AZ-4-4  不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その4)

『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えさせるな!!!

──『資本論』第三部での不破さんの歪曲と捏造(その1)──

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※このホームページに注釈なしで書かれているページは、「『資本論』探究〈下〉」のページです。また、(大月版……)と書かれているページは『資本論』のページです。

「第三部 資本主義的生産の総過程」

P10-16 不破さんらしい「第三部」の「解説」のはじまり

⦿不破さんの「『資本論』第三部を読む」は、「(1)第三部の研究対象は何か──『日常の意識』のなかの世界に近づく」というタイトルの文章で始まっています。

⦿『資本論』第三部の解説のはじめ、導入部分であるならば、そして『資本論』を「歴史的に読む」と言っているのであればなおさら、第三部は、マルクスのどんな仕上がり状態の草稿をエンゲルスがどのように編集したのかを、その経緯の説明も含めて書かれているエンゲルスの「序文」等を参照して、その解説をはじめるのが、一般的、常識的な解説の仕方でしょう。

⦿しかし、不破さんは違います。不破さんは、まず、マルクスが「第三部」を資本主義的生産の「総過程の諸姿容」といっているのにエンゲルスが「資本主義的生産の総過程」と変えてしまったのは、「第三部全体の趣旨を誤解させることで、残念な訂正だったと思います」と言って、エンゲルスが「第三部」のタイトルを「資本主義的生産の総過程」としたことが「第三部全体の趣旨を誤解させる」ことでもあるかのように、読者に印象づけようとします。

⦿「序文」を読んでいただければ分かるとおり、『資本論』第三部の編集に大変な苦労をしたエンゲルスは、不破さんの「巧み」な話術によって、「第三部全体の趣旨を誤解させる」修正主義者の地位に落としめられてしまいます。

⦿不破さんが『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えるうえで大事なことは、1865年以前のマルクスは間違っており、「資本主義観の大転換」と「革命観の大転換」を知らされていなかったエンゲルスは「第三部全体の趣旨を誤解」していたという筋書きが成り立つことです。

⦿不破さんは、「第三部」のタイトルが「資本主義的生産の総過程」と「総過程の諸姿容」と違うだけで、エンゲルスが「第三部全体の趣旨を誤解」していたということまで分かってしまうのですから、天才と言うよりも予言者の域に達しています。

⦿ただし、「第三部全体の趣旨を誤解」しているのはエンゲルスなのか、それとも、不破さんなのか、このページを読み進むなかで明らかになります。

⦿つぎに不破さんは、「本文に入る前に、のべておきたいことがあります。」と言って、不破さんが発見(創作)した『資本論』の「歴史的」読み方に、なんとなく誘導するために「第三部草稿」が「未完稿の形のままで残された」という特徴をあげ、その理由として、「著作の諸部分を互い違いに仕上げている」というマルクス自身の言葉を引用しています。

ちょっとわき道に

⦿ちょっとわき道にそれますが、「著作の諸部分を互い違いに仕上げている」ということに関して、不破さんが「第二部を読む」でおこなったマルクスに対する侮辱を思い出していただきたいと思います。

⦿不破さんは、「『資本論』第二部を読む」で、マルクスが第一部草案を書き終えたあと、1864年の夏頃から、「第3部」を第2章(草稿の「章」は『資本論』では「篇」のことです。)→第1章→第3章の順に書き、その後、1865年の前半に「第2部 資本の流通過程」の草案を書きはじめたことについて、その理由を、マルクスの三つの無能のせいにしていました。

⦿不破さんは、マルクスが意識的に「著作の諸部分を互い違いに仕上げている」ということを知っているということを、ここで、明らかにしてしまいましたが、「第二部を読む」を執筆したときは、そのことを知らずにマルクスの三つの無能の「推測」をしてしまったとでも言うのでしょうか。それとも、不破さんという人は、根っからの「ペテン師」なのでしょうか。

さて、話を戻します。

⦿不破さんは、マルクスのエンゲルスへの手紙で「第三部の第一篇、第二篇については、草稿に執筆した内容をかなり詳しく紹介して」いるのに、第三篇の「利潤率の傾向的低下の法則」に関しては、すでに「第一部で展開されたことからも、明らかだ」として「ごく簡潔に」述べられているだけだから、「このことは、第三篇について、マルクス自身がその内容を大きく変えるつもりでいたことを示すものです」と言います。

⦿すでに「第一部で展開されたことからも、明らかだ」として「ごく簡潔に」述べられているだけだと、どうして、「第三篇について、マルクス自身がその内容を大きく変えるつもりでいたことを示すもの」となるのか、さっぱり分かりません。

⦿不破さんはこれまで、マルクスのエンゲルスへの手紙で「第三篇」が簡潔に述べられている理由について、マルクスがエンゲルスに『資本論』を「〝速く仕上げよ〟」と言われるのを恐れて「資本主義観」や「革命観」が変わことさえエンゲルスに「報告」しなかったと、とんでもないことを言っておりましたが、この「新版『資本論』」の宣伝のページでも、エンゲルスにマルクスが『資本論』を「〝速く仕上げよ〟と言われるから、事前の相談をしないのです」と見てきたような「推測」をしています。しかし、臨機応変に見てきたように「推測」を変える不破さんは、ここでは、マルクスが「資本主義観」や「革命観」が変わって「第三篇」の「内容を大きく変えるつもりでいた」から、エンゲルスには報告しなかったと言うのです。

⦿また、不破さんは、「『資本論』探求〈上〉」の「『資本論』第二部を読む」では、「マルクスは、自分の仕事について、第三部を仕上げるごく大まかな構想と、再生産論や地代を発見した時の喜びにみちた報告以外には、エンゲルスにほとんど知らせていませんでした。」と言って、マルクスがエンゲルスに「ごく大まかな構想」については「報告」することを述べていますが、「『資本論』探求〈下〉」では、「資本主義観」と「革命観」の転換によって「第三篇」の「内容を大きく変えるつもりでいた」のに(から?どっちだ?)、「第三部を仕上げるごく大まかな構想」として報告しなかったというのです。

⦿不破さんの臨機応変の、その場しのぎの、「推測」はついに詰んでしまったようです。

 『資本論』を「〝速く仕上げよ〟」と言われるのを恐れて「資本主義観」や「革命観」が変わことさえ「報告」しなかったではあんばいが悪いし、ごく大まかな構想は報告していたはずなのに「第三篇」の「内容を大きく変えるつもりでいた」ので「報告」しなかったでは理屈に合わない。もう、八方ふさがりです。

⦿なお、マルクスは、1864年から1865年にかけて「第三篇」を執筆したあと、1865年の前半に「第二部」の草案を書き、その後『資本論』第三部の「第四篇」以降の草案を執筆したといわれています。そして、第三部の「第四篇」以降の草案を執筆したあと、「第二部」については1881年の第8稿まで執筆を続け『資本論』の執筆を打ち切りました。しかし、この間に、マルクスが「第三篇」の「内容を大きく変えるつもり」だなどと言った記録など聞いたこともありませんし、ましてや、マルクスが二一世紀の不破さんのように「資本主義観の大転換」をした記録など見たこともありません。

⦿このように、不破さんは、第三部の「解説」の「はじめに」にあたる部分で、第三部の表題を理由に、『資本論』第三部を編集した功労者のエンゲルスを「第三部全体の趣旨を誤解させる」修正主義者に仕立て上げ、「第三篇」を葬り去ろうとして、エンゲルスはマルクスの「資本主義観」と「革命観」の転換を知らなかったという虚構を作り上げるためのまったく無理な「推測」までして、自ら創作した「『資本論』の「歴史的」読み方」へのプロローグとしています。

⦿なんとも、不破さんらしいやり方ですが、こういう人が「新版『資本論』」の編集責任者をしているということを、肝に銘じて「新版『資本論』」を読み進んで下さい。

まず、エンゲルスの「序文」をちゃんと読もう

⦿序文は、エンゲルスが『資本論』第三部の編集に約一〇年を要した理由の説明を行ない、続いて「第三部」への導入の文章となります。序文には不破さんにとって耳の痛い、聞きたくない言葉がいっぱい詰まっています。必ず序文を読んで、第三部の学習への備えにして下さい。そして、第三部の学習が終わったら、もう一度、序文を読み返してみましょう。

※なお、序文のエンゲルスが『資本論』第三部の編集に約一〇年を要した理由の説明について、「第三部」への導入の一連の文章の中の不破さんにとって耳の痛い、聞きたくない言葉の三つの代表例(①物事の捉え方②史的唯物論③科学的社会主義者の基本精神)について、ホームページ4-27-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(1/3)」で、是非、お確かめ下さい。

『資本論』の読者は、第三部全体の趣旨を誤解させられたか

⦿不破さんは、マルクスが「第三部」を資本主義的生産の「総過程の諸姿容」といっているのにエンゲルスが「資本主義的生産の総過程」と変えてしまったのは、「第三部全体の趣旨を誤解させることで、残念な訂正だったと思います」と言います。

⦿しかし、『資本論』の第三部を読んだ人で、第三部のタイトルが「資本主義的生産の総過程」となっていることによって、「第三部全体の趣旨」を「誤解」した人がいたでしょうか。いるとすれば、それは、もう少しあとでよく分かりますが、「第三部全体の趣旨」を最初から「誤解」している不破さんくらいなものでしょう。

⦿私たちは、著作の内容を読んでその著作の中に書いてあることを理解します。不破さんのこの主張を読んで不破さんに賛同する人がいるとすれば、その人は、まだ『資本論』を読んでいない人です。不破さんの主張は、不破さんの「解説」だけを読んでいる人にそう思わせるだけのものです。

⦿もしも「資本主義的生産の総過程」というタイトルがふさわしくないのであれば、「内容」と「タイトル」が一致せず「残念な訂正だった」だけで十分です。「タイトル」で「内容」を変えることはできません。それなのに、エンゲルスが、いかにも、「第三部全体の趣旨」を変えてしまい、『資本論』の読者に「誤解」を与えているかのように言うのは、『資本論』を読んだ人にとって事実ではありません。

『資本論』第三部は何を言い、何を言おうとしたのか

⦿そもそも、「第三部」でマルクスとエンゲルスは何を言い、何を言おうとしたのか、一緒に見てみましょう。

⦿私は、「エセ『マルクス主義』者の『資本論』解説(その2)」で、「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」を書いた理由について、MEGA「解題」には、「第1部」第6章のあと「第3部」を書ことによって、「本質と直接的な現象との、問題を孕んだ関連を矛盾なく説明すること、運動法則それ自体を暴くばかりでなく、同じくこの法則の貫徹メカニズムを証明することにも努めていたことに帰せられるべきものであった」と述べられていることを紹介しました。

⦿私は、同じく「エセ『マルクス主義』者の『資本論』解説(その2)」で、「第三部 資本主義的生産の総過程」は、「第一部」の資本主義独自の富を生み出す過程、つまり「資本の生産過程」で、生み出された富が「第二部」の「資本の流通過程」という「軀体」──それは、「市場」、「商業」、「信用」等、資本の運動法則が円滑に進行するための「機能」・「器官」が備わった「軀体」──を通って「資本主義的生産の総過程」を通じて富が分配されるメカニズムを説明し、あわせて、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもり」であった、ことを述べました。

⦿マルクスがエンゲルスあての手紙で、『資本論』が、「資本の一般的本性」を究明し、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもり」であるといい、エンゲルスが、たぶんマルクスのこの言葉を念頭において、「序文」で第七篇について、「最後の章ははじめのほうがあるだけである。ここでは、地代、利潤、労賃という三つの大きな収入形態に対応する発展した資本主義社会の三つの大きな階級──土地所有者、資本家、賃金労働者──と、それらの存在とともに必然的に与えられている階級闘争とが、資本主義時代の事実上現存する結果として示されるはずだった。」と述べていることを思い出して下さい。

⦿このように、「第三部」は、「資本の生産過程」で創られた富が「資本の流通過程」を通じ、「資本主義的生産の総過程」で「諸姿容」をとって分配されるメカニズムを明らかにし、そこでの階級闘争を呈示することによって、資本主義社会を土台から解明した『資本論』にふさわしい完結篇となるべき地位が与えられていたと思われます。

⦿このように、私は、「第三部」は、資本主義的生産の総過程における富の分配と階級闘争の篇であると捉えています。

第三部 冒頭の文章

不破さんは、主題は「総資本の諸姿容」だという

⦿不破さんは、マルクスは第一巻初版への「序言」で「この著書の第二巻は資本の流通過程(第二部)と総過程の諸姿容(第三部)とを取り扱い」と述べており、第三部の冒頭の文章では、資本主義的生産の「総過程について『一般的反省』をおこなうことは、第三部の課題ではないとの断り書きまで書きそえています」と言います。

 そして、不破さんは、「第三部で研究するのは、私たちがこれまで第一部、第二部で研究してきた世界とは、次元の違う世界なのです」と言い、これまで研究してきたのは「資本主義社会の本質的、内面的な世界」で、「これから研究するのは、『社会の表面』に現れる世界」だと言い、「これまで見てきた世界の最大の特徴は、それが、商品が価値どおりに交換され、流通する世界だということでした」が「第三部で研究される『生産当事者たちの日常の意識』に近づいてゆく世界では、そこがどう変わるのか。それは、これからの研究のお楽しみに残しておくことにしましょう。

 そしてマルクスは、こういう意味で、第三部の内容の核心を示すものとして、『諸姿容』の語を押し出したのでした。」と、言います。

⦿「青い字」で表示した、「それが」「そこが」「こういう意味で」という肝心なところの意味がよく分かりませんが、「こういう意味で」といういうのは、「これから研究するのは、『社会の表面』に現れる世界」を研究するという意味で、ということを不破さんは言いたかったんだろうと思います。

⦿これらを踏まえて、不破さんは、第三部の主題は「総資本の諸姿容」だと言います。

「資本主義的生産の総過程」とは

⦿マルクスが第一巻初版への「序言」で述べている資本主義的生産の「総過程の諸姿容」という言葉のなかの「資本主義的生産の総過程」とはどんな意味なのでしょうか。それを探るために、ちょっと長くなりますが、第三部の冒頭の文章を全文抜粋してみましょう。不破さんが一部抜粋した文章は非常に理解しづらい訳なので、その部分を含め「大月版」を抜粋します。

「第一部では、それ自体として見られた資本主義的生産過程が直接的生産過程として示している諸現象が研究されたのであって、この直接的生産過程ではそれにとって外的な諸事情からの二次的な影響はすべてまだ無視されていたのである。しかし、このような直接的生産過程で資本の生涯は終わるのではない。それは現実の世界では流通過程によって補われるのであって、この流通過程は第二部の研究対象だった。第二部では、ことに第三篇で、社会的再生産過程の媒介としての流通過程の考察にさいして、資本主義的生産過程を全体として見ればそれは生産過程と流通過程との統一だということが明らかになった。この第三部で行われることは、この統一について一般的な反省を試みることではありえない。【そこでなされなければならないのは、むしろ、全体として見た資本の運動過程から出てくる具体的な諸形態を見いだして叙述することである。現実に運動している諸資本は具体的な諸形態で相対しているのであって、この具体的な形態にとっては直接的生産過程にある資本の姿も流通過程にある資本の姿もただ特殊な諸契機として現れるにすぎないのである。だから、われわれがこの第三部で展開するような資本のいろいろな姿は、社会の表面でいろいろな資本の相互作用としての競争のなかに現われ生産当事者自身の日常の意識に現れるときの資本の形態に、一歩ごとに近づいて行くのである。】」なお、不破さんが一部抜粋した文章とは、上記の文章の【】内の文章のことです。

⦿上記の文章を読み、不破さんの言っていることと比べてみると、不破さんは、第三部の冒頭の文章で、資本主義的生産の「総過程について『一般的反省』をおこなうことは、第三部の課題ではないとの断り書きまで書きそえています」と言っていますが、それは、まったくの読み間違えか、曲解です。

⦿ここでマルクスが「第三部」について言っているのは、「第三部で行われることは」、資本主義的生産過程が生産過程と流通過程との統一だということについの「一般的な反省を試みることではありえない」といってるのであって、「資本主義的生産の総過程」そのものについての論究・論及について述べているのではありません。

⦿マルクスが「資本主義的生産の総過程」の論究・論及について述べているのは、上記の文章に続く、【】で括った文章の冒頭にある「そこでなされなければならないのは、むしろ、全体として見た資本の運動過程から出てくる具体的な諸形態を見いだして叙述することである。」という文章です。

⦿そして、マルクスがこで言っている「全体として見た資本の運動過程」とは、「資本主義的生産の総過程」のことで、マルクスはその論究・論及を行なうと言っているのです。なお、『資本論』では「生産過程」と「流通過程」と「全体として見た資本の運動過程」にわざわざ傍点がふってありますが、資本の「生産過程」の論究・論及のタイトルが「第一部 資本の生産過程」で、資本の「流通過程」の論究・論及のタイトルが「第二部 資本の流通過程」です。だから、エンゲルスもそれに合わせて「第三部」のタイトルを「資本主義的生産の総過程」としたのでしょう。

⦿また、マルクスが1858~1862年頃からあたためていた「経済学批判」の構成プランの中の『資本論』の守備範囲に該当する部分の執筆プランが「資本の生産過程」、「資本の流通過程」及び「両過程の統一 または資本と利潤 利子」となっていることからも、「第一部」を「資本の生産過程」、「第二部」を「資本の流通過程」とし、「第三部」を「両過程の統一」、つまり、「資本主義的生産の総過程」というタイトルにすることは、妥当なことであると思われます。

⦿そして、マルクスは『資本論』の「第三部」を、「諸姿容」だけでなく、つまり、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」くだけでなく、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じる」ことを思い描いていたのです。

「抜粋」でマルクスが述べていること

⦿不破さんは、『資本論』から「抜粋」した【】内の文章から、「第三部」で「これから研究するのは、『社会の表面』に現れる世界」で、「常識的な社会の見方そのものだ」とマルクスがいっていると言います。確かに「第三部」の研究対象は「『社会の表面』に現れる世界」です。

⦿しかし、残念ながら、不破さんの頭の中には「『社会の表面』に現れる世界」だけしかないから、マルクスが「第三部」を「総過程の諸姿容」と言っているのに、「資本主義的生産の総過程」抜きの、「主題は『総資本の諸姿容』」だ、という間抜けなテーマになってしまうのです。

⦿もう一度、不破さんが「抜粋」した【】内の文章を、必要な補足をして、見てみましょう。

【「第三部」で論究されなければならないのは、「全体として見た資本の運動過程から出てくる具体的な諸形態を見いだして(科学的に──青山補筆)叙述すること」である。「現実に運動している諸資本は具体的な諸形態」として存在するのだから、「この具体的な形態(をとる資本=「現実に運動している諸資本」──青山補筆)にとっては直接的生産過程にある資本の姿も流通過程にある資本の姿も」ただ、資本が現実に運動するうえでの「特殊な諸契機として現れるにすぎないのである。だから、われわれがこの第三部で展開する(剰余価値の利潤への、商品資本の商品取引資本への、貨幣資本の貨幣取引資本への転化等の──青山補筆)ような資本のいろいろな姿は、社会の表面でいろいろな資本の相互作用としての競争(それは各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつけ、資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するところの競争──青山補筆)のなかに現われ(るときの資本の形態に、つまり──青山補筆)生産当事者自身の日常の意識に現れるときの資本の形態に、一歩ごとに近づいて行くのである。」】

⦿ここでマルクスが言っているのは、「これから研究するのは、『社会の表面』に現れる世界」で、「『社会の表面』に現れる世界」は「常識的な社会の見方そのものだ」などという分かりきったことを小難しい言葉を使っていっているのではありません。

⦿マルクスは、まず、「第三部」での論究のテーマは、全体として見た資本の運動過程から出てくる具体的な諸形態を見いだして科学的に叙述することだと言います。そして、この「具体的な諸形態」は、社会の表面での資本の相互作用としての競争によって「直接的生産過程にある資本の姿も流通過程にある資本の姿も」覆い隠された「資本の形態」であり、生産当事者自身の日常の意識に現れるときの資本の形態である、ということを言っています。

⦿そして、その「競争」こそが、各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつけ、資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するものであることを忘れてはなりません。

⦿このようにマルクスは、「『社会の表面』に現れる世界」は「常識的な社会の見方そのものだ」などという分かりきったことを小難しい言葉を使っていっているのではなく、資本主義的生産様式における「資本主義的生産の総過程」=「全体として見た資本の運動過程」の仕組みを説明しているのです。

⦿もっとも、資本主義的生産様式の社会の「競争」の意味も分からず、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」などというトンチンカンな暴言を平然という不破さんですから、この程度の解説しかできないのはやむを得ないことなのでしょう。

⦿なお、不破さんに、「競争」にはいろんな意味があり、そんな限定は認めないなどとだだをこねられては困るのですが、ここでマルクスが述べている「競争のなかに現われるときの資本の形態」というフレーズの中の「競争」とは、「補筆」で示したように「産業上(生産活動上)の競いあいではなくて商業上の競いあい」のことで、「競争のなかに現われるときの資本の形態」とは、その競争が各個の資本家に「資本主義的生産様式の内在的な諸法則」を「外的な強制法則」として押しつけるときの「資本の形態」のことです。

※なお、不破さんの、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」と言う暴言の詳しい説明は、ホームページ4-10「☆不破さんの、エンゲルスは『競争が悪の根源だという結論を引き出した』、『剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した』と言う暴言」を、是非、参照して下さい。

これらを踏まえ、『資本論』第三部のテーマについて

⦿これまで見てきたように、不破さんの、「第三部で研究するのは、私たちがこれまで第一部、第二部で研究してきた世界とは、次元の違う世界なのです」と言う主張、これまで研究してきたのは「資本主義社会の本質的、内面的な世界」で、「これから研究するのは、『社会の表面』に現れる世界」だと言い、だからマルクスは「第三部の内容の核心を示すものとして、『諸姿容』の語を押し出したのでした」のであり、第三部の主題は「総資本の諸姿容」だと言いう主張は、正しくありません。

⦿不破さんは、『資本論』を勘違いしており、「第三部」の研究対象は分かっていたが、内容の核心(主題)が何なのか、まったく分かっていません。

⦿マルクスが草稿を書き、エンゲルスが編集した『資本論』は、「第一部」では、「生産過程」が研究されて、資本の源泉、富の源泉とその生産過程が解明され、「第二部」では、「流通過程」が研究されて、生産過程でつくられた富(資本)の実現の条件と資本主義的生産様式が成立する条件等が明らかにされ、「第三部」では、「全体として見た資本の運動過程」が研究されて、富が分配されるメカニズムが明らかにされます。

⦿マルクスは、第三部の冒頭の文章でそのこと(『資本論』全体の構想)を述べ、「第三部」で行われることは、「全体として見た資本の運動過程から出てくる具体的な諸形態を見いだして(科学的に──青山補筆)叙述すること」だ、と明確に述べています。

⦿『資本論』の「第三部」の「内容の核心」、「主題」は、「『社会の表面』に現れる世界」での資本主義的生産の「総過程の諸姿容」を究明し、「本質と直接的な現象との、問題を孕んだ関連を矛盾なく説明すること、運動法則それ自体を暴くばかりでなく、同じくこの法則の貫徹メカニズムを証明すること」であり、「資本主義的生産の総過程」を通じて富が分配されるメカニズムを明らかにして、資本主義を余すところなく暴露することです。

⦿不破さんが言うように、単に、「『社会の表面』に現れる世界」での「総資本の諸姿容」を見たままに述べることではありません。

⦿不破さんは、「マルクスの目」を持つことを自任し、『前衛』2015年5月号では、〝社会変革の主体的条件を探究する〟と言いながら、日本の経済と社会を根本から壊している〝原因〟である「産業の空洞化」には目もくれず、資本主義的生産様式のもとでの〝結果〟の救済策である「社会的バリケード」の必要性と「賃金が上がれば経済はよくなる」という「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」の見地を唱えるだけで、日本の危機の〝原因〟から党員の目を逸らせ、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と、自ら「社会変革の客観的条件」などまったく探究できないことを、胸をはって、告白しています。

⦿そんな不破さんだから、現代のグローバル資本の「資本主義的生産の総過程」の諸姿容を正しく見ることができず、「総資本」の「諸姿容」がつくり出した「非正規雇用」や「内部留保」などの「現象」の断面しか見ることができません。だから、「社会的バリケード」を築けば労働者は守られ、「賃金が上がれば経済はよくなる」と思い込んでいます。

⦿そんな不破さんだからこそ、『資本論』第三部を科学的社会主義の観点から読むことができず、マルクスが「第三部」を資本主義的生産の「総過程の諸姿容」といっているのにエンゲルスが「資本主義的生産の総過程」と変えてしまったのは、「第三部全体の趣旨を誤解させることで、残念な訂正だったと思います」などと、冒頭からエンゲルスを誹謗・中傷する始末です。マルクスもとんでもない人に見込まれたもので、「『恐慌=革命』説」の濡れ衣といい、災難としか言いようがありません。

⦿「第三部」は、「総過程の諸姿容」として、「魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界」の、真の姿を余すところなく暴露する「場」として設定されました。不破さんが、ほんとうに、科学的社会主義の思想の持ち主であるならば、そのことを「第三部」の解説の「はじめに」の部分で、はっきりと言うべきなのです。しかし、不破さんの口からでた言葉は、「第三部で研究するのは、私たちがこれまで第一部、第二部で研究してきた世界とは、次元の違う世界なのです」という、「第三部」の意義をまったく理解していない言葉だけでした。

 こういう人が責任編集の「新版『資本論』」を読むに当たっては十分な注意が必要です。

第一篇、第二篇

P17-30「(2)一般的利潤率と市場価格」について

⦿第一篇、第二篇について「解説」している「(2)一般的利潤率と市場価格」という「節」については、めずらしく、歪曲等がなく、安心して読んでいただけます。

第三篇

P31-39「第三篇」の意味をまったく理解できない不破さん

 これまで、「第一部」での不破さんの、資本の本源的蓄積の過程と資本主義社会から共産主義社会までの過程を同一の範疇で捉えてのマルクスの批判、「第二部」での「第二一章 蓄積と拡大再生産」についての不破さんの「推測」とそれにもとづく『資本論』の「捏造」での不破さんの「ペテン師」ぶり等『資本論』の歪曲と捏造の数々を見てきましたが、この「第三部 第三篇」の不破さんの「解説」は、その「悪質」さにおいて三本の指の一つに入るものと言えるでしょう。

不破さんの「私だけの勝手な結論」ではない驚きの理由

⦿不破さんは、第三篇について、最初の「第一三章」は、「マルクスの最大の経済学的発見を記録した輝かしい章」、最後の「第一五章」は、ここで「展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」、中間の「第一四章」は、「第一五章の準備のため」の章で、「不要になった章」、だと言います。マルクスとエンゲルスがこの言葉を聞いたら、草葉の陰で頭を抱えこんでしまうことでしょう。

⦿そして不破さんは、「これは、私だけの勝手な結論ではありません」と言います。しかし、その理由を必死で探しても、不破さんの「勝手な結論」でないという根拠になるものは、「マルクス自身がその内容を大きく変えるつもりでいた」という不破さんの「推測」以外に見当たりません。

「第一三章」のテーマ:「この法則そのもの」に触れない不破さん

⦿不破さんは、「まず第一三章です。」として、マルクスが「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意味を説明している、「一般的利潤率の累進的な低下の傾向は、労働の社会的生産力の累進的発展を表わす、資本主義的生産様式に特有な表現にほかならない」(茶色の文字は『資本論』では傍点で表記されている──青山)とい文章を抜粋して、「この簡単なことが、これまでなぜわからなかったのか。」と言って「これまでの経済学」が「この法則を発見する」ことができなかった理由を『資本論』に則って説明します。

⦿しかし、ここは、まだ、「この簡単なことが、これまでなぜわからなかったのか」などと言って、その理由を説明する場ではありません。不破さんは、もっと大事な、「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意味を、きちんと、説明しなければならない場面なのです。

⦿だからマルクスは、読者にその意味を理解してもらうために、不破さんが「抜粋」した文章に続けて、「それは、資本主義的生産様式が進展するうちに剰余価値の一般的平均率は低下する一般的利潤率に表されざるをえないということを、資本主義的生産様式の本質から一つの自明な必然性として示しているのである。」(大月版④P267)と、事実をねじ曲げて「自分の『勝利』を宣伝」する不破さんとは違って、「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意味を、しっかりと、述べています。

⦿つまり、資本主義的生産様式のもとで、労働の社会的生産力が累進的に発展すればするほど、一般的利潤率の累進的な低下が起こるという、資本主義的生産様式のもつ内的な矛盾を明らかにしたのが、「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意味なのです。ここが肝心な点なのです。この法則のもつこの矛盾を「軸」にして資本主義的生産様式を見ていくのが、「第一五章」です。

⦿マルクスは、アダム・スミス以来の全経済学者が発見できないことを発見したことを自慢するために『資本論』の第三篇を書いたのでもないし、「自分の『勝利』を宣伝」するために無二の友であるエンゲルスに手紙を書いたのではありません。

⦿不破さんは、自分の尺度でマルクスやエンゲルスやレーニンを測ってはなりません。彼らは、そんな卑しい精神など持ち合わせていないのですから。

「第一三章」の解説のはずが、反共文筆家なみのマルクスの歪曲

⦿不破さんは、「第一三章」の解説のはずの「項」で、「第一三章」の解説はそっちのけで、いきなり、マルクスを誹謗し科学的社会主義の思想の価値を低めるめに、自ら創作した「恐慌=革命」説の根拠となる、「利潤率の傾向的低下の法則」→「恐慌」→「資本の強力的な転覆」という、不破さん得意の「三段飛び論法」を、マルクスの1857年以来の『経済学批判』の草稿を「拠りどころ」として展開しまいます。

⦿そして不破さんは、「三段飛び論法」の「刷り込み」だけならまだしも、『経済学批判』のための荒削りの草案である『61-63年草稿』を持ち出して、反共文筆家なみのマルクスの歪曲をおこないます。

⦿不破さんは、マルクスが『57-58年草稿』以来、「利潤率の低下の法則が資本主義的生産様式の危機を引き起こす根源をなす」という見解を持っており、「この法則が、恐慌という破局とその反復」をもたらし、「そしてそれが『最後には、資本の強力的な転覆』をもたらすことを断言した」と言います。

⦿そして、不破さんは、マルクスが『資本論』の「第一五章」でこの「三段飛び論法」を証明しようとして「失敗」したと言います。しかし、不破さんは、マルクスが「三段飛び論法」を証明しようとしたと言うのであれば、少なくとも、マルクスが「第一五章」でこの「三段飛び論法」を提起したことくらいは示さなければなりません。

⦿しかし、後で見るように、不破さんが「第一五章」の「解説」で、「マルクスが第一五章で自らに課した課題は、第一三章で証明した利潤率の傾向的低下が資本主義的生産様式を必然的没落に導くことの証明でした。」(P35)と架空の「課題」を課した「第一五章」の中で述べられていることは、「証明」などする必要のない〝事実〟とその延長線上にある〝展望〟を記した文章でした。

⦿だから、不破さんが自分の主張を読者に「刷り込む」ためには、場違いだろうが、この「第一三章」で「三段飛び論法」を披露する以外、手は、なかったのです。

不破さんの「三段飛び論法」でのマルクスの歪曲

⦿不破さんは、マルクスが「利潤率の低下の法則が資本主義的生産様式の危機を引き起こす根源をなす」という見解を持っていたと言い、「この法則が、恐慌という破局とその反復」をもたらすと、マルクスが、あたかも、「利潤率の低下の法則」が「根源」となってストレートに「利潤率の低下の法則」→「恐慌という破局とその反復」→「革命」という図式を描いていたかのように言って、マルクスの考えを歪曲します。

⦿このようにマルクスの考えを歪曲し、短絡的な図式による攻撃で「利潤率の傾向的低下の法則」を葬り去り、資本主義的生産様式の真の姿を見えなくして、「資本」のもつ限界とその資本の蓄積によって発展する「資本主義的生産様式」の社会の限界を見えなくする反科学的社会主義攻撃=「反共」攻撃を、前「共産党」の委員長の不破さんが率先して行っていることをマルクスが知ったら、さぞがっかりすることでしょう。

⦿なぜなら、『資本論』の「第一三章」、「第一四章」、「第一五章」は「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意味・意義を余すところなく説明し、不破さんのような短絡的な思考を排して、二一世紀に生きる思想を、私たちに提供してくれているからです。

 みなさんは、「不破さんだけの勝手な結論」を信じる前に、是非、「第一三章」、「第一四章」、「第一五章」をしっかり読んで下さい。

⦿マルクスは、「利潤率の低下の法則」を「根源」としてストレートに「利潤率の低下の法則」→「恐慌という破局とその反復」という図式など描いていません。マルクスが指摘しているのは、そして真の科学的社会主義の思想が明らかにしたのは、①「利潤率の傾向的低下の法則」が資本主義的生産様式の社会の限界を明らかにしたこと、②資本の唯一の動機は「資本蓄積」であるが「利潤率の傾向的低下の法則」がその阻害要因となり、資本はその障害を克服するために「利潤量」を増やすための生産拡大と「利潤率の低下」を防ぐための様々な手を尽くすが、それが「過剰生産や投機や恐慌を促進し、過剰人口と同時に現れる過剰資本を促進」(大月版P304)し、資本の過多により「利潤率の低下が利潤量によって埋め合わされない」状況が産業循環の熱狂の真っただ中で起こること。その影響をはじめに受け、最も強く受ける「より小さな分散した諸資本の大群はわれ先に冒険(それは、㋐利潤率の低下を一層の量の拡大で補おうとし㋑その結果、泥沼の安売り合戦がはじまり㋒遂には、資金ショートを原価以下の販売で補おうとする冒険──青山補筆)への道へ駆り立てられる。このために恐慌へと追い込まれる。」(P34、読みにくいので原文中にあった〔〕をはずしました。)。その結果、恐慌により資本の減価が行われ、資本の過多は一時的に解消されるが、より高い生産性のもとでの新たな「資本主義的生産様式の社会の危機」と「資本主義的生産様式の社会の克服の条件」の形成がはじまる、という当時の産業循環の姿を明らかにしたことの二点です。

⦿そして、マルクスとエンゲルスは、当時の政治経済情勢の下で、「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と考え、革命のために心血を注ぎましたが、「恐慌」だけが「最後には、資本の強力的な転覆」をもたらすと「断言した」ことなどありません。

不破さんの『61-63年草稿』を持ち出しての反共文筆家なみのマルクスの歪曲

⦿不破さんは、『61-63年草稿』の「より小さな分散した諸資本の大群はわれ先に冒険〔の道へ駆り立てられる〕。このために恐慌〔へと追い込まれる〕。」という文章を持ち出して、「この論によると、恐慌の原因は、もっぱら『より小さな分散した諸資本』の冒険的な行動にあって、資本主義経済の主力をなす大資本とは無関係であり、資本主義的生産様式の運命を小資本が握っているということになります。」と、勝手に、「この論」なるデタラメな濡れぎぬをマルクスにきせておいて、続けて「おそらくマルクス自身も、これを恐慌問題の本格的解決だとする確信はなかった、と思います。」(P34-35)などと、一人相撲を取ります。なお。不破さんは、『前衛』の2015年1月号でも、マルクスが「経済恐慌やバブル現象まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がない」と述べていると言っています。

⦿しかし、マルクスが指摘し、真の科学的社会主義の思想が明らかにしたのは、前掲の②で概略示した内容であり、小資本は「経済恐慌」の渦に真っ先に巻き込まれるということです。

⦿そしてここでも不破さんのご都合主義がみごとに発揮されます。不破さんは、33ページでは、マルクスが「利潤率の低下の法則が資本主義的生産様式の危機を引き起こす根源」でこの法則が恐慌をもたらすといっていたと言ったと思ったら、今度は、34ページでは、「恐慌の原因」は、もっぱら「小資本の冒険がなせる業」だとマルクスがいっていると言うのです。

⦿このように、文章の流れの中で臨機応変に言うことが変わるのが不破さんの「論理展開」の大きな特徴ですが、マルクスの文章を継ぎ接ぎして自分の誤った「推論」を押し通そうとする不破さんの「論理展開」は、エンゲルスが序文で述べている、「科学的な問題に携わろうとする人は、なによりもまず、自分が利用しようとする書物をその著者が書いたとおりに読むことを、またことに、そこに書いてないことを読み込まないようにすることを、学ばなければならないのである」という科学的社会主義者の基本精神を逸脱した、失格者の「論理展開」です。

⦿みなさんは、この「新版『資本論』」なるものが、「恐慌の原因」はもっぱら「小資本の冒険がなせる業」だとマルクスはいっているという程度の読解力・認識能力しか持っていない人が責任編集しているということをくれぐれも忘れないで下さい。

※なお、私が、①マルクスとエンゲルスは、「恐慌」だけが「最後には、資本の強力的な転覆」をもたらすと「断言した」ことなどありませんと述べた点と②マルクスは「恐慌の原因」がもっぱら「小資本の冒険がなせる業」だと言っていると不破さんが言っている点についての詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、参照して下さい。

⦿不破さんは、ここから一足飛びに「第一五章」の歪曲に移りますが、「第一五章」の内容を正しく理解するためにも、『資本論』の「第三篇」全体をつかむためにも重要であり、その内容は「第一五章」に直結するものなので、不破さんがほとんど触れなかった「第一三章」とまったく触れていない「第一四章」のなかで留意しておきたい点について、ごく簡単に触れてみたいと思います。たぶん、「新版『資本論』」でも、それらの「章」の中で私たちが留意すべき点としてこれから見ることについて、触れることはないでしょうから。

「第一三章」で述べている、もう一つの重要な点

⦿「第一三章」で述べられている「利潤率の傾向的低下の法則」発見の意義──資本主義的生産様式のもとで、労働の社会的生産力が累進的に発展すればするほど、一般的利潤率の累進的な低下が起こるという、資本主義的生産様式のもつ内的な矛盾を明らかにしたこと──についてはすでに触れましたが、「第一三章」で関連して述べられているもう一つの重要な点について、ごく簡単に触れてみたいと思います。

⦿マルクスは、「利潤率の進行的低下にもかかわらず」、利潤の絶対量を増大させることができ、ただそれができるだけではなく、「資本主義的生産の基礎の上ではそうならなければならないのである。」(大月版③P273)として、資本主義的生産様式のもとでは「利潤率の進行的低下」を補うために一層の生産拡大が必要であることを述べています。

⦿この指摘は、70年代以降の日本経済の姿を見るうえで大変大切なものです。

 日本は、70年代以降、「利潤率の進行的低下」を補い一層の資本蓄積を図るために海外への資本輸出・直接投資を官民一体となって推進し、その結果、「産業の空洞化」が進み、「資本主義的生産・蓄積の発展の歩みは、労働過程の規模とともにその広がりがますます大きくなることを必然にし、またそれに対応して各個の経営のための資本前貸が増大することを必然にする。それゆえ、諸資本の集積の増大は、資本主義的生産・蓄積の物質的条件の一つでもあれば、またこの生産・蓄積そのものによって生産された結果の一つでもある。」(同上P275)という、資本主義的生産様式がもつ「健全」な姿さえ失われてしまいました。

 「産業の空洞化」によって、「絶対的に増大した可変資本を、より高度な構成すなわち不変資本のより以上の相対的増加のもとで充用するためには、総資本が構成の高度化に比例して増大するだけではなく、それよりももっと急速に増大しなければならない。その結果として、資本主義的生産様式が発展すればするほど、同じ労働力を使用するためにもますます大きな、そして増大する労働力を使用するためにはなおさら大きな資本量が必要になるということになる。」(同上P280)という資本主義的生産様式がもつ「健全」な姿が維持できなくなり、労働力「需給」が資本優位になった結果、不安定雇用が急速に拡大していったのです。

⦿このように、私たちが『資本論』を読む場合、日本と世界の〝いま〟を常に頭に入れて考えることが大切です。

⦿そして資本は、「利潤率の傾向的低下の法則」との不断のたたかいを、常に、強いられているのです。不破さんは、「第一三章」を「マルクスの最大の経済学的発見を記録した輝かしい章」などと茶化すのをやめて、その意味をしっかりつかみ、現代を熟考すべきなのです。

「第一四章」は、現代に多くのことを語りかけている

⦿「第一四章 反対に作用する諸原因」は、まず最初に、なぜ「利潤率の傾向的低下の法則」と呼ぶかについて、「この一般的法則に単に一つの傾向でしかないという性格を与えている」から、「一般的利潤率の低下を傾向的低下と呼んできたのである。」(大月版P291)と述べ、以下で、資本の「利潤率の傾向的低下の法則」との不断のたたかいの「方法」を示し、私たち労働者階級への「低賃金」と「労働強化」とが、資本が「利潤率の傾向的低下の法則」を緩和するための主要な手段であることを明らかにします。

⦿「第一四章」は、「利潤率の低下」に反対に作用する諸原因として①「労働日の延長と労働の強化」とによる「労働の搾取度の増強」②「労働力の価値以下への労賃の引下げ」③「不変資本の諸要素の低廉化」④「相対的過剰人口」の存在。日本では「産業の空洞化」により、「相対的過剰人口」が形成され、臨時工とサービス業への労働力のシフトが強制された。⑤「貿易」による安い商品の輸入。⑥「株式資本の増加」を挙げています。

⦿このように、「第一四章」は、「低賃金」と「労働強化」なしには「利潤率の低下」は進み、資本はその存在価値をますます低くしていくということ、「資本」と「労働者階級の低賃金と労働強化」とはメタルの裏表であることを示しています。

⦿この「章」を、「利潤率の傾向的低下が資本主義的生産様式を必然的没落に導くことの証明」を「課題」とした「第一五章の準備のために必要」な「章」で「不要になった章と位置づけることができます」などと言う不破さんの「勝手な結論(決めつけ──青山)」とは、まったく違う内容のものです。

⦿そしてマルクスは、「利潤率の傾向的低下は、剰余価値率つまり労働の搾取度の傾向的上昇と結びついているのである。それゆえ、利潤率の低下は労賃率の上昇から起きると説明することは、例外的にはそういうこともあるにしても、このうえもなくばかげたことである。」(大月版P301)と述べていますが、数年前に「洛陽の紙価を高めた」トマ・ピケティの『21世紀の資本論』の資本収益率(r)>経済成長率(g)は、「剰余価値率つまり労働の搾取度の傾向的上昇」を実証した、マルクスの正しさを証明するものでした。この事実は、資本家階級との思想闘争をするうえで重要です。

「第一四章」で触れられなかったことと、「現代の資本と世界市場」

⦿なお、ここで触れられなかったことのひとつに不変資本の稼働時間の延長の問題があります。不変資本をフル稼働させて24時間稼働させ、労働者を8時間の3交代にした場合、「利潤率の低下」は防げませんが利潤量は3倍となります。そして、不変資本の稼働期間が約1/3に短縮されることにより、同等の性能のより安価な製造装置の導入か同一価格のより生産性の高い不変資本の導入が可能となります。これも、「利潤率の低下」に反対に作用する諸原因の一つと言えるでしょう。

⦿また、「貿易」に関しては、当時と現代とでは「国家」と「資本」との関係が大きく変化しているので、「現代の資本と世界市場」について、簡単に触れてみたいと思います。

⦿マルクスは「貿易と世界市場」について、つぎのように述べています。

「貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によって、この生産様式自身の産物になったのである。」(大月版P298)

⦿このようにして発展してきた「世界市場」は、資本主義的発展の伸びしろがますます小さくなる先進資本主義諸国と資本主義的発展の大きな伸びしろをもった新興諸国とを生み出します。「利潤率の傾向的低下の法則」との不断のたたかいを強いられている資本は、先進資本主義諸国から生産条件の劣っている新興諸国へのグローバル展開への道を、「新自由主義思想」とともに、本格的に歩み始めます。グローバル資本は母国の産業を空洞化することによって、一面では、自らを育てた出身国を棄てざるをえません。しかし同時に、技術が遅れた国々での先行者利得を固定化して収奪を続けるためにも、自らを守るためにも、自らを育てた出身国等の先進資本主義国に頼らざるをえません。そんな中で、日米欧の先進資本主義諸国はグローバル資本に有利な経済ルールを世界に押しつけることを共通目標として協調関係を保ってきました。そんな中で、「産業の空洞化」の被害者である白人労働者層の支持をうけて2017年1月20日登場した米国トランプ政権は、「アメリカファースト」を掲げ、「産業の空洞化」を推進してきた米国企業には目をつむり、貿易の不均衡の解消による雇用増での「白人労働者層の支持」の維持と先進資本主義諸国への米国のより多くの経済的利益の要求と米国の経済優位を脅かしかねない中国の技術開発の抑制と「グローバル資本に有利な経済ルール」の再構築をめざして、世界に圧力をかけ続けてています。

⦿これが、今日の「貿易と世界市場」についての、現代のグローバル資本とそれを支える諸国家の最新の動向です。不破さんの「共産党」は、なぜ、トランプが大統領に当選できたのかを知るべきです。

⦿このように、「第一四章 反対に作用する諸原因」は、時代的制約を持ちつつも、現代に多くのことを語りかけており、不破さんのように、「利潤率の傾向的低下が資本主義的生産様式を必然的没落に導くことの証明」を「課題」としたなどというデマを言って、「不要になった章と位置づけることができます」などと葬り去ることは許されません。

不破さんは、自分が理解できないものを「理論上の錯覚」と言う

⦿不破さんは、「第一五章 この法則の内的な諸矛盾の展開」のテーマを、「マルクスが第一五章で自らに課した課題は、第一三章で証明した利潤率の傾向的低下が資本主義的生産様式を必然的没落に導くことの証明でした。」と言い、続けて、「そのカギは、それが恐慌の必然性の根拠となることの立証にありました。」(P35)と述べて、「立証すべき命題」なる文章を第一五章から抜粋します。なお、すでに述べたとおり、「第一三章」のテーマは「利潤率の傾向的低下」を証明することなどではありませんでした。

⦿不破さんが、マルクスが「立証すべき命題」としていたとして抜粋した文章は、つぎのとおりですが、その前後の文章を合わせて読むと、「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意味をよく現す文章となっています。

⦿不破さんが抜粋したのは、「(他方、──青山補筆)総資本の増殖率すなわち利潤率が資本主義的生産の刺激であるかぎりでは(資本の増殖は資本主義的生産の唯一の目的なのだから)、利潤率の低下は新たな独立資本の形成を緩慢にし、したがって資本主義的生産過程の発展を脅かすものとして現われる。それは過剰生産や投機や恐慌を促進し、過剰人口と同時に現れる過剰資本を促進する」(大月版P304)という文章で、私が補筆した「他方、」は、前に書かれている文章を受けてのものです。

⦿この文章の前には、「利潤率の低下と加速的蓄積とは、両方とも生産力の発展を表しているかぎりでは、同じ過程の別々の表現でしかない」こと、そして、「利潤率の低下はまた、小資本家たちからの収奪によって、また最後に残った直接生産者たちからもまだなにか取り上げるものがあればそれを取り上げることによって、資本の蓄積と集中とを促進する」(同上P303-304)ことが述べられており、続けて、「他方、」として、前掲の不破さんが抜粋した文章がつづきます。

⦿そして、前掲の不破さんが抜粋した文章に続くのが、「利潤率の傾向的低下の法則」の発見によって、「資本主義的生産様式は生産力の発展に関して富の生産そのものとはなんの関係もない制限を見いだ」し、「この特有な制限は、資本主義的生産様式の被制限性とその単に歴史的な一時的な性格とを証明するのである。それはまた、資本主義的生産様式が富の生産のための絶対的な生産様式ではなくて、むしろある段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明するのである。」(同上P304)という文章です。

⦿この「不破さんが抜粋した文章」を挟んでの一連の文章は、続けて読めばわかるとおり、「利潤率の傾向的低下の法則」がもたらす〝事実〟とその延長線上の〝展望=当然の帰結〟を述べ、「利潤率の傾向的低下の法則」が資本主義的生産様式の社会の限界を明らかにしたことを述べたもので、不破さんの言うような「立証すべき命題」を提起したものなどではありません。

⦿不破さんは、このような「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意味をまったく理解できず、「第一五章」に、勝手に、「『恐慌の必然性』の証明」というテーマつけて、それを「マルクスが第一五章で自ら課した課題」ででもあるかにようにげっち上げ、「『恐慌の必然性』の証明」をしていないから「失敗した」(P37)と言って、マルクスを誹謗するのです。

⦿そして、不破さんは、大月版「第一五章」のP304、P324、P325に出てくるリカードらの「利潤率の低下」にたいする恐怖、不安について、マルクスが「実は、なにかもっと深いものが根底にあるのであるが、彼(リカードのこと──青山)はそれを予感するだけである」述べていることについて、次のような、とんでもない解説をします。

⦿「しかし、リカードゥらが利潤率低下現象のうちに見た不安は、根底にある『もっと深いもの』の予感ではなく、理論上の錯覚でした。

 マルクス自身も、さまざまな角度からの探究をくりかえしたものの、納得のゆく解答を得ることができず、決定的な結論を得ないまま、この章を閉じざるを得なかったのでした。」といい、「恐慌現象を利潤率低下の法則に結びつけることには失敗した」と言います。

⦿不破さんは、「リカードゥらが利潤率低下現象のうちに見た不安は、」「理論上の錯覚で」、「根底にある『もっと深いもの』」などないといって、リカードゥらが「理論上の錯覚」をしているかのように言いますが、ご覧のとおり、「実は、なにかもっと深いものが根底にある」と言っているのはマルクスです。

⦿だから、「なにかもっと深いものが根底にある」というのが「理論上の錯覚」だというのなら、ただ「理論上の錯覚」などといって誹謗・中傷するのでなく、マルクスが言っている、「資本主義的生産の制限、その相対性、すなわち、それがけっして絶対的な生産様式ではなくただ物質的生産条件のある局限された発展期に対応する一つの歴史的な生産様式でしかない」(大月版P325)という唯物史観のどこに「理論上の錯覚」があるのか、明らかにすべきなのです。

⦿不破さんは、「マルクス自身も、さまざまな角度からの探究をくりかえしたものの、納得のゆく解答を得ることができず、決定的な結論を得ないまま、この章を閉じざるを得なかったのでした」と言いますが、マルクスは、「第一五章」に「『恐慌の必然性』の証明」というテーマつけて、それを「マルクスが第一五章で自ら課した課題」になどしていません。だから、そのために「さまざまな角度からの探究をくりかえした」りなどするわけがありません。

⦿そもそも、マルクスの「第一五章」でのテーマは、「利潤率の傾向的低下の法則」の「内的な諸矛盾の展開」を述べることで、「第一五章」を「『恐慌の必然性』の証明」などと言っているのは、不破さんだけです。 

⦿不破さんは、「第一五章」に、勝手に、「『恐慌の必然性』の証明」というテーマ(不破さんの攻撃目標)つけて──それを「マルクスが第一五章で自ら課した課題」だなどと言い──、その「課題」に取り組んでいないから「失敗」したという。

⦿不破さんは、「『恐慌の必然性』の証明」という架空のターゲットを、勝手に、設定して、マルクスがそのターゲットを撃ち落とさなかったといって非難するのです。神の手を使って「テーマ」をでっち上げて、それを「攻撃」して勝利を収める。これは、不破さんが使う常套手段です。

⦿「ペテン師」としての不破さんの、面目躍如というところでしょうか。そして、不破さんは、自分が理解できないもの、あるいは理解してはいけないものを、「理論上の錯覚」の一言で片付けてしまうのですから、困ったものです。

⦿なお、不破さんは、第三篇の解説の冒頭で、「第一五章」について、ここで「展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」だと言いましたが、「第一五章」の解説のなかで、不破さんは、どこが「展開した理論の主要部分」であり、それがどのように誤っており、「以後の草稿で」どのように「取り消した」のか、一言も「解説」してくれません。このような根拠を示さない誹謗・中傷は許されるものではありません。

⦿そして、マルクスが「利潤率の傾向的低下の法則」→「恐慌」→「資本の強力的な転覆」という単純な図式を考えていたという、不破さんの「推測」を善意に捉えるとすれば、不破さんは、産業循環の諸要因を含む資本主義的生産様式の社会の全運動などお構いなしに、恐慌の原因は架空の需要にあるという「恐慌の運動論」を二一世紀になって発見するという「頭脳」の持ち主ですから、やむを得ないことと「観念すべき」ことで、私のように憤慨すべきことではないのかもしれません。

⦿しかし、「新版『資本論』」で、ここで不破さんが言っていることが「真実」ででもあるかのような編集が行なわれているとしたら、それは、資本主義的生産様式の永続的発展を認め唯物史観を「理論上の錯覚」として否定する、マルクス・エンゲルスの『資本論』とは異なるものとなるでしょう。

厚顔無恥、『資本論』を読んでいない人に白を黒と思わせる

⦿「第一五章」について、ここで「展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」だといい、「利潤率の傾向的低下の法則」による「『恐慌の必然性』の証明」のための章だと言う不破さんは、「第一五章」の第一節と第二節の中の二つの文章(大月版P307とP313-314)をあげて、「どちらも利潤率の傾向的低下とは問題意識を異にする」、「いまでも、『恐慌の根拠』についてのマルクスの定式として、非常に重視されているものです。」と言います。

⦿この不破さんの言い分は、形式的にも矛盾しています。この二つの文章が「いまでも、『恐慌の根拠』についてのマルクスの定式として、非常に重視されているもの」だとすれば、それは、「第一五章」で「展開した理論の主要部分」ではないのか。そしてそれは、取り消されるべきものではないのか。不破さんはどのようにつじつまを合わせようというのでしょうか。

⦿そしてこの不破さんの言い分は、内容的に誤っています。不破さんは、これら二つの文章が「どちらも利潤率の傾向的低下とは問題意識を異にする」と言いますが、「どちらも利潤率の傾向的低下の法則」の「内的な諸矛盾の展開」のなかで、「利潤率の傾向的低下」のもとでの資本主義的生産様式の矛盾を明らかにしたもので、具体的にこれら二つの文章をみれば、「問題意識を異にする」などと、逆立ちしても、言えません。

⦿そもそも「第一の文章」は、不破さんが、マルクスが「立証すべき命題」としていたと偽って抜粋した文章の後半部分をより詳しく述べた文章の一部です。だから、不破さんの「主張」は根本的に間違っており、「捏造」とさえいえるものです。不破さんは、「解説は抜きにして」などと言わずに、不破さんは真摯な気持ち、真摯な態度で「解説」すべきです。不破さんが『資本論』の解説者を自称するのであれば、それが『資本論』解説者としての義務です。

⦿「解説は抜きにして」不破さんが挙げた「第一の文章」は、そのまえに、マルクスは、不払労働を自分のものにする直接的生産過程──それは、「利潤率の低下に表される過程の発展につれて、このようにして生産される剰余価値の量は巨大なものにふくれ上がる」(大月版P306)──について述べ、そのように生産された総生産物はすべて売れなければならないが、まったく売れない場合等があることを述べたあとで、それにつづく文章として書かれたものです。

⦿その概略は、以下のとおりです。

 前の文章を引き継いで、マルクスは、前述の直接的生産過程における「搾取の条件」は「ただ社会の生産力によって制限されているだけ」だが、「搾取の実現の条件」は①「敵対的な分配関係を基礎とする消費力によって規定される」(社会の大衆の消費が最低限に引き下げられる)ことと、②資本の「蓄積への欲求によって、」「制限されている」ことを述べ、「これこそは資本主義的生産にとっての法則」だと言います。そして「この法則」は、利潤率の傾向的低下のもとで、「生産方法そのものの不断の革命、つねにこれと結びついている既存資本の減価、一般的な競争戦」による利潤率の傾向的低下への反作用や「ただ存続するだけの手段として生産を改良し生産規模を拡大することの必要」等のなかで貫かれていく。だから、「市場は絶えず拡大されなければならない」。その結果、市場はますます「生産者たち(主として労働者階級のこと──青山)からは独立な自然法則の姿をとるようになり、ますます制御できないものになる」。このように、「内的な矛盾が生産の外的な場面の拡大によって解決を求めるのである」が、このように「生産力が発展すればするほど、ますますそれは消費関係が立脚する狭い基礎と矛盾してくる。」

⦿ここまでが、不破さんが抜粋した「第一の文章」です。これらの文章と連続する次の文章を合わせたものが、不破さんが、マルクスが「立証すべき命題」としていたと偽って抜粋した文章の後半部分である、「それは、過剰生産、投機、恐慌、過剰人口と並存する過剰資本を促進する。」という言葉の内容をより詳しく述べた文章となるのです。

⦿マルクスは、不破さんが抜粋した「第一の文章」に続けて、「このような矛盾に満ちた基礎の上では、資本の過剰が人口過剰の増大と結びついているということは、けっして矛盾ではないのである。なぜならば、この両方をいっしょにすれば、生産される剰余価値の量は増大するであろうとはいえ、まさにそれとともに、この剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾は増大するのだからである。」という文章を書いています。

⦿これらの文章は、「利潤率の低下に表される過程の発展につれて、このようにして生産される剰余価値の量は巨大なものにふくれ上がる」その過程と「搾取の実現の条件」とを述べ、「市場は絶えず拡大されなければならない」こと、その中で「資本の過剰が人口過剰の増大と結びついて」発展し、「過剰生産や投機や恐慌を促進」することを、不破さんが、マルクスが「立証すべき命題」だと偽って抜粋した文章より、詳しく述べたものです。

⦿若干、不破さんの謬論からそれますが、「利潤率の傾向的低下の法則」と切っても切れない関係にある「資本の過剰」という言葉が出てきたので、簡単に説明します。

⦿まず、先ほど私が補足した文章に、「資本の過剰が人口過剰の増大と結びついているということは、けっして矛盾ではない」というフレーズがありますが、このことをより詳しく述べた文章が少し先にありますので、紹介します。

「資本の過剰生産というのは、資本として機能できる、すなわち与えられた搾取度での労働の搾取に充用できる生産手段──労働手段および生活手段──の過剰生産以外のなにものでもない。与えられた搾取度でというのは、この搾取度が一定の点より下に下がるということは、資本主義的生産過程の攪乱や停滞、恐慌や資本の破壊をひき起こすからである。このような資本の過剰生産が多少とも大きな相対的過剰人口を伴うということは、けっして矛盾ではない。」(大月版P320-321) これに続く文章も、是非、お読み下さい。

⦿そして、「資本の過多」という言葉の意味について、マルクスは「いわゆる資本の過多(プレトラ──青山)は、つねに根本的には、利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本──そして新たに形成される資本の若枝はつねにこれである──の過多に、または、このようなそれ自身で独自の行動をする能力のない資本を大きな事業部門の指導者たちに信用の形で用だてる過多に、関連している。」(大月版P314-315)と述べていますが、「いわゆる資本のプレトラ」とは、「利潤率の低下が利潤量によって埋め合わされない資本のプレトラ」と理解しておいて下さい。

⦿これらも頭に入れて、不破さんが抜粋した「第二の文章」を見てみましょう。ただし、不破さんが抜粋した文章は、「訳」が非常に分かりにくいので、大月版の『資本論』の「訳文」に沿って見ることにします。

⦿なお、不破さんが抜粋した「第二の文章」の前には、「利潤率が低下すると同時に諸資本の量は増大し、またこれに伴って既存資本の減価が進み、この減価は利潤率の低下を妨げて資本価値の蓄積に促進的な刺激を与える。」(大月版P312)という「利潤率の低下と既存資本の減価の影響」についての記述がありますが、「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである」というときの「資本」とはこのような特質をもつ「資本のプレトラ」を内包した「資本」であることをしっかり頭に入れて読んで下さい。そうしないと、「第二の文章」の意味をより深く捉えることができません。

⦿不破さんが、ここで「展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」だと言う「第一五章」で、マルクスが述べていることを聞いてみよう。

「資本主義的生産の真の制限は、(利潤率の傾向的低下のもとで、「資本のプレトラ」の脅威にさらされている──青山補筆)資本そのものである。」つまり、「生産はただ資本のための生産」であり、生産手段は「社会のために生産過程を絶えず拡大形成していくための」手段ではないということである。「生産者大衆の収奪と貧困化とにもとづく資本価値の維持と増殖とはただこのような(=「生産はただ資本のための生産」という──青山)制限のなかでのみ運動することができるのであるが、ここような(=「生産はただ資本のための生産」という──青山)制限は、資本が自分の目的のために充用せざるをえない生産方法」──それは、「労働の社会的生産力の無条件的発展に向かって突進する生産方法」であるが──と「絶えず矛盾することになる。手段──社会的生産力の無条件的発展──は、既存資本の増殖という制限された目的とは絶えず衝突せざるをえない。それだから、(利潤率の傾向的低下のもとで、「資本のプレトラ」の脅威にさらされている──青山補筆)資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場をつくりだすための歴史的手段だとすれば、それはまた同時に、このようなその歴史的任務とこれに対応する(利潤率の傾向的低下のもとで、「資本のプレトラ」の脅威にさらされている──青山補筆)社会的生産関係(=「資本主義的生産関係」のこと──青山)とのあいだの恒常的矛盾なのである。」

⦿まさにこの文章は、「第一五章 この法則の内的な諸矛盾の展開」のなかの、「利潤率の傾向的低下の法則」の「内的な諸矛盾の展開」のなかで述べられているのです。

⦿このように、不破さんが「いまでも、『恐慌の根拠』についてのマルクスの定式として、非常に重視されているも」として「第一五章」の第一節と第二節の中から抜粋した「二つの文章」は、「どちらも利潤率の傾向的低下とは問題意識を異にする」ものなどではなく、「利潤率の傾向的低下の法則」の「内的な諸矛盾の展開」の構成部分をなすものです。

 不破さんは、白を黒という、こういうのを「厚顔無恥」というのでしょうか。

⦿また、不破さんが、ここで「展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」だと言うこの章には、先に取り上げた「貿易と世界市場」について述べているところのほかに、もう一カ所「貿易と世界市場」について述べているところがあります。それは、「資本が外国に送られるとすれば、それは、資本が国内では絶対に使えないからではない。それは、資本が外国ではより高い利潤率で使えるからである。」(大月版P321)という文章です。この文章も合わせて、この機会に、是非、考えて下さい。

「第一五章」を「取り消し」たら、『資本論』は『資本論』でなくなってしまいます

 なお、これまで、不破さんの「第一五章」の印象操作への反論の中で、「第一五章」の内容についてかなり触れてまいりましたが、この章が、不破さんに「取り消した章」などと言われているので、あらためて、「第一五章」の中の重要な文章について見てみたいと思います。これらを見ることによって、不破さんが「第一五章」を「取り消した章」にしたい理由がよくわかります。

⦿その1。この章の一番重要な点は、「利潤率の傾向的低下の法則」の発見によって、「資本主義的生産様式は生産力の発展に関して富の生産そのものとはなんの関係もない制限を見いだ」し、「この特有な制限は、資本主義的生産様式の被制限性とその単に歴史的な一時的な性格とを証明するのである。それはまた、資本主義的生産様式が富の生産のための絶対的な生産様式ではなくて、むしろある段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明するのである。」(同上P304)という文章に示されています。

※〈⦿その2。〜⦿その6。及び⦿その8。〉については、ホームページ4-27-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(1/3)」(このページのPDFファイルの36-40ページ)を、是非、参照して下さい。

⦿その7。「第一五章」には科学的社会主義の経済学の〝核心〟的理論が述べられています。

科学的社会主義の経済学の〝核心〟的理論

⦿マルクスは次のように言います。

「資本主義的生産様式の制限は次のような点に表れる。

 (1)労働の生産力の発展は利潤率の低下ということのうちに一つの法則を生みだし、この法則は、生産力の発展がある点に達すればその発展に最も敵対的に対抗し、したがって絶えず恐慌によって克服されなければならないということ。

 (2)不払労働の取得が、そして対象化された労働一般にたいするこの不払労働の割合が、または、資本主義的に表現すれば、利潤とこの利潤の充用資本にたいする割合とが、つまり利潤率のある高さが、生産の拡張や制限を決定するのであって、社会的欲望にたいする、社会的に発達した人間の欲望にたいする、生産の割合がそれを決定するのではないということ。それだからこそ、資本主義的生産様式にとっては、生産の拡張が他の前提のもとでは逆にまだまだ不十分だと思われるような程度に達しただけでも早くも制限が現われるのである。この生産様式は、欲望の充足が休止を命ずる点でではなく、利潤の生産と実現とが休止を命ずる点で休止してしまうのである。」(大月版P323-324)

⦿これが、科学的社会主義の経済学の〝核心〟的理論である「資本主義的生産様式の制限」に関してマルクスが述べた言葉です。この認識と不破さんの「恐慌の運動論」とには、雲泥の差があります。

⦿マルクスは、資本主義的生産様式のもとでの「生産力の発展」が「恐慌」を生むと考えますが、不破さんは、「架空の需要」にもとづく「商品の過剰生産」が「恐慌」を生むと考えます。もしも、不破さんが、「恐慌」が「資本の過剰生産」の現れであることを認めるのであれば、不破さんは「資本の過多」による資本主義的生産様式の矛盾の深まりをも認めなければなりません。

⦿不破さんは、『資本論』第三部の第一五章を読めば誰でも目に入るこれらの文章の「解説」をいっさいせず、「第一五章」を「取り消した章」などと言って葬り去ろうとしますが、自分が論破できないからといって「葬り去ろう」とするのは、科学的社会主義の思想から最も離れた人が行なう考えと行動です。

⦿なお、19世紀後半に生きたマルクスとエンゲルスが「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」だというと、「恐慌=革命」説で間違いだといい、19世紀末から20世紀前半に活躍したレーニンの当時の「帝国主義」の捉え方に嘲笑をあびせ、その時々の資本の行動と国家の行動を見てその時々の最も適切な政策を判断することができない不破さんと、その仲間たちは、上記の文章の言葉尻をとらえて、マルクスは、「利潤率の傾向的低下の法則」が「生産力の発展がある点に達すればその発展に最も敵対的に対抗し」、利潤率の低下は、「絶えず恐慌によって克服されなければならない」ということを述べているではないか、これは、「この法則が、恐慌という破局とその反復」をもたらすといっていることではないか、と鬼の首をでも取ったかのように言うかも知れません。

⦿しかし、待って下さい。マルクスは、同じ「第一五章」で「労働者の絶対数を減らすような、……(青山の略)生産力の発展は、革命をひき起こすであろう。」と述べ、生産力の発展による「労働者の過剰時間」が「資本主義的生産の独自な制限」としてあらわれ、資本主義的生産様式が生産力の発展の衝突するようになり、「部分的にはこの衝突は周期的な恐慌に現れるが、このような恐慌が起きるのは、労働者人口のあれこれの部分がこれまでどおりの就業様式では過剰になるということからである。」とも述べています。

⦿今度は、不破さんは、マルクスは「労働者の過剰時間が、恐慌という破局」をもたらすといったと言ってマルクスを責めるのでしょうか。

⦿私たちは、不破さんの「恐慌の運動論」、「架空の需要=恐慌」論などに惑わされることなく、資本主義的生産様式における生産力の発展が、「利潤率の低下」をもたらし、「労働者の過剰時間」をもたらし、「資本の過多」をもたらし、資本主義的生産様式が「けっして絶対的な生産様式ではなくただ物質的生産条件のある局限された発展期に対応する一つの歴史的な生産様式でしかない」という科学的社会主義の〝資本主義没落〟論をしかりと学ばなければなりません。

⦿そして、現代の日本が「産業の空洞化」を通じて、〝没落〟しつつある姿を示していることをしっかりと認識しなければなりません。

⦿このように、「第一五章」を否定することは、科学的社会主義の経済学を否定することです。「第一五章」を含む「第三篇」が不破さん責任編集の「新版『資本論』」によって「取り消され」てしまったら、『資本論』が『資本論』ではなくなってしまいます。

P40 不破さんは、マルクスの「経済学批判」から「資本論」への構想の発展を利用して、自説を読者に刷り込もうと無駄な努力を重ねる

⦿不破さんは、わざわざ「『資本論』第三部の構想の歴史的な変化」というタイトルの「章」を立てて、「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見」──という不破さんの創作──が「『資本論』全体の構想プランの画期的な変化の出発点となりました」(P40)と言い、「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見以降は、構想全体にあった『資本一般』という枠組みそのものの再検討が必要になりました」(P43)と述べています。

⦿これは、あたかもマルクスが「恐慌の運動論」なるものを1865年の初めに「発見」し、その結果『資本論』全体の構想の再検討が必要になったかのように述べることによって、不破さんが創作した「恐慌の運動論」──不破さんは、「発見」したのはマルクスで、自分は「恐慌の運動論」と命名しただけだと、虎の威を借りようとしますが──なる産業循環の矮小化された「理論」を、あたかもマルクスが1865年の初めに「発見」したかのように読者に思い込ませようとするためです。

⦿しかし不破さんは、「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見」なるものが、なぜ、「構想全体にあった『資本一般』という枠組みそのものの再検討が必要にな」り、「『資本論』全体の構想の再検討」を必要とすることになったのかは、残念ながら、まったく語ってくれません。

「『資本論』の成立過程」の概略

⦿私は、ホームページ4-27-2「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その2)「『資本論』第二部を読む」を検証する。」の冒頭の〈不破さんらしい「第二部」の成立過程のスケッチ〉の〈項〉で、マルクスが第一部草案を書き終えたあと、1864年の夏頃から、「第3部」を第2章(この「章」は『資本論』の「篇」に該当する。)→第1章→第3章の順に書き、その後、1865年の前半に「第2部 資本の流通過程」の草案を書きはじめたことにかんして、不破さんがマルクスを誹謗・中傷したので、関連する『資本論』編纂に至る経緯をしめし、不破さんの誤りを指摘しました。

⦿一部重複しますが、ここであらためて、ホームページ4-27-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(1/3)」で「『資本論』の成立過程」の概略を記載しておりますので、是非、ご覧下さい。

※なお、「『資本論』の成立過程と構成」のより詳しい資料は、別添PDF「『資本論』の成立過程と構成」を参照して下さい。

不破さんのつじつま合わせ

⦿上記の〈「『資本論』の成立過程」の概略〉を見ていただきたいと思いますが、「構想全体にあった『資本一般』という枠組みそのものの再検討が必要にな」り、「『資本論』全体の構想の再検討」を必要とすることとなったのは、不破さんが言うような「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見」なるものによるわけではありません。

⦿マルクスの「剰余価値に関する諸学説」の執筆過程で、研究した問題の範囲がますます大きく広がって行くにつれ、そして、研究が煮詰まって行くにつれて、『剰余価値学説史』執筆前の研究の方法に基づく叙述の仕方から、本質と直接的な現象とのシームレスな貫徹メカニズムを示し、体系的に論述するという『資本論』の構想が固まってきたのです。

⦿なお、不破さんは、マルクスが「『経済学批判』第一冊」の続編のなかの利潤に関する篇にその「例解」として「地代」の問題を入れようとしたことについて、「利潤の研究の一部のような顔をして」とか「マルクスが編み出した苦肉の策」とか言って、マルクスを不破さんと同様に次元の低い人間に見せようとしていますが、「利潤の研究」における「例解」として「地代」というアイデアは非常にいい考えで、『資本論』の構想が固まっていなかった1862年の段階では大正解だと思います。

⦿「地代」が「利潤の研究の一部のような顔をして」いるものなのか、みなさんは、是非、『資本論』の「第三部」を読んで下さい。

⦿不破さんは、「1865年以後のプラン変更」という「項」で『資本論』の草稿が書かれた時期だけを取って、私が〈「『資本論』の成立過程」の概略〉で指摘した『資本論』の構想に必死でつじつま合わせしようとします。しかし、不破さんは、一向に、「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見」が「『資本論』全体の構想の再検討」を必要とすることとなったとする「主張」の根拠を示すことができません。唯一書かれているのは、1862年12月のプラン草案の「8)産業利潤と利子とへの利潤の分裂。商業資本。貨幣資本。」を『資本論』では二つの「章」に「分割して」「独立させ」たこと──〈「『資本論』の成立過程」の概略〉で、「第4章」と「第5章」の二つの章に分割した理由を詳しく説明していますので、参照して下さい──と、「第4章」が「マルクスが恐慌の運動論を自分の言葉で解説する、現行の『資本論』における唯一の場所となった」(P44)ことだけで、「『資本論』全体の構想の再検討」を必要とする根拠も、どのように「『資本論』全体の構想の再検討」をするのかも、まったく述べられていません。

⦿そして、不破さんには失礼ですが、不破さんが二一世紀になって「発見」し、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」(『前衛』2015年1月号)きたという、「恐慌の運動論」(「架空の需要=恐慌」論)と不破さんが命名し歪曲し矮小化しているものは「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明する」もので、なんら、目新しいものではありません。

⦿どうも、変わったのは「1865年以後」ではなくて2003年以降で、変わったのは「プラン変更」ではなくて不破さんの「『資本論』の解釈」のようです。

第四篇

⦿自分の稚拙な主張に合わないマルクス・エンゲルス・レーニンの論述は歪曲して誹謗中傷しますが、利用できそうな文章は天まで持ち上げます。「マルクスが『恐慌の運動論』を直接解説した唯一の章」(P54-59)という「項」を見てみましょう。

⦿二一世紀になって「恐慌の運動論」を大「発見」した不破さんは、「第一八章 商人資本の回転。価格」の文章を抜粋して、なにか「大発見」でもしたかのように、つぎのように言います。

「この文章と、第二部第一草稿でマルクスが恐慌の運動論を発見した時に書き付けた最初の文章とを読みくらべてみてください。最初の文章は産業資本を主語としての解説、今度は商人資本を主語としての解説ですが、冒頭の『商人資本は、……生産資本のために局面W-Gを短縮する』というのは、第一草稿の『流通過程の短縮』という言葉の再現にほかなりません。それによってつくりだされる『架空の需要』が再生産過程を制限を越えてまでも推進し、ついには恐慌にいたる、という論理も、第二部第一草稿で示された論理とまったく共通のものです。」と。

⦿現代に生きる、多少でも経済学をかじった者ならば、この不破さんの文章の運びに苦笑いをすること請け合いです。

 「流通過程の短縮」は資本主義的生産様式の社会での「商人資本」の存在理由であり、見かけ上の価値実現の見返りとして産業資本による搾取の分け前を得ることができるのです。「産業資本」の側から見ても「商人資本」の側から見ても、「流通過程の短縮」は「流通過程の短縮」です。マルクスが、資本主義的生産様式の社会での「商人資本」の役割を明らかにしたからといって、二一世紀になって不破さんが驚くべきことではありません。

⦿「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明する」方法として、マルクスが生きた時代に、「架空の需要」が実需を生み、それがまた「架空の需要」を生み、それらがある時点で、「恐慌」によって清算されることをマルクスが述べていることについて、現代に生きる、多少でも経済学をかじった者ならば、目新しいことなどとは思わないでしょう。

⦿そして不破さんは、「恐慌」に至るメカニズムを説明した文章を抜粋して紹介し、「これまでほとんど無視された影の文章となってきたのは、たいへん残念なことでした。」と言います。「無視された影の文章」としてきたのは、これらの文章を二一世紀になって、やっと、「恐慌の運動論」などと称して大「発見」した不破さん自身ではないですか。不破さんがこんなことさえ知らずに「共産党」の委員長をしていたことが知れたら、現代の「御用学者」にさえ大笑いされますよ。開いた口がふさがりません。

⦿不破さんが「無視された影の文章」として抜粋した「トリ」の部分を見てみましょう。

「遠隔地に売る(または国内でも在庫の山をかかえてしまっている)商人たちの〔支出の〕還流が緩慢になって、まばらになり、その結果、銀行には支払いを迫られたり、諸商品購入のさいに振り出した手形が諸商品の転売が行われないうちに満期になるということになれば、ただちに恐慌が到来する。そこで強制販売、支払をするための販売が始まる。そうなればそこにあるのは崩落であって、それは外見的な繁栄に一挙に結末をつけるのである」。

⦿この「恐慌」の現象的な説明を「資本の価値」に着目して、恐慌に至る過程について、より詳しく説明した文章が『資本論』の他の箇所にあるので紹介します。

「主要な破壊、しかも最も急激な性質のものは、価値属性をもつかぎりでの資本に関して、資本価値に関して、生ずるであろう。資本価値のうち、単に剰余価値または利潤の将来の分けまえにたいする手形という形で存在するだけの部分、事実上は生産引き当てのいろいろな形の債務証書でしかないものは、それが当てこんでいる収入の減少とともにたちまち減価を受ける。金銀の現金の一部は遊休し、資本として機能しない。市場にある商品の一部分は、ただその価格のひどい収縮によって、したがってそれが表している資本の減価によって、やっとその流通・再生産過程を通ることができる。同様に固定資産の諸要素も多かれ少なかれ減価を受ける。そのうえに、一定の前提された価格関係が再生産過程の条件となっており、したがって再生産過程は一般的な価格低落によって停滞と混乱とにおちいるということが加わる。この攪乱や停滞は、資本の発展と同時に生じてあの前提された価格関係にもとづいている支払手段としての貨幣の機能を麻痺させ、一定の期限の支払義務の連鎖をあちこちで中断し、こうして資本と同時に発展した信用制度の崩壊が生ずることによってさらに激化され、このようにして、激烈な急性的恐慌、突然のむりやりな減価、そして再生産過程の現実の停滞と攪乱、したがってまた再生産の現実の減少をひき起こすのである。」(大月版④P318~319)

⦿この文章は、不破さんによって、ここで「展開した理論の主要部分」が取り消されてしまった、不破さんの言う「理論的大転換の前夜に書かれた」第3篇第一五章の中の、かなり有名な文章で、「商人資本」のもつ「流通過程の短縮」という役割をしっかりと認識しての記述です。

⦿このように、二一世紀になるまで不破さんが「無視」してきた文章と、二一世紀になって不破さんが「取り消し」た文章とは、同じ内容のことを、それぞれの「章」が取り扱うテーマに沿って、それぞれ異なる側面から述べられています。

⦿このように、「第一五章」と「第一八章」とは内容的に統一されており、少し前に不破さんが、なにか「大発見」でもしたかのように、「第一八章」の抜粋文と「第二部第一草稿で示された論理」とが「まったく共通のもの」と言った、資本主義的生産様式のもとでの「商人資本」のもつ「流通過程の短縮」という役割を、マルクスは『資本論』第三部第三篇第一五章の草案執筆時点で十分認識していたことを示しています。

⦿そのことは、また、マルクスが1865年に「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見」により「理論的大転換」をして『資本論』を書き変えることを決めたという不破さんの妄想が成り立たないことを示しています。

⦿それにもかかわらず、不破さんは、「この時期の、新たに発見した恐慌の運動論へのマルクスの打ち込みぶりが、強く実感されます」とか「適切な機会となりうるところで、早く新しい理論のより具体的な展開をしておきたい、こういう意欲が垣間見える印象をもつからです」などと言って、読者をだまそうとします。

⦿しかし、マルクスは、〈「『資本論』の成立過程」の概略〉で指摘したように、「構想全体にあった『資本一般』という枠組みそのものの再検討が必要にな」り、「『資本論』全体の構想の再検討」が必要となって、『経済学批判』の続編から『資本論』として、1863年までの『剰余価値学説史』執筆前の研究の方法に基づく叙述の仕方から、本質と直接的な現象とのシームレスな貫徹メカニズムを示し、体系的に論述することに叙述の仕方を変える新たな著作の出版を決心したときから、このような叙述の仕方を行ってきました。

⦿だから、「新しい理論のより具体的な展開」をより詳細に「展開」した文章が、不破さんの言う〝古い地層〟の中の不破さんが「取り消し」た「章」(第一五章)にあるのです。

 だから、不破さんが「第一五章」で「価値ある遺産──『恐慌の根拠』についての二つの文章」として取り上げざるを得なかった文章が、不破さんの言う〝古い地層〟の中にあったのです。

⦿不破さんにとって打撃的なことを申し上げて心苦しい限りですが、不破さんは、「恐慌の運動論」の「発見」が「『資本論』全体の構想プランの画期的な変化の出発点となりました」と言って、自らの妄想の「出発点」は言いますが、「『資本論』全体の構想プラン」がどのように「画期的」に「変化」したのか、「新資本論」について、マルクスの遺作から探しだすことができません。

⦿少なくとも、「第一五章」について、「そこで展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」と言う以上は、不破さんの言う「第一五章」の「理論の主要部分」とは何で、それが「以後の草稿」の何処でどのように「取り消」されたのか、そのくらい明らかにするのは最低限の義務ではないでしょうか。

⦿しかし、それは、不破さんにとって不可能なことです。なぜなら、『資本論』は〈「『資本論』の成立過程」の概略〉で指摘したように、不破さんの妄想の「出発点」より以前からの構想にもとづいて執筆され、全体の整合性は保たれており、同時に、1881年に「第二部」の第8稿をもって『資本論』の執筆を打ち切るまで、不破さんが「古い地層」に属すると言う「第一篇」から「第三篇」までの草稿について、マルクスは一度も「取り消し」などしなかったからです。

⦿なお不破さんには、1859年に刊行された『経済学批判』の次の文章などまったく頭の中に入っていないのでしょう。

「……交換過程における購買と販売との分離は、社会的素材変換の局地的・自然発生的な、先祖伝来のつつましやかな、心地よくてたわいのない諸制限を打ち破るが、それと同時にこの分離は、社会的素材変換の相合して一体を成している諸契機の分裂とそれらの対立的固定化との一般的形態であり、ひとことでいえば、商業恐慌の一般的可能性である。」

⦿この、資本主義的生産様式における「購買」と「販売」との分離による「恐慌の可能性」についての知識は、マルクス経済学を少しでも学んだ人ならば誰でも知っていることです。そして、資本主義的生産様式における「信用」の拡大は、この「購買」と「販売」との分離による「架空の需要」のトレンドを拡大させる「槓杆」の役割をもっています。マルクスはそんなことは百も承知です。

⦿「1865年初め」にマルクスが「恐慌の運動論」を「発見」したなどというウソをつくのを、不破さんはやめるべきです。

現代のブルジョア経済学者の任務と〝産業循環〟

⦿なお、不破さんは、当時の〝産業循環〟の一般的な現れ方を「恐慌の運動論」なるものに矮小化し、リーマン・ショックについても、「『架空の需要』にもとづく生産の無制限的拡大とその破綻という過程が典型的に現われていた」(『前衛』2015年1月号)と言って、現代の経済危機についての無知・無理解を示し、マルクス経済学をまったく理解していないことを告白します。

※詳しくホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を参照して下さい。

⦿マルクスは、『資本論』の「第二部」、「第三部」を通じて、私たちに、資本は拡大再生産なしには生きて行けないこと、拡大再生産のためには市場の不断の膨張が必要であるが市場の拡大には限界があること、その限界を克服するためには資本主義的生産様式のもとでの〝産業循環〟を通じて、資本の価値の減価が必要なことを教えています。

⦿そして、マルクスの時代の資本主義的再生産を円滑に行う唯一の方法は、購買と販売を分離し「架空の需要」をつくり、資本の流通過程を円滑に推進するための「信用制度」を発展させることで、資本の価値の減価を伴う産業循環のゴールであり産業循環をリセットさせて新たな循環の出発点となるのは「恐慌」以外にありませんでした。

⦿現代のブルジョア経済学者の任務は、この避けることの出来ない、資本主義的生産様式が生む〝産業循環〟からいかに資本のダメージを少なくし、いかにして需要を創造するかということです。そして、マルクスが描写した当時の〝産業循環〟の一般的な現れ方と現代の〝産業循環〟の現れ方とではだいぶ様相が異なります。

⦿現在は、「産業資本」も「商業資本」も在庫管理を徹底し、機械受注動向を景気の先行指標として注視し、不変資本の需給動向にも注意が払われ、不破さんの言う「架空の需要」が「恐慌」の「原因」となる事態はかなり回避され、資産価値の上昇によるバブルの発生とその崩壊をきっかけとする「危機」の発現へと〝産業循環〟の現れ方も変化しています。⦿しかし、二一世紀になって、やっと、「架空の需要=恐慌」説を発見した不破さんは、リーマン・ショックについて、「『架空の需要』にもとづく生産の無制限的拡大とその破綻という過程が典型的に現われていた」と言うことによって、マルクスとマルクス主義(科学的社会主義)を台無しにしてしまいました。

⦿なお、今日の〝危機〟のきっかけになる主なものとして、「欧米(日本を含む)の緩みすぎた金融」、「中国の債務」、「金融商品のコンピューター取引」等が挙げられています。

不破さんとマルクスの『資本論』の位置づけの違い

⦿ここまで、「第一八章 商人資本の回転。価格」のなかの「資本の現象的な流通形態」から「恐慌」を説明する文章についての不破さんの「特別」な位置づけとその誤りについて見てきましたが、「第一八章」には不破さんとマルクスの『資本論』の「意義」の違いをあらわす文章がありますので、紹介します。

⦿不破さんは、「第三部を読む」の最初の「項」で、「第三部の研究対象は何なのか」と問いかけて、「これから研究するのは、『社会の表面』に現れる世界」だと言い、「これまで第一部、第二部で見てきた世界」と「どこが違ってくる」のか、「それは、これからの研究のお楽しみ」で、「マルクスは、こういう意味で、第三部の内容の核心を示すものとして『諸姿容』の語を押し出したのでした。」(P12-13)と言いました。

⦿そしてマルクスは、不覚にも、第一巻への「序言」で、二一世紀になって、マルクスに似せたぬいぐるみを着た、不破さんのような間抜けな人間が現れるなどとは夢にも思わず、第三部について、詳しくいえば「資本主義的生産の総過程における資本の諸姿容の科学的研究」を取り扱うというべきところを、第三部で「総過程の諸姿容」を取り扱うと「体言止め」の表現をしてしまいました。

⦿その結果、不破さんにおいては、第三部の研究が「科学的研究」から「諸姿容」の「お楽しみ」の「研究」になってしまいました。

⦿しかし、マルクスが第三部において行なったことは、下記の文章にある「科学の仕事」を貫徹することでした。

「再生産の総過程に関するすべての表面的で転倒した見解は、商人資本の考察から取ってきたものであり、また商人資本特有の運動が流通担当者たちの頭のなかに呼び起こす観念から取ってきたものである。

 読者が残念に思いながらも認めてきたように、資本主義的生産過程の現実の内的関連の分析が非常に複雑な事柄で非常に手数のかかる仕事だとすれば、また、目に見える単に現象的な運動を内的な現実の運動に還元することが科学の仕事だとすれば、……」(大月版P390-391)

⦿このように、不破さんとマルクスの『資本論』「第三部」の位置づけは、まったく異なります。

次のページへのアピール

  ここまでが、『資本論』の「第三部第四篇」までの不破さんの特異な解釈と『資本論』を読む上での留意点です。

 「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その5)──『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えさせるな!!!──『資本論』第三部での不破さんの歪曲と捏造(その2)」は、「第五篇」からですが、「第五篇」以降、不破さんは、大谷禎之介氏の『マルクスの利子生み資本論』の都合のいいところも利用しながら、エンゲルスの編集にたいする的外れの攻撃をますます強め、私たちを科学的社会主義の思想から遠ざけようとします。

 不破さんにだまされないために、是非、「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その5)」もお読み下さい。