか考えるなら、これ以上の大きな誤りはない。〉と述べ、先ほど引用した『社会主義革命と民族自決権』(1916年)では、〈すべてこれらの要求を改良主義的でなしに革命的に定式化し実行することが必要となるのである〉と言っています。

 そしてレーニンは、『自決にかかする討論の総括』(1916年7月)で、〈改良主義的な改変とは、支配階級がその支配を維持しながら行う譲歩にすぎず、支配階級の権力の基礎を掘りくずすことのない改変である。革命的改変とは、権力の基礎を掘りくずす改変である。……(青山の略)……しかし、改良は、だれでも知っているように、実践のうえではしばしば革命への一歩にほかならない。〉と言い、『プロレタリア革命の軍事綱領』(1916年9月)では、〈われわれは、改良のための闘争に反対するものでは絶対にない。……(青山の略)……われわれが賛成する改良の綱領は、かならず日和見主義者にも鋒先を向けているような綱領でなければならない。〉と述べています。

*ここで一部抜粋した『われわれの綱領草案にたいする批判への回答』の抜粋全文は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→「B-1、党・その1(4)」の4-5「マルクス主義者の綱領作成上のポイント」のPDFファイルを、『自決にかかする討論の総括』及び『プロレタリア革命の軍事綱領』の抜粋全文は、「C-1、各論・その1(8)」の8-24「改良主義的な改変と革命的な改変」のPDFファイルをご覧ください。

レーニンから学ぶ

レーニンは、支配階級の権力の基礎を掘りくずすような改変を提起しなければならないと言い、労働者階級の階級意識とその階級的独自性をくもらせるような階級利害をあいまいにする改変の提起は労働者階級のたたかうエネルギーを弱めることになると言う。そして、われわれが賛成する改良の綱領は、かならず日和見主義者にもその鋒先が向けられているものでなければならないとも言う。

 それでは、科学的社会主義の思想の持ち主のたたかい方とは、具体的にどのようなものなのか、一緒に見てみましょう。

 私たちはこのページの冒頭で、社会主義社会とは、①「資本」が「生産手段」と企業を支配する権利を国法をもって剥奪し、知的財産権等「財産」に基づく特権は廃止され、②〝全勤労大衆の国事参加が民主主義的に組織され〟るとともに〝生産手段にたいする全人民の民主主義的管理が組織され〟た社会、社会全体がを民主的に組織された社会であることを見てきました。

 これに対し、資本主義社会は、「財産」に基づく支配を維持し強めるための「法とルール」の強化に努め、民主主義を「政治」のなかに──それも、形骸化させて──閉じ込めて、資本がグローバルに動く自由を確保し、世界中で自由に搾取ができるよう日夜努力しています。資本主義と社会主義との間の中間の選択などありません。資本主義か社会主義かの二つに一つです。

 日本も、今、資本のグローバル展開によって〝産業の空洞化〟が深刻化し、世界を魅了する奇跡の発明でもない限り、資本の行動を強制的にコントロールして国内に産業と雇用を復活させる社会主義的な施策を取らなければ、日本経済と国民の生活は立ち行かないような危機的な状況に陥っています。資本が貪欲に海外での儲けを追求し続けるかぎり、あれこれの弥縫策によって、日本経済が改善し国民の生活が向上するなどということはありえません。だから、現在の日本の取るべき選択肢も二つに一つ、企業の行動を現在のまま自由に任せて、ますます経済を地盤沈下させていくのか、それとも、企業の行動をコントロールして、もう一度産業と雇用を復活させるのか、そのどちらかの選択肢以外に「中間的」な「民主的」な他の選択肢などありません。

 だから、いま特に大切なのは、支配階級の政策の一つ一つ、日和見主義者の政策の一つ一つ、そして、科学的社会主義の党の政策の一つ一つが、社会関係の中にどのように浸透しどのような結果をもたらすのかを明らかにし、資本主義の方向を向いているのか、それとも、社会主義・民主主義──〝経済は社会のため国民のためにある〟という社会──の方向を向いているのかをしっかりと国民に説明することです。

 労働者階級は、自分たちが搾取されていることを自覚しなければ、搾取のない社会を求めることなどありません。だから、科学的社会主義の党は、現在の社会関係のなかで起こる様々なこと、そして、国民・労働者階級の切実な要求(*)を資本主義的生産様式のもとでの搾取と収奪の仕組みと方法に照らし合わせ、いまある搾取の実態を国民・労働者階級に明らかにしなければなりません。そして、搾取のない社会への道をしっかりと示さなければなりません。

 資本主義社会の搾取を暴露し、〝経済は社会のため国民のためにある〟という社会のあり方を示せ!!

(*)ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→「A-1、科学的社会主義・その1(1)」の1-16「マルクス主義者は〔切実な要求〕をプロレタリアートの要求としてプロレタリアートが利用するためにマルクス主義者の仕方で定式化せよ」のPDFファイルを参照して下さい。

共産党員を科学的社会主義の思想から遠ざける不破さん

社会主義社会を建設していくうえで決定的に有害で誤った考えが「共産党」を蝕んでいます。それは、いまだに「共産党」に大きな影響力を及ぼし被害を与え続けている不破哲三氏の──エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだ(『前衛』2014年1月号参照)──という、科学的社会主義の思想にたいする驚くべき背信の弁です。

 マルクスは資本主義の矛盾について二つの矛盾を指摘しています。一つは、資本主義的生産に内在する矛盾で「基本的矛盾」といい、「社会の消費力は、さらに蓄積への欲求によって、すなわち資本の増大と拡大された規模での剰余価値生産とへの欲求によって、制限されている。これこそは資本主義的生産にとっての法則」(大月版④P306-7参照)であるという「資本主義的生産にとっての法則」によって引き起こされる矛盾であり、もう一つは、エンゲルスが「根本矛盾」と言った、「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立」(大月版⑤ P1129)です。

 私たちは、これまで見てきたように、〝経済は社会のため国民のためにある〟という社会の実現をめざしており、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」が解消されることをめざしています。

 しかし、不破さんは、マルクスが指摘し、エンゲルスが「根本矛盾」と言った「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」を資本主義の矛盾ではないと言い、資本主義の矛盾を「利潤第一主義」に矮小化し、個人の賃金の問題にして、賃金が上がれば経済は発展すると言い、猫なで声で「共産党」への投票を呼びかけて議会で「多数」を取ることにうつつを抜かし、生産の社会的性格に見合う企業の民主化──個人の政治参加という狭い「民主主義」の枠を超えた社会全体の民主主義を実現するための中心的な課題──という社会主義に向けて欠くことのできない課題から党員の目を逸らせ続けています。

*ここでの不破さんの謬論についての詳しい説明は、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」及びホームページ4-11「☆不破さんは「資本主義の矛盾」を「利潤第一主義」に変え、社会主義革命を「資本主義の害悪」の改善に変えようとするのか」等を参照して下さい。

〝生産手段にたいする全人民の民主主義的管理が組織された社会〟のために

このように資本主義の矛盾を「利潤第一主義」に矮小化して、生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾を解決するための〝生産の社会的性格に見合う企業の民主化〟など一顧だにせず、「賃金が上がれば経済は発展する」と改良主義をアピールすることによって「共産党」が政権に近づくことを夢想する不破さんは、2004年に改定した綱領で労働者階級の歴史的使命を綱領から取り去り、「過酷な搾取によって苦しめられていた労働者階級」のために「共産党」が「たたかった」こと書き込んで「労働者階級」に恩を売り、取って付けたようにように、「労働者階級をはじめ」「世界のすべての人民と連帯し、人類の進歩のための闘争を支持する」などといって、「労働者階級」を〝多くのみんなのなかの一人〟として登場させる始末です。

 しかし、〝生産手段にたいする全人民の民主主義的管理が組織された社会〟、社会全体が民主的に組織された社会=社会主義社会は、その基礎となる〝生産の社会的性格に見合う企業の民主化〟が必要であり、労働者が社会の主役になる労働運動──労働者階級と労働組合が歴史的使命を果たすこと──なしには実現しません。

 レーニンは、『新経済政策の諸条件のもとでの労働組合の役割と任務について』(1921年12月30日~1922年1月4日に執筆)で、次のように述べています。、

〈プロレタリアートは、資本主義から社会主義へ移行しつつある国家の階級的基礎である。…(青山の略)…労働組合は、労働者階級の自覚した前衛――共産党――によってその政治的活動全体を指導される国家権力の、もっとも身近な、欠くことのできない協力者でなければならない。労働組合は、総じて共産主義の学校であるが、とくに、すベての労働者大衆のために、つぎに全勤労者のためにも、社会主義的工業を(ついで、徐々に農業をも)管理する学校とならなければならない。〉

*詳しくは、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→「D-2、ロシア革命その2(14)」の「14-36 新経済政策の諸条件のもとでの労働組合の役割と任務について」のPDFファイルでお確かめ下さい。

☆なお、この文章には、注釈が必要です。

 ロシア革命は非平和的な過程をたどり、強力なリーダーシップを必要とするものとなったため、共産党がイニシアティブを発揮せざるを得ない状況がつくられました。しかし、私は、〝前衛〟党は、本来、先頭に立ってたたかう部隊ではあるが、「政治的活動全体を指導」する部隊ではないと思います。だから、労働組合は社会主義社会をつくる「協力者」ではなく、労働組合は共産主義の学校であるだけでなく社会主義社会建設の重要な主体であり、社会主義的工業を管理する学校であるとともに社会主義的工業を管理する重要な主体であり、〝前衛〟党との共同作業者であると思います。

 民主化された企業とは、〝経済は社会のため国民のためにある〟という理念・目的のために企業内に於いて経営陣と労働者側との調和がとれ、地域内においては経営陣と労働者側と地域との調和がとれ、地域をまたぎあるいは国の内外に係わる課題においては経営陣と労働者側と地域と国全体との調和がとれていなければなりません。そのような重層的な企業管理のあり方が必要であり、調和のためには各参加者は平等でなければなりません。

 〝前衛〟党は、賃上げと福利厚生の推進者に甘んじている労働組合と労働者を覚醒させ、〝経済は社会のため国民のためにある〟という社会をつくるうえで欠くことのできない担い手になるよう、最大限のエネルギーを注がなければなりません。賃金が上がれば経済が良くなるといって労働者の階級意識を眠らせたり、資本の走狗や日和見主義者とケチなことで争うのではなく、社会主義と資本主義をめぐって争わなければなりません。

Ⅳ、科学的社会主義の党のたたかいの進め方

上記のⅠ、Ⅱ、Ⅲを踏まえて、具体的にどのような闘い方が求められているのか、一緒に見ていきましょう。

鎖全体をおさえることができる鎖の特殊な一環をつかめ

レーニンは『ソヴェト権力の当面の任務』(第27巻、1918年3~4月、P276~277)で、次のように述べています。

〈革命家であるということ、社会主義の信奉者であるということ、一般に共産主義者であるということだけでは、不十分である。それぞれの特定の時機に、鎖の特殊な一環を、すなわち全力をあげてそれをつかめば、鎖全体をおさえることができ、しかもつぎの環への移行をしっかりと準備できるような、特殊な一環を見つけだすことができなければならない、このばあい、諸事件の歴史的連鎖におけるいろいろの環の順序、形態、つながり、相互の差異は、鍛冶屋がつくる普通の鎖ほどには単純でなく、またそれほど素朴なものでもない。〉(*)

(*)ホームページ5-3「レーニンの考えの紹介」→「1、科学的社会主義の理論」の「28」を参照して下さい。

レーニンはマルクス・エンゲルスの思想=科学的社会主義の思想の継承者として、その時代その時期の最も大切なことは何かを究明し、その〝最も重要な一環〟を摑むことに努めました。そして、それは、ロシア革命のときは「帝国主義」であり、いまの日本では「産業の空洞化」です。

 絶えず拡大し続けなければ自らの存在意義のない〝資本〟は、1970年代に入り、先進資本主義国の国内での成長余地が狭まる中で、資本(富)と雇用を海外に輸出して自らを拡大するという〝資本〟にとって当然の、資本主義的生産様式の社会の発展法則に則った行動を行ないます。

 その結果、日本はその矛盾が顕著に現れ、1995年以降、国内の設備投資は低迷し、「産業の空洞化」と「GDPの停滞」→「雇用需給が変化し労使の力関係の資本優位への変化」と「輸出拡大を口実にした賃金の抑制」→「雇用の不安定化」と「実質賃金の低下」→「年金・医療等社会保障機能の脆弱化」と「人口減少」等の連鎖によって、国民の暮らし、そして、日本の社会・経済は深刻な危機にめぐり会うことになります。

 二〇世紀末から現在まで、〝資本〟による〝富と雇用の海外流出〟によって「産業の空洞化」が進行し、その諸結果は日本の社会・経済の深刻な危機をもたらしました。そしてそれは、〝資本〟の資本主義的生産様式の社会の発展法則に則った行動なのですから、資本主義的生産様式の社会の発展法則に逆らって〝資本〟の行動を規制し、労働者階級が生みだした富を国内で循環させるようにしなければ、問題は解決しません。

 このように〝鎖全体をおさえることができる鎖の特殊な一環〟をつかみ、〝資本〟の行動を暴露し、〝経済は社会のため国民のためにある〟という新しい生産様式の社会に繋がる施策を提起することが、科学的社会主義の党には、まず第一に、求められています。

※〝鎖の特殊な一環〟をつかむことに関する詳しい説明は、ホームページ5-1「マルクス・エンゲルスとレーニンが共通して訴えていること」→5-1-3「社会変革の運動の環の捉え方を示した」を、日本に於けるたたかい方についてのより詳しい説明は、ホームページ6-1-9「「2022年党旗びらき」での志位さんのとんでもない「あいさつ」……資本主義的生産様式の罪を「新自由主義」に着せ──「新自由主義を転換」すれば「やさしく強い経済」が出来る──と言って国民・労働者の目を曇らせるノー天気な挨拶」を参照して下さい。

最も適切な合言葉、スローガンを示せ

[社会的諸階級の激烈な闘争」の任務と目的とを定式化する

レーニンは、『ナロードニキ主義の経済学的内容』(第一巻P420)で、〈勤労階級の思想的代表者たち〉がやるべきこととして、〈わが資本主義社会のなかで、われわれの目のまえで行われている「社会的諸階級の激烈な闘争」の任務と目的とを定式化することになければならないということ、努力の成果の尺度となるものは、「社会」や「国家」への助言の作成ではなくて、一定の社会階級のなかでのこの理想の普及の程度であるということ〉であることを述べ、〈この階級の「狭い」小さな実生活上の諸問題、たとえば「労働にたいする正当な報酬」というような問題―─現在の「共産党」はこれだけしか目をむけていないが(青山)──と融合させることができなければ、三文の値うちもないということである。〉と述べて、勤労階級の思想的代表者たちが行うべきことは、現時点における激烈な階級闘争の明確な『合言葉』を労働者階級に提示することであり、その努力の成果を測る尺度は“どれだけ多くの労働者にこの思想を普及させることが出来たか”であることを言い、そのためには、経済闘争、「狭い」小さな実生活上の諸問題と労働者階級の解放の課題とが密接不可分なこと、「融合」した闘争課題であることを示し、労働者の階級的自覚を高めることであると言っています。

 つまり、現代の日本でいえば、〝経済は社会のため国民のためにある〟という新しい生産様式の社会をつくるために、1995年以降なぜ日本のGDPはその国際比率を下げ続けて低迷し、工業団地から企業が出て行って地方の過疎化が進み、現在のような希望の見えない危機的な状況に陥ったのかを明らかにし、現在の科学的社会主義の党の〝任務と目的とを定式化する〟ことです。

 科学的社会主義の党の地方議員の最大の任務は、資本の行動を現場で明らかにして告発し、〝経済は社会のため国民のためにある〟という社会への展望を示すことであって、「工業団地にペンペン草が生えた」のどと揶揄し、地場産業だけにたよる観念的な「内発的発展」論などに逃避して、他人任せにすることではありません。

*ここでのレーニンの著作の引用は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→A-2「科学的社会主義・その2」の「2-5勤労階級の思想的代表者たちが行うべきこと」で、確認して下さい。

敵と味方を区別することをたすけ、運動に方向をあたえる

レーニンは『ゼムストヴォの迫害者たちと自由主義のハンニバルたち』(第五巻、1901年6月、P66)で、スローガンは〈敵と味方を区別することをたすけ、運動に方向をあたえ、それを導くことのできるような旗じるし〉でなければならない。そして、だれもが言うような一般的な改善要求や、たよりにならない連中を結集するための〈ボロ切れの旗〉であってはならないと述べています。

 また、レーニンは、『国際主義的言辞による社会排外主義的政策の擁護「ソツィアル-デモクラート」第四九号』(第21巻、1915年12月21日、P450)で、〈政治上で一つの立場を占める〉ために必要なこととして、〈(一)組織の名において、戦術と当面の情勢にまとまった評価をあたえ、一連の決議をつくること。(二)当面の闘争スローガンをあたえること。(三)以上の二つを、プロレタリア大衆およびその自覚した前衛の行動と結びつけること〉を挙げ、〈社会的=階級的な、政治的に明確な内容がない〉スローガンは、〈卑俗なブルジョア民主主義的な空文句であって、中心的で、戦闘的で、プロレタリア的なスローガンではない〉ことを述べ、このようなスローガンは人民大衆の階級意識を眠らせるものであることを明らかにしています。

 現在の日本の「共産党」は、「賃金を上げれば経済はよくなる」かのように言い、「新自由主義を改めれば住みやすい社会」になるかのように言います。そして、資本主義的生産様式の社会の大番頭である自民党の岸田総理も「賃金を上げ」、「新自由主義を改める」ことを言っています。資本主義発展論に立っている不破さんの影響下にある「共産党」だからやむを得ないといってしまえばそれまでですが、マルクス・エンゲルス・レーニンが生きていたら、〝このような〈社会的=階級的な、政治的に明確な内容がない〉スローガンは、人民大衆の階級意識を眠らせるものだ!!〟と言って激怒することでしょう。

 資本主義社会の矛盾を暴露しない、〝経済は社会のため国民のためにある〟という社会への展望を明らかにしない、「ブルジョア民主主義」の発展に未来を託す人たちに社会変革の未来はありません。

*ここでのレーニンの著作の引用は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-4スローガンの意義Ⅰ」及び「5-15中心的で、戦闘的で、プロレタリア的でないスローガン」で、確認して下さい。

内容のない大言壮語は主観主義者の空文句

また、レーニンは、『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」とについて』(第23巻、1916年8月~10月、P72~73 )で、次のように述べています。

〈物のわかった煽動家なら、肯定的なスローガンにせよ、否定的なスローガンにせよ、「激化させる」だけのためにスローガンをかかげてはならないことを理解できるだろう。……

 たたかいを「激化させる」ということは、主観主義者の空文句である。主観主義者は、マルクス主義が、あらゆるスローガンを正当化するためには、経済的現実をも、政治情勢をも、このスローガンの政治的意義をも、正確に分析することを要求するものだという点をわすれている。こんなことをかんでふくめるように言うのは気まりが悪いが、そうしなければならないのだから、仕方がないではないか?……

 ………「プロレタリアートの反帝国主義的な意識を激化させる」ことだけに役だつと同時に、社会民主党自身権力をにぎったばあいにはその問題をどう解決するか、ということに積極的な解答をあたえることのてきない「否定的な」スローガン、そういうスローガンは、社会民主党には一つもないし、またありえない。一定の肯定的な解決法とむすびつかない「否定的」スローガンは、意識を「激化」させないで、にぶらせる、なぜなら、このようなスローガンは、空語であり、むきだしの絶叫であり、内容のない大言壮語だからである。〉

 レーニンは、ここで、マルクス主義は、あらゆるスローガンを正当化するためには、経済的現実をも、政治情勢をも、このスローガンの政治的意義をも、正確に分析することを要求することを述べ、科学的社会主義の党が権力についたばあいにはその問題をどう解決するかということに積極的な解答をあたえることのてきない〈否定的な〉スローガンは、科学的社会主義の党には一つもないし、またありえないと言います。そして、一定の肯定的な解決法とむすびつかない〈否定的〉スローガンは、意識を〈激化〉させないで、にぶらせる、なぜなら、このようなスローガンは、空語であり、むきだしの絶叫であり、内容のない大言壮語だからである、と切って捨てます。

 「こんなことをかんでふくめるように言うのは気まりが悪いが」、2021年に実施された衆議院選挙では、資本主義発展論を信奉する主観主義者の不破さんに牛耳られている「共産党」は、資本の富と雇用の海外持ち出しによる「経済的現実」を見ることも暴露することもできず、それらの結果、革命的情勢と言えるような「政治情勢」でもないのにもかかわらず、「政権交代」という単独のスローガン──それは、政権交代をみんなが認識し、国民みんなが〝ウラー!!〟と叫んで投票所に行くような「政治情勢」のときにのみ必要で有効なスローガンだが──の「政治的意義」をも理解せず、ポスターにして張り出し、国民を唖然とさせるだけでなく、「政権交代」だけを叫ぶ「むきだしの絶叫」者として自民党に利用されました。

 「こんなことをかんでふくめるように言うのは気まりが悪いが」、選挙後の「総括」でもその反省はまったくありません。だから、こんな当たり前のことを言うのも「仕方がないではないか!!」。実に、深刻で、残念な事態です。

*ここでのレーニンの著作の引用は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-16スローガンについて」で、確認して下さい。

宣伝、煽動のしかた

レーニンは綱領と煽動との関係について、『わが党の綱領草案』(第四巻、1899年末、P244~270)で、次のように述べています。

〈綱領は、われわれの基本的な見解を定式化し、われわれの当面の政治的任務を正確にさだめ、煽動活動の範囲を標示すべき当面の諸要求をしめし、煽動活動に統一性をあたえ、煽動活動をひろめまたふかめ、煽動を小さな、ばらばらな要求のための部分的、断片的な煽動から、社会民主主義的な諸要求の総体のための煽動へたかめなければならない。〉

 つまり、科学的社会主義の党の煽動活動は、綱領で定められた当面の政治的任務と当面の諸要求を実現するために統一性があたえられ、拡がりと深みをもったものでなければならないといいます。

*ここでのレーニンの著作の引用は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-1「党・その1」の「4-2綱領の役割と骨子」で、確認して下さい。

暴露せよ!そして、暴露せよ!!

レーニンは、『なにをなすべきか?』(第五巻、1901年秋~1902年2月、P441)で次のように述べています。

〈ロシアの労働者が、人民にたいする警察の野蛮な取り扱いについて、異宗派征伐や、農民の笞打ちについて、検閲当局の無法行為や、兵士の拷問や、まったく罪のない文化的企画の迫害などについて、まだあまりその革命的積極性をしめしていないのは、なぜであろうか? それは、「経済闘争」が彼らをこれらの問題に「突きあたらせ」ないためではないのか、これらの問題があまり「目に見える成果」を「約束」せず、あまり「明確なもの」をあたえないためではないのか? そうではない。くりかえしていうが、そのような見解は、自分の罪を人になすりつけ、自分自身の俗物根性(ならびにベルンジュタイン主義)を労働者大衆になすりつけようとすることにほかならない。われわれは、これらすべてのいまわしい行為の、十分に広範な、あざやかな、すみやかな暴露をまだ組織できなかったことについて、自分自身を、大衆の運動にたいする自分のたちおくれを、責めなければならない。〉

 いま、労働者階級が深刻な経済と社会の危機の原因に目を向けず、将来不安の最もある若者が自民党を支持するのは、支配階級が「産業の空洞化」の原因も結果も隠蔽し、それを暴露すべき「前衛党」がまったく暴露していないからです。自民党が強いのは「前衛党」が労働者のエネルギーを引き出していないからです。

 続けてレーニンは、次のようにも言います。

〈また大衆に行動を呼びかけるということについていえば、これは、精力的な政治的煽動がありさえすれば、いきいきとした、あざやかな暴露がありさえすれば、ひとりでに生じる事がらである。だれかを現行犯でとっつかまえ、これに即座に万人のまえで、またいたるところで罪の焼印をおすということは、それだけでどんな「呼びかけ」よりも有効であり、ときにはだれがいったい群衆に「呼びかけた」のか、まただれがいったいあれこれのデモンストレーションの計画等々を提出したのか、あとになっては決めかねるくらいに、その効果は大きい。呼びかけ──一般的な意味ではなくして、具体的な意味での──は、行動の現場でしかできないことであり、また自分自身、即座にその場へ出ていくものにしかできないことである。だが、われわれの仕事、社会民主主義的評論家の仕事は、政洽的暴露と政治的煽動をふかめ、ひろめ、そしてつよめることにある。〉(同上、P442)

 このように、レーニンは、〝あざやかな暴露をおこなえ!暴露もせずに行動を呼びかけるな!〟と言います。この点で、重要なのは、やはり、〝鎖全体をおさえることができる鎖の特殊な一環〟をつかみ、徹底的に国民に周知することです。米国での選挙の基本は徹底した戸別訪問による対話ですが、今の「共産党」にはかつてのような選挙戦での全戸配布もなければ、計画的な宣伝・煽動プログラムもなく、突然意を決して街頭宣伝を行なうと、すぐに深く地下に潜り、選挙前に出てきて電話で支持を訴えるというものです。こんなことでマスコミを総動員しての資本のデマに対抗できるのなら科学的社会主義の党などいりません。

*ここでのレーニンの著作の引用は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-5なにをなすべきか?」で、確認して下さい。

口先だけの「政治家」になってはならない

続けてレーニンは、同じく『なにをなすべきか?』(同上、P460~461)で、〈もしわれわれが、ありとあらゆる不満の現れを利用し、たとえ萌芽的な抗議の片影であってもそのすべてをよせあつめてそだてあげることが、自分の任務であることを自覚しないなら、われわれは口さきだけの「政治家」であり〉、口さきだけの社会民主主義者(共産党員)であることを述べ、このようにして行なわれる〈広い意味での政治的暴露こそそのような煽動の主要な手段(もちろん唯一の手段ではないが)であることを指摘しよう。〉と言って、〈あらゆる不満の現れ〉や〈萌芽的な抗議の片影〉をしっかり洞察して、〈広い意味での政治的暴露〉をおこなわなければならないことを明らかにし、続けて、次のように言っています。

〈政治的暴露のためのこのような理想的な聴衆は、ほかならぬ労働者階級である。労働者階級は、全面的な、生き生きとした政治的知識を、なによりもさきに、またなによりも多く、必要としており、──この知識を積極的な闘争──たとえその闘争がなに一つ「目に見える成果」を約束しなくとも──に転化する能力をもっとも多くもっている。また全人民的暴露のための演壇になれるのは、全国的な新聞だけである。「現代のヨーロッパでは、政治的機関紙なしには、政治運動の名に値いする運動は考えられない」。そして、この点ではロシアもまた、疑いもなく現代ヨーロッパにふくまれている。出版物はわが国ではすでにずっとまえから一勢力になっている。〉

 本当の社会民主主義者(共産党員)、特に宣伝・組織者の中心となるべき地方議員は、「あらゆる不満の現れ」や「萌芽的な抗議の片影」から「全面的な、生き生きとした政治的知識」を導き出し、「全面的な、生き生きとした政治的知識」のなかに国民の「不満」や「萌芽的な抗議の片影」をしっかりと位置づけて資本主義の暴露をしなければなりません。そして、そのことを最も必要としているのが「ほかならぬ労働者階級である」であり、全国民向けの暴露の演壇として「全国的政治的機関紙」が必要である、そのことをレーニンは私たちに教えています。だから、全国的政治機関紙=「赤旗」は、資本主義的生産様式の社会の矛盾の全人民的暴露のための演壇として、積極的な役割をはたさなければなりません。

*ここでのレーニンの著作の引用も「5-5なにをなすべきか?」で、確認して下さい。

暴露する活動を狭い経済的暴露だけに留めてはならない

レーニンは、社会民主主義派(科学的社会主義の思想集団)による労働者階級の闘争の援助について、『なにをなすべきか?』(同前、P425~428)で次のように述べています。

〈社会民主主義派は、労働力販売の有利な条件を獲得するための労働者階級の闘争を指導するだけでなく、また、無産者が金持に身売りしなければならないような社会制度をなくすための彼らの闘争をも指導する。社会民主主義派は、ひとりその当該の企業家集団にたいしてではなしに、現代社会のすべての階級にたいして、組織された政治強力としての国家にたいして、労働者階級を代表するのである。これからして明らかなことは、社会民主主義者は、経済闘争にとどまることができないばかりか、経済的暴露の組織が彼らの主要な活動であるような状態をゆるすこともできないということである。われわれは、労働者階級の政治的教育に、その政治的意識を発達させることに、積極的にとりかからなければならない。〉

 つまり、こんにち(2022年1月)の課題に照らしていうと、「みなさん、新自由主義を転換して〝やさしく強い経済〟をつくっていきましょう」と「共産党」の志位委員長が「2022年党旗びらき」で訴えたような〈労働力販売の有利な条件を獲得するための労働者階級の闘争〉だけしていたのではダメだ。こんな活動が〈主要な活動であるような状態をゆるすこと〉はできない、とレーニンは言います。

 そして、それでは、〈この政治的教育はいったいどういうものでなければならないか?〉と問い、当時の専制の〈抑圧は、種々さまざまな社会階級にのしかかっており、職業的といわず、一般市民的といわず、個人的といわず、家庭的といわず、宗教的といわず、学問的、等々といわず、種々さまざまな生活と活動の分野に現れているのだから、専制の全面的な政治的暴露を組織する仕事をとりあげないかぎり、われわれは労働者の政治的意識を発達させるという自分の任務をはたしえないであろうということは、明らかではないだろうか?〉と言い、〈経済闘争が一般に、大衆を政治闘争に引きいれるために「もっとも広範に適用しうる手段」であるというのは、正しいであろうか? まったくまちがっている。……(青山略)ほかにもこれにおとらず「広範に適用しうる」手段がいろいろなければならないのに、いったいなんのためにただ一つの手段だけを「もっとも広範に適用しうる」手段であると宣言して、あらかじめ政治的煽動の規模をせばめるようなことをするのか?〉と言います。

 ここでレーニンは〈専制の全面的な政治的暴露〉と言っていますが、「専制」を「資本主義的生産様式の社会」と読み替えても正しさは変わりません。

  わたしたちは労働者階級の政治意識を発達させるために、資本主義の矛盾の「ありとあらゆる現れ」をとらえて煽動しなければなりません。こんにちの「共産党」のように「労働力販売の有利な条件を獲得するための労働者階級の闘争」によって、経済が良くなり資本主義が発展するかのようにデマをふりまくのは論外ですが、「人口問題」や「労働生産性の低さ」などをもち出して、資本による富と雇用の海外持ち出による社会・経済全般にわたる危機の進行の事実を隠蔽しようとする、マスコミを通じたデマの一つ一つを見抜いて徹底的に暴露することがいま求められています。科学的社会主義の党は、危機の現れの一つ一つが資本の必然的な行動の結果であり、資本主義的生産様式の社会を変えないかぎり解決しないことを労働者階級にしっかりと伝えなければなりません。

 このように、その時々の情勢の中で、資本主義的生産様式の社会が必然的に作りだす資本主義の矛盾のいくつかの「重要な環」を捉えて、矛盾のあらゆる現れを暴露し、労働者階級のエネルギーを引き出すようなしかたで徹底的に煽動することが必要です。

*ここでのレーニンの著作の引用は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-6わたしたちは労働者階級の政治意識を発達させるためになにをなすべきか」で、確認して下さい。

煽動のポイントについて

レーニンが「バルカンとペルシアの事件」(第15巻、1908年10月16(29)日、P214~216)で〈すべての社会主義政党の焦眉の任務〉として述べている三つの煽動のポイントを、普遍化して言うと次のようになります。

①行なおうとすることのデマの暴露

 大衆のなかでの煽動をつよめ、資本主義の擁護者たちのうつ芝居の仮面をばぎとり、彼らが演じている卑劣な役割をはっきりと手にとるように示し、茶番劇によって隠蔽しようとするものを暴露して、人民に真実を明らかにする。

②実際の成果と結果の事実による暴露

 ブルジョア政党が行なってきたことの実際の成果と結果を事実によって明らかにする。

③ブルジョア政党の階級的性格を暴露

 すべてのブルジョア政党は、資本主義を擁護し資本の拡大を図るという政策の異なる型を提示しているに過ぎないということを明らかにする。

 そのために、科学的社会主義の思想の持ち主は、あらゆる真実をかたる手腕と勇気を自己のうちに発見しなければならない。

 そして、レーニンは、〈社会民主党は「平和で公正な」資本主義的進歩というばかげた素町人的空想をいだかない。社会民主党は全資本主義社会とたたかうものてあり、国際的な革命的プロレタリアートのほかに、平和と自由の擁護者はこの世にないことを知っている。〉(P216)と断言します。

*ここで論及したレーニンの著作の当該部分は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-11煽動で強調すべき点」で、確認して下さい。

全国的政治新聞の意義

レーニンは『ボリシェヴィズムの戯画』(第15巻、1909年4月4(17)日、P378~379)で、党機関紙の役割について次のように述べています。

〈………もしわれわれが、自分たちの組織を強化し、自分たちの党を団結させ、党をもっと密接に大衆と結びつけ、プロレタリアの広範な層にたえず働きかける党機関紙をつくりだすことができるなら、われわれは、この道で10倍も多くのことをやれるということをみとめる勇気をもちたまえ。われわれが努力をむけているのは、まさにこのことである。口先ではなく、実際に日和見主義とたたかおうとのぞんているすべての人々の努力がむけられなければならないのは、まさにこのことてある。〉

 そのために、前衛党は、革命党の言葉づかいで、ほんとうの社会民主主義者の観点で、資本が作り出す現実の社会・経済の動きをしっかり見て、一瞬間も見失ってはならない目標を不断に示し、労働者階級がつくる新しい社会への道をみんなで語り合うことのできる、ほんとうに生き生きとした機関紙を作らなければなりません。

 そのために、レーニンは『新聞『ネフスカヤ・ズヴェズダ』編集局へ』(第35巻、1912年7月24日、P28~29)で、労働者に意見の相違をかくす「通俗的」、「積極的」なだけのおくれた機関紙はほろびてしまうことを述べ、単調とおくれることとは労働者新聞とはあいいれないもので、労働者新聞はまっさきにすすまなければならず、労働者新聞は、「だれを導くのか」ということを常に考えなければならないことを述べ、『新聞『プラウダ』編集局へ』(第36巻、1912年10月、P212~213)で、〈マルクスは、きわめて情熱的、献身的、仮借ないたたかいと、完全な原則性とを結合する能力をもっていたではないか??〉と言います。

 レーニンは、賃金を上げて、「新自由主義を改めれば住みやすい社会」になるというような、「口当たりの良い」「ポピュリズム」だけの機関紙ではダメだ、労働者階級を社会主義へ導くようなものでなければダメだと言っています。

 そしてレーニンは、ブルジョアジーの宣伝とプロレタリアートの宣伝の違いについて、『ブルジョア諸君の「勤労」農業論』(第19巻、1913年9月11日、P388)で、〈ブルジョアジーの利益は、資本主義を美化し、階級間の深淵をぬりかくすことを要求する。プロレタリアートの利益は、資本主義と賃労働の搾取とを暴露することを要求し、階級間の深淵の深さに大衆の目をひらかせることを要求する。〉ことを述べ、労働者新聞が提供すべきことと提供すべきでないことについて、『ア・ボグダーノフについて』(第20巻、1914年2月25日、P122)で、〈労働者新聞は、プロレタリアートの意識からブルジョア観念論のまざり物を洗いきよめるべきであって、その紙上でこの消化の悪いごった煮を提供すべきではない。〉と言って、労働者新聞の意義を明らかにしています。

*ここで論及したレーニンの著作の当該部分は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-12労働者新聞の役割」で、確認して下さい。

ⅰ、機関紙の意義

上記のような〝機関紙の基本的な意義〟を補足する機関紙の幾つかの大事な役割について、一緒に見てみましょう。

少数者による欺瞞とのたたかいでの留意点

レーニンは『立憲的幻想について』(第25巻、1917年7月26日(8月8日)、P216~219)で、次のように指摘しています。

〈もし一国の政治権力が、多数者と利害の一致する階級の手にあるなら、実際に多数者の意志にしたがって国家を統治することが可能である。これに反して、もし政治権力が、多数者と利害の一致しない階級の手にあるなら、多数決による統治は、すべて、不可避的に、この多数者にたいする欺瞞か弾圧かに、転化せざるをえないのである。どのブルジョア共和国にも、こうした実例は何百、何千となく見られる。……(青山)だから、問題を形式的、法学的に立てずに、唯物論的、マルクス主義的に立てるなら、問題の要点は、この背馳を暴露し、ブルジョアジーの大衆欺瞞とたたかうことにある。〉と述べ〈彼ら(小ブルジョアジーのこと──青山)の過去は彼らをブルジョアジーのがわへ引きよせ、彼らの未来は彼らをプロレタリアートのがわへ引きよせる。彼らの判断は彼らをプロレタリアートのがわへ傾かせ、彼らの先入見(マルクスの有名な表現をもちいれば)は彼らをブルジョアジーのがわへ傾かせる。人民の多数者が、国家の統治における真の多数者になり、多数者の利益に真に奉仕するもの、多数者の権利を真にまもるもの、等々になるためには、一定の階級的条件が必要である。その条件とは、小ブルジョアジーの多数者が、すくなくとも決定的な瞬間に、決定的な場所で、革命的プロレタリアートに味方することである。……(青山)革命期には、「多数者の意志」を表明するだけではたりない、ということである。いな、決定的な瞬間に、決定的な場所で、より強いものとなっていなければならないのである、勝利しなければならないのである。……(青山)周知のように、社会生活の諸問題をけっきょく決定するものは、もっとも激しい、もっとも鋭い形態、すなわち内乱の形態における階級闘争である。ところで、この戦争では、およそあらゆる戦争のばあいと同じように、問題を決定するものは経済である。……(青山)ロシアをふくむあらゆる資本主義国が、基本的に、ブルジョアジー、小ブルジョアジー、プロレタリアートという三つの根本的な、基本的な勢力に分かれているということを、みとめるのをおそれている。この第一の勢力と第三の勢力とについては、だれでもかたっているし、だれでもみとめている。だが、第二の勢力──すなわち、数のうえではまさに多数者たるところの!──については、経済的見地からも、政治的見地からも、また軍事的見地からも、これを冷静に評価しようとはしないのである。〉とも言います。

 私たちは、少数者であるブルジョアジーによる多数者である私たちにたいする欺瞞を徹底的に暴露し、ブルジョアジーと徹底的にたたかわなければなりません。そして、私たちが圧倒的な多数者として〝一国の政治権力〟を握るためには、小ブルジョアジーをブルジョアジーのがわへ引きよせる過去への郷愁と彼らの先入見を断ち切らせ、現実を直視させ、そのさきにある確たる未来を示して彼らをプロレタリアートのがわへ引きよせることが必要です。だから、小ブルジョアジーに対し「口当たりの良い」「ポピュリズム」や「消化の悪いごった煮」を提供したら、小ブルジョアジーをブルジョアジーのがわへ運んでやることになります。

*ここで論及したレーニンの著作の当該部分は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-17「多数者」の意味と欺瞞との闘い」で、確認して下さい。

ほんとうに生き生きとした機関紙とは

日本共産党が学ぶべきこと

レーニンは『同志諸君への手紙』(第七巻、1904年11月29日(12月12日)、P562~565)で、機関紙と党員との関係について概ね次のように述べています。

〈機関紙は、指導的でたえず筆をとっている五人の文筆家にたいして、文筆家でない活動家が五百人、五千人といるときに、生き生きとした、活気にあふれたものとなるのである。

 この機関紙を自分のものとみなし、社会民主主義者──党員──の義務を自覚している人はすべて、合法新聞にたいするばあいによくみうけられるような考え方および行動のブルジョア的な習慣を、すなわち彼らの仕事は書くことであり、われわれの仕事は読むことであるとみる習慣を、これきり永久に棄てなければならない。すべての社会民主主義者が社会民主主義的新聞の仕事に従事しなければならない。

 比較的「局外の」人たちの手紙、みのがしているような多くの事がらをより生き生きと感じている人たちの手紙は、とくに興味ぶかい。青年にも、労働者にも、「中央集権主義者」にも、組織者にも、ビラをまいたり大衆集会に参加する平党員にも、できるだけ広範な人々にあたえ、事実や出来事についてばかりでなく、気分についても、運動の日常の、「おもしろくない」、ありふれた茶飯事的な側面について、労働者サークルでの会談、これらの会談の性格、研究のテーマ、労働者の質問、宣伝と煽動の組織方法、社会、軍隊および青年のなかでのつながりについて、労働者のあいだでのわれわれ社会民主主義者にたいする不満や、彼らの疑念、質問、抗議等について、一つのこらずすべてのことについて書いてよこしたまえ。

 通信文として発表するためではなく、編集局と同志的に文通し、それに情報をあたえるために書くことをおねがいする。仕事の実際の組織方法の問題は、とくにいま関心をひく。こういう資料がなければ、社会民主主義的機関紙も三文の値打ちしかなく、社会民主主義的という名称に値いしないであろう。

 われわれは委員会だけに、また書記だけに、文通を集中するというやり方にならないように、とくに警戒したい。このような独占ほど有害なものはない。行動や決定における統一がぜひ必要であるのと同じ程度に、一般的な情報活動や文通における統一は誤りである。ほんとうに生き生きとした機関紙は、このようにおくられてきたものの十分の一をかならず掲載し、残りのものを文筆家への情報と指示のために利用するようにしなければならない。このような広範な文通があってはじめて、われわれはみな共同して、われわれの新聞を労働運動のほんとうの機関紙とすることができる。ロシア国内の活動家大衆の機関紙とみなそうとおもっている人は、このことをわすれてはならない。

 労働者的な(「大衆的な」)機関紙と一般的な──指導的な──インテリゲンツィア的新聞とをわける考えには、われわれは非常に懐疑的である。われわれは、社会民主主義的新聞が運動全体の機関紙となり、労働者新聞と社会民主主義的新聞とが一つの機関紙に融合するようにしたい。これを達成することは労働者階級のもっとも積極的な支持があるばあいにはしめて可能である。

 この手紙をありとあらゆる集会、サークル、小グループその他のところで、できるだけ広範に読みあげ、労働者がこの呼びかけをどうむかえたかをわれわれに書いてよこすように、切におねがいする。〉

 ここでレーニンが述べていることで大事な点は、①文筆家の仕事は書くことであり、党員の仕事は読むことであるとみる習慣を、これきり永久に棄てなければならないということ。これは、私は話す人、あなたは聞く人という「集会」のあり方にも通じます。そして②機関紙には、青年も、労働者も、「中央集権主義者」も、ビラをまいたり大衆集会に参加する平党員も、できるだけ広範な人々が、事実や出来事についてばかりでなく、労働者のあいだでの社会民主主義者にたいする不満や、彼らの疑念、質問、抗議等々について、一つのこらずすべてのことについて書いてよこすこと。③行動や決定における統一はぜひ必要であるが、同じように一般的な情報活動や文通における統一を図るのは誤りであり、書記だけに、文通を集中するというやり方、このような独占ほど有害なものはないということ。この三点です。

 ほんとうに生き生きとした機関紙、労働運動のほんとうの機関紙とは、このようなものでなければならない、とレーニンは言っています。これらの言葉を不破さんが謙虚に学んでいれば、資本主義の危機がこれほど明らかになっている日本で、こんなに弱体化した「共産党」を見ることもなかったでしょう。

*ここで論及したレーニンの著作の当該部分は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-8ほんとうに生き生きとした機関紙」で、確認して下さい。

煽動を空文句にしないための実践とのフィードバック

レーニンは『一五一 エス・イ・グセフヘ』(第34巻、1905年9月20日、P379~380)で、煽動を空文句にしないための実践とのフィードバックの必要性について、概ね次のように述べています。

 レーニンはまず、〈われわれとロシアの実践家との(実践家の見解の内容や、われわれの戦術についての実践家の理解の仕方や、実践家が討論、集会などでこの戦術をいったいどう実行しているかについての──青山補足)こうした話合いは、われわれにとってきわめて貴重なので、君に切望したいことは、中央機関紙を自分の中央機関紙と見なそうとする人(党員はだれでも見なそうとするべきだが)がしなければならないのは、形式的な返答や報告にとどまることではなくて、発表するためにではなしに、しかじかの見解の実行について編集局と話合うための思想上の結びつきをつくりだすためにこそ、話合うことだということをいたるところで宣伝し、気づかせ主張することだ。〉と述べて、方針の実践の諸結果について編集局(指導部)と共有するために「こうした話合」(中央機関紙への意見や状況の反映)が必要であり、そのことを「気づかせ」るために「いたるところで宣伝し、「主張する」ようエス・イ・グセフに言います。

 そして、〈こうした話合いをただの甘やかしとみなすことは、狭い実践主義に陥り、われわれの実践活動全体、煽動全体の原則的・思想的側面を運まかせにすることを意味する。〉と言い、その理由として、〈はっきりした、よく考えた、思想的な内容がなければ、煽動は空文句になるから。ところが、はっきりした思想的内容をつくりあげるには、中央機関紙に寄稿するだけでは足りないのであって、実践家がしかじかの命題をどう理解しているか、しかじかの見解をどう実行しているかを、いっしょに討議することが必要である。そうしなければ中央機関紙編集局は宙に浮きその宣伝が受けいれられているかどうか、その反響があるかどうか、それが生活にどんな変化をあたえているか、どのような訂正や補足が必要であるかが、わからないだろう。〉と言い、〈そうしなければ、社会民主主義者は、作家は書き、読者は読むというような状態に堕落してしまうだろう。われわれの党的結びつきの意識はまだ弱い──これを言葉によっても実例によっても補強しなければならない。〉といって、党と党員と機関紙のより民主的なあり方を示しています。

 私は、2021年の総選挙で、「共産党」の「政権交代」という「空文句の煽動のスローガン」が掲げられ続けたのを目の当たりにして、「党中央」と「党員」との関係、そして「党員」と「労働者・国民」との関係の持ち方についての「党中央」の認識について、今さらながら、愕然といたしました。

*ここで論及したレーニンの著作の当該部分は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-9機関紙はどう作られねばならないか」で、確認して下さい。

ⅱ、どのように機関紙は作られなければならないか

このような意義・役割をもった新聞はどのようにつくられなければならないのか、なにを訴えなければならないのか、一緒に見ていきましょう。

労働者を編集活動に系統的に参加させるべきである

レーニンは『われわれの任務』(第36巻、1914年4月22日、P311~313)で、次のように述べています。

〈われわれは『プラウダ派』の活動をさらに発展させて、労働者の事業のすべての側面と歩調をそろえて、純粋の新聞事業を前進させるであろう。

 『プーチ・プラウドィ』を、いまの三倍、四倍、五倍も多く普及させなければならない。すべての労働組合や職業グループの代表を編集に参加させて、一般労働組合版の付録をつくるべきである。われわれの新聞につける地方(モスクワ、ウラル、カフカーズ、沿バルト地方、ウクライナ)版の付録をつくるべきである。例外なしに現れる民族のすべてのブルジョア的民族主義者や小ブルジョア的民族主義者とは反対に、ロシアのあらゆる民族の労働者の統一を強化し、このために、とりわけ、ロシアのさまざまな民族の労働者の運動を取り扱った、本紙の付録をはじめなければならない。

 『プーチ・プラウドィ』の外国欄をも、自覚した労働者の組織的・思想的・政治的生活の雑報欄をも、さらに何倍にも拡張すべきである。

 一コペイカの『ヴェチェルニャヤ・プラウダ』〔『夕刊プラウダ』〕を創刊すべきである。いまの形の『プーチ・プラウドィ』は自覚した労働者にとって必要であり、もっと拡大されなければならない。しかし、それは街頭の労働者にとっては、普通の労働者にとっては、まだ運動にひきいれられていない数百万の分子にとっては、値段が高すぎ、むずかしすぎ、りっぱすぎる。……これらの労働者のことを、先進的労働者はけっしてわすれないであろう。先進的な労働者は、同職組合的な閉鎖性、労働貴族の分離、彼らの大衆からの孤立が、プロレタリアを愚鈍にし、家畜化し、プロレタリアをみじめな俗物に、あわれむべき奴隷に変えることを意味し、プロレタリアの解放にたいするいっさいの望みを失うことを意味するということを、知っている。

 二〇万部、三〇万部とプロレタリア大衆や半プロレタリア大衆のなかに深くはいっていき、これらの大衆に世界の労働運動の光明をしめし、彼らに自分の力にたいする自信をおこさせ、彼らを促して結束させ、彼らが完全な自覚の水準にたかまっていくのをたすけるような、一コペイカの『ヴェチェルニャヤ・プラウダ』を創刊すべきである。

 個々の工場別、地区別、等々の『プーチ・プラウドィ』の読者の組織を、現在よりもはるかに大きくし、通信員活動、新聞の運営、新聞の普及にもっと積極的に参加させるべきである。労働者を編集活動に系統的に参加させるべきである。〉(注……は本文中の表記)

 レーニンが言うように、労働者が編集活動に系統的に参加すれば、機関紙の幅も広がり、魅力も増して、労働者階級のにおいのする、いまの三倍、四倍、五倍も多く普及させ可能性をもった新聞をつくることができます。どんな機関紙が求められているのか、階級性を低めるのではなく、情報の質を上げて魅力を高めるために、真剣に考えなければなりません。

 関連して、このような観点で都道府県別と市町村別の「民報」を地域の問題と話題を網羅したものとして編集し、労働者や各分野で活動している人や各地域で活動している人が編集活動に参加するならば、都道府県と市町村に今まで見たことのないような質の高い政治集団ができるはずです。そしてこれらの活動に参加する人は広く公募で募るべきです。

 これら「労働組合版の付録(別冊)」等の全国的な別冊と各地方の「民報」を月に一度程度発行するためにはお金が必要です。しかし、お金が無いからできないなどと言ってはなりません。すぐにでも、お金は準備できます。貧しい人たちの政党が必要な活動を行なえるために、しかりと「政党助成金」を受け取ればいいんです。

*ここで論及したレーニンの著作の当該部分は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-14二種類の『プラウダ』」で、確認して下さい。

社会主義社会の実現をめざす明確な戦術と煽動の個性化

レーニンは『ロシア社会民主主義派のうちの後退的傾向』(第四巻、1899年末、P300~304)で、まず、次のように述べています。

〈あらゆる国の労働運動の歴史は、労働者のうちのもっとも良い地位におかれた諸層が、もっとも早く、またもっとも容易に社会主義の思想を受けいれる、ということを実証している。あらゆる労働運動によっておくりだされてくる先進的労働者、すなわち、労働者大衆の完全な信頼を獲得する能力をもった労働者、プロレタリアートの啓蒙と組織化の事業に全身を打ちこむ労働者、社会主義をまったく意識的に受けいれ、自主的に社会主義理論をつくりあげさえした労働者は、主としてこうした労働者層のなかから現われてくるのである。あらゆる生命力ある労働運動は、このような労働者の指導者を、自分たちのプルードンやヴァイヤン、ヴァイトリングやべーベルを、おくりだしてきた。わがロシアの労働運動も、この点ではヨーロツパのそれにおくれをとらないという見込みがある。教養ある社会がまじめな非合法文献にたいする興味を失いつつあるとき、労働者のあいだでは、知識と社会主義への熱烈な志向か増大しており、労働者のあいだではほんとうの英雄が頭角を現わしつつある。これらの英雄は、――その惨憺たる生活環境にもかかわらず、人間を愚鈍にする工場での苦役にもかかわらず――、まなびまなび、さらにまなび、自分を意識的な社会民主主義者、「労働者インテリゲンツィア」にきたえあげていくだけの性格と意志力とをもちあわせている。〉

 この文章を読んで、いまの日本を見ると、大きな違和感を感じる人も少なくないでしょう。この文章が成り立つためには、一つの大前提があります。それは、この文章は、〈あらゆる生命力ある労働運動〉が存在していることを前提に、レーニンが〈あらゆる国の労働運動の歴史は、労働者のうちのもっとも良い地位におかれた諸層が、もっとも早く、またもっとも容易に社会主義の思想を受けいれる、ということを実証している〉と述べているということです。

 いまの日本のように、深刻な「産業の空洞化」によって経済と社会を危機に陥らせている資本の行動について、資本主義のシステムがもつ防ぎようのない矛盾について、「前衛党」を自称する政党がまったく見ようともしないで、トリクルダウン理論同様に「資本主義発展」論に立って、賃金を上げれば経済は発展すると「連合」並みのことをいって〝労働者のうちのもっとも良い地位におかれた諸層〟の人たちの目を曇らせ、いまある日本の矛盾と新しい社会への展望を示すことができないなかで、残念ながら、〝生命力ある労働運動〟が存在するとは言い難く、「労働者インテリゲンツィア」を大量に輩出する条件は、残念ながら、ありません。まず第一に、そのことを糺さなければなりません。

 次に、レーニンは、ロシア社会民主労働党の指導者になるべき「労働者インテリゲンツィア」が読むべき新聞も、社会主義を熱心に希求し、労働者サークルに参加し、社会主義の新聞や書物を読み、煽動に参加するが、社会民主主義労働運動のまったく自主的な指導者となりえない中位の労働者が読むべき新聞も、全世界の社会民主主義派のあらゆる戦術上、政治上、理論上の諸問題を扱い、ロシアの労働運動全体とその歴史的任務と社会主義の終局目標とにかんする思想をしっかり現したものでなければならないことを述べ、社会民主主義者全体の機関紙となろうと欲する新聞は、読者大衆の水準にまでおりていかなければならないのではなく、先進的労働者の水準に立たなければならず、彼らの水準を引きあげ、中位の労働者層のなかから先進的労働者が頭角を現わしてくるのをたすけなければならないと言います。また、中位の労働者をその読者大衆とする新聞は、かならず一つ一つの狭い地方的問題と社会主義および政治闘争とを結びつけなければならないことも強調しています。……「共産党」の日刊「赤旗」が該当。

 そして、労働者の低い諸層のあいだに階級的政治的意識を目ざめさせるためにはべつな煽動・宣伝の手段、すなわち、もっとも通俗的に書かれた小冊子や、口頭での煽動や、また──これが主要なものであるが──地方の出来事にかんするビラで働きかけが必要である、とレーニンは言います。……「共産党」の「赤旗」日曜版、全戸配布ビラ、口頭での煽動が該当。

 これらは、社会主義をめざす一貫した戦術、一貫した政治活動としておこなわれなければなりません。

 そして、煽動は、煽動家の個人的特質や、場所、職業、その他の特殊性をもっとも十分に発揮させるものでなければならず、煽動は個性化されなければならないとレーニンは言い、プロレタリアートのもっとも低い諸層をも労働者の事業へ引きよせ、プロレタリアートによる政治権力の獲得と社会主義社会の実現のためにプロレタリアートの階級闘争を組織するためには、〈煽動個性化されなければならないが、われわれの戦術、われわれの政治活動は、単一でなければならない〉と言い、経済闘争に心をうばわれて社会主義社会の実現をめざす政治的煽動・宣伝をわすれてはならないと言います。

 このように、科学的社会主義の党の機関紙は社会主義社会を実現させるための武器です。

 ※なお、「赤旗」を煽動の道具にするのであれば、幹部、一般党員用に「前衛」を位置づけ、購読を義務化する等により、先進的労働者の質を高める方策をとる必要があります。

*ここで論及したレーニンの著作の当該部分は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-2機関紙の水準と煽動について」で、確認して下さい。

新聞は社会主義の終局目標と労働者階級の歴史的任務を語り尽くせ

レーニンは、雑誌と新聞との違い、そして、新聞の目的について、「『イスクラ』および『ザリャー』編集局の声明草案」(第四巻、1900年春、P353~358)で、次のように述べています。非常に大切なのでよくお読みください。

〈われわれがさきにあげた主題や問題を、雑誌と新聞とにどう配分するかについていえば、この配分はもっぱらこれらの出版物の大きさの違いと、さらにその性格の違い――すなわち、雑誌は主として宣伝に役だたなければならず、新聞は主として煽動に役だたなければならないという、――によってのみ、決定されるであろう。しかし、雑誌でも新聞でも、運動のあらゆる側面を反映させることが必要である。そして、労働者新聞の紙面には、もっぱら自然発生的な労働運動に直接に、密接に触れる事がらだけをのせ、社会主義理論や、科学や、政治や、党組織の諸問題などの分野にかんする事がらは、いっさいインテリゲンツィアのための機関誌にゆずるというような計画にたいしては、われわれは否定的態度をとっていることを、とくに強調したい。反対に、労働運動のいっさいの具体的事実と現われを、ここにしめした諸問題と結合することが必要であり、一つ一つの部分的事実を理論によって解明することが必要であり、政治と党組織の諸問題を労働者階級のもっとも広範な大衆のあいだに宣伝することが必要であり、これらの問題を煽動のうちにもちこむことが必要である。こんにちまでわれわれのあいだでほとんどただ一つ支配的に行われてきた煽動の形態──まさに地方的リーフレットを手段とする煽動──では、不十分になろうとしている。このような煽動は、ただ地方的な問題、しかも主として経済的な問題だけにしか触れないので、狭隘である。いっそう高度の煽動形態をつくりだすよう試みなければならない。それは、労働者の苦情をも、労働者のストライキをも、プロレタリア闘争のその他の諸形態をも、ロシアの全土にわたる政治的圧制のいっさいの現われをも、定期的に記録し、このような一つ一つの事実から、社会主義の終局目標とロシア・プロレタリアートの政治的任務とに適合した一定の結論を引きだす、新聞を手段とする煽動である。「われわれの宣伝・煽動活動と組織活動の枠をひろげ、内容を拡張せよ。」〔『ロシア社会民主主義者の今日の任務と戦術の問題によせて』〕──このぺ・ベ・アクセリロードの言葉は、ま近い将来におけるロシア社会民主主義者の活動を規定するスローガンとして役だたなければならない。そこで、われわれは、このスローガンを自分たちの機関紙誌の綱領に取りいれる。………

 そしてわれわれは、すべてのロシアの同志たちがわれわれの出版物を自分自身の機関紙誌と見なし、あらゆるグループが運動にかんするいっさいの情報をそれに通報し、また自分たちの見解、文書にたいする自分たちの要望、自分たちの経験、社会民主主義的出版物にたいする自分たちの評価一口にいえば、各グループが運動にもたらすすべてのもの、また運動から引きだすすべてのものをこの機関紙誌とともにわかちあうようにならせることを目標として、努力する。ただこのような条件のもとでのみ、真に全国的な社会民主主義的機関紙誌の創設が可能になるであろう。……… 〉※………は青山の略

☆レーニンはここで、雑誌でも新聞でも、運動のあらゆる側面を反映させることが必要であることを述べ、労働運動のいっさいの具体的事実と現われを、社会主義理論や、科学や、政治や、党組織の諸問題と結合し、一つ一つの部分的事実を理論によって解明することが必要であり、政治と党組織の諸問題を労働者階級のもっとも広範な大衆のあいだに宣伝することが必要であり、これらの問題を煽動のうちにもちこむことが必要であると言います。

 そして、新聞を手段とする煽動は、一つ一つの事実から、社会主義の終局目標とプロレタリアートの政治的任務とに適合した、一定の結論を引きだすものでなければならず、機関紙には、あらゆるグループの運動にかんする情報があつめられ、自分たちの見解や全体の運動に対する評価が表明され、党全体の運動が集約され、党員にとって自分自身の機関紙となるような編集に努めなければならないことが、強く訴えられています。

 私は、もうこれ以上『赤旗』の不十分な点は指摘しませんが、科学的社会主義の党とその党の機関紙はどのような役割を果たさなければなららいのか、そのためにどのように機関紙はつくられなければならないのかを、もう一度上記の抜粋を読んで、関係者は深く考えていただけたら幸いです。

*ここでの抜粋文は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-3雑誌と新聞の役割の違い、新聞を手段とする煽動について」の全文です。

全国的政治新聞の意義

レーニンは『なにをなすべきか?』(同前、P548~551)で、全国的政治新聞について次のように述べています。

〈共通の新聞は、多種多様な活動の成果を総括し、それによって、すべての道がローマに通じるようにすべて革命に通じている数多くの道に沿って人々を倦むことなく駆りたておしすすめる、唯一の規則的な全国的事業だからである………この新聞は、階級闘争と人民の憤激の一つ一つの火花を吹きおこして全般的な火事にする巨大な鍛冶用ふいごの一小部分となるであろう。それ自体ではまだはなはだ罪がなく、はなはだ小さいが、しかし規則的で、完全な意味で共同的なこの事実を中心にして、試練を経た戦士の常備軍が系統的に選抜され、訓練されていくであろう。まもなくこの共同の組織的建築物の足場あるいは仮囲いにそって、わが革命家たちのなかからいくたの社会民主主義的ジェリャーボフ*が、わが労働者たちのなかからいくたのロシアのベーベルが身をおこし、すすみでてくるであろう。そして、彼らは、動員された軍隊の先頭に立って、ロシアの汚辱と禍とに対決するために全人民を決起させるであろう。

 これこそ、われわれが夢想すべきことである!〉※………は青山の略

このように、全国的政治新聞は、ブルジョアジャーナリズムとは違って、労働者の多種多様な活動を反映し、その活動が〝すべて〟革命に通じるように倦むことなく駆り立てるものでなでればなりません。あらゆる重要な、また、日常的なことがらを科学的社会主義者の目で見て、事実に基づいて分析し、理論化し、暴露し、社会主義の終局目標とプロレタリアートの政治的任務とを実現するための宣伝・煽動の武器とならなければなりません。

 〝共同の組織的建築物〟である全国的政治新聞、「彼らの仕事は書くことであり、われわれの仕事は読むことである」という「ブルジョア的な習慣」を永久に棄てさった〝ほんとうに生き生きとした機関紙〟は、すべての読者の一体感と共通の事実認識を基礎にした実践とフィードバックの装置として、革命運動を統一的に、そして運動の環をしっかり摑んで、集団的英知をもって前進するための最良の武器です。いや、最良の武器とならなければなりません。

 全国的政治新聞がこのような〝人民の最良の武器〟となったとき、社会民主主義者のタマゴは、これを武器として戦うことにより、一層きたえられ、その隊列は質・量ともに強化され、若い溌剌とした〝前衛党〟が再生されます。蘇れ!日本共産党。

*ジェリャーボフ(1851~81):平凡社「世界大百科事典 第2版」から

 ロシアおよびウクライナの革命家。クリミヤ地方の農民出身で、1869年ノボロシースク大学法学部入学、大学紛争で73年に中退。オデッサのボルホフスキーのグループに加わり、労働者の間に革命思想の宣伝活動を行う。75年からウクライナ人の革命組織〈クロマダ〉に参加。77年逮捕され、193人裁判に連座、78年釈放された。79年〈人民の意志〉党執行委員となり、81年の皇帝暗殺の首謀者として処刑された。【佐々木照央氏】

*ここで論及したレーニンの著作の当該部分は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→B-2「党・その2」の「5-7全国的政治新聞の意義」で、確認して下さい。

いま求められているもの

問題の所在

〈わが国には、労働者が資本家または政府との個々の小戦闘で敗北するたびに、それに影響されて悲観主義に陥り、大衆にたいするわれわれの影響の程度が不十分であることを言いたてて、労働運動の最高の偉大な目標にかんするあらゆる会話を軽蔑したようにおしのける社会民主主義者がすくなくない。われわれにそんなことができるものか! われわれにはそんな力はない! このような人々は、こう言っている。われわれが大衆の気分をはっきり知りさえしないのに、大衆と融けあって、労働者大衆を決起させることもできないのに、革命における前衛としての社会民主党の役割を論じてもしようがない! と。〉

 これは、レーニンが1905年6月に書いた『政治と教育学との混同にっいて』(第八巻、P454~457)と題されている文章の一部です。*詳しくは、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→A-2「科学的社会主義・その2」の「2-14それをしないことには、社会民主主義者は……」をご覧下さい。

いまの日本の「科学的社会主義の党」の危機的な状況について見ると、上記の文章に書かれていることとの共通点とともに相違点もあります。共通点は〈労働運動の最高の偉大な目標にかんするあらゆる会話〉を「自民党政治を大本から変えるという大目標を背負っている。ただ、今度の選挙でそれを目指すのはちょっと早いですね」(日経:志位委員長の東京都三鷹市での街頭演説)と言って、選挙の時でさえ「大目標」(?)を語るのを封印していることであり、相違点は労働者による〈資本家または政府との個々の小戦闘〉さえ、「なぜ空洞化するのかというと、日本の国内の需要が冷えているからですよ。だから外に出て行っちゃう。」(BS日テレ深層NEWS:志位委員長)と言って、富と雇用を海外に持ち出し社会・経済の危機を作り出しているグローバル資本の亡国の行動を隠蔽し、まともに提起さえしないことです。その結果、労働者階級の未来へ指向するエネルギーは削ぎ取られ、現在のような状況がつくりだされています。

 このようになったのは、不破哲三氏による長年の努力のたまものです。

 不破さんは科学的社会主義の思想の改竄を完成させるために、21世紀になって、これまで気付かなかった大発見をします。その大発見とは、マルクスが1865年に、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がなく、資本主義が循環的に運動してゆく一局面である」と資本主義の内在的な法則を否定する〝宗旨変え〟をおこない、「恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」という〝資本主義発展論〟へと「資本主義観の大転換」をし、「革命観の大転換」もした、というものです。

 「プロクルストゥスの寝台」に合わせるようにマルクスを改竄し、「革命観」を大転換させた不破さんは、発展し続ける資本主義のなかで労働者を守るバリケードを築いて改良をすすめることを通じて政治的多数者になるという「多数者革命」(?)論を公然と唱え、それを「共産党」に押し付けます。そこには、資本主義的生産様式の社会の矛盾の告発もなければ、資本主義社会を変える必要性も新しい生産様式の社会に変わるべき必然性も訴えられることはなく、だから、それらの変革を担う労働者階級の歴史的使命の探究などもちろんありません。〈労働運動の最高の偉大な目標にかんするあらゆる会話〉はいっさい封印され、あるのは、「利潤第一主義」の緩和と資本主義的生産様式の社会のもとでの「民主主義」の改善だけです。このように、資本主義的生産様式の軛から解放された企業の社会的役割も、そこでの労働者階級の役割・使命も視野の外ですから、労働条件の改善以外の「資本家または政府との個々の小戦闘」の提起など、御法度で、考えも及びません。

 これこそが、日本が四半世紀にわたる社会・経済の停滞に陥っても、〝経済は社会のため国民のためにある〟という社会に向けて、「共産党」が国民に希望を与えることのできない最大の原因です。

問題の解決の第一歩

レーニンは、『なにをなすべきか?』の表紙に〈われわれの(わが)運動の焦眉の(痛切な)諸問題〉との副題を付け、併せて──〈……党派(党内)闘争こそが、党に力と生命をあたえる。党があいまい模糊としており(あいまいであり)、はっきりした(はっきり区別のある)相違点がぼやけている(をぼかすという)ことは、その党の弱さの最大の証拠(証明)である。党は、自身を純化することによってつよくなる(つよまる)。……〉(1852年6月24日付ラッサールからマルクスヘの手紙から(の一節))──という文章を付けています。※()内は、1964年3月発行の大月国民文庫の訳文です。

 「日本共産党」は、不破さんによって「あいまい模糊」とした、「歌を忘れたカナリア」のような党に改造されてしまいました。

 「日本共産党」が科学的社会主義の党たらんと、再び歌おうとするのであれば、現在の日本を科学的社会主義の観点で徹底的に暴露し新しい生産様式の社会の必然性と必要性を隠すことなく明らかにしなければなりません。そして、グローバル企業による労働者が作った資産の海外への持ち出しに対し、「大企業や金持ちなど亡国の輩は、海外にでていってもらったらいい」と言ったり、地方自治体の産業誘致がうまくいかないとなると工業団地にぺんぺん草が生えるといって嘲笑したり、TSMCへの政府の補助金の投入に対して反対だけしか言わないような、ラッダイトのような、ひと言でいって小ブルジョア思想を一掃しなければなりません。

 そのためには、日本の現状をみんなでよく見て、私がこのホームページで明らかにしているような事実をみんなで確かめ合うことが必要です。そして、そのためには、タコ壺のような「支部」という閉鎖された空間から「認識」を解放して、さまざまな〝認識〟にオープンに接することができるようにし、〝彼らの仕事は話すことであり、われわれの仕事は聞くことである〟という動物の「しつけ」のような関係を双方向のフラットなものにし、〝認識〟の交流がしっかり行なわれるようにすることです。そして、なにが日和見主義的戦術でありなにが革命的戦術であるかを、常に明確にして、運動をすすめることです。

 この仕事は、骨の折れる難事業ですが、〝日本共産党〟を科学的社会主義の党たらんとするためには、それ以外に道はありません。

マルクス主義者は困難にどのような態度をとるのか

レーニンは『ヴェ・ザスーリッチはどのようにして解党主義をほうむるか』(第19巻、1913年9月、P422)で、次のように言っています。

〈ヴェ・ザスーリッチは、事情を知らずに、解党派の言葉をくりかえしている。問題の時期に困難であったこと、それ以前よりも困難であったことは、議論の余地がない。だが、マルクス主義者の活動はつねに「困難」であり、そこで彼らが自由主義者とちがうのは、まさに困難なことを不可能だと言わない点なのである。自由主義者は、自分が困難な活動を放棄していることをかくそうとして、困難な活動を不可能だと称する。活動が困難であるばあい、マルクス主義者は、その困難を克服するために、すぐれた分子をいっそう固く結束させるようつとめないわけにはいかないのである。〉*この抜粋文は、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→A-2「科学的社会主義・その2」の「2-15困難についてのマルクス主義者の捉え方」の全文です。

 科学的社会主義の思想の持ち主、世界の変革への揺るぎない確信をもつ人たちの困難についての捉え方、マルクス主義者の困難についての捉え方は、まさに上記のようなものです。だから、〝日本共産党〟を科学的社会主義の党たらんとする人は、いまある「共産党」の困難をしっかり見て、その原因を明らかにし、お互いの共通認識を積み重ねて、目標を明確にして、結束を強めていくことが必要です。

不破さんの場合

このような科学的社会主義の思想の持ち主たちの対極にいる不破さんは、選挙で負けると「反共攻撃が強かった」と言うか、「力が足りなかった」と言うか、その両方のせいにして、自らを省みることはありません。不破さんは、「不可能だ」とは言わずに「やむを得なかった」と言って、自らの責任を免罪します。レーニンが指摘した「自由主義者」と表現は違うが同じことを言って自らの責任を免罪します。

 不破さんは、「資本」が日本を捨てて富と雇用を海外に持ちだし、日本の経済と社会を危機に瀕しさせていることを告発するという当然の責務を果たそうともせず、現代の日本のように自由に活動ができる条件があるにもかかわらず、科学的社会主義の党にとって基本中の基本の活動である国民全体を対象とした宣伝──それは、資本主義社会が生みだす矛盾の曝露と党及び科学的社会主義の思想を理解してもらうための系統的な全戸へのビラ配布等──など行なおうともしないで、選挙のときだけの国民への電話かけに党員を駆り立てる。そして、これらの総決算として選挙に負ければ、「反共攻撃が強かった」とか「力が足りなかった」とか言って責任逃れをして、党員には「党勢拡大」の武器なき戦いを強制する。

マルクス主義者の場合

科学的社会主義の党が自由に活動ができる条件がありながら運動が前進しないとすれば、それは方針や運動の仕方が間違っているからです。どこぞの党の県委員長が、一度ならず毎回々々「私の思想性が低く、方針を貫くことができなかった」と自己批判して済む問題ではありません。

 いまある日本の社会・経済の現状をしっかり見て、その深刻さとその先行きをしっかり捉えて、大音量で警鐘を鳴らし、現状を変革することへの揺るぎない意志を示す。そのことを資本主義的生産様式の社会はマルクス主義者に催促しています。

 だから、「共産党」が科学的社会主義の党たらんとするのであれば、〝いまある日本の社会・経済の現状〟をしっかり見ることができるようにするために、「支部」というタコ壺に情報と考えを閉じ込めてしまうのではなく、フェースツーフェースの情報の交流ができる──「彼らの仕事は話すことであり、われわれの仕事は聞くことである」というヒエラルキーを克服した──フラットな場を設けるとともに、『赤旗』を全国的な情報交流の場として解放しなければなりません。これが、日本共産党が真理に近づきエネルギーを回復する、最初の一歩であり、そして唯一の道です。

 〝まだ遅くない!!〟と言いたい。しかし、「党」は不破さんによって骨の髄まで〝体制内民主党〟に改変され、タコ壺に閉じ込められた「支部」からこの「党」を直す手立ては皆無に等しい。だから、〝まだ不破さんを通じてしかマルクス・エンゲルス・レーニンの思想に触れていない方は、是非、もう一度、直接マルクス・エンゲルス・レーニンに触れて、目からウロコを落として下さい。そしていまの日本の「危機」の真の原因を突き止め、大衆と共に、そして、党員と共に歩む党に「党」の活動スタイルを変えて下さい。老いたりといえども、今いる党員がマルクス・エンゲルス・レーニンの思想=科学的社会主義の思想で完全武装すれば、いまの日本の「危機」の深刻さからして、日本の夜明けはそれほど遠くはないと思います。〟と、このページを通じてみなさんに訴える以外に、他に方法はありません。

 青山からのお願い。

 どうか、日本にも科学的社会主義の思想をしっかり理解している人がいたという証拠を残すだけのページに、このホームページをしないで下さい。