AZ-4-1

不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について

『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えさせるな!!!

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第一部

「マルクス 新版『資本論』」の意図と『赤旗』宣伝ページの科学的社会主義の思想の歪曲について

新版『資本論』の意図

 マルクスの『資本論』の理解をたすけるために、エンゲルスの草稿の編集において不足していると思われる点を草稿の中に見つけそれを補足することや第三部第七篇第四八章の三つの断片からなっている文章の組み換えのように『新メガ』の成果にもとづき、文章Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの編集順序を組み換えることは良いことだと思います。

 しかし、不破さん監修の「新版『資本論』」の刊行の意図はまったく別なところにありそうです。

 不破さんは、「『資本論』探求〈上〉」の「『資本論』第二部を読む」で、エンゲルスが『資本論』の第二部、第三部の編集に費やした時間の重みについて、「草稿から『第二巻』を作り上げる仕事は、異稿の若干の『整理』と『清書』で済むものではなく、その後一一年間(マルクスは一八八三年に亡くなった──青山)の苦労を要する難事業となりました。第二部は一八八五年七月刊行となったものの、第三部が刊行にこぎつけたのはその一〇年後の一八九四年一二月となり、その九ヶ月後にはエンゲルス自身が死の時を迎えたのでした。」(P171)と述べ、そして、エンゲルスの『資本論』編集の意義について、「今日、私たちが、『資本論』を、全三部からなるマルクス畢生の労作として読むことができるのは、エンゲルスのこの苦闘によってはじめて可能になったことでした。エンゲルスがこれをやりとげず、草稿からの編集の仕事が後世に残されたとしたら、『資本論』全巻が世に出る日ははるかに遅くなったでしょうし、だれが編集者になったとしても、その作品は、エンゲルス編集のそれに匹敵する内容と権威をもつことはできなかったでしょう。」と、エンゲルスの『資本論』編集の意義について、不破さんらしからぬ、至極まっとうな評価をしています。

 しかし不破さんは、続けて、「マルクスは、自分の仕事について、第三部を仕上げるごく大まかな構想と、再生産論や地代を発見した時の喜びにみちた報告以外には、エンゲルスにほとんど知らせていませんでした。そのために、エンゲルスの編集の作業は、ゼロからの出発に近い内容をもたざるを得ず、そこに、多くの弱点が生まれたのは、当然のことでした。私は、それらの点を是正するのは後世の者に託された仕事であり、それを果たすことは、エンゲルスの仕事を受け継いでそれをより完全なものにする意義がある、と考えています。本書でも、第二部、第三部の内容検討にあたっては、そういう部分がかなり出てきますが、そういう意味で受け取っていただきたいと思います。」(P172)と言って、「マルクスは、自分の仕事について、第三部を仕上げるごく大まかな構想と、再生産論や地代を発見した時の喜びにみちた報告以外には、エンゲルスにほとんど知らせていませんでした。」という「推測」にもとずいて、「そのために、……多くの弱点が生まれたのは、当然のことでした。」と「断言」するという不破さん得意の論法で『資本論』修正の正当性を主張し、「それらの点を是正する」という名目でおこなわれる不破さんの科学的社会主義の修正・「珍説」にもとづく『資本論』の「珍解釈」等により、あたかもマルクスが『資本論』で不破さんの「世界観」と「革命観」の立場にたっているかのように思わせようとします。

 このように、「『資本論』探求〈上〉」で、エンゲルスの『資本論』編集の意義について「『資本論』全巻が世に出る日ははるかに遅くなったでしょうし、だれが編集者になったとしても、その作品は、エンゲルス編集のそれに匹敵する内容と権威をもつことはできなかったでしょう」とエンゲルスを讃えた不破さんは、「マルクスは、自分の仕事について、第三部を仕上げるごく大まかな構想と、再生産論や地代を発見した時の喜びにみちた報告以外には、エンゲルスにほとんど知らせていませんでした」という「推測」(後で見ますがこれはデマです)にもとずいて、そのために「多くの弱点が生まれた」のは当然のことでしたとエンゲルスを誹謗しますが、この「新版」の宣伝のページでも、不破さんは、エンゲルスにマルクスが『資本論』を「〝速く仕上げよ〟と言われるから、事前の相談をしないのです。」と見てきたような「推測」をし、マルクスとエンゲルスが科学的社会主義の思想を共有していなかったかのように言い、「ですから、私たちは、マルクスの学説の到達点とエンゲルスの編集上の問題点を検討し、その仕事の継続をやるつもりで、新版の編集にあたりました。」と述べ、「『資本論』探求」とまったく同じ立場で「新版『資本論』」を編集することを表明しています。

 「〝速く仕上げよ〟と言われる」のが嫌だから、「世界観」や「革命観」が変わっても無二の親友であり同志であるはずのエンゲルスにそのことを「報告」せず、そのために「多くの弱点が生まれた」ので、「だれが編集者になったとしても、その作品は、エンゲルス編集のそれに匹敵する内容と権威をもつことはできなかったでしょう」とエンゲルスを讃えた不破さんが、そのエンゲルス編集を越える──自己顕示欲の強い不破さんは、「だれが編集者になった」場合よりも凄い「内容と権威」をもったものででもあるかのように言いたいがために、「『資本論』探求〈上〉」でエンゲルスをヨイショしたのか?!──「新版『資本論』」を編集するというのです。

 つまり、「〝速く仕上げよ〟」と言われるのを恐れたマルクスが「資本主義観」や「革命観」が変わことをエンゲルスに「報告」しなかったという、熟慮の欠けた本末転倒のために、エンゲルスがマルクスの古い「資本主義観」と「革命観」──それは、不破さんが二一世紀になってその誤りを発見し、圧倒的に多くの共産党員が現在も正しいと確信している「資本主義観」と「革命観」──にもとづいて『資本論』を編集するという「エンゲルスの編集上の問題点」をただし、不破さんが二一世紀になって「発見」した「マルクスの学説の到達点」にもとづく「新版『資本論』」という似非『資本論』を編集するというのです。

『赤旗』の宣伝ページのウソと科学的社会主義の思想の歪曲

マルクスとエンゲルスが科学的社会主義の思想を共有していなかったというウソ

 「新版『資本論』」の宣伝ページで、不破さんは、『資本論』の編集上の「一番大きな問題点は、エンゲルスが恐慌論におけるマルクスの到達点を見落としたことです。」と言い、「新版『資本論』」を刊行する動機として、マルクスとエンゲルスが科学的社会主義の思想を共有していなかったこと、マルクスが1865年に、エセ科学的社会主義の「資本主義観」と「革命観」に転落したこと──それは、不破さんが21世紀になってやっと大「発見」したもの──をエンゲルスが知らなかったからだといい、その理由は、マルクスがエセ科学的社会主義の「資本主義観」と「革命観」に転落したことをエンゲルスに「報告」するとエンゲルスに『資本論』を「〝速く仕上げよ〟と言われるから」「報告」しなかったためだと言うのです。

 もう、笑いが止まりません。そして、こんな人たちとつき合わざるを得ないのかと思うと悲しくなります。

 『空想から科学へ』を読めば分かるとおり、恐慌の捉え方や「必然性の国」と「自由の国」という概念などを含め、マルクスとエンゲルスは科学的社会主義の思想を共有しており、だからこそ、マルクスはその『空想から科学へ』の序文で、『空想から科学へ』を「科学的社会主義への手びき」として推奨しています。

 また、不破さんは、「『資本論』探求〈下〉」で「マルクスが『資本論』第三部後半(第四篇~第七篇)を執筆したのは、一八六五年後半ですが、翌年二月、そのことをエンゲルスに次のような言葉で報告しました。」と述べて、マルクスのエンゲルスあての1866年2月13日付けの手紙──それは、マルクスが地代論の研究を1863年には終えたこと、「そしてちょうどこの間(1863年から1866年の間──青山)にたくさんのことが、しかもまったく僕の理論を確証しつつ、なしとげられた。」こと、しかし「地代に関する論述」の原稿は「ほとんど一冊の本をなしている」内容・ボリュームであり、「現在の形では途方もないもので、僕(マルクスのこと──青山)以外のだれのためにも、君(エンゲルスのこと──青山)のためにさえも、出版できるものではない」(P119-120)ことを述べた手紙──を紹介していますが、「地代に関する論述」が完成したことを報告をしているのに、マルクスがエセ科学的社会主義の「資本主義観」と「革命観」に転落したことを報告しないなどということがあり得るでしょうか。なおかつ、マルクスは、1863年から1866年の間に「たくさんのことが、しかもまったく僕の理論を確証しつつ、なしとげられた」ことを述べているのです。自分の「理論を確証」していると述べているマルクスが、「1865年」にこっそりと「資本主義観」と「革命観」を変え、エセ科学的社会主義の「資本主義観」と「革命観」に転落したと言うのです。

 不破さんが、いくらマルクスの産業循環論、恐慌論の一構成要素をデフォルメして、「恐慌の運動論」なるものを「創作」しても、マルクスをエセ科学的社会主義の「資本主義観」と「革命観」に転落させることはできません。

※マルクスとエンゲルスは科学的社会主義の思想を共有していないという不破さんのウソについての詳しい説明は、ホームページ4-14「☆科学的社会主義の旗を掲げて共に闘ったマルクスとエンゲルスが、経済(社会の土台)についての共通認識を持っていなかったという不破さんの無責任な推論」を参照して下さい。

利潤率の傾向的低下の法則の出番でないところに出番を求める不破さん

 つぎに、不破さんは、マルクスが第三部の「第三篇では利潤率の低下で恐慌が起こるということを一生懸命に証明しようとするけれども」、「第四篇の商人資本のところでは、それ(利潤率の傾向的低下の法則──青山)を抜きにして恐慌を説明しています。」と言い、そこに「恐慌論の本論」があるのに、誰も気づかなかったと言います。

 「流通過程の短縮」によって見かけ上の価値実現の見返りとして産業資本による搾取の分け前を得ることが資本主義的生産様式の社会での「商人資本」の存在理由ですが、不破さんの言う「恐慌論の本論」なるものは、「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明する」もので、マルクスの産業循環の捉え方の一部を取りだして、「商人資本」による「流通過程の短縮」が恐慌に及ぼす影響を述べたもので、マルクスの考えを歪曲し、矮小化して不破さんが「恐慌の運動論」(私はこれを分かりやすく「架空の需要=恐慌」論と言っています。)と命名したものです。

 マルクスが、資本主義的生産様式の社会での「商人資本」の「流通過程の短縮」という役割を明らかにするにあたって、「それ(利潤率の傾向的低下の法則──青山)を抜きにして恐慌を説明」するのは当然のことで、利潤率の傾向的低下の法則の出番ではないから出ないだけのことです。

 そして不破さんは、そこに「恐慌論の本論」があるのに、誰も気づかなかったと言いますが、二一世紀になってこの「恐慌の運動論」を大「発見」(創作)して、「資本主義観」と「革命観」の大転換をした不破さんにとっては大「発見」かもしれませんが、マルクスを学び(マルクスを学ばないブルジョア「経済学者」にとっても)二〇世紀に生きた人間にとっては、多少でも経済学をかじった者ならば、とくに目新しい「発見」などではありません。とくに目新しことでもないから、「新版『資本論』」の販売促進のサクラとして参加している萩原伸次郎氏も「『世界経済危機と「資本論」』で、商人資本のところから恐慌論を引用しましたけれど、たしかに目立たない。(笑い)」と、当たり前のように引用し、当たり前のように思っているのです。

 だから、不破さんが、マルクスが第三部の「第三篇では利潤率の低下で恐慌が起こるということを一生懸命に証明しようとするけれども」、「第四篇の商人資本のところでは、それ(利潤率の傾向的低下の法則──青山)を抜きにして恐慌を説明しています。」と言い、そこに「恐慌論の本論」があるのに、誰も気づかなかったなどというのは、滑稽としかいいようがありません。

科学的社会主義の思想のイロハも知らなかった不破さん

 第三に、不破さんは、「現行の第一部の末尾には、資本の側の搾取強化とそのもとで『訓練され結合され組織される』労働者階級の闘争を軸にした社会変革の必要性が書き込まれています。ここに新しい没落論の定式化があります。」と、マルクスが「資本の側の搾取強化とそのもとで『訓練され結合され組織される』労働者階級の闘争を軸にした社会変革の必要性」を理解しない誤った「古い没落論」を持っていて、それをやめて、「新しい没落論の定式化」なるもの行なったかのように言います。

 このデマは、『前衛』2013年12月号で、不破さんが、不破さん自らが捏造したマルクスの「恐慌=革命」説なる「革命観」について、1865年にその「革命観に大きな転換が起き」、マルクスは、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」と思うようにり、「ここでは、もう資本主義の見方も、革命の見方も変わっているのです。その立場から、労働者の運動が資本主義を変革する運動に発展する道筋についても、そういう闘争を積み重ねるなかでの労働者の自覚の成長・発展を軸に社会変革が日程にのぼってくるという新しい見方が、短い言葉できちんと説明されています」と述べていますが、これを焼き直したものです。

 こんな馬鹿げたデマなど不破さんのことだからと無視するのが一番なのかもしれません。何しろ科学的社会主義の思想を発見しその思想を共有したマルクスとエンゲルスに対し、エンゲルスは資本主義的「生産関係を小経営の延長」と見なしていたとか、エンゲルスは「取得形態という角度から生産関係をとらえている」とか、エンゲルスは「「取得の資本主義的形態」のうちに「資本家による労働者の搾取」を見ない」とか、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」は「資本主義の発生の時点から」あるのに、エンゲルスが、事態の発展のなかで明るみに出るというのはおかしいとか、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだとか、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出し」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」とか、マルクスは「経済恐慌やバブル現象を小資本の冒険のせい」で「経済恐慌やバブル現象に、大資本に責任がない」などと言っているとか、あげればきりがないほど、不破さんは馬鹿げたデマを流し続けているのですから。

 しかし、そのように相手にする価値などない不破さんですが、相変わらず「日本共産党」に影響力を持ち続け、『前衛』や『経済』の誌面を占有し、自らの著作の宣伝のために毎日の『赤旗』の貴重な紙面を私物化し続け、今回、『資本論』の充実に見せかけて「マルクス新版『資本論』」と銘打って不破的「新版『資本論』」を発行するにあたり、科学的社会主義の党の機関誌であるべき『赤旗』の一面全部をつかって上記のようなデマを流した以上、たとえ反論するのに値しないものであっても、『赤旗』読者のために科学的社会主義の思想の基礎を復習することは必要なことと考え、ごく簡単に不破さんの馬鹿げたデマを暴露することとした次第です。

 マルクスとエンゲルスは「労働者の成長と団結」の必要性を、あの有名な『共産党宣言』でも強調していますが、そもそも二人が科学的社会主義の思想を発見しそこに辿り着いたのは、科学的社会主義の思想のなかに労働者階級こそが自らを解放し全ての人々を解放する能力と必然性があることを見いだしたからであり、だから『共産党宣言』も「労働者の成長と団結」の必要性を最も強く訴えており、「労働者の成長と団結」は科学的社会主義の思想を自らの信条とする政党にとっては一丁目一番地の重要課題です。だから、マルクスは『賃金、価格、利潤』で、労働者階級の賃金闘争の正当性を明らかにするとともに、賃金闘争を含む「もろもろの結果」との闘いだけでなく「それらの結果の原因」と闘かわなければ「それは全面的に失敗する」だけであることを明らかにし、「「公正な一日の労働にたいして公正な一日の賃金を!」という保守的なモットーのかわりに、彼らはその旗に「賃金制度の廃止!」という革命的な合言葉を書きしるすべき」ことを述べ、「労働者の成長と団結」の意味を明らかにしているのです。

 しかし、21世紀になって「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」という「マルクスの革命観の大転換」を知って、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたという不破さんは、『前衛』の2013年12月号によれば、『賃金、価格、利潤』の講義で、マルクスは「どんな情勢の時でも賃金闘争で頑張らなければダメだという立場です」と言い、「資本主義世界でも異常な日本社会の状態を打開して、社会的バリケードをかちとり、「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の「肉体的および精神的再生」であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだということを強調して、講義を終わ」ったとのことです。不破さんの『賃金、価格、利潤』の講義は、「根性論」で始まり、「ルールある資本主義」への道で終わったといいます。この不破さんの講義は、マルクスが『賃金、価格、利潤』で私たちに教えているものとは正反対の内容です。2003年頃、「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」という「マルクスの革命観の大転換」を知った不破さんは、2013年になっても『賃金、価格、利潤』から「革命は、労働者階級が無準備のままで始まるものではない」ということの意味をまったく理解することができなかったようです。

 その不破さんが、マルクスは1865年になってやっと「労働者の成長と団結」の意味を知ったというのだから、驚きです。そして、そのことを2003年頃知った不破さんは、党綱領から労働者階級の歴史的使命を捨て去ってしまうのですから、ますます驚きです。

※エンゲルスは資本主義的「生産関係を小経営の延長」と見なしていたというデマについては、ホームページ4-5「『生産関係を小経営の延長とみるわけです』とエンゲルスを歪曲」を、エンゲルスは「取得形態という角度から生産関係をとらえている」というデマについては、ホームページ4-6「☆不破さんは、エンゲルスが「取得形態という角度から生産関係をとらえている」とエンゲルスを曲解している。」を、エンゲルスは「「取得の資本主義的形態」のうちに「資本家による労働者の搾取」を見ない」という不破さんの暴言については、ホームページ4-7「☆エンゲルスは「「取得の資本主義的形態」のうちに「資本家による労働者の搾取」を見ないという、不破さんの暴言。」を、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」は「資本主義の発生の時点から」あるのに、エンゲルスが、事態の発展のなかで明るみに出るというのはおかしいという珍論については、ホームページ4-8「☆不破さんは、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」は「資本主義の発生の時点から」あるのに、事態の発展のなかで明るみに出るのは矛盾だと、自分の理解力のなさを根拠にエンゲルスを誹謗している。」を、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだとという謬論については、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出し」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」というデマについては、ホームページ4-10「☆不破さんの、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」と言う暴言」を、マルクスは「経済恐慌やバブル現象を小資本の冒険のせい」で「経済恐慌やバブル現象に、大資本に責任がない」などと言っているというデマについては、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、それぞれ、是非、参照して下さい。

 また、マルクスとエンゲルスが「労働者の成長と団結」の必要性を『共産党宣言』でも強調しているという点に関しては、ホームページ3-2-6「〝前衛党〟は市民革命の助産婦に徹しよう」を、不破さんの『賃金、価格、利潤』の講義についての詳しい解説はホームページ4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」を、それぞれ、是非、参照して下さい。

不破さんらしさを遺憾なく発揮した「『資本論』探究」の第二部第二一章の「解説」

 第四に、不破さんは第二部第二一章「蓄積と拡大再生産」について、「マルクスの試行錯誤が記録されているところですね。マルクスも、草稿を仕上げるときには直したところでしょうが、新版では、拡大再生産の表式化に到達するまでのマルクスの研究過程と苦闘ぶりをつかめるように、独自の訳注で四つの節区分を示すことにしました。」と言います。そして、この「新版『資本論』」の販促企画に出演している萩原氏も、まったく無責任に、「非常に読みにくいところを、マルクスの研究上の苦闘を再現しながら、マルクス自身の歴史のなかで読もうというのだから、面白い。」と同調し、『資本論』が読みやすく改善されたかのような印象を『赤旗』読者にあたえます。

 しかし、この不破さんと萩原氏の言っていることはとんでもないウソです。

 不破さんが第二部第二一章について言っていることを「『資本論』探究〈上〉」(ホームページ4-27-2「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説 その2」PDF37ページ参照。)で見てみましょう。

不破さんの第二一章についてのウソ

 不破さんは、「ここはおそらく、全三部のなかでもっとも理解の難しいところです」と言い、その理由として、①マルクスの試行錯誤の経過がそのまま本論として本文に再現されていること、②エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまったこと」、の二点をあげています。

 「第二一章 蓄積と拡大再生産」は、「第一回目の挑戦。単純再生産の表式を出発点におく」失敗、「第二回目の挑戦。単純再生産の均衡条件を起点に」失敗、「第三回目の挑戦。解決への道に踏み出したが予想外のつまずき」で失敗という、マルクスの無能さがそのまま本論として本文に再現されており、不破さんのいう『資本論』の二つの「エンゲルスの編集上の誤り」の一つに数え上げられると言います。

 しかし、万一、不破さんの言うとおり、マルクスが資本主義的生産様式の社会における「蓄積と拡大再生産」の表式へのアプローチの仕方を三度誤まり、マルクスの試行錯誤の経過がそのまま本論として本文に再現されていると、なぜ、「全三部のなかでもっとも理解の難しいところ」となるのでしょうか。不破さんは、不破さんの言う「本論」だけを「本文」として、「マルクスの試行錯誤」の部分を「注」とすれば、「理解の難しいところ」が易しくなるとでも言うのでしょうか。「理解の難しさ」はマルクスの草稿のもつ荒削りな性格と不破さんの「理解」力の問題で、エンゲルスの責任などではありません。

  また不破さんは、エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまったこと」と、「エンゲルス流」などという偏見に満ちた言葉遣いまでしてエンゲルスを責め立てますが、「本文」の「筋道」がどのように歪められたのかまったく述べていません。『資本論』の解説者なら、どのように「いちだんと筋道のたたないものにしてしまった」のかぐらい、しっかりと言うべきです。エンゲルスは「本文」に沿うように編集したのに、不破さんは、ただ抽象的に責め立てるだけです。こういうのを、まったくの誹謗・中傷というのでしょう。

不破さんの「推測」の根拠のウソ

 不破さんは、マルクスが「試行錯誤」の文章を草稿に本文のように載せてしまった、マルクスの「試行錯誤」の原因を次のように述べていますが、よくもまあ、自分の「推測」に合わせるために勝手な「推測」をかさね、その例証のために『資本論』の一言半句をつなぎ合わせてこのようなデマを仕立て上げるものだと、不破さんのペテン師ぶりには感心するばかりです。

 不破さんは、言います。

「私はそこには、〝単純再生産の難題を解決した以上、拡大再生産論はその応用問題のようなもので、特別な困難はないだろう〟と考える楽観論があったのではないか、と見ています。たとえば、第八草稿そのもののなかでも、例のスミス批判の文章(第三篇第一九章)のなかで、『主要な困難……は、蓄積〔拡大再生産のこと──不破〕の考察のさいではなく、単純再生産の考察のさいに現われる』と書いたりしていました。」、と。

 この文章を普通の人が読めば、マルクスの試行錯誤という「推測」の根拠は、マルクスに「楽観論があったのではないか」という「推測」にもとづいているが、その根拠として「たとえば」以下の文章でマルクスは「主要な困難」が「単純再生産の考察のさいに」あると言っているからだと、不破さんが言っているように理解するでしょう。

 不破さんは、自分の「推測」の根拠となることをあたかもマルクスが言っているかのように見せようとしますが、マルクスはそんなことは一言も言っていません。不破さんが自分の最初の「推測」に合わせるためにした「推測」の根拠となる「継ぎはぎ」の文章は、「第一九章 対象についての従来の諸論述」の「第二節 アダム・スミス」でのマルクスの結びの文章です。

 ここでマルクスが「主要な困難」と言っているのは、「ただ流通の手品によってひき起こされるにすぎない思考の混乱」、つまり、「社会的生産物価値の全体が収入すなわち労賃・プラス・剰余価値」であるという「思考の混乱」のことです。そして、「主要な困難」を抱えているのはマルクスではなくA・スミスです。また、「蓄積の考察ではなく単純再生産の考察で現れる」と言っているのは、「(1)アダム・スミスはここでは明白にただ単純再生産を論じているだけで、拡大された規模での再生産または蓄積を論じているのではない。」から、そのことを言っているだけです。マルクスは、「……」の前後が結ばれた「主要な困難」=「単純再生産の考察」などということを言っているのでは、まったくありません。

 ご覧のとおり、不破さんの言っていることとマルクスの述べていることとでは全然違います。このように、不破さんが自分の最初の「推測」に合わせるために勝手な「推測」をした根拠となる文章は、不破さんの「偽造」によって作られています。

不破さんが行なったマルクスの「挑戦の失敗」の告白のでっち上げ

 不破さんは、不破さんの言うマルクスの「第三回目の挑戦」までの文章が、マルクスの「試行錯誤」のメモ的な文章であることを信じ込ませるために、驚くべき創作を行ないます。

 すこし長くなりますが、不破さんが『資本論』を「解説」した次の文章を読んで下さい。

 「しかし、マルクスは、そこまで(拡大再生産の継続が不可能だということ──青山)話を進めず、第一年度の表式に、あれこれの問題を見つけだして、議論の空転をはじめました。……(青山の略)が大問題だとして、きりきり舞いするのです。これは、率直に言って、問題のないところに無理に問題をつくり出すといった式の話でしたが、この時点では、それが解決のつかない重大問題に見えたのでした。

 マルクスはそこからぬけだそうとして、あれこれの奇策や邪道にまで考えをめぐらせたようで、その様子はあちこちにちりばめられた溜息まじりの言葉からもうかがわれます。

 『しかし待て!ここにはなにかちょっとした儲け口はないか?』、『突然、仮定をすり替えてはならない』、資本主義的機構に固着している『汚点』を『理論的諸困難をかたづけるための逃げ道として利用してはならない』

 マルクスは、ついに、考察の途中で筆を投げたようで、第三回目の挑戦は、『Ⅱの資本家たちの一部のあいだにおける追加貨幣資本の形成が、他の一部の明確な貨幣喪失と結びつく……』と書いたところで、ぷつんと途切れています。こういうことも、マルクスの草稿では、珍しいことでした。」

 なにも知らない人が、不破さんのこの「解説」だけを読めば、上記の文章から、なにも解決することのできないマルクスの、いじけた、愚痴を書き連ねるだけの姿が想像され、『資本論』には「第三回目の挑戦」までの「試行錯誤」のメモ的な文章が本文として載せられているという、不破さんの主張を疑う者は一人としていないでしょう。

 しかし、みなさん、驚かないで下さい。上記の不破さんの文章は、不破さんが作ったまったくの創作なのです。

 上記の文章の最初の「しかし、マルクスは、…………この時点では、それが解決のつかない重大問題に見えたのでした。」までの『資本論』の詳しい内容の説明をすると大変長くなりますので、ホームページ4-27-2の「「第二一章 蓄積と拡大再生産」でマルクス・エンゲルスが言っていること」(PDFファイルのP40-44)を、是非、ご覧いただきたいと思いますが、不破さんが、「マルクスはそこからぬけだそうとして、あれこれの奇策や邪道にまで考えをめぐらせたようで、その様子はあちこちにちりばめられた溜息まじりの言葉からもうかがわれます」と言う、マルクスの「溜息まじりの言葉」とは『資本論』のどのような場面で使われてきたのか、一緒に見てみたいと思います。

 まず最初に出てきた、「しかし待て!ここにはなにかちょっとした儲け口はないか?」とは、悪知恵を働かせて、新たな貨幣資本の形成のための源泉を探し求める、あくどく、狡猾な、資本家の言葉をマルクスが代弁したものです。そして次の「突然、仮定をすり替えてはならない」は、そのような考えにもとづいて、「賃金をその正常な平均水準よりも低く圧し下げる」ことによって新たな貨幣資本の形成のための源泉を見つけだそうとすることにたいして、「正常な資本形成」からの逸脱として、「突然、仮定をすり替えてはならない」とマルクスが述べたものです。最後の「資本主義的機構に固着している『汚点』を『理論的諸困難をかたづけるための逃げ道として利用してはならない』」という言葉は、これら全体を総括して、マルクスが「要するに、資本主義的機構の客観的な分析にあっては、今なおこの機構に例外的に付着しているある種の汚点を理論的な困難を除くための逃げ道として利用してはならないのである。」(大月版)と述べた言葉を不破さんがつまみ食いしたもので、「あれこれの問題を見つけだし」たり、「あれこれの奇策や邪道にまで考えをめぐらせ」ようとする、大多数の「ブルジョア的批判者」や不破さんたちをマルクスが戒めたものです。だから、これらの言葉は、マルクスの「あちこちにちりばめられた溜息まじりの言葉」などではまったくありません。

 そして不破さんは、「マルクスは、ついに、考察の途中で筆を投げたようで、第三回目の挑戦は、『Ⅱの資本家たちの一部のあいだにおける追加貨幣資本の形成が、他の一部の明確な貨幣喪失と結びつく……』と書いたところで、ぷつんと途切れています。」と述べていますが、最初に確認しておきたいのは、『資本論』でマルクスが論及しているのは、新たな貨幣資本の形成のための源泉を探し求めることではなく、そのようなことは「おぼつかない」、理屈に合わないことだということです。そして、その理屈に合わない方法は「ただ二つの道だけによって可能」だとして、そのうちの一つである「資本家Ⅱの一部分が他の部分をだまして銭盗りに成功すること」をあげています。そして、草稿はここで中断され、もう一つの方法は示されていません。しかし、そのこと(一つの方法が示されていないこと)をもって、「マルクスは、ついに、考察の途中で筆を投げたようで」などと言い、「『Ⅱの資本家たちの一部のあいだにおける追加貨幣資本の形成が、他の一部の明確な貨幣喪失と結びつく……』と書いたところで、ぷつんと途切れています」などと表現するのは、いかにも作為的ではないでしょうか。不破さんが、そのうち、「マルクスは、ついに、資本主義の考察の途中で『資本論』執筆の筆を投げたようで、1881年に草稿の執筆がぷつんと途切れています」などと言い出さないことを願うばかりです。

 不破さんは、エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまった」と言います。確かに「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け」や不破さんの気づかない計算間違い等はあるかもしれませんが、エンゲルスの『資本論』の編集は、十分「筋道」は立っており、以降の展開のうえでも「筋道」の立ったものとなっています。そして、マルクスの論旨も一貫しています。それは、資本家が、「だが、待て!ここにちょっとしたもうけ口はないものか?」と悪知恵を働かせて、新たな貨幣資本の形成のための源泉を探し求めても、「消費が資本主義的生産の目的であり推進的動機であって、剰余価値の獲得やその資本化すなわち蓄積がそうなのではない、ということを前提としている」単純再生産のもとでは資本蓄積の条件はなく、単純再生産の前提は資本主義的生産とは両立しないということ、ここに資本主義的生産様式の社会の〝宿命〟があるということを論究し、私たちに明らかにするということです。

 不破さんは、マルクスを資本主義を知らない間抜けに描き、『資本論』の内容をマルクス・エンゲルスの意図と真逆のものに見せようと悪意に満ちた「解説」をします。これはもう、エセ「マルクス主義」者などという範疇を遙かに超えて、ペテン師、詐欺師とでもいうべきものです。マルクスもとんでもない人物に見込まれてしまったものです。

 そして、この草稿で示されなかった「もう一つの方法」を必死にさがし、マルクスの草稿とマルクスの意図を最大限生かそうと努めたエンゲルスの編集にたいし、不破さんは、「ゲルス流の解説までくわえて」と揶揄し、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまった」と悪罵を投げつけます。そのくせ、「エンゲルス流の解説」とは何かも言わず、どこがどう「筋道」が立っていないのかも言わない。読者を馬鹿にしているとしか思えません。

 これは、私のページで繰り返しお願いしていることですが、不破さんの古典からの引用については、必ず元になる文章で確かめて下さい。

この章で『資本論』が言っていること

 詳しい内容は、ホームページ4-27-2の「「第二一章 蓄積と拡大再生産」のマルクス・エンゲルスの意図を理解できない不破さんのマルクスに対する見当違いの「推測」とエンゲルスへの誹謗・中傷」(PDFファイルP37以降)の「節」を参照して頂きたいと思います。ここでは基本的な幾つかの点しか述べるゆとりがありませんので、是非、ホームページ4-27-2をご覧いただき『資本論』の流れをつかんで『資本論』に挑戦して、その豊かな内容を自分のものにしてください。

 「第二一章」はまず、個々の資本家が「貨幣に転化した剰余価値を」、「自分の生産資本の追加現物要素に再転化させる」ことによって、「次の生産循環では、増大した資本が増大した生産物を供給する」ことを述べ、この個々の資本家の「蓄積と拡大再生産」に現れることが、「年間総再生産でも現れざるをえない」ことを述べます。これを踏まえ、マルクスは、ある個別資本家の「蓄積と拡大再生産」の例を説明しますが、その中で、資本主義社会では「一方にある貨幣が他方での拡大再生産を呼び起こす」ことを述べ、同時に科学的社会主義の創設者らしく、「そういうことが行われるのは、そこには貨幣なしでも拡大再生産の可能性があるからである。なぜならば、貨幣はそれ自体としてはけっして現実の再生産の要素ではないからである。」と「貨幣」(私的資本)に縛られた資本主義的生産様式の社会を痛烈に批判します。

 そして、「みなが貨幣を蓄蔵するために売ろうとし、だれも買おうとはしない」としたら、「いったい買い手はどこからやってくるのか」と「外観上の困難」を提起し、その前に、「まず部門Ⅰ(生産手段の生産)での蓄積」を見るとして、「第一節 部門Ⅰでの蓄積」がはじまります。

 その中で、「ここでついでに次のことを言っておきたい」として、「資本主義的基礎の上での年間生産物の正常な転換」は、一方的な諸商品の売り買いの均衡という仮定のもとでのみ保たれていること、そこで流通する貨幣についていえば、「商品生産が資本主義的生産の一般的形態だという事実は、すでに、貨幣が単に流通手段としてだけではなく貨幣資本としてもそこで演ずる役割を含んでいる」こと、そして、この均衡は「それ自身一つの偶然」であり、非常に複雑な資本の流通過程がその正常な進行の妨げとなる多くのきっかけを与えていることが述べられます。

 このように、「第二一章」は資本主義的生産様式全体の理解を深めさせながら「蓄積と拡大再生産」の条件と限界を論究していきます。

 「二 追加不変資本」では、「この剰余生産物を次々に売って行くことによって、資本家たちは蓄蔵貨幣すなわち潜勢的な追加貨幣資本をけいせいする。」と述べて、追加貨幣資本の源泉を明らかにし、「剰余生産物」が「資本蓄積すなわち拡大再生産の実在的な基礎」なので、「一国内で機能している生産資本が大きければ大きいほど」、「可能的追加生産資本も大きい」が、可能的追加生産資本は「蓄蔵貨幣」としては「絶対的に不生産的であり」、「資本主義的生産の死重(dead weight)である」ことが述べられています。

 これは、現代の資本主義社会の金融状況や日本の「内部留保」問題、富裕層への富の集中とその投機的運用等にたいする痛烈な批判であり、資本主義批判と新しい社会経済システムを展望する上でしっかり頭の中に入れておかなければならない指摘だと思います。

 マルクスは不破さんの言う「第三回目の挑戦」までを通じて、「失敗」することなく、単純再生産のもとでは資本蓄積の条件はなく拡大再生産の継続が不可能だということを説明し、単純再生産の前提は資本主義的生産とは両立しないことを、謬論に反論しながら論証し、単純再生産をベースに論及してきたことの総括として、資本主義的生産様式における蓄積の条件が、生産手段の生産部門での「拡大された規模での再生産」以外にないことを論証してマルクスは不破さんの言う「第三回目の挑戦」を終了します。

 マルクスは、不破さんが言うように謬論にしがみついたのではなく、謬論に反論し「蓄積と拡大再生産」の条件と限界を論究してきたのです。

 これらの論究をベースに、「拡大された規模での再生産のための出発表式」を使っての蓄積と拡大再生産に関する本格的な論究へと進みます

不破さんの「第二一章」の編集は「完成案」だけでは成り立たない

 「蓄積と拡大再生産」全体の意義を見る前に、不破さんによってマルクスが書き残した幾つもの「溜息まじりの言葉」を含むメモにされてしまった文章が、「第二一章」にとっていかに大事かということを見ておきましょう。

 滑稽なのは、不破さんが、マルクスの試行錯誤の経過をそのまま本論として本文に再現した「エンゲルスの編集上の誤り」によって『資本論』の載ってしまったという文章を、「『資本論』探究〈上〉」の「(9)資本主義的生産の前途をめぐって」という「節」で、「再生産論が何を明らかにするのか、という根本問題について述べた次の言葉」として、恥も外聞もなくページの半分を使って引用していることです。

 このように、不破さんによって「エンゲルスの編集上の誤り」というレッテルを貼られ、「マルクスの試行錯誤の経過」などと揶揄されたマルクスの草稿は、『資本論』にとって必要であっただけではなく、不破さんにとっても必要な文章だったのです。

 不破さんにとってもどんなに必要な文章だったかということ、いや、不破さんの言う「本文」にとってもどんなに必要な文章だったかということを、もう少し詳しく見てみましょう。

 不破さんの「『資本論』探究〈上〉」での「第二一章」の「解説」のボリュームは全部で10ページで、そのうちの7ページ半はマルクスの馬鹿さ加減とエンゲルスの編集のまずさの紹介で、不破さんの言う「本論」の「解説」は2ページ半に凝縮されており、その中には自らの著著の紹介も1/3ページほどあり、盛りだくさんの内容となっています。たった2ページ半にも満たない、不破さんのいう「第二一章」の「本論」で不破さんが「解説」していることは、マルクスが拡大再生産の順調な進行のために必要な条件として、Ⅰ(v+m)>Ⅱcという関係を「発見」したということだけです。

 そして、不破さんは、「この発見は、マルクスを大いに喜ばせたようで、その条件の重要性を、短い文章の中で言い方を換えながら四回もくりかえしたほどでした。」と自らの「第二一章」に対する理解力のなさをマルクスにたいする罵倒で補っています。

 しかし、不破さんが「言い方を換えながら四回もくりかえしたほどでした」と罵倒する以外意味の見いだせない「発見」の「言い方を換え」の文章の一つに「Ⅰ(v+m)がⅡcに等しいという単純再生産の前提は、資本主義的生産と両立しない」という文章の一部をあげていますが、このマルクスの認識は、不破さんの言うマルクスの「二回目の挑戦」まででマルクスが論証したことを別な表現(拡大再生産が行われる場合の)表現であらわしたものです。このように、不破さんの言う「本論」なるものは、不破さんの言う「エンゲルスの編集上の誤り」を土台にして書かれています。

 そもそもⅠ(v+m)>Ⅱcという関係は「一 第一例」の表式Bで初めて出てきたものではありません。「一 第一例」の表式Bの説明で「(1000v+500m)Ⅰが1500Ⅱcと取り替えられることは、単純再生産の過程であって、すでに単純再生産のところで明らかにしておいた。」(大月版P632)と述べられていますが、不破さんの言う「第三回目の挑戦」の「表式a」として出てきたものです。そして、この文章に続く「……は、すでに論究した。だから、それはそのままⅠcに合体されてよいのであって、……」(大月版P633)という文章のなかの「すでに論究した」とは、不破さんの言う「第一回目の挑戦」のところ──ホームページ4-27-2で(PDFファイルで読んでいる方は、この部分にアンダーラインを引いておいて下さい。)と書いておいた(PDFファイルの41ページ)、大月版の619ページ──で述べられていることです。

 このように、不破さんによって「エンゲルスの編集上の誤り」というレッテルを貼られ、「マルクスの試行錯誤の経過」などと──不破さんの理解力の無さのためか資本主義観の大転換のためか──揶揄されたマルクスの草稿は、「第二一章 蓄積と拡大再生産」にとって不可欠な部分なのです。

「第二一章」で述べられている大事なこと

 「第二一章」でのマルクスの大切な指摘を二つ、順を追ってピックアップしてみたいと思います。

 資本主義的生産様式の社会における拡大再生産は常に相対的過剰生産の芽をもっており、信用制度による「貨幣」の「資本」化と金融の円滑化がその芽を包んでいるということ。これが一つ。

 もう一つの大切な指摘は、これもこの章のマルクスのこれまでの論究で明らかにしてきた、「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」(大月版P646)ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということです。つまり、資本主義的生産様式の社会において「資本」は大海原を走り続けるマグロのようにⅠ(v+m)>Ⅱcという関係のなかで走り続けなければならず、走り続けることによって生産と消費の矛盾は拡大し、それはなんらかの方法で調整されなければならないということです。(ただし、なんらかの方法で調整されても、私的資本主義的生産にもとづく社会の歪み・矛盾の拡大は解消されるどころか、ますます拡大します。)

 このように、「第二一章」は「蓄積と拡大再生産」の条件と限界を論究した「章」です。不破さんは、不破さんの言う「本論」以前の論及を無視して、Ⅰ(v+m)>Ⅱcという関係の本当の意味を理解することができませんでした。だから不破さんは「拡大再生産表式を描き出す方法を会得した」などと呑気なことを言い、「この発見は、マルクスを大いに喜ばせたようで、その条件の重要性を、短い文章の中で言い方を換えながら四回もくりかえしたほどでした」などとマルクスを不破さん同様に社会変革など二の次の自己顕示欲が強いだけの人間のように描き、自らの著著の宣伝に明け暮れていることに何の違和感も感じません。

 不破さんが科学的社会主義の思想を志向している人ならば、上記のような不破さんの足りない点を指摘してその誤りを正せばよいのですが、どうも私の見方は甘かったようです。

「第二一章」を不破さんの資本主義観に合わせようとするよこしまな試み

 「『資本論』探究〈上〉」の「(9)資本主義的生産の前途をめぐって」という「節」の「再生産論と恐慌の可能性」という最初の小見出しの文章は、不破さんが、「第二一章 蓄積と拡大再生産」の内容を自分の資本主義観に沿ったものででもあるかのように読者に思わせようとします。

 「第二一章」に関して、不破さんが言っていたのは、マルクス・エンゲルスと『資本論』の悪口と、「マルクスが拡大再生産表式を描き出す方法を会得した」ことと、拡大再生産の条件として「Ⅰ(v+m)>Ⅱc」という関係がなりたつということだけでしたが、今度は、開口一番、「こうしてマルクスは、単純再生産に続いて、拡大再生産の問題でも、資本主義的生産のもとで順調な進行が可能であることの証明に成功しました。」と言います。

 資本主義はますます発展するという「資本主義観」に二一世紀になって完全に屈服した不破さんにとって、『資本論』は拡大再生産が「資本主義的生産のもとで順調な進行が可能であることの証明」の場でなければならないのです。だから、そのことが書かれていることにしたい不破さんの言う「本文」以外はマルクスの寝言にしたいのでしょう。

 私たちの、「不破さんは、「第二一章 蓄積と拡大再生産」で何を学んできたのでしょうか」という科学的社会主義の思想を志向する者にする問いかけは、エセ「マルクス主義」者の不破さんには何の意味も無い言葉だったようです。

 私たちは「第二一章 蓄積と拡大再生産」についての不破さんの謬論について次のように批判してきました。

 マルクスは、「拡大再生産表式を描き出す方法」を会得するために失敗を繰り返し、それを誤ってエンゲルスが「本論」に入れてしまったという不破さんの主張は、科学的社会主義の思想の「無理解」と深く関わっています。

 マルクスは「拡大再生産表式を描き出す方法を会得した」のではありません。マルクスは、単純再生産表式と拡大再生産表式を使って、資本主義的生産様式の発展法則をあぶり出し、「資本」と「拡大再生産」との関係を明らかにしたのです。マルクスは不破さんが言うように、「単純再生産に続いて、拡大再生産の問題でも、資本主義的生産のもとで順調な進行が可能であることの証明に成功し」たのではありません。マルクスは、「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということ、つまり、資本主義的生産様式の社会において「資本」は大海原を走り続けるマグロのようにⅠ(v+m)>Ⅱcという関係のなかで走り続けなければならず、走り続けることによって生産と消費の矛盾は拡大し、それはなんらかの方法で調整されなければならないということを「第二一章」を通じて明らかにしたのです。不破さんによって「エンゲルスの編集上の誤り」というレッテルを貼られ、「マルクスの試行錯誤の経過」などと揶揄されたマルクスの草稿は、『資本論』にとって必要な構成部分だったのです。

 私たちは不破さんの謬論をこのように批判してきました。

 しかし、不破さんの、マルクスは「拡大再生産表式を描き出す方法」を会得するために失敗を繰り返し、それを誤ってエンゲルスが「本論」に入れてしまったという主張は、科学的社会主義の思想の「無理解」にもとづくものではありませんでした。それは、「単純再生産に続いて、拡大再生産の問題でも、資本主義的生産のもとで順調な進行が可能である」という不破さんの資本主義観にもとづく『資本論』を修正する作業で、実は、不破さんと私たちとの世界観の違いに基づく『資本論』を不破さん好みに改ざんしようとする試みそのものでした。

 このことをしっかり頭に入れて、「新版『資本論』」を検証してみて下さい。

不破さんが二一世紀まで「未来社会論」を発見できなかったのはエンゲルスのせい?!

 最後に、不破さんは、マルクスの未来社会論が『資本論』の第三部第七篇第四八章にあることを「三位一体的定式」の文章のなかにうめこまれていたために「多くの方々が気づかなかったのではないか」とエンゲルスの編集に責任をなすりつけ、「人間の全面的な発達をはかる『自由な時間』をつくりだすことを、未来社会における人間生活の変化の最大のものと意義づけました。」と、言います。

 確かに不破さんの言うとおり、本当に「多くの方々」かどうかは分かりませんが、共産党の書記局長、委員長を歴任し現在は社研の所長をしている不破哲三氏や現社研副所長の山口富男氏など不破さんの周りの「多くの方々」が第三部第七篇第四八章の文章を「気づかなかった」のかもしれません。しかし、だからといって、自分たちが「気づかなかった」ことをエンゲルスの編集のせいにするのはいかがなものでしょうか。

 共産党の常任幹部会委員・教育局長の小林栄三氏監修の『科学的社会主義〈下〉』の「共産主義社会の実現」という「節」を見ると、『空想から科学へ』と『ゴータ綱領批判』に多くを依拠した文章になっていますが、「社会と人間の発展にとって『労働日の短縮こそ』が『根本条件』となり(マルクス『資本論』)、すべての人がゆたかな物質的・精神的生活にもとづいてその個性を十分にのばすことができるようになります。」(P332)と、ちゃんと『資本論』の第三部第七篇第四八章を読み込んで書かれています。自分の無知を根拠に、自分のストーリーに合わせるために「多くの方々が気づかなかった」などとウソを言ってはいけません。

 そして『科学的社会主義〈下〉』には、共産主義社会が「必然の王国から自由の王国への人間の飛躍」であり、「労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求とな」り、「人間の社会的行為は、人間自身の自由な行為」となる「真に人間的で自由な発展の歴史」をつくる「社会の全員の物質的繁栄と精神的開花をはかりうる社会」(P334)であることが述べられており、マルクス・エンゲルスの意を汲んだ、極めてまともな共産主義社会の捉え方です。

 ここで『科学的社会主義〈下〉』が、なぜ、『空想から科学へ』と『ゴータ綱領批判』で述べられていることを主にして共産主義社会について述べているのかは分かりませんが、『資本論』も『空想から科学へ』と『ゴータ綱領批判』も共産主義社会について述べているのですが、『空想から科学へ』と『ゴータ綱領批判』の方が『資本論』よりもより具体的に述べられていることは明らかです。

 そして、『ゴータ綱領批判』と『資本論』とのもう一つの違いは、文章の結び方にあます。『ゴータ綱領批判』は、「ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」と述べて、共産主義社会は経済的利害にもとづく階級そのものの存立理由がなくなること、つまり、社会的基礎の確立について述べており、『資本論』は「そのための根本条件は労働日の短縮、つまり、生産性の向上である。」と述べて、共産主義社会が存立するための技術的基礎の確立について述べています。

 もしかしたら、『科学的社会主義』を監修した小林栄三氏は、不破さんのような、トンチンカンな、とんでもない人間が、『空想から科学へ』も『ゴータ綱領批判』も読まずに『資本論』から、「労働日の短縮」=「自由な時間」=「自由の国」=「共産主義社会」と考えて、そして、「自由な時間」は資本主義社会にもある「余暇」のことで、「共産主義社会」の労働も資本主義社会や「社会主義社会」同様に「指揮者」に従うだけの義務的な辛いものと考えて、科学的社会主義の思想を台無しにしてしまったら困ると思っていたのかも知れません。

 みなさんには、是非、『資本論』も『空想から科学へ』も『ゴータ綱領批判』も読んでいただきたいと思いますが、マルクスとエンゲルスがそれぞれの著作で述べている該当部分の要約を簡単に紹介します。

マルクスが『資本論』で述べていること

 物(富)がどれだけ生産されるかは生産性の高さにかかっており、生産設備等の進歩にかかっている。『自由の国』は強制されてはたらく必要がなくなったときに、はじめて始まる。つまり、それは、当然のこととして、遠い将来のことである。未開人も文明人も自然と格闘しなければならない。この『自然必然の国』は社会の発展につれて拡大する。この『自然必然の国』での『自由』とは、盲目的な力に支配されていた生産が計画的、意識的におこなわれるようになり、共同的統制のもとに置かれることである。しかし、この『自由』を獲得した『社会主義社会』もまだ『必然性の国』である。この国のかなたで、強制的な労働のない、自分の人間的な能力の発展のみを追求する真の『自由の国』が始まる。しかし、それは、『社会主義社会』という『必然の国』を基礎として、その上にのみ花開くことができる。そのための根本条件は労働日の短縮、つまり、生産性の向上である。

エンゲルスが『空想から科学へ』で述べていること

 エンゲルスも『空想から科学へ』(新日本文庫P72と75)で、『資本論』のこの部分よりも1ページ先の部分を含めて基本的に同じ内容のことを述べています。ただし、エンゲルスは、ここでは、「必然の王国から自由の王国への人間の飛躍」の時期である「社会主義社会」までを述べ、「自由の王国」の内容については述べていませんが、P71で「自由の王国」の内容について、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保する」と述べています。

マルクスが『ゴータ綱領批判』で述べていること

 そして、マルクスは『ゴータ綱領批判』(岩波文庫P38)で、「共産主義社会のより高度の段階において、すなわち諸個人が分業に隷属的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち──そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」と述べています。

 マルクスは、上記(『資本論』)のように、自分の人間的な能力の発展のみを追求する真の『自由の国』を未来社会とし、私たちはその「社会」の実現のために「人間生活の物質的存在条件」の資本主義的生産関係の変革をめざしますが、不破さんは、それを「夢がない」といい、「古い革命観」だと言って否定し、「人間の全面的な発達をはかる『自由な時間』をつくりだすことを、未来社会における人間生活の変化の最大のものと(マルクスは──青山)意義づけました」と論点をづらし、「諸個人の全面的な発展」と「生存」のための必要条件である「時間」のみを取りだして、「諸個人の全面的な発展」を保証するための「自由な時間」を生みだす〝自由の国〟(=〝共産主義社会〟)の実現のための資本主義的生産関係の変革と「社会主義社会」の発展過程を論外におきます。資本主義的生産関係の変革をめざす闘いを「夢がない」と否定する不破さんは、そのことなしには実現しない〝自由の国〟を資本主義社会にもある「余暇」である「自由な時間」に置き換え、これがマルクスの「未来社会論」だと言います。

 不破さんの「人間の全面的な発達をはかる『自由な時間』をつくりだすことを、未来社会における人間生活の変化の最大のものと意義づけました」と言う文章の意味は、上記のような内容を含んでいるのです。

※不破さんは、『前衛』の2015年5月号で、「必然性の国」と「自由の国」の〝国〟とは「人間の生活時間の区別」だと言い、以後、「自由の国」とは「自由な時間」で「自由な時間」とは資本主義社会にもある「余暇」のことだと発言をエスカレートさせています。また労働は、いわゆる「共産主義社会」でも資本主義社会やいわゆる「社会主義社会」と同様に義務的で辛いものであるとの考えを持っていますが、それらについての詳しい説明はホームページ4-26「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」及びホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。また、不破さんが、資本主義的生産関係の変革をめざすことを「夢がない」ということについての詳しい説明はホームページ4-18「☆「人間の発達」は資本主義を社会主義に変え、生産力を発展させなければ保障されない」及びホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

第一部 おわり

第二部

「『資本論』探究」は、不破さんが責任編集の「新版『資本論』」を何処へ導くのか

「『資本論』探究」で不破さんが言っていることを検証する意味

  以上、不破さんが監修責任者の「マルクス新版『資本論』」について、『赤旗』の宣伝ページの内容をみてきましたが、その宣伝内容からみて、不破さんの「『資本論』探究」をベースにおいた、マルクスの名を借りた〝不破哲三的「新版『資本論』」〟とでもいうべきものであることが明らかになりました。

 科学的社会主義の思想は、資本主義的生産様式を「解体」するための科学です。そして、共産党は、そのための、助産婦の組織です。だから、『資本論』の編集はそのような立場に立っておこなわれなければなりません。

 しかし、不破さんの「『資本論』探究」は、マルクス・エンゲルスと『資本論』の罵倒と歪曲を通じて、自ら創作した「恐慌の運動論」という名の〝資本主義発展論〟に基づく不破さんの自説をマルクスの「新しい見解」ででもあるかのように装って、読者に刷り込もうとするものでした。

 このような不破さんの「『資本論』探究」をベースにおいた、不破さんの責任編集のもとで出版される「マルクス新版『資本論』」は、マルクスを利用したマルクス・エンゲルスの思想とは似て非なる『資本論』として、その編集がおこなわれることでしょう。

 そこで、「新版『資本論』」を購入した人たちが科学的社会主義の道をしっかりと歩んでいただくために、多少なりとも、お役に立つことを願って、「『資本論』探求」で不破さんが『資本論』の何処をどのように誤った解釈をしているのか、そしてその誤った解釈の意図を「『資本論』探究」等から知っていただき、〝不破哲三的「新版『資本論』」〟を読むことによって、マルクス・エンゲルスと『資本論』と不破さんの思想と人となりとの違いをより深く理解し、確認していただくため、「『資本論』探究」をベースにした『資本論』に係わる不破さんのマルクス・エンゲルスの歪曲と不破さんのビックリ〝珍説〟の数々を紹介させて頂くことといたしました。

 必ずや、みなさんのお役に立つと確信しております。

 みなさん!! 自分の意見をもった〝新しい人〟が作る〝新しい社会〟の実現、人民による政治(by the people)の実現のため、共産党に元気をとりもどさせ、Communist Partyを蘇らせるために力を尽くしましょう。