4-14

☆科学的社会主義の旗を掲げて共に闘ったマルクスとエンゲルスが、経済(社会の土台)についての共通認識を持っていなかったという不破さんの無責任な推論。

兼六園に行ってきました。

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目次

  1. エンゲルスの『空想から科学へ』の講座でエンゲルスを誹謗し、自己顕示する不破さん
  2. 不破さんは自分の謬論を正当化するために、マルクスとエンゲルスは経済(社会の土台)についての共通認識を持っていなかったという
  3. 一つの事実にもいろいろな言い方がある。『資本論』の編纂に費やした時間の重み
  4. 『資本論』第3巻は「社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾」について述べており、その矛盾の解消を力説した『空想から科学へ』を、マルクスはその序文で、「科学的社会主義への手びき」として推奨した
  5. マルクスとエンゲルスの二人三脚を否定することはできない
  6. 不破哲三氏の、「恐慌」についてのエンゲルスに対する揶揄は、不破氏の無知からきている
  7. 不破哲三氏には、『空想から科学へ』(科学的社会主義の発見者の一人の最も著名な著書の一つ)から、真摯に学ぶ姿勢を持ち合わせていないのだろうか
  8. 21世紀になって不破さんが発見した「恐慌の運動論」とは
  9. 自分の都合のいいようにマルクス・エンゲルスを利用する不破さん

エンゲルスの『空想から科学へ』の講座でエンゲルスを誹謗し、自己顕示する不破さん

  不破さんが『前衛』No904(2014年1月号)の「『古典教室』第2巻(第三課エンゲルス『空想から科学へ』)を語る」という山口富男氏と石川康宏氏との鼎談で、エンゲルスが「生産関係を小経営の延長とみるわけです」*1、「取得形態という角度から生産関係をとらえている」*2とエンゲルスの考えを歪曲・曲解し、エンゲルスは「「取得の資本主義的形態」のうちに「資本家による労働者の搾取」を見ない」*3という驚くべき発言をおこなってきたことはまえに見ました。

 そして不破さんは、エンゲルスが「競争が悪の根源だという結論を引き出し」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」*4と事実を無視した発言までおこなってきました。

 なお、詳しくは、*1はホームページ4-5「☆不破さんは、エンゲルスが資本主義的「生産関係を小経営の延長とみるわけです」とエンゲルスを歪曲し、侮辱している。」を、*2はホームページ4-6「☆不破さんは、エンゲルスが「取得形態という角度から生産関係をとらえている」とエンゲルスを曲解している。」を、*3はホームページ4-7「☆エンゲルスは「「取得の資本主義的形態」のうちに「資本家による労働者の搾取を見ない」という、不破さんの暴言。」を、*4はホームページ4-10「☆不破さんの、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」と言う暴言」参照して下さい。

不破さんは自分の謬論を正当化するために、マルクスとエンゲルスは経済(社会の土台)についての共通認識を持っていなかったという

 不破さんは、エンゲルスが『空想から科学へ』の中で「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」(P102)というデマではさすがにまずいと思ったのか、「第三章の資本主義論には、剰余価値のことが一言も出てこない」(P104)と訂正します。

  私は、不破さんたちが素直に訂正したのかと思ったが、不破さんの言う「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論」とは、エンゲルスが『空想から科学へ』の中で「資本主義の根本矛盾」(不破さんたちの「基本矛盾論」なるもの)を言うときに剰余価値のことが出てこないということらしいことがわかった。

  このエンゲルスの誤りの原因として「これには歴史的制約もあったと思います」と不破さんは述べ、エンゲルスが『資本論』の第二部、第三部について「ごく簡単な筋書きを手紙で知らされた以外は、マルクスが死ぬまで草稿を目にすることはありませんでした」と言い、そのために、「第三部になると、一段と編集が難しくなって、七,八年かかりました」とエンゲルスの能力のなさをやゆしたあと、『空想から科学へ』について、「ですから、経済学に関して言うと、エンゲルスの思い違いという部分があっても不思議でないのです」と結論づけています。

 なにが「歴史的制約」なのかよく分かりなせんが、エンゲルスは「マルクスが死ぬまで草稿を目にすること」がなかったので編集に手間取った。そして、なにが「ですから」かわかりませんが、「経済学に関して言うと、エンゲルスの思い違いという部分」があったという。不破さんが得意の、何が何だかよく分からないがその気にさせる、三段飛び論法の展開です。

  まずはじめに、『資本論』の編纂に費やした時間の重みについて考えてみましょう。

一つの事実にもいろいろな言い方がある。『資本論』の編纂に費やした時間の重み。

  『反デューリング論』から抜粋し、一部補筆した『空想から科学へ』への誹謗中傷といい、六〇歳を過ぎたエンゲルスが、第一ヴァイアリンも第二ヴァイアリンも弾きながら科学的社会主義の学説の擁護・発展に尽くす中で、不破さんのような読みやすい字ではないマルクスの論稿と格闘し、死の直前にやっと第三部の編集を終えたことを賞賛するのではなく、エンゲルスの無知と誤りのたまもののように言う不破哲三氏。

 私事で恐縮だが、私は五〇代になってから、ときどきおこなうことがある。それは、メモ帳に作った簡単なマルクス・エンゲルス・レーニンの業績を書いた年表をみて、エンゲルスの頑張りに叱咤激励され、勇気をもらい、レーニンの波乱に満ちた、しかし早すぎる死を本当に残念に思い、自分の気力を鼓舞することです。

 不破さんの発言を読んで、『資本論』の編纂に一〇年を費やしたという、一つの事実にもいろいろな言い方があるものだと思い悲しくなりました。

 なお、65歳のエンゲルスの忙しすぎる一日について、1885年4月23日付けのザスーリチあてのエンゲルスの手紙(レキシコン⑤-[139]P259-261)も参照していただければ、私のこの気持ちも、いっそう理解していただけることと思います。

  さて、それでは本題にはいりましょう。

『資本論』第3巻は「社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾」について述べており、その矛盾の解消を力説した『空想から科学へ』を、マルクスはその序文で、「科学的社会主義への手びき」として推奨した

 『資本論』の編纂に悪戦苦闘して、一〇年を費やしたからといって、それをもって「エンゲルスの思い違い」なる濡れ衣をどうして着せることができるのか、真実を探ってみましょう。

 エンゲルスのいう「根本矛盾(社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾)」はマルクスの理論的発展を知らないから、「誤っている」と不破哲三氏は訳の分からないことをいう。確かに、もちろん、エンゲルスはマルクスの死後、不破さんのように資本主義的生産様式に内在する矛盾から「利潤第一主義」を抜き出し、ラディカルな革命観を失って、資本主義的生産関係そっちのけで、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」への道を開いてゆくことこそが資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどといって、「利潤第一主義」の解決に専念することを説くような、不破さんの言う「理論的発展」などしていないことはまちがいない。しかし、それを「誤っている」と言われたのでは元も子もない。だから私は、あきれて、「訳の分からないことをいう」とぶっきらぼうに言わせていただきました。 なお、「マルクスの理論的発展」なるものにされてしまった、不破さんの作った「恐慌の運動論」についての詳しい説明は「8、21世紀になって不破さんが発見した「恐慌の運動論」とは」の項にありますので、ご覧下さい。

 「不破さんの思い違い」、つまり、「誤っている」ことを、このホームページの順序にしたがって4-1から4-13まで読まれた方は、『資本論』第3巻には、不破さんがエンゲルスの誤りだと言う「社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾」についての記述があることを承知されており、あえていうまでもないことだと思いますが、いきなりこのページを読まれる方のために、簡単に重複して説明させていただきます。

 私は、マルクスの言う「基本的矛盾」とエンゲルスの言う「根本矛盾」に関するページ4-9「不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する」で、マルクスが、資本主義的生産の矛盾について、「一方では、生産力の無拘束な発展、および、同時に諸商品から成っていて現金化されなければならない富の増加、他方では、基礎として、必需品への生産者大衆の制限、という基本的矛盾」と、資本主義的生産の「基本的矛盾」について述べていることを書き、同時に、マルクスは、『資本論』第3巻 第2分冊(大月『資本論』⑤ P1129)で、「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立」について述べていることも書きました。一方の分配関係、それに対応する生産関係の特定の歴史的な姿(=私的資本主義的分配と資本主義的生産関係)と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展(=社会化された生産力とその一つ一つの生産能力およびその発展可能性)とのあいだの矛盾と対立。これが、資本主義を終わらせなければ解決しない資本主義的生産様式がもつ、エンゲルスのいう「根本矛盾」であることも指摘しました。なお今回、一言追加すれば、この中でマルクスは「剰余価値の搾取」の説明などしていません。不破さん、どうか、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」などと怒らないでください。

 このように、マルクスとエンゲルスとは異なる認識を持ってもいないし、エンゲルスは「思い違い」などしていません。『資本論』第3巻は「社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾」について述べており、エンゲルスはその矛盾の解消を力説した『空想から科学へ』を書いた。マルクスはその『空想から科学へ』の序文で、『空想から科学へ』を「科学的社会主義への手びき」として推奨した。その『空想から科学へ』について、「経済学に関して言うと、エンゲルスの思い違い」があると不破さんは言う。「思い違い」をしているのは誰なのか。不破さんには、冷静に考えるようお願いしたい。

 10年間、方向違いの勉強(修正主義の理論武装のための材料さがしだったのでしょうか、それとも、意識せずに勉強していたら修正主義にたどり着いてしまったのでしょうか?)をして、「思い違い」、つまり「誤り」を犯したのは、不破さんの方ではないでしょうか。

マルクスとエンゲルスの二人三脚を否定することはできない

 このページの冒頭に列挙したホームページで、不破さんが、これまで、『前衛』No904(2014年1月号)でエンゲルスを誹謗してきたことについてお読み頂ければ、マルクスとエンゲルスとが異なる認識など持ってもいないことは、十分おわかり頂けると思います。

 蛇足ですが、『空想から科学へ』と『資本論』とがいかに認識を共有していたかの例を、「分配の資本主義的な性格を剥ぎ取った姿について」と「社会による生産手段の取得」の意義について、見てみましょう。

〈分配の資本主義的な性格を剥ぎ取った姿について〉

 『空想から科学へ』(新日本文庫)のP67では、分配の資本主義的な性格を剥ぎ取った姿について、そのアウトラインを述べていますが、『資本論』第3巻 第2分冊では一層詳しく述べています。『資本論』は、「とにかく、労賃をその一般的な基礎に、すなわち労働者自身の労働生産物のうちの労働者の個人的消費にはいる部分に、還元するとしよう。この分け前を資本主義的な制限から解放して、一方では社会の現存生産力が(つまり現実に社会的な労働としての彼自身の労働の社会的生産力が)許し他方では個性の十分な発展が必要とする消費範囲までそれを拡張するとしよう。さらに、剰余労働と剰余生産物を、社会の与えられた生産条件のもとで一方では保険・予備財源の形成のために必要な、他方では社会的欲望によって規定された程度での再生産の不断の拡張のために必要な限度まで縮小するとしよう。最後に、第一の必要労働と第二の剰余労働とのうちに、社会の成員のうち労働能力のある者がまだそれのない者やもはやそれのない者のために常に行なわなければならない労働量を含めるとしよう。すなわち、労賃からも剰余価値からも、必要労働からも剰余労働からも、独自に資本主義的な性格をはぎ取ってしまうとしよう。そうすれば、そこに残るのは、もはやこれらの形態ではなくて、ただ、すべての社会的生産様式に共通な、これらの形態の基礎だけである。」(『資本論』⑤ P1119B6-1120F4)と。

 ここには、マルクスとエンゲルスとの間に認識の違いなどありません。

〈「社会による生産手段の取得」の意義について〉

 また、「社会による生産手段の取得」の意義について、『資本論』第一巻 第2分冊で「労働がすべての労働能力ある社会成員のあいだに均等に配分されていればいるほど、……社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分はますます短くなり、個人の自由な精神的・社会的活動のために獲得された時間部分はますます大きくなる」(大月『資本論』② P686F9~ )と述べ、『資本論』第3巻 第2分冊では、資本主義的生産様式の解消後には「年齢から見て、まだ、またはもはや、生産に参加できない人々のための剰余労働のほかには、労働しない人々を養うための労働はすべてなくなるであろう。」(大月『資本論』⑤ P1085F7-11)と述べていますが、ご承知の通り、『空想から科学へ』のP71でも同様なことが述べられており、ここでも、ふたりの天才に認識の違いはありません。

 また、「自由の国」と「必然の国」の認識についても、不破さんの仰天思想とは異なり、マルクスとエンゲルスはまったく同じ考えを持っています。

  なお、「自由の国」についての「不破さんの仰天思想」の詳しい説明は、ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

  このように、マルクスとエンゲルスは、1859年以降も、資本主義的生産様式の持つ矛盾について、社会主義社会での生産と分配について、社会主義社会での労働のあり方について、「自由の国」と「必然の国」の違いについて、基本的に同じ視点で、共通の認識をもって、文筆活動をおこない、エールを交換しあっていました。不破さんがマルクスのエンゲルス宛ての手紙から、『資本論』の第二部、第三部について「ごく簡単な筋書き」しか見つけられなかったとしても、そのことをもって、マルクスとエンゲルスの二人三脚を否定することはできません。自分が知らないこと、「無知を論拠」に勝手に決めつけてはならないと思います。

不破哲三氏の、「恐慌」についてのエンゲルスに対する揶揄は、不破氏の無知からきている。

 『前衛』(2014年1月号)P106で、鼎談は恐慌の話に移り、不破氏は、「エンゲルスの論だてでは、無政府性から恐慌が生まれるとして、分析がそこでもう終わってしまうのです。」とエンゲルスを揶揄しています。

 しかし、エンゲルスは、恐慌について、「社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾」の暴力的な爆発として、資本主義的生産様式が生産手段の膨張力にはめた束縛を爆破する行為として見ており、「恐慌」の原因を生産の「無政府性」=資本主義的「競争」にのみ帰するような見かたはしていません。

 「恐慌」は、「商品であることがその生産物の支配的で規定的な性格である」社会において、「剰余価値の生産が生産の直接的目的および規定的動機である」社会の価値実現の場である「市場」での資本どうしの「競争」のなかで、「生産の膨張」が「市場の膨張」を凌駕することによって商品が資本としての価値実現ができなくなり、「大量の生産手段を全部は資本に転化することができず」、商品の「生産と交換」が「支離滅裂になる」ことです。

 エンゲルスは、「恐慌において、社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾は暴力的に爆発する」(『空想から科学へ』P61)ことを述べ、「恐慌」が、資本主義的生産様式のもとで、「生産と全般的富のすべての要素が過剰に存在している」(P62)ことを白日の下にさらし、「恐慌が、ブルジョアジーには現代の生産力をこれ以上管理する能力がないことを曝露した」(P65)ことを述べています。そして、「この解決はただ、現代の生産力の社会的性質を実際に承認し、したがって生産様式、取得様式、交換様式を生産手段の社会的性格と調和させるということのうちにしかありえない。……そのことによって、今日では生産者自身にたいして反抗し、生産様式と交換様式を周期的につき破り、ただ盲目的に作用する自然法則として暴力的、破壊的に自己を貫いているだけの生産手段と生産物の社会的性格が、生産者によって十分に意識してはたらかされるようになり、攪乱と周期的な崩壊の原因から、生産そのものの強力な槓杆に変わるのである。」(P66)と述べ、「恐慌がおこるたびに、社会は、自分のものでありながら、自分のために利用することのできない生産力と生産物との重圧のもとに窒息し、そして、消費者がいないために生産者はなにも消費するものがないというようなばかげた矛盾を前にしてどうすることもできないのである。生産手段の膨張力は、資本主義的生産様式がそれにはめた束縛を爆破する。」(P70)と言っています。

 このように、エンゲルスは、「恐慌」を「生産手段の膨張力」が「資本主義的生産様式がそれにはめた束縛を爆破する」行為とみており、生産の「無政府性」が「恐慌」の原因であるなどとは一言も述べていません。

 3人の鼎談者は、その道のプロであり、『空想から科学へ』など、何十回となく読んでいることだろう。畑田重夫先生によれば、20回くらい読まないと読んだとはいえないそうだが、みんな相当読んでいることは疑いない。であるならば、これらの文章は百も承知のはずである。

 エンゲルスはこれだけはっきりと「恐慌」の原因を説明しているのに、それにもかかわらず、「エンゲルスの論だてでは、無政府性から恐慌が生まれるとして、分析がそこでもう終わってしまうのです」などとトンチンカンなことを言って、自分がエンゲルス以上の存在ででもあるかのような勘違いをしているようだから、グローバル資本の行動もしっかり見ることができず、賃金が上がれば景気は良くなるなどとノー天気なことを言っていられるのでしょう。

不破哲三氏には、『空想から科学へ』(科学的社会主義の発見者の一人の最も著名な著書の一つ)から、真摯に学ぶ姿勢を持ち合わせていないのだろうか

 鼎談の参加者が催眠術にかけようとしている人たちのために、上記の文章を分解して、整理してみよう。

①「恐慌」は、社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾の暴力的な爆発であり、資本主義的生産様式が生産手段の膨張力にはめた束縛を爆破する行為である。つまり、恐慌の原因は「資本主義の根本矛盾」にあるということ。

②「恐慌」は、「市場」を周期的につき破り、「市場」の攪乱と周期的な崩壊をもたらす。

③ つまり、「恐慌」は「周期性」を持つということ。

④「恐慌」を最終的になくすには、「現代の生産力の社会的性質を実際に承認し、したがって生産様式、取得様式、交換様式を生産手段の社会的性格と調和させる」こと、つまり、「社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾」を解消し、「記帳と統制」を通じて「生産手段と生産物の社会的性格が、生産者によって十分に意識してはたらかされるように」しなければならないこと。

⑤ そうすれば、生産手段と生産物の社会的性格が、生産そのものの強力な槓杆に変わるということ。

 これが、エンゲルスが『空想から科学へ』で述べていることです。

 これで『空想から科学へ』など何十回となく読んでいるであろう3人の鼎談者が、これらの文章を無視する理由がわかったでしょう。彼らにとって、資本主義的生産様式の社会の「生産手段と生産物の社会的性格」、つまり、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態」の矛盾=「資本主義の根本矛盾」は見てはいけないもの、あってはならない「矛盾」なのです。

  このように、「分析がそこでもう終わってしまうのです」などとエンゲルスをねつ造・誹謗中傷して、「恐慌」と「資本主義の基本的矛盾」との関係および「恐慌」と「資本主義の根本矛盾」との関係など一考だもしない不破さんは、独自の「恐慌」論をもっています。

21世紀になって不破さんが発明した「恐慌の運動論」とは

 「分析がそこでもう終わってしまうのです」などとエンゲルスをねつ造・誹謗中傷した不破さんは、21世紀になって「恐慌の運動論」という独自の「恐慌」と「革命」にかんする「理論」を発明します。

 不破さんは、『前衛』2015年1月号で、マルクスが、資本主義的生産様式のもとでの生産の社会化の中での資本主義的分業、生産と販売の分離による産業資本の価値「実現」の短縮と「生産と消費の分離」、「価値実現を前提としない貨幣資本の取得とその再投資」等をふくむ「資本の現象的な流通形態」から恐慌を説明していること(P138)を21世紀になって知り、そこからマルクスの「恐慌の運動論」を「大発見」したと言います。

 不破さんは、自分が発明した「恐慌の運動論」をマルクスの考えででもあるかのように言い、不破さんは「恐慌の運動論」と命名したたけだとマルクスの権威を利用して自らの謬論をひろめようとします。

 21世紀になって不破さんが発明した「恐慌の運動論」とはどのようなものか、簡単にまとめると次のようになります。

①不破さんは『前衛』2015年1月号(P150)で「『流通過程の短縮』、『架空の需要』など、マルクスが分析した恐慌の運動論は、いまでも、さらに多様な現代的な形で生きており、現実に恐慌を生み出したのでした」と「架空の需要」が「恐慌を生み出した」ことを述べ、マルクスが「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明」するなかでの一つの環・要素である、短縮された価値「実現」による「架空の需要」だけを取り出し、それが資本主義的生産様式の恐慌の原因であるとする「架空の需要=恐慌」説を創作した。

②不破さんは『前衛』2013年12月号(P97)で、マルクスが、恐慌は「資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」ということを解明し、「資本主義観の大転換」をしたと、マルクスの論述の一部を利用して、自らの「資本主義発展論」を創作した。

③不破さんは『前衛』2013年12月号(P97)で「マルクスは、はじめは恐慌が必ず革命を生むと考えてい」たが、「革命観に大きな転換が起き」、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」と思うようになり、「革命観の大転換」がおこなわれたと、自ら捏造した「恐慌=革命」説と自ら思い込んでいた「革命は、労働者階級が無準備のままで始まる」という観念を結びつけて、マルクスを誹謗しました。

 『共産党宣言』を読んだだけでも、マルクスが「革命は、労働者階級が無準備のままで始まる」などと考えていなかったことはあきらかであるにもかかわらず、不破さんがこのようなデマをでっち上げる理由は、マルクスの「革命観の大転換」ということによって、マルクス(科学的社会主義の思想)のラディカルさを消し去り、不破さんの公然たる「革命観の大転換」により、「労働者階級」を「社会変革の主体」と捉え、革命を「労働者階級の歴史的使命」と位置づけていたこれまでの日本共産党の綱領を現在の2004年綱領のように「修正」し、骨抜きにするための「槓杆」としようとしたためです。

 これまで見てきたように、不破さんは、①「架空の需要」が恐慌の原因なので、賃金が上がれば「実需」が増えて景気はよくなり、「恐慌」など起きない、②万一「恐慌」が起きたとしても、「資本主義の危機」は深まらず、「恐慌」は「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」だけだという「資本主義観」に立つことによって、ラディカルな革命観を失い、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」への道を開いてゆくことこそが資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道であるという、「革命観の大転換」を行いました。つまり、マルクスの「革命観の大転換」とは、不破さんのこのような変節のことです。この変節によって、不破さんは、万人が承知の「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」というあたりまえのことを導入文にして、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まる」ということを否定するかのように見せかけて、国民の多数の支持を得ることの必要性を強調することと引き換えに、資本主義的生産様式の社会の「社会変革の主体」である労働者階級の歴史的使命を捨て去ってしまったのです。

 このように、不破さんの「恐慌の運動論」から導きだされた、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」というあたりまえの言葉は、これまでの日本共産党の綱領を「修正」するための「槓杆」と利用された。

④21世紀になって不破さんが発明した「恐慌の運動論」の柱の一つは、「架空の需要」が恐慌の原因であるという、資本主義的生産様式の社会の発展段階の一時代の経済現象の一部を取り出してそれを「恐慌の原因」と錯誤したものです。

 不破さんは、「恐慌の運動論」なるものを21世紀になってやっと知ったために、現代を正しく見ることのできず、19世紀の資本主義の形成期の目と頭で現在の経済現象を説明しようとします。そのために、「現在の経済現象」であるリーマン・ショックについて、「架空の需要」が恐慌を生み出したこと、金融資産の規模が167兆ドルにのぼることを述べたあと、「この経済危機は、文字通り、『過剰生産恐慌と金融危機の結合』だったのです」(『前衛』2015年1月号)と言い、リーマン・ショックはマルクスの言う「架空の需要」とはまったく関係ないのに、「『架空の需要』で住宅市場の拡大をはかった住宅業界の商法」などと「住宅業界の商法」に濡れ衣を着せて、問題を19世紀の「架空の需要」に仕立てあげ、無理やり、不破さんの創作した「恐慌の運動論」に基づく「架空の需要=恐慌」説にでっち上げようとします。

 しかし、リーマン・ショックで明るみに出たのは、マルクスの時代に起きたような「過剰生産」ではありませんでした。リーマン・ショックは、先進資本主義諸国における利潤率の低下と需要不足による社会的生産能力の過多のもとで、米国への資金流入による米国資産価格の上昇にともなう住宅ローン(サブプライム・ローン)に係わる個人の信用の増加と購買力の向上による米国景気の好循環と、それに寄ってたかってのマネーの世界的な好循環とが、米国資産バブルの行き詰まりにより崩れ、その結果、世界的な資金ショートに見舞われたものです。

 資本主義的生産様式の社会は、生産力の向上に見合う需要がなければ成り立ちません。資本と「需要の開拓」を目的とする御用学者(竹中平蔵氏は経済学の目的は「需要の開拓」だと公言しています。)は、需要を拡大して資本を大きくするために信用による商品の価値実現の短縮や時価会計(将来の儲けを見込んで現在の資産価値を高く再評価すること。)や、米国のドル垂れ流しによる需要の維持・拡大や新興国市場の開拓等々、ありとあらゆる方法を開拓します。

 だから、リーマン・ショックのまえ、アメリカが我が世の春を謳歌していたとき、その後内閣官房内閣審議官などを歴任した水野和夫氏は『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(2007年)で、先進国は成熟化と利潤率の低下により「新しい中世」に移行し、近代はBRICsに引っ越してしまったと言い、「新しい中世」に移行した先進国は資産価格を上げる政策を進めなければならないと主張していました。

 リーマン・ショックは、先進資本主義諸国が成長力を失い、空洞化が進み、資本主義の終焉が意識されつつある中で、米国が「資産価格を上げる政策を進め」た結果起きた、極めて現代的な出来事です。

 しかし、残念ながら、不破さんからは、なぜ世界の「金融資産の規模が167兆ドル」になっているのかの説明も、グローバル資本の動向に対するマルクス主義的処方箋も、いっさいありません。あるのは、不破さんが思い込んでいる、「恐慌」=「過剰生産」という「恐慌」と「過剰生産」との短絡的な結合の図式と、「金融危機」という「現象」だけから、「過剰生産恐慌と金融危機の結合」という、観念的で何の説明も何もない、学び甲斐のない、結論があるだけです。

 21世紀になって不破さんがやっと知った、「恐慌の運動論」なる謬論では、現代のグローバル資本と〝市場の運動〟を理解することはできません。

 先進資本主義諸国が資本主義的成長の限界に突き当たり急激に成長が低下する中で、「産業の空洞化」をはじめとする資本主義的生産様式の矛盾と危機の深まりに応じ、ありとあらゆる方法で「需要」をつくることによって、〝われ亡きあとに洪水はきたれ!〟と言ったポンパドゥール侯夫人のような振る舞いをする、現代のグローバル資本のコントロールなど眼中に無い不破さんには、到底現代の〝市場の運動〟など、理解することはできない。

 このように、「分析がそこでもう終わってしまうのです」などとエンゲルスをねつ造・誹謗中傷した不破さんが、21世紀になって発明した「恐慌の運動論」なるものは、科学的社会主義の運動にとって〝百害あって一利なし〟のしろものです。

自分の都合のいいようにマルクス・エンゲルスを利用する不破さん

 先にも紹介したように、不破さんは、エンゲルスについて、「生産関係を小経営の延長とみるわけです」とか「取得形態という角度から生産関係をとらえている」とか、「『取得の資本主義的形態』のうちに『資本家による労働者の搾取』を見ない」とか、「競争が悪の根源だという結論を引き出し」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」とか、科学的社会主義の学説とは無縁な無知蒙昧な人間のように言い、『空想から科学へ』について、「ですから、経済学に関して言うと、エンゲルスの思い違いという部分があっても不思議でないのです」と結論づけています。

 これらのデマについては、すでに濡れ衣を晴らしていますが、不破さんのエンゲルスの否定のしかたは常軌を逸したものがあります。そのエンゲルスの『資本論』の編集について、不破さんは、めずらしくまともなことを言います。

 「今日、私たちが、『資本論』を、全三部からなるマルクス畢生の労作として読むことができるのは、エンゲルスのこの苦闘によってはじめて可能になったことでした。エンゲルスがこれをやりとげず、草稿からの編集の仕事が後世に残されたとしたら、『資本論』全巻が世に出る日ははるかに遅くなったでしょうし、だれが編集者になったとしても、その作品は、エンゲルス編集のそれに匹敵する内容と権威をもつことはできなかったでしょう。」(「『資本論』探究 全三部を歴史的に読む」上 不破哲三P172)と。

 不破さんはまた、マルクスにたいしても、自説の正当性を主張するために、その学説の存立基盤を否定するようなことを推測してはばかりません。

 不破さんは、「『恐慌=革命』説を背景に、利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定がさきにあり、そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込みが、マルクスを、こうした無理な立論に固執させたのではないでしょうか。」(『前衛』2015年1月号P129)と言います。

 不破さんは、自説の正当性を主張するために、枚挙にいとまがないほど、マルクスの考えをねじ曲げて虎の威を借りておきながら、マルクスの身上の研究方法を逆立ちさせて描き、マルクスを誹謗することによってその人格を著しく傷つけて、平然としています。このマルクスに対する不破さんの態度は、エンゲルスに対する態度と同じです。

 そして、不破さんは、「『資本論』探究 全三部を歴史的に読む」(上)で、次のような自慢話をします。

 2002年の『全三部を読む』の講義の時は、「マルクスがここで展開した未来社会論が、社会主義・共産主義社会についての本論であって、生産物の分配方式の変化を最大の基準にして未来社会を論じた従来の理論(レーニンが『国家と革命』で理論化)と両立するものでないことにまでは、考えがおよびませんでした。この問題は、日本共産党の綱領を改定した二〇〇三~〇四年に全面的な研究をおこない、その成果に立って党綱領の未来社会の諸規定を一新しました。」(P15)と。

 レーニンが20代のとき書いた『ロシアにおける資本主義の発展』に、「『資本論』全体のなかで恐慌論を代表する文章」が入っていることに、21世紀になってやっと気づいた不破さんが、『資本論』や『ゴータ綱領批判』をマルクスの精神で読み込んでいるレーニンが「生産物の分配方式の変化を最大の基準にして」いるとニセのレッテルをはり、それを「未来社会を論じた従来の理論」だと言う。そして、その「従来の理論」はマルクスの考えと両立しないといい、それを2003年まで「考えがおよびませんでした」と言います。

 不破さんの言う「従来の理論」とは、マルクス・エンゲルス・レーニンが口を酸っぱくして言い続けている、資本主義的生産様式の社会を変えなければ世の中は変わらないという、日本共産党員が入党を決意するにあたってその最大の根拠としたことです。それが2003~04年に不破さんの考えと「両立」しないことが、やっと分かったのなら、分かった時点で不破さんは共産党をやめるべきでした。そうすれば、一番すっきりしたのです。

 なぜなら、マルクス・エンゲルス・レーニンが資本主義的生産様式の社会の変革の必要性を説くのに、不破さんは、マルクス・エンゲルスの言う〝自由の国〟とは「自由な時間」のことだと言い、マルクスが賃金奴隷制の枷からの解放(=資本主義的生産様式の社会の変革)について言っていることを「指揮者はいるが支配者はいない」という職場の民主的運営の問題にしてしまう。それをマルクスの「未来社会論」だと言う。

 確かに、不破さんの「未来社会論」と「従来の理論」とは「両立」しない。

 このように、不破さんは、自分の都合のいいようにマルクス・エンゲルスを利用します。

 なお、不破さんの『国家と革命』の歪曲については、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」を、「自由の国」と「奴隷制の枷」についての不破さんの謬論については、ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

 また、関連して、ホームページ4-17「☆マルクスのサン・シモンに対する評価へのエンゲルスの優しいまなざし、レーニンのエンゲルスへの優しいまなざしと不破哲三氏」も、是非、参照して下さい。