AZ-1-1

国民のための経済がある、新しい共同社会を創るために、

不破さんのマルクス・エンゲルスと『資本論』の歪曲・捏造を暴き、

科学的社会主義の思想のエネルギーを取り戻そう

(その1)

このページのPDFファイルはこちら

ダウンロード
1不破さんの「マルクス『資本論』反面教師講座」の解説.pdf
PDFファイル 403.9 KB

 

「国民のための経済がある新しい共同社会を創るための」新しいページの紹介

 このページ、「国民のための経済がある新しい共同社会を創るために、科学的社会主義の思想を正しく知るための、不破さんの「マルクス『資本論』反面教師講座」の解説」は、不破さんが二一世紀になってはじめた『資本論』の本格的な「研究」の成果の主なものを、不破さん執筆の「『資本論』探究」を軸に紹介し、不破さんが編集責任者している「マルクス『資本論』」という『資本論』の贋作に騙されることなく、科学的社会主義の思想の本当の姿を知っていただき、科学的社会主義の思想から未来への希望とエネルギーを得て頂きたく、このホームページを作成した次第です。

 このページは、番号ごとにひとかたまりの文章になっており、電車の中でも、5分、10分と時間が空いたときにスマホで読めるように編集いたしました。

 是非、気楽に読んで〝正しいマルクス通〟になって下さい。

 

ここに書かれていることの出典等の詳しい説明は、下記のホームページでお確かめ下さい。

スタートです!!

0

 

不破さんの今がわかる、『資本論』の捉え方と「新版『資本論』」を出版する理由

不破さんの言うエンゲルス編集の『資本論』の一番大きな問題点とは

『赤旗』の「新版『資本論』」の宣伝ページで、不破さんは、『資本論』の編集上の「一番大きな問題点は、エンゲルスが恐慌論におけるマルクスの到達点を見落としたことです。」と言います。

不破さんが「新版『資本論』」を編集するわけは、不破さんが21世紀に大「発見」した「資本主義観」と「革命観」をエンゲルス知らなかったからだという

不破さんは、「新版『資本論』」を刊行する動機として、不破さんが21世紀になってやっと大「発見」した──マルクスが1865年に、エセ科学的社会主義の「資本主義観」と「革命観」に転落したという不破さんの創作のこと──マルクスの思想をエンゲルスが共有していなかったからだと言います。

マルクスとエンゲルスが科学的社会主義の思想を共有していなかった、とんでもない理由

不破さんは、エンゲルスがマルクスの科学的社会主義の思想からの転落を知らなかった理由は、マルクスが無二の親友であり同志であるエンゲルスにエセ科学的社会主義の「資本主義観」と「革命観」に転落したという重大なことを「報告」すると、エンゲルスに『資本論』を「〝速く仕上げよ〟と言われるから」「報告」しなかったと言うのです。

エンゲルス編集の『資本論』を不破さんはどう変えようとするのか

不破さんは、マルクスはこれまで利潤率の傾向的低下の法則が根拠となって恐慌が起こり、資本主義の危機は資本主義の発展とともに深まっていくと思っていたが、1865年に、信用に基づく価値実現の短縮による架空の需要が恐慌の原因で、恐慌は新たな資本主義の発展の出発点であり資本主義の危機が深まるわけではなく、これまでの「資本主義観」とそれにもとづく「革命観」は誤っていたことを発見した、エンゲルスはそのことを知らなかった。だから「新版『資本論』」を刊行するというのです。

不破さんによって、『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想はどう変えられたのか、不破さんの「『資本論』探究」を軸に見てみよう

Ⅰ、『資本論』第一部を中心にして

 

不破さんの「『資本論』探究」は、マルクスの論究への不信を煽るところなら始まります

  不破さんは、マルクスの完璧を求める態度を逆手にとって、『資本論』の最初の「第一篇 商品と貨幣」について、四回の書き換えで仕上げられたと、「書き換え」などという特殊なニュアンスをもった言葉を使って、『資本論』が理論的に未成熟ででもあるかのような印象を与え、『資本論』改竄のフリーハンドを確保しようとします。

 

「第三篇 第八章 労働日」での不破さんの自論の展開の導入の仕方

不破さんは「恐慌の運動論の発見(より突っ込んでいえば資本主義観の発展〔つまり、不破さんの「資本主義は発展する」という考えにマルクスが立つたという虚構──青山〕)にともなう著作(『資本論』)の構想の根本的な変化」、という虚構を根拠に「第八章」の解釈改〝科学的社会主義〟が行なわれます。

 

マルクスの「超強力な社会的障害物」の位置づけ

 マルクスは、「第八章」で、「彼ら(労働者階級)は階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない。」と述べて、「労働日」の章を結んでいますが、マルクスは、あらゆるところで、労働者の団結の重要性と資本の横暴を制限する「超強力な社会的障害物」を勝ち取るためにたたかうことの重要性を教えるだけでなく、資本主義的な生産関係の社会を変えるためにたたかうことこそが、問題の真の解決の道であることを教えています。

 

不破さんの「社会的バリケード」の位置づけ

 不破さんは、『賃金、価格、利潤』の講義で「社会的バリケードをかちとり、『ルールある経済社会』へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだということを強調して、講義を終わります」が、『賃金、価格、利潤』でも『資本論』の「第8章労働日」でも、マルクスの「社会的障害物」と不破さんのいう「社会的ルール」(=「社会的バリケード」)とは、その位置づけがまったく異なり、その先にあるものがまったく違います。

 

「第四篇 第一三章 機械と大工業」でのマルクスを誹謗する「推測」と不破さんの「仰天思想」への導入

 不破さんは、マルクスが「1861~1863年草稿」(23冊のノート)の「機械」についての執筆を中断したことについて、「私は、機械と大工業の実態についての自分の知識があまりにも少ないことを自覚したからだと、推測しています」と、不破さん得意の「推測」を、マルクスの「知識があまりにも少ないこと」を理由として「推測」します。続けて、その推測が「真実」ででもあるかのように、「いざその大工業を正面から研究しようという段になると、機械制大工業に対する自分の実際的知識の貧弱さを実感せざるを得なかった」と、見てきたかのようなことを「断言」し、「第一三章」について、「大工業の段階の研究成果をまとまったかたちで展開するところまではゆきませんでした」と、マルクスの無知を埋めるだけの研究成果が「第一三章」にはないかのように言います。

 

「不破さんの仰天思想」への導入

 ここで不破さんは、「第一三章」の解説には関係のない「不破さんの仰天思想」への導入を図るべく、「資本主義的生産のもとで形成され発展を遂げた『全体労働者』の態様こそが、労働者階級を未来社会の担い手として育成してゆく道だという問題にほかなりません」と言います。

 

「古い社会の変革契機」を欠いた、不破さんの言う「全体労働者」

 ここでマルクスが言っている「全体労働者」が担う社会的生産の発展は、資本主義的生産様式の社会の発展がもたらした技術的側面で、「新たな社会の形成要素」となるものです。そして、不破さんが言っている「資本主義的生産のもとで形成され発展を遂げた『全体労働者』の態様」とは、資本主義的生産関係のもとで、まだ資本主義的生産の衣をまとわされた「様態」の「労働者」のことです。

 

必要なのは、「古い社会の変革契機」である資本主義の矛盾を解決するための労働者階級の社会変革のエネルギー

 ですから、「労働者階級が生産過程と未来社会の担い手として成長してゆく」ために、彼らがまず行わなければならないことは、資本主義的生産の衣をまとった「様態」を脱ぎ捨てることです。そのためには、「古い社会の変革契機」である資本主義の矛盾を解決する社会変革の主体としての労働者階級への生まれ変わりが必要です。

 

不破さんの、「指揮者はいるが支配者はいない」民主的な職場への道

 そのことを視野の外に置く、不破さんの言う「指揮者はいるが支配者はいない」民主的な職場の「全体労働者」の態様が、「労働者階級を未来社会の担い手として育成してゆく道」だという、「資本主義的生産のもとで形成され発展を遂げた『全体労働者』の態様」の認識に、不破さんの限界と根本的な誤りがあります。そして、その結果、不破さんはとんでもない労働者の「未来社会」を描くことになります。

 〝不破さんの仰天思想〟の続きをご期待下さい。

 

「第一三章」でマルクスが明らかにしたこと

 マルクスは、「第一三章 機械と大工業」の章で、自ら発見した唯物史観と弁証法の助けをかりて、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことを、事実に基づいて明らかにしました。

 

「第一三章」を自らの「資本主義観」に結びつけようとする不破さん

 このことを不破さんは、「ここには、資本主義の『必然的没落』の過程を究明するマルクスの新しい見地が、端緒的な形で顔を出していることを、頭においていただきたいと思います」と言います。あらゆるものを「不破さんの仰天思想」に結びつけようとする不破さんの『資本論』を探求する邪な姿勢がよく現れています。

 

マルクス・エンゲルスと不破さんとの違い

 マルクス・エンゲルスと不破さんとの違いは、マルクスとエンゲルスが「新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機」とを、〝経済的・政治的諸関係〟をリアルに見て、いまある〝現実〟のなかからつかみ出すのに対し、不破さんは資本主義の発展のなかでの「『社会的ルール』の獲得」と「全体労働者」のいる社会という〝観念〟(イデア)の実現を目標として、その実現のための合い言葉に、労働者階級の存在を覆い隠したうえで、「多数者革命」という「革命」的なことを言い、党員を「党勢拡大」に駆り立てます。

 

第三部「第五一章分配関係と生産関係」にシームレスに繋がっている「第一三章」

 なお、この「第一三章」は、『資本論』第三部第七篇「第五一章 分配関係と生産関係」の、「労働過程がただ人間と自然とのあいだの単なる過程でしかないかぎりでは、労働過程の単純な諸要素は、労働過程のすべての社会的発展形態につねに共通なものである。しかし、この過程の特定の歴史的な形態は、それぞれ、さらにこの過程の物質的な基礎と社会的な形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したということがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立とが、広さと深さとを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。」(『資本論』第3巻 第2分冊 大月版⑤ P1129)という結びの文章とシームレスに繋がっています。

 

不破さんの「第七篇 資本の蓄積過程」の解説の尻切れトンボ

 不破さんは、「『社会的ルール』の獲得のための闘争は、その核心をなすもので」、「ここに、『賃労働』の部で展開する予定だった労働者階級論の第一の契機があり」、「労働者階級が生産過程と未来社会の担い手として成長してゆく過程の追跡、ここに、『賃労働』論(第七編)の第二の主要な契機がありました」と言います。

 

不破さんの「未来社会の担い手」

 不破さんは、かつて、『フランスにおける内乱』の第一草稿の「奴隷制のかせ」──資本主義的生産様式の社会での賃金奴隷制のかせのこと──からの解放について「〝指揮者はいるが支配者はいない〟──生産現場でこういう人間関係をつくりあげ」ることだというユニークな見解を創作しました。

 

何も探究しない不破さんの探究

 そこで、今度は、「第七篇 資本の蓄積過程」の解説のなかで、不破さんがどんな〝独走〟的な考えを披露するのか固唾を呑んで注視しましたが、不破さんの「第七篇 資本の蓄積過程」の解説には、「第三篇」で、「自分と階級の生活と存続のための階級闘争の必然性を、」「第四篇」で、「労働者階級が未来社会で生産を担う主体として発展する姿(『全体労働者』)を見てきました。」という文章以外、どこにも、上記の二つの「契機」にもとづく、不破さんのユニークな見解は見あたりませんでした。

 

単純明快な、不破さんの「未来社会」論

 これらから推察すると、不破さんの頭の中には、資本主義社会の延長線上での「社会的ルール」=「ルールある資本主義」と同じく資本主義社会の延長線上での「全体労働者」=「指揮者はいるが支配者はいない」民主的な職場が「未来社会」としてあるだけのようです。不破さんの妄想とは言え、マルクスもとんだ「資本主義観の発展」をさせられる羽目になったものです。お気の毒としか言いようがありません。なお、不破さんの「未来社会論」には、資本主義社会にもある「余暇」が「自由な時間」=「自由の国」としてあるようです。

 

「第七篇 第二二章」の「より高度な社会形態」の社会を理解できない不破さん

 不破さんは、「第七篇 第二二章 剰余価値の資本への転化」の中の「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態」といういわゆる「共産主義社会」から「自由」だけを取り出して、「マルクスにとっては、人間の自由こそが、未来社会の最大の特徴なのです」と言い、これが「未来社会論の本論」だと言います。

 

各個人の完全な発展は、「より高度な社会形態」である「共産主義社会」で実現する

 不破さんは、いわゆる「共産主義社会」が「各個人の完全」「な発展を基本原理とする」ことも、そのことを保証する「より高度な社会形態」であることも眼中になく、ただ「自由」だけを持って飛び跳ねます。そしてこの「自由」とは、「自由な時間の追求にこそ、未来社会論の本論がある」と言っているように「自由な時間」のことなのです。

 

マルクス・エンゲルスの「自由の国」と不破さんの「自由の国」

 マルクスとエンゲルスが、いわゆる「共産主義社会」を「自由の国」と言ったのを、不破さんは、「自由の国」とは「自由な時間」のことで、資本主義社会での労働者の「余暇」も「自由の国」だなどと言うようになる始末です。

※「自由の国」についての詳しい説明は、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」及びホームページ4-26-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)を参照して下さい。

 

「第二三章 資本主義的蓄積の一般的法則」の不破さんの描き方

 不破さんは、「第二三章」について、「この章は、全体が、完成稿のために新たに書き下ろされたものです」と言い、マルクスが、マルクス主義(科学的社会主義)の思想とは無縁の手法で導きだした従来の資本主義観を棄て、新しい資本主義観の出発点に立ったかのようにマルクスを描き出そうとします。

 

マルクスをマルクス主義でないという不破さんの「推測」

 不破さんは、マルクスが「利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われと」断定し、「そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込み」、そこから、この著作の「結論部分」を「完成できるという見通しを得た」ので、『資本論』を書く「決断」をしたと、またまた、見てきたような「推測」を行ないます。その「断定」と「思い込み」に合わせて「無理な立論」をしたという、およそ事実を基礎に置く科学的社会主義の思想とは正反対の、まるで不破さんがするような「論立て」をする人間ででもあるかのようにマルクスを描きます。

 

そしてデマまで振りまく不破さん

 そして不破さんは、「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がない」と『資本論』で述べられているとウソまでつきます。

※なお、「恐慌」は「すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がない」とマルクスが言ったという不破さんのデマについての詳しい論究は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を参照して下さい。

 

その持つ意味を理解できない不破さんの「利潤率の傾向的低下の法則」の葬り方

 マルクスの天才的な洞察力を理解できない不破さんは、二一世紀になって自ら作り上げた「『恐慌=革命』説」をマルクスのものとでっち上げ、それを責める根拠にマルクスが発見した「利潤率の傾向的低下の法則」を持ち出すことによって、資本主義的生産様式における「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ大切な意味を葬り去ろうとします。

 

「利潤率の傾向的低下の法則」は資本主義を動かしている

 資本主義の経済現象は「利潤率の傾向的低下の法則」を「背景として」起きています。不破さんはそのことを理解できないから、「利潤率の低下を恐慌と結びつける理論的な組み立てがうまく成立しなかった」などと言って、マルクスに勝ったかのような錯覚に陥ってしまいます。

 

「マルクスを悩ませた理論上の問題」をデッチ上げる不破さん

 不破さんは、マルクスが、恐慌をともなう資本主義経済の破局の反復ののちに、「最後には、資本の強力な転覆にいたる」という理論的設定をしていたが、「恐慌期が過ぎると、資本主義は前回の周期を大きく上回る繁栄を取り戻し、衰退現象を見せないのです」とマルクスの考えをねじ曲げ、その「現実」とマルクスの「理論」との矛盾が「マルクスを悩ませた理論上の問題」だったなどと言います。

 

不破さんの資本主義発展論と資本主義の矛盾を見ることの出来ない不破さん

 不破さんは、くり返し起こる「恐慌」を含む資本主義の発展が、「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことが、十分に理解できないようです。

※なお、マルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」に関する詳しい論究についても、同じく、ホームページ4-19を参照して下さい。

 

「第二三章第二節」を台無しにする、不破さんの「新しい見地」

 不破さんは一歩前に進んで、資本家の立場で、「可変資本の相対的な減少によって進む資本構成の変化は、資本主義的生産の危機や没落の要因ではなく、資本主義的蓄積の急速な進行にともなう当然の、むしろ積極的な現象として意義づけられています」といい、「新しい見地では、可変資本部分の相対的減少は、否定的な現象ではなく、独自の資本主義的生産様式の蓄積過程の当然の、積極的な現象なのです」と言い放ちます。

 

不破さんの「新しい見地」は、マルクスとは無縁の見地です

 マルクスは、第二三章について、「この章では、資本の増大が労働者階級の運命に及ぼす影響を取り扱う」(大月版②P799)ことを述べていますが、マルクスは「第二三章第二節」で、「可変資本部分の相対的減少」が労働者階級の資本主義社会での生存条件にとって「積極的な現象」であるとか、資本主義的生産様式の社会にとって「可変資本部分の相対的減少」による利潤率の低下が「否定的な現象ではない」などという「新しい見地」などまったく持っていません。

 

『資本論』第一部第二三章の歴史的限界

 『資本論』「第一部第二三章」は、ご承知のとおり、資本主義の「黄金時代」と言われる1970年代前半頃までよりも100年近く前に書かれた、自国での資本主義の発展に十分な伸びしろがある時代に書かれたものです。だから、マルクスが論及した、可変資本が相対的に減少するという条件のもとでの資本の蓄積過程の検討も、自国での「可変資本部分の絶対的大きさの増加」を前提としたものが理論的に可能なだけでなく、現実におきていることでした。

 

現代におる資本の資本蓄積活動

 しかし、資本主義の「黄金時代」を過ぎると、先進資本主義諸国は自国での利潤率の低下を補うだけの高い需要が見込めなくなり、経済成長率は低下し、新興諸国への資本の輸出によって資本蓄積を進める道以外に「資本」が「資本」として進むべき道はなくなっていきます。その結果、先進資本主義諸国の産業の空洞化は進み、中間層がやせ細り、そうした中で、米国ではトランプ政権が誕生しました。輸出中心の「一本足打法」の日本の「産業の空洞化」は一層深刻で、その深刻な姿が明確に現れたのは1995年からのことで、1995年以降GDPは横ばいとなり、労資の力関係が資本優位となるなかで不安定雇用が増加の一途を辿ります。

 

『資本論』第一部第二三章の普遍性

 マルクスは、当然、グローバル資本時代の「資本蓄積」とそのもとでの「独自の資本主義的生産様式」に具体的に論及することはできませんでしたが、「ある程度の資本蓄積が独自の資本主義的生産様式の条件として現れるとすれば、後者はまた反作用的に資本の加速的蓄積の原因になるのである。それだから、資本の蓄積につれて独自の資本主義的生産様式が発展するのであり、また独自の資本主義的生産様式の発展につれて資本の蓄積が進展するのである。」(大月版②P815)と、「資本蓄積の進展」とそのもとでの「独自の資本主義的生産様式の発展」についての普遍的な相関関係が述べられています。

 

二一世紀の不破さんの歴史を超えた限界

 この意味をしっかり学べば、マルクスがグローバル資本時代の「資本蓄積の進展」とそのもとでの「独自の資本主義的生産様式の発展」について論及していなくても、私たちは正しい認識を持つことができます。しかし、残念ながら不破さんは、そのことを見落としただけでなく、マルクスの時代からぬけ出せなかったようです。そのために、グローバル資本時代の資本主義の行動の解明がまったくできません。

 

不破さんのお門違いの「心配」

 不破さんは、下記の文章を抜粋して、「以前のマルクスだったら、利潤率が20%に低下することを心配したでしょう。」とお門違いの「心配」をします。

「なおまた、蓄積の進展は、可変資本部分の相対量を減らすとはいえ、けっして同時にその絶対量の増大を排除するものではない。かりに、ある資本価値が初めは50%の不変資本と50%の可変資本とに分かれ、後には80%の不変資本と20%の可変資本とに分かれるとしよう。その間に、最初の資本、たとえば6000ポンドが、18000ポンドに増大したとすれば、その可変成分も1/5だけ増大しているわけである。それは3000ポンドだったが、今では3600ポンドである。ところが、以前は労働需要を20%ふやすには20%の資本増加でよかったのに、今ではそのためには最初の資本を(約──青山補筆)三倍にすることが必要なのである。」(大月版、②P813-814)

 

不破さんのお門違いなマルクスの非難

 この文章は、「資本蓄積の進展」が、労働需要をふやすために一層多くの総資本を必要とすることを述べているもので、「利潤率の低下」を嬉しがったり、心配したりすることを求めているものではありません。そもそも、なぜマルクスが「資本蓄積の進展」によって「利潤率が低下する」ことを「心配」しなければならないのでしょうか。不破さんは、そんなことを資本家と一緒になって「心配」などしていないで、この文章の持つ意味をしっかりと理解すべきです。

 

不破さんはマルクスの悪口を言うことだけを考えず、文章の持つ意味をしっかりと理解すべきです

 この文章は、資本主義的生産様式が発展すればするほど労働需要をふやすためにはより一層多くの「資本蓄積」が必要となる資本主義的生産様式の法則性と限界性を述べたもので、そのためには、また、資本蓄積の進展のための価値実現、つまり、絶えざる需要の拡大が必要であることを意味します。不破さんは、マルクスが、「利潤率が20%に低下することを心配した」かどうかを気にかけるまえに、「産業の空洞化」がなぜ起きたのか、日本の現状について、「賃金が上がれば、経済は成長する」などとばかなことを言っていないで、『資本論』を熟読して、『資本論』からヒントを得て、熟考すべきです。

 

不破さんは、なぜこんな馬鹿なことを言うのか

 不破さんは、マルクスの悪口をいうことばかり考えていて、『資本論』を真面目に読もうとしないから、21世紀のグローバル資本の行動とそれによって起こる社会・経済の変化など目に入らないのでしょうか。それとも、不破さんにとっては真実などどうでもよいことなのでしょうか。私には、最近ますます、不破さんが、後者のように見えてなりません。

10

 

不破さんの「第二三章」の位置づけ

 不破さんは、「第二三章」について、不破さんの言う「新たに発見された恐慌の運動論」なるものの「発見がもたらした理論的転換の全体を頭においた上で、第二三章の執筆にあたりました」と断定(推測?)します。

 

不破さんの言う、「恐慌の運動論」とは

 不破さんの言う、マルクスが1865年に「新たに発見した」という「恐慌の運動論」なるものとは、簡単にいうと「信用」による「流通過程の短縮」により短縮された価値「実現」(商品が売れること)、つまり、「信用」による「架空の需要」(商品が売れたように見えること)だけを取り出し、それが資本主義的生産様式の恐慌の原因であるとするもので、マルクスの考えのなかの一部の構成要素にしか過ぎません。

 

「恐慌の運動論」は不破さんの創作

 「恐慌の運動論」なるものは、マルクスが1865年に「発見」したものではなく、不破さんが2002年以降に「大発見」したもので、不破さん流にいえば、「架空の需要=恐慌」説とでもいうべきもので、まったくの、不破さんの創作です。

 

「産業循環」について、マルクスは「第二三章」でどのような認識をもっていたか

 マルクスは、「産業循環の局面転換の単なる兆候でしかない信用の膨張や収縮」を「産業循環」の「転換の原因」と見ることを、「経済学の浅薄さ」として痛烈に批判し、「産業循環」は資本主義的生産様式の社会の資本主義的生産の諸法則に基づく様々な原因と結果が影響し合うトータルな循環運動であることを指摘しています。

 

不破さんが発見した「恐慌の運動論」を否定するマルクス

 「恐慌」は、資本主義的生産の諸法則がはたらく資本主義的生産様式の社会では、信用を使っての価値実現の短縮や資産価値の上昇など過剰生産が可能な条件さえあれば、必ず起こりえます。そして、産業循環は資本主義的生産様式の社会の生活条件なのです。不破さんの発見した「恐慌の運動論」なるものも、マルクス以前の「経済学」と同様に「浅薄」な代物であることを、この「第二三章」は明らかにしています。

 

 

不破さんの「マルクスの目」が見る現代の表層

 不破さんは、「マルクスが『資本論』で分析した資本主義的蓄積の一般的法則の、一段と深刻な、現代的な現れを見ることができます」と述べて、「産業予備軍の固定化とその拡大が、政府の介入のもとにおこなわれて」おり、「現役の就業労働者の『予備軍』化」が進み、「いま企業の内部にまで『予備軍』化の体制を広げて、社会の中核をなすはずの就業労働者層への圧迫を強め、中間層の疲弊と没落、社会の格差の拡大という事態を年ごとに拡大再生産させているのです」と言います。そして、「今日の社会的格差拡大の問題を見る場合にも、『マルクスの目』で、ことの本質をつかむ態度が、いよいよ重大になっている、と思います」と述べて、鼻高々の「第二三章」の解説をして文章をむすんでいます。

 

表層の原因を見ることができない不破さんの「マルクスの目」

 しかし不破さんは、なぜ雇用環境が資本優位になってきたのかについては黙して語りません。科学的社会主義の思想は、「生産力と生産関係の矛盾」を注視し、その発展の仕方を研究し、その現れ方を暴露し、資本主義的生産様式の社会の限界を指摘して、その変革を呼びかけるものであり、エンゲルスはザスーリチへの手紙で、「革命的戦術を発見するには、問題となる国の経済的・政治的諸関係にマルクスの歴史理論を適用しさえすればよいのです」と言っています。

 

現代の日本の資本蓄積

 1970年代以降の資本と経済の詳しい動きは、ホームページ「1、今を検証する」を参照していただきたいと思いますが、現在の日本の経済的・政治的諸関係はグローバル資本の行動とその結果としての「産業の空洞化」がもたらす諸関係によって規定されています。

 

残念な、不破さん

 しかし、残念ながら「第二三章 資本主義的蓄積の一般的法則」の歴史的限界と普遍性とを学べなかった「不破さんの目」には、そんなことなど、網膜に映っても、まったく眼中にないのです。だから、不破さんには、グローバル資本によって「産業の空洞化」が進んだために、「ノーマルな景気循環」さえ起こらなくなってしまった日本経済の現実と、そこでの「新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機」などまったく理解することができません。

 

残念な、不破さんに出来ること

 不破さんは、ただ立ちすくんで、起きている「現象」の一部を述べて、「今日の社会的格差拡大の問題を見る場合にも、『マルクスの目』で、ことの本質をつかむ態度が、いよいよ重大になっている、と思います」などと言うのが精一杯です。「『マルクスの目』で、ことの本質をつかむ態度」などと言って、自らが「マルクスの目」を持っているかのようなトリックを使っても、「マルクスのお面」をかぶった不破さんが言えることは、「経済的・政治的諸関係」を無視して「ルールある経済社会」の夢を語り、「賃金が上がれば経済がよくなる」という、マルクスの言う「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」の言葉を繰り返すだけです。

 

元「共産党」委員長の不破さんよりも、バーニー・サンダース氏やトランプ米大統領のほうが社会と経済をよく理解している

 私たちは、不破さんの言う結果(起きている現象)の原因をなくさなければなりません。しかし、なぜ労働者が資本に圧倒されているのか、なぜ中間層が疲弊し薄くなってしまったのか、その答えに、元「共産党」委員長の不破さんよりも、バーニー・サンダース氏やトランプ米大統領のほうが、より近いのは残念です。彼らは、現在の「危機」の主要な原因が「産業の空洞化」にあることをしっかりと認識しています。

※詳しくはホームページ6-2-20「第1回大統領候補テレビ討論中継でCNNが伝えたことと、日本のマスコミが報道したこと」及びホームページ6-2-21「米国の歴史を一歩前に進めたトランプ」を参照して下さい。

 

 

 

私たちがなすべきこと

 

よく見て下さい!! カワセミがいます。

 不破さんの言う結果の原因であるグローバル資本による「産業の空洞化」を、グローバル資本の行動を規制することによって回復させ、富の源泉である製造業の厚みを取り戻す道を発見することこそが、「マルクスの目」で資本の「本質」を?むことです。不破さんの様に、現場に立ちすくんで、結果を嘆いているだけでは、なんの役にも立ちません。

11

 

不破さんの、「第二四章 本源的蓄積」の中の有名な文章のとんでもない読み方

 不破さんは、「第二四章」の「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月版 ② P995F6-9)という文章のとんでもない悪用と「桎梏」いう言葉のとんでもない誤用をおこないます。

 

この文章の不破さんの悪用

 不破さんは、2014年9月9日に行われた「理論活動教室」第2講「マルクスの読み方」③によると、この文章を、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。」で区切り、つづけて、「私たちの経験のなかでも『桎梏』化はものすごい形で現れています」と述べ、日本共産党綱領を紹介し、その後で、「『資本論』の有名な一文」として後半部分を読み上げたそうです。

 

誰にでもわかる文章を二つに分けて、その間に自分の主張を入れて「誤魔化す」

 二つに分離された文章を合体させれば、「桎梏」とは生産の社会的性格と資本の私的資本主義的性格が和解できないレベルに達し、その足かせになることを意味していることは、誰にでも分かることです。ひとかたまりの文章を二つに分け、真ん中に自分の主張を入れ、その主張が元の文章全体の趣旨を表しているかのような錯覚をあたえる。こんなせこいやり方で「マルクスの読み方」の講義をし、マルクスを修正し、「共産党」の幹部になるべき「理論活動教室」の受講生を真理から遠ざけようとする。悪意に満ちた、まったく許されない「誤魔化し」(当て字)の「講義」といえるでしょう。

 

不破さんのトリックに気をつけよう

 不破さんは、このように、『資本論』のなかから、文章をバラバラに分解してその合間に自分の考えをすべり込ませたり、都合の悪い部分は無視したり、自分の謬論に使えそうな部分は歪めて紹介したりと、ありとあらゆる悪知恵を働かせます。このような手法で作られた不破さんの寄稿・解説・論文とその宣伝のための鼎談等が、『赤旗』や『前衛』や『経済』の紙誌上を闊歩し、「共産党」と共産党員を科学的社会主義から、日々、遠ざけ、共産党から科学的社会主義のエネルギーを奪っています。

※このような不破さんの文筆上のテクニックについての詳しい説明は、ホームページ4-23 「総括1不破さんの「批判」の方法と思想」を、上記の例の詳しい説明は、ホームページ4-3 「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を参照して下さい。

 

不破さんの珍造語「『桎梏』化」の誕生秘話

 事の発端は、『前衛』(2013年12月号)で、土台で生産力と生産関係の矛盾が発展し、生産関係が生産力発展の「桎梏」になったとき社会革命の時代が始まる、というマルクスの言葉を引用して鼎談をすすめる中で、「利潤第一主義」を諸悪の根源とみる不破さんが、「私は、『桎梏』という言葉で、今日、利潤第一主義が人間社会の存続をおびやかすところに来ている、そのすべての事態をとらえたいと思っています。」と、トンチンカンなことを言いだしたことから始まります。

 

この不破さんの発言のもつ意味

 不破さんは、「生産力と生産関係の矛盾」などそっちのけにして、マルクス主義(=科学的社会主義)を修正し、「桎梏」(生産関係が生産力を縛ること)の一時的な現れである恐慌と次元の違う地球温暖化や原発とを同列にあつかい、マルクス経済学と唯物史観を滅茶苦茶にしてしまいます。不破さんは、「資本主義的生産関係」を「利潤第一主義」に変え、「桎梏」を「人間社会の存続をおびやかす有害物」に変えて、マルクスのベルンシュタイン化をおこないます。

 

まずいと思った不破さんは、ますます誤りを増幅させる

 不破さんは、「地球温暖化や原発」を「桎梏」と言うにはちょっと無理があると思ったのか、翌月の『前衛』では、「私は、資本主義が生産力の発展を制御できなくなって、そのことが社会に大きな危機をもたらす場合には、それも資本主義的生産関係の『桎梏』化の一つの深刻な表れだと思うんですよ。」と、訳の分からないこと──「資本主義が生産力の発展を制御できない」のは今に始まったことではないが、資本主義の「利潤第一主義」にモラルをもたせることによって資本主義の制御をめざす不破さんは、「資本主義が生産力の発展を制御できる」とでも思っているようです──を言って、「桎梏」の現れを「『桎梏』化の一つの深刻な表れ」に格下げします。こうして、「桎梏」が「桎梏化」になり、何でもかでもが「桎梏化」になってしまいます。

 

資本主義的生産様式など関係なく完成した「桎梏化」という言葉

 頭が大混乱している不破さんは、「人類社会にとっての絶体絶命度からいったら、恐慌よりも温暖化の方がはるかに激しいわけです。」と、資本主義的生産様式などという狭い了見など捨てて、「人類社会にとっての絶体絶命度」という広い視野から、自分の誤った主張を押し通そうとします。不破さんは、「生産力と生産関係の矛盾」などそっちのけに「地球温暖化や原発」などの科学技術の「利潤第一主義」的な用い方の問題に「桎梏」をすりかえてしまいます。

 

『資本論』の中の「桎梏」という言葉をまったく新しい概念に変えてしまった不破さん

 ここで分かったことは、「利潤第一主義」を資本主義の諸悪の根源とみる不破さんは、資本主義的生産様式の社会の仕組みと矛盾について、そして『資本論』のなかでいわれている「桎梏」の意味について、まったく理解していないということです。そして、新しい思想には新しい概念が必要だといわれますが、「資本主義観」を大転換した不破さんは、『資本論』の中の「桎梏」という言葉をまったく新しい概念に変えてしまいました。 大したものです。

 

「恐慌よりも温暖化の方」を「桎梏化」の現れとした不破さんのビックリ発言

 不破さんは、「マルクスが以前とは違って、恐慌を、独占資本の『桎梏』化と規定していないことは注意すべきことです」と述べ、「恐慌を、独占資本の『桎梏』化の唯一の代表的な表現と見る見方は過去のものとなってしまいました」と言います。

 

不破さんが自分の主張を通すための『資本論』の呆れた読み方

 不破さんは、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月版 ② P995F6-9)という文章に、「恐慌」を「独占資本の『桎梏』化」=「独占資本が資本主義的生産様式の桎梏になったその現れ」として登場させていないから、「恐慌を、独占資本の『桎梏』化の唯一の代表的な表現と見る見方は過去のものとなってしまいました」と言うのです。

 

『資本論』のこの文章の本当の意味

 この文章は、資本主義の発展にともなって、不破さんが否定する「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」が深化し、社会変革が起こらざるをえないことを述べたもので、これはマルクス・エンゲルスの一貫した思想です。だから、不破さんにとってこの文章は、まともに読んだならば、自らの誤りを悔い改めるべき内容が書かれている文章なのです。

 

本当に困った不破さんの『資本論』の読み方

 その文章に「恐慌」は社会変革の「槓杆」の一つだとわざわざ書いてなかったから、マルクスが「恐慌」を社会変革の「槓杆」の一つだと考えるのをやめたとでも言いたかったのでしょうが、いくら自分の謬論にマルクスを巻き込みたいからといって、ここまで『資本論』とマルクスをねじ曲げることはないでしょう。

 

マルクス・エンゲルスの恐慌の見方

 マルクスは恐慌について、「恐慌は、つねにただ、既存の諸矛盾の一時的な強力的な解決でしかなく、攪乱された均衡を一時的に回復する強力的な爆発でしかない。」(大月版 ④ P312-314)と規定しています。そして、マルクスとエンゲルスは「恐慌」を資本主義的生産様式の矛盾の現れであり、社会変革の最も強力な「槓杆」の一つであると見ていましたが、「『桎梏』化」の「唯一の代表的な表現」などと見たこともないし、言ったこともありません。

 

マルクス・エンゲルスの恐慌の見方の続き

 そして、マルクスは「資本主義的生産様式」が生産力の発展の「桎梏」(あしかせ・制限)となった現れとして「恐慌」を見ていましたが、「恐慌」を資本主義的生産様式の「桎梏」と見たことなどなく、ましてや、不破さんの言う「『桎梏』化」の表れである「地球温暖化や原発」と同列に見るような視点などマルクスとエンゲルスは持ち合わせていません。

 

マルクス・エンゲルスの一貫した思想を「マルクスの社会変革論の新たな定式化」に変えてしまう不破さん

不破さんは「資本主義的外被は粉砕する者がいなければ粉砕されないし、鐘を鳴らす力をもったものが現れなければ、『資本主義的私的所有の弔鐘』は鳴らないのです。

 ここには、マルクスの社会変革論、資本主義体制の『必然的没落』論の新たな定式化がありました」と言って、この文章に「恐慌」が出て来ないからマルクスが、不破さんがでっち上げた「恐慌=革命」説を捨てて、「多数者革命」論の「新たな定式化」をしたというのです。

 

マルクスとエンゲルスが生涯をかけてたたかい続けてきたもの

 マルクスとエンゲルスは『資本論』や『空想から科学へ』や『共産党宣言』を中心とする著作群の執筆を通じて、「労働者階級の側の革命的階級への成長と社会の多数者の支持を得る」ための──社会変革の事業をなしとげる主体的条件を築きあげるための──、資本主義的生産様式の社会の発展段階が特徴づける資本主義の姿の徹底的な暴露と、その変革の必要性と、向かうべき方向を明らかにしてきました。

 

 

不破さんは、マルクスの「恐慌=革命」説なるものをデッチ上げて自らの修正主義を覆い隠そうとする

 しかし、不破さんは、『レーニンと「資本論」』(1998-2001年)を書き終えて、『資本論』の「草稿の全体を読む仕事を始め」、第二部第一草稿で「マルクスの発見」のヒントを発見し、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたといって、自らデッチ上げたマルクスの「恐慌=革命」説なるもので、自らの修正主義を覆い隠そうとします。

 

不破さんの修正主義の行き着く先

 「ルールある資本主義」と「党勢拡大」しか語らず、共産党を弱体化し続けてきた不破さんが、二世紀になって、今度はマルクスの「恐慌=革命」説なるもので自らの修正主義を覆い隠だけでなく、「マルクスの社会変革論の新たな定式化」──「多数者革命」論の「新たな定式化」──の名のもとに党綱領から労働者階級の歴史的使命を外してしまいました。

12

 

不破さんの『資本論』のとんでもない解釈は、理解力の無さのためなのか、それとも、マルクスへの攻撃性のためなのか

 不破さんは、「生産手段の所有」の「転化」をめぐる『資本論』の文章を抜粋し、「要約して言えば、小経営の私的所有から資本主義的な私的所有への過程は、資本主義からの社会主義的変革の過程よりも、比較にならないほど長くかかる苦しい過程だった、ということ、言い換えれば、社会主義的変革の過程はずっと短時間でおこなわれるだろう、こういうことです。」と的外れの誤った「解説」をしています。

 

マルクスがここで述べていること

 しかし、マルクスがここで述べているのは、資本主義的生産様式の社会への転化のための資本の本源的蓄積の時期と「資本主義的所有の社会的所有への転化」の時期との比較の問題で、資本主義的生産様式の社会への転化のための資本の本源的蓄積の時期とくらべ、「資本主義的所有の社会的所有への転化」の期間は比較的短期ですむだろうという見通しを述べたものです。「新しい共同社会(=「いわゆる共産主義社会」)の形成」のための期間を述べたものではありません。

 不破さんは、マルクスが、「所有」の「転化」の期間を述べているところを資本主義社会から共産主義社会(発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階の社会)への「過渡期」の期間と混同させて、マルクスを誹謗します。

 

 

 

不破さんは、テーマを勝手にすり変えてマルクスを攻撃します

 不破さんは、「資本主義的所有の社会的所有への転化」を「新しい共同社会の形成」に勝手にすりかえておいて、マルクスは、「過渡期」は比較的短い期間しか要しないだろうという見通しを立てていたと歪曲し、その歪曲を前提にして、マルクスは『フランスにおける内乱』で「過渡期」は「長い過程」が必要になると訂正したというのです。

 

資本主義社会から共産主義社会への移行期間が長期を要することは科学的社会主義の思想の常識

 不破さんは、マルクスは『資本論』第一部では「資本主義から共同社会への経済的な移行は、比較的短い期間しか要しないだろう」という見通しをたてたが、1871~73年以降に、「新しい共同社会の形成には」、「『長い過程』が必要になる」と『資本論』第一部での結論を訂正したと言い、マルクスが、資本主義社会から共産主義社会への移行期間が長期を要するという科学的社会主義の思想の常識を『資本論』第一部の刊行(1867年9月)のときにはまだ知らなかったと言うのですから、ただただ、呆れるばかりです。

 マルクスとエンゲルスは「1845年以来」、当然ながら、「必然の国」から「自由の国」への跳躍の期間としての「過渡期」があることを言い続けており、それは、資本主義社会から国家のない社会、いわゆる「共産主義社会」までの期間のことです。だから、「長期の闘争を経験し、環境と人間をつくりかえる一連の歴史的過程を経験しなければならない」のです。

 

不破さんは、「資本主義的所有の社会的所有への転化」の意味を理解したくないのか

 『資本論』第一部の、資本主義的生産様式の社会への転化のための資本の本源的蓄積の期間と「資本主義的所有の社会的所有への転化」の期間との比較は、資本主義社会の「革命的な転化の時期」=「政治的な一過渡期」における「資本主義的所有の社会的所有への転化」が、資本の本源的蓄積過程に比べてはるかに短期間であることをマルクスは述べているのです。そしてこの『資本論』第一部の文章と第三部の資本主義社会から共産主義社会への移行期間が長期を要するという見通しの文章とは対をなす文章なのです。だから、マルクスは、『資本論』第一部の記述を「修正」などしなかったのです。

 なお、不破さんのいう「未来社会」への「過渡期」は、「未来社会」=「社会主義社会・共産主義社会」なので、資本主義社会から「社会主義社会」への「過渡期」論なのか、それとも、「共産主義社会」にいたる「過渡期」なのか判然としません。

※なお、「過渡期」に関する詳しい説明はホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」を参照して下さい。

13

 

「奴隷制のかせ」という言葉の不破さんの特異な解釈

 関連して、不破さんは、マルクスが「パリ・コミューンの偉業をたたえるインターナショナルの声明を準備する中で、コミューンが開始した事業の前途を研究し、資本主義の胎内で発展した『社会的生産経営』を新しい社会の経済的基礎に変えるには、経営内の人間関係を、資本主義時代にそこに固着した〝奴隷制のかせ〟から解放することが必要だ、そのためには、『労働者階級は環境と人間をつくりかえる長期の闘争、一連の歴史的過程を経過しなければならない』(『フランスにおける内乱』)という結論に到達した」と述べて、「奴隷制のかせ」という言葉の不破さんの奇抜な「解釈」をあたかもマルクスの考えででもあるかのように言います。そして、「経営内の人間関係を」、「指揮者はいるが支配者はいない」という民主的な職場にする「ためには」、「労働者階級は環境と人間をつくりかえる長期の闘争」が必要だという、画期的な「未来社会」論を披露します。

 

マルクスの考えの二重の歪曲

 この不破さんの文章には、「奴隷制のかせ」という言葉の誤った解釈と「経営内の人間関係を」変える「ためには」「長期の闘争」が必要だという「未来社会」論の誤りという、二重の誤りが、マルクスの考えででもあるかのように表現されています。

 

「奴隷制のかせ」とは、労働者が資本主義社会において賃金奴隷制に縛られていること

 しかし、「奴隷制のかせ」とは資本主義社会において労働者が賃金奴隷制に縛られて生存しなければならない状態をあらわしており、「奴隷制のかせ」からの解放ということが「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」だなどということを意味していないことは、不破さんとその影響を受けて同調している者以外、誰でも理解していることです。

 

お粗末すぎる不破さんの「未来社会」論

 

不破さんによって、『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想はどう変えられたのか、『資本論』第二部を中心にして、不破さんの「『資本論』探究」を軸に見て行きます。

 不破さんは、『資本論』第二部の解説を、マルクスが草稿の執筆を順番どおりに行わな

かったことについての誹謗・中傷から始め、マルクスが「第二部」の「再生産論について、まったく構想をもっていなかった」と言い……「第二一章 蓄積と拡大再生産」の「解説」に至っては、ペテン師とでもいうべき方法で『資本論』を改竄して、マルクスを誹謗し、マルクスが拡大再生産の順調な進行を証明したことを喜ぶ始末です。不破さんは、「単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」ということの意味をまったく理解できません。

 資本主義的生産様式の矛盾を鋭く突く『資本論』第二部とマルクス・エンゲルスの思想にご期待ください。

 不破さんが自ら生みだした、「経営内の人間関係を、」「指揮者はいるが支配者はいない」という民主的な職場にするという「生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」ことが「未来社会」だなどという矮小化された「未来社会」論も論外です。「自由の国」とは「自由な時間」のことで、資本主義的生産様式の社会にもある「余暇」のことだいうのも含め、不破さんの「未来社会」論は、あまりにも、お粗末すぎます。

 なお、不破さんのいう「未来社会」への「過渡期」は、「未来社会」=「社会主義社会・共産主義社会」なので、資本主義社会から「社会主義社会」への「過渡期」論なのか、それとも、「共産主義社会」にいたる「過渡期」なのか判然としません。

※なお、「奴隷制のかせ」という言葉についての詳しい説明はホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。 

第二部へ続く

 不破さんによって、『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想はどう変えられたのか、『資本論』第二部を中心にして、不破さんの「『資本論』探究」を軸に見て行きます。

 不破さんは、『資本論』第二部の解説を、マルクスが草稿の執筆を順番どおりに行わな

かったことについての誹謗・中傷から始め、マルクスが「第二部」の「再生産論について、まったく構想をもっていなかった」と言い……「第二一章 蓄積と拡大再生産」の「解説」に至っては、ペテン師とでもいうべき方法で『資本論』を改竄して、マルクスを誹謗し、マルクスが拡大再生産の順調な進行を証明したことを喜ぶ始末です。不破さんは、「単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」ということの意味をまったく理解できません。

 資本主義的生産様式の矛盾を鋭く突く『資本論』第二部とマルクス・エンゲルスの思想にご期待ください。