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「資本主義的生産様式の社会」と「ポスト資本主義社会」との違い

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「資本主義的生産様式の社会」と「ポスト資本主義社会」との違い

1、「資本主義的生産様式の社会」と「新しい生産様式の社会」

「資本主義的生産様式の社会」と「新しい生産様式の社会」つまりポスト資本主義社会との違いを「産業の発展」と「労働の評価」の二つの面から、それぞれの「生産様式」の持つ特徴・法則に基づいて見てみましょう。

 

資本主義的生産様式の社会

資本主義的生産様式の社会は、「資本」が大きくなることによって経済が発展するという特徴・法則をもつシステムのため、概ね、以下のような負の側面が現れます。

儲かる産業・製品・サービスには「資本」が集中され、生産性も高まる。しかし、それは、「儲かる」からであって、社会として必要な産業・製品・サービスであるからという理由に基づくものではない。

生産性の低い産業・企業の「資本」は、生産性の低さによる利潤率の低下を埋め合わせ「資本」の〝平等なコストパフォーマンス〟を得ようとして労働者の賃金を低く抑えこもうとする。その結果、生産性の違いによる賃金の格差が生まれる。

この賃金格差は、同じ資本の投入量から同じ利潤の量を引き出そうする資本主義的生産様式の社会によって引き起こされるもので、労働者の能力・スキルの差によって生まれたものではない。ひとえに、資本主義的生産様式の社会での生産性の違いによって生まれるものです。

このような事情によって、社会的に必要な仕事であっても、儲からない、生産性の低い分野や生産性の低い仕事はないがしろにされ、社会は歪み、そこで働く労働者は劣悪な労働条件を甘受させられます。

先進資本主義国では、より高い利潤率を求める元気な「資本」が自国民を捨て、搾取率の高い低賃金の国への資本と雇用の輸出が行なわれます。「資本」はそれらの国で、低賃金はそのままに、一層の利潤の拡大を求めて生産性を高めますが、そのような元気な「資本」と雇用の輸出をしてしまった国にはサービス業等の低い生産性の産業・企業が広範に残り、中間層が薄くなり、全体的な賃金低下とともに賃金格差も拡大し、資本主義的生産様式の基での経済成長が不可能になり、労働者にとって資本主義的生産様式の社会が与えてくれる唯一の恵み──景気循環の好況期でのほんのわずかな恩恵──さえも、労働者に与えることができなくなってしまいます。

これが、日本を典型とする資本主義的生産様式の社会の「資本」の論理(法則)に基づく必然的な結果です。

 

新しい生産様式の社会

〝新しい生産様式の社会〟は「資本」による生産と社会の支配を認めず、人間が生産と社会をコントロールするシステムのため、次のように社会の発展を促します。

「資本」による生産の支配がなくなり、「儲かる」かどうかが製品作りやサービスを提供するための基準ではなくなり、社会として必要な産業や製品等に必要な資源が投入されます。

生産性を上げることはより豊かな社会を創るための必須条件ですが、「儲け」や「利潤率」という資本主義的生産様式の社会を支配する概念がなくなりますから、生産性の低い産業・企業だから労働者の賃金が低く抑えられるということがなくなり、その仕事の難易度と労働者の能力・スキルによって賃金は決定され、生産性は低くても社会的に必要な仕事なら、ないがしろにされたり、そこで働く労働者が劣悪な労働条件を甘受するということもなくなります。

このように生産性は低くても社会的に必要な仕事なら必要な資源が投入される結果、技術革新等も進み、社会的に必要な仕事は、資本主義的生産様式の社会では考えられないような生産性の向上が図られます。

国家間の貿易に於いても、資本主義的生産様式の社会では他国の国民を搾取し収奪するための手段であった私的財産権としての「資本」と知的財産権は、〝新しい生産様式の社会〟ではその力を失い、先進国の高い技術と生産手段は、純粋に、生産性の低い国々の人々を豊かにするために使われます。その結果、世界中の人々の賃金格差も縮まり、やがて、解消し、国家間、民族間の争いの種をなくします。

これが、「資本」の消滅した〝新しい生産様式の社会〟が辿り着く、必然的な結果です。

2、「資本主義的生産様式の社会」を捨て、〝新しい生産様式の社会〟へ

 

「ルールある資本主義社会」に国民の豊かな生活を妄想する人たち

私たちが、緊急避難的なたたかいとして、資本主義の横暴から国民生活を守るための〝社会的障害物〟──それは、築くそばから掘り崩され、資本に都合の良いように変容させられてしまいますが──を築くために力を注ぐことは大切なことです。しかし、残念ながら、「資本主義的生産様式の社会」にしがみつき、資本主義の基での「ルールある経済社会」を実現することによって──資本主義的生産様式の基でのルールであることを理解せず──経済成長がはかられ、国民の生活が豊かになるという妄想に取り付かれている人たちがいます。

 

この妄想へのマルクスの厳しい批判

マルクスとエンゲルスは、この妄想に対し、『資本論』第3部で「第一に、その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である。」(大月版『資本論』⑤ P1090B5-1、ホームページ「温故知新」→「H闘争・団結・未来」の〈25、共産主義・社会主義〉の「25-8」に全文掲載。PDF有り)と述べて、資本主義的に組織されている国を国民福祉のための組織とみなすことが誤った認識であることを、明言しています。

 

「資本主義的生産様式の社会」の経済法則を無視して「ルールある経済社会」にしがみつく人たちの支離滅裂

「資本主義発展論」者に変節・転落してしまた不破さんの意を受けた志位さんは、日本共産党第28回大会議案の報告で、「OECD諸国には、わが党がめざす『ルールある経済社会』に近い到達点をもつ国ぐにもありますが、そういう国ぐにも含めて、ほぼ例外なく格差が拡大し、現代の資本主義社会は、貧富の格差が史上最悪となっているのであります」と述べて、「共産党」がめざす「ルールある経済社会」に近い到達点をもつ国ぐにでの「改良主義」の破綻を、自ら、告白していますが、それにもかかわらず、相変わらず頑固に「ルールある資本主義社会」を「めざす」というのですから、支離滅裂で呆れるばかりです。

私の期待する「共産党」は、〝新しい生産様式の社会〟の意義を真剣に語ることをせず、資本主義に屈服して、破綻が明らかな「ルールある資本主義社会」を「めざす」などと支離滅裂なことを言い続けているのですから、残念ながら、労働者の革命的なエネルギーを受け取ることができず、活力を減退し続けてもやむを得ないと言わざるをえません。

 

手遅れになるまえに、「資本主義的生産様式の社会」を捨てよう

日本は、産業と雇用の海外流出によって、経済成長でも、雇用と賃金でも、社会保障制度でも、そして財政でも、危険水域に入ったともいえるような状況にあり、国民負担率も1975年に25.7%だったのが1990年には38.4%になり、2020年にはついに47.9%にまでなってしまいました。

 私はこれまで、労働者階級の味方であるはずの政党の「ルールある資本主義社会」を「めざす」という「資本主義的生産様式の社会」への対応のしかたが、労働者階級と国民の目を曇らせ、日本社会を危機的な状況に陥らせた罪深い主張であることを再三述べてきました。それは、自民党やその腰巾着のような学者や評論家とかれらの意図に沿って国民を操ろうとするマスコミのより一層の罪深さを免罪するためではありません。それは、微力な私たちの前衛として、この「労働者階級の味方であるはずの政党」が立ち直って、日本の「資本主義的生産様式の社会」の真実を、大声で、暴露してもらいたかったからです。しかし、現在の「共産党」を見るかぎり、それは無いものねだりのようです。(*)

 だから、いまこそ私たち一人ひとりが──いま、日本の進路を変えなければ、ほんとうに手遅れになりかねないところにいる──ということをしっかり認識して、日本を変える大河の一滴として、そのことを精力的に発信し続けなければなりません。そうすれば、「大河の一滴」は〝大河〟となって、大地を潤し、「資本主義的生産様式の社会」を捨てて〝新しい生産様式の社会〟をめざす人たちが、必ず、ウンカのごとく出現することは間違いありません。なぜなら、その客観的条件は十分に整っているのに〝火打ち石〟が湿っているだけなのですから。

(*)詳しくは、ホームページ3-3-9「不破さんと志位さんの「共産党100年」史──科学的社会主義の大地に「資本主義発展論」の種を蒔く──」をご覧ください。

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