AZ-3-4

エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)

「『資本論』探求」で欠落しているものと不破哲三氏の誤った主張(その4)

④「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)

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やっとわかった「『資本論』全体の構想の再検討」の意味

 このホームページ〈「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)〉は、不破さんの「『資本論』第三部を読む」の「(7)第五篇。利子生み資本の研究」の検証から始まります。不破さんが「(7)第五篇。利子生み資本の研究」というタイトルを付けて「解説」しようとしているのは、『資本論』第三部の第21章から第24章までの部分で、「利子生み資本」の資本主義社会での定義づけについて述べられています。

 さてそれでは、不破さんの「解説」を見ていきましょう。

 私は、不破さんの冒頭の文章の中の、「マルクスが、恐慌の運動論の発見を転機に、『資本論』の構想プランを変更し、これまで予定していなかった新たな分野に挑戦した」との表現を見て、不破さんがこれまで「『資本論』全体の構想の再検討」と言ってきたことの中身が、「マルクスが」「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」することだということが、やっと分かりました。私はこれまで、「恐慌の運動論の発見」による、「その(恐慌の運動論の発見の)影響」によって、「『資本論』全体の構想の再検討」が「必要」となり、マルクスは「『資本論』全体の構想の再検討」をした、と不破さんは言っているのだと思っていました。ところが、マルクスは「恐慌の運動論の発見」を「転機」に、つまり、「恐慌の運動論の発見」とは何の因果関係もなく「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」することが、「『資本論』全体の構想の再検討」だと言うのです。「恐慌の運動論の発見」によって、どのような「『資本論』全体の構想の再検討」が行なわれたのか期待して不破さんの「論究」を読んでいた人は、さぞがっかりしたことでしょう。とにかく、曖昧な表現で何となくその気にさせるのが不破さんの「身上」なので、ついその気にさせられてしまっていました。

 だから私は、不破さんが、「1865年以後のプラン変更」(P43)というところで、「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見」が「『資本論』全体の構想の再検討」を必要とすることとなったと「主張」していると思い、ホームページ「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その1)」の〈「『資本論』の成立過程」の概略〉(PDFの43-44ページ参照)の〈項〉で、要旨、次のような指摘をしました。

 不破さんによって、そこで述べられていることは、①1862年12月のプラン草案の「8)産業利潤と利子とへの利潤の分裂。商業資本。貨幣資本。」を『資本論』では二つの「篇」に「分割して」「独立させ」たことと、②「第4篇」が「マルクスが恐慌の運動論を自分の言葉で解説する、現行の『資本論』における唯一の場所となった」ということだけで、「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見」がなぜ「『資本論』全体の構想の再検討」を必要とすることとなったのかの根拠も、どのように「『資本論』全体の構想の再検討」をするのかも、まったく述べられていないこと、そして、そこで述べられているのは、私が〈「『資本論』の成立過程」の概略〉で指摘した『資本論』の成立過程の追認だけであること。

 同時に、私は、①1862年12月のプラン草案の「8)産業利潤と利子とへの利潤の分裂。商業資本。貨幣資本。」を『資本論』では二つの「篇」に「分割して」「独立させ」たことについて、──今回、不破さんは「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦した」と言っていますが──MEGAの「成立と来歴」で次のように述べていることも紹介し、要旨、下記のように申し上げました。

「第2部の執筆からえられたもろもろの認識がすでにこの変更の根拠となっていたのかもしれない。剰余価値を生産する諸資本のあいだの競争戦のもろもろの基本的な法則性を論じている、草案の最初の三つの章(「章」は『資本論』の「篇」のこと──青山)を書いたのちに、マルクスが直面したのは、特殊的、派生的な資本諸形態の叙述は生産的資本の諸変態の叙述からどのようにして厳密に区切られるべきか、両者のあいだの諸移行は個々的にはどのような姿態をとるのか、という問題であった。この問題の解決は、資本の流通過程の分析を前提していた。最後に第3部で展開されているような諸資本の現実的運動を論じることができるようになる前に、まずもって、諸資本のそのような自立化の可能性が──つまり諸資本の形態的運動が──表現されなければならなかった。そのさいに、商人資本と利子生み資本とは二つの質的に異なる自立的な資本形態だ、という認識が固まったのであって、このことが、この両形態を別個に叙述することを要求したのである。」

 この「商人資本」と「利子生み資本」との分離のいきさつに論及したMEGAの文章も含め、これまで〈「『資本論』の成立過程」の概略〉で見てきたことは、マルクスが、研究した問題の範囲がますます大きく広がって行くにつれ、そして、研究が煮詰まって行くにつれて、『剰余価値学説史』執筆前の研究の方法に基づく叙述の仕方から、本質と直接的な現象とのシームレスな貫徹メカニズムを示して体系的に論述するという叙述の仕方に、「叙述の仕方の転換」をしていったことを示すものである、と。

 ところが、「『資本論』全体の構想の再検討」=「『資本論』の構想プランを変更」するというのは、「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」することだと言いいます。

 そしてその理由が、「恐慌の運動論の発見」が「転機」となったと、慎重に(ずる賢く)言葉を選びます。しかし、「転機」の意味が〝きっかけ〟であるならば、そこには〝理由〟があり、「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」にもテーマがなければなりません。しかし、不破さんは、その説明責任を一切はたそうとしません。しかし、不破さんが説明責任をいっさい果たそうとしないで、私は「転機」と言っただけで「きっかけ」などと言っていない、と居なおるとすれば、それは法に触れないように細心の注意を払ってお年寄りを言葉巧みに騙すペテン師と同じです。

 私はこれまで、「恐慌の運動論の発見」が、「『資本論』全体の構想の再検討」を「必要」とすると、不破さんは言っているのだと思って、不破さんに、なぜ、「恐慌の運動論の発見」が「『資本論』全体の構想の再検討」を「必要」とするのか、と問いかけてきましたが、不破さんは、マルクスは、「恐慌の運動論の発見を転機に、『資本論』の構想プランを変更し」たと言っただけだというのです。これだから、このホームページは、どんどん長くなってしまいます。

 そして、不破さんの言う「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」なるものは、私がこれまで〈「『資本論』の成立過程」の概略〉で明らかにしてきたことだったのです。

 二一世紀になってやっとマルクス・エンゲルスの時代の「産業循環」の一部を知り、それを全ての恐慌の唯一の原因ででもあるかのように恐慌の原因を矮小化し、「恐慌の運動論」と命名した不破さんは、この「発見」に「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたと、『前衛』2015年1月号で、言っていました。そして今度は、マルクスが「『資本論』全体の構想の再検討」をしたというのです。私は、もう少し早く、この二つの文章の意味の違いを理解すべきでした。まだまだ不破さんのことが分かっていないことを痛感した次第です。

 不破さんは、『前衛』2015年1月号の時点のように「『資本論』の解釈」を変えたのでは、不破さんとは違う「『資本論』の解釈」も成り立つと考え、それを封じるために、マルクスが「『資本論』全体の構想の再検討」をしたという「虚構」を考えたのでした。こうなればもう、マルクスは不破さんの支配下に入ります。そして、今回不破さんが示した「虚構」は、「恐慌の運動論の発見を転機に、」「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」するという、「『資本論』の構想プラン」の変更でしたが、しかし、それは、〈「『資本論』の成立過程」の概略〉で私が述べてきたことの焼き直しだったのです。

 とりあえず、不破さんの「虚構」は〝一件落着〟いたしました。

※なお、上記の、『前衛』2015年1月号で言っていたことの詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、参照して下さい。

私たちが「古典」等を読むうえで大切なこと

 さて、それでは、「『利子生み資本』とは何か」という「節」で不破さんが言っていることを見ていきましょう。

 不破さんはここで、「貨幣資本」という言葉の意味の説明にかこつけて、エンゲルスを中傷します。エンゲルスの「中傷」が主になっていますから、『資本論』の読み方についてのアドバイスもピントはずれなものになってしまいます。

 不破さんは、『資本論』でエンゲルスが「その区別(資本の循環形態にある貨幣資本と利子生み資本の形態にある貨幣資本の区別──青山)を無視して、すべてを『貨幣資本』(ゲルト・カピタール)あるいは『貸付資本』に変えてしまったのですが、この区別はマルクスの文意を正確に理解する上でも重要なので、本書では、利子生み資本を表現する場合には『貨幣資本(m)』あるいは『貨幣資本家(m)』、『貸付資本(m)』など、(m)を付記すること」を言い、「エンゲルスが編集した文章のなかにも『マニド・キャピタル』という言葉が残っているところが何箇所かありますが、意識的な使い分けとは読みとれません。」などと述べて、読者にエンゲルスを不当に低く印象づけようとします。そして、「『再生産資本家』あるいは『機能資本家』、『能動的資本家』などの言葉」が「出てくるときには、その意味を心得て読んでください。」と私たちにアドバイスをあたえます。なお、不破さんは「monied capital」について「利子生み資本を表現する場合には」と言っていますが、つぎの〈エンゲルスが「monied capital」を「貨幣資本」と訳した理由〉の「項」をご覧いただけば分かりますが、マルクスは「monied capital」という言葉を主として「信用制度のもとでの貨幣市場での利子生み資本」を意味するものとして使用しています。

 不破さんは、具体例を何も出さずに、(m)を付記しないと「マルクスの文意を正確に理解する」ことができず、エンゲルスは「monied capital」という言葉を意識して使ったとは思えないといいます。いつもながらの、不破さんらしい「論理展開」です。

 「マルクスの文意を正確に理解する」ことができないかどうか、不破さんが『資本論』から抜粋し、(m)を付記した文章を見てみましょう。

「しかし、貨幣資本(m)の利子については事情が異なる」(P71)「貨幣資本家(m)は、機能資本家によって代表される者として、労働者の搾取に参加する」(P74)「単なる資本所有者である貨幣資本家(m)に機能資本家が相対し、信用の発展につれてこの貨幣資本(m)そのものが社会的性格を帯び」(P75)「現実の蓄積からは独立していながらしかもそれに随伴するそのような諸契機によって、貨幣資本(m)の蓄積が膨張させられる、という理由からだけでも、循環の一定の諸局面ではつねにこの貨幣資本(m)のプレトラが生ぜざるをえない」(P111-112)

 以上が、「『資本論』第三部を読む」の中で不破さんが『資本論』から抜粋した(m)を付記した文章のすべて、のはず、です。

 『資本論』を最初からまじめに読んできた人ならもちろんのこと、マルクス経済学を学ぼうとして上記の文章を読んだ人なら、これらの文章の中の「貨幣資本」が資本主義的生産様式のもとでの「貸付可能な貨幣資本」=「利子生み貨幣資本」を現していることは「(m)」を付けなくても容易に理解できることで、「マルクスの文意を正確に理解する上で」なんの支障もありません。ましてや、資本主義的生産様式のもとでの「貸付資本」や「貨幣資本家」の話をしているのに、それらに「(m)」をとってつけるなど「蛇足」というものです。

 つぎの〈エンゲルスが「monied capital」を「貨幣資本」と訳した理由〉の「項」で、そのいきさつを詳しく見ますが、翻訳には誤訳もあるし、印刷物には誤植もあり、「言葉」は核となる意味から派生した複数の「意味」が含まれて存在しますから、私たちが文章を読むときには、まず、文章全体の「意味」をつかむことに努力します。文章全体の「意味」を理解する過程で「単語」の「意味」もコンクリートになっていきます。「『再生産資本家』あるいは『機能資本家』、『能動的資本家』などの言葉」が「出てくるときには、その意味を心得て読む」のは当たり前ですが、文章全体の「意味」を理解する過程こそ、読書において決定的に重要なことです。

 このように、不破さんはエンゲルスに〝いちゃもん〟をつけますが、不破さんがおこなったことは「貨幣資本(Geldkapital)」に「(m)」をとってつけただけでした。

エンゲルスが「monied capital」を「貨幣資本」と訳した理由

マルクスが「monied capital」という言葉を使った理由

 大谷禎之介氏の『マルクスの利子生み資本論』に「monied capital」についての詳しい論究があります。それをベースに、まずはじめに、マルクスの言う「monied capital」とは何かを見てみたいと思います。

 大谷氏の『マルクスの利子生み資本論』③の「補章6 マルクスはmonied capitalという語をどこからとったのか」は、「monied capital」という言葉に関して次のように述べています。

Ⅰ、monied capitalという言葉について

1、そもそも、当時、monied capitalという言葉は、……

①当時一般的であった。(大谷氏)

②当時イギリス人が普通に用いていたとは考えられない。マルクスの造語だ。(小林賢齊氏)

③マルクスは、トゥックによるこの語の使い方を評価しながらこの語を使ったのではないか。(大友敏明氏)

2、monied capital(moneyed capital)の英語での意味 (P564)

①「貸付可能な貨幣資本」=利子生み資本。

②貨幣形態をとっている資本、つまり、資本の循環形態にある貨幣資本を含んだ広い意味。

 上記の二つの意味がある。

Ⅱ、マルクスの言う「monied capital」

 マルクスは「貨幣資本(Geldkapital)は自立的な資本種類ではない、──それは、過程を進行する資本価値がそれの循環のなかで、すなわちそれの変態の順序のなかでとる特殊な諸形態のうちの一つでしかない。だからそれは、たとえば利子生み資本(Zinstragendes kapital)のような自立的な資本種類と混同されてはならない。」(P566)と言い、生産過程における資本の循環形態にある貨幣を「貨幣資本」と呼び、大谷氏によれば、「利子生み資本」と「monied capital」との差異について、「それでは、利子生み資本とmonied capitalは、マルクスにあっては同じものであったのであろうか。そうである、と同時に、そうでない、と言わなければならない。」(P211)といい、マルクスにあっては、「monied capital」は、「信用制度のもとでの貨幣市場での利子生み資本を意味している」といいます。

 そして、大谷氏は、「ここでも、英語では──ドイツ語とは違って──資本の循環形態としての貨幣資本と特殊的な資本種類としての利子生み資本とを、それぞでmoney capitalおよびmonied capitalとして区別できるということ、またmonied capitalという語がそのような含意をもちうる語として使われてきたことを示唆しているのである。」(P567)と述べています。

 このように、大谷氏によれば、「信用制度のもとでの貨幣市場での利子生み資本」について、「ドイツ語とは違って」「英語では」「monied capital」という言葉で表現できるとマルクスは考えていたといいます。

 私も、この、大谷氏の考えに同意します。だからマルクスは、ドイツ語の〝貨幣資本〟という、資本の循環形態にある「貨幣資本」を含んだ、一般に貨幣形態をとっているより広い概念の資本を含んだワードの代わりに、「monied capital」という言葉を「信用制度のもとでの貨幣市場での利子生み資本」について使ったのでしょう。

 しかし、マルクスが研究過程でこのように「monied capital」という言葉を特別の用語法で使う限りでは大変わかりやすく、有効でしたが、エンゲルスがマルクスの文章上の言いまわしを生かしてドイツ語での『資本論』の編集を行うに当たっては障害となってしまいました。

エンゲルスが「monied capital」を、あえて、「貨幣資本(Geldkapital)」と訳した理由

 大谷氏によれば、マルクスの草稿の「monied capital」または「moneyed capital」のほとんどを、エンゲルスは「貸付資本(Leihkapital)」に変更している(『マルクスの利子生み資本論』③P205参照。)とのことですが、そうだとすれば、エンゲルスは編集過程ではマルクスが「貸付可能な貨幣資本」の意味で使った英語のmoneyed capitalという言葉をドイツ語の「貸付資本(Leihkapital)」という言葉に置き換えて編集作業を進めていたが、草稿の中に出てくる「貸付可能なmoneyed capital」等というような「moneyed capital」という言葉の特殊な使用法のもとで、「moneyed capital」の意味を厳密化しようとして「貸付資本(Leihkapital)」という言葉に置き換えると、屋上屋を重ねることになってしまうために、より広い意味をもつ「貨幣資本」という言葉を使ったものと思われます。

 同様に、もう一つ、「moneyed capital」という言葉を、この場合の意味どおりに、「貸付可能な貨幣資本」に置き換えた場合の不都合な例を、ちょっと長くなりますが、信用制度・銀行の資本主義的生産様式における役割を述べたマルクスの草稿で見てみましょう。

「信用制度の他方の側面は貨幣取扱業の発展に結びついている。……貨幣取扱業というこの土台のうえで信用制度の他方の側面が発展し、〔それに〕結びついている、──すなわち、貨幣取扱業者の特殊的機能としての、利子生み資本あるいは貸付可能な貨幣資本の管理である。貨幣の貸借が彼らの特殊的業務になる。彼らは貸付可能な貨幣資本の現実の貸し手と借り手とのあいだに媒介者としてはいってくる。一般的に表現すれば、銀行業者の業務は、一方では、貸付可能な貨幣資本を自分の手中に大規模に集中することにあり、したがって個々の貸し手に代わって銀行業者がすべての貨幣の貸し手の代表者として再生産的資本家に相対するようになる。彼らは貸付可能な貨幣資本の一般的な管理者としてそれを自分の手中に集中する。他方では、彼らは、商業世界全体のために借りるということによって、すべての貸し手に対して借り手を集中する。(……)銀行は、一面では貸付可能な貨幣資本の、貸し手の集中を表し、他面では借り手の集中を表しているのである。」(大谷氏『マルクスの利子生み資本』②P168-171、大月版④P503-506)

 この文章は、マルクスの草稿を大谷氏が訳し文章の中にある「monied Capital」という言葉を青山が青字で正確に「貸付可能な貨幣資本」と表現したものですが、青字の「貸付可能な貨幣資本」という言葉は、『資本論』では「貨幣資本」と書かれています。なお、文中の……は青山の略です。

 ご覧のとおり、このパラグラフにおける「monied Capital」の意味は「貸付可能な貨幣資本」ですが、このように同じパラグラフの中に「貸付可能な貨幣資本」というフレーズがあると、「monied Capital」という言葉を正確に表現するとマルクスの草稿は上記のようになり、「monied Capital」と「貸付可能な貨幣資本」とが同一の表現になり、マルクスが意図した文章になりません。そこで、エンゲルスは「monied Capital」と「貸付可能な貨幣資本」とのドイツ語文での差を出すために、あえて「貨幣資本」というより広い表現にしたように思われます。その結果、パラグラフ全体を理解するうえで、不都合が起きていないことは、是非、みなさんが『資本論』の当該箇所をお読みいただければ明らかです。

 また、大月版『資本論』④(493ページ)には、「こうして、利子生み貨幣資本では(そしてすべて資本はその価値表現から見れば貨幣資本であり、言い換えれば、今では貨幣資本の表現とみなされる)、貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現されているのである」という文章があります。この文章では、「利子生み資本」が「利子生み貨幣資本」と表現され、「利子を生むということが貨幣の属性になり」、「すべて資本はその価値表現から見れば貨幣資本である」ところの「貨幣資本」としての意味が、この文章から、『資本論』の読者に強く印象づけられます。資本主義社会での「貨幣」の「利子生み貨幣資本」としての普遍化の意味を、「貨幣資本」という言葉からしっかりとイメージすることが、私たちに求められています。

 同時に、日本語の「貨幣資本」という言葉も、ドイツ語の「Geldkapital」という言葉も、価値実現過程(生産的資本の循環過程)での「貨幣」という意味とともに「利子生み資本」としての「貨幣」という意味をもっており、「利子を生むということが貨幣の属性になる」社会(資本主義社会)での信用制度を論じているところで「monied Capital」を「貨幣資本」と訳すことが「原文のニュアンスが失わ」せることはありません。そして、「貨幣資本」は貨幣市場で取引され、その用途に応じて、money capitalにもmonied capitalにも転化するのです。

 このことは、『資本論』第3巻を読めば、誰にでも理解できることです。

 エンゲルスはマルクスの草稿の「monied capital」をドイツ語の「貸付資本(Leihkapital)」に変更し、『資本論』として完成させるにあたって、たぶん熟慮のすえ、「貨幣資本(Geldkapital)」というワードが文章の前後を読めばどういう意味で使われているのか分かることを確認し、「貨幣資本」というワードを使うことを決断した。だから、なにかにつけてエンゲルスに噛みつき誹謗する不破さんも、「貨幣資本」という単語に「(m)」を付けて「貨幣資本(m)」とする以外に手はなかったのです。

 そして、エンゲルスが編集したマルクスの〝利子生み資本〟論に対して過剰に批判的な大谷禎之介氏でさえも、『マルクスの利子生み資本論』で、エンゲルスが「monied Capital」という言葉を「貨幣資本」と訳したことについて、「エンゲルスは──ドイツ語での印刷用原稿を作るためにはやむをえなかったことではあるが──monied Capital等々も、ドイツ語(Geldkapital)に訳して統一した。そのために、原文のニュアンスが失われている場合もあるように思われる」(P103)と言って、「原文のニュアンスが失われている場合もあるように思われる」などと曖昧な批判をしつつも、「やむをえなかったこと」であることを認めています。

中国 黄龍

或る県の「制度融資」のエピソード

 不破さんは、つぎの「利子率を規定する法則はない」という「節」で、「資本商品の利子には、法則的な基準はまったく存在しない」と述べています。マルクスが述べていることを、分かりやすく、正確にいうと、「利子率を規定する法則は」「競争によって命令される法則のほかには、」他に「利子率を規定する法則はない」ということです。つまり、利子率は市場の競争によって決まるということです。

 この、利子率の決まり方に関して、私の知る「或る県の「制度融資」のエピソード」を紹介します。

 それは、バブル崩壊後の不況下の「或る県の「制度融資」のエピソード」です。地方公共団体の場合、歳出を伴う事業内容の変更を行う場合、財政担当課との「合議(あいぎ)」という協議を行い合意を取り付けて事業内容の変更を行ないます。財政担当課は使命感に燃えて、当該事業課にその合理性を示すための「山」のような資料を要求し、熟慮して合意のゴーサインを出すのが通例です。その「或る県」の中小零細企業向けの融資も、私の知る人がその担当となるまでは、融資の利率を変更するたびに財政担当課と「合議」という手間と時間のかかる仕事をその都度行なっていました。しかし、マルクス経済学を学び、「利子率を規定する法則は」「競争によって命令される法則のほかには、」他に「利子率を規定する法則はない」ということを理解していた彼は、全ての制度融資を「必需」性の強弱と「インセンティブ」の必要性の強弱に基づいて順位付けを行ない、それに基づいて各制度融資の利子率に一定ずつの差を設け、それら全ての融資のベースとなる利子率の基準を「長プラ」にし、「長プラ」がそのベースとなる融資制度の利子率から一定以上乖離した場合、ベースとなる融資制度の利子率を「長プラ」に合わせるという制度設計をして、財政担当課との協議を行ない合意を得ました。「競争によって命令される法則」の結果である「長プラ」を基準とすることによって、彼は、融資の利率を変更するたびに要求された資料の「山」と時間の浪費から解放され、それ以降の利率の変更の手続きは簡素化されました。

 マルクスに裏打ちされているから、〝我が意を得たり〟とばかりに事務改善に取り組めたのでしょう。

隠蔽された階級的対立を暴露するのが科学的社会主義の使命

 続けて不破さんは、『資本論』に従って、労働者の搾取の果実である利潤が貨幣資本家に支払う利子と企業者利得とに分割され、そのことによって機能資本家が得る企業者利得は彼らの活動の果実のようにみなされ、そのことによって、「資本主義的生産の根本問題である労働者の搾取の問題や階級的対立の関係が見えなくなってゆくのです」(P74)と述べています。

 私は、不破さんが、「資本主義的生産の根本問題である労働者の搾取の問題や階級的対立の関係が見えなくなってゆくのです」と述べているのを見て、不破さんが、市場での諸商品の交換を通じておこなわれる資本主義的生産様式の社会における搾取の仕組みを本当に理解したのなら大変よろこばしいことだと思いました。

 なぜなら、不破さんは、『前衛』の2014年1月号では、「エンゲルスの分析の中で一番おかしいと思ったのは、この基本矛盾の一つの現象形態がプロレタリアートとブルジョアの対立だというところでした。プロレタリアートとブルジョアジーの対立というのは、資本主義の生産関係の一番の基本で、資本主義の発生の時点から始まっているものなのに、なぜそれが事態の発展のなかで明るみに出てくる現象形態なのか、という点です。」と述べていたのですから。※この点についての詳しい説明はホームページ4-8「☆不破さんは、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」は「資本主義の発生の時点から」あるのに、事態の発展のなかで明るみに出るのは矛盾だと、自分の理解力のなさを根拠にエンゲルスを誹謗している。」を、是非、参照して下さい。

 不破さんは、イギリスにおける労働者階級の状態から「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」をつかみだし、明らかにしたエンゲルスを、上記のように中傷しておきながら、自らは、グローバル資本の資本蓄積行動による国内産業の「空洞化」という「事態の発展」のなかで、労資関係が資本家優位になり、不安定雇用の増大と賃金切り下げが進行し、国民の将来不安は増大し、日本の経済・社会が出口の見えない深刻な危機に陥っているにもかかわらず、「資本主義的生産の根本問題である労働者の搾取の問題や階級的対立の関係が見えなく」されている社会に屈服して、資本主義的生産様式の社会のもとでの「社会的バリケード」づくりと「賃上げによる経済再建」に国民の希望があるかのように思わせて、国民の革新的エネルギーを眠り込ませ続けてきました。

 このような不破さんのままであるならば、いくら「資本主義的生産の根本問題である労働者の搾取の問題や階級的対立の関係が見えなくなってゆくのです」と言ったところで、見えなくされている「労働者の搾取の問題や階級的対立の関係」を明らかにしようともしないのですから、『資本論』読みの『資本論』知らずというところでしょう。

 なお、『資本論』は、ここで、「企業者利得からの管理賃金の分離」の問題も述べられていますが、日本ではいま個人事業者の事業承継について新たな制度が検討されています。科学的社会主義の党には社会的な公正と新しい社会を視野に入れた制度を提案する責任があります。私も、別の機会に改めてこの問題を取り上げてみたいと思います。

指揮・監督労働の現在と未来

 マルクスは管理賃金に関連して、①多数の個人が協業するすべての労働において、「オーケストラの指揮者の場合」のような労働が現れること、②この監督労働は、直接生産者を搾取するすべての生産様式においては、必然的に、その対立に起因する独特な諸機能を含んだものとしておこなわれるという、階級社会における監督・指揮労働について、ここで、述べています。

 このマルクスの指摘にかこつけて、不破さんは、革命を、「オーケストラの指揮者」をキーワードとする「生産現場」での「新しい人間関係」に矮小化する「自論」に読者を誘導しようとします。なぜ不破さんは「生産現場」での「新しい人間関係」に革命を矮小化するのでしょうか。──不破さんは、エンゲルスとレーニンを「生産物の分配の仕方」だけしか考えていない人たちのように歪曲したために、その色メガネからは「生産物の分配の仕方」と「生産物の生産の仕方」とが一体となっている資本主義的生産様式が見えなくなってしまいました。資本主義的生産様式の構成要素である「生産物の生産の仕方」の階級的性格が見えなくなったために、「生産物の生産の仕方」が「生産現場」での「新しい人間関係」に置き変わってしまったのでしょうか。──そのために、革命の目的が「生産物の分配の仕方」のアンチテーゼとしての「生産現場」での「新しい人間関係」になってしまったのでしょうか。

 不破さんは『前衛』(2014年1月号)で、マルクスが『フランスにおける内乱』の草稿で「奴隷制のかせから、その現在の階級的性格から救いだす(解放する)ことが必要であり」と述べていることから、想像たくましく、この「奴隷制のかせから」「救いだす」とは「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」だという意味だと、とんでもないことを、言っていましたが、ここでも、『フランスにおける内乱』の草稿をもちだして、「生産現場には、過去の遺産として『奴隷制のかせ』が根深く残っており」(P79)などと相変わらず独自の「解釈」をおこない、「資本主義的生産のもとで体制化された資本家的な指揮・監督の機能が、共同社会におけるオーケストラ的な指揮機能に転化してゆく過程にかかわる問題」(P78)にマルクスと読者を引きずり込もうとしています。

 不破さんが『フランスにおける内乱』の第一草稿からつまみ食いしようとした「奴隷制のかせからの解放」という言葉は、要旨──資本主義社会を「共産主義社会」に置き換えるには時間がかかる。そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならない。──という文章の中に出てくる言葉で、「奴隷制のかせ」とは資本主義的生産様式における賃金「奴隷制のかせ」のことで、その解放とは「資本主義的生産関係からの解放」のことです。そして、「対等な人と人との関係をつくりだす」というのは、生産関係を社会主義的に変革するということで、「生産現場」での「新しい人間関係」をつくることではありません。※なお、「奴隷制のかせ」に関する詳しい説明は、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」を、是非、参照して下さい。

 なお、不破さんは、マルクスと違って、共産主義社会においても、労働を「指揮者」の指示に従う「義務」と捉え、『赤旗』連載の「『資本論』刊行150年に寄せて」の「マルクスの未来社会論(2)」で、物質的生産にあてるべき時間を「必然性の国」と呼ぶ理由を、「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動となります」と言っています。これは、マルクスの考えとはまったく異なります。不破さんがどのような考えを持とうと自由ですが、マルクスの考えではないものをマルクスの考えのように言って、権威づげをするのは詐欺行為です。※未来社会における労働の位置づけ、「自由の国」と「必然性の国」等に関する詳しい説明は、ホームページ4-26-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」及びホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を、是非、参照して下さい。

いきなりエンゲルスを罵倒する不破さん

 不破さんは、第八章「(8)信用制度下の利子生み資本(その一)」の初めの「節」〈第五篇の後半部草稿とエンゲルス〉で、いきなりエンゲルスを罵倒して、次のように言います。

「マルクスのこの部分(第二五章~第三五章のこと──青山)の草稿は、未完成の初稿という性格をもっていた上、草稿そのものが性格を異にするさまざまな部分からなっており、エンゲルスがそのことを理解しないまま大幅な加工の手を入れて編集したために、現状では、執筆したマルクスの真意そのものがつかみにくい状態のものとなっています。」(P81)

 このように、いきなり論拠も示さずに「決めつけ」や「推測」を行なうのは不破さんの常套手段ですが、具体的内容が示されていないので、検証する側にとっては大変困ります。かといって、デマをそのまま放置する分けにもいきませんので、ここで不破さんが言っていることの論点整理程度に内容に触れてみたいと思います。

 まず、不破さんは、草稿が「未完成の初稿という性格をもっていた上、草稿そのものが性格を異にするさまざまな部分からなって」いるが、「エンゲルスがそのことを理解しないまま」「編集した」と言いますが、それはウソです。

 私は、ホームページ4-27-2 「エセ『マルクス主義』者の『資本論』解説(その3)」の〈第三部はどのように編集されたか、エンゲルスの声を聞いてみよう〉という〈項〉の◇「おもな困難は第五篇にあった」で、エンゲルスが序文で次のように述べているのを紹介しました。

 「ちょうどここでマルクスは書き上げのさいちゅうに前に述べたような重い病気の一つに襲われたのだった。だから、ここにはできあがった草案がないのであり、これから中身を入れるはずだった筋書きさえもなくてただ仕上げの書きかけがあるだけであって、この書きかけも一度ならず覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっているのである。」

 このように、草稿が「未完成の初稿という性格をもっていた上、草稿そのものが性格を異にするさまざまな部分からなって」いることは、エンゲルス自身が序文で述べていることであり、不破さん自身も、66ページで序文のこの部分を抜粋し、2ページ後の83-84ページでも同じ部分を抜粋しているではありませんか。だから、不破さんが、草稿が「未完成の初稿という性格をもっていた上、草稿そのものが性格を異にするさまざまな部分からなって」いるが、「エンゲルスがそのことを理解しないまま」「編集した」と言うのは、真っ赤なウソです。

 次に、「大幅な加工の手を入れて編集したために」、──なにが「現状では」なのか意味不明ですが、──「執筆したマルクスの真意そのものがつかみにくい状態のものとなっています」というのは、「現状では」という言葉があるので、不破さん自身がマルクスが『資本論』で何を言おうとしているか理解できないということを告白しているのか、それとも、エンゲルスの手入れのために、不破さんは「マルクスの真意」を理解しているが、読者が「つかみにくい状態」だという不破さんの評価を述べているのか判然としません。後者だとすると「現状では」という言葉がなぜあるのか理解できません。

 不破さんが理解できないのなら、このページをよく読んで理解していただく以外ありませんが、エンゲルスの手入れのために、不破さんは「マルクスの真意」を理解しているが、読者が「つかみにくい状態」だという不破さんの評価を述べているのであれば、具体的に、どこにどのような手入れがおこなわれた結果、マルクスのこういう「真意」がこのように「つかみにくい状態」になったと指摘していただかないと、何とも言えません。

 エンゲルスはこのように不破さんから「理屈」ぬきの非難、いわゆるケンカを売られたわけですが、「大谷研究の到達点も踏まえながら、エンゲルスの編集の問題点を指摘し、この部分(第二五章~第三五章のこと──青山)でのマルクスの研究と考察のあとを、できる限り追跡してゆきたいと思います」(P86)と大谷氏の知恵を借りて「エンゲルスの編集の問題点を指摘」するとのことなので、私としては、その都度お付き合いする以外ありません。

 しかし、『資本論』の「第五篇」は、エンゲルスが序文で述べているような不完全な状態の草稿を、不破さんが知恵を借りようとする大谷禎之介氏が『マルクスの利子生み資本』②の56-57ページにその概略を示したような大がかりで複雑な編集作業をして、例えば、次に見る第二五章などは、草稿のエンゲルスによる要約や入れ替え、草稿の他の箇所からの引用、エンゲルスの補筆を含め20以上の文章を編集して出来上がりました。エンゲルスが人生の晩年に、不完全な状態の草稿をなんとかしてマルクスの著作としての『資本論』に仕上げようと懸命の努力をして成し遂げたものを、「解説」の冒頭で何の根拠も示さずに、エンゲルスの編集を全否定して、「大幅な加工の手を入れて編集したために」、「執筆したマルクスの真意そのものがつかみにくい状態のものとなっています」などと言ってエンゲルスを非難する不破さんの品性には、あきれるばかりです。

「第五篇の編集上の困難」はエンゲルスの自業自得だという、不破さん

 そして、不破さんの品性のなさに、益々、あきれるのは、不破さんの言う「第五篇の編集上の困難」の理由です。

 エンゲルスは序文で、「第五篇の編集が困難」だった理由として、「ちょうどここでマルクスは書き上げのさいちゅうに前に述べたような重い病気の一つに襲われたのだった。だから、ここにはできあがった草案がないのであり、これから中身を入れるはずだった筋書きさえもなくてただ仕上げの書きかけがあるだけであって、この書きかけも一度ならず覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっているのである」と、マルクスの草稿が非常に不十分なものであることを述べています。そうしたなかで、エンゲルスは、「私がまず試みたのは、」この方面の膨大な文献をあさって、「すきまを埋めることや暗示されているだけの断片を仕上げることによってこの篇を完全なものにし、この篇が著者の与えようと意図したすべてのものを少なくともおおよそは提供するようにすることだった。これを私は少なくとも三度はやってみたが、しかしそのつど失敗した。そして、そのためにむだにした時間こそは、遅延の主要な原因の一つなのである」と、編集上の試行錯誤を繰り返したこととそれが「遅延の主要な原因の一つ」になったことを明らかにしています。そして、上記のような方法で編集が完了したとしても、(あまりにも多くのすきまや暗示のために、それを補ったために──青山補足)「それはマルクスの著書ではないものになる」と思い、その結果、「私に残された道は、ある点で仕事を切り上げ、現にあるものをできるだけ整理することに限り、ただどうしても必要な補足だけを加えるということしかしなかった」と、その忸怩たる思いを告白しています。

 このエンゲルスの編集過程の試行と葛藤を、不破さんは、「エンゲルスの言う編集方針の変更の意味するものが何であるかを、読み取ることはなかなか難しい問題ですが」と、まともに受け止めようともしないで揶揄して、編集方針を変えたことが「成功への転機になったと語った」と、軽々しく、言います。

 不破さんのように自己顕示欲の強くないエンゲルスは、『資本論』をマルクスの著書として完成させるため、「私に残された道」として、次善の策としてこのような編集方法を選んだのです。エンゲルスは「成功への転機になった」などと語っていません。「成功」などという言葉を使うのは、エンゲルスに対して失礼です。

 こんな不破さんだから、「第五篇の編集上の困難」についての不破さんのエンゲルスに対する非難は常軌を逸しています。

 不破さんは、「今日の時点からふりかえってみると、エンゲルスをなやませた第五篇の編集上の困難には、エンゲルスが最後まで気づかなかったいくつかの問題がありました。その一つは、エンゲルスが、第五篇後半の『信用』関連の草稿のなかに、マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノートが含まれていたことに気づかなかったことです。」と言います。

 不破さんは、エンゲルスの「第五篇の編集上の困難」は、「これから中身を入れるはずだった筋書きさえもなくてただ仕上げの書きかけがあるだけであって、この書きかけも一度ならず覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっている」草案にあるのではなく、「エンゲルスが最後まで気づかなかったいくつかの問題」にあると言うのです。不破さんは、エンゲルスが「遅延の主要な原因の一つ」にあげた編集過程の試行と葛藤を、「エンゲルスの言う編集方針の変更の意味するものが何であるかを、読み取ることはなかなか難しい問題です」などと揶揄して、その編集過程に想いをはせその努力をねぎらうのではなく、「第五篇の編集上の困難」の理由は、エンゲルスが「『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノートが含まれていたことに気づかなかった」からで、エンゲルスの自業自得だと言うのです。

 例によって不破さんは、トンキン湾をでっち上げた謀略機関なみに、「気づかなかったいくつかの問題」とか「その一つは、エンゲルスが、第五篇後半の『信用』関連の草稿のなかに、マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノートが含まれていたことに気づかなかったことです」とか、具体例を出さずにイメージ操作をして、先入見を植えつけようとしています。なんとも、汚いやり方です。

 なお、不破さんの言う「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」なるものが、どこに書かれている「覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積」(なお、「混沌」以外のものを大谷氏は「雑録」、「捜論」、MEGAは「補録」等と言っています。)のことなのか分かりませんが、このページの進行の中で詳しく述べたいと思いますが、エンゲルスは、『資本論』草稿に書かれている全てを使ってマルクスの荒削りな部分を補いながら、『資本論』をマルクスの著作として仕上げたことだけは申し上げておきます。

 そして、不破さんのエンゲルスに対する不当な誹謗についての防衛的な措置として、あらかじめ申し上げておきますと、不破さんは、不破さんの言う「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」と思われる部分や自分の気に入らない部分を除いて「解説」をしていますが、そのために『資本論』を通じてマルクスの経済学(科学的社会主義の経済学)を学ぼうとするものにとって、知見を狭め誤った理解に導く、非常に有害な「解説」になっていますので、その点も頭に入れてこのホームページをお読み下さい。

 なお、不破さんが知恵を借りてエンゲルスの評価を落とそうとする大谷氏は、『マルクスの利子生み資本論』2で、次のように述べています。

「マルクス自身が刊行できなかった第2部および第3部を編集・刊行して、彼の主著の理論的部分を完成させたエンゲルスの功績は、それらがもつ欠陥や不十分さにもかかわらず、不朽のものである。」(P360)といい、「エンゲルスの最晩年の悪戦苦闘によって、人類は、そしてとりわけ労働者階級は『資本論』の第2部および第3部をもつことができた。かりに、エンゲルスによる第2部および第3部の刊行がなかったとして、これまでに経済学者は、そこで分析され展開されている諸問題をそこでなされているような仕方で自ら展開し、さらにそれを資本主義的生産の理論的分析に適用することができていたであろうか。……

 エンゲルス編の第2部および第3部の欠陥をあげつらうことは、マルクスの草稿がかなりの程度にまで見ることができるようになったいまでは、むしろ手もない仕事だと言うことさえできる。しかしながら、第2部および第3部の編集・刊行というエンゲルスの不朽の業績は、言い換えればエンゲルス版『資本論』第2部および第3部の刊行の歴史的意義は、それらのもつ欠陥や不十分さによってけっして相殺されることはないであろう」(P363-4)、と。

 不破さんは、エンゲルスがつけた「資本主義的生産の総過程」という第三部の表題について、マルクスは「総過程の諸姿容」といっていたから主題は「総資本の諸姿容」だと、第三部の意義も分からずに、自ら大「発見」した「恐慌の運動論」に目が眩み、肝心かなめの「資本主義的生産の総過程」抜きの「総資本」の「諸姿容」を主張するくらいの第三部の理解力の持ち主ですから、マルクスが今度は草稿の「5)信用。架空資本。」(『資本論』第3部第二五章)の冒頭で「商業信用」といっている言葉の意味をどう捉え、大谷氏のいう「雑録」をふくむ第二五章の展開を「今日の時点からふりかえって」、どのように「欠陥をあげつらう」のか、不破さんの言うことを信じて先入見をもって『資本論』を学ぼうとする人にとっては不幸なことですが、不破さんの知識の程度を知るうえでは、楽しみでなりません。

 そして、不破さんの品性のなさに、益々、あきれるのは、不破さんの言う「第五篇の編集上の困難」の理由です。

 エンゲルスは序文で、「第五篇の編集が困難」だった理由として、「ちょうどここでマルクスは書き上げのさいちゅうに前に述べたよう な重い病気の一つに襲われたのだった。だから、ここにはできあがった草案がないのであり、これから中身を入れるはずだった筋書きさえもなくてただ仕上げの書きかけがあるだけであって、この書きかけも一度ならず覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっているのである」と、マルクスの草稿が非常に不十分なものであることを述べています。そうしたなかで、エンゲルスは、「私がまず試みたのは、」この方面の膨大な文献をあさって、「すきまを埋めることや暗示されているだけの断片を仕上げることによってこの篇を完全なものにし、この篇が著者の与えようと意図したすべてのものを少なくともおおよそは提供するようにすることだった。これを私は少なくとも三度はやってみたが、しかしそのつど失敗した。そして、そのためにむだにした時間こそは、遅延の主要な原因の一つなのである」と、編集上の試行錯誤を繰り返したこととそれが「遅延の主要な原因の一つ」になったことを明らかにしています。そして、上記のような方法で編集が完了したとしても、(あまりにも多くのすきまや暗示のために、それを補ったために──青山補足)「それはマルクスの著書ではないものになる」と思い、その結果、「私に残された道は、ある点で仕事を切り上げ、現にあるものをできるだけ整理することに限り、ただどうしても必要な補足だけを加えるということしかしなかった」と、その忸怩たる思いを告白しています。

 このエンゲルスの編集過程の試行と葛藤を、不破さんは、「エンゲルスの言う編集方針の変更の意味するものが何であるかを、読み取ることはなかなか難しい問題ですが」と、まともに受け止めようともしないで揶揄して、編集方針を変えたことが「成功への転機になったと語った」と、軽々しく、言います。

 不破さんのように自己顕示欲の強くないエンゲルスは、『資本論』をマルクスの著書として完成させるため、「私に残された道」として、次善の策としてこのような編集方法を選んだのです。エンゲルスは「成功への転機になった」などと語っていません。「成功」などという言葉を使うのは、エンゲルスに対して失礼です。

 こんな不破さんだから、「第五篇の編集上の困難」についての不破さんのエンゲルスに対する非難は常軌を逸しています。

 不破さんは、「今日の時点からふりかえってみると、エンゲルスをなやませた第五篇の編集上の困難には、エンゲルスが最後まで気づかなかったいくつかの問題がありました。その一つは、エンゲルスが、第五篇後半の『信用』関連の草稿のなかに、マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノートが含まれていたことに気づかなかったことです。」と言います。

 不破さんは、エンゲルスの「第五篇の編集上の困難」は、「これから中身を入れるはずだった筋書きさえもなくてただ仕上げの書きかけがあるだけであって、この書きかけも一度ならず覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっている」草案にあるのではなく、「エンゲルスが最後まで気づかなかったいくつかの問題」にあると言うのです。不破さんは、エンゲルスが「遅延の主要な原因の一つ」にあげた編集過程の試行と葛藤を、「エンゲルスの言う編集方針の変更の意味するものが何であるかを、読み取ることはなかなか難しい問題です」などと揶揄して、その編集過程に想いをはせその努力をねぎらうのではなく、「第五篇の編集上の困難」の理由は、エンゲルスが「『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノートが含まれていたことに気づかなかった」からで、エンゲルスの自業自得だと言うのです。

 例によって不破さんは、トンキン湾をでっち上げた謀略機関なみに、「気づかなかったいくつかの問題」とか「その一つは、エンゲルスが、第五篇後半の『信用』関連の草稿のなかに、マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノートが含まれていたことに気づかなかったことです」とか、具体例を出さずにイメージ操作をして、先入見を植えつけようとしています。なんとも、汚いやり方です。

 なお、不破さんの言う「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」なるものが、どこに書かれている「覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積」(なお、「混沌」以外のものを大谷氏は「雑録」、「捜論」、MEGAは「補録」等と言っています。)のことなのか分かりませんが、このページの進行の中で詳しく述べたいと思いますが、エンゲルスは、『資本論』草稿に書かれている全てを使ってマルクスの荒削りな部分を補いながら、『資本論』をマルクスの著作として仕上げたことだけは申し上げておきます。

 そして、不破さんのエンゲルスに対する不当な誹謗についての防衛的な措置として、あらかじめ申し上げておきますと、不破さんは、不破さんの言う「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」と思われる部分や自分の気に入らない部分を除いて「解説」をしていますが、そのために『資本論』を通じてマルクスの経済学(科学的社会主義の経済学)を学ぼうとするものにとって、知見を狭め誤った理解に導く、非常に有害な「解説」になっていますので、その点も頭に入れてこのホームページをお読み下さい。

 なお、不破さんが知恵を借りてエンゲルスの評価を落とそうとする大谷氏は、『マルクスの利子生み資本論』2で、次のように述べています。

「マルクス自身が刊行できなかった第2部および第3部を編集・刊行して、彼の主著の理論的部分を完成させたエンゲルスの功績は、それらがもつ欠陥や不十分さにもかかわらず、不朽のものである。」(P360)といい、「エンゲルスの最晩年の悪戦苦闘によって、人類は、そしてとりわけ労働者階級は『資本論』の第2部および第3部をもつことができた。かりに、エンゲルスによる第2部および第3部の刊行がなかったとして、これまでに経済学者は、そこで分析され展開されている諸問題をそこでなされているような仕方で自ら展開し、さらにそれを資本主義的生産の理論的分析に適用することができていたであろうか。……

 エンゲルス編の第2部および第3部の欠陥をあげつらうことは、マルクスの草稿がかなりの程度にまで見ることができるようになったいまでは、むしろ手もない仕事だと言うことさえできる。しかしながら、第2部および第3部の編集・刊行というエンゲルスの不朽の業績は、言い換えればエンゲルス版『資本論』第2部および第3部の刊行の歴史的意義は、それらのもつ欠陥や不十分さによってけっして相殺されることはないであろう」(P363-4)、と。

 不破さんは、エンゲルスがつけた「資本主義的生産の総過程」という第三部の表題について、マルクスは「総過程の諸姿容」といっていたから主題は「総資本の諸姿容」だと、第三部の意義も分からずに、自ら大「発見」した「恐慌の運動論」に目が眩み、肝心かなめの「資本主義的生産の総過程」抜きの「総資本」の「諸姿容」を主張するくらいの第三部の理解力の持ち主ですから、マルクスが今度は草稿の「5)信用。架空資本。」(『資本論』第3部第二五章)の冒頭で「商業信用」といっている言葉の意味をどう捉え、大谷氏のいう「雑録」をふくむ第二五章の展開を「今日の時点からふりかえって」、どのように「欠陥をあげつらう」のか、不破さんの言うことを信じて先入見をもって『資本論』を学ぼうとする人にとっては不幸なことですが、不破さんの知識の程度を知るうえでは、楽しみでなりません。

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エンゲルスが編集した『資本論』の第二五章から第二九章までの流れ

 これからくり広げられる不破さんのエンゲルスに対する誹謗、マルクスへの中傷に備えて、第二五章から第二九章までの編集の流れを簡単に見てみたいと思います。みなさんは、是非、頭に入れておいて下さい。

 マルクスは第二七章の〝むすび〟で、これまで「信用制度の発展」を「おもに産業資本に関連させて考察」してきたことを述べ、以下の諸章で「信用」を「利子生み資本そのものとの関連のなかで考察」すること述べています。

 これを踏まえて、エンゲルスは、この「信用制度の発展」の部分を①草稿「5)信用。架空資本。」全体の導入部分として、②「必要最小限の手入れ」──その結果、やむを得ず行なわれた第二五章と第二六章の編集──を行なうこととし、その最初の「章」である「第二五章」を「信用と架空資本」として編集しました。

「第二五章」

 産業資本の発展の中で発展してきた資本主義的生産様式に立脚した信用制度のもとでの「貨幣資本」は、本来、生産過程に入る「貨幣資本」を想定していますが、銀行に集められた「貨幣資本」は必然的に「利子生み資本」としての機能に転化されます。そこから、「銀行制度」の基での「信用」が生み出した〝貸付資本〟(「monied Capital」)と再生産過程の「貨幣資本」との関係に目が向けられ、信用制度のもつ資本(貨幣)創出機能とそのもとでの資本の行動について「第二五章」では述べられています。

「第二六章」

 続く第二六章は、「第二五章」を受けて、オーヴァストーンらの、「信用制度の発展」の中で生じる「貨幣資本」の「利子生み資本」としての機能と生産過程の循環の一部としての「貨幣資本」との混乱した見方、「貨幣資本」の蓄積と利子率の関係との混乱した見方の紹介と、その批判が述べられています。

「第二七章」

 そして第二七章は、「信用制度の発展」と産業資本の発展の問題に立ち戻って、「資本主義的生産における信用の役割」だけでなく、「信用制度の発展」による他人の資本や他人の所有に対する絶対的な支配力の獲得による「資本所有の潜在的な廃止」の問題まで述べられています。

「第二八章」と「第二九章」

 つぎに、マルクスは第二七章の〝むすび〟で、「第二八章」以降の諸章で「信用」を「利子生み資本そのものとの関連のなかで考察」すること述べていますが、「第二八章」はそのための橋渡し的な「章」で、資本主義的生産様式における信用制度の中核を担う「利子生み資本」の本格的な論究は「第二九章」から始まります。

 なお、「第二八章」は、貨幣が流通手段、価値表現、資本の循環形態の一局面である貨幣資本、利子生み資本としての貨幣資本という機能をもっていることを述べ、トゥックやウイルソンが通貨と資本との区別と流通手段がそのときどきにもつ機能の区別を混乱させて、通貨の機能を?資本の流通という機能と?通貨の流通という機能とみていることを述べ、その混乱ぶりを指摘しています。

 このようにエンゲルスは、「現にあるものをできるだけ整理することに限り、ただどうしても必要な補足だけを加えるということしかしなかった」という編集方針で「第二六章」も「第二八章」も草稿の順序通りに配置し、その後の論及の理解を助けられるような編集を行ないました。

 大谷氏は、「第二六章」を「第三三章」のあとに、「第二八章」を「第三二章」のあとにおき、「架空資本」そのものの論究は「第三五章」のあとに置くべきだと言います。しかし、エンゲルスが序文で述べているように、マルクスがこの篇に「与えようと意図したすべてのものを少なくともおおよそは提供するようにする」ために、エンゲルスがこれらの「章」を編集するとしたら、大谷氏の言う「雑録」も「捜論」も、マルクスの『混乱』も、最終稿のための材料の部品になり、オーヴァストーンらの混乱した考えの紹介とその批判はマルクスの論究の材料部品となって、その論述のされ方は主客が一八〇度転換されたものとなり、まさに「マルクスの著書ではないもの」となっていたことでしょう。

 私も、少しあとの〈第二六章のエンゲルスの編集〉の「項」で、もしも、エンゲルスが「マルクスの著書ではないもの」を編集するとしたら、第二六章(貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響)もその詳しい論究は第三〇章以降に置き、「架空資本」に関しても、第二九章(銀行資本の諸成分)と第三〇章(貨幣資本と現実資本)等の大幅な再編集が必要になったかもしれないこと、第二八章(流通手段と資本)の配置もその中で大きく変化したであろうことを述べています。

 エンゲルスが編集した『資本論』の第二五章から第二九章までの流れは、以上のようなものです。そのことを理解して、私たちは『資本論』を読み進んで行きましょう。

第二五章、第二六章の編集の経緯と第二六章

 不破さんは、次の〈エンゲルスは本文に草稿外の文章を混入させた〉の「節」で、「エンゲルスのこの編集の最大の問題は、この部分の草稿のうち、マルクスが『資本論』の本文の草稿として執筆した部分と、それ以外の準備材料的な部分とを区別せず、全部が本文だと思い込んで、編集にあたったことでした。」と述べ、「例えば」として、「第二六章」は「そうした失敗の典型」だと言います。

 この不破さんの誤った決めつけは、本当に不破さんが『資本論』の展開の道筋についても、『資本論』のための「準備材料的草稿」についてのエンゲルスの位置づけについても、無知であることをさらけ出すものとなっています。

第二五章、第二六章の編集の経緯

 第二五章、第二六章の編集の経緯を見てみましょう。

 ここでのエンゲルスの編集の仕方についての不破さんのエンゲルスへの中傷に限って第二五章と第二六章の編集の経緯を見てみましょう。なお、第二五章から第二七章では、「資本主義のもとで生まれた『信用』制度」によって資本がどのような運動をし、資本主義がどのように発展するのかを考察しています。

 エンゲルスが編集方針を変更した経緯については、先ほど見てきたとおりですが、そのような編集方針のもとで、まさに、「覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっている」ものからエンゲルスが編集したのが第二五章と第二六章でした。

 第二五章と第二六章は、マルクスの草稿の317から325bまでの文章で、MEGAでいう「総論」と「補録」(大谷氏はMEGAの「補録」を「雑録」と「捜論」に分けているが「雑録」という言い方はいかがなものかなと思います。)からなっています。第二五章は「総論」と大谷氏のいう「雑録」の大部分と草稿の「他の箇所で見いだされた材料の挿入」とエンゲルスの補足の文章とが、20近く集まって作られていることは前にも述べたとおりです。「現にあるものをできるだけ整理することに限」ったとはいえ、大変な努力です。第二六章は大月版『資本論』でいうと、最初の3ページが大谷氏のいう「雑録」で、残りの大部分が「捜論」からなり、それにエンゲルスの補足の文章が加わったものです。

 繰り返して言いますが、エンゲルスが編集に時間を費やしたのは、不破さんが言うような「編集上の困難」からではありません。エンゲルス自身が序文で述べているように、編集を困難にしたのは、「これから中身を入れるはずだった筋書きさえもない」草稿から「この篇を完全なもの」にしようとしたからです。そしてその努力を重ねれば重ねるほど、その大きな「すきまを埋め」、「暗示されているだけの断片を仕上げる」ための新たな研究が必要であり、その結果出来あがる「著書」はマルクスのものではなくなるということでした。エンゲルスがそのことを納得し、その方法を断念するまでには時間が必要だったのです。

 第二五章と第二六章のベースとなる草稿が「覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっている」ようなものであって、大きな努力を必要とするものであっても、先ほど見たよな経緯を経て、編集方針を変えることによって、「草稿」は二つの章にまとめ上げられ、『資本論』の中に生かすことができました。

 第二五章と第二六章を見れば分かるとおり、MEGAの「補録」の部分が『資本論』の「準備材料的な部分」であることは、エンゲルスの編集の仕方をみれば一目瞭然です。大谷氏も指摘しているように、そして私が再三述べているように、「第二五章」は草稿のエンゲルスによる要約や前後の入れ替え、草稿の他の箇所で見いだされた材料の挿入、そしてエンゲルスの補筆を含め、20近くの文章を編集して出来上がりました。それなのに、不破さんは、エンゲルスがこれだけ思い切った〝切った貼った〟をして「第二五章」を編集したというのに、エンゲルスが「全部が本文だと思い込んで」いると言うのですから、驚きです。

第二六章で『資本論』は何を言っているのか

 不破さんは、第二六章を「本筋とは関係のない議会討論の批判で飾ってしまった」「失敗の典型」だと言います。

 第二六章を見て下さい。

 第二六章は大谷氏のいう「雑録」の最後の部分から始まりますが、第二五章を引き継いで、「貨幣資本」の蓄積が経済に及ぼす影響を述べ、引き続き、大谷氏のいう「捜論」で、ノーマンとオーヴァストーンの「貨幣資本」の捉え方とその需要と利子率についての混乱した考えについての批判を通じて、利子率についての正しい認識を一層深めるものとなっています。不破さんの言うような、「本筋とは関係のない」、「議会討論の批判」などではありません。

 マルクスは、ノーマンもオーヴァストーンも、貨幣の持つ「資本」としての力に「利子」の源泉を求め、「貨幣」そのものが利子を生み出す力を持っているかのような主張をしていることを厳しく批判します。不破さんは、たぶん、ここで「信用制度の発展」が述べられていないから、「本筋とは関係のない」、「議会討論の批判」などと言って批判しているのでしょうが、それは、あさっての方向をむいての不破さんらしい──マルクスが「信用制度の発展」を「考察」すると言っているのに違うじゃないかという──批判のしかたです。オーヴァストーンらのこれらの混乱は、「産業資本」の発展にともなって「信用制度の発展」がなされるなかで、彼らが「貨幣」の機能を科学的に見ることができないために起きた混乱です。だからマルクスも草稿のこの場所でオーヴァストーンらの誤りを指摘し、読者の皆さんに注意喚起をしようとしたのでしょう。

 これは、今日の日銀の金融政策を正しく評価する上でも重要です。資本主義的生産様式における「貨幣」の多面的な機能を科学的社会主義の経済学のうえに基礎づけてこそ正しい理解ができます。資金需要がなければ、金利は上がりません。金利を下げても、再生産過程での「資本の過多」があれば経済成長へはつながらず、「投機」マネーに変質するだけです。大事なのは国内での「資本の過多」をなくすことです。そのために、「産業の空洞化」をやめさせ「利潤」の源である「製造業」を復活させることです。

 このように、不破さんは、第二六章について「本筋とは関係のない議会討論の批判で飾ってしまった」「失敗の典型」としか「解説」していないので、エンゲルスの気持ちを汲んで、もう少し立ち入って「第二六章」を見てみたいと思います。

第二六章の概略

  この章は、第25章の続きで、MEGAでいう「補録」の残り半分を使って、貨幣資本の蓄積に関する「通貨理論論評」等からの抜粋、それを受けての、大谷氏の言う「捜論」部分での、『銀行委員会』での問答の引用を通じての、ノーマンやオーヴァストーン、主としてオーヴァストーンの言い分を批判しています。オーヴァストーンが「銀行業者」の立場から「貨幣資本」の需要を「資本」の需要と見て、借り手が必要とするものが「資本」としての貨幣ではなく「貨幣」そのものであることを見ないこと、したがって「利子率」が「貨幣資本」の需要と供給によって決まるということを見ていないという「貨幣資本」にたいする見方の矛盾と混乱、そして「貨幣資本」の蓄積と「利子率」の関係についての曖昧な態度を批判します。オーヴァストーンが貨幣の価値は資本の価値だといい、その資本とは各人がその事業に必要とするものだというが、「貨幣資本」が「資本」であるのは彼ら銀行業者が「利子を取って貸し出す」時であり、そのことによって「貨幣を資本に転化させるのである」(大月版『資本論』P9-10)ことをオーヴァストーンの証言を通じて明らかにし、ノーマンとオーヴァストーンの誤りと混乱ぶりを曝露し、その批判を通じて、「現実資本」(=実物資本=生産的資本)でない「貨幣資本の蓄積」の意味を一層明らかにしました。このように、「第二六章」は、「産業資本」の発展にともなって発展した「信用制度」のもとでの「貨幣資本」とは、どのような「資本」なのかということの理解を一層深めさせてくれます。

第二六章のエンゲルスの編集

 「貨幣」と「信用」と「貨幣資本」と「現実資本」の資本主義社会での複雑な絡み合いのなかで、エンゲルスが決断し、行った手入れは、必要最小限のものでした。だから、第二六章は、『資本論』の草稿全体の順序を生かして、いま見ているような形に編集されることとなったのです。

 もしも、エンゲルスが序文で述べているように、マルクスがこの篇に「与えようと意図したすべてのものを少なくともおおよそは提供するようにする」ために、エンゲルスが「マルクスの著書ではないもの」を編集するとしたら、第二六章(貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響)もその詳しい論究は第三〇章以降に置き、「架空資本」に関しても、第二九章(銀行資本の諸成分)と第三〇章(貨幣資本と現実資本)等の大幅な再編集が必要になったかもしれません。第二八章(流通手段と資本)の配置もその中で大きく変化したことでしょう。その結果、大谷氏の言う「雑録」も「捜論」も、マルクスの『混乱』も、最終稿のための材料の部品になり、『資本論』第五篇は現在の『資本論』とはかなり異なるものになっていたことでしょう。

 同様に、このようにやむを得ず行われた章の編集の身近な例として、第二八章があります。

 第二七章の〝むすび〟の部分でマルクスとエンゲルスは『資本論』第五篇の編集について、「これまでわれわれは、信用制度の発展──そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な廃止──をおもに産業資本に関連させて考察してきた。以下の諸章では、信用を利子生み資本そのものとの関連のなかで考察する」と述べています。しかし、「信用を利子生み資本そのものとの関連のなかで考察」しているのは第二九章「以下の諸章」で、第二八章はその橋渡し的な文章のですが、第二八章も、上記のようなエンゲルスの『資本論』編集にあたっての試行錯誤から生まれたものです。なお、念のために申し添えますが、大谷氏は、「トゥクとフラートンとを批判した第二八章部分には、さまざまの混同を伴っているトゥクやフラートンの議論から、この重要な区別をつかみだして提示し、それにもとづいて彼らの区別のあいまいさや不十分さや誤謬を批判するという作業が──明示的にではないにしても──含まれていてもよいのではないか、と考えられるのであるが、これまで見てきたように、この部分でのマルクスの記述にはほとんどそのような形跡を見ることができなかった」と第二八章でのマルクスの論究を責めていますが、第二八章でマルクスとエンゲルスは「通貨と資本との区別と流通手段がそのときどきにもつ機能の区別」をしっかりと行なっています。

 これが、第二六章が、エンゲルスによって、いま私たちが見ているような形に編集された理由です。

第26章への大谷氏の批判

 なお、大谷氏は、第二六章について、第二六章の表題は小部分への小見出しをエンゲルスが全体につけられた表題だと勘違いしたもので内容と合っていないこと、第二六章を第二五章の本文部分および第二七章と対等に置くべきではない、との理由から「このような第二六章の表題と内容と位置とが、第五篇の第二五章以降の展開の筋道をきわめてわかりにくいものにし」たと言い、「草稿によって見ると、エンゲルス版で見られるのとはかなり異なった筋道が見えてくるようにも思われるのであるが、ここでは立ち入らないことにする」と述べています。

 しかし、もう一度、先ほど見た第二七章の〝むすび〟の部分の言葉を思い出して下さい。

 マルクスとエンゲルスは、「これまでわれわれは、信用制度の発展──そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な廃止──をおもに産業資本に関連させて考察してきた。以下の諸章では、信用を利子生み資本そのものとの関連のなかで考察する」と、『資本論』第五篇の編集についての共通認識をもっています。大谷氏が「第五篇の第二五章以降の展開の筋道をきわめてわかりにくいものにし」たと言うのなら、大谷氏にとってはそのとおりなのでしょう。しかし、「第五篇の第二五章以降の展開の筋道」は「草稿」でも「エンゲルス版」でも上記のように書かれているので、「草稿によって見ると、エンゲルス版で見られるのとはかなり異なった筋道が見えてくる」はずがありません。『資本論』に書かれている「筋道」以外にどのような「筋道」があるのか、大谷氏には、是非、ご教授願いたかったです。

まとめ

 この「第五篇」の不破さんの解説(?、誤った主張。)は、本人も認めているとおり、大谷禎之介氏の『マルクスの利子生み資本論』の内容をデフォルメしての借用がベースにあるようですが、大谷氏にこの本の出版を促した不破さんの期待どおりの内容とは、残念ながら、必ずしもなっていません。第二六章についても、大谷氏は上記のような理由から第三三章の次に置くことを提案していますが、「本筋とは関係のない」ことだなどとは言っていません。(私は、上記の「エンゲルスが編集した『資本論』の第二五章から第二九章までの流れ」及び「第二六章のエンゲルスの編集」を踏まえて、第二六章はここでよいと思います。)

「より大きな混迷をも生み出した」、「創作」だと叫ぶだけの不破さん

 マルクスの『資本論』の第三一章の草稿に続いて、「『混乱』という表題をつけた長い一篇」の文章が続いていますが、不破さんは、エンゲルスのこの編集についても、「編集ではなく、〝創作〟」だと非難します。

 エンゲルスは、この「『混乱』という表題をつけた長い一篇」の文章を含む第三〇章から第三六章までの『資本論』の編集の経緯について、序文で次のように述べています。

「ところが、第三〇章からはほんとうの困難が始まった。ここからは、引用文から成っている材料を正しい順序に置くことだけではなく、絶えず挿入文や脱線などに中断されながらまた別の箇所でしばしばまったく付随的に続けられている思想の進行を正しい順序に置くことも必要だった。こうして第三〇章は入れ替えや削除によってできあがり、この削除されたもののためには別の箇所で使いみちが見いだされた。」

「第三一章は再びかなりよくまとめて書き上げてあった。」

 次に、「『混乱』という表題をつけた長い一篇が続き」、それを「批判的に風刺的に取り扱おうと」「いろいろやってみたあげくに、この章を組み立てることは不可能だということをさとった。」

「その次には、私が第三二章で取り入れたものがかなりよく整理されて続いてい」た。

「『混乱』からあとの、そしてすでにそれ以前の箇所で取り入れられなかったかぎりでの、すべてのこれらの材料から、私は第三三~三五章をまとめ上げた。」

「『資本主義以前』(第三六章)は完全に書き上げてあった。」

 エンゲルスのこの『資本論』の編集について、エンゲルスの編集過程での苦悩など眼中にない不破さんは、『混乱』という表題をつけた長い一篇の文章は、マルクスが1865年にエンゲルスに手紙でオーヴァストーンその他の理論の「ごった煮の全部にたいする批判を僕はもっとあとの本の中ではじめて与えることができるだろう」と言った「もっとあとの本」のための「準備材料」であり、「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」(P85)であり、第三三章と第三四章は「編集ではなく、〝創作〟と呼ぶしかない作業」で「この錯覚は、より大きな混迷をも生み出しました」と、鬼の首でも取ったかのように言います。

 そして不破さんは、次の「『信用。架空資本』をどう読むか。五つの章を中心に読む」という「節」で、第二五章から第三五章の11の「章」うち第二五章、第二七章と第三〇~三二章の五つの「章」のみを「中心」にして読むといいます。これでは、エンゲルスが「序文」に書かれているような苦労をした意味がまったくありません。

 エンゲルスの編集方針変更の理由の一つは、『資本論』がマルクスの著作でなくなるのを避けるためでもありました。だから、このような編集をしたのです。だから、不破さんの援軍を期待した大谷氏も、『マルクスの利子生み資本』④でエンゲルスの第三三章と第三四章の編集ぶりについて、ただただ見事と言うほかはないと言い、第三五章についても前向きな評価をしています。詳しくは、PDFの45ページを参照して下さい。

 もしも不破さんが、大谷氏が指摘している、「monied Capitalの量と貨幣量」との関係について「マルクスが応えているかのような外観があたえられた」という言葉に飛びついて、〝創作〟だとか「より大きな混迷をも生み出しました」とか言っているのだとしたら、「解説」者として、第三三章と第三四章を堂々と取り上げて、エンゲルスの〝創作〟による「より大きな混迷」の誤りを正すべきではないですか。

 私が、「『第五篇の編集上の困難』はエンゲルスの自業自得だという、不破さん」という「項」で引用した大谷氏が『マルクスの利子生み資本論』2で述べている次の言葉をもう一度思い出して下さい。ちょっと長いですが、もう一度、引用します。

「マルクス自身が刊行できなかった第2部および第3部を編集・刊行して、彼の主著の理論的部分を完成させたエンゲルスの功績は、それらがもつ欠陥や不十分さにもかかわらず、不朽のものである。」(P360)といい、「エンゲルスの最晩年の悪戦苦闘によって、人類は、そしてとりわけ労働者階級は『資本論』の第2部および第3部をもつことができた。かりに、エンゲルスによる第2部および第3部の刊行がなかったとして、これまでに経済学者は、そこで分析され展開されている諸問題をそこでなされているような仕方で自ら展開し、さらにそれを資本主義的生産の理論的分析に適用することができていたであろうか。……

 エンゲルス編の第2部および第3部の欠陥をあげつらうことは、マルクスの草稿がかなりの程度にまで見ることができるようになったいまでは、むしろ手もない仕事だと言うことさえできる。しかしながら、第2部および第3部の編集・刊行というエンゲルスの不朽の業績は、言い換えればエンゲルス版『資本論』第2部および第3部の刊行の歴史的意義は、それらのもつ欠陥や不十分さによってけっして相殺されることはないであろう」(P363-4)

 この大谷氏を含め、『資本論』に代わる『資本論』がないことは、不破さん以外、みんなが認めていることです。不破さんは、エンゲルスに『資本論草稿集』でも出すべきだったとでもいうのだろうか。そんなことなら、不破さんにもできます。大体において、資本論の草稿のなかに、一定のルールを持って書かれている「混沌」と書かれた文章やMEGAのいう「補録」等を「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」だなどといって『資本論』から切り離してしまうことが、マルクスの執筆意図を生かすことになるのでしょうか。「この篇が著者の与えようと意図した」ものを、少しでも多く伝えるために、草稿の「現にあるものをできるだけ整理することに限り、ただどうしても必要な補足だけを加えるということ」によって『資本論』を編集したエンゲルスが不破さんから罪人のように責められ、〝創作〟だ、「より大きな混迷」だと責めた本人は、その〝創作〟に誤りがあり、その結果「より大きな混迷」がもたらされているのならば正さなければならないはずなのに、無責任にもその「誤り」を正す気などない。攻撃のための攻撃をするだけで品性の欠片すらない。

 もちろん、エンゲルスの考えの中に勘違いと思われるような部分(例えば、大月版P544-547等参照)もあるし、それはマルクスにもある。しかし、それがなんだというのか。〝そんなことも気づかないのか〟とマルクス・エンゲルス・レーニンにしかられるだけだ。

暴露の絶好の機会を待つマルクスを理論的未完成という不破さん

 マルクスの『資本論』の第三一章の草稿に続いて、「『混乱』という表題をつけた長い一篇」の文章が続いていますが、不破さんは、エンゲルスのこの編集についても、「編集ではなく、〝創作〟」だと非難します。

 エンゲルスは、この「『混乱』という表題をつけた長い一篇」の文章を含む第三〇章から第三六章までの『資本論』の編集の経緯について、序文で次のように述べています。

「ところが、第三〇章からはほんとうの困難が始まった。ここからは、引用文から成っている材料を正しい順序に置くことだけではなく、絶えず挿入文や脱線などに中断されながらまた別の箇所でしばしばまったく付随的に続けられている思想の進行を正しい順序に置くことも必要だった。こうして第三〇章は入れ替えや削除によってできあがり、この削除されたもののためには別の箇所で使いみちが見いだされた。」

「第三一章は再びかなりよくまとめて書き上げてあった。」

 次に、「『混乱』という表題をつけた長い一篇が続き」、それを「批判的に風刺的に取り扱おうと」「いろいろやってみたあげくに、この章を組み立てることは不可能だということをさとった。」

「その次には、私が第三二章で取り入れたものがかなりよく整理されて続いてい」た。

「『混乱』からあとの、そしてすでにそれ以前の箇所で取り入れられなかったかぎりでの、すべてのこれらの材料から、私は第三三~三五章をまとめ上げた。」

「『資本主義以前』(第三六章)は完全に書き上げてあった。」

 エンゲルスのこの『資本論』の編集について、エンゲルスの編集過程での苦悩など眼中にない不破さんは、『混乱』という表題をつけた長い一篇の文章は、マルクスが1865年にエンゲルスに手紙でオーヴァストーンその他の理論の「ごった煮の全部にたいする批判を僕はもっとあとの本の中ではじめて与えることができるだろう」と言った「もっとあとの本」のための「準備材料」であり、「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」(P85)であり、第三三章と第三四章は「編集ではなく、〝創作〟と呼ぶしかない作業」で「この錯覚は、より大きな混迷をも生み出しました」と、鬼の首でも取ったかのように言います。

 そして不破さんは、次の「『信用。架空資本』をどう読むか。五つの章を中心に読む」という「節」で、第二五章から第三五章の11の「章」うち第二五章、第二七章と第三〇~三二章の五つの「章」のみを「中心」にして読むといいます。これでは、エンゲルスが「序文」に書かれているような苦労をした意味がまったくありません。

 エンゲルスの編集方針変更の理由の一つは、『資本論』がマルクスの著作でなくなるのを避けるためでもありました。だから、このような編集をしたのです。だから、不破さんの援軍を期待した大谷氏も、『マルクスの利子生み資本』④でエンゲルスの第三三章と第三四章の編集ぶりについて、ただただ見事と言うほかはないと言い、第三五章についても前向きな評価をしています。詳しくは、PDFの45ページを参照して下さい。

 もしも不破さんが、大谷氏が指摘している、「monied Capitalの量と貨幣量」との関係について「マルクスが応えているかのような外観があたえられた」という言葉に飛びついて、〝創作〟だとか「より大きな混迷をも生み出しました」とか言っているのだとしたら、「解説」者として、第三三章と第三四章を堂々と取り上げて、エンゲルスの〝創作〟による「より大きな混迷」の誤りを正すべきではないですか。

 私が、「『第五篇の編集上の困難』はエンゲルスの自業自得だという、不破さん」という「項」で引用した大谷氏が『マルクスの利子生み資本論』2で述べている次の言葉をもう一度思い出して下さい。ちょっと長いですが、もう一度、引用します。

「マルクス自身が刊行できなかった第2部および第3部を編集・刊行して、彼の主著の理論的部分を完成させたエンゲルスの功績は、それらがもつ欠陥や不十分さにもかかわらず、不朽のものである。」(P360)といい、「エンゲルスの最晩年の悪戦苦闘によって、人類は、そしてとりわけ労働者階級は『資本論』の第2部および第3部をもつことができた。かりに、エンゲルスによる第2部および第3部の刊行がなかったとして、これまでに経済学者は、そこで分析され展開されている諸問題をそこでなされているような仕方で自ら展開し、さらにそれを資本主義的生産の理論的分析に適用することができていたであろうか。……

 エンゲルス編の第2部および第3部の欠陥をあげつらうことは、マルクスの草稿がかなりの程度にまで見ることができるようになったいまでは、むしろ手もない仕事だと言うことさえできる。しかしながら、第2部および第3部の編集・刊行というエンゲルスの不朽の業績は、言い換えればエンゲルス版『資本論』第2部および第3部の刊行の歴史的意義は、それらのもつ欠陥や不十分さによってけっして相殺されることはないであろう」(P363-4)

 この大谷氏を含め、『資本論』に代わる『資本論』がないことは、不破さん以外、みんなが認めていることです。不破さんは、エンゲルスに『資本論草稿集』でも出すべきだったとでもいうのだろうか。そんなことなら、不破さんにもできます。大体において、資本論の草稿のなかに、一定のルールを持って書かれている「混沌」と書かれた文章やMEGAのいう「補録」等を「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」だなどといって『資本論』から切り離してしまうことが、マルクスの執筆意図を生かすことになるのでしょうか。「この篇が著者の与えようと意図した」ものを、少しでも多く伝えるために、草稿の「現にあるものをできるだけ整理することに限り、ただどうしても必要な補足だけを加えるということ」によって『資本論』を編集したエンゲルスが不破さんから罪人のように責められ、〝創作〟だ、「より大きな混迷」だと責めた本人は、その〝創作〟に誤りがあり、その結果「より大きな混迷」がもたらされているのならば正さなければならないはずなのに、無責任にもその「誤り」を正す気などない。攻撃のための攻撃をするだけで品性の欠片すらない。

 もちろん、エンゲルスの考えの中に勘違いと思われるような部分(例えば、大月版P544-547等参照)もあるし、それはマルクスにもある。しかし、それがなんだというのか。〝そんなことも気づかないのか〟とマルクス・エンゲルス・レーニンにしかられるだけだ。

暴露の絶好の機会を待つマルクスを理論的未完成という不破さん

いかにも不破さんらしいマルクスとエンゲルスに対する見方

 不破さんは、「『信用。架空資本』をどう読むか。五つの章を中心に読む」という「節」で、不破さんが「解説」する「五つの章」から除外された「章」の除外理由として『資本論』の「準備材料をエンゲルスが本文の草稿と誤認」したことなどをあげています。

 私は先ほど、エンゲルスの立場に立って、「これでは、エンゲルスが「序文」に書かれているような苦労をした意味がまったくありません」と申し上げましが、現在の『資本論』の編集は序文で述べられているようなエンゲルスの編集方針に基づくもので、「準備材料をエンゲルスが本文の草稿と誤認」したためなどではありません。例えば、第二六章が「失敗の典型」などとレッテルを貼られて誹謗されるべき「章」などでないことはすでに見たとおりです。ですから、不破さんが「解説」する「五つの章」から不当に除外された「章」についても必要に応じて、いや、『資本論』を学ぶうえで必要なので、必ず見て行きたいと思います。

 不破さんは、いかにも不破さんらしく、「『信用。架空資本』をどう読むか」の「注意」事項の〝いの一番〟に「エンゲルスの誤解から、マルクスの真意とは違った内容で編集された場合がある」ことを根拠も示さずに述べてエンゲルスを誹謗し、「もう一つは」として、第五篇以降の草稿の「その少なくない部分が未完成」であったことをもって、マルクスの考察の「その少なくない部分が未完成の、いわば研究途上の考察」であったと、「草稿」の「未完成」なことを、「研究途上の考察」にすり替えて、断言します。

 もちろん、あらゆる科学上の研究は、現時点では、すべて「未完成の、いわば研究途上の考察」であることもまた事実です。ですから、マルクスが『資本論』の筆を断った1881年の時点で「真理」とマルクスが考えていたこと、1894年のエンゲルスが『資本論』の第三巻を刊行した時点でエンゲルスが「真理」と考えていたことの中にも、現時点での理論的補強と発展が必要なものがあるのは当然です。そして、それを行うのが科学的社会主義の思想を受け継ぐ者の使命です。だから、不破さんが『資本論』の「解説」者であり、科学的社会主義の思想の持ち主たらんとするのであれば、二一世紀になって『資本論』から「恐慌の運動論」なる時代遅れの大発見をするくらいですからあまり期待はもてませんが、当然、マルクスの考察の「その少なくない部分が未完成の、いわば研究途上の考察」であることを述べている以上、「解説」がその箇所に行ったとき、エンゲルスやマルクスの悪口を言ったり、「そこに未完の労作ならではの味わいがあるのではないでしょうか」などと呑気な軽口を叩くのではなく、現時点での「真理」を読者に伝えるのが『資本論』の「解説」者としての、科学的社会主義の思想の持ち主としての最低限の義務です。

自分の主張の正当化のためにマルクスを抜粋するのではなくマルクスの真意を伝えよ

 『資本論』の第三部第五篇の草稿を書いた時のマルクスの考察の「その少なくない部分が未完成の、いわば研究途上の考察」だと思い込み、第五篇の草稿の全てを「研究途上の考察」に拡大する不破さんは、ここで、当時のエンゲルスも気づかなかったマルクスの「研究途上の考察」の例を出して、マルクスの革命的な精神をまったく理解できない〝大間違い〟をしてしまいます。

 不破さんは、マルクスを「研究途上の考察」を行う未熟な研究者にしたてあげるために、マルクスが書いた二つの手紙を抜粋します。

 まず、はじめの文章で、マルクスが「当面のイギリスの産業恐慌が頂点に達しないうちは、私はけっして第二巻を刊行しないでしょう。これらの現象はこのたびはまったく特異なもので、多くの点で以前のものとは違っています。………(青山略) だから、事態が成熟しきるまでは現在の経過を観察しなければならないのであって、そのときはじめてこの事態を『生産的に消費する』ことが、すなわち『理論的に』利用することができるのです。」と言っていることを捉えて、不破さんは、「私は、信用論などの完成のためには、新しい事態を理論的に消化する必要があるというマルクスの言葉からは、『信用。架空資本』部分の未完成さをよく自覚している者の真剣な思いを読み取りたいと考えています」と述べて、『資本論』の『信用。架空資本』の部分全体に理論的欠損があり、『信用。架空資本』全体が「研究途上の考察」ででもあるかのような印象を与えようとします。

  しかし、次の「この問題に関連して私がこれまで述べてきたこと」の「項」を見ていただけば、不破さんの推測が、マルクスのこれまでの研究過程への無理解とマルクスの読者への責任感などを考えた研究態度にたいする無理解を示すものであることが分かります。そして、抜粋した文章をちゃんと読めば不破さんの主張がいかに的外れの間違ったものであるかが分かります。

 なお、不破さんが抜粋した二つの手紙は、両方とも、経済現象の新しい発展が新しい理論的発展の芽を伸ばそうとしていることを述べたものですが、もう一つの文章とは、下記の「この問題に関連して私がこれまで述べてきたこと」の中で、〈1880年には、「『ちょうどいましがた、若干の経済現象が新しい発展段階にはいった』ところであり、これらの現象が、新たな仕上げを要求していたのである」と述べている〉と書かれている文章を指します。

この問題に関連して私がこれまで述べてきたこと

  私は、このシリーズの〈その2〉の「マルクスの「産業循環」の捉え方をもう一度見てみよう」(「その2」のPDF13ページ参照。)の「項」で、「この特集でこれまで見てきたこと」として、第一部(このシリーズの〈その1〉)の「不破さんにもっと温かい心があるならば」の「項」で、この問題に関連して、概ね次のような内容のことを書いたことを述べました。

 マルクスはエンゲルスあての1868年の手紙で、『資本論』は、「資本の一般的本性」を究明し、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもり」であるといい、「第2巻は大部分があまりにも高度に理論的なので、ぼくは信用に関する章を、ぺてんと商業道徳との実状の告発に利用するだろう」と述べていること。

 そして、1878年11月には第2巻(第2部と第3部のこと)の刊行が1879年の末には可能だと考えていたマルクスは、1879年に、「『現在のイギリスの産業恐慌がその頂点に達する以前には』第2巻を刊行しない、と言明し」、1880年には、「『ちょうどいましがた、若干の経済現象が新しい発展段階にはいった』ところであり、これらの現象が、新たな仕上げを要求していたのである」と述べていること、「信用制度と経済恐慌との相互連関について」、「すでに、50年代の初頭に一定のイメージを得て」(『受救貧困と自由貿易──迫りくる経済恐慌』『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1852.11.1付等を参照。)いることから、マルクスにとって、1880年に「若干の経済現象が新しい発展段階にはいった」ことは、「草稿」──それは、「理論的内容と内的構造とは主要な点においてすでに与えられて」いるが「もともとはあらゆる研究がもっている……荒削りの形態」である──を仕上げる絶好の好機が到来したと思われたのではないかということ。

 このように、マルクスは、恐慌の進展をつうじて、「信用に関する章」で、資本の「ぺてんと商業道徳との実状の告発」をし、「イギリスのプロレタリアートの労働条件や生活条件に関する諸事実」を「資本主義批判の『例証』とし」て、「恐慌」を革命の「槓杆」の一つとして「活用」しようとしたのではないかということ。

 マルクスがもう少し元気で、もう少し長生きして、とりあえず『資本論』を完成させていてくれたら、不破さんが「恐慌の運動論」なる「珍発見」などする余地などなかっただろうということ。

 これらが、「この特集でこれまで見てきたこと」の中で触れたこの問題に関連した部分ですが、同じくこのシリーズ〈その1〉の「不破さんにもっと温かい心があるならば」の「項」で、私は次のように述べています。

「コンラート・シュミットあての手紙(1890.8.5)でエンゲルスは、マルクスが、『彼の最善の仕事でさえも労働者にとっては依然としてじゅうぶんではないと考えていたこと、マルクスが最善のものより少しでも劣るものを労働者に提供することを犯罪だとみなしていたということ』を述べています。このようなマルクスの立派な姿勢が、不破さんが特殊なニュアンスをもって言う『書き換え』という、第二版での改訂をさせるエネルギーとなったのだと思います。」と。

 以上が、これまで「この問題に関連して私がこれまで述べてきたこと」です。

 このように、「最善のものより少しでも劣るものを労働者に提供することを犯罪だとみなしていた」マルクスは、『資本論』の構想において、すでに「理論的内容と内的構造とは主要な点においてすでに与えられて」いるが、1880年に「若干の経済現象が新しい発展段階にはいった」ことが、「もともとはあらゆる研究がもっている……荒削りの形態」である「草稿」をよりよいものに仕上げる絶好の好機が到来したと思った。だから、すでに1878年11月には第2巻(第2部と第3部)の刊行が1879年の末には可能だと考えていたが、だめ押し的に、「この事態を」「『理論的に』利用」して「信用に関する章を、ぺてんと商業道徳との実状の告発に利用する」場として、当時として完璧な文章を作ろうとマルクスは思った、と考えられます。

 先ほど見た手紙で、マルクスは経済現象の新しい発展による新しい理論的発展の問題を述べているのであって、マルクスの理論に欠けたところがあることを述べているのではありません。だから、不破さんがマルクスを「研究途上の考察」を行う未熟な研究者にしたてあげようとして使った手紙のもう少しあとには、次のように書いてあります。

「いまこの恐慌がどのように進展しようとも──その詳細な観察は資本主義的生産の研究者や本職の理論家にとってはもちろん最高の重要性をもつとはいえ──それは以前の諸恐慌と同じように過ぎ去るでしょう。そして、繁栄やその他のいろいろな局面のすべてを伴う新たな『産業循環』を開始するでしょう。」と。

 マルクスは、このように、資本主義的生産様式の社会での「産業循環」についての理解にたいする自身の揺るがぬ確信を前提として、よりリアルに資本主義的生産様式の姿を暴露するために、新しい理論的発展をもたらす経済現象の新しい発展の「詳細な観察」の重要性に着目しているのであって、成り行きまかせの「研究途上の考察」を行う迷える研究者などではありませんでした。

 不破さんは、暴露の絶好の機会を待つマルクスを理論的に未完成な人物なように描き、マルクスの草稿の完成度が低いのを良いことに、自分の誤った主張をマルクスのなかに潜り込ませようとして、「重要な論点で、考察が途中で終わっているところや、時には研究の方向がどこに向かっているのかもつかめない場合も出てきます」などと言いますが、私たちに残されたマルクス・エンゲルスの著作群は、そんな不破さんの誤った主張を見事に排除してくれます。

エンゲルスは〝第二五章〟を第五篇後半部分全体の導入とみました

  私は、このシリーズの〈その2〉の「マルクスの「産業循環」の捉え方をもう一度見てみよう」(「その2」のPDF13ページ参照。)の「項」で、「この特集でこれまで見てきたこと」として、第一部(このシリーズの〈その1〉)の「不破さんにもっと温かい心があるならば」の「項」で、この問題に関連して、概ね次のような内容のことを書いたことを述べました。

 マルクスはエンゲルスあての1868年の手紙で、『資本論』は、「資本の一般的本性」を究明し、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもり」であるといい、「第2巻は大部分があまりにも高度に理論的なので、ぼくは信用に関する章を、ぺてんと商業道徳との実状の告発に利用するだろう」と述べていること。

 そして、1878年11月には第2巻(第2部と第3部のこと)の刊行が1879年の末には可能だと考えていたマルクスは、1879年に、「『現在のイギリスの産業恐慌がその頂点に達する以前には』第2巻を刊行しない、と言明し」、1880年には、「『ちょうどいましがた、若干の経済現象が新しい発展段階にはいった』ところであり、これらの現象が、新たな仕上げを要求していたのである」と述べていること、「信用制度と経済恐慌との相互連関について」、「すでに、50年代の初頭に一定のイメージを得て」(『受救貧困と自由貿易──迫りくる経済恐慌』『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1852.11.1付等を参照。)いることから、マルクスにとって、1880年に「若干の経済現象が新しい発展段階にはいった」ことは、「草稿」──それは、「理論的内容と内的構造とは主要な点においてすでに与えられて」いるが「もともとはあらゆる研究がもっている……荒削りの形態」である──を仕上げる絶好の好機が到来したと思われたのではないかということ。

 このように、マルクスは、恐慌の進展をつうじて、「信用に関する章」で、資本の「ぺてんと商業道徳との実状の告発」をし、「イギリスのプロレタリアートの労働条件や生活条件に関する諸事実」を「資本主義批判の『例証』とし」て、「恐慌」を革命の「槓杆」の一つとして「活用」しようとしたのではないかということ。

 マルクスがもう少し元気で、もう少し長生きして、とりあえず『資本論』を完成させていてくれたら、不破さんが「恐慌の運動論」なる「珍発見」などする余地などなかっただろうということ。

 これらが、「この特集でこれまで見てきたこと」の中で触れたこの問題に関連した部分ですが、同じくこのシリーズ〈その1〉の「不破さんにもっと温かい心があるならば」の「項」で、私は次のように述べています。

「コンラート・シュミットあての手紙(1890.8.5)でエンゲルスは、マルクスが、『彼の最善の仕事でさえも労働者にとっては依然としてじゅうぶんではないと考えていたこと、マルクスが最善のものより少しでも劣るものを労働者に提供することを犯罪だとみなしていたということ』を述べています。このようなマルクスの立派な姿勢が、不破さんが特殊なニュアンスをもって言う『書き換え』という、第二版での改訂をさせるエネルギーとなったのだと思います。」と。

 以上が、これまで「この問題に関連して私がこれまで述べてきたこと」です。

 このように、「最善のものより少しでも劣るものを労働者に提供することを犯罪だとみなしていた」マルクスは、『資本論』の構想において、すでに「理論的内容と内的構造とは主要な点においてすでに与えられて」いるが、1880年に「若干の経済現象が新しい発展段階にはいった」ことが、「もともとはあらゆる研究がもっている……荒削りの形態」である「草稿」をよりよいものに仕上げる絶好の好機が到来したと思った。だから、すでに1878年11月には第2巻(第2部と第3部)の刊行が1879年の末には可能だと考えていたが、だめ押し的に、「この事態を」「『理論的に』利用」して「信用に関する章を、ぺてんと商業道徳との実状の告発に利用する」場として、当時として完璧な文章を作ろうとマルクスは思った、と考えられます。

 先ほど見た手紙で、マルクスは経済現象の新しい発展による新しい理論的発展の問題を述べているのであって、マルクスの理論に欠けたところがあることを述べているのではありません。だから、不破さんがマルクスを「研究途上の考察」を行う未熟な研究者にしたてあげようとして使った手紙のもう少しあとには、次のように書いてあります。

「いまこの恐慌がどのように進展しようとも──その詳細な観察は資本主義的生産の研究者や本職の理論家にとってはもちろん最高の重要性をもつとはいえ──それは以前の諸恐慌と同じように過ぎ去るでしょう。そして、繁栄やその他のいろいろな局面のすべてを伴う新たな『産業循環』を開始するでしょう。」と。

 マルクスは、このように、資本主義的生産様式の社会での「産業循環」についての理解にたいする自身の揺るがぬ確信を前提として、よりリアルに資本主義的生産様式の姿を暴露するために、新しい理論的発展をもたらす経済現象の新しい発展の「詳細な観察」の重要性に着目しているのであって、成り行きまかせの「研究途上の考察」を行う迷える研究者などではありませんでした。

 不破さんは、暴露の絶好の機会を待つマルクスを理論的に未完成な人物なように描き、マルクスの草稿の完成度が低いのを良いことに、自分の誤った主張をマルクスのなかに潜り込ませようとして、「重要な論点で、考察が途中で終わっているところや、時には研究の方向がどこに向かっているのかもつかめない場合も出てきます」などと言いますが、私たちに残されたマルクス・エンゲルスの著作群は、そんな不破さんの誤った主張を見事に排除してくれます。

エンゲルスは〝第二五章〟を第五篇後半部分全体の導入とみました

 わざわざ「(8)信用制度下の利子生み資本(その一)」という「章」を設けての14ページ(P81-94まで)におよぶ長いエンゲルスとマルクスの悪口が終わって、やっと「(9)信用制度下の利子生み資本(その二)」という「章」の最初の「節」である「第二五章部分を読む」に入ることができました。

 しかし、この「第二五章部分を読む」も前の「章」に負けず劣らずあるのは悪口だけで、楽しみにしていた、「第二五章」の内容の「解説」などまったくありません。とにかく『資本論』にケチをつけたいとしか思えないような不破さんの、『資本論』の内容にもその現代的意義にも触れようとしない、「第二五章部分を読む」という詐欺まがいのタイトルの「解説」を見る前に、まず最初に、『資本論』に何が書かれているのかを見ることにしましょう。

 そしてその後で、現代に生きる私たちがそこから何を学び、不破さんが何を学ばなかったのかも見てみましょう。

第25章の概略

 第二五章は、『資本論』の第一草稿の「5)」の次のような冒頭のパラグラフから始まります。

「信用制度とそれが自分のためにつくりだす、信用貨幣などのような諸用具との分析は、われわれの計画の範囲外にある。ここではただ、資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考慮しないでおく。」(大谷氏訳)

 この文章のエンゲルスの編集が、「古典」研究家の間で重箱の隅を突っつくような議論の的にもなり、そして不破さんもそれに悪乗りしていますので、一言ご説明させていただきます。

 ご覧のとおり草稿は、信用制度とその諸用具との分析は、「ただ、資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけ」に留め、その詳しい分析は「われわれの計画の範囲外にある」ことを述べています。だから、エンゲルスは草稿の「分析」を「詳しい分析」として、より分かりやすくしました。これが一点めです。

 つぎに、エンゲルスは「われわれはただ商業信用だけを取り扱う」というフレーズの「商業信用」という単語について、誤解を避けるために「商業・銀行業者信用」に変えました。その理由は、上記の文章に続くパラグラフ(マルクスの草稿〔317上③〕)では「生産者や商人どうしのあいだの相互前貸」という表現で、本来の「商業信用」についての叙述があり、その次のパラグラフ(マルクスの草稿〔317上④および⑤〕)では「銀行信用」についての叙述があり、草稿の「5)」では商業信用(再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用)だけでなく、「銀行業者の信用」についてより立ち入って論じており、本来の「商業信用」だけを取り扱っているのではないこと、そして、『資本論』の第三〇章から第三一章に該当する部分では、同じ「商業信用」という単語を「再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用」の意味で使っているため、上記の場合の「商業信用」という単語について、誤解を避けるために「商業・銀行業者信用」に変えたのです。なお、この「商業・銀行業者信用」という言葉は「大月版」等では「商業信用と銀行信用」と訳されています。

 なお、大谷氏も、ここでの「商業信用」という単語は、「私的信用一般」を指していて、「再生産に携わっている資本家が互いに与え合う信用」だけを意味するものではないことを認めています。

 このように、これらのエンゲルスの補足編集は極めて適切なものと思われます。

 上記の文章で始まった「第二五章」は、第三五章までの導入のための「章」として、資本の行動を規定する「信用」の機能の説明とともに、第二二章の「(後の仕上げのための覚え書)」で簡単にふれられていたことと、第二四章の「利子生み貨幣資本」の「資本の神秘化」、あるいは、将来の儲けから現在の「資本」の価値をはかる、「資本」の「架空性と投機性」とが、資本の行動と「信用」の機能を通じて、資本主義的生産の循環過程を支配する様子が十分に展開されています。

 簡単に文章のすじを辿ってみましょう。

①「信用制度」は「生産者や商人どうしのあいだの相互前貸」から発展したことを述べ、その実態を草稿中の資料で紹介し、②同時に、貨幣取引業の発展が利子生み資本の管理という「信用制度」のもう一つの面を発展させ、貸し手の集中と借り手の集中を実現したこと、銀行業者が与える信用はいろいろな形で与えられることを述べ、③②を踏まえて、銀行業者の二重の業務について、信用の貨幣機能について、銀行の利潤の得かたについて、銀行によって取引が容易になり資金に余裕が生まれ、信用により使用される貨幣の何倍もの決済ができることについて、エンゲルスは、草稿中の資料を一部省略し一部要約して引用している。④エンゲルスは、このような信用の機能にもとづいて草稿中の資料が示す実例を説明するために二、三のことだけを簡単に述べるとして、1842年の末から1848年の間のイギリスの経済・信用の動きを説明する自らの文章(パラグラフ)を挿入する。⑤続いてエンゲルスは、Ⅰとして、草稿の他の箇所にあった、1847年の恐慌中に国債と株が非常に減価したという内容の資料を挿入し、続けて、③につづく草稿中の文章をⅡ、Ⅲとして編集する。⑥Ⅱでは、信用によって資金の行き詰まりを一時的にさき延ばす実例が、Ⅲでは、1847年4月のイングランド銀行の手形割引業務の縮小が手形の有効期間を短縮させたこと、1847年4月にはほとんどすべての商社の資金が逼迫したこと、投機業者から振り出される非常に多くの手形があること、生産物の価値実現の前に信用(手形)によって貨幣を手に入れたり信用を使った一時的な錬金術などが述べられている。⑦エンゲルスは、草稿の他の箇所の文章を使ってⅣ及びⅤとして、第25章の編集を終えます。Ⅳでは、1847年の恐慌の原因に関して、信用の不相応な膨張が現れたこと、十分な担保がなければ手形は引き受けないが外国からの手形が空手形かどうかは見分けることができず、破局の頂点では〔各自自由に逃げよ〕が展開されることを述べ、最後にⅤで、1857年にも同じことが行われていることをのべています。

 このように、「第二五章 信用と架空資本」は第三五章までの導入の「章」として、「銀行制度」の基での「信用」が〝貸付資本〟という「monied Capital」を生み出すが、それは「現実資本」ではなく「架空資本」であることをMEGAでいう「総論」部分と「補録」の約半分を使って、エンゲルスによって〝編集〟されました。第25章は、エンゲルスの補足によって「恐慌」にまで踏み込んでいますが、信用制度の確立の経過と役割及び信用制度の抱える資本(貨幣)創出機能、そのもとでの資本の行動について、マルクスの草稿の趣旨が十分に生かされた編集となっています。このホームページを読み終えたあと、もう一度ここ(PDF20~26ページ)を見て下さい。「第二五章」の意義が分かると思います。

 そして、これに続く「第二六章」は〈第二六章の概略〉(PDF17ページ参照)で見たとおり、第二五章の続きで、貨幣資本の蓄積に関する「通貨理論論評」等からの抜粋、それを受けての、大谷氏の言う「捜論」部分での、『銀行委員会』での問答の引用を通じての、ノーマンやオーヴァストーン(主としてオーヴァストーン)の言い分を批判していますが、「貨幣資本」とはどのような「資本」かということの理解を一層深めさせてくれるものとなっており、面倒かもしてませんが、是非、読んで下さい。

不破さんの「第二五章部分を読む」で読者が学んだこと

 それでは、『資本論』の以上の前提にたって、不破さんの「第二五章部分を読む」で読者が何を学ばされたか、一緒に見てみましょう。

 不破さんは、大谷氏の受け売りかどうか分かりませんが、マルクスは第五篇の後半部分全体に「5)信用。架空資本。」という表題をつけたのに、第二五章を「信用と架空資本」というのはおかしいと言い、「エンゲルスの誤った編集ぶりを示すもの」(P95)だと非難します。

 そのくせ自分では、「5)信用。架空資本。」の意味をしっかり説明しようという態度などまったくなく、普段ならありもしないことを「推測」して「断言」するのを上得意とする不破さんが、マルクスの草稿の「未完成さ」を強調し、当てこするかのように、「マルクスがこの草稿の全体に、『信用。架空資本』という表題をつけた意図を推定するのはなかなか難しいことですが」などと言い、「『信用』という言葉でこの部分で研究する経済的舞台を表現し、『架空資本』という言葉でそこで活動する主役──銀行に集積され、そこを通じて再生産過程に投入される貨幣資本(m)── を表現したものと理解することも、一案ではないでしょうか。」(P95)といいます。(実はこの理解が、不破さんの理解力の無さをよく示しており、間違っているのですが、そのことはもっと後でふれます。)

 そして、私は少し前で、「第二五章」について、草稿のエンゲルスによる要約や前後の入れ替え、草稿の他の箇所で見いだされた材料の挿入、そしてエンゲルスの補筆を含め20近くの文章を編集して出来上がった、努力の結晶であることを述べましたが、不破さんは、不破さん自身は「マルクスがこの草稿の全体に、『信用。架空資本』という表題をつけた意図を推定するのはなかなか難しい」と第五篇全体が何を言っているか分からないくせに、エンゲルスの編集の結果、「『注』としての役割」を果たさない「意義不明の文章」が挿入されたり、「この章の本来の主題とはかけ離れた内容のもの」が含まれているなどと言ってエンゲルスを非難します。そして、不破さんは、「ですから、この章でのマルクスの考察の本旨を理解するためには、さきほど紹介した(それは、文章の内容の紹介ではなく、『資本論』に書かれている場所の紹介です──青山)四ページ半ほどの文章を読むことが重要なのです。」と言って、エンゲルスの努力を水泡に帰させようとします。

 続けて不破さんは、一部大谷氏の受け売りのようですが、「まず、最初の文章ですが、重要なことは」として、第二五章の草稿の最初のパラグラフでマルクスは「信用制度そのものの分析を研究対象としないことを言明している」のに、エンゲルスが「『立ち入った』という一句をくわえ、第五篇での分析の主題についてのマルクスの限定づけを、あいまいにし」たことは、「全体の論旨を読み誤らせる改作だ」と述べ、「信用制度についての解明は、利子生み資本──銀行に集積され再生産過程に投入される貨幣資本(m)の活動舞台として、必要な範囲内での概説にとどめられています。」と言います。エンゲルスは、論及はされているが「必要な範囲内での概説にとどめられている」から、「立ち入った」論究はしないと補足しているのに、不破さんは、ヤクザが因縁を付けるに等しいような非難をエンゲルスに浴びせます。

 そして不破さんは、「まず、」と言って第一の矢を放ちましたが、二の矢三の矢は見つからなかったらしく、不破さんの「第二五章部分を読む」は、〝打ち方止め!!〟となり、「全体の論旨」がどのように「読み誤ら」されたのかの説明責任も果たされず、「その性格付けを明確にして読むと、第二五章の四ページ半ほどの本文には、銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説が含まれていることがわかるとおもいます。」とまったく内容に触れない「解説」(?)が行なわれているだけで、真剣に科学的社会主義の経済学を学ぼうとしている人たちの向けての解説とは思えない「解説」をして「第二五章」を終えています。

 不破さんに、「全体の論旨を読み誤らせる改作」とは〝何なのか〟の説明ができないのであるならば、不破さんは、せめて、第二五章の「全体の論旨」の説明くらい行なうべきでしょう。しかし不破さんは、①ここでの研究対象すら明確にせず「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」が「含まれている」としか言わず、②第二五章でのマルクス経済学としての内容・到達点など明らかにぜず、「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」とはマルクスのどのような論究だったのかもサッパリ分かりません。

不破さんとエンゲルスの違い

 不破さんは、「マルクスがこの草稿の全体に、『信用。架空資本』という表題をつけた意図を推定するのはなかなか難しいことです」と、自分では「信用。架空資本」という表題をマルクスがつけた理由も分からないくせに、エンゲルスが第二五章を「信用と架空資本」の導入の章にするのは「エンゲルスの誤った編集ぶりを示すもの」(P95)だと言って、「第二五章部分を読む」の冒頭でエンゲルスを非難します。

 そして、不破さんは、資本主義的生産様式の社会における「架空資本」の役割についての考察など我れ関せずという態度でエンゲルスの編集を否定しておいて、「『架空資本』という言葉でそこで活動する主役──銀行に集積され、そこを通じて再生産過程に投入される貨幣資本(m)── を表現したものと理解することも、一案ではないでしょうか」と、「架空資本」は「再生産過程に投入される」ものという一面的で誤った認識を読者にもたせることによって、自らの無知を告白し、最後に、「第二五章」が「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」であるとの「解説」によって「第二五章部分を読む」は結ばれる。

 不破さんの「第二五章」への、このような接し方、学び方は、不破さんの現代の資本主義を見る目の狭隘さ──それは、不破さんが二一世紀になって発見した「恐慌の運動論」と一体の狭隘さの原因でもあり結果でもありますが、その説明はこの「節」の最後におこないたいと思います。

 それでは、まず、もう一度、このページの「不破さんの『第二五章部分を読む』で読者が学んだこと」で不破さんが述べている「第二五章」の姿と、私が「第二五章の概略」で述べた『資本論』の第二五章に書かれている内容を、よく見比べてください。

 そして、不破さんが指摘した、エンゲルスの誤りなるものを見てみましょう。

 まず不破さんは、エンゲルスの編集は①「この章の本来の主題とはかけ離れた内容のもの」が含まれており、「この章でのマルクスの考察の本旨を理解するためには、」「四ページ半ほどの文章を読むことが重要」で、第二五章は「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」だと言います

 しかし、「第二五章」は、エンゲルスの補足によって「恐慌」にまで踏み込んでいますが、第五篇のこれ以降の「章」の導入として、資本主義的生産様式のもとでの信用制度の確立の経過と「信用」の機能と役割について、「利子生み貨幣資本」の「架空性と投機性」とが資本の行動と「信用」の機能を通じて資本主義的生産の循環過程を支配し翻弄する様子について、必要な展開がなされており、マルクスの草稿の趣旨が十分に生かされた編集となっています。 不破さんとエンゲルスと、どちらが『資本論』(経済学批判)として的を射ているかの判断は、読者の皆さんにお任せいたします。

 つぎに不破さんは、②「注」を本文の一部にしたために、「『注』としての役割」を果たさない「意義不明の文章」が挿入されたと言ってエンゲルスを批判しています。

 確かに、「注」を本文の一部にしたのですから、「『注』としての役割」を果たさなくなったのは確かです。しかし、「意義不明の文章」が挿入されたと言うのはあたりません。エンゲルスは、「第二五章」を第五篇の以降の「章」の導入の「章」として『資本論』の中に位置づけ、その骨格的な総論を充実させ豊かにする役割と意義をもつものとして、「注」を活用したのです。論より証拠、是非、読んで下さい。

 最後に不破さんは、③「最初の文章ですが、重要なことは」として、第二五章の草稿の最初のパラグラフで「分析」の前にエンゲルスが「『立ち入った』という一句をくわえ、第五篇での分析の主題についてのマルクスの限定づけを、あいまいにし」たことは、「全体の論旨を読み誤らせる改作だ」とヤクザまがいの「因縁」を付けています。

 これがいかに不当な攻撃であるかは、「第二五章の概略」で見ていただいたとおりですが、私は、同じセンテンスの中で、エンゲルスが「われわれはただ商業信用だけを取り扱う」というフレーズの「商業信用」という単語について、誤解を避けるために「商業・銀行業者信用」に変えた理由についても説明いたしました。

 このエンゲルスの「挿入」と「書き変え」という二つの編集が示している「最初の文章で」「重要なことは」、「第二五章」が第五篇の以降の「章」の導入の「章」として書かれているということです。これらを踏まえ、私は、「立ち入った」にケチをつけ、マルクスの草稿と少しでも異なるとすぐ文句を言う不破さんが、「商業信用」という単語を変えてしまったエンゲルスにどのような反応を示すか、興味津々でした。だから私は、「『第五篇の編集上の困難』はエンゲルスの自業自得だという、不破さん」の「項」の結びのセンテンスで、「不破さんは、エンゲルスがつけた『資本主義的生産の総過程』という第三部の表題について、マルクスは『総過程の諸姿容』といっていたから主題は『総資本の諸姿容』だと、第三部の意義も分からずに、自ら大『発見』した『恐慌の運動論』に目が眩み、肝心かなめの『資本主義的生産の総過程』抜きの『総資本』の『諸姿容』を主張するくらいの第三部の理解力の持ち主ですから、マルクスが今度は草稿の『5)信用。架空資本。』(『資本論』第3部第二五章)の冒頭で『商業信用』といっている言葉の意味をどう捉え、大谷氏のいう『雑録』をふくむ第二五章の展開を『今日の時点からふりかえって』、どのように『欠陥をあげつらう』のか、不破さんの言うことを信じて先入見をもって『資本論』を学ぼうとする人にとっては不幸なことですが、不破さんの知識の程度を知るうえでは、楽しみでなりません。」(PDF13ページ参照)と申し上げました。しかし、残念ながら「商業信用」については、なんの反応もありませんでした。エンゲルスを誹謗する材料にならない、自分の立場を不利にすることは、見ても目に入らないようです。

不破さんとエンゲルスの違いが現代を解明する違いとなる

  このように、「全体の論旨を読み誤らせる改作」などと言って、「第二五章」を「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」としか理解できない不破さんは、第二五章と第二六章をまともに読もうとしません。そのために、「架空資本」のもつ「架空」性を正しく理解することができません。エンゲルスも序文で述べているように、『資本論』第五篇は、「草案」も「筋書きさえもなく」、「ただ仕上げの書きかけがあるだけ」の草稿でした。そこでエンゲルスが最終的に決断した編集方法は、「覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっている」ものを含む「書きかけ」の草稿の「現にあるものをできるだけ整理することに限った編集」をおこなうということでした。だから私たちは、そのことを踏まえて、マルクスという偉大な先人の思考のあとを辿ってマルクスの経済学を前進させなければなりません。そのために、第二五章と第二六章はしっかりと読まれる価値のある「章」です。不破さんも、不遜な気持ちを捨て、そのような態度で『資本論』を読んでいたなら、「恐慌の運動論」なる視野の狭い考えに取りつかれずに済んだかも知れません。そして、この不破さんの「第二五章」への接し方、学び方が、不破さんの現代の資本主義を見る目の狭隘さ──それは、不破さんが二一世紀になって発見した「恐慌の運動論」と一体の狭隘さの原因でもあり結果でもありますが、──につながっています。

 不破さんは、『資本論』から真摯に学ぼうとせず、「架空資本」=「銀行に集積され、そこを通じて再生産過程に投入される貨幣資本(m)」(P95)あるいは「利子生み資本」=「銀行に集積され再生産過程に投入される貨幣資本(m)」(P98)という誤った認識を得てしまったために、「架空資本(「利子生み資本」)」の本当の姿、モンスター性を見ることができなくなってしまいました。

 ここで、マルクス経済学の観点で「貨幣資本」関して、一寸、見てみましょう。

 「貨幣」はその使用法により、①生産的資本の循環過程の中にある「貨幣」としての「貨幣資本」と②「利子生み資本」として市場で需要と供給にもとづいて取引される「貸付可能な貨幣資本」(moneyed capial)という二つの異なる機能をもつ「資本」になることができます。株式や債券と交換された最初の「貨幣」は、一般的に、生産的資本の循環過程の中に入り「現実資本」(=実物資本=生産的資本)を形成します。不破さんは、このことだけを言っています。「利子生み資本」がモンスターとして、「架空資本」として魔力を発揮するのはここからです。この、市場に出た、所有権原を表す「株式」や「債券」は「利子生み証券」であり「架空資本」です。なぜ「利子生み証券」を「架空資本」と言うのかといえば、その「利子生み証券」の資本価値は、生産的資本の循環過程の中にある「貨幣資本」と違って、その請求権の市場価格で決まる幻想的な資本価値だからです。

 この「架空資本」の架空性が遺憾なく発揮されたのがリーマン・ショックでした。リーマン・ショックのそもそもの原因はサブプライムローンにあります。まずはじめに、サブプライムローンを使って住宅を購入した人の住宅の資産価値が上がったために、ローンを組んだ人が儲かるとともにそのローンを組み込んで作られた債券を買った人も「架空資本」のプラスの架空性の恩恵を受けて大儲けし、資産価値上昇の好循環が生まれました。そのために、内閣官房内閣審議官などを歴任した水野和夫氏などは、当時、『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(2007年)で先進国は資産価格を上げる政策を進めなければならないと主張するほどでした。しかし、それが永遠に続くわけではなく住宅の資産バブルがはじけ、その結果サブプライムローンを組み込んで作られた債券が「架空資本」の負の架空性を発揮して暴落し、リーマン・ブラザーズの経営破綻をきっかけに、資本主義の100年に一度の危機といわれるような「危機」に発展してしまいました。「利子生み証券」の「架空資本」としての「架空」性が遺憾なく発揮された出来事でした。なお、水野氏の名誉のために申し上げると、2007年に上記のような考えを持っていた氏は、『資本主義の終焉と歴史の危機』(2014年)では、まだ「資本主義の先にあるシステムを明確に描く力は今の私にはありません」とのことですが、資本主義の限界を悟り「資本主義の終焉」に行き着くところまで進歩しています。

 しかし、不破さんは、この「架空資本」が資本主義的生産様式における「産業循環」で果たす役割をまったく理解できません。だから、不破さんは、『前衛』(2015年1月号)で、リーマン・ショックについて、「架空の需要」が恐慌を生み出したこと、金融資産の規模が167兆ドルにのぼることを述べたあと、「この経済危機は、文字通り、『過剰生産恐慌と金融危機の結合』だったのです」と、二一世紀になって大発見した「恐慌の運動論」、つまり「架空の需要=恐慌」説で「説明(?)」しています。しかし、ご覧のとおり、リーマン・ショックが明るみに出したのは、かつての様な「架空の需要」にもとづく「過剰生産」などではありませんでした。

 このように不破さんは、二一世紀になって自ら発見した「架空の需要=恐慌」説にしがみつき、「架空資本」についてマルクスとエンゲルスが教えてくれた知見を学ぼうともしないために、現代を解明することができなくなってしまいました。

 なお、「架空資本」の架空性と同様なものとして、新会社を次々に作ってその将来価値を「時価会計」に計上して帳簿上の利益をあげるという、エンロンがおこなったような行為もあります。

※なお、不破さんの「恐慌の運動論」と「リーマン・ショック」についての詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、参照して下さい。

 不破さんはエンゲルスがつけたタイトルによくクレームを付けますが、この「第二五章部分を読む」いうタイトルの「節」は、エンゲルスに対する悪口はあるが、肝心の「第二五章」の解説のない虚偽のタイトルの「節」であるだけでなく、マルクスの観点で「産業循環」を見ようとする読者の目を、その入り口で、覆ってしまう悪質極まりない「解説」といえるでしょう。

中国 九寨溝 写真は天地が逆になっています。

おまけ:第二六章でのエンゲルスの挿入文に関する青山のコメント

  『資本論』(大月版P544~547)に挿入されたエンゲルスのコメントのなかで、貨幣の前貸・資本の前貸等について述べられている部分で同意できない点がありますので、申し上げさせていただきます。

 エンゲルスは、①担保なしの貸付は貨幣の前貸であり資本の前貸であるといい②担保ありの貸付は貨幣の前貸ではあるが資本の前貸ではないといい③手形の割引は前貸ではなく売買だといいます。ここでいう「資本の前貸」が、生産的資本・現実資本の増加のための資本の前貸という意味であるとすれば、エンゲルスの①と②の区分は正しくありません。なぜなら、担保の有る無しは「資本の前貸」かどうかには関係ありません。「担保」された〝モノ〟は、ただ「担保」とされているだけで、資本としてその人のもとで生きています。「資本の前貸」であるかの基準は、「貨幣の前貸」が一時的な支払手段としてではなく、商品の購入として、それも消費財の購入ではなく資本財の購入の手段であるかどうかにあります。

 なお、エンゲルスは、第28章(P582-583)でも同様な主張を行っていまが、ここでは「有価証券」を担保に入れ、その有価証券は「準備資本として機能するべき任務をもっていた」との前提があるので、この場合は「貨幣の前貸」ではあるが「資本の前貸」ではありません。

「第二五章」のまとめ

 不破さんが「第二五章」の解説でおこなったことは、草稿に含まれている「覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっている」「書きかけ」の文章を全て捨て去り、「第二五章」についての「マルクスの真意」(P81、P91)「本来の主題」「マルクスの考察の本旨」(P97)は「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」を行なうことだったと言うことと、「第二五章」以降の「章」で「信用制度そのものの分析」について、エンゲルスが「立ち入った」論究はしないと補足したことについて、不破さん自身も、「立ち入った」論究はしていないが、「必要な範囲内での概説」を行なっていると認めているのに、「全体の論旨を読み誤らせる改作だ」(P97)とヤクザが因縁を付けるに等しい非難をエンゲルスに浴びせかけることでした。

 困ったものです。

第二七章でのエンゲルスに対する支離滅裂な批判

 本当に不破さんには困ったものです。

 不破さんは、エンゲルスに対する支離滅裂な批判を行ない、「第二七章」についての「解説者」としての責任を果たしていません。まずはじめに、「第二七章」で何が述べられ「第二七章」から私たちは何を学ばなければならないのかを見て、そのあとで、不破さんの第二七章でのエンゲルスに対する支離滅裂な批判の中身を見てみましょう。

「第二七章」で何が述べられているのか

 これまで見てきたように、第二一章から第二四章が「利子生み貨幣資本」について、そして、第二五章から第二七章までが産業資本の発展にともなう「信用制度の発展」について書かれており、「第二五章」はエンゲルスの補足によって「恐慌」にまで踏み込んでいることを述べましたが、第二七章も、生産的資本を発展させるうえでの「資本主義的生産における信用の役割」について、「信用制度の発展」による他人の資本や他人の所有に対する絶対的な支配力の獲得による「資本所有の潜在的な廃止」についてまで論及しています。是非、『資本論』を読んで確かめて下さい。

 先に私は、「第二六章のエンゲルスの編集」(PDF17ページ参照)の「項」で、「第二七章の〝むすび〟の部分でマルクスとエンゲルスは『資本論』第五篇の編集について、『これまでわれわれは、信用制度の発展──そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な廃止──をおもに産業資本に関連させて考察してきた。以下の諸章では、信用を利子生み資本そのものとの関連のなかで考察する』と述べています」と『資本論』を引用しましたが、マルクスとエンゲルスは「第二七章の〝むすび〟の部分で」第二五章から第二七章までのテーマが何で、第二八章以降のテーマが何であるかを明確に述べています。にもかかわらず、不破さんは、「信用。架空資本」の導入の「章」である「第二五章」にエンゲルスが「信用。架空資本」という表題をつけたことを「性格付け」が「明確」でなくなったと非難します。不破さんは、「第二五章」以降が「信用。架空資本」について論究していること、ある意味で第二五章から第二八章までを「信用。架空資本」というテーマの導入部分であるということ、これらを踏まえての、部分的なパーツでしかないないようなものを含め、「現にあるものをできるだけ整理することに限り、ただどうしても必要な補足だけを加えるということしかしなかった」というエンゲルスのベストを尽くした編集にたいし、建設的な「対案」など何一つ示すことなくエンゲルスを非難してきました。不破さんに、多少でもエンゲルスに対する敬意というものがあるのなら、このようなエンゲルスの努力に寄り添うような解説もできるはずです。しかし、不破さんは、今度はこの〝むすび〟の部分のエンゲルスの編集に噛みついて、馬脚を現します。

 そして、マルクス・エンゲルスは、第二七章の最後で、「なお前もって次のことを言っておきたい」として、①「信用制度が過剰生産や商業での過度な投機の主要な槓杆として現われるとすれば、それは、ただ、その性質上弾力的な再生産過程がここでは極限まで強行されるからである」こと、②「資本主義的生産の対立的な性格にもとづいて行なわれる資本の価値増殖は、現実の自由な発展をある点までしか許さず、したがって実際には生産の内在的な束縛と制限とをなしている」が「この制限は絶えず信用制度によって破られる」ということ、③このように、「信用制度は生産力の物質的発展と世界市場の形成とを促進する」が、「これらのものを新たな生産形態の物質的基礎としてある程度の高さに達するまでつくり上げるということは、資本主義的生産様式の歴史的任務」だということ、④「同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進する」という「信用制度」の役割・意義を述べます。そして、この「信用制度に内在する」?資本主義社会を(架空資本によって──青山)「最も純粋で最も巨大な賭博・詐欺制度にまで発展させて、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格」と、?「新たな生産様式への過渡形態をなすいう性格」との「二面的な性格」が、「信用の主要な告知者に山師と予言者との愉快な雑種性格を与える」ことを述べて、「第二七章」は結ばれています。(大月版④P562-563参照。)

中断して、おまけ

 なお、ついでですが、不破さんは、エンゲルスのいう「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的性格の矛盾」など無い、そんな規定は誤りだと常々言っていますが、「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということに関して、マルクスが「工場立法」に関する文章の中で見事に反論していますので、見ておきましょう。

 マルクスは、要旨次のように言っています。

 工場立法の一般化によって、生産の社会化の進展と資本の集積と工業全体の資本主義化を一般化し、労資の直接の闘争をも一般化する。個々の作業場では均等性、合則性、秩序、節約を強要するが、それは同時に、全体としての資本主義的生産の無政府性と破局、労働の強度、機械と労働者との競争を増大させる。小経営や家内労働の諸部面を破壊することによって、社会機構全体の従来の安全弁をも破壊する。資本の集積と工業全体の資本主義化の結果、社会的生産諸力と社会的結合が高まるとともに、全体としての資本主義的生産の無政府性もあきらかになり階級闘争も激化する。それは、社会的生産諸力と社会的生産を「新たな社会の形成要素」として発展させ、私的資本主義的生産による「生産の無政府性」とその矛盾の現れである恐慌など私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾と労働者階級の運動の前進が「古い社会の変革契機」つまり資本主義社会を社会主義社会に変えるエネルギーとして高まってゆく、と。

  社会的生産諸力と社会的生産を発展させるためには私的資本主義的生産という「桎梏」を取り除かなければならない。このマルクスの考えとエンゲルスの考えとは完全に一致しています。生産過程の私的資本主義的性格があるから、「全体としての資本主義的生産の無政府性」があり、それが社会的生産諸力の発展の「桎梏」になっているのです。人間の生活を全面的に支える社会的生産を実現するためには取得の私的資本主義的形態を社会主義的形態に変えなければなりません。マルクスは「工場立法の一般化」の意義として、工場立法の一般化によって、その条件──「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」──が日々整っていることを述べています。※『資本論』大月版①参照。なお、この文章に関する詳しい説明は、ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

おまけのおまけ

 『資本論』には、資本主義的生産様式の経済と社会を特徴づける〝キー〟となる次のような言葉、文章が繰り返し出てきます。是非、頭に入れておいて下さい。

経済──「資本の制限を越える拡大要求」と「資本が拡大の制限を設ける」

 資本の制限を越える拡大要求

 絶えず拡大する市場がなければ資本主義は行きづまる

 資本が拡大の制限を設ける

 資本が経済発展の桎梏になる

社会──「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」

 新たな社会の形成要素

 社会的生産諸力と社会的生産の発展、独占

 古い社会の変革契機

 私的資本主義的生産による「生産の無政府性」とその矛盾の現れである恐慌など私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾と労働者階級の運動の前進

矛盾── 私的資本主義的生産による矛盾

 生産と消費

 資本主義的生産に内在する矛盾で、マルクスは「基本的矛盾」と言った

 生産の社会的性格と取得の私的性格

 分配関係・生産関係と社会的生産力とのあいだの矛盾で、エンゲルスは「根本矛盾」と言った

「第二七章」から、私たちが学ぶべきこと

 ご覧のとおり、第二七章では、信用が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということが述べられています。

 マルクスも述べているように、『資本論』は資本主義的生産様式の社会から人間を解放するための、交響曲のような構成をもった芸術作品として仕上げることをめざした著作です。だから、その時々のテーマのなかにメインテーマやサブテーマを含め、資本主義的生産様式全体を理解しそこからの解放のための知識と能力を高めるための材料がふんだんに散りばめられています。

 不破さんの援軍であるはずの大谷氏も、「第二五章本文部分と第二七章とを『信用制度概説』としてつかんでみる」ことによって、「第二五章本文部分は、信用制度とはどのようなものかを述べ、第二七章はその信用制度がどのような役割を果たすのかを述べている」ことが分かると言っていますが、「第二七章」のテーマは「資本主義的生産における信用の役割」ですが、マルクスはしっかりと信用制度が「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ことを述べ、「第三六章」の結びの文章で述べている、「資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろう」という認識と共通の問題意識を持って論を進めています。

 ですから、ここで、『資本論』の解説者なるものを名乗るのであれば、「古い生産様式の解体の諸要素」とは何なのかを、文脈のなかでしっかりと読者に示さなければなりません。「古い生産様式の解体の諸要素」とは、『資本論』の第一部で述べられている「私的資本主義的生産による『生産の無政府性』とその矛盾の現れである恐慌など私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾と労働者階級の運動の前進」のことであること、そしてそれを現代日本に移し替えて考えると、「私的資本主義的生産による『生産の無政府性』とその矛盾の」最大の「現れ」とは、一方の極での対外直接投資・証券投資の拡大──直接投資の残高は185兆円(2018年9月末)で直接投資の収益は10兆308億円(2018年)、証券投資の残高は473兆円(同年9月末)で証券投資の収益は9兆8529億円──であり、他方の極での「産業の空洞化」とそれがもたらす低賃金・不安定雇用・低生産性・少子化・社会保障制度の崩壊であり、それにもかかわらず「労働者階級の運動の前進」が実現していない最大の弊害は、「前衛党」を名乗る政党がマルクスの言う「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の水準に転落してしまっていることであること、このことを不破さんはしっかりと読者に説明しなければなりません。

 これらは、私たちが「第二七章 資本主義的生産における信用の役割」の学習を通じ、現代をしっかりと考えて、学ぶべき大切なことですが、不破さんは、「信用制度は、そのことによって(信用制度が生産の内在的な束縛と制限とを絶えず破り、生産力の物質的発展と世界市場の形成とを促進し、新たな生産形態の物質的基礎としてある程度の高さに達するまでつくり上げるということ──青山補足)、同時に、恐慌という矛盾の強力的爆発を準備し、資本主義的生産様式の解体を促進します」と宗教者の説教のように一般的抽象的な言葉を並べるだけで、この文章でマルクス・エンゲルスが私たちに訴えかけている、先ほど述べたような、最も大切なこと(科学的社会主義の真骨頂)を語ることは、一切、しません。

 なお、不破さんがここで一般的抽象的なことしか言えない理由の一つに不破さんが二一世紀になって発見した「恐慌の運動論」の存亡問題がありますが、その説明は、次の「第三〇章~第三二章部分」の不破さんの「解説」の解説の中でおこないたいと思います。ご了承願います。

第二七章でのエンゲルスに対する支離滅裂な批判

 不破さんは、第二七章の「解説」の「信用問題のこれまでの考察の総括」という「節」の冒頭で、次のようにエンゲルスに噛みつきます。

「第二七章部分にエンゲルスがつけた『資本主義的生産における信用の役割』という表題は、これから踏み入ろうとする第五篇全体の研究の主題そのもの」なのに、「その本格的な研究に先だつ序章的な位置にある」第二七章を「資本主義的生産における信用の役割」というのは「あまり適切なものではありません。」(P98)と。

 しかし、このエンゲルスに対する不破さんの「噛みつき」は、先ほど見たように、第五篇全体のなかで占める第二五章から第二七章までの役割とその内容をまったく理解していないことを示しています。私は、「エンゲルスが編集した『資本論』の第二五章から第二九章までの流れ」(PDF14ページ参照)で、マルクスが、「第二七章の〝むすび〟で、これまで『信用制度の発展』を『おもに産業資本に関連させて考察』してきたことを述べ、以下の諸章で『信用』を『利子生み資本そのものとの関連のなかで考察』すること述べ」、「みなさんは、是非、頭に入れておいて下さい」と注意を喚起いたしました。「第二七章」は、産業資本の発展にあわせての「信用制度の発展」という文脈での「資本主義的生産における信用の役割」を述べており、だからこそ、先ほど見たように、不破さんが援軍と頼る大谷氏も、「第二七章はその信用制度がどのような役割を果たすのかを述べている」と言っているのです。

 そして、何にでも噛みつく「噛みつきガメ」のように噛みつく不破さんは、今度はこの〝むすび〟の部分のエンゲルスの編集に噛みついて、馬脚を現します。

 不破さんは、これまで見てきたように、「第二七章部分にエンゲルスがつけた『資本主義的生産における信用の役割』という表題は、これから踏み入ろうとする第五篇全体の研究の主題そのもの」と言っていましたが、今度は、「項」が変わった五ページ先では、「マルクスが研究の主題を『利子生み資本そのものの考察』と規定した」のに、エンゲルスの編集によって、「引き続き信用が研究の主題であるかのようにその規定をゆがめた言い換え」をされてしまったと言います。不破さんは、まず最初にエンゲルスを誹謗するために、「第五篇全体の研究の主題」は「信用」だと言っていたのが、今度はまたエンゲルスを誹謗するために、「引き続き信用が研究の主題であるかのように」言い換えたと言うのです。こんなご都合主義には、いつも鼎談に付き合う「介さん」「角さん」と思われる二人の人物以外は、誰もついて行くことはできないでしょう。

 この文章で、マルクスは、「利子生み資本そのもの──信用制度による利子生み資本への影響、ならびに利子生み資本がとる形態──の考察」、つまり、資本主義的信用制度のもとにおける「利子生み資本」の考察、つまり、資本主義的生産様式のもとでの〝架空資本〟の考察を行なうと言っているのであって、不破さんのように没歴史的な「利子生み資本そのものの考察」なるものを行なうなどと言っているのではありません。マルクスは、資本主義的信用制度と一体不可分なものとしての「利子生み資本」の考察をすると言っているのです。だから、不破のように、資本主義的信用制度を抜きにした「利子生み資本そのものの考察」なるものがマルクスの「研究の主題」ででもあるかのようにようにいうことは、それこそ、「マルクスの考察の本旨」を見誤り、第二五章から第三五章までを「信用。架空資本」としたマルクス・エンゲルスの意図に反するものと言えるでしょう。不破さんはエンゲルスの文章の言葉尻を捉えてエンゲルスにツバをかけようと天にツバして、『資本論』に書かれていることについての自らの理解力のなさを暴露してしまったのです。

もう一つのおまけ

 なおここに不破さんのエセ「マルクス主義者」としての面目を躍如させる名文がありますので紹介します。

「信用制度が協同組合工場の発展を助けるというマルクスの予見は実現しませんでしたが、株式企業の通過点的意義についての予見がどういう意味をもつかは、今後の世界的な変革の展望のなかで試される問題点の一つとなるでしょう。」(P101)

 自分は科学的社会主義の思想を理解し、その実現のために心血を注いでいると信じている人で、この迷文を読んで、不破さんをエセ「マルクス主義者」だと思わないとしたら、残念ながら、もう一度エンゲルスの『フォイエルバッハ論』からでも科学的社会主義の思想を学び直した方がよいかもしれません。

 その説明をするまえに、不破さんのエセ「マルクス主義者」ぶりをあらわすもう一つの名文を紹介します。

 不破さんは、『前衛』2015年4-5月号を占拠して執筆した「社会変革の主体的条件を探究する」という迷論文の中で、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と〝古い社会の変革契機〟をまったくつかむことのできないエセ「マルクス主義者」であることを自慢しています。グローバル資本の行動がもたらす矛盾・社会変革の客観的条件をまったく探究することができず「賃金が上がれば経済はよくなる」などといっている人が「社会変革の主体的条件」を「探究」するのですから、世の中のことはよく分からないと告白するのは正直でよいことです。しかし、そういう人には科学的社会主義を語る資格はありません。このように、不破さんは根っからのエセ「マルクス主義者」のようです。

 さて、本題に戻ると、「株式企業の通過点的意義についての予見がどういう意味をもつかは、今後の世界的な変革の展望のなかで試される問題点の一つとなるでしょう」とは、恐れ入ります。不破さんの、エンゲルスを誹謗しつつ行なわれた、もっともらしい『資本論』からの抜粋と「解説」は、煎じ詰めると、①マルクスが明らかにした「株式企業の通過点的意義」についての「意味」などまったく分からず、②「株式企業の通過点的意義」とは「どういう意味をもつ」「予見」なのか「今後」「試される問題点の一つとなる」と言うのです。「賃金が上がれば経済はよくなる」といい、「自由の国」とは〝余暇〟のことだと言う「未来社会」論を得意になって吹聴している不破さんが、「今後の世界的な変革の展望」などまったくもっていないことは明らかですが、自分の無知をこれだけ立派な文章に仕上げることのできる希有の才能の持ち主であることには驚くばかりです。

 「無知」といえば、不破さんは「信用制度が協同組合工場の発展を助けるというマルクスの予見は実現しませんでした」と言い切っていますが、国家独占資本主義国の中国の『華為技術』や日本の各種「生協」などをどのように見ているのか、あるいは、何も見ていないのかは、この『『資本論』探究〈下〉』の「マルクスと日本」に示された不破さんの見聞の広さからでも推し測る以外に、知る由もありません。

※なお、不破さんの『前衛』2015年5月号での発言の詳しい説明は、ホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」を、「自由の国」とは〝余暇〟のことだと言う不破さんの発言についての詳しい説明は、ホームページ4-26-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。

中国 九寨溝

不破さんのマルクス経済学への理解度を示す第二八章と第二九章の「解説」

 それでは、次に、「(10)信用制度下の利子生み資本(その三)」という「章」の不破さんの「解説」を見てみましょう。

 その際、私たちは、不破さんが21世紀になって発見した「恐慌の運動論」なるものが、マルクスの資本主義的生産様式のもとでの「産業循環」の捉え方のなかで、どのような位置にあり、マルクスの「産業循環」論とは何なのか、私たちは何を理解しどのようなエネルギーを貯えることになるのか、そのことを意識しながら、一緒にページをめくっていきたいと思います。

 まずはじめに、不破さんは、最初の「二つの『経済学的論評』」という「節」で、第二八章の「テーマは、トゥックとフラートンのあいだの論争問題」で、第二九章の「テーマは、銀行資本の主要成分が資金的な実態をもたない架空の資本であることの解明で、本論への予備的な性格をもった部分なので、」「説明は割愛」すると言います。

 不破さんは、『資本論』の第五篇の後半部分を理解するうえで、その助けとなるMEGAでいう「補録」部分を無視したために、【*架空資本】の説明(P95)において「架空資本」が「再生産過程に投入される」などと、とんでもない「解説」(PDF27ページ参照)を行なっていますが、ここでも、第二八章の「テーマは、トゥックとフラートンのあいだの論争問題」であり、第二九章の「テーマ」も先の【*架空資本】のデタラメな説明で分かるから「説明は割愛」すると言うのです。

 不破さんは、エンゲルスを自分より低く見せようと虚勢を張るあまり、第五篇の後半部分を理解するうえで必要な「経済学的な論評」さえも、MEGAでいう「補録」部分と同様に無視してしまったようです。「説明は割愛」せずに、ちゃんと説明しようと考えて、第二五章から第二九章までを真摯な態度で読んでいれば、資本主義的生産様式のなかでの「産業循環」における「架空資本」の役割も多少は理解でき、二一世紀になって、周回遅れのラストランナーのように「恐慌の運動論」なるものなど「発見」しないで済んだかもしれません。

 なお、「第二八章」のテーマは「トゥックとフラートンのあいだの論争問題」などではありません。貨幣の機能についてのトゥックやウイルソンやフラートンの混乱した考えを紹介し、貨幣の機能について論及したもので、「第五篇」を読み進むうえで、理解をたすけてくれる、必要な「章」です。なお、若干の混乱も見られますので、別添のPDFファイル「『資本論』第三部28章とマルクスとエンゲルスと大谷氏」も、是非、参照して下さい。

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第三部28章と大谷氏.pdf
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第28章の要旨

 貨幣は流通手段、価値表現、資本の循環形態の一局面である貨幣資本、利子生み資本としての貨幣資本という機能をもっているが、トゥックやウイルソンは通貨と資本との区別と流通手段がそのときどきにもつ機能の区別を混乱させて、通貨の機能を?資本の流通という機能と?通貨の流通という機能とみている。

 消費者が商品を買う通貨の流通。これは通貨が鋳貨の機能として流通することである。一方、購買手段としてであれ支払手段としてであれ、貨幣が流通を通じて資本の移転を媒介するかぎり、この貨幣は資本の機能で流通する。つまり、区別は貨幣が資本の機能で流通しているかどうかであり、通貨(流通)と資本との区別ではない。

 ところがトゥックの見解には、①機能上の諸規定の混同②二つの機能へ流通する貨幣の量に関する混乱③二つの機能の流通部面の内的な関連による通貨量への複雑な反映によるさまざまな種類の混乱の混入という、三つの混同と混乱がおこなわれている

 そしてフラートンも、偏狭な銀行業者的観念から、購買手段としての貨幣と支払手段としての貨幣との区別を、通貨と資本とのまちがった区別に転化させた。

 なお、この章で言及した、「このような逼迫の時期に足りないものはなんなのか」という問題には、またあとで帰って論究するが、恐慌期には「市場は供給過剰になっており、商品資本であふれている。だから、逼迫の原因になるものは、とにかく商品資本の欠乏ではない」ことは確かである。

第28章でしっかりつかんでおきたいこと

 貨幣のもつ、流通手段、価値表現、資本の循環形態の一局面である貨幣資本、利子生み資本としての貨幣資本という機能をしっかりつかむことによって、「利子」は貨幣のどのような機能によって生みだされるものか、「資本の過多」とは何か、「金融恐慌」はなぜ起こるのか、等これから論究していく課題を混乱なくつかむことができます

「第二九章 銀行資本の諸成分」の要約と現代の私たちが留意すべき点

 不破さんは、一方で、マルクスの産業循環の考察の一部を取りだして「恐慌の運動論」なるものをでっち上げておきながら、「第二九章」については、「架空資本」という言葉で、銀行に集積され、そこを通じて再生産過程に投入される貨幣資本(m) を表現したものなどと、「簡単に説明」(デタラメな説明──青山、PDF26ページ以降参照)をしたから、「ここでは、説明は割愛」すると、「架空資本」から読者の目を遠ざけようとします。

 しかし、「第二九章」は、銀行資本の構成について述べ、蓄積された貨幣資本の転化形態である「利子生み資本」の基本的な特徴を説明するとともに、貨幣市場の逼迫の時期には「利子生み資本」の価格は二重に下がり、資本主義的信用制度は対応できないことなど、「利子生み資本」の「架空性」等、第三〇章以降の展開のベースとなる大切な論及がなされています。

「第二九章 銀行資本の諸成分」の要約

 銀行資本の構成は、①「現金、すなわち金または銀行券」と②「有価証券」とからなっており、その最大の部分は「有価証券」で、?「その割引が銀行業者の本来の業務とされる」「商業証券、手形」と?国債証券(過去の資本を表しているもの)等の「公的有価証券」や株式(将来の収益にたいする支払指図券)などの「利子付証券」の二つからなっていることを述べ、②を中心に論究している。

 ②の「利子生み資本」は、貨幣資本の蓄積の大きな部分を占め、資本主義的信用制度のもとで二倍にも三倍にもなった「幻想の産物=支払がその子(利子)とみなされる資本」に転化し、その信用制度に決定的な影響をあたえる。

 「利子生み資本」は、その価格が独特な運動をし独特な定まり方をする商品となる。その市場価格は、その権利名義によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。この商品の市場価格は、ただ現実の収入によってだけでなく、予想され前もって計算された収入によって規定されているから、ある程度まで投機的である。

 また、資本主義的信用制度のもとで二倍にも三倍にもなった信用の結果、「現金、すなわち金または銀行券」として持っている銀行の準備金は貨幣の逼迫の時期には対応できない。だから、貨幣市場の逼迫の時期にはこのような有価証券の価格は二重に下がる。しかし嵐が去ってしまえば、これらの証券は、失敗した企業や山師企業を代表するものでないかぎり、再びもとの高さに上がるのである。恐慌中に起きるこれらの証券の減価は、貨幣財産の集中のための強力な手段として作用する。だから、このようなもとでの、信用破綻もまた、「幻想的である」。

 すべての資本主義的生産の国には、このような形態で巨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed capitalが存在している。そして、この架空な銀行業者資本の大部分は、銀行業者の資本を表しているのではなく、利子がつくかどうかにかかわらずその銀行業者のもとに預金している公衆の資本を表しているのである。

これらを踏まえて、現代の私たちが留意すべき点

 「利子生み資本」は、ただ現実の収入によってだけでなく、予想され前もって計算された収入によって規定された市場価格をもつ、その価格が独特な運動をし独特な定まり方をする商品となること。この商品の市場価格は、その権利名義によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動するから、ある程度まで投機的であること。

 そして、今後の展開の中で分かることだが、貸付可能な貨幣資本の蓄積は、再生産過程の現実の拡大に伴って信用制度が拡張されるごとに、それにつれて増大せざるをえないので、資本主義的生産様式が延命されればされるほどその役割は大きくなり、「利子生み資本」の「架空性」は資本主義経済を翻弄することになります。

 だから、資本主義的生産様式に必然の産業循環の真の姿を正しくつかむためにも「利子生み資本」の「架空性」を正しく認識しておくことが必要です。

不破さん、黙して語らず

 私は先の〈「第二七章」から、私たちが学ぶべきこと〉の「項」で、不破さんが「信用制度は、そのことによって、同時に、恐慌という矛盾の強力的爆発を準備し、資本主義的生産様式の解体を促進します」と一般的抽象的なことしか言えない理由の一つに、「不破さんが二一世紀になって発見した『恐慌の運動論』の存亡問題がありますが、その説明は、次の『第三〇章~第三二章部分』の不破さんの『解説』の解説の中でおこないたいと思います。」とのべました。

 不破さんは、第三〇章からはじまる、信用制度のもとでの、「現実の資本」と「貨幣資本」の運動が織りなす産業循環についてのマルクスの論究をまえに、自論との折り合いをどのように付けたらよいのかわからず、立ちすくみます。

 不破さんは、「Ⅲ)部分を読む。利子生み資本と恐慌」という「節」で、第三〇章~第三二章の部分は「貨幣資本(m)の投入が再生産過程と恐慌の問題にどのような影響を及ぼすかを大きな主題とした」ものであるが、「ここでは、問題をとらえる筋道の基本点の解説にとどめます」と言ったあと、次のように述べて、マルクスの論究と自論との折り合いをつけようとします。

「貨幣資本(m)の投入が再生産過程、とくに恐慌問題におよぼす影響という問題の研究にあたって、マルクスは二つの視角をもっていたと思います。一つは、『流通過程の短縮』を主眼とする恐慌の運動論からの視角であり、もう一つは、先ほど見た、信用制度が過剰生産と過剰投機を激発する梃子となり、恐慌という形態での矛盾の強力的爆発を促進する、という視角です。」(P106)

 なお、不破さんは同じことを104ページでも述べています。

 二一世紀になって「恐慌の運動論」を発見して、資本主義観も革命観も変わった不破さんは、リーマン・ショックを含め何でもかんでも「恐慌の運動論」だと言っていたのが、マルクスの論究と自論との折り合いをつけようとして、急に、「マルクスは二つの視角をもっていた」と言い出しました。

 しかし、言っていることが無茶苦茶です。

 まずはじめに、不破さんは「貨幣資本(m)の投入が再生産過程、とくに恐慌問題におよぼす影響という問題の研究」と言っていますが、これまで何回か指摘してきたように、マルクスは「貨幣資本」の活動の場を「再生産過程への投入」に限った問題設定などしていません。

 マルクスは「monied capital」という言葉を主として「信用制度のもとでの貨幣市場での利子生み資本」という意味で使っています。銀行の貨幣資本(monied capital)は、当初、資本の循環形態に入る「貨幣」として産業資本家に貸し付けられた場合でも、その「証書」は「利子生み資本」という形の「架空資本」として貨幣市場で取引されます。このような事情からくる混乱を避けるため、エンゲルスは、「利子生み資本」となる銀行の貨幣を「貨幣資本」とドイツ語で表記しました。ですから、この場合の「貨幣資本(m)」とは主として「利子生み資本」のことで、不破さんの言うような再生産過程にはいる「現実の資本」に転化する貨幣のみを指しているわけではありません。

 そして、「信用制度が過剰生産と過剰投機を激発する梃子となり、恐慌という形態での矛盾の強力的爆発を促進する」という「信用制度」の中身は、「第二五章」でのべられている、「流通過程の短縮」のための「生産者や商人どうしのあいだの相互前貸」から発展した「信用制度」の側面と、貨幣取引業の発展が利子生み資本の管理という「信用制度」のもう一つの面を発展させ、銀行の貨幣資本(monied capital)の「利子生み資本」という形の「架空資本」へ転化させた側面との両面を含んでいます。

 だから、「二つの視角」と言うのは誤りで、「『流通過程の短縮』を主眼とする恐慌の運動論」なるものは、「信用制度が過剰生産と過剰投機を激発する梃子となり、恐慌という形態での矛盾の強力的爆発を促進する、という視角」の一部を構成するものです。マルクスは「第二五章 信用と架空資本」と「第二七章 資本主義的生産における信用の役割」でそのことを述べているのです。だから、独立の「恐慌の運動論」なるものなど、存在しません。

 だから、不破さんがいくらマルクスの論究と自論との折り合いをつけようとしても、無理なのです。だから、不破さんはここで言っていること以外、マルクスの「二つの視角」について、まったく、語ることができません。黙して語らず、です。

 なお、不破さんの触れたくないマルクスの「産業循環」についての探究は、「第三〇章」を中心に各「章」のテーマとの関連で行なわれており、その都度触れていきますが、私は、このページの結びの部分で、マルクスの産業循環の理論の可能なかぎりの「まとめ」と不破さんの言う「恐慌の運動論」の総括を行ない「恐慌の運動論」なるものを雲散霧消させるる予定です。

マルクスの考察の解読の「不破流の試み」

 このホームページ「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)」による、不破さんの『資本論』の修正の検証は「(7)第五篇。利子生み資本の研究」という「章」から始まっていますが、不破さんはこの「章」の冒頭の文章で、「マルクスが、恐慌の運動論の発見を転機に、『資本論』の構想プランを変更し、これまで予定していなかった新たな分野に挑戦した」(P64)と述べています。

 これを読んだ「読者」は、普通、「恐慌の運動論の発見」がマルクスに「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」をさせるような「『資本論』の構想プラン」の「変更」を決意させたと理解し、不破さんが、「恐慌の運動論の発見」によってマルクスがどのような「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」し「『資本論』の構想プラン」をどのように「変更」したのかを説明してくれるものと思い、だから、このような断定的な言い方をしたのだと思ったはずです。そうでないとすれば、デマの刷り込みですから。

 ところが、このような「読者」の期待もむなしく、産業循環過程をつじて貨幣資本と現実資本とが織りなす資本主義的生産様式の経済・社会の発展を総合的に論究した第三〇章以降の解説について、不破さんは次のように言います。

「マルクスのここでの考察は、いろいろと錯綜しており、筋道をたどるのは容易ではありませんが、恐慌の運動論を基礎に置きながら、貨幣資本の投入がどういう状況の下で『資本のプレトラ』あるいは過剰投機といった事態を生み出し恐慌の様相を激化させるのか、という点に、研究の焦点の一つがあったことは、間違いないと思います。以下の説明は、その観点からⅢ)を解読する不破流の試みとして、読んでいただければ幸いです。」、と。

 このように、『資本論』の展開について、不破さんは、「恐慌の運動論の発見」によってマルクスが何か「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」したのでも、「『資本論』の構想プラン」を「変更」したものでもないことを認めています。そして、マルクスの「考察」は、「いろいろと錯綜しており、筋道をたどるのは容易ではありません」から、「恐慌の運動論の発見」によって「新たな分野に挑戦」したことも、「『資本論』の構想プラン」を「変更」したことも考えずに、不破さんが「研究の焦点の一つがあったことは、間違いないと思」う観点(視点か?)から「不破流の試みとして」『資本論』を「解読する」というのです。

 すぐあとで、第三六章までの詳しい説明をいたしますが、ここで述べられている不破さんの観点(視点か?)が『資本論』の内容とはだいぶずれていますので、『資本論』で述べられている内容を簡単に説明します。

 第三〇章は、「産業循環」のなかでの「現実の資本」の行動と第二九章で見た「銀行資本の諸成分」の動きと信用の展開──商業信用と利子生み資本の膨張と収縮──について、主として論及したもので、まずはじめに、その前提としての、商業信用とその延長線上の「商業証券、手形」のより詳しい論述をしています。

 つぎに、「第三一章」は貸付資本の量、「貨幣資本の蓄積」の変化の原因と結果とその影響等を考察するとともに、貸付可能な貨幣資本の蓄積は、再生産過程の現実の拡大に伴って信用制度が拡張されるごとに、それにつれて増大せざるをえないことを述べています。

 「第三二章」は、貨幣資本の蓄積方法と産業資本家と貨幣資本家について、貨幣資本の過剰について、利子率について、逼迫期の貨幣資本と商品と恐慌について、そして最後にオーヴァストーンの誤りについて述べられています。

  そして、第五篇の最後の「第三六章」の最後の文章で、マルクスとエンゲルスは「結合労働の生産様式」の社会が「貨幣資本」のなくなった搾取のない社会であることを示しました。私たちはこのあと、第三六章までを詳しい見ていきますが、その中で、「第五篇」学習の意義が、信用制度が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということの意味をしっかりつかむことと、「貨幣資本」の行動をしっかりつかんで余すところなく暴露することの必要性を理解することあることを学ぶことになります。

 ですから、「不破流の試みとして」『資本論』を「解読する」ことなど、絶対にしないで下さい。

不破さんの「Ⅲ)」(貨幣資本と現実資本)を読む

 不破さんは、まずはじめに、「第三〇章 貨幣資本と現実資本Ⅰ」の冒頭で述べられている「貨幣資本と現実資本」の論究のポイント等の「解説」を飛ばして、「あらかじめもっと詳しく研究しなければならない」商業信用の分析と、この商業信用に本来の貨幣信用が加わった場合の論究の「解説」を行ないます。ここで『資本論』が論及している内容については、「第三〇章」全体を詳しくみるなかで、一緒に見ていきたいと思います。

 ここでの不破さんの「解説」で気になるのは、「この商業信用は、『流通過程の短縮』に直接かかわる信用です。」(P107)という文章と「マルクスは、この二回にわたる追跡作業(商業信用の詳しい研究とそれに本来の貨幣信用が加わった場合の研究のこと──青山)によって、信用制度が過剰生産、過剰投機の槓杆になるとすれば、その危険をはらむ中心点は、商業信用ではなく、銀行業者の信用のなかにあるという結論を引き出したようです。」(P109)という二つの文章です。

 随分あいまいな文章ですが、これらの文章と不破さんがこれまで言ってきたマルクスは「恐慌の運動論を基礎に置きながら」これらの問題を考察しているという「推測」とマルクスは「二つの視角」を持っているという「推測」との折り合いを、不破さんは、どう付けようとしているのか、是非、教えていただきたいものです。

 同時に、後半の文章には、不破さんが一貫して持っている認識能力の欠陥、物事を弁証法的、立体的に見ることのできない「二次元的」認識方法の欠陥がよく現れています。資本主義社会になって現れた〝恐慌〟が資本主義社会以前からある商業信用ではなく、資本主義的生産様式のもとにおける信用制度に決定的に依拠していることはあきらかで、言わずもがなですが、不破さんが「恐慌の運動論」を「発見」して何でもかんでも「恐慌の運動論」で説明しようとするように「銀行業者の信用」を「危険」の「中心点」として捉えようなどと、マルクスはしていません。マルクスは、「貨幣資本」と「現実資本」の運動をふくむ資本主義的生産様式における「産業循環」を総合的・立体的に論究していますが、それこそが資本主義的生産様式の諸矛盾を正しくつかみ資本主義的生産様式を克服していくための唯一の道です。なお、「銀行業者の信用」は「信用制度」の一部ですが、「銀行業者の信用」と「信用制度」とはイコールではありません。

 つぎに不破さんは、本題の「貨幣資本の蓄積」、「貨幣資本」と「現実資本」の運動の問題に移り、まず最初に貨幣資本の源泉の主なものについて説明し、続けて、「第三二章 貨幣資本と現実資本Ⅲ(結び)」の中の、「再生産する資本家たちの一方の部分から貨幣を借りる銀行業者が、再生産する資本家たちの他方の部分にその貨幣を貸し、そこで銀行業者が福の神として現われ、それと同時に、この資本の処分権はまったく仲介者としての銀行業者の手に握られてしまうという形態」が現れる(大月版⑤P647)という文章の「それと同時に」以下を抜粋して、マルクスの「予見」(?)の見事さを賞賛します。

 なお、不破さんは「不破流の試みとして」貨幣資本の源泉についての「解読」をしていますが、「これまでに述べてきたことで最も重要なのは、収入のうち消費に向けられている部分の膨張はさしあたりは貨幣資本の蓄積として現われるということである。つまり、貨幣資本の蓄積には、産業資本の現実の蓄積とは本質的に違った一つの契機がはいるのである。」(大月版⑤P646)という、「貨幣資本の蓄積」を論究するうえで最も肝心な事実の一つである「産業資本の現実の蓄積」との関係についてはいっさい触れていません。

 そして、「(10)信用制度下の利子生み資本(その三)」という「章」の「解読」は、最後に、「マルクスは、さらに、これらの考察からの一つの結論として、信用制度下の貨幣資本(m)の蓄積が、再生産過程に何を引き起こすかに、論を進めます。」(P111)と述べて、「第三二章」の下記の文章の「……このような、」以下の文章を抜粋します。

「貸付資本の蓄積とは、ただ単に、貨幣が貸付可能な貨幣として沈殿するということである。この過程は、資本への現実の転化とは非常に違うものである。それは、ただ、資本に転化できる形態での貨幣の蓄積でしかない。……このような、現実の蓄積からは独立したものでありながらしかもそれに伴って現れる諸契機によって、貸付資本の蓄積が拡張されるという理由からだけでも、循環の一定の段階では絶えず貨幣資本の過多が生ぜざるをえないのである。そこで、また同時に信用の発達につれて生産過程をその資本主義的制限を乗り越えて推進することの必然性、過剰取引や過剰生産や過剰信用が発展せざるをえないのである。それと同時に、これはまた、つねに、ある反動を呼び起こすような形で起こらざるをえないのである。」(大月版⑤P649)

 不破さんは、この抜粋に続けて、「マルクスは、第二七章部分の後半で述べていたように、信用制度下の利子生み資本を研究するにあたっての最大の問題意識を、それが『過剰生産および商業における過度投機の主要な梃子』となり、資本主義的生産様式の『矛盾の暴力的爆発』をどのように促進するかの探究においていました。」と事実と違うことを「事実」のように言い、それを前提に「探究」「研究」目標を変えて設定し、「この点から見ると、研究はいよいよその問題に立ち向かう本舞台に来たと言えるのですが、草稿の続く部分では、この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません。」と「不破流の」「解読」の「試み」をおこないます。

 私は、この文章を見て唖然とすると同時に〝またか〟という不破さんにたいする強い失望感と憤りの念を禁じえませんでした。

 私は、不破さんとそのお友達の書いた文章を読む時は必ず「元」になる文章を読むよう、これまで、幾度となく警鐘を鳴らし続けてきましたが、誠に残念ながら、前掲の文章もそういうたぐいのものと言わざるをえません。

 不破さんは、相手を打ち負かす手段として、①事実と違うことを「事実」のように言う②目標を勝手に変えて相手を攻撃する、という方法を多用しますが、今回はその両方を連続的に使って読者に誤った情報を伝えています。

 第一に、不破さんは、マルクスが、信用制度下の利子生み資本が資本主義的生産様式の「矛盾の暴力的爆発」をどのように促進するのかを探究することが、研究するにあたっての最大の問題意識であると第二七章部分の後半で述べていた、と事実とまったく異なることを「事実」のように言います。

 もう一度、思い出して下さい。

 「第二七章」のテーマは「資本主義的生産における信用の役割」ですが、生産的資本を発展させるうえでの「資本主義的生産における信用の役割」について、「信用制度の発展」による他人の資本や他人の所有に対する絶対的な支配力の獲得が、「資本所有の潜在的な廃止」であり、「新たな生産様式への過渡形態をなすいう性格」をもっていることにまで論及します。そして、マルクスは、第二七章の最後で、「なお前もって次のことを言っておきたい」として、信用が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということを述べ、「信用制度」には、①資本主義社会を「最も純粋で最も巨大な賭博・詐欺制度にまで発展させて、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格」と、②「新たな生産様式への過渡形態をなすいう性格」との「二面的な性格」が「内在する」ことを述べています。詳しくは、このホームページの「第二七章でのエンゲルスに対する支離滅裂な批判」(PDFの32-37ページ)を、もう一度、見て下さい。

 不破さんは、マルクスが、信用制度下の利子生み資本が資本主義的生産様式の「矛盾の暴力的爆発」をどのように促進するのかを探究することが、研究するにあたっての最大の問題意識であると第二七章部分の後半で述べていたと言いますが、マルクスは、「同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進する」という「信用制度」の役割・意義を述べているなかで、「矛盾の暴力的爆発」という言葉を使っていますが、「矛盾の暴力的爆発」をどのように促進するのかを探究することが、研究するにあたっての最大の問題意識などではありません。マルクスは、そんな小さな人間ではありません。マルクスは、不破さんと違って、革命家です。マルクスはしっかりと信用制度が「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ことを述べ、「第三六章」の結びの文章で述べている、「資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろう」という認識と共通の問題意識を持って論を進めています。

 このように、不破さんは、事実とまったく異なることを「事実」のように言います。マルクス・エンゲルスが述べたのは、「信用制度」は「新たな生産形態の物質的基礎」をある程度の高さに達するまでつくり上げる」という「資本主義的生産様式の歴史的任務」と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」という「信用制度」の役割・意義についてです。不破さんは、この「信用制度」の役割・意義の重みをしっかり受け止めるべきなのです。ところが不破さんは、上記の文章から自分の主張に使えそうなフレーズを切り取って継ぎ接ぎして自分の考えに合わせて「不破流の」「解読」をして、それをマルクスが言っているかのように言います。

 そして次に、その創作にもとづいて目標を勝手に作って、「この点から見ると、研究はいよいよその問題に立ち向かう本舞台に来たと言えるのですが、草稿の続く部分では、この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」と、マルクスの無能ぶりを攻撃します。

 私たちは、このあとすぐ、第三〇章以降に書かれていることを大雑把に見ていきますが、「草稿の続く部分」である「第三三章」を見なくても、「信用制度下の利子生み資本」が産業循環のなかでどのような役割を果たすか、したがってまた、「資本主義的生産様式の『矛盾の暴力的爆発』をどのように促進するか」の探究は十分に行なわれており、「草稿の続く部分では、この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」などという不破さんの誹謗は事実と異なりますが、「第二八章」以降の『資本論』の探究の主眼は「貨幣資本」と「現実資本」のリアルな絡み合いを明らかにし資本主義的生産様式の矛盾を明らかにするとともに「新たな生産様式」の社会への展望を示すことでした。そのことによって、現代の私たちにも現代の問題を解決するヒントと展望を与えてくれることができるのです。

 「第三〇章」でも述べられている、「信用制度下の利子生み資本」が産業循環のなかで果たす役割には目もくれず、「草稿の続く部分では、この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」と言う不破さんは、マルクスは「恐慌の運動論を基礎に置きながら」これらの問題を考察していると言ったものの、マルクスの論究が不破さんからどんどん離れていくのが気に入らなくてこのようなことを言っているのでしょうか。それともマルクスよりも「偉く」見せようと虚勢を張っているのでしょうか。

 二一世紀になって「恐慌の運動論」を発見し、その結果「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたという不破さんならば、マルクスの理論的未熟さを責め立てるだけでなく、自らの〝独想的〟な考え──これまで、私たちを仰天させた、「自由の国」とは「自由な時間」のことで、〝余暇〟のことだとか、共産主義社会とは〝指揮者はいるが支配者はいない〟、生産現場でこういう人間関係をつくりあげることだとかいう──を読者の皆さんに披露し、私たちをアッと驚かせるべきではないのか。

 それとも、不破さんが依拠し、消化し切れていない大谷禎之介氏の『マルクスの利子生み資本論③』で、大谷氏がmonied capital(信用制度のもとでの貨幣市場での利子生み資本)と実物資本の蓄積の関係及びmonied capitalの量と貨幣量との関係について、マルクスの論究が不十分であることを述べ、「この点から見れば、第3部第5章(第五篇のこと──青山)のかなめである「Ⅲ)」での論述の完成度は低い、その意味で第3部第5章は未完成のままに終わっている、と言うことができるであろう。」(P400)と言っているのを見て、とにかく、「この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」などと同調しただけなのでしょうか。

 ここまでで、不破さんの「第三二章」までの「不破流の」「解読」の「試み」は終わり、最後に、また、噛みつきガメのようにエンゲルスに噛みついて、続く「第三三章」と「第三四章」にはいっさい触れずに、「第三五章」については、「引用ノート的な部分」と「本文の草稿」からなっているが「本文部分も端緒的な考察だけで終わっていますので、解説は割愛することにしました。」とのことです。

 「第三三章」から「第三五章」までの編集について、エンゲルスは序文で、「『混乱』からあとの、そしてすでにそれ以前の箇所で取り入れられなかったかぎりでの、すべてのこれらの材料から、私は第三三~三五章をまとめ上げた。」と述べていますが、前出の大谷氏も『マルクスの利子生み資本論④』で、第三三~三四章の編集について、次のように絶賛しています。ただし、「monied capitalの量と貨幣の量」との関係の問題の明確化等、その編集が完璧であるがゆえにマルクスの構想と異なるものになったとの「批判」もしていますが。

「エンゲルスが『混乱』および『混乱。続き』(および一部は「地金と為替相場」)から第33章と第34章をまとめた編集ぶりは、ただただ見事と言うほかはない。草稿のこの両方の部分を読んでみると、このような抜粋の集録からよくもあのようなまとまった二つの章が編成できたものだと思わずにはいられない。エンゲルスにしてできたこの作業によって、第3部の第5篇は、草稿の状態からは考えられないほどの完成度の高いものに仕上がったのである。読者に完成度の高い、完結した第3部を提供するという観点から見るかぎり、エンゲルスはまさに巨匠的な仕事をしたと言うべきであろう。」(P50)

 さらに大谷氏は、第三五章について、「草稿の状態から見ても草稿での記述の内容から見ても、この章立てに十分な理由がある。……ここからエンゲルスが、そのうちの圧倒的な部分を利用して第35章をつくったのは、マルクスの草稿の意図を実現したものであったと見て差し支えないであろう。」と肯定的、積極的に評価しています。不破さんとは雲泥の差があります。

 それでは、あらためて、「第三〇章」から「第三五章」までで、マルクス・エンゲルスがどのような論及をしているのかを一緒に見て、そのあと、不破さんの「恐慌問題。マルクスの文章のエンゲルスによる改作」という「節」を見ることにしましょう。

「第三〇章 貨幣資本と現実資本Ⅰ」の要約と現代の私たちが留意すべき点

「第三〇章」の要約

 第三〇章は、「産業循環」のなかでの「現実の資本」の行動と第二九章で見た「銀行資本の諸成分」の動きと信用の展開──商業信用と利子生み資本の膨張と収縮──について、主として論及したものです。

 その前提としての、商業信用とその延長線上の「商業証券、手形」のより詳しい論述と「利子付証券」の論述を見てみましょう。

商業信用の分析

 商業信用にとっての限界は、①産業家や商人の準備資本処分力であり、この還流そのものであること、②生産過程の発展は信用を拡大し、信用は産業や商業の操作の拡大に導くこと③再生産の循環のなかの信用──銀行業者信用は別として──は、再生産過程の膨張とともに膨張し、再生産の停滞とともに収縮すること。再生産過程の膨張に攪乱が生ずれば、それとともにまた信用の欠乏も現れるということ④ところが、この商業信用に本来の貨幣信用が加わると、一部はただの融通手形やりくりによって、また一部はただ手形づくりを目的とする商品取引によって、全課程が非常に複雑にされ、外観上はまだ非常に堅実な取引と順調な還流とが静かに続いているように見えても、じつはもうずっと前から還流はただ詐欺にかかった金貸業者とか同じく詐欺にかかった生産者とかの犠牲によって行なわれているだけだということにもなるということ。⑤それだから、いつでも事業は、まさに破局の直前にこそ、ほとんど過度にまで健全に見えるのである。

 信用による流通過程の短縮による架空の需要が恐慌の原因であるという不破さんの「恐慌の運動論」なるものは、この商業信用の機能を唯一の恐慌の原因と捉える、マルクスの「産業循環論」の一部しか見ることのできない極めて偏狭な考えです。

利子生み資本の分析

 会社事業の所有権(株式としての利子生み資本)は現実資本に対する権利であるが、この権利は「現実資本の紙製の複製」であり、この資本にたいする自由処分力を与えるものではない。この現実資本を引きあげることはできない。その所有権は、ただ、この現実資本によって獲得されるべき剰余価値の一部分にたいする請求権を与えるだけである。利子生み資本の価値額は、つまり取引所でのそれの相場づけは、利潤率の傾向的な低下につれて、現実資本の増加につれて必然的に上がってゆく。この想像的な富は、資本主義的生産の発展の歩みのなかで膨張してゆく。

 この利子生み資本による投機が労働に代わって資本所有の本来の獲得方法として現われる。

 しかし、ここで、「利子生み資本」について「第二九章」で述べられていて、私が下記のように要約した文章を、もう一度、見て下さい。

──「利子生み資本」は、その価格が独特な運動をし独特な定まり方をする商品となる。その市場価格は、その権利名義によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。この商品の市場価格は、ただ現実の収入によってだけでなく、予想され前もって計算された収入によって規定されているから、ある程度まで投機的である。

 また、資本主義的信用制度のもとで二倍にも三倍にもなった信用の結果、「現金、すなわち金または銀行券」として持っている銀行の準備金は貨幣の逼迫の時期には対応できない。だから、貨幣市場の逼迫の時期にはこのような有価証券の価格は二重に下がる。……だから、このようなもとでの、信用破綻もまた、「幻想的である」。──

 このような株式の価格は、「一部は、その株式を支払指図証とする収入が減少したために、また一部は、その株式が非常にしばしば山師的な性質の企業を代表しているために、低落する。……とはいえ、相場表のなかでこのような有価証券の貨幣名が下落するということは、それらが表している現実資本とはなんの関係もないのであり、反対にその所有者たちの支払能力には大いに関係があるのである。」

「産業循環」のなかでの「現実の資本」と「貨幣資本」

 マルクスは、すべての現実の恐慌の究極の原因は、やはり、資本主義的生産の衝動に対比しての大衆の窮乏と消費制限なのであるが、この衝動は、まるでただ社会の絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのように生産力を発展させようとすることを述べ、資本主義的生産様式における「産業循環」、真の意味での「恐慌の運動」のなかでの現実の資本と商業信用・信用と貨幣資本の様態を論及しています。

産業循環の発端の時期の商業信用と貨幣資本

 恐慌を切り抜けた直後には貸付資本が大量に遊休し、産業循環の発端では低い利子率と産業資本の収縮とが同時に現れ、商業信用は収縮している。これは、産業資本の収縮と麻痺とによる貸付可能資本の増加にほかならない。

好転の時期と過度な緊張の状態の直前の繁栄状態の時期の商業信用と貨幣資本

 再生産過程が、再び、過度な緊張の状態の直前の繁栄状態に達すると商業信用は非常に大きく膨張するが、この膨張には円滑に行なわれる還流と拡大された生産という「健全な」基礎がある。この状態では、利子率は、その最低限度よりは高くなるとはいえ、やはりまだ低い。商業信用の拡大と結びついた還流の容易さと規則正しさが、貸付資本の供給を、その需要の増大にもかかわらず、確実にして、利子率の水準が上がるのを妨げる。この時期こそは、低い利子率、したがってまた貸付可能な資本の相対的な豊富さが産業資本の現実の拡張と一致すると言える唯一の時点である。

 恐慌後の「好転」の時期は、最低限度よりは高い利子率であるが、この低い利子率は、商業信用がまだ自分の足で立っているのでわずかな度合いでしか銀行信用を必要としないということを表している。この時期と利子率がその平均的な高さ、すなわちその最低限度からも最高限度からも同じ距離にある中位点に達する段階の時期の二つの時期だけが、豊富な貸付資本と産業資本の大膨張とが同時に現れる場合を示している。

繁栄状態から過度な緊張の状態へ

 このような時期になると、準備資本なしに、またはおよそ資本というものなしに、事業をし、したがってまったく貨幣信用だけに頼って操作をする騎士たちが、ようやく目につくようになってくる。この時期には、あらゆる形での固定資本の大拡張や、新しい巨大な企業の大量設立が加わってくる。そこで、利子はその平均の高さに上がる。

恐慌への道、循環の終わり

 信用とそれに伴う一般的な価格膨張──なお、商品資本は、潜勢的な貨幣資本として不断の膨張収縮を免れず、恐慌の最中の物価崩落は、ただ以前の価格膨張を埋め合わせるだけなのであるが──とによって助長された過剰生産(=市場の非常な供給過剰)と商品取引での無際限な投機的思惑を秘めた幻惑的景気の時期は、生産諸力を最高度に緊張させて、ついには生産過程の資本主義的制限をも越えさせてしまう。そして、利子が最高限度に達するのは、新しい恐慌が襲ってきて、急に信用が停止され、支払が停滞し、再生産過程が麻痺し、貸付資本のほとんど絶対的な欠乏と並んで遊休産業資本の過剰が現れる時であなる。循環の終わりには高い利子率と産業資本の過剰豊富とが同時に現れる。

 商業手形の多くは現実の売買を表しており、この売買が社会的な必要をはるかに超えて膨張することが結局は全恐慌の基礎になっているが、再生産過程の全関連が信用を基礎としているような生産体制のなかでは、急に信用が停止されて現金払いしか通用しなくなれば、明らかに、恐慌が、つまり支払手段を求めての殺到が、起こらざるをえない。だから、一見したところでは、全恐慌がただ信用恐慌および貨幣恐慌としてのみ現われるのである。 このように、恐慌期には支払手段が欠乏しているということは自明であるが、しかし、1844/45年のそれのような無知でまちがった銀行立法がこの貨幣恐慌をひどくすることもありうる。(貨幣価値の下落を防ぐために、保有する金の量と貨幣の量との連動性を厳しく守る立法を行なったことを指す。)

 なお、マルクスは「第三六章」で、「銀行と信用とは、資本主義的生産をそれ自身の制限をのりこえて進行させる最も強力な手段となり、恐慌や思惑の最も有効な媒介物の一つとなるのである。」(大月版『資本論』Ⅲ P782-3)と述べています。

現代の私たちが留意すべき点について

 この資本主義的生産様式における産業循環は、ひとたび最初の衝撃が与えられてからは同じ循環が周期的に再生産されざるをえないようになっているます。

 現代の産業循環においては、信用による価値実現の短縮(商品資本が最終的に売れていないのに貨幣資本となって価値実現されること)による架空の需要はかなりの程度コントロールされていますが、資本主義的生産様式の発展とともに増大し続ける市場で取引される「利子生み資本」の価格は、予想され前もって計算された収入──現代の会計の言葉でいえば、時価評価にもとづく時価会計によって計算された収入──によって規定されるので、資産価値の増大とリンクして相乗効果を発揮する「利子生み資本」=「架空資本」の価格の膨張が「産業循環」のピークを演出します。この点で、不破さんの言う「恐慌の運動論」なるものは、現実を正しく反映したものではなく、資本主義的生産様式の初期により多くの有効性をもつ考え方です。

産業循環の周期について

 マルクスは、産業循環の周期について、第一部の注で、「これまでのところでは、このような循環の周期の長さは10年か11年であるが、……循環の周期はしだいに短縮されるということを推論せざるをえないのである。」と述べていますが、エンゲルスは「従来は循環周期が10年だった周期的過程の急性的形態は、相対的に短くて弱い景気好転と相対的に長くて決定的でない不況との、より慢性的な、より長く引き伸ばされた、いろいろな工業国に別々の時期に分かれて現れる交替に変わったように見える。しかし、たぶん問題はただ循環周期が長くなったということだけであろう。世界貿易の幼年期だった一八一五~一八四七年には、ほぼ五年の循環周期を指摘することができる。1847~1867年には循環周期は明確に一〇年である。われわれは前代未聞の激しさの新しい世界恐慌の準備期にあるのだろうか?いろいろなことがそれを暗示しているように思われる。」と優しく訂正しています。マルクス・エンゲルス・レーニンに対して、鬼の首でも取ったかのように噛みつく不破さんとは大違いです。

 なお、現代では短い景気循環が3年程度の周期で繰り返されており、長期の景気循環の最近のピークはリーマン危機の前ですが、100年に一度と言われたリーマン危機は〝ヘリコプターベン〟と世界の成長エンジンとなった中国の財政出動によって救われました。

不破さんの「恐慌の運動論」の行き着く先

 マルクスが「恐慌や思惑の最も有効な媒介物の一つ」と言った「銀行と信用」の一部を抽出して、価値実現の短縮による架空の需要が恐慌の元凶のように言う不破さんは、資本主義的生産様式の矛盾を正しく認識することがでにないので、次の「第三一章」の「現実資本すなわち生産資本および商品資本の蓄積については、輸出入統計が一つの尺度を与える。そして、いつでもそこに示されているのは、10年の循環周期で運動するイギリス産業の発展期(1815-1870年)のあいだは、いつでも、恐慌の前の最後の繁栄期の最高限が、次にくる繁栄期の最低限として再現し、それからまたそれよりもずっと高い新たな最高限に上がって行くということである。」(大月版『資本論』⑤ P641)という文章から、資本主義に対するとんでもない理解に到達します。

 しかしそれは、次の「第三一章」をみるなかで、みなさんと一緒に見ていきましょう。

 なお、「第三〇章 貨幣資本と現実資本Ⅰ」の抜粋、概要等より詳しい内容は、下記のPDFファイルを、是非、参照して下さい。

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第三部「第三〇章 貨幣資本と現実資本Ⅰ」の概要.pdf
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「第三一章 貨幣資本と現実資本Ⅱ(続き)」の要約と現代の私たちが留意すべき点

第三一章の要約

 「第三一章」は貸付資本の量、「貨幣資本の蓄積」の変化の原因と結果とその影響等を考察するとともに、貸付可能な貨幣資本の蓄積は、再生産過程の現実の拡大に伴って信用制度が拡張されるごとに、それにつれて増大せざるをえないことを述べています。

 貸付資本の量は通貨の量とはまったく別である。利子率の変動は貸付資本の供給によって左右されるが、この貸付可能な貨幣資本の量は、流通している貨幣の量とは違ったものであり、またそれにはかかわりのないものです。

 すでに見たように、産業循環の発端の時期と恐慌後の好転の時期には、貸付資本の堆積が生じ、低い利子が、利潤のうちの企業者利得に転化する部分を増大させ、現実の蓄積過程の拡張が促進されます。

 貨幣資本の蓄積は、異常な金流入によって起きることがありえます。

 貨幣資本家の蓄積源泉となる利潤は、ただ、再生産資本家が取りだす剰余価値からの一控除分でしかないが、すべて貨幣貸付資本家が行なう蓄積は、つねに直接に貨幣形態で行なわれます。だから、産業循環の不況の段階で、国債証券やその他の有価証券の価格が下がれば、貨幣資本家たちはこれらの証券を大量に買い集め、上がったらこれらの証券を売り放って貸付可能な貨幣資本に転化させます。

 すでに見たように、貸付資本の蓄積は、少しも現実の蓄積なしに、信用制度とその組織との発展につれて、単に技術的な手段によって、たとえば銀行制度の拡張や集中、流通準備の節約、あるいはまた個人の収入の増大、すなわち産業資本家や商業資本家の消費の増大でさえも、その支払準備金の節約によって、行なわれうるのであって、これらの準備金はこうしていつでも短期間貸付資本に転化させられます。

 現実資本すなわち生産資本および商品資本の蓄積については、恐慌の前の最後の繁栄期の最高限が、次にくる繁栄期の最低限として再現し、それからまたそれよりもずっと高い新たな最高限に上がって行きます。そして、貸付可能な貨幣資本の蓄積は、再生産過程の現実の拡大に伴って信用制度が拡張されるごとに、それにつれて増大せざるをえないのです。

現代の私たちが留意すべき点

不破さんの「第三一章」の文章を「歪曲」してのマルクスの「修正」

 「第三一章」の要約は以上のとおりですが、ここに出てくる「現実資本すなわち生産資本および商品資本の蓄積については、輸出入統計が一つの尺度を与える。そして、いつでもそこに示されているのは、10年の循環周期で運動するイギリス産業の発展期(1815-1870年)のあいだは、いつでも、恐慌の前の最後の繁栄期の最高限が、次にくる繁栄期の最低限として再現し、それからまたそれよりもずっと高い新たな最高限に上がって行くということである。」(大月版 ⑤ P641-642)という文章から、不破さんはとんでもない勘違い、というよりも、マルクス経済学と科学的社会主義の思想の修正を行ないます。

 二一世紀になってニセ「恐慌の運動論」を発見した不破さんは、『前衛』2013年12月号で、マルクスが、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がなく、資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」という資本主義観の大転換をしたと述べて、マルクスの経済学と科学的社会主義の思想の大修正を行ないます。

 不破さんは、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がない」と言い放ち、恐慌によって「資本主義の危機が深まるわけではなく」、恐慌は「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」と言って、「産業循環」を通じて深まっていく「資本主義の危機」を否定します。この不破さんの経済と社会の見方は、『資本論』で論及されているマルクス・エンゲルスの経済学と科学的社会主義の思想とを真っ向から否定するものです。「恐慌」と「利潤率の低下の法則」との関係についていえば、不破さんが「古い地層」として切り捨てた第三部第三篇を除外して『資本論』を一瞥しただけでも、「利潤率の低下の法則」のもとでの利潤率の変化が「産業循環」の各局面に作用し、「産業循環」形成の要因の一つになっていることは明らかです。また、「第二七章」で、信用が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」といことが述べられていますが、「産業循環」の最終局面である恐慌によってそのことが白日の下にさらされ、「資本主義の危機が深まった」ことが明らかになり、繰り返される「信用」の発展と「恐慌」の繰り返しのなかで、「資本主義の危機」はますます深まって行きます。

資本主義発展論者になった不破さんの〝危機〟への鈍感力

 しかし、「一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではない」、恐慌は「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」などとノー天気なことを言って、産業循環がもつ社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素」の促進という側面を見ることのできない、「資本主義の危機」を見ることのできない、不破さんの「鈍感力」は、リーマン・ショックが起きたときに、「『架空の需要』にもとづく生産の無制限的拡大とその破綻という過程が典型的に現われていた」などと言って、二一世紀になって自ら作ったドグマで現実の「資本」の動きを覆い隠し、ブルジョア経済学でさえ「100年に一度の危機」と色を失った資本主義の〝危機〟に際し、何事もなかったかのように平然と構えています。この何にも認識できない「現状認識」に基づいて、不破さんの強い影響力のもとにある「共産党」は、グローバル資本の行動とそれと並走する「架空資本」にはまったく対峙しない「暮らし応援の経済成長戦略」などという、資本主義擁護政党が国民を騙すために掲げるような「政策」を掲げて闘っています。

マルクスと対極にいる人たちさえ〝危機〟を感じ始めている

 100年に一度の危機といわれたリーマン・ショックは、一部御用学者、一部の新自由主義者にも大きな影響をあたえました。たとえば、①言わずと知れた、アメリカで鍛え上げられたバリバリの新自由主義者であった中谷巌氏は、リーマン・ショックの年に出版した『資本主義はなぜ自壊したのか』で、依然として、新自由主義に基づくグローバル資本主義がもたらす害悪を資本主義の本質から出た必然的なものであることを認めようとはせず、日本人の古来からの(?!)考え方、行動様式、ユニークな文化伝統を生かした経済運営に活路を求め、「今こそ、人類は精神革命、価値観の転換を求められている」と言って、完全な観念論者、ユートピア資本主義者に留まっていますが、傍若無人のグローバル資本の行動を見て、資本主義経済を「悪魔の碾き臼(ひきうす)」とまで言い、新自由主義に基づくグローバル資本主義を徹底的に批判するまでになっています。②また、野口悠紀雄氏は、これまでの政府自民党の政策を全面否定し、一時しのぎの景気対策を批判し、外需依存・海外依存の経済から内需主導型の経済への転換を求め、それは原理的には可能であるが、政治のリーダシップが無いから実現できないのだと言います。しかし、残念ながら、自民党の景気対策は資本(財界)にとってはベストの選択であり、国民を犠牲にして外需で儲け、挙げ句の果てに富を海外に持ちだし、人体実験で内蔵をすべて切り取られたかのように日本が「空洞化」しているのは、まさに資本主義の「原理」に基づくもので、政治のリーダシップに基づくもので、資本の「さが」によるものです。野口氏は、残念ながら、資本主義の世の中は氏の頭の中で作り上げられた「原理」によって動くものではないということを理解しようとはしません。③そして、大前研一氏は、ブルジョア経済学の手法が破綻したことを認めて、日本の現況は縮み志向のためであるとし、消費者をその気にさせる「心理経済学」が必要で、需要と市場の変化を見て鉱脈を見つけることを説きます。国の目的は「『経済のパイを大きくして国民生活を豊かにする』こと、すなわち『すべての人のグッドライフ(充足感や充実感のある人生)のため』である」とし、「『増税』『税金財源』『外国頼み』は全部ダメ」だと言い、「国民にグッドライフを届ける」ために地方債を発行して都市の再開発を行なうことと、個人は、団塊世代の使える退職金60兆円を使ってグッドライフを楽しめといいます。しかし、大前氏は、「縮み志向」になぜなったのか分からないから、「外国頼み」は「ダメ」だとは言うが、企業は新興国や途上国へ出ること、海外に活路をみいだし、早く海外に出ることを勧める始末です。困ったもんだが、日本が「縮み志向」であると認識しているだけでも、不破さんよりはましなのかもしれない。

 以上、リーマン・ショック前後の、三人の資本主義の擁護者たちの考えを大ざっぱに見てきましたが、ここで肝心なのは、三人とも、「現在の日本は『たちいかない状況』になっており、支配階級(資本)には解決する能力がない」と認識していること、そう認識せざるを得ない状況に日本があるということです。

 そして、リーマン・ショックは、日本の金融機関には幸い深刻な影響を与えませんでしたが、製造業に深刻な影響を与え、「産業の空洞化」した日本経済に大きなダメージを与えて、資本主義の擁護者たちの一部にもグローバル資本が支配する現代の資本主義を「たちいかない」ものと思わせるまでに「資本主義の危機が深まった」ことを示しました。

矛盾を見ることのできない不破さんの「資本主義発展論」

 国民大衆がラディカルに政治・経済・生活をつかむ貴重なきっかけの時期である〝危機〟のときに、「一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではない」などといって自らの任務を放棄し、「『架空の需要』にもとづく生産の無制限的拡大とその破綻という過程が典型的に現われていた」などとトンチンカンなことを言って、政府に「暮らし応援の経済成長戦略」への転換を求めて、こと足れりとする。これでは〝前衛党〟失格だ。

 そして不破さんは、マルクスが恐慌を経て資本蓄積が進み生産力が向上することを述べると、恐慌は「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」とマルクスが言ったと、恐慌が「資本主義の危機」をリセットして資本主義の経済的発展をはかるための出発点ででもあるかのように言います。「生産力の向上」を「資本主義の発展」に読み替えてしまいます。マルクスは、恐慌を経て資本蓄積が進み生産力が向上することを述べましたが、恐慌が「資本主義の危機」をリセットするなどと考えたことはありません。「一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではない」と「資本主義の危機」をわきにおいて、「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」などと言うことは、手放しの「資本主義発展論」です。

不破さんの「資本主義発展論」は伝言ゲームで花開く

  この「資本主義発展論」を一層発展させているのが、『前衛』誌上等で不破さんの著書の宣伝のための鼎談に、不破さんの「介さん」「角さん」の一人として出ている石川康宏氏です。

 石川氏は「資本主義発展論」に立って、一歩前に進みます。石川氏は、マルクスは「労働者の闘いの前進を」、「より巨大な資本主義の発展をもたらす要因としてとらえました」と言って、資本主義社会の墓堀人である労働者を、「より巨大な資本主義」を「発展」させるためのアシスタントにしてしまいます。そして、「こうした闘いの積み上げとそれを乗り越えようとする資本による生産力の発展は、直接には資本主義の枠内における資本主義の改良や変化を生み出すものですが、同時に、マルクスはそれを、未来社会を手前に引き寄せる新しい歴史的条件のけいせいとしてとらえました」と言います。「生産力の発展」を「資本主義の発展」に読み替えて伝えた不破さんの〝伝言〟が見事に花開きました。

 まったく、恐れ入ります。昔、「民社党」という政党がありましたが、マルクスをこんな姿に修正した石川氏は、不破さんと並んで「民社党」の理論的指導者になれること、間違いありません。

石川氏が言っていることの本当の意味

 私は、「第二七章」のところで、マルクスは、「新たな社会の形成要素」として「社会的生産諸力と社会的生産の発展」を捉え、「古い社会の変革契機」として「私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾と労働者階級の運動の前進」を捉えていたことを紹介しました。石川氏には〝マルクスのかじり方〟というようなタイトルの著書がありますが、石川氏は、「こうした闘いの積み上げ」とか「資本による生産力の発展」とかいう言葉を散りばめて、「未来社会を手前に引き寄せる新しい歴史的条件のけいせい」という何となくマルクスが言っているようなゴールにたどり着き、なんとなくマルクスを〝かじった〟かのように見せたかったようです。

 しかし、マルクスが言っていることと石川氏が言っているこことは、似て非なるものどころか、まったく違います。

 私も石川氏の立場に立って、「こうした闘いの積み上げとそれを乗り越えようとする資本による生産力の発展」という奇妙な文章に関して、整合性をもった一つの考えになるよう、一生懸命考えてみました。その結果、「こうした闘いの積み上げとそれを乗り越えようとする資本による生産力の発展」という文章は、──「労働者の闘いの前進」が「より巨大な資本主義の発展をもたらす要因」なのだから──「こうした闘いの積み上げ」はより一層「より巨大な資本主義の発展をもたらす要因」となり、「資本による生産力の発展」はさらに「それを乗り越える」という、スーパー「資本主義発展論」であることが分かりました。つまり、「こうした闘いの積み上げとそれを乗り越えようとする資本による生産力の発展」という意味不明な奇妙な文章の意味は、「資本による生産力の発展」によって労働者の「こうした闘いの積み上げ」を「乗り越える」という意味だったのです。「資本主義発展論」もここまでくると、〝お見事!!〟としか言いようがありません。

 ところで、本来、「こうした闘いの積み上げとそれを乗り越えようとする資本による生産力の発展」という「文章」は、まったく文章になっていません。「こうした闘いの積み上げ」は「乗り越える」ものではありません。「こうした闘いの積み上げ」た成果は、経済的には搾取の度合いを軽減するもので、資本家からみれば利潤率を低くするものです。この労働者の成果を奪うものは、不破さんが無視した「第一四章」で述べられている「利潤率の傾向的低下の法則」に「反対に作用する諸原因」です。だから労働者はこの「反対に作用する諸原因」をしっかり見抜き、それと闘わなければなりません。「生産力の発展」と利潤率を低くするマルクスのいう「反対に作用する諸原因」とを混同すると、ラダイトになってしまいます。石川氏には、本当に科学的社会主義の思想の学徒であるならば、他人に「マルクスのかじり方」を説教するまえに、もう一度ゼロからマルクス・エンゲルス・レーニンの著作を学び直すことをお勧めしたい。まだ若いのですから。※石川氏の謬論の詳しい内容は、ホームページ4-22-2「☆石川康宏氏は、唯物史観を認識の中心に据えるべきではないのか(その2)」を、是非、参照して下さい。

資本主義の見方も、革命の見方も変わった不破さんの「変身」

 このように、「資本主義発展論」に立った不破さんは、「ここでは、もう資本主義の見方も、革命の見方も変わっているのです」とマルクスを修正し、『賃金、価格、利潤』の要点の修正から始まって、日本共産党の毛沢東盲従一派との闘いの輝かしい歴史すら修正してしまいます。

※詳しくは、ホームページ4「不破さんの思い違い」の各ページを、是非、ご覧下さい。なお、「第三一章 貨幣資本と現実資本Ⅱ(続き)」の抜粋、概要のより詳しい内容は、下記のPDFファイルを、是非、参照して下さい。

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第三部「第三一章 貨幣資本と現実資本Ⅱ(続き)」の概要.pdf
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「第三二章 貨幣資本と現実資本Ⅲ(結び)」」の要約と現代の私たちが留意すべき点

「第三二章」の要約

 「第三二章」は、貨幣資本の蓄積方法と産業資本家と貨幣資本家について、貨幣資本の過剰について、利子率について、逼迫期の貨幣資本と商品と恐慌について、そして最後にオーヴァストーンの誤りについて述べられています。

貨幣資本の蓄積方法と産業資本家と貨幣資本家

 貨幣資本の蓄積は、資本主義的生産様式のもとで生じるすべての余剰資金によって行なわれ、産業資本の現実の蓄積とは本質的に違ったものである。

 産業資本家の資本は、再生産する資本家たちの一方の部分から貨幣を借りる銀行業者が、再生産する資本家たちの他方の部分にその貨幣を貸し、他人の所有物を貨幣資本家が用だてることによって、それが自分自身の労働や貯蓄の生みの子でもあるかのように思わせている資本主義体制の終局の幻想を打ち砕く。福の神として現われた銀行業者が産業資本家を搾取し、この資本の処分権を握る。

 素材的富の増大につれて、貨幣資本家の階級は大きくなり、利子付証券、国債証券、株式などを思惑取引する証券仲買業者が貨幣市場で主役を演ずるようになる。銀行業者の代表であるオーヴァストーンは、貸付資本は資本一般と同じだという彼自身の仮定と抜けめなくごちゃまぜにすることによって、高利貸を唯一の資本家にし、高利貸の資本を唯一の資本にしてしまおうとする。

貨幣資本の過剰

 諸生産部門の過度充満や貸付資本の過剰供給が生ずるような、貸付可能な貨幣資本の過多が示すものは、資本主義的生産の制限以外のなにものでもない。貨幣資本そのものの過多は必ずしも過剰生産を表してはいないし、資本の充用部面の不足をさえも表してはいない。

 現実の蓄積からは独立したものでありながら、しかもそれに伴って現れる諸契機によって貸付資本の蓄積が拡張されるという理由からだけでも、循環の一定の段階では絶えず貨幣資本の過多は生ぜざるをえない。信用の発達につれて、生産過程はその資本主義的制限を乗り越えて、過剰取引や過剰生産や過剰信用を発展させ、これはまた、つねに、その反動を呼び起こす。

利子率

 利子率がかなり長い期間にわたって高いとすれば、それは、必ずしも企業者利得の率が高いということを証明してはいない。資金が逼迫しているときも、産業資本にたいする資金需要がふえて、利子率も高くなる。高い利子率は、利潤によってではなく、投機によって、借り入れた他人の資本そのものによって支払うこともできる。

 労働力にたいする需要の増大につれて、労働力の市場価格はその平均よりも高くなり、平均よりも多数の労働者が雇用され、したがってまた貨幣資本にたいする需要も増加し、利子率も上がる。また、ある商品の供給が平均よりも減って、しかも貸付資本にたいする需要は増大するということもありうる。価格がもっと高くなることを見越して市場への商品の供給を人為的に妨げようとする思惑から、資金需要が増大し、利子率が高くなることもありうる。

逼迫期の貨幣資本と商品と恐慌

「労働の社会的性格が商品の貨幣定在として表れ、したがって現実の生産の外にある一つの物として現れるかぎり、貨幣恐慌は、現実の恐慌にはかかわりなく、またはそれの激化として、不可避である。」(P661-662)

 逼迫期には、貸付資本にたいする需要は支払手段にたいする需要であって、それ以上のなにものでもない。信用が収縮するかまたは止まってしまう逼迫期には、にわかに貨幣が、唯一の支払手段、価値の真の定在として、絶対的に諸商品に対立するようになる。

 恐慌に見舞われると、支払手段としての商品は投げ売りされ、利子率は上がり、信用は解約を予告され、有価証券は下落し、外国有価証券は投げ売りされ、この減価した有価証券への投下に外国資本が引き寄せられ、最後に破産がやってきてそれが大量の債券を清算してしまう。

オーヴァストーンの誤り

 オーヴァストーンは、「利子率を規定する貨幣資本の需要供給」と「現実資本の需要供給」とは同じだと主張し、1844年の銀行法で逼迫の時期に銀行券の発行を抑えた。

現代の私たちが留意すべき点

 マルクスは、「労働の社会的性格が商品の貨幣定在として表れ、したがって現実の生産の外にある一つの物として現れるかぎり、貨幣恐慌は、現実の恐慌にはかかわりなく、またはそれの激化として、不可避である」と言っていますが、資本主義的生産様式は商品生産の基礎の上に成り立つことによって、あらゆるものを「商品」にし「貨幣定在」にします。そして、資本主義の発展とともに「貨幣資本」も増大していきますから、恐慌の前の繁栄期には不動産を中心とする高額の「商品」はより高額になり、庶民ですら「借り入れた他人の資本そのもの」によって資産を形成して消費を拡大し、実体経済を拡大して「繁栄期」を謳歌します。(このことについては、「第三三章」P685でも触れられています。)それが崩壊したのが「リーマン・ショック」です。不破さんは、産業循環のほんの一部にしがみついて自論を展開するのをやめて、現実を直視すべきです。

 またこの「章」では、「労働力にたいする需要の増大」の効果が述べられていますが、私が「しつこく」日本経済の空洞化と「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」の「賃金を上げれば景気はよくなる」というグローバル資本の行動を見ない謬論を「口撃」しているのは、このことに根拠があります。そして、「日本経済の空洞化」を回復することは、労働者階級だけでなく、グローバル資本以外のすべての者にとって利益になります。

 なお、「第三二章 貨幣資本と現実資本Ⅲ(結び)」の抜粋、概要等、より詳しい内容は下記のPDFファイルを、是非、参照して下さい。

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「第三三章 信用制度のもとでの流通手段」の要約と現代の私たちが留意すべき点

「第三三章」の要約

流通手段の節約と流通手段の量と利子率

 流通手段を節約する方法はすべて信用にもとづいている。しかし、流通手段として流通する貨幣の速度は、売買の流れに、支払の連鎖にかかっているので、改良された交通手段も流通手段の節約に寄与する。

 現実に流通する貨幣と流通銀行券の量は、流通の速度と諸支払の節約とを与えられたものとして前提すれば、諸商品の価格と諸取引の量とによって規定されており、ただ取引そのものの要求に応ずるのであって、余分な銀行券はすべてただちにその発行者のもとに帰ってくる。だから、銀行券の流通は、イングランド銀行の意志にはかかわりがなく、これらの銀行券の兌換可能性を補証する銀行地下室内の金準備高にもかかわりがない。

 通常は、通貨の絶対量は利子率には影響しない。通貨の絶対量が利子率に規定的に作用するのは、ただ逼迫期だけのことである。

投機の時期の高い利子率

 信用の遍歴騎士たちが高い利子を支払うことができるのは、彼らはそれを他人のポケットから支払い、その間、見込み利潤で景気よくやって行けるからである。還流は前貸制度によってまったく詐欺的なものになるが、まさにそのために製造業者などにとっても実際に非常に有利な取引ができるようになることもありうるのである。

恐慌のときの貨幣と信用

 手形の流通量は、銀行券のそれと同じに、まったくただ取引上の必要によって規定されているが、貨幣の不足な時期には手形の量がふえて質がわるくなり、恐慌時には手形流通は不能になる。恐慌が突発すれば、市場にある支払手段を求めてほんとうの障害物競走が始まり、だれもが手に入れられるだけの銀行券をしまいこんでしまう。こうして、銀行券はそれが最も必要とされるその日に流通から姿を消してしまうのである。恐慌のときには信用主義から重金主義への急展開が起きる。

 世界市場貨幣の蓄蔵は、信用貨幣すなわち銀行券の兌換性の保証として役だつが、金の流出による金属準備が減少するのに連動して、それにともなって入ってくる銀行券を廃棄すれば、それだけ恐慌を激化させることになる。

イングランド銀行の「資本」の創造とその力

 イングランド銀行が金属準備によって保証されている以上に銀行券を発行する場合、それは、単に流通手段を増やすだけではなく、架空のだとはいえ、資本をも形成する。同じことは、もちろん、銀行券を発行する個人銀行にもあてはまる。さらに、銀行はそのほかにも資本を創造する手段をもっている。

 イングランド銀行の力は、この銀行が利子の市場率の調節を行なうことができることに現れている。

 さらに集中について述べなければならない!

 いわゆる国立銀行とそれを取り巻く大きな貨幣貸付業者や高利貸しを中心とする信用制度は、巨大な集中であって、それは、この寄生階級に、単に産業資本家を周期的に減殺するだけではなく危険きわまる仕方で現実の生産に干渉もする法外な力を与えるのである。しかもこの仲間は生産のことはなにも知らず、また生産とはなんの関係もないのである。

現代の私たちが留意すべき点

 「投機の時期の高い利子率」に関しては、先の「『第三二章』の要約と現代の私たちが留意すべき点」で述べたのでもう一度参照して下さい。

 関連して、エンゲルスの挿入文に、つぎのような文章があります。

「恐慌が突発すれば、問題はただ支払手段だけである。……市場にある支払手段すなわち銀行券を求めてほんとうの障害物競走が始まる。だれもが手に入れられるだけの銀行券をしまいこんでしまい、こうして、銀行券はそれが最も必要とされるその日に流通から姿を消してしまう。」(P676 )

 この「エンゲルスの挿入文」そのままの事態が二一世紀になって起こりました。それは、2008年9月15日に米証券大手リーマン・ブラザーズ(総資産約60兆円)が経営破綻し、それをきっかけに、世界経済が「100年に一度」の「危機」に見舞われたときです。

 日本銀行は、いつも通り、9月16日~17日に定例の金融政策決定会合を開き、金融政策の現状維持を全員一致で決めます。しかし、日銀は、その翌日、18日の午後3時から臨時会合を開き、白川日銀総裁は「非常に急なことでまことに申し訳なかった」と言って頭を下げます。日銀が通常の会合を終えたその翌日に再び政策委員を招集するのは、歴史上初めてのことです。中曽市場局長は「市場にショックの波が走っている。ドル資金の極端な抱え込みが市場を逼迫させている」と、市場でドルが枯渇するという異常事態が起きていることを説明します。この会合で、日米欧の主要6中銀で総額約19兆円のドル資金を市場に供給する協調策に日本銀行が参加することを決定し、白川総裁は「日本の金融機関の外貨繰りが急に逼迫している印象は絶対に与えない」と力を込めたという。※この文章は、日銀が2019年1月29日に2008年7~12月の金融政策決定会合の議事録を公開したのにともなう『日本経済新聞』(2019年1月30日付け朝刊)の「特集」記事に依拠しています。

 なお、この時のトラウマがグローバル資本に内部留保を増やさせたという者もいます。

 リーマン・ショックは、信用・「架空の資本」による錬金術にもとづく需要創出とそれ無しには十分な経済の発展が図れない経済システムの矛盾を白日の下に晒しだしましたが、残念ながら日本の「革命党」にはマルクス・エンゲルスのような感受性と理性とエネルギーをもった指導者はいませんでした。

 第三三章を学び、実物経済と貨幣の量との関係をしっかり理解して、「諸商品の価格と諸取引の量」が同じなかで「通貨の絶対量」を拡大するアベノミックス・日銀の「量的緩和」政策をみると、それは、貨幣資本の過剰をもたらしマネーゲームの基盤を拡大させるだけで経済を根本から強くするものではないことがよく分かります。マルクスの言う「寄生階級」の力を強め、資本主義的生産様式を「貨幣貸付業者や高利貸し」が儲かるようにますます歪めるだけです。

 なお、「第三三章 信用制度のもとでの流通手段」の抜粋、概要等より詳しい内容は下記のPDFファイルを、是非、参照して下さい。

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第三部「第三三章 信用制度のもとでの流通手段」の概要.pdf
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「第三四章 通貨主義と一八四四年のイギリスの銀行立法」のポイントと現代の私たちが留意すべき点

「第三四章」のポイント

 エンゲルスは第三部の「序文」で、「『混乱』からあとの、そしてすでにそれ以前の箇所で取り入れられなかったかぎりでの、すべてのこれらの材料から、私は第三三~三五章をまとめ上げた」と述べていますが、第三四章は「エンゲルスの加筆部分」がたいへん多い章ですが、エンゲルスの加筆によって一つのまとまった「章」に仕上げられています。「第五篇」のエンゲルスの編集について〝辛口〟過ぎる大谷氏も、先に見たとおり、〝ただただ見事〟と「評価」するほどです。

恐慌を激化させるイギリスの銀行立法

 一九世紀の商業恐慌、ことに一八二五年および一八三六年の大恐慌は、ブルジョア的生産過程のあらゆる要素の抗争がそこで激発する世界市場の大暴風雨だったのに、その根源も防止策もこの過程の最も表面的で最も抽象的な部面である貨幣流通の部面のなかで求められた。しかし、その激烈な強暴な形態、その恐慌形態は、信用制度が発達している時代に属するのだから、銀行券の発行は正確に金属流通の諸法則に従って調節されるのではなく、したがって、貨幣の流通が恐慌の根源でないことは明らかである。

 しかし、過剰生産には目もくれようとしない産業家や商人の利己的盲目と過剰生産などというものは俗流経済学によればばかげたことであり不可能事であるという観念とが人々の頭の中に混乱をひき起こし、この混乱が、オーヴァストーンを先頭とする通貨学派の、国内に貨幣が多すぎたので商品が高すぎたのであり、高い利子率や製造工業の不況は産業や商業の目的に充用できる物的資本の減少の必然的な結果であり、十分な資本がないために起きる貨幣逼迫や高い利子率は、銀行券の発行をふやすことによって緩和することはできない、厳密に金属流通の諸法則に従う理想的紙券流通が実行されれば恐慌は永久に不可能にされるという主張、その独断説を国民的規模で実行に移すことを許したのである。一八四四/四五年の銀行立法はこうして通過したのである。

 こうして、流通手段の量は、まさにそれが最も多く最も切実に必要になる瞬間に縮小されるのである。一八四四年の銀行法は、直接に全商業界をそそのかして、恐慌が起こりそうになるといち早く銀行券の予備を貯えさせ、したがって恐慌を速くさせ激しくさせるのである。

 しかし、恐慌の原因は、産業や商業の目的に充用できる物的資本の減少の必然的な結果でも、国内に貨幣が多すぎたので商品が高すぎたのでもなく、物的商品資本が倉庫にあふれているのにそれがまったく売れなかったということ、また、それだからこそ、売れもしない商品資本をこれ以上生産しないようにするために、物的生産資本が全部かまたは半分も遊休していたということ、そして何よりも、当面支払うべき貨幣が無いために信用の連鎖が破壊されたことにあったのである。

 だから、一八四七年一〇月二五日の政府書簡(銀行法の停止──青山)によって銀行券発行の増額が許可されただけでも恐慌のほこ先を折るのには十分だった。

銀行立法で誰がもうけたか

 銀行立法による「イングランド銀行は金準備なしでは一四〇〇万を越える銀行券を発行してはならないという規定、銀行部は普通の銀行として管理されるべきで貨幣過剰期には利子率を引き下げ逼迫期には引き上げるべきだという規定」、イングランド銀行券の信用はすべての専門家によって不動なものと認められているのに、「それにもかかわらず、銀行法は九〇〇万~一〇〇〇万の金をイングランド銀行券の兌換可能性のために絶対的に固定させる」ということ、これらの規定は、「すべて利子率の引き上げに帰着する。」だから、銀行立法の現在の制度は、「産業の利潤を周期的に高利貸の財布に入れるにはまったく巧妙な制度だというわけ」である。

マルクス・エンゲルスは「通貨主義派」でも銀行主義論者でもない

 エンゲルスは、この派(通貨主義者)を批判するトマス・トゥックらの銀行主義論者たちも「貨幣と資本との関係がどんなにわかっていなかったか」については、再三、「第三部の第二八章で見てきたところである」ことを述べています。

現代の私たちが留意すべき点

 「第三四章」は、「恐慌」と「貨幣」に対する誤った見方とそれに伴う誤った「銀行立法」、そしてその結果として誰が利益を上げるかが述べられています。

 いまの日本は、「貨幣」が不足していないのに、日銀が、国債を買うだけでなく株まで買って、市場にジャブジャブ資金を供給し、株高・資産高を起こそうと躍起になっていますが、成功する見込みはまったくありません。そこまで、日本経済は疲弊してしまっています。

 「第四四九六号。『旺盛な輸出について言えば、……国内の取引が沈滞していれば、これは必然的に旺盛な輸出を呼び起こす。』」(P723)という文章がありますが、私たちは小学生、中学生の頃から、「日本は資源がないから、輸出立国で生きる以外に道はない」と教え込まれてきました。この教育効果は絶大です。輸出中心の一本足打法の哲学が国民の意識に染みついています。だから、黒字がどんなに大きくなっても「輸出」を拡大し続けてきました。そのことをマルクスは皮肉まじりに「節度ある勤勉な国民は、奢侈にふける富裕な国民の需要を満たすためにその活動力を使用する。……貧しい国とは、そこの人民が安楽に暮らしている国のことであり、富裕な国とは、そこの人民が通例貧しい国のことである。」 (マルクス『剰余価値学説史』Ⅰ)と言いました。そして、「輸出」だけでは物足りず、一層の利潤の拡大を求めて国内の生産を縮小して海外での生産を拡大し、国内の「産業の空洞化」を危険水域まで推し進めてしまいました。その結果、市場にジャブジャブ資金を供給しても、疲弊しきった日本経済は資本主義的生産様式における「正常な」「産業循環」すら実現することができません。「国内の取引」は「沈滞」し続けたままです。

 私たちは、「市場にジャブジャブ資金を供給」する当面の政策を批判するだけでなく、そのような政策をせざるを得なくなった日本の経済・社会の姿を正しく国民に伝え、その変革の道を明確に示す必要があります。

 「第三四章」を読む時も、必ず、いまの日本を、一時も、忘れないで下さい。

 なお、「第三四章 通貨主義と一八四四年のイギリスの銀行立法」の要点の抜粋は、下記のPDFファイルをご覧下さい。

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「第三五章 貴金属と為替相場」の要約と現代の私たちが留意すべき点

「第三五章」の要約

 この章は、産業循環の中での、貴金属の輸出輸入と為替相場と利子率及び商品価格を扱っています。

中央銀行の金属準備と貨幣と信用

 中央銀行は信用制度の軸点である。そして金属準備はまたこの銀行の軸点である。いくらかの、といっても総生産に比べれば問題にならない量の金属が、軸点として認められている。いわゆる国立銀行の金属準備の使命は、(1)国際的支払のための準備金、(2)国内金属流通のための準備金、(3)預金支払のためや銀行券の兌換性のための準備金の三つである。だから、輸入と輸出とのどちらが優勢であるかは、だいたいにおいて中央銀行の金属準備の増減によって計られる。

 恐慌のときには次のような要求が現われる。すなわち、すべての手形や有価証券や商品を一度に同時に銀行貨幣に換えることができるべきであり、さらにこの銀行貨幣をすべて金に換えることができるべきである、という要求がそれである。

産業循環と貴金属

貴金属の輸入…恐慌のあとの二つの時期

 なお、貴金属の輸入はおもに二つの時期に起きる、一方では、利子率の低い第一の局面でのことであって、この局面は恐慌のあとに現われて生産の縮小を表わしている。そして次には、利子率は上がってくるがまだ中位の高さには達していない第二の局面でのことである。貸付資本が比較的豊富なこの二つの局面では、金銀という形態、つまりさしあたりは貸付資本としてしか機能できない形態で存在する資本の過剰な流入は、利子率に、したがってまた事業全体の調子にも、大きく影響せざるをえない。

貴金属の流出…破局の前触れの時期

 他方では、入金がもはや順調ではなくなり、市場は供給過剰になって、外観上の繁栄がただ信用だけによって維持されるようになれば、したがってすでに貸付資本にたいする非常に強い需要が存在し、したがってまた利子率が少なくともすでに中位の高さに達していれば、そこには貴金属の流出、その連続的な激しい輸出が現れる。このような、まさに貴金属の流出に反映する諸事情のもとでは、直接に貸付可能な貨幣資本として存在する形態での資本を継続的に引きあげることの影響はかなり強くなる。それは直接に利子率に作用せざるをえない。ところが利子率の上昇は、信用取引を縮小させるどころではなく、かえってそれを拡大してそのあらゆる補助手段を過度に緊張させるようになる。それだから、この時期は破局の前触れになるのである。

恐慌とその後

 金属の流出は、たいていは外国貿易の状態の変化の兆候であって、この変化はまた、事情が再び恐慌に向かって成熟しつつあることの前兆である。現実の恐慌はいつでも為替相場の回転の後に、すなわち貴金属の輸入が再び輸出を越えたときに、はじめて起きた。一般的な恐慌が燃え尽きてしまえば、金銀は再び以前に各国それぞれの準備金として均衡を保って存在していたときと同じ割合で配分される。

「金属準備や為替相場と利子率」と「利子率と商品価格」

外国為替相場の変動と貴金属と利子率

 外国為替相場は、(1)当面の国際収支によって、(2)一国の貨幣の減価によって、(3)二つの国の一方は『貨幣』として銀を使用し他方は金を使用している場合には、この二つの国のあいだのこの二つの金属の相対的な価値変動によって、変動することがありうる。

 貨幣金属の国際的運動のバロメーターは周知のように為替相場である。この貴金属輸出がいくらか大きくなり、いくらか長く続くならば、イギリスの銀行準備は減らされて、イギリスの貨幣市場は、イングランド銀行を先頭として、防衛策をとらなければならない。この防衛策は、すでに見たように、おもに利子率の引上げである。

 なお、ウイルソン氏は、貴金属の輸出が為替相場に及ぼす影響を、資本一般の輸出がこの相場に及ぼす影響と同一視するという愚かな試みをやっている。そのために、もし、資本輸出が貴金属の形で行なわれるならば、この貴金属は貸付可能な貨幣資本であり全貨幣制度の基礎であるために、この貴金属を輸出する国の貨幣市場に、したがってまたその国の利子率に、直接に作用するということ、しかし、その資本輸出がレールなどの形で資本が送られるならば、それは為替市場にはなんの影響も与えることはなく、貨幣市場にも影響を及ぼす必要はないということ、このことが、ウイルソン氏には理解できないのである。

 なお、「為替相場が変動しても利子率は不変でありうるし、また利子率が変動しても為替相場は不変でありうるのである。」(P750)と述べられていますが、貨幣流通量を中央銀行が変えずに、為替相場または利子率が変動した場合は、「為替相場」と「利子率」との間には相関関係があります。

商品の価格と貨幣利子

 ウイルソンは、商品が多すぎれば貨幣利子は低くなければならないし、商品が乏しければ貨幣利子は高くなければならないというが、物価の下落が利子の下落と同じだということはない。むろん、この二つが同時に並存することもありうるが、それは、産業資本の運動にもとづく物価の動向と、貸付可能な貨幣資本の運動にもとづく利子の動向とが一致する場合であって、それらの同一性の表現としてではないのである。※利子率を低くすれば産業資本の運動が起きる分けでもないし、利子率を低くすれば物価が低くなる分けでも高くなる分けでもない。

「金属準備や為替相場と利子率」と「利子率と商品価格」

 ハッパードの表は、利子率と商品価格とはまったく互いに無関係な運動をするが、利子率の運動は金属準備や為替相場の運動に正確に適合するということを証明している。

重金主義と信用主義

 重金主義は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から解放されないのである。

現代の私たちが留意すべき点

 まず、私たちが留意すべき点は、「第三五章 貴金属と為替相場」においても、「金属準備」や「為替相場」や「利子率」等を資本主義的生産様式における「産業循環」のなかにしっかりと位置づけている点です。「恐慌」問題で「信用」にもとずく「価値実現の短縮」による「架空の需要」だけしか眼中にない不破さんとは大きな違いがあります。

 そして、この章で述べられている商品の価格と貨幣利子との関係については、もう一度しっかりと理解しておきましょう。ブルジョア経済学のエセ理論──経済成長のためには2%程度の物価上昇が必要だ、そのためにはマネーの供給量を増やす必要があるという──にもとづいて、いま、ヨーロッパやアメリカ、そして、日本の金融政策が実行されていることを再認識してください。

 なお、「第三五章 貴金属と為替相場」の要点の抜粋は、下記のPDFファイルを参照して下さい。

 さて、それでは次に、「恐慌問題。マルクスの文章のエンゲルスによる改作」という「節」の不破さんのエンゲルスに対する誹謗・中傷を見てみましょう。

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エンゲルスを誹謗しようとして、無知をさらけ出した不破さん

 不破さんは、「なお、これまで見てきた部分に、マルクスの恐慌論、あるいは経済循環論のうえで重要な命題があるので、補足として、紹介します。」と、「恐慌問題」にかこつけてエンゲルスに噛みつき、「エンゲルスによる恐慌論の改変は、信用論のほかの箇所でも見られますので、要注意というところです。」と、まるでエンゲルスが不破さん同様のペテン師ででもあるかのような心象を読者に与えようとします。

 不破さんが噛みついた文章は、下記の文章の「すべての現実の…」以下の部分です。

「労働者たちの消費能力は、一方では労賃の諸法則によって制限されており、また一方では、労働者は資本家階級のために利潤をあげるように充用されうるかぎりでしか充用されないということにとって制限されている。すべての現実の恐慌の究極の原因は、やはり、資本主義的生産の衝動に対比しての大衆の窮乏と消費制限なのであって、この衝動は、まるでただ社会の絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのように生産力を発展させようとするのである。」(第三〇章、大月版⑤P619)

 不破さんは、草稿は、「すべての現実の恐慌の究極の原因は、どこまでも、一方では大衆の窮乏、他方では生産諸力を、その限界をなすものがあたかも社会の絶対的な消費能力であるかのように発展させようとする、資本主義的生産様式の衝動なである」となっていて、マルクスは、「『大衆の窮乏』を自分でつくり出しておきながら、そんな制限など存在しないかのように、生産諸力を無制限に発展させようとする『資本主義的生産の衝動』そのものに焦点をあてた、生き生きした、能動的な告発の文章となってい」るのに、「エンゲルスの改作版では、それが消えて、二つの矛盾する傾向を指摘するだけの静態的な文章に変わっています。」と言うのです。

 上記の文章は、言わずもがなだと思いますが、まさに「すべての現実の恐慌の究極の原因」を捉え、資本主義的生産様式の矛盾を暴露したもので、下記の内容を述べています。

 すべての現実の恐慌の究極の原因は、やはり、資本主義的生産の衝動──この衝動とは、まるでただ社会の絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのように生産力を発展させようとするところの衝動──に対比しての大衆の窮乏と消費制限──それは、労賃の諸法則によって制限され、それとともに、労働者は資本家階級のために利潤をあげるように充用されうるかぎりでしか充用されないということにとって制限されているところの労働者たちの消費能力の制限──なのである。※なお、マルクスは、「社会の絶対的消費能力」と言っていますが「社会の絶対的生産能力」いうほうが正しいと思います。つまり、資本の無限の利潤拡大への衝動です。

 私は、大谷氏の『マルクスの利子生み資本論』(③P446)で草稿の日本語訳を読んだとき、「恐慌の究極の原因」をマルクスが「一方」と「他方」と言って強調して読者に明確に提示するのはいいが、「他方では」以下がわかりにくい文章だったんだなと思うとともに、エンゲルスの編集をもとにした日本語訳のわかりやすさに敬意を表した次第です。

 だから、不破さんの推奨する「すべての現実の恐慌の究極の原因は、」「一方では大衆の窮乏、」「他方では生産諸力を……発展させようとする、資本主義的生産様式の衝動なである」と書いてある『資本論』を読まされた人は、「一方では大衆の窮乏」に対応するものが「資本主義的生産様式の衝動」だというのを読んで、「資本の衝動」でも「資本主義的生産の衝動」でもない「資本主義的生産様式の衝動」とは何かと、悩まれたことでしょう。

 そして、不破さんの言う、マルクスが、「『大衆の窮乏』を自分でつくり出しておきながら、そんな制限など存在しないかのように、生産諸力を無制限に発展させようとする『資本主義的生産の衝動』」そのものに焦点をあてたという表現は正しくありません。マルクスは、「恐慌の究極の原因」について、「一方」として「大衆の窮乏と消費制限」をあげ「他方」として「資本主義的生産の衝動」をあげていますが、「そんな制限など存在しない」ようになれば「恐慌」が無くなるわけではありません。マルクスは、「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」が「労働者階級はそれ自身の生産物のあまりにも少なすぎる部分を受け取っているのだから、労働者階級がもっと大きな分けまえを受け取り、したがってその労賃が高くなれば、この害悪(恐慌──青山補足)は除かれるだろう」(大月版『資本論』第2巻P505~506)と考えることの誤りを指摘していますが、不破さんの上記のような表現は読者を誤った理解に誘うものです。

 そして、不破さんは、「賃金が上がれば経済が良くなる」といって、「他方」の「資本主義的生産の衝動」の現れである資本のグローバルな展開を視野の外に置いてしまいます。 不破さんは、このように「恐慌問題」にかこつけてエンゲルスに噛みつき、エンゲルスに対するいわれのない中傷をおこないましたが、畢竟、「不破さん」とは、マルクスのいう「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の一人であり、「恐慌問題」を正しく理解していない人であることを暴露しただけでした。

恥の上塗りをする不破さん

 それだけではありません。不破さんは、「エンゲルスの恐慌論について」という注意書きまでつけて、「推測」という「偽情報」まで流します。「噛みつきがめ」のように噛みつく、不破さんの「推測」を見てみましょう。

  不破さんは、「エンゲルスは、恐慌の原因をもっぱら資本主義的生産の『無政府性』に求める、という独特の恐慌論をもっていました。(『空想から科学へ』など参照)。それが、ここに直接影響したとする証跡はありませんが、恐慌問題でのマルクスの文章を安易に書き換えてしまうという編集態度には、そのことも多少は影響していたかもしれません。」と、言います。

 あらゆる前提ぬきで、この文章を見ただけでも、この文章を書いた人は、科学的社会主義の思想からはほど遠いところにいる人だということがわかります。「証跡」がなくて類推するのであれば、少なくともエンゲルスが「恐慌の原因」を二つに明定した理由を「資本主義的生産の『無政府性』」から理論的に導き出すくらいのことをするのは「科学」をかたる人の最低限の義務でしょう。しかし不破さんは、なんの根拠も示さずに「独特の恐慌論」をもっていたから「マルクスの文章を安易に書き換え」「たのかもしれません。」と言うのです。私たちは、こういうふうに、マルクス・エンゲルス・レーニンに対して「推測」という「偽情報」を好んで流す人たちのことを〝札付きの反共主義者〟と呼んできました。

 不破さんは、エンゲルスが、「恐慌の原因をもっぱら資本主義的生産の『無政府性』に求める、という独特の恐慌論をもっていました」と言いますが、『空想から科学へ』を読めば分かるとおり、エンゲルスは「恐慌」を「生産手段の膨張力」が「資本主義的生産様式がそれにはめた束縛を爆破する」行為とみており、まさにここで述べられていることとまったく同じです。これがどうして、「恐慌の原因をもっぱら」生産の「無政府性」に求めていることになるのでしょうか。※詳しくは、ホームページ4-14「☆科学的社会主義の旗を掲げて共に闘ったマルクスとエンゲルスが、経済(社会の土台)についての共通認識を持っていなかったという不破さんの無責任な推論」を、是非、参照して下さい。

 ただし、科学的社会主義の経済学は〝資本主義的生産の無政府性〟を生産の社会的性格が発展した資本主義的生産様式の致命的弱点、社会主義・共産主義の社会へのパラダイムシフトの最大の理由の一つと考えてきました。

 「資本主義的生産の無政府性」の意味を理解できない不破さんと不破さんのエセ「科学的社会主義」に騙されている人のために、資本主義的生産の無政府性についての『資本論』での論及と資本主義的生産様式がもつ二つの矛盾──マルクスの言う「基本的矛盾」とエンゲルスの言う「根本矛盾」──について、簡単に触れさせていただきます。

資本主義的生産の無政府性について

「(1)商品としての生産物の性格と、(2)資本の生産物としての商品の性格とは、すでにすべての流通関係を含んでいる。……前述の二つの性格、すなわち、商品としての生産物の性格、または資本主義的に生産された商品としての商品の性格からは、価値規定の全体が、また価値による総生産の規制が、生ずる。価値のこのまったく独自な形態では、一方では、労働はただ社会的労働として認められるだけであり、他方では、この社会的労働の配分も、その生産物の相互補足すなわち物質代謝も、社会的連動装置への従属や挿入も、個々の資本家的生産者たちの偶然的な相殺的な活動に任されてある。資本家的生産者たちは互いにただ商品所有者として相対するだけであり、また各自が自分の商品をできるだけ高く売ろうとする(外観上は生産そのものの規制においてもただ自分の恣意だけによって導かれている。)のだから、内的な法則は、ただ彼らの競争、彼らが互いに加え合う圧力を媒介としてのみ貫かれるのであって、この競争や圧力によってもろもろの偏差は相殺されるのである。ここでは価値の法則は、ただ内的な法則として、個々の当事者にたいしては盲目な自然法則として、作用するだけであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な諸波動のただなかをつうじて維持するのである。」(大月版『資本論』⑤P1124-1125)

「資本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、(資本の──青山)厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程の、完全な階層性として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している。──といっても、この権威の担い手は、ただ労働に対立する労働条件の人格化としてのみこの権威をもつのであって、以前の生産形態でのように政治的または神政的支配者として権威をもつのではないのである。──ところが、この権威の担い手たち、互いにただ商品所有者として相対するだけの資本家たち自身のあいだでは、最も完全な無政府状態が支配していて、この状態のなかでは生産の社会的関連はただ個人的恣意にたいする優勢な自然法則としてその力を現わすだけである」(同上P1126)

 このように、「資本主義的生産の無政府性」は互いに競争する資本家たちがつくる「無政府性」であって、それは、資本主義の発展とともにますます強くなる生産の社会的性格と矛盾します。

マルクスの言う「基本的矛盾」とエンゲルスの言う「根本矛盾」

 マルクスは、資本主義的生産の矛盾について、『資本論』第3巻 第1分冊(大月『資本論』 ④ P306-7)で、「社会の消費力は、さらに蓄積への欲求によって、すなわち資本の増大と拡大された規模での剰余価値生産とへの欲求によって、制限されている。これこそは資本主義的生産にとっての法則」であり、資本主義的生産には「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」があることを述べています。これが、マルクスの言う「基本的矛盾」です。

 マルクスは、同時に、『資本論』第3巻 第2分冊(大月『資本論』⑤ P1129)で、「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿(=私的資本主義的分配と資本主義的生産関係──青山)と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展(=社会化された生産力とその一つ一つの生産能力およびその発展可能性──青山)とのあいだの矛盾と対立」について述べています。これは、資本主義を終わらせなければ解決しない資本主義的生産様式がもつ「根本矛盾」なのです。だから、エンゲルスはこの矛盾を「根本矛盾」と言いました。

 このように、マルクスは資本主義の矛盾について二つの矛盾を述べており、一つは資本主義的生産に内在する矛盾で「基本的矛盾」といい、もう一つは分配関係・生産関係と社会的生産力とのあいだの矛盾と対立で、エンゲルスのいう「根本矛盾」です。この「根本矛盾」=「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」があるからこそ、資本主義的生産様式は社会的生産力発展の「桎梏」となるのです。

科学的社会主義を否定する不破さんの驚くべき主張

 「恐慌の原因をもっぱら資本主義的生産の『無政府性』に求める、という独特の恐慌論をもっていました」とエンゲルスの思想をねじ曲げる不破さんは、『前衛』2014年1月号で、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、上記のようなマルクスとエンゲルスの共通の認識を否定する、驚くべき発言をしています。詳しくは、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を、是非、参照して下さい。

 「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の一人に成り下がった不破さんは、エンゲルスをターゲットにして、マルクスの言う「基本的矛盾」とエンゲルスの言う「根本矛盾」からエンゲルスの言う「根本矛盾」を削除し、マルクスの言う「基本的矛盾」を「利潤第一主義」に矮小化して、科学的社会主義の思想の修正を完了させます。詳しくは、ホームページ4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を、是非、参照して下さい。

 その結果、不破さんは、「利潤第一主義」に懐疑的なポーズをとるだけの、立派な財界の一員である盛田昭夫氏等を天まで高く持ち上げる始末です。

 不破さんが「エンゲルスの恐慌論について」という注意書きを書いた理由は、その姑息な隠蔽工作なのかもしてませんが、お天道様は騙されません。

中国 兵馬俑

「第三六章 資本主義以前」は「利子生み資本」の一生を展望したもの

不破さんの「第三六章」の「解説」

 それでは、第五篇最後の「(11)「資本主義以前」(第三六章部分を読む」という「章」の不破さんの「解説」を見てみましょう。

 不破さんは、「資本主義以前」つまり、資本主義的生産様式のもとにおける信用制度の成立史、「資本主義以前」をはしょって、あらためて信用と貨幣との関係そして信用制度のもつ意味について述べられているところから「解説」をはじめます。

 まず、「信用=銀行制度が果たす」「社会的機能」を列挙し、これらの機能によって、「資本主義的生産様式の運命にかかわる二面的な結果を引き起こす」ことが述べられ、「信用=銀行制度」について、「マルクスが、資本主義社会の内部で社会主義社会の諸要素を準備するものとして、特別の注意を向けている」ことを指摘し、「レーニンも注目」していることを述べます。

 そして最後に、この章の最後のパラグラフの一部をとりだして、「現代における社会変革の展望にも、多くの示唆を含む文章」であることを述べ、「信用=銀行制度」の研究が、「『資本論』全体のなかでも、未来社会について最も多くの示唆を含む篇の一つとなった」と言います。

「第三六章 資本主義以前」の概要と現代の私たちが留意すべき点

 これらを踏まえて、これから、第五篇最後の「章」、「第三六章 資本主義以前」を一緒に見ていきたいと思いますが、不破さんは、何をもって、「信用=銀行制度」の研究が、「『資本論』全体のなかでも、未来社会について最も多くの示唆を含む篇の一つとなった」と言っているのか、なんの説明もしていませんが、このホームページを一緒にご覧頂ければ分かるとおり、マルクスとエンゲルスは、第五篇までの第三部全体を通じて資本主義的生産様式に未来がないことを明らかにするとともに、この章の最後のパラグラフで〝未来社会についての最も肝心な示唆の一つ〟を行なっています。しかしそれは、最後のパラグラフで不破さんが省略した部分に書かれています。

 不破さんが省略した部分に書かれている「利子生み資本」のもつ究極の意味を不破さんが理解できず、スルーしてしまったのは、「第三六章 資本主義以前」の「解説」で、「資本主義以前」をはしょってしまった不破さんへの、天罰なのでしょうか。

「第三六章」の要約

高利資本の存立条件

 高利資本の存在のためには、生産物の少なくとも一部分が商品に転化しており商品取引と同時に貨幣がそのさまざまな機能において発展しているということのほかには、なにも必要ではない。 支払手段としての貨幣の機能こそは、利子を、したがってまた貨幣資本を発展させる。利子によって蓄蔵貨幣は資本に転化される。

高利資本の存在形態

 資本主義的生産様式以前の時代に高利資本がとる特徴的な存在形態は、①浪費をこととする貴人、おもに土地所有者への高利での貨幣貸付、②自分自身の労働条件をもっている小生産者への高利での貨幣貸付の二つがある。資本主義以前の状態にあっては、利子生み資本の特徴的な形態としての高利資本は、小生産の優勢に、すなわち、その大多数を占める自営農民や小手工業親方の優勢に、対応している。貧しい小生産者から搾取する高利が、富裕な大土地所有者から搾取する高利と手をつないで行くのである。

高利資本の社会的影響

 高利は、古代的および封建的富にたいしても、古代的および封建的所有にたいしても、転覆的破壊的に作用する。高利は、小農民的および小市民的生産を、要するに生産者がまだ自分の生産手段の所有者として現われているようなすべての形態を、転覆し破滅させる。 高利は、生産手段は分散されているのに貨幣財産を集中する。高利は生産様式を変化させないで寄生虫としてそれに吸いつき、それを困窮させる。高利は生産様式を搾取し、それを衰弱させ、そして、再生産にますますみじめな条件のもとで行なわれることを強制する。それだからこそ、高利にたいする民衆の憎悪は古代世界で最も激しかったのである。

 資本主義以前のすべての生産様式のもとで高利が革命的に作用するのは、ただ、高利が所有形態を破壊し分解するからである。

信用制度のもとでの高利資本と信用制度のもとでの企業家支援

 信用制度の発展は高利にたいする反作用として実現された。このことが意味しているのは、利子生み資本が資本主義的生産様式の諸条件と諸要求とに従属するということ以上のなにものでもないし、またそれ以下のなにものでもない。

 利子生み資本は、資本主義的生産様式の意味では借入れがなされないような、またなされることができないような、諸個人や諸階級にたいしては、またはそのような事情のもとでは、高利資本の形態を保持する。

「財産もない男が産業家や商人として信用を受ける場合でさえも、それは、彼が資本家として機能し借りた資本で不払労働を取得するであろうということが信頼されて行なわれるのである。彼に信用が与えられるのは、潜勢的な資本家としての彼に与えられるのである。そして、経済学的弁護論者たちによって非常に賛嘆されるこの事情、すなわち、財産はないが精力も堅実さも能力も事業知識もある一人の男がこのようにして資本家に転化することができる──じっさいおよそ資本主義的生産様式のもとでは各人の商業価値が多かれ少なかれ正しく評価されるのだ──というこの事情は、既存の個々の資本家にたいしては絶えず多数のありがたくない新たな射幸騎士を戦場に連れ出すとはいえ、資本による支配そのものを強固にし、この支配の基礎を拡大して、それが社会の下層からの新鮮な力によって絶えず補充されることを可能にするのである。……被支配階級の最もすぐれた人物を自分のなかに取り入れる能力が支配階級にあればあるほど、その支配はますます強固でますます危険なのである。」(P775)

資本主義の発展にともなう信用制度の発展

「一二世紀および一四世紀にヴェネツィアやジェノヴァでつくられた信用組合は、昔ながらの高利の支配や貨幣取引の独占から解放されようとする海上貿易とそれに基礎を置く卸売商業との要求から生まれたものである。……かの信用組合をつくった商人たちは、彼ら自身これらの国の一流人物であり、したがってまた、自分たちの政府と自分たち自身とを高利から解放すると同時にそれによってますます確実に国家を自分たちに従属させることに関心をもっていた、ということである。」(P776)

「一六〇九年のアムステルダム銀行も、ハンブルグ銀行(一六一九年)も、近代の信用制度の発展のなかで一時期を画するものではない。それは純粋な預金銀行だった。……しかし、オランダでは商業や製造工業といっしょに商業信用や貨幣取引業が発展したのであって、利子生み資本は発展行程そのものによって産業資本や商業資本に従属させられていた。… 一八世紀の全体をつうじて、オランダにならって、利子生み資本を商業資本と産業資本に従属させてその逆にはならないようにするために、利子率の強制的な引下げを求める叫びが響いた──そして立法はこの趣旨で行動した。」(P777)

あらためて、信用と貨幣との関係と信用制度のもつ意味について

「しかし、けっして忘れてならないのは、第一には、相変わらず貨幣──貴金属の形態での──が土台であって、この土台から信用制度は事柄の性質上けっして離脱することができないということである。第二には、信用制度は私人の手による社会的生産手段(資本や土地所有の形態での)の独占を前提するということであり、信用制度はそれ自身一方では資本主義的生産様式の内在的形態であるとともに他方ではこの生産様式をその可能なかぎりの最高最終の形態まで発展させる推進力だということである。

 ……この資本の貸し手もその充用者もこの資本の所有者でもなければ生産者でもないのである。このようにして信用・銀行制度は資本の私的性格を廃棄するのであり、したがって潜在的に、しかしただ潜在的にのみ、資本そのものの廃棄を含んでいるのである。銀行制度によって、資本の分配は、私的資本家や高利貸の手から、一つの特殊な業務として、社会的な機能として、取り上げられている。しかし、これによって同時に銀行と信用とは、資本主義的生産をそれ自身の制限を越えて進行させる最も強力な手段となり、また恐慌や思惑(詐欺的幻惑)の最も有効な媒介物の一つとなるのである。」(P782-783)

資本主義的生産様式の産物としての信用制度を結合労働の生産様式の社会への槓杆に

「最後に、資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろうことは、少しも疑う余地はない。とはいえ、それは、ただ、生産様式そのものの他の大きな有機的な諸変革との関連のなかで一つの要素として役だつだけである。これに反して、社会主義的な意味での信用・銀行制度の奇跡的な力についてのもろもろの幻想は、資本主義的生産様式とその諸形態の一つとしての信用制度とについての完全な無知から生まれるにである。生産手段が資本に転化しなくなれば(このことのうちには私的土地所有の廃止も含まれている)、信用そのものにはもはやなんの意味もないのであって、これはサン・シモン主義者たちでさえも見抜いていたことである。他方、資本主義的生産様式が存続するかぎり、利子生み資本はその諸形態の一つとして存続するのであって、実際にこの生産様式も信用制度の基礎をなしているのである。」(P783)

 以上が「第三六章」の概要です。

 なお、この章の中で、マルクスがサン・シモンについて、オーエンと対比して、厳しい評価をしていることに関して、サン・シモンに対するマルクスのその後の評価を踏まえ、エンゲルスは文中の「注」で、マルクスへの優しいまなざしをもって、訂正しています。このことを不破さんは『前衛』2014年1月号で「相当なサン・シモンびいきでしたね。」(P89)とエンゲルスを嘲笑しています。

  また、エンゲルスが不正確な表現を用いた場合(『国家と革命』国民文庫P98参照)でも、レーニンはそれを責めることなどしていませんが、不破さんは、議会を通じての「革命」などできない情勢、歴史的な時期に、そのことを明確にしたレーニンの文章の一部を抜き出してレーニンを全否定し、悪口を言います。この不破さんの態度は、共産党が科学的社会主義の立場に立っていて元気だった頃、「毛沢東一派」と闘った「4.28論文」のスタンスとはまったく異なりますが、不破さんは、2017年8月1日から14回にわたって『しんぶん赤旗』を占拠して掲載された「『資本論』刊行150年に寄せて」という科学的社会主義の思想の「修正」文章の第9回「マルクスの未来社会論(1)」で、共産党が輝きを増してきた60年代後半の理論的到達点(「4.28論文」)を否定して「レーニンの誤解をただし」たと真っ赤なウソをつきます。(詳しくは、ホームページ4-26-3「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その3)」を、是非、お読み下さい。)

 マルクスのサン・シモンの評価へのエンゲルスの優しいまなざし、レーニンのエンゲルスへの優しいまなざし、これらと不破さんのマルクス・エンゲルス・レーニンへの接し方とは、大きく異なります。どうして、不破さんは、同志的なあたたかい眼差しでエンゲルスやレーニンを見ることができないんでしょうか。それは、不破さんにとっては、同志ではないからなのでしょうか。

現代の私たちが留意すべき点

信用制度のもとでの企業家支援と高利貸し

 「財産はないが精力も堅実さも能力も事業知識もある一人の男がこのようにして資本家に転化することができるという」、「経済学的弁護論者たちによって非常に賛嘆される」、信用制度のもとでの起業家支援策や中小企業支援策は、資本による「支配の基礎を拡大して、それが社会の下層からの新鮮な力によって絶えず補充されることを可能に」し、「被支配階級の最もすぐれた人物を自分のなかに取り入れ」、その支配をますます強固にするだけでなく、国民に資本主義の幻想を植えつけるうえでも非常に重要です。私たちはそのことをしっかり見ておく必要があります。

 同時に、資本主義的生産様式の意味では借入れができないような諸個人や諸階級にたいしては、利子生み資本は、資本主義的生産様式以前の時代の産物である「高利資本」の形態を保持しているという指摘は、いかにも資本主義らしいご都合主義を現しています。

資本主義的生産様式の産物としての信用制度を結合労働の生産様式の社会への槓杆に

 信用制度は、その貸し手もその充用者もこの資本の所有者でもなければ生産者でもなくすることによって、資本の私的性格を廃棄し、潜在的に、資本そのものの廃棄を含んだものとし、銀行制度は、資本の分配を一つの特殊な業務として、社会的な機能とし、資本主義的生産様式をその可能なかぎりの最高最終の形態まで発展させる推進力となるとともに、銀行と信用とは、資本主義的生産をそれ自身の制限を越えて進行させる最も強力な手段となり、また恐慌や思惑(詐欺的幻惑)の最も有効な媒介物の一つとなります。

 このように、第五篇の最後の「章」である第三六章は、大谷氏の言う「信用制度概説」である「第二七章」で述べられている、信用制度が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということということを、再確認しています。私たちは、この意味を、労働者階級・国民に分かりやすくしっかりと伝えなければなりません。労働者階級・国民をバカにして、「賃金が上がれば経済が良くなる」としか言わず、労働者階級・国民を眠り込ませる人たちは、科学的社会主義の思想とは無縁の人たちです。だから、そのような人たちは、ここで、いま私が述べているようなことなど一言も言おうとはしません。

「利子生み資本」の未来

 「利子生み資本」の資本主義以前を一瞥してきた「第三六章」は、最後に、利子生み資本の未来を展望します。資本主義的生産様式から結合労働の生産様式の社会へ移行が行なわれるということは、信用制度の基礎をなす生産様式がなくなり、生産手段が資本に転化しなくなり貨幣が利子を生まなくなるということです。貨幣が利子を生むことを前提とする「信用制度」はもはやなんの意味もなくなります。つまり、第二八章で述べられている資本主義的生産様式のもとで貨幣がもっている、①流通手段、②価値表現、③「資本」の循環形態の一局面である「貨幣資本」、④利子生み資本としての「貨幣資本」という四つの機能から③と④の機能がなくなるということです。

 関連してマルクスは、「資本主義のではなく共産主義の社会(この場合の「共産主義の社会」とはいわゆる「社会主義社会」のこと──青山)を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる。」(大月版『資本論』③P385)と言い「社会的生産では貨幣資本はなくなる。社会は労働力や生産手段をいろいろな事業部門に分配する。生産者たちは、たとえば指図証を受け取って、それと引き換えに、社会の消費用在庫のなかから自分たちの労働時間に相当する量を引き出すことになるかもしれない。この指図証は貨幣ではない。それは流通しないのである。」(大月版②P437-8)と述べています。

 なお、この点について、私は、「資本主義のではなく共産主義の社会を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる」という社会において、それがまだ「社会主義社会」であり人間の労働に依拠した社会である以上、人間の労働に根拠をおく「価値表現」はなくならないし、その価値に根拠をおく「流通手段」も必要だと考えています。

 第五篇の最後の「章」の最後の文章で、マルクスとエンゲルスが示した「結合労働の生産様式」の社会とは、「貨幣資本」のなくなった搾取のない社会の姿でした。私たちはこの「貨幣資本」の行動をしっかりつかんで余すところなく暴露しなければなりません。

 これらから、「第五篇」学習の意義は、信用制度が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということの意味をしっかりつかむとともに、「貨幣資本」の行動をしっかりつかんで余すところなく暴露することの必要性を理解することあると思います。

 そして私は、「貨幣資本」の「資本」的性格をなくしていくその度合いは、「社会的生産」の意義を社会(国民)が認識していく度合いの深さに依存していると思います。最初は企業の純利益を「株主」と社会がどう分け合うのか、そして最後は「企業」は社会のなかでどんな役割を担うのかまでの「社会」と「企業」との関係は、社会の「社会的生産」の意義の認識の度合いの深さに依存していると思います。そしてこの「社会」と「企業」との関係は、「株式」の所有のあり方と「株式」の機能の変化を通じて変化していくものと考えます。

おまけ

 なお、先ほど、不破さんが、「信用=銀行制度」について、「マルクスが、資本主義社会の内部で社会主義社会の諸要素を準備するものとして、特別の注意を向けている」ことを指摘し、「レーニンも注目」していたことを述べた旨を書きましたが、不破さんは『経済』2000年2月号で、「最後に、資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろうことは、少しも疑う余地はない。とはいえ、それは、ただ、生産様式そのものの他の大きな有機的な諸変革との関連のなかで一つの要素として役だつだけである。」という文章の中の「とはいえ、それは、ただ、生産様式そのものの他の大きな有機的な諸変革との関連のなかで一つの要素として役だつだけである」という、しごく当然な文から、レーニンにとんでもない攻撃をくわえ、自からの認識能力のなさを暴露しています。詳しくは、是非、ホームページ4-12「☆不破哲三氏によるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲」をお読み下さい。

 なお、「第三六章 資本主義以前」のより詳しい抜粋は下記のPDFファイルを参照して下さい。

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第三部「第三六章 資本主義以前」.pdf
PDFファイル 205.1 KB

お詫びとお知らせ

  私は、このページの最後で、マルクス・エンゲルスの資本主義的生産様式のもとでの産業循環の論究の総括的な姿と不破さんが発見した「恐慌の運動論」との差異を明らかにする「章」を設ける予定でした。しかし、このページ(「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)」)で取り上げた不破さんの『資本論』第三部第五篇の「解説」があまりにも真実に遠く読者をミスリードするものだったため、その害悪の暴露に想定外のページを要してしまいました。本来、PDFで50ページを限度としてこのページのボリュームを考えていましたが、すでに70ページに達し、一つのページとしての限界を超えてしまいました。ですから、残念ですが、一旦、このページを閉じることといたしました。