4-10

不破さんの、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」と言う暴言

1、マルクスとエンゲルスが競争についてどんな認識を持っていたのか

2、エンゲルスは「剰余価値」の資本主義的生産における役割について明確に述べている

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◯マルクスもエンゲルスも「競争」をそんな単純に捉えていない。エンゲルスは「剰余価値」の資本主義的生産における役割について明確に述べている。

  不破さんは『前衛』(No904P102-103)の「『古典教室』第2巻(第三課エンゲルス『空想から科学へ』)を語る」という鼎談で、エンゲルスのも う一つの〝我流〟の例として、1844~1845年に「ブルジョア社会の私的所有の最大の矛盾は競争だとして、…(略)…資本主義の害悪の全ての根本を競 争に求める議論を展開しました」とか「競争が悪の根源だという結論を引き出しました。」とか述べ、この認識を『空想から科学へ』の時期まで持っていて、 「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」と述べています。
 この不破哲三氏の魔女狩りぶりを検証してみましょう。

マルクスとエンゲルスが競争についてどんな認識を持っていたのか

 まず、「競争」について、「競争は産業上(生産活動上)の競いあいではなくて商業上の競いあいである。」(『哲学の貧困』)と述べ、彼らの言う「競争」とは〝利潤をめあてとする競いあいである〟ことを明確にしています。
  だ から、「社会的分業は独立の商品生産者たちを互いに対立させ、彼らは、競争という権威のほかには、すなわち彼らの相互の利害関係の圧迫が彼らに加える強制 のほかには、どんな権威も認めない」(『資本論』第一巻 第1分冊 大月『資本論』①P466 B9-2)のであり、「資本家は、ただ人格化された資本であるかぎりでのみ、一つの歴史的な価値とあの歴史的な存在権…をもっているのである。……価値増 殖の狂信者として、彼は容赦なく人類に生産のための生産を強制し、したがってまた社会的生産諸力の発展を強制し、そしてまた、各個人の十分な自由な発展を 根本原理とするより高い社会形態の唯一の現実に基礎となりうる物質的生産条件の創造を強制する。……このようなものとして、彼は貨幣蓄蔵者と同様に絶対的 な致富欲をもっている。だが、貨幣蓄蔵者の場合に個人的な熱中として現れるものは、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構のなかでは彼 は一つの動輪でしかないのである。……そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家 に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみそれを拡大することができるのであ る。」(『資本論』第一巻 第2分冊 大月『資本論』② P771B8-772F5)ことを述べている。このように、マルクスとエンゲルスは、競争を、資本主義的生産様式という社会的機構のなかで、各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつけるものとして捉えています。
 ご 承知の通り、『空想から科学へ』は『反デューリング論』の抜粋のパンフレットです。エンゲルスは、『反デューリング論』のなかで『資本論』をベースに デューリングを論破しています。だから、当然「競争」について、『反デューリング論』のなかで「競争が悪の根源」などと一言もいっていません。しかし不破 さんは、「『空想から科学へ』の時期まで、この認識が引きずられているとなると」と推論し(空想を働かせて)、それがあたかも事実ででもあるかのような、 不破さん特有のトリックを使います。
 「競 争」に関しての不破さんのエンゲルスにたいする誹謗は別として、資本は〝資本主義的競争〟を通じて〝魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界〟で、一層の資 本蓄積を実現しようとします。競争が、資本主義的生産様式という社会的機構のなかで、各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則 として押しつけるものである以上、マネーゲームの博打場になっている市場、資本の価値実現の場である「しじょう」を人々が欲しいものを得るための「いち ば」に変え、〝資本主義的競争〟全般を〝廃止〟するために資本主義的生産様式を変革しなければならないことだけは確かです。
 〝利 潤をめあてとする競いあい〟である「競争」について述べているエンゲルスに対して、不破さんは、資本主義的生産様式を視野の外に置いて、「競争」を「悪の 根源」ででもあるかのように言っていると、推論(空想)に基づいて、非難していますが、不破さんこそ、「利潤第一主義」こそ悪の根源ででもあるかのように 言い、「資本主義的生産様式を視野の外に置いて」います。詳しくは、HP4-11「不破さんは「資本主義の矛盾」を『利潤第一主義』に、社会主義革命を「資本主義の害悪の改善に変えようとするのか」を参照して下さい。

エンゲルスは「剰余価値」の資本主義的生産における役割について明確に述べている

  そもそも、不破さんはエンゲルスを「取得形態という角度から生産関係をとらえている」と誹謗していました。そのエンゲルスが、どうして、「剰余価値の搾取を 抜きにした資本主義論を展開」できるのでしょうか、不破さんは自分の言っていることの意味が分からないのでしょうか。不思議です。
 ご 承知の通り、『空想から科学へ』は『反デューリング論』の抜粋のパンフレットです。ですから、『反デューリング論』のなかで『資本論』のように詳しく「剰 余価値」について述べられていなくても、ましてや、『反デューリング論』から三つの章を抜粋し、マルクスが「フランス語版への序文」で「われわれは、この パンフレットにこの本(『反デューリング論』)の理論的部分からのもっとも適切な抜粋をのせた」という『空想から科学へ』に『資本論』のように詳しく「剰 余価値」について述べられていなくても、不破さんが文句を言う筋合いではありません。
 不破 さんは、エンゲルスに「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論」という非難を浴びせる。不破さんの書いた本しか読まず、『赤旗』の不破さんの書籍の宣伝欄 に、その知識を基に、事実に基づかない不破さんの書籍に賛辞を送り、「古典」を読んだ気になっている、善意に満ちた人たちならともかく、この鼎談に参加し た三人(不破さん、石川康宏氏、山口富男氏)は、「マルクスをかじって」生活している人たちだ。かれらは当然、『反デューリング論』の「第2篇7資本と剰 余価値」を読んでいるはずだ。ここには「剰余価値」がどういう仕方で発生するか、資本主義的な搾取の仕組みについて、剰余労働と「剰余価値」の違いについて十分に説明している。この三人は、有るものを無いという。不破さんの言う「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論」とは、一体何なのでしょうか。マルクスもエンゲルスも知らない搾取の仕組みの大発見があるなら、是非、披露していただきたいと思う。が、鼎談を続けて読んでいくと、不破さんの言う「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論」とは、エンゲルスが「資本主義の根本矛盾」を言い、「資本主義的生産の基本的矛盾」から「利潤第一主義」を抽出しないこと、つまり、マルクスを矮小化しないことらしい。
  そ して、『空想から科学へ』をテキストにした「古典教室」に関する鼎談なので、たとえ『空想から科学へ』をけなし、価値を低めるためであったとしても、三人 の参加者は当然『空想から科学へ』を読まなければならない。彼らは、新日本文庫のP32とP47~48を読んでいるはずである。P32では「剰余価値」と 搾取の導入部分が、P47~48では「剰余価値」そのものの資本主義的生産における役割が明確に述べられている。
 みなさんも、是非、お読み頂きたい。そうすれば、不破さんたちが、有るものを無いと言っていることがよくわかると思います。
  なお、不破さんはP116で、レーニンの『国家と革命』にも、『国家と革命』のテーマを無視して、同様な筋違いの批判を行っています。詳しくはHP4-16「不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」を参照して下さい。
 これはどうも不破さんの常套手段のようでが、このような習癖は自分の価値を低めるだけですから、やめたほうがよいと思います。

〈「競争」の場である「市場」についての若干の考察〉

1、「市場」を神聖化する不破さんのトンチンカンな引用

2、資本の価値の実現の場としての「市場(しじょう)」から、彩り豊かな生活を保障する場としての「市   場(いちば)」へ

  なお、余談ですが、不破さんの習癖(トンチンカンな批判方法)に関連して、ここでとりあげた資本主義的生産における「競争」の場である「市場」について の、不破さんの独創的な〝落語家論法〟とでもいうべきものを紹介し、あわせて、「市場」の見方についての私の考えを、若干述べさせていただきます。

「市場」を神聖化する不破さんのトンチンカンな引用

  不破さんは、『経済』2000年2月号でレーニンの「記帳と統制」の概念を歪曲する文章を書いています。
 その中で、不破さんは、レーニンが「十月革命後に、なぜ社会の経済的改造を市場経済の克服から始めようとしたのか、という疑問です。」と言い、その疑問を解くためにレーニンの『カール・マルクス』を抜粋します。『カール・マルクス』のその箇所でレーニンが言っているのは、「価値」の概念は資本主義、しかもそれは商品交換が一般化された社会という見地から見るときにはじめて理解できるといってる部分です。
  不 破さんが何を引用しようとそれは不破さんの自由ですが、『カール・マルクス』のその文章の中に商品交換が「何十億回となくくりかえされる」という言葉があ ることから、不破さんは、レーニンが『哲学ノート』で、「何十億回となく」「人間の実践活動」が行われることによって「公理」は確定される旨のことを述べ ていることを思い出し、『カール・マルクス』のその箇所からマルクスの商品の分析と「価値」の意味を理解するのではなく、商品交換が「何十億回となくくり かえされる」「市場経済」(=資本主義社会)は神聖な「公理」だから触れてはいけないという、とんでもない結論にたどりつきます。
 こ の二つの文章で共通なのは「何十億回」という言葉だけです。才能のない落語家の、「『公理』の確定とかけて、市場の『不可侵性』と解く、そのこころはどち らも『何十億回』も同じことが繰り返されるから」という、訳の分からない〝なぞかけ遊び〟と同様な論法です。不破さんの論理を理解する能力の高さには恐れ 入ります。
 こ のことによって市場の『不可侵性』を得心した不破さんは、「また、かりに市場経済の克服という問題を目標として展望する場合にも、自分たちが対応するの が、何十億回もの交換現象という歴史の裏付けをもった経済的諸関係だということをふまえての、長期的で本格的な取り組みが、当然、日程にのぼるはずでし た。」と、『カール・マルクス』のこの部分でレーニンが私たちに教えている「価値」の意味とまったく関係のない、「市場」では「何十億回」も交換がおこな われているのだから、資本主義「市場」のコントロールは「長期的」な取り組みを待てと言って、トンチンカンな理屈をつけて、レーニンたちの新しい共同社会 を生みだそうとする必死の努力に対し、後出しジャンケンのような中傷をおこないます。
*不破さんによる、レーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲についての詳しい説明は、HP4-12「不破さんによるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲」を参照して下さい。
 こ の不破さんの思想は、いまの「共産党」に生きています。産業の空洞化をもたらすグローバル資本の行動を抑えようとしないこと。投機マネーの規制を「取引 税」でお茶を濁そうとしていること。資産隠し、税逃れを含むグローバル資本の行動を、資本主義国どうしの「国際的ルールづくり」をまって、民主的規制をお こなうと決め込んでいること。etc。市場の『不可侵性』に得心した不破さんの、何もしないで「長期的で本格的な取り組み」を待つという思想が、現在の 「共産党」の「政策」には脈々と流れているようです。
*詳しくは、HP「2パラダイムシフト」の「2-5国際社会とどう向き合うか」と「3新しい人、新しい社会」の「綱領・大会決議に必要なもの」を参照して下さい。

資本の価値の実現の場としての「市場」から、彩り豊かな生活を保障する場としての「市場」へ

 わけの分からない理屈で「市場」の『不可侵性』を得心した不破さんは別として、問題は、マルクス経済学を学んだ少なくない人たちが、マルクスは「市場の廃止」をしなければ資本主義は残ると考えていたと思い、〝資本主義的競争〟ではなく「競争を悪の根源」と見て、〝資本主義的競争〟ではなく「競争全般を廃止」することが必要だと考えていたということです。
 レーニンの現代に残る大きな功績の一つはこの考えを乗り越えたことだと私は思っています。レーニンも革命直後の数年間はマルクスから学び「市場の廃止」を考え、実践しました。しかし、レーニンの偉いところは、何事においても、実践して結果が違うと、探究して、すぐ誤りを改めることです(このような態度は、マルクスの理論活動でも同様です)。レーニンは「市場の廃止」を捨て、小生産者のための市場を残して、社会主義の基盤をつくるための「新しい経済政策」を実践したのです。価値の実現の場としての「市場」は資本主義を生み育てるが、価値の交換の場としての「市場」は彩り豊かな社会主義を育てます。レーニンの「新しい経済政策」は小生産者のための「市場の廃止」を捨て、小生産者の労働意欲を高め、同時に、物資の流通を円滑にしようとしただけではありません。「新しい経済政策」は労働者階級の権力のもとでの〝国家資本主義〟の道への模索も含んでいました。*この辺については、HP4-12「不破さんによるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲」及びHP4-13「レーニンの資本主義観、社会主義経済建設の取り組み、革命論への、反共三文文筆家のような歪曲と嘲笑、これでもコミュニストか」等を参照して下さい。

 グローバル資本が産業の空洞化をすすめ、日本が抜け殻のような国家になろうとしている時、社会主義建設のために〝資本をコントロール〟することを探究したレーニンの思想は、今日の日本で、いま私たちがやるべきことが何であるかを教えています。ロシア革命の過程で、レーニンたちが少なくない誤りを犯したからといって、後出しジャンケン的に非難したり、揶揄すべきものでないことは明らかです。