5-1-1

資本主義的生産様式(賃金奴隷制)の改善の意義と限界を明らかにし、労働者党のたたかい方を示した

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──労働者の階級的自覚はどうすれば高まるのか──

 

はじめに

 ホームページ5-1「Ⅱ、マルクス・エンゲルスの考えの紹介」の「マルクスとエンゲルスの発見のポイント」で見るように、マルクスとエンゲルスは人間社会の発展法則を発見し、資本主義的生産様式の社会における搾取の仕組みを明らかにし、資本主義の矛盾を暴露しました。

 このマルクス・エンゲルスと彼らから深く学んだレーニンは、資本主義社会に生き資本主義社会を変革するためには〝どのようなたたかいが必要なのか〟という問いについて、共通の認識と共通の答えを持っていました。その共通の認識とは次のようなものです。

資本は労働者に顧慮をはらわない、だから社会的障害物をつくらなければならない

 

 「資本主義的生産様式」の「生産の直接的目的および(資本の)規定的動機」は剰余価値の生産です。だから、資本は、消費をあおり、価値実現(商品を売って貨幣資本に転化すること)のための協調と競争をおこないながら、利潤増大のためにはありとあらゆることを行ないますが、資本主義社会を維持し発展させるため以外は、社会全体の福祉の向上のために、何もしたがりません。資本にとって、労働者に必要最小限を超える顧慮をはらうことは、無駄な出費となるのです。

 だから、資本家に雇われる以外に生活のすべがない労働者階級が命と暮らしをまもるためには、獲得した成果を守り維持するための社会的障害物をつくらなければならず、資本家との一時的な約束では、常に、反故にされる可能性があります。社会的障害物をつくることは、資本主義社会で労働者階級が命と暮らしをまもるための必須条件です。

現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、労働者階級の終局的解放のためのてことしてその組織された力を使わないならば、それは全面的に失敗する

 

  マルクスとエンゲルスは『賃金、価格、利潤』ででも『資本論』ででも、その他のあらゆる著作の中ででも、機会あるごとに、資本主義社会での改良は一時的な成果をもたらすが資本主義制度を変えない限り本当に満足した結果は得られず、後退さえ余儀なくされることを指摘し、労働者階級の終局的解放の意義を強調し、労働者階級がその終局的解放のためのエネルギーを高めることを求め、終局的解放のためのてことしてその組織された力を使わないならば、それは全面的に失敗することを警告しています。

 そして、レーニンは、「…もちろん、革命家はけっして改良のための闘争を拒否しないだろうし、たとえ重要でない、部分的な敵の陣地であっても、もしその陣地が革命家の攻撃をつよめ、完全な勝利を容易にするなら、それを占領することを拒否しないだろう。だが、彼らはまた、敵自身が、攻撃者を分裂させていっそうたやすく粉砕するために、一定の陣地をゆずりわたすばあいもしばしばあることを、けっしてわすれないであろう。彼らは、「終局目標」をつねに念頭におき、「運動」の一歩一歩と改良の一つ一つを全般的な革命闘争の見地から評価してはじめて、運動が誤った歩みを取ったり、恥ずべき誤謬に陥らないように保障することができるということをけっしてわすれないであろう」(全集第五巻『ゼムストヴォの迫害者たちと自由主義のハンニバルたち』 P65)と言い、「カデットの勝利と労働者党の任務」(第10巻1906年3月28日、P262)では、小ブルジョア日和見主義者はつねに目さきの成果に、最新の趣好のはなばなしさに、「進歩」の一瞬間に満足するが、われわれはもっと遠く、ふかくを注目しなければならず、この「進歩」のなかに、退歩の基礎となったり、達成されたものの一面性、せまさ、不確かさを見なければならず、さらに闘争する必要を呼びおこすいろいろな面を、いますぐ、ただちに示さなければならないということを述べ、「終局目標」をつねに念頭に置いた、資本家に騙されない、「改良」「進歩」に対するマルクス主義的アプローチのしかたを教示しています。

労働者階級の終局的解放の意義を鮮明にしたたたかい方が労働者の社会変革への意識を高める

 

 レーニンは、1894年、24歳の時執筆した『「人民の友」とはなにか』(全集第一巻P302~303,311)で、①「向上」とか「改善」等々の、万能の一般的方策によって事態を改善できるかのように論じ、労働者を現状に反対してもっとも断固として行動することのできる人間としてだけ見るみかたと②社会・経済関係におけるブルジョアジーとプロレタリアートの敵対を明らかにし、労働者を新しい生産様式の社会をつくるための「唯一の戦士と見る」科学的社会主義のみかたがあることを述べ、①のような「素町人の思想的代表者」たちについて、彼らが「勤労者の利益の代表者として行動するとき、彼らの理論はまさしく反動的であ」り、「社会・経済関係における敵対をぬりかくす」ものであるとして痛烈に批判しています。

 そして、1894年末~1895年始めに執筆した『ナロードニキ主義の経済学的内容』(第一巻 P393~394)では、ブルジョア的改良は根本的解決ではないことを常に明らかにして、資本主義体制の廃止以外にその根本的解決はないことを表明し、そのために力を尽くすことが必要であり、上記②に基づく根本的解決に通じる「部分的改良」が、勤労者にたいして、彼らの状態の若干の改善をもたらしうるだけでなく、資本主義の廃止を促進するが故にその意義があることを明らかにしています。

 さらに、1899年8~9月に執筆した『 ロシア社会民主主義者の抗議』(第四巻P183~189 )では、階級闘争はかならず政治闘争と経済闘争とを結合しなければならない、という確信は、国際的な社会民主党の血となり肉となっていること。マルクス主義は政治の意義の過大視や陰謀主義、政治の軽視、政治を日和見主義的・改良主義的な社会的弥縫策に狭小化をしてはならないこと。そして、「(プロレタリアートの)党の主要な目標は、社会主義社会を組織するために、プロレタリアートに政治権力を奪取させることでなければならない」から、プロレタリアートの闘争の階級性をぼかし、なにか無意味な「社会の承認」といったような、支配階級によってつくられた常識に迎合する形でこの闘争を無力化し、革命的マルクス主義を狭小化して月なみの改良主義的潮流にかえようとする志向と闘わなければならないことを述べています。

 続けて、1906年6月28日付けの『エーホ』第六号(第11巻)では、改良は、ほかならぬ革命的な階級闘争によって、その自立性によって、その大衆的な実力によって、その頑強さによって、よぎなくされるものであることを述べ、自分のスローガンを改良主義的ブルジョアジーのスローガンと融合させるとき、それによってプロレタリアートの革命的意識の明確さをも、プロレタリアートの自立性をも、その戦闘能力をもよわめ、革命的階級の自立性、根気づよさ、勢力はよわめられ、革命の事業はよわめられ、したがってまた改良の事業もよわめらることを明らかにし、この改良の現実的な意義をわすれることは、マルクス主義を、自由主義的ブルジョアの進歩の哲学とおきかえることを意味するといいます。

 だから、科学的社会主義の党は、「革命的闘争の利益にとって無条件に有利で、プロレタリアートの自主性と自覚と戦闘力を無条件にたかめるような改良のスローガン」だけをかかげなければなりません。

 そして、1916年7月に執筆した『自決にかかする討論の総括』(第22巻P402~403)や1916年9月に執筆した『プロレタリア革命の軍事綱領』(第23巻P88~89)のなかで、改良主義的な改変とは、支配階級がその支配を維持しながら行う譲歩にすぎず、支配階級の権力の基礎を掘りくずすことのない改変であり、革命的改変とは、権力の基礎を掘りくずす改変であること。そして、改良は、だれでも知っているように、実践のうえではしばしば革命への一歩にほかならないこと。だから、改良の要求は改良主義的にではなく、革命的に定式化して大衆に示すことが必要であること。われわれが賛成する改良の綱領は、かならず日和見主義者にも鋒先を向けているような綱領でなければならないことを述べています。

 最後に、1919年7月14日執筆の『第三インタナショナルの任務について』(第29巻 P516)で、レーニンは、改良主義に対立する革命の見地から、改良と革命の差異を説明しながら宣伝煽動全体をおこなわなければならないこと、議会活動や、労働組合、協同組合その他の活動の一歩ごとに、理論的にも実践的にも、系統的にこの対立を大衆に説明しなければならないことを述べ、革命にそなえて党をも大衆をもたゆみなく教育しなければならないということを力説しています。

 ※これら、改良主義、改良と革命に関するレーニンの著作の抜粋については、ホームページ5「温故知新」→3「レーニンの考えの紹介」→「『レーニン全集』の中のレーニンの大切な考えの抜粋」→「C 各論」の〈8、経済闘争・政治闘争・理論闘争、改良と革命、修正主義・日和見主義との闘争〉の「8-1」、「8-2」、「8-4」、「8-8」、「8-12」、「8-13」、「8-24」、「8-26」を、是非、参照して下さい。

 このようにレーニンは、マルクス・エンゲルスの科学的社会主義の思想を掘り下げて、改良の要求が資本主義の矛盾を暴露し新しい生産様式の社会へ繫がるものとして提起されなければならないこと、そのように提起されることによって労働者の革命的意識も明確になり、自立性と戦闘能力も高まり、革命的階級の自立性、根気づよさ、勢力は拡大し、改良の事業も前進し、したがって革命の事業も前進することを明らかにしました。そういう意味で、レーニンは、改良を「プロレタリアートの革命的階級闘争の副次的な成果」であるといっています。

 だから、改良の要求を提起するときは、現在の資本主義の状況を正しく認識し、その改良の要求が新しい生産様式の社会でどのように生きるのかをしっかり理解し、労働者階級に明らかにしなければなりません。

 そのような観点から、現代日本の幾つかの問題を見てみたいと思います。

現代日本の幾つかの問題を例にとって、改良と革命を考えてみましょう

 

①施策の負担者について

 生活保護等福祉施策について、ブルジョアジーは施しものででもあるかのように考えていますが、これほど誤った認識はありません。

 資本主義的生産様式の社会は生産が社会化されており、労働者は生産手段を持たず企業で禄を食む以外に生きる術を持っていません。生産が社会化されている以上、生産された「モノ」も社会化されなければならないのに、資本主義的生産様式の社会は──生産関係がそこまで進まずに──生産手段が資本家の所有であるために、生産された「モノ」が資本家の所有になるという仕組みになっています。そのために、資本家には富が社会のものだという認識が微塵もありません。

 賃金以外に他のどのような生活手段も持たない労働者が健康で文化的な生活を行なうためにはそれに見合うだけの賃金が保障されなければなりませんし、働く条件がなく収入の途のない人たちにも労働者と同様に健康で文化的な生活を行なうことが可能な収入が保障されなければ生きていけません。しかし、そのための富は、資本主義的生産様式の社会では、社会化された生産に見合う分配システムをもった生産の仕方になっていないため、企業と資本家の懐に入る仕組みになっています。

 だから、これらの経費は富を横取りした企業と資本家が払わなければならないのです。科学的社会主義の党はそのことを国民にしっかり説明しなければ、自ら資本主義的生産様式の社会に閉じこもってしまうことになります。「科学的社会主義の党」が自ら資本主義的生産様式の社会に閉じこもってくれたら、資本家たちは笑うしかなく、国民は泣くしかありません。

 

②税の負担者について

 

 レーニンは、「スイス社会民主党内のツィンメルヴァルド左派の任務」(第23巻 P150~155 1916年10月末~11月初めに執筆)で税について、次のように述べています。

「10……社会民主党は、どんなばあいにも、どんな口実によっても、間接税に同意することはできない。……資本主義制度を維持したままで、すなわち大衆の貪困を永続させながら、ブルジョア政府がこんにちの苦境を切りぬけるのをたすけること──このことは、自由主義的官吏の任務であって、けっして革命的な社会民主党の任務ではない。

 11 社会民主主義者は、つぎの税率をくだらない高い高い累進税率による単一の連邦税としての財産税と所得税とが緊切に必要なことを、大衆にできるだけひろく宣伝しなければならない。(税率表略──青山) 

 12 社会民主党のなかの多数の日和見主義者もまたひろめているが、あたかも財産税と所得税の革命的に高い税率を宣伝することは「実際的でない」かのようにいうブルジョア的なうそと、社会民主主義者は容赦なくたたかわなければならない。それどころか、これは唯一の実際的な、唯一の社会民主主義的な政策である。なぜなら、第一に、われわれは、金持に「受けいれられる」ものに順応するのではなく、ある程度はほかならぬ社会民主党の改良主義的、日和見主義的性格のために、同党に冷淡な態度をとるか、あるいは不信の目でみている貧民と無産者の広範な大衆に訴えなければならないからである。第二に、ブルジョアジーに譲歩させる唯一の方法は、彼らとの「取引」にあるのでもなければ、彼らの利益または彼らの偏見への「順応」にあるのでもなく、彼らに対抗して、大衆の革命的勢力を準備することにあるからである、そしてわれわれが革命的に高い税率が正当であり、それをかちとるたたかいが必要であることを多くの人々に説得すればするほど、ブルジョアジーは、それだけ早く譲歩に応じるであろうし、またわれわれは、ブルジョアジーの完全な収奪をめざす不屈な闘争のために、たとえ小さな譲歩でも一つのこらず利用するであろう。」(注……線での表記の部分は青山が元文を省略したもの。)と。

 これらを踏まえ、税、特に消費税について見てみましょう。

 消費税は、(大)企業には一銭も税が掛からず、大金持ちの負担の少ない大衆課税で、政治と経済をOccupy(占拠)している大企業と大金持ちにとって、最高の素晴らしい税です。そして海外に資本と雇用を持ち出して海外で稼ぐグローバル資本にとっては、消費税で国民が苦しもうが経済が停滞しようが何処吹く風です。だから、財界(資本家団体)が提言し、財界から資金援助を受けている政治家が推進し、大企業等に天下り予定の官僚が案を作って、御用学者を使ってマスコミが消費税率の引き上げ等の大宣伝を行なうのです。その結果、新聞、テレビ等の世論調査でも、福祉の財源を何に求めるかのという問いに対し、消費税に求める声が多数を占めることとなります。

 国民は、このようにして、負担が増えるのはいやだけど仕方がないと思い込まされています。しかし、資本と大金持ちが労働者の作った富を横取りして、これらの資本主義社会の受益者である資本と大金持ちたちこそが負担すべきである税を、かれらに搾取されている労働者階級に負担させようというのが消費税で、国民にとっては許しがたい悪税です。だから、「消費税に頼らない別の道」などと、お人好しで呑気な表現などですますべき税ではありません。労働者階級の立場に立った、徹底的で、鮮明な主張がなされなければなりません。

 資本主義の矛盾と害悪を知りつくし、資本主義に変わる新しい生産様式の社会の実現を目指す科学的社会主義の思想を身につけた党ならば、「消費税に頼らない別の道」などと消費税に市民権を与えるようなことをいって、資本主義の基での「応能負担」の「原則」の問題に「消費税」を矮小化させてはなりません。

 労働者党は、「一貫して消費税廃止を主張してきた」というだけではダメです。なぜ消費税を廃止しなければならないのかを明らかにし、そして、なぜ社会福祉のための財源の負担を資本と資本家がすべきなのかを明確にした根源的(ラディカル)な主張を、国民が理解するまで、主張し続けなければなりません。労働者が負担しない正当性と、資本と資本家が負担すべき正当性を、ハッキリと主張しなければなりません。つまり、資本主義社会で暮らす労働者は、社会の富を生産している主役であるにも関わらず、最低限の労働力の再生産費しか資本から受け取っていないこと。だから、社会福祉のための財源の負担は資本と資本家がすべきであること。資本は労働者から横取りした利潤を拡大再生産と経営者報酬、株主への配当等に当てるだけでなく、社会福祉のための財源に使うべき義務があること。また、経営者、株主も労働者から横取りした利潤の一部を分配されているのだから、労働者福祉のために応分の負担をすべきであること。これらのことをはっきりと、何度でも、しっかり説明しなければなりません。バフェットたちがどうこう言っているなどといって、資本主義の基での「応能負担」にすがることによって問題を解決しようとするのは根本的に間違っています。

 なぜなら、労働者党は労働者が資本主義の真の姿を知り、階級意識を高めることを目的に常に活動しなければならないからであり、正義感に燃える青年や労働者は資本主義の真の姿を知り、その先にあるもの(プリウス)を理解したとき、労働者党の真の姿をも知り共通の目標を目指すことになります。そして、そのときはじめて、消費税を押し返し、葬り去るための確固たる足場が築かれます。

 

③国の進むべき道について

 

 日本の〝今〟をしっかり見て、日本の変革の途を正しく示すことが前衛党の責務です。

 日本は、グローバル資本が海外に資本と雇用を「輸出」することによって「産業の空洞化」が進み、国力が極端に落ち、今や、危機的な状況にあります。日本は、グローバル資本のこの行動を規制して、〝経済は社会のため国民のためにある〟という新しい生産様式の社会の方向に舵を切らなければ、衰退の一途を辿るだけです。科学的社会主義の思想を自らの信念としている政党は、危機感をもって、そのことを国民に率直に訴えなければなりません。

 しかし、残念ながら、科学的社会主義の思想の権化のような顔をしながら──客観的には──国民を科学的社会主義の思想から遠ざけることに日夜励んでいる人たちがいます。その人たちの考えを端的に現したのが次の文章です。

──資本主義世界でも異常な日本社会の状態を打開して、社会的バリケードをかちとり、「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の「肉体的および精神的再生」であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだということを強調して、講義を終わります。……『賃金、価格および利潤』を読む中で、この呼びかけのところまで現代的には行き着くのだなと思いました──

 この文章は、『前衛』(2013年12月号P99)の鼎談──それは、鼎談の参加者の一人である不破さんが行なった『賃金、価格、利潤』の講義の素晴らしさを褒め称えるための企画──で、その司会役である山口氏(不破さんの部下)が、不破さんを礼賛している文章の一部です。

 不破さんの、『賃金、価格、利潤』──ご承知のとおり『賃金、価格、利潤』は、マルクスが労働者階級にむかって賃金闘争の正当性を説明するとともに資本主義社会を変えるたたかいをしなければ労働者階級のたたかいは失敗することを述べ、労働者階級のたたかいの方向を示した秀逸な講演の記録です──を使ってのこの講義は、「どんな情勢の時でも賃金闘争で頑張らなければダメだという立場です」という「根性論」で始まり、上記のような「ルールある資本主義」への道で終わるという、とんでもない講義で、マルクスと『賃金、価格、利潤』に泥を塗りその価値を台無しにするものでした。

 この不破さんの「講義」なるものの犯罪的な点は、①グローバル資本の行動とその結果として産業の空洞化が進んだために、景気循環さえ起こせなくなってしまった「資本主義世界でも異常な日本社会の状態」という資本主義の矛盾をまったく暴露せず、②「『ルールある経済社会』(ルールある資本主義社会)へ道を開いてゆくこと」によって「日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる」ことができるという「資本主義発展論」(不破さんが二一世紀になって発見したもの)に立って、③いまの日本の危機の原因である生産手段の私的所有という生産様式のもとでのグローバル資本の国家と国民を棄てた行動を免罪しているところにあります。

 不破さんは、〝国民の新しい共同社会〟をつくるたたかいなしにはいまの日本の危機を克服することはできないという「現代的」課題を提起せず、「ルールある資本主義社会」に労働者階級や若者を閉じ込め、変革のエネルギーを消失させようとします。そのための不破さんの長年の努力の結果、1970年代には多くの若者を引きつけ、元気だった共産党は、不破さんによってその遺産は食いつぶされ、このお先真っ暗な日本で、若者の多くが自民党を支持するという、異常な状態が作りだされています。

 ※不破さんが二一世紀になって発見した「資本主義発展論」の詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を参照して下さい。

結び……マルクス・エンゲルス・レーニンの意志を受け継ぐ

 

 安倍政権は、ジャブジャブの金融緩和と財政出動、それに抽象的な「規制緩和」と蜃気楼のような「新しいビジネス」の発見に期待をかけた「成長戦略」という三本の矢を放ちましたが、金融緩和と財政出動は〝後は野となれ山となれ〟式の無責任な「政策」で、「成長戦略」も何の成果も得られませんでした。それにもかかわらず、安倍政権は、世界経済の好調さに救われ、マスコミを通じてうまくいっているかのように御用学者が喧伝することによって、驚異的な長期政権となりました。しかし、突然襲ったコロナは、自民党という政党がまったく実行力のない口先だけの政党であることを白日の下にさらすこととなりました。

 しっかり説明すれば、国民にとって大変わかりやすい状況が出来つつあります。

 マルクス・エンゲルス・レーニンが口を酸っぱくして私たちに教えている〝労働者階級の終局的解放の意義を鮮明にしたたたかい方によって、労働者階級の社会変革への意識が高まる〟ことを肝に銘じ、今ある日本の現実──グローバル資本の支配によって「産業の空洞化」が行なわれた事実──を凝視して資本主義の矛盾──「産業の空洞化」が労使の力関係を変え、労働条件を変え、社会保障を脆弱にさせ、年金等社会保障制度全般の劣化による高齢化社会の危機をもたらし、「好景気」の時ですら労働者の生活の改善が図れない現実等──を暴露し、新しい生産様式の社会を展望する旗幟鮮明な考え──グローバル資本の支配から解放された国民のための経済のあり方──を提示して、それを徹底的に拡めるならば、多くの若者と労働者の心を動かし、科学的社会主義の思想が現実を動かす物質的な力となることができます。

 自ら作った壁──資本主義制度の防護壁──を打ち砕くことのできない改良主義者には、労働者階級によって「収奪者が収奪される」過程を、たっぷりと、見せてあげようではありませんか。

 これこそが、マルクス・エンゲルス・レーニンの意志を受け継ぐ者の務めではないでしょうか。

 なお、最後に、今(2021年7月現在)膨張し続けているバブルがはじけたとき、産業が空洞化した日本は一層大きな痛手を負うことを付記しておきます。