4-16

☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。

目次

1、不破さんのエンゲルスとレーニンに対する中傷と「未来社会」のオリジナル思想
2、マルクスが『ゴータ綱領批判』で言った「過渡期」とは
3、マルクス・エンゲルス・レーニンの〝革命の展望〟と現代日本の〝革命の展望〟を、ごく大雑把に、見てみよう
4、マルクス・エンゲルスのいう「政治的な一過渡期」と未来社会についての大雑把な整理
  ①マルクスの言う「政治的な一過渡期」と「資本主義から社会主義への過渡期の社会」
 ②いわゆる「社会主義社会」とは
 ③いわゆる「共産主義社会」とは
5、不破さんの言う「過渡期」とは
6、不破さんの『フランスにおける内乱』にみる空想
7、マルクスとエンゲルスは新しい社会はどのように実現されると考えたか
8、マルクスとエンゲルスは「自由の国」と「必然性の国」をどう捉え、不破氏はどう創作したか
9、唯物史観もヘチマもない不破さんの「社会発展」論
10、レーニンは新しい社会をどう作ろうとしたか、不破さんも謙虚に学ぶべきではないのか
 〈革命前の1916年8月から1922年1月までのレーニンの著作で確認してみよう〉
 ①革命前、1916年8月、社会主義への道の多様性と社会主義の多様性について
 ②ロシア革命のまえ、1916年8月、社会主義革命にとって欠くことのできない民主主義
 ③革命半年後、『ソヴェト権力の当面の任務』の草案
 ④『ソヴェト権力の当面の任務』(1918年3~4月に執筆)からの抜粋
 ⑤1919年1月、労働組合第二回全ロシア大会でのレーニンの報告
 ⑥1919年6月、住民の慣習となっている古風な遺制については…
 ⑦1919年7月、新しい芽生え、悪循環をたちきる力、社会主義を勝利させる高い…
 ⑧1920年10月、青年同盟へ
 ⑨1921年1月、コンミューンについて
 ⑩1921年5月、官僚主義との闘争には、
 ⑪1922年1月、新経済政策の諸条件のもとでの労働組合のへ
11、『国家と革命』から「過渡期」と「未来社会」を見るとマルクス・エンゲルス・レーニンと不破さんとの違いがハッキリする
12、日本共産党には、自らのあり方を見直すことのできる民主的な制度とそれを支える科学的社会主義の思想を持った党員が必要だ
 ①不破さんは、ほんとうに何か「発見」し、鼎談参加者はそれを理解したのか
 ②日本共産党の民主主義の欠如・党員の知識の欠如
13、『国家と革命』は、何のためになぜ書かれたか

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 不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと事実をねじ曲げる。

そして、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆく」という不破さんの作った仰天思想が、『国家と革命』と『空想から科学へ』では述べられていないから、「マルクスの未来社会像の核心」を欠いているといって非難する。このような、事実の否定と誹謗中傷は、不破さんが科学的社会主義の思想とは縁遠い存在であることを曝露している。

1.不破さんのエンゲルスとレーニンに対する中傷と、「未来社会」のオリジナル思想

 不破さんは、『前衛』No904(2014年1月号)の「『古典教室』第2巻(第三課エンゲルス『空想から科学へ』)を語る」という山口富男氏と石川先生との鼎談で、「簡単にいうと、エンゲルスは、ここでは過渡期論を抜きにして語っていると思います。だから、『国有化』で生産手段の社会化を実現する話から、その国家が死滅するという話にすぐ行くのですね。」(P111)と述べ、P116では「レーニンが『国家と革命』で示した未来社会の定式というのは、結局、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです。」と揶揄したあと、「人間の全面的な発達が保障される社会ということが、マルクスの未来社会像の核心にあるのです。私が『空想から科学へ』で〝飛んでいる〟点があるといった二つ目は、この問題でした。」とエンゲルスの足りない点を非難し、『国家と革命』と『空想から科学へ』が「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると、欠陥を指摘しています。そして最後に行き着く結論が、「資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、こうして、人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう」、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」と、マルクスが発見した科学的社会主義の思想を乗り越えて、「桎梏」論なみの仰天思想を披露しています。なお、この不破さんのオリジナル思想は『前衛』2015年4-5月号で一層深化します。ホームページ4-20「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった。」を参照して下さい。
 なお、不破さんたちは、「未来社会」や「社会主義社会」や「共産主義社会」という言葉を定義せずに乱用しているので、この鼎談で言われている「過渡期」が『ゴータ綱領批判』で言われている「政治的な一過渡期」のことなのか、「資本主義社会」から「生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階」=「社会主義社会」までのことなのか、「資本主義社会」から「発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階」=「共産主義社会」までの「過渡期」のことなのか、また、「未来社会」が「資本主義社会」に直結している「社会」なのか、「発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階」のことなのか、きわめて不明確なので、不破さんたちの論旨にあわせてその都度判断して、真実を追求していきたいと思います。

2.マルクスが『ゴータ綱領批判』で言った「過渡期」とは

 まずはじめに、不破さんは『前衛』(No904)P113で、「マルクスが『過渡期』という言葉を使った最初の文章」として『ゴータ綱領批判』をあげていますが、『ゴータ綱領批判』でマルクスがどのような文脈のなかで「過渡期」という言葉を使ったのか見てみましょう。
  「資本主義社会と共産主義社会のあいだには、前者から後者への革命的な転化の時期がある。この時期に照応してまた政治的な一過渡期がある。この過渡期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない。」(岩波文庫P53)
 この文章は、資本主義社会から共産主義社会への「革命的な転化の時期」には、政治権力の確立期としての「政治的な一過渡期」があり、この過渡期の国家は、必然的にプロレタリアートの「革命的独裁」の国家になることを述べたものです。より詳細な論究は「4.マルクス・エンゲルスのいう「政治的な一過渡期」と未来社会についての大雑把な整理」の中で行います。
 なお、この文章中の「共産主義社会」とは、「生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階」を意味しているものと思われます。

3.マルクス・エンゲルス・レーニンの〝革命の展望〟と現代日本の〝革命の展望〟を、ごく大雑把に、見てみよう

 あとで詳しく述べますが、不破さんの言う「過渡期」とマルクスが『ゴータ綱領批判』で述べている「政治的な一過渡期」とでは意味するところがだいぶ異なっています。また、マルクス・エンゲルスが当時考えていた〝革命の展望〟とレーニンが考えていた〝革命の展望〟とでは、マルクス・エンゲルスの生きた時代の社会の発展度合いとロシアの社会の発展度合いの違い等から異なるものとなり、現代日本の〝革命の展望〟とも異なり、不破さんの言う「過渡期」の意味あいも変わってきます。
 まずはじめに、マルクス・エンゲルス・レーニンの〝革命の展望〟と現代日本の〝革命の展望〟を、ごく大雑把に、見てみましょう。
 マルクスとエンゲルスは、『資本論』で、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月② P995F6-9)と述べ、資本主義が「独占」段階になると、資本主義的生産様式が社会発展の「桎梏」になり、社会革命が起きると考え、マルクスは『ゴータ綱領批判』で、この資本主義社会から共産主義社会への社会革命の「革命的な転化の時期」に照応しする「政治的な一過渡期」があることをのべ、この「過渡期」の国家の特徴を「プロレタリアートの革命的独裁」と規定しました。
  マルクス・エンゲルスから科学的社会主義の思想の真髄を学んだレーニンは、ツァリーの支配する資本主義の遅れたロシアでは、〝革命〟は資本主義を開花させる民主主義革命を経て社会主義革命へと進むと考えていました。(この考えは、「新しい人民の民主主義革命」のアイデアとして日本共産党の綱領に大きな影響を及ぼしたと思います。)しかし、ロシア革命は、革命の中で労働者階級と貧農が革命の主導権をにぎり、ボルシェヴィキの思想が強まり、社会主義を指向するものとなり、革命後の国家は、レーニンの表現によれば、「資本主義から社会主義への移行をなしとげつつある国家」となり、「資本主義から社会主義への過渡期」の「プロレタリア国家」となりました。だから、レーニンが革命後に述べていることは、「資本主義から社会主義への過渡期」の政策です。
  そして、日本革命の展望は、「産業の空洞化」から日本を救う〝民主主義革命〟が平和的に行われる場合は、一定期間の民主権力の確立期(「うまれつつある共産主義社会」の時期)を経て、「生まれたばかりの共産主義社会」から「発展した共産主義社会」へと進んでいくものと思われます。そして、不幸にして革命が非平和的に移行した場合は、政権の階級的性格は強まり、一層社会主義を指向するものとなるとともにその技術的・文化的基礎も十分に整っているため、革命が平和的に移行した場合よりも「うまれつつある共産主義社会」の期間を短縮させる可能性が高いものと考えられます。
 これらの前提に立って、マルクス・エンゲルスのいう「政治的な一過渡期」と未来社会について、大雑把な整理をしてみましょう。

4.マルクス・エンゲルスのいう「政治的な一過渡期」と未来社会についての大雑把な整理

 不破さんの「過渡期」論とお付き合いし、議論が混乱しないようにするために、マルクス・エンゲルス・レーニンの論述と現代までの歴史的経験をふまえ、「社会」の区分を「民主社会への革命期の社会」「民主主義の確立期の社会」「社会主義社会」および「共産主義社会」という区分に便宜的に分け、私たちの共通認識として以下の通り確認したいと思います。


①「民主社会への革命期の社会」=「政治的な一過渡期の社会」とは
 マルクスは『ゴータ綱領批判』で、「資本主義社会と共産主義社会のあいだには、前者から後者への革命的な転化の時期がある。この時期に照応してまた政治的な一過渡期がある。この過渡期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない。」(P53)と述べています。マルクスは『フランスにおける内乱』の第一草稿でも、コミューンの組織が全国に確立されると資本家(賃金奴隷の所有者)は反乱を起こすだろうが、それを鎮圧することによって、「労働の経済的解放」の運動は加速するだろうということを述べていますが、私は『ゴータ綱領批判』のこの文章における「政治的な一過渡期」とは、革命が非平和的形態に移行した場合の、労働者階級が政治権力をにぎり、旧支配階級とたたかいながら、反革命を鎮圧し、銀行や独占資本を社会的所有にし、「社会主義社会」づくりの経済的基礎を築く政治的な努力をおこなう、非常事態における「革命的独裁」の比較的短期の期間を意味しているものと理解しています。
 なぜなら、この文章は、資本主義社会の「革命的な転化の時期」のプロレタリアートの「革命的独裁」の時期のことを述べるとともに、当時のドイツが「ブルジョアジーの影響下にありながら官僚制的に組み立てられ警察に守られた軍事的専制政治以外のなにものでもないような国家」であり、民主的な要求を「『合法的手段によって』国家に強制できるなどと勘ちがい」(P54-55)してはならない国家である点等を指摘しているからです。
 私はこのように考えていますが、そのような『ゴータ綱領批判』における「政治的な一過渡期の社会」についての理解が、すべての読者のみなさんの認識と一致しているとは限りませんので、無用な混乱をあたえることのないよう、この非常事態における「革命的独裁」の比較的短期の期間を「民主社会への革命期の社会」と呼ぶことにします。


②「民主主義の確立期の社会」=「資本主義から社会主義への過渡期の社会」とは
 「経済的にも道徳的にも精神的にも資本主義社会」の一部が保持されている社会で、革命が非平和的に進行した場合は、反革命の鎮圧とともに銀行や独占資本は社会的所有に移され、「社会主義社会」づくりの経済的基礎が築かれた状態から「民主主義の確立期の社会」はスタートします。そして、革命が非平和的に移行した場合は、「民主権力」の確立後に〝by the people〟の思想にもとづく、真の〝民主主義〟が一定の時間を経るなかで実現されますが、革命が幸いにして平和的に推移する場合は、労働者階級の政治権力の確立の程度、労働者階級を中心とする勢力の民主的団結の程度にしたがって、資本主義的生産関係の社会主義的生産関係への移行(銀行や独占資本の社会的所有への移行)が進展し、その移行は比較的長期間を要しますが、国家の全人民による民主的管理も同時進行で前進するものと思われます。
 先進資本主義国で銀行・独占資本を社会的所有に移すことは「理論的」には容易であり、「独占資本」が経済的に支配している社会を「社会主義社会」に変えるための技術的な基盤も労働の組織のしかたもほぼ整っていますが、革命の進行のしかたと民意の発展度合いによって「民主主義の確立期の社会」の期間は大きく変化するものと考えられます。
 「政治的な一過渡期」を経て「労働の経済的解放」の運動が政治的に勝利しても、「経済的にも道徳的にも精神的にも資本主義社会」の一部は保持され、それを克服するための「資本主義から社会主義への過渡期の社会」が必要となります。だから、レーニンはロシア革命後、「資本主義から社会主義への過渡期の国家」の建設のために尽力しました。しかし、残念ながら、道半ばで病に倒れてしまいました。
 この時期は、労働者階級を中心とする民主権力の確立期であり、日本共産党の日本革命の展望における民主主義革命の時期であり、マルクス・エンゲルス風に言えば、「うまれつつある共産主義社会」の時期です。政治的には、資本主義社会が資本家の階級的独裁の国家であるのの対し、プロレタリアートを中心とする民主連合勢力の独裁政権の時期です。
 「国家」は「社会の下に従属する」人民政府の「単純な機関」への道を歩み始めます。
 なお、マルクスとエンゲルスは「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」(『ゴータ綱領批判』)と言っていますので、プロレタリアートの階級的独裁のもとでの「民主主義的共和制」の国家=「資本主義から社会主義への過渡期の社会」も「生まれたばかりの共産主義社会」と見ていたのではないかと思います。


③「社会主義社会」=「生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階の社会」とは
  いわゆる「社会主義社会」とは、「生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階」の社会で、「経済的にも道徳的にも精神的にも、それが生まれてきた母胎である古い社会の母斑をまだ身につけている。それゆえ、個々の生産者は、彼が社会にあたえたのときっかり同じだけのものを──あの諸控除をすませたあと──とりもどすのである。」(『ゴータ綱領批判』岩波文庫P35)という社会で、能力に応じて働き、労働に応じて受けとる社会です。
 この、生産力の一層の発展が図られ、社会的所有にもとづく社会的生産を基礎にした新しい道徳と精神構造が形成されていく過程の社会は、「民主主義の確立期の社会」=「資本主義から社会主義への過渡期の社会」が必要とする「期間」よりも一層長期の「期間」を要するかもしれません。
 資本主義の経済的条件が消滅し、階級差異が消滅するなかで、プロレタリアートの階級的独裁(プロレタリアートのヘゲモニーのもとでの民主連合独裁)も消滅していきます。
 「国家」は「社会の下に従属する」人民政府の「単純な機関」への道を歩み続けます。


④「共産主義社会」=「発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階の社会」とは
  いわゆる「共産主義社会」とは、「社会主義社会」を経て、「ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書く」、「各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」という社会です。それは、「諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち」の社会です。
 それは、不破さんが理想とする「指揮者はいるが支配者はいない」という「分業」に「奴隷的に従属する」社会を超えた社会です。そのとき国家は消滅する。これが「共産主義社会」です。
  これが、マルクス・エンゲルスのいう「政治的な一過渡期」から「共産主義社会」までと不破さんの言う「未来社会」等について、私がおこなった、大まかな「社会」の分け方・大雑把な整理です。

5.不破さんの言う「過渡期」とは

  不破さんの言う「過渡期」とは、どのようなものか、『前衛』(No904)から見てみましょう。
  P111で不破さんは、エンゲルスは、「過渡期論を抜きにして語っている」から、「生産手段の社会化を実現する話から、その国家が死滅するという話しにすぐ行く」といい、P112で「『過渡期』が飛んで、国有化からすぐ『国家の死滅』の話に移ってしまう」といいます。ここで不破さんの言う抜けている「過渡期」とは、「民主主義の確立期の社会」と「社会主義社会」です。
 そして、P113で、不破さんは、マルクスの『フランスにおける内乱』の第一草稿をもとに、「自由な生産者の連合という、生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく。この時期を卒業して初めて、資本主義から社会主義への過渡期が終わったと言える、これが、この時、マルクスが到達した『過渡期』論の大事な内容があったのでした」と述べ、そのためにマルクスは「環境と人間をつくりかえる一連の歴史的過程」が必要だと『フランスにおける内乱』でいっていると言い、同じP113で、「四年後(『フランスにおける内乱』の四年後──青山の注)に書いた『ゴータ綱領批判』(1875年)では、資本主義社会から共産主義社会への転化に必要な歴史的時期を『過渡期』という言葉で表現しました。これが、マルクスが『過渡期』という言葉を使った最初の文章でした。」とも述べています。
 し、不破さんのこれらの文章ほど、不破さんの「過渡期」論がいかに混乱したものであるか、そして、混乱の中でいかに私たちを不破さんの創作の世界へ導こうとするものであるかを示すものはありません。
 先に私は『ゴータ綱領批判』の当該部分について、資本主義社会の「革命的な転化の時期」、「政治的な一過渡期」の「過渡期の国家」がプロレタリアートの「革命的独裁」の国家であることが述べていることを申し上げましたが、ここでマルクスが述べているのは「国家制度」の話であって、「自由な生産者の連合という、生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」話ではありません。
 また、次節の「不破さんの『フランスにおける内乱』にみる空想」で『フランスにおける内乱』の第一草稿の要約を紹介していますが、不破さんの上記の文章は、そのうちの「(2)」と「(4)」を根拠に書かれたものと思われますが、ここでも、「自由な生産者の連合という、生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」話などまったく出てきません。「(2)」と「(4)」でマルクスは何を言っているのか、簡単に紹介します。
 「(2)」の要旨は次のとおりで、「資本主義から社会主義への過渡期」について述べたものです。
 (2)資本主義社会を「共産主義社会」に置き換えるには時間がかかる。そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならない。
 「(4)」の要旨は次のとおりで、いわゆる「社会主義社会」から「共産主義社会」への移行について述べたものです。
 (4)現在の資本主義社会で自然に見えているものが「共産主義社会」で自然に見えてるものにおきかわるためには、そう見えるようになるための様々な条件が成熟し整わなければならない。そのための長い過程が必要である。それは、奴隷制社会や農奴制社会が新しい社会に代わっていったときそうであったように。そのことをパリの労働者階級は知っている。
 これらの文章にも、「自由な生産者の連合という、生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」話など出てきません。
 しかし不破さんは、資本主義的生産関係から解放された「対等な人と人との関係をつくりだす」という「社会主義社会」での「人と人との関係」を、「生産現場での人間関係の新しい体制」に変形させ、「自由な生産者の連合」という「共産主義社会」の「人と人との関係」とも混同させて、この「生産現場での人間関係の新しい体制」をつくることが「資本主義から社会主義への過渡期」論で、「マルクスが到達した『過渡期』論の大事な内容」だと言います。このように、自ら生みだした「生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」という「過渡期」論が「マルクスが到達した『過渡期』論」に格上げされ、神聖化されてしまいます。
 それから、ちょっと蛇足になりますが、不破さんは、マルクスが『ゴータ綱領批判』で「政治的な一過渡期」、「過渡期の国家」と〝過渡期〟に関して述べており、『フランスにおける内乱』の第一草稿で「資本主義社会」から「社会主義社会」、「社会主義社会」から「共産主義社会」への移行に係ることを述べていることから、この二つの文章を「過渡期」に関する共通の文章に仕立てあげます。これは、不破さんの使う〝だまし〟のテクニックの一つで、同じように、レーニンの『哲学ノート』と『カール・マルクス』に「何十億回となくくりかえされる」という言葉があることから、とんでもないことを思いつきます。だまされてはいけません。詳しくは、4-12「☆不破哲三氏によるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲」をご覧下さい。
  このような事情なので、マルクス・エンゲルス・レーニンが、「生産現場での人間関係の新しい体制」をつくることが「資本主義から社会主義への過渡期」論であるという不破さんの言う「過渡期」など、持ち合わせていなかったわけですが、「民主主義の確立期の社会」と「社会主義社会」について、マルクス・エンゲルス・レーニンがどのように考えていたのか、不破さんの謬論からマルクス・エンゲルス・レーニンを擁護し、科学的社会主義の思想を擁護する論究をおこないたいと思います。

6.不破さんの『フランスにおける内乱』にみる空想

 マルクス・エンゲルス・レーニンは、「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」が「過渡期」の仕事などとは考えていませんでしたが、前節でふれたように、『フランスにおける内乱』の第一草稿で、マルクスが「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」が「過渡期」の仕事とでも言ったかのような文章がありますので、これは不破さんの全くの空想の産物ですが、不破さんの「未来社会論」、組織論、人間に対する見方の基礎をなす考えなので、ここで見ておきます。
 マルクスは『フランスにおける内乱』の第一草稿で何を言っているのか、不破さんが『前衛』の2015年5月号で第一草稿の文章を(1)から(5)に分けて掲載しているので、その区分に沿って、内容を要約して紹介します。
(1)コミューンの組織が全国に確立されると資本家(賃金奴隷の所有者)は反乱を起こすだろうが、それを鎮圧することによって、「労働の経済的解放」の運動は加速するだろう。
(2)資本主義社会を「共産主義社会」に置き換えるには時間がかかる。そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならない。
(3)この資本主義的生産関係を社会主義的生産関係に刷新する仕事、「共産主義社会」をつくる仕事は、既得の権益や階級的利己心の諸々の抵抗によって再三再四妨げられ、多くの困難にあうことを、パリの労働者階級は知っている。
(4)現在の資本主義社会で自然に見えているものが「共産主義社会」で自然に見えてるものにおきかわるためには、そう見えるようになるための様々な条件が成熟し整わなければならない。そのための長い過程が必要である。それは、奴隷制社会や農奴制社会が新しい社会に代わっていったときそうであったように。そのことをパリの労働者階級は知っている。
(5)このように、「共産主義社会」への道のりは長いが、労働者階級の政府であるコミューンをにぎった労働者は、コミューンが「労働の経済的解放」のための巨大な進歩、つまり、資本主義的生産関係からの解放を一挙に実現できること、そしてその時期がきていることを学んだ。


 不破さんは、マルクスが(2)で「奴隷制のかせから」「救いだす」と言っていることの意味は「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」だと言い、それが「過渡期」の仕事だとでもマルクスが言っいるかのように言います。
 (2)でマルクスは何を言い、「奴隷制のかせ」とは何か、ちょっと長くなりますが、(2)の原文を、『前衛』から転載します。なお、分かりやすいように若干補筆しました。
 (2)「労働者階級は、彼らが階級闘争のさまざまな局面を経過しなければならないことを知っている。労働の奴隷制の経済的諸条件(資本主義的生産様式のこと──青山注)を、自由な結合的な労働の諸条件(共産主義的生産様式のこと──青山注)におきかえることは、時間を要する漸進的な仕事でしかありえないこと(その経済的変換)、そのためには、分配の変更(資本主義的生産関係が生みだす資本主義的分配の変更のこと──青山注)だけでなく、生産の(社会主義的な──青山加筆)新しい組織が必要であること、言い換えれば、現在の組織された労働という形での社会的諸形態(資本主義的生産関係のもとでの社会的労働のこと──青山注)(現在の工業によってつくりだされた)を、(資本主義の賃金──青山加筆)奴隷制のかせから、その現在の階級的性格から救いだす(解放する)ことが必要であり、(労働者階級の──青山加筆)国内的にも国際的にも調和のとれた対等関係をつくりだすことが必要であることを、彼らは知っている」。
 この文章を、私は先に、「資本主義社会を『共産主義社会』に置き換えるには時間がかかる。そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならない」と要約しました。
 文脈から見ても、「分配の変更」だけでなく「現在の組織された労働という形での社会的諸形態」を変え、「現在の階級的性格から救いだす(解放する)」とは資本主義的生産関係から解放することであり、「奴隷制のかせ」とは資本主義社会において労働者が賃金奴隷制に縛られて生存しなければならない状態をあらわしていることはあきらかです。
  つまり、社会主義社会を作っていくためには、社会を社会主義的生産様式に変えるためには、資本主義的分配を社会主義的分配に変えるとともに労働を真の社会的労働に変えて──一人は万人のために、万人は一人のために──の労働の組織にしなければならないということをマルクスは言っているのです。
  そして、マルクスは『ゴータ綱領批判』でも、同様に、次のように述べています。
「いわゆる分配について大さわぎをしてそれに主たる力点をおくことは、なんといっても誤りであった。
 どんなばあいにも、消費諸手段の分配は生産諸条件の分配そのものの結果にすぎないのであって、生産様式そのもののひとつの特徴をなすのは生産諸条件の分配のほうである。たとえば資本主義的生産様式の基礎は、物象的な生産諸条件が資本所有と土地所有という形態で働かざる者たちに分配されている一方、大衆は人格的な生産条件つまり労働力の所有者でしかない、ということにある。生産の諸要素がこのように分配されているからこそ、消費手段の今日のような分配方式がおのずからうまれているのである。」(マルクス『ゴータ綱領批判』(ドイツ労働者党綱領評注)岩波文庫P39-40)と。
 ここでもマルクスは、「分配」だけではだめだ、「生産諸条件」を変えることがかんじんなんだということを言っています。(2)の文章は、そのことを言っているのです。
  そしてマルクスは、『ゴータ綱領批判』で資本主義的生産様式のもとでの「賃労働制度とはひとつの奴隷制度」(P47)であることを述べています。これらを踏まえて考えれば、「奴隷制のかせ」とは資本主義社会において労働者が賃金奴隷制に縛られて生存しなければならない状態をあらわしていることはあきらかで、「奴隷制のかせ」からの解放が「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」など意味していないことは明らかで、上記の(1)~(5)を見れば分かるように、「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」が「過渡期」の仕事ででもあるかのような内容など、この草稿のどこにも出てきません。
 ですから、みなさんは、是非、不破さんの言っていることを信じるまえに、必ず原典にあたる習慣をつけるようにしてください。この節及び前節についての詳しい内容は4-20「☆社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。
  さて、話を、不破さんの言う「過渡期」論に関して、不破さんのマルクス・エンゲルス・レーニンに対する誹謗と中傷に戻しましょう。

 

 

ちょっと、

ひと休み。

マルクスとエンゲルスは「1845年以来」、当然ながら、不破さんの言う「過渡期」があることを言い続けており、それは「必然の国」から「自由の国」への跳躍の期間のことです。そして、「自由の国」とは、不破さんが創作した「自由な時間」ではなく、国家のない社会、いわゆる「共産主義社会」のことです。この「自由の国」への跳躍のために必要なのは「土台」の発展とそれを促進する「上部構造」であり、「土台」抜きの「上部構造」は、不破さんの頭の中の産物で、社会発展の推進力にはなりえません。このような認識を前提に、「自由の国」への跳躍のために何が必要か、最も真剣に考え実践したのがレーニンです。不破さんは科学的社会主義の思想を個人の「自由な時間」の問題に還元し、資本主義的生産様式を社会主義的生産様式に変える問題を「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」の問題に矮小化し、科学的社会主義の道を歩もうとする人たちに混乱をふりまいています。

7.マルクスとエンゲルスは新しい社会はどのように実現されると考えたか

 不破さんは、「だから、「国有化」で生産手段の社会化を実現する話から、その国家が死滅するという話にすぐ行くのですね」と述べ、『空想から科学へ』で詳しく「過渡期」について述べていないだけでなく、エンゲルスが「過渡期論」をもっていなかったと言います。
 不破さんの言う「過渡期」論とマルクス・エンゲルスが到達した「過渡期」論とでは、雲泥の差がありますが、不破さんの言う「過渡期」を「民主主義の確立期の社会」と「社会主義社会」と捉え、資本主義社会が倒されて、生産の社会化が進み、民主主義がますます徹底され、生産が飛躍的に拡大し、民主主義そのものが不要になり、国家が死滅するまでの期間のことと捉えて、論究して行きたいと思います。
 マルクスは「僕が新しくやった」三つのことで有名なヴァイデマイヤーあての手紙(1852年3月5日)の三つ目として、プロレタリアートの独裁の時期が無階級社会への通過点=「過渡期」であること述べ、エンゲルスもフィリップ・ヴァン・パッテンあての手紙(1883年4月18日)でマルクスとエンゲルスがプロレタリア革命の後「国家」が「漸次的に解体し、最後には消滅する」という見解を「1845年以来もちつづけてきた」ことを述べています。このように、マルクスとエンゲルスは「1845年以来」ずっと、過渡期があることを言明しています。
 だから、不破さんの「『国有化』で生産手段の社会化を実現する話から、その国家が死滅するという話にすぐ行くのですね」という言葉は、真っ赤なウソです。
 なお、不破さんは『国家と革命』について、「生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです」と、同様なウソをならべていますが、その『国家と革命』で、レーニンはエンゲルスを援用して「過渡期」と「未来社会」を展望しています。後述の「11.『国家と革命』から「過渡期」と「未来社会」を見るとマルクス・エンゲルス・レーニンと不破さんとの違いがハッキリする」をご覧下さい。

8.マルクスとエンゲルスは「自由の国」と「必然性の国」をどう捉え、不破氏はどう創作したか

 マルクス主義者は「国家という組織された政治権力を手に入れ、その助けを借りて…社会を新しく組織」します(フィリップ・ヴァン・パッテンあてのエンゲルスの手紙 1883.4.18)。どう組織するのか。それは、『資本論』第3巻 第2分冊(大月版 ⑤ P1049-1051)と『空想から科学へ』のP72と75で述べられているような「必然の国」を組織することです。マルクス主義者がこの時点で描ける「過渡期」はここまでです。ここから先はユートピアで、観念論者の仕事です。
 マルクスは「共産主義社会」とそれ以前の社会について、〝自由の国〟と〝必然性の国〟と表現し、次のように述べています。不破さんが、日本共産党の方針を歪めるための自己の主張の支援材料にするために、意味をねつ造している部分なので、趣旨全体がつかめる程度の長さを抜粋します。
  「……しかしまた、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行なわれるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」〈『資本論』第3巻 第2分冊 大月版 ⑤ P1050B3-1051B6〉
  要約すると、「物(富)がどれだけ生産されるかは生産性の高さにかかっており、生産設備等の進歩にかかっている。「自由の国」は強制されてはたらく必要がなくなったときに、はじめて始まる。つまり、それは、当然のこととして、遠い将来のことである。未開人も文明人も自然と格闘しなければならない。この「自然必然の国」は社会の発展につれて拡大する。この「自然必然の国」での「自由」とは、盲目的な力に支配されていた生産が計画的、意識的におこなわれるようになり、共同的統制のもとに置かれることである。しかし、この「自由」を獲得した社会主義社会もまだ「必然性の国」である。この国のかなたで、強制的な労働のない、自分の人間的な能力の発展のみを追求する真の「自由の国」が始まる。しかし、それは、社会主義社会という「必然の国」を基礎として、その上にのみ花開くことができる。そのための根本条件は労働日の短縮、つまり、生産性の向上である。」というこをマルクスは言っている。
 エンゲルスも『空想から科学へ』のP72と75で、『資本論』のこの部分よりも1ページ先の部分を含めて基本的に同じ内容を述べている。ただし、エンゲルスは、ここでは、「必然の王国から自由の王国への人間の飛躍」の時期である社会主義社会までを述べ、「自由の王国」の内容については述べていない。
 しかし、「自由の王国」の内容について、エンゲルスはP71で、次のように述べている。
 「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保する」と。
 つまり、ここでも、不破氏の推測に反して、エンゲルスはマルクスと緊密な意思疎通を図りながら、思想的一体感をもって、科学的社会主義の事業の前進のために力を尽くしていたのです。「過渡期」論も「未来社会」論も〝飛んで〟などいません。エンゲルスとマルクスはピッタリと一致しています。不破さんは、マルクスを自分の謬論に利用するために、科学的社会主義の思想をエンゲルスの誤りとして捨て去ることに躍起になっています。 なにが、不破さんの目を塞いでいるのだろうか。
 『資本論』と『空想から科学へ』を読めばわかるとおり、マルクスもエンゲルスも、不破さんのように、「自由の国」とは「自由な時間」のことだなどとは一言もいっていません。不破さんのまったくの創作(作り話)です。「自由の国」とは「自己目的として認められる人間の力の発展が」保障される国、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保」された国のことです。「それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができ」、生産性の向上、「労働日の短縮こそは根本条件である」ということです。
 個人の発達にとって「自由な時間」は欠くことのできない大切なものです。生産性が向上しても、資本主義社会では労働時間の短縮につながりません。「民主主義の確立期の社会」を経て「社会主義社会」が発展する中で「労働日の短縮」も本格的に実現し、個人の「自由な時間」も飛躍的に拡大します。同時にその過程で、個人の発展にともなって、「諸個人が分業に奴隷的に従属する」システムの解消も進み、「精神的労働と肉体的労働との対立」もなくなり「労働」そのものが「生きがい」となり、「諸個人の全面的な発展」が保障される。そのときの社会をマルクスとエンゲルスは「共産主義社会」(共産主義社会のより高度の段階の社会)とよび、「自由の国」と呼んだのです。不破さんには社会と個人とのこんな関係すら分からないのでしょうか。

 

9.唯物史観もヘチマもない不破さんの「社会発展」論

 続けて不破さんは「資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、こうして、人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう」と、徹頭徹尾、誤ったことを言う。

 不破さんは、「利潤第一主義」が資本主義社会の「経済発展の最大の推進力」だと言う。しかし、資本主義社会の社会発展の推進力は資本主義的生産関係を基礎とする資本主義的生産様式にあり、私的資本主義的所有・取得に基づく奇形的な「社会的生産」──金儲けという私利私欲だけの手段を使って歪んだ形で社会を発展させること──にあります。資本主義的生産様式の社会の欠陥は、個人がお金儲けをすることによって経済が大きくなり、そのことによって社会が支えられる、「資本」が社会を動かす原動力だということにあります。つまり、資本主義社会の「経済発展の最大の推進力」は資本主義的生産様式のもとで神聖不可侵な力を与えられている「資本」にあるのであって、超歴史的な──資本主義的生産様式を脇に置いた──「利潤第一主義」にあるのではありません。「利潤第一主義」が大手を振って闊歩できるのは資本主義的生産様式があるからです。そして、資本主義社会の〝経済発展の真の推進力〟は資本主義的生産様式のもとで搾取されている労働者階級の生産そのものです。

 このように資本主義的生産様式の社会の社会発展の推進力を正しく見ることのできなかった──見ようとしない(?)──不破さんは、未来社会についても、「人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆく」などと言って、未来社会=〝新しい生産様式の社会〟の社会発展の推進力についても、正しく見ることができません。

 資本主義的生産様式の社会の推進力は「資本」です。「資本」の支配力を制度的にそぎ落とした〝新しい生産様式の社会〟は、「経済は資本のためにある」という社会から〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会で、マルクスの言う〝結合労働の生産様式〟の社会です。その〝社会の発展の推進力〟は、企業と国家の運営に全面的に参画した労働者階級の結合した意志、つまり、〝人間の社会にたいする支配力〟です。「社会主義社会」を「共産主義社会」へと発展させる基礎的な推進力は、国民の生活を豊かにする真の社会的生産と、それを担保する生産手段の社会的所有を基礎として自覚的になった国民一人ひとりの結合した力です。抽象的な、根拠のない、根なし草の「人間の能力の発達」が「社会発展の最大の推進力」になるのではありません。不破さんは、自分で引用した『資本論』を完全に忘れ去って──捨て去って(?!)──います。もしも、本当に不破さんが科学的社会主義の思想を自分の信条としているのであれば、とりあえず、私が要約した『資本論』の抜粋部分だけでも、もう一度読み直して、「労働日の短縮こそは根本条件である」という最後の文章の意味を熟考して、生産性の向上による「労働日の短縮」のできる社会とはどのような社会なのかを深く考え直すべきでしょう。ただ、残念ながら、資本主義的生産様式の社会にある「余暇」も「自由な時間」だから「自由の国」だという不破さんにそのことを期待するのは、無いものねだりということかもしれません。

  このように、不破さんの言ったことの前半部分──資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力だということ──は、不破さんが資本主義的生産様式の社会について、認識する能力を持ち合わせていないことを証明し、後半部分は、不破さんが、〝新しい生産様式の社会〟(社会主義社会)での社会発展の推進力が、社会的生産の一層の発展をもたらすための人類全体にとっての真の利益と個人の利益とが統一された〝結合労働〟であることを覆い隠す──あるいは理解できない(?)──ものであり、不破さんが社会主義者としては「落第」の考えしか持ち合わせていないことを示すものです。

 なお、「自由な時間」が「自由の国」だという不破さんの創作は、唯物史観もヘチマもない「社会発展」論、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」という社会主義者としての「落第」思想(空想)を資本主義的生産様式の社会で先取りしたものです。※不破さんの「余暇」も「自由な時間」だから「自由の国」だという、マルクスの驚きの歪曲については、ホームページAZ-2-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を、是非、参照して下さい。

 「社会主義社会」での徹底した参加・民主主義、分配の社会主義的なルールの確立と発展、これらを踏まえての「労働日の短縮」と人間性を高め豊かにする「時間」の活用が、〝新しい人〟を生み育てます。こうしたなかで、本当のコミュニストたちが、雲霞の如く、生まれ育っていきます。

 不破さんは、賃金「奴隷制のかせ」である資本主義的生産関係からの解放を棚上げにして、「奴隷制のかせ」からの解放とは「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」ことだと言い、『前衛』の2015年5月号によれば、「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」とは「〝指揮者はいるが支配者はいない〟といういわば自治的な関係」をつくることだと言います。

 しかし、不破さんの言う「指揮者はいるが支配者はいない」職場の管理と資本主義社会での職場管理のリーダーシップ論とでは、いかほどの違いがあるのでしょうか。資本主義社会での職場管理のリーダーシップ論もヘッドシップを排した「いわば自治的な関係」によって成り立っています。

 労働者階級は、「賃金奴隷制のかせ」である資本主義的生産関係からの解放があって、その上ではじめて、企業を担う主役の一員として、〝生産現場での人間関係〟を超えた新しい人間関係を企業のなかでつくりあげることができます。不破さんの言う、生産現場での「指揮者」と「指揮を受ける人」という「狭い空間」での固定的な役割分担も、「社会主義社会」が発展して「共産主義社会」に向かう過程で、質的な変化を遂げることになるでしょう。そして、これまで見てきたように、不破さんが「奴隷制のかせ」からの解放を「生産現場」という狭い空間に閉じ込めて「未来社会」の理想とした、「指揮者はいるが支配者はいない」という「狭い空間」での「指揮者」と「指揮を受ける人」という固定的な役割分担の組織が、〝新しい生産様式の社会〟を動かす主役でないことだけは明らかです。

 なお、雲霞の如く、生まれ育ったこの〝新しい人〟、本当のコミュニストたちによって、「社会化され発達した生産力」に基づき新しい上部構造が発展させられて行くことでしょうが、当面、私たちが確実に言えるのはここまでです。残念ながら、「自由の国」=「共産主義社会の高い段階」について、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」などと、軽々に言えるものではありません。少なくとも、未来社会においても、「土台」がなければ「上部構造」は成り立ちませんが、そもそも未来社会の「土台」が経済に根ざすものなのか、何であるのか、残念ながら、私たちには分かりません。

 私たちにとって大事なことは、不破さんのように、遠い未来社会の原動力が何なのかについてのご宣託を述べることでも、聞くことでもありません。大事なのは、今の日本の危機の原因と打開のプロセスを白日の下にさらし出して、今の日本の経済力を土台に、溌剌とした社会主義日本の姿を、生き生きと描き出すことです。空論はいりません。現実から導き出された理論を物質的な力に変えるために、今ある資本主義を暴露しその克服の道を明快に示す、それで十分です。「賃金奴隷制のかせ」である資本主義的生産関係からの解放ぬきの、こぢんまりした〝ユートピア〟を語って、資本主義的生産様式の社会と〝新しい生産様式の社会〟との根本的な違いを見失わせるようなことをしてはなりません。

 しかし、残念ながら、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」(『前衛』2015年5月号)と社会変革の客観的条件も、何をどう変えるかもまったくわからないことを告白した不破さんには、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」とか「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる」とかいう程度のことしか言えないようです。であるならば、共産党は不破さんを神棚にまつり上げるのを、ただちに、止めるべきでしょう。

〈蛇足的補注〉

 私の友人にグラムシの研究をしている真面目な共産党員が東京にいますが、党員の中にはほかにも「グラムシ」に関心をもち、その積極面を評価しながら、不破さんの誤りに気づかない人もいないとも限りませんので、不破さんの「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」という暴論に関連するグラムシの文章を抜粋いたします。
 「科学を生活の基底におき、科学をすぐれた意味での世界観、あらゆるイデオロギー的幻想を払いのけて人間をありのままの現実に直面させる世界観とすることは、実践の哲学が自己自身の外に哲学的支柱を必要とするという考えにふたたびおちいることを意味する。しかし、じっさいには、科学でさえも一つの上部構造であり、イデオロギーである」(「科学と科学的イデオロギー」『史的唯物論とベネデット・クローチェの哲学』) *「実践の哲学」とは唯物史観=マルクス・エンゲルス・レーニンの世界観、科学的社会主義の思想のことです。
 グラムシもこのように「上部構造」を捉えていましたし、唯物史観を正しい認識と確信する者はだれでも、このように考えるのは当たり前のことです。しかし不破さんは、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」と、「上部構造」が「実践の哲学」(唯物史観)を乗り越えてしまいます。
 このような科学的社会主義の思想と相容れない謬論が、科学的社会主義の党の機関誌『前衛』に堂々と載り、この不破さんがマルクスの価値を低めたパンフレットの宣伝が、党の機関紙『赤旗』で連日おこなわれていては、多くの党員の目が曇ってしまうのも、残念ながら、やむを得ないことなのだろうか。

10.レーニンは新しい社会をどう作ろうとしたか、不破さんも謙虚に学ぶべきではないのか

 不破さんはP114で、“共産主義社会”への「過渡期」に関連して、「この問題へのレーニンなりの接近」などと言ういいかたで、レーニンの多彩な活動の中の「一つの表れ」を、一見、評価しているように述べながら、P116では「レーニンが『国家と革命』で示した未来社会の定式というのは、結局、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです」と『国家と革命』とレーニンを歪曲し、誤ったレッテルをはり、不破さんの「偉大」さを示そうとしています。
 私ごとになりますが、実は、私が「レーニン全集」をしっかり読む気になったのはソ連が崩壊した時でした。それまでは、ソ連の中にも『ソ連における少数意見』(岩波新書)のような人々が一つの勢力として存在していて、民主集中制の基で多数派になり、ほんとうの社会主義国が建設されるのではないか、という希望を持っていました。しかし、ソ連が崩壊したとき、もしかしたら、その根源にレーニンの〝何か負の側面〟が影響しているのではないかと思い、「レーニン全集」を批判的に読むことを決意しました。その結果、レーニンは、日本共産党の綱領の見本となるような綱領を作り、社会主義と民主主義の関連、民主主義と資本主義との関連を正確に理解し、党内の活発な意見交換を重視し、正確で旗幟鮮明な方針を立案し、(主に現状認識が十分できなかったことが原因の)判断の誤りも当然あったがはばかることなく改め、共産主義社会をつくるにあたって何よりも民主主義を重視している人物であることがわかりました。レーニンは、「プロレタリアートの社会主義的な、首尾一貫して民主主義的な組織化」の必要性や「社会主義への道の多様性と社会主義の多様性」について機会あるごとに論及していたのです。
〈革命前の1916年8月から1922年1月までのレーニンの著作で確認してみよう〉
 革命前の1916年8月から革命後の1922年1月までのレーニンの著作で、「この問題へのレーニンなりの接近」などと不破さんが揶揄したレーニンの活動の一部を、一緒に確認してみましょう。紙幅の都合上、このページでは「テーマ」に関して各著作の中でレーニンが述べていることの一部を紹介するだけにとどめていますので、是非、下記のPDFファイル(4-16-2)を参照して下さい。なお、このファイルの内容は、ページ全体の内容を収録した冒頭のPDFファイルにも含まれています。

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4-16-2 レーニンと「過渡期」のPDF.pdf
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この問題について、1916年8月から1922年1月までのレーニンの著作で確認されたことの要約

革命前
①レーニンは、社会主義への道の多様性と社会主義の多様性について述べています。
②「社会主義は、民主主義がなければ不可能である」こと、「民主主義のための闘争で訓練されないプロレタリアートは、経済的変革を遂行する能力をもたない」こと、「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織することなしには」、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには」、資本主義に打ちかつことはできないことを述べています。『国家と革命』でも、革命後の社会について、「われわれがみな知っているように、この時期の「国家」の政治形態は、もっとも完全な民主主義である」と述べています。
革命後
③人民権力樹立後の社会主義革命における主要な任務として、物資の生産と分配とのもっとも厳格な、また普遍的な記帳と統制とを実施し、労働生産性をたかめ、実際に生産を社会化すること、そのために労働者と農民の中から、「短期間のうちに生産の実際的組織者の新しい層を生みだし、彼らに地歩をかためさせ、彼らにふさわしい指導的地位を占めるようにさせる」ことを提案しました。大多数の住民、まず第一に大多数の勤労者が、自主的に歴史創造活動をおこなってはじめて、プロレタリアートと貧農が、自覚、理想性、献身、不屈さを、十分に具現することができてはじめて、社会主義革命の勝利は保障されることを強く訴えました。
 しかし、これらの課題を本格的に実践するまえに、ユデニッチやデニキンやコルチャックらと長期の死闘を繰り広げなければならなかったのです。
④「社会主義的変革」は、「ブルジョアジー、資本主義的奴隷所有者、ブルジョア・インテリゲンツィア、すべての有産者の、すべての所有者の代表者にかわって、新しい階級が、あらゆる行政分野で、下から上まで、国家建設の全事業に、新しい生活の指導という全事業に参加するばあいにだけ、可能であり、実現できるのである」こと、労働組合の新たな役割として、「すべての国家機関の内部で直接に活動することにより、それらの国家機関の活動等々にたいする大衆的な監督を組織することにより、生産および分配全体の記帳、統制、調整のための新しい諸機関を創設し、利害関係をもつ広範な勤労大衆自身の組織的な自主活動に依拠する諸機関を創設することによって、ソヴェト権力の活動に精力的に参加することができるし、また参加しなければならないのである」と述べています。
⑤レーニンは、新しい芽生え、悪循環をたちきる力、社会主義を勝利させる高い労働生産性の重要性を強調し、官僚主義者を包囲する粘り強いたたかいの必要性を述べています。
⑥「プロレタリア国家がその本質を変えないで、商業の自由と資本主義の発展とを許すことができるのは、ただある程度までであり、国家が私的商業と私経営的資本主義を規制する(監督し、統制し、形態や方式を決定する、等々)という条件のもとでだけである。このような規制がうまくゆくかどうかは、国家権力にかかっているばかりでなく、それ以上にプロレタリアートと勤労大衆一般の成熟の度合いに、ついでは文化の水準その他にもかかっている」ことを述べている。
⑦「プロレタリア国家権力の存在している国家でストライキ闘争がおこなわれるのは、一つは、プロレタリア国家が官僚主義的にゆがめられており、国家機関に資本主義的な旧習のさまざまな遺物があるということ、いま一つは、勤労大衆が政治的に未熟で、文化的におくれているということによってのみ、説明し正当化することができる」ということ、プロレタリアートは、資本主義から社会主義への移行をなしとげつつある国家の階級的基礎であり、今こそ、国全体の国民経済を管理することを労働者と全勤労者が実際に学ぶという、長年月をみこまれるねばり強い、実務的な活動に、意識的に、断固として移ってゆかなければならないことを述べています。
 これらを含め、この抜粋の中に「社会主義建設」の「過渡期」の課題が見事に抽出されているので、是非、別添のPDFファイルをお読み下さい。

 このように、革命前、革命後を通じて、レーニンは、不破さんの言う「過渡期」の課題について具体的に提起し、そのカギが労働者階級の社会変革への自覚的参加にあることを明確に述べています。このような社会変革への自覚的参加を通じて、国民一人ひとりが、主体的に生きることの意義と喜びを自覚し、新しい社会をつくる新しい人に変化し、成長していくのです。

11.『国家と革命』から「過渡期」と「未来社会」を見るとマルクス・エンゲルス・レーニンと不破さんとの違いがハッキリする

  『国家と革命』でレーニンは「民主主義を徹底的に発展させること、このような発展の諸形態を探しだすこと、これらの形態を実践によって点検すること等々、すべてこうしたことは、社会革命のために闘争するという任務を構成するものの一つである」(国民文庫P113)と述べ、社会革命と民主主義との切っても切れない関係と民主主義の多彩な発展の必要性について述べるとともに、「エンゲルスは、習慣(人間は、暴力なしに、服従することなしに社会生活の根本的な諸条件をまもる習慣──青山)のこの要素を強調するために、新しい世代についてかたっている。新しい世代が、『新しい自由な社会状態のもとに成長してきた一世代が、ついに国家の』──民主的共和制をもふくめたあらゆる国家の──『がらくたをすっかりなげすててしまえるときがくるだろう』」(P119)と、エンゲルスを引用して、「過渡期」に新しい習慣をもった新しい世代が生まれることを述べています。
 そして、不破さんが、「レーニンが『国家と革命』で示した未来社会の定式というのは、結局、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです」と揶揄した『国家と革命』は「第5章 国家死滅の経済的基礎」で、マルクス・エンゲルスを引用しながら「未来社会」について必要・十分な説明をおこなっています。
 つまり、「共産主義社会の第一段階」=「過渡期」=「社会主義社会」は「あらゆる点で旧社会の母斑のくっついている」共産主義社会であるが、「すべての人が社会的生産を自主的に管理することをまなび」「生産力の巨大な発展」を図ることによって、「国家の完全な死滅の経済的基礎」が築かれ、「精神労働と肉体労働との対立」もなくなり、「自由の国」=「共産主義社会の高い段階」に到達する、と。
 そしてこのマルクス・エンゲルス・レーニンと不破さんとの「未来社会」論の決定的な違いは二つあります。その一つは、「国家死滅の経済的基礎」をしっかり見てその発展を通じて「共産主義社会の高い段階」を展望するのか、それとも、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆく」として「国家死滅の経済的基礎」を「あまりうらやましくない」と言って捨て去るのかの違いです。そして二つ目は、不破さんのように「指揮者はいるが支配者はいない」といういわゆる「社会主義社会」を「未来社会」として捉えるのか、マルクス・エンゲルス・レーニンのように「精神労働と肉体労働との対立」もなくなり、「諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり」、恒常的な「指揮者」などいない「自由な結合的労働」の社会を「未来社会」として捉えるのかの違いです。
 これらの違いは、科学的社会主義がマルクス・エンゲルス・レーニンの思想であり、不破さんの付け焼き刃の考えとは異なることをよく示しています。
*詳しくはHP4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

12.日本共産党には、自らのあり方を見直すことのできる民主的な制度とそれを支える科学的社会主義の思想を持った党員が必要だ

①不破さんは、ほんとうに何か「発見」し、鼎談参加者はそれを理解したのか

 レーニンは『国家と革命』で、「民主主義を徹底的に発展させること、このような発展の諸形態を探しだすこと、これらの形態を実践によって点検すること」を述べていますが、これは、マルクス・エンゲルス・レーニンの歴史観・世界観の重要な構成要素の一つです。「共産主義社会の高い段階」へ行くためには、「民主主義」が発展し「民主主義」が死滅するまでの長い「過渡期」が必要です。『国家と革命』の「第5章 国家死滅の経済的基礎」はそのことを述べています。
 不破さんは、一生懸命研究を深めることによって、やっと「共産主義社会の高い段階」を発見したかに見えましたが、不破さんの発見した「結合社会」の理想的な人間関係は「指揮者はいるが支配者はいない」といういわゆる「社会主義社会」での人間関係でした。そして不破さんは、そのような人間関係の社会を、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆく」とし、「自由な時間」をもった人たちの思想によってつくられると見ているようです。
  つまり、不破さんには、レーニンが『国家と革命』で言った、「民主主義を徹底的に発展させること、このような発展の諸形態を探しだすこと、これらの形態を実践によって点検すること」によって、国民一人ひとりが主体的に動き、そのことによって、新しい共同社会と新しい人を生みだしていくという〝by the people〟の思想が欠落しています。だから、〝民主主義〟が欠如し、利己的な競争心がますます増幅しているような現実がある、そういう国(中華人民共和国)を「社会主義をめざす国」などと平然と言うことができるのです。
 社会主義を実現する運動でも、社会主義社会を建設する運動でも、労働現場はもちろん社会の隅々まで〝民主主義〟が必要なことをマルクス・エンゲルス、レーニンが教えていることは、かれらの著作を自由に読めるようになった現代日本のマルクス主義者にとって、常識中の常識のはずです。
 このようなお粗末な鼎談の内容に輪をかけて、P114で山口さん(党社研副所長)は、不破さん(党社研所長)が未来社会論の「現在の世界的な到達点」がマルクスの理論水準に達していないこと──確かに、「指揮者はいるが支配者はいない」という不破さんの到達点はマルクス・エンゲルス、レーニンの理論水準には遥かに及ばないが──を述べている文章を取り上げ、「ズバリ指摘しています」、「たいへん重要な提起ですね」とわけの分からないことを言っています。「指揮者はいるが支配者はいない」という不破さんほどの到達点に達している人は不破さん以外いないと不破さんが「ズバリ指摘しています」、それは「たいへん重要な提起ですね」とゴマを擦る。いくら「指揮者はいるが支配者はいない党」の社研の上司と部下の関係にあるとはいえ、そこまで「指揮者」にゴマを擦る必要があるのだろうか。これでは、中華人民共和国と同様に「支配者が指揮者で、みんなでゴマを擦る党」ではないか。
 マルクス・エンゲルス、レーニンから学ぼうとせず、「エンゲルスの弱点」だとか「レーニンのあれた時期」とか一面的な評価を『前衛』をつうじて大本営発表のように一方的におこない、マルクス・エンゲルス、レーニンの著作を学んでいない人たちに向けてだからこそできる放談を自由におこない、〝民主主義〟が欠如し、利己的な競争心がますます増幅しているような現実がある、そういう国を「社会主義をめざす国」などという人たち、この鼎談の参加者たちが、マルクスの理論水準に達していないことだけは、このホームページをご覧頂ければおわかりっただけたと思います。
  そして、このことは、彼らが『空想から科学へ』からも『国家と革命』からも、何も有意義な「発見」も「学ぶ」こともできなかったことを証明しています。
  民主主義思想が欠落し、国民一人ひとりが主体的に動くことによって、新しい共同社会と新しい人を生みだしていくという思想が欠落している不破さんが絶大な影響力をもつ「共産党」、その内部に山口さんと不破さんのような「指揮者」と「労働者」の関係がないことを祈りながら、不破さんの悪しき影響と思われる点の一部をみてみましょう。

②日本共産党の民主主義の欠如・党員の知識の欠如

 「共産党よ元気をとりもどせ」のページで、現在の「共産党」の改善すべき点については、詳しく論及しているので、ここでは簡単にふれたいと思います。
  残念ながら、不破哲三氏が圧倒的な影響力をもつ日本共産党は、〝コミュニストパーティー〟にとって最も大切な民主主義に欠け、民主主義とは何かもわからず、「党」利と「現指導部」の利益が優先され、民主主義がないがしろにされています。
 「党」利の例が政党助成金にたいする態度にあります。「政党助成金」問題の詳しい論及はページ3-2-4「民主主義の発展にブレーキをかける「政党助成金」への対応」をご覧いただきたいと思いますが、金のない人でも政治に参加できるようにすることは民主主義の発展にとって非常に大切なことです。第三極は、確かに、ろくでもない政党だと私も思います。しかし、ろくでもないと、ある人が思っても、それを正しいと思う人たちがいて、それが多くの人の考えを代弁しているとすれば、その声を反映させるシステムがなければ民主主義は絵にかいた餅です。問題は多々ありますが、「政党助成金」はそれを保障しています。集金システムがある既成政党が集金システムのない国民の声を抑えてはいけません。「政党助成金」憎さの結果、金権政治、企業献金による世論の買収への批判・曝露よりも「政党助成金」批判が優先されるという本末転倒が起きています。民主主義の欠如と「党」利の優先による本末転倒がここにあります。
 「現指導部」の利益を優先するシステムは制度的、思想的につくられています。まず第一に「制度」について言えば、「現指導部」と異なる意見を党内に表明し意見を交流する場は、蛸壺のように閉鎖された、支部以外にはありません。「指導部」の選出に党員の意見を反映させるシステムもまったくありません。次に「思想」について言えば、「日本をよくしようと思っている人は党員になる資格がある」として、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」が党員になり、唯一の意見交流の場である支部では討論が成り立ちません。難しいことは分からない、意見があるなら上に言ってくれ、と。支部はこんな状態で、『前衛』等でも、或る人がレーニンの悪口を言うとその人以外レーニンに触れることはない。その結果、一般民主主義が横行し、科学的社会主義が道を譲る。民主主義の欠如と「現指導部」の利益の優先による本末転倒がここにあります。
 この文章を読んで「独善的」だと思われた方、「共産党よ元気をとりもどせ」のページを、是非、お読み下さい。

13.『国家と革命』は、何のためになぜ書かれたか

 さて、話を『国家と革命』にもどすと、P116で不破さんは、「レーニンが『国家と革命』で示した未来社会の定式というのは、結局、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです」と述べて、「従来の社会主義論」の筆頭に『国家と革命』をあげています。
 「人間の発達の場」である「時間」を浪費して、革命運動の指導者にこんなことを言うのは、ほんとうに時間の無駄ですが、『国家と革命』のテーマとの関連で不破さんの主張に対する私の意見を申し上げます。
 『国家と革命』は、「1917年の今日」、「労働者が決戦を強いられて」、「蜂起が事実」となる数ヶ月前、ヨーロッパの革命の一環としてのロシア革命のまっただ中で、全権力をソヴェトに移すべき時に、「国家の問題について」、「国家機構」のあり方について、既存の「機構」をどうすべきか、新しい「機構」はどうあるべきかを、「国家についての革命の諸任務を」、「国家にたいするプロレタリア革命の関係」にテーマを絞って、「国家が死滅するさいの政治と経済との関係」までが書かれたパンフレットです。だから、「人間の全面的な発達が保障される社会」について章を改めて詳細に書かれていないからと言って不備を指摘するのは筋違いの話です。「不破さんは『国家と革命』で私が言いたかったことをごまかしているか、あるいはまったく理解しなかったかである。」とレーニンに言われそうです。加えて、フルシチョフまで登場してはレーニンも大迷惑だと思います。
 『国家と革命』を真摯な態度で読めば、民主主義の発展について、自覚的な個人の社会への参加の重要性や条件について、「新しい自由な社会状態のもとに成長してきた一世代」について、「社会主義が労働日を短縮し、大衆を新しい生活へひきあげ」ることについて等、この対談で「人間の発達」「人間の力の発達」と抽象的に語られている程度の内容は十分含まれています。鼎談の参加者には、不破さんの忠告をしかり受け止めて、是非『国家と革命』をしっかり読んでいただきたいと思います。
 不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると言った。
 しかし、いま見てきたように、マルクスにもエンゲルスにもレーニンにも、不破さんの言う「過渡期」論はあった。そして、マルクス・エンゲルス・レーニンの「未来社会像の核心」を欠いているのは、ほかならぬ不破さんだった。

おまけ

 このように、不破さんは、『国家と革命』にお門違いの、しかも、事実に反する攻撃をくわえた。もしも私たちが、不破さんのレベル立って、不破さんと同じように、連日『赤旗』で大々的に宣伝されている『スターリン秘史』について、スターリンがソヴィエトと党をどのように破壊していったかが書かれていない、不破さんにはそんなことなど眼中にない、などと言ったならば、不破さんはお門違いのいちゃもんだと言うことだろう。けれども、いまの共産党のありようをみるとき、はたして本当にそう言いきれるだろうか。先に指摘したように、『国家と革命』はタイムリーな時の、タイムリーな内容の著作でした。しかし、不破さんの『スターリン秘史』は、日本経済が危機的な状況にあり、国民生活も社会も崩壊の危機に際会しつつあるなかで、共産党も70年代から80年代初めの遺産を食い潰しつつあるとき、2年間にわたって、毎月『前衛』誌上を20~30ページ浪費して掲載され続けたのです。どうせ時機を得ないテーマの「論文」を書くにしても、人民の権力であるはずのソヴィエトと党がどのように破壊されてスターリンの独裁を容易にしたのか、このくらいは書かれてしかるべきでしょう。そうすれば、時機に適さない内容でも、中身は充実します。だから、スターリンがソヴィエトと党をどのように破壊していったかが書かれていないと言うことは、あながちお門違いのいちゃもんだとは言い切れまい。日本と党の現状を見るならば、党のあり方を、日本の民主主義のあり方を、真剣に考えるのは、時機に適したことであり、70年代~80年代初めの遺産を食い潰し続けてきた不破さんの義務でもあるのだから。
 日本共産党には、〝by the people〟の思想をとり戻し、党内民主主義が発揮されるような組織になるよう、古い衣を脱ぎ捨て、脱皮されることを願ってやまない。