4-8

☆不破さんは、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」は「資本主義の発生の時点から」あるのに、事態の発展のなかで明るみに出るのは矛盾だと、自分の理解力のなさを根拠にエンゲルスを誹謗している。

1不破さんは、弁証法的な認識論を持ち合わせず、物事の内的関連の外部への現れ方を理解できないのか

2、エンゲルスは『空想から科学へ』でどのように述べているか

3、不 破さんは、資本主義的生産様式のもつ社会的生産と私的資本主義的取得という資本主義の「根本矛盾」が深まれば深まるほど、「プ   ロレタリアートとブルジョ アジーの対立」をふくむ資本主義社会のあらゆる矛盾が、一層明らかに、あかるみにだされるという意味が、まっ  たく理解できない

4、このページの結論

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不破さんは、弁証法的な認識論を持ち合わせず、物事の内的関連の外部への現れ方を理解できないのか

  不破さんは、『前衛』No904(2014年1月号)で次のように述べています。
「エ ンゲルスの分析の中で一番おかしいと思ったのは、この基本矛盾の一つの現象形態がプロレタリアートとブルジョアの対立だというところでした。プロレタリ アートとブルジョアジーの対立というのは、資本主義の生産関係の一番の基本で、資本主義の発生の時点から始まっているものなのに、なぜそれが事態の発展の なかで明るみに出てくる現象形態なのか、という点です。これは、エンゲルスの定式のどうにもならない矛盾だと思いました。」と。

エンゲルスは『空想から科学へ』でどのように述べているか

  『空想から科学へ』を順序だって読めば、「弁証法的な認識論」や「物事の内的関連の外部への現れ方」等について十分に分かっていなくても、ふつの頭をもっ ていれば、不破さんのように思う人はまずいないでしょう。『空想から科学へ』でエンゲルスがどのようにに言っているのか、見てみましょう。
  エンゲルスは『空想から科学へ』(新日本出版P20)で「中世の同職組合の親方」から「現代のブルジョア」への発展と「職人と日雇い労働者」の「プロレタ リア」への発展について述べ、P45で大工業が発展し、ブルジョアジーの政治的支配が発展した程度におうじて、プロレタリアートとブルジョアジーの階級闘 争が前面にあらわれてきたことを述べています。そして、P54では「一方では資本家の手に集積された生産手段と、他方では自分の労働力以外にはなにも持ち 物がないようにされた生産者とのあいだの分離が完了した。社会的生産と資本主義的取得との矛盾が、プロレタリアートとブルジョアジーの対立として、あかる みに出てきた。」と述べています。

 た ぶん、不破さんはこの文章の後半の部分を取り上げてエンゲルスを攻撃しているのだと思いますが、エンゲルスの『空想から科学へ』は、他の書籍同様、文章は 前から後ろに読むように書かれています。だから、普通の人が『空想から科学へ』を普通に読めば、大工業が発展し、ブルジョアジーの政治的支配が発展した程 度におうじて、プロレタリアートとブルジョアジーの階級闘争が前面にあらわれ、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立として、あかるみに出てきた」こ とは、誰にでもわかります。
 くわえて、P73では次のように述べています。
「……。 資本家があらわれる。生産手段の所有者としての資格で、かれは生産物をも取得して、それを商品にする。生産は社会的行為になる。交換とともに取得はひきつ づき個人的行為、すなわち個々人の行為である。社会的生産物は個々の資本家によって取得される。これが根本矛盾であり、そこから、今日の社会がそのなかで 動いているすべての矛盾、そして大工業があかるみにだすすべての矛盾が発生するのである。
A 生産手段からの生産者の分離。労働者は終身の賃労働を宣告される。プロレタリアートとブルジョアジーの対立。
B 商品生産を支配する法則がますます表面にあらわれ、ますます作用をつよめる。……」と。
 不破さんが「古典講座」でこの文章をどのように説明したのか私には分からない。しかし、HP「4-9」での不破さんの主張をみれば分おわかりのとおり、不破さんは何も理解していなかったと思われる。
  ここでエンゲルスが言っていることは、資本家があらわれ、資本主義的生産様式が成立すると、それが「根本矛盾」となって今日の社会のすべての矛盾が発生す ること。そして、まずAとして、資本主義社会はプロレタリアートとブルジョアジーの対立を生むこと。次にBとして、「商品生産を支配する法則」、つまり、 資本主義的生産に内在するところのマルクスの言う「基本的矛盾」をうむ法則がますます表面にあらわれ、ますます作用をつよめるということです。そのことを理解していれば、HP「4-9」での不破さんの主張などあるはずがありません。
 こ の文章を見れば分かるとおり、エンゲルスは資本主義社会がプロレタリアートとブルジョアジーの対立を生むことを明確に述べているます。ですから、「プロレ タリアートとブルジョアジーの対立」が「資本主義の生産関係の一番の基本で、資本主義の発生の時点から始まっている」ことは、できの悪い弟子(弟子ではな く裏切り者か?)の不破さんに言われなくても、マルクス・エンゲルス・レーニン主義者には百も承知のことです。

不 破さんは、資本主義的生産様式のもつ社会的生産と私的資本主義的取得という資本主義の「根本矛盾」が深まれば深まるほど、「プロレタリアートとブルジョア ジーの対立」をふくむ資本主義社会のあらゆる矛盾が、一層明らかに、あかるみにだされるという意味が、まったく理解できない

  マルクスは、資本主義的生産に内在する矛盾として、『資本論』第3巻 第1分冊(大月『資本論』 ④ P306-7)で、「社会の消費力は、さらに蓄積への欲求によって、すなわち資本の増大と拡大された規模での剰余価値生産とへの欲求によって、制限されて いる。これこそは資本主義的生産にとっての法則」であり、資本主義的生産には「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」が あることを述べています。だ から、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」も資本主義的生産に内在して存在しています。だから、不破さんに言われなくても、「資本主義の発生の時 点から」「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」が内在しているとマルクス・エンゲルス・レーニン主義者は考えています。もちろん、ブルジョアジーとその弁護者たちはそれを否定しますが。そ して、大工業(資本の行動)によって、資本主義的生産様式のもつ社会的生産と私的資本主義的取得という資本主義の「根本矛盾」が深まれば深まるほど、「プ ロレタリアートとブルジョアジーの対立」をふくむ資本主義社会のあらゆる矛盾が、一層明らかに、明るみにだされるのです。ここが肝心なところです。そのことを、しっかりと、前衛党が曝露することによって、労働者の階級的団結は強まるのです。不 破さんが言うような、「エンゲルスの定式のどうにもならない矛盾」などありません。「どうにもならない」のは、不破さんが作りだそうとしている「矛盾」で はなく、普通に考えれば当たり前のことを無理矢理問題にし、『空想から科学へ』の持つ積極面を消し去ろうとする、不破さんの意図にこそあるのです。

このページの結論

  エンゲルスは「空想から科学へ」のなかで、大工業が発展し、ブルジョアジーの政治的支配が発展した程度におうじて、プロレタリアートとブルジョアジーの階 級闘争が前面にあらわれてきたことを述べている。不破さんは、社会的生産と私的資本主義的取得という資本主義的生産様式のもつ「根本矛盾」が深まることに より、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」をふくむ資本主義社会のあらゆる矛盾が明るみにだされ、誰の目にも明らかになることを、理解できない。
  その結果、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」が「事態の発展のなかで」益々「明るみに出る」からこそ、それを自己解放の力に変え、労働者の団結 を強めることが労働運動にとって最も重要なことだという、マルクスもエンゲルスもレーニンも教えていることを、不破さんには理解できない。

 

ちょっと、

一休み。

 

1、不破さんの「問題」点の所在と日本共産党の「問題」点

2、志位委員長が、全国都道府県委員長・参院選候補者会議で述べていること

3、その結果、どんな運動をすすめることになるのか

4、おまけ

不破さんの「問題」点の所在と日本共産党の「問題」点

 この、不破さんが「エンゲルスの分析の中で一番おかしいと思い」、「矛盾だと思った」点にこそ、今日の日本共産党の活動上の最大の弱点の一つ──現状の大衆的な曝露の欠如、〝by the people〟の視点の欠如──を解く鍵があります。
 資 本主義的生産関係の中で、労働者が資本家に労働力という商品を売るというかたちをとることによって、「資本家による労働者の搾取」は隠蔽されます。だか ら、『共産党宣言』は労働者の闘争の本当の成果を、隠蔽された「資本家による労働者の搾取」を見抜いた、労働者の階級的な団結にあることを述べています。 マルクスはまた、『ロシアのトルコに対する政策──イギリスにおける労働運動』(『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1853.7.1付)で景気循 環にともなう賃金の上下、賃金と利潤の変動、これらに照応しての「雇い主」と「労働者」とのあいだのたえざる闘争が労働者に自己解放の力を与えることを述 べています。(この点については、1865年のはじめにマルクスが資本主義観、恐慌観を大転換させたという不破氏の「大発見」のページ「4-19」でも触 れますので、留意しておいて下さい。) つまり、「事態の発展のなかで」「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」が「明るみに出て」、それを自己解放の力に変えることが労働運動の最も重要な ことだと言うことをマルクスもエンゲルスも述べているのです(もちろんレーニンも)。
  しかし、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立というのは、資本主義の生産関係の一番の基本で、資本主義の発生の時点から始まっているものなのに、な ぜそれが事態の発展のなかで明るみに出てくる現象形態なのか」などと、呑気な観念論を自慢している不破さんが圧倒的な影響力をもつ日本共産党は、その影響を受け、〝社会的障害物〟を獲得することによって「ルールある資本主義」を実現することを最大の目標として闘っています。自・公の「政治」に反対して戦ってはいるが、現代の日本が空洞化によって労働者の一時的な「繁栄」すらなくなり、閉塞感が広範な労働者を支配しているなかで、グローバル資本の行動を曝露し〝産業空洞化〟の結果日本が〝危機〟的な状況にあることを曝露し、このような「事態の発展のなかで」「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」を誰が見てもわかるように明るみに出し、労働者に〝国民の新しい共同社会〟の実現をめざす自己解放の力を与えるという、前衛党本来の役割を果たしていない。

志位委員長が、全国都道府県委員長・参院選候補者会議で述べていること

 2016年2月22日に行われた全国都道府県委員長・参院選候補者会議で、志位委員長は次のように述べています。
「経 済問題でも、わが党は、「アベノミクス」を根本から批判するとともに、「貧困と格差をただし、暮らし最優先で経済再生をはかる四つの提案」──消費税 10%増税の中止、社会保障削減から充実への転換、人間らしい雇用のルールの確立、TPP(環太平洋連携協定)交渉からの撤退──を提唱していますが、こ のすべてを貫いているのは「財界中心の政治」のゆがみをおおもとからただすという綱領的立場です。」と。
  この「四つの提案」のうちの最初の三つは完全に「ルールある資本主義」の実現を目標とし、TPPについても、「安心して再生産できる農業をつくること」(志位さんの言葉)に収れんされています。それもそのはずです。「このすべてを貫いているのは「財界中心の政治」のゆがみをただす」ことですから、その限りでは、志位さんの主張に間違いはありません。不破さんの『賃金・価格・利潤』の読み方にも符合しています。「4-1」「4-2」を参照して下さい。
 しかし、残念ながら、この志位さんの主張にには、科学的社会主義の思想の「カ」の字も ありません。自・公がやってきたこと、これからしようとしていることへの批判はあっても、グローバル資本がやってきたこと、これからしようとしていること への批判もなければ、グローバル資本の行動についての何の分析もありません。あるのは、「財界中心の政治」のゆがみをただすことだけです。生活の苦しさを 訴え、その改善を要求するだけならば、科学的社会主義の思想などなくてもできます。肝心かなめの「財界の悪行」を曝露し、それをただす「政治」の実現のためのラディカルな政策提起がまったくありません。

その結果、どんな運動をすすめることになるのか

  「プロレタリアートとブルジョアジーの対立は、資本主義の発生の時点から始まっている」という観念があるだけで、グローバル資本による産業の空洞化という 〝事態の発展〟とそれがもたらす日本の〝危機〟など気にすることはない。悪いのは、自・公による「財界中心の政治」のゆがみだけだ。現実を、トータルに、 正しく捉えることもせず、「ルールある資本主義」の実現を、見ず知らずの人に突然電話で訴えることで、多数の支持が得られ、その実現が図られるかのような 幻想に支配されて、風を頼りに、猫なで声で必死に電話かけに熱中する。国 民が日本の現状をリアルに見ることを助け、国民の意識を高め、国民が主権者として社会を変え、政治を変えるという、〝by the people〟の視点などまったくない。これでは百年たっても革命は起きない。すくなくとも、今の「日本共産党」が大きな役割を担うような革命は絶対に起 きない。
 今の「日本共産党」には、このように、マルクスもエンゲルスも理解することのできない不破さんの現実を見る目のなさ、〝by the people〟の視点を持った革命観のなさが、圧倒的な影響力をもつて反映されている。誠に残念なことである。

おまけ

 「『財界中心の政治』のゆがみをただす」ことと関連して、『前衛』誌上で〝新福祉論〟なるものが跋扈しはじめたので、念のため、『資本論』第3巻 第2分冊(大月版『資本論』⑤ P1090B5-1)には、当然ながら、資本主義的に組織されている一国を国民福祉のための組織とみなすことはまちがった抽象であることが、述べられいることも付記してきます。「マルクス・エンゲルスの著作の抜粋」のホームページ「C、資本主義社会Ⅰ」の8-18を参照して下さい。