AZ-1-5〈連載〉その5

資本主義の根源的な矛盾を隠蔽し、労働者階級の社会変革のエネルギーを抑え込む、

不破さんのマルクス・エンゲルスと『資本論』の歪曲・捏造を暴き、

国民のための経済がある、国民の新しい共同社会をみんなで創ろう

「国民のための経済がある新しい共同社会を創るために、科学的社会主義の思想を正しく知るための、不破さんの「マルクス『資本論』反面教師講座」の解説」(その5)

不破さんによって、『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想はどう変えられたのか、『資本論』第三部を中心にして、不破さんの「『資本論』探究」を軸に見てみましょう。(その3)

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『資本論』第三部(その3)「第六篇」

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不破さんは、マルクスを不破さん同様の低級な人間のように言い、マルクスを未熟な研究者に仕立て上げて行なうべき「解説」を放棄します

 不破さんは、「『資本論』探求〈下〉」で、『資本論』第三部「第六篇 超過利潤の利潤への転化」について、自分の理解力の無さを論拠に、マルクスの地代論についての論究を、「マルクスが、この新理論を、一般的利潤論の『例解』問題として第三部に滑り込ませるという、かなり無理筋の計画を立てた」と中傷し、「マルクス自身、満足のゆくような解決にはまだ到達していなかった」と、マルクスの地代の研究が「未解決」ででもあるかのように言い、「第六篇」のテーマである資本主義的生産様式のもとでの「土地所有の不合理」の暴露について、なんの「解説」もしません。

 なお、不破さんは、「第二部」の「解説」でも、マルクスが「『経済学批判』第一冊」の続編のなかの利潤に関する篇にその「例解」として「地代」の問題を入れようとしたことについて、「利潤の研究の一部のような顔をして」とか「マルクスが編み出した苦肉の策」とか言って、「地代」が「利潤の研究の一部」ではないかのように言い、マルクスを不破さんと同様に、研究の成果を見せびらかすことしか頭にない、次元の低い人間に見せようとしています。

 

マルクスの「地代論」の研究とは、「利潤の研究の一部」そのものです

 私は「第二部」を扱った連載(その2)で、〈「地代」が「利潤の研究の一部のような顔をして」いるものなのか、みなさんは、是非、『資本論』の「第三部」を読んで下さい。〉と言いましたが、「第六篇 超過利潤の地代への転化」をお読みいただけば分かるとおり、「地代論」の研究とは、「利潤の研究の一部」そのものです。不破さんは、「第六篇」にかこつけて自らの謬論の普及に努めていますが、そもそも『資本論』の「地代論」とは、資本主義的生産様式のもとでの地代論であることを「理解」できていないようです。

 

不破さんのマルクスの研究範囲に対する見当違いの批判と荒削りの草稿への誹謗

 そして、不破さんは、性懲りも無く、『資本論』の地代論には、①「土地所有そのものの歴史的研究が、計画から除外されてしまうことになる」と、ヤクザが因縁を付けるように、「欠点」を指摘し、②「「差額地代」の問題については、…マルクス自身、満足のゆくような解決にはまだ到達していなかった」と、荒削りの草稿であることをいいことに、マルクスを誹謗します。不破さんは、これを、「二つの問題点」だと言います。

 

不破さんは、火のない所に煙を立てるな、エンゲルスの編集に感謝して真摯に学べ

 しかし、①については、問題でも何でもありません。まさにマルクスが言っているように、『資本論』において「土地所有をそのさまざまな歴史的形態において分析することは、本書の限界外にある」ことなのです。「『資本論』続刊構想」なるものを知っているという不破さんが、自分の蘊蓄を披露するために、「問題」扱いされてしまうのですから、まったく困った人です。

 そして、②については、「差額地代論は、第二形態で迷走に陥ります。」と言います。まったく、不破さんという人は、他人の「不備」を「誤り」に仕立てて、自分を偉そうに見せるのが好きな人です。不破さんはマルクスのエンゲルスあての手紙のなかで、マルクスが「理論的な研究」は「終えた」が文章のまとめ方として非常に完成度が低いことを率直に述べていることをいいことに、「迷走」に陥ったと言うのです。

 不破さんが「差額地代論は、第二形態で迷走に陥ります」と揶揄し、マルクスが「でき上がったとはいえ、この原稿は、その現在の形では途方もないもので、僕以外のだれのためにも、君のためにさえも、出版できるものではない」と言い、エンゲルスが第三部の序文で「地代に関する篇(第六篇、第三七章~第四七章──青山)は、ずっと完全に書き上げられていたとはいえ、けっしてよく整理されてはいなかった」と言い、「いちばん手がかかったのは、差額地代Ⅱのところの表であり、また、第四三章ではそこで取り扱われるべき差額地代Ⅱの第三の場合が全然検討されていないということを発見したことだった」という地代論は、その「理論的な研究」が終えていたからこそ、大きな努力を伴ったとはいえ、エンゲルスが立派にまとめ直すことができたのです。その際、人の出来ている、同志であるエンゲルスは、不破さんのように「迷走」たとか「解決にはまだ到達していなかった」などという中傷など一切しません。不破さんとエンゲルスの人間性の差がよく現れています。

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蘊蓄の深さを示そうとして「第三七章」の要点を外す不破さん

 不破さんの「第三七章 緒論」の解説は、実にアッサリしていて、要点を外しています。

 不破さんは、まず、「『第三七章 緒論』でまず大事なことは、この篇の研究対象が、資本主義社会における農業一般ではなく、次の文章に規定されるような、資本主義的生産様式のもとでの農業の典型的な形態──農業資本家(借地農場経営者)と土地所有者の関係だということです。」と述べて、マルクスの『資本論』での「地代」(資本主義的生産様式のもとでの「地代」)の「規定」の文章を引用します。

 続けて不破さんは、「現在、日本の農業で支配的な、農民とその家族が自分で土地と農業用具をもって営む農業──小農経営は、ここで研究する資本主義的農業には属さないのです。」と言い、当時、「近代社会の骨組みをなす三つの階級(賃金労働者、産業資本家、土地所有者のこと──青山)」が揃っていたのは「イギリス以外には存在しなかったでしょう」と述べ、最後に、「このことを(「三つの階級が、全部そろって、互いに対立し合いながら登場する」ことを──青山)まずしっかり頭において、絶対地代論および差額地代論を読んでゆきたいと思います。」と述べて「第三七章」の解説を終えます。

 

「第三七章」は「第六篇」の導入で、マルクス・エンゲルスは「第六篇」の研究テーマが資本主義的生産様式のもとでの「地代」であることを述べ、農業における資本主義的生産様式の功罪等について論及している

 不破さんは、「第三七章」が「第六篇」の導入であることから頭が混乱したらしく、「この篇の研究対象」は、「資本主義的生産様式のもとでの」「農業資本家」と「土地所有者」の関係だと言い、「小農経営は、ここで研究する資本主義的農業には属さない」と言います。どうも不破さんは少しズレて(要点を外して)いるようです。

 不破さんは、「小農経営」の蘊蓄を語るために「この篇の研究対象」を「農業資本家」と「土地所有者」との関係にしてしまいましたが、「ここで研究する」のは「資本主義的農業」全般についての研究などではなく、資本主義的生産様式のもとでの「地代」についての論究です。

 「第三七章」は、「第六篇」の研究テーマが「資本主義的生産が発展している国の農業地代である」(大月版⑤P808、以下「大月版⑤」を省略)こと、「土地所有の独占は資本主義的生産様式の歴史的前提であ」り、「その永続的な基礎である」(P795)ことを述べ、「第六篇」の導入部分(緒論)として、資本主義的生産の全精神が直接眼前の金もうけに向けられていることからくる資本主義的生産における農業の否定的側面を述べるとともに、「資本主義的生産様式の大きな功績」として「一方では農業の合理化がはじめて農業の社会的経営を可能にしたということ、他方では土地所有の不合理を示したということ」(P796)を述べ「資本主義的生産様式」における「農業」の功罪や「地代」研究の留意点を明らかにし、「土地所有者が地球の一断片の賃貸によって毎年受け取る一定の貨幣額で表され」る「地代」は資本主義的生産様式の発展とともにその「特有なこと」も大きくなることを指摘しています。

 詳しくは、PDFファイル「第三部「第三七章 緒論」」を、是非、参照して下さい。

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現代の私たちが、「第三七章」から学ぶべきこと

 私たちは、「地代」論の学習を通じて、「地球の一断片」を資本主義的生産様式のもとで所有することの経済的意味を理解するとともに、資本主義的生産様式のもとでの「土地所有の不合理」についての現代の現れをより深く論究する契機とする必要があります。

 なお、マルクスは、地代の資本還元によって、地代を「土地の買い手にとってとる利子形態と混同する」ことの誤りを指摘していますが、資本主義的生産様式のルールは「一定の貨幣収入はすべて資本還元」することなので、バブルとか恐慌のような異常事態でないときは、資本主義的生産様式の社会では資本還元された地代が「土地価格」の一つの指標となります。

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ちょっと飛ばして、不破さんの「絶対地代の問題」の『資本論』の解説

 不破さんは、次に、「『資本論』探求〈下〉」で、差額地代の考察を飛ばして、「絶対地代の問題」の『資本論』の解説に移りますが、『資本論』の「第四五章 絶対地代」は「あまりわかりやすい説明ではないので、ご参考のために、マルクスがこの発見をエンゲルスに説明した時の手紙を紹介しておきたいと思います。」(P128)と言って、土地所有者が「土地所有」によって「価値と生産価格との差額をすくい上げる」ことをマルクスが手紙に書いていることを述べます。そして不破さんは、『資本論』でマルクスが、この独占価格(「生産価格」を越えた「市場価格」)が、他の独占価格とは違って、独占によって価格を価値以上に吊り上げるという性質のものではないことを述べていることを紹介し、最後に、「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう。」という、いかにも不破さんらしい、もったいぶった、意味不明──現実を見ない、検討対象にもならない無意味な言葉──の文章で結ばれています。

 この「解説」が、不破さんの「絶対地代の問題」の理解度をよく現しています。

 

「絶対地代」の意味をまったく理解していない不破さん

 不破さんは、『資本論』の「第四五章」が不破さんにとって「あまりわかりやすい説明ではないので」、あまりよく読まなかったようです。不破さんの「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう」という蛇足の文章がそのことをよく示しています。

 『資本論』は、「資本主義的生産様式に対応する諸関係が存在するところでは、地代と借地料とは一致しなければならない」こと、「もし最劣等地Aが──その耕作は生産価格をあげるであろうにもかかわらず──この生産価格を超える超過分すなわち地代を生むまでは耕作されることができないとすれば、土地所有はこの価格上昇の創造的原因である。土地所有そのものが地代を生んだのである」こと、「投資は土地所有者のために地代を生まなければならない。彼は、彼への借地料の支払いができるようになったとき、はじめて賃貸するのである。だから、市場価格は、生産価格を超えてP+rまで上がり、土地所有者への地代の支払ができるようになっていなければならない」こと、「土地所有が設ける制限のために、市場価格は、この土地が生産価格を超える超過分すなわち地代を支払うことができるようになる点まで、上がらざるをえない」こと(P969-978を参照)を述べて「絶対地代」の根拠を説明しています。

 つまり、生産価格が価値以下(農業が平均より低い資本構成をもつ生産部門)であろうが、価値以上(農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門)であろうが、土地所有者への地代の支払ができるように市場価格がなっていなければ、一般的に土地所有者は資本家に土地を貸さないのです。

 しかし、マルクスがここで論究しているのは、「最低の資本構成が無条件に支配的」な「採取産業」を含む農業で、そこでの「絶対地代」は「ただ、農業剰余価値の一部分でしかなく、」「生産価格を超える価値の超過分から生ずる地代」のことで、「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門」になることなど想定されていません。だから、不破さんが、もったいぶって「事態はまったく違った様相」などいう言葉で何を言おうとしていたのかわかりませんが、農業の現実を無視した「事態」の「まったく違った様相」など「呈し」ようがありません。

 

前「共産党」の委員長だった不破さんが「かりに農業が……」などと、呑気なことを言っている場合ではない

 『資本論』の「第四五章 絶対地代」は「本来の農業では資本の構成が社会的平均資本の構成よりも低いとすれば、このことは、一見して明らかに、生産の発達している諸国では農業は加工工業と同じ程度には進歩していないということを表しているであろう。」(P975)と述べています。

 このことは、農業労働者が常に低賃金に放置される可能性があること、社会として農業の資本構成を高める努力が必要であることを、私たちに、示唆しています。そのことをしっかりと受け止めることをせず、前「共産党」の委員長だった人が、「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう」などとノー天気なことを言って平然としている。何とも、悲しい限りです。

  このように、せっかく『資本論』に編集されている「第四五章 絶対地代」を「あまりわかりやすい説明ではない」などと言って無視すると、最後に、「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう」などとまったくトンチンカンなことを言う羽目になるのです。

 ですから、皆さんは、是非、『資本論』を読んで下さい。

 どうしても、手っ取り早く「第四五章 絶対地代」の内容全体を知りたい人は、とりあえず、PDFファイル「第四五章 絶対地代」を参照して下さい。

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不破さんの「第三八章」から「第四四章」までの「解説」

 不破さんの「『資本論』探求〈下〉」の第一四章「(14)差額地代論──マルクスの『展開の独自性』」は、『資本論』の「第三八章 差額地代 総論」から「第四四章 最劣等耕作地でも生まれる差額地代」までを、不破さん流に「解説」(?)したものです。

 その中には、エンゲルスが序文で、「地代に関する篇(第六篇、第三七章~第四七章──青山)は、ずっと完全に書き上げられていたとはいえ、けっしてよく整理されてはいなかった」。「いちばん手がかかったのは、差額地代Ⅱのところの表であり、また、第四三章ではそこで取り扱われるべき差額地代Ⅱの第三の場合が全然検討されていないということを発見したことだった」と述べた部分が含まれています。

 だから、不破さん流の「解説」には最も適した部分です。

不破さんは、マルクスが差額地代のもつ意味を明らかにしているところで「絶対地代」の説明を求める

 不破さんは、『資本論』の「第三八章」の論及に依拠して、「市場の需要を満たすために必要な範囲内の、最も悪い条件の土地(最劣等地)での生産価格が市場を規制します。」と述べ、〔*〕として、わざわざ、「この部分の解説で、マルクスは、〝最劣等地の生産価格が市場を規制する〟ということの原理的な説明を飛ばしてしまっています。」と述べてマルクスに噛みつきます。

「第三八章」は「差額地代」論究の導入の「章」として、「差額地代」の一般的概念を明らかにしている

 マルクスは、「第三八章 差額地代 総論」で、タイトルのとおり、「差額地代」の論究のための導入の「章」として、「自然の落流を動力として用いる生産者」を例にとり、「このような落流の利用から生ずる超過利潤は、資本から生ずるのではなく、独占ができ独占されてもいる自然力を資本が充用することから生ずるのである。このような事情のもとでは超過利潤は地代に転化する。」(P833)ことを述べ、①この地代はつねに差額地代であるということ、②この地代は、充用資本の、またはそれによって取得される労働の、生産力の絶対的な上昇から生ずるのではなく、この上昇は一般にただ商品の価値を減少させることができるだけであること、③自然力は超過利潤の源泉ではなく、超過利潤の自然的基礎であるだけであること、④落流の所有者は、剰余価値(利潤)のこの部分、それ自体としてはなんの関係もないこと、⑤落流の価格、この工場主の個別的費用価格にははいるとしても、さしあたり商品の生産価格にははいらないということ、という差額地代の一般的概念を明らかにしています。

 マルクス・エンゲルスの何にでも噛みつく不破さんには、困ったものです。

 「第三八章」の概略については、PDFファイル「第三部「第三八章 差額地代 総論」」を参照してください。

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「第三九章」でも続く、不破さん流の「解説」

 次に不破さんは、「第三九章 差額地代の第一形態」の中の「虚偽の社会的価値」という語句が含まれる文章の断片を抜粋し、「虚偽の社会的価値」という語句について、「この言葉をどう解釈するかは、経済学界でも長く論争されてきた問題ですが、私は、その答えは、マルクス自身の次の言葉のなかにある、と思います。」と述べます。しかし、不破さんは、肝心の、「『虚偽の社会的価値』とは?」という自ら立てたこの「節」のタイトルにはまったく答えずに、一連の文章の中の最後の文章(残念ながら、不破さんの抜粋した文章は訳があまりよくないので、意味が通じづらい)を抜粋し、「この差額地代の源泉は何か、だれがそれを負担しているのか」と言う問題を提起します。

 「経済学界でも長く論争されてきた問題」などというどうでもいい蘊蓄を披露するだけで、「虚偽の社会的価値」という語句の意味にまともに答えなかったこと、文章を中抜きにしてしまったこと(下記参照。)、ここに、不破さんの『資本論』にある『資本論』の精神を読み取る精神と能力との欠如が、はっきりと現れています。

 

みなさんに全体を理解してもらうために、不破さんが中抜きした文章の全文を紹介します

 みなさんに、全体を理解してもらうために、少し長くなりますが全文を紹介します。

 なお、文章中のブルーで表記したものが不破さんが「抜粋」した一連の文章の「断片」です。

これ(優等地の生産価格よりも市場価格が高いということ──青山)は、資本主義的生産様式の基礎の上で競争の媒介によって実現される市場価値による規定である。この規定は、(地代という──青山)ある虚偽の社会的価値を生みだす。これは、土地生産物が従わされる市場価値の法則から生ずる。……この行為は必然的に生産物の交換価値にもとづくもので、土地やその豊度の相違にもとづくものではない。社会の資本主義的形態が廃止されて社会が意識的な計画的な結合体として組織されているものと考えてみれば、……社会はこの土地生産物を、それに含まれている現実の労働時間の二倍半で買い取りはしないであろう。したがってまた土地所有者という階級の基礎はなくなってしまうであろう。それは、外国からの輸入によって生産物が同じ金額だけ安くなるのとまったく同じに作用するであろう。それだから、──現在の生産様式は維持されるとするが、差額地代は国家のものになると前提して──他の諸事情が変わらなければ土地生産物の価格は同じままであろう、と言うのは正しいとしても、結合体が資本主義的生産にとって代わっても生産物の価値は同じままであろう、と言うのはまちがいである。同じ種類の諸商品の市場価格は同じだということは、資本主義的生産様式の基礎の上で、また一般に個々人のあいだの商品交換にもとづく生産の基礎の上で、価値の社会的な性格が貫かれる仕方である。消費者として見た社会が土地生産物のために過多に支払うもの、それは土地生産での社会の労働時間の実現のマイナスをなすのであるが、それが今では社会の一部分にとっての、土地所有者にとっての、プラスをなすのである。」(P852-853)

 

「虚偽の社会的価値」とは、資本主義的生産関係のもとで認められている「土地の私有権の『価値』」のこと

 この文章を読めば、「虚偽の社会的価値」とは、資本主義的生産関係のもとで認められている「土地の私有権の『価値』」のことであり、その具現化したものとしての「地代」のことであり、この文章全体が、「地代」というものを通じて、私的所有を前提とする資本主義的生産様式の社会の分配の不合理を鋭く告発した文章であることがわかります。

 不破さんは、「差額地代の総額は、農業生産物の実際の生産価格を超える超過部分です。土地所有が限定されているという事情から、市場価値の法則の作用のもとで、その超過部分が、『消費者とみなされる社会』の負担(マイナス)で土地所有者の収入(プラス)となるのです。」と述べ、差額地代は「社会が負担するしかない」などと、呑気な解説をしていますが、私的所有を前提とする資本主義的生産様式の社会の不合理を告発し、「意識的な計画的な結合体として組織され」た新しい「社会」の優位性を示すという『資本論』にある『資本論』の精神がまったく欠落しています。

 

「この差額地代の源泉は何か」をしっかり見ることによって、「知財権」という所有権で収奪するグローバル資本のあくどさも見えてくる

 なお、不破さんは、「この差額地代の源泉は何か」と自ら課した設問にしっかりと答えていませんが、「差額地代」の真の「源泉」は、当然ながら、農業労働者が生み出した商品の中に含まれている「超過利潤」で、それが「差額地代」に転化したのです。また、不破さんは、「差額地代の総額は、農業生産物の実際の生産価格を超える超過部分です」と言いますが、差額地代の総額は、最劣等地の農業生産物の市場価格よりも安くなる部分の総額です。

 そして、後述の85「『資本論』の「差額地代」の論究をつうじて私たちが学ぶべきこと」の中であらためて述べますが、私は、『資本論』のこの文章から、資本主義的生産様式の社会で、錦の御旗のように振り回されている「知財権」という所有権について、その認識を一層深めることができました。この文章は、そのような文章であるというとも報告させていただきます。

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不破さんは、「解説」者としての最低限の礼節も持ち合わせていない

 不破さんは、マルクスのいう「地代の第二形態」について、「率直に言って、私には、マルクスの理論の筋道が、何度読んでも理解できませんでした。そこには、二つの大きな疑問が最後までつきまとったからです」と、二つの「疑問」を挙げ、「疑問」が「理由」になって、「この二つの理由から、差額地代の『第二形態』議論については、そこでのマルクスの『展開の独自性』に大きな疑問を抱いている、というのが、この部分に取り組んでの私の率直な感想です」、と『資本論』の内容を否定するというのが、不破さんの『資本論』の「差額地代」の「解説」です。

不破さんは、自分で勝手に土俵(論理)を作るのではなく、「マルクスの理論の筋道」を追え

 エンゲルスは『資本論』第三部への序文で、「科学的な問題に携わろうとする人は、なによりもまず、自分が利用しようとする書物をその著者が書いたとおりに読むことを、またことに、そこに書いてないことを読み込まないようにすることを、学ばなければならないのである。」(大月版④P30)と言っています。

 このエンゲルスの言葉は、科学的社会主義者のモラルであり、基本精神を表しています。『資本論』の解説者であるならば、エンゲルスが『資本論』の編集をしたようにマルクスの立場に立ってマルクスがそこで何を言おうとしているのかを真摯に向かい合うことが必要です

 しかし、これでは、マルクスとエンゲルスが『資本論』で「差額地代」について何を言い、現代の私たちが『資本論』から何を学べるのかが、全然見えてきません。

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『資本論』の「差額地代」の論究をつうじて私たちが学ぶべきこと

 それでは、まず、「第三九章 差額地代の第一形態」から「第四四章 最劣等耕作地でも生まれる差額地代」までを、〝現代の私たちが何を学ぶか〟という観点で、「章」ごとに見てみたいと思います。

 なお、各章の主な抜粋、要点等の詳しい内容はそれぞれの「章」に添付してあるPDFファイルを参照して下さい。

現代の私たちが「第三九章」から学び、留意すべき点

 この「章」では、それぞれ豊度の違っている同面積の土地に投下された等量の諸資本の生産性の相違の結果としての差額地代を考察しています。

 「地代」は、二つの等量の資本および労働が等面積の土地で用いられて不等な結果を生む場合の超過利潤であり、資本主義的生産様式のもとでの市場経済の結果であり、「虚偽の社会的価値」(「土地の私有権の『価値』」)なので、社会の資本主義的形態が廃止され、「意識的な計画的な結合体として組織されている」社会では、土地所有者という階級の基礎はなくなり、土地生産物にプラスされていた「地代」もなくなります。

 この私的所有を前提とする資本主義的生産様式の社会の不合理を告発し、「意識的な計画的な結合体として組織され」た新しい「社会」の優位性を示すという『資本論』の精神に留意し、資本主義的生産様式の変革の必要性を再認識することが重要です。

 

このことに関連して、資本主義的生産様式の社会での「知財権」について

 私は、このことに関連して、資本主義的生産様式の社会で、錦の御旗のように、振り回されている「知財権」について、一言、述べたいと思います。

 最近、米サンノゼ連邦地裁でクアルコムに対する判決がでましたが、それによるとクアルコムは携帯端末メーカーに対し端末価格の5%程度のロイヤルティーを求めるライセンス契約を強制しているとのことです。このように「知財権」も地主の「土地の所有権」同様、企業による「知的財産の所有権」で、「土地の所有権」同様の作用を社会にもたらし、「所有権」の独占にもとづいて製品価格に「ロイヤルティー」の上乗せを強制します。その結果、社会は余分な負担を強いられるとともに、文明の進歩の恩恵を受けられない人たちも生み出します。

 資本主義的生産様式の社会のこのような限界を乗り越えて、「意識的な計画的な結合体として組織され」た新しい「社会」は、「社会」として進歩的技術の開発を進め、その恩恵を社会全体で受けられるようにし、社会全体で一層の技術的進歩が図られるようになります。もちろん、資本主義的生産様式の社会との共存が強いられる状況の中では、資本主義的生産様式の社会にたいし「知財権」の縮小を働きかけるとともに、それらの国々との対等な利益の維持のための「知財権」の行使もせざるを得ないでしょう。

 私たちは、米中貿易摩擦が激化する中で、「知財権」に関する科学的社会主義の見方を、今こそ明確にする必要があります。

 

「第三九章」に関して、その他の留意すべき点

 つぎに、農業技術の進歩によって規模の拡大が進み、単位面積の小さいことが劣等地の条件の一つとなるなかで、日本はいかにして優等地の多い諸国とのハンディーを埋めるかが日本農業の大きな課題であることを再認識する必要があります。

 また、土地の価格は利用の高度化により一般的に上昇傾向があるなかで、「地代が資本還元された」ものとしての「幻想的」な価格をもつ「土地」はかっこうの「投機」対象であることも再認識する必要があります。

 なお、「穀物をより安く輸出することのできる植民地や一般に若い国々」の記述に関し、それらの国々の労働者にたいする帝国主義な収奪についても留意することを忘れてはなりません。

 そして、「資本主義的生産様式による農業の占領、自営農民の賃金労働者への転化は、事実上この生産様式一般が行なう最後の征服なのだから、これらの不等(租税の賦課や農業の発展度や資本配分等が均等でないこと──青山)は農業では他のどの産業部面でよりも大きいのである。」(P838)との指摘も忘れてはならないでしょう。

※なお、「第三九章」の主要な抜粋等より詳しくは、別添のPDFファイルを参照してください。

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3-39「第三九章 差額地代の第一形態」.pdf
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現代の私たちが「第四〇章」から学び、留意すべき点

 「第四〇章 差額地代の第二形態」のテーマは、「それぞれ生産性の違う諸資本量が次々に同じ地所に投下される場合と、それらの資本量が相並んで別々の地所に投下される場合とでは、ただ結果は同じだということだけを前提して、二つの場合のあいだになにか区別がありうるであろうか?」(P868)という問題意識をもとに論究されています。

 土地利用の高度化は地代と地価の上昇をもたらすということ。これは、都市部においても、当てはまり、土地利用の高度化が地代と地価の上昇をもたらし、地代と地価の上昇が一層の土地利用の高度化を強制し、地代と地価は上昇します。「知財権」においても、ベースとなる技術の「価値」は、それをもとに一層技術が発展すればするほど、高くなります。

※なお、「第四〇章」の主要な抜粋等については、別添のPDFファイルを参照してください。

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3-40「第四〇章 差額地代の第二形態」.pdf
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現代の私たちに「第四一章」の中でも繰り返し私たちに教えていること

 「第四一章 差額地代Ⅱ 第一の場合 生産価格が不変な場合」の中でも繰り返し私たちに教えていることは、資本主義的生産様式のもとでは、価値を生み出す可変資本も価値を生み出さない不変資本も利潤を生み出すための「資本」として捉えられ、不変資本の充用は生産性の向上をもたらし、生産性の上昇によって一時的に特別利潤をもたらすことから、不変資本の充用はつねに可変資本の充用よりも安上がりに見え、資本家は不変資本の充用に血道をあげる、ということです。

 しかしその結果、社会全体でみれば、不変資本の充用によって拡大された生産に見合う消費力、または、相対的に余剰となった可変資本の充用先が不足します。

 私たちは、資本主義的生産様式の社会は、常にこのような矛盾をもって発展することを丁寧に説明し、国民に理解されるまで、その克服の必要性を訴え続けることが大切です。

※なお、「第四一章」の主要な抜粋等については、別添のPDFファイルを参照してください。

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3-41「第四一章 差額地代Ⅱ 第一の場合 生産価格が不変な場合.pdf
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「第四二章」は「第四三章」と合わせてお読みください

 「第四二章 差額地代Ⅱ──第二の場合 生産価格が低下する場合」は「差額地代Ⅱ」の「生産価格が低下する場合」について、「追加資本の生産性」が「不変な場合」、「低下する場合」及び「上昇する場合」という三つの「節」をおこして、論究されています。

 エンゲルスは、「第三部」の「序文」で「「地代に関する篇(第六篇、第三七章~第四七章──青山)は、ずっと完全に書き上げられていたとはいえ、けっしてよく整理されてはいなかった」。「いちばん手がかかったのは、差額地代Ⅱのところの表であり、また、第四三章ではそこで取り扱われるべき差額地代Ⅱの第三の場合が全然検討されていないということを発見したことだった。」と述べていますが、草稿を生かし、「第一節」の表の差し替えなど必要最小限の補正を行ない、「第四三章」でエンゲルスが「結論」として明快な補足説明をしています。ですから、「第四二章」は「第四三章」と合わせてお読みください。

 なお、不破さんと違ってエンゲルスの偉いところは、不破さんのように鬼の首でも取ったかのようにマルクス・エンゲルス・レーニンを罵倒することなどせず、優しくフォローしている点です。エンゲルスとレーニンの著作と不破さんの著作を読むとき、この点も留意して、お読み下さい。不破さんの自己顕示欲の強さがよくわかります。

※なお、「第四二章」の主要な抜粋等については、別添のPDFファイルを参照してください。

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3-42「第四二章 第二の場合 生産価格が低下する場合」.pdf
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「第四三章 第三の場合 生産価格が上昇する場合 結論」を見る前にマルクスの草稿執筆の経緯とエンゲルスの編集方法

 『資本論』第三部の草稿の完成度については、エンゲルスが「序文」で詳しく述べており、その概略については、ホームページ4-27-3「 エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3) ③「『資本論』第三部を読む」を検証する。(1/3)」で紹介していますが、「第六篇 超過利潤の地代への転化」を読むと、あらためて、エンゲルスの「草稿」との格闘の様子がよくわかります。

 そして、「第六篇」の完成度に関しては、次のような事情があります。

 マルクスは、「第六篇」を「第三七章」(緒論)→「第四五章」(絶対地代)~「第四七章」(資本主義的地代の生成)→「第三八章」(差額地代総論)~「第四四章」(最劣等耕作地でも生まれる差額地代)の順に執筆し、マルクスのいつものやり方どおり、メインの「第三八章」から「第四四章」は最後の最後にまとめ上げる計画でした。「第四三章」はその中心の「章」として差額地代のまとめ(結論)と「第六篇」全体の計画を簡単に細説することを意図していたようです。ですから、第四三章と一体の第四一章と第四二章は、お読みいただければ分かるとおり、「けっしてよく整理されてはいな」い文章であり、第四三章は手もつけられていませんでした。(それをいいことに、不破さんは、これまで見てきたように、マルクスをぼろくそに中傷します。)

 このような事情から、エンゲルスが「第六篇」の中心である差額地代論の本論(第四〇章から第四三章)を「完全なもの」にしようとすると、「それはマルクスの著書ではないもの」になってしまいます。そこでエンゲルスは、第四一章と第四二章は、読みにくさは残るものの、「現にあるものをできるだけ整理することに限り」、第四三章で「必要な補足」として、第四一章から第四三章までの内容の整理をおこない、「差額地代Ⅱ」全体のまとめを「結論」として補足しました。

 このような編集上の苦労と編集方針にもとづいて、「第六篇 超過利潤の地代への転化」は、エンゲルスによって、立派に編集されました。

※なお、『資本論』での農業・地代に関する〝要チェック〟文章は、ホームページ5「温故知新」→「1マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「E、資本主義社会Ⅲ」の「16、農業」を、是非、ご覧ください。

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「第四三章」のエンゲルスの編集を見てみよう

 「第四三章 第三の場合 生産価格が上昇する場合 結論」は、まずはじめに、「第三の場合 生産価格が上昇する場合」が論究されていまが、それに続くエンゲルスが加筆した「結論」で、エンゲルスは次のように述べています。

「前記の第三の場合は原稿では書き上げられていなかった──そこには表題があるだけである──ので、以上のようにそれをできるだけ補完することが編者の仕事として残されていた。ところが、編者には、そのほかになお次のことも残されている。すなわち、差額地代Ⅱの三つの主要な場合と九つの派生的な場合とについての以上の全研究から、帰結される一般的な結論を引き出すということがそれである。」(P920)と。

 エンゲルスはこの使命を果たすために、「無地代地をゼロ点として起算した豊度の差」にもとづく一三の表を新たに作成し、一三の表を地代総額の増加区分に応じて四つの群に分けて論究し、次のような結論を導き出します。

「要するに、土地に投ぜられる資本が多ければ多いほど、一国の農耕と文明一般との発展が高ければ高いほど、それだけ一エーカー当たりの地代も地代の総額もますます大きくなり、社会が超過利潤の形で大土地所有者に支払う貢ぎ物はますます大きくなるのである──といっても、それは、ひとたび耕作されるようになった土地種類がすべて競争能力を保っているあいだのことであるが。

 この法則は、大土地所有者階級の生命の驚くべきねばり強さを説明する。……この階級は絶えず再び立ち直る──というのは、土地に投ぜられた他人の資本が、そこから資本家が引き出す利潤とはまったく不釣り合いに、この階級に地代を運んでくれるおかげである。

 しかし、この同じ法則はまた、なぜこのような大土地所有者の生命のねばり強さがだんだん尽きて行くのか、ということをも説明する。

 ……──F・エンゲルス」(P932-934を参照)

 このあと『資本論』は、マルクスの草稿に戻り、「地代を取り扱う場合の項目」が書かれた文章が挿入され、続けて、「差額地代一般の考察の一般的結論としては、次のようになる」として、

第一に。超過利潤の形成は、いろいろな経路で行なわれうる。……

 第二に。超過利潤の新たな形成が問題にされるかぎり、追加投資の限界は、ただ生産費を償うだけの投資」(P935-943)であるという文章に続きます。

※追加投資による生産物が規制的生産価格よりも高い費用を要しても、平均費用が規制的生産価格よりも低ければ、超過利潤は残る。

 そして、最後に、「これまでに述べたことからはまず次のことが明らかになる。」として、「第一に。追加資本が同じ土地に超過生産性を保ちながら投下されてい行く」場合、「第二に。ただ平均利潤を生産するだけでその超過生産性はゼロであるような追加資本の投下」の場合、「第三に。追加投資の生産物の個別的生産価格が規制的価格よりも高い場合、つまり、追加投資の超過生産性がゼロに等しいだけでなくてゼロよりも少なくてマイナス」の場合の検討結果が述べられています。

 

「第四三章」までの差額地代の考察のまとめ

 ①土地に投ぜられる資本が多ければ多いほど、一国の農耕と文明一般との発展が高ければ高いほど、それだけ一エーカー当たりの地代も地代の総額もますます大きくなり、社会が超過利潤の形で大土地所有者に支払う貢ぎ物はますます大きくなる。

 この法則は、大土地所有者階級の生命の驚くべきねばり強さを説明する。この階級は絶えず再び立ち直る。というのは、土地に投ぜられた他人の資本が、そこから資本家が引き出す利潤とはまったく不釣り合いに、この階級に地代を運んでくれるからである。

 ②といっても、それは、ひとたび耕作されるようになった土地種類がすべて競争能力を保っているあいだのことである。

 この同じ法則はまた、なぜこのような大土地所有者の生命のねばり強さがだんだん尽きて行くのか、ということをも説明する。

 ヨーロッパでは土地の一部分は穀物耕作では決定的に競争圏外に脱落し、地代はどこでも下がり、地主の悲嘆となった。しかし、幸いにしてまだすべての草原地帯が耕作されるまでにはなっていない。それは、まだヨーロッパの大土地所有の全部を破滅させ、なおそのうえに小土地所有をも破滅させるのに十分なだけ残されているのである。

 

「第四三章」と現代の私たちがインスパイアされること

 日本農業も、多くの分野で「競争圏外に脱落」しており、首都近郊においても、戦後の農地解放によって得られた細分化された農地を他者に貸す主たる目的は、ここに出てくるような地代を得ることよりも、土地の善良管理のためとなっている。

 〝競争圏外への脱落〟という言葉に私たちがインスパイアされるのは、資本の論理に従って、1970年代以降、電気産業を筆頭に強欲に利益を得ようと生産拠点を海外に移した結果、日本の産業全体が空洞化し活力を失い、競争圏外への脱落の道を着実に歩んでいることです。ここまま事態が推移すれば、丸の内の大地主も、〝結合労働の生産様式〟の社会へ土地を引き渡す前に、土地から〝超過利潤〟を得ることが困難になるということ、そしてその災難をまともに被るのは、私たち無産階級であるということ、このことも忘れてはなりません。

※「第四三章」についての詳しい説明等については、別添のPDFファイルを参照してください。

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「第四四章 最劣等耕作地でも生まれる差額地代」の概要

 差額地代Ⅱを媒介として、すでに地代をあげている優等地が価格を規制できるようになり、そうすることによってすべての土地が、これまで無地代だった土地も含めて、地代を生む土地に転化することがありうる。

 資本主義的生産様式の立場から見れば、同じ生産物を手に入れるために出費が必要な場合、つまり以前には支払われなかったものが支払われなければならない場合には、つねに生産物の相対的な騰貴が起きる。

 また、投資が行われてから土地が地代を生むのは、資本がその土地に投下されたからではなくて、投資がその土地を以前と比べてより生産的な投下部面にしたからである。

※「第四四章」の主な抜粋については、別添のPDFファイルを参照してください。

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ここまでが、不破さんが「『資本論』探求〈下〉」の「解説」で「マルクスの『展開の独自性』」などと皮肉った部分の『資本論』の内容と現代の私たちが学ぶべき点についての概要です。

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不破さんは、少しは、『資本論』に真摯な態度で向き合ったらどうだ

 不破さんは、「差額地代論」の「差額地代の『第二形態』をめぐって」という最後の「節」で、「率直に言って、私には、マルクスの理論の筋道が、何度読んでも理解できませんでした。そこには、二つの大きな疑問が最後までつきまとったからです」などと述べ、「この二つの理由から、差額地代の『第二形態』議論については、そこでのマルクスの『展開の独自性』に大きな疑問を抱いている、というのが、この部分に取り組んでの私の率直な感想です」と第一四章「(14)差額地代論」を結んでいます。

 不破さんらしい『資本論』の「解説」だといえばそれまでですが、不破さんは本当に『資本論』をちゃんと読んだのでしょうか。不破さんには、資本論から何かを学ぼうという気持ちが、本当にあるのでしょうか。

 確かに、「差額地代Ⅱ」は、目を通すだけでは非常に分かりにくいのは否めません。そして不破さんがエンゲルス嫌いなのはわかりますが、マルクスの盟友であるエンゲルスがその分かりにくさを補って、「差額地代Ⅱの三つの主要な場合と九つの派生的な場合とについての以上の全研究から、帰結される一般的な結論を引き出」しているではありませんか。

 不破さんは、「差額地代」を重層的(時間的)に捉えることそのものを否定しているのでしょうか。もしも、そうであるならば、はっきりとそう言うべきです。しかし、それは事実を偽るもので、誤っています。「マルクスの『展開の独自性』に大きな疑問を抱いている」などという陰険な言い方でマルクスを否定するのはやめるべきです。もしも、そうでなく「差額地代Ⅱ」を認めるのであれば、マルクスの不備を誹謗するのではなく、不破さんにその能力があるならば、マルクスの述べていることをエンゲルスのように補足して「解説」すべきではないでしょうか。

 科学的社会主義の思想を自らの思想たらんと心得ている人は、「イタチの最後っ屁」のような文章の結び方など、絶対に、してはなりません。

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「第四六章」のポイントと現代の私たちが心に留めておくべき点

 つぎに、「『資本論』探求〈下〉」で不破さんが触れていなかった「第四六章 建築地地代 鉱山地代 土地価格」を簡単に見てみたいと思います。

 この「章」も大変大事な章で、私たちに様々な示唆を与えてくれています。また、「第七篇」の「第四八章 三位一体的定式」への導入的な文章も含まれていますので、是非、お読み下さい。

 「第四六章」は、都市における土地所有は、社会の一部分が他の部分から、地上に住めるという権利の代償として貢ぎ物を要求し、生命の維持と発展とを搾取するという所有者の権利を与えること、地代の源泉は社会の剰余労働の一部分であるにもかかわらず、この権利が資本主義的生産関係のもとで売買されることによって、地代の源泉があたかも資本にあるかのように映り、真の源泉がおおい隠されることを述べ、それは、黒人を買った奴隷所有者にとっては、彼の黒人所有は、奴隷制度そのものによってではなく商品の売買によって得られたものとして現れるのとまったく同様であり、生産関係がこれらの権利をつくりだしていることを指摘します。

 そして、この生産関係がある一点に達して脱皮せざるをえなくなれば、権利とそれにもとづくいっさいの取引との物質的な源泉、経済的および歴史的に是認される源泉、社会的な生命生産の過程から発する源泉は、なくなってしまうこと、より高度な経済的社会構成体の立場から見れば、地球にたいする個々人の私有は、ちょうど一人の人間のもう一人の人間にたいする私有──奴隷制度のこと──のように、ばかげたものとして現われることを私たちに強く訴え、土地の持つ意味について、「一つの社会全体でさえも、一つの国でさえも、じつにすべての同時代の社会をいっしょにしたものでさえも、土地の所有者ではないのである。それらはただ土地の占有者であり土地の用益者であるだけであって、それらは、よき家父〔boni patres familias〕として、土地を改良して次の世代に伝えなければならないのである」と言い切ります。

 私たちも、これらのことをしっかりと言い続け、国民共通の理解になるよう努めなければなりません。

 なお、「急速に発展しつつある諸都市では、特にロンドンでのように建築が工場的に営まれるところでは、建築投機の本来の根本対象をなすものは地代であって家屋ではない」との論及は、1980年代の日本のバブルが見事に証明しています。

 そして、私たちはこのような「権利」の錯覚や資本主義的生産関係がもたらす「常識が不合理と見るものは合理的なものであり、常識で合理的なものは不合理そのものである」という環境の中で生活しており、多くの人々が、それを当然のこととして、あたかも「水中の魚のように気安さを覚え」て日常生活を送っていること、そのことを国民一人ひとりがしっかりと理解できるよう、資本主義的生産関係の仕組みを徹底的に暴露することに努めることの必要性を、私はこの章で、痛感いたしました。

※「第四六章」の概要等より詳しい説明は、別添のPDFファイルを参照して下さい。

また、「常識が不合理と……」等の『資本論』での論及については、ホームページ「温故知新」→「マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「E、資本主義社会Ⅲ」の「16、農業」のPDFファイル「16-7 土地は改良して次の世代に伝えなければならない」及びホームページ「温故知新」→「マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「C、資本主義社会Ⅰ」の「9、資本主義社会での物事の認識」のPDFファイル「9-3 内的な関連から疎外された、それだけとして見ればばかげたもの……」を参照して下さい。

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「第四七章」についての不破さんの「解説」

 「第四七章 資本主義的地代の生成」についての不破さんの「『資本論』探求〈下〉」での「解説」は、まず、『資本論』をもとに〝資本主義的地代成立のための歴史的前提〟について行なわれます。

 続けて不破さんは、「土台と上部構造の関係。一歩深めた定式」と銘打った「節」で、マルクスが、「資本主義的地代に先行する地代形態として、『労働地代』、『生産物地代』、『貨幣地代』」をあげ、その転化の歴史をたど」ったことを述べ、よせばいいのに、「第一部で『本源的蓄積』の歴史を探究した時は、最も典型的な国イギリスを研究の対象としましたが、今回は、古代ではローマやカルタゴ、あるいはインド、中世と近代でもヨーロッパ諸国の歴史を広く取り上げ、いわば世界史的視野で研究を進めていることが、大きな特徴となっています」と、何ともトンチンカンなことを言います。

 そして、「この分析を進めるなかで、マルクスが、土台と上部構造の関係について、『経済学批判』「序文」での有名な定式を、一歩深める記述をおこなっていることも、見落とせない点です。」と述べて、蘊蓄を披露し、『資本論』から唯物史観に基づく記述の文章を抜粋しますが、何をどう「一歩深め」た記述なのかの説明は、一切ありません。「一歩深める記述」のどこが「見落とせない点」なのか、印象だけを植えつける、いかにも不破さんらしい文章ですが、不破さんは、何を私たちに言おうとしているのか、さっぱり分かりません。

 

「地代」と「本源的蓄積」との不破さんの「何ともトンチンカン」な比較

 私は、先ほど、不破さんが「何ともトンチンカン」なことを言いますと申し上げましたが、マルクスは、不破さんが言うように、「『本源的蓄積』の歴史を探究した時」は視野が狭く、「今回」は、視野を広く「世界史的視野で研究を進め」たのではありません。

 マルクスが『資本論』でイギリスを例にとったわけは、「ただイギリスにおいてのみ、「本源的蓄積の歴史」の典型的な形をとるから」(大月版①P932-6参照。)で、世界を見ていなかったからではありません。そして、「『労働地代』、『生産物地代』、『貨幣地代』」の「転化の歴史」の論及にあたって、マルクスが「世界史的視野で研究を進めている」のは今に始まったことではありません。『経済学批判』の「序文」の中で、「大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式を、経済的社会構成が進歩していく諸時期としてあげることができる」と言っているように、『経済学批判』を刊行した1859年より以前から、マルクスは「世界史的視野で研究を進め」、その中で典型を見つけだしているのです。

 だから、不破さんの文章は、マルクスの意図をまったく理解しないか、マルクスを不当に不完全な人間に見せるための、「何ともトンチンカン」な「蘊蓄」と言えるのです。

 

不破さんにマルクスの唯物史観を歪めることはできない

 もしかしたら、不破さんは、不破さんが21世紀になって「革命観の大転換」をして完全にマルクス修正主義者・改良主義者に転落してしまったように、マルクスを「マルクス修正主義者・改良主義者」に仕立てあげる、何か、ヒントでも見つけたのかも知れませんが、残念ながら、不破さんは、マルクスが「唯物史観の定式」を「一歩深め」た「見落とせない点」があると言いながら、いったい何をどう「一歩深め」たのか、一切私たちに明らかにしてくれません。

 何しろ、不破さんにとっては、マルクスの発見した〝唯物史観の定式〟は、不破さんから見れば、不破さんがでっち上げた「恐慌=革命」説の前提になるものでしょうから、マルクスがいつかの時点で「土台と上部構造の関係」についての認識を「一歩深め」て、「革命観の大転換」を果たしてもらわなければ、不破さんにとってつじつまが合わないのです。

 しかし、残念ながら、不破さんにとって、そう都合よくいくものではありません。

 不破さんが抜粋した『資本論』の唯物史観──「労働の社会的生産力の一定の発展段階に照応する」生産関係が「全社会構造」の「基礎」だという社会観・歴史観──と『経済学批判』「序文」での唯物史観とは、まったく同じ観点で述べられています。「革命観の大転換」など起こす余地のないことは、マルクスがシュヴァイツァーあてに書いた1865年1月24日付けの手紙(『プルードンについて』)を見れば明らかです。

 不破さんが唯物史観を「土台と上部構造の関係」などという曖昧な表現にし、プルードン流の「ユートピア主義者のやり方」を持ち込むために、マルクスを「一歩深め」ようとしても、徒労に終わるだけです。不破さんには、そのことを、前もって申し上げておきたいと思います。

※詳しくは、ホームページ4-26-2-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。」を、参照して下さい。

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「第四七章」での、不破さんの、ビックリ「発言」その2。

『資本論』への不信を煽るだけの不破さんのマルクスの歪曲

 

 不破さんは、「第四七章」の「解説」で、「『貨幣地代』の項」のマルクスの「分析の基調は、資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということの証明におかれました」と言います。

 そしていきなり、「マルクスが、一八四八年の革命の敗北以来、一貫して強調してきたのは、資本主義下の農民がめざすべき革命的活路は、小土地所有への幻想からはなれ、労働者階級との同盟、農業の社会化をめざす以外にない、ということでした」とマルクスを歪曲し、その証拠として、『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』(1852年)の中の「ナポレオンの王政復古に絶望するとき、フランスの農民は自分の分割地にたいする信仰を捨てる」という文章を持ち出して、「この同盟(労・農同盟のこと──青山)が成立する前提は、農民が小土地所有への幻想を捨てることだとされました」と言います。

 そして、ここからが、不破さんの真骨頂の発揮どころです。「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」=「農業の社会化をめざす」ことという間違ったレッテルをマルクスに貼っておいて、すぐ、「その後、……『土地所有の社会化』とか『土地の国有化』を運動の目標とするのは誤りだという結論に達しました」と、不破さんは自分で創ったフィクションを否定し、「ですから、農民的土地所有についての『資本論』のこの分析を読むときには、マルクスの見解のその後の発展を理解することが、たいへん重要になります。」と述べて、私たちが『資本論』の「この分析」のもつ意味を理解することを妨げようとします。

 

農民に訴えて、資本主義社会での農民的小経営への幻想を暴露し、捨てさせることは、革命運動にとって非常に重要なこと

 不破さんのこの文章には、巧妙なトリックがあります。まず、ここでマルクスが述べているのは、「農業の社会化」という「資本主義下の農民がめざすべき革命的活路」の問題ではありません。労働者階級が「めざすべき革命的活路」の問題であり、プロレタリア革命を成功させるための労・農同盟の不可欠性の問題です。

 労働者階級が、「資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということ」を農民に訴えて、資本主義社会での農民的小経営への幻想(小土地所有への幻想──農民の自分の分割地にたいする信仰)を暴露し、捨てさせることは、強固な労・農同盟を築くうえで大変重要なことです。そして、そのことなしにプロレタリア革命を成功させることができないことは、明らかです。口を開けば「多数者革命」──科学的社会主義の思想がいう〝革命〟とは、常に、人民大衆がおこなう〝多数者革命〟ですが──を言って、すべてのエネルギーを共産党の議席増大に矮小化している不破さんでも、そのくらいのことは分かるでしょう。

 そのことと、プロレタリア革命の課題として「農業の社会化」なる馬鹿げた課題を掲げることとは、まったくの別問題です。資本主義社会での農民的小経営への幻想をもつ農民が、「資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということ」を理解したとしても、小経営農民から農業労働者に没落した人たちの一部を除いて、「農業の社会化」のスローガンに諸手を挙げて賛同するものではないことは、不破さんはともかく、誰にでもわかることです。それなのに、不破さんは、「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」=「農業の社会化をめざす」とマルクス・エンゲルスの思想を歪曲してはばかりません。

 「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」、労働者階級が、「資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということ」を農民に訴えて、資本主義社会での農民的小経営への幻想(小土地所有への幻想──農民の自分の分割地にたいする信仰)を暴露し、捨てさせることは、革命運動にとって非常に重要なことです。

 そもそも、「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」と「農業の社会化をめざす」こととは別問題ですが、「農民が自分の分割地にたいする信仰を捨てること」が問題であると不破さんが思うのであれば、『資本論』への不信感をあおるだけでなく、はっきりとそう言えばいいではないですか。

 いまの日本農業にとっても必要なことは、TPPなどに反対することだけではありません。「資本主義社会では、農民的小経営の発展の条件はなく、その没落は経済的に不可避だということ」をしっかり訴えて、資本主義社会での農民的小経営への幻想を暴露し、捨てさせることに努力し、労働者階級と農民との強固な連帯の礎を築くことです。そのことをぬきに、自民党の農政と闘うことはできません。そのことを『資本論』の読者にしっかりと伝えることこそが、『資本論』の「解説」者のおこなうべき使命です。

 ところが不破さんは、この肝心要のことを行なわないだけでなく、マルクスの革命論を歪曲し、そこに焦点をあてることによって、「第四七章」のもつ価値を著しく低めてしまいました。

 私はこのように不破さんに一つ一つ真面目に対応していますが、不破さんは「第四五章 絶対地代」の「解説」のところで、「かりに農業が平均より高い資本構成をもつ生産部門であったなら、事態はまったく違った様相を呈していたでしょう」などとまったくトンチンカンなことをいう程度の頭の持ち主ですから、不破さんに対してこんなに真面目に応える必要はないのですが、私が相手にしているのは不破さんではなく不破さんに騙されようとしている真面目な人たちなので、このように一つ一つ真面目に対応せざるをえません。

 

マルクスが人民革命と名づけたあらゆる革命

 なお、科学的社会主義の〝革命思想〟をよく現すものとして、レーニンの次のような言葉がありますので、お読み下さい。

「わが国の革命がおこなっていることが偶然ではなく──われわれは、それが偶然ではないことを、深く確信しているが──、またわが党の決定の産物でもなくて、マルクスが人民革命と名づけたあらゆる革命、すなわち、人民大衆が、古いブルジョア共和国の綱領を繰りかえすことによってではなく、彼ら自身のスローガンにより、彼ら自身の奮闘によって、みずからおこなうあらゆる革命の不可避的な産物であるなら、もしわれわれがこのように問題を提出するなら、われわれはもっとも重要なものをなしとげることができるであろう」(レーニン全集第27巻P138)

 不破さんは、マルクス・エンゲルス・レーニンを誹謗・中傷し、立党のこころざしを捨て去り、「多数者革命」を口実にして共産党の票を増やすことだけに淺知恵を絞り、その結果、共産党を弱体化させてしまいました。不破さんは、〝多数者革命〟とは何か、上記のレーニンの言葉を煎じて飲んだほうがよいのではないか。

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「第四七章」のポイント

 このように、21世紀になって「革命観の大転換」をして完全にマルクス修正主義者・改良主義者に転落してしまった不破さんは、「第四七章 資本主義的地代の生成」の「解説」を装ってマルクスの歪曲に努めてはばかりません。

 マルクス・エンゲルスは、「第四七章」で何を述べているのか、そして、この「章」がインスパイアしてくれることを一緒に考えてみましょう。

 『資本論』のこの「地代」の篇は、資本主義以前の搾取の仕組みと資本主義的生産様式のもとでの搾取の仕組みにおける「地代」の質的な違いを明らかにし、最後に、資本主義的生産様式のもとでの土地私有の不合理さと矛盾を告発しています。

 「小さな土地所有」の農民は、自分の生産物を商品として生産することができるような条件なしに、商人となり産業家となることによって、生産者は自分の生産物の貨幣価格に依存するという資本主義的生産様式の不利が、資本主義的生産様式の不完全な発展から生ずる不利といっしょになることを述べ、最後に、「小規模な耕作」と「大農業」のどちらの形態でも、資本主義的生産様式のもとでは、土地を共同的永久的所有として、入れ替わって行く人間世代の連鎖の手放すことのできない存在・再生産条件として、自覚的合理的に取り扱うのと違って、地力の搾取や乱費が現れることを指摘し、工業的に経営される大農業は、その工業的体制が農村労働者を無力にするとともに、工業や商業は農業に土地を疲弊させる手段を提供することを述べて、「第四七章」は結ばれています。

 

現代の私たちが留意すべき点

  その中で、何やら、日本農業の現状を現すかのように、「生産手段の無限の分散化、そして生産者そのものの無限の孤立化。人間力の莫大な浪費。生産条件がますます悪くなり生産手段が高くなって行くということは、分割地所有の必然的な法則である」(P1034)ことや、上述の「小さな土地所有」(P1040)の場合が述べられています。

 同時に、資本主義的生産の特徴として、「資本主義的生産」は、社会のますます増大する一部分を直接的生産手段の生産から解放して、彼らを〔手のあいている人〕に転化させ、他の部面で利用できるようにすることも論及さてます。

 なお、マルクスは、地力の搾取や乱費が現れることを指摘していますが、資本主義的生産は目先の利益を求め、〝われ亡きあとに洪水はきたれ!〟の世界です。だから、農産物の安全性や地球環境の問題など当面緊急な対策が強く求められない事柄について、まったく無関心なのが、資本主義的生産様式のもとで農業です。この点を補足しておきます。

 これらを踏まえ、私たちは、資本主義的生産様式のもとでの、農業特有の生産性の低さ、生産性の漸増性にもとづく農業経営の不利について、日本の「小さな土地所有」にもとづく農業経営の不利について、科学的社会主義の思想にもとづく正しい認識と明確な展望をもって、広く国民にアピールする必要があります。

 なお、「この生産物地代の大きさは、労働条件の再生産、生産手段そのものの再生産をほんとうに危くし、生産の拡張を多かれ少なかれ不可能にし、直接生産者の生活手段を肉体的最低限度まで圧し下げるほどになることもありうる。ことに、この形態が、征服者である商業国民、たとえばインドでのイギリス人のようなものに見つけられて利用される場合には、そうである。」(P1021)という文章は、帝国主義者のあくどさを鋭く描写していますが、今日でも、農業に限らず、「知財権」等を振りかざして資本主義帝国主義者による同様な行為が堂々と全世界で行なわれています。

※この章の『資本論』からの抜粋等詳しい説明は、別添のPDFファイルをご覧下さい。

また、ホームページ「温故知新」→「マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「E、資本主義社会Ⅲ」の「16、農業」のPDFファイル「16-8封建的生産様式の地代と資本主義的生産様式の地代」、「16-9 中世の都市と農村との関係」、「16-10 分割地所有の限界」及び「16-11 資本主義下の『小さな土地所有』と『大きな土地所有』の弊害」等も参照して下さい。

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97『資本論』「第六篇」のまとめ

 

ここで改めて、『資本論』の「第六篇」(地代に関する篇)の読み方を考えてみましょう

 マルクスは、「地球の一断片」である土地を資本主義的生産様式のもとで所有することの経済的意味を面的(空間的)、重層的(時間的)に可能な限り捉えることによって、資本主義的生産様式のもとでの「差額地代」と「絶対地代」のもつ意味を詳細に明らかにするとともに、「社会の資本主義的形態が廃止されて社会が意識的な計画的な結合体として組織されている」状況と対比しての資本主義的生産様式のもとでの「土地所有の不合理」について、鋭く暴露しました。

 『資本論』の地代論の学習は、資本主義的生産様式のもとでの「土地所有の不合理」についての現代の現れをより深く論究し、暴露するための契機となるだけでなく、「土地所有」と類似の所有形態である「知財権の所有」についても、私たちに多くのヒントを与えてくれています。

 是非、皆さんが『資本論』の学習をする際には、不破さんのようにあら探しや蘊蓄を深めるために学習するのではなく、現代の資本主義をつねに念頭に置いて読み進んで下さい。そうすれば、皆さんは、私がこのページで指摘したことを遙かに超える多くのヒントを得て、現代の資本主義をより徹底して暴露することができるでしょう。

連載5完結。

〈連載その6〉完結篇への招待

不破さんによって、『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想はどう変えられたのか、『資本論』最後の〝篇〟第三部「第七篇」を中心に、不破さんの「『資本論』探究」を批判の軸において、検証していきます。

 不破さんは、『資本論』の最後の「篇」、「第七篇」をマルクスの「スミスのドグマ批判」と矮小化し、マルクスが「三位一体的定式」とそれに関連する謬論を解明し暴露することを、「うんざりしていた」と言い放ちます。そして不破さんは、「第四八章」の「必然性の国」と「自由の国」の記述には一切触れず、未来社会に関するマルクスの考えをレーニンの誤った考えででもあるかのように歪曲して、否定します。

 不破さんの「思想」が、『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想といかにかけ離れているか、一緒に見ていきましょう。