2-1-0

〈資本主義の社会〉と〈〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会〉との違いとは

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〈資本主義の社会〉〈〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会〉との違いとは

比較検討項目

過去の労働の蓄積である資産の役割

経済と企業の拡大のさせ方

経済と企業の発展の条件

企業の経営への参加者と経営の進めかた

民主主義

インフレ対策

 

過去の労働の蓄積である資産の役割

「資本主義の社会」は、過去の労働の蓄積である資産が「資本」として機能し、「資本」が大きくなることによって、経済が発展し社会が発展する仕組みの社会です。

 このような仕組みの社会になっている理由は、富の源泉が「資本」にあると定めることによって、生産された富を資本家のものとするためです。そして、このような仕組みの社会にした結果、経済の発展は、投入される「資本」の量に規定されることになります。

「〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会」は、人間が過去の労働の蓄積である資産を使って、経済と社会を発展させる仕組みの社会です。

 このような仕組みの社会になることができる理由は、作られた富を横取りする資本家が存在しないからです。そして、このような仕組みの社会は、「資本」による経済発展の制約がありませんから、科学技術の進歩と発展に応じて、生産性の向上と経済の発展を図ることができます。

 

経済と企業の拡大のさせ方

「資本主義の社会」は、「資本」が大きくなることによって企業も経済も発展する仕組みですが、「資本」が大きくなるためには労働者がつくった富を搾取し、その結果、労働者の消費能力を制限することにより、商品を売って「資本」が大きくなることを妨げる枷を「資本」自らがつくるという、矛盾に満ちた方法によって社会を発展させる仕組みの社会です。

「〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会」は、「資本」が大きくなることによって企業も経済も発展するという仕組みの社会ではありませんから、労働の成果は基本的に全て労働者のものになります。市場で実現した価値は、原材料費、減価償却費、社会的に必要な経費、労働者の賃金に分配され、「資本」を大きくするための搾取などありません。企業は、「資本主義の社会」の新たに付け加えられる「資本」に当たる部分を、労働者を搾取することによって捻出するのではなく、社会(国家を含む)から前借りして、年度ごとに、労働者がつくった富のなかから返却すればよいのです。

だから、「資本主義の社会」は搾取を前提とし搾取なしには成り立たない社会ですが、〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会は搾取を前提としない搾取の必要のない社会です。

 

経済と企業の発展の条件

「資本主義の社会」は、「資本」が大きくなる条件があるときにのみ「資本」が「資本」として働き、「資本」が大きくなる条件がなければ、過去の労働の蓄積である資産は「資本」として働くことができず、死蔵された無駄な財産となります。そして、「資本」が「資本」として働くための条件は、儲かるか儲からないかだけで、「資本」が働く場所は、社会として必要な産業・製品・サービスであるかどうかということとは、全く、は無関係です。

「〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会」は、「資本」が儲けることを目的としていない社会ですから、過去の労働の蓄積である資産は社会として必要な産業・製品・サービスがあるかぎり、その必要を満たすために活用され、必要な人的、物的資源があるかぎり、地球環境と調和した豊かな社会を築くことができます。

 

企業の経営への参加者と経営の進めかた

「資本主義の社会」の企業は、「資本」が労働者を使って「資本」を大きくすることが目的ですから、資本家とその委任を受けた経営者が企業の経営参加者となり、「資本」を大きくするとう目的を達成するために専制的に企業を経営します。

「〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会」の企業は、「資本」による企業の支配は廃止され、企業の目的は〝社会のため、国民のため〟になることがですから、その目的を達成するために、地域社会とその企業の労働者が企業の経営参加者となります。〝社会のため、国民のため〟という企業の目的を達成するため、各経営参加者は地域社会の総意と企業の労働者の総意を反映させ、社会と調和の取れた企業経営をおこないます。

 

民主主義

「資本主義の社会」の民主主義は、少数者が多数を政治的に支配するための「民主主義」ですから、金権・フェイク・ゲリマンダー選挙区を含むいかさま選挙制度という三点セットの政治制度が中心の「民主主義」で、その基で「民主」的に選ばれた者の代表者が専制的な権限をもって、支配階級の代理人として、「資本主義の社会」が円滑に進行するよう政治を運営します。もちろん、その「民主主義」は、企業統治の分野には及びません。

「〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会」は政治も経済も〝民主〟的でなければ成り立たない社会です。だから、「〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会」の〝民主主義〟は、①政治の分野においては特定の政党が「政治」を請け負うのではなく、労働者・国民全てが担う真の〝民主主義〟が実現し、②企業経営の分野に於いても「企業の経営への参加者と経営の進めかた」で述べたように労働者・国民が担う〝民主〟的な仕組みがつくられます。

だから、このような〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会の実現をめざす政治運動の進め方は、「資本主義の社会」を維持するための「政党政治」の枠を超えた、自覚的な労働者・国民の連合の形成に資するものでなければなりません。

 

インフレ対策

「資本主義の社会」は、資本が支配する社会ですから、〝インフレ対策〟も「市場」での資本の資本家への外的な強制法則(*)として行なわれます。需要があれば資本家はより多くの儲けを得ようと商品の価格を上げます。これを抑える「インフレ対策」として中央銀行は貸出金利を上げ、企業は投資を抑制し、儲けを維持するために労働者の雇用を減らし賃金を下げます。その結果、需要は縮小し資本家は商品の価格を上げたくても上げられず、より多く商品を売ることによって儲けを増やそうとして商品の価格を下げる行動を、やむを得ず、取ることになります。大雑把に言って、これが「資本主義の社会」の「インフレ対策」です。

「〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会」では、その実現のために人間が社会を支配しており、「市場」でより多くの儲けを得ようという資本家もいなければ、資本が労働者から「製品」として搾取した「商品」の価値を実現する場としての「市場」もありません。あるのは、モノの流通の場としての〝市場〟(いちば)があるだけです。だから、「インフレ」につながる「資本」の欲求などありません。また、もちろん、外部要因によるインフレの可能性はありますが、「資本主義の社会」のような便乗値上げなどありませんから、価格や賃金の体系を整合性のある適正なものに見直すことで解決されます。だから、「資本主義の社会」のような「資本」にまつわる「インフレ」など起きようがありません。

だから、〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会をつくる労働者・国民連合の人々が「資本主義の社会」で政権を担った場合、そこでの「インフレ」を回避する道は、①中央銀行が貸出金利を上げて「市場」(資本)に任せるという誤った施策を放棄して、②価格や賃金の体系が整合性のある適正なものになるよう厳しく資本の行動を制御することです。そして、この施策が国民に理解されれば、日本は一歩、〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会に近づきます。

*マルクスは『経済学批判要項』で、「資本の内的諸法則は、自由競争が発展するかぎりで、…はじめて法則として措定されるのであり、…資本にもとづく生産が自分(資本の内的諸法則)に適合した諸形態をとる。」(ⅢP599~602)と述べ、『資本論』で、「競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみそれを拡大することができるのである。」(大月版② P771B8-772F5 )と言っています。

お願い

ホームページ2-1-7〈「資本主義的生産様式の社会」と「ポスト資本主義社会」との違いとは〉を含むページ群2-1「二一世紀は何処に向かって進んでいるのか」の各ページも、是非、ご覧下さい。

みなさんが、この「〈資本主義の社会〉と〈〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会〉との違いとは」のページを理解されましたら、もっともっとわかりやすい表現を工夫され、大いに広めて下さい。そして、「政党」の枠を超えた、自覚的な労働者・国民の連合の形成に資する政治運動こそが求められていることを大いに語って下さい。