2-1-4

資本主義社会とはどのような社会なのか

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資本主義社会とはどのような社会なのか

〈目次〉

・資本主義的生産様式の社会は巧妙に作られた「画期的」な搾取の仕組みの社会

・資本は自己増殖し続けなければ資本主義的生産様式の社会を維持できない

・契約と競争のなかで形成された「転倒した社会」

・資本主義的生産様式がもつ致命的な欠陥

・資本主義社会には景気の波があり、資本が生産力の発展の障害になる

・資本は資本主義的生産関係の中でのみ資本として働く

・資本主義社会に続く新しい生産様式の社会

※このページはちょっとボリュームがありますので、PDFファイルをダウンロードして、じっくりお読み頂ければありがたいです。

資本主義的生産様式の社会は巧妙に作られた「画期的」な搾取の仕組みの社会

 

資本主義的生産様式の社会は巧妙に作られた「画期的」な搾取の仕組みの社会

資本主義社会は「産業資本が社会的生産を支配する社会」ですが、資本家と賃金労働者との自由な契約にもとづく自由な生産の社会で、封建領主の武力を背景とするあからさまな搾取などない社会です。それは、「資本家と賃金労働者との階級対立の存在を含んでいる」にもかかわらず、労働力が「商品」となることによって、「搾取」が隠蔽された「画期的な搾取様式」の社会です。そして、この〝画期〟性とは、すべての生産様式の中に入りこんですべてを呑みこむ〝画期〟性であり、搾取を覆い隠す〝画期〟性です。(『資本論』大月版③P49参照)

 

資本主義的生産様式の社会と奴隷制の社会との違い

奴隷制の社会は、奴隷の所有者が奴隷を買い、自分の家に囲い込んで生存の保障と引き換えに労働の成果をすべて奪い取るする社会ですが、資本主義的生産様式の社会は、資本家が生産手段を持たない無産の労働者から労働力を買い、自分の会社に囲い込んで生活の保障と引き換えに労働の成果をすべて奪い取るする仕組みの社会です。だから、マルクスとエンゲルスは、資本主義的生産様式の社会の労働者のことを〝賃金奴隷〟と言いました。

 

資本主義社会での契約は差別を隠蔽し、人権侵害を隠蔽する

資本主義国は、貧困は本人の問題であり差別は個々人の意識の問題であるとして政府の責任をウヤムヤにしたうえで、その救済に努めているかのように振る舞っています。

 その典型が米国です。アメリカを「新大陸」といって原住民を虐殺し屈服させ、アフリカから黒人を奴隷として略取して働かせ、奴隷解放後も、「自由な契約」に基づいて劣悪で低賃金の労働に従事させ、住む場所も食堂も移動手段も差別し続けてきました。そのなかで、低賃金と貧困が再生産され、社会的に低い地位が再生産され、差別が再生産され続けてきました。しかし、これは「本人の問題」でも「個々人の意識の問題」でもありません。アメリカ合衆国という国家が生み出した国家による犯罪です。資本主義社会の「自由な契約」はそれを隠蔽し続けていますが、その典型が米国です。

 しかし、米国だけを悪者にする訳にはいきません。資本は富を増やし続けるために貧困を作り続けています。そのために、グローバル資本は海外で労働者を低賃金で搾取し、国家は海外から国内に低賃金の労働者を輸入するために、知恵を絞り続けます。

 日本では「技能実習生」という名を借りて低賃金労働者を〝もっともらしく〟受け入れるための制度があり、これまで貧しい国々から流入してきた低賃金ではたらく人たちの存在と相まって、少なくない人たちが低賃金と劣悪な労働環境で働かされ続けています。これらの人たちが、日本国民を含む膨大な非正規雇用労働者群とシームレスに繋がり、一体をなして、日本全体の労働分配率を抑制し続けています。そして、資本の身勝手な海外への資本の移転による「産業の空洞化」で生産性の高い産業が失われ、一億総中流時代が終焉した日本は、貧富の差が世襲される社会に向かって突き進んでいます。「自由な契約」に基づく「人生いろいろ」(小泉純一郎元首相の捨て台詞)な選択が貧困を固定化させ、すべての人々が人として正当に発達する権利が制限され続ける時代に、確実に、足を踏み入れています。しかし、その国の首相は、自助、共助、公助と自助を強調して社会の真の姿を隠蔽し、庶民宰相を装って、「国民のために働く」と「嘘」ぶいています。(注:この「首相」とは2020年に首相になった菅氏のことを言っています。)

 資本主義社会は最後の階級社会ですが、それは同時に、最も巧妙で最も狡猾な階級社会です。米・英・加・EUや日本の政府やマスコミに騙されないように、眉に唾をつけて、世の中をよ~く見ることにしましょう。

*米国における「民主主義」・「平等」・「自由」の問題については、ホームページ6-3-7「〝社会主義〟が顔を覗かせたバイデン大統領の施政方針演説」を、是非、参照して下さい。

資本は自己増殖し続けなければ資本主義的生産様式の社会を維持できない

 

資本主義的生産様式の社会は搾取を拡大するによって経済成長を図る社会

資本主義的生産様式の社会は、資本の所有者が無産者から労働力を買うという契約によって労働者が生み出した価値を資本家が横取りする仕組みの社会ですが、労働者から横取りしたその過去の労働の成果を「資本」として、それをゾンビのように蘇らせ、増殖させる(搾取を積み重ねる)ことによって、経済の発展を図るという経済システムの社会です。

 そして、資本主義社会では、儲けの場が見つからず、「資本」としてゾンビになれずに資本家のもとに滞留した価値は、〝死重〟として経済発展の妨げになりますが、資本家は絶対にその価値を手放そうとはぜず、ゾンビになる日を待ち続けます。

 

資本は自己増殖し続けなければ資本主義的生産様式の社会を維持できない

資本主義的生産様式の社会は、私的資本の所有者が資本を大きくして、その資本を再投資することによって経済を発展させるシステムの社会ですから、資本を働かせるためには単純再生産ではダメで、拡大再生産を行ない続けなければ資本主義的生産様式の社会を維持することができません。資本は泳ぎ続けるマグロのように自己増殖をし続けなければなりません。そのために国家は企業を援助し、企業には儲けること、そのために安く作ることが常に求められ、その最も有効な手段として労働者の労働強化と賃金抑制が行なわれます。

 労働者がたたかわなければ労働条件がどんどん切り下げられることは、1995年以降の日本の労働者階級の状態を見れば、一目瞭然です。1995年以降、「産業の空洞化」の顕在化により労資の力関係が資本家に有利になった結果、非正規雇用労働者が飛躍的に増加し、労働分配率も低下し続けています。

※詳しくは、ホームページ1「今を検証する」の各子ページを参照して下さい。

 

社会に必要なものを作るのではなく、儲かるものだけを作る社会

資本主義的生産様式の社会は、私的資本の所有者が資本を大きくして、その資本を再投資することによって経済を発展させるシステムの社会ですから、社会に必要なのもであっても、儲からなければ作りません。同時に、社会に害があることが明らかなものでも儲かるものなら、どんどん推進します。例えば、カジノです。カジノは一方の人の不幸の上に他方の人とカジノの運営者が儲かる仕組みの「遊び」で、社会に害があることは明らかです。こんなものが経済の発展の資源として位置づけられるのです。

 

資本が儲けるために、必要な人に必要なものが届かない(特許権等)

資本は知識を独占して新らしい技術を発明すると、それを金儲けの道具にするために「知的財産権」という最もらしい「権利」を設けて他者の使用を制限し、使用を許可した者からは使用料を徴収します。グローバル資本が生産拠点とする新興国では、安い労働力で搾取されるだけでなく「知的財産権」の使用料で収奪されます。なお、2020年から「COVID-19」が大流行して、2022年12月3日現在、世界の死者数は663万人を超えていますが、製薬大手はワクチンの製造技術を独占して、製造技術の解放をしぶり、救えるはずの命を奪い続けてきました。

「契約」と「競争」のなかで転倒した社会が形成される

 

儲けを求める競争によって資本主義社会は支配されている

資本主義社会は搾取を覆い隠す「自由」な契約と市場での「自由」な競争によって成り立っています。

 マルクスは、『経済学批判要項』で「資本の内的諸法則は、自由競争が発展するかぎりで、…はじめて法則として措定されるのであり、…資本にもとづく生産が自分(資本の内的諸法則)に適合した諸形態をとる」(マルクスレキシコン⑤P31下2~33全部)と言っていますが、資本主義社会は資本主義の内在的な法則が競争によって外部に強制的に現れる社会です。儲けを求める競争によって支配されている社会です。

 そしてマルクスは、『資本論』で次のように述べています。

「資本家は、ただ人格化された資本であるかぎりでのみ、一つの歴史的な価値とあの歴史的な存在権…をもっているのである。……価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類に生産のための生産を強制し、したがってまた社会的生産諸力の発展を強制し、そしてまた、各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会形態の唯一の現実に基礎となりうる物質的生産条件の創造を強制する。……このようなものとして、彼は貨幣蓄蔵者と同様に絶対的な致富欲をもっている。だが、貨幣蓄蔵者の場合に個人的な熱中として現れるものは、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構のなかでは彼は一つの動輪でしかないのである。……そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみそれを拡大することができるのである。」(大月版『資本論』② P771-772 )

 私たちは、このような、搾取を覆い隠す「自由」な契約と市場での「自由」な競争によって成り立っている社会のなかで生活することによって、「競争を通じて資本を大きくする」ことによって経済を発展させる社会を〝普通の当たり前の社会〟として認識し、「経済を発展させる」ために「競争を通じて資本を大きくする」ことを至上命題として追い求めます。

 本末転倒しているにもかかわらず、「競争を通じて資本を大きくする」ことが「経済を発展させる」ための合理的な行動ででもあるかのようにみなされます。

 私たちは、〝経済は社会のためにある〟という〝一丁目一番地〟のあたりまえの真っ当な考えに立って、「競争を通じて資本を大きくする」という考えを捨て去り、未来を展望しなければなりません。

 なぜ、このような〝転倒〟した認識が生まれるのか、一緒に見てみましょう。

 

「契約」と「競争」のなかで転倒した社会が形成される

マルクスは、『資本論』で、資本主義的生産様式の社会の「不合理な諸形態」について、次のように述べています。

「一定の経済的諸関係がそのなかに現われそのなかに実際に総括されるところの不合理な諸形態の媒介は、日常取引でのこの諸関係の実際上の担い手たちにはなんのかかわりもないのである。また、彼らはそのなかで動くことに慣れているので、彼らの理性はそれにたいして少しも衝突を感じないのである。完全な矛盾でも、彼らにとっては少しも不思議なところはないのである。内的な関連から疎外された、それだけとして見ればばかげたものである現象形態のなかで、彼らは水中の魚のように気安さを覚えるのである。ここでは、ヘーゲルがある種の数学の公式について言っていること、すなわち、常識が不合理と見るものは合理的なものであり、常識で合理的なものは不合理そのものであるということがあてはまるのである。」(大月版⑤ P998-999)

 マルクスの言うとおり、資本主義的生産様式の社会では「常識が不合理と見るものは合理的なものであり、常識で合理的なものは不合理そのものであるということ」があてはまり、その中で、その歯車として動いている人々は、「内的な関連から疎外された、それだけとして見ればばかげたものである現象形態のなかで、彼らは水中の魚のように気安さを覚え」、何の疑問も感じず、「競争」を通じて儲けることに専念するのです。

 資本主義的生産様式を取り去ってしまえば、価値を生みだすのは人間の労働であることは明らかですが、資本主義社会では資本家に買われた労働力の価値が、「労働の価格」=「貨幣で表現された労働の価値」として現わされることによって、まちがった外観が与えられ、「労働─労賃」、「資本─利子」、「土地─地代」という「経済的三位一体」が誰もが認める「定式」として承認され、この「定式」によって〝人〟と〝物〟との〝主従関係〟が逆転させられます。資本主義社会は、このように、まちがった外観と偽瞞によって、魔法にかけられ、転倒され、逆立ちした社会であるにもかかわらず、何の疑問も感じずにそこに暮らす住人にとっては普通の世界となるのです。

 このように、資本主義的生産様式は、「契約」と「競争」のなかで、「過去の労働の生産物」である資本が価値を生み出す労働者を支配してゾンビのように増殖する転倒した社会を作り出しますが、資本主義的生産様式のカラクリを見ようとしない人々にとっては少しも不思議なことではないのです。だから、私たちは「賃金を上げろ!!国民生活を守る社会的バリケードが必要だ。」などと言っているだけではダメで、資本主義的生産様式の社会のカラクリを暴露し続けなければならないのです。

資本主義的生産様式がもつ致命的な欠陥

日本共産党を壊し続けている不破さんは、『資本論』第三部「第三篇利潤率の傾向的低下の法則」の意義を全否定しています。(*)

資本主義的生産様式のもとで、なぜ利潤率は傾向的に低下するのか、そのことがなぜ資本主義的生産様式がもつ致命的な欠陥なのか、一緒に見ていきましょう。

(*)詳しくは、ホームページAZ-3-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)」PDFファイルP22以降及び、ホームページAZ-1-3「マルクス『資本論』反面教師講座」の解説(その3)」のPDFファイルP3の「30」以降をお読み下さい。

 

ごくごく簡単にいうと

経済が発展し資本が大きくなればなるほど労賃に投ぜられる資本部分が総資本に比べて相対的に小さくなり、資本全体に対する剰余価値(労働によって生み出される価値から労働者に支払われる部分を引いたもの)の割合が低くなり、利潤率(資本全体に対する儲けの割合)は低下します。利潤第一主義の資本は、低下した利潤率のもとで利潤を増やすために商品の生産量を拡大しようとして生産の規模を拡大し生産性を高めさせますが、そのことがまた、利潤率の一層の低下をもたらせます。

 ところで、資本主義的生産様式の社会は、資本が大きくなることによって経済が発展するシステムの社会ですから、資本が大きくなることができる条件がなければ資本は資本として働くことができず、経済を発展させることができません。

 「利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本の過多」になれば、資本は資本として働くことができず、経済を発展させることができません。資本が資本として働くことができなくなったとき、資本そのものが資本主義的生産の真の制限であることを現わにします。マルクスは、そのことを「資本主義的生産様式は生産力の発展に関して富の生産そのものとはなんの関係もない制限を見いだ」したと述べています。

 このように、「利潤率の傾向的低下の法則」は資本主義的生産様式がもつ致命的な欠陥を白日の下にさらして、資本主義的生産様式が「資本」自身による制限をもった歴史的な一時的な生産様式であることを明らかにしました。

 ちょっと、分かりづらいかもしれませんが、『資本論』でより詳しく見てみましょう。

 

社会的生産力の累進的発展にともなう「利潤率の傾向的低下」

資本主義的生産様式のもとで、労働の社会的生産力が累進的に発展すればするほど、蓄積されている生産資本の絶対量と生産力は大きくなるとともに、労賃に投ぜられる資本部分が総資本に比べて相対的に小さくなります。そして、「充用される労働力に関しても生産力の発展はやはり二重に現れる。」それは、剰余労働の増大として、同時に、資本を動かす労働力の量(労働者数)の減少として現れます。(大月版④P310)

 このように、「労働の社会的生産力の累進的発展」は、生産資本の絶対量の増大と労賃に投ぜられる資本部分が総資本に比べて相対的に小さくなっていくことによって、労働強化による剰余労働の増大という反作用を含みつつも、利潤率の累進的な低下をもたらします。これを資本主義的生産様式における「利潤率の傾向的低下の法則」と言います。

 そして、マルクスは、「利潤率の進行的低下にもかかわらず」、利潤の絶対量を増大させることができ、ただそれができるだけではなく、「資本主義的生産の基礎の上ではそうならなければならないのである」と言い、資本主義的生産様式のもとでは「利潤率の進行的低下」を補うために一層の生産拡大と労働強化が必要であることを述べています。

 マルクスは『資本論』第三部「第14章」で、「利潤率の傾向的低下」のなかでの資本の攻撃によって労働の搾取度の傾向的上昇がもたらされることを明らかにしましたが、トマ・ピケティは『21世紀の資本論』でそれを証明しました。

 

「利潤率の傾向的低下」は資本主義的生産様式の被制限性と資本主義的生産様式の単に歴史的な一時的な性格とを証明する

マルクスは、「利潤率の傾向的低下の法則」の発見によって、「資本主義的生産様式は生産力の発展に関して富の生産そのものとはなんの関係もない制限を見いだ」し、「この特有な制限は、資本主義的生産様式の被制限性とその単に歴史的な一時的な性格とを証明するのである。それはまた、資本主義的生産様式が富の生産のための絶対的な生産様式ではなくて、むしろある段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明するのである。」(同上P304)ということを明らかにしました。

 それは、「この資本主義的生産様式の矛盾は、まさに、生産の絶対的な発展へのこの生産様式の傾向にあるのであり、しかもこの発展は、資本がそのもとで運動しておりまたただそのもとでのみ運動できる独自な生産条件と絶えず衝突する」(大月版P322-323)こと、「いわゆる資本の過多は、つねに根本的には、利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本の過多に関連している」(大月版P314-315)こと、「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである」(大月版P313)ことを明らかにしました。

 そして、マルクスは、「資本主義的生産様式の制限は次のような点に表れる」として、次のように資本主義的生産様式を断罪しています。

「(1)労働の生産力の発展は利潤率の低下ということのうちに一つの法則を生みだし、この法則は、生産力の発展がある点に達すればその発展に最も敵対的に対抗し、したがって絶えず恐慌(市場の破壊と価値破壊──青山)によって克服されなければならないということ。

 (2)不払労働の取得が、そして対象化された労働一般にたいするこの不払労働の割合が、または、資本主義的に表現すれば、利潤とこの利潤の充用資本にたいする割合とが、つまり利潤率のある高さが、生産の拡張や制限を決定するのであって、社会的欲望にたいする、社会的に発達した人間の欲望にたいする、生産の割合がそれを決定するのではないということ。それだからこそ、資本主義的生産様式にとっては、生産の拡張が他の前提のもとでは逆にまだまだ不十分だと思われるような程度に達しただけでも早くも制限が現われるのである。この生産様式は、欲望の充足が休止を命ずる点でではなく、利潤の生産と実現(商品が売れて貨幣資本のして資本家のもとへ戻ってくること──青山)とが休止を命ずる点で休止してしまうのである。」(大月版P323-324)

 

『資本論』第三部「第三篇」は資本のグローバル展開の意味を明らかにしている

『資本論』第三篇「第一五章」は、ここで「展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」だと不破さんによって何の根拠もなく濡れ衣を着せられた「章」ですが、その中には、「資本が外国に送られるとすれば、それは、資本が国内では絶対に使えないからではない。それは、資本が外国ではより高い利潤率で使えるからである。」(大月版P321)という、日本の「産業の空洞化」を見ようともせず「賃金が上がれば経済はよくなる」などとノー天気なことを言っている不破さんに煎じて飲ませてあげたいような文章があります。

 資本主義的生産様式における生産力の発展は「利潤率の低下」をもたらし、資本は外国でのより高い利潤率を求めて資本と雇用の輸出をおこないます。日本においても、これらの結果、「産業の空洞化」をもたらすことによって生産性の低い産業構造がつくられ、非正規雇用労働者の大群がつくられ、「実習生」という名の低賃金の外国人労働者の流入が図られ続けてきました。この流れを見ることができず、ただ、「非正規労働者をふやすな」「賃金を上げろ」とだけ言い続けてきた労働者階級は、労資の力関係において完全に劣勢に立たされてしまいました。このことに警鐘を鳴らすことのできなかった不破さんの「共産党」の責任は極めて重いが、それゆえに、いまだ、不破さんたちにはなぜトランプが出現できたのか、その意味がまったく理解できていません。(1*)

 日本は資本主義的生産様式の社会の法則に従って、「産業の空洞化」を通じて、〝没落〟しつつある姿を世界に示しています。そして、先進資本主義国に共通のこの解決不能な課題をまえに欧州には右翼排外主義が台頭し、米国のトランプ前大統領は技術独占のための米中「戦争」を仕掛けるとともに先進資本主義諸国に対して力ずくで「米国第一主義」を押しつけることによって「雇用と産業を取り戻す」ポーズを取り、そのことによって労働者階級の一定の層の支持を獲得しました。いま世界は、労働者階級が右か左かのどちらに向かうのかの、岐路に立っています。インターナショナルの思想に武装された科学的社会主義の党の登場を世界と歴史は渇望しているようです。(2*)

(1*)なぜトランプが米国大統領選でヒラリー・クリントンを破ったのかについての詳しい説明は、ホームページ6-3-1「第1回大統領候補テレビ討論中継でCNNが伝えたことと、日本のマスコミが報道したこと」を参照して下さい。

(2*)科学的社会主義の党の取るべき政策の概要については、ホームページ2-4「国際社会とどう向き合うか」を参照して下さい。

資本主義社会には景気の波があり、資本が生産力の発展の障害になる

 

資本主義社会には景気の波があり、資本が生産力の発展の障害になる

資本主義的生産様式の社会はモノが売れて資本が大きくなることによって経済が発展するシステムの社会です。そのために資本は、泳ぎ続けるマグロのように自己増殖を目的として活動し続けなければなりません。この資本主義社会を円滑に廻すために、信用制度が発達し、有価証券の売買が日常的に行なわれ、商品の先物取引にその商品を必要としない投機目的の人たちまでもが参加するような市場が作られます。

 商品が順調に売れ経済が拡大していくにつれ、信用は膨張し、あらゆる「モノ」の思惑にもとずく取引が活発になり、経済は順回転して万事がうまく進行し、物価も上がり賃金も上がり、生産は最大限に拡大され、資本家だけでなく多くの人が我が世の春を謳歌します。(ただし、産業の空洞化した日本は資本主義のこのような「正常」現象すら起こることができなくなってしまいました。)

 しかし、資本主義的生産様式によって制限された需要構造を超えて水ぶくれになった熱狂は、いつかは破綻せざるをえません。その劇的な現象が〝恐慌〟です。「利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本の過多」が表面化し、経済は逆回転して収縮し、万事が悪い方向に進まざるをえません。

 マルクスとエンゲルスは〝恐慌〟について、『共産党宣言』で次のように述べています。

「社会が自由にすることのできる生産諸力は、もはやブルジョア的文明およびブルジョア的所有関係の促進には役立たないのだ。反対に、生産諸力はこの関係にとってあまりに強大となってしまい、この関係によって阻止されるのだ。……──ブルジョア階級は恐慌を、何によって征服するか?一方では、一定量の生産諸力をむりに破壊することによって、他方では、新しい市場の獲得と古い市場のさらに徹底的な搾取によって。要するにどういうことか?要するに、もっと全面的な、もっと強大な恐慌の準備をするのである。そしてまた恐慌を予防する手段を減少させるのである。」(岩波文庫P46-48)

このように、資本主義社会は必然的に景気の波をもち、利潤率によって縛られる資本を大きくすることによって発展する資本主義的生産様式の社会は、「資本」が過多となることによって生産力の発展の障害になります。

資本は資本主義的生産関係の中でのみ資本として働く

 

資本は資本主義的生産関係の中でのみ資本として働く

競争を通じて各個の資本家に「資本」拡大のための資本主義的生産様式にやどる宿命的・内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける〝資本〟は、資本主義社会で〝神〟のように振る舞い、人々はそれにひれ伏します。

 マルクスは、「資本」が資本主義社会でなぜ「神」のように振る舞うことができるのか、その理由を『資本論』で次のように述べています。

「しかし、利子生み資本では資本呪物の観念が完成されている。この観念によれば、積み重なった、しかもそのうえに貨幣として固定された労働生産物には、生まれつきの秘密な性質によって、純粋な自動機関として、幾何級数的に剰余価値を生みだす力がそなわっているのであり、したがってこの積み重なった労働生産物は、『エコノミスト』誌が言っているように、あらゆる時代の世界のいっさいの富を正当に自分に帰属するものとしてすでに久しい以前から割引してきたのだというのである。過去の労働の生産物、過去の労働そのものが、ここではそれ自体として現在または未来の生きている剰余労働の一片をはらんでいるのである。ところが、だれでも知っているように、じつは過去の労働の生産物の価値の維持は、そしてそのかぎりではまたこの価値の再生産も、ただ、それらの生産物と生きている労働との接触の結果でしかないのであり、また第二に、過去の労働の生産物が生きている剰余労働に命令するということが続くのは、まさにただ、資本関係、すなわち、過去の労働が生きている労働にたいして独立に優勢に相対しているという一定の社会的関係が存続するあいだだけのことなのである。」(大月版④ P501 )

 つまり、自由な「契約」にもとづいて労働者を搾取することができるという資本主義的生産関係があるから、過去の労働の生産物が「資本」として君臨できるのです。

 だから、「資本」が支配する資本主義的生産関係とそれを合法化する法と制度を改めて、財産権による人間の支配から人間による「財」の支配に変えることにより、社会的生産によって作られた生産物を生きた社会的共同労働の産物として正当に帰属させれば「資本」は過去の労働の生産物としての自然の姿に戻り、ゾンビは死に消滅します。

資本主義社会は次の生産様式の社会を準備する

 ここであらためて、資本主義社会とはどのような社会なのかということを、歴史の一コマとして、資本主義社会が準備する新しい生産様式の社会を展望するなかで見てみましょう。

 

資本主義的生産の三つの主要な事実

まずはじめに、マルクス・エンゲルスは「資本主義社会とはどのような社会なのかということを、歴史の一コマとして」どのように見ていたのかを『資本論』から見てみましょう。

『資本論』は「資本主義的生産の三つの主要な事実」として次のように述べています。

「(1)少数の手のなかでの生産手段の集積。これによって、生産手段は直接的労働者の所有としては現れなくなり、反対に生産の社会的力に転化する。たとえ最初は資本家の私的所有としてではあっても。資本家はブルジョア社会の受託者であるが、彼らはこの受託の全果実を取りこんでしまうのである。

  (2)社会的労働としての労働そのものの組織。協業や分業によって、また労働と自然科学との結合によって。

  どちらの面から見ても資本主義的生産様式は私的所有と私的労働とを廃棄する。たとえ対立的な諸形態においてであっても。

 (3)世界市場の形成。

 資本主義的生産様式のなかで発展する、人口に比べての巨大な生産力、また、それと同じ割合でではないとはいえ、人口よりもずっと急速に増大する資本価値(単にその物質的基体だけではなく)の増大は、増大する富に比べてますます狭くなって行く基礎、つまりそのためにこの巨大な生産力が作用する基礎と矛盾し、また、この膨張する資本の増殖関係と矛盾する。そこで、恐慌が起きる。」(大月版④ P333B7-334)

 つまり、『資本論』のこの「資本主義的生産の三つの主要な事実」は、①資本家の私的所有物である生産手段が「生産手段の集積」によって生産のための社会的な役割を担うことになり、②これまで個人的個別的労働であった労働が協業や分業によって、また労働と自然科学との結合によって社会的労働として組織され、③泳ぎ続けるマグロのように自己増殖をするために活動し続けなければならない資本は自らに有利な国際ルールを押し付けながら〝世界市場〟を本格的に形成するがそれはまた資本主義の矛盾を世界中にふりまくという「資本主義的生産の事実」を明らかにし、資本主義的生産様式が人類の進歩・前進にとって歴史的に単なる一過程であることを示し、資本が人類の進歩・前進にとって〝枷〟として歴史を押さえつけていることを暴露しています。

 なお、マルクス・エンゲルスは「社会的労働」を語るとき、「協業や分業」だけでなく「労働と自然科学との結合」をも視野に入れていることも、是非、注目していただきたいと思います。そうすれば、国連がかかげる「SDGs」の達成が資本主義的生産様式の社会ではいかに困難な事業であるかが明瞭になると思います。

※なお、国連がかかげる「SDGs」に関しては、ホームページ2-1-2「二一世紀はどこに向かって進んでいるのか(その2)SDGsが実現される社会とは」を参照して下さい。

 

古い社会の変革契機と新しい社会の形成要素

上記の①、②に関し、『資本論』は、第三部第七篇「第五一章 分配関係と生産関係」で次のように述べています。

「労働過程がただ人間と自然とのあいだの単なる過程でしかないかぎりでは、労働過程の単純な諸要素は、労働過程のすべての社会的発展形態につねに共通なものである。しかし、この過程の特定の歴史的な形態は、それぞれ、さらにこの過程の物質的な基礎と社会的な形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したということがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立とが、広さと深さとを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。」(大月版⑤ P1129)

 そしてこの文章は、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」(大月版①P654)という『資本論』第一部第四篇「第一三章 機械と大工業」の結びの文章とシームレスに繋がっています。

 私たちは、資本主義的生産様式の社会のなかの「生産過程の物質的諸条件および社会的結合」の成熟という社会的な生産の進展・成熟=「新たな社会の形成要素」と「生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係」の成熟という社会的な生産と私的資本主義的所有の矛盾と敵対関係の進展・成熟=「古い社会の変革契機」の成熟をしかりと見なければなりません。

 そしてこの古い社会の変革契機と新しい社会の形成要素が成熟したとき、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月版② P995)とマルクス・エンゲルスはいいます。

しかし、〝古い社会の変革契機〟は私たちが資本主義的生産様式の社会の暴露を通じて意識され、その成熟が顕在化します。だから、一にも二にも資本主義を暴露する必要があるのです。

 また、資本主義のルールに基づいて形成された「世界市場」は、資本主義のルールの崩壊のときまで先進資本主義諸国を結束させて世界の人民を搾取する舞台となります。だから、成長著しい東南アジア諸国が豊かな地域経済圏を作るためにはグローバル資本の押し付けるルールを打破するために一致団結することが大切です。(*)

(*)この点に関しては、ホームページ2-4「国際社会とどう向き合うか」を、是非、参照して下さい。

 

資本主義社会に続く新しい生産様式の社会

これまで見てきたように、資本主義的生産様式の社会は、生産が社会化されているにもかかわらず過去の労働の生産物である「資本」が、資本主義的生産様式の社会の執行人である資本家階級を使って、自由な「契約」にもとづいて労働者階級を搾取する仕組みの社会です。

 資本主義的生産様式が育てた社会的生産によって作られた生産物は、社会的共同労働の産物であるにもかかわらず「資本」に牛耳られています。これをどうすれば糺すことができるのか。答えは簡単です。生産物を「資本」が自由に牛耳ることができる現在の法と制度を「資本」が生産物を支配することのできない法と制度に変えればいいのです。ただそれだけです。「過去の労働の生産物」である「資本」が企業を支配し利潤を横取りすることのできる「法・制度」を改めるとともに、企業を社会の共同のインフラとして、その企業の労働者を含め、民主的に管理するシステムをつくることによって、「過去の労働の生産物」から社会と企業を解放すればいいのです。

 労働者階級の民主的な社会参加によって、〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会に世界を変革すればいいのです。

資本主義社会に続く新しい生産様式の社会は以上のような考えに基づいてつくられていくことでしょう。そして、そのような社会を実現するためには国家、企業、地域のあらゆる場所で〝by the people 〟の力を高め強めていかなければならないことを忘れてはなりません。

次のページのご案内

次のページでは、あらためて資本主義的生産様式の仕組みを見て、〝経済は社会を豊かにし人々の生活を豊かにするためにある〟という社会の生産の仕方とはどのようなものなのかを考え、どうしたら実現できるのかを、みなさんと一緒に見ていきます。

 必ず、みなさんの役に立つページになると思いますので、是非、お読み下さい。なお、このページも、ちょっとボリュームがありますので、PDFファイルをダウンロードして、じっくりお読み頂ければ幸いです。 

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