AZ-1-3〈連載〉その3

資本主義の根源的な矛盾を隠蔽し、労働者階級の社会変革のエネルギーを抑え込む、

不破さんのマルクス・エンゲルスと『資本論』の歪曲・捏造を暴き、

国民のための経済がある、国民の新しい共同社会をみんなで創ろう

「国民のための経済がある新しい共同社会を創るために、科学的社会主義の思想を正しく知るための、不破さんの「マルクス『資本論』反面教師講座」の解説」(その3)

不破さんによって、『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想はどう変えられたのか、『資本論』第三部を中心にして、不破さんの「『資本論』探究」を軸に見てみよう。(その1)

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〈このページのポイント〉

不破さんは、『資本論』「第三部」は「常識的な社会の見方そのもの」を述べたものだと、「第三部」の意義を理解していないことを告白し、「利潤率の傾向的低下の法則」の意義の無理解を武器に自作の「恐慌の運動論」のマルクスへの「転化」を試みます。不破さんは、「第五篇」をマルクスの「研究途上の考察」にして、自らのエセ「マルクス」理論を忍び込ませようとし、不破さんと対極にいるエンゲルスの編集を根拠も示さず誹謗します。

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エンゲルスがつけた「第三部」の表題「資本主義的生産の総過程」に噛みつく不破さん。本人は『資本論』「第三部」の意義をまったく理解していないのに

 不破さんは、マルクスが「第三部」を資本主義的生産の「総過程の諸姿容」といっているのにエンゲルスが「資本主義的生産の総過程」と変えてしまったのは、「第三部全体の趣旨を誤解させることで、残念な訂正だったと思います」と言います。

 

『資本論』を読んでいない人だけを狙った不破さんの言いがかり

 しかし、『資本論』の第三部を読んだ人で、第三部のタイトルが「資本主義的生産の総過程」となっていることによって、「第三部全体の趣旨」を「誤解」した人がいたでしょうか。いるとすれば、それは、もう少しあとでよく分かりますが、「第三部全体の趣旨」を最初から「誤解」している不破さんくらいなものでしょう。

 私たちは、著作の内容を読んでその著作の中に書いてあることを理解します。不破さんのこの主張を読んで不破さんに賛同する人がいるとすれば、その人は、まだ『資本論』を読んでいない人です。不破さんの主張は、不破さんの「解説」だけを読んでいる人にそう思わせるだけのものです。もしも「資本主義的生産の総過程」というタイトルがふさわしくないのであれば、「内容」と「タイトル」が一致せず「残念な訂正だった」だけで十分です。「タイトル」で「内容」を変えることはできません。それなのに、エンゲルスが、いかにも、「第三部全体の趣旨」を変えてしまい、『資本論』の読者に「誤解」を与えているかのように言うのは、『資本論』を読んだ人にとって事実ではありません。

 

そもそも、『資本論』第三部は何を言い、何を言おうとしたのか

 マルクスとエンゲルスは、「第3部」によって、「本質と直接的な現象との、問題を孕んだ関連を矛盾なく説明すること」、つまり、「資本の生産過程」で創られた富が「資本の流通過程」を通じ、「資本主義的生産の総過程」で「諸姿容」をとって分配されるメカニズムを明らかにし、あわせて、そこでの「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもり」でした。

 

しかし不破さんは、主題は「総資本の諸姿容」だという

 不破さんは、マルクスは第一巻初版への「序言」で「この著書の第二巻は資本の流通過程(第二部)と総過程の諸姿容(第三部)とを取り扱い」と述べており、第三部の冒頭の文章では、資本主義的生産の「総過程について『一般的反省』をおこなうことは、第三部の課題ではないとの断り書きまで書きそえています」と言います。不破さんは、だから、第三部の主題は「総資本の諸姿容」だと言います。

 

「資本主義的生産の総過程」とはどんな意味なのか、『資本論』で見てみよう

 マルクスが第一巻初版への「序言」で述べている、不破さんの言う、資本主義的生産の「総過程の諸姿容」という言葉のなかの「資本主義的生産の総過程」とはどんな意味なのでしょうか。それを探るために、ちょっと長くなりますが、第三部の冒頭の文章を全文抜粋してみましょう。

「第一部では、それ自体として見られた資本主義的生産過程が直接的生産過程として示している諸現象が研究されたのであって、この直接的生産過程ではそれにとって外的な諸事情からの二次的な影響はすべてまだ無視されていたのである。しかし、このような直接的生産過程で資本の生涯は終わるのではない。それは現実の世界では流通過程によって補われるのであって、この流通過程は第二部の研究対象だった。第二部では、ことに第三篇で、社会的再生産過程の媒介としての流通過程の考察にさいして、資本主義的生産過程を全体として見ればそれは生産過程と流通過程との統一だということが明らかになった。この第三部で行われることは、この統一について一般的な反省を試みることではありえない。そこでなされなければならないのは、むしろ、全体として見た資本の運動過程から出てくる具体的な諸形態を見いだして叙述することである。現実に運動している諸資本は具体的な諸形態で相対しているのであって、この具体的な形態にとっては直接的生産過程にある資本の姿も流通過程にある資本の姿もただ特殊な諸契機として現れるにすぎないのである。だから、われわれがこの第三部で展開するような資本のいろいろな姿は、社会の表面でいろいろな資本の相互作用としての競争のなかに現われ生産当事者自身の日常の意識に現れるときの資本の形態に、一歩ごとに近づいて行くのである。」

 

マルクスが「第三部」について言っていること

 不破さんは、マルクスが序文で、資本主義的生産の「総過程について『一般的反省』をおこなうことは、第三部の課題ではないとの断り書きまで書きそえています」と言っていますが、それは、まったくの読み間違えか、そうでないとすれば、曲解です。

 ここでマルクスが「第三部」について言っているのは、「第三部で行われることは」、資本主義的生産過程が生産過程と流通過程との統一だということについの「一般的な反省を試みることではありえない」といってるのであって、「資本主義的生産の総過程」について述べているのではありません。マルクスが「資本主義的生産の総過程」について述べているのは、これに続く、「そこでなされなければならないのは、むしろ、全体として見た資本の運動過程から出てくる具体的な諸形態を見いだして叙述することである」という文章のなかでです。つまり、マルクスがこで言っている「全体として見た資本の運動過程」とは、「資本主義的生産の総過程」のことです。だから、「生産過程」と「流通過程」と「全体として見た資本の運動過程」に傍点がふってあり、だから、エンゲルスも「第三部」のタイトルを「資本主義的生産の総過程」とし、『資本論』のタイトルが「第一部 資本の生産過程」、「第二部 資本の流通過程」、「第三部 資本主義的生産の総過程」となっているのです。

 

不破さんのように、『資本論』第三部を矮小化して、「主題は『総資本の諸姿容』」だなどというのは正しくない

 

 だから、「資本の生産過程」で創られた富が「資本の流通過程」を通じ、「資本主義的生産の総過程」で「諸姿容」をとって分配されるメカニズムを明らかにし、あわせて、そこでの「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもり」でいた『資本論』第三部を不破さんのように、矮小化して「主題は『総資本の諸姿容』」だなどというのは、正しくありません。

 なお、私たちが「総資本」という場合、一般的に「総労働」と対の言葉として使用しますが、不破さんの言う「総資本の諸姿容」なるものの「総資本」とは何なのか、説明がないので、残念ながら、不明です。

※より詳しい説明は、ホームページ4-26-2-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(1/3)」を、是非、参照して下さい。

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不破さんは、『資本論』の「科学の仕事」に泥を塗って見えなくする

 不破さんは「第三部」について、「これから研究するのは、『社会の表面』に現れる世界」で「常識的な社会の見方そのものだ」とマルクスがいっていると言って、「目に見える単に現象的な運動を内的な現実の運動に還元する」という「科学の仕事」を忘れ、「第三部」に泥を塗ります。

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不破さんの自論に合わせての『資本論』第三部の勝手な編集と「自由の国」の迷走

 不破さんは、「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意味を理解できないために「第一四章」を「不要になった章」、「第一五章」を「取り消した章」などと言って葬り去り、自分の「資本主義観の大転換」にとって都合の悪いところを隠そうとします。しかし、この妄想を、不破さんが援軍と頼む大谷禎之介氏もキッパリと否定しています。そして、「自由の国」の意味を理解できない不破さんは、マルクスの「共産主義社会」の「第一段階」と「より高度の段階」という区別を否定するために、レーニンが「独特の二段階発展論をつくりあげてしまった」と言ってレーニンを非難します。

 

不破さんの「第一四章」と「第一五章」についての妄想の、「私だけの勝手な結論」ではないという驚きの「理由」

 

 不破さんの、「第一五章」は、ここで「展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」で、「第一四章」は、「第一五章の準備のため」の章で「不要になった章」であり、「これは、私だけの勝手な結論ではありません」と言います。

 そして、その理由は、「第三篇を読むところで説明することにします」と述べていましたが、不破さんが指定したところを読んでみると、不破さんの「推測」が「勝手な結論」でない理由は、マルクスがエンゲルスへの手紙で「第三篇」を簡潔に述べいるので、「マルクス自身がその内容を大きく変えるつもりでいた」と不破さんが思ったことと、マルクスが「利潤率の傾向的低下の法則を解明した自分の『勝利』を宣伝しただけ」で「そのあとの部分については、一言も語らなかった」だからだと言うのです。(なお、「一言も語らなかった」というのは事実誤認です。)

 不破さんの、「私だけの勝手な結論」でない理由は、マルクスのエンゲルスへの手紙で「第三篇」を簡潔に述べいることと「利潤率の傾向的低下の法則」をマルクスがその後封印したという不破さんのデマに基づいているというのです。鳩に豆鉄砲というか、唖然とするしかありません。

 今度は十分に調べて、MEGA編集者たちの大部分も不破さんと同じ見解なので、自信をもって、「私だけの勝手な結論ではありません」と断言したのかなと思い、世界の科学的社会主義の「古典」の研究者たちに失望しかけましたが、不破さんの続きの文章を読んで安心した次第です。

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「第一三章」のテーマ:「この法則そのもの」の意義に触れない不破さん

 

 「第一三章」は、資本主義的生産様式のもとで、労働の社会的生産力が累進的に発展すればするほど、一般的利潤率の累進的な低下が起こるという、資本主義的生産様式のもつ内的な矛盾を明らかにします。「第一三章」のテーマは、「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意味なのです。ここが肝心な点なのです。この「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ矛盾を「軸」にして資本主義的生産様式を見ていくのが「第一五章」です。

 しかし不破さんは、「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意義にはふれず、その意味も理解できないので、「第一三章」を「自分の『勝利』を宣伝」する章などと、不破さん張りの自己顕示のための「章」に価値を低めて、「第一五章」にとんでもない濡れ衣を着せて、平然としています。

 

「第一三章」の解説のはずが、反共文筆家なみのマルクスの歪曲

 不破さんは、「第一三章」の解説のはずの場所で、「第一三章」の解説はそっちのけで、いきなり、マルクスは『57-58年草稿』以来、「利潤率の低下の法則が資本主義的生産様式の危機を引き起こす根源をなす」という見解を持っており、「この法則が、恐慌という破局とその反復」をもたらし、「そしてそれが『最後には、資本の強力的な転覆』をもたらすことを断言した」と言い、「第一五章」で──「利潤率の傾向的低下の法則」→「恐慌」→「資本の強力的な転覆」──という、不破さんがよく使う、「三段飛び論法」を証明しようとして「失敗」したと言います。

 マルクスを誹謗し、科学的社会主義の思想の価値を低めるめに、自ら創作してマルクスに着せた「恐慌=革命」説なる反共文筆家なみのマルクスの歪曲が、不破さんの「第一三章」の「解説」のメインテーマになってしまいます。

 

マルクスを歪曲して「利潤率の傾向的低下の法則」を葬り去るための、不破さんの「三段飛び論法」

 マルクスは、『資本論』の「第一三章」、「第一四章」、「第一五章」で「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意味・意義を余すところなく説明し、不破さんのような短絡的な思考を排して、二一世紀に生きる思想を、私たちに提供してくれています。

 しかし、不破さんは、マルクスが、あたかも、「利潤率の低下の法則」を「根源」として、ストレートに「利潤率の低下の法則」=「恐慌という破局とその反復」という図式を描いていたかのように言い、マルクスの考えを歪曲します。このようにマルクスの考えを歪曲し、短絡的な図式による攻撃で「利潤率の傾向的低下の法則」を葬り去り、資本主義的生産様式の真の姿を見えなくして、「資本」のもつ限界とその「資本」の蓄積によって発展する「資本主義的生産様式」の社会の限界を見えなくする反科学的社会主義攻撃=「反共」攻撃を、前「共産党」の委員長である不破さんが率先して行っているのです。このことをマルクスが知ったら、さぞ、がっかりすることでしょう。そして、烈火の如く怒ることでしょう。

 

不破さんの「三段飛び論法」とは無縁なマルクス・エンゲルスの思想

 マルクスは、「利潤率の低下の法則」が「根源」としてストレートに「利潤率の低下の法則」=「恐慌という破局とその反復」という図式など描いていません。

 マルクスが指摘しているのは、そして真の科学的社会主義の思想が明らかにしたのは、①「利潤率の傾向的低下の法則」が資本主義的生産様式の社会の限界を明らかにしたこと、②資本の唯一の動機は「資本蓄積」であるが「利潤率の傾向的低下の法則」がその阻害要因となり、資本はその障害を克服するために「利潤量」を増やすための生産拡大と「利潤率の低下」を防ぐための様々な手を尽くすが、それが「過剰生産や投機や恐慌を促進し、過剰人口と同時に現れる過剰資本を促進」(大月版P304)し、資本の過多により「利潤率の低下が利潤量によって埋め合わされない」状況が産業循環の熱狂の真っただ中で起こること。その影響をはじめに受け、最も強く受ける「より小さな分散した諸資本の大群はわれ先に冒険(それは、?利潤率の低下を一層の量の拡大で補おうとし?その結果、泥沼の安売り合戦がはじまり?遂には、資金ショートを原価以下の販売で補おうとする冒険──青山補筆)への道へ駆り立てられる。このために恐慌へと追い込まれる」こと。その結果、恐慌により資本の減価が行われ、資本の過多は一時的に解消されるが、より高い生産性のもとでの新たな「資本主義的生産様式の社会の危機」と「資本主義的生産様式の社会の克服の条件」の形成がはじまる、という当時の産業循環の姿を明らかにしたこと、この二点です。

 そして、マルクスとエンゲルスは、当時の政治経済情勢の下で、「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と考え、革命のために心血を注ぎましたが、「恐慌」だけが「最後には、資本の強力的な転覆」をもたらすと「断言した」ことなどありません。

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不破さんの『61-63年草稿』を持ち出しての、反共文筆家なみのマルクスの歪曲

 不破さんは、『61-63年草稿』の「より小さな分散した諸資本の大群はわれ先に冒険〔の道へ駆り立てられる〕。このために恐慌〔へと追い込まれる〕。」という文章を持ち出して、「この論によると、恐慌の原因は、もっぱら『より小さな分散した諸資本』の冒険的な行動にあって、資本主義経済の主力をなす大資本とは無関係であり、資本主義的生産様式の運命を小資本が握っているということになります。」と、勝手に、「この論」なるデタラメな濡れぎぬをマルクスに着せておいて、続けて「おそらくマルクス自身も、これを恐慌問題の本格的解決だとする確信はなかった、と思います。」などと、一人相撲を取ります。

 なお。不破さんは、『前衛』の2015年1月号でも、マルクスが「経済恐慌やバブル現象まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がない」と述べていると言ってマルクスを攻撃しています。不破さんの読解力と頭の構造には驚くばかりです。

 

もう一度、「不破さんの「三段飛び論法」とは無縁なマルクス・エンゲルスの思想」を見て下さい

 上記の文章でマルクスが指摘し、真の科学的社会主義の思想が明らかにしたのは、「不破さんの「三段飛び論法」とは無縁なマルクス・エンゲルスの思想」の②で概略示した内容であり、小資本は「経済恐慌」の渦に真っ先に巻き込まれるということです。

 そしてここでも不破さんのご都合主義がみごとに発揮されます。不破さんは、マルクスが「利潤率の低下の法則が資本主義的生産様式の危機を引き起こす根源」でこの法則が恐慌をもたらすといっていたと言ったと思ったら、今度は、「恐慌の原因」は、もっぱら「小資本の冒険がなせる業」だとマルクスがいっていると言うのです。

 このように、文章の流れの中で臨機応変に言うことが変わるのが不破さんの「論理展開」の大きな特徴ですが、マルクスの文章を継ぎ接ぎして自分の誤った「推論」を押し通そうとする不破さんの「論理展開」は、エンゲルスが序文で述べている、「科学的な問題に携わろうとする人は、なによりもまず、自分が利用しようとする書物をその著者が書いたとおりに読むことを、またことに、そこに書いてないことを読み込まないようにすることを、学ばなければならないのである」という科学的社会主義者の基本精神を逸脱した、失格者の「論理展開」です。

 不破さんは自分で誤った「問題」を創作し、間違った結論を引き出しておいて、それをこともあろうに、「おそらくマルクス自身も、これを恐慌問題の本格的解決だとする確信はなかった、と思います」などと言ってのけるのです。もう、呆れるばかりです。

 みなさんは、「不破さんだけの勝手な結論」を信じる前に、是非、「第一三章」、「第一四章」、「第一五章」をしっかり読んで下さい。

※なお、私が、①マルクスとエンゲルスは、「恐慌」だけが「最後には、資本の強力的な転覆」をもたらすと「断言した」ことなどありませんと述べた点と②マルクスは「恐慌の原因」がもっぱら「小資本の冒険がなせる業」だと言っていると不破さんが言っている点についての詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、参照して下さい。

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不破さんは、マルクスの「経済学批判」から「資本論」への構想の発展を利用して、自説を読者に刷り込もうと無駄な努力を重ねる

 

 

 マルクスに「恐慌=革命」説なる濡れ衣を着せた不破さんは、「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見」──という不破さんの創作──が「『資本論』全体の構想プランの画期的な変化の出発点となりました」と言い、「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見以降は、構想全体にあった『資本一般』という枠組みそのものの再検討が必要になりました」と言います。これは、あたかもマルクスが「恐慌の運動論」なるものを1865年の初めに「発見」し、その結果『資本論』全体の構想の再検討が必要になったかのように述べることによって、不破さんが創作した「恐慌の運動論」──不破さんは、「発見」したのはマルクスで、自分は「恐慌の運動論」と命名しただけだと、虎の威を借りようとしますが──なる産業循環の矮小化された「理論」を、マルクスが1865年の初めに本当に「発見」したかのように読者に思い込ませようとするためです。

 

『資本論』の成立過程の共通認識

 

 

 「構想全体にあった『資本一般』という枠組みそのものの再検討が必要にな」り、「『資本論』全体の構想の再検討」を必要とすることとなったのは、不破さんが言うような「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見」なるものによるのではありません。

 マルクスは「剰余価値に関する諸学説」の執筆過程で、研究した問題の範囲がますます大きく広がって行くにつれ、そして、研究が煮詰まって行くにつれて、『剰余価値学説史』執筆前の研究の方法に基づく叙述の仕方から、本質と直接的な現象とのシームレスな貫徹メカニズムを示し、体系的に論述するという叙述の仕方に『資本論』の構想を固めていったのです。これは、不破さん以外の世界の研究者の共通認識です。

※詳しくは、ホームページ4-26-2-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(1/3)」の〈「『資本論』の成立過程」の概略〉を、「資本論』の成立過程と構成のより詳しい資料は、別添PDF「『資本論』の構成と成立過程」を参照して下さい。

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不破さんは「『資本論』全体の構想の再検討」の根拠も構想も示せない

 不破さんは、「1865年以後のプラン変更」という「項」で『資本論』の草稿が書かれた時期だけを取って、私が前掲のホームページ4-26-2-3の〈「『資本論』の成立過程」の概略〉で指摘した『資本論』の構想に必死につじつま合わせしようとします。

 しかし、不破さんは、一向に、「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見」が「『資本論』全体の構想の再検討」を必要とすることとなったとする「主張」の根拠を示すことができません。唯一書かれているのは、1862年12月のプラン草案の「8)産業利潤と利子とへの利潤の分裂。商業資本。貨幣資本。」を『資本論』では二つの「章」に「分割して」「独立させ」たこと──青山が前掲のホームページ4-26-2-3の〈「『資本論』の成立過程」の概略〉で、「第4章」と「第5章」の二つの章に分割した理由を詳しく説明していますので、参照して下さい──と、「第4章」が「マルクスが恐慌の運動論を自分の言葉で解説する、現行の『資本論』における唯一の場所となった」(P44)ことだけで、「『資本論』全体の構想の再検討」を必要とする根拠も、どのように「『資本論』全体の構想の再検討」をするのかも、まったく述べられていません。

 

不破さんが、二一世紀になって「発見」し「激しい理論的衝撃」を受けた「恐慌の運動論」なるものは誰でも知っているもの

 そして、不破さんには失礼ですが、不破さんが二一世紀になって「発見」し、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」(『前衛』2015年1月号)きたという、「恐慌の運動論」と不破さんが命名し、マルクスの論及をを歪曲し矮小化しているものは、「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明する」ものの一部を歪曲し矮小化したもので、とうの昔にあらゆる「経済学者」の知っている、なんら目新しいものではありません。

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マルクスが「第一三章」で述べている、もう一つの重要な点と現代

 

 「第一五章」の内容を正しく理解するためにも、『資本論』の「第三篇」全体をつかむためにも重要な、「第一三章」で述べている、もう一つの重要な点に、ごく簡単に触れてみたいと思います。

 マルクスは、「利潤率の進行的低下にもかかわらず」、利潤の絶対量を増大させることができ、ただそれができるだけではなく、「資本主義的生産の基礎の上ではそうならなければならないのである」と言い、資本主義的生産様式のもとでは「利潤率の進行的低下」を補うために一層の生産拡大が必要であることを述べています。

 この指摘は、70年代以降の日本経済の姿を見るうえで大変大切な指摘です。

 日本は、70年代以降、「利潤率の進行的低下」を補い一層の資本蓄積を図るために海外への資本輸出・直接投資を官民一体となって推進した結果、「資本主義的生産・蓄積の発展の歩みは、労働過程の規模とともにその広がりがますます大きくなることを必然にし、またそれに対応して各個の経営のための資本前貸が増大することを必然にする。それゆえ、諸資本の集積の増大は、資本主義的生産・蓄積の物質的条件の一つでもあれば、またこの生産・蓄積そのものによって生産された結果の一つでもある。」(大月版④P275)という、資本主義的生産様式の「発展」の条件が失われ、「産業の空洞化」がすさまじい勢いで進行しました。

 「産業の空洞化」によって、「絶対的に増大した可変資本を、より高度な構成すなわち不変資本のより以上の相対的増加のもとで充用するためには、総資本が構成の高度化に比例して増大するだけではなく、それよりももっと急速に増大しなければならない。その結果として、資本主義的生産様式が発展すればするほど、同じ労働力を使用するためにもますます大きな、そして増大する労働力を使用するためにはなおさら大きな資本量が必要になるということになる。」(同上P280)という資本主義的生産様式がもつ「健全」な姿は維持できなくなり、労働力「需給」が資本優位となり、不安定雇用の急速な拡大を甘受する事態となってしまいました。

 このように、私たちが『資本論』を読む場合、日本と世界の〝いま〟を常に頭に入れて考えることが大切です。そして資本は、「利潤率の傾向的低下の法則」との不断のたたかいを、常に、強いられているのです。不破さんは、その意味をしっかりつかみ、現代を熟考すべきなのです。

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「第一四章」は、「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意味を説明し、資本のその緩和の主要な手段を明らかにする

 「第一四章 反対に作用する諸原因」は、まず最初に、なぜ「利潤率の傾向的低下の法則」と呼ぶかについて、「この一般的法則に単に一つの傾向でしかないという性格を与えている」から、「一般的利潤率の低下を傾向的低下と呼んできたのである。」(大月版P291)と述べ、以下で、資本の「利潤率の傾向的低下の法則」との不断のたたかいの「方法」を示し、私たち労働者階級への「低賃金」と「労働強化」とが、資本が「利潤率の傾向的低下の法則」を緩和するための主要な手段であることを明らかにします。

 

そしてマルクスは、資本のこのような攻撃が労働の搾取度の傾向的上昇をもたらすことを明らかにし、トマ・ピケティは『21世紀の資本論』でそれを証明しました

 

 そしてマルクスは、「利潤率の傾向的低下は、剰余価値率つまり労働の搾取度の傾向的上昇と結びついているのである。それゆえ、利潤率の低下は労賃率の上昇から起きると説明することは、例外的にはそういうこともあるにしても、このうえもなくばかげたことである。」(大月版P301)と述べていますが、数年前に「洛陽の紙価を高めた」トマ・ピケティの『21世紀の資本論』の資本収益率(r)>経済成長率(g)は、「剰余価値率つまり労働の搾取度の傾向的上昇」を実証した、マルクスの正しさを証明するものでした。

 この事実は、資本家階級との思想闘争をするうえで重要です。

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「第一四章」で触れられなかったことと、「現代の資本と世界市場」。そして、不破さんは、なぜ、トランプが大統領に当選できたのかをしっかりと知るべきだ

 なお、ここで触れられなかったことのひとつに不変資本の稼働時間の延長の問題があります。不変資本をフル稼働させて24時間稼働させ、労働者を8時間の3交代にした場合、「利潤率の低下」は防げませんが利潤量は3倍となります。そして、不変資本の稼働期間が約1/3に短縮されることにより、同等の性能のより安価な製造装置の導入か同一価格のより生産性の高い不変資本の導入が可能となります。これも、「利潤率の低下」に反対に作用する諸原因の一つと言えるでしょう。

  また、マルクスは「貿易と世界市場」について、「貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によって、この生産様式自身の産物になったのである。」(大月版P298)と述べていますが、「貿易」に関しては、資本のグローバル展開により、当時と現代とでは「国家」と「資本」との関係等が大きく変化していますので、「現代の資本と世界市場」について、簡単に触れてみたいと思います。

 マルクスが言うように発展してきた「世界市場」は、資本主義的発展の伸びしろがますます小さくなる先進資本主義諸国と資本主義的発展の大きな伸びしろをもった新興諸国とを生み出します。「利潤率の傾向的低下の法則」との不断のたたかいを強いられている資本は、先進資本主義諸国から生産条件の劣っている新興諸国へのグローバル展開への道を、「新自由主義思想」とともに、本格的に歩み始めます。グローバル資本は母国の産業を空洞化することによって、一面では、自らを育てた出身国を棄てざるをえません。しかし同時に、グローバル資本にとって、新興諸国は、あくまでも、低賃金で労働者を搾取する場にしか過ぎませんから、技術が遅れた国々での先行者利得を固定化して収奪を続けるためにも、自らを守るためにも、自らを育てた出身国等の先進資本主義国に頼らざるをえません。だから、日米欧の先進資本主義諸国はグローバル資本に有利な経済ルールを世界に押しつけることを共通目標として協調関係を保ってきました。そんな中で、「産業の空洞化」の被害者である白人労働者層の支持をうけて2017年1月20日登場した米国トランプ政権は、「アメリカファースト」を掲げ、「産業の空洞化」を推進してきた米国企業には目をつむり、①貿易の不均衡の解消による雇用増での「白人労働者層の支持」の維持と②先進資本主義諸国への米国のより多くの経済的利益の要求と③米国の経済優位を脅かしかねない中国の技術開発の抑制と④「グローバル資本に有利な経済ルール」の再構築による新興諸国の自立化の押さえ込みと低賃金での労働者の搾取の永続化をめざして、世界に圧力をかけ続けてています。

 これが、今日の「貿易と世界市場」についての、現代のグローバル資本とそれを支える諸国家の最新の動向です。不破さんの「共産党」は、なぜ、トランプが大統領に当選できたのかを、しっかりと、知るべきです。

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「第一四章」を飛ばして、不破さんはどんな「ルールある資本主義」を作るのか

 

 このように不破さんが「不要になった章」と言って飛ばしてしまった「第一四章 反対に作用する諸原因」は、「利潤率の傾向的低下の法則」の意味を説明し、私たち労働者階級への「低賃金」と「労働強化」とが資本が「利潤率の傾向的低下の法則」を緩和するための主要な手段であることを明らかにし、このマルクスの考えは、トマ・ピケティによって実証されました。

 見てきたように、「第一四章 反対に作用する諸原因」は、現代に多くのことを語りかけており、不破さんのように「不要になった章と位置づけることができます」などと言うことは、犯罪的だといってもいいでしょう。「ルールある資本主義」を金科玉条のように言う不破さんは、「第一四章」を飛ばしてどんな「ルールある資本主義」を作るのか、詳しく教えていただきたいところです。

 だから、みなさんは、不破さんの「不要になった章」などという言葉にだまされることなく、「第一四章 反対に作用する諸原因」を、是非、しっかりと読んで下さい。

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不破さんの、マルクスをやっつけるための「第一五章」についての一人相撲

 不破さんは、「第一五章 この法則の内的な諸矛盾の展開」のテーマを、「マルクスが第一五章で自らに課した課題は、第一三章で証明した利潤率の傾向的低下が資本主義的生産様式を必然的没落に導くことの証明でした」と、「第一五章」に勝手に、「『恐慌の必然性』の証明」というターゲットを創作して、それを「マルクスが第一五章で自ら課した課題」ででもあるかにようにげっち上げ、続けて、「そのカギは、それが恐慌の必然性の根拠となることの立証にありました」といい、それが「失敗した」と言ってマルクスを誹謗します。

 不破さんの創作能力というか、ペテン師ぶりには驚くばかりです。

 

「第一五章」は科学的社会主義の〝核心〟的理論

 しかし、「第一五章」の「肝(きも)」、マルクスが『資本論』の第三篇を通じて読者に理解してもらいたかったことは、「利潤率の傾向的低下の法則」の発見によって、「資本主義的生産様式は生産力の発展に関して富の生産そのものとはなんの関係もない制限を見いだ」し、「この特有な制限は、資本主義的生産様式の被制限性とその単に歴史的な一時的な性格とを証明するのである。それはまた、資本主義的生産様式が富の生産のための絶対的な生産様式ではなくて、むしろある段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明するのである。」(同上P304)ということです。

 このように、不破さんによって「取り消され」「第一五章」には、科学的社会主義の経済学の〝核心〟的理論が述べられています。「第一五章」を否定することは、科学的社会主義の経済学を否定することです。

 

不破さんが、マルクスが「立証すべき命題」を提起したという文章

 不破さんが、マルクスが「恐慌の必然性の根拠となることの立証」のために書いて「失敗した」と言ってマルクスを誹謗した文章は、「利潤率の傾向的低下の法則」がもたらす〝事実〟とその延長線上の〝展望=当然の帰結〟を述べ、「利潤率の傾向的低下の法則」が資本主義的生産様式の社会の限界を明らかにしたことを述べたもので、不破さんの言うような「立証すべき命題」を提起したものなどではありません。

※詳しくは、ホームページ4-26-2-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(1/3)」の「第一五章」に関するところを、是非、お読み下さい。

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不破さんは、自分が理解できないものを「理論上の錯覚」などと言う

 そして、不破さんは、自分が理解できないものを「理論上の錯覚」などと言うのですから、困ったものです。不破さんは、大月版「第一五章」のP304、P324、P325に出てくるリカードらの「利潤率の低下」にたいする恐怖、不安について、マルクスが「実は、なにかもっと深いものが根底にあるのであるが、彼(リカードのこと──青山)はそれを予感するだけである」述べていることについて、次のような、とんでもない解説をします。

 「しかし、リカードゥらが利潤率低下現象のうちに見た不安は、根底にある『もっと深いもの』の予感ではなく、理論上の錯覚でした。

 マルクス自身も、さまざまな角度からの探究をくりかえしたものの、納得のゆく解答を得ることができず、決定的な結論を得ないまま、この章を閉じざるを得なかったのでした。」などといい、「恐慌現象を利潤率低下の法則に結びつけることには失敗した」と言います。

 

ペテン師としての不破さんの、面目躍如

 ペテン師としての不破さんの、面目躍如というところでしょうか。

 不破さんは、「リカードゥらが利潤率低下現象のうちに見た不安は、根底にある『もっと深いもの』の予感ではなく」、「理論上の錯覚」だといって、リカードゥらが「理論上の錯覚」をしているかのように言いますが、ご覧のとおり、「実は、なにかもっと深いものが根底にある」と言っているのはマルクスです。だから、「なにかもっと深いものが根底にある」というのがマルクスの「理論上の錯覚」だというのなら、ただ「理論上の錯覚」などといって誹謗・中傷するのでなく、「資本主義的生産の制限、その相対性、すなわち、それがけっして絶対的な生産様式ではなくただ物質的生産条件のある局限された発展期に対応する一つの歴史的な生産様式でしかない」(大月版P325)というマルクスの唯物史観のどこに「理論上の錯覚」があるのか、明らかにすべきです。ヤクザが因縁をつけるようなやり方は、絶対に、やめるべきです。

 

マルクスは「『恐慌の必然性』の証明」のための「さまざまな角度からの探究」などしていない

 そして、不破さんは、「マルクス自身も、さまざまな角度からの探究をくりかえしたものの、納得のゆく解答を得ることができず、決定的な結論を得ないまま、この章を閉じざるを得なかったのでした」と言いますが、マルクスは、「第一五章」に「『恐慌の必然性』の証明」というテーマつけて、それを「マルクスが第一五章で自ら課した課題」になどしていません。だから、そのために「さまざまな角度からの探究をくりかえした」りなどするわけがありません。

 「第一五章」に、勝手に、「『恐慌の必然性』の証明」というテーマつけて、それを「マルクスが第一五章で自ら課した課題」だなどと言っているのは、不破さんだけです。そもそも、マルクスの「第一五章」でのテーマは、「利潤率の傾向的低下の法則」の「内的な諸矛盾の展開」を述べることです。不破さんは、「『恐慌の必然性』の証明」という架空のターゲットを、勝手に、設定して、マルクスがそのターゲットを撃ち落とさなかったといって非難するのです。

 

不破さんは、マルクスが「以後の草稿で取り消した」「第一五章」で「展開した理論」とは何かを明らかにすべきです

 不破さんは、第三篇の解説の冒頭で、「第一五章」について、ここで「展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」だと言いましたが、「第一五章」の解説のなかで、不破さんは、どこが「展開した理論の主要部分」であり、それがどのように誤っており、「以後の草稿で」どのように「取り消した」のか、一言も「解説」してくれません。

 このような根拠を示さない誹謗・中傷は許されるものではありません。

 

厚顔無恥、『資本論』を読んでいない人に白を黒と思わせる

 「第一五章」について、ここで「展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」だといい、「利潤率の傾向的低下の法則」による「『恐慌の必然性』の証明」のための章だと言う不破さんは、「第一五章」の第一節と第二節の中の二つの文章(大月版P307とP313-314)をあげて、「どちらも利潤率の傾向的低下とは問題意識を異にする」、「いまでも、『恐慌の根拠』についてのマルクスの定式として、非常に重視されているものです。」と言います。

 この不破さんの言い分は、形式的にも矛盾しています。この二つの文章が「いまでも、『恐慌の根拠』についてのマルクスの定式として、非常に重視されているもの」だとすれば、それは、「第一五章」で「展開した理論の主要部分」ではないのか。そしてそれは、取り消されるべきものではないのか。不破さんはどのようにつじつまを合わせようというのでしょうか。

 そしてこの不破さんの言い分は、内容的に誤っています。不破さんは、これら二つの文章が「どちらも利潤率の傾向的低下とは問題意識を異にする」と言いますが、「どちらも利潤率の傾向的低下の法則」の「内的な諸矛盾の展開」のなかで、「利潤率の傾向的低下」のもとでの資本主義的生産様式の矛盾を明らかにしたもので、「どちらも利潤率の傾向的低下とは問題意識を異にする」などと、逆立ちしても、言えません。

 このような不破さんの「主張」は、根本的に間違っており、「捏造」とさえいえるもので、白を黒というようなものです。こういうのを「厚顔無恥」というのでしょう。

 不破さんは、「解説は抜きにして」などと言わずに、真摯な気持ち、真摯な態度で「解説」すべきです。それが、『資本論』解説者の義務です。

 

「第一四章」で述べた「現代の資本と世界市場」の手がかりが「第一五章」にあった

 不破さんが、ここで「展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」だと言うこの「章」には、「資本が外国に送られるとすれば、それは、資本が国内では絶対に使えないからではない。それは、資本が外国ではより高い利潤率で使えるからである。」(大月版P321)という、不破さんに煎じて飲ませてあげたいような文章があります。

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「第一五章」を「取り消し」たら、『資本論』は『資本論』ではなくなってしまいます

 この章は、不破さんから「取り消した章」などと言われていますが、「第一五章」を「取り消し」たら、『資本論』は『資本論』ではなくなってしまいます。

 「第一五章」の主な重要な点については、ホームページ4-26-2-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(1/3)」の「第一五章」に関するところに①から⑧までとしてまとめてありますので、是非、お読み下さい。

 この章の一番重要な点は、①の「利潤率の傾向的低下の法則」の発見によって、「資本主義的生産様式は生産力の発展に関して富の生産そのものとはなんの関係もない制限を見いだ」し、「この特有な制限は、資本主義的生産様式の被制限性とその単に歴史的な一時的な性格とを証明するのである。それはまた、資本主義的生産様式が富の生産のための絶対的な生産様式ではなくて、むしろある段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明するのである。」(同上P304)という文章にあります。

 そして、私が最後に示した⑧は、不破さんの謬論に鉄槌を加える「第一五章」の結びの文章です。「第一五章」の結びの文章は、「資本主義的生産の三つの主要な事実」を述べた、『資本論』を通じてマルクス経済学を学ぶ上で大変大切な文章ですが、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」をマルクス自身が認めた内容を含むもので、不破さんにとっては「見たくもない」文章だと思います。しかし、そこに書かれていることが自分の矮小な考えに合わないからといって、大切な文章の内容を読者に伝えようとしないのは、『資本論』の解説者として、『資本論』の読者への裏切り行為といってもいいでしょう。

 そして、マルクスは「第一五章」で、このように、「恐慌現象」=「利潤率低下の法則」などという、不破さんのような、短絡的で思考力のないストレートな「結びつけ」などしていませんが、資本主義的生産様式の社会における「利潤率の傾向的低下の法則」のもつ意味を私たちにしっかりと教えた章となっています。

 

援軍のはずの大谷禎之介氏にも見捨てられる不破さん

 

 

 不破さんは「『資本論』探求〈下〉」の「第五篇」の「解説」──ホームページ4-26-2-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)」参照──で、大谷禎之介氏の『マルクスの利子生み資本』全4巻について、「私自身は、この研究の全体に一応目を通したという段階で、研究成果の全体を再現する力はもちませんが、私の理解した範囲での大谷研究の到達点も踏まえながら、エンゲルスの編集の問題点を指摘し、この部分(第二五章~第三五章のこと──青山)でのマルクスの研究と考察のあとを、できる限り追跡してゆきたいと思います」(P86)と大谷氏の知恵を借りて「エンゲルスの編集の問題点を指摘」すること──エンゲルスが編集した『資本論』を改竄するためにエンゲルスを誹謗・中傷すること──を述べています。

 しかし、不破さんが知恵を借りようとしている大谷氏は、『マルクスの利子生み資本』③で、第3部第1稿の「第3章 資本主義的生産が進行していくなかで一般的利潤率が傾向的に低下していくという法則」について、「マルクスはここで、利潤率の傾向的低下の法則を明らかにしているが、さらに進んで、『資本主義的生産が進行していくなかで』、すなわち資本の蓄積が進んでいくなかで、この法則がどのように作用し、資本をどのように運動させることになるのか、ということを考察する。そしてこのなかで、資本の諸矛盾の累積が、ある時点でこれらの矛盾を爆発させて、恐慌をもたらすことを明らかにしたのである。」(P259)と言って、不破さんの「利潤率の傾向的低下の法則」の評価とは正反対の評価をしています。そして、大谷氏は、「なお、念のために述べておくが、マルクスは第3部第1稿第3章を書いたのち、第2部第1稿を書き、その後ふたたび第1稿の執筆に戻ったが、第1稿第5章を書きつつあった時点で、第1稿第3章で明らかにしていた一般的利潤率の傾向的低下の法則そのものについての論証を依然として正しいものと考えていたこと、言い換えれば、そこでの論証を不十分なものだったと反省して取り消すべきだと考えてはいなかったことは、第5章のなかの次の四つの記述を見れば明らかである。これはエンゲルス版第15章部分についても妥当することであろう。」(P275)と述べて、不破さんの暴論をきっぱりと退けています。

 重ねて言います。不破さんは、自分の変節を合理化するために、「これは、私だけの勝手な結論ではありません。」などとウソをつくのは、もうやめるべきです。

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「第一八章 商人資本の回転。価格」の文章を見て驚く不破さん

 不破さんは、「第一八章」の文章を見て、なにか「大発見」でもしたかのように、「この文章と、第二部第一草稿でマルクスが恐慌の運動論を発見した時に書き付けた最初の文章とを読みくらべてみてください。最初の文章は産業資本を主語としての解説、今度は商人資本を主語としての解説ですが、冒頭の『商人資本は、……生産資本のために局面W-Gを短縮する』というのは、第一草稿の『流通過程の短縮』という言葉の再現にほかなりません。それによってつくりだされる『架空の需要』が再生産過程を制限を越えてまでも推進し、ついには恐慌にいたる、という論理も、第二部第一草稿で示された論理とまったく共通のものです。」と言います。

 

多少でも経済学をかじった者なら、不破さんのこの文章を見て苦笑いをすること請け合いです

 「流通過程の短縮」は資本主義的生産様式の社会での「商人資本」の存在理由であり、見かけ上の価値実現の見返りとして産業資本による搾取の分け前を得ることができるのです。「産業資本」の側から見ても「商人資本」の側から見ても、「流通過程の短縮」は「流通過程の短縮」です。マルクスが、資本主義的生産様式の社会での「商人資本」の役割を明らかにしたからといって、二一世紀になって不破さんが驚くべきことではありません。

 現代に生きる、多少でも経済学をかじった者ならば、不破さんのこの文章の運びに苦笑いをすること請け合いです。

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マルクス・エンゲルスを誹謗し続ける不破さんが、『資本論』から21世紀になって発明した「影の文章」

 続けて不破さんは、「架空の需要」が実需を生み、それがまた「架空の需要」を生み、それらがある時点で、「恐慌」によって清算されるという「恐慌」に至るメカニズムを説明した文章について、「これまでほとんど無視された影の文章となってきたのは、たいへん残念なことでした。」と言います。

「無知は十分な根拠になる」ことを立派に示した不破さん

 「架空の需要」が実需を生み、それがまた「架空の需要」を生み、それらがある時点で、「恐慌」によって清算されるという「恐慌」に至るメカニズムを二一世紀になってやっと大「発見」して、「恐慌の運動論」などと名づけたのは不破さんで、「無視された影の文章」としてきたのは不破さん自身です。自分の無知をみんなの無知ででもあるかのように思い、それを根拠に「無視された影の文章」などと不破さんは言います。もう、開いた口がふさがりません。

 

これまで不破さんに「無視された影の文章」で述べられていること

 

 そして、不破さんが「無視された影の文章」という文章の「トリ」の部分で『資本論』は、「遠隔地に売る(または国内でも在庫の山をかかえてしまっている)商人たちの〔支出の〕還流が緩慢になって、まばらになり、その結果、銀行には支払いを迫られたり、諸商品購入のさいに振り出した手形が諸商品の転売が行われないうちに満期になるということになれば、ただちに恐慌が到来する。そこで強制販売、支払をするための販売が始まる。そうなればそこにあるのは崩落であって、それは外見的な繁栄に一挙に結末をつけるのである」と、のべています。

「無視された影の文章」と同じ内容を、より詳しく説明したもう一つの文章

 この「恐慌」の現象的な説明を「資本の価値」に着目して、恐慌に至る過程について、より詳しく説明した文章が『資本論』の他の箇所にあるので紹介します。

「主要な破壊、しかも最も急激な性質のものは、価値属性をもつかぎりでの資本に関して、資本価値に関して、生ずるであろう。資本価値のうち、単に剰余価値または利潤の将来の分けまえにたいする手形という形で存在するだけの部分、事実上は生産引き当てのいろいろな形の債務証書でしかないものは、それが当てこんでいる収入の減少とともにたちまち減価を受ける。金銀の現金の一部は遊休し、資本として機能しない。市場にある商品の一部分は、ただその価格のひどい収縮によって、したがってそれが表している資本の減価によって、やっとその流通・再生産過程を通ることができる。同様に固定資産の諸要素も多かれ少なかれ減価を受ける。そのうえに、一定の前提された価格関係が再生産過程の条件となっており、したがって再生産過程は一般的な価格低落によって停滞と混乱とにおちいるということが加わる。この攪乱や停滞は、資本の発展と同時に生じてあの前提された価格関係にもとづいている支払手段としての貨幣の機能を麻痺させ、一定の期限の支払義務の連鎖をあちこちで中断し、こうして資本と同時に発展した信用制度の崩壊が生ずることによってさらに激化され、このようにして、激烈な急性的恐慌、突然のむりやりな減価、そして再生産過程の現実の停滞と攪乱、したがってまた再生産の現実の減少をひき起こすのである。」(大月版④P318~319)

 

再び、「無知は十分な根拠になる」ことを立派に示した不破さん

 『資本論』の何処に書いてあるか、大月版のページが振ってあるので、もうお分かりでしょう。この文章は、不破さんによって、ここで「展開した理論の主要部分」が取り消されてしまった、不破さんの言う「理論的大転換の前夜に書かれた」第3篇第一五章の中のかなり有名な文章で、「商人資本」のもつ「流通過程の短縮」という役割をしっかりと認識して書かれたものです。

 このように、二一世紀になるまで不破さんが「無視」してきた文章と、二一世紀になって不破さんが「取り消し」た文章とは、同じ内容のことを、それぞれの「章」が取り扱うテーマに沿って、それぞれ異なる側面から述べられています。

 このように、「第一五章」と「第一八章」とは内容的に統一されており、不破さんが、なにか「大発見」でもしたかのように、「第一八章」の文章と「第二部第一草稿で示された論理」とが「まったく共通のもの」と言った、資本主義的生産様式のもとでの「商人資本」のもつ「流通過程の短縮」という役割を、マルクスは『資本論』第三部第三篇第一五章の草案執筆時点で十分認識していたことを示しています。

 そして、そのことは、マルクスが1865年に「第二部第一草稿での恐慌の運動論の発見」により「理論的大転換」をして『資本論』を書き変えることを決めたという不破さんの妄想が成り立たないことを示しています。

 それにもかかわらず、不破さんは、「この時期の、新たに発見した恐慌の運動論へのマルクスの打ち込みぶりが、強く実感されます」とか「適切な機会となりうるところで、早く新しい理論のより具体的な展開をしておきたい、こういう意欲が垣間見える印象をもつからです」などと、見てきたようなことを言って、読者をだまそうとします。 

 不破さんにとって打撃的なことを申し上げて心苦しい限りですが、不破さんは、「恐慌の運動論」の「発見」が「『資本論』全体の構想プランの画期的な変化の出発点となりました」と言って、自らの妄想の「出発点」は言いますが、「『資本論』全体の構想プラン」がどのように「画期的」に「変化」したのか、「新資本論」について、マルクスの遺作から探しだすことができません。最低限、「第一五章」について、「そこで展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」と言う以上は、不破さんの言う「第一五章」の「理論の主要部分」とは何で、それが「以後の草稿」の何処でどのように「取り消」されたのか、そのくらい明らかにするのは最低限の義務ではないでしょうか。

 しかし、それは、不破さんにとって不可能なことです。なぜなら、『資本論』は、不破さんの妄想の「出発点」より以前からの構想にもとづいて執筆され、全体の整合性は保たれており、同時に、1881年に「第二部」の第8稿をもって『資本論』の執筆を打ち切るまで、不破さんが「古い地層」に属すると言う「第一篇」から「第三篇」までの草稿について、マルクスは一度も「取り消し」などしていないからです。

 

不破さんは、「1865年初め」にマルクスが「恐慌の運動論」を「発見」したなどというウソをつくのをやめるべきです

 なお不破さんには、1859年に刊行された『経済学批判』の次の文章などまったく頭の中に入っていないのでしょう。

「……交換過程における購買と販売との分離は、社会的素材変換の局地的・自然発生的な、先祖伝来のつつましやかな、心地よくてたわいのない諸制限を打ち破るが、それと同時にこの分離は、社会的素材変換の相合して一体を成している諸契機の分裂とそれらの対立的固定化との一般的形態であり、ひとことでいえば、商業恐慌の一般的可能性である。」

 この、資本主義的生産様式における「購買」と「販売」との分離による「恐慌の可能性」についての知識は、マルクス経済学を少しでも学んだ人ならば誰でも知っていることです。そして、資本主義的生産様式における「信用」の拡大は、この「購買」と「販売」との分離による「架空の需要」のトレンドを拡大させる「槓杆」の役割をもっています。マルクスはそんなことは百も承知です。「1865年初め」にマルクスが「恐慌の運動論」を「発見」したなどというウソをつくのを、不破さんはやめるべきです。

 なお、ここで一つ不破さんにお願いしておきたいことは、マルクスが「経済恐慌やバブル現象まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がない」と述べていると言ったように、こんどは、〝経済恐慌やバブル現象まで、すべて商人資本の冒険がなせる業〟だとマルクスは言っているなどと、口が裂けても言わないで欲しいということです。後生ですから、お願いします。

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不破さんとマルクスの『資本論』の位置づけの違い

 ここまで、「第一八章 商人資本の回転。価格」のなかの「資本の現象的な流通形態」から「恐慌」を説明する文章についての不破さんの「特別」な位置づけとその誤りについて見てきましたが、「第一八章」には不破さんとマルクスの『資本論』の「意義」の違いをあらわす文章がありますので、紹介します。

不破さんは、第三部の研究は「総資本の諸姿容」の「常識的な社会の見方そのもの」だという

 不破さんは、「『資本論』探求〈下〉」の「第三部を読む」の最初の「項」で、「第三部の研究対象は何なのか」と問いかけて、「これから研究するのは、『社会の表面』に現れる世界」だと言い、「これまで第一部、第二部で見てきた世界」と「どこが違ってくる」のか、「それは、これからの研究のお楽しみ」で、「マルクスは、こういう意味で、第三部の内容の核心を示すものとして『諸姿容』の語を押し出したのでした」といい、第三部の主題は「総資本の諸姿容」だと言います。

 そしてマルクスは、不覚にも、第一巻への「序言」で、二一世紀になって不破さんのような人が現れるなどとは夢にも思わず、第三部について、詳しくいえば「資本主義的生産の総過程における資本の諸姿容とそのもとでの諸階級の科学的研究」を取り扱うというべきところを、端折って、第三部で「総過程の諸姿容」を取り扱うと「体言止め」の表現をしてしまいました。

 その結果、不破さんにおいては、第三部の研究が「科学的研究」から「総資本の諸姿容」を見る「お楽しみ」の「研究」で、「これから研究するのは、『社会の表面』に現れる世界」で「常識的な社会の見方そのものだ」とマルクスがいっていると言い、堂々と、そのとおりの「解説」をすることになってしまいました。

 

第三部は「資本主義的生産の総過程」の仕組みの暴露

 しかし、マルクスが第三部について「再生産の総過程に関するすべての表面的で転倒した見解は、商人資本の考察から取ってきたものであり、また商人資本特有の運動が流通担当者たちの頭のなかに呼び起こす観念から取ってきたものである。

 読者が残念に思いながらも認めてきたように、資本主義的生産過程の現実の内的関連の分析が非常に複雑な事柄で非常に手数のかかる仕事だとすれば、また、目に見える単に現象的な運動を内的な現実の運動に還元することが科学の仕事だとすれば、……」(大月版P390-391)と述べているように、『資本論』の仕事は資本主義の仕組みを暴露するという「科学の仕事」を貫徹することでした。

 このように、不破さんとマルクスの『資本論』「第三部」の位置づけは、まったく異なっています。

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やっとわかった、不破さんの「『資本論』全体の構想の再検討」の意味

 不破さんは「『資本論』探求」〈下〉」の「『資本論』第三部を読む」の「(7)第五篇。利子生み資本の研究」の冒頭の文章で、「マルクスが、恐慌の運動論の発見を転機に、『資本論』の構想プランを変更し、これまで予定していなかった新たな分野に挑戦した」と言います。

私たちは、こういう人物とこれからどうつき合っていけばいいのか

 不破さんは、不破さんが創作した「恐慌の運動論」の「発見」が「『資本論』全体の構想プランの画期的な変化」をもたらし、その結果、「第一五章」は「そこで展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」となったと、「第一五章」の「理論の主要部分」とは何で、それが「以後の草稿」の何処でどのように「取り消」されたのかも示さず、言っていました。そして、こんどは、これまで「『資本論』全体の構想の再検討」と言ってきたことの中身は、「マルクスが」「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」することだというのです。その、不破さんの言う「これまで予定していなかった新たな分野に挑戦」なるものは、私がこれまで『資本論』の成立過程の概略で述べたことにしたがって、マルクスが論及することだったのです。

 私たちは、これまで、不破さんと最大限まじめにつき合ってきましたが、これから、こういう人物とはどうつき合っていけばいいのでしょうか。

 ここまでが、国民のための経済がある新しい共同社会を創るための、不破さんの『資本論』第三部の「第一篇」から「第四篇」までの「解説」を軸とするマルクス・エンゲルスと『資本論』の歪曲・捏造の反面教師「解説」の究明・解説です。

ここから、「第五篇」の「第二一章」から「第二四章」までに関する不破さんの論及を材料として、国民のための経済がある新しい共同社会を創るために、不破さんの反面教師ぶりを見ていきます。

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ヤクザが「因縁をつける」ようにエンゲルスを誹謗する不破さん

 不破さんは「『資本論』第三部を読む〈下〉」「(7)第五篇。利子生み資本の研究」の「『利子生み資本』とは何か」という「節」で、大谷禎之介氏の知恵──エンゲルスが草稿の「monied capital」をドイツ語の「貸付資本〔Leihkapital〕」、「貸付可能資本〔Leihbares Kapital〕」、「貨幣資本〔Geldkapital〕」などの語に置き換えたことでマルクスがmonied capitalという語を頻用したことがまったく見えなくなり、「原文のニュアンスが失われている場合もあるように思われる」という──も借りながら、「貨幣資本」に(m)を付記しないと「原文のニュアンスが失われている場合もあるように思われる」という大谷氏の言葉が「マルクスの文意を正確に理解する」ことができないと格上げされ、エンゲルスは「monied capital」という言葉を意識して使ったとは思えないなどとまで言って、エンゲルスを誹謗します。

 

誰でもわかることを「文意を正確に理解する」ことができないという不破さん

 本当に不破さんという人は困った人です。

 「貨幣資本」に(m)を付記しないと「文意を正確に理解する」ことができないのなら、不破さんは今後、自らの著作の中の信用制度のもとでの貨幣市場での利子生み資本を意味する「貨幣資本」という言葉には(m)を付記して、「貨幣資本」(m)と表記し、この「貨幣資本」(m)は「信用制度のもとでの貨幣市場での利子生み資本を意味する」と注記することをお勧めする。

 かりに、『資本論』の「利子生み資本」に関するところを読んで、「貨幣資本」に(m)を付記しないと「文意を正確に理解する」ことができない人がいたとしたら、それはエンゲルスが「monied capital」を「Geldkapital」とドイツ語に訳し、「Geldkapital(m)」と訳さなかったからではありません。『資本論』を読んだ人の知識の量が足りないだけです。ヤクザのようにエンゲルスに〝いちゃもん〟をつけた不破さんがおこなったことは、「貨幣資本(Geldkapital)」に「(m)」をとってつけただけでしたが、資本主義的生産様式のもとでの「貸付資本」や「貨幣資本家」の話をしているのに、それらに「(m)」をとってつけるなど「蛇足」というものです。

 だから、「原文のニュアンスが失われている場合もあるように思われる」などと言ってエンゲルスを非難していた大谷氏も、最後には、エンゲルスが英語の「monied capital」を「貸付資本」、「貸付可能資本」、「貨幣資本」などドイツ語に訳したことについて、それがどの程度適切であったのか「確定的な判断をくだすことはできない」などと言わざるを得なくなってしまいました。

※詳しくは、ホームページ5-2「大谷禎之介氏の『マルクスの利子生み資本論』(全4巻)とマルクス・エンゲルスの『資本論』から学ぶこと」及び別添PDFファイル「第三部第三〇~三二章とマルクス・エンゲルスと大谷氏」とホームページ4-26-2-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)」を参照して下さい。

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「利子率を規定する法則」の正しい理解

 不破さんは、「資本商品の利子には、法則的な基準はまったく存在しない」と言いますが、「法則」が「まったく存在しない」わけではありません。

 マルクスが述べていることを、分かりやすく、正確にいうと、「利子率を規定する法則は」「競争によって命令される法則のほかには、」他に「利子率を規定する法則はない」ということです。つまり、利子率は市場の競争によって決まるということです。不破さんの曖昧な表現に撹乱されないようにしてください。

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マルクスが言う「オーケストラの指揮者の場合」のような労働の意味

 マルクスは「第二三章 利子と企業者利得」のなかで、管理賃金に関連して、①多数の個人が協業するすべての労働において、「オーケストラの指揮者の場合」のような労働が現れること、②この監督労働は、直接生産者を搾取するすべての生産様式においては、必然的に、その対立に起因する独特な諸機能を含んだものとしておこなわれるということを、階級社会における監督・指揮労働について述べています。

 

不破さんは、革命を「生産現場」での「新しい人間関係」の形成に矮小化する

 不破さんは、マルクスのこの指摘にかこつけて、「マルクスが、共同社会でも共同労働の指揮者が必要だとして、オーケストラをその実例に挙げたのは、見事なたとえだと思います。」と、資本主義的生産様式の社会を脇に置いて、「オーケストラの指揮者」だけを取り出して「共同社会」と結びつけます。

 不破さんは、エンゲルスとレーニンを、「生産物の分配の仕方」と「生産物の生産の仕方」とが一つのものである資本主義的生産様式の「生産物の分配の仕方」だけしか考えていない「エセマルクス主義者」たちのように言って、夢がないと切り捨てますが、不破さんの言う「夢」は、「生産物の分配の仕方」と「生産物の生産の仕方」とが一つのものである資本主義的生産様式の廃棄のたたかにの中から生まれるのではなく、資本主義的生産様式の社会を脇に置いた「オーケストラの指揮者」がいる「生産現場」での「新しい人間関係」の形成の中から生まれるようです。

 不破さんは、革命を、「オーケストラの指揮者」をキーワードとする「生産現場」での「新しい人間関係」の形成に矮小化し、「オーケストラの指揮者」がいる「共産主義社会」での労働を「社会の構成員にとって義務的な活動」として、人間の全面発達を抑圧します。実に貧困な「夢」のある社会です。

※なお、この貧困な「夢」のある社会の詳しい説明は、ホームページ4-26-1-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を、「第二一章」~「第二四章」(「利子生み資本」の資本主義社会での定義づけについての論及)の概要等は別添PDFファイルを、参照して下さい。

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『資本論』の第二五章~第三五章のエンゲルスの編集についての不破さんのデマ。

いきなりエンゲルスを罵倒してウソをいう、不破さん

 不破さんは、『資本論』の第二五章~第三五章のエンゲルスの編集について、いきなりエンゲルスを罵倒して、草稿は「未完成の初稿という性格をもっていた上、草稿そのものが性格を異にするさまざまな部分からなって」いるが、「エンゲルスがそのことを理解しないまま」「編集した」とウソを言います。

いきなり論拠も示さずに「決めつけ」を行なうのは、不破さんの常套手段

 このように、いきなり論拠も示さずに「決めつけ」や「推測」を行なうのは不破さんの常套手段ですが、具体的内容が示されていないので、検証する側にとっては大変困ります。かといって、デマをそのまま放置する分けにもいきませんので、ここで不破さんが言っていることの論点整理程度に内容に触れてみたいと思います。

 

不破さんは自分の言っていることがウソだと分かっているのにウソをいう

 草稿が「未完成の初稿という性格をもっていた上、草稿そのものが性格を異にするさまざまな部分からなって」いることは、エンゲルス自身が「序文」で述べていることであり、不破さん自身も、「『資本論』探求」〈下〉」の66ページと83-84ページで「序文」のこの部分を抜粋しています。だから、不破さんが、草稿が「未完成の初稿という性格をもっていた上、草稿そのものが性格を異にするさまざまな部分からなって」いるが、「エンゲルスがそのことを理解しないまま」「編集した」と言うのは、確信犯が行なう作り話であり、真っ赤なウソということです。

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不破さんの、ただ言い放つだけの無責任な放言

 そして、不破さんは、「大幅な加工の手を入れて編集したために」、「執筆したマルクスの真意そのものがつかみにくい状態のものとなっています」と言います。

不破さんはマルクスの真意が別にあるというなら、それを示さなければならない

 不破さんが理解できないのなら、このページをよく読んで理解していただく以外ありませんが、エンゲルスの手入れのために、不破さんは「マルクスの真意」を理解しているが、読者が「つかみにくい状態」だという不破さんの評価を述べているのであれば、具体的に、どこにどのような手入れがおこなわれた結果、マルクスのこういう「真意」がこのように「つかみにくい状態」になったと指摘していただかないと、何とも言えません。

 エンゲルスはこのように不破さんから「理屈」ぬきの非難、いわゆるケンカを売られたわけですが、「大谷研究の到達点も踏まえながら、エンゲルスの編集の問題点を指摘し、この部分(第二五章~第三五章のこと──青山)でのマルクスの研究と考察のあとを、できる限り追跡してゆきたいと思います」(P86)と大谷氏の知恵を借りて「エンゲルスの編集の問題点を指摘」するとのことなので、私としては、その都度お付き合いする以外ありません。

 

本当に下品な不破さん

 『資本論』の「第五篇」は、エンゲルスが序文で述べているような不完全な状態の草稿を、不破さんが知恵を借りようとする大谷禎之介氏が『マルクスの利子生み資本』②の56-57ページにその概略を示したような、大がかりで複雑な編集作業をして、例えば、次に見る「第二五章 信用と架空資本」などは、草稿のエンゲルスによる要約や入れ替え、草稿の他の箇所からの引用、そして、エンゲルスの補筆を含め、20以上の文章を編集して出来上がりました。

 エンゲルスが人生の晩年に、不完全な状態の草稿をなんとかしてマルクスの著作としての『資本論』に仕上げようと懸命の努力をして成し遂げたものを、何の根拠も示さずに全否定し、「大幅な加工の手を入れて編集したために」、「執筆したマルクスの真意そのものがつかみにくい状態のものとなっています」などと言ってエンゲルスを非難する不破さんの品性には、あきれるばかりです。

 

「第五篇の編集上の困難」はエンゲルスの自業自得だという、不破さん

 そして、不破さんの品性のなさに、益々、あきれるのは、不破さんの言う「第五篇の編集上の困難」の理由です。

 不破さんは、「今日の時点からふりかえってみると、エンゲルスをなやませた第五篇の編集上の困難には、エンゲルスが最後まで気づかなかったいくつかの問題がありました。その一つは、エンゲルスが、第五篇後半の『信用』関連の草稿のなかに、マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノートが含まれていたことに気づかなかったことです。」と言います。もう、呆れるばかりです。

 

「第五篇の編集が困難」だった本当の理由

 不破さんは、エンゲルスが序文で述べている「第五篇の編集が困難」だった理由(=事実)を無視して「第五篇の編集が困難」な理由をデッチ上げているので、少し長くなりますが、エンゲルスが「第五篇の編集」のために費やした時間の理由を紹介させていただきます。

 エンゲルスは序文で、「第五篇の編集が困難」だった理由として、「ちょうどここでマルクスは書き上げのさいちゅうに前に述べたような重い病気の一つに襲われたのだった。だから、ここにはできあがった草案がないのであり、これから中身を入れるはずだった筋書きさえもなくてただ仕上げの書きかけがあるだけであって、この書きかけも一度ならず覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっているのである」と、マルクスの草稿が非常に不十分なものであり、「一度ならず覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積」であることを率直に述べています。そうしたなかで、エンゲルスは、「私がまず試みたのは、」この方面の膨大な文献をあさって、「すきまを埋めることや暗示されているだけの断片を仕上げることによってこの篇を完全なものにし、この篇が著者の与えようと意図したすべてのものを少なくともおおよそは提供するようにすることだった。これを私は少なくとも三度(これにより、少なくとも三年以上はかかったということ──青山)はやってみたが、しかしそのつど失敗した。そして、そのためにむだにした時間こそは、遅延の主要な原因の一つなのである」と、編集上の試行錯誤を繰り返したこととそれが「遅延の主要な原因の一つ」になったことを明らかにしています。そして、上記のような方法で編集が完了したとしても、(あまりにも多くのすきまや暗示のために、それを補ったために──青山補足)「それはマルクスの著書ではないものになる」と思い、その結果、「私に残された道は、ある点で仕事を切り上げ、現にあるものをできるだけ整理することに限り、ただどうしても必要な補足だけを加えるということしかしなかった」と、その忸怩たる思いを告白しています。

 このエンゲルスの編集過程の試行と葛藤を、不破さんは、「エンゲルスの言う編集方針の変更の意味するものが何であるかを、読み取ることはなかなか難しい問題ですが」と、まともに受け止めようともしないで揶揄して、編集方針を変えたことが「成功への転機になったと語った」と、軽々しく、言います。

 不破さんのように自己顕示欲の強くないエンゲルスは、『資本論』をマルクスの著書として完成させるため、「私に残された道」として、次善の策として、苦渋の決断をして、このような編集方法を選んだのです。エンゲルスは、不破さんのように「成功への転機になった」などと一言も語っていません。「成功」などという言葉を使うのは、エンゲルスに対して失礼です。

 

〝事実〟を無視して「第五篇の編集が困難」な理由をデッチ上げる不破さんが編集する〝贋作〟「マルクス『資本論』」の「第二五章」がどのように編集されるのか興味が尽きない

 不破さんは、エンゲルスの「第五篇の編集上の困難」は、「これから中身を入れるはずだった筋書きさえもなくてただ仕上げの書きかけがあるだけであって、この書きかけも一度ならず覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっている」草案にあるのではなく、「エンゲルスが最後まで気づかなかったいくつかの問題」にあると言うのです。

 そして、不破さんは、エンゲルスが「遅延の主要な原因の一つ」にあげた編集過程の試行と葛藤を、「エンゲルスの言う編集方針の変更の意味するものが何であるかを、読み取ることはなかなか難しい問題です」などと揶揄して、その編集過程に想いをはせその努力をねぎらうのではなく、「第五篇の編集上の困難」の理由は、エンゲルスが「『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノートが含まれていたことに気づかなかった」からで、エンゲルスの自業自得だと言うのです。

 このように、〝事実〟を無視して「第五篇の編集が困難」な理由をデッチ上げる不破さんが編集する〝贋作〟「マルクス『資本論』」の「第二五章」がどのように編集されるのか、興味が尽きません。

 

『資本論』をマルクスの著作として、立派に仕上げたエンゲルス

 なお、不破さんの言う「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」なるものが、どこに書かれている「覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積」(なお、「混沌」以外のものを大谷氏は「雑録」、「捜論」、MEGAは「補録」等と言っています。)のことなのか──これも、不破さん得意の、無責任な、言いっ放しのいつものやり方なので──分かりません。しかし、エンゲルスは、『資本論』草稿に書かれている全てを使ってマルクスの荒削りな部分を補いながら、『資本論』をマルクスの著作として、立派に、仕上げたことだけは申し上げておきます。

 

マルクスの経済学を学ぼうとするものにとって、知見を狭め誤った理解に導く非常に有害な不破さんの「解説」

 そして、不破さんのエンゲルスに対する不当な誹謗についての防衛的な措置として、あらかじめ申し上げておきますと、不破さんは、「『資本論』探求」の「解説」において、不破さんの言う「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」と思われる部分や自分の気に入らない部分を除いて「解説」をしています。そのために『資本論』を通じてマルクスの経済学(科学的社会主義の経済学)を学ぼうとするものにとって、知見を狭め、誤った理解に導く、非常に有害な「解説」になっています。

 

『資本論』の第2部、第3部の主要な部分を否定する不破さんと大違いな大谷氏

 なお、不破さんが知恵を借りてエンゲルスの評価を落とそうとする大谷氏は、『マルクスの利子生み資本論』2で、次のように述べています。

「マルクス自身が刊行できなかった第2部および第3部を編集・刊行して、彼の主著の理論的部分を完成させたエンゲルスの功績は、それらがもつ欠陥や不十分さにもかかわらず、不朽のものである。」(P360)といい、「エンゲルスの最晩年の悪戦苦闘によって、人類は、そしてとりわけ労働者階級は『資本論』の第2部および第3部をもつことができた。かりに、エンゲルスによる第2部および第3部の刊行がなかったとして、これまでに経済学者は、そこで分析され展開されている諸問題をそこでなされているような仕方で自ら展開し、さらにそれを資本主義的生産の理論的分析に適用することができていたであろうか。……

 エンゲルス編の第2部および第3部の欠陥をあげつらうことは、マルクスの草稿がかなりの程度にまで見ることができるようになったいまでは、むしろ手もない仕事だと言うことさえできる。しかしながら、第2部および第3部の編集・刊行というエンゲルスの不朽の業績は、言い換えればエンゲルス版『資本論』第2部および第3部の刊行の歴史的意義は、それらのもつ欠陥や不十分さによってけっして相殺されることはないであろう」(P363-4)、と。

 

不破さんの『資本論』の理解力を目を凝らして見ていこう

 不破さんは、エンゲルスがつけた「資本主義的生産の総過程」という第三部の表題について、マルクスは「総過程の諸姿容」といっていたから主題は「総資本の諸姿容」だと、第三部の意義も分からずに、自ら大「発見」した「恐慌の運動論」に目が眩み、肝心かなめの「資本主義的生産の総過程」抜きの「総資本」の「諸姿容」を主張するくらいの第三部の理解力の持ち主ですから、マルクスが今度は草稿の「5)信用。架空資本。」(『資本論』第3部第二五章)の冒頭で「商業信用」といっている言葉の意味をどう捉え、大谷氏のいう「雑録」をふくむ「第二五章」の展開を「今日の時点からふりかえって」、どのように「欠陥をあげつらう」のか、不破さんの言うことを信じて先入見をもって『資本論』を学ぼうとする人にとっては不幸なことですが、不破さんの知識の程度を知るうえで、興味のあることです。

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不破さんの、『資本論』第三部「第五篇」のエンゲルスの編集への罵詈雑言

 不破さんは、「『資本論』探求」〈下〉」で、第五篇のエンゲルスの編集を、「エンゲルスのこの編集の最大の問題は、この部分の草稿のうち、マルクスが『資本論』の本文の草稿として執筆した部分と、それ以外の準備材料的な部分とを区別せず、全部が本文だと思い込んで、編集にあたったことでした。」と述べ、「例えば」として、「第二六章 貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響」は「そうした失敗の典型」だと言い、草稿の「混乱」以降の編集について「編集ではなく、〝創作〟と呼ぶしかない作業」と誹謗し、「この錯覚は、より大きな混迷をも生み出しました」と罵詈雑言・悪罵の限りを投げつけます。

 

「第二五章 信用と架空資本」と「第二六章 貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響」の編集の経緯

 この不破さんの誤った決めつけは、本当に不破さんが『資本論』の展開の道筋についても、『資本論』のための「準備材料的草稿」についてのエンゲルスの位置づけについても、無知であることをさらけ出すものとなっています。なお、第二五章から第二七章では、「資本主義のもとで生まれた『信用』制度」によって資本がどのような運動をし、資本主義がどのように発展するのかを考察しています。

 第二五章と第二六章は、マルクスの草稿の317から325bまでの文章で、MEGAでいう「総論」と「補録」(大谷氏はMEGAの「補録」を「雑録」と「捜論」に分けているが「雑録」という言い方はいかがなものかなと思います。)からなっています。第二五章は「総論」と大谷氏のいう「雑録」の大部分と草稿の「他の箇所で見いだされた材料の挿入」とエンゲルスの補足の文章とが、20近く集まって作られていることは前にも述べたとおりです。そして、第二六章は大月版『資本論』でいうと、最初の3ページが大谷氏のいう「雑録」で、残りの大部分が「捜論」からなり、それにエンゲルスの補足の文章が加わったものです。

 繰り返して言いますが、エンゲルスが編集に時間を費やしたのは、不破さんが言うような「編集上の困難」からではありません。エンゲルス自身が序文で述べているように、編集を困難にしたのは、「これから中身を入れるはずだった筋書きさえもない」草稿から「この篇を完全なもの」にしようとしたからです。そしてその努力を重ねれば重ねるほど、その大きな「すきまを埋め」、「暗示されているだけの断片を仕上げる」ための新たな研究が必要であり、その結果出来あがる「著書」はマルクスのものではなくなるということでした。エンゲルスがそのことを納得し、その方法を断念するまでには時間が必要だったのです。第二五章と第二六章のベースとなる草稿が「覚え書きや注意書きや抜き書きの形での材料やの乱雑な堆積に終わっている」ようなものであって、大きな努力を必要とするものであっても、このような経緯を経て、編集方針を変えることによって、「草稿」は二つの章にまとめ上げられ、『資本論』の中に生かすことができました。

 このように、MEGAの「補録」の部分が『資本論』の「準備材料的な部分」であることは、エンゲルスの編集の仕方をみれば一目瞭然です。大谷氏も指摘しているように、そして私が再三述べているように、「第二五章」は草稿のエンゲルスによる要約や前後の入れ替え、草稿の他の箇所で見いだされた材料の挿入、そしてエンゲルスの補筆を含め、20近くの文章を編集して出来上がりました。それなのに、不破さんは、エンゲルスがこれだけ思い切った〝切った貼った〟をして「第二五章」を編集したというのに、エンゲルスが「全部が本文だと思い込んで」いると言うのですから、驚きです。

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第二六章で『資本論』は何を言っているのか

 不破さんが「本筋とは関係のない議会討論の批判で飾ってしまった」「失敗の典型」だと言いう「第二六章 貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響」を見てみましょう。

 第二六章は大谷氏のいう「雑録」の最後の部分から始まりますが、第二五章を引き継いで、「貨幣資本」の蓄積が経済に及ぼす影響を述べ、引き続き、大谷氏のいう「捜論」で、ノーマンとオーヴァストーンの「貨幣資本」の捉え方とその需要と利子率についての混乱した考えについての批判を通じて、利子率についての正しい認識を一層深めるものとなっています。不破さんの言うような、「本筋とは関係のない」、「議会討論の批判で飾ってしまった」「失敗の典型」などではありません。

 エンゲルスが決断し、行なった手入れは、「貨幣」と「信用」と「貨幣資本」と「現実資本」の資本主義社会での複雑な絡み合いのなかで、必要最小限のものでした。だから、第二六章は、『資本論』の草稿全体の順序を生かして、いま見ているような形に編集されることとなったのです。

 もしも、エンゲルスが序文で述べているように、マルクスがこの篇に「与えようと意図したすべてのものを少なくともおおよそは提供するようにする」ために、エンゲルスが「マルクスの著書ではないもの」を編集するとしたら、『資本論』第五篇は現在の『資本論』とはかなり異なるものになっていたことでしょう。

 そして、この章で述べられていることは、今日の日銀の金融政策を正しく評価する上でも重要です。資本主義的生産様式における「貨幣」の多面的な機能を科学的社会主義の経済学のうえに基礎づけてこそ正しい理解ができます。資金需要がなければ、金利は上がりません。金利を下げても、再生産過程での「資本の過多」があれば経済成長へはつながらず、「投機」マネーに変質するだけです。大事なのは国内での「資本の過多」をなくすことです。そのために、「産業の空洞化」をやめさせ「利潤」の源である「製造業」を復活させることです。

※これらのより詳しい説明は、ホームページ4-26-2-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)」を、是非、参照して下さい。

 

第26章への大谷氏の批判への反論と大谷氏に期待すること

 なお、大谷氏は、第二六章について、第二六章の表題は小部分への小見出しをエンゲルスが全体につけられた表題だと勘違いしたもので内容と合っていないこと、第二六章を第二五章の本文部分および第二七章と対等に置くべきではない、との理由から「このような第二六章の表題と内容と位置とが、第五篇の第二五章以降の展開の筋道をきわめてわかりにくいものにし」たと言い、「草稿によって見ると、エンゲルス版で見られるのとはかなり異なった筋道が見えてくるようにも思われるのであるが、ここでは立ち入らないことにする」と述べています。

 しかし、第二七章の〝むすび〟の部分の言葉を見て下さい。マルクスとエンゲルスは、「これまでわれわれは、信用制度の発展──そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な廃止──をおもに産業資本に関連させて考察してきた。以下の諸章では、信用を利子生み資本そのものとの関連のなかで考察する」と、『資本論』第五篇の編集についての共通認識をもっています。

 大谷氏が「第五篇の第二五章以降の展開の筋道をきわめてわかりにくいものにし」たと言うのなら、大谷氏にとってはそのとおりなのでしょう。しかし、「第五篇の第二五章以降の展開の筋道」は「草稿」でも「エンゲルス版」でも上記のように書かれているので、「草稿によって見ると、エンゲルス版で見られるのとはかなり異なった筋道が見えてくる」はずがありません。『資本論』に書かれている「筋道」以外にどのような「筋道」があるのか、「ここでは立ち入らないことにする」などと言わずに、大谷氏には、是非、ご教示願いたいところです。

 そうすれば、「第二六章」を大谷氏が「第三三章 信用制度のもとでの流通手段」の次に置くことを提案しているのに対し不破さんは「本筋とは関係のない」と切り捨てていますが、大谷氏と不破さんとで「利潤率の傾向的低下の法則」の評価が決定的に違っていたように、大谷氏と不破さんとの違いがますます明らかになり、不破さんが頼る者がいなくなることになるでしょう。

※なお、「第二五章」~「第二七章」(「資本主義のもとで生まれた『信用』制度」によって資本がどのような運動をし、資本主義がどのように発展するのかの考察)及び「第二八章」の概要等は別添PDFファイルを、参照して下さい。

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第二五章~第二七章の要約と大谷氏と私の考え.pdf
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第二八章のあらすじと大谷氏の主張等.pdf
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「第三三章」と「第三四章」のエンゲルスの編集を、「より大きな混迷をも生み出した」「創作」だと叫ぶ不破さん

 『資本論』の「第三一章 貨幣資本と現実資本Ⅱ(続き)」の草稿に続いて、「混乱」という表題をつけた長い一篇の文章が続いていますが、不破さんは、この文章は、マルクスが1865年にエンゲルスに手紙でオーヴァストーンその他の理論の「ごった煮の全部にたいする批判を僕はもっとあとの本の中ではじめて与えることができるだろう」と言った「もっとあとの本」のための「準備材料」であり、「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」(P85)であり、「第三三章 信用制度のもとでの流通手段」と「第三四章 通貨主義と一八四四年のイギリスの銀行立法」は「編集ではなく、〝創作〟と呼ぶしかない作業」で「この錯覚は、より大きな混迷をも生み出しました」と、鬼の首でも取ったかのように言います。

 

エンゲルスの「第三〇章 貨幣資本と現実資本Ⅰ」以降の編集の苦労とその評価の不破さんと大谷氏の違い

 エンゲルスは、この「混乱」という表題をつけた長い一篇の文章を含む第三〇章から第三六章までの『資本論』の編集の経緯について、序文で次のように述べています。

「ところが、第三〇章からはほんとうの困難が始まった。ここからは、引用文から成っている材料を正しい順序に置くことだけではなく、絶えず挿入文や脱線などに中断されながらまた別の箇所でしばしばまったく付随的に続けられている思想の進行を正しい順序に置くことも必要だった。こうして第三〇章は入れ替えや削除によってできあがり、この削除されたもののためには別の箇所で使いみちが見いだされた。」

「第三一章は再びかなりよくまとめて書き上げてあった。」

 次に、「『混乱』という表題をつけた長い一篇が続き」、それを「批判的に風刺的に取り扱おうと」「いろいろやってみたあげくに、この章を組み立てることは不可能だということをさとった。」「その次には、私が第三二章で取り入れたものがかなりよく整理されて続いてい」た。「『混乱』からあとの、そしてすでにそれ以前の箇所で取り入れられなかったかぎりでの、すべてのこれらの材料から、私は第三三~三五章をまとめ上げた。」

「『資本主義以前』(第三六章)は完全に書き上げてあった。」

 エンゲルスが編集方針を変更し、心がけたのは『資本論』がマルクスの著作でなくなるのを避けることであり、草稿を生かし切ることでした。だから、エンゲルスは苦労してこのような編集をしたのです。

 不破さんは、エンゲルスのこのような『資本論』の編集について、エンゲルスの編集過程での苦悩について、まったく眼中になく、第二五章から第三五章までの11の「章」うち第二五章、第二七章と第三〇~三二章の五つの「章」のみを「中心」にして読むといいます。これでは、エンゲルスが「序文」に書いたような苦労をした意味が、まったくありません。

 このような不破さんの、「編集ではなく、〝創作〟と呼ぶしかない作業」で「この錯覚は、より大きな混迷をも生み出しました」などという理不尽な中傷を行ない、一顧だにしようとしないのとは対照的に、不破さんの援軍を期待されている大谷氏は、『マルクスの利子生み資本』④でエンゲルスの第三三章と第三四章の編集ぶりについて、ただただ見事というほかはないと言い、第三五章についても前向きな評価をしています。

 

不破さんは、もうそろそろ言いっ放しの放言癖を改めるべきではないのか

 もしも不破さんが、大谷氏が『マルクスの利子生み資本』で「monied Capitalの量と貨幣量」との関係について「マルクスが応えているかのような外観があたえられた」と指摘している言葉に飛びついて、〝創作〟だとか「より大きな混迷をも生み出しました」とか言っているのだとしたら、「解説」者として、第三三章と第三四章を堂々と取り上げて、エンゲルスの〝創作〟による「より大きな混迷」の誤りを正すべきではないでしょうか。

 〝創作〟だとか「より大きな混迷をも生み出しました」とか言っているだけの、言いっ放しの放言癖は、もうそろそろ、改めるべきではないのか。

 

『資本論』に代わる『資本論』がないことは、不破さん以外、みんなが認めている

 大谷氏を含め、『資本論』に代わる『資本論』がないことは、不破さん以外、みんなが認めていることです。不破さんは、エンゲルスに『資本論草稿集』でも出すべきだったとでもいうのだろうか。そんなことなら、不破さんにでもできます。

 大体において、資本論の草稿のなかに、一定のルールを持って書かれている「混沌」と書かれた文章やMEGAのいう「補録」等を「マルクスが『資本論』の執筆とは別の目的で書いたノート」だなどといって『資本論』から切り離してしまうことが、マルクスの執筆意図を生かすことになるのでしょうか。

 

不破さんに少しでも責任感があるなら、少しくらい責任を果たせ

 「この篇が著者の与えようと意図した」ものを、少しでも多く伝えるために、草稿の「現にあるものをできるだけ整理することに限り、ただどうしても必要な補足だけを加えるということ」によって『資本論』を編集したエンゲルスが、不破さんから罪人のように責められ、〝創作〟だ、「より大きな混迷」だと責めた本人は、その〝創作〟に誤りがあり、その結果「より大きな混迷」がもたらされているのならば、それを正さなければならないはずなのに、無責任にもその「誤り」を正す気などない。攻撃のための攻撃をするだけで品性の欠片すらありません。

 もちろん、エンゲルスの考えの中に勘違いと思われるような部分(例えば、大月版P544-547等参照)もあるし、それはマルクスにもあります。しかし、それがなんだというのか。〝そんなことも気づかないのか〟とマルクス・エンゲルス・レーニンにしかられるだけではないのか。

 

「草稿」の「未完成」なことを「研究途上の考察」にすり替え、「未完の労作ならではの味わい」を語る不破さん

 不破さんは、いかにも不破さんらしく、「エンゲルスの誤解から、マルクスの真意とは違った内容で編集された場合がある」ことを根拠も示さずに述べてエンゲルスを誹謗し、同時に、第五篇以降の草稿の「その少なくない部分が未完成」であったことをもって、マルクスの考察が「研究途上の考察」であったと、「草稿」の「未完成」なことを、「研究途上の考察」にすり替えて断言し、「そこに未完の労作ならではの味わいがあるのではないでしょうか」などと軽口を叩きます。

 

科学的社会主義の思想を受け継ぐ者の使命観のかけらもない不破さん

 もちろん、あらゆる科学上の研究は、現時点では、すべて「未完成の、いわば研究途上の考察」であることもまた事実です。ですから、マルクスが『資本論』の筆を断った1881年の時点で「真理」とマルクスが考えていたこと、1894年のエンゲルスが『資本論』の第三巻を刊行した時点で「真理」と考えていたこと、それらの中に、現時点での理論的な補強・発展が必要なものがあるのは当然です。そして、それを行うのが科学的社会主義の思想を受け継ぐ者の使命です。だから、不破さんが『資本論』の「解説」者であり、科学的社会主義の思想の持ち主たらんとするのであれば、──二一世紀になって、『資本論』から「恐慌の運動論」なる時代遅れの大発見をするくらいですから、あまり期待はもてませんが──当然、マルクスの考察の「その少なくない部分が未完成の、いわば研究途上の考察」であることを述べている以上、「解説」がその箇所に行ったとき、エンゲルスやマルクスの悪口を言ったり、「そこに未完の労作ならではの味わいがあるのではないでしょうか」などと呑気な軽口を叩くのではなく、現時点での「真理」を読者に伝えるのが『資本論』の「解説」者としての、科学的社会主義の思想の持ち主としての最低限の義務です。

 

「研究途上の考察」だと思い込んだ不破さんの〝大間違い〟

 『資本論』の第三部第五篇の草稿を書いた時のマルクスの考察の「その少なくない部分が未完成の、いわば研究途上の考察」だと思い込み、第五篇の草稿の全てを「研究途上の考察」に拡大する不破さんは、ここで、当時のエンゲルスも気づかなかったマルクスの「研究途上の考察」の例を出して、マルクスの革命的な精神をまったく理解できない〝大間違い〟をしてしまいます。

不破さんがマルクスを「研究途上の考察」を行う未熟な研究者にしたてあげるために抜粋したマルクスの二つの手紙。

 不破さんは、マルクスを「研究途上の考察」を行う未熟な研究者にしたてあげるために、マルクスが書いた二つの手紙を抜粋します。

 まず、はじめの1879年の文章で、マルクスが「当面のイギリスの産業恐慌が頂点に達しないうちは、私はけっして第二巻を刊行しないでしょう。これらの現象はこのたびはまったく特異なもので、多くの点で以前のものとは違っています。………(青山略) だから、事態が成熟しきるまでは現在の経過を観察しなければならないのであって、そのときはじめてこの事態を『生産的に消費する』ことが、すなわち『理論的に』利用することができるのです。」と言っていることを捉えて、不破さんは、「私は、信用論などの完成のためには、新しい事態を理論的に消化する必要があるというマルクスの言葉からは、『信用。架空資本』部分の未完成さをよく自覚している者の真剣な思いを読み取りたいと考えています」と述べて、『資本論』の『信用。架空資本』の部分全体に理論的欠損があり、『信用。架空資本』全体が「研究途上の考察」ででもあるかのような印象を与えようとします。

 そして、もう一つの文章とは、下記の「なぜマルクスは、経済現象の新しい発展が新しい理論的発展の芽を伸ばすのをまったのか」の中で、〈1880年には、「『ちょうどいましがた、若干の経済現象が新しい発展段階にはいった』ところであり、これらの現象が、新たな仕上げを要求していたのである」と述べさせた〉と書かれている文章ですが、両方とも、経済現象の新しい発展が新しい理論的発展の芽を伸ばそうとしていることを述べたものです。

 

なぜマルクスは、経済現象の新しい発展が新しい理論的発展の芽を伸ばすのを待ったのか

 『資本論』に対するマルクスの思いを簡単に見てみましょう。

 マルクスはエンゲルスあての1868年の手紙で、『資本論』は、「資本の一般的本性」を究明し、「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもり」であるといい、「第2巻は大部分があまりにも高度に理論的なので、ぼくは信用に関する章を、ぺてんと商業道徳との実状の告発に利用するだろう」と述べています。

 そして、マルクスは、1878年11月には第2巻(第2部と第3部のこと)の刊行が1879年の末には可能だと考えていましたが、──エンゲルスのコンラート・シュミットあての手紙(1890.8.5)によれば、マルクスは、「彼の最善の仕事でさえも労働者にとっては依然としてじゅうぶんではないと考えていたこと、マルクスが最善のものより少しでも劣るものを労働者に提供することを犯罪だとみなしていた」、というマルクスの姿勢が──「信用制度と経済恐慌との相互連関について」、「すでに、50年代の初頭に一定のイメージを得て」(『受救貧困と自由貿易──迫りくる経済恐慌』『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1852.11.1付等を参照。)いたマルクスに、1879年に、「『現在のイギリスの産業恐慌がその頂点に達する以前には』第2巻を刊行しない、と」言明させ、1880年には、「『ちょうどいましがた、若干の経済現象が新しい発展段階にはいった』ところであり、これらの現象が、新たな仕上げを要求していたのである」と述させたのだと思います。

 つまり、不破さんが抜粋した1879年と1880年の文章は、「若干の経済現象が新しい発展段階にはいった」ことが、「草稿」──それは、「理論的内容と内的構造とは主要な点においてすでに与えられて」いるが「もともとはあらゆる研究がもっている……荒削りの形態」である──「草稿」を経済現象の新しい発展によって新しい理論的発展に仕上げる絶好の好機が到来したとを告げる文章だったのです。

 このように、「最善のものより少しでも劣るものを労働者に提供することを犯罪だとみなしていた」マルクスは、『資本論』の構想において、すでに「理論的内容と内的構造とは主要な点においてすでに与えられて」いるが、1880年に「若干の経済現象が新しい発展段階にはいった」ことが、「もともとはあらゆる研究がもっている……荒削りの形態」である「草稿」をよりよいものに仕上げる絶好の好機が到来したと思った。だから、すでに1878年11月には第2巻(第2部と第3部)の刊行が1879年の末には可能だと考えていたが、だめ押し的に、「この事態を」「『理論的に』利用」して「信用に関する章を、ぺてんと商業道徳との実状の告発に利用する」場として、当時として完璧な文章を作ろうとマルクスは思った、と考えられます。

 

暴露の絶好の機会を待つマルクスを理論的未完成という不破さん、あなたは、自分の主張の正当化のためにマルクスを抜粋するのではなくマルクスの真意を伝えるべきです

 先ほど見た手紙で、マルクスは経済現象の新しい発展による新しい理論的発展の問題を述べていますが、マルクスの理論に欠けたところがあることを述べているのではありません。だから、不破さんがマルクスを「研究途上の考察」を行う未熟な研究者にしたてあげようとして使ったこの手紙のもう少しあとには、次のように書いてあります。

「いまこの恐慌がどのように進展しようとも──その詳細な観察は資本主義的生産の研究者や本職の理論家にとってはもちろん最高の重要性をもつとはいえ──それは以前の諸恐慌と同じように過ぎ去るでしょう。そして、繁栄やその他のいろいろな局面のすべてを伴う新たな『産業循環』を開始するでしょう。」と。

 マルクスは、このように、資本主義的生産様式の社会での「産業循環」についての理解にたいする自身の揺るがぬ確信を前提として、よりリアルに資本主義的生産様式の姿を暴露するために、新しい理論的発展をもたらす経済現象の新しい発展の「詳細な観察」の重要性に着目しているのであって、成り行きまかせの「研究途上の考察」を行う迷える研究者などではありませんでした。

 不破さんは、暴露の絶好の機会を待つマルクスを理論的に未完成な人物なように描き、マルクスの草稿の完成度が低いのを良いことに、自分の誤った主張をマルクスのなかに潜り込ませようとして、「重要な論点で、考察が途中で終わっているところや、時には研究の方向がどこに向かっているのかもつかめない場合も出てきます」などと言います。

 しかし、私たちに残してくれたマルクス・エンゲルスの著作群は、そんな不破さんの誤った主張を見事に排除してくれます。

ここまでが、『資本論』の「第二五章」~「第三五章」のエンゲルスの編集についての不破さんの誤った認識による謬論の部分です。次のページから、「第二五章」以降の不破さんの「解説」に付き合うことになりますが、「架空資本」の本当の姿、モンスター性を見ることのできない不破さんのマルクス・エンゲルスと『資本論』の歪曲・捏造の数々を目撃することになります。