AZ-3-2

エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説②

「『資本論』探求」で欠落しているものと不破哲三氏の誤った主張(その2)

「『資本論』第二部を読む」を検証する。

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不破さんらしい「第二部」の成立過程のスケッチ(P162-169)

 マルクスは、第一部草案を書き終えたあと、1864年の夏頃から、「第3部」を第2章→第1章→第3章の順に書き、その後、1865年の前半に「第2部 資本の流通過程」の草案を書きはじめました。

 このことについて、不破さんは、「『流通過程』論のこの出遅れには、構想のその後の発展から見て、三つの問題があったようです。」(P162-163)と述べて、次の三点をあげて、マルクスを誹謗します。

 不破さんの「第二部の成立過程」のスケッチの誤りの主な原因は①『資本論』の成立過程の無理解と改ざん、②マルクスを誹謗して自分の評価を高めようとする自己顕示欲、③マルクスと違って物事を発展的に見ることができない、の三点にあります。『資本論』の成立過程と、なぜ不破さんが『資本論』の成立過程を改ざんしようとするのかの詳しい説明は、ホームページ「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)──「『資本論』第三部を読む」を検証する。──」に譲りますが、不破さんは『資本論』の成立過程を改ざんしないと、不破さんが二一世紀になって、やっと、見つけた「大発見」(創作)を、あたかもマルクスの考えででもあるかのように見せかけることができなくなるのです。(ホームページは、現在、編集中です。少々お待ち下さい。)

不破さんがマルクスを誹謗し、『資本論』の成立過程を改ざんしている内容

①「固定資本」と「流動資本」という概念を確立するにあたって、「マルクスが誤った固定観念から出発して、正確な規定に到達するまでに、混迷と曲折にみち」ていたこと。

②マルクスは、『経済学批判』の続編としての著作の「資本」の部の編成を「資本一般」、「競争」、「信用」、「株式資本」としようとしていたが、「資本の流通過程」を「『資本一般』の枠内でどう解決(?意味不明──青山)するか」、マルクスは答えをもっていなかった。

③「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論(第三篇)について、まったく構想をもっていなかった」。だから、マルクスは、「単純再生産の社会的過程の」「グラフ的な図表」について、エンゲルスあての手紙で「これは僕の本の最後の諸章のうちの一章のなかに総括として載せるものだ」と言っていた。「しかし、マルクスが苦闘の末に仕上げた再生産論は、その著作の最後の諸章に〝付録〟的に扱って済むような、部分的発見ではありませんでした。」と、不破さんは言います。

 これら「三つの問題」なるものは、字面だけ追って見ると、一見もっともらしくみえるかもしれませんが、マルクスを誹謗し、『資本論』の成立過程を改ざんするとんでもない内容です。

マルクス経済学の正しい概念規定の過程を「混迷と曲折」と誹謗する不破さん

 まず、①の概念規定に関していえば、新しい発見、新しい理論には、新しい言葉や古い言葉の新しい定義、新たな概念規定が必要です。マルクスが、当初、資本の流通過程において、さまざまな局面を通過する資本そのものを「流動資本」、局面のうちの一つに固定されている資本を「固定資本」と定義しようとしたことは、貨幣と資本の神秘性を明らかにするうえでの一つの区分方法であり、「マルクスが誤った固定観念から出発して」などと言って批判されるべきものではなく、何の問題もありません。マルクスがマルクス主義経済学を確立していく過程で、新しい概念規定の方法を試みることを「誤り」と言うのは、それこそ、誤りです。そして、新しい概念とそれを現す規定(言葉)がコンクリートにならなければ、「資本の流通過程」の研究が行えないなどというものではありません。例えば、いまだに「貨幣資本」という言葉で、多様な「資本」形態にある「貨幣」をすべて「貨幣資本」といっています。

「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」を書いた理由の要約

 つぎに、不破さんは、「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」を書いたのは②と③という理由からだと言いますが、それが、いかに誤っているか知るためには、『資本論』の成立過程を正しく知る必要があります。

 マルクスは「61~63年草稿」の執筆過程で『資本論』の構想をより確固たるものにし、その当然の結果として、『資本論』の第一部草案を書き終えたあと、1864年の夏頃から、「第3部」を第2章→第1章→第3章の順に書き、その後、1865年の前半に「第2部 資本の流通過程」の草案を書くという順で『資本論』の草案を書き進めました。なぜ『資本論』の構想をより確固たるものにした「当然の結果として」、「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」を書いたのでしょうか。

 その理由について、大谷禎之介氏の「『マルクスの利子生み資本論』2」に収録されている、MEGA第Ⅱ部門第4巻第2分冊に収められたマルクスの『資本論』第三部第1稿についての「『解題』と『成立と来歴』」の文章の「解題」は、次のように述べています。

「第1部から第3部に移ったことは、明らかに、マルクスが、本質と直接的な現象との、問題を孕んだ関連を矛盾なく説明すること、運動法則それ自体を暴くばかりでなく、同じくこの法則の貫徹メカニズムを証明することにも努めていたことに帰せられるべきものであった。彼の考えでは、理論全体の内的な一貫性はこのこと(資本の運動法則の貫徹メカニズムを証明すること──青山)にもとづいているのである。彼にとってまずもって肝心であったのは、問題の二律背反を明示的にはっきりさせ、科学的に批判的な解決を与えることであったが、最後には、体系的に論述することに重きが置かれていた。」(P389-390)と。

 そして、第3部の執筆を中断し第2部の草案を書いた理由については、同じくMEGAの「成立と来歴」は、「その理由はたぶん、『1861~1863年草稿』のノートⅩⅦでは利潤の平均利潤への転化がまだ包括的には仕上げられていなかったことにあったのであろう。……叙述の論理によって、結局マルクスは、当該の欠落部分を埋めることを、それゆえに第3部の執筆を中断してまず第2部を仕上げることを強制されたのである。」(P403-404)と述べています。

 このように、「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」の第2章(『資本論』では「章」は「篇」となっている──青山)→第1章→第3章と書いた理由と、今度は第3部の執筆を中断し第2部の草案を書いた理由とは、基本的に同じものです。

 そして、1862年12月のプラン草案の「8)産業利潤と利子とへの利潤の分裂。商業資本。貨幣資本。」を『資本論』では「第4章」と「第5章」との二つの章に分割したことについて、次のように述べていますが、この間の事情をよく現しており、マルクスの「叙述の仕方の転換」に関わるものです。

「第2部の執筆からえられたもろもろの認識がすでにこの変更の根拠となっていたのかもしれない。剰余価値を生産する諸資本のあいだの競争戦のもろもろの基本的な法則性を論じている、草案の最初の三つの章(「章」は『資本論』の「篇」のこと──青山)を書いたのちに、マルクスが直面したのは、特殊的、派生的な資本諸形態の叙述は生産的資本の諸変態の叙述からどのようにして厳密に区切られるべきか、両者のあいだの諸移行は個々的にはどのような姿態をとるのか、という問題であった。この問題の解決は、資本の流通過程の分析を前提していた。最後に第3部で展開されているような諸資本の現実的運動を論じることができるようになる前に、まずもって、諸資本のそのような自立化の可能性が──つまり諸資本の形態的運動が──表現されなければならなかった。そのさいに、商人資本と利子生み資本とは二つの質的に異なる自立的な資本形態だ、という認識が固まったのであって、このことが、この両形態を別個に叙述することを要求したのである。」(P405)

 これらの執筆の軌跡は、マルクスが『1861~1863年草稿』中の『剰余価値学説史』執筆の前後で、「経済学批判」の研究の方法に基づく叙述の仕方から、『資本論』の本質と直接的な現象とのシームレスな貫徹メカニズムを示し体系的に論述する叙述の仕方に、叙述の中身と方法を変えたことの現れです。※詳しくホームページ「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)──「『資本論』第三部を読む」を検証する。──」を、是非、参照して下さい。(現在、編集中です。)

 ただし、私はこの文章の最後のセンテンスには同意できません。マルクスは、当然、「商人資本と利子生み資本とは二つの質的に異なる自立的な資本形態だ」という「認識」はもっていたが、研究から著作として『資本論』を世に出すにあたって、搾取の分け前として一括りにするのではなく、「質的に異なる自立」性を明確にした「章」立てにすることが、有効であり枝ぶりの良い作品になると考えたのだと思います。

1865年まで『資本論』を『経済学批判』の続編にしがみつかせようとする不破さん

 このように、マルクスは『資本論』の叙述の中身と方法を「経済学批判」の研究の方法に基づく叙述の仕方から変えたのに、不破さんは、②のように、マルクスは『経済学批判』の続編としての著作の「資本について」の部の編成を「資本一般」、「競争」、「信用」、「株式資本」としようとしていたが、「資本の流通過程」を「『資本一般』の枠内でどう解決(?意味不明──青山)するか」、マルクスは答えをもっていなかったと言って、『資本論』を『経済学批判』の続編にしがみつかせようとします。

 私たちが不破さんから解説を受けようとしているのは『資本論』の「第2部 資本の流通過程」についてであり、たとえ、『経済学批判』の続編のなかに「資本の流通過程」がうまく収まらなかったとしても、『資本論』の草稿の執筆には何ら影響はありません。不破さんは、『経済学批判』の続編である「61~63年草稿」の執筆過程で、『資本論』が新しい構想を持つた著作へと、本質と直接的な現象とのシームレスな貫徹メカニズムを示した体系的な論述へと、一回り大きくなったことを理解できないで、相変わらず、『資本論』を『経済学批判』の続編として捉えようとしています。その詳しい説明は、「第三部」のページを見て下さい。

 このように、私たちが不破さんから解説を受けようとしているのは、『資本論』の「第2部 資本の流通過程」についてなのに、不破さんが問題にしているのは、『経済学批判』の続編としての「資本の流通過程」の位置づけの問題なのですから、あまりにもピントがずれています。このように、ピンボケの頭で「批判」されるのですから、マルクスもたまったものではありません。

 マルクスは、「資本一般」の「C資本」の研究過程(「61~63年草稿」の執筆過程、下記の〈参考〉を参照して下さい。)で、その研究成果を『経済学批判』の続編としての「著作」という構想のままでは「著作」として収まりきれないことを理解し、1863年に、『剰余価値学説史』執筆前の研究の方法に基づく叙述の仕方から、『資本論』として、「C資本」の「資本の生産過程」、「資本の流通過程」および「両過程の統一または資本と利潤」という三つの理論的な部分に経済学のすべての理論的な問題を取り入れた、本質と直接的な現象とのシームレスな貫徹メカニズムをもった、より豊かな内容の三部編制の著作を生みだすことを決意したのです。

 その構想の具体化を、〈「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」を書いた理由の要約〉で紹介したような執筆の順序で行ったのです。

〈参考:マルクスが1858~1862年頃からあたためていた「経済学批判」の構成プラン〉

Ⅰ 資本について

 1 資本一般

  a 商 品

  b 貨 幣

  c 資 本

     資本の生産過程

      1 貨幣の資本への転化

      2 絶対的剰余価値

      3 相対的剰余価値

      4 両者の組合せ

      5 剰余価値に関する諸学説

     資本の流通過程

     両過程の統一 または資本と利潤 利子

 2 競  争

 3 信  用

 4 株式資本

Ⅱ 土地所有

Ⅲ 賃労働

Ⅳ 国家

Ⅴ 外国貿易

Ⅵ 世界市場

 なお、『経済学批判』は、上記プランの「資本一般」の「商品」と「貨幣」を収めたものです。

不破さん得意の〝三段飛び論法〟でマルクスを中傷する

③についていえば、このページの後半で見るように、資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産のもつ意味をほとんど理解していない不破さんが、マルクスは「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論(第三篇)について、まったく構想をもっていなかった」と言うのだから驚きです。

 そして、不破さんは、マルクスがエンゲルスあての手紙で、「単純再生産の社会的過程の」「グラフ的な図表」について、「これは僕の本の最後の諸章のうちの一章のなかに総括として載せるものだ」と言っていることを、ねじ曲げて、「しかし、マルクスが苦闘の末に仕上げた再生産論は、その著作の最後の諸章に〝付録〟的に扱って済むような、部分的発見ではありませんでした」と言って、あたかも、「苦闘の末に仕上げた再生産論」をマルクスが「著作の最後の諸章」に〝おまけ〟としてつける〝付録〟として扱ってかのような印象を読者に与え、マルクスを傷つけています。

 マルクスが、「資本の流通過程」の「最後の諸章」である「再生産論」のなかの「一章のなか」に「総括」として「載せる」ことが、どうして「苦闘の末に仕上げた再生産論」を〝付録〟として扱って「済む」ことになるのでしょうか。資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の意味をほとんど理解していない不破さんにこんなことを言われたのでは、マルクスも、〝馬鹿に付ける薬はない〟と、草葉の陰で呆れかえっていることでしょう。マルクスを馬鹿にしようとして、自分が馬鹿であることを証明してしまいました。

 このように不破さんは、マルクスの研究の進展に伴う著作の構想の変化を無視して、マルクスが「『資本一般』の枠内でどう解決するか」答えをもっていなかったとか、読者を無知な人間とみて、「最後の諸章に〝付録〟的に扱って済むような、部分的発見ではありませんでした」とか言って、マルクスを誹謗し、マルクスの不十分さを得意げに「解説」します。不破さんは『資本論』の解説をしているのですから、『資本論』の成立過程をマルクスに寄り添って述べなければなりません。『経済学批判』の続編から『資本論』への発展について、なぜ『資本論』が今あるような「三部構成」になったのかを一生懸命調べて、その中で「資本の流通過程」の成立過程と位置づけをしっかり読者に語るべきなのです。しかし、このような不破さんの姿、振る舞いを見ていると、そんな不破さんの著作が闊歩している『赤旗』を日々読んでいる読者の方々が不憫でなりません。

 そして、マルクスが「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論について、まったく構想をもっていなかった」と草稿の執筆順序から「推測」し、その「推測」をもとに、マルクスの無能さを暴露した不破さんは、P168では、マルクスが『五七~五八年草稿』のなかで、「五つの生産部門を取り上げ、五部門の資本家と労働者のあいだの生産物交換の表式を作り上げてみせる、というみごとな解決をおこなってい」たことを言い、マルクスが「価値実現が、ここでは、資本家相互間の交換のなかで行われている」と書いていることを述べ、『五七~五八年草稿』の時点で、マルクスが「再生産論」について、まとまった知識をもっていたことを認めざるを得ません。

 しかし、不破さんは、自分が「黒」と決めたら、なにが何でも「黒」としてしまう人です。往生ぎわのわるい不破さんは、「四年後にプルードンの同じ設問にふたたび立ち向かったとき、かってのこの成功例を思い出したという形跡はまったくありません。〝ルール違反〟の研究成果でしたから、マルクスの頭のなかでもお蔵入りになっていたのかもしれません。」(P168-169)と言います。『五七~五八年草稿』の時点で、マルクスは「再生産論」についてまとまった知識をもっていたが、それを「思い出したという形跡」がないようなので、マルクスは「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論について、まったく構想をもっていなかった」というのです。

 そして、「思い出したという形跡」がない〝根拠〟として、「〝ルール違反〟の研究成果」だから、「マルクスの頭のなかでもお蔵入りになっていた」のかもしてませんと〝推測〟します。開いた口がふさがりません。こんな推測が成り立つならば、私たちはどんな「推測」でも可能です。そしてこれが「推測」などではなく、軽口、マルクスに対する当てこすりであるならば、自分の正当化のためにマルクスを利用するのはやめるべきです。

 読者のみなさんは、不破さんの「ルール」という言葉を使ったトリックにだまされてはいけません。マルクスは研究の方法として、研究を深めるために〝ノイズ〟を入り込ませないための「ルール」をつくり、研究を進めました。マルクスの作った「ルール」は真理を求める研究のためのルールです。だから、研究成果の発表の場は違っても、「〝ルール違反〟の研究成果」などというものはありません。しかし、不破さんの言う「ルール」はまったく違います。研究に「ルール」(壁)を設けて、それに反するもの、古い構想に合わないものは、「〝ルール違反〟の研究成果」ということとなります。「ルール」は研究を狭めるために使われて、その壁を越えた研究は「〝ルール違反〟の研究成果」として排除され、遂には、不破さんが作った「ルール」がマルクスの頭のなかを支配して、「〝ルール違反〟の研究成果」はマルクスの頭のなかからも排除されてしまうのです。

 マルクスの「資本の流通過程」の研究は真実・真理を求める研究であり、研究成果は「資本の流通過程」を解明したことですが、不破さんはその研究成果が古い構想に合わないから、「研究成果」が〝ルール違反〟だと言います。マルクスのこれまでの研究成果にもとづく新しい構想の『資本論』に載せる「資本の流通過程」の「研究成果」が〝ルール違反〟なのではなく、『経済学批判』の続編という古い構想にしがみつき、わけの分からない「ルール」を振りかざす不破さんのほうが間違っているのです。マルクスは真理に向き合っており、不破さんは『経済学批判』の続編の構成に向き合っています。

 これまで見てきたように、「第二部構想の成立にいたる前史の簡単なスケッチ」で不破さんが設けた「ルール」の障壁はマルクスの研究態度とはまったく異質のものであり、不破さんが言う「流通過程」論が出遅れた三つの理由とは、①『資本論』の成立過程の無理解と改ざん、②マルクスを誹謗して自分の評価を高めようとする自己顕示欲、③マルクスと違って物事を発展的に見ることができない、の三点に基づくものです。

 不破さんの言う「流通過程」論の出遅れの三つの理由から、もう一度、不破さんの観念論者ぶりを見てみましょう。

①不破さんはマルクスを自分と同じ観念論者とみている

「資本の流通過程」の研究を深め、真実・真理を摑む過程で、より適切な言葉と、言葉のより適切な概念規定ができるのであり、「正確な規定」(イデア)から真実・真理が生まれてくるのではありません。しかし、不破さんは、「マルクスが誤った固定観念から出発して、正確な規定に到達するまでに、混迷と曲折にみち」ていたから、「資本の流通過程」の研究が遅れたと言います。

②『経済学批判』の続編のための研究が自らの殻を破り、『資本論』の構想へ導いた

 不破さんは、「資本の流通過程」が『経済学批判』の続編としての著作の「資本一般」の枠内の収まらないから「資本の流通過程」の研究が遅れたと言いますが、マルクスは「資本」の研究を深め、「資本の流通過程」が『経済学批判』の続編としての著作の「資本一般」の研究方法と研究対象の枠内の収まらないから、新たに『資本論』の構想を固め、それに基づいて『資本論』原稿の執筆を行いました。マルクスは真理の探究の結果、『資本論』にたどり着き、不破さんはマルクスに古い構想の「枷」をはめようとします。

③不破さんは、自らの『資本論』の構想への無知を根拠に、マルクスは「再生産論」について無知だったという

 不破さんは、マルクスが「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論(第三篇)について、まったく構想をもっていなかった」から、「資本の流通過程」の研究が遅れたと言うが、マルクスは「資本」の研究を深め、「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」を書くことによって、運動法則それ自体を暴くだけでなく、本質と直接的な現象との関連を矛盾なく説明し、この法則の貫徹メカニズムを証明することに努めました。その結果、このような執筆の順序になったのです。そのことを知らない不破さんは、書かないのは知識がないからだと自らの無知を根拠にマルクスは「再生産論」について無知だったというのです。

 しかし、不破さんが、マルクスは「再生産論」について無知だったなどという馬鹿げたことを言うのには、もう一つ理由があります。それは、あとで十分説明しますが、不破さんは「第二一章」の解説で、エンゲルスの編集のまずさを私たちに示すために、資本家や経済学者の思いをマルクスの主張ででもあるかのように捏造して、マルクスの「再生産論」の考察の馬鹿さ加減を主張します。その前提として、マルクスは、当初は、「再生産論」について無知でなければならなかったのです。※この点について、先回りして知りたければ、PDFの44ページの〈エセ「マルクス主義」者からペテン師、詐欺師への不破さんの跳躍〉以降をお読み下さい。

 このように、不破さんの「第二部構想の成立にいたる前史の簡単なスケッチ」は、不破さんらしさを存分に発揮した文章となっています。

これまでの、この本の一番素晴らしい部分(P169~172)

 不破さんは、「エンゲルス、マルクスの遺 稿の編集に苦闘する」という表題で、エンゲルスが『資本論』の第二部、第三部の編集に費やした時間の重みとエンゲルスの『資本論』編集の意義について次のように述べています。

 まず、エンゲルスが『資本論』の第二部、第三部の編集に費やした時間の重みについて、不破さんは、「草稿から『第二巻』を作り上げる仕事は、異稿の若干の『整理』と『清書』で済むものではなく、その後一一年間(マルクスは一八八三年に亡くなった──青山)の苦労を要する難事業となりました。第二部は一八八五年七月刊行となったものの、第三部が刊行にこぎつけたのはその一〇年後の一八九四年一二月となり、その九ヶ月後にはエンゲルス自身が死の時を迎えたのでした。」(P171)と述べ、私のようなマルクス・エンゲルスのファンからすると、肯定的に評価しているように見えます。

 そして、エンゲルスの『資本論』編集の意義について、「今日、私たちが、『資本論』を、全三部からなるマルクス畢生の労作として読むことができるのは、エンゲルスのこの苦闘によってはじめて可能になったことでした。エンゲルスがこれをやりとげず、草稿からの編集の仕事が後世に残されたとしたら、『資本論』全巻が世に出る日ははるかに遅くなったでしょうし、だれが編集者になったとしても、その作品は、エンゲルス編集のそれに匹敵する内容と権威をもつことはできなかったでしょう。

 マルクスは、自分の仕事について、第三部を仕上げるごく大まかな構想と、再生産論や地代を発見した時の喜びにみちた報告以外には、エンゲルスにほとんど知らせていませんでした。そのために、エンゲルスの編集の作業は、ゼロからの出発に近い内容をもたざるを得ず、そこに、多くの弱点が生まれたのは、当然のことでした。私は、それらの点を是正するのは後世の者に託された仕事であり、それを果たすことは、エンゲルスの仕事を受け継いでそれをより完全なものにする意義がある、と考えています。本書でも、第二部、第三部の内容検討にあたっては、そういう部分がかなり出てきますが、そういう意味で受け取っていただきたいと思います。」(P172)と、エンゲルスの『資本論』編集の意義についての至極まっとうな評価と、これらを踏まえたうえでの科学的社会主義の理論を発展させる私たちの責任について、概ね正しいことを述べています。

 ただし、上記の文章は、正しくない部分もあります。「マルクスは、自分の仕事について、第三部を仕上げるごく大まかな構想と、再生産論や地代を発見した時の喜びにみちた報告以外には、エンゲルスにほとんど知らせていませんでした」というのは、不破さんの完全な推測です。その「推測」を基にして、「そのために」「多くの弱点が生まれたのは、当然のことでした」と言ってエンゲルスを誹謗するのは、論理的でなく、正しくありません。この点についてはもう少し後で触れます。けれども、この点を除けば、この文章は、不破さんの文章としては、大変まともな文章なので、是非、記憶に留めておいて下さい。マルクスであろうが、エンゲルスであろうが、『資本論』の中にある「弱点」をただし、『資本論』の中にある現代に生きるヒントを摑みだして発展させること、それこそが『資本論』を生かしマルクス・エンゲルスの努力にむくいる道でしょう。私はそのような観点から、これまで、このページを作ってきたし、今後も作っていくつもりでいます。

不破さんの、これまでの、エンゲルスの努力にたいする揶揄

 なぜ私がこれらの文章を大絶賛するのかと言えば、不破さんはこれまで、先の、エンゲルスが『資本論』の第二部、第三部の編集に費やした時間の重みについて、概ね、次のように揶揄していたからです。

  不破さんは、『前衛』(2014年1月号)の「『古典教室』第2巻(第三課エンゲルス『空想から科学へ』)を語る」という鼎談で、エンゲルスが『空想から科学へ』の中で「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」(P102)というデマを言い、最初のデマで信じ込ませて、二ページ後には、「第三章の資本主義論には、剰余価値のことが一言も出てこない」(P104)と若干訂正します。デマで人を騙す典型的なやり方です。

  不破さんは、エンゲルスのこの「誤り」の原因として「これには歴史的制約もあったと思います」と述べ、エンゲルスが『資本論』の第二部、第三部について「ごく簡単な筋書きを手紙で知らされた以外は、マルクスが死ぬまで草稿を目にすることはありませんでした」と言い、そのために、「第三部になると、一段と編集が難しくなって、七,八年かかりました」と、なにが「歴史的制約」なのかよく分かりなせんが、エンゲルスは「マルクスが死ぬまで草稿を目にすること」がなかったので『資本論』の編集に手間取ったと、エンゲルスの能力のなさを揶揄しています。

 そして、エンゲルスが『空想から科学へ』の中で「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」という不破さんの真っ赤なウソは、「第三章の資本主義論には、剰余価値のことが一言も出てこない」と変わって、不破さんが何を「誤り」と言っているのかわけが分からなくなっても、「ですから、経済学に関して言うと、エンゲルスの思い違いという部分があっても不思議でないのです」と、強引に、結論づけられてしまいます。エンゲルスが「資本主義」を「剰余価値の搾取を抜きに」考えているという不破さんの「大発見」には、マルクスをはじめとして、ほとんど全ての人が目を白黒させられることでしょう。そして、なにが「ですから」かわかりませんが、「経済学に関して言うと、エンゲルスの思い違いという部分」があったと、エンゲルスが何をどう「思い違い」したのかも示さず、何が何だかよく分からないがその気にさせるという、不破さん得意の、三段飛び論法をここでも展開させます。

  不破さんは、六〇歳を過ぎたエンゲルスが、第一ヴァイアリンも第二ヴァイアリンも弾きながら科学的社会主義の学説の擁護・発展に尽くす中で、不破さんのような読みやすい字ではない文字で書かれた、荒削りすぎる、マルクスの草稿と格闘し、死の直前にやっと第三部の編集をなし遂げたことを、賞賛するのではなく、エンゲルスの無知と誤りのたまもののように言い、自分の作ったデマの支援材料に使っています。

 私は、この『前衛』を読んだとき、65歳のエンゲルスの忙しすぎる一日についての、1885年4月23日付けのザスーリチあてのエンゲルスの手紙(レキシコン⑤-[139]P259-261)等が頭をよぎるとともに、エンゲルスが『資本論』の編纂に費やした時間の重みについて、エンゲルスが『資本論』の編纂に一〇年を費やしたという、一つの事実にもいろいろな言い方があるものだと思い、大変悲しくなったのを、思い出してしまいました。

※詳しくは、ホームページ4-14「☆科学的社会主義の旗を掲げて共に闘ったマルクスとエンゲルスが、経済(社会の土台)についての共通認識を持っていなかったという不破さんの無責任な推論」を参照して下さい。

「画期的な搾取様式」の〝画期〟性についての、不破さんの「画期的な推測」(P177)

 不破さんは177ページで、『資本論』「第二部」の「第一章 貨幣資本の循環」の中の「第二節」にある次の文章を引用して、マルクスが、「資本主義的商品生産を、社会の経済的構造全体を変革する『画期的な搾取様式』と特徴づけていることも、注目すべき点です。この〝画期〟性のなかには、搾取社会を超える次の新しい時代を準備するという意味も、こめられているのではないでしょうか。」と述べています。不破さんが「画期的な搾取様式」に「注目」していただくのは大変結構なことですが、これでは『資本論』が台無しになってしまいます。『資本論』の内容をミスリードしてもらっては困ります。

 「資本主義的商品生産がはじめて画期的な搾取様式となるのであって、この搾取様式は、その歴史的発展の進行のなかで、労働過程の組織と技術の巨大な発達とによって、社会の経済的構造全体を変革し、従来のすべての時代を比類なく大きく凌駕する」(『資本論』大月版③P49-50)

 この文章は、不破さんが176ページで引用した、「資本主義的商品生産」がそれ以前の「商品生産のすべての形態を破壊する」、つまり、それ以前の生産様式を「破壊する」ことを述べたマルクスの「第七稿」から取った文章に続く、「第六稿」からの文章で、引用文の前に、「資本主義的生産過程」では「商品生産の営みはすべて同時に労働力搾取の営みになる」ことが述べられています。

 実はこの「第二節」の「第七稿」と「第六稿」の二つの文章を合わせた、その〝原型〟ともいえる文章が、「第五稿」からの文章として、「第三節」にありますので、紹介します。

 「産業資本は、資本の存在様式のうち、剰余価値または剰余生産物の取得だけではなく同時にその創造も資本の機能であるところの唯一の存在様式である。だから、それは生産の資本主義的性格を条件とする。産業資本の存在は、資本家と賃金労働者との階級対立の存在を含んでいる。産業資本が社会的生産を支配して行くのにつれて、労働過程の技術と社会的組織とが変革されて行き、したがってまた社会の経済的・歴史的な型が変革されて行く。産業資本に先だって、すでに過ぎ去ったかまたはもはや没落しつつある社会的生産状態のなかで出現した別の種類の資本は、産業資本に従属させられて自分の諸機能の機構を産業資本に適応するように変えられるだけでなく、ただ産業資本を基礎としてのみ運動するようになり、したがって、それら自身のこの基礎と生死存亡をともにするようになる。」(大月版③P69-70)

 この二カ所の文章を熟読していただけば分かるように、「資本主義的商品生産」がはじめて「画期的な搾取様式」となったのは、資本主義社会が「産業資本が社会的生産を支配する社会」で、「産業資本が社会的生産を支配して行くのにつれて、労働過程の技術と社会的組織とが変革されて行き、したがってまた社会の経済的・歴史的な型が変革されて行く」ことによって、「すべての商品生産を資本主義的商品生産に変えて行く」(大月版③P49)からです。そして、同時に、「資本主義的生産過程」では「商品生産の営みはすべて同時に労働力搾取の営み」であり、「産業資本の存在は、資本家と賃金労働者との階級対立の存在を含んでいる」にもかかわらず、労働力が「商品」となることによって、「搾取」が隠蔽されるから、「画期的な搾取様式」なのです。だから、この「〝画期〟性」とは、すべての生産様式の中に入りこみ、すべてを呑みこむ「〝画期〟性」であり、搾取を覆い隠す「〝画期〟性」なのです。

 不破さんのように、「画期的な搾取様式」の「〝画期〟性のなかには、搾取社会を超える次の新しい時代を準備するという意味も、こめられているのではないでしょうか」などと呑気なことを言って、「画期的な搾取様式」の本当の意味を暴露しなかったら、マルクス・エンゲルスが『資本論』を書いた意味がなくなってしまいます。

 「画期的な搾取様式」の社会を暴露し、「産業資本」(=現代のグローバル資本)をコントロールしないで、「画期的な搾取様式の社会」(=資本主義的生産様式の社会)をそのままにして、「利潤第一主義」を抑え、「余暇」を増やそうとしても、「搾取社会を超える次の新しい時代」は実現しません。

 不破さんの、「画期的な搾取様式」の「〝画期〟性のなかには、搾取社会を超える次の新しい時代を準備するという意味も、こめられているのではないでしょうか」などいう推測は、「エンゲルスの仕事を受け継いでそれをより完全なものにする意義がある」という、科学的社会主義の理論を発展させる責任についての自らの立派な言葉を裏切るものです。

マルクスへの誹謗を抑えた、抽象論による自説への導入に惑わされず、マルクスが教える「産業循環」の本当の姿を「頭において」、『資本論』第二部を学ぼう(P178-182)

マルクスへの誹謗を抑えた、抽象論による自説への導入

 不破さんは、「一八六五年、恐慌の『運動論』の発見」というタイトルで、「次は『第二章 生産資本の循環』です。」と述べ、「恐慌の『運動論』」なるものの中身はまったく語らず、マルクスの産業循環等についての考えに不破さんが依拠しているかのように、自説に誘導するための文章をならべ、「以上のことを頭において、『第二章 生産資本の循環』での恐慌問題の扱いの検討に入りたいと思います。」と、不破さん得意の刷り込みをおこないます。

 不破さんは、自説への誘導の一つとして、第一部で述べたことをよりマイルドにして、次のように言います。

 「マルクスは、この問題意識(恐慌を節目とする運動形態の解明──青山注)を、経済学の著作の執筆を開始した最初から強くもっていました。おそらく、そのことへの回答を得たという確信が、1857年に著作執筆を決意する最大の要因の、少なくとも一つとなったのではないでしょうか。」と。

 不破さんが、第一部で「これは私の推論ですが、マルクスが1857年に経済学の著作という念願の事業を開始する決断をした背景には、利潤率の低下の法則の科学的根拠を発見したことで、この著作を結論部分まで完成できるという見通しを得たことが、重要な要因の一つとしてあったのではないでしょうか」と述べたとき、私は、第一部のホームページの「マルクスをマルクス主義でないという不破さんの推測」の項で、概ね、次のような内容のことを書きました。

 『前衛』2015年1月号で不破さんは、自ら創作したマルクス=「『恐慌=革命』説」の罪を「利潤率低下の法則」になすりつけるために、「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がないというのは、あまりにも現実離れした議論に見えます。しかし、『恐慌=革命』説を背景に、利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定がさきにあり、そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込みが、マルクスを、こうした無理な立論に固執させたのではないでしょうか。」と「推論」していること。

 ここで不破さんは、①「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がないというのは、あまりにも現実離れした議論に見えます」とマルクスが言ってないことを述べて、デマをふりまき、②「『恐慌=革命』説を背景に、利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定がさきにあり、そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込み」があったと推測する。不破さんのこの「推論」は、マルクスの「科学的社会主義」の理論が「断定」と「思い込み」で成り立っているという、マルクスの思索のしかたに対するとんでもない見方、許しがたい見方が隠されていることを指摘しました。

 そして不破さんは、今度は、マルクスが、その「断定」と「思い込み」を根拠に『資本論』を書くことを「決断」したという、驚くべき「推論」をしているということを指摘しました。だから、不破さんの「推測」には、くれぐれも、注意するよう、読者のみなさんに注意喚起をおこないました。

 ですから、どんなにマイルドにオブラートに包んでも、不破さんが言っていることは、第一部で述べていることと、まったく同じに、マルクスの科学的研究態度を全面的に否定した論法なのです。絶対に、だまされないで下さい。

 不破さんは、上記の文章に続けて、「マルクスが最初に立てた運動論は、恐慌という形態での資本主義的生産の矛盾の爆発を、利潤率の低下の現象から説明し、それを社会変革の展望と結びつけることでした。マルクスはこの立場から、恐慌の運動論を確立しようとして、『五七~五八年草稿』から一八六四年後半の『資本論』第三部第三編の執筆まで努力を続けましたが、」と虚構をつくり、その上で、「確信の持てる理論展開には、ついに成功しませんでした。」と断罪します。

 マルクス・エンゲルス・レーニンの意図と違うことを提起して、それを批判する。不破さんの、いつもの、絶対に負けない、論法です。

 科学的社会主義の研究方法は、事実を出発点にして、事実を積み重ねて真実を究明し、仕上げられた仮説は事実と照合され検証されます。不破さんは、つい自分の「立論」の仕方から、科学的社会主義の研究方法とは異なる「立論」の仕方をマルクスもすると思ったのかもしれませんが、これらの文章は、不破さんの、科学的社会主義の研究方法の無理解を、はからずも、暴露するものであるとともに、マルクスの研究態度を誹謗し人格を傷つける、この上ない、暴言です。

 そして不破さんは、マルクスが、不破さんの作った「虚構」から脱却するために、「マルクスの頭脳に、一八六五年初め」、「恐慌の運動論を解明するまったく新しい視点がひらめいたようです。」と、またまた〝推測〟し、第二部の第一草稿に「そのとき、ごく簡単な文章で、新しい運動論の要旨を」「書きつけました」がと、今度は見てきたかのようなことをことを言い、〝ひらめいた〟ことなので、「その内容をよく研究したうえで、第一草稿の少し先の部分に、より詳細な内容をあらためて書き込みました。」と、えん罪事件の供述調書のように、具体的なことは何も言わずに、「これは、ただ恐慌を節目とする経済循環という運動形態の解明に成功したというにとどまらず、資本主義の現在の発展段階の評価から、その没落の展望のとらえ方にもかかわる大発見となりました。」と言って、不破さんが二一世紀になって「大発見」した、不破さんが自ら創作したストーリーを、読者に、刷り込もうとします。

 不破さんは、「以上のことを頭において、『第二章 生産資本の循環』での恐慌問題の扱いの検討に入りたいと思います」、と言いますが、「以上のことを頭において」、「恐慌問題」を考えたら、現代のグローバル資本が支配する資本主義を理解することなどできません。その結果、不破さんのように、「賃金が上がれば、日本は良くなる」と、マルクスの言う「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の水準に転落してしまいます。

「まったく新しい視点」の非科学的な「推測」

 まずはじめに、「まったく新しい視点がひらめいた」という不破さんの「推測」について見てみましょう。万が一、マルクスが不破さんの言う「恐慌の運動論」なるアイデアを一八六五年初めに得たとしても、その「恐慌の運動論」なるものは、無から有が生じるような性質のものではありませんから、「既存の知識」の新しい組あわせによる〝発明〟・〝発見〟に属するもので、マルクスの不断の研究の中から生まれるものです。不破さんは、「そのとき、ごく簡単な文章で、新しい運動論の要旨を」「書きつけ」、その後、「その内容をよく研究したうえで、第一草稿の少し先の部分に、より詳細な内容をあらためて書き込みました」などと推測しますが、「その内容をよく研究した」からこそ、新しい視点はは生まれ、それは「詳細な内容」の再発見と結びついて生まれるもので、長い時間かけて「その内容をよく研究したうえで」徐々に理論化されるものではありません。だから、不破さんの「推測」は、マルクスの研究と思考の過程を無視した非科学的な「推測」です。このような思考方法しか持てず、現実の社会をしっかり見つめることをおろそかにして、二一世紀になって突然発見した(ひらめいた?!)自説の補強材料となるアイデアを「古典」の中に求め、そのアイデアを現代に適用しようとする不破さんには、「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の水準程度のアイデアしか降って湧かないのは当然でしょう。

マルクスの「産業循環」の捉え方をもう一度見てみよう

 つぎに、マルクスの「産業循環」(景気循環)についての考えを見てみましょう。

この特集でこれまで見てきたこと

 私は、第一部の「不破さんにもっと温かい心があるならば、」の項で概ね次のような内容のことを書きました。

 マルクスはエンゲルスあての1868年の手紙で、『資本論』は、「資本の一般的本性」を究明し、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもり」であるといい、「第2巻は大部分があまりにも高度に理論的なので、ぼくは信用に関する章を、ぺてんと商業道徳との実状の告発に利用するだろう」と述べていること。

 そして、1878年11月には第2巻(第2部と第3部)の刊行が1879年の末には可能だと考えていたマルクスは、1879年に、「『現在のイギリスの産業恐慌がその頂点に達する以前には』第2巻を刊行しない、と言明し」、1880年には、「『ちょうどいましがた、若干の経済現象が新しい発展段階にはいった』ところであり、これらの現象が、新たな仕上げを要求していたのである」と述べているが、「信用制度と経済恐慌との相互連関について」、「すでに、50年代の初頭に一定のイメージを得て」(『受救貧困と自由貿易──迫りくる経済恐慌』『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1852.11.1付等を参照。)いるマルクスにとって、1880年に「若干の経済現象が新しい発展段階にはいった」ことは、「理論的内容と内的構造とは主要な点においてすでに与えられて」いるが「もともとはあらゆる研究がもっている……荒削りの形態」である「草稿」を仕上げる絶好の好機が到来したと思われたのではないかということ。

 このように、マルクスは、恐慌の進展をつうじて、「信用に関する章」で、資本の「ぺてんと商業道徳との実状の告発」をし、「イギリスのプロレタリアートの労働条件や生活条件に関する諸事実」を「資本主義批判の『例証』とし」、「恐慌」を革命の「槓杆」の一つとして「活用」しようとしたのではないかということ。マルクスがもう少し元気で、もう少し長生きして、とりあえず『資本論』を完成させていてくれたら、不破さんが「恐慌の運動論」なる「珍発見」などする余地などなかっただろうということ。

 また、私は、第一部の「不破さんが発見した『恐慌の運動論』を否定するマルクス」の項で、マルクスの「産業循環」についての認識について、概ね次のようなことを書きました。

 「マルクスが執筆したという「第二三章」で、マルクスは「産業循環」について、どのような認識をもっているのか、見てみましょう」として、『資本論』から下記の文章を引用しました。

 「……だから、近代産業の全運動形態は、労働者人口の一部分が絶えず失業者または半失業者に転化することから生ずるのである。経済学の浅薄さは、とりわけ、産業循環の局面転換の単なる兆候でしかない信用の膨張や収縮をこの転換の原因にしているということのうちに、現れている。……社会的生産も、ひとたびあの交互に起きる膨張と収縮との運動に投げこまれてしまえば、絶えずこの運動を繰り返すのである。結果がまた原因になるのであって、それ自身の諸条件を絶えず再生産する全課程の変転する諸局面は周期性の形態をとるのである。*ひとたびこの形態が固まれば、経済学でさえも、相対的な、すなわち資本の平均的な増殖欲求から見ての、過剰人口の生産を、近代産業の生活条件として理解するのである。」(大月版 P825)*著者認定のフランス語版では、この箇所に、「競争に加わる工業国の数が十分なものになったとき、このとき以来はじめてかの絶えず再生産される循環は始まった」こと、その循環の終点として一般的恐慌があること、「これまでのところでは、このような循環の周期の長さは10年か11年であるが、しかし、この年数を不変なものと見るべき理由はなにもない。反対に、いまわれわれが展開してきたような資本主義的生産の諸法則からは、この年数は可変だということ、そして、循環の周期はしだいに短縮されるということを推論せざるをえないのである。」ことの挿入文があります。

 そして、マルクスはここで、ご覧のとおり、「産業循環の局面転換の単なる兆候でしかない信用の膨張や収縮」を「産業循環」の「転換の原因」と見ることを、「経済学の浅薄さ」として痛烈に批判し、「過剰人口の生産を、近代産業の生活条件として」、その「過剰人口」と「近代産業の全運動形態」との相関関係を指摘し、「産業循環」が資本主義的生産様式の社会の資本主義的生産の諸法則に基づく様々な原因と結果が影響し合う、周期性をもった、トータルな循環運動であることを述べていることを指摘しています。

 同時に、私は、マルクスが、この文章の少し前で、産業循環の「10年ごとの循環をなしている形態は、産業予備軍または過剰人口の不断の形成、その大なり小なりの吸収、さらにその再形成にもとづいている。」(同P824)ことも指摘いたしました。

 これがマルクスの「産業循環」の捉え方です。不破さんの発見した、矮小化された「恐慌の運動論」とは、だいぶ、スケールが違います。

マルクスの時代の産業循環と現代の世界経済

マルクスの時代の産業循環

 また、マルクスは、『資本論』「第三部 第五篇利子生み資本 第三〇章貨幣資本と現実資本Ⅰ」で、次のように述べています。

「再生産過程の全関連が信用を基礎としているような生産体制のなかでは、急に信用が停止されて現金払いしか通用しなくなれば、明らかに、恐慌が、つまり支払手段を求めての殺到が、起こらざるをえない。だから、一見したところでは、全恐慌がただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現われるのである。……しかし、これらの手形の多くは現実の売買を表しているのであって、この売買が社会的な必要をはるかに超えて膨張することが結局は全恐慌の基礎になっているのである。……とにかく、ここではすべてがゆがんで現れるのである。なぜならば、この紙の世界ではどこにも実在の価格やその実在の諸契機は現れないのであって、ただ、地金や硬貨や銀行券や手形や有価証券が現れるだけだからである。ことに、国内の貨幣取引の全部が集中する中心地、たとえばロンドンでは、このような転倒が現れる。全課程がわけのわからないものになる。生産の中心地ではそれほどでもないのであるが。」(大月版『資本論』⑤ P627)、と。

 これらを含め、マルクスの「産業循環」と「恐慌」についての考えを整理すると、概ね次のようになります。

 マルクスは、「産業循環」について、固定資本の耐用年数、「産業予備軍または過剰人口の不断の形成、その大なり小なりの吸収、さらにその再形成」、資本の流通期間の短縮と延期、利子率の変化等が景気の拡大と縮小の原因となり、このような資本主義的生産の様々な原因と結果が影響し合って、周期性をもった循環運動が形成されると考えています。そして、マルクスは、「信用制度と経済恐慌との相互連関について」、「すでに、50年代の初頭に一定のイメージを得て」おり、この、思惑と投機によって「繁栄期」に増幅された、「産業循環」の最後に起こる「恐慌」は、「一見したところでは、全恐慌がただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現われる」が、しかし、信用の「多くは現実の売買を表しているのであって、この売買が社会的な必要をはるかに超えて膨張することが結局は全恐慌の基礎になっている」ことを明らかにしました。マルクスの時代には、企業の資金ショートを防ぐ施策も製品在庫を管理する技術もなかったので、「産業循環」の最後に「恐慌」が起きた。だからマルクス・エンゲルスは、景気循環が労働者階級の団結を促し、「恐慌」が社会変革の「槓杆」の一つと位置づけました。不破さんは、これを歪曲して、「マルクスの『恐慌=革命』説」なるものを創作しました。

 そして、「恐慌は、つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかない」(大月版『資本論』④ P312)、とマルクスは言います。では、どのようにして「攪乱された均衡を一時的に回復する」のか。「では、どのようにしてこの衝突が再び解消して、資本主義的生産の「健全な」運動に対応する諸関係が回復するであろうか?」「均衡は、大なり小なりの範囲での資本の遊休によって、または破滅によってさえも、回復する」「主要な破壊、しかも最も急激な性質のものは、価値属性をもつかぎりでの資本に関して、資本価値に関して、生ずるであろう。…金銀の現金の一部分は遊休し、資本として機能しない。…この攪乱や停滞は、…資本と同時に発展した信用制度の崩壊が生ずることによってさらに激化され、このようにして、激烈な急性的恐慌、突然のむりやりな減価、そして再生産過程の現実の停滞と攪乱、したがってまた再生産の現実の減少をひき起こすのである。」「生産の停滞は労働者階級の一部分を遊休させ、そうすることによってその就労部分を、平均以下にさえもの労賃引下げに甘んぜざるをえないような状態に置いたであろう。…繁栄期は労働者のあいだの結婚に幸いし、また子女の大量死亡を軽減したであろう。…価格低下と競争戦とはどの資本家にも刺激を与えて、…自分の総生産物の個別的価値をその一般的価値よりも低くしようとさせたであろう。…労働の生産力を高くし、不変資本にたいする可変資本の割合を低くし、…充用される不変資本の量は可変資本に比べて増大したであろうが、しかしこの不変資本量の価値は低下したかもしれない。そこに現れた生産の停滞は、後の生産拡大──資本主義的限界のなかでの──を準備したであろう。……資本の過剰生産というのは、資本として機能できる、すなわち与えられた搾取度での労働の搾取に充用できる生産手段──労働手段および生活手段──の過剰生産以外のなにものでもない。……労働者の過剰人口が過剰資本によって充用されないのは、それが労働の低い搾取度でしか充用できないからであり、また少なくとも、与えられた搾取度のもとでそれが与えるであろう利潤率が低いからである。」(大月版『資本論』④ P317B1-321F5)

 このように、「恐慌」によって、「資本主義的生産の「健全な」運動に対応する諸関係が回復する」。しかしそれは、「恐慌は、つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかない」。不破さんのように、「恐慌」のあとバラ色の資本主義がはじまるなどとは、マルクスは見ていない。

※「恐慌」についてのマルクスの考えは、ホームページの5「温故知新」→「1マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「F資本主義社会Ⅳ」をご覧下さい。/不破さんの「マルクスの『恐慌=革命』説」についての詳しい説明は、及び「『恐慌』のあとバラ色の資本主義がはじまる」と見る不破さんの「恐慌」の捉え方については、ホームページの4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」をお読み下さい。また、マルクスの「恐慌」の捉え方について著作の抜粋もこのページに収録してありまます。

経済産業省

現代の世界経済

 戦後の世界経済、そして1970年代以降現在に至るまでの資本の運動を見ていると、次のマルクスの洞察力には驚かされるばかりです。

 「現実資本すなわち生産資本および商品資本の蓄積については、輸出入統計が一つの尺度を与える。そして、いつでもそこに示されているのは、10年の循環周期で運動するイギリス産業の発展期(1815-1870年)のあいだは、いつでも、恐慌の前の最後の繁栄期の最高限が、次にくる繁栄期の最低限として再現し、それからまたそれよりもずっと高い新たな最高限に上がって行くということである。……{このことはイギリスについては言うまでもなくただ事実上の産業独占の時代だけにあてはまる。しかし、世界市場がまだ膨張を続けているあいだは、一般に、すべての近代的大工業国にあてはまるのである。}」(大月版『資本論』⑤ P641F3-642F6)

 戦後の世界経済は、企業の資金ショートを防ぐ施策もなく、企業が製品在庫を管理する技術もなかったマルクスの時代と違って、国家と企業が経済をコントロールする能力が向上しシステムが整ったことによって、資本主義の宿命である景気循環をなくすことはできないが、危機的な「恐慌」は回避することができるようになり、資本主義が我が世の春を謳歌する「資本主義の黄金時代」といわれるような時期が先進資本主義諸国に訪れることとなりました。これは、マルクスが言うように、先進資本主義諸国を中心とする「世界市場がまだ膨張を続けてい」たからです。

 しかし、1970年代に入り、先進資本主義諸国は成長の伸びしろがなくなり、新たな成長の場が必要となり、グローバル資本は新興国への投資によってその活路を見いだします。その結果、先進資本主義諸国の「産業の空洞化」が進みますが、グローバル資本にとっては、新興国という「世界市場がまだ膨張を続けているあいだは」、その恩恵を享受することができます。けれども、そのことによって、本来、「産業の空洞化」が起きた先進資本主義諸国では、国民とグローバル資本との対立が起きて然るべきですが、残念ながら、ミネルバの梟はまだ眠っているようです。特に「産業の空洞化」により社会経済システム全般が危機的な状況にある日本の「ミネルバの梟」は爆睡中です。

 もちろん、イギリスやEUでも、屈折したかたちで国民の胎動が起きており、特に興味を引くのは米国のトランプ大統領の対外経済政策です。

 米国がどこに向かおうとしているのか、まずはじめに、米国大統領選挙のときの、クリントン、サンダース及びトランプの経済政策を見てみましょう。

 サンダース氏は、民主党大統領選挙予備選中のワシントン・ジョージタウン大学での演説で、「労働者が雇用を失う一方で企業の利潤が拡大するような通商政策を実施したりすべきではない。」と言い、演説の結びでは、「次に私が社会主義者だと攻撃されるのを聞いたら、以下のことを思い出してほしい。 私は政府が生産手段を所有すべきだとは考えていないが、米国の富を生みだす中産階級と労働者世帯には相応の配分があってしかるべきだ。 私は雇用を海外に移出し、利益を上げるのではなく、米国内で努力し、投資し、成長するような私企業を信じる。 私が大統領に立候補しているのは、自分の番だからではない。一部の人でも少数の人でもなく、全ての人に希望とチャンスがある国に住む私たちすべての番だからだ。」(2016年4月16日付け『赤旗』)と述べ、「私企業」の善意を「信じ」る人の良さをもって、遠慮しながら、グローバル資本を批判し、公平な分配だけでなく、「雇用を海外に移出し、利益を上げるのではなく、米国内で努力し、投資し、成長するような」企業活動が米国にとって不可欠なものであることを主張しています。

 そして、『日経新聞』(2016年8月28日)の「日曜に考える」というコーナーによれば、「ハーバード大が全米の18~29歳の若者を対象に今春実施した世論調査では、51%が『資本主義を支持せず』と答えた。民主党の大統領候補選びでは『民主社会主義者』を名乗るサンダース上院議員が若者から熱狂的な支持を集めた」とのことであるが、サンダース氏は、残念ながら、民主党の厚い壁に阻まれて本選にはでられなかった。

 クリントン氏とトランプの経済政策の違いは、2016年9月26日に行われた米国大統領候補の第1回テレビ討論会での両氏の主張によく現れています。

 討論は、クリントン氏が「最低賃金を引き上げ、インフラや先端技術、再生エネルギーへの投資で一千万人の雇用を創出する」と「再生エネルギーへの投資」を除けばアベノミクスの「三本の矢」の三本目の矢と同様なもので、絵に書いた餅の万年政策を述べるだけだったのに対し、トランプ氏は、オハイオ州、ペンシルベニア州等具体的な地域をあげて産業空洞化の深刻さを指摘し、企業が海外に流出し雇用が海外に盗まれていることを述べ、「連邦法人税率を35%から15%に下げ、海外に流出した企業や雇用を取り戻す」ことを訴え、TPPについて「雇用が盗まれるような貿易協定は再交渉が必要」との主張をし、TPP反対をクリントン氏が言い始めたのはトランプ氏の影響によるものだとクリントン氏に迫りました。TPPについてのクリントン氏の反論は、自分の判断で反対を決めたことを述べ、同時に貿易の必要性も強調するというものでした。

 このクリントン氏とトランプ氏の討論終了後行われたCNNのコメンテーター各氏による討論の大方の結論は、最初(経済政策)はトランプ氏が優位で、後半(外交等)はクリントン氏が優位というものでしたが、私も、テレビを見ていて、経済に関してはトランプ氏が優位に討論を進めたとの感想をもちました。

 そして、大統領になったトランプ氏は、中国を主たるターゲットに①貿易赤字の解消、そのための高率関税の賦課②技術移転の拒否③先端的・戦略的技術への国家の支援の抑制、の三点セットの要求を主張しています。

 このトランプ氏の要求は、米国のすべての「資本」の要求に応えようとするものです。①はグローバル資本のように海外に出ていくことのできない資本のための要求ですが、グローバル資本にとっての「新たな成長の場」を狭めるもので、資本主義的経済成長にとっては足かせとなるものです。②と③は、グローバル資本が海外(特に、新興国)で半永久的に儲け続けるための要求です。だから、②と③については、米国・英国・EU・日本の経済関係閣僚は一致した見解を表明しています。なお③について、米国も軍事関係予算から民間企業に多額の援助を行っていることは、周知に事実です。②と③については、新興諸国は中国を孤立化させることなく一致して先進諸国に認めさせるべきです。

 このように、トランプ氏の要求は、現代の資本主義を非常にわかりやすく示しています。私たちは、各国人民が公正な利益・豊かさを得られるような国際秩序の構築とそれを歪めるグローバル資本の海外での活動と自国における「産業の空洞化」を抑止するために、世界経済の今をしっかり見る目を培うことが大切です。

※クリントン氏、サンダース氏及びトランプ氏が写し出す現代の姿をより詳しく解明したホームページ「適時論題」→「6-2『時事問題』の紹介」→「20第1回大統領候補テレビ討論中継でCNNが伝えたことと、日本のマスコミが報道したこと」及び「21 米国の歴史を一歩前に進めたトランプ」を、是非、ご参照下さい。同時に、グローバル資本の民主的規制等国際社会との係わり方ついての詳しい解明は、ホームページ「2パラダイムシフト」→「2-5 国際社会とどう向き合うか」を、是非、ご参照下さい。

今日の「景気循環」について

 これらを踏まえ、今日の資本主義的生産様式における経済の「景気循環」を見ると、概ね次のようになります。

 今日の資本主義的生産様式の社会も、生産力が社会の必要を満たすように有効に使われず、生産の無政府性と資本の自由な移動がおこなわれることによって、経済は山あり谷ありの景気の循環をもって進行しています。その「循環」の起点となるのは景気後退後の減価された生産手段と安くなった労働力を使っての実物経済の動きであることはマルクスの時代の産業循環と変わりません。実物経済の動きに合わせ、実物経済の動きに遅行して、利子が変動します。利子の変動に遅行して土地・株式等の投機的商品の価格が変動します。この過程で、資本主義にひれ伏し、経済学の仕事は需要をつくることだなどと言う竹中平蔵氏のような輩が、どうしたら経済を膨らませることができるか、その中で自分たちがどうしたら儲けることができるか、一生懸命知恵をしぼり、バブルを演出します。そして、最後に、投機対象の商品が何らかのきっかけで暴落するバブル崩壊で、景気循環は一巡します。しかし、その根底にあるのは実物経済での生産に対する消費の過小と利潤率の低下です。利潤率はバブル崩壊によって回復しますが、景気循環を繰り返すなかで傾向的に低下し、それに伴って経済成長率も低下していきます。

 マルクスが『資本論』を書いた時代は一般的に生産と販売は分離しており、商人資本は生産的資本から「すでに買ったものを最終的に売ってしまわないうちに、自分の買い入れを繰り返すこと」によって、「ある仮想的な需要がつくりだされる」ことが一般的でした。

 しかし現代のグローバル資本は生産から販売までの商品の流れをほぼ完全につかみ、コントロールしています。だから、生産と販売の分離による「仮想的な需要」に起因する恐慌の可能性は極めて少ないといえます。今日、「仮想的」な経済の拡大をもたらす「槓杆」は、景気拡大期の楽天性にともなう「時価会計」と「資産デフレ」とそれらを活用した「金融商品」です。「時価会計」を利用しての錬金術の典型は「エンロン事件」であり、「資産デフレ」と「信用」を利用しての錬金術の典型は「サブプライムローン」で、「サブプライムローン」を構成要素とする「金融商品」が破綻したのが、リーマン・ショックです。

 これが、今日の「概ね」の「景気循環」の姿です。

これらを「頭において」、『資本論』第二部を学ぼう

私たちは、不破さんの、資本主義的生産の諸法則の作用全体の中で「恐慌」を捉えようとしない、自ら創作した「恐慌の運動論」なるものにかこつけて、自らの資本主義観を正当化するための「大発見」の刷り込みを「頭におく」のではなく、現代のグローバル資本の行動と現代の景気循環の有り様を「頭において」、『資本論』第二部で述べられている資本の変転と運動の理論を学び、現代の資本主義を正しく理解しましょう。

エンゲルスへの言いがかりとしか思えない不破さんの主張(P182-192)

 不破さんはエンゲルスを次のように批判します。

 マルクスが、「第二章 生産資本の循環」の草稿で、「W'-G'」という行為=生産資本にとっての「価値の実現」──たとえその生産物(商品)が消費者の手に渡らず、商人の手の中にあって、さらに流通しているとしても──が、資本主義的生産を進行させることを述べて、「〔これは〕恐慌の考察にさいして重要な一点。」と文章を結び、続けて「注」をつけて、この点に関するコメントの文章を書いているのに対し、エンゲルスがコメントの文章を「自己流に書き変えたうえ、本文に組み込んでしまった」。その結果、この文章は、「恐慌にいたる経済過程の説明ですが、なかなか趣旨の読み取りにくい部分となって」しまい、「マルクスがなぜ、ここでそこまで詳しく恐慌を論じたのか、その恐慌論の中身は何だったのか。おそらく多くの場合、その意味が理解されないまま、読みすごされてきた」と言います。そして、エンゲルスが「自己流に書き変えた」文章は、「経済循環の過程の叙述という平凡な文章に、性格を変えることになってしまったのです」と言って、エンゲルスを責め立てます。

 なお、新日本新書版の、上記の、「〔これは〕恐慌の考察にさいして重要な一点。」というぶっきらぼうな訳は、大月版では、「この点は、恐慌を考察する場合に重要である。」と訳され、続けて、「すなわち、……」と、大変スムーズにエンゲルスが「自己流に書き変えた」と不破さんが中傷した文章につながっており、「第二章」の守備範囲の中に違和感なく収まるように訳されています。

 不破さんの言いがかりに一つ一つこたえるのは、個人的には、あまり意味のない、時間と肉体を浪費し、モラアールの低下する作業ですが、不破さんのもっともらしい言いぶりに幻惑されている人も少なからずいるかもしれませんので、「不破さんのダマシのテクニック」の種明かしの一つとして、今後、皆さんが騙されないために、「自由な時間」を「浪費」して、自らを叱咤激励して書きましたので、是非、お読み下さい。(愚痴を言ってすみません。)

 まずはじめに確認しておきたいのは、この章は、「第二章 生産資本の循環」というテーマの章だということです。そして、このマルクスの文章が、「〔これは〕恐慌の考察にさいして重要な一点。」という「未完」の、マルクスの「草稿」のもつ「荒削りの形態」で終わっており、その説明のための仕上げが必要だったということです。そして、エンゲルスはその仕事を忠実に、完璧にやりぬきました。

 不破さんは、マルクスが「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明すること」として述べている文章に、「恐慌の新しい運動論」(P185)というレッテルを貼って、その構成要素を、①「流通過程の短縮」②「経済循環の全過程の追跡」③「世界市場と信用の問題」の三つに分けていますが、エンゲルスが「自己流に書き変えた」という文章は、不破さんの言う②の部分、つまり、「生産資本の循環」と「恐慌」との関係を述べた部分です。

 不破さんは、マルクスが、「第二章 生産資本の循環」の草稿で、「W'-G'」という行為(=生産資本にとっての「価値の実現」)が、資本主義的生産を進行させることを述べて、「〔これは〕恐慌の考察にさいして重要な一点。」と文章を結び、続けて「注」をつけて、この点に関するコメントの文章を書いていることを述べているのですから、不破さん自身も「注」記れた文章が「この点に関するコメントの文章」であることを認めているわけです。ですから、エンゲルスが、「〔これは〕恐慌の考察にさいして重要な一点」という「未完」の文章を引き継ぎ、そのあとに、「この点に関するコメントの文章」を「重要な一点」の内容を説明する文章としてシームレスにつないだことは、何の問題もない、適切な編集だったことは明らかです。

 そして、不破さんは、「経済循環の過程の叙述という平凡な文章に、性格を変えることになってしまったのです」とエンゲルスを責め立てますが、この章は「第二章 生産資本の循環」について論及するところで、「恐慌論」を本格的に展開する場ではないのですから、当然のことで、エンゲルスを責める理由にはなりません。不破さんは、「恐慌論が突然登場」したとエンゲルスを責め、マルクスの「注」記の範囲にとどめると、今度は、「恐慌論」を本格的に展開していないと責めるのです。困ったものです。

 また不破さんは、エンゲルスがマルクスの「注」記の文章を「自己流に書き変えたうえ、本文に組み込んでしまった」ために、「恐慌にいたる経済過程の説明ですが、なかなか趣旨の読み取りにくい部分となっています」とか「おそらく多くの場合、その意味が理解されないまま、読みすごされてきた部分だったのではないでしょうか」とか言っていますが、皆さんが直接『資本論』のこの箇所を読んでいただければ分かりますが、私程度の頭の持ち主でも分かる『資本論』の中では普通の文章です。だから、これらの不破さんの言い分は、マルクスとエンゲルスを陥れるためのデマか、本当にそう思っているのであれば、残念ながら、不破さんの知能が相当低下しているということになるのでしょうか。私には、これほど巧妙な文章を操る不破さんが、知能が低下しているとは思えません。だからよけい、不破さんのこのような態度は残念でなりません。

「第二章 生産資本の循環」の守備範囲を守ったエンゲルス

 さてそれでは、エンゲルスが「自己流に書き変えたうえ、本文に組み込んでしまった」と不破さんが言う文章を見てみましょう。

 エンゲルスはマルクスの文章「(資本の再生産過程は、商品が──青山補筆)現実には消費にはいっていなくても、ある範囲内では──というのは、一定の限界を超えると、市場の供給過剰と、そしてそれにともなう再生産過程自体の停滞が起こるであろうから──拡大された規模ないし同じ規模で進行することができるのである。」から、ブルーの部分を削除し、この文の前後に、〝商品総量は直接の買い手である「他の産業資本家たち」と「卸売商人」の需要によって決まること〟と〝生産物が販売される限り、資本の再生産過程は中断されないこと〟とを詳しく述べた文章を挿入しました。

 それではなぜエンゲルスは「というのは、一定の限界を超えると、市場の供給過剰と、そしてそれにともなう再生産過程自体の停滞が起こるであろうから」という文章を削ったのでしょうか。それは、その後で、削除した内容が具体的に書かれているからです。そして、前後に文章を挿入したのは、具体的に補筆することによって、内容を理解しやすくするためです。どちらが、理解しやすいか、是非、読み比べて下さい。

 「その意味を理解できず」、「読みすごしてきた」不破さんには、どちらが理解しやすいか、理解することは無理かも知れませんが、皆さんは、そういう人(=「その意味を理解できず」、「読みすごしてきた」人)が書いた『資本論』の解説を読んでいるのだということを、くれぐれも忘れないで下さい。

 このような(=「その意味を理解できず」、「読みすごしてきた」)不破さんなので、そしてまた、二一世紀になって、マルクスが生きた時代の恐慌をマルクスが「資本の現象的な流通形態から説明すること」から、「流通過程の短縮」と価値実現の「架空の軌道」による「架空の需要」が経済を拡大させ、恐慌をより一層深刻なものにさせることを知り、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたという、何かのきっかけによって「『資本論』の解釈」を「まったく違った」ものにしてしまう不破さんなので、責めることはできないのかもしれませんが、2003年にはマルクスが書いたものと思っていた文章がエンゲルスによる加筆・編集だと分かると、「前回の解釈で訂正すべきところが大きく出てきました」(P190)と「前回の解釈」を「訂正」すると言うのです。同じ文章の意味がころころ変わり、その都度もっともらしいことを言う不破さんの著作を信じて読んでいる人、読まされる人、そのような不破さんに指導されている人は、ほんとうに可哀想でなりません。

不破さんと、「ああいえば、上祐」

 ちょっと話は前後しますが、私は、エンゲルスの「第二章 生産資本の循環」の編集を、「その仕事を忠実に、完璧にやりぬきました」と評価しましたが、不破さんは、「エンゲルスの編集上の誤解から、『生産資本の循環』の章が、恐慌論が突然登場する舞台になってしまったのでした」(P184)と、エンゲルスを批判していました。けれども、今度は、この章の最後で不破さんは、「誤解からにせよ、マルクスの文章を正確に紹介すれば」よかったのに、「マルクスの新しい恐慌論の紹介とはとても言えない、残念な結果に終わったのでした」とエンゲルスを責めます。先ほど見てきたように、エンゲルスは「第二章」の「生産資本の循環」という守備範囲の中に「恐慌」が収まるように編集したのに、「恐慌論が突然登場する舞台になってしまった」とエンゲルスを批判し、今度は、「恐慌論」を展開する場ではない「第二章」で「恐慌論」を展開しろと、不破さんは言う。昔、「ああいえば、上祐」という詭弁を弄す悪い人がいましたが、不破さんは、「第二章」が「生産資本の循環」の章であることを全く理解していないようです。

 この不破さんの行為が、「ヤクザ」の「いちゃもん」のように見えるのは、①「流通過程の短縮」と②「経済循環の全過程の追跡」については、第三部の商人資本のところで、「詳細に解明されています」と不破さん自身が認めているからです。そして滑稽なのは、あれだけエンゲルスに厳しい態度で臨んだ不破さんが、③「世界市場と信用の問題」については、「本格的に論じる機会はなかったようで」、「今後の研究課題が大きく残されることになり」、「具体的な展開は今後の問題となります」と、他人ごとのように言っていることです。これだから、リーマン・ショックについても、「『架空の需要』にもとづく生産の無制限的拡大とその破綻という過程が典型的に現われていた」などとトンチンカンなことを言い、グローバル資本による「産業の空洞化」についても、われ関せずで、「賃金が上がれば、経済はよくなる」と言って平然としていられるのでしょう。不破さん自身は「滑稽」だが、その影響下にいる「党員」にとっては、たまったものではありません。

信用制度と世界市場の核心を摑むことのできない不破さん

 なお、「世界市場と信用の問題」については、「本格的に論じる機会はなかったようで」などと言うのも、『資本論』の解説者としては無責任ではないでしょうか。私は、このホームページの「その1」で、マルクスが「信用制度と経済恐慌との相互連関について」、「すでに、50年代の初頭に一定のイメージを得て」(マルクス『受救貧困と自由貿易──迫りくる経済恐慌』)いたことを述べましたが、マルクスは、「第三部 第一篇 第六章 第二節」の冒頭で次のように述べています。

 「われわれがこの章(第六章 価格変動の影響──青山加筆)で研究する諸現象は、その十分な展開のためには、信用制度と世界市場での競争とを前提するのであって、この世界市場こそは一般に資本主義的生産様式の基礎をなしその生活環境をなしているのである。しかし、これらの資本主義的生産のいっそう具体的な諸形態を包括的に叙述するということは、資本の一般的な性質を把握してからはじめてできることである。しかも、このような諸形態の叙述はこの著作の計画外のことであって、もし続巻ができればそれに属することである。」(大月版『資本論』Ⅲ④ P140F2-6)、と。

 そしてマルクスは、1858年の時点で、『経済学批判』の体系を、資本・土地所有・賃労働の前半3部と国家・外国貿易・世界市場の後半3部からなるプランを持っており、『資本論』の続編においても、「世界市場と恐慌」を論じる予定でしたが、残念ながら、その望みは果たすことができませんでした。マルクスには、残念ながら、本格的に論じる「機会」がなかったのではなく「時間」がなかったのです。

 不破さんは、「世界市場と信用の問題」については、「本格的に論じる機会はなかったようで」などと言っていますが、マルクスは「世界市場と信用の問題」について、その生涯にわたる研究から、『資本論』の中で、「信用制度は資本主義的生産様式を最高最終の形態まで発展させる推進力」であること、「世界市場こそは一般に資本主義的生産様式の基礎をなしその生活環境をなしている」ことを、私たちに教えています。これは大変重要なことです。不破さんが発見した、「架空の需要=恐慌」という矮小化された「新しい恐慌論」の誤りを、このマルクスの「世界市場」と「信用制度」の捉え方は、私たちに教えてくれます。皆さんもこれらの言葉と、いま世界と日本で起きていることをつなぎ合わせて熟考してみて下さい。このことが不破さんには理解できないから、「世界市場と信用の問題」については、「本格的に論じる機会はなかったようで」などと言うだけで、リーマン・ショックについて、「『架空の需要』にもとづく生産の無制限的拡大とその破綻という過程が典型的に現われていた」とトンチンカンなことを言い、グローバル資本による「産業の空洞化」についても、われ関せずで、「賃金が上がれば、経済はよくなる」などと言って平然としていられるのです。

※リーマン・ショックについての認識の不破さんの誤りについては、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、マルクスの「信用制度」の捉え方については、ホームページ「5温故知新」→「1マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「E、資本主義社会Ⅲ」を、マルクスの「世界市場」の捉え方については、ホームページ「F、世界市場・恐慌」を、是非、参照して下さい。

研究の「幅」と「柔軟性」という不破さんの「通俗性」(P199-200)

 不破さんは、「第九章」の解説で、「マルクスが、重大な発見(固定資本の耐用年数の平均的な長さが、恐慌の周期性の一つの物質的基礎をなすという発見──青山補筆)をしながら、それが周期性の唯一の根拠ではなく、多くのありうる『規定的根拠』のなかの『一つ』だということを、この時期(1857~8年頃──青山補筆)にも、また現行『資本論』のなかでも、くりかえし指摘していることは、重要な点です。現代の世界と日本での恐慌を考える場合にも、そういう研究の幅が必要だからです。」(P199)と述べています。

 不破さんは、「第二章」では、正常に行われている「生産資本の循環」のなかに「恐慌」の原因が隠されていることから「恐慌」の起こり方に触れたエンゲルスの編集を、「恐慌論の突然の登場」と言って非難しましたが、今度は、固定資本の耐用年数の平均的な長さが「恐慌」の周期性の一つの物質的基礎をなし、「恐慌」が前貸資本の「回転循環のための一つの新たな物質的基礎をつくり出す」として、前貸資本の回転循環のなかに「恐慌」が出てきても、「恐慌論」が出てきたなどとは言いません。マルクスの「研究の幅」をほめるばかりです。

 しかし、ここに不破さんの真骨頂があります。「重要な点」は「研究の幅」にあるのではありません。「重要な点」は、マルクスの〝研究方法〟と〝研究成果〟にあります。その〝研究方法〟とは、資本と資本主義的生産様式をトータルに捉えて、恐慌の構成要素、恐慌の物質的基礎を全面的に明らかにするということです。そして〝研究成果〟とは、固定資本の耐用年数の平均的な長さが、恐慌の周期性の一つの物質的基礎をなし、恐慌が前貸資本の回転循環のための一つの新たな物質的基礎をつくり出すという発見のことです。そして、ここで不破さんが、「恐慌論」なる言葉を持ちださず、「研究の幅」をほめるのは、不破さんが発見した「架空の需要=恐慌」という矮小化された「新しい恐慌論」をマルクスがここで否定していることを見えにくくするためなのかも知れません。

 「マルクスの目」とか、「科学的社会主義」とかを、軽々しく、自分の考えと同一視する人が、「現代の世界と日本での恐慌を考える場合」に「研究の幅が必要だ」などと、非マルクス的なことを言っていたのでは、〝科学的社会主義〟の進歩など到底見込めません。不破さんは、この本の31ページから32ページで、マルクスを見下すような態度で、「マルクスの研究と叙述の弁証法」について述べていた言葉を、すっかり忘れ、捨て去ってしまったようです。

 同様に不破さんの非科学性、非マルクス性を示す文章が、同じページにありますので紹介します。

 不破さんは、「『循環の周期はしだいに短縮されるであろう』というマルクスのこの時の結論は、的確なものではありませんでした。しかし、恐慌の周期と固定資本の回転期間との関係で重大な発見をおこないながら、それを絶対化しないでいくつかの『規定的諸根拠』の一つとして扱い、周期そのものについても、歴史のなかで変化が起こりうるものとしたマルクスの思考の柔軟性は、現代の恐慌を考えるうえで、心に刻んでおくべきことだと思います。」(P199-200)と述べて、「第九章」の解説を結んでいます。

 まず第一に、「『循環の周期はしだいに短縮されるであろう』というマルクスのこの時の結論は、的確なものではありませんでした」と、不破さんはマルクスの非を責めますが、この文章には三つの誤りがあります。まず、一つは、不破さんの解説の仕方です。不破さんの特徴の一つに理由や根拠を示さずに断言するという性癖がありますが、「的確なものではありません」と非難する以上、その論拠を示すべきです。そうでなければ、読者は納得して理解することができません。読者の知的後退を招くような解説は正しくありません。二つ目は、不破さんは突然フランス語版からの書き込みを持ち出して、「この時の結論」などと言っていますが、固定資本の回転循環の期間については、「固定資本の発達」によってその期間が長くなり、同時に、「不断の変革」によって短縮されることが、不破さんが196ページに抜粋した文章の前に書かれており、不破さんが抜粋した文章の「……」の部分には、「とはいえ、ここでは特定の年数が問題なのではない。」ことが述べられています。だから、「この時の結論」でも何でもなく、『資本論』を読んでいない人に誤った印象を与えるだけです。そして三つ目は、設備投資に主導された4年程度の景気循環の波があることからも、不破さんの「結論」は正しとはいえません。景気循環の周期は、より生産効率を上げたい、好景気をなるべく長く続けたい、「恐慌」は避けたい、そして、儲けられるときにできる限り儲けたいという資本の思惑のなかで、「周期」に係わる相矛盾する要素が複雑に絡み合って周期の長さを決まっていきます。だから、どの要素がそれぞれの時代で重視されるかによって周期の長さも決まっていきます。「より生産効率を上げたい」と思って「不断の変革」を一層進めれば周期は短縮されます。不破さんは、唐突に、「『循環の周期はしだいに短縮されるであろう』というマルクスのこの時の結論は、的確なものではありませんでした」などと言って、『資本論』を読んでいない人に誤った印象を与えるのではなく、「周期」の長さについて言いたいのであれば、私がいま述べたようなことを言えばいいと思います。不破さんが、十分、偉大なことは分かっているのですから。

 さて、本題に戻って、先ほど示した文章のどのような点が、不破さんの非科学性、非マルクス性を示すものなのか、いっしょに見てみましょう。

 不破さんが196ページに抜粋した文章から、私たちが学ぶべきことは、「マルクスの思考の柔軟性」などではなく、固定資本の耐用年数の平均的な長さが恐慌の周期性の一つの物質的基礎をなし、恐慌が前貸資本の回転循環のための一つの新たな物質的基礎をつくり出すという、「恐慌」と「資本の回転循環」との相互作用を含む資本と資本主義的生産様式のダイナミックでトータルな姿をつかむことと、そのような真実を摑むためのマルクス・エンゲルス・レーニン主義=科学的社会主義の方法論を会得することです。

 そして、私たちが、この『資本論』の文章から「現代の恐慌を考えるうえで、心に刻んでおくべきこと」、学ぶべきことは、「絶対化しない」「変化が起こりうるもの」とする「マルクスの思考の柔軟性」なる似非「科学的社会主義」などではありません。

 日本は90年代初めのバブル崩壊以降、ここに書かれているような、多少なりとも労働者の生活向上をもたらすような、資本主義的生産様式における「正常な」「資本の回転循環」はおこなわれてきませんでした。それは、バブルが崩壊しても「前貸資本の回転循環のための一つの新たな物質的基礎をつくり出す」ことがなかったし、「固定資本の耐用年数の平均的な長さが恐慌の周期性の一つの物質的基礎」をなすような固定資本の拡大再生産がなかったからです。グローバル資本は海外の景気がどんなによくても、過去最高の利益を上げても、日本国内における設備投資を、基本的には、現在の設備の維持のための投資に抑えてきました。その結果、白井さゆり氏(前日本銀行政策委員会審議委員)のような真面目な資本主義経済学者たちは、日本経済の先行きに希望を見いだすことができないことを素直に告白しています。私たちは、『資本論』のこの文章から学び、上記のことを理解して、グローバル資本のコントロールの必要性を、100回でも、1000回でも、国民に訴え続けなければなりません。

 不破さんの「マルクスの思考の柔軟性」なる似非「科学的社会主義」にだまされて、資本主義を正しく見ることができなくなり、グローバル資本による日本経済の空洞化に目をふさぎ、「賃金が上がれば経済はよくなる」などと言っていたのでは、社会の危機が深刻化したとき、「九条を守れ」という平和の声などその対抗軸になりえなくなる、そんな社会の状況が近づきつつあることを、ヨーロッパと米国の政治状況が私たちに静かに語りかけているのではないだろうか。

※白井さゆり氏の考えについては、ホームページ「適時論題」→「『書籍等の評論』の紹介」→「白井さゆり氏の『東京五輪後の日本経済』をテキストに「日本経済の構造問題」を考える」を、是非、お読み下さい。

「第一五章」を〝マルクスの失敗〟例にする不破さんの『資本論』の読み方(P200-203)

 不破さんは、「第一五章 回転期間が資本前貸の大きさに及ぼす影響」でマルクスは「資本の通常の運動の過程そのものに『資本の過多』を引き起こす一つの根源があるという角度から」論証を行ったが、「失敗」したとして、この章の解説の結びで、次のように述べています。

 「だが、マルクスのこの論証には大きな錯覚がありました。編集したエンゲルスも、この章のマルクスの論証には不安をもったようで、この章の『第四節 結論』の末尾にエンゲルス自身の一文を書きくわえ、論証過程に若干の訂正をくわえたものの、資本の回転のなかで遊離資本が周期的に生まれるというマルクスの結論そのものは正しいとしました。

 ただ、私の見解では、マルクスの論証も、そこに追記を書いたエンゲルスの論証も、誤っていました。マルクスが描いてみせた資本の回転の具体例とは、資本の周期的な遊離が生まれるような条件を設定したうえでの具体例であって、……すべての資本が回転を続ける具体例はいくらでもつくることができるのです。率直に言えば、〝マルクスにも失敗あり〟ということで、ここには、私たち後世の研究者を、ある意味でほっとさせる響きがあります。」、と。

「第一五章」でマルクスとエンゲルスは何を言っているのか 

 このことを頭において、「第一五章 回転期間が資本前貸の大きさに及ぼす影響」でマルクスは何を言っているのか見てみましょう。

 冒頭、「この章と次の第一六章では、回転期間が資本の価値増殖に及ぼす影響を取り扱う。」ことを述べ、「例」を使って、前貸資本の「一方の部分が生産資本として機能することは、他の部分が商品資本または貨幣資本の形態で本来の生産から引きあげられている」ことを示し、このような条件のもとでしか資本主義的生産は成り立たないことを述べ、「このことが見落とされるならば、総じて貨幣資本の意義も役割も見落とされてしまうのである。」と、「第一五章」と「第一六章」での「研究」の意義を明らかにしています。

 そして、「次にわれわれが研究しなければならないのは、回転期間の両部分──労働期間と流通期間──が等しいか、または労働期間が流通期間よりも長いか短いかによって、どのような回転上の相違が現れてくるのか、さらにまた、このことが貨幣資本形態での資本の拘束にどのように作用するかということである。」(大月版③P325)と「第一五章」での研究の方向を示しています。

 マルクスは、①労働期間が流通期間に等しい場合②労働期間が流通期間より長い場合③労働期間が流通期間より短い場合の三つのケースに分けて、貨幣資本形態での資本の拘束状況について調べ、①の場合には回転期間中に貨幣形態での資本の生産過程からの遊離はないこと②の場合には二回転目以降「労働期間-流通期間」の期間、流通期間分の資本が生産過程からの遊離していること、③の場合には、労働期間をaとし流通期間をna+bとすると、b=0の場合は貨幣形態での資本の生産過程からの遊離はなく、bが0でない場合はn回転目以降「a-b」の期間、b期間分の資本が生産過程からの遊離していることを、表を使って説明します。なお、大月版③の336ページの後ろから五行目以降の同ページの「労働期間」は「回転期間」の誤植として理解して読みましたが、誤植と思われる箇所は他にも幾つもありますが、マルクスの立場に立って理解しました。

 皆さんも、是非、「回転期間」を「労働期間」と「流通期間」に分けた進行表を作って確かめてみて下さい。

 これらを基礎として、「第四節 結論」では、回転期間に係わる様々なテーマが提起されます。

 まず、これまでの研究の結論として、「一年間に何回も回転する社会的流動資本の非常に大きな部分は、一年間の回転循環のなかで周期的に遊離資本の形態にあるであろう。」こと、そしてさらに、「この遊離した資本の大きさは、労働過程の大きさまたは生産の規模とともに、したがって一般に資本主義的生産の発展につれて、増大するということである。」(大月版③P343)と述べています。なお、ここまでの「結論」の中で、「B」として、②の場合と③の場合でbが0でない場合は、「総流動資本の一部分が第二回転以降はいつでも周期的に各労働期間の終わりに遊離する。」ことが述べられていますが、正確には、私が先ほど見てきたとおりだと思います。

「第一五章」を〝マルクスの失敗〟例にする不破さんの『資本論』解説

 そして、不破さんは、「第一五章」の解説の中心点として、前述のとおり上記の点を取り上げて、「マルクスが描いてみせた資本の回転の具体例とは、資本の周期的な遊離が生まれるような条件を設定したうえでの具体例であって、……すべての資本が回転を続ける具体例はいくらでもつくることができるのです。率直に言えば、〝マルクスにも失敗あり〟ということで、ここには、私たち後世の研究者を、ある意味でほっとさせる響きがあります。」と述べ、この点が「第一五章」のすべてででもあるかのようなミスリードを読者にして、「資本の遊離を生まない回転の具体例」として不破さんの『「資本論」全三部を読む』を参照するよう推奨しています。

 不破さんの『「資本論」全三部を読む』にどのような「具体例」が載っているのか、拝読しておりませんので分かりませんが、上記のとおり、マルクスとエンゲルスに対して共感的で前向きの読書態度で「第一五章」を読めば、マルクスとエンゲルスは私が補足した内容のことを述べていることは不破さんでも分かるはずです。不破さんの『「資本論」全三部を読む』の「第一五章」のところにどのようなことが書かれているのか分かりませんが、「第一五章」の解説の中心点として〝マルクスにも失敗あり〟などと言っている不破さんが書いた、『「資本論」全三部を読む』を読まされた読者は、不憫でなりません。

「第一五章」をさらに読み進んでいきましょう

 続けて、「第四節 結論」は、「このように単なる回転運動の機構によって遊離させられる貨幣資本は(固定資本の順次的還流によって遊離させられる貨幣資本や毎回の労働過程で可変資本として必要な貨幣資本と並んで)、信用制度が発達してくれば、重要な役割を演じなければならないのであり、また同時に信用制度の基礎の一つにならなければならないのである。」と述べて、「信用制度の基礎」に触れていることは重要です。

 なお、資本主義的生産の主たる商品は大量生産化された商品ですが、流通期間が短いほど資本の効率はよく、回転期間が短いほど資本の効率はよいので、資本主義的生産は、常に、その期間の短縮に努め、より高度な高額商品はそれだけ労働期間は長くなりますが、受注生産等により流通期間を極力短くし、資本効率の向上に努めます。

 つぎに「第四節 結論」は、「流通期間の短縮」により遊離した貨幣が増大し、生産拡大や金融市場の緩和をもたらし、「流通期間の延長」により金融市場の圧迫を引き起こすことを述べています。マルクスのこれらの分析は、景気の良し悪しによる「流通期間の短縮」や「流通期間の延長」が、景気循環の目鼻立ちをよくすることを示唆しています。

 最後に「第四節 結論」は、エンゲルスの「追記」で結ばれています。

 エンゲルスは、まず、『資本論』に、マルクスの「多くの計算例」のうち「最も簡単なものと算術的に正しいものだけを保存した。」ことを述べ、続いて、「このめんどうな計算の不確実な結果のために、マルクスは、一つの──私の見るところでは──事実上あまり重要でない事情を不当に重要視するようなことになってしまった。私が言うのは、彼が貨幣資本の『遊離』と呼んでいるもののことである。」(大月版③P348)と言う。

 先ほど見たように、「事実上あまり重要でない事情を不当に重要視するようなことになってしまった」のは、マルクスだけではありません。不破さんも同様でした。マルクスは「めんどうな計算の不確実な結果」のためかもしれませんが、不破さんは「自己顕示欲」からのように思われます。

 さて、話を戻すと、この章のここ(第四節)までの要点は、エンゲルスの「追記」のむすびの文章、「本文のなかで肝要なのは、一方では産業資本のかなり大きな一部分が絶えず貨幣形態で存在しなければならないが、他方ではそれよりももっと大きな部分が一時的に貨幣形態をとらなければならないということの指摘である。」ということです。そしてこの文章に続くエンゲルスの文章、「この指摘は、この私の追記によってはせいぜい補強されるだけのことである。」は、この章をめぐる、エンゲルスの優しさと不破さんの「自己顕示欲」の強さを際だたせるものとなっています。

 なお、私は、「第一五章」をはじめて読んだとき、マルクスは随分細かい計算表を書くもんだなと感心しながら読み、エンゲルスの「追記」を読んで、エンゲルスの苦労を推しはかるとともに、この章のここまでの要点の整理に「追記」が役立ったのを、思い出しました。

「価格変動」等が資本前貸の大きさに及ぼす影響について

 「第一五章」の最後の節は、「第五節 価格変動の影響」として、①流通期間が変わった場合②生産材料の価格が変動した場合③生産物そのものの市場価格が変動した場合、の資本前貸の大きさに及ぼす影響等について詳しく論究されています。

 私はこの節を読みながら、前FRB議長のイエレン氏が、なかなか物価が上がらない状況を「ミステリー」と評したことを思い出しました。

 一般的に物価は、生産性が向上すれば、下がります。物価が上がるのは、①生産性の向上を上回る強い需要②生産性の向上を上回る賃金の上昇③生産性の向上を上回る利潤率の上昇、の三つの要因によります。今注目されているのは、U6失業率という失業者の区分で、日本も米国も、U6失業率は8%前半だといわれており、日本にいたっては、潜在成長率が低いうえに、政府は需給ギャップがプラスに転じたと言いますが、需給ギャップは明確なプラスになっていません

 皆さんも、この節にインスパイアされて、これらのことを、是非、くわしく研究してみて下さい。

 「第一五章 回転期間が資本前貸の大きさに及ぼす影響」は、不破さんが、全体を見ることなく、「事実上あまり重要でない事情を不当に重要視するようなことになってしまった」ので、そのことを明らかにするために、やむを得ず、「第一五章」全体を大雑把に紹介いたしました。「第一六章」以降は、また、基本的に、不破さんの著作の中で、読者の皆さんに誤った認識を与える文章等に関して論評していきたいと思います。

仰天「桎梏」論への転落に導く不破さんの「理性」の混乱(P203-207)

 不破さんは、204ページから206ページにかけて、「社会的理性」と「祭りが終わってから」というマルクスの言葉を使って、不破さん独特の「思想」に私たちを導こうとしています。不破さんの文章はしっかり読むことが肝要です。なお、大月版では「祭りが終わってから」に係わる部分の「訳」は、「事後になってからはじめて発現することを常とする」となっています。

 まずはじめに、マルクスが「社会的理性」という言葉を通じて言い表していることは何か、「祭りが終わってから」という言葉を通じて言い表していることは何かを確認して、つぎに、不破さんが、「社会的理性」という言葉と「祭りが終わってから」という言葉を使って、如何にトンチンカンなことを言い、マルクスの思想を台無しにしているかを見てみましょう。

 マルクスの言う共産主義社会の「社会的理性」とは、生産手段を社会的所有にして、社会の発展を社会の構成員が望む方向に向かうよう、あらゆる資源を社会全体でコントロールする「社会的能力」のことです。そして、「社会的理性」が「事後になってからはじめて発現することを常とする資本主義社会」の「事後」=「祭りが終わってから」という言葉の意味は、「私的資本によって担われる社会的生産の成果が市場での競争の結果」として現れるという意味で、資本主義的生産様式の社会の「社会的理性」とは私的資本どうしの「市場での競争の結果」だということです。

 しかし不破さんは、このことがまったく理解できなかったようです。

 不破さんは、「政府が公共工事に熱を入れると、労働力がそちらに流れて、一番大事な東北災害地の復興が停滞をきたす──こうした〝社会的理性〟の欠落状態」と述べて、科学的社会主義の思想を「味噌もクソも一緒」のものに変えてしまいます。「東北災害地の復興が停滞をきた」しているのは、「政府が公共工事に熱を入れ」たからではありません。「産業の空洞化」という日本経済の構造問題があるなかで、政府があらゆる手段を使って全力で「東北の復興」にあたらないからです。前「共産党」委員長の不破さんが、「政府が公共工事に熱を入れ」たから、「東北災害地の復興が停滞をきた」したというのですから、驚きです。全国の自治体の「公共工事」が「東北の復興」の足を引っ張っているというのです。

 そして不破さんは、「資本主義社会における〝社会的理性〟の欠落」(=「利潤第一主義」)の例として、「地球温暖化」や「原発」をあげ、今回新たに、「日本の政府・財界の態度」も「その集中的な現れ」に加えました。不破さんは、これまで、「生産力と生産関係の矛盾が発展し、生産関係が生産力発展の『桎梏』になった」ことの一時的な現れである恐慌と、次元の違う「地球温暖化」や「原発」を同列にあつかい、「『桎梏』化」の現れと言い、「独自の理論」を展開してきましたが、ここでめでたく結びつきました。

 このような認識を持つ不破さんが、このような認識を持つ不破さんだからこそ言えるのでしょうが、この『資本論』から抜粋した文章について、「実は、『資本論』のなかでも、未来社会が『共産主義社会』というそのものズバリの名前で出てくる数少ない場所の一つです。そのことを頭において読むと、その味わいが一段と深くなるのではないでしょうか。」(P205)、と言っているのは滑稽です。不破さんは、自らの「うんちく」の広さをひけらかし『資本論』の「味わい」について語っていますが、科学的社会主義の思想の持ち主がここで語るべきことは、『資本論』の「味わい」などではなく、マルクスが明らかにした、共産主義社会の「社会的理性」と資本主義的生産様式の社会の「社会的理性」との違いなのです。大事なのは、くだらない「うんちく」を「頭において」「一段と深」い「味わい」に酔いしれたり、「うんちく」を自慢することではありません。不破さんのこれらの言葉の中に、不破さんの科学的社会主義の思想との向き合い方が非常によく現れています。不破さんが科学的社会主義の思想の伝道師であるならば、マルクスとエンゲルスが『資本論』のなかに記した資本主義社会のラディカルでリアルな姿を、読者が〝現実感〟をもって捉えられるように全身全霊を込めて補助すべきことなのです。『資本論』は、不破さんが池波正太郎を読むように、「味わい」を楽しむものではありません。私たちは、『資本論』を、自己顕示欲の強い評論家によって、共産主義社会の「社会的理性」と資本主義的生産様式の社会の「社会的理性」との質的な差異を意識的に混同させるための道具にさせてはなりません。

※不破さんの「地球温暖化」や「原発」の「桎梏化」論についての詳しい説明は、ホームページ4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」参照して下さい。

私の「古典」の読み方

 206~207ページに、エンゲルスの「草稿」の「写し違い」により、「いままで意味のとりにくかった箇所」があるとの注釈付きで、「恐慌論にかかわる論及で、見逃せない箇所」として、マルクスが、資本主義的生産における「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」について「論及」した文章が掲載されています。

 ちょっとわき道にそれますが、この資本主義的生産の矛盾について、マルクスは、『資本論』第3巻 第1分冊(大月『資本論』 ④ P306-7)で、?「社会の消費力は、さらに蓄積への欲求によって、すなわち資本の増大と拡大された規模での剰余価値生産とへの欲求によって、制限されている。これこそは資本主義的生産にとっての法則」であり、資本主義的生産には「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」があることを述べています。また、『剰余価値学説史』Ⅲ(レキシコン⑦-[137]P251)では、?「一方では、生産力の無拘束な発展、および、同時に諸商品から成っていて現金化されなければならない富の増加、他方では、基礎(グルントラーゲ)として、必需品への生産者大衆の制限、という基本的矛盾」と言っています。私はこの矛盾のことを「マルクスのいう『基本的矛盾』」と言っています。

 そして、資本主義的生産様式には、もう一つ、大きな矛盾があります。資本主義的生産様式は、「社会的生産」と「取得の資本主義的形態」とが一体となって構成されており、「取得の資本主義的形態」を自由にさせれば、「生産の社会的性格」は歪められ生産者自体を貧困に陥れ、「生産の社会的性格」をすべての社会の成員の豊かな生活のために発展させようとすれば、「取得の資本主義的形態」は影を潜めなければなりません。両者は、あい対立し、矛盾しており、「社会的生産」と「取得の資本主義的形態」とは、資本主義的生産様式の矛盾の根源をなしています。エンゲルスは、この「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態」を資本主義的生産様式の「根本矛盾」といっているので、私は「エンゲルスの『根本矛盾』」と呼ばせてもらっています。

※マルクス・エンゲルスのいう資本主義の二つの矛盾についての詳しい説明は、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を、是非、参照して下さい。

 さて、話をもとに戻すと、幸い、私が読んでいる「大月版」は、訳者が優れていて、「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」の内容をよく理解しているためか、私には、それほど「意味のとりにくかった箇所」とは思えませんでした。しかし、翻訳には「誤訳」は付き物だし、印刷には「誤植」はつきものです。

 私は、ホームページ「☆マルクス・エンゲルスの大事な発見──マルクス・エンゲルスが私たちに教えたことで、私たちにとっていま特に大事なこと──」で、私の「古典」の読み方として次のように言いました。

 まず、ドイツ語もロシア語もまったく出来ず、英語でさえ、大学一年のとき、サミュエルソンの『経済学』第七版の英語版と日本語訳版とをにらめっこしたくらいで、昼夜を分かたぬ学生運動で英語学習の機会を棒に振ってしまったことを述べて、「だから私には、マルクス・エンゲルス・レーニンの原典に当たって検証することなどまったく出来ません。そんな私がマルクス・エンゲルス・レーニンの著作の日本語訳を読むに当たって心がけていることは、一言一句の言葉ではなく文脈全体をつかむということ、私がマルクス・エンゲルス・レーニンだとしたらどんな意味を込めてこの文章を書いているのかということをつかむ努力をするということです。みなさんも、これから私の『マルクス・エンゲルスの著作の抜粋』を読むに当たって、ぜひ私と同様な態度で臨んでいただければありがたいと思います。なぜなら、私の抜粋には、たぶん、変換まちがいによるとんでもない誤訳やてにをはの誤りが、まだまだ、数多く残っており、そのことからくるマルクス・エンゲルス・レーニンの思想に対する誤解を避けるためにも必要であり、それ以上に、そのような読み方は、あなたのマルクス・エンゲルス・レーニンに対する理解を深め、科学的社会主義の深耕に必ずや寄与するものと確信するからです」、と。

 皆さんも、是非、私と同様な態度で臨んでいただければありがたいと思います。

不破さんが若きレーニンから学んだこと、二一世紀まで学び損ねていたこと(P219-222)

 不破さんは、219~221ページで、『資本論』の第二部第三篇を読む前にレーニンの『いわゆる市場問題について』(1893年、レーニン二三歳)を読んでいたので、「第二〇章 単純再生産」と「第二一章 蓄積と拡大再生産」の内容は「かなりとっつきにくい」ものだが、「エンゲルスが言うほどの困難を感じないで」「わりあい楽には入れた」ことを回顧しています。若き不破さんが、若きレーニンから学んだことを素直に振り返っています。

 しかし、21世紀になって、『資本論』の「第二部第一草稿」で「マルクスの発見」のヒントを発見し、「激しい理論的衝撃」を受けた不破さんは、かつての素直さを失ってしまったようです。

 『前衛』2015年1月号によると、不破さんは、『レーニンと「資本論」』(1998-2001年)を書き終えて、『資本論』の「草稿の全体を読む仕事を始め」、第二部第一草稿で「マルクスの発見」のヒントを発見し、「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明すること」から、信用や商業が恐慌の可能性を拡大させ恐慌をより一層深刻なものにさせることを知った──21世紀になってこんなことを知るとは、ずいぶん大器晩成ですね!──ことで、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたそうです。一皮むけた不破さんは、『レーニンと「資本論」』の執筆当時、「恐慌論解決のヒント」を求めて勉強したときは気付かなかったが、「最近」、レーニンが20代のとき書いた『ロシアにおける資本主義の発展』に「『資本論』全体のなかで恐慌論を代表する文章」が入っていることに気づいたそうです。(やはり、大器晩成です!! 同時に、私は『レーニンと「資本論」』を読んでいませんが、『資本論』の誤った解釈をしていて、レーニンをよく読みこなせなかった不破さんがもっともらしく書いた『レーニンと「資本論」』には一体どんな内容が書かれていたのか、宣伝に乗って買わされてしまった人は何を学んだのか、心配でならない。図書には「リコール」がないのが残念です。)

 そして不破さんは、レーニンが不破さんのように、それが「大発見」であることに「気づかなかった」と、「気づいた」自分の偉大さを誇示しています。不破さんは、10年以上前に『レーニンと「資本論」』を書くに当たって「恐慌論解決のヒント」を求めてレーニンを勉強したときには気づかなかった「発見」を、「大発見」かどうかは別として、「最近」気づいたという。不破さんは、自分の感度の鈍さを棚に上げて、レーニンが不破さんのような「大発見」などという認識を持っていなかったことを、レーニンは「気づかなかった」と中傷するのです。困ったもんです。

 しかし、不破さんが最近気づいたという文章は、レーニンにとっては当然のことで「大発見」でもなんでもないし、レーニンは他人の考えを歪曲して自分を誇示することを旨とするような人間ではないので、不破さんのように「大発見」して「激しい理論的衝撃」を受けたなどと大騒ぎをしなかったのでしょう。不破さんらしいと言えば不破さんらしいが、一般的には、こういうのを天にツバする行為というのではないでしょうか。

※これらの詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、参照して下さい。

 また不破さんは、2017年に『赤旗』に連載させた「『資本論』刊行150年に寄せて」の⑨「マルクスの未来社会論(1)」で、「革命論についてのレーニンの誤解については、1960年代に中国の毛沢東一派との闘争のなかで、レーニンの誤解をただし、多数者革命論にこそマルクスの理論的到達点があることを明らかにしました」と、共産党が輝きを増してきた60年代後半の理論的到達点を否定して「レーニンの誤解をただし」たとウソをつき、労働者階級を社会変革の主役の座から引きずり下ろしてその歴史的使命を消し去ってしまった2004年綱領の自慢話をします。

 1960年代におこなわれた「中国の毛沢東一派との闘争」とは、日本共産党の綱領路線が、「暴力革命」を「日本における革命のただ一つの道であることをみとめず、革命の平和的な発展の可能性」を革命の発展の「ひとつの可能な展望としてみとめている」ことについて、当時の中国共産党とその盲従分子が「これこそ『暴力革命がプロレタリア革命の普遍的法則である』というマルクス・レーニン主義の原則にたいする裏切りであり、ブルジョア議会を美化して『議会による革命』をとなえた第二インターナショナルの修正主義路線への転落だ、という」攻撃をしてきたことに対し、マルクス・エンゲルス・レーニンの著作とその時代背景を示して、マルクス・レーニン主義(=科学的社会主義)の旗を守った、日本共産党の輝かしい歴史的な闘争のことです。当時の「毛沢東の思想」の信奉者たちは、現在の不破さんのように、レーニンの著作の中の一言半句を取り出してレーニンの思想をねじ曲げ、それを「レーニンの思想」ででもあるかのように主張していました。

 このように、不破さんは、凄まじい進化を、日々、遂げ続けています。

※詳しくは、ホームページ「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏〈その3〉」参照して下さい。

「第三部」へつながる、現代を考察するうえでの多くの示唆に富んだ「章」(P223-225)

〝貨幣の還流〟についての不破さんのトンチンカンな推測

 不破さんは、「マルクスは、還流問題を再生産論の基本にかかわる問題として非常に重視し」たが、「資本主義的生産のもとでの再生産過程の諸関係は、すべてが商品交換の関係から成り立っているのだから」、「貨幣の還流」を「いちいち検証する必要はない」ので、「清く飛ばすべし」と言います。そして、マルクが「還流問題にそれほどこだわる」のは、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨にあったのではないか」と「推測」します。

 開いた口がふさがらないとは、このことでしょう。似非「マルクス主義者」の不破さんに、「資本主義的生産のもとでの再生産過程の諸関係は、すべてが商品交換の関係から成り立っている」ことを説教され、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」から必要のない「貨幣の還流」を書いたのではないか、と揶揄される。

 エンゲルスは「「取得の資本主義的形態」のうちに「資本家による労働者の搾取」を見ない」等々、マルクス・エンゲルス・レーニンについて、常識では考えられない暴言をはく不破さんだから、仕方のないことと諦めるべきなのかもしれないが、マルクスがこれらの文章を見たら、「罵倒によって敵を批判する者」には、「真の批判によって敵を罵倒する」ことを決意することでしょう。なお、エンゲルスは「「取得の資本主義的形態」のうちに「資本家による労働者の搾取」を見ない」という不破さんの暴言については、ホームページ4-7「☆エンゲルスは「「取得の資本主義的形態」のうちに「資本家による労働者の搾取」を見ない」という、不破さんの暴言。」参照して下さい。

財務省

「社会的資本」の「単純再生産」の可能な条件の論究

 不破さんに「清く飛ばすべし」と言われ、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」しか語られない「第二〇章」は、大月版『資本論』第二部全645ページのうち123ページを占めています。

 不破さんによって、「ケネーの「経済表」に接した時の感慨」などと揶揄され、後足で砂をかけるように、「清さ」などまったくなく、「飛ばされた」第二〇章で、マルクスは私たちに何を訴えているのか、二一世紀に生きる私たちは何をつかむことができるのかを、一緒に見てみましょう。

 「第二〇章」の第四節までは、「社会的資本」(個別的諸資本が統合された総資本の意味)をモデル的に「Ⅰ生産手段」を生産する部門と「Ⅱ消費手段」生産する部門の二つに分け、それら二つの部門の「単純再生産」が可能な条件を導き出しています。

 なお、再生産表式を使っての検証が行われていますが、読み進むに当たって、「単純再生産」が可能な条件として、「Ⅰ生産手段」生産部門のv(労働者の労賃)とm(剰余価値)の合計が「Ⅱ消費手段」生産部門のc(不変資本部分)と等しいこと及び「Ⅱ消費手段」生産部門のvとmが「Ⅱ消費手段」に消費されることを念頭において読んで下さい。そうすれば、再生産表式を使ってマルクスが何を言おうとしているのか、理解できます。ただ、大月版の500ページの最終行から501ページの五行目までに書かれている数式による説明については、私には理解できませんでした。

 これら二つの部門の「単純再生産」が可能な条件については、大月版の501ページから502ページに(1)(2)としてまとめられています。ぜひ、お読み下さい。

 最後に「第四節」には、恐慌と繁栄期についての記述があり、恐慌は奢侈品消費を減少させ、必要消費手段の売れ行きをも減少させること、繁栄期には貨幣の相対的価値が下がるだけでなく労働者階級も資本家階級だけの消費財(贅沢品等)の一部の消費に参加すること等によっても物価が上昇することなどが述べられています。「繁栄期には貨幣の相対的価値が下がる」というマルクスの指摘は、不破さんの薄っぺらな「恐慌の運動論」にはない、現代の景気循環を見る上で大切な指摘です。そして、この文章に続いて、「賃金が上がれば経済が成長する」という誤った「理論」を「共産党」に押しつけている不破さんが、見たくもない、聞きたくもない文章が出てきます。マルクスは、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」が「労働者階級はそれ自身の生産物のあまりにも少なすぎる部分を受け取っているのだから、労働者階級がもっと大きな分けまえを受け取り、したがってその労賃が高くなれば、この害悪(恐慌──青山補足)は除かれるだろう」と考えていることの誤りを指摘し、不破さんを粉砕します。そして、資本主義的生産の基では「労働者階級の相対的な繁栄」(安定した雇用と多少の労賃の増加)は「ただ恐慌の前ぶれとしてしか」許されないことを述べます。これらは、大変大切な指摘です。現代を正しく解明し未来を切り拓くために熟考しましょう。※なお、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」についての詳しい文章は、ホームページ「5温故知新」→「1マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「D資本主義社会Ⅱ」中の「12、賃金」の12-14「労賃が増加すれば恐慌がなくなると考える健全で「単純な」常識は誤りである」を参照して下さい。

 「第四節」は、最後に、①単純再生産は事実上消費を目的としていること、②といっても、剰余価値の獲得が個別資本家の推進的動機として現れること、③しかし、その剰余価値は結局ここではただ資本家の個人的消費に役だつだけであること、④獲物(資本家の剰余価値)を分け合う仲間が、資本家から独立な消費者として現れるから、事柄はもっと複雑な形で現れることが述べられ、文章が結ばれています。単純再生産の場合にも、「恐慌」につながる私的資本主義的生産の「困難」さが示されています。

「貨幣流通」が産業循環に及ぼす影響への論及

 「第五節 貨幣流通による諸転換の媒介」は「貨幣流通」が産業循環に及ぼす影響の導入的な「節」となっています。

 まずはじめに、①資本の回転期間が短ければ諸転換のため貨幣は少なくて足りることと②単純再生産が可能なのは流通に投じられた貨幣が資本家のもとへ還流される場合だけであることを資本・商品の諸転換の「例解」を使って説明します。そして、貨幣が資本家のもとへ還流する、つまり、前貸資本価値と剰余価値が「実現」するためには、「資本家階級全体について見れば」、「自分で貨幣を流通に投ずるよりほかはない」が、資本家は「いつでも等価と引き換えでなければ貨幣を手放さない」ことを述べ、これらをめぐる「現実の成り行きは二つの事情によってわかりにくくされる」として、「二つの事情」に簡単に触れています。

 「二つの事情」とは、①産業資本の流通過程での「商業資本」や「貨幣資本」の役割、②剰余価値の「地代」や「利子」への分割等の問題で、①産業資本の流通過程での「商業資本」や「貨幣資本」の役割の問題は、「貨幣流通」が産業循環に及ぼす影響、「恐慌」問題等に直接つながるテーマです。また、②の剰余価値の「地代」や「利子」への分割等の問題は「第三部」の「三位一体的定式」につながるものです。

生産的消費を見ることができない「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」

 「第六節 部門Ⅰの不変資本」では、重要な点として、部門Ⅰ(生産手段の生産部門)の生産物は、「ただ不変資本の要素としてのみ役だつことのできる使用価値から成っている」ので、「資本主義的生産様式のもとでは」市場での幾つかのやり取りを通じて分配されるが、「仮に生産が資本主義的でなく社会的であるとすれば」、「部門Ⅰのこれらの生産物はいろいろのな生産部門のあいだに、再生産のために」、「絶えず再び生産手段として分配され」ることが論及されています。是非、留意して下さい。

 「第七節 両部門の可変資本と剰余価値」と「第八節 両部門の不変資本」とでは、両部門の連関を再確認し、「第八節」では、「部門Ⅰ」の個別資本はその生産物が再び生産手段としていろいろのな生産部門に入ることができるかどうかは感知しないことが述べられ、資本主義的生産様式の社会の社会的総資本の再生産を見る場合、その独自な歴史的経済的性格、つまり、自分が作り市場に投げ入れるものは知っていてもそれが市場でどうなるかはわからないことを述べています。

 前節で「社会的年間生産物の再生産は、一見、このような不合理な仕方で行われるように見える(年間総労働日全体は消費手段の生産に支出され、不変資本部分は含まれていないかのように見えること──青山)」ことが述べられているが、「第九節 アダム・スミス、シュトルヒ、ラムジへの回顧」は、シュトルヒはその理由を説明できないが「察知」していることを述べ、ところが、アダム・スミスは「社会的生産物価値の全体が収入すなわち労賃・プラス・剰余価値」であるという「とりとめのない説を立てている」として、そのもっともらしさを説明し、「第八節」に立ちかえってアダム・スミスを論破しています。

 この「第九節」を取り上げようともしない不破さんは、アダム・スミス同様、生産的消費を見ることができず、生産的消費の重要な意味が理解できないようです。だから、日本における「産業の空洞化」に何の興味も示さず、「賃金が上がれば経済はよくなる」などと、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」に成り下がってしまったのでしょう。

 「第一〇節 資本と収入 可変資本と労賃」は資本と収入、可変資本と労賃を「資本」とは何かという観点から説明しています。まず、この節に出てくる重要な言葉、リアルな現実を見てみましょう。これまでの復習ですが、次の言葉は大変重要なので、しっかり頭に入れておきましょう。

 「資本主義社会は、その処分可能な年間労働のより多くを生産手段(つまり不変資本)の生産に使用するが、これは労賃の形態でも剰余価値の形態でも収入には分解できないもので、ただ資本として機能することができるだけである。」(大月版P539)

 もう一つは、「彼の労働力は、それ自体、商品形態にある彼の資本なのであって、そこから絶えず彼の収入がわいてくるのだ」という〝身体は資本論〟について、次のようにリアルな現実を突きつけています。

 「じっさい、労働力は彼の財産(絶えず更新され再生産される財産)ではあるが、彼の資本ではない。労働力は、彼が絶えず売ることのできる、また彼が生きて行くためには絶えず売らなければならない唯一の商品であり、そして、ただその買い手すなわち資本家の手のなかではじめて資本(可変資本)として働く商品である。」(大月版P541)

 そして、P548-549では、労賃の貨幣資本(潜勢的な可変資本)への転換は、「労働者階級はその日暮らしだから」、お金のある限り行うが、「資本家はその日暮らしではない」ので、「彼の資本のできるだけの価値増殖」ができる機会まで待つので、他の資本家への貨幣の還流が遅れる可能性があり、そのために資本家は「還流の遅速にかかわらず中断なしに仕事を続けることができるためには、貨幣での準備資本が必要」なことを述べています。

 さらに、「第一〇節」では、先ほど抜粋した『資本論』(P539)の文章とともに、P548で「年間生産物は再生産のすべての要素を含んでいなければならず、生産資本のすべての要素、したがってまたことにその最も重要な要素である可変資本を回復しなければならない。」と述べています。おっちょこちょいの「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」は、この文章の「その最も重要な要素である可変資本」の「回復」という言葉があることに飛びついて、「可変資本」=「労働者」の「賃金が上がれば経済はよくなる」と不破さんと同じことを言っていると、ぬか喜びするかもしてません。しかし、物事(経済)は全体を見なければなりませんし、文章は一部だけを切り取って自分の好きなように加工してはなりません。539ページの文章と合わせて読めば、どう逆立ちしても、けっして不破さんの「賃金が上がれば経済はよくなる」という謬論の支援材料にはなりません。539ページでマルクスは「資本主義社会は、その処分可能な年間労働のより多くを生産手段の生産に使用する」と述べていますが、日本は「産業の空洞化」によって「生産手段の生産」の場が海外に「輸出」され、労資関係は資本家優位になり、低賃金と不安定雇用が広がり、その結果、「最も重要な要素である可変資本」が回復しない状態が続いているのです。さらにいえば、その結果、最終需要は伸びず、日銀が金融の〝異次元緩和〟の大ばくちを打っても、依然として物価が上昇しない状況が続いているのです。だから、やはり、これらの文章は、「産業の空洞化」に無関心な不破さんにとっては、耳の痛い言葉なのです。

 「第一〇節 資本と収入 可変資本と労賃」は、最後に、可変資本Ⅰが①貨幣資本から労働力に転換され②労働力が可変資本として働き③価値生産物(v+m)へと転化することを述べ、「可変資本はいつでもなんらかの形態で手のなかにあるのだから、それがだれかにとっての収入に転換されるとはけっして言うことができないのである。」ことを確認するとともに、貨幣資本が、「不変資本も可変資本も、再び貨幣資本として回復されるということは、年間生産物の転換における一つの重要な事実なのである。」と文章を結んでいます。

資本主義的生産の矛盾と対外貿易の役割

 「第一一節 固定資本の補填」は、まず、「生産手段を生産する部門Ⅰでは、それが一方では部門Ⅱの不変資本の流動成分を供給し他方ではその固定成分を供給するかぎり、均衡のとれた分業が不変に保たれなければならない」(大月版P572)ことを表式を使って説明します。

 つぎに、分業のバランスが崩れた二つの例をあげて、「第一の場合」には「貨幣」が余り、「第二の場合」には「商品」が余ることを示し、「第一の場合」には労働の「生産性や長さや強度の増大によって、より多くの生産物を供給すること」によって補うことができるが、「第二の場合」には「その生産を縮小しなければならないことになり、それはこの生産にたずさわる労働者と資本家とにとって恐慌を意味する。」こと、「商品」が余ること自体は「害悪ではなく、かえって利益である。だが、資本主義的生産では害悪なのである。」ことを指摘します。

 そして、「第一の場合」の解決策として、「外国商品の輸入」を、「第二の場合」の解決策として、外国への「輸出」をあげ、「どちらの場合にも対外貿易が必要である」(同、P574)ことを述べ、「しかし、対外貿易は、それがただ諸要素を(価値から見ても)補填するだけでないかぎり、ただ諸矛盾をいっそう広い面に移し諸矛盾のためにいっそう大きな活動範囲を開くだけである。」(同、P577)と、「対外貿易」の役割を正しく指摘しています。

 この、「対外貿易」が「ただ諸矛盾をいっそう広い面に移し諸矛盾のためにいっそう大きな活動範囲を開くだけである」というマルクスの指摘は、グローバル資本が世界中を闊歩する現代においても、的を射た指摘です。

 「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態の矛盾」をもつ資本主義的生産様式の社会で、資本が動けば動くほど、大きくなれば大きくなるほど、資本主義的生産様式のもつ矛盾は拡大し、一層深まっていきます。国内での成長の限界に突きあたった資本が、海外での事業展開によって一層の資本蓄積を図ろうとするとき、国内での生産と雇用を確保し、海外での生産にあたってその国の国民がほんとうに豊かになるように生産技術も移転し自国なみの賃金も保証するのであれば、両国の国民にとって万々歳で何の矛盾も生じませんが、それでは資本主義的生産様式の社会を超えた未来の新しい国際関係になってしまいます。グローバル資本が生き抜くためには、国内産業は「空洞化」させ、海外では、コカコーラの原液(アヘンではないからまだスマートなのか?)を高く売りつけるように技術は独り占めして、労働者を低賃金で働かせる、それ以外に資本が「資本」として生きていく道はありません。グローバル資本は、「対外貿易」によって、「ただ諸矛盾をいっそう広い面に移し諸矛盾のためにいっそう大きな活動範囲を開くだけ」でした。だから今、世界は大揺れに揺れているのです。マルクスの指摘は、まことに的を射た指摘ですが、このことを「発見」できない前「共産党」委員長の不破さんは、やはり、マルクスの学び方を間違えているようです。

 そして、この「節」は、「もし再生産の資本主義的形態が廃止されてしまうならば、事柄は次のことに帰着する。」として、分業のバランスが崩れるのを防ぐために、「社会がそれ自身の再生産の対象的手段を調整する」ために「継続的な相対的過剰生産」を行うが、「資本主義社会のなかではそれは一つの無政府的な要素」であることを述べ、経済学者たちは「固定資本と流動資本との生産における不均衡」を恐慌を説明するために「愛用する論拠の一つ」としているが、単純再生産の場合にさえもこのような不均衡が起こらざるをえないということは、「彼らには耳新しいことなのである。」と述べて結ばれています。

 私たちが『古典』を読む時は、現代を凝視し、未来への道筋のヒントをつかむ努力を忘れないようにしましょう。

 「第一二節 貨幣材料の再生産」は「毎年の新たな金生産にもとづいてそれと並行的に行われる貨幣蓄蔵」について論究し、固定資本の更新のための年々の貨幣蓄蔵との違いを明らかにし、生産過程での貨幣蓄蔵の今後の展開への布石としています。また、「第一三節」は、「社会的再生産の考察で経済学者たちの混乱と大言とにみちた無思想の例として」、産業資本家が大きな利益を上げられるのは「自分たちが生産するものをすべて自分がその生産に費やしたよりも高く売ることによってである」というデステュツトの謬論を暴露しています。

 このように、不破さんに「清く飛ばすべし」と言われ、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」しか語られなかった「第二〇章」は、資本主義を動かす〝骨格〟の重要な一部である「社会的総資本の再生産と流通」の基礎をなす「単純再生産」を扱っており、「第二一章」へと?がるウォーミングアップの「章」であり、であるからこそ、「第三部」へつながる、現代を考察するうえでの多くの示唆に富んだ「章」となっています。「清く飛ばす」ことなく、みなさんは、そのことをしっかりと理解して下さい。

「第二一章 蓄積と拡大再生産」のマルクス・エンゲルスの意図を理解できない不破さんのマルクスに対する見当違いの「推測」とエンゲルスへの誹謗・中傷(P226-227)

 不破さんは、「第二一章 蓄積と拡大再生産」について、「おどかすわけではありませんが」と、共に科学的社会主義の思想を学び、新しい未来を切り開いて行く同志にたいする言葉と言うよりも、趣味の同好会の先生が上から目線で「おどかす」ような枕詞をつけて、「ここはおそらく、全三部のなかでもっとも理解の難しいところです」と言います。不破さんは、その理由として、①マルクスの試行錯誤の経過がそのまま本論として本文に再現されていること、②エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまったこと」、の二点をあげています。

 不破さんは、①のマルクスの試行錯誤(これが不破さんの最初の「推測」──青山)の原因を次のように述べていますが、よくもまあ、自分の「推測」(マルクスの試行錯誤という──青山)に合わせるために勝手な「推測」をかさね、その例証のために『資本論』の一言半句を使ってデマを仕立て上げるものだと、不破さんのペテン師ぶりには感心して、怒りが込み上げてきました。

 不破さんは、言います。

「私はそこには、〝単純再生産の難題を解決した以上、拡大再生産論はその応用問題のようなもので、特別な困難はないだろう〟と考える楽観論があったのではないか、と見ています。たとえば、第八草稿そのもののなかでも、例のスミス批判の文章(第三篇第一九章)のなかで、『主要な困難……は、蓄積〔拡大再生産のこと──不破〕の考察のさいではなく、単純再生産の考察のさいに現われる』と書いたりしていました。」、と。

 この文章を普通の人が読めば、「たとえば」以下の文章は、「単純再生産の考察のさいに」「主要な困難」があると理解するでしょう。しかしマルクスは、そんなことは一言も言っていません。

 マルクスは何を言っているのか、その背景から説明したいと思います。

 私は、「第二〇章 単純再生産」の「生産的消費を見ることができない『健全で「単純な」(!)常識の騎士たち』」とタイトルを付けたページ(PDFの31ページ参照)で、〔前節で「社会的年間生産物の再生産は、一見、このような不合理な仕方で行われるように見える(年間総労働日全体は消費手段の生産に支出され、不変資本部分は含まれていないかのように見えること──青山)」ことが述べられているが、「第九節 アダム・スミス、シュトルヒ、ラムジへの回顧」は、シュトルヒはその理由を説明できないが「察知」していることを述べ、ところが、アダム・スミスは「社会的生産物価値の全体が収入すなわち労賃・プラス・剰余価値」であるという「とりとめのない説を立てている」として、そのもっともらしさを説明し、「第八節」に立ちかえってアダム・スミスを論破しています。

 この「第九節」を取り上げようともしない不破さんは、アダム・スミス同様、生産的消費を見ることができず、生産的消費の重要な意味が理解できないようです。だから、日本における「産業の空洞化」に何の興味も示さず、「賃金が上がれば経済はよくなる」などと、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」に成り下がってしまったのでしょう。〕と述べましたが、大発見で「『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」しまった不破さんには、アダム・スミスが何を言い、マルクスが何を言ったかもわからなくなってしまったようです。

 不破さんが自分の最初の「推測」に合わせるためにした「推測」の根拠となる「継ぎはぎ」の文章は、「第一九章 対象についての従来の諸論述」の「第二節 アダム・スミス」の節のマルクスの結びの文章です。全文を抜粋します。

「主要な困難、といってもその最大の部分はこれまでに述べたことによってすでに解決されているのであるが、それは、蓄積の考察ではなく単純再生産の考察で現れる。それだからこそ、アダム・スミス(〔『諸国民の富』の──青山〕第二篇)の場合も、またそれ以前にはケネー(経済表)の場合も、社会の年間生産物の運動と、流通によって媒介されるその再生産とが問題にされるときは、いつでも単純再生産が出発点にされるのである。」(大月版P453) これが全文です。

 ここでマルクスが「主要な困難」と言っているのは、「ただ流通の手品によってひき起こされるにすぎない思考の混乱」、つまり、「社会的生産物価値の全体が収入すなわち労賃・プラス・剰余価値」であるという「思考の混乱」のことです。そして、「主要な困難」を抱えているのはマルクスではなくA・スミスです。また、「蓄積の考察ではなく単純再生産の考察で現れる」と言っているのは、「(1)アダム・スミスはここでは明白にただ単純再生産を論じているだけで、拡大された規模での再生産または蓄積を論じているのではない。」(同前P445)からです。だから、「社会の年間生産物の運動と、流通によって媒介されるその再生産とが問題にされるときは、いつでも単純再生産が出発点にされるのである」とマルクスは言っているのです。

 ご覧のとおり。不破さんの言っていることとマルクスの述べていることとでは全然違うでしょう。このように、不破さんが自分の最初の「推測」に合わせるために勝手な「推測」をした根拠となる文章は、まったくのデマだったのです。だから、私が不破さんのことを「ペテン師」扱いしても、まったく正当なことだと思います。

 ①についての不破さんの「推測」の根拠については、以上のとおりですが、不破さんのエンゲルスに対する中傷については、皆さんが『資本論』を読んでいただければわかることですが、このあとで、一緒に見ていきましょう。

 万一、不破さんの言うとおり、マルクスが資本主義的生産様式の社会における「蓄積と拡大再生産」の表式へのアプローチの仕方を三度誤ったとして──私は、この章の構成からして、マルクスの試行錯誤の失敗作だとも思っていませんし、私が読んだマルクスのこれまでの著作からみても、マルクスが不破さんごときに馬鹿にされるほど「馬鹿」だとは到底考えられませんが──、①マルクスの試行錯誤の経過がそのまま本論として本文に再現されていると、なぜ、「全三部のなかでもっとも理解の難しいところ」となるのか、まったく理解できません。「理解の難しさ」はマルクスの草稿のもつ荒削りな性格と不破さんの「理解」力の問題で、エンゲルスの責任などではありません。不破さんは、不破さんの言う「本論」だけを「本文」として、「マルクスの試行錯誤」の部分を「注」とすれば、「理解の難しいところ」が易しくなるとでも言うのでしょうか。つぎに、不破さんは、②エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまったこと」と、「エンゲルス流」などという偏見に満ちた言葉遣いまでしてエンゲルスを責め立てますが、「本文」の「筋道」がどのように歪められたのかまったく述べていません。『資本論』の解説者なら、どう「いちだんと筋道のたたないものにしてしまった」のかぐらい、しっかりとた言うべきです。エンゲルスは「本文」に沿うように編集したのに、不破さんは、ただ抽象的に責め立てるだけです。これは、まったくの誹謗・中傷です。

 不破さんは、エンゲルスの『資本論』編集の意義のなかで、「エンゲルスの仕事を受け継いでそれをより完全なものにする意義がある、と考えています。本書でも、第二部、第三部の内容検討にあたっては、そういう部分がかなり出てきますが、そういう意味で受け取っていただきたいと思います。」(P172)と述べています。

 しかし、不破さんは、184ページでも、どこが科学的社会主義の思想に反して誤っているかも示さず、「自己流に書き変えた」とレッテル貼り、ここでも「エンゲルス流」などと意味ありげに誹謗・中傷します。そして、デマをまじえて『資本論』を攻撃します。どう考えても、「エンゲルスの仕事を受け継いでそれをより完全なものにする」態度とは思えず、「そういう意味で受け取」れるような内容ではありません。そして、これまで見る限り、「第二部、第三部の内容検討にあたっては、そういう部分がかなり出てきます」と不破さんが言い、「より完全なもの」にしようと試みた箇所は、エンゲルスの仕事を台なしにし、『資本論』を不破さん好みに改ざんしようとするものでした。

「第二一章 蓄積と拡大再生産」でマルクス・エンゲルスが言っていること

 さて、それでは、「第二一章 蓄積と拡大再生産」でマルクス・エンゲルスが何を言っているのか、大雑把にではあるが、見てみましょう。

 『資本論』はまず、個々の資本家が「貨幣に転化した剰余価値を」、「自分の生産資本の追加現物要素に再転化させる」ことによって、「次の生産循環では、増大した資本が増大した生産物を供給する」ことを述べ、この個々の資本家の「蓄積と拡大再生産」に現れることが、「年間総再生産でも現れざるをえない」ことを述べています。そして、マルクスは、ある個別資本家の「蓄積と拡大再生産」の例を説明しますが、その中で、資本主義社会では「一方にある貨幣が他方での拡大再生産を呼び起こす」ことを述べ、同時に科学的社会主義の創設者らしく、「そういうことが行われるのは、そこには貨幣なしでも拡大再生産の可能性があるからである。なぜならば、貨幣はそれ自体としてはけっして現実の再生産の要素ではないからである。」と「貨幣」(私的資本)に縛られた資本主義的生産様式の社会を痛烈に批判します。

 そして『資本論』は、「みなが貨幣を蓄蔵するために売ろうとし、だれも買おうとはしない」としたら、「いったい買い手はどこからやってくるのか」と「外観上の困難」を提起し、その前に、「まず部門Ⅰ(生産手段の生産)での蓄積」を見るとして、「第一節 部門Ⅰでの蓄積」がはじまります。

 「一 貨幣蓄蔵」では、Aが「貨幣蓄蔵をなしとげるのは」、彼の剰余生産物を売って、それを「流通から引きあげて貨幣として積み立てる」ことによってであることを述べています。そして同時に、「ここでついでに次のことを言っておきたい」として、「資本主義的基礎の上での年間生産物の正常な転換」は、一方的な諸商品の売り買いの均衡という仮定のもとでのみ保たれていること、そこで流通する貨幣についていえば、「商品生産が資本主義的生産の一般的形態だという事実は、すでに、貨幣が単に流通手段としてだけではなく貨幣資本としてもそこで演ずる役割を含んでいる」こと、そして、この均衡は「それ自身一つの偶然」であり、非常に複雑な資本の流通過程がその正常な進行の妨げとなる多くのきっかけを与えていること、をマルクスは述べています。

 次に、「二 追加不変資本」では、「この剰余生産物を次々に売って行くことによって、資本家たちは蓄蔵貨幣すなわち潜勢的な追加貨幣資本をけいせいする。」と述べて、追加貨幣資本の源泉を明らかにし、「剰余生産物」が「資本蓄積すなわち拡大再生産の実在的な基礎」なので、「一国内で機能している生産資本が大きければ大きいほど」、「可能的追加生産資本も大きい」が、可能的追加生産資本は「蓄蔵貨幣」としては「絶対的に不生産的であり」、「資本主義的生産の死重(dead weight)である」ことが述べられています。

 なお、ここで、Aの剰余生産物を買うために必要なBの貨幣はどこからやってくるのか?という問題が残るが、その答えは、「Aの仲間とBの仲間と(部門Ⅰ)は、剰余生産物を可能的追加貨幣資本に転化させるための貨幣をかわるがわる供給し合うのであり、また、新たに形成された貨幣資本を購買手段としてかわるがわる流通に投げ返すのである。」(大月版P619)とマルクスは言います。(PDFファイルで読んでいる方は、この部分にアンダーラインを引いておいて下さい。P37)

 そして、この「資本主義的生産の死重」である「蓄蔵貨幣」を取り込んだ「信用制度」や「有価証券」は、「貨幣資本(利子生み資本)」によって、「資本主義的生産体制の進行と強力な発展とへの最も巨大な影響力をもつ」ことになり、資本主義的生産の発達に応じて現存貨幣量もますます大きくなるが、全信用機構は絶えず「各種の操作や方法や技術的設備によって現実の金属流通を相対的に絶えず減少して行く最小限度に制限しようと努めている」が、それがまた、「その正常な歩調の攪乱の機会も、同じ割合で増加」させることを述べています。リーマン・ショックのときのFRBとグローバル資本の慌てぶりをマルクスとエンゲルスに見せてやりたいくらいです。

 なお、レーニンが二十歳代の時にちゃんと理解していたことを二一世紀になってやっと分かることができる程度にレーニンとの理解力の差がある不破さんは、『前衛』2015年1月号で、「レーニンは「十月革命で政権をとったあと、国民経済にたいする『記帳と統制』を組織すれば、それがそのまま社会主義経済の建設につながる、という路線」を取ったなどと、「信用機構」のコントロールを含む人民による「記帳と統制」の意義をまったく理解していない発言をしていますが、不破さんのこの章の「解説」がマルクスとエンゲルスにたいする誹謗・中傷以外に何もなく、ここで示唆されている「信用機構」のことなど眼中に無い不破さんのことを考えると、『前衛』2015年1月号での発言もやむを得ないことなのかなと、妙に納得した次第です。

※ここに出てきた、「レーニンが二十歳代の時にちゃんと理解していたことを二一世紀になってやっと分かった不破さん」の話は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、「『記帳と統制』の意義をまったく理解していない不破さん」の話は、ホームページ4-12「☆不破哲三氏によるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲」及びホームページ4-13「☆レーニンの資本主義観、社会主義経済建設の取り組み、革命論への、反共三文文筆家のような歪曲と嘲笑、これでもコミュニストか」参照して下さい。

 「第一節 部門Ⅰでの蓄積」は、最後に、「三 追加可変資本」として、追加不変資本と追加可変資本の違いとして、貨幣資本を可変資本に転換する場合は、「彼の不変資本のこの物的な諸要素が彼の前になければならない」が、可変資本については、「労働力は資本主義的生産の基礎の上ではいつでも用意されている」ことを述べています。

 つぎにマルクスは「部門Ⅱでの蓄積」についての論究に移ります。

 『資本論』「第二節 部門Ⅱでの蓄積」でマルクスは、「剰余価値ⅠもⅡも全部収入として支出されるということを前提とした」生産で、A(部門Ⅰ)が自分の剰余生産物(生産手段)をB(部門Ⅱ)に売って、そのあとでBから消費手段を買わずにAが可能的追加貨幣資本の形成をした場合、それは、「B(部門Ⅱ)の商品資本が生産(不変)資本に再転化できないということを現している」にであり、「可能的に拡大された規模での生産を表しているのではなく、単純再生産の阻害を、すなわち単純再生産における不足を、表している」(大月版P623)ことを指摘します。

 そしてマルクスは、「ただ次のことを一言しておくだけにしよう。」として、単純再生産は「剰余価値ⅠもⅡも全部収入として支出されるということを前提」としているが、「現実の蓄積はただこの前提(剰余価値の一部分は収入として支出され、他の部分は資本に転化するという──青山)のもとでのみ行われる。」ということを指摘し、そして、「資本主義的生産の本質に矛盾する」「消費が資本主義的生産の目的であり推進的動機であって、剰余価値の獲得やその資本化すなわち蓄積がそうなのではない、ということを前提としている」単純再生産において、「蓄積が消費を犠牲にして行われるということは」「幻想である。」とマルクスは言います。

----------ここまでを、不破さんは、マルクスの一回目の挑戦だという。正真正銘のドンキホーテにドンキホーテのように言われるのだから、たまったものではない。しかし、資本主義的生産様式における拡大再生産の構造と特徴とを読者の皆さんに余すとこなく論及しようとするマルクスの作業は続きます。なお、この「ドンキホーテ」とは日本的な意味です。---------

 『資本論』の「第二節 部門Ⅱでの蓄積」は、ひと呼吸おいて、「次に部門Ⅱでの蓄積をもう少し詳しく考察してみよう。」(大月版P623)と、単純再生産の表式を使って「もう少し詳しく考察」します。

 部門Ⅰの資本家が自分の剰余生産物を自分の生産資本に合体するために自分の剰余生産物を消費手段に支出しないことによる、部門Ⅱでの過剰生産という、「この困難を避けるために、次のようにしてみることもできるであろう」として、Ⅱは「自分の生産過程を続行できるだけの貨幣準備資本をもっていなければなら」ず、Ⅱの過剰生産は、「再生産の機構を停止させないため」の商品在庫と考えることができるとの主張がありうることを述べます。

 しかしマルクスは、「この説にたいしては次のように答えなければならない。」として、その考えの誤りを三点にまとめて指摘します。まず問題を二点に分けて、それぞれのケースについて、この商品在庫が特別な(イレギュラーな)在庫であり、問題の解決にならないことを指摘します。マルクスは三点目として、そもそもこのような「困難」は単純再生産の考察では想定外のことで、拡大再生産の条件は生産手段の生産部門での「拡大された規模での再生産が」行われるような変化した状態にあることを指摘します。

 ここで、マルクスは、これまで単純再生産をベースに論及してきたことの総括として、資本主義的生産様式における蓄積の条件が、生産手段の生産部門での「拡大された規模での再生産」以外にないことの論証を終了します。

----------不破さんは、ここまでを、マルクスの二回目の挑戦だと言います。どう見ても、これらの文章は、一連の文章と見るのが合理的で、誰が見ても、同じ方向に向かっている文章です。---------

 次に、いよいよ『資本論』の「第三節 蓄積の表式的叙述」での「拡大された規模での再生産のための出発表式」を使っての蓄積と拡大再生産に関する本格的な論究が行われますが、その前にマルクスは、Ⅱcよりも部門Ⅰの剰余生産物が500mだけ大きい表式a(部門Ⅰの蓄積のための源泉を部門Ⅱに求めなくてよい表式)を使って、部門Ⅱの拡大再生産のための源泉はどこからくるのかという問題を提起し、拡大再生産のための源泉を部門Ⅱの中に求めることができないことを論証します。

 マルクスは、まず、部門Ⅱは、「新たな貨幣資本の形成のためには、まったく不毛の地のように見える」と前置きしたうえで、部門Ⅱのvとm(表式の構成要素はcとvとmだけなので──青山)が新たな貨幣資本の形成のための源泉となる可能性があるのかを検証して行きます

 「まず第一に」、vは、貨幣形態での可変資本は労働力に前貸され、商品Ⅱvとして売られ、資本家Ⅱのもとに戻るという循環を繰り返しているのだから、新たな貨幣資本の形成のための源泉にはなりえないが、しかし、あくどく、狡猾な、資本家は、「だが、待て!ここにちょっとしたもうけ口はないものか?」と悪知恵を働かせて、新たな貨幣資本の形成のための源泉を探し求めることを述べます。

 その方法は二つあります。①「賃金をその正常な平均水準よりも低く圧し下げる」ことと、②「労働力の買い手であると同時に自分自身の労働者への自分の商品の売り手でもあるという点」を「利用する」の二つで、②については、「(この機会にこれを適当な例によってもう少し詳しく説明すること。)」との注意書きがあります。このようなやり方について、マルクスは、このどちらも、「偶然的な思惑的利潤は、正常な資本形成を問題にしているここでは、もちろんなんの関係もない。」として、切って捨てます。

 そしてマルクスは、これらの考えについて、「要するに、資本主義的機構の客観的な分析にあっては、今なおこの機構に例外的に付着しているある種の汚点を理論的な困難を除くための逃げ道として利用してはならないのである。」と述べるとともに、「ブルジョア的批判者の大多数」が「例外的に付着しているある種の汚点」に基づいてマルクスにたいして「わめき立て」ていることを批判します。(なお、マルクスはここでも具体例を示したかったようです──青山)

 この、「資本主義的機構の客観的な分析にあっては」という文章に関連しての、マルクスの「ブルジョア的批判者の大多数」への批判を読んだとき、不破さんの、「桎梏」(生産力と生産関係の矛盾)の一時的な現れである恐慌などとは次元の違う、「地球温暖化」や「原発」を「桎梏」ということによって、自らの理論的な破綻からの逃げ道に「地球温暖化」や「原発」を使いマルクス経済学と唯物史観を滅茶苦茶にしているやり方が、私の脳裏に二重写しに浮かんできました。※「地球温暖化」や「原発」を「桎梏」という不破さんの仰天思想については、ホームページ4-3 「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を、是非、参照して下さい。

 つぎに、mについては、「もっとおぼつかないようである。」とのべ、その理由をマルクスは、「自分たちが生産した消費手段を互いに売り合い互いに買い合っている」だけで、「この転換に必要な貨幣は、ただ流通手段として機能するだけ」だからだと、明快に言います。それでも新たな貨幣資本の形成のための源泉となるためには、「ただ二つの道だけ」だとして、その一つに「だまして銭盗りに成功すること」をあげ、ここで、マルクスの草稿は中断されています。この草稿を補って、エンゲルスは、「もう一つの道は」、「この章の終わり(第四節)で研究されるであろう。」と補筆して、第八稿(マルクスは1881年の第二部第八稿で『資本論』の執筆を打ち切ります。)の続きの草稿の編集に精力を注ぎます。

ここまでが、不破さんの言う、マルクスの三回目の挑戦です。

エセ「マルクス主義」者からペテン師、詐欺師への不破さんの跳躍

 不破さんは、「第二一章 蓄積と拡大再生産」について、①「第一回目の挑戦。単純再生産の表式を出発点におく」失敗、「第二回目の挑戦。単純再生産の均衡条件を起点に」失敗、「第三回目の挑戦。解決への道に踏み出したが予想外のつまずき」で失敗、というマルクスの無能さが、そのまま本論として本文に再現された編集になっていること、②加えて、エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまった」と言い、この「第二一章」は、不破さんの言う『資本論』の二つの「エンゲルスの編集上の誤り」の一つに数え上げられています。

 だから私は、『資本論』に沿って、マルクスとエンゲルスの思想に寄り添って、忠実に『資本論』を再現してきました。『資本論』とこの拙文をあわせて読んでいただければ分かるとおり、マルクスの論旨は一貫しています。それは、資本家が、「だが、待て!ここにちょっとしたもうけ口はないものか?」と悪知恵を働かせて、新たな貨幣資本の形成のための源泉を探し求めても、「消費が資本主義的生産の目的であり推進的動機であって、剰余価値の獲得やその資本化すなわち蓄積がそうなのではない、ということを前提としている」単純再生産のもとでは資本蓄積の条件はなく、単純再生産の前提は資本主義的生産とは両立しないということです。ここに資本主義的生産様式の社会の〝宿命〟があります。 そのことが書かれている『資本論』を使って、不破さんは、マルクスを資本主義を知らない間抜けに描き、『資本論』の内容をマルクス・エンゲルスの意図と真逆のものに見せようとします。私が解説した箇所にある『資本論』の中の文章の一部を借用して、驚くべき創作を行います。これはもう、エセ「マルクス主義」者などという範疇を遙かに超えて、ペテン師、詐欺師とでもいうべきものです。すこし長くなりますが、不破さんが解説した『資本論』の次の文章を読んで下さい。

 「しかし、マルクスは、そこまで(拡大再生産の継続が不可能だということ──青山)話を進めず、第一年度の表式に、あれこれの問題を見つけだして、議論の空転をはじめました。……(青山の略)が大問題だとして、きりきり舞いするのです。これは、率直に言って、問題のないところに無理に問題をつくり出すといった式の話でしたが、この時点では、それが解決のつかない重大問題に見えたのでした。

 マルクスはそこからぬけだそうとして、あれこれの奇策や邪道にまで考えをめぐらせたようで、その様子はあちこちにちりばめられた溜息まじりの言葉からもうかがわれます。

 『しかし待て!ここにはなにかちょっとした儲け口はないか?』、『突然、仮定をすり替えてはならない』、資本主義的機構に固着している『汚点』を『理論的諸困難をかたづけるための逃げ道として利用してはならない』

 マルクスは、ついに、考察の途中で筆を投げたようで、第三回目の挑戦は、『Ⅱの資本家たちの一部のあいだにおける追加貨幣資本の形成が、他の一部の明確な貨幣喪失と結びつく……』と書いたところで、ぷつんと途切れています。こういうことも、マルクスの草稿では、珍しいことでした。」 

 これが、私が解説した『資本論』の箇所の不破さんの、悪意に満ちた、解説です。

 マルクスもとんでもない人物に見込まれてしまったものです。マルクスはここまでの論及で、部門Ⅰの内部での拡大再生産について述べるとともに、なによりも、単純再生産のもとでは資本蓄積の条件はなく拡大再生産の継続が不可能だということを説明し、単純再生産の前提は資本主義的生産とは両立しないということを、謬論に反論しながら論証してきたのです。マルクスは、不破さんが言うように謬論にしがみついたのではなく、謬論に反論し克服してきたのです。

 不破さんが、「マルクスはそこからぬけだそうとして、あれこれの奇策や邪道にまで考えをめぐらせたようで、その様子はあちこちにちりばめられた溜息まじりの言葉からもうかがわれます」と言う、マルクスの「溜息まじりの言葉」とは『資本論』のどのような場面で使われてきたのか、『資本論』と私の解説をお読みになった方には不要な説明ですが、不破さんの「解説」だけを読んでその気にさせられている人のために、不破さんのペテン師ぶり、詐欺師ぶりを明らかにするために、いっしょに見てみましょう。

 まず最初に出てきた、「しかし待て!ここにはなにかちょっとした儲け口はないか?」とは、悪知恵を働かせて、新たな貨幣資本の形成のための源泉を探し求める、あくどく、狡猾な、資本家の言葉をマルクスが代弁したものです。そして次の「突然、仮定をすり替えてはならない」は、そのような考えにもとづいて、「賃金をその正常な平均水準よりも低く圧し下げる」ことによって新たな貨幣資本の形成のための源泉を見つけだそうとすることにたいして、「正常な資本形成」からの逸脱として、「突然、仮定をすり替えてはならない」とマルクスが述べたものです。最後の「資本主義的機構に固着している『汚点』を『理論的諸困難をかたづけるための逃げ道として利用してはならない』」という言葉は、これら全体を総括して、マルクスが「要するに、資本主義的機構の客観的な分析にあっては、今なおこの機構に例外的に付着しているある種の汚点を理論的な困難を除くための逃げ道として利用してはならないのである。」(大月版)と述べた言葉を不破さんがつまみ食いしたもので、「あれこれの問題を見つけだし」たり、「あれこれの奇策や邪道にまで考えをめぐらせ」ようとする、大多数の「ブルジョア的批判者」や不破さんたちをマルクスが戒めたものです。だから、これらの言葉は、マルクスの「あちこちにちりばめられた溜息まじりの言葉」などではまったくありません。

 そして不破さんは、「マルクスは、ついに、考察の途中で筆を投げたようで、第三回目の挑戦は、『Ⅱの資本家たちの一部のあいだにおける追加貨幣資本の形成が、他の一部の明確な貨幣喪失と結びつく……』と書いたところで、ぷつんと途切れています。」と述べていますが、最初に確認しておきたいのは、『資本論』でマルクスが論及しているのは、新たな貨幣資本の形成のための源泉を探し求めることではなく、そのようなことは「おぼつかない」、理屈に合わないことだということです。そして、その理屈に合わない方法は「ただ二つの道だけによって可能」だとして、そのうちの一つである「資本家Ⅱの一部分が他の部分をだまして銭盗りに成功すること」をあげています。そして、草稿はここで中断され、もう一つの方法は示されていません。しかし、そのこと(一つの方法が示されていないこと)をもって、「マルクスは、ついに、考察の途中で筆を投げたようで」などと言い、「『Ⅱの資本家たちの一部のあいだにおける追加貨幣資本の形成が、他の一部の明確な貨幣喪失と結びつく……』と書いたところで、ぷつんと途切れています」などと表現するのは、いかにも作為的ではないでしょうか。不破さんが、そのうち、「マルクスは、ついに、資本主義の考察の途中で『資本論』執筆の筆を投げたようで、1881年に草稿の執筆がぷつんと途切れています」などと言い出さないことを願うばかりです。

 そして、不破さんは、エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまった」と言います。確かに「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け」や不破さんの気づかない計算間違い等はあるかもしれませんが、エンゲルスの編集は、『資本論』とこれまでの私の解説を見ていただければ分かるとおり、十分「筋道」は立っており、以降の展開のうえでも「筋道」の立ったものとなっています。そして、この草稿で示されなかった「もう一つの方法」を必死にさがし、マルクスの草稿とマルクスの意図を最大限生かそうと努めたエンゲルスの編集にたいし、不破さんは、「エンゲルス流の解説までくわえて」と揶揄し、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまった」と悪罵を投げつけます。そのくせ、「エンゲルス流の解説」とは何かも言わず、とこがどう「筋道」が立っていないのかも言わない。読者を馬鹿にしているとしか思えません。

「第二一章」から私たちは何を学ぶか

「第二一章」はマルクスの試行錯誤をエンゲルスが誤って「本論」に入れてしまったものではない

 不破さんの「第二一章」の解説は10ページで、そのうちの7ページ半はマルクスの馬鹿さ加減とエンゲルスの編集のまずさの紹介で、不破さんの言う「本論」の解説は2ページ半に凝縮されており、その中には自らの著著の紹介も1/3ページほどあり、盛りだくさんの内容となっています。たった2ページ半にも満たない、不破さんのいう「第二一章」の「本論」で不破さんが解説していることは、マルクスが拡大再生産の順調な進行のために必要な条件として、Ⅰ(v+m)>Ⅱcという関係を発見したということだけです。そして、不破さんは、「この発見は、マルクスを大いに喜ばせたようで、その条件の重要性を、短い文章の中で言い方を換えながら四回もくりかえしたほどでした。」と自らの理解力のなさをマルクスにたいする罵倒で補っています。

 不破さんは、「言い方を換えながら四回もくりかえした」という文章の一つに「Ⅰ(v+m)がⅡcに等しいという単純再生産の前提は、資本主義的生産と両立しない」という文章の一部をあげていますが、このマルクスの認識は、不破さんの言う「二回目の挑戦」まででマルクスが論証したことを別な表現(拡大再生産が行われる場合の)表現であらわしたものです。なお、不破さんが抜粋した「Ⅰ(v+m)がⅡcに等しいという単純再生産の前提は、資本主義的生産と両立しない」という文章は「だけではない。」という重要なシッポが付いていますが、その点の解説はもう少し後でおこないます。

 このように、不破さんの言う「本論」なるものは、不破さんの言う「エンゲルスの編集上の誤り」を土台にして書かれています。そもそもⅠ(v+m)>Ⅱcという関係は「一 第一例」の表式Bで初めて出てきたものではありません。「一 第一例」の表式Bの説明で「(1000v+500m)Ⅰが1500Ⅱcと取り替えられることは、単純再生産の過程であって、すでに単純再生産のところで明らかにしておいた。」(大月版P632)と述べられていますが、不破さんの言う「第三回目の挑戦」の「表式a」として出てきたものです。この文章に続く「……は、すでに論究した。だから、それはそのままⅠcに合体されてよいのであって、……」(大月版P633)という文章のなかの「すでに論究した」とは、不破さんの言う「第一回目の挑戦」のところで、(PDFファイルで読んでいる方は、この部分にアンダーラインを引いておいて下さい。)と書いておいた、大月版の619ページ(PDFファイルの37ページを参照)で述べられていることです。

 そして、滑稽なのは、不破さんが、マルクスの試行錯誤の経過をそのまま本論として本文に再現した「エンゲルスの編集上の誤り」によって『資本論』の載ってしまったという文章を、次の「(9)資本主義的生産の前途をめぐって」という節で、「再生産論が何を明らかにするのか、という根本問題について述べた次の言葉」として、恥も外聞もなくページの半分を使って引用していることです。(この点は、またあとで触れます。)

 このように、不破さんによって「エンゲルスの編集上の誤り」というレッテルを貼られ、「マルクスの試行錯誤の経過」などと揶揄されたマルクスの草稿は、『資本論』にとって必要であっただけではなく、不破さんにとっても必要な文章だってのです。

「第二一章」で述べられている大事なこと

 不破さんは、「(10)書かれなかった恐慌論の内容を推理する」という最後の節で『資本論』の未完の部分の「推理」を行っており、その内容はあとで触れますが、不破さんの資本主義の捉え方をよく表すものとなっています。そして、この『資本論』の解説書も、その全体が不破さんのそのような資本主義の捉え方によって書かれています。

 私も、マルクスは「第二一章 蓄積と拡大再生産」で筆を置くつもりはなかったと思っています。『資本論』全体の構成についての私見は、不破さんの「(10)書かれなかった恐慌論の内容を推理する」を検討するところで述べたいと思いますが、ここでは、マルクスが想定していたであろう、「第二二章」「資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の限界」に繫がる「第二一章」でのマルクスの大切な指摘を二つ、順を追ってピックアップしてみたいと思います。なお、「第二一章」のこれまでの拙文もそのような考えにもとづいて書いてきたつもりです。

 マルクスはこの章のこれまでの論及で、資本の流通過程そのものの複雑さが再生産の不正常な進行の多くのきっかけをあたえることを述べてきました(大月版P614参照)が、ここでは、拡大再生産が、「ⅠはⅡの追加不変資本を自分の剰余生産物のなかから供給しなければならないのであるが、Ⅱはそれと同じ意味でⅠの追加可変資本を供給する」(大月版P642)ことを前提としており、「Ⅰで剰余生産物Ⅰmが直接に資本Ⅰcにつけ加えられる場合と同様に、Ⅱでの再生産がすでにそれ以上の資本化への傾向をもって行われている」(大月版P643)ことを前提としていることを明らかにします。同時にマルクスは、これまでの論及のなかで、資本主義的生産様式の社会であるがゆえに、まさに「資本」という貨幣の存在が、円滑な拡大再生産の足かせとなること(大月版P606参照)を述べてきましたが、「信用制度のもとでは一時的に追加的に遊離させられた貨幣がすべてすぐに能動的に追加貨幣資本として機能することになる」(大月版P643)ことに論及し、「信用制度」が上記のような困難を緩和させることを述べます。ここで大事なことは、資本主義的生産様式の社会における拡大再生産は常に相対的過剰生産の芽をもっており、信用制度による「貨幣」の「資本」化と金融の円滑化がその芽を包んでいるということです。これが一つ。

 もう一つの大切な指摘は、これもこの章のマルクスのこれまでの論究で明らかにしてきた、「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」(大月版P646)ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということです。つまり、資本主義的生産様式の社会において「資本」は大海原を走り続けるマグロのようにⅠ(v+m)>Ⅱcという関係のなかで走り続けなければならず、走り続けることによって生産と消費の矛盾は拡大し、それはなんらかの方法で調整されなければならないということです。

 不破さんは、不破さんの言う「本論」以前の論及を無視して、Ⅰ(v+m)>Ⅱcという関係の本当の意味を理解することができず、「この発見は、マルクスを大いに喜ばせたようで、その条件の重要性を、短い文章の中で言い方を換えながら四回もくりかえしたほどでした」などと自らの理解力のなさをマルクスにたいする罵倒で補い、自らの著著の宣伝に明け暮れています。これでは、『資本論』とマルクス・エンゲルスがあまりにも可哀想すぎます。そして、このような解説書を読まされた人たちは、ただただ、〝不幸〟としか言いようがありません。

 なお、不破さんが『レーニンと「資本論」』の執筆当時(1998-2001年)、「恐慌論解決のヒント」を求めて勉強したときは気付かなかったが、「最近」(2014-2015年)、レーニンが20代のとき書いた『ロシアにおける資本主義の発展』に「『資本論』全体のなかで恐慌論を代表する文章」が入っていることに気づいたという話は前にも述べましたが、この時、不破さんはレーニン全集の第三巻の32ページまでは読んだようですが、あと二ページ、10年以上前と同じように「眼を通す」のではなく、しっかりと、熟読すべきだったと思います。そうすれば、「それ(生産の発展──青山)に照応する消費の拡大のないこの生産の拡大こそ、資本主義の歴史的使命とその固有の社会的構造とに照応している」こと、「マルクスの行った実現の分析は、『不変資本と不変資本とのあいだの流通が、……終極においては個人的消費によって制限されている』(『資本論』)ことをしめした」だけでなく、「この同じ分析は、この『制限』の真の性格をしめし、国内市場の形成においては消費資料が生産手段にくらべてより小さな役割しか演じないことを、しめした」ことが書かれており、不破さんがマルクスの再生産論から、どちらも大事ではあるが、「Ⅰ(v+m)>Ⅱc」という関係と「均衡は、一つの偶然だ」という資本主義的生産の無政府性とだけを学ぶという、トンチンカンな『資本論』の理解などしないですんだかも知れません。

「第二一章」をまったく理解していない不破さん

 不破さんの「(9)資本主義的生産の前途をめぐって」という節の「再生産論と恐慌の可能性」という最初の小見出しの文章は、不破さんが、「第二一章 蓄積と拡大再生産」の内容をまったく理解していないことを自ら語っています。

 不破さんは、開口一番、「こうしてマルクスは、単純再生産に続いて、拡大再生産の問題でも、資本主義的生産のもとで順調な進行が可能であることの証明に成功しました。」と言います。不破さんは、「第二一章 蓄積と拡大再生産」で何を学んできたのでしょうか。不破さんが「第二一章」の「本文」について言っているのは、マルクス・エンゲルスと『資本論』の悪口と、「マルクスが拡大再生産表式を描き出す方法を会得した」ことと、拡大再生産の条件として「Ⅰ(v+m)>Ⅱc」という関係がなりたつということでした。そして、私はこれまで、不破さんが「マルクスが拡大再生産表式を描き出す方法を会得した」と間抜けなことを言っているなどということは、不破さんの名誉のために、このページに書きませんでした。しかし、私は、上記の文章を読んで、不破さんがなぜ「間抜け」なのかを説明せざるを得なくなりました。

 マルクスは「拡大再生産表式を描き出す方法を会得した」のではありません。マルクスは、単純再生産表式と拡大再生産表式を使って、資本主義的生産様式の発展法則をあぶり出し、「資本」と「拡大再生産」との関係を明らかにしたのです。その大まかな内容は、「『第二一章』で述べられている大事なこと」にまとめてありますので、是非、ご覧下さい。マルクスは、「拡大再生産表式を描き出す方法」を会得するために失敗を繰り返し、それを誤ってエンゲルスが「本論」に入れてしまったという不破さんの主張は、科学的社会主義の思想の無理解と深く関わっています。

 「『第二一章』で述べられている大事なこと」でも書きましたが、マルクスは不破さんが言うように、「単純再生産に続いて、拡大再生産の問題でも、資本主義的生産のもとで順調な進行が可能であることの証明に成功し」たのではありません。マルクスは、「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということを「第二一章」を通じて明らかにしたのです。

 不破さんは、続いて、「再生産論が何を明らかにするのか、という根本問題について」語っているらしい文章を書いていますが、私にとっては『資本論』の「第二一章」を遙かに超える「難解さ」のため要約することができませんので、ちょっと長くなりますが、全文を掲載したうえで論評したいと思います。以下、不破さんの文章の抜粋です。

 「マルクスが、単純再生産の場合でも、拡大再生産の場合でも、一定の均衡条件が必要であることを明らかにしたことは、その条件が失われたときには『社会的総資本の再生産と流通』に破綻が生じうることを、具体的に示したことにほかなりません。

 この点では、マルクスが拡大再生産の理論の探究を始めた時期、はっきり言って、一八八〇年から八一年という、これから第一回の挑戦に向かおうという模索の時期に、再生産論が何を明らかにするのか、という根本問題について述べた次の言葉は、まさに問題の本質をついたものだと言えるでしょう。

『商品生産が資本主義的生産の一般的形態であるという事実は、貨幣が資本主義的生産において単に流通手段としてばかりでなく、貨幣資本としても演じる役割をすでに含んでいるのであり、また、この生産様式に固有な、正常な転換の一定の諸条件を、したがって再生産──単純な規模でのであれ拡大された規模でのであれ──の正常な進行の諸条件を生み出すのであるが、これらの諸条件はそれと同じ数の異常な進行の諸条件に、すなわち恐慌の可能性に急転する。というのは、均衡は──この生産の自然発生的な姿態のもとでは──それ自身一つの偶然だからである。』(大月版P613)」

 どうです、難しいでしょう。文脈が流転しているのです。この文章をもとに、「この文章でいう根本問題とは何か」また「問題の本質とは何か」、具体的に答えなさい、という国語の試験問題でも出されたら不破さんといえどもお手上げでしょう。もっとも、不破さんの文章の特徴の一つは、前にも指摘した通り、何だかよくわからない抽象的なことを言ってその気にさせるという、いかさま「宗教」のような説得術を旨とするものですから、この文章もそれほど変わったものというわけではありません。

 愚痴はこれくらいにして、本題に戻ると、はっきりしていることは、ここでの「根本問題」は「再生産論が何を明らかにするのか」ということで、上記の『資本論』からの引用文はその「根本問題」を述べた文章で、それは「問題の本質をついたもの」だと言うのです。「再生産論が何を明らかにするのか」ということ、つまり、「再生産論」の目的は上記の引用文の内容だというのです。不破さんによって「エンゲルスの編集上の誤り」というレッテルを貼られ、「マルクスの試行錯誤の経過」などと揶揄されたこのマルクスの草稿は、『資本論』にとって必要な構成部分であっただけではなく、このように、不破さんにとっても、「再生産論が何を明らかにするのか」という「根本問題」を述べた文章で、それは「問題の本質をついた」重要な文章だってのです。

 確かに、この文章は、マルクスが、「第二一章」「第一節 部門Ⅰでの蓄積」の「一 貨幣蓄蔵」のなかで、部門ⅠのAが「貨幣蓄蔵をなしとげるのは」、彼の剰余生産物を売って、それを「流通から引きあげて貨幣として積み立てる」ことによってであることを述べた後で、「ここでついでに次のことを言っておきたい」として、「資本主義的基礎の上での年間生産物の正常な転換」は、一方的な諸商品の売り買いの「均衡」という仮定のもとでのみ保たれていること、そして、そこで流通する貨幣についていえば、「商品生産が資本主義的生産の一般的形態だという事実は、すでに、貨幣が単に流通手段としてだけではなく貨幣資本としてもそこで演ずる役割を含んでいる」ことを述べ、この「均衡」は「それ自身一つの偶然」であり、非常に複雑な資本の流通過程がその正常な進行の妨げとなる多くのきっかけを与えていることを述べた文章の一部で、「流通する貨幣」の資本主義的生産様式の社会での役割と「資本」として利潤追求のためにしか使えない限界等じっくり考えていただきたい点を含む有意義な文章ですが、この文章に書かれていることがマルクスの「再生産論」の目的だというのは、不破さんらしいあまりにも視野の狭い、「第二一章」をまったく理解していない、とんでもない謬論です。

  なお、不破さんの文章を書かれたとおり読むと、先ほど見てきたとおり、『資本論』からの引用文はその「根本問題」を述べた文章で、それは「問題の本質をついたもの」だとなりますが、これでは「問題の本質をついたもの」というのが何のことなのかさっぱり分かりません。不破さんの文章は、文脈がゴチャゴチャになっていて非常に混乱した文章になり、「この点では」という言葉が浮き上がって行き場を失ってしまっていますが、不破さんは、「この点では」という言葉を「まさに問題の本質をついたものだと言えるでしょう」という文章にかかる言葉として、「一定の均衡条件が必要である」という点では、「均衡は、一つの偶然だからである」というのが、まさに問題の本質をついたものだと言えるだろう、と言いたかったのでしょう。何を言っているのか何だかよくわからないが、不破さんはもっともらしいことを言っていると読者に思わせるために、「均衡は、一つの偶然だ」という資本主義的生産の無政府性は、ずいぶん長い旅をさせられたものです。

 「第二一章」の「本論」などお構いなしに「再生産論が何を明らかにするのか」という「根本問題」を探し当ててしまった不破さんは、マルクスが再生産に係わる論及のなかで私たちに気づかせてくれた資本主義的生産様式の社会の生産の仕組みの特徴などまったく無視して、「(10)書かれなかった恐慌論の内容を推理する」とのタイトルで、「第二一章」の先にあるものを論究します。

不破さんの、自説へ誘導するためのマルクスの改ざん

 不破さんは、「(10)書かれなかった恐慌論の内容を推理する」として、「ここで、残されたマルクスの論述をもとに、それぞれの問題(①恐慌の可能性②恐慌の根拠③恐慌の運動論──青山注)のより立ち入った検討を試みたいと思います。」と述べて、論を進めます。

「恐慌の可能性」についての不破さんの「より立ち入った検討」

 「(1) 恐慌の可能性」で、不破さんは、先に見た、「再生産論と恐慌の可能性」という小見出しのところで、「再生産論が何を明らかにするのか、という根本問題について述べた次の言葉」として抜粋した文章のなかで、マルクスが「再生産の正常な進行の諸条件を生み出すのであるが、これらの諸条件はそれと同じ数の異常な進行の諸条件に、すなわち恐慌の可能性に急転する」と指摘した点に、「恐慌の可能性のもっとも重視すべき形態があることは、間違いないところだと思います。」と「より立ち入った検討を試み」ます。

 マルクスのこの文章は、「ここでついでに次のことを言っておきたい」として述べられているからこそ、そして、「商品生産が資本主義的生産の一般的形態であるという事実は、貨幣が資本主義的生産において単に流通手段としてばかりでなく、貨幣資本としても演じる役割をすでに含んでいるのであり、また、」として続けて述べられているからこそ意味があり、「均衡は、資本主義的生産様式の生産のもとでは、それ自身一つの偶然だからである」という重要だがマルクス主義者にとっては当たり前のことが述べられているのであり、残念ながら、「より立ち入った検討」の試みなどと言えるものではありません。

 なお、「再生産論と恐慌の可能性」という小見出しのところでは、マルクスの「再生産論が何を明らかにするのか、という根本問題について述べた次の言葉」として抜粋したはずの文章が、ここでは、「再生産と流通を研究する過程で浮かび上がってきた可能性」の文章になってしまいました。前言が誤りであったなら、すなおに認めるべきです。そして、この文章は、「再生産と流通を研究する過程で浮かび上がってきた可能性」を述べたものではなく、マルクスの頭の中にはすでにあり、「ここでついでに次のことを言っておきたい」として論及したもで、「論究」したものではありません。マルクスを馬鹿にしないで下さい。

 「恐慌の可能性」についての「論究」が「均衡は、資本主義的生産様式の生産のもとでは、それ自身一つの偶然だからである」だけではあまりにも寂しいので、「恐慌の可能性」についての科学的社会主義の思想に「論及」してみたいと思います。

 資本主義的生産様式のもとでの資本主義的商品生産は、社会全体の経済が私的な商品資本の生産によって成り立っており、社会全体のバランスのとれた必要を満たすための生産ではなく、私企業が利潤を得るための生産であり、金融機関の与信業務も私的資本主義的に行われています。そのために、価値実現(商品資本から貨幣資本への転換)の正常な進行、資本の正常な運用は保証されていません。これが、資本主義的生産様式の社会での「恐慌の可能性」が常に存在する理由です。社会的生産を私的資本が担っていることが、「恐慌の可能性」が常に存在する理由なのです。

「恐慌の根拠」についての不破さんの「より立ち入った検討」

 「(2)恐慌の根拠」で不破さんは、まず、「資本主義以前の経済は、恐慌という現象を知りませんでした」と述べ、「その原因は、資本主義が、剰余価値の取得と拡大を唯一の推進的動機、規定的目的とする生産体制だというところにあります」と言います。しかし、この説明は、正しいようで正しくありません。これが正しい答えだとしたら、資本主義社会で起きる問題はすべてこう答えれば正解になってしまいます。資本主義以前の経済が、恐慌という現象を知らなかった理由は、①資本主義以前の経済は資本主義的商品経済が支配的ではなく②資本主義的生産は拡大再生産を前提とし、拡大再生産なしには存立できないということ③資本主義的商品経済は景気循環を伴って発展するということ、の三点です。

 そして不破さんは、「恐慌の根拠」として、「資本主義的生産の衝動と対比しての……大衆の貧困と消費制限」を挙げています。これも、残念ながら、重要だがマルクス主義者にとっては当たり前のことが述べられているのであり、「より立ち入った検討」の試みなどと言えるものではありません。※不破さんが抜粋した「恐慌の究極の根拠」の全文は、ホームページ「温故知新」→「1、マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「F、18世界市場、19恐慌」の「19-20恐慌の究極の根拠(原因)は」をご覧下さい。

 「第二一章 蓄積と拡大再生産」は、不破さんも述べているとおり、『資本論』の最後の草稿です。このマルクスの『資本論』の最後の草稿で、マルクスが「第二一章」の草稿を執筆する中で論究し、そして、私たちに論及しようとしたことは、「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということでした。これが、資本主義的生産様式の社会での「蓄積と拡大再生産」の法則です。

 このマルクスの理論的到達点を踏まえて「恐慌の根拠」について「より立ち入った検討」をするならば、資本主義的生産は拡大再生産を前提とした生産であり、資本主義的生産様式の社会における「恐慌の根拠」は、この拡大再生産に基づく日々拡大する生産力と労働力の再生産費の漸増・漸増的な消費力との矛盾にあります。

「恐慌の運動論」についての不破さんの「より立ち入った検討」

 不破さんは、「(3)恐慌の運動論」で、「マルクスは『五七~五八年草稿』を書いたときに、自分は恐慌の運動論を解決したという確信をもっていた」が、「その時、マルクスがもっていたという解答は、利潤率低下の法則に恐慌の根源を求めるもので、数年後には、マルクス自身がその誤りを認めて、放棄せざるを得なくなる解答でした」と述べて、恐慌問題についてのイギリス議会の報告書に対し、当時、マルクスが「自分は恐慌の運動論を解決したという」誤った「確信」に基づいて、「痛烈な批判をおこなった」かのように言い、その後、「一八六五年に到達したのが」、「『流通時間の短縮』という運動形態の発見に始まる新しい運動論でした」と述べて、「より立ち入った検討」を終えています。

 不破さんらしいといえば不破さんらしいですが、不破さんが「より立ち入った」のは、なんの具体的事実も示さず、土足で踏み込むようにマルクスにデマを浴びせかける。不破さんが「健闘」したのは、それだけです。「利潤率低下の法則に恐慌の根源を求める」というデマについては、以下で、不破さんの誤りを正しますが、「マルクス自身がその誤りを認めて、放棄せざるを得なくなる」という点について、私は、そのような事実を知りませんので、是非、ご教示いただきたいと思います。

日本社会の転換点になるべき時期に日本共産党の隊列に加わった70年代の青年たちに、「共産党」を壊し続けてきた不破さんは、いつになったら責任を感じることができるのだろうか。

不破さんのマルクスの改ざんの中身

不破さんの言うマルクスの「必然的没落」の理論

 すでに、「マルクスへの誹謗を抑えた、抽象論による自説への導入」(PDFの7ページ)でも触れ、重複しますが、不破さんは、『前衛』2014年12月号で、「マルクスの恐慌論を追跡する」と題して、自ら創作した「マルクスの恐慌論」なるものについて、「恐慌と革命の相互作用によって資本主義社会の変革の時代が始まるのだ──これが、マルクス、エンゲルスが当時の革命経験から引き出した資本主義社会の『必然的没落』の理論でした。この見方を、『恐慌=革命』説と呼ぶことにします」と述べ、「マルクスは、利潤率低下の法則のなかに資本主義の『必然的没落』の最大の根拠を求め、そのことを背景として恐慌が反復し、そこから『資本の強力的な転覆』をもたらす社会変革の過程が始まるという見方を、それまでの資本主義的生産の分析から引き出される決定的な結論として、展開したのでした」とレッテルを貼ります。

 つまり、「恐慌と革命の相互作用によって資本主義社会の変革の時代が始まる」、これがマルクスの「資本主義社会の『必然的没落』の理論」だというのです。そして、その「資本主義の『必然的没落』」の「最大の根拠」が「利潤率低下の法則」だと言います。

 しかし、この不破さんの主張は出発点から間違っています。マルクスもエンゲルスも「恐慌」は「政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と考えていたが、「革命」は「恐慌」によってのみ起こるなどとは考えていませんでした。つまり、「恐慌=革命」説などとっていませんでした。マルクスとエンゲルスは「恐慌」を含む資本主義の歩みの一歩一歩が資本主義の矛盾を深め労働者の団結を拡げ社会主義社会への物質的基礎を準備するものと考えていました。

 そして、マルクスは、「利潤率低下の法則のなかに資本主義の『必然的没落』の最大の根拠を求め」てなどいませんでした。今から25年以上前に書かれた、不破さんがマルクスに「『恐慌=革命』説」のレッテルを貼るまえに書かれた、『科学的社会主義』(新日本出版)と『社会科学事典』(新日本出版)での「恐慌」についての説明でも、「恐慌の原因は資本主義の基本的矛盾」=「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」(エンゲルスのいう「根本矛盾」)にあること、「恐慌の究極的な根拠」は、「生産と消費の矛盾」(マルクスはこの「生産と消費の矛盾」をもたらす資本主義生産に内在する矛盾を「基本的矛盾」と言いました)にあることが述べられていますが、マルクスもエンゲルスも当時(今から25年以上前)の「共産党」の幹部もみな、「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」こそ「資本主義の『必然的没落』の最大の根拠」と考えていました。

 不破さんは『資本論』第一巻 第2分冊の「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる」(大月② P995F6-9)ではじまる、有名な文章を忘れてしまったのでしょうか。これは当時の共産党員の共通理解のはずです。不破さんが21世紀になって、出来損ないの「恐慌の運動論」をやっと発見したとたんに、なぜ、「資本主義の『必然的没落』の最大の根拠」まで変えられてしまうのでしょうか。これでは、マルクスが、あまりにも、かわいそうすぎます。

 レーニンも、『経済学的ロマン主義の特徴づけによせて』(1897年3月執筆、全集 第二巻P150~151,154~155) で、恐慌は「ただ一つの制度――資本主義制度だけの特殊な標識」であり、「生産(資本主義によって社会化された)の社会的性格と取得の私的な、個人的な様式との矛盾」の現れとして必然的に起こること、つまり、資本主義的生産関係の基で、資本主義の固有の現象として起こるのであり、資本主義の歴史的に過渡的な性格を証明するものであることを述べ、「資本主義の批判」は、資本主義的生産関係ときりはなされた「全般的な福祉とか、『自由に放任された流通』のまちがいとかいう言葉のうえに基礎づけてはならないのであって、生産関係の進化の性格のうえに基礎づけなければならない」ことを述べています。

 これらが、マルクス・エンゲルス・レーニンを含む科学的社会主義の思想の持ち主の変わることのない基本的な考え方です。

「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ意味

 つぎに、「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ意味について、マルクスからその代表的な言葉を聞き、その現代的な意味を考えてみましょう。

①マルクスの言葉を聞いてみましょう(おまけ付き)

○利潤率の低下の法則の作用のしかた

「この法則はただ傾向として作用するだけで、その作用はただ一定の事情のもとで長い期間のうちにはっきり現れるのである。」〈『資本論』第3巻 第1分冊 大月版④ P300〉

○資本の過多は、利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本の過多に関連している

「いわゆる資本の過多は、つねに根本的には、利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本──そして新たに形成される資本の若枝はつねにこれである──の過多に、または、このようなそれ自身で独自の行動をする能力のない資本を大きな事業部門の指導者たちに信用の形で用だてる過多に、関連している。このような資本過多は、相対的過剰人口を呼び起こすのと同じ事情から生ずるものであり、したがってこの相対的過剰人口を補足する現象である。といっても、この二つのものは互いに反対の極に立つのであって、一方には遊休資本が立ち、他方には遊休労働者人口が立つのであるが。」(同前 大月版④ P314-315)

○労働者の過剰人口が過剰資本によって充用されないのは、

「……労働者の過剰人口が過剰資本によって充用されないのは、それが労働の低い搾取度でしか充用できないからであり、また少なくとも、与えられた搾取度のもとでそれが与えるであろう利潤率が低いからである。」〈同前 大月版④ P321〉

○資本主義的生産の「健全な」運動に対応する諸関係が回復するのは(おまけ)

「では、どのようにしてこの衝突が再び解消して、資本主義的生産の「健全な」運動に 対応する諸関係が回復するであろうか?」「均衡は、大なり小なりの範囲での資本の遊休によって、または破滅によってさえも、回復する」「主要な破壊、しかも最も急激な性質のものは、価値属性をもつかぎりでの資本に関して、資本価値に関して、生ずるであろう。…金銀の現金の一部分は遊休し、資本として機能しない。…この攪乱や停滞は、…資本と同時に発展した信用制度の崩壊が生ずることによってさらに激化され、このようにして、激烈な急性的恐慌、突然のむりやりな減価、そして再生産過程の現実の停滞と攪乱、したがってまた再生産の現実の減少をひき起こすのである。」「生産の停滞は労働者階級の一部分を遊休させ、そうすることによってその就労部分を、平均以下にさえもの労賃引下げに甘んぜざるをえないような状態に置いたであろう。…繁栄期は労働者のあいだの結婚に幸いし、また子女の大量死亡を軽減したであろう。…価格低下と競争戦とはどの資本家にも刺激を与えて、…自分の総生産物の個別的価値をその一般的価値よりも低くしようとさせたであろう。…労働の生産力を高くし、不変資本にたいする可変資本の割合を低くし、…充用される不変資本の量は可変資本に比べて増大したであろうが、しかしこの不変資本量の価値は低下したかもしれない。そこに現れた生産の停滞は、後の生産拡大──資本主義的限界のなかでの──を準備したであろう。……資本の過剰生産というのは、資本として機能できる、すなわち与えられた搾取度での労働の搾取に充用できる生産手段──労働手段および生活手段──の過剰生産以外のなにものでもない。」〈『資本論』第3巻 第1分冊 大月版④ P317-320〉

 このように、マルクスは当然ながら、「利潤率低下の法則」が「恐慌」の「最大の根拠」などとは言っていません。不破さんは、マルクスが「利潤率低下の法則」が「恐慌」の「最大の根拠」だと言っていると言う以上、「推測」でなく証拠を、明確に示すべきです。

②「利潤率の傾向的低下の法則」をマルクスから学び、現代的な意味を考える

「利潤率の傾向的低下の法則」と拡大再生産

 「利潤率の傾向的低下の法則」は「剰余価値」の発見によってはじめて、科学的に明らかにされました。利潤率は「繁栄の絶頂期」には極限まで低くなり、資本主義的生産の「健全な」運動に対応する諸関係が回復する過程で資本の減価により上昇しますが、長い期間のうちに傾向的に低下します。景気循環のなかで、利潤率はこのような変動を繰り返しながら傾向的に低下し、それに応じて、資本主義社会における資本の価値、役割も傾向的に低下して行きます。

 この法則の下で、資本主義的生産を前提として、国家の富を増大できるのは、拡大再生産が際限なく続く条件のもとにおいてのみです。先進資本主義国は60年代末から70年代初めに、日用品が国民に広く行きわたり、「飛躍的に拡大していく生産」に見合うだけの消費の拡大が見込めなくなり、利潤率の低下を利潤の量によって償うことがますます困難になってきました。「利潤率の傾向的低下の法則」が資本に「資本」としての機能を低下させ、私的資本主義的所有のもとにある「資本」がますます活用されなくなり、社会的生産と社会的生産力への「桎梏」へと転化し始めたのです。先進資本主義諸国の経済停滞、「産業の空洞化」、海外の安い労働力の受け入れ、これらすべて、「利潤率の傾向的低下の法則」のもとでの資本の行動によって引き起こされたものです。

マルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」の意味を理解できない不破さんは、マルクスを自分の自己顕示欲のレベルまで引き下げる

 マルクスの天才的な洞察力を、二一世紀になっても理解できない不破さんは、「マルクスは、『利潤率の低下の法則』に現われた生産力の発展と生産関係との衝突こそが、恐慌と革命の時代を生みだしている、として、マルクスがとってきた『恐慌=革命』説の最大の根拠がここにあるとします」(『前衛』2014年12月号P36)と述べ、マルクスは「『利潤率の低下の法則』に現われた生産力の発展と生産関係との衝突こそが、恐慌と革命の時代を生みだしている」などと一言も言っていないのに、自ら作り上げた「『恐慌=革命』説」の咎を責めたてる根拠にマルクスが発見した「利潤率の傾向的低下の法則」を持ち出し、そのことによって、資本主義的生産様式における「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ大切な意味を葬り去ります。それだけではありません。不破さんは、『前衛』2015年1月号では、「利潤率の傾向的低下の法則」の解明の意義を、「これまでスミスもリカードゥも解明できなかった難問を自分が解決した」ことを誇っているだけだと、マルクスを自己顕示欲の強い不破さんと同じレベルにまで引き下げてしまいます。

 不破さんの言う「『利潤率の低下の法則』に現われた生産力の発展と生産関係との衝突」とは、〝「利潤率の低下の法則」により、資本主義的生産関係のもとで「資本」がますます利益を得られなくなり、「社会の生産諸力の発展」の「桎梏」になる〟という意味で、不破さんの生きている21世紀で現に起きている事実です。この事実を見ることもできず、恐慌が資本主義的生産様式の一番の矛盾の現れであり、「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」とマルクスとエンゲルスが考えていた時代に、事実に立脚する科学的社会主義を旨とするマルクスとエンゲルスが、不破さんの言うような「架空の需要」にもとずく「恐慌」を資本と国家がコントロールする能力を相当程度身につけた現代という〝未来〟を推論しなかったからといって、不破さんのように「利潤率の傾向的低下の法則」の意義を否定して、マルクスは「難問を自分が解決した」ことを誇っているだけだと、マルクスを自己顕示欲の強い不破さんのレベルにまで引き下げ、現代の資本主義経済を解明する大切な武器を放棄することは、けっして許されることではありません。

 標的を自分が攻撃できるように創作し、時空を越えた批判を行うことを旨とする人、だからこそ、その人は、今の日本の現実などお構いなしで、スターリンやマルクスを自分の嗜好にあわせて「研究」し『前衛』等の貴重な紙幅を占拠したかと思えば、沖縄に行って、「安保条約に基づいて通告すれば条約は破棄できる、これが伝家の宝刀だ」などと「講演」し、沖縄の「お」の字も理解できないノー天気ぶりを発揮しています。

 日本共産党の前委員長で現在の「共産党」に絶大な影響力をもつこの人が無関心な今の日本は、1980年代から大変な危機に突入し、その危機は、90年代の半ばには誰の目にも見えるように明らかになりました。このまま無策に時を過ごしてしまえば、日本は、本当に、沈没してしまいます。*なお、不破さんの沖縄での「講演」については、ホームページ「適時論題」→「那覇市での不破さんの講演に欠けているもの」を参照して下さい。

マルクス・エンゲルス・レーニンの頭と心でいまの日本を見る

 内閣官房内閣審議官などを歴任した水野和夫氏は、『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(2007年)で、先進国は成熟化と利潤率の低下により「新しい中世」に移行し、近代はBRICsに引っ越してしまったと言い、「新しい中世」に移行した先進国は資産価格を上げる政策を進めなければならないと主張していました。しかし、その後に書いた『資本主義の終焉と歴史の危機』(2014年)では、日本の「異常なまでの利潤率の低下」が1974年から始まったこと、「資本主義の限界とは、資本の実物投資の利潤率が低下し、資本の拡大再生産ができなくなってしまうことです」と、資本が「資本」として機能しなくなることを述べています。水野氏はまだ、「資本主義の先にあるシステムを明確に描く力は今の私にはありません」とのことですが、資本主義の限界を悟り「資本主義の終焉」に行き着くところまで進歩しています。

  マルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」の解明の意義を、「これまでスミスもリカードゥも解明できなかった難問を自分が解決した」ことを誇ることだなどという不破さんとは雲泥の差があります。元内閣官房内閣審議官の水野和夫氏に元日本共産党委員長の不破さんは越えられてしまったようです。

 なお、私は、ホームページ「日本社会の深刻な危機はいつ始まったのか」で示したとおり、〈失業率〉が1970年に 1.1%とボトムをつけ、〈自己資本比率〉も1975-6年に15%と最小を記録し、〈製造業就業者数〉は1973年に1400万人と最多となっていることから、70年代のはじめに、日本の「資本主義の終わりの始まり」がはじまったと見ています。そして、「空洞化」の影響が顕在化したのが95年で、以降GDPが停滞し、賃金・雇用環境が急速に悪化しはじめ、普通の資本主義的景気循環さえできなくなってしまいました。

 国内需要の充足のもとで「利潤率低下の法則」がはたらくと、資本は、海外への「資本」の移転──それは、国民が創った富を海外に持ち出し、海外で活用し、雇用を海外に移転すること──と賃金の抑制にはしり、その結果、国内産業の空洞化がもたらされ、労働需給が資本家優位となり、賃金の一層の低下と雇用・労働条件の悪化が進行します。同時に、福祉をはじめ、国内の労働集約型の産業の健全な発展も阻害されます。まさに、私的資本主義的生産が社会の生産諸力の「桎梏」となるのです。このように、剰余価値の発見によって証明された「利潤率低下の法則」は、日本における「資本主義的生産の役割の終了」を国民に曝露し説明する、ブルジョア経済学者も認める、重要な武器です。

 それにひきかえ、「恐慌の運動論」なるものを発見した不破さんは、リーマン・ショックについても、先進資本主義諸国の成長の限界とそのもとでの資本の運動を、まったく、見ることができず、事実に合わない「架空の需要=恐慌」説をベースに、資本とマネーの「現象的な流通」に問題を矮小化し、「過剰生産恐慌と金融危機の結合」などという、分かったような分からないような、観念論的で抽象的な規定をおこなって満足しているしまつです。

不破さんは、デマと捏造で、マルクスを観念論者に仕立てあげる

 許せないのは、不破さんがマルクスと「利潤率低下の法則」を攻撃するために、「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がないというのは、あまりにも現実離れした議論に見えます。しかし、『恐慌=革命』説を背景に、利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定がさきにあり、そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込みが、マルクスを、こうした無理な立論に固執させたのではないでしょうか。」(『前衛』2015年1月号P129)とデマと捏造でマルクスを観念論者に仕立てあげ、マルクスの身上の研究方法を誹謗することによって人格を傷つけていることです。同じことを何回も言ってすみません。私は、この件に関しては、ほんとうに怒っているのです。

 マルクスは「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がない」などと言ったことはありません。反論するのもばかばかしく、紙幅のむだなので、詳しくは下記のホームページをご覧下さい。そして、「利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定」をでっち上げ、そこから、「恐慌の運動論が引き出せるはずだ」という虚構をつくりあげたのは、マルクスではなく不破さんであり、「無理な立論」を捏造したのは不破さん自身です。マルクスを現実を見ない「観念論者」に仕立てあげる、こんなやり方は、絶対に許せません。

不破さんの、マルクスを利用しての自らの資本主義観の合理化

 不破さんは『前衛』2013年12月号(P97)で「マルクスは、はじめは恐慌が必ず革命を生むと考えてい」たが、「革命観に大きな転換が起き」、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」と思うようになったと、自ら作った「マルクスの革命観」の大転換について述べ、そしてマルクスは、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がなく、資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」ということを解明し、資本主義観の大転換を行ったと言います。

 不破さんは、やっと、馬脚を現わしてきました。

 マルクスは、「利潤率の低下の法則」が「恐慌の根源」だと言ったこともなければ「恐慌と関係ない」と言ったこともなく、「恐慌」が「資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること」の深い理解をもっていました。だから、「恐慌」が「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点」をつくることを認識するとともに、より一層矛盾が深まって行くことも理解していました。しかし、不破さんの発見した「恐慌の運動論」なるものは、恐慌を「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」「一局面」としか見ず、資本主義が進むにしたがって深まり拡大する資本主義的生産様式の矛盾を見ることがでません。このように、不破さんは、マルクスの「資本主義観の大転換」に名を借りて自らの資本主義観の合理化と公然化を図ろうとしています。

 以上、不破さんの3行余りの暴言を批判するのに、大変なスペースを費やしてしまいました。

※これらの不破さんの暴言についての詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、参照して下さい。

不破さんの「第二部の最後の章」の「推論」は的を射ているか

 不破さんは、「マルクスが、第二部の最後の章を書いたとすれば、おそらくその三つの要素((1)恐慌の可能性、(2)恐慌の根拠、(3)恐慌の運動論──青山)を含む体系的な恐慌論を展開したでしょう。」と述べています。

 しかし、私は、少なくとも不破さんのいう「恐慌の運動論」、不破さん流に言えば「架空の需要=恐慌」説に、つまり、資本主義経済の発展過程の一部の現象に、〝Das kapital〟を矮小化し、収れんさせていくとは思えません。

 不破さんは、『資本論』という「一つの芸術的な全体」(エンゲルスへの手紙)における、「第二一章」での一つ一つのパーツが担う意味をまったく理解できず、「マルクスの挑戦」などと言って、マルクスの失敗草稿を捨て去らなかったエンゲルスの編集を責め立てましたが、これまで見てきたように、不破さん自身、「第二一章」のもつ大切な意味をまったく理解できず、見落としています。不破さんは、残念ながら、資本主義の「必然的没落」の根拠を深く捉えて正しく理解することができません。だから、自らつくった「『恐慌=革命』説」と同程度の考えしか頭に浮かばす、〝Das kapital〟の〝?体〟部分、〝構造〟部分である「第二部」の「最後の章」が、「体系的な恐慌論を展開したでしょう」などと、「恐慌」にとりつかれた、狭隘な「最後の章」しかイメージできないのでしょう。

 私は、『資本論』の全体の構成について、わかりやすく言うと、①「第一部 資本の生産過程」は、「価値」、「資本」、「剰余価値とその生産」、「資本の蓄積過程」等資本主義における「資本」の「生産過程」の資本主義独自の「特徴」・「要素」を論究し、②「第二部 資本の流通過程」は、「資本の生産過程」が作用する資本主義の「骨格」・「?体」・「構造」を論究しており、③「第三部 資本主義的生産の総過程」は、「第一部」の資本主義独自の「特徴」・「要素」と「第三部」に出てくる資本主義の「市場」、「商業」、「信用」等の「機能」・「器官」が「第二部」の資本主義の「骨格」・「?体」と一体になって行われる「資本主義的生産の総過程」の具体的諸形態のメカニズムとその資本主義社会での認識のされ方を論究する、という構造になっていると考えています。だから、「恐慌論」そのものの本格的展開は、「恐慌」という資本主義的生産の総過程の具体的諸形態についての論究であり、「第三部」に属するものと考えます。

 そして、前に、私は、マルクスが、エンゲルスあての1868年の手紙で、『資本論』は、「資本の一般的本性」を究明し、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもり」であるといい、「第2巻は大部分があまりにも高度に理論的なので、ぼくは信用に関する章を、ぺてんと商業道徳との実状の告発に利用するだろう」と述べていることを紹介し、1878年11月には第2巻(第2部と第3部)の刊行が1879年の末には可能だと考えていたマルクスが、1879年に、「『現在のイギリスの産業恐慌がその頂点に達する以前には』第2巻を刊行しない、と言明し」、1880年には、「『ちょうどいましがた、若干の経済現象が新しい発展段階にはいった』ところであり、これらの現象が、新たな仕上げを要求していたのである」と述べていることも紹介して、「信用制度と経済恐慌との相互連関について」、「すでに、50年代の初頭に一定のイメージを得て」(『受救貧困と自由貿易──迫りくる経済恐慌』『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1852.11.1付等を参照。)いるマルクスにとって、1880年に「若干の経済現象が新しい発展段階にはいった」ことは、「理論的内容と内的構造とは主要な点においてすでに与えられて」いるが「もともとはあらゆる研究がもっている……荒削りの形態」である「草稿」を仕上げる絶好の好機が到来したと思ったのではないかと言いました。

 だから、「第三部」で「信用制度と経済恐慌との相互連関について」、「若干の経済現象が新しい発展段階にはいった」ことについて、本格的に論究し論及するであろうことは間違いありませんが、「第二部」全体の中でも論及するであろうことも間違いないと思います

資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の限界

 これらを踏まえて、「第二部 資本の流通過程」の「最後の章」を推測するとすれば、「資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の限界」または「拡大再生産の崩壊・資本の流通過程の崩壊」というようなタイトルになるのではないかと思います。

 マルクスが、「第二部 資本の流通過程」で明らかにした「資本主義的拡大再生産」の条件を踏まえて、資本主義的拡大再生産の延長線上での「資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の限界」とは何か。そのことをマルクスは論究し論及すると思います。

 資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の限界は、次の二つです。

①「利潤率の傾向的低下」により資本が「『資本』としての価値の傾向的低下」をもたらし、資本主義的生産様式の社会の発展的エネルギーを低下させること。

②拡大再生産を続けていく以外に存続の道のない資本主義的生産様式(「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということ)は拡大再生産の推進エンジンである部門Ⅰの絶えざる拡大と部門Ⅱの拡大を抑制する消費能力の逓増という二つの要因により制限されるということ。

 マルクスは、資本主義的生産が持つこの二つの要因が「資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の限界」であり、資本主義的生産様式における「拡大再生産の崩壊」と「資本の流通過程の崩壊」とをもたらすことを、徹底的に暴露するものと、私は考えます。

むすび──不破哲三氏の「『資本論』探究」の「第二部」解説の論評を終えて

 不破さんの「『資本論』探究」が、不破さんの「推測」と『資本論』の中の言葉の断片を継ぎ合わせた創作から成っているために、私は、『資本論』の中の事実を積み重ねることによって、『資本論』を読まずに不破さんの「『資本論』探究」を読んだ人にも正当な判断ができるよう、このページの編集を心がけてきました。

 その結果、「第一部」「第二部」それぞれのページの編集に2ヶ月強づつの時間を費やしてしまいました。その間、世界経済はトランプ米国大統領の仕掛けた貿易戦争によって大きく揺さぶられています。この「時事問題」は、ヨーロッパでの排外主義の強まりと、トランプ米国大統領の誤った「米国第一主義」にたいするグローバル資本主義の立場からの大合唱が唱えられているなかで、科学的社会主義の思想を世界の人民に示し、共感を得るうえで大切なテーマです。だから、私は、このページを公開したら、ただちに、この問題に取り組み、できるだけすみやかに、ページを公開をしたいと思っています。そして、その後に、「第三部」のページ作りに取りかかろうと思いますが、「第三部」も、たぶん、二つに分けて、それぞれのページの編集に約2ヶ月くらいの時間を費やさざるを得ないと、覚悟を決めています。

 そんななか、不破さんは、今度は、また『前衛』の紙幅を占領して、「『資本論』のなかの未来社会論」なる企画を10月号からスタートさせることを計画しています。

 私は率直に不破さんに言いたいと思います。もしも、不破さんが善意からこれまでのような「研究」を重ねてきたのだとしたら、そして、不破さんが本当に科学的社会主義の思想を人生の指針にしてきたのだとしたら、あなたはいま何をなすべきか真剣に考えて下さい。あなたがいまやるべきことは、一部の「共産党」員に向かって、牧師のように「未来社会」を説くことではありません。あなたは、『資本論』の解説などやめて、もう一度しっかり今の日本を見つめ直して、グローバル資本の行動を分析し、日本再生の展望を1億2660万人の日本人に示すことです。

 それがマルクス・エンゲルス・レーニンがえがく共産党員像です。そして、国民の関心に応えてこそ、「未来社会」への扉は開かれます。 

〈加筆〉

 上記「むすび」中で約束した「時事問題」に関するページ「トランプ大統領が仕掛けた貿易戦争と科学的社会主義の思想──「資本」同士の世界貿易戦争と科学的社会主義──」が、公開されていますのでお知らせします。是非、お読み下さい。