2-1-5

〝「資本」のための経済から「人間」のための経済へ〟

経済は社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするためにある

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〝「資本」のための経済から「人間」のための経済へ〟

〈目次

「逆境の資本主義」

Ⅰ、資本主義的生産様式とは(その仕組み)

Ⅱ、「経済は国民のため社会のためにある」という社会の生産の仕方とは

Ⅲ、〝経済は社会を豊かにし人々の生活を豊かにするためにある〟という社会はどうしたら実現できるのか

このページは、資本主義的生産様式の社会の仕組み、そして、「経済は国民のため社会のためにある」という社会の生産の仕方について一緒に見て、〝経済は社会を豊かにし人々の生活を豊かにするためにある〟という社会はどうしたら実現できるのかを考えます。

「逆境の資本主義」

 

「逆境の資本主義」

2020年の1月に始まった『日経新聞』の「逆境の資本主義」という連載の先行インタビューで、岩井克人氏は先進資本主義諸国を「米英型の自由放任で株主主権的な資本主義」と「様々な形の規制をもちステークホルダーの利害を調整する日独型」(日経HP2019/12/28)に分類していますが、「米英型」の新自由主義に基づく国は言うにおよばず、いわゆる「福祉国家」──それは、現在の「共産党」が目標とする「ルールある資本主義」の国──も、2020年に開かれた第28回党大会の決議案の報告で委員長の志位さんが「OECD諸国には、わが党がめざす『ルールある経済社会』に近い到達点をもつ国ぐにもありますが、そういう国ぐにも含めて、ほぼ例外なく格差が拡大し、現代の資本主義社会は、貧富の格差が史上最悪となっているのであります」と告白しているように、あらゆる「型」の資本主義国で「貧富の格差が史上最悪」となり、「逆境」にあります。

 「資本主義発展論」に「幹部」が変節してしまった現在の「共産党」が目標とする「ルールある経済社会=ルールある資本主義」の国さえも「貧富の格差が史上最悪となっている」と委員長が告白せざるをえないように、資本主義的生産様式の社会は、残念ながら、米英もヨーロッパや日本も「経済は国民生活を豊かにするためにある」という社会とはほど遠い状況にあります。

 そうしたなかで、注目すべきは、「産業の空洞化」の進行が日本よりもよりましな米国において、2016年の米国大統領選の民主党の予備選のとき、バーニー・サンダース氏が「労働者が雇用を失う一方で企業の利潤が拡大するような通商政策を実施したりすべきではない。」(2015年11月19日、ジョージタウン大学での演説)とグローバル資本による産業の空洞化を批判して資本の海外移転を抑制する法制定を主張し、「海外移転の時代は終わり、代わりに国内で良質な雇用を復活させるときだ」と訴え(2016年12月3日付け『赤旗』)、2020年の米国大統領選挙では、民主党の有力候補のエリザベス・ウォーレンが「大企業の取締役の4割を労働者代表から選出」することを主張(jiji.com2019、11、9)するまでになっていることです。

 これらの動きは、目標とする「ルールある経済社会」が「貧富の格差が史上最悪」であることを認めているにもかかわらず、まだ「ルールある資本主義」をめざすというとんでもないことを平気でいう、自称「科学的社会主義の党」である現在の「日本共産党」の「改良主義」を乗り越えるもので、大変注目に値します。

 「逆境の資本主義」は、どうしたら乗り越えることができるのか。資本主義的生産様式の社会とはどのような社会なのか、その「仕組み」をもう一度あらためて見て、〝経済は社会を豊かにし人々の生活を豊かにするためにある〟という社会はどのような社会でどうしたら実現できるのか、一緒に見ていきましょう。

Ⅰ、資本主義的生産様式とは〈その仕組み〉

これから見る①、②及び③については、すでにこれまでのページで見てきたところですが、それらを含め資本主義的生産様式の「仕組み」についてあらためて見ていきたいと思います。

〝資本〟は拡大するために存在し、資本が大きくなることが生産を拡大させるための条件なので、資本主義的生産様式の社会は拡大再生産を前提として走り続けることなしには存続できない

同じく先ほどの「逆境の資本主義」のインタビュー記事で、グリーンスパンFRB元議長は、「資本主義経済を支えるのは資本投下そのものだ。」(日経HP2019/12/27)と述べていますが、マルクスは『資本論』の第二部「第二一章 蓄積と拡大再生産」の「第一節 部門Ⅰでの蓄積」から「第三節 蓄積の表式的叙述」までで、「消費が資本主義的生産の目的であり推進的動機であって、剰余価値の獲得やその資本化すなわち蓄積がそうなのではない、ということを前提としている」単純再生産のもとでは資本蓄積の条件はなく、単純再生産の前提は資本主義的生産とは両立しないこと、資本主義的生産様式における蓄積の条件が、生産手段の生産部門での「拡大された規模での再生産」以外にないことを論証しています。ここに資本主義的生産様式の社会の〝宿命〟があります。

 なお、先ほどの岩井克人氏のインタビュー記事の中で、氏は「お金自体は紙切れや金属のかけら、電子情報などで何の役にもたたない。」とも言っていますが、マルクスはある個別資本家の「蓄積と拡大再生産」の例を説明する中で、資本主義社会では「一方にある貨幣が他方での拡大再生産を呼び起こす」ことを述べ、同時に科学的社会主義の創設者らしく、「そういうことが行われるのは、そこには貨幣なしでも拡大再生産の可能性があるからである。なぜならば、貨幣はそれ自体としてはけっして現実の再生産の要素ではないからである。」と「貨幣」(私的資本)に縛られた資本主義的生産様式の社会を痛烈に批判しています。

このように、ブルジョア経済学者も「資本主義経済を支えるのは資本投下そのもの」であること、つまり「拡大された規模での再生産」であることを認めるとともに、資本主義的生産様式の社会において魔力を発揮する「資本」(お金)は本来「何の役にもたたない」ものであることも認めています。

※なお、『資本論』の第二部「第二一章 蓄積と拡大再生産」の内容の詳しい説明は、ホームページAZ-3-2 「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説②「『資本論』第二部を読む」を検証する。」を参照して下さい。

拡大再生産を前提とする資本主義的生産様式の生産は相対的過剰生産の芽を育み、同時に、資本主義的生産様式における拡大再生産の発展の条件を制限する

マルクスは、『資本論』の第二部「第二一章 蓄積と拡大再生産」で、資本主義的生産様式の社会は、まさに貨幣という「資本」が「拡大再生産を呼び起こす」が、拡大再生産がおこなわれるのは、「貨幣はそれ自体としてはけっして現実の再生産の要素」ではなく、「貨幣なしでも拡大再生産の可能性がある」(大月版P606)ことを述べていますが、これは、資本主義的生産様式のもとでは「拡大再生産の可能性」があっても貨幣が「貨幣資本」として機能しなければ、円滑な拡大再生産の足かせとなるということです。そして、「信用制度のもとでは一時的に追加的に遊離させられた貨幣がすべてすぐに能動的に追加貨幣資本として機能することになる」(大月版P643)ことに論及し、「信用制度」がその困難を緩和させることを述べます。ここで大事なことは、資本主義的生産様式の社会における拡大再生産は常に「相対的」過剰生産の芽をもっており、信用制度による「貨幣」の「資本」化と金融の円滑化がその芽を育みとめどなく大きく繁らせるということです。(*)

 同時に、この章でのもう一つの大切な指摘は、大海原を走り続けるマグロのように拡大再生産し続けることを余儀なくされる「資本」は、そのことによって生産と消費の矛盾を拡大し、それはなんらかの方法で調整されなければならないということです。

 これらを踏まえ、マルクスは『資本論』の第三部「第一五章 この法則の内的な諸矛盾の展開」で、「利潤率の傾向的低下の法則」により、「資本主義的生産様式は生産力の発展に関して富の生産そのものとはなんの関係もない制限」があることを明らかにしました。

 資本主義的生産様式の社会は、「利潤率の傾向的低下の法則」により、資本主義が進めば進むほど資本の蓄積は増大し資本の有機的構成が高くなり、「利潤率」は「傾向的」に「低下」します。そのことによる「利潤」の量の減少を補うための商品の量の拡大は「利潤率」をますます低下させ、ついには、「利潤」の量の減少を補うことのできる限界に達し、「資本」にとっての「過剰生産」を生じさせます。ここで、「生産力の発展」は「資本」によって、つまり、「富の生産そのものとはなんの関係もな」く「制限」され、資本主義的生産様式における「生産力の発展」の歯車は逆回転しはじめます。

 だから、マルクスは、この「利潤」の量の最大化を求める「資本」によってつくり出された「生産力の発展」の「制限」について、「この特有な制限は、資本主義的生産様式の被制限性とその単に歴史的な一時的な性格とを証明するのである。それはまた、資本主義的生産様式が富の生産のための絶対的な生産様式ではなくて、むしろある段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明するのである。」(同上P304)と言うのです。

このように、拡大再生産を前提とする資本主義的生産様式の生産は、相対的過剰生産の芽を育み、同時に、資本主義的生産様式における拡大再生産の発展の条件を制限します。

(*)なお、このことに目を奪われた不破さんは恐慌の原因を信用制度に帰着させ、「賃金が上がれば経済は発展する」と「資本主義発展論」に立って科学的社会主義の思想の変質に努めます。詳しくは、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」及びホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」を、是非、参照して下さい。

経済的「財産」の私的占有に基づく資本主義的生産様式の社会は、富の偏在を必然にし、市場を狭め、「資本」の投資機会を失わせ、資本主義のエンジンである資本そのものが資本主義の障害となり、生産力発展の障害になる

資本主義的生産様式の社会においては、技術革新と生産性のたゆまざる発展のためには、そのための新しい「投資」が、経済の成長にみあって、拡大していかなければなりません。

 しかし、その最大の阻害要因となるのが経済的「財産」(資本)の私的占有です。経済的「財産」の私的占有がなければ、その社会で増やした富はその社会を豊かにするために使うことができます。しかし、資本の私的占有によって、その社会とは無関係に、より儲かる地域や国があるならば、富を生みだし増加させた社会の存在を無視して富の移動が行なわれ、富を生みだし増加させた社会の富は抜き取られます。同様に、知的「財産」権も富を増加させた社会から富を抜き取る道具として働きます。

 その結果、労働力の値段が高い国から安い国へ「資本」は移動し、一方の「資本」の流出国は、国民を豊かにする基盤が失われ、富を創り出すための技術革新と生産性の発展は阻害され、もう一方の「資本」の流入国は、労働者の低賃金が維持され、知的「財産」権にもとづく収奪がおこなわれ、それぞれの国に貧困が集積します。

 だから、バーニー・サンダースはグローバル資本による産業の空洞化を批判して資本の海外移転を抑制する法制定を主張し、「海外移転の時代は終わり、代わりに国内で良質な雇用を復活させるときだ」と訴えたのです。

 経済的「財産」を私的占有している者と持たざる者との差は、富の集積の差として現れ、経済的「財産」を私的占有することによって集積された富の一部は社会に回らず、社会に回ったとしてもその多くはマネーゲームや奢侈品の購入に使われ、浪費されます。

このように、労働者から搾取し、儲けるために、当面、使い道のない企業に残った「内部留保」、銀行に集まっても使われない貨幣は、資本主義的生産様式の死重、死んで重くのしかかる富として需要を消失させ、経済を縮小させて技術革新と生産性の発展の足かせとなります。

「富」と「貧困」の蓄積は、その固定化と一層の拡大をもたらし、経済的「財産」の不平等が人間的発達の不平等の主要な原因となり、社会全体の発展のための豊かな基礎を失わせる

社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするうえで、その最大の阻害要因となっているのは、経済的「財産」の私的占有による社会そのものの支配です。

 そもそも、企業はそこで働く人々とその地域社会、そして国家の現在と未来のためになければなりませんが、企業のステイクホルダーのなかで企業を支配しているのは、企業に「資本」を一時的に貸しているだけの経済的「財産」の私的占有者である資本家たちです。「出資者」の正当な権利は、提供した「貨幣」の価値の維持費分だけでいいはずなのに、「株主」としてかれらが企業を支配し、社会を支配しています。

 経済的「財産」の私的占有者が支配する現在の企業には、そこで働く人々やその企業のある地域社会や国家についての現在と未来のあり方などを確認・協議するための機関などまったくありません。現在の「民主主義国家」の「民主主義」は行政の執行官や議員を選ぶことに矮小化され、〝全人民の民主主義的管理を組織する〟ことを通じて〝民主主義の完全な発展〟を図るという考えもなければ、その道も、閉ざされています。

 このような経済的「財産」の私的占有による支配が貫徹している社会であるがゆえに、産業は、第一義的に、お金を儲けるための手段となり、豊かな社会をつくるための道具としての機能は二の次になります。日本は、「産業の空洞化」が経済と国民の活力を削ぎ、日本社会を危機的な状況に陥らせていますが、「資本」の金儲けのための経済は、政府・自民党のIR推進にみられるように、金持ちのギャンブルのために莫大な資金──その「資金」は、元を辿れば、労働者の過去の労働の結晶であるが──が注ぎ込まれたり、オリンピックや万博などのイベントとその施設づくりのために湯水のようにお金がつぎ込まれたり、「産業の空洞化」によって増大したサービス業を支えるためのインバウンド消費に望みをつなぐなどという情けない状況に追い込まれ、産業構造をますます歪めて豊かな中間層の出現の余地などまったくありません。

このように、経済的「財産」の私的占有による支配が貫徹している社会であるがゆえに、一方に「富」が、そしてもう片方には「貧困」が蓄積し、固定化し、その一層の拡大をもたらします。この経済的財産の不平等が人間的発達の不平等の主要な原因となり、多くの人の能力を摘み、社会全体の発展のための豊かな基礎を失わせています。

資本主義的生産様式をそのままにした弥縫策は、一時的な生活条件の改善はあっても、全体的には矛盾はますます深まる。そのことは歴史が証明している

国民の生活条件について、たとえば、賃金について言えば、好景気のときには労働者にも普段より多めの賃金が支払われ、つかの間の安息の時間を過ごすことができますが、景気が悪くなれば容赦なく賃金は引き下げられ、労働者階級と資本家階級とのイタチごっこのなかで一方に「富」が、そしてもう片方には「貧困」が蓄積していきます。

 これは、マルクスが論証したことですが、現在の日本はもっと悲惨です。日本はバブル崩壊以降、「産業の空洞化」の進行により労資の力関係は「資本」の側が優位となり、「産業の空洞化」の一層の推進の脅しによって労働者は萎縮させられ、労働者階級は戦意を喪失させられてしまいました。その結果、これまで五回の景気循環がありましたが、大企業の一部の労働者を除き労働者にも中小零細業者にもその恩恵は及ばず、「つかの間の安息の時間を過ごすこと」すらできなくなってしまいました。これは、マルクスやエンゲルスも思い及ばなかったことです。

 なお、トマ・ピケティは『21世紀の資本論』(「21世紀の資本」)で資本収益率(r)>経済成長率(g)ということを実証しましたが、マルクスが『資本論』で、「利潤率の傾向的低下は、剰余価値率つまり労働の搾取度の傾向的上昇と結びついているのである。」(大月版④P301)と述べていることと符合します。

このような「富」の分配の問題だけでなく、資本主義的生産様式の社会は「資本」の儲けのためにある社会ですから、一見労働者や国民のためになりそうに見える「改善」も、「資本」の儲けのためになるように歪められ、人間は置き去りにされてしまいます。労働の省力化のための工夫が労働者の労働密度を高めるための手段に転化してしまいます。

 これらは全て歴史が証明していることです。

Ⅱ、「経済は国民のため社会のためにある」という社会の生産の仕方とは

なぜ、私たちは資本主義的生産様式の社会を変革しなければならないのか

〝国民のための経済をつくる〟ための前提条件である技術革新と生産性のたゆまざる発展の可能性を保証すること、これは社会の発展、人間の豊かな発展にとって不可欠に必要なことです。

 しかし、これまで見てきたように、資本主義的生産様式の社会は経済的「財産」の私的占有が社会の規範の神聖な基礎になっているために、儲けを求めて拡大再生産するために走り続けることなしには存続できない社会であるがゆえに、相対的過剰生産の芽を育み、同時に、それはまた、資本主義的生産様式における拡大再生産の発展の条件を制限し、それとともに、富の偏在を必然にし、市場を狭め、資本の投資機会を失わせ、資本主義社会の発展のエンジンである資本そのものが資本主義社会の発展の障害となり、生産力発展の障害となる社会です。そして、一方での「富」の蓄積と他方での「貧困」の蓄積の固定化とその一層の拡大は、経済的「財産」の不平等が人間的発達の不平等の主要な原因となり、社会全体の発展のための豊かな基礎を失わせます。資本主義的生産様式の社会とは、そのような仕組みの社会なのです。

 だから、私たちは、この経済的「財産」の私的占有による支配が貫徹している資本主義的生産様式の社会を変革して、〝国民のための経済をつくる〟ことのできる新しい生産様式の社会をつくらなければなりません。そして、社会の発展、人間の豊かな発展の可能性を担保するために、それを保証する富の分配システムと人的な組織の新しいシステムを築きあげていくことが必要です。このことを国民の共通理解にする必要があります。

天才マルクスは、〝共産主義社会〟のことを「結合労働の生産様式」の社会と言いましたが、〝結合労働の生産様式の社会〟とは〝経済は社会を豊かにし人々の生活を豊かにする〟という〝社会主義の思想〟と、レーニンの言う、社会を「社会主義的経済的有機体に組織する」ために「全人民の民主主義的管理を組織する」ことを通じて〝民主主義の完全な発展〟を図るという思想を内包しています。この科学的社会主義の思想こそ、資本主義的生産様式の社会を乗り越えて〝国民のための経済をつくる〟ための思想であり、私たちの二一世紀の社会づくりに光を与えるものです。

「資本」が成長のエンジンである社会の仕組みを国民の労働が社会の成長エンジンである社会の仕組みに変える

『資本論』は、資本主義的生産様式の社会は拡大再生産を前提とする社会であることを証明し、同時に、資本主義的生産様式そのものが生産拡大の妨げになることを証明しました。科学的社会主義の思想は、ここに資本主義的生産様式の社会の没落の根拠を認め、経済的「財産」の私的占有から解放された〝経済〟システム、国民の労働が社会の成長エンジンであるような〝経済〟システムの社会こそが、資本主義的生産様式の軛から生産力を〝解放〟して発展させ、人々の生活を豊かにし社会を豊かにすることを明らかにしました。

 マルクスは、このような社会のことを「結合労働の生産様式」の社会と呼びました。そして、このように、資本主義社会の次にくる社会を社会主義社会(=経済が社会を豊かにし人々の生活を豊かにする社会)であることを科学的に明らかにしたから、マルクス・エンゲルスの思想を〝科学的社会主義の思想〟というのです。(なお、マルクス・エンゲルスの思想を〝科学的社会主義の思想〟という理由は、もう一つあり、後で出てきます。)

 そして、『資本論』第五篇の最後の「章」の最後の文章で、マルクスとエンゲルスが示した「結合労働の生産様式」の社会とは、「貨幣資本」のなくなった搾取の根拠のない社会の姿でした。私たちは「貨幣資本」が搾取の手段として機能できなくなる、「貨幣資本」の力を削いだ社会に向かわなければ、〝経済は社会を豊かにし人々の生活を豊かにするためにある〟という社会をつくることはできません。

 経済的「財産」の私的占有による「権利」の正当性の制限と否定は資本主義的生産様式の是正につながりますが、「利潤第一主義」の「是正」だけでは資本主義的生産様式の是正にはなりません。それは、資本と国民のイタチごっこの始まりにしか過ぎません。(だから私たちは、「利潤第一主義」の「是正」だけの「思想」を「改良主義」と言って嘲笑するのです。)

 しかし、「貨幣資本」の「資本」的性格をなくしていく、その度合いは、〝社会的生産〟の意義を社会(国民)が認識していく度合いの深さに依存しています。最初は企業の純利益を「株主」と社会がどう分け合うのか、そして最後は「企業」は社会のなかでどんな役割を担うのかまでの「社会」と「企業」との関係は、「社会」の「企業」の「社会的生産」の意義の認識の度合いの深さに依存しています。そしてこの「社会」と「企業」との関係は、「株式」の所有のあり方と「株式」の機能の変化を通じて変化していくものと考えます。

その過程は忍耐に満ちたものとなるでしょうが、その方針、目標は旗幟鮮明なものでなければなりません。その目標は「ルールある資本主義」の実現などであってはなりません。

新しい社会の仕組みを担保し・持続発展させ、「経済は国民生活のためにある」という社会を実現させるための社会全体の民主的再編は、人間の〝新しい人〟への飛躍を保証します

そして、マルクス・エンゲルスの思想を〝科学的社会主義の思想〟というもう一つの理由は、資本主義的生産様式の社会の発展の中に〝新たな社会の形成要素〟としての、資本主義的生産様式を打ち破るまでにいたった社会的生産と生産力の発展と、〝古い社会の変革契機〟としての、資本主義的生産様式の社会の発展にともなう経済的「財産」の私的占有がもたらす矛盾の激化とその矛盾の絶対的な解決者としての労働者階級の存在とを発見し、社会主義を絵空事ではないものにした点にあります。

 資本主義的生産様式の社会は、経済的「財産」の私的占有者が支配する社会になっており、そのこと自体が生産性の向上を妨げ、価値の分配を平等にすることを妨げ、国民全体が義務的に働く時間を短くし享受できる価値を多くする権利を奪い、〝経済は社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするためにある〟という社会の成立を妨げていることは、これまで見てきたとおりです。

 国民全体の義務的に働く時間を短くし、享受できる価値を多くし、〝経済は社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするためにある〟という社会をつくるためには、価値全体を多くするための生産性の向上と享受できる価値を平等に分配する権利が必要です。

 

国民の民主主義的管理を組織する

社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするうえで、その最大の阻害要因となっているのは、経済的「財産」の私的占有による社会の支配です。そこで働く人々とその地域社会、そして国家の現在と未来のためにあるはずの企業は「資本」を一時的に貸しているだけの資本家たちによって支配されています。経済的「財産」の私的占有者が支配する企業には、そこで働く人々、その企業のある地域社会、そして国家の現在と未来についてのあり方などを協議するための〝いちじくの葉〟ほどの機関さえもありません。

 今日の「民主主義国」の「民主主義」は行政の執行官や議員を選ぶことに矮小化され、「全人民の民主主義的管理を組織する」ことを通じて「民主主義の完全な発展」を図るという考えも、道も、閉ざされています。〝社会を豊かにし、人々の生活を豊かにすることを保証し、発展させる〟ためには、多元的な民主主義の発展とそれを担う国民の意識の発展が必要不可欠です。

〝国民の民主主義的管理を組織する〟ことは、一人ひとりの国民の自覚的な成長を助けるとともに「特権」の発生する余地を狭めてくれます。いわゆる「社会主義社会」、〝結合労働の生産様式〟の社会とは、そのような社会のことです。

 

社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするための具体的施策の提示を

私たちはまず、〝経済は社会を豊かにし人々の生活を豊かにするためにある〟という共通認識に立って、豊かな国民生活を築くうえで失われたもの、欠けているものの再生・復興に着手しなければなりません。

 今の日本で〝社会を豊かにし、人々の生活を豊かにする〟ためには、まず、日本経済の危機の最大の原因であり、1995年以降その悪影響が顕著にあらわれた「産業の空洞化」とその結果でもある〝地域と地域経済の衰退〟とをくい止め、再生・復興させるために、国家の機能を最大限発揮させる必要があります。しかし、その進展は先ほど見たように、〝社会的生産〟の意義を社会(国民)が認識していく度合いの深さに依存しています。

 そのために、生産手段の私的個人的所有から得られる特権をなくし、創造された価値は、全て労働者に還元することによって、企業の目的が利潤の増大から社会への貢献に変わり、必要な資金を超える「内部留保」による富の死蔵がなくなり、必要な富の増加のための設備の拡充が図られ、創造された価値の平等な分配による「資産家」への富の偏在も解消され個人による富の死蔵もなくなる社会の実現を、私たちは、旗幟鮮明に、そして、ねばり強く訴え続ける必要があります。

 

具体的には

富の死蔵をなくし、社会インフラの適正な配置と生産手段の適正な配分のために、①同一産業内の「資源」は第一次的にはその産業内で再配分し②各産業ごとの必要生産額に見合った「資源」の再配分をおこない③拡大再生産のための総合的な「資産」の配分は国家がおこなうこと等の必要性について、現在の日本の産業・経済の状況を明らかにして、訴える必要があります。

〝技術革新と生産性のたゆまざる発展〟のためには、基礎研究をはじめとして、各フェーズの研究開発の規模と水準を飛躍的に高める必要があります。そのために、軍事費等の浪費的予算を研究開発に向けて研究開発のための国家予算の大幅な増額をはかるとともに民間に眠っている資金を吸収して財源を充実させる等により資金の分配のあり方を抜本的に変えるとともに、大学・研究機関等の枠を越えた智の集積と交流の場を、例えば筑波とか和光等に唯一無二の拠点を作り、官民挙げた国家総動員の研究開発体制を確立する必要があります。そして、それらの研究と開発の成果は、すべての国民に対価なく利用可能に解放されなければなりません。多くの大発明は既存の知識の新しい組合せによって実現します。そして、「既存の知識」を拡大するためには、基礎的な研究を含む重層的な研究を行なう多くの人財が求められています。

 そのような人財を雲霞の如く輩出させるためにも、〝社会を豊かにし、人々の生活を豊かにする〟ことが大切です。そして、生産性が高まって、短い時間で多くの価値が得られるようになれば、義務的に働く時間が短くなり、享受できる価値も多くなるだけでなく、創造性に満ちた新発見がおこなわれる可能性はますます拡大していきます。

生産性を高めるためには、不断の技術開発が必要であり、そのためには経済が円滑に回り、拡大基調に推移しなければなりません。そのためには、「資金」がどこかに滞留したり、死蔵されていてはなりません。しかし、資本主義的生産様式の社会は、経済的『財産』の私的占有によって、「資金」の滞留と死蔵の可能性だけでなく、「資金」の滞留と死蔵の必然性をもった社会なのです。「産業の空洞化」した日本がそのことを示しています。

Ⅲ、〝経済は社会を豊かにし人々の生活を豊かにするためにある〟という社会はどうしたら実現できるのか

そのために必要なこと

〝経済は社会を豊かにし人々の生活を豊かにするためにある〟という社会を実現し、私たちが日本を変え、世界を変えるためには、労働者が主役となって、日常的に生活を守る運動を大きくするだけでなく、いまの社会システムのもとでは問題の真の解決が不可能なことをみんなが理解し、みんなが資本主義的生産様式の社会を大嫌いになって、新しい社会の実現を求めるようになることが必要です。

新しい社会を創るための労働者階級を中心とする国民の主役としての目ざめ

私たちは、経済的「財産」の私的占有者が支配する社会を〝経済は社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするためにある〟という、二一世紀の我々にとって当たり前の考えが支配する社会に変えることこそが、今の社会の喫緊の課題であると考えていますが、直接的な利害関係者であり、最もエネルギーを発揮すべき労働者階級が、資本の激烈なグローバル競争のなかに放り込まれ、埋没させられ、労働者の多くが資本の論理に浸潤され、社会を正しく認識する力が麻痺させられ、眠り込まされてしまったかのような状況にあります。

 GDP世界第三位といわれる生産力を「誇る」日本は、いま、働く人々の「再生産」の条件さえもが掘り崩され、人の一生のあらゆる局面で人として生きつづけるための条件が失われつつあります。しかし、残念ながら、まだ、その真の原因が「経済的『財産』の私的占有者が支配する社会」にあることに、多くの国民は気づいていません。

 自分の肉体以外なにも生産手段を持たず、それ故、「経済的『財産』の私的占有者が支配する社会」を支える主役でありながら、その社会の隷属的な存在としての地位に置かれている労働者階級は、資本主義的生産様式の社会がつくりだした〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟を正しく見ることが妨げられ、〝経済は社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするためにある〟という社会のイメージを明確につかむことができず、その実現の歴史的必然性とその新しい社会を実現する主役が自分たち労働者階級であるといことに気づくのが妨げられています。

労働者階級が自分たちが新しい社会を実現するための主役であることを認識できないのはなぜでしょうか。

 資本家やその太鼓持ちが詭弁を弄して資本主義社会の正当性を喧伝し、マスコミが争点をづらして世論をミスリードし続けているのは言うにおよびませんが、しかし、これらは想定内のことで、自由な言論が封殺された戦前の日本からみれば、いまの日本は、天国のようです。

 問題は、自分たちがいま置かれている状況の本当の原因が「経済的『財産』の私的占有者が支配する社会」にあること、そして、この社会の中から〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟が生み出され成長していることを明らかにし、労働者階級こそが社会変革の主体であることをしっかりと主張するような労働運動が皆無に近い状態にあるということです。

 しかし、私たちの働きかけが大河の一滴となって、あるいは何らかのきっかけによって、このような状態が打破され、労働者階級が、自分たちの置かれている状況の真の原因が「経済的『財産』の私的占有者が支配する社会」にあること、そして、資本主義的生産様式の社会のなかで〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟が形成されていることを気づいたとき、かれらの社会を見る目は一変し、〝経済は社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするためにある〟ということの真の意味が理解され、そのような社会を実現するための歴史的必然性がしっかりと認識されて、社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするためには「経済的『財産』の私的占有者が支配する社会」を改革する以外にないことを確信し、その主役が労働者階級であることを、はっきりと理解するはずです。

 そして、このように社会をつくり変える運動は、米国と中国の覇権争いに象徴されるような資本主義国同士の排他的な競争の性格などない、世界の労働者階級の利益に完全にかなう、世界の労働者階級の団結・連帯を築き強める国際的な意味をもつ運動だということ、そのことも、同時にはっきりと理解されることでしょう。

いまの社会システムのもつ問題の応急対応策の提示と同時に抜本的な解決策を示す

労働者階級が、自分たちの置かれている状況の本当の原因が「経済的『財産』の私的占有者が支配する社会」にあること、同時に、そのなかで〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟が形成されていることに気づくことを妨げているのは何か。それは、「井の中の蛙」のように現在与えられている条件を当然のものとして、あるいはやむを得ないものとして受け入れているからです。

 資本主義がもたらす様々な問題について、その改善のために努力するのは誰もが認める良いことです。資本主義の信奉者でも反対はできません。大いに力を尽くさなければなりません。しかし、それだけではダメです。

 「井の中の蛙」のように現在与えられている条件を当然のものとして受け入れている、ダメな典型的な例として、マルクスの『賃金、価格、利潤』をテキストとして不破哲三氏が行なった「講義」(という名の歪曲?)があります。

 マルクスは、『賃金、価格、利潤』の中で、「「公正な一日の労働にたいして公正な一日の賃金を!」という保守的なモットーのかわりに、彼らはその旗に「賃金制度の廃止!」という革命的な合言葉を書きしるすべき」(大月書店国民文庫 P88)であり、労働運動は「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとはせず、その組織された力を労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に失敗する。」(同上 P89)と言ってます。しかし、「講師」(という名の「ペテン師」?)の不破さんは、マルクスは「どんな情勢の時でも賃金闘争で頑張らなければダメだと」いっていると言い、この「講義」を聞いたであろう不破さんの部下のA氏(不破さんが所長でA氏は副所長)は「資本主義世界でも異常な日本社会の状態を打開して、社会的バリケードをかちとり、『ルールある経済社会』(「ルールある資本主義社会」のこと──青山)へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだということを強調して、講義を終わります。……『賃金、価格および利潤』を読む中で、この呼びかけのところまで現代的には行き着くのだなと思いました」と言うのです。

 このように、労働者階級が、自分たちの置かれている状況の本当の原因が「経済的『財産』の私的占有者が支配する社会」にあること、そしてこの社会を変えない限り自分たちに明るい未来はないことなど言わずに、「『ルールある資本主義社会』へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道」だなどと言って、「井の中の蛙」のように現在与えられている条件を当然のものとして受け入れて労働者のたたかいを資本主義の枠内の閉じ込め、マルクスが『賃金、価格、利潤』の中で述べている社会変革の必要性には触れようともせず、これが「科学的社会主義」のたたかい方だと言うのです。これでは、歴史は変わらないし、歴史を動かす主役が「資本家階級」から「労働者階級」に変わるはずなどありません。なにおかいわんやで、これではニセ「科学的社会主義」者と言われても弁解の余地はないでしょう。

 必要なのは、資本主義的生産様式の社会からのパラダイムシフトなのです。だから、あなたが、私たちが、〝経済は社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするためにある〟という社会を実現するためには、日本の今を徹底的に暴露し、国民が主役の日本のあるべき姿を可能な限り鮮明に示すことです。

余計なお世話かもしれませんが、特に、マルクス・エンゲルス・レーニンの思想、科学的社会主義の思想を正しいと思っている人たちは、「賃金が上がれば経済は良くなる」などと、みみっちい、欺瞞的なことなど言わず、〝経済は社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするためにある〟ことを堂々と述べて、今の日本の問題点とその抜本的な解決策を示すべきです。そして、科学的社会主義の思想を正しいと思っている人たちは、新しい社会をつくるその中心にいるのが労働者階級であるあることを、片時も忘れてはなりません。ニセ「科学的社会主義」者とも言うべき不破さんの「2004年綱領」によって捨て去られたこれらの社会変革の捉え方や労働者階級の歴史的な役割を、科学的社会主義の思想を正しいと思っている人たちは、もう一度蘇らせなければなりません。(*)

(*)不破さんの「2004年綱領」についての詳しい説明は、ホームページ3-3-1〔「2004年綱領」にみる不破哲三氏の転落の証明〕及びホームページ3-3-9〔不破さんと志位さんの「共産党100年」史〕を、是非、参照して下さい。

みんなが資本主義的生産様式の社会を大嫌いになって、新しい社会の実現を求めるような世論をつくろう

資本主義的生産様式の社会から〝経済は社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするためにある〟という社会へのパラダイムシフトのためには、当面の問題の解決だけに目を奪われるのではなく、自分たちの置かれている状況の本当の原因が「経済的『財産』の私的占有者が支配する社会」にあること、そしてこの社会を変えない限り自分たちに明るい未来はないことを労働者階級がしっかり理解して、みんなが資本主義的生産様式の社会を大嫌いになることが必須条件です。

 だから、創られた富の配分の仕方と社会の主役とが転倒している資本主義的生産様式の社会の仕組みとその結果起きていることについて、100回でも、1000回でも、一万回でも説明して、世間のみんなが資本主義的生産様式の社会を理解し、大嫌いになってもらう必要があります。

 そして、同時に、世間のみんなが、新しい社会への揺るぎない確信と希望をもって、新しい社会の実現を求めるようになることもまた、必須条件です。

 そのためには、〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟がどのように形成されているのかを、グローバル資本の行動を中心に資本の動向と社会・経済のありようを正確に分析し、明らかにすることです。

 〝経済は社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするためにある〟という言葉をすべての国民の共通認識にして、あなたが、私たちが日本を変え、世界を変えましょう。

 そのために、グローバル資本の行動を中心とする資本の動向と社会・経済の今を凝視しましょう。

※グローバル資本の行動を中心とする資本の動向と社会・経済の今についての詳しい説明は、ホームページ1「今を検証する」の各ページおよびホームページ2「二一世紀は何処に向かって進んでいるのか」の各ページを、是非、参照して下さい。

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次のページでは、現在の日本を見て、私的資本による社会経済の支配が破綻せざるを得ないことを明らかにし、現代の資本主義が準備する新しい生産様式の社会とはどのようなものなのかを考え、新しい生産様式の社会は人間をどこへ導くかを見ていきます。

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