4-22-2

☆石川康宏氏は、唯物史観を認識の中心に据えるべきではないのか

 石川康宏氏の唯物史観を欠落させた資本主義発展論について (その2)

下のPDFファイルは4-22の全文です。

ダウンロード
4-22石川康宏氏は、唯物史観を認識の中心に据えるべきではないのか.pdf
PDFファイル 820.0 KB

 

ことわざ、名言集

 

『資本論』第3巻 第1分冊(大月『資本論』④ P105B3-2)に「ドイツの産業では、まず良い見本を送っておいてあとから悪い品を送ればそれで十分世間には喜ばれる、というのが原則なのである。」という文章があります。 

まさか、VWは、この言葉を忠実に守って行動しているのではないと思うが、あまりにもソックリなので、引用した。

 

仮面男はどこへ行く

 

石川先生のマルクス・エンゲルス・レーニンの歪曲と唯物史観を欠いた資本主義発展論を批判する

目次

4-22-1(その1)に掲載ずみ。

Ⅰ石川康宏氏のエンゲルスとレーニンの思考への幾つかの正しくない言及について
①国家独占資本主義を「資本主義の最後の段階」とよんだということについて(P20-21)
ⓐ石川康宏氏がまとめた「レーニンの議論のあらまし」には、レーニンの思想が反映されていない
ⓑ私が説明してきたレーニンの認識のなにが問題なのか………
②「全般的危機」論の克服と帝国主義論の発展にかんして(P22~23)

4-22-2(その2)

以下の内容がこのページに掲載されています。

③独占と計画性について(P20、25、26)のトンチンカンな独り相撲

④「最後の段階」規定が先にあり、「独占」段階論は後になって発見したという、レーニンの人格をゼロに低める暴論(P27)
⑤エンゲルスは「生産の無政府性」を資本主義の矛盾と捉えたという(P28-29)
⑥レーニンはエンゲルスの「資本主義」論に依拠したから誤ったという(P28-29)
⑦マルクスの資本主義論とエンゲルスの資本主義論とは違うという(P34~35)

Ⅱ資本主義の発展・成熟度をとらえる基準とは
①石川先生は、「国民による資本主義の民主的な管理がどこまで達成されているか」が資本主義の歴史的発展の度合いをはかる尺度だと「直感」でいう。
②それでは、これから資本主義はどのように発展するのか
ⓐ世界はどうなるか
ⓑ日本はどうなるのか
ⓒ資本主義から社会主義への発展をどのように準備するのか

Ⅲ絶望的な感想

*PDFファイルの引用文中で青色で表示されている文字は全集等で異字体で表記されているものです。

〈目次〉のカッコ内の文字は『経済』No232のページです。

Ⅰ、石川康宏氏のエンゲルスとレーニンの思考への幾つかの正しくない言及について

③独占と計画性について(P20、25、26)のトンチンカンな独り相撲

 石 川先生はP25で、「『無政府性』から『計画性』への変化をもって資本主義発展の段階をとらえるという、レーニンの基本見地」と、レーニンが資本主義の発 展段階を「無政府性」(個別資本のなのか、国家のなのか、社会のなのか不明だが)が無くなって「計画性」が増していく過程と見ていると独断したうえで、こ の「基本見地ははたして適切なのか」と、独り相撲を取りはじめます。
  石 川先生はP26-7で、レーニンの「独占の内容」として二つの「計画性」なるものをあげ、「独占(計画性)」として「独占」を「計画性」なるものに矮小化 したうえで、「レーニンは、なぜ、他のどの基準でもなく資本間の関係の変化を物差しに、資本主義の発展や段階をはかろうとするのか」と「幼稚」な質問を し、『帝国主義論』の3カ所の一部(全集第22巻P235-6、306-7、346)を抜粋して、そこでレーニンは「独占すなわち過渡期」といっているが 証明がないと、独り相撲を取ります。石 川先生は、後で出てくる「直感」などに頼らず、資本主義の発展を正面から見つめ、先生の言う「資本間の関係の変化」のもつ意味を、不破さんではなくマルク ス・エンゲルスの力を借りて、多面的に勉強すべきでした。そうすれば、「幼稚」の意味も「独り相撲」の意味もすぐわかります。
  石川先生はレーニン全集第22巻P236の7行目を抜粋して、「独占資本主義は社会主義への過渡にあたる段階なのだという結論」が理解できないと、理解できないことを誇っています。大学の先生が理解できないのだから、党員のなかには理解できない人がまだいるかもしれませんので、レーニンが全集第22巻P235-6で何を言っているのか、簡単に説明します。
 マ ルクスは『資本論』で、小経営は資本主義的私的所有によって駆逐され、諸資本の集中がおこなわれ、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花した この生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。 資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月『資本論』② P993~996)と言っています。
 これをふまえて、レーニンは言う。
 当 時の「帝国主義的段階」の資本主義が、小さな個別資本の完全な自由競争から巨大な独占資本が支配する時代に移り、その結果、「生産の社会化」が著しく前進 し、資源も技術も労働者も生産も彼ら巨大な独占資本が支配するようになった。そのことによって、資本主義は「生産の全面的な社会化にぴったりと接近する」 ようになった。このように「生産は社会的になるが、取得は依然として私的である。社会的生産手段は、依然として少数の人々の私的所有である。…(略青 山)…そして、少数の独占者のその他の住民にたいする抑圧は、いままでより百倍も重く、苦しく、耐えがたいもの」になると。つまり、レーニンは、「生産の 全面的な社会化」にぴったりと接近した「独占資本主義」は、ほんとうの意味で「生産の社会化」を豊かに発展させ、生産力を飛躍的に高めるうえでの「桎梏」 であるところの、少数の独占者が支配する、「私的資本主義的取得形態」をもった経済体制であり、それは、経済的には「社会主義への過渡期」であるというこ とを明確に述べています。このレーニンの考えは上記の『資本論』のマルクス・エンゲルスの考えと寸分の違いもありません。
  そして、つぎの「全集第22巻P306-7」からの抜粋でも、同様な理由で、「独占は、資本 主義からより高度の制度への過渡期である」ことを述べています。最後の抜粋「全集第22巻P346」は、「帝国主義の歴史的地位」という章の導入部分です が、「すでに見たように、帝国主義は、…」と「帝国主義」の簡単な定義の復習とその説明の一部です。この章のポイントも「独占資本主義」による「生産の社 会化」の進展とそれにふさわしくなくなっている外皮、つまり、「私経済的関係と私的所有者的関係」(資本主義的生産関係)の除去の不可避的についての記 述、つまり、「独占資本主義は社会主義への過渡にあたる段階」であることの説明です。
  し かし、残念ながら、石川先生には、これらの文章がもつ大切な意味が理解できなくなっているために、文字は見えても、文章を「説明」として見ることができな くなってしまいました。だから、「証明」がない、となってしまうのです。石川先生がこのように意味を正しく理解できなくなってしまったのにはそれなりの理 由があります。それは、どのような経緯かはわかりませんが、石川先生も、残念ながら、不破さんのマルクスの歪曲とエンゲルス、レーニンへの誹謗中傷の影響 をうけて、大学教授でありながら「幼児」期の「マルクス主義者」に、退化してしまったためです。これが、レーニンは「独占すなわち過渡期」といっているが 証明がないと、独り相撲を取る原因です。
 マルクスは資本主義的生産の矛盾について次の二つの矛盾を述べています。一つは資本主義生産に内在する矛盾(=資本主義的生産には「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの 矛盾」があること)で「基本的矛盾」(『資本論』第3巻 大月版 ④ P306-7及び『剰余価値学説史』Ⅲレキシコン⑦-[137]P251参照)といい、もう一つは分配関係・生産関係と社会的生産力とのあいだの矛盾と対 立で、エンゲルスのいう「根本矛盾」(『資本論』第3巻 大月版⑤ P1129)です。この「根本矛盾」が「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」であるからこそ、資本主義的生産様式は社会的生産力発展の「桎 梏」となるのです。(詳しくは、HP4-9「☆不破さんは「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を参照して下さい。)
 しかし、不破さんは、20世紀から21世紀にかけて約10年間かけてマルク スを歪曲する手がかりを発見し、はじめに、「根本矛盾」(不破氏は「基本矛盾」といっている)はエンゲルスが言っていることで誤りだといい、その重要な意 味を消し去るための努力をします。自分の謬論を幹部党員に吹き込むための「理論活動教室」第2講「マルクスの読み方」③(2014年9月9日に行われた) で、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは 調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月版『資本論』② P995F6-9)という文章を二つに分け、「桎梏になる」に続けて持論を展開し、もとの文章の明確な意味を曖昧にし、不破氏の「持論」がマルクスの意図 に沿った正しいものであるかのような創作をしたこのことは、前にも述べましたが、不破さんのマルクス主義者「幼稚化計画」は観念的な党活動とともに長い年 月をかけて進行します。
 取 得の私的資本主義的形態が生産の社会的性格・社会的生産力発展の「桎梏」となることを否定する不破さんは、マルクス主義者「幼稚化計画」の一層の推進に励 みます。もう、不破さんの独壇場です。不破さんは、エンゲルスもレーニンも配分方法のみを問題にし「夢」がないと言い、マルクスは労働時間の短縮による 「自由の国」を未来社会として描いたと言う。資本主義的生産様式の要である私的資本主義的取得を変革することを「夢がない」と否定し、日本共産党の綱領か ら労働者階級の歴史的使命を取り除いてしまいます。しかし、『資本論』(大月版⑤ P1050B3-1051B6)と『空想から科学へ』(P71-72、75)を読めば分かるとおり、「自由の国」とは「自己目的として認められる人間の力 の発展が」保障される国、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活 動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保」された国のことで、「それはただかの必然性の国をその基礎としてその上 にのみ花を開くことができ」る、資本主義的生産様式を変革して、社会主義の過渡期をへて実現される社会のことです。(詳しくはHP4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」及び4-20「「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった。」を参照して下さい。)
  つぎに、不破さんは、資本主義生産に内在する矛盾、「基本的矛盾」から「利潤第一主義」だけを取り出し、「利潤第一主義」にもとづく資本主義の弊害を全て「桎梏」だといい、資本主義的生産様式が生産の社会的性格の深化・生産力の発展の「桎梏」になることを私たちの視野から外させようとします。
  そ の結果、社会的生産諸力を一層発展させるためには社会主義的生産様式の社会が実現されなければならないという科学的社会主義の思想は脇におかれ(実質上放 棄され)て、「利潤第一主義」の改善が目的となり、「利潤第一主義」を遠因とする「地球温暖化」等ありとあらゆる未解決課題が資本主義社会の「桎梏」であ るとされる。「利潤第一主義」を解消させるべく、「ルールある資本主義」づくりが大目標となり、どれだけ日本が「民主的」になったかが重要な指標となりま す。資本主義的生産様式が続くかぎり不可能なこと、資本主義国にユートピア(無いものねだり)を求めます。科学的社会主義者が空想的社会主義者、一般民主 主義者へとどんどん若返って、ますます「幼稚」化していきます。
  そ して不破さんは、マルクスが1865年以前は「恐慌=革命」説なる幼稚な革命観・資本主義観をもっていたとマルクスに濡れ衣を着せ、マルクスの経済学をだ いなしにします。不破さんは、マルクスの恐慌論から、「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明した」ものだけを取り出し、本質を忘れ、そのなかの生産と販 売の分離による産業資本の価値「実現」の短縮、「価値実現を前提としない貨幣資本の取得とその再投資」による「架空の需要」を恐慌の原因とみる「恐慌の運 動論」なるものを創作し、マルクス経済学をすて去ります。剰余価値の発見によって証明された「利潤率の傾向的低下の法則」は、日本における「資本主義的生 産の役割の終了」を国民に曝露し説明するための、ブルジョア経済学者も認める、重要な武器ですが、不破さんは、自ら作り上げた「『恐慌=革命』説」ととも に「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ意味を葬り去ってしまいます。
 不破さんは、「リーマン・ショック」に関しても、事実に合わない狭い一 面的な「架空の需要=恐慌」説から「過剰生産恐慌と金融危機の結合」という、もっともらしい、観念論的で抽象的な結論を引き出しています。そこには、先進 資本主義諸国での「資本」の過剰と「産業の空洞化」、世界的なマネーの過剰のもとでの金融資本によるペテン的な資産の水増しと購買力の創出など、今日の資 本主義がまったく眼中にありません。現代の経済現象から、資本とマネーの行動原理とその国民経済への影響から、党員・国民の目をそらさせ、現代の資本主義 の構造問題を資本とマネーの「現象的な流通」問題、単なる現象形態に矮小化することによって、マルクスの経済学を破壊しています。その結果、生産の社会的性格の発展を妨げる資本主義的生産様式が今の日本をどのような状態にしているのか、資本主義的生産様式の矛盾がどう現れているのかをリアルに摑むことが妨げられ、産業の空洞化のもつ深刻な意味 が理解できず、マルクスの言う、労賃が増加すれば恐慌がなくなると考える「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」への転落の道へ党員を導き、国民に正し い変革の方向を提起できなくしています。不破さんは、「利潤第一主義」が今の資本主義のもとで「資本」にどんな行動をとらせるのかも、それが国民生活にど んな影響を及ぼすのかも曝露せず、「資本」の資本主義的生産様式のもとでの私的所有による国民無視の身勝手な行動を制限しないかぎり、今の日本の「危機」 の解決はないことなどいっさい語りません。
 不破さんは、「資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、こうして、人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう」と言う。資 本主義社会での経済発展の推進力は資本主義的生産様式です。抽象的・超歴史的な「利潤第一主義」などではありません。そして、社会主義社会での社会発展の 最大の推進力は、社会的生産の一層の発展と取得の社会的性格の深化、人類全体の真の利益と個人の利益の統一だ。その実践のなかで新しい民主主義と新しい民 主的に豊かになった人間がつくられていきます。「自由な時間」が「自由の国」だという不破さんの創作は、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」という思想(空想)に発展し、党員を唯物論から完全に解放してしまいます。(「リーマン・ショック」、「自由な時間」等、この項について詳しい説明はHP4-19「不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった」及び4-20「「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。)
  石 川先生は、残念ながら、不破哲三氏のこのような「思想」の影響をうけて、資本主義の体制的矛盾、資本主義の「根本矛盾」が見えなくなってしまったのではな いかと思います。しかし、石川先生にはまだかすかな希望はあります。それは、「桎梏」に関しては、不破さんの「シャクフク」に屈していませんから。

④「最後の段階」規定が先にあり、「独占」段階論は後になって発見したという、レーニンの人格をゼロに低める暴論(P27)

  「独 占段階への移行によって資本主義が未来社会への過渡期に入った」ことの純経済的な意味が理解できない石川先生は、レーニンは「帝国主義戦争の時代は資本主 義の『終わりの時代』だという、ある種の先入見」(事実に基づかない妄想)をもっていて、「それを理論的に根拠づける『独占』段階論が後になって発見さ れ」たと述べています。
  いきなり余談ですが、石川先生は、レーニンが「資本主義の『終わりの時代』」を「理論的に根拠づけ」るために後から発見した『独占』段階論を使っていると 言っています。しかし、そもそも先生は、なぜレーニンは説明もなしに「独占段階への移行によって資本主義が未来社会への過渡期に入った」と言ってるのかと 疑問を呈していたはずです。それが今度は、「『独占』段階論」が後から発見され、それであとづけたと言う。先生が知りたかったのは、「独占段階への移行に よって資本主義が未来社会への過渡期に入った」ということだったはずです。先生は、レーニンを不破さんなみの観念論者に仕立てようとして自分がなにを言っ ているのかわからなくなってしまったのでしょうか。
  このように、ここに書かれた石川先生の文章は、「独占段階への移行によって資本主義が未来社会への過渡期に入った」ことを先生なりに解明しようとしたもの ではなく、①レーニンは「帝国主義戦争の時代は資本主義の『終わりの時代』だという」事実に基づかない妄想をもって革命運動をしていた、②レーニンは妄想 にもとづく結論を正当化するために後から根拠を発見する、これがレーニンの理論の作り方だ、レーニンとはそういう人間だ、ということを主張するためのもの です。
  「独占段階への移行によって資本主義が未来社会への過渡期に入った」ことに関する説明は「③独占と計画性について(P20、25、26)のトンチンカンな独り相撲」で詳しく行っていますので、石川先生の言う「レーニンの理論史」なるものについて見てみたいと思います。
  レーニンが23歳の青年のとき、1893年秋に執筆した、「いわゆる市場問題について」(全集第一巻)にも、すでに、『資本論』からの引用が多数あります が、1896年1月、「労働者階級解放闘争同盟」事件で逮捕されてまもなく、牢獄のなかで、研究・著作にとりかかり、三年以上を費した『ロシアにおける資 本主義の発展』(全集第三巻)では、すでに『資本論』を読みこなしていたことがその引用等から十分に明らかです。
  当時の著作等でレーニンが「独占」や「桎梏」や「収奪者の収奪」に触れなかったのは、当時のロシアの発展状況と理論闘争の状況にあります。当時の論争の焦 点は、大雑把に言えば、資本主義の「桎梏」の問題ではなく、資本主義のそもそも論、「発展(実現論)と矛盾の捉え方」の問題でした。だから、『資本論』第 一巻 第2分冊の「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外 皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月版『資本論』② P995F6-9)という文章を知らなかったからでも、その意味を理解していなかったからでもありません。
 参考に、当時の代表的な思想闘争の一つ、「資本主義の矛盾の捉え方」に係る文章をお示して、レーニンの理論水準の高さをご理解いただきたいと思います。
「と ころで、資本主義社会における蓄積と生産物の実現との科学的分析は、この理論のすべての根拠をくつがえして、恐慌に先行する時期にこそ労働者の消費が高ま るということ、不十分な消費(恐慌を説明するかのように言われている)は、種々さまざまの経済制度のもとで存在していたが、恐慌は、ただ一つの制度――資 本主義制度だけの特殊な標識をなすということをしめした。この理論は、恐慌を他の矛盾によって、すなわち生産(資本主義によって社会化された)の社会的性 格と取得の私的な、個人的な様式との矛盾によって説明するのである。これら二つの理論の深刻な差異は、自明であろう。しかし、われわれは、その差異をより 詳しく論じなければならない。なぜなら、まさしくロシアにおけるシスモンディの追隨者たちが、この差異を抹殺して事態を混乱させようとつとめているからで ある。われわれがいまかたっている二つの恐慌理論は、恐慌にたいしてまったく異なった説明をあたえている。第一の理論は、恐慌を生産と労働者階級の消費と の矛盾によって、説明する。ところが第二の理論は、生産の社会的性格と取得の私的性格との矛盾によって、説明する。したがって、第一の理論は、現象の根源 を生産の外部に見るが(そこで、たとえばシスモンディは、古典学派の人々が生産だけに注意をむけて消費を無視しているといって、彼らを全般的に非難す る)、第二の理論は、まさに生産の諸条件のうちに、その根源を見る。簡単にいえば、第一の理論は、恐慌を不十分な消費 (Unterkonsumption)によって説明するのにたいし、第二の理論は、それを(は)生産の無秩序によって説明するのである。このように、二つ の理論とも、恐慌を経済体制そのものにおける矛盾によって説明しながら、この矛盾をしめすとなると、まったく分かれてしまうのである。そこに疑問がおこ る。第二の理論は、生産と消費との矛盾という事実、不十分な消費という事実を、否定するのであろうか? もちろん、否定しない。この理論は、この事実を十 分にみとめている。しかしその事実を、資本主義的生産全体の一つの部門だけにかんする事実として、それにふさわしい従属的な地位をあたえるのである。この 理論がおしえるところによれば、この事実は、現代の経済制度の、他の、より深刻な、基本的な矛盾によって、すなわち、生産の社会的性格と取得の私的性格と の矛盾によってひきおこされる恐慌を、説明することができないのである。だから、みずからは本質的には第一の理論を固執していながら、第二の理論の代表者 たちは生産と消費との矛盾をどのように確認するのかなどと言ってごまかしている人々については、なんと言うべきであろうか? あきらかに、これらの人々 は、二つの理論の差異の基礎をよく考えなかったのであり、そこで当然、第二の理論を理解しなかったのである。…………
シスモンディは言う、──恐 慌は可能である。なぜなら工場主は需要を知らないから。恐慌は必然的である。なぜなら資本主義的生産においては、生産と消費との均衡はありえないから(す なわち、生産物が実現されえないから)と。エンゲルスは言う、――恐慌は可能である。なぜなら工場主は需要を知らないからである。しかし、恐慌が必然的で あるのは、一般に生産物が実現されえないからでは、けっしてない。そうではない。生産物は実現されうる。恐慌が必然的であるのは、生産の集団的性格が取得 の個人的性格と矛盾するようになるからである、と。…………
「生 産の無政府性」、「生産の計画性の欠除」、──これらの言葉はなにをものがたっているだろうか? それは、生産の社会的性格と取得の個人的性格との矛盾を ものがたっている。そこで、いま検討しつつあるこの経済文献を知っているすべての人に質問するが、シスモンディあるいはロードベルトゥスは、この矛盾をみ とめていたであろうか? 彼らは、この矛盾から恐慌を結論づけたであろうか? いや、彼らは結論づけなかったし、また結論づけることもできなかった。なぜ なら、彼らのうちのどちらも、この矛盾をまったく理解していなかったからである。資本主義の批判を、全般的な福祉とか、「自由に放任された流通」のまちが いとかいう言葉のうえに基礎づけてはならないのであって、生産関係の進化の性格のうえに基礎づけなければならない、という考えは、彼らには絶対に無縁のも のであったのである。」(全集 第二巻『経済学的ロマン主義の特徴づけによせて』1897年3月執筆 P150~151,154~155)
  百年以上も前のこの文章が、今の共産党の幹部にも、是非、読んでもらいたい文章の一つであることが非常に残念である。
  マ ルクスのようにエンゲルスのような良き協力者がいないレーニンは、研究の成果はたたかいのなかで活用する以外になかった。レーニンは、『資本論』によって 「独占資本」が「生産手段の集中と労働の社会化」を極限まで推進し、資本主義的「生産様式の桎梏になる」ことを学び、「生産の社会的性格と取得の個人的性 格との矛盾」を「資本主義の三つの矛盾」(①社会的生産と私的占有②富と貧困③都市と農村、ここから資本輸出)(全集第39巻P206)の一つとしてみて いました。だから、レーニンが、「独占」の現れであるカルテルとトラストの評価について『帝国主義論ノート』で「私の従来の研究にもとづいて…」(全集第 39巻P161)と述べ、「独占資本主義」の研究を「帝国主義」の本格的・集中的研究よりも以前からしていることを明らかにしていますが、それはまったく 当然のことでした。なぜなら、マルクスもエンゲルスもレーニンも、「『独占』段階」を「資本主義の『終わりの時代』」と見ていたからです。だから、「独占」段階論と「最後の段階」規定なるものは後先のあるものではありません。しかし、残念ながら、資本主義の歴史的使命が終わったことが完全に明らかになったのは、1970年代の初め、先進資本主義諸国の日用品の生産の伸びしろがなくなり、GDPの高い成長が見込めなくなったときでした。そしてますます残念なのは、資本主義の歴史的使命が終わっても、革命は起きず、日本は産業の空洞化が進み、社会の存続の危機に直面しつつあることです。
 これらを踏まえて、石川先生がレーニン全集第22巻の『社会主義インタナショナルの現状と任務』と『よその旗をかかげて』で抜粋した文章について、どんな文脈で述べられたものなのか、見てみましょう。
  まず、『社会主義インタナショナルの現状と任務』から引用した「この戦争は 帝国主義戦争、…資本主義の終わりの時代の戦争である」は、日和見主義者が『共産党宣言』を歪曲して「祖国擁護」を正当化していることに対して、「資本主 義の発生時代に正しくあてはまることを、資本主義の終わりの時代に引きうつしている」と、その誤りを指摘するための文章です。「帝国主義」の経済的本質が 独占体の支配であることを証明するために書かれた文章ではありません。そのことは、むしろ、当時、言わずもがなの事実として日和見主義者も認めていること で、証明を要することでもありませんでした。
 つ ぎに、『よその旗をかかげて』から抜粋して記述した文章は、P27下段2行目の「……描き、」以降の文章が、ページを間違えていたり、前後が逆だったりし ているため、先生の元の文章構成を生かしながら補正すると相当分かりにくい文章になってしまいましたので、全面的にレーニンの原典の流れに沿って、レーニ ンが何を言っているのかを見ることにします。
 レー ニンは、「……描き、」に続き、「それは(資本主義の発展・成熟期──青山注)、新しい階級、現代民主主義派が勢力をととのえ、徐々に勢力を結集していっ た時代である。いまはじまったばかりの第三の時代は、ブルジョアジーを、第一の時代のあいだの封建領主と同じ『地位』においている。これは、帝国主義の時 代であり、また帝国主義から生ずる帝国主義的激動の時代である」(P139)こと、そしてこの「第三の時代にも、国際的紛争は、その形からみれば、依然と して第一の時代のばあいと同じ国際的紛争であるが、しかし、その社会的内容と階級的内容は、根本から変化した」(P141)ことを述べ、その後で、「全集 第21巻139ページ」と誤植(?!)された、実はP141の後ろから3行目の文章が入り、それに続いて「全集第21巻141~2ページ」として抜粋され た文章が続き、「まったく別の階級が、興隆する──広範な歴史的規模で──階級となったのである。」と結んでいます。
 先生の抜粋から、(先生のように)うがってみると(?)、レーニンが理屈ぬ きで、「最後の段階」を主張しているように見えるこの文章も、原典で見ると、実は、『社会主義インタナショナルの現状と任務』で述べていること、つまり、 第三の時代は帝国主義の時代であり、第一の時代と第三の時代はまったく違うということを述べており、第一の時代はブルジョアジーが興隆する階級だったが第 三の時代はプロレタリアートが興隆する階級となったことを述べている文章です。この文章も、「帝国主義」の経済的本質が独占体の支配であることを証明するために書かれた文章ではありません。「帝国主義」の経済的本質が独占体の支配であることを証明するために書かれた文章ではないものが「帝国主義」の経済的本質が独占体の支配であることを証明していないというのは至極あたりまえのことだと思います。この文章のどこに誤りがあるのか。何のために抜粋したのか、まったく理解に苦しみます。万一、石川先生が読者に「うがった見方」をさせるために、原典の主旨を滅茶苦茶にして、文章を切り刻み──原子から自分の好む物質を作りだすように──『よその旗をかかげて』を利用しているのだとしたら、残念ながら石川先生は、マルクス主義者の風上、いや、風下にも置けないことになるのではないでしょうか。
  レーニンは独占資本主義の当時の特徴をもとに、当時の資本主義を「資本主義の最高の段階(=現段階、最新段階、過渡的な段階、死滅しつつある段階)としての帝国主義」といった。石川先生は「独占資本主義を分析した結果として「最後の段階」規定が生まれたのではな」いと、レーニンを不破哲三氏なみの観念論者のように言い、マルクス主義者としてのレーニンの人格を否定する。しかし、石川先生はここで何を言いたいのか。当時レーニンが言ってたことが正しいと思うのか思わないのか。今の日本を見て、独占資本主義を経済的に命運の尽きた、過渡的な段階と見るのか、見ないのか、現実と向き合うリアルな視点の欠落した文章であることだけは確かだ。
  な お、これまで見てきたように、石川先生は、レーニンが「帝国主義戦争の時代は資本主義の『終わりの時代』だという、ある種の先入見」(事実に基づかない妄 想)をもっていて、「それを理論的に根拠づける『独占』段階論が後になって発見され」たと述べ、レーニンの研究態度を誹謗し人格を傷つけましたが、『赤 旗』紙上で自らの著作の宣伝に石川先生を起用している不破さんも、同じように、「『恐慌=革命』説を背景に、利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』 の表われとする断定がさきにあり、そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込みが、マルクスを、こうした無理な立論に固執させた」のではないで しょうかと、マルクスの研究態度を誹謗し人格を傷つける放言を行っています。HP4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を参照して下さい。
  大変悲しいことです。

 

ちょっと、ひと休み。

ことわざ、名言集

 

 「無知は十分な根拠になる」

  〈『資本論』第一巻 第1分冊 大月『資本論』①P404〉

 

マルクスもエンゲルスもレーニンも、未来社会をつくる原点に、〝by the people〟の思想をおいた。

そのことを理解せず、「無知は十分な根拠になる」人になったり、それらの人々から教えを受ける人にならないように気をつけよう。

 

仮面の男はどこへ行った

⑤  エンゲルスは「生産の無政府性」を資本主義の矛盾と捉えたという(P28-29)

 内容の検討に入るまえに、科学的社会主義の正しさを確信している者が、「計画性」と「無政府性」という言葉を使う場合、どのような理解を前提としているのかをまず確認しておきたいと思います。
 私 たちが、資本主義の発展によってますます「計画性」が高まると言った場合、資本主義国家にとっても個別企業にとっても、それは、資本の利益を増やすため又 は損失を少なくするための「計画性」であり、生産全体の「計画性」や社会全体を豊かにするためのバランスのとれた富の配分のことではありません。しかし、 資本主義のもとでの「計画性」の進歩は、科学技術の進歩として新しい共同社会で社会全体のために活用される要素を含んでおり、その意味で「進歩性」を持ち、新しい社会を引き寄せる大切な要素ということができます。
  「無政府性」という言葉も、個別企業どうしの競争を含む生産の「無政府性」という意味合いの場合と社会全体を豊かにするための国家の社会的富の生産の「無 政府性」という意味合いの場合とがあり、文脈の中で、どのような意味合いで使用された言葉かをしっかりと読みとる必要があります。
 レー ニンは、前出の『経済学的ロマン主義の特徴づけによせて』(1897年3月執筆 全集 第二巻P154~155)で、「『生産の無政府性』、『生産の計画性の欠除』、──これらの言葉はなにをものがたっているだろうか? それは、生産の社会 的性格と取得の個人的性格との矛盾をものがたっている」と、「生産の無政府性」も「生産の計画性の欠除」も資本主義社会ではなくならないこと、資本主義社 会は「生産の無政府性」が支配した「生産の計画性の欠除」した社会だということを明確に述べています。
 これが、私たちの共通した理解であり、これを踏まえた議論をする必要があります。
  石川先生は、エンゲルスが「生産関係を商品生産一般の特徴である「生産の無政府状態」(無政府性)に解消してしまう弱点をもっていました」と、資本主義の特徴としての「生産の無政府性」とそれを前提に資本主義の矛盾を曝露しているエンゲルスを歪曲しようとします。
 資 本主義社会の「生産の無政府状態」の弊害は、石川先生が言うように、「商品生産一般の特徴」から起こるのではありません。資本主義社会の「生産の無政府状 態」は私的資本主義的所有・私的資本主義的生産関係によって起こるのです。エンゲルスのいう「根本矛盾」──生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態 との矛盾=体制的矛盾(これは、共産党が最近まで言っていた「基本矛盾」というものですが)──から起こるのです。(なお、エンゲルスのいう「根本矛盾」に関する詳しい説明はHP4-9「不破さんは「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する」を参照して下さい。)
 「競争」も「生産の無政府性」も「商品生産一般の特徴」としてありましたが、資本主義的生産様式は「競争」と「生産の無政府性」を通じて、独自の法則を貫き発展します。このことを不破哲三氏とその弟子たちは理解できずエンゲルスを誹謗中傷します。「生産の無政府性」は資本の集中と集積をすすめ、新しい社会への物質的準備をしますが「社会的性格」と激しく衝突します。なぜなら、それは体制的矛盾の現れだからです。だからこそ、エンゲルスが資本主義の矛盾を曝露するとき、「競争」と「生産の無政府性」を使って説明するのです。(なお、「競争」に関する不破さんのエンゲルスにたいする暴言についてはHP4-10「エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」と言う不破さんの暴言」を参照して下さい。)
 石 川先生、資本主義のもとでの「生産の無政府状態」が「商品生産一般の特徴」から起こると捉えているのは、マルクスの言う「基本的矛盾」から「利潤第一主 義」だけを取りだして資本主義的生産様式を棄て、恐慌を「資本の現象的な流通形態から」しか捉えることができない、不破さんやあなた様たちの誤った理解で す。
  石 川先生は『空想から科学へ』(新日本文庫P58)から文章の一部を抜粋し、エンゲルスが、「資本主義の推進力を生産関係の「無政府性」に求めていき、恐慌 もこの「無政府性」から展開しています。そこには剰余価値生産を追求する資本の論理は登場してきません」とエンゲルスが「資本の論理」抜きの「無政府性」 を主張していると述べています。
  しかし、「(資本主義的)生産関係の『無政府性』」、資本主義的生産関係のなかでの「競争」こそが「各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける」ことをマルクスも教えているではないですか。(次の⑥の〈参考〉を参照して下さい。)「そこには剰余価値生産を追求する資本の論理」が、はっきりと、「登場して」いるではないですか。繰り返しになりますが、このことを不破さんとその弟子たちは理解できません。理解できない者が、賢者をバカあつかいしています。
 『空想から科学へ』は、いや、今まで先生が抜粋したすべての文章に共通することですが、 文脈のなかで、展開全体のなかで文章の意味をつかむことが大切です。そうした中で見解を述べるのでないと建設的な議論にはなりません。もしも、先生が『空 想から科学へ』をテキストとして科学的社会主義の講義をするとしたら、このように断片を取りあげて、このような結論をだしますか。最初から「講義」してい れば、「剰余価値生産を追求する」私的資本主義的取得形態が「個々の工場における生産の組織化と社会全体における生産の無政府状態」をつくり、「生産の社 会的無政府状態」のもとで生産手段が資本家の手に集積され、自分の労働力以外なにももたないプロレタリアートが増大してきたことも、先生なら、『空想から 科学へ』を使って、ちゃんと説明できるでしょう。なお、先生には、「剰余価値生産を追求する資本の論理」から、不破さんのように「利潤第一主義」だけを取り出して、マルクスの言う「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」に成りさがり、マルクス・エンゲルス・レーニンからどんどん離れていかないよう、願うばかりです。
 礼を欠く言い方で申し訳ありませんが、ぜひ、「私たちの共通した理解」をもう一度読んで下さい。

⑥レーニンはエンゲルスの「資本主義」論に依拠したから誤ったという(P28-29)

  石川先生は、レーニンは「資本主義の特徴を「商品生産一般」との共通性に解消」したと言います。その理由は、レーニンが、自由競争を「資本主義と商品生産一般との基本的特質」だと言ったからだという。なんでここで、「数学」の初歩の話をしなくてはならないのでしょうか?!「自由競争は資本主義の基本的特質」だといい、「自由競争は商品生産一般の基本的特質」だというと、なぜ、「資本主義の特徴を商品生産一般との共通性に解消」したことになるのでしょうか。共通なのは「自由競争」という言葉だけで、「資本主義の特徴」全体を「商品生産一般との共通性に解消」などしていません。何 次元の世界での「真理」の証明方法なのかわかりませんが、まったく「新しい」公理を石川先生は発見したようです。私の受験生当時、京大の数学は、毎年、ユ ニークで面白い問題が出題されていました。そんな、よい問題を出す京大を出られた石川先生が、なにがなんでも自分の妄想に合わせようとして、「数学」の初 歩さえ分からなくなってしまったのでしょうか。

ちょっと途中ですが、参考に「競争」についての私たちの共通理解も簡単に述べたい
 ここでいう競争とは利潤をめあてとする競いあいのことです。資本にもとづく生産は資本の内的諸法則に適合した諸形態をとり、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつけます。その結果、社会的分業は独立の商品生産者たちを互いに対立させます。
 資 本の蓄積と集積の過程は、もしも求心力と並んで対抗的な諸傾向が絶えず繰り返し集中排除的に作用しないならば、やがて資本主義的生産を破壊させてしまいま す。それを防ぐために国家による独占と競争との共存政策の推進があります。また、資本は自分自身の発展限界を感じると、資本の発展の前提である自由競争を 自ら抑制し、擬似的な計画経済によって利益をみんなで分け合うようなこともありますが、このことは、資本主義の存在意義を失わせるので、国家は一般的には 完全な独占を回避する政策をとります。
 「競争」とはそういうもので、資本主義が悪なのであって、「競争」に資本主義の悪をなすりつけてはなりません。これが、私たちの「競争」と「独占」の共通理解であり、これを踏まえた議論をする必要があると考えます。
〈参考〉
・資本主義の内的諸法則は自由競争と不可分である
 「資本の内的諸法則は、自由競争が発展するかぎりで、…はじめて法則として措定されるのであり、…資本にもとづく生産が自分(資本の内的諸法則)に適合した諸形態をとる。」 しかし、資本のご都合主義は自由競争の抑制をも求める。
 レキシコン⑤-[70]P31下2~33全部 (マルクス『経済学批判要項』ⅢP599~602)
・競争は、利潤をめあてとする競いあいである
「競争は産業上〔(生産活動上)〕の競いあいではなくて商業上の競いあいである。」
 レキシコン①-[176] (『哲学の貧困』)
・資本主義の発展段階と競争の諸条件(資本のおかれた諸条件と競争の諸条件)
「資 本の内的諸法則──それは資本の発展の歴史的な初期段階においてはたんに傾向として現れるにすぎない──は、自由競争が発展するかぎりで、またその範囲内 で、はじめて法則として措定されるのであり、またそのかぎりでのみ、資本にもとづく生産が自分に適合した諸形態をとる。というのは、自由競争は資本にもと づく生産様式の自由な発展であり、資本の諸条件とこれらの諸条件をたえず再生産する過程としての資本の諸条件との自由な発展であるからである。……資本が 弱いあいだは、資本そのものが、過去の、すなわち資本の出現とともに消え去りつつある、生産諸様式のささえをもとめる。自分を強力なものと感じるようにな ると、資本はこのささえを投げ捨て、自分自身の諸法則に従って運動する。資本が自分自身を発展の制限であると感じ意識しはじめると、資本は次のような諸形 態に、すなわち、自由競争の抑制によって、資本の支配を完成するようにみえながら、同時に資本の解体の、また資本にもとづく生産様式の解体の告知者でもあ る諸形態に、逃げ場をもとめる。……いずれにせよ、競争を自由な個性のいわゆる絶対的な形態とみる幻想が消えさるならば、このことは、競争の諸条件、すな わち資本にもとづく生産の諸条件が、すでに制限として感じられ考えられているということ、したがってまた、すでに制限となっており、またますますそうなる ということの証拠である。」〈マルクス経済学レキシコンⅤ P31~33 マルクス『経済学批判要綱』Ⅲ、P599-602〉
・競争の権威と社会的生産過程のいっさいの意識的社会的な統御や規制の排除
  「、彼らは、競争という権威のほかには、すなわち彼らの相互の利害関係の圧迫が彼らに加える強制のほかには、どんな権威も認めない」〈大月版『資本論』①P466〉
・競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける
「競 争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大す ることを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみそれを拡大することができるのである。」〈大月版『資本論』② P772〉
・集中排除的な作用の役割
「資本の蓄積と集積の過程は、もしも求心力と並んで対抗的な諸傾向が絶えず繰り返し集中排除的に作用しないならば、やがて資本主義的生産を破壊させてしまうであろう。」〈大月版『資本論』④ P309〉

本題に戻ります

 石川先生は、「国家独占資本主義を「社会主義のためのもっとも完全な物質的準備であり、社会主義の入口」だとするレーニンの議論」とエンゲルスの「ますます大規模な社会化された生産手段」が国有化されることの意義とは「基本線では太くつながるもの」と述べています。受けとめ方に違いはあるようですが、先生と初めて理解が一致しました。「ますます大規模な社会化された生産手段」は、独占の様々な形態にしろ、社会的所有のための物質的基礎を整え、「国有」は有力な「解決の形式上の手段」の一つであり、「その手がかりを」提供するものです。違いますか!?
 そして、「ますます大規模な社会化された生産手段」、「生産手段の集中と労働の社会化」が「社会主義のための物質的準備であり、社会主義の入口」であることは、マルクスもエンゲルスもレーニンも確信していたことです。
  小 経営は資本主義的私的所有によって駆逐され、諸資本の集中がおこなわれ、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏にな る。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を 告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(『資本論』大月版② P993~996)これは、私たちマルクス・レーニン主義者の共通した確信です。
〈参考〉社会主義を準備するということについての私たちの共通理解
  資 本主義の発達のなかで、私たちが「社会主義を準備する」というような表現を用いる場合、それは社会的生産の深化、社会的生産諸力の発展、管理統制技術の進 歩のなかで社会的に必要な財の不足、資本に転化することのできない財の架空取り引き、非人間的な労働の強制、階級的利害の拡大等により、社会主義社会実現 の条件がより一層発展したことを意味する表現です。社会主義は資本主義的生産様式を社会主義的生産様式に「変更」することによってはじめて実現するという ことは、自明のことです。

⑦マルクスの資本主義論とエンゲルスの資本主義論とは違うという(P34~35)

  石川先生は、まず、ⓐマルクスとエンゲルスの資本主義論の違いを言い、ⓑマルクスは「労働者の闘いの前進を」、「より巨大な資本主義の発展をもたらす要因 としてとらえました」と言い、「こうした闘いの積み上げとそれを乗り越えようとする資本による生産力の発展は、直接には資本主義の枠内における資本主義の 改良や変化を生み出すものですが、同時に、マルクスはそれを、未来社会を手前に引き寄せる新しい歴史的条件のけいせいとしてとらえました」と述べ、ⓒその 根拠として『資本論』の「工場立法」に関する記述(第一巻第1分冊 大月版①P653-654)の一部を抜粋し、自らの主張に合わせてまとめています。
 石川先生が『資本論』の「工場立法」に関する後述の記述を「マルクスの資本主義発展論」の〝核心〟と捉えたのは正しい選択でした。しかし、残念ながら、その〝核心〟の捉え方はマルクス・エンゲルスの捉え方とは、似て非なるものどころか、まったく違ったものでした。
 以下で、上記ⓐⓑⓒの順番に従って見てみましょう。

ⓐマルクスの資本主義論とエンゲルスの資本主義論とは違うという

 石川先生は、エンゲルスは「生産の無政府性」を資本主義の「矛盾の一方の極」としているが、マルクスは「剰余価値生産の追求」を資本主義の「矛盾の一方の極」としていると、まず例によって、マルクスとエンゲルスの資本主義論の違いを捏造します。
 こ れは、不破さんの「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」というエンゲルスの考え──エンゲルスだけの考えではなく、マルクスの考えでもあるが ──は誤りだという、師匠の珍説を超える、超珍説のようにみえる。しかし、この、一見「超珍説」にみえるこの主張は、「生産の無政府性」という言葉を「取 得の資本主義的形態」に変えれば不破さんの主張と同じになる。そして、「生産の無政府性」とは「取得の資本主義的形態」が生みだす現象です。
  前 にも述べたとおり、マルクスもエンゲルスも「資本主義生産に内在する矛盾」と「新しい社会の形成要素と資本主義的生産様式との体制的な矛盾」の二つを資本 主義の矛盾と捉えていて、マルクスとエンゲルスとのあいだに認識の違いなどありません。前者をマルクスは「基本的矛盾」といい、後者をエンゲルスは「根本 矛盾」と言った。マルクスが「剰余価値生産の追求」を資本主義の「矛盾の一方の極」としているというが、これは不破さんが「資本主義生産に内在する矛盾」 から「利潤第一主義」を抽出して、単純化したものでマルクスの考えではない。
 それにしても、石川先生も不破さんも、どうして物事を立体的に見ることができないのだろうか。なぜ彼らは幼児なみの認識能力しか持ち合わせていないのだろうか。
 詳しくは前出のHP4-9「☆不破氏は「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだという」を参照して下さい。

ⓑ石川先生は「資本家」なのか、「労働貴族」なのか、「不破さんの小判鮫」なのか

  石川先生は、マルクスは「労働者の闘いの前進を」、「より巨大な資本主義の発展をもたらす要因としてとらえました」と言い、「こうした闘いの積み上げ(労働者の闘いの前進─青山)とそれを乗り越えようとする資本による生産力の発展(ずる賢い資本による労働者の闘いの成果の掘り崩しと新たな資本蓄積のテコとしての制度利用による「より巨大な資本主義の発展」─青山)は、直接には資本主義の枠内における資本主義の改良や変化を生み出すものですが、同時に、マルクスはそれを、未来社会を手前に引き寄せる新しい歴史的条件のけいせいとしてとらえました」と述べ、その根拠として『資本論』の「工場立法」に関する後述の記述の一 部を抜粋して石川先生の主張にあわせてまとめています。そして、「労働者たちが闘い取った」た、「直接には資本主義の枠内における資本主義の改良や変化を 生み出すもの」の具体例として、「労働時間の短縮」や「議会制民主主義の確立」や「経済活動における『正義の原則』の必要など」をあげています。
  な お、上記の「マルクスはそれを、未来社会を手前に引き寄せる新しい歴史的条件のけいせいとしてとらえました」の「それ」とは、「労働時間の短縮」や「議会 制民主主義の確立」や「経済活動における『正義の原則』の必要など」のことだと思われます。なぜなら、石川先生は「資本主義の歴史的発展の度合いをもっと も骨太くはかる尺度は、国民による資本主義の民主的な管理がどこまで達成されているかという点におかれるように思うのです」。「この直感は」「マルクスの 資本主義論に近いものとなっています」と述べていますので。
 こうして、石川先生の「直感」は「マルクスの資本主義論に近いもの」となるというのです。
 しかし、この議論のすすめ方にはいくつもの無理があります。
  一番大きな、決定的な「無理」は、その根拠として石川先生が抜粋した『資本論』の「工場立法」に関する文章は、「資本主義の民主的な管理」が「資本主義の歴史的発展の度合いをはかる尺度」などと、まったく、言っていないことです。次の項、「ⓒマルクスの資本主義発展論」で詳しく述べます。
 次に、マルクスは、先生が主張するように、「労働者の闘いの前進」を「より巨大な資本主義の発展をもたらす要因」に転化し、ずる賢い資本家のように、労働者の闘いの成果を掘り崩し新たな資本蓄積のテコとして利用することによって「より巨大な資本主義の発展」を図ろうとなど考えていませんでした。
 だ から、マルクスは『賃金、価格、利潤』で「超強力な社会的障害物の強要」の必要性を述べ、「このように全般的な政治活動が必要であったということこそ、た んなる経済行動のうえでは資本のほうが強いことを立証するものである」(『賃金、価格、利潤』P84)と言い、『資本論』では、工場監督官報告書の言葉を 借りて、標準労働日の確定、労働時間の短縮が、労働のため以外の自分自身の目的のための時間を与え、「ある精神的なエネルギーを彼ら(労働者)に与え、こ のエネルギーは、ついには彼らが政治的権力を握ることになるように彼らを導いている」(第1巻P398)と述べているのです。
  そして、『資本論』の「労働日」の章と『賃金、価格、利潤』は、「社会的障害物」を築く闘いについて、「もろもろの結果とたたかいはしているが、それらの 結果の原因とたたかっているのではない」ことを述べ、資本の本質をしっかり摑むこと、労働者の団結の重要性と団結した力で要求を実現することの重要性とと もに、労働運動が「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとはせず、その組織された力を労働者階級の終局 的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に失敗する」と、労働者の団結を組織して資本主義的な生産関係を変えることこそが、問題の真の解決の道であることを教えています。
 「資 本主義の民主的な管理」=「ルールある資本主義」を求める「改良」闘争の結果実現した、石川先生が誇る、「労働時間の短縮」や「議会制民主主義の確立」や 「経済活動における『正義の原則』の必要など」とは、どのようなものなのか。日本の労働者が「労働時間の短縮」の利益を享受しているのか。「議会制民主主 義の確立」によって日本や米国の金権政治がなくなり、民意が反映した政治がおこなわれているのか。「経済活動における『正義の原則』」によって、「人間に 価する生活」が確保されているのか、金持ちの子は金持ちになり貧乏人の子は貧乏人になる社会が変わったのか。これが現実です。
  だから、マルクスは「ゲリラ戦だけに専念」してはだめだ、「その組織された力を労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使う」ことをしないならば「全面的に失敗する」と言っているのです。
 しかし、肝心のこの点を不破さんたちは強調せず、曖昧にします。「労働者階級の終局 的解放」を訴えることを忘れた不破さんは、「社会的障害物」を築く闘いについて、「資本主義の側から見ても、その実現は、労働者階級の衰退などの社会的破 局を防止して、経済の安定的発展を支える積極的作用をはたしたのです。その意味では、そこには、〝資本主義の知恵〟の発揮があった、と見ることもできま す」と言います。
  これはもう、「資本家」か「労働貴族」の言い分です。
 石 川先生は、マルクスは「労働者の闘いの前進を」、「より巨大な資本主義の発展をもたらす要因と」とらえたと言い、マルクスがこの「資本主義の改良や変化」 を「未来社会を手前に引き寄せる新しい歴史的条件の形成としてとらえました」とマルクスの思想を「改良」闘争に矮小化し、歪曲します。類は友を呼ぶとはこ のことです。
 こ のように、「労働者階級の終局的解放」を「改良」と同時に訴えることを忘れてしまった石川先生たちの文章からは、「未来社会を手前に引き寄せる新しい歴史 的条件の形成」(=「ルールある資本主義」の実現)という言葉は見ることはできても、マルクスが常にそうしたように、現代日本の資本主義の矛盾を根本から 曝露し、〝新しい歴史を創る主体の形成〟の促す言葉を発見することができません。
 こ こが不破さんや石川先生たちとマルクス・エンゲルス・レーニンとの決定的に異なる点です。こういう人が、マルクスの資本主義論とエンゲルスの資本主義論と は違うという。確かに、彼らのいう「マルクスの資本主義論」とマルクス・エンゲルス・レーニンの〝資本主義論〟とには雲泥の差がある。石川先生が、そのこ とを私たちに分からせてくれたのはよいことですが、科学的社会主義の思想を否定するのなら、もっと正直におこなうべきでないでしょうか。
 詳しくはHP4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」及び4-2「☆不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない。」を参照して下さい。

ⓒマルクスの資本主義発展論について

  私は、ⓑで「この議論のすすめ方にはいくつもの無理があります。一番大きな、決定的な「無理」は、その根拠として石川先生が抜粋した『資本論』の「工場立 法」に関する文章は、「資本主義の民主的な管理」が「資本主義の歴史的発展の度合いをはかる尺度」などと、まったく、言っていないことです。次の項、「ⓒ マルクスの資本主義発展論」で詳しく述べます」と言いました。
  まず、石川先生が「工場立法」に関する文章から、どのような抜粋をしているのか、見てみましょう。
「『工場立法の一般化は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合とともに、生産過程の資本主義的形態の諸矛盾と諸敵対関係とを、それゆえ同時に、新しい 社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる。』(『資本論』新日本新書版 864ページ)というわけです。『物質的諸条件および社会的結合』が『新しい社会の形成要素』に、深まる『矛盾』と『敵対』が『古い社会の変革契機』にな るというのです。」と石川先生は言う。
 石 川先生たちが夢みる「未来社会を手前に引き寄せる新しい歴史的条件の形成」(=「ルールある資本主義」の実現)が「新しい社会の形成要素」ででもあるかの ような印象を読者に与えながら、『資本論』から上記のような抜粋をおこない、続けて、「労働時間の短縮」等の「ルールある資本主義」の実現が「新しい社会 の形成要素」と「古い社会の変革契機」とをますます成熟させるという。
 不 破さんは独自の「桎梏」論を創作するために、『資本論』の文章を二つに分け、その間に自説を入れたが、石川先生は自説を二つに分け、その間に『資本論』を 入れる。不破さんが使ったトリックに似ているといえば似ている。弟子として、不破さんが使ったトリックを応用したということなのだろうか。
 石 川先生が抜粋した箇所でマルクスは何をいっているのか、マルクスの言わんとすることを正しく理解していただくために、石川先生の三行半の引用ではなく、も う少し長い引用がどうしても必要になる。私のホームページがどうしても長くなってしまうのは、マルクス・エンゲルス・レーニンの原典を歪めずに理解を求め るためであり、周辺情報も是非とも知ってもらいたいためですので、お許し願いたい。
 マルクスは言う。
「労働者階級の肉体的精神的保護手段として工場立法の一般化が不可避になってきたとすれば、それはまた他方では、すでに示唆したように、矮小規模の分散的 な労働過程から大きな社会的規模の結合された労働過程への転化を、したがって資本の集積と工場制度の単独支配とを、一般化し促進する。工場立法の一般化 は、資本の支配をなお部分的におおい隠している古風な形態や過渡形態をことごとく破壊して、その代わりに資本の直接のむき出しの支配をもってくる。した がってまた、それはこの支配にたいする直接の闘争をも一般化する。それは、個々の作業場では均等性、合則性、秩序、節約を強要するが、他方では、労働日の 制限と規制とが技術に加える非常な刺激によって、全体としての資本主義的生産の無政府性と破局、労働の強度、機械と労働者との競争を増大させる。それは、 小経営や家内労働の諸部面を破壊するとともに、「過剰人口」の最後の逃げ場を、したがってまた社会機構全体の従来の安全弁をも破壊する。それは、生産過程 の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新 たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる。」(『資本論』第一巻第1分冊 大月版①P653-654)と。
 ⓐ でエンゲルスの謬論として否定した「資本主義的生産の無政府性と破局」、石川先生たちにとっては厭なことばが出てきましたね。いいんです。引用しなければ 読者には分かりはしないんだから。そう思って石川先生はこの文章の最後のセンテンス、「工場立法の一般化は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合とと もに、生産過程の資本主義的形態の諸矛盾と諸敵対とを、それゆえ同時に、新しい社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」(『資本論』新日本新 書版 864ページ)だけを「抜粋」したんでしょうか。この最後のセンテンスに関しては大月版のほうが分かりやすいですね。新日本新書版は、石川先生たちのため に、わざと分かり難くしたわけではないと思いますが。
 ここでマルクスが言っていることは明確です。
 その要旨は次のとおりです。
 工 場立法の一般化によって、生産の社会化の進展と資本の集積と工業全体の資本主義化を一般化し、労資の直接の闘争をも一般化する。個々の作業場では均等性、 合則性、秩序、節約を強要するが、それは同時に、全体としての資本主義的生産の無政府性と破局、労働の強度、機械と労働者との競争を増大させ、小経営や家 内労働の諸部面を破壊することによって、社会機構全体の従来の安全弁をも破壊する。資本の集積と工業全体の資本主義化の結果、社会的生産諸力と社会的結合 が高まるとともに、全体としての資本主義的生産の無政府性もあきらかになり階級闘争も激化する。それは、社会的生産諸力と社会的生産を「新たな社会の形成 要素」として発展させ、私的資本主義的生産による「生産の無政府性」とその「破局」の現れである恐慌や労働条件の悪化等の矛盾が明らかになり、労資の敵対 も鮮明になり、それらが「古い社会の変革契機」として労働者階級の運動の前進のための、資本主義社会を社会主義社会に変えるためのエネルギーを高めてゆ く。
 富 の所有の私的資本主義的性格があるから、「全体としての資本主義的生産の無政府性」があり、同時にそれが、社会的生産諸力の発展の「桎梏」になっているの です。人間の生活を全面的に支え豊かにする社会的生産を実現するためには、取得の私的資本主義的形態を社会主義的形態に変えなければなりません。マルクス はその条件が日々整いつつあることを、「工場立法の一般化」の意義として述べているのです。
 このマルクスの資本主義論はエンゲルスの資本主義論と完全に一致しています。
 そ して、この文章は『資本論』の第一巻の文章ですから、エンゲルスが勝手に補筆したなどと不破さんにクレームを付けられて「共産党」から抹殺されることはあ りません。だから、不破さんを信じ、古典を不破さんを通じてのみ学び、『赤旗』の不破さんの書籍の宣伝に不破さんの素晴らしさを寄せる人、そして、それを 載せる人、すべての不破さんのファンのみなさん、安心してお読み下さい。
  さて、ここでもう一度、石川先生の抜粋した文章を見てみましょう。
「『工場立法の一般化は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合とともに、生産過程の資本主義的形態の諸矛盾と諸敵対関係とを、それゆえ同時に、新しい 社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる。』(『資本論』新日本新書版 864ページ)というわけです。『物質的諸条件および社会的結合』が『新しい社会の形成要素』に、深まる『矛盾』と『敵対』が『古い社会の変革契機』になるというのです。」と先生は言う。
 こ の石川先生の文章のミソというか、〝too sekoi〟(2016年6月に流行した言葉です)ところは、「生産過程の資本主義的形態の諸矛盾」を「深まる『矛盾』」と言い換え、「生産過程の資本主 義的形態の諸敵対関係」を「深まる『敵対』」と言い換えたところにあります。
 「工 場立法の一般化は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加 筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」という文章も、『資本論』の〝桎梏〟に関する文章を不破さんがやっ たようにではなく、素直に読めば、いいんです。わざわざ抽象的な「矛盾」や「敵対」をもちだして、読者を混乱させることはないんです。
 つまり、資本主義の発展は、「生産過程の物質的諸条件および社会的結合」、 つまり、「社会的生産諸力と社会的生産」を「新たな社会の形成要素」として、「生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係」、つまり、「私的資本主義的生 産による生産の無政府性=生産の社会的性格と資本の私的資本主義的性格の矛盾と労資の敵対関係」を「古い社会の変革契機」として成熟させることを述べてい るのです。
  こ の「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」がどれだけ深化したかが、資本主義の歴史的発展の度合いをはかる尺度なのです。「国民による資本主義 の民主的な管理がどこまで達成されているか」は、資本主義が〝国民の新しい共同社会〟(社会主義社会)にむかってどれだけ前進したかの度合いをはかる尺度 です。
 だ から、資本主義の歴史的発展の度合いをはかる尺度は「国民による資本主義の民主的な管理がどこまで達成されているか」だと言う石川先生の「直感」は、論理 に誤りがあります。「ルールある資本主義」は、社会のイニシアティブを労働者階級が握っていないかぎり、より矛盾が深化した形で、資本にとっては新たな搾 取強化の手段となり、労働者階級にとっては新たな闘いの出発点となるだけです。
  石川先生は、資本主義は「死滅」しないで「巨大な発展を遂げた」から、レーニンは間違っているという。不破さんは、マルクスとエンゲルスは「恐慌」で革命が起きると思っていたが、革命が起きなかったから間違いだという。こういうことをいう人たちが、パリコミューンから何を学び、パリコミューンをどう評価しているのか、本音を聞いてみたい。
 マ ルクスとエンゲルスが生きた時代のイングランド銀行の金融政策は、「恐慌」に火に油を注ぐようなものだった。「恐慌」が社会変革の唯一ではないが「一つ の」社会変革の契機、それも当時最も有力な契機であったことは間違いない。だから、当時、マルクスもエンゲルスも「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひ とつである」と考えていた。これは、間違いではない。
 また、レーニンが体験した第一次世界大戦の前後、そして第二次世界大戦へ向かいつつあるとき、当時レーニンが研究し『帝国主義論』等にまとめられた成果 は事実を反映しており、基本的に正しい。当時の資本主義を「死滅しつつある」ものと捉えたことも間違ってはいない。第一次世界大戦後、ドイツで革命は起き なかった。ソヴィエトロシアが生き残り、第二次世界大戦ではファシストが勝利しなかった。第二次世界大戦をソヴィエトロシアの力を借りて勝利した米英が資 本主義の危機を意識してヨーロッパ諸国を援助した。その結果、「死滅しつつある」資本主義は死滅しなかった。そのことをもって、当時、レーニンが資本主義 を「死滅しつつある」と捉えたことを間違いだというのは、歴史を理解しないものだ。
 そ して、私たちが、70年代のはじめ以降資本主義は黄昏時に入り、産業の空洞化が急速に進む今日の日本の資本主義を「死滅しつつある」ものと捉えるのは、間 違いではないと、私は確信している。日本でのグローバル資本の行動を「民主的に管理する」ことの中心課題が〝産業の空洞化〟をやめさせ、厚みをもった経済 構造の構築と〝富〟の社会福祉分野への再配分を図ることであることは、最近の、イギリスのEU離脱や製造業復活を訴える米国のトランプ氏やサンダース氏へ の支持の高まりからも、その正しさは明らかである。
 なお関連して、「②「全般的危機」論の克服と帝国主義論の発展にかんして」の項も参照して下さい。

 

ちょっと、ひと休み。   ことわざ、名言集

 

「ヘロストラトス式に有名な」人に

なってはいけない


ヘロストラトスは古代ギリシアのエフェソスの人で、自分の名まえを後世まで不朽のものにしたいという希望から、紀元前356年に当時尊崇のまとであつたエフェソスのアルテミスの大神殿に放火した。(レーニン全集第16巻 P480事項訳注)

このままでは、不破さんは「ヘロストラトス式に有名な」人になってしまいそうだ。

 

仮面の男はどこへ行った

Ⅱ資本主義の発展・成熟度をとらえる基準とは

①石川先生は、「国民による資本主義の民主的な管理がどこまで達成されているか」が資本主義の歴史的発展の度合いをはかる尺度だと「直感」でいう。

  石川先生は、この「直感」を正当化するために、レーニンの思想を歴史の中で、文脈全体の中で見るのではなく、自分の主張に役立ちそうな言葉をピックアップ して、自分の思うような結論を導き出し、これまた文脈とは無関係にマルクスの言葉を抜粋して権威付けに利用してきました。
 「ある種の先入見」と「直感」との差がどれほどあるのかは不明ですが、レーニンの思考を「ある種の先入見」と誹謗し、レーニンの人格を傷つけた石川先生は、今度は自ら「資本主義の歴史的発展の度合いをはかる尺度」を「直感」で導きだしたそうです。
 レー ニンはマルクス主義者の考察のしかたについて、「マルクス主義の全精神、その全体系は、おのおのの命題を、(α)歴史的にのみ、(β)他の諸命題と関連さ せてのみ、(γ)歴史の具体的経験と結びつけてのみ、考察することを要求しています」(第35巻『111イネッサ・アルマンドヘ』1916年11月30日 に執筆P262~263)と述べており、レーニンの著作はその精神で貫かれています。しかし、観念論者の不破さんたちは、このような視点でレーニンの著作をみることができません。だから、レーニンの考えをまったく理解することができないのです。
  石川先生は「直感」で、資本主義の歴史的発展の度合いをはかる尺度は「国民による資本主義の民主的な管理がどこまで達成されているか」だと言い、この「直感」は「マルクスの資本主義論に近いものとなっている」という。この認識がいかに的外れなものであるかは「⑦マルクスの資本主義論とエンゲルスの資本主義論とは違うという」で検証したとおりです。
 不破さんの「桎梏」論も仰天だが、〝資本主義が発展すると「国民による資本主義の民主的な管理」が進む〟という石川先生の進化論も仰天だ。最近、『前衛』や『経済』を読んでいると、真面目に科学的社会主義を勉強してきた者をビックリさせる記事が多い。
 このような人たちが「直感」と「民主主義」や「社会権」等のイデアを持ち合って試論を示し合ったのでは、出てくる「資本主義の発展段階=未来」は、十九世紀末に現れた「アンテグラリスト社会主義者」の考え方をも遙かに超えたものになることは、まず間違いないものと確信する。
 ケ インズが「有効需要」を創ったり、ヘリコプターベンがヘリコプターで金をばらまいたり、資本主義の延命のための方策を「民主的な政府」(金権政治のもとで 国民が直接選んだ政府)がおこなうことを「国民による資本主義の民主的な管理」の発展というのなら話は別だが、ブルジョアジーが支配する社会で、「国民に よる資本主義の民主的な管理」の発展などありえません。
 資本主義的生産様式のもとで、資本主義的に歪められた「社会的生産」を維持し、資本主義的に歪められた「社会的生産諸力」を発展させられる限りで、「民主主義」も資本主義的に歪められて発展してきました。これが、資本主義社会の「民主主義」です。
 同 時に、社会的生産によって成り立っている資本主義は社会的生産と所有の私的資本主義的性格の矛盾を社会的生産を担う部分(労働者階級)に押しつけることに よって、本来の社会の主役である社会的生産を担う労働者階級からその本来の地位を奪うことによって、民主主義を制限します。これが、資本主義社会の「民主 主義」です。
 だ から、社会的生産を担う労働者階級は、前衛党の理論的な援助もうけながら、制限された「民主主義」を突破する要求をもつようになり、自ら主体的に社会と関 わり、社会的生産諸力を発展させ自らの生存条件を向上させる〝民主主義〟の視点を確立していきます。その過程と並行して、現在の資本の行動をリアルにみ て、「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」がどのように変化・成長しているのかを正確に分析すること、それこそが、現在の「資本主義の発展段 階」をつかむということです。
 大切なのは、〝民主主義〟の視点、〝by the people〟の視点をもって、いまの日本の姿を曝露して、「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」を明らかにし、たたかうエネルギーを結集することです。

〈参考〉アンテグラリスト社会主義者とは
「十九世紀末 のフランス、ベルギー、イタリアの労働運動内にあった改良主義的・日和見主義的な一流派である。マルクス主義に反対して社会主義は労働者階 級ばかりではなく、なやめる全人類に立脚すべきである、と主張した。したがって、科学的社会主義の「狭さ」に反対し、階級闘争に反対し、階級間の平和とブ ルジョアジーの「りっぱな分子」との協力を説いた。彼らはブルジョアジーにむかって、論理と公正の原理にしたがって行動するよう、そして彼らの個人的利益 にしたがって行動しないように呼びかけた。彼らは、経済的要因が決定的要因であることを否認し、すべての社会的要因のアンテグラリテ(全体)を強調した が、このことは道徳的要因を優位におくことを意味した。」(レーニン全集 第14巻P443~444 事項訳注)

②それでは、これから資本主義はどのように発展するのか

 資本主義がこれからどう発展するのか。私たちは歴史の百歩前まで知ることはできるが、未来は一歩先くらいまでしか見通すことができません。
  資本主義は、資本の集積と集中をつうじて発展する。資本の独占資本への成長は新しい共同社会への物質的準備が整ったことを示しています。日用品の生産の効 率化を通じて社会の成長を図ってきた資本主義は、各国で日用品が充足されたとき、その役目を終え、「桎梏」に転化する。そして、1970年代の初め、先進 資本主義諸国において日用品は充足され、私的資本主義的生産様式はその役目を終え、国民国家にとって完全に「桎梏」になった。
 レー ニンが言ったマルクス主義の精神にもとづき、(α)歴史的に、(β)諸命題を関連させて、(γ)歴史の具体的経験と結びつけて、「現実」に立脚し──現在 の世界の政治バランスを前提に、資本主義が存続していくものとして──「近未来像」を考察し、方向性を素描してみましょう。

ⓐ世界はどうなるか

①経済成長は
 ・日用品が未充足の中国を中心とする新興国グループ経済の成長。
 ・これらの国々の日用品が充足された時、資本主義の絶望の時代が始まる。
②金融資本の動向は
 ・マネーの過剰の増大。先物(現在価値)商品による投機(架空取引)の拡大。金融バブルと恐慌の反復。
 ・新興国への投資の拡大。
 ・一部の先進国の資産価値の増大と各国の格差・バラツキの拡大。
③富の分配傾向は
 ・労働需給により、実物経済の成長する国の労働者の賃金上昇と実物経済の停滞する国の労働者の賃金の停滞・低下。
 ・全体としては、資本の側の配分増、格差の拡大。
④労働条件・民主主義の行方は
 ・新興国の基本的改善
 ・先進国の搾取と収奪強化のための「平等」「能力主義」の深化と「社会的生産」の歪
  みの発展による、社会の崩壊と閉塞状況の深化。
⑤政治の方向は
  ・新興国──相対的安定から激動へ。
  ・先進国──反動化と前衛党不在による極左化。

ⓑ日本はどうなるのか

〈ケース1〉共産党が現在のまま小ブルジョア政党でとどまる場合と〈ケース2〉共産党がマルクス主義に蘇り、労働者階級の党として都市勤労者層と革新農民層との連携をした場合とでは、歴史の進み方は大きく差が出る。〈ケース1〉の場合、スペイン、ポルトガルのような失業大国になる可能性が極めて高く、〈ケース2〉の場合は生産の社会的性格を発揮できる経済・政治システムへの前進が現実のものとなる。詳しくはHP「パラダイムシフトとは何か、その結果、どんな社会が現われるのか」を参照して下さい。
  私たちが「資本主義の成熟度」──矛盾はどれだけ深まり、物質的 準備はどこまで整い、人民の主体性と民主性はどこまで高まり、労働者階級の団結はどこまで実現し、社会主義への距離はどこまで縮まったのか──を考えると き、レーニンが『マルクスのクーゲルマンヘの手紙のロシア語訳序文』に書いた、次の文章をかみしめながら考えることを忘れないようにしよう。レーニンは言 う、「マルクスは、もっとも平和的な、彼自身の表現によれば「牧歌的」におもわれる──また(『ノイエ・ツァイト』の編集者の言葉によれば)「みじめにも 鈍感な」時代にも、革命の近いことを感知することができ、プロレタリアートをたかめて彼ら自身の先進的な、革命的な任務を自覚させることができた。マルク スを俗物的に単純化するわがロシアのインテリゲンツィアは、もっとも革命的な時代にも、プロレタリアートに受動性の政策、「流れにしたがって」従順につい ていく政策をおしえ、流行の自由主義政党のもっとも動揺的な分子を小心翼々と支持することをおしえているのだ!」(全集 第12巻 P105~106、1907年2月)と。

ⓒ資本主義から社会主義への発展をどのように準備するのか

 マルクスの次の文章は有名です。
「労働過程がただ人間と自然とのあいだの単なる過程でしかないかぎりでは、労働過程の単純な諸要素は、労働過程のすべての社会的発展形態につねに共通なも のである。しかし、この過程の特定の歴史的な形態は、それぞれ、さらにこの過程の物質的な基礎と社会的な形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれば、一 定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したということがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそ れに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立とが、広さと深さとを増したときであ る。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。」〈『資本論』第3巻 第2分冊大月版⑤ P1128B7-1129B1〉
  こ のように、〝国民の新しい共同社会〟への物質的な準備は「資本主義」がしてくれる。しかし、歴史的使命の終わった社会を新しく作りかえるのは人間だ。先進 資本主義諸国は1970年代の初めには黄昏どきをむかえた。日本は1990年代の半ばには産業の空洞化が誰の目にも明らかになり、日本存亡の危機の時代に 入った。そのことを正しく認識できる、〝革命〟を起こすための人間集団がいなければ世の中は変わらない。現在の日本で「生産の物質的発展と生産の社会的形 態とのあいだに衝突」がどのように起きているかを見ることが重要である。「直感」で、資本主義の歴史的発展の度合いをはかる尺度は「国民による資本主義の民主的な管理がどこまで達成されているか」だなどと寝ぼけたことを言っている場合ではない。
 そして、レーニンは『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』(1916年8月~9月に執筆 全集 第23巻P16~20)で、次のように述べている。
「一般に資本主義、とくこ帝国主義は、民主主義を幻想に変える──だが同 時に資本主義は、大衆のなかに民主主義的志向を生みだし、民主主義的制度をつくりだし、民主主義を否定する帝国主義と、民主主義をめざす大衆との敵対を激 化させる。資本主義と帝国主義を打倒することは、どのような、どんなに「理想的な」民主主義的改造をもってしても不可能であって、経済的変革によってのみ 可能である。しかし、民主主義のための闘争で訓練されないプロレタリアートは、経済的変革を遂行する能力をもたない。」
  私 たちは、「民主主義」を羽織った独裁を見抜き、社会を〝民主主義〟の空気で充たさなければならない。〝by the people〟の思想を持った、幾百千万の労働者・国民で満たさなければならない。そのために、革新政党は自由な討論の場の保障を自らの義務とするような ものでなければならず、政党設立の経済的束縛からの解放を自らの責務としなければならない。先進的な人たちは、このような政治環境を整える努力の中で〝自 我を確立した、主体性を持った人間〟を雲霞のごとく輩出させるために曝露し、人民を組織し、彼らに積極的・自覚的に役割をになってもらうよう、努めなけれ ばならない。
  そうすれば、いまの日本の正しい現状認識も、日本を危機に陥らしている私的資本主義的取得形態をどのように廃止したらよいかも、私的資本主義的取得形態か ら解放された社会的生産諸力をどのように使って豊かな社会化された生活を実現するのか、等々も彼らの闊達な民主的討議と自覚的で創意に満ちた実践とで真理 に近づくことができる。
  資本主義から社会主義への発展をどのように準備するのか?
 そ れは、マルクス・エンゲルスが『共産党宣言』で教えているように、労働者階級の団結を組織することだ。労働者階級を〝自我を確立した、主体性を持った人 間〟として、未来の建設者としての自覚を持った階級として結集させるための努力を資本主義の曝露を通じて、資本主義への怒りの組織を通じて、大河のような 労働運動の構築を目指して、徹底的に追求することである。その大河の一滴一滴は、〝by the people〟の思想で武装された、〝国民の新しい共同社会〟をつくる〝新しい人〟でなければならない。
 あえて資本主義の歴史的発展度合いをはかる、最も確かな、尺度をいうとすれば、それは、〝国民の新しい共同社会〟をつくる〝新しい人〟がどれだけ増えたかということだろう。

Ⅲ絶望的な感想

  一昨年(2014年)の12月、『赤旗』に載った『経済』の一月号の特集の宣伝が目を引いたので、久しぶりに購入しようと思い、共産党の地区委員会に行っ たら、普段は一冊くらいは有るのに今回はたまたま品切れだった。しかたなく、12月の末に、美和書店に行ったら、運悪く、土曜日で休み。満を持して上京 し、1月13日(火)にやっと手に入れることができた。
「特 集 21世紀の資本主義 限界論と変革の課題 資本主義の発展段階を考える」、本来ならば『経済』が常に中心におくべきテーマだが、今の共産党と労働運動 に欠けているテーマだ。そして、石川先生は不破さんとの鼎談で、不破さんの「桎梏」に関する教義に異を唱えた、大変貴重な学者だと思っていたので、──日 本「資本主義の発展段階を」、日本国そのものの存亡の危機をもたらす「産業の空洞化」と労働者・国民との矛盾の中で捉え、資本による私的資本主義的取得形 態こそが、日本社会を崩壊させ、社会化された労働と社会化された生産の「桎梏」になるということまでは思考が及ばないまでも──どのように「桎梏」を捉 え、それとの関連でどのように今の日本「資本主義の発展段階を」とらえているのか、興味と期待を持って本書を購入した。
  しかし、残念ながら、石川先生の「資本主義の発展段階を考える」とは、現在の日本資本主義の発展段階を、資本蓄積がどのように行われ、それが国民生活にど のような影響をおよぼしており、その中でどのように「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」が成長しているのかを分析し、社会変革の課題を考え るものではなかった。「社会発展の度合いをはかる基準」なる超歴史的な「概念」を考えだし、「資本主義の発展・成熟をとらえる基準」として、「国民による 資本主義の民主的な管理」の達成度合いなるものを「直感」したと言う、不破哲三氏の「ルールある資本主義」論の延長線上に未来社会があるという不破氏の 「桎梏」論と同一のものだった。私的資本主義的生産様式の社会で、「国民による資本主義の民主的な管理」が達成されるというのも「矛盾」に満ちているが、いまの日本が抱えている深刻な経済的な矛盾を抜きに、そのもとでの「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」を抜きに、それらと隔絶したところで、「資本主義の発展・成熟をとらえる基準」という現実世界から遊離した実態のない「概念」を「直感」するというのは、あまりにも非科学的ではないかと思う。資本の運動との関連の中で資本主義の発展を見るのではなく、「社会発展の度合いをはかる基準」という「歴史性をもった社会」から独立(超越)した非歴史的な「或るモノ」を探しだして、その「或るモノ」がどれだけ「イデア」に近づいたかを考える。私たちは、こういう思考をする人を観念論者と呼んでいる。
  まだ若い石川先生には、現実を直視し、不破さんが歪曲した科学的社会主義の理論を克服して、正しい〝マルクスのかじり方〟をしていただくようになることを、願ってやまない。

最後に、私たちが学ぶ上で大切な、エンゲルスとマルクスが私たちに残してくれた二つの文章を抜粋してみました。私たちはこれらのことばを忘れないようにしたい。

・どこでもいつでも政治的な状態や事件はそれに対応する経済状態によって説明される
「マルクスによって1845年になされた」「どこでもいつでも政治的な状態や事件はそれに対応する経済状態によって説明されるという発見。」(これは、ローリア氏が1886年に「マルクスの歴史理論(=唯物史観)を、彼自身の発明として」述べていることへのエンゲルスの反論の一節) 〈『資本論』第3巻 第1分冊 大月版 ④ P23-24 序文〉
・マルクスの研究にとっての導きの糸として役だった一般的結論
「私を悩ました疑問の解決のために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であって、その仕事の序説は、 1844年にパリで発行された『独仏年誌』に掲載された。私の研究の到達した結果は次のことだった。すなわち、法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般的発展からも理解できるものではなく、むしろ物質的な生活諸関係に根ざしているものであって、これらの生活諸関係の総体をヘーゲルは、18世紀のイギリス人よびフランス人の先例にならって、「市民社会」という名のもとに総括しているのであるが、しかしこの市民社会の解剖学は経済学のうちに求められなければならない、ということであった。この経済学の研究を私はパリで始めたのであるが、ギゾー氏の追放命令でブリュッセルに移り,そこでさらに研究をつづけた。私にとって明らかとなった、そしてひとたび自分のものになってからは私の研究にとって導きの糸として役だった一般的結論は、簡単に次のように定式化することができる。人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に照応する生産諸関係をとり結ぶ。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法的かつ政治的な上部構造がそびえたち、そしてこの土台に一定の社会的意識諸形態が照応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法的表現にすぎないが、所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときから社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、徐々にであれ急激にであれ変革される。このような諸変革の考察にあたっては、経済的生産諸条件における、自然科学的に正確に確認できる物質的な変革と、人間がそのなかでこの衝突を意識し、それをたたかいぬくところの法的な、政治的な、宗教的な、芸術的な、あるいは哲学的な諸形態、簡単にいえばイデオロギー的な諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人がなんであるかは、その個人が自分自身のことをどう思っているかによって判断されないのと同様に、このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を、物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。一つの社会構成は、それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化されおわるまでは、けっして古いものにとって代わることはない。それだから、人間はつねに,自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。というのは、詳しく考察してみると課題そのものが、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生成の過程にある場合にかぎって発生する、ということが、つねにわかるであろうから。大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生産様式を、経済的社会構成が進歩していく諸時期としてあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的というのは、個人的敵対という意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。しかしブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。したがって、この社会構成でもって人間社会の前史は終わるのである。」
(レキシコン②-[1]、『経済学批判』(序言) 全集、13巻、P6-7)