4-25

マルクス・エンゲルス・レーニンへの誹謗中傷から現れる不破哲三氏の資本主義社会のとらえ方

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不破さんの資本主義社会のとらえ方

  不破さんは『前衛』No903(P97)で、恐慌について「資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけでは なく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」ということをマルクスが解明し、「資本主義観の大転換」がおこなわれたことを 述べ、不破さん自身も「恐慌」を景気循環のなかのノーマルな一局面とみて、「恐慌」のたびごとに資本主義は発展するとの見方に立っています。不破さんは、「恐慌」のたびごとに資本主義の発展をみても、資本主義の矛盾の深まりを見ることができません。
  そして不破さんは『前衛』No917(P150)で、「『流通過程の短縮』、『架空の需要』など、マルクスが分析した恐慌の運動論は、いまでも、さらに多 様な現代的な形で生きており、現実に恐慌を生み出したのでした」と「架空の需要」が「恐慌を生み出した」ことを述べ、資本の運動の表層だけに目を奪われ て、「資本の現象的な流通形態」の中の短縮された価値「実現」のなかに「恐慌の運動論」を「大発見」し、「架空の需要=恐慌」説を考案します。これは、マルクスの恐慌論から恐慌の究極の根拠であるマルクスいう「基本的矛盾」と恐慌の原因であるエンゲルスのいう「根本矛盾」をぬき去ることを意味します。

 同時に、『前衛』No904で、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、エン ゲルスのいう「根本矛盾」を否定した不破さんは、「マルクスの言う基本的矛盾」をマルクスが「資本主義の本来の限界とか、資本主義の矛盾」といっていると 言い、「より大きい剰余価値の獲得、…(略)…、『利潤第一主義』の問題を中心にすえることなしに、資本主義の害悪を語ることはできない」と述べて、「利 潤第一主義」に資本主義的生産の害悪のすべてを矮小化してしまいます。
 このように資本主義的生産様式がもつ醜悪な矛盾を「利潤第一主義」に矮小化した不破さんは、『前衛』No920(P36)で「資本主義の側から見ても、その 実現は、労働者階級の衰退などの社会的破局を防止して、経済の安定的発展を支える積極的作用をはたしたのです。その意味では、そこには、〝資本主義の知 恵〟の発揮があった、と見ることもできます」とのべ、資本主義に労働者の生活と権利を守る「知恵」があるかのようにいっています。このような文脈の中で、 不破さんの著書の宣伝のための『前衛』での鼎談に付き合わされている石川康宏氏は、『経済』2015年1月号で、マルクスは「労働者の闘いの前進を」、 「より巨大な資本主義の発展をもたらす要因と」とらえたと、マルクスをずる賢いキツネたち(資本家連中)の同類のように言い、資本主義の発展を測るメルク マールが「民主主義の発展度合い」にあるというに至っています。もう、開いた口がふさがりません。
  こ のように不破さんは、マルクスの〝資本の現象的な流通形態から〟の恐慌の説明を、〝資本主義的生産様式のもとでの恐慌の本質から〟切り離し、恐慌を資本主 義的生産様式と共存する「恐慌の運動論」なるものに矮小化して、マルクスの恐慌論から恐慌の究極の根拠であるマルクスのいう「基本的矛盾」と恐慌の原因で あるエンゲルスのいう「根本矛盾」とをぬき去り、景気循環の中に「経済的発展」のみを見ることになります。
  同時に不破さんは、「利潤第一主義」に資本主義的生産の害悪のすべてを矮小化して、資本主義には労働者の生活と権利を守る「知恵の発揮」があるとさえ言います。
 これが不破さんの資本主義社会のとらえ方です。
 *マルクスのいう「基本的矛盾」とエンゲルスのいう「根本矛 盾」についての詳しい説明はHP4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤り だと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を、「資本主義の矛盾」の「利潤第一主義」への矮小化についての詳しい説明はHP4-11「☆不破さ んは「資本主義の矛盾」を「利潤第一主義」に変え、社会主義革命を「資本主義の害悪」の改善に変えようとするのか」を参照して下さい。

不破さんの資本主義社会の問題の解決策

 そのような資本主義社会のとらえ方をする不破さんの問題の解決策を見てみましょう。
  恐 慌のなかに恐慌の究極の根拠であるマルクスのいう「基本的矛盾」と恐慌の原因であるエンゲルスのいう「根本矛盾」とを見ず、マルクスのいう「基本的矛盾」 を「利潤第一主義」に矮小化した不破さんは、「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくる」ことが「新しい共同社会の経済 的基礎をつくりだす」ことだと言い、「この見地から、党綱領は」、「『生産者が主役』という問題を社会主義の原則として強調しています」と自慢します。

  「生産現場でこういう人間関係をつくる」という〝夢のある文化活動〟が「新しい共同社会の経済的基礎」という社会の土台をつくるという。「共産主義社会」は「オーケストラの指揮者」がいる社会で、それが「新しい共同社会の経済的基礎をつくりだす」という。マルクスが機会あるごとに強調した資本主義的生産関係の変更、「資本主義的所有の社会的所有への転化」など、不破さんにはまたく眼中にありません。
 こ のことを学ばない不破さんは、「私たちが、日 本の現状をふまえて、『国民の生活と権利を守る「ルールある経済社会」をつくる』(党綱領)という目標をかかげ、あらゆる面で『社会的なルール』を実現す る大運動にいま取り組んでいる意味も、そこにあるのです」と、「ルールある資本主義」を「目標をかかげ」、社会的バリケードをかちとり、「ルールある経済 社会」へ道を開いてゆくことが、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だと、資本主義の発展を擁護・礼賛して、資本主義の「根本矛盾」から国民の目 をそらさせるのですから、救いようがありません。

 不破さんは、「より大きい剰余価値の獲得、…(略)…、『利潤第一主義』の問題を中心にすえる ことなしに、資本主義の害悪を語ることはできない」と言って、資本主義的生産様式の内在的矛盾から取り出した〝利潤第一主義〟を超歴史的な概念である「利 潤第一主義」に還元し、資本主義的生産の害悪の中心にすえ、超資本主義的な「利潤第一主義」にもとずく資本主義の弊害の全てを「桎梏」だと言うに至りま す。
 そ の結果、「利潤第一主義」の改善、「ルールある資本主義」の確立が最大の目的となり、不破さんの眼中から資本主義的生産様式の「桎梏」である独占資本は消 え去り、「利潤第一主義」にもとづく「地球温暖化」等ありとあらゆる未解決課題が「桎梏」化(?)のあらわれとされ、大企業の内部留保の一部を吐き出すこ とが「利潤第一主義」を緩和させて経済成長を実現させる大道になってしまいます。
  な お、ここでいう「桎梏」とは、『資本論』の有名な文章、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中 も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収 奪者が収奪される。」(大月② P995)の中にある言葉です。
 こ の文章の中の、「生産手段の集中も労働の社会化も」とは「独占資本」によって歪められた「生産の社会的性格」のことであり、「その資本主義的な外皮」とは 「資本主義的私有」、つまり「取得の資本主義的形態」のことです。このような歪んだ生産手段の集中と労働の社会化をもたらす「独占資本」はこの生産様式の 「桎梏」になり、資本主義的生産様式は生産力発展の「桎梏」になるという意味です。
  「社 会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」(=「エンゲルスの言う根本矛盾」)をエンゲルスが唱えた謬論だと言って否定する不破さんは、この文章の 意味が分からなくなってしまい、「利潤第一主義」にもとずく資本主義の弊害の全てを「桎梏」だとなどと言うに至ってしまいます。
 そ して、「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」を認めたくない不破さんは、自らは「ルールある資本主義」の確立による「公平な配分」を 「実現する大運動」に「取り組んでいる」にもかかわらず、エンゲルスもレーニンも配分方法のみを問題にし夢がないと歪曲して、マルクス・エンゲルス・レー ニンの共通認識である私的資本主義的取得を変えて資本主義的生産様式を変革することを「夢がない」と否定し、マルクスとエンゲルスの著作に出てくる「必然 (性)の国」と「自由の(王)国」ということばだけを借用して、マルクスは労働時間の短縮による「自由の国」を未来社会として描いたとマルクスの考えを捏 造し、自らつくり出した「自由の国」についての独自の見解をマルクスの考えででもあるかのように吹聴しています。
 労働者を搾取する私的資本主義的取得の変革、〝国民の新しい共同社会〟をつくることを「夢がない」と否定する不破さんは、「夢のある自由の国」の実現のた めに日本共産党の綱領から労働者階級の歴史的使命を取り除き、「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことが、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる 道だとして、資本主義社会の延長線上に指揮者のいる未来社会を描きます。

 なお、不破さんの「自由の国」についての珍論の詳しい説明はHP4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。
 資 本主義を変える闘いの困難さに負けて、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった不破さんは、独占資本の行動 をリアルに見てそれとたたかい〝国民の新しい共同社会〟の実現をめざすのではなく、「ルールある資本主義」が実現すれば日本は救われると「大運動に取り組 んでいる」。
  しかし、マルクスは「ルールある資本主義」だけを「目標」にしたのではダメだと言っています。資本主義を曝露して、「生産過程の資本主義的形態」を変えるたたかいをしなければ元も子もなくなると言っているのです。詳しくはHP4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」を参照して下さい。
 マルクス・エンゲルス・レーニンが資本主義社会をどのようにとらえているのか、簡単に、見てみましょう。

 

 

 

 

新緑の武蔵野

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マルクス・エンゲルス・レーニンの資本主義社会のとらえ方

  不破さんの資本主義社会のとらえ方とマルクス・エンゲルス・レーニンの資本主義社会のとらえ方、そして現実の資本主義の姿を見てみましょう。

①資本主義の発展は資本主義の矛盾の深まりと表裏一体

 不破さんは、「恐慌」を景気循環のなかのノーマルな一局面とみて、「恐慌」のたびごとに資本主義は発展するとの見方に立っています。「恐慌」のたびごとに資本主義の発展をみても資本主義の矛盾の深まりを見ることができません。
 マ ルクスもエンゲルスも「恐慌」は「政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」が「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点」となり、「その あとの繁栄の回帰は、革命を挫折させて反動の勝利を基礎づける」ものであると考えており、資本主義的生産様式のもとでの景気循環は、資本主義の矛盾を深 め、労働者の団結と社会主義社会への物質的基礎を一歩一歩準備するものと考えていました。
  マ ルクス・エンゲルスの時代に「恐慌」に怯えた資本はレーニンの時代には「帝国主義」にその活路を求めました。ここまでは、資本は「国家」を基礎として、そ の儲けの一部をおこぼれとして分け与えるかたちで「国民」と共存してきました。しかし、「国家」の枠に収まりきれなくなった資本は新興国に富と雇用を移転 することによって一層の資本蓄積を図り、「母国」の〝産業の空洞化〟をもたらし、中間層の没落を促進し、社会システムの危機を顕在化させ、「国民国家」と 対立せざるを得ない様になりました。そのことによって国民と資本との矛盾、生産の社会的性格と資本の私的資本主義的性格との矛盾はますます深まり、深刻になっています。自・公がどんな手を打とうがバブルさえ起こせなくなっています。
 これが、現在の日本の姿です。

②資本主義的生産様式を視野の外に置く不破さんの「恐慌の運動論」

  不破さんは、「資本の現象的な流通形態」の中の短縮された価値〝実現〟(商品が貨幣資本に〝実現〟されること。)が「恐慌を生み出した」という「恐慌の運動論」なるものを「大発見」し、マルクスの恐慌論から恐慌の究極の根拠と恐慌の原因とを視野の外に置きます。
 マルクスとエンゲルスは資本主義的生産に内在する矛盾と資本主義的生産様式そのものが持つ体制的矛盾の二つの矛盾を資本主義の矛盾と捉えていました。資 本主義的生産に内在する矛盾とは、「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」(大月『資本論』④ P306-7)で、マルクスの『剰余価値学説史』で「一方では、生産力の無拘束な発展、および、同時に諸商品から成っていて現金化されなければならない富 の増加、他方では、基礎(グルントラーゲ)として、必需品への生産者大衆の制限、という基本的矛盾」と述べられているもので、恐慌の究極の根拠となるもの で、私は「マルクスの言う基本的矛盾」と言っています。資本主義的生産様式そのものが持つ体制的矛盾とは、マルクスが「一方の分配関係、したがってまたそ れに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立」(大月『資本論』⑤ P1129)と述べているもので、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」で、資本主義的生産様式のもとでの「近代的過剰生産の基礎をなす」 「生産諸力の無制約的な発展、したがってまた大量生産」をもたらし恐慌の原因となるもので、これをエンゲルスは資本主義的生産様式の根本矛盾と言っていま すので、私は「エンゲルスの言う根本矛盾」とよんでいます。この「二つの矛盾」は資本主義的生産様式のもつ矛盾を異なる二つの視点で捉えたものです。
  不 破さんの「恐慌の運動論」は「資本の現象的な流通形態」を時系列的に捉えただけで、資本主義的生産様式のもつ矛盾を根本から捉え、本質を曝露するものでは ありません。だから、不破さんは、リーマンショックについても、「『架空の需要』にもとづく生産の無制限的拡大とその破綻という過程が典型的に現われてい た」と言うだけで、深い分析などできません。
  竹中平蔵氏は経済学の仕事は「需要」をつくり出すことだと言っていますが、資本主義的生 産様式のもとでの「経済学」は、まさに、「取得の資本主義的形態」のもとでの歪んだ「生産の社会的性格」というハンディーを背負って、いかにして需要をつ くりだすかを研究する学問です。リーマンショックの原因となったサブプライムローンは資産価値の上昇を前提として「収入」を増やし「需要」生みだすという 錬金術師のシステムでした。不破さんのように分析する能力を捨て去って、現代資本主義の矛盾から目を背け、古い「資本の現象的な流通形態」にしがみついて、分かったような分からないような、観念論を言っても何の力にもなりません。
 なお、リーマンショックに関するより詳しい説明はHP4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を参照して下さい。

③不破さんは「利潤第一主義」に資本主義的生産の害悪のすべてを矮小化する

  不破さんは、「より大きい剰余価値の獲得、…(略)…、『利潤第一主義』の問題を中心にすえることなしに、資本主義の害悪を語ることはできない」と言っ て、「利潤第一主義」に資本主義的生産の害悪のすべてを矮小化し、おおもとの資本主義的生産様式を視野の外においてしまいます。
 そ の結果、「利潤第一主義」の改善、「ルールある資本主義」の確立が最大の目的となり、不破さんの眼中から資本主義的生産様式の「桎梏」である独占資本は消 え去り、「利潤第一主義」にもとづく「地球温暖化」等ありとあらゆる未解決課題が「桎梏」化(?)のあらわれとなり、大企業の内部留保の一部を吐き出すこ とが「利潤第一主義」を緩和させて経済成長を実現させる大道になってしまいます。
  マルクスとエンゲルスは、前述のとおり、資本主義的生産に内在する矛盾と資本主義的生産様式そのものが持つ体制的矛盾の二つの矛盾を資本主義の矛盾と捉えていました。だからこそ、標的を誤ることなく徹底的に資本主義を曝露することができ、正しい矛盾の解決策を提起することができました。
 し かし、「利潤第一主義」の改善、「ルールある資本主義」の確立が最大の目的である不破さんには、いまの日本の資本の現実の行動など考える必要はありませ ん。不破さんは、マルクスとエンゲルスが「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆」だというと、それを、誤った「恐慌=革命」説だと言い、レーニンが当時の 「帝国主義」の特徴をあぶり出すと、「それらの発言からから(ママ)もうほぼ百年たちましたからね。」と言ってレーニンを揶揄する。だから、不破さんにとって、いまの日本の産業空洞化がもたらす〝危機〟を曝露し、たたかいを組織することはマルクス・エンゲルス・レーニンのような誤りを犯すことになるのかもしれない。
  そしてその根底に、不破さんとの鼎談にしばしば付き合わせている石川康宏氏 のように、資本主義の発展を測るメルクマールが「民主主義の発展度合い」にあり、「労働者の闘いの前進」が「より巨大な資本主義の発展をもたらす」と思い 込み、とことん資本主義とつき合う〝改良主義〟の思想があるとしたら、情勢など考えず国民のための「民主主義」(=多数の支持)の実現のみを正しいと考 え、「共産党」員に押しつける不破さんの思想は完全につじつまが合う。
 しかしそこには〝現実〟がないから、国民のエネルギーがなく、本当の民主主義がない。新しい共同社会で必要とされる〝by the people〟がない。

④不破さんは資本主義の悪辣さを見ないで〝資本主義の知恵〟を見る

  不破さんは、「資本主義の側から見ても、その実現は、労働者階級の衰退などの社会的破局を防止して、経済の安定的発展を支える積極的作用をはたしたので す。その意味では、そこには、〝資本主義の知恵〟の発揮があった、と見ることもできます」とのべ、資本主義に労働者の生活と権利を守る「知恵」があるかの ようにいっています。
  しかし、マルクスは不破さんや石川氏のような認識などまったく持っていませんでした。 資 本家の目的は資本主義的生産様式のもとでの〝資本の蓄積〟で、「資本主義的生産は、人間材料についてはどこまでも浪費をこととする」(大月版『資本論』 ④P109)ものです。〝われ亡きあとに洪水はきたれ!〟(大月版『資本論』①P353)こそ、彼らのモットーです。だから、ずる賢いキツネたちのような 資本家連中は、〝利潤の拡大〟のためには転んでもただでは起きません。「労働日」の制限にしても、工場立法にしても、彼らは小さい資本を潰し、一層の〝利 潤の拡大・資本の蓄積〟のために利用します。「労働者階級の肉体的精神的保護手段として工場立法の一般化」も「矮小規模の分散的な労働過程から大きな社会 的規模の結合された労働過程への転化を、したがって資本の集積と工場制度の単独支配とを、一般化し促進」し、「小経営や家内労働の諸部面を破壊するととも に、『過剰人口』の最後の逃げ場を、したがってまた社会機構全体の従来の安全弁をも破壊」(『資本論』大月版①P653-654)してしまいます。けっして、不破さんが言うような「資本主義の知恵」などありません。
 ただ、資本主義は〝利潤の拡大〟を通じて、生産力を発展させ、資本の蓄積を進め、歪んだ形で生産の社会化を拡めて、「新たな社会の形成要素」を発展させます。そのことによって社会主義を準備する。これこそが、唯一の、資本主義の進歩的な側面です。間違ってはいけません。
  このマルクス・エンゲルスの認識は間違っていません。高度に発展した資本主義国日本で、〝産業の空洞化〟のもとで、不安定雇用が増大し、国民の貧困化が進行し、高齢者や乳幼児の劣悪な生活条件が広がっています。同時に、〝産業の空洞化〟は〝国民の新しい共同社会〟に至る〝資本の民主的規制〟以外に解決の道がないことを示しています。
 残念ながら、不破さんにはここがまったく見えませ
 それではなぜ、不破さんはこのような誤った資本主義のとらえ方をするのか、その源泉を見てみましょう。

 

 

 

 

 

新緑の武蔵野

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不破哲三氏の誤った資本主義のとらえ方の源泉

不破さんには科学的社会主義の考え方(マルクス・エンゲルス・レーニンの考え方)とは異なる幾つかの「独創的」な科学的社会主義の歪曲があります。それらの不破さんの誤りのうち、不破さんの誤った資本主義のとらえ方の源泉となるものを見てみましょう。

①資本主義の矛盾を資本主義的生産に内在する矛盾だけに求める不破哲三氏の近視眼

  不破さんの経済を見る目の一番の誤りは、資本主義的生産様式を立体的に捉えることができないことです。資 本主義の内在的法則と資本主義的生産様式がもつ矛盾を全面的に捉えることができない不破さんは、資本主義的生産に内在する矛盾から「利潤第一主義」を抽出 して、「資本主義の矛盾」の「中心にすえ」ることによって、「利潤第一主義」の改善、「ルールある資本主義」の確立が目的となって、資本主義的生産様式を 変革することによって「資本主義の矛盾」を解消するという科学的社会主義の真の目的を視野から外してしまいます。
 そ の結果、不破さんの目から資本主義的生産様式の「桎梏」である独占資本の行動は消え去り、「利潤第一主義」にもとづく「地球温暖化」等ありとあらゆる未解 決課題が「桎梏」化(?)のあらわれになって、大企業の内部留保の一部を吐き出すことが「利潤第一主義」を緩和させて経済成長を実現させる大道になってし まいました。
 これが、不破さんの経済を見る目の一番の誤りです。

②資本の行動をリアルに捉える科学の目の欠如

不破さんには、資本の発展段階に応じた矛盾を捉える目と本質を捉える科学の目が欠落しています。

〈資本の発展段階に応じた矛盾を捉える目の欠如〉

 マルクス・エンゲルスの時代に「恐慌」に怯えた資本はレーニンの時代には「帝国主義」にその活路を求めました。だからマルクスとエンゲルスは「恐慌」を「政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と捉え、レーニンは当時の「帝国主義」の特徴をあぶり出し資本主義が社会主義にますます近づいていることを示しました。不破さんには、その意味がまったく理解できずマルクス・エンゲルス・レーニンを誹謗します。
  詳しくは前掲HP4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」とHP4-13「☆レーニンの資本主義観、社会主義経済建設の取り組み、革命論への、反共三文文筆家のような歪曲と嘲笑、これでもコミュニストか」を参照して下さい。
 このように資本の発展段階に応じた矛盾を捉える目を持たない不破さんは、いまの日本を正しく捉えることができず、資本の発展段階を超越した「ルールある資本主義」の実現にすべてを託します。しかしこのような現状を見ない観念論で資本にだまされ続けている国民のエネルギーを引きだすことはできません。

〈現象を見て本質を見ない科学の目の欠如〉

 不破さんには、「恐慌の運動論」とか「賃金を上げれば経済はよくなる」とか「生産関係を小経営の延長とみるわけです」とか「競争が悪の根源だという結論を引き出した」とか資本主義の現象を見ることしかできず、その本質を見ることができません。
  不破さんは、資本主義の転倒した、逆立ちした表面的な世界しか見ることができず、本質を捉える科学的な目が、残念ながら、ありません。だから、マルクスやエンゲルスやレーニンの言っていることの意味が分からず非難するのです。
 参考にHP4-5「生産関係を小経営の延長とみるわけです」とエンゲルスを歪曲」とHP4-10☆不破さんの、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」と言う暴言」も、是非、参照して下さい。

私たちは資本主義社会をどう捉えて。どんな運動が必要か

  私たちは、資本主義社会をマルクスが発見した科学的な見方、別添の「マルクスの研究にとっての導きの糸として役だった一般的結論」の観点で考察しなければ なりません。そして『資本論』で示された経済・社会の科学的な分析を学び、資本主義の内在的法則と資本主義的生産様式がもつ矛盾を全面的に捉え、資本主義 的生産様式を立体的に見ることが必要です。
  そ して、運動を組織するに当たっては、レーニンがマルクス主義者の考察のしかたについて述べた、「マルクス主義の全精神、その全体系は、おのおのの命題を、 (α)歴史的にのみ、(β)他の諸命題と関連させてのみ、(γ)歴史の具体的経験と結びつけてのみ、考察することを要求しています」(第35巻『111イ ネッサ・アルマンドヘ』1916年11月30日に執筆P262~263)という観点が必要であり、運動を総括するに当たってもこの観点で見ることが必要で す。
 具体的にどのような運動が求められているかは、HP「今を検証する」と「パラダイムシフト」、前掲HP4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」、HP時々刻々の「〝前衛党〟は市民革命の助産婦に徹しよう」等を参照して下さい。

別添〈マルクスの研究にとっての導きの糸として役だった一般的結論〉

──『経済学批判』(序言) レキシコン②-[1]、全集13巻P6-7── 

「私を悩ました疑問の解決のために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であって、その仕事の序説は、 1844年にパリで発行された『独仏年誌』に掲載された。私の研究の到達した結果は次のことだった。すなわち、法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般的発展からも理解できるものではなく、むしろ物質的な生活諸関係に根ざしているものであって、これらの生活諸関係の総体をヘーゲルは、18世紀のイギリス人よびフランス人の先例にならって、「市民社会」という名のもとに総括しているのであるが、しかしこの市民社会の解剖学は経済学のうちに求められなければならない、ということであった。この経済学の研究を私はパリで始めたのであるが、ギゾー氏の追放命令でブリュッセルに移り,そこでさらに研究をつづけた。私にとって明らかとなった、そしてひとたび自分のものになってからは私の研究にとって導きの糸として役だった一般的結論は、簡単に次のように定式化することができる。人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に照応する生産諸関係をとり結ぶ。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法的かつ政治的な上部構造がそびえたち、そしてこの土台に一定の社会的意識諸形態が照応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法的表現にすぎないが、所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときから社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、徐々にであれ急激にであれ変革される。このような諸変革の考察にあたっては、経済的生産諸条件における、自然科学的に正確に確認できる物質的な変革と、人間がそのなかでこの衝突を意識し、それをたたかいぬくところの法的な、政治的な、宗教的な、芸術的な、あるいは哲学的な諸形態、簡単にいえばイデオロギー的な諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人がなんであるかは、その個人が自分自身のことをどう思っているかによって判断されないのと同様に、このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を、物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。一つの社会構成は、それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化されおわるまでは、けっして古いものにとって代わることはない。それだから、人間はつねに,自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。というのは、詳しく考察してみると課題そのものが、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生成の過程にある場合にかぎって発生する、ということが、つねにわかるであろうから。大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式を、経済的社会構成が進歩していく諸時期としてあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的というのは、個人的敵
対という意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。しかしブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。したがって、この社会構成でもって人間社会の前史は終わるのである。」