AZ-1-2〈連載〉その2

国民のための経済がある、新しい共同社会を創るために、

不破さんのマルクス・エンゲルスと『資本論』の歪曲・捏造を暴き、

資本主義の根源的な矛盾を暴露し、

労働者階級の社会変革のエネルギーを発露させよう!!

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「国民のための経済がある新しい共同社会を創るために、科学的社会主義の思想を正しく知るための、不破さんの「マルクス『資本論』反面教師講座」の解説」(その2)

不破さんによって、『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想はどう変えられたのか、『資本論』第二部を中心にして、不破さんの「『資本論』探究」を軸に見て行きましょう。

 

〈このページのポイント〉

 不破さんは、『資本論』第二部の解説を、マルクスが草稿の執筆を順番どおりに行わなかったことについての誹謗・中傷から始め、マルクスが「第二部」の「再生産論について、まったく構想をもっていなかった」と言います。そして、『資本論』の解説はそっちのけで、不破さんが作った「恐慌の運動論」への読者の誘導と自説の正当性を主張するための「推測」とマルクスの言葉の継ぎはぎを行ない、「第二一章 蓄積と拡大再生産」の「解説」に至っては、ペテン師とでもいうべき方法で『資本論』を改竄して、マルクスを誹謗し、マルクスが拡大再生産の順調な進行を証明したことを喜ぶ始末です。

 不破さんは、「単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」こと、つまり、資本主義的生産様式の社会において「資本」は大海原を走り続けるマグロのようにⅠ(v+m)>Ⅱcという関係のなかで走り続けなければならず、走り続けることによって生産と消費の矛盾は拡大し、それはなんらかの方法で調整されなければならないということ等、『資本論』が私たちに訴えている大切なことは、いっさい語りません。

 資本主義的生産様式の基での「拡大再生産」の限界をしっかり理解しましょう。

 

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『資本論』第二部はマルクス・エンゲルス・レーニンと私たちだけでなく、不破さんにとっても大事なところ

  マルクスは『1861~1863年草稿』中の『剰余価値学説史』執筆の前後で、「経済学批判」の研究の方法に基づく叙述の仕方から、現在の『資本論』の叙述の仕方に編集内容を変えましたが、不破さんは、マルクスが1865年に不破さんと同じ「資本主義観」に立ったという虚構を成立させるために、この『資本論』の成立過程の捏造を行ないます。不破さんの「『資本論』探究」の「第二部を読む」の「解説」はここから始まります。

 そして、不破さんは、マルクスが「第二部」の「再生産論について、まったく構想をもっていなかった」と言い、「第二一章 蓄積と拡大再生産」の「解説」に至っては、不破さんによって「エンゲルスの編集上の誤り」というレッテルを貼られ、段階を追っての論及を、こともあろうに、「マルクスの試行錯誤の経過」などと揶揄され、ペテン師とでもいうべき方法で『資本論』を改竄してマルクスの馬鹿さ加減を嘲笑し、マルクスを誹謗します。

 しかし、これから見るように、マルクスの草稿からエンゲルスによって編集された「第二部」の「第二一章」は、『資本論』にとって欠くことのできない必要な、極めて重要な構成部分です。だからこそ、『資本論』第二部はマルクス・エンゲルス・レーニンと私たちだけでなく、不破さんにとっても大事なところです。不破さんのマルクスとエンゲルスの悪口にごまかされて、「単純再生産に続いて、拡大再生産の問題でも、資本主義的生産のもとで順調な進行が可能である」ということを証明できてマルクスが喜んだなどという、不破さんの資本主義観にもとづく、『資本論』を修正する試みにだまされてはなりません。

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『資本論』第二部での不破さんの主な大まちがい〈その1〉

 不破さんは、マルクスが「第一章 貨幣資本の循環」で資本主義的生産における搾取の仕方を「画期的な搾取様式」と言っている意味がわからず、「画期的な搾取様式」の「〝画期〟性のなかには、搾取社会を超える次の新しい時代を準備するという意味も、こめられているのではないでしょうか」とマルクスと正反対のことを言って、『資本論』を台無しにします。

 

『資本論』第二部での不破さんの主な大まちがい〈その2〉

 

 不破さんは「第一五章 回転期間が資本前貸の大きさに及ぼす影響」で、持ち前の「自己顕示欲」から「事実上あまり重要でない事情を不当に重要視する」(エンゲルス)ことによって、「第一五章」でのマルクス・エンゲルスの大切な指摘を捨て去ってしまいます。

 

『資本論』第二部での不破さんの主な大まちがい〈その3〉

 

 資本主義的生産の宿命を明らかにした「第二〇章 単純再生産」のもつ意味を理解できない不破さんは、「第二〇章」について、マルクスの「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」などとマルクスを茶化すことしか語らず、「清く飛ばすべし」と言って飛ばしてしまいます。

 

『資本論』第二部での不破さんの主な大まちがい〈その4〉

 

 「第二一章 蓄積と拡大再生産」についての不破さんの「推測」、それにもとづく『資本論』の「捏造」は、この『資本論』の「解説」のなかでも特筆すべきもので、申し訳ありませんが、不破さんを「ペテン師」とでも呼ぶのにふさわしい内容となっています。そして、「第二一章」の意義を理解できない不破さんは、マルクスが拡大再生産の順調な進行を証明できたことを喜んだなどと、トンチンカンなことを言って喜びます。

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不破さんらしい「第二部」の成立過程のスケッチ。マルクスへの誹謗・中傷。

 マルクスは、第一部草案を書き終えたあと、1864年の夏頃から、「第3部」を第2章→第1章→第3章の順に書き、その後、1865年の前半に「第2部 資本の流通過程」の草案を書きはじめました。

 このことについて、不破さんは、「『流通過程』論のこの出遅れには、構想のその後の発展から見て、三つの問題があったようです。」と言い、①「固定資本」と「流動資本」について、「マルクスが誤った固定観念から出発して、正確な規定に到達する」ことができなかった、②マルクスは、「資本の流通過程」を「『資本一般』の枠内でどう解決(?意味不明──青山)するか」答えをもっていなかった、③「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論(第三篇)について、まったく構想をもっていなかった」と、三点をあげて、マルクスを誹謗します。

※『資本論』の成立過程と、なぜ不破さんが『資本論』の成立過程を改ざんしようとするのかの詳しい説明は、ホームページ26-2-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)──「『資本論』第三部を読む」を検証する。──」に譲りますが、不破さんは『資本論』の成立過程を改ざんしないと、不破さんが二一世紀になって、やっと、見つけた「大発見」(創作)を、あたかもマルクスの考えででもあるかのように見せかけることができなくなるのです。

 

マルクス経済学の正しい概念規定の過程を「混迷と曲折」と誹謗する不破さん

 まず、①の概念規定に関していえば、新しい発見、新しい理論には、新しい言葉や古い言葉の新しい定義、新たな概念規定が必要です。マルクスが、当初、資本の流通過程において、さまざまな局面を通過する資本そのものを「流動資本」、局面のうちの一つに固定されている資本を「固定資本」と定義しようとしたことは、貨幣と資本の神秘性を明らかにするうえでの一つの区分方法であり、「マルクスが誤った固定観念から出発して」などと言って批判されるべきものではありません。そして、新しい概念とそれを現す規定(言葉)がコンクリートにならなければ、「資本の流通過程」の研究が行えないなどというものではありません。例えば、いまだに「貨幣資本」という言葉で、多様な「資本」形態にある「貨幣」をすべて「貨幣資本」といっています。

 

「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」を書いた理由の要約

 不破さんは、「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」を書いたのは②と③という理由からだと言いますが、それが、いかにトンチンカンであるか、簡単に見てみましょう。

 大谷禎之介氏の「『マルクスの利子生み資本論』2」に収録されている、MEGA第Ⅱ部門第4巻第2分冊に収められたマルクスの『資本論』第三部第1稿についての「『解題』と『成立と来歴』」の文章の「解題」は、「第1部から第3部に移ったことは、明らかに、マルクスが、本質と直接的な現象との、問題を孕んだ関連を矛盾なく説明すること、運動法則それ自体を暴くばかりでなく、同じくこの法則の貫徹メカニズムを証明することにも努めていたことに帰せられるべきものであった。彼の考えでは、理論全体の内的な一貫性はこのこと(資本の運動法則の貫徹メカニズムを証明すること──青山)にもとづいているのである。彼にとってまずもって肝心であったのは、問題の二律背反を明示的にはっきりさせ、科学的に批判的な解決を与えることであったが、最後には、体系的に論述することに重きが置かれていた。」(P389-390)と述べ、第3部の執筆を中断し第2部の草案を書いた理由については、同じくMEGAの「成立と来歴」は、「その理由はたぶん、『1861~1863年草稿』のノートⅩⅦでは利潤の平均利潤への転化がまだ包括的には仕上げられていなかったことにあったのであろう。……叙述の論理によって、結局マルクスは、当該の欠落部分を埋めることを、それゆえに第3部の執筆を中断してまず第2部を仕上げることを強制されたのである。」(P403-404)と述べています。

 このように、「草稿」執筆の軌跡は、マルクスが『1861~1863年草稿』中の『剰余価値学説史』執筆の前後で、「経済学批判」の研究の方法に基づく叙述の仕方から、『資本論』の本質と直接的な現象とのシームレスな貫徹メカニズムを示し体系的に論述する叙述の仕方に、叙述の中身と方法を変えたことの現れです。不破さんはことのとをまったく理解していません。

※なお、詳しくは、ホームページ26-2-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)──「『資本論』第三部を読む」を検証する。──」を、是非、参照して下さい。

 

1865年まで、『資本論』を『経済学批判』の続編にしがみつかせようとする不破さん

 上記のように、マルクスは『資本論』の叙述の中身と方法を「経済学批判」の研究の方法に基づく叙述の仕方から変えたのに、不破さんは、先ほど見たように、マルクスは『経済学批判』の続編としての著作の「資本について」の部の編成を「資本一般」、「競争」、「信用」、「株式資本」としようとしていたが、「資本の流通過程」を「『資本一般』の枠内でどう解決(?意味不明──青山)するか」、マルクスは答えをもっていなかったと言って、『資本論』を『経済学批判』の続編にしがみつかせようとします。

 読者が不破さんから解説を受けようとしているのは『資本論』の「第2部 資本の流通過程」についてであり、たとえ、『経済学批判』の続編のなかに「資本の流通過程」がうまく収まらなかったとしても、『資本論』の草稿の執筆には何ら影響はありません。不破さんは、『経済学批判』の続編である「61~63年草稿」の執筆過程で、『資本論』が新しい構想を持つた著作へと、本質と直接的な現象とのシームレスな貫徹メカニズムを示した体系的な論述へと、一回り大きくなったことを理解できないで、相変わらず、『資本論』を『経済学批判』の続編として捉えようとしています。

※詳しくは、同じくホームページ26-2-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)──「『資本論』第三部を読む」を検証する。──」を、是非、参照して下さい。

 

不破さんは、マルクスを無能に見せようとしてとんでもない「解釈」や「解説」をする

 ③の「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論(第三篇)について、まったく構想をもっていなかった」という、『資本論』とマルクスを否定するような不破さんの誹謗についていえば、後で見るように、資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産のもつ意味をほとんど理解していない不破さんが言うのですから、驚きです。

 不破さんは、資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産のもつ意味をほとんど理解していないだけでなく、再生産論が論及されている部分のとんでもない解釈やペテン師とでもいうべき方法で『資本論』の改竄までして、「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論(第三篇)について、まったく構想をもっていなかった」かのように、マルクスを誹謗して、一人相撲を取っています。本当に、始末が悪すぎます。

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不破さんのマルクスへの誹謗・中傷の主な原因

 不破さんの「第二部の成立過程」のスケッチは、不破さんが①マルクスと違って物事を発展的に見ることができないこと、②「再生産論(第三篇)について、まったく構想をもっていなかった」という妄想と『資本論』の成立過程についての無知と資本主義的生産様式のもとでの「拡大再生産」のもつ意味の無理解に依拠した、マルクスを誹謗するための創作「解説」と、③マルクスを誹謗して自分の評価を高めようとする自己顕示欲の、三つの構成要素によってつくられています。

 不破さんの言う「流通過程」論の出遅れの三つの理由から、もう一度、不破さんの観念論者ぶりを見てみましょう。

 

不破さんはマルクスを自分と同じ観念論者とみている

 「資本の流通過程」の研究を深め、真実・真理を摑む過程で、より適切な言葉と、言葉のより適切な概念規定ができるのであり、「正確な規定」(イデア)から真実・真理が生まれてくるのではありません。しかし、不破さんは、「マルクスが誤った固定観念から出発して、正確な規定に到達するまでに、混迷と曲折にみち」ていたから、「資本の流通過程」の研究が遅れたと、観念論者に成り下がります。

 

『経済学批判』の続編のための研究が自らの殻を破り、マルクスを『資本論』の構想へ導いた

 不破さんは、「資本の流通過程」が『経済学批判』の続編としての著作の「資本一般」の枠内の収まらないから「資本の流通過程」の研究が遅れたと言いますが、マルクスは「資本」の研究を深め、「資本の流通過程」が『経済学批判』の続編としての著作の「資本一般」の研究方法と研究対象の枠内の収まらないから、新たに『資本論』の構想を固め、それに基づいて『資本論』原稿の執筆を行いました。マルクスは真理の探究の結果、『資本論』にたどり着き、不破さんはマルクスに古い構想の「枷」をはめて、『資本論』の執筆を遅らせます。

 

不破さんは、自らの『資本論』の構想への無知を根拠に、マルクスは「再生産論」について無知だったという

 

 不破さんは、マルクスが「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論(第三篇)について、まったく構想をもっていなかった」から、「資本の流通過程」の研究が遅れたと言うが、マルクスは「資本」の研究を深め、「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」を書くことによって、運動法則それ自体を暴くだけでなく、本質と直接的な現象との関連を矛盾なく説明し、この法則の貫徹メカニズムを証明することに努めました。その結果、このような執筆の順序になったのです。そのことを知らない不破さんは、書かないのは知識がないからだと自らの無知を根拠にマルクスは「再生産論」について無知だったといいます。

 しかし、不破さんが、マルクスは「再生産論」について無知だったなどという馬鹿げたことを言うのには、もう一つ理由があります。それは、あとで十分説明しますが、不破さんは「第二一章」の解説で、エンゲルスの編集のまずさを私たちに示すために、資本家や経済学者の考え・思いをマルクスの主張ででもあるかのように捏造して、マルクスの「再生産論」の考察の馬鹿さ加減を主張します。その前提として、マルクスは、当初は、「再生産論」について無知でなければならなかったのです。

※この点について、ホームページ26-2-2のPDFの44ページの〈エセ「マルクス主義」者からペテン師、詐欺師への不破さんの跳躍〉以降をお読み下さい。

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「画期的な搾取様式」の〝画期〟性についての、不破さんの「画期的な推測」

 不破さんは『資本論』「第二部」の「第一章 貨幣資本の循環」の中の「第二節」の文章について、マルクスが「資本主義的商品生産を、社会の経済的構造全体を変革する『画期的な搾取様式』と特徴づけていることも、注目すべき点です。この〝画期〟性のなかには、搾取社会を超える次の新しい時代を準備するという意味も、こめられているのではないでしょうか。」と述べています。不破さんが「画期的な搾取様式」に「注目」していただくのは大変結構なことですが、これでは『資本論』が台無しになってしまいます。『資本論』の内容をミスリードしてもらっては困ります。

 

「画期的な搾取様式」の〝画期〟性の本当の意味

 この文章は、「資本主義的商品生産」がそれ以前の「商品生産のすべての形態を破壊する」、つまり、それ以前の生産様式を「破壊する」ことを述べたマルクスの「第七稿」から取った文章に続く、「第六稿」からの文章で、引用文の前に、「資本主義的生産過程」では「商品生産の営みはすべて同時に労働力搾取の営みになる」ことが述べられています。

 「資本主義的商品生産」がはじめて「画期的な搾取様式」となったのは、資本主義社会が「産業資本が社会的生産を支配する社会」で、「産業資本が社会的生産を支配して行くのにつれて、労働過程の技術と社会的組織とが変革されて行き、したがってまた社会の経済的・歴史的な型が変革されて行く」ことによって、「すべての商品生産を資本主義的商品生産に変えて行く」(大月版③P49)からです。そして、同時に、「資本主義的生産過程」では「商品生産の営みはすべて同時に労働力搾取の営み」であり、「産業資本の存在は、資本家と賃金労働者との階級対立の存在を含んでいる」にもかかわらず、労働力が「商品」となることによって、「搾取」が隠蔽されるから、「画期的な搾取様式」なのです。

 だから、この「〝画期〟性」とは、すべての生産様式の中に入りこみ、すべてを呑みこむ「〝画期〟性」であり、搾取を覆い隠す「〝画期〟性」のことなのです。

 

マルクス・エンゲルス・レーニンが不破さんのこの言葉を聞いたら……

 不破さんのように、「画期的な搾取様式」の「〝画期〟性のなかには、搾取社会を超える次の新しい時代を準備するという意味も、こめられているのではないでしょうか」などと呑気なことを言って、「画期的な搾取様式」の本当の意味を暴露しなかったら、マルクス・エンゲルスが『資本論』を書いた意味がなくなってしまいます。

 「画期的な搾取様式」の社会を暴露し、「産業資本」(=現代のグローバル資本)をコントロールしないで、「画期的な搾取様式の社会」(=資本主義的生産様式の社会)をそのままにして、「利潤第一主義」を抑え、「余暇」を増やそうとしても、「搾取社会を超える次の新しい時代」など、決して、実現しません。

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不破さんの「第二章」での、いつもの、絶対に負けない論法でのマルクスの断罪

 不破さんは、「第二章 生産資本の循環」で、「マルクスが最初に立てた運動論は、恐慌という形態での資本主義的生産の矛盾の爆発を、利潤率の低下の現象から説明し、それを社会変革の展望と結びつけることでした。マルクスはこの立場から、恐慌の運動論を確立しようとして、『五七~五八年草稿』から一八六四年後半の『資本論』第三部第三編の執筆まで努力を続けましたが、」と虚構をつくり、その上で、「確信の持てる理論展開には、ついに成功しませんでした。」と断罪します。

 マルクス・エンゲルス・レーニンの意図と違うことを提起して、それを批判する。不破さんの、いつもの、絶対に負けない、論法です。

 

「第二章 生産資本の循環」は生産資本の循環について論及する場で、利潤率の低下が直接恐慌を引き起こすとマルクスが考えていたなどという不破さんの創作を証明する場ではありません

 「第二章 生産資本の循環」で価値実現の問題を論究するのは当たり前のことで、生産資本の循環が困難になるのは価値実現が困難になり資金ショートしたときです。だからマルクス・エンゲルスは「第二章 生産資本の循環」でそのことに論及しているのです。そして、マルクス・エンゲルスは、「第二章 生産資本の循環」が不破さんの創作した、利潤率の低下が直接恐慌を引き起こすとマルクスが考えていたなどということを証明する場ではないから、そんな馬鹿なことはしなかっただけのことです。

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「第一五章」でのマルクス・エンゲルスの研究方向 

 「第一五章 回転期間が資本前貸の大きさに及ぼす影響」の冒頭、マルクスは「この章と次の第一六章では、回転期間が資本の価値増殖に及ぼす影響を取り扱う」ことを述べ、資本主義的生産は、前貸資本の「一方の部分が生産資本として機能すること」と「他の部分が商品資本または貨幣資本の形態で本来の生産から引きあげられている」こととを存立条件としており、「このことが見落とされるならば、総じて貨幣資本の意義も役割も見落とされてしまうのである」といって、「第一五章」と「第一六章」での「研究」の意義を示しています。

 そして、「次にわれわれが研究しなければならないのは、回転期間の両部分──労働期間と流通期間──が等しいか、または労働期間が流通期間よりも長いか短いかによって、どのような回転上の相違が現れてくるのか、さらにまた、このことが貨幣資本形態での資本の拘束にどのように作用するかということである」(大月版③P325)と述べて、「第一五章」での研究の方向を示しています。

「第一五章」でマルクス・エンゲルスが言っていること

 「第一五章」の「第四節 結論」は、資本の回転運動によって遊離させられる貨幣資本が信用制度の発達によって重要な役割を演じ、信用制度の基礎の一つになることを述べるとともに、流通期間の短縮により遊離した貨幣の増大が生産拡大や金融市場の緩和をもたらし、逆に、流通期間の延長により金融市場の圧迫を引き起こすことを述べ、景気の良し悪しによる「流通期間の短縮」や「流通期間の延長」が、景気循環の山と谷を大きくすることを示唆します。

 

マルクスと「第四節」へのエンゲルスの接し方と不破さんの接し方の差

 

 エンゲルスは「第四節 結論」の「追記」で、「めんどうな計算の不確実な結果のために、マルクスは、一つの──私の見るところでは──事実上あまり重要でない事情を不当に重要視するようなことになってしまった。私が言うのは、彼が貨幣資本の『遊離』と呼んでいるもののことである」と述べるとともに「本文のなかで肝要なのは、一方では産業資本のかなり大きな一部分が絶えず貨幣形態で存在しなければならないが、他方ではそれよりももっと大きな部分が一時的に貨幣形態をとらなければならないということの指摘である」と述べ、「この指摘は、この私の追記によってはせいぜい補強されるだけのことである。」と「追記」のむすびの文章で言います。

 マルクスは「めんどうな計算の不確実な結果のために」「事実上あまり重要でない事情を不当に重要視するようなことになって」しまいましたが、不破さんは、次に見るように、マルクスの「めんどうな計算の不確実な結果」に目が眩んで、「第一五章」の「肝要」な「指摘」を見ることができませんでした。そして、この章は、図らずも、エンゲルスと不破さんとの『資本論』への接し方の違いとともに、エンゲルスの優しさと不破さんの「自己顕示欲」の強さとを際だたせるものとなってしまいました。

マルクスの「めんどうな計算の不確実な結果」に目を奪われて、「第一五章」を〝マルクスの失敗〟例にする不破さんの「自己顕示欲」の強さ

 「第一五章」について不破さんは、マルクスは「資本の通常の運動の過程そのものに『資本の過多』を引き起こす一つの根源があるという角度から」論証を行ったが、「失敗」したと誹謗します。

 不破さんは、「マルクスのこの論証には大きな錯覚がありました」、「私の見解では、マルクスの論証も、そこに追記を書いたエンゲルスの論証も、誤っていました」と述べ、マルクスの「資本の回転」の計算だけを問題にして、「率直に言えば、〝マルクスにも失敗あり〟ということで、ここには、私たち後世の研究者を、ある意味でほっとさせる響きがあります。」、と言います。

 この不破さんの主張は、「『第一五章』でマルクス・エンゲルスが言っていること」と大きくずれていて「唯我独尊」的です。

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「第一五章」の最後の節を読んでインスパイアされたこと。余談1

 「第一五章」の最後の節は、「第五節 価格変動の影響」として、三つの原因による価格変動が資本前貸の大きさに及ぼす影響等について詳論されています。私はこの節を読みながら、前FRB議長のイエレン氏が、なかなか物価が上がらない状況を「ミステリー」と評したことを思い出しました。

 一般的に物価は、生産性が向上すれば、下がります。物価が上がるのは、①生産性の向上を上回る強い需要②生産性の向上を上回る賃金の上昇③生産性の向上を上回る利潤率の上昇、の三つの要因によります。そして、今注目されているのがU6失業率という失業者の区分で、日本も米国も、U6失業率は8%前半だといわれています。加えて、日本にいたっては、潜在成長率が低いうえに、政府は需給ギャップがプラスに転じたと言いますが、需給ギャップは明確なプラスになっていません。これでは、物価が上がるはずがありません。だから、日本でなかなか物価が上がらない状況は「ミステリー」でもなんでもありません。 皆さんも、この節にインスパイアされて、これらのことを、是非、くわしく研究してみて下さい。

「第一五章 回転期間が資本前貸の大きさに及ぼす影響」の余談2

 なお、話は変わりますが、資本主義的生産の主たる商品は大量生産化された商品ですが、流通期間が短いほど資本の効率はよく、回転期間が短いほど資本の効率はよいので、資本主義的生産は、常に、その期間の短縮に努め、より高度な高額商品はそれだけ労働期間は長くなりますが、受注生産等により流通期間を極力短くし、資本効率の向上に努めます。

 

 「第一五章 回転期間が資本前貸の大きさに及ぼす影響」は、不破さんが、全体を見ることなく、「事実上あまり重要でない事情を不当に重要視するようなことになってしまった」ので、そのことを明らかにするために、やむを得ず、内容の紹介に思わぬスペースを費やしてしまいました。

22

 

「第一六章」でマルクスの言う「社会的理性」と「祭りが終わってから」という言葉の意味

 

 「第一六章 可変資本の回転」でマルクスは「共産主義の社会」では「貨幣資本」などなく、生産手段は社会的所有になっており、社会の構成員が望む方向に社会の発展が向かうようあらゆる資源を社会全体でコントロールする社会的な能力を持つことができるが、資本主義社会では「社会的理性が事後になってから(=祭りが終わってから)はじめて発現することを常とする」ことを述べています。(大月版③P385参照)

 この、資本主義社会での「事後」という意味は、「私的資本によって担われる社会的生産の成果が市場での競争の結果」にという意味で、資本主義的生産様式の社会の「社会的理性」とは私的資本どうしの「市場での競争の結果」に過ぎないということです。

政府の「公共工事」に矮小化する不破さんの資本主義社会での「社会的理性」の捉え方

 不破さんは、この「社会的理性」という言葉に関して、「政府が公共工事に熱を入れると、労働力がそちらに流れて、一番大事な東北災害地の復興が停滞をきたす──こうした〝社会的理性〟の欠落状態」などと述べて、政府の資源配分の問題に矮小化し、共産主義社会の「社会的理性」と資本主義的生産様式の社会の「社会的理性」とを混同させ、「東北災害地の復興が停滞をきた」しているのは、「政府が公共工事に熱を入れ」たからだと言います。

日本の現状など、まったく、眼中にない不破さん

 復興が進まないのは、日本の現状、「産業の空洞化」という日本経済の構造問題を脇に置き、なおかつ、政府があらゆる手段を使って、「東北の復興」に全力で取り組まないからです。前「共産党」委員長の不破さんが、「政府が公共工事に熱を入れ」たから、「東北災害地の復興が停滞をきた」したと、「東北災害地の復興」問題を土木工事の供給能力の問題に矮小化し、全国の自治体の「公共工事」が「東北の復興」の足を引っ張っているというのですから、驚きです。

 高い防潮堤が出来、住宅地がかさ上げされても「東北災害地の復興」の実感などわきません。仕事があって、豊かな生活の場がなければ、復興とはいえません。

「うんちく」をひけらかし、『資本論』の「味わい」を語る不破さん

 このような認識を持つ不破さんは、この「第一六章」の文章について、「実は、『資本論』のなかでも、未来社会が『共産主義社会』というそのものズバリの名前で出てくる数少ない場所の一つです。そのことを頭において読むと、その味わいが一段と深くなるのではないでしょうか」、と言います。不破さんは、この文章が「未来社会が『共産主義社会』というそのものズバリの名前で出てくる数少ない場所の一つ」だという自らの「うんちく」の広さをひけらかし、『資本論』の「味わい」(?!)の「深さ」に酔いしれます。

 しかし、不破さんが「第一六章」の文章から、どのような「味わい」(?!)の「深さ」を得たのかの「解説」は一言もありません。

 

科学的社会主義の思想の伝道師がここで話さなくてはならないこと

 しかしここで語るべきは、くだらない「うんちく」を「頭において」「一段と深」い『資本論』の「味わい」に酔いしれたり、「うんちく」を自慢することなどではありません。科学的社会主義の思想の持ち主がここで語るべきことは、マルクスが明らかにした、共産主義社会の「社会的理性」と資本主義的生産様式の社会の「社会的理性」との違いなのです。

 不破さんのこれらの言葉の中に、不破さんの科学的社会主義の思想との向き合い方が非常によく現れています。『資本論』は、不破さんが池波正太郎を読むように、「味わい」を楽しむものではありません。

 私たちは、『資本論』を、自己顕示欲の強い評論家によって、共産主義社会の「社会的理性」と資本主義的生産様式の社会の「社会的理性」との質的な差異を意識的に混同させるための道具に変えさせてはなりません。

23 ちょっと長いです

 

開いた口がふさがらない不破さんの「第二〇章」の評価と推測

 不破さんは、「第二〇章 単純再生産」について、「マルクスは、還流問題を再生産論の基本にかかわる問題として非常に重視し」たが、「資本主義的生産のもとでの再生産過程の諸関係は、すべてが商品交換の関係から成り立っているのだから」、「貨幣の還流」を「いちいち検証する必要はない」ので、「清く飛ばすべし」と言います。そして、マルクが「還流問題にそれほどこだわる」のは、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨にあったのではないか」と「推測」します。

 不破さんは、自分が『資本論』の解説者の資格を持ち合わせていないことを告白していることがわからないようです。

「開いた口がふさがらない」という以外の言葉が見つからない

 開いた口がふさがらないとは、このことでしょう。似非「マルクス主義者」の不破さんに、「資本主義的生産のもとでの再生産過程の諸関係は、すべてが商品交換の関係から成り立っている」ことを説教され、だから「貨幣の還流」を「いちいち検証する必要はない」と言われ、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」から必要のない「貨幣の還流」を書いたのではないか、と揶揄される。価値実現の短縮による架空の消費と架空の需要から「恐慌の運動論」なるものを大発見し『資本論』の見方を変えたという不破さんが、「貨幣の還流」を「いちいち検証する必要はない」という。不破さんは、『資本論』の見方を変えるまえに、『資本論』をちゃんと学んでおくべきでした。

 マルクスが不破さんのこの文章を見たら、「罵倒によって敵を批判する者」には、「真の批判によって敵を罵倒する」ことを決意することでしょう。

 

「第二部」全645ページ中123ページを占める「第二〇章」を一緒に見てみよう

 

 不破さんに「清く飛ばすべし」と言われ、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」しか語られない「第二〇章」は、大月版『資本論』第二部全645ページのうち123ページを占めています。不破さんによって、「ケネーの「経済表」に接した時の感慨」などと揶揄され、後足で砂をかけるように、「清さ」などまったくなく、「飛ばされた」第二〇章で、マルクスは私たちに何を訴えているのか、二一世紀に生きる私たちは何をつかむことができるのかを、一緒に見てみましょう。

「第二〇章」の要点Ⅰ、「社会的資本」の「単純再生産」の可能な条件の論究

 「第二〇章」の第四節までは、「社会的資本」(個別的諸資本が統合された総資本の意味)をモデル的に「Ⅰ生産手段」を生産する部門と「Ⅱ消費手段」生産する部門の二つに分け、それら二つの部門の「単純再生産」が可能な条件を導き出しています。

 これら二つの部門の「単純再生産」が可能な条件については、大月版の501ページから502ページに(1)(2)としてまとめられています。ぜひ、お読み下さい。

「第二〇章」の要点Ⅱ、「賃金が上がれば、経済は良くなる」論の粉砕

 「第四節」の「繁栄期には貨幣の相対的価値が下がる」というマルクスの指摘は、不破さんの薄っぺらな「恐慌の運動論」にはない、現代の景気循環を見る上で大切な指摘です。そして、この文章に続いて、「賃金が上がれば経済が成長する」という誤った「理論」を「共産党」に押しつけている不破さんが、見たくもない、聞きたくもない文章が出てきます。マルクスは、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」が「労働者階級はそれ自身の生産物のあまりにも少なすぎる部分を受け取っているのだから、労働者階級がもっと大きな分けまえを受け取り、したがってその労賃が高くなれば、この害悪(恐慌──青山補足)は除かれるだろう」と考えていることの誤りを指摘し、不破さんを粉砕します。そして、資本主義的生産の基では「労働者階級の相対的な繁栄」(安定した雇用と多少の労賃の増加)は「ただ恐慌の前ぶれとしてしか」許されないことが述べられています。そして、単純再生産の場合にも、「恐慌」につながる私的資本主義的生産の「困難」さが示されています。これらは、大変大切な指摘です。

※なお、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」についての詳しい文章は、ホームページ「5温故知新」→「1マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「D資本主義社会Ⅱ」中の「12、賃金」の12-14「労賃が増加すれば恐慌がなくなると考える健全で「単純な」常識は誤りである」を参照して下さい。

「第二〇章」の要点Ⅲ、「貨幣流通」が産業循環に及ぼす影響への論及

 「第五節 貨幣流通による諸転換の媒介」は「貨幣流通」が産業循環に及ぼす影響の導入的な「節」となっており、単純再生産が可能なのは流通に投じられた貨幣が資本家のもとへ還流される場合だけであることを説明し、産業資本の流通過程での「商業資本」や「貨幣資本」の役割や剰余価値の「地代」や「利子」への分割等の問題にも論及されています。

「第二〇章」の要点Ⅳ、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」よ留意せよ

 「第六節 部門Ⅰの不変資本」では、重要な点として、部門Ⅰ(生産手段の生産部門)の生産物は、「ただ不変資本の要素としてのみ役だつことのできる使用価値から成っている」ので、「資本主義的生産様式のもとでは」市場での幾つかのやり取りを通じて分配されるが、「仮に生産が資本主義的でなく社会的であるとすれば」、「部門Ⅰのこれらの生産物はいろいろのな生産部門のあいだに、再生産のために」、「絶えず再び生産手段として分配され」ることが論及されています。是非、留意して下さい。

「第二〇章」の要点Ⅴ、両部門の関連、あらためて「部門Ⅰ」のもつ意味

 「第七節 両部門の可変資本と剰余価値」と「第八節 両部門の不変資本」とでは、両部門の連関を再確認し、「第八節」では、「部門Ⅰ」の個別資本はその生産物が再び生産手段としていろいろのな生産部門に入ることができるかどうかは感知しないことが述べられ、資本主義的生産様式の社会の社会的総資本の再生産を見る場合、その独自な歴史的経済的性格、つまり、自分が作り市場に投げ入れるものは知っていてもそれが市場でどうなるかはわからないことを述べます。そして、「第九節 アダム・スミス、シュトルヒ、ラムジへの回顧」では、アダム・スミスが生産的消費を見ることができないことが述べられていますが、この「第九節」を取り上げようともしない不破さんは、アダム・スミス同様、生産的消費を見ることができず、生産的消費の重要な意味が理解できないのです。

 だから、日本における「産業の空洞化」に何の興味も示さず、「賃金が上がれば経済はよくなる」などと言うだけで、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」に成り下がる以外に知恵がないのでしょう。

「第一〇節 資本と収入 可変資本と労賃」も、是非、読んで下さい

 「第一〇節 資本と収入 可変資本と労賃」は資本と収入、可変資本と労賃を「資本」とは何かという観点から多面的に論及しています。

 この節についての詳しい説明は、ホームページ26-2-2「 エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説②「『資本論』第二部を読む」を検証する。」を参照して下さい。

 ここでは、〝身体は資本論〟についての論及だけを紹介します。

☆「彼の労働力は、それ自体、商品形態にある彼の資本なのであって、そこから絶えず彼の収入がわいてくるのだ」という〝身体は資本論〟について、「じっさい、労働力は彼の財産(絶えず更新され再生産される財産)ではあるが、彼の資本ではない。労働力は、彼が絶えず売ることのできる、また彼が生きて行くためには絶えず売らなければならない唯一の商品であり、そして、ただその買い手すなわち資本家の手のなかではじめて資本(可変資本)として働く商品である。」(大月版P541)

「第二〇章」の要点Ⅵ、資本主義的生産の矛盾と対外貿易の役割

 「第一一節 固定資本の補填」は、まず、「生産手段を生産する部門Ⅰでは、それが一方では部門Ⅱの不変資本の流動成分を供給し他方ではその固定成分を供給するかぎり、均衡のとれた分業が不変に保たれなければならない」(大月版P572)ことを表式を使って説明し、つぎに、分業のバランスが崩れた二つの例をあげ、「商品」が余る場合には「その生産を縮小しなければならないことになり、それはこの生産にたずさわる労働者と資本家とにとって恐慌を意味する。」こと、「商品」が余ること自体は「害悪ではなく、かえって利益である。だが、資本主義的生産では害悪なのである。」ことを指摘します。

 そして、「どちらの場合にも対外貿易が必要である」(同、P574)ことを述べ、「しかし、対外貿易は、それがただ諸要素を(価値から見ても)補填するだけでないかぎり、ただ諸矛盾をいっそう広い面に移し諸矛盾のためにいっそう大きな活動範囲を開くだけである。」(同、P577)と、「対外貿易」の役割を正しく指摘しています。

 この、「対外貿易」についてのマルクスの指摘は、グローバル資本が世界中を闊歩する現代においても、的を射た指摘です。

 

「清く飛ば」して、グローバル資本が見えない不破さん

 「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態の矛盾」をもつ資本主義的生産様式の社会で、資本が動けば動くほど、大きくなれば大きくなるほど、資本主義的生産様式のもつ矛盾は拡大し、一層深まっていきます。国内での成長の限界に突きあたった資本が、海外での事業展開によって一層の資本蓄積を図ろうとするとき、国内での生産と雇用を確保し、海外での生産にあたってその国の国民がほんとうに豊かになるように生産技術も移転し自国なみの賃金も保証するのであれば、両国の国民にとって万々歳で何の矛盾も生じませんが、それでは資本主義的生産様式の社会を超えた未来の新しい国際関係になってしまいます。グローバル資本が生き抜くためには、国内産業は「空洞化」させ、海外では、コカコーラの原液(アヘンではないからまだスマートなのか?)を高く売りつけるように技術は独り占めして、労働者を低賃金で働かせる、それ以外に資本が「資本」として生きていく道はありません。グローバル資本は、「対外貿易」によって、「ただ諸矛盾をいっそう広い面に移し諸矛盾のためにいっそう大きな活動範囲を開くだけ」でした。だから今、世界は大揺れに揺れているのです。マルクスの指摘は、まことに的を射た指摘ですが、このことを「発見」できず、「清く飛ばすべし」と言う前「共産党」委員長の不破さんは、やはり、マルクスの学び方を間違えているようです。

この「節」の最後に資本主義社会の生産の無政府性を指摘

 そして、この「節」は、「再生産の資本主義的形態が廃止され」た社会では分業のバランスが崩れるのを防ぐことができるが、「資本主義社会のなかではそれは一つの無政府的な要素」なので、単純再生産の場合にさえもこのような不均衡が起こらざるをえないということを述べて結ばれています。

「第一二節 貨幣材料の再生産」と「第一三節」で述べられていること

 

 「第一二節 貨幣材料の再生産」は「毎年の新たな金生産にもとづいてそれと並行的に行われる貨幣蓄蔵」について論究し、固定資本の更新のための年々の貨幣蓄蔵との違いを明らかにし、生産過程での貨幣蓄蔵の今後の展開への布石としています。また、「第一三節」は、「社会的再生産の考察で経済学者たちの混乱と大言とにみちた無思想の例として」、産業資本家が大きな利益を上げられるのは「自分たちが生産するものをすべて自分がその生産に費やしたよりも高く売ることによってである」というデステュツトの謬論を暴露しています。

 

「第二〇章」は、絶対に「清く飛ば」してはいけない、大切な〝章〟

 このように、不破さんに「清く飛ばすべし」と言われ、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」しか語られなかった「第二〇章」は、資本主義を動かす〝骨格〟の重要な一部である「社会的総資本の再生産と流通」の基礎をなす「単純再生産」を扱っており、「第二一章」へと繫がるウォーミングアップの「章」であり、であるからこそ、「第三部」へつながる、現代を考察するうえでの多くの示唆に富んだ「章」となっています。

 資本主義的生産様式のもとでの生産過程での「貨幣の還流」の持つ意味をわからず、「資本主義的生産のもとでの再生産過程の諸関係は、すべてが商品交換の関係から成り立っているのだから」、「貨幣の還流」を「いちいち検証する必要はない」ので、「清く飛ばすべし」などという、不破さんの口車に乗って「清く飛ばす」ことなく、みなさんは、そのことをしっかりと理解して下さい。そして、そのことによって、不破さんの謬論を〝勢いよく吹き飛ばして〟下さい。

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「第二一章 蓄積と拡大再生産」を不破さんの資本主義観に合わせようとする邪な試み

 

 二一世紀になって、資本主義はますます発展するという「資本主義観」に完全に屈服した不破さんにとって、『資本論』は拡大再生産が「資本主義的生産のもとで順調な進行が可能であることの証明」の場でなければならないのです。だから、不破さんは、「『資本論』探究〈上〉」の「(9)資本主義的生産の前途をめぐって」という「節」の「再生産論と恐慌の可能性」という最初の小見出しの文章で、開口一番、「こうしてマルクスは、単純再生産に続いて、拡大再生産の問題でも、資本主義的生産のもとで順調な進行が可能であることの証明に成功しました。」と言う始末です。

 

マルクスが「第二一章」を通じて明らかにしたことは、「資本」は大海原を走り続けるマグロのように走り続けなければ「資本」としての役割を果たせないということ

 マルクスは不破さんが言うように、「単純再生産に続いて、拡大再生産の問題でも、資本主義的生産のもとで順調な進行が可能であることの証明に成功し」たのではありません。マルクスは、「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということ、つまり、資本主義的生産様式の社会において「資本」は大海原を走り続けるマグロのようにⅠ(v+m)>Ⅱcという関係のなかで走り続けなければならず、走り続けることによって生産と消費の矛盾は拡大し、それはなんらかの方法で調整されなければならないということ、そのことを「第二一章」を通じて明らかにしたのです。

 

「第二一章 」のマルクス・エンゲルスの意図を理解できない不破さんのマルクスに対する見当違いの「推測」とエンゲルスへの誹謗・中傷

 

 不破さんは、「第二一章」について、「『資本論』探究〈上〉」で「ここはおそらく、全三部のなかでもっとも理解の難しいところです」と言い、その理由として、①マルクスの試行錯誤の経過がそのまま本論として本文に再現されていること、②エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまったこと」、の二点をあげ、『資本論』編集における、二つの「エンゲルスの編集上の誤り」の一つに数え上げられると言います。

 しかしそれは、これから見るように、「第二一章」のマルクス・エンゲルスの意図を理解できない、いや、むしろ確信犯と思われる、不破さんの、マルクスに対する見当違いの「推測」とエンゲルスへの誹謗・中傷でした。

そして、不破さんは、エンゲルスをただ抽象的に責め立てます

  不破さんは、エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまったこと」と、「エンゲルス流」などという偏見に満ちた言葉遣いまでしてエンゲルスを責め立てますが、そのくせ、「エンゲルス流の解説」とは何かも言わず、どこがどう「筋道」が立っていないのかも言いません。ヤクザだって因縁を付けるときには、理不尽なものであっても「理由」くらいは言います。不破さんには、それさえありません。

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自分の「推測」に合わせるための不破さんのとんでもない創作

 

「私はそこには、〝単純再生産の難題を解決した以上、拡大再生産論はその応用問題のようなもので、特別な困難はないだろう〟と考える楽観論があったのではないか、と見ています。たとえば、第八草稿そのもののなかでも、例のスミス批判の文章(第三篇第一九章)のなかで、『主要な困難……は、蓄積〔拡大再生産のこと──不破〕の考察のさいではなく、単純再生産の考察のさいに現われる』と書いたりしていました。」と、不破さんは言います。

 

『資本論』を読んでいない人が不破さんの上記の文章を読めば、マルクスが「主要な困難」は「単純再生産の考察のさいに」あると言っていると、誰でも理解する

 この文章を普通の人が読めば、マルクスの試行錯誤という不破さんの「推測」の根拠は、マルクスに「楽観論があったのではないか」という「推測」にもとづいている、そして、その根拠は不破さんが「たとえば」以下で引用した文章でマルクスが「主要な困難」は「単純再生産の考察のさいに」あると言っているだからだ、と不破さんが言っていると理解するでしょう。

しかし、ここでマルクスが「主要な困難」と言っているのは「単純再生産の考察」のことではありません

 ここでマルクスが「主要な困難」と言っているのは、「ただ流通の手品によってひき起こされるにすぎない思考の混乱」、つまり、「社会的生産物価値の全体が収入すなわち労賃・プラス・剰余価値」であるという「思考の混乱」のことです。そして、「主要な困難」を抱えているのはマルクスではなくA・スミスです。

また、「蓄積の考察ではなく単純再生産の考察で現れる」と言っているのは

 また、。マルクスが「蓄積の考察ではなく単純再生産の考察で現れる」と言っているのは、「(1)アダム・スミスはここでは明白にただ単純再生産を論じているだけで、拡大された規模での再生産または蓄積を論じているのではない。」から、そのことを言っているだけです。「……」のなかに空気でも詰まっていて、前後を「主要な困難」=「単純再生産の考察」と結ぶことができるなどということをマルクスが言っているのでは、まったく、ありません。

 

不破さんが行なったマルクスの「挑戦の失敗」の告白のでっち上げ。

すこし長くなりますが、不破さんの『資本論』〝解説〟を見て下さい

 このようなペテンによってでっち上げられた論拠に基づく「推測」にもとづいて、不破さんがマルクスの「第三回目の挑戦」までの文章という文章が、マルクスの「試行錯誤」のメモ的な文章ででもあるかのように読者に信じ込ませるために、不破さんは、再度、驚くべき創作を行ないます。すこし長くなりますが、不破さんの『資本論』〝解説〟を見て下さい。

 「しかし、マルクスは、そこまで(拡大再生産の継続が不可能だということ──青山)話を進めず、第一年度の表式に、あれこれの問題を見つけだして、議論の空転をはじめました。……(青山の略)が大問題だとして、きりきり舞いするのです。これは、率直に言って、問題のないところに無理に問題をつくり出すといった式の話でしたが、この時点では、それが解決のつかない重大問題に見えたのでした。

 マルクスはそこからぬけだそうとして、あれこれの奇策や邪道にまで考えをめぐらせたようで、その様子はあちこちにちりばめられた溜息まじりの言葉からもうかがわれます。

 『しかし待て!ここにはなにかちょっとした儲け口はないか?』、『突然、仮定をすり替えてはならない』、資本主義的機構に固着している『汚点』を『理論的諸困難をかたづけるための逃げ道として利用してはならない』

 マルクスは、ついに、考察の途中で筆を投げたようで、第三回目の挑戦は、『Ⅱの資本家たちの一部のあいだにおける追加貨幣資本の形成が、他の一部の明確な貨幣喪失と結びつく……』と書いたところで、ぷつんと途切れています。こういうことも、マルクスの草稿では、珍しいことでした。」

なにも知らない人が、不破さんのこの「解説」だけを読めば、不破さんの主張を疑う者は一人としていないでしょう

 なにも知らない人が、不破さんのこの「解説」だけを読めば、上記の文章から、なにも解決することのできないマルクスの、いじけた、愚痴を書き連ねるだけの姿が想像され、『資本論』には「第三回目の挑戦」までの「試行錯誤」のメモ的な文章が本文として載せられているという、不破さんの主張を疑う者は一人としていないでしょう。

しかし、みなさん、驚かないで下さい。この文章は、不破さんが作ったまったくの創作です。この文章からでも、不破さんの人柄と研究態度が十分にわかります。是非、お確かめ下さい。

 たとえば、マルクスの「溜息まじりの言葉」とは、マルクスが、あくどく、狡猾な、資本家の言葉を代弁したり反論したりしているものを不破さんがつまみ食いしたもので、「あれこれの問題を見つけだし」たり、「あれこれの奇策や邪道にまで考えをめぐらせ」ようとする、大多数の「ブルジョア的批判者」たちをマルクスが戒めたものです。

 詳しくは、是非、ホームページ26-2-2「「第二一章 蓄積と拡大再生産」でマルクス・エンゲルスが言っていること」(PDFファイルのP40-44)をご覧下さい。

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Ⅰ(v+m)>Ⅱcという関係の意味を理解できず、拡大再生産の順調な進行を証明したことを喜ぶ不破さん

 

 不破さんの「第二一章」の解説のボリュームは10ページ分で、そのうちの7ページ半はマルクスの馬鹿さ加減とエンゲルスの編集のまずさの紹介で、不破さんの言う「本論」の解説は2ページ半に凝縮されており、その中には自らの著著の紹介も1/3ページほどあり、盛りだくさんの内容となっています。たった2ページ半にも満たない、不破さんのいう「第二一章」の「本論」で不破さんが解説していることは、マルクスが拡大再生産の順調な進行のために必要な条件として、Ⅰ(v+m)>Ⅱcという関係を発見したということだけです。そして、不破さんは、「この発見は、マルクスを大いに喜ばせたようで、その条件の重要性を、短い文章の中で言い方を換えながら四回もくりかえしたほどでした。」と自らの理解力のなさをマルクスにたいする罵倒で補っています。

 

マルクスが「第二一章」を通じて明らかにしたこと

 

 先ほどの復習になりますが、マルクスが「第二一章」を通じて明らかにしたのは、「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということ、つまり、資本主義的生産様式の社会において「資本」は大海原を走り続けるマグロのようにⅠ(v+m)>Ⅱcという関係のなかで走り続けなければならず、走り続けることによって生産と消費の矛盾は拡大し、それはなんらかの方法で調整されなければならないということです。

 

不破さんの、「マルクス自身がその誤りを認め」たというデマ

  不破さんの『資本論』解説は、『資本論』を解説することが目的ではなく、マルクスの科学的社会主義の思想を不破さんの考えにデフォルメすることが目的ですから、不破さんは、「『資本論』探究〈上〉」の「『資本論』第二部を読む」の「(10)書かれなかった恐慌論の内容を推理する」の「恐慌問題の「理論的叙述」」の「(3)恐慌の運動論」で、さんざんマルクスの論究内容についてデマを並べたあとで、「一八六五年に到達したのが」、「『流通時間の短縮』という運動形態の発見に始まる新しい運動論でした」と、不破さんが二一世紀になって発明した「恐慌の運動論」をマルクスの考えででもあるかのように言います。そして、不破さんが歪曲して創作したマルクスの考えを「マルクス自身がその誤りを認めて、放棄せざるを得なくなる」と言います。

 しかし、不破さんは「マルクス自身がその誤りを認め」たと言いながら、その証拠を示したことは一度もありません。当然です。不破さんに、無いものを、示せるはずなどありませんから。だから、私はデマというのです。 

 『資本論』第二部に関連して、「不破さんの反面教師『解説』」をまな板に載せてのマルクス・エンゲルスが発見した科学的社会主義の思想の復元作業はこれで終了です。

第三部へ続く

不破さんによって、『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想はどう変えられたのか、『資本論』第三部を中心にして、不破さんの「『資本論』探究」を軸に見て行きます。(その1)

 不破さんは、『資本論』「第三部」は「常識的な社会の見方そのもの」を述べたものだと、「第三部」の意義を理解していないことを告白し、「利潤率の傾向的低下の法則」の意義の無理解を武器に自作の「恐慌の運動論」のマルクスへの「転化」を試みます。

 不破さんは、「第五篇」をマルクスの「研究途上の考察」に仕立て上げ、自らのエセ「マルクス」理論を忍び込ませようとし、不破さんと対極にいるエンゲルスの編集を根拠も示さず誹謗します。

〈連載 その3〉は、『資本論』の第三部「第五篇」までとマルクス・エンゲルスの思想が不破さんの謬論の対極にあることを明らかにします。是非、お読み下さい。