AZ-2-2

『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏

その2

このページでは、不破さんの「『資本論』刊行150年に寄せて」の⑥と⑩及び⑦で書かれている謬論の解説をいたします。

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⑥「資本主義は人類史の過渡的一段階(1)」と⑩「マルクスの未来社会論(2)」で不破さんが言っていること

マルクスもビックリ!!! 遂に出た、「自由の国」は〝余暇〟との珍論!!

 私は、前のページの最後の「ここまでのまとめと今後の展開について」のなかで、「これまで「マルクスの資本主義に対する見方」を歪めたうえで、自分の誤った考えを私たちに刷り込もうとした不破さんは、「批判一本やり」(?)を捨て、「資本主義は人類史の過渡的一段階(1)」から、その本領を発揮し、「『資本論』刊行150年に寄せて」は、マルクス・エンゲルスも驚くような展開をします」と書きましたが、これは、みなさんに私のページを読んでいただくためにした誇大広告ではありません。

 21世紀になって「激しい理論的衝撃」を受けた不破さんには、もう、マルクスもエンゲルスもレーニンも関係ありません。あるのは、不破哲三氏の「科学の目」で見た「科学的社会主義」だけです。その不破さんの「科学の目」は、「『資本論』刊行150年に寄せて」の⑥「資本主義は人類史の過渡的一段階(1)」と⑩「マルクスの未来社会論(2)」で、「自由な時間」=〝余暇〟=「自由の国」という、「マルクス・エンゲルスもビックリ!!!」な、とんでもない科学的社会主義の捏造を行います。

連載の⑥で不破さんが言っていること

 不破さんは、「『資本論』刊行150年に寄せて」の⑥「資本主義は人類史の過渡的一段階(1)」で、「マルクスの資本主義に対する見方は、批判一本やりではありませんでした」と述べたあと、資本主義的生産様式の歴史的意義について、マルクスが『資本論』で資本主義的生産様式が「社会的生産諸力を発展させ、そしてまた各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態の唯一の現実的土台となりうる物質的生産諸条件を創造させる」と言っていることを紹介します。そして、この文章と『賃金、価格および利潤』の中の──時間は人間の発達の場であり、自由な時間を資本家に奪われた人間は牛馬にも劣る──という旨の文章を引用した後で、次のように、もっともらしい持論を展開します。

「社会のすべての人間に、『発達の場』である『自由な時間』を保障する、ここに資本主義社会を共同社会に変革する事業の最大の人類史的意義があるのです。

 巨大な生産力の発展がなければ、搾取社会が共同社会に変わっても、個々人はわずかの『自由な時間』しか与えられず、社会変革が『個々人の完全な自由な発展』と結びつくことなど起こりえないでしょう。」と。

 そして、『資本論』第一部の商品論等でも労働者が資本家に「自由な時間」を奪われていることをマルクスは述べているが、第三部第7篇で「自由な時間」の問題をまとまった形で展開しており、後でより立ち入って考えると言います。

 後でより立ち入って考えるという⑩「マルクスの未来社会論(2)」での不破さんの寄稿をみるまえに、不破さんのこの文章がなぜ、もっともらしい「持論」なのか、説明します。

科学的社会主義とは無縁な不破さんの思想

 生きるということは、時間を与えられるということです。どうすれば、その与えられた時間の全てを自分の発達のために使うことのできる社会をつくることができるのか。これは、無政府主義者を含む、あらゆる人の夢でした。

 〝同志よ固く結べ〟という革命歌に「搾取なき自由の国、たたかい取らん」という歌詞がありますが、科学的社会主義は、資本の「搾取」と労働者階級の「自由」とをあい対立する概念と見てきました。科学的社会主義は、歴史の必然として、搾取によって成り立っている資本主義的生産様式の社会を労働者階級の解放闘争によって〝新しい共同社会(結合労働の社会)〟に変えることによって、「自由の国」がつくられることを示してきました。科学的社会主義の思想は、資本の「搾取」からの労働者階級の解放闘争の先に「自由の国」があることを示し、そのために、労働者階級が団結することを訴え続けてきました。

 しかし、不破さんは、私たちとは違う独自の考えを持つに至っています。

 『前衛』(2014年1月号)の不破さんの持論を宣伝する鼎談で、不破さんが「従来の社会主義論」について、「たいていが、生産物の分配どまり、経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心なことが出てこないのです。だから「未来社会」といってもあまりうらやましくない」というと、石川康宏氏がそれに応えて、「そういうテーマでの学習会では、そんなにいっぱい物を消費しなくてもいいじゃないかとか、むしろ環境によくない、無駄じゃないか、という意見がよく出たものです」とトンチンカンな言葉で応えます。

 不破さんの言う「従来の社会主義論」とは、21世紀になって「激しい理論的衝撃」を受けるまで、不破さん自身が信じていたもので、私たちがその正しさを確信し、すばらしい「未来社会」を実現するために学んできた科学的社会主義の理論です。「従来の社会主義論」は、資本主義的生産関係を変え、「生産物の生産と分配の仕方」をかえ、「収奪者の収奪」(=生産手段の社会的所有)を実現することの必然性を示す思想です。それは、労働者を賃金奴隷から解放し、〝搾取なき自由の国〟を〝闘いとる〟基礎を築くことで、「人間の発達」の場を保障するものです。「経済的土台の変化」とはそういうことです。「経済的土台の変化」に「目を向ける」ことを「あまりうらやましくない」と言う不破さんは、そのくせ、マルクスの言う「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」の立場丸だしで、賃金が上がれば経済が成長するなどといいます。

 このような独自の考えを持つ不破さんに、「『資本論』刊行150年に寄せて」の正しい寄稿文を求めるのは、無い物ねだりなのかもしれませんが、不破さんが科学的社会主義の思想の持ち主ならば、この節で、少なくとも次のことだけは言うべきでした。

 マルクスは『資本論』で、資本主義的生産様式が「社会的生産諸力を発展させ、そしてまた各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態の唯一の現実的土台となりうる物質的生産諸条件を創造させる」と言っている。だからその「物質的生産諸条件」を使って「より高度な社会形態」をつくるために、なによりも、「経済的土台の変化」に努めなければならない、と。これこそがマルクスの言いたいことだと。

 しかし不破さんは、誰でも認める「自由な時間」の「人類史的意義」に焦点をあて、「巨大な生産力の発展がなければ、搾取社会が共同社会に変わっても、個々人はわずかの『自由な時間』しか与えられず、社会変革が『個々人の完全な自由な発展』と結びつくことなど起こりえないでしょう」と言って、〝この世の中を良くしようと思う人は誰でも共産党員の資格がある〟と言われて入党した党員の頭を混乱させます。

 不破さんのこの言葉には、唯物史観も革命論も、その欠けらすらありません。「巨大な生産力の発展があるから、搾取社会を共同社会に変えることができるのです。個々人にわずかの『自由な時間』しか与えられていないから、社会変革によって『個々人の完全な自由な発展』に繫がるような社会をつくるのです」、そのために、なによりも、「経済的土台の変化」に努めなければならないのです。

 不破さんの「巨大な生産力の発展がなければ、……」という文章は、不破さんが如何に転倒した認識の持ち主であるかを、雄弁に物語っており、不破さんが科学的社会主義とは無縁な思想の持ち主であることを示しています。

 なお、上記の『前衛』(2014年1月号)の鼎談についての詳しい内容は、ホームページ4-18「☆「人間の発達」は資本主義を社会主義に変え、生産力を発展させなければ保障されない」(階級社会の本質を曖昧にし、「生産物の分配の仕方」より「人間の発達」を重視する不破哲三氏)を参照して下さい。

連載の⑩で不破さんが言っていること

 関連して、不破さんが⑩「マルクスの未来社会論(2)」で言っていることを見てみましょう。

 まず、不破さんは次のように言いますが、後で見るように、真っ赤なウソです。

「マルクスは、人間の生活時間のうち、この時間(物質的生産にあてるべき時間──青山補注)部分を『必然性の国』、それ以外の、各人が自由にできる時間部分を『自由の国』と名付けました。」と。

 そして不破さんは、物質的生産にあてるべき時間を「必然性の国」と呼ぶ理由を、「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動となります。」と言います。

 不破さんはさらに論をすすめ、「必然性の国」以外の余暇時間をマルクスは「自由の国」と呼び、資本主義社会にも〝余暇〟があり「自由の国」があると言います。

 そして最後に、不破さんは、「『前史』の終わりとは、『本史』の始まりのこと。人間の発達が社会発展の原動力となるとは、まさに人類社会の『本史』にふさわしい未来像ではないでしょうか。」という言葉でこの節を結んでいます。

マルクスが『資本論』で言い、エンゲルスが『空想から科学へ』で言っていること

 私は先ほど、不破さんの言っていることを「真っ赤なウソ」と全否定してしまいましたが、不破さんが言っていることが「真っ赤なウソ」なのか私が言っていることが「真っ赤なウソ」なのか、『資本論』で見てみましょう。ちょっと長くなりますが、趣旨全体がつかめる程度の長さを抜粋しますので、辛抱してお読み下さい。

 「……しかしまた、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行なわれるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」〈『資本論』第3巻 第2分冊 大月版 ⑤ P1050B3-1051B6〉

 これが、『資本論』に書かれている「必然性の国」と「自由の国」とに関する記述です。要約すると、「物(富)がどれだけ生産されるかは生産性の高さにかかっており、生産設備等の進歩にかかっている。「自由の国」は強制されてはたらく必要がなくなったときに、はじめて始まる。つまり、それは、当然のこととして、遠い将来のことである。未開人も文明人も自然と格闘しなければならない。この「自然必然の国」は社会の発展につれて拡大する。この「自然必然の国」での「自由」とは、盲目的な力に支配されていた生産が計画的、意識的におこなわれるようになり、共同的統制のもとに置かれることである。しかし、この「自由」を獲得した社会主義社会もまだ「必然性の国」である。この国のかなたで、強制的な労働のない、自分の人間的な能力の発展のみを追求する真の「自由の国」が始まる。しかし、それは、社会主義社会という「必然の国」を基礎として、その上にのみ花開くことができる。そのための根本条件は労働日の短縮、つまり、生産性の向上である。」というこをマルクスは述べています。

 エンゲルスも『空想から科学へ』(新日本文庫P72と75)で、『資本論』のこの部分よりも1ページ先の部分を含めて基本的に同じ内容を述べています。ただし、エンゲルスは、ここでは、「必然の王国から自由の王国への人間の飛躍」の時期である社会主義社会までを述べ、「自由の王国」の内容については述べていません。「自由の王国」の内容については、『空想から科学へ』の71ページで、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保する」と述べています。

 余談ですが、このようにマルクスとエンゲルスの考えは完全にピッタリと一致していますが、不破さんはマルクスを自分の謬論に利用するために、エンゲルスとマルクスは緊密な意思疎通を図っていなかったと「推測」している(ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」を参照して下さい。)ので、エンゲルスが編集した『資本論』第3巻のこの部分に何らかの「攻撃」をかけてくることも十分考えられます。

 このように、『資本論』と『空想から科学へ』を読めばわかるとおり、マルクスもエンゲルスも、不破さんのように、「自由の国」とは「自由な時間」のことだなどとは一言もいっていません。不破さんのまったくの創作(作り話)です。「自由の国」とは「自己目的として認められる人間の力の発展が」保障される国、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保」された国のことです。そして、「それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができ」、「社会主義社会」での生産性の向上、「労働日の短縮こそは根本条件である」ということです。

 個人の発達にとって「自由な時間」は欠くことのできない大切なものです。生産性が向上しても、資本主義社会では労働時間の短縮につながりません。「民主主義の確立期の社会」を経て「社会主義社会」が発展する中で「労働日の短縮」も本格的に実現し、個人の「自由な時間」も飛躍的に拡大します。同時にその過程で、個人の発展にともなって、「諸個人が分業に奴隷的に従属する」システムの解消も進み、「精神的労働と肉体的労働との対立」もなくなり「労働」そのものが「生きがい」となり、「諸個人の全面的な発展」が保障されます。そのときの社会をマルクスとエンゲルスは「共産主義社会」(共産主義社会のより高度の段階の社会)とよび、「自由の国」と呼んだのです。

不破さんを誤らせる二つの間違い

 40年以上前に畑田重夫氏のマンションを訪ねたことがある。川上肇が使っていたという机があった。畑田氏は古典の学習について、「20回以上読んで、やっと読んだと言える」という趣旨のことを、よく話していました。私は、残念ながら、『資本論』をその半分もめくってない。しかし、日本共産党の議長も歴任した不破さんは、『資本論』を十分読んでおられることと思う。その不破さんが、なぜ、こんなことを言うのかと不思議に思う人も多いのではないか。

 それは、不破さんが筋金入りの反共主義者でないとすれば、マルクス・エンゲルス・レーニンの共産主義社会の理解と異なる理解を、二つに点で、しているためです。

 マルクス・エンゲルス・レーニンは共産主義社会を「生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階の社会」=いわゆる「社会主義社会」と「発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階の社会」=いわゆる「共産主義社会」とに分けて見ますが、不破さんは「未来社会」を「社会主義・共産主義」とひとくくりにします。

 また、不破さんは、「指揮者はいるが支配者はいない」という社会を資本主義社会の次にくる未来の社会だと言って理想化します。エンゲルスは「階級分裂の基礎になっているのは、分業の法則である」(『空想から科学へ』P69)と言っていますが、「社会主義社会」はまだ「指揮者」のいる「分業の法則」のある社会です。

 だから、レーニンも「社会主義は、あらゆる国家の死滅へ、したがってあらゆる民主主義の死滅へ導く。しかし社会主義は、プロレタリアートの独裁を通じるよりほかには実現されない。ところでこのプロレタリアートの独裁は、ブルジョアジーすなわち国民のなかの少数者にたいする暴力と、民主主義の完全な発展、すなわち、あらゆる国事への、また資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展とを結びつけるのである。」『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』(全集 第23巻)と述べて、社会主義が国家の死滅へ、民主主義の死滅へ導くものであるが、それは、民主主義の完全な発展、すなわち、あらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展を通じてはじめて実現することをの明らかにしています。

 しかし、エンゲルスを排斥しレーニンを排斥して、自らをマルクスを超える──21世紀に生きるわれわれが、一面で、19世紀に生きたマルクスを超えるのは当然のことではあるが──存在として自己顕示しようとする不破さんは、マルクス・エンゲルス・レーニンを捨ててしまいます。

 マルクス・エンゲルス・レーニンは、いわゆる「社会主義社会」ではまだ労働が生活のための手段・義務として「諸個人が分業に奴隷的に従属」しており、いわゆる「共産主義社会」になって、はじめて、労働が生活のための手段・義務から「生活にとってまっさきに必要なこと」となると考えます。対して、不破さんは、未来の社会は「指揮者はいるが支配者はいない」という社会のままで、働くことが「楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動」と考えています。

 だから不破さんにとっては、「共産主義社会」になっても「労働」が生活のための手段・義務として残ってしまい、その結果、『資本論』をまともに読めば誰でもわかる「共産主義社会」=「自由の国」ということが理解できず、「自由の国」とは「自由な時間」で〝余暇〟のことだという『資本論』をだいなしにするようなことを言いだすはめに陥ってしまうのです。

 しかし、「『資本論』刊行150年」に当たって、私たちが再確認すべきことは、「自由の国」とは何かなどということではありません。マルクスが『資本論』で訴えていることは、「自由の国」とは「共産主義社会」なのか、それとも「自由な時間」なのかということではありません。マルクスは、資本主義的生産様式を変えなければ何もはじまらないと言っているのです。そのために、マルクスは『資本論』を書いたのです。残念ですが、不破さんの寄稿からは、そのことがまったく感じられません。共産党を思想的にも組織運営上も破壊し続けてきた不破さんは、共産党が老いて危機的な状況にあり、この困難を乗り越えるためには結束が必要なときに、結束するためのイロハも語ろうとはせず、「自由な時間」のなかに埋没しています。

不破さんの結びの言葉の意味

 不破さんの、「『前史』の終わりとは、『本史』の始まりのこと。人間の発達が社会発展の原動力となるとは、まさに人類社会の『本史』にふさわしい未来像ではないでしょうか。」と言う、この節の結びの言葉は、不破さんの著作をあまり読んでいない方には、「なんだかよく分からないが何となく良いことを言っているのでは」というくらいに受け止められるのではないかと思います。

 不破さんの言う「人間の発達が社会発展の原動力となる」とは、どういう意味なのか。不破さんは、『前衛』2014年1月号で、「資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、こうして、人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう」と言い、『前衛』2015年5月号では「資本主義社会では、社会的発展の推進力は、経済的土台に属する資本の利潤第一主義にありました。しかし、新しい社会では、発展の推進力は、明らかに、『自由の国』における人間の発達にあります」と言っています。そして、私が「科学的社会主義と正反対な不破さんの思想」の項で紹介しているように、不破さんは「従来の社会主義論」について、「たいていが、生産物の分配どまり、経済的土台の変化だけに目を向けて」いて「『未来社会』といってもあまりうらやましくない」と言い、「経済的土台の変化」と「人間の能力の発達」とを対立させて捉えます。

 マルクスが発見した唯物史観について、エンゲルスは『共産党宣言』の1888年英語版への序文で、「いかなる歴史的時期においても、経済的生産と交換の支配的な様式、およびそれから必然的に生れる社会組織が土台をなし、その時期の政治的並びに知的歴史はこの土台のうえに築かれ、この土台からのみ説明される。」(『共産党宣言』岩波文庫、大内兵衛・向坂逸郎訳)と述べていますが、不破さんの上記の主張は、この唯物史観を超越した独創的な考えです。

 不破さんは、「『前史』の終わりとは、『本史』の始まり」ということから、いきなり、「人間の発達が社会発展の原動力となる」「人類社会の『本史』」に飛んでしまい、「新しい社会では、発展の推進力は、明らかに、『自由の国』における人間の発達にあります」と、はじまり始めた「本史」への道がいつの間にか「本史」に変わり「人間の発達が社会発展の原動力となる」社会になってしまいます。

 「『前史』の終わり」=「『本史』の始まり」とは、「生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階の社会」=いわゆる「社会主義社会」のことで、「発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階の社会」=いわゆる「共産主義社会」のことではありません。そして、「社会主義社会」はまだ「肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保する」ことができていない、「指揮者はいるが支配者はいない」生産関係の社会です。この生まれたばかりの「社会主義社会」は、レーニンが言うように、権利を真に同じくした、全国民大衆の、あらゆる複雑な問題への真に全般的な参加、民主主義の完全な発展にむけた〝by the people〟の社会の完全な実現──それは高い生産力の実現によってはじめて実現される社会──を通じてはじめて、民主主義は死滅し、国家も死滅した、「発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階の社会」=いわゆる「共産主義社会」にたどり着くことができます。

 なお、不破さんは、未来社会は「人間の発達が社会発展の原動力となる」と言いますが、「共産主義社会」において、「経済的土台」に変わって何が社会組織の土台となるのか、予測することは不可能です。マルクス主義者は「国家という組織された政治権力を手に入れ、その助けを借りて…社会を新しく組織」します(フィリップ・ヴァン・パッテンあてのエンゲルスの手紙 1883.4.18)。そして、「新しく組織」される「社会」は、「〝by the people〟の完全な民主主義」と「高い生産力」が実現した社会ですが、私たちマルクス主義者が現時点で描ける「未来社会」はここまでです。ここから先はユートピアで、観念論者の仕事です。

 「『前史』の終わりとは、『本史』の始まり」ということから、いきなり、「人間の発達が社会発展の原動力となる」「人類社会の『本史』」にまで飛んでしまった不破さんが、この節に付けたタイトルは「輝かしい未来像──人類社会の『本史』」ですが、この節で不破さんが言っていることは、「自由な時間」を使っての「人間の発達が社会発展の原動力となる」「人類社会の『本史』」という考えは、じつに「輝かしい未来像ではないでしょうか」ということだけです。しかし、私たちにとって必要なのは、いかに未来が輝かしいかを抽象的に語ることではなく、マルクス・エンゲルス・レーニンのように、その時々の矛盾の現れを曝露し、輝かしい未来へつながる道を明らかにすることです。

まとめ

 不破さんは、これまで、「たいていが、生産物の分配どまり、経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心なことが出てこないのです。だから『未来社会』といってもあまりうらやましくない」といって「従来の社会主義論」を否定し、「経済的土台の変化」に目を向ける根源的な闘いから目を逸らさせ、賃金が上がれば経済は発展するといってグローバル資本による構造的矛盾の現れである「産業の空洞化」から目を逸らさせてきました。そして今度は、⑥「資本主義は人類史の過渡的一段階(1)」で、「社会のすべての人間に、『発達の場』である『自由な時間』を保障する、ここに資本主義社会を共同社会に変革する事業の最大の人類史的意義があるのです。巨大な生産力の発展がなければ、搾取社会が共同社会に変わっても、個々人はわずかの『自由な時間』しか与えられず、社会変革が『個々人の完全な自由な発展』と結びつくことなど起こりえないでしょう。」といって「『自由な時間』を保障する」ことが「共同社会に変革する事業の最大の人類史的意義」だと言う。資本主義的生産様式がもたらす深刻な矛盾の曝露を棚に上げて、「巨大な生産力の発展がなければ」個々人には「わずかの『自由な時間』しか与えられない」から、「搾取社会が共同社会に変わっても」意味がない(しょうがない)と言って、「搾取社会」と「共同社会」を同列において、その上に「巨大な生産力の発展」を置く。これに続く⑩「マルクスの未来社会論(2)」では、「自由の国」とは「余暇」だと言い、「未来社会」では「余暇」が増えて「人間の発達が社会発展の原動力となる」、これは、「まさに人類社会の『本史』にふさわしい未来像ではないでしょうか」と言います。

 これほどマルクスの思想を歪曲し、マルクス・エンゲルスの著作のなかにある、搾取社会から共同社会を生みだす人々の活動の意義や共同社会の発展のなかで育まれる連帯感溢れる新しい人たちが築く豊かな未来の姿を、これほど大胆にそぎ落とし、科学的社会主義の思想を台なしにした文章はないでしょう。

 前にも書いたとおり、「生きるということは、時間を与えられるということです」から、有意義に生きるということは人間にとって非常に大切なことです。しかしそれは、「自由な時間」が保障されれば良いというものではありません。資本主義社会で培われた拝金主義、他人を押しのけるための競争、歪んだ人間観や自然観と社会の見方等々を搾取社会から共同社会を生みだす活動の通じて、新しい共同社会を発展させる活動を通じて、つまり、「経済的土台」を「変化」変化させる、〝by the people〟の力を育む活動を通じて、はじめて、「有意義に生きる」という言葉の内実は形成されていくのです。

 不破さんのように経済的にも時間的にも恵まれた人間が、いまの日本の「経済的土台」を凝視することもせず「健全で『単純な』(!)常識の騎士たちの観点」(大月版『資本論』第2巻P506)から賃金が上がれば経済は発展するといい、「自由の国」とは「余暇」だと言い、「未来社会」では「余暇」が増えて「人間の発達が社会発展の原動力となる」と空論を言っても「人間の発達」にとってなんの役にも立たないことだけは明らかです。ましてや、科学的社会主義の思想を知りたい、学びたいと思う人が読む『赤旗』にこのような文章が掲載されるということは、なんの役にも立たないだけでなく、極めて有害だと言えます。

 なお、このページの私の考えをよりよく理解していただくために、ホームページの4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」と4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を、是非、参照して下さい。

⑦「資本主義は人類史の過渡的一段階(2)」について

この節の構成について

 この節の大見出しは「『世界市場』の形成」で、「ヨーロッパが世界の『片隅』になる」と「マルクス、資本の『文明化作用』を語る」と「21世紀、世界は変貌しつつある」の三つの小見出しから成っていて、「核兵器禁止条約に賛成した122カ国」という地図が掲載されています。それぞれの内容が独立していて関連がないので、各小見出しごとに不破さんが言っていることを見ることにします。

「ヨーロッパが世界の『片隅』になる」で、不破さんが言っていること

 不破さんは、マルクスがエンゲルスへの手紙で、ヨーロッパ大陸以外のもっとずっと大きな地域でブルジョア社会の成立へ向けての運動が勢いを強めているなかで、ヨーロッパ大陸で切迫している社会主義的な性格をもった革命が起きた場合、ヨーロッパ大陸という「この小さな片隅での革命は必ずしも圧しつぶされはしないのではないだろうか」と述べていることを取り上げて、「資本主義が世界にひろがれば、ヨーロッパは世界の『小さな片隅』になる。ずいぶん思い切った発言でした」と、トンチンカンなことを言ってマルクスを讃えます。

マルクスは「ヨーロッパが世界の『片隅』になる」などということを言っているのではない

 しかし、もしもマルクスが不破さんのこの寄稿文を読んだとしたら、さぞ当惑することでしょう。見てのとおり、マルクスがこの手紙で言っていることは、「ヨーロッパが世界の『片隅』になる」などということではありません。マルクスは、いま、世界の「小さな片隅」であるヨーロッパに社会主義的な性格をもった革命が起きた場合、それが圧しつぶされずに、成功する可能性が高いということを、エンゲルスと確認し合っているのです。

不破さんが、「マルクス、資本の『文明化作用』を語る」で言っていること

 次に不破さんは、「マルクス、資本の『文明化作用』を語る」で、「資本は、頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてくるのである」(『資本論』第一巻 大月版② P991)という、資本の本源的蓄積のときの蛮行を表現したマルクスの有名な言葉を引用しながら、「古い搾取制度が、資本主義的搾取制度に交代することは、ぞれがどんなに暴力的な過程をとったとしても、生産力と社会的諸形態にとって、また『より高度の新たな社会形態のための諸要素の創造』にとって、『文明化』的意義をもつということを強調しました。」と述べ、「これは、世紀を超える広い歴史的視野で世界を見るマルクスでなければ、語れない言葉でした。」と言って、これまた、マルクスを讃えています。

不破さんは資本の非人間性を明確にし、現状と未来の展望をしっかり語るべきだ

ちょっと、わき道、しかし踏まえておきたいこと

 ちょっと、わき道にそれますが、この文章を読んで思い出したのが、不破さんの『前衛』2015年4月号での、「資本主義の側から見ても、その(社会的バリケードのこと──青山注)実現は、労働者階級の衰退などの社会的破局を防止して、経済の安定的発展を支える積極的作用をはたしたのです。その意味では、そこには、〝資本主義の知恵〟の発揮があった、と見ることもできます」という「資本主義」が慈悲のこころ、〝資本主義の知恵〟をもっているという文章と、もう一つは、不破さんが『資本論』の「諸個人の自己労働にもとずく分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的生産経営にもとづいている資本主義的所有の社会的所有への転化よりも、比較にならないほど長くかかる、苦しい、困難な過程である」という文章を引用して、「この(資本主義から共同社会への歴史的な──青山注)転化過程は急速に進めることができるだろう。これが、1867年に、マルクスが第一部完成稿の筆をおいた時にえた結論でした」と言って、あたかもマルクスが資本主義から共同社会への急速な転化が可能だと考えていたかのようにいう、『前衛』2015年5月号の文章です。

 はじめの文章は、言わずもがななので論評を控えますが、後半の文章をまともに読めば、また、マルクスの知的水準からしても、『資本論』でマルクスが言っていることは、「資本主義的所有の社会的所有への転化」は「分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化」よりも比べものにならないほど簡単だと「所有」形態の転化について述べたもので、「資本主義から共同社会への転化」が簡単だなどと「社会」の転化について述べているものでないことは、明らかです。「資本主義的所有の社会的所有への転化」は、「事実上すでに社会的生産経営」になっている経営・所有権を独占資本がすなおに社会に引き渡せばすむことで、「分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化」のときのように資本の本源的蓄積のための蛮行のようなことは、まったくありません。そんなことは一定の知的水準がある人ならば誰でもわかることです。ここでマルクスが言っているのは、「諸個人の自己労働にもとずく分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化」過程の長く、苦しい、困難な過程についてです。その困難な過程とは、「資本主義的生産様式の『永久的自然法則』を解き放ち、労働者と労働諸条件との分離過程を完成し、…自由な『労働貧民』に、この近代史の作品に、転化させるということは、こんなにも骨の折れることだった〔tantae molis erat〕のである。……資本は、頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてくるのである」(『資本論』第一巻 大月版② P991)という資本の本源的蓄積過程の困難さ、過酷さのことで、「資本主義的所有の社会的所有への転化」にはそのような困難さもなければ過酷さもないことを言っているのです。しかし、不破さんは、この文章にまったく関係のない「資本主義から共同社会への歴史的な転化過程」の長さを持ち出して、資本の本源的蓄積過程の長さと対比させ、資本の本源的蓄積過程の困難さや過酷さと「資本主義的所有の社会的所有への転化」の相対的な容易さから目をそらさせます。

 不破さんは、同じく『前衛』2015年5月号の論文の結びで、デューリングが「たいして重要なものではない」と、人類の「これまでの歴史的発展に軽蔑的なことばをあびせかけ」たことに対して、エンゲルスが『反デューリング論』のなかで次のように述べたことを、「未来社会への道を切り開く今日のたたかいの人類史的意義を明確にしました」と珍しくエンゲルスを賞賛しています。

 「この『太古』(デューリングとエンゲルスが生きた時代のことで、未来から見ての「太古」のこと──青山の注)は、いかなる場合にも、将来のすべての世代にとって、つねにきわめて興味深い歴史上の一時代たることを失わないであろう、ということである。なぜなら、この時代は、それ以後のいっそう高度な発展全体の基礎をなすものだからであり、また、動物界からの人間の分離をその出発点とし、共同社会に結合した未来の人間が二度とけっして遭遇することのないような、さまざまな困難を克服していった経過をその内容としているからである。」(大月国民文庫P178)

 この文章でエンゲルスが言っていることは、①資本主義社会が「それ以後のいっそう高度な発展全体の基礎をなすもの」であることと、②資本主義社会が、「未来の人間が二度とけっして遭遇することのないような、さまざまな困難を克服していった」ことです

 「資本主義から共同社会への歴史的な転化過程」の長さを持ち出して、資本の本源的蓄積過程の長さと対比させ、資本の本源的蓄積過程の困難さや過酷さから目をそらせた不破さんが、「未来社会への道を切り開く今日のたたかいの人類史的意義を明確にしました」とエンゲルスを賞賛するとき、「未来の人間が二度とけっして遭遇することのないような」資本主義社会の「困難」の意味や、社会主義社会を建設する上での「困難」との質の違いをどれだけ理解しての賞賛なのか、私には、はかりかねます。

 なお、この「わき道」に係わる詳しい内容はホームページの4-2「☆不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない」と4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

名は体を表す

 ちょっと「わき道」にそれましたが、本題に関連して、不破さんの考えを知る上で意味があると思いましたので、触れさせていただきました。

 さて、本題に戻りますと、「名は体を表す」といいますが、ここの小見出しは「マルクス、資本の『文明化作用』を語る」ですが、「わき道」で見てきたように、マルクスとエンゲルスが資本主義を語るとき、不破さんのように「資本主義の知恵」などというノー天気な評価などしなかったのはもちろんのこと、「資本の文明化作用」などという一面的な評価はせず、必ず問題の二つの面を正しく見て私たちが誤らないような提起を行っています。

 そのような観点で、ここに書かれていることを不破さんではなくレーニンが書くとしたら、どんなタイトルでどのような内容になるのか考えてみました。

 とりあえず考えられるタイトルは、「資本主義は、人民の最後の苦難の時代」というような表現になるのではないかと思います。なぜなら、マルクスは資本の本源的蓄積過程の悪辣さを鋭く曝露しただけでなく、怒りをもって、資本主義的生産様式がもつ矛盾とそれが人民にあたえるマイナス面を、当時の資本主義の発展段階の中で徹底的に曝露していますが、レーニンも、まず第一に、現代の「グローバル経済」のなかで「産業の空洞化」がもたらす国民の困難を徹底的に曝露するでしょう。そしてレーニンは、マルクスの時代同様にレーニンの生きている現代も「資本主義」が国民に大きな「苦難」もたらすことを強く訴えることでしょう。同時に、現代のグローバル資本が、〝国民の新しい共同社会〟をつくるために十分な「物質的諸条件」を、すでに、「無意識のうちに」つくりだしたこと、「産業の空洞化」そのものが日本における「社会的労働の生産力の発展」の桎梏となり、「資本の発展」の「最大の制限」となり、国家による「資本の規制」による「資本の止揚」以外にどのような道もないことを、労働者階級の歴史的使命とともに力強く語ることでしょう。レーニンは、私たちにマルクスが教えたこととは、「資本主義」が「頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれ」、資本家が「価値増殖の狂信者として」「容赦なく人類に生産のための生産を強制し」、苦難を与え続けてきたが、その「資本主義」が「より高い社会形態」の基礎を準備し、「資本主義」が「人民の最後の苦難の時代」となるということであった、ということを革命家の言葉をもって語ってくれることでしょう。

 資本主義に「知恵」があるとすれば、〝資本主義の知恵〟とは、「生産力の発展・欲望の拡大・生産の多様性・自然力及び精神力の利用と交換・をさまたげるいっさいの制限をうちこわす」ための「知恵」のことで、資本主義は〝利潤の拡大〟を通じて、生産力を発展させ、資本の蓄積を進め、生産の社会化を拡めて、「新たな社会の形成要素」を発展させ、社会主義を準備します。その「資本主義は、人民の最後の苦難の時代」なのです。ここでのテーマは、もしも不破さんが科学的社会主義の思想を持っているならば、そのことを力強く熱く語ることなのです。

 残念ながら、「マルクス、資本の『文明化作用』を語る」との小見出しは、労働者階級の世紀を超えた血のにじむ闘いの成果を〝資本主義の知恵〟と言い切る不破さんの資本主義観から図らずもにじみ出た、資本主義の理解の浅はかな一面化を物語るものでしかありませんでした。

※資本の歴史的使命に係わるホームページ「マルクス・エンゲルスの著作の抜粋」からの抜粋

20、資本の歴史的任務と資本による資本の止揚

──社会的労働の生産力の発展は、資本の歴史的任務であり、歴史的存在理由である──

20-1 資本家の歴史的な存在権        ※「競争と競いあい13-4」にも重複掲載。

「資本家は、ただ人格化された資本であるかぎりでのみ、一つの歴史的な価値とあの歴史的な存在権……をもっているのである。……価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類に生産のための生産を強制し、したがってまた社会的生産諸力の発展を強制し、そしてまた、各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会形態の唯一の現実に基礎となりうる物質的生産条件の創造を強制する。」(大月版『資本論』② P771B8-772F5 )

20-2 資本の歴史的任務

「社会的労働の生産力の発展は、資本の歴史的任務であり、歴史的存在理由である。まさにそれによって資本は無意識のうちにより高度な生産形態の物質的諸条件をつくりだすのである。」(大月版『資本論』Ⅲ ④ P325F2-4)

20-3 資本主義的生産様式の歴史的使命

「この生産様式(資本主義的生産様式──青山)の歴史的使命(ベルーフ)は、人間労働の生産性の発展を容赦なく幾何級数的に(おし──青山)進めて行くということである。」(大月版『資本論』④ P328B2-1 )

20-5 資本そのものによる資本の止揚

 資本は「生産力の発展・欲望の拡大・生産の多様性・自然力及び精神力の利用と交換・をさまたげるいっさいの制限をうちこわす」が、それは、「けっして、資本がその制限を現実に克服したということにはならない」。「この制限は、資本の発展のある一定の段階で資本そのものがこの傾向の最大の制限となることを認識させ、したがってまた資本そのものによる資本の止揚に追いやることになる。」⑧-[190]P33上1~全部(マルクス『経済学批判要項』ⅡP335~8)

20-6 グローバル資本は資本主義的生産様式の桎梏になる、収奪者が収奪される  重要!!

「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月版『資本論』② P995F6-9 )

  小経営は資本主義的私的所有によって駆逐され、諸資本の集中がおこなわれ、独占資本は資本主義的生産様式の桎梏になる。収奪者が収奪される。(大月版『資本論』② P993~996)

 他にも、たくさん役に立つ文章がホームページ「マルクス・エンゲルスの著作の抜粋」には掲載されています。是非、ご覧下さい。

「21世紀、世界は変貌しつつある」で不破さんが言っていること

 この節の大見出しは「『世界市場』の形成」ですが、これまでのところ、ご覧のとおり、不破さんは「『世界市場』の形成」らしきことをまったく述べていません。最後の小見出し「21世紀、世界は変貌しつつある」で、どんな事が書かれているのか、不破さんが言っていることを見てみましょう。

 不破さんは、「ヨーロッパでの革命」が「マルクスの予想通りには進ま」なかったこと、20世紀に「帝国主義時代」が現出したこと、第二次大戦後に「主権と独立をめざす諸国民の闘争が地球規模で起こり」、1960年の国連総会で「地球上から植民地支配を一掃する『宣言』が採択され」、AALAの「植民地・従属諸国が独立国家の巨大な集団に変わる道が開かれた」ことを言い、最後に次のように述べてこの節を結んでいます。

 「そして、21世紀、少数の大国が世界政治を支配する古い世界体制から、大国と小国の序列のない新しい世界秩序に向かって、大きく足を踏み出しつつあります。……諸大国が世界のすべてだった時代は、確実に終わりを告げつつあるのです。」と。

 結局、最後まで、「『世界市場』の形成」に係わるマルクスの言葉も、それが現代にどのように発展したのかも、まったく出てきません。出てくるのは、グローバル資本が支配する「世界市場」でも、グローバル資本の〝意〟を汲んだ米国でもEUでもありません。出てくるのは、「大国と小国の序列のない新しい世界秩序に向かって、大きく足を踏み出しつつあります」というマルクス・レーニン主義=科学的社会主義の思想とはまったく無縁な、「大国」と「小国」との「序列」に係わる問題でした。

 不破さんは、「資本主義的生産様式の基礎をなしその生活環境をなしている」「世界市場」の問題を抜きに、「『資本論』刊行150年に寄せて」という寄稿文の「『世界市場』の形成」という大見出しの節で、マルクスそっちのけで、「諸大国が世界のすべてだった時代」の終わりを予言する。このような人物が「日本共産党」に絶大な影響力を持ち、その考えを『赤旗』で一生懸命に広める。こんなことをしていたら、マルクス・エンゲルスが考えていた〝前衛党〟の新しい歴史を生みだす〝助産婦〟の役割など、「日本共産党」に果たせるはずがありません。

※「前衛党」の役割についての詳しい説明は、ホームページの3-2-6「〝前衛党〟は市民革命の助産婦に徹しよう 」を参照して下さい。

 また、ホームページ「温故知新」→「☆マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「H 闘争・団結・未来」の「22-1 科学的社会主義の任務」項の中にある次のマルクスからエンゲルスへの手紙も、是非、参照して下さい。

「誇りは未来を示すこと、そして、労働者階級は革命的である」

「団結は、そこから成長する労働組合とともに、ブルジョアジーとの闘争のための労働者階級の組織の手段として極度の重要性をもっているだけではなく──この重要性は、なかんずく、合衆国の労働者でさえ、選挙権と共和制とがあるにもかかわらず、それを欠くことはできないということに現れている──、プロイセンおよび全ドイツにおいては団結権はさらに警察支配や官僚制度の打破であり、僕婢条例や農村における貴族経営を粉砕し、要するに、それは、『臣民』が成人になるための方策であり、この方策は、進歩党でも、すなわちプロイセンにおけるどのブルジョア的野党でも、気が違っていないかぎり、プロイセン政府よりも、ましてやビスマルクごときの政府よりも、百倍も早く承認できるはずのものなのです!これに反して、他方では、王国プロイセン政府の協同組合援助は──そしてプロイセンの事情を知っているひとならばだれでもはじめから必然的な矮小規模をも知っているでしょう──経済的方策としてはゼロですが、同時にこれによって後見制度が拡大され、労働者か階級の一部が買収され、運動が無力化されるのです。……、労働者党も、もしビスマルク時代とか他のなんらかのプロイセン時代によって王様の恩寵のおかげで金のリンゴが自分の口にころがりこんでくると思い込むならば、もっとずっとひどい物笑いの種になるでしょう。プロイセン政府の社会主義的干渉というラサールのいまわしい幻想にたいする幻滅が現われるであろうということは、少しも疑問の余地がありません。事物の論理がものを言うでしょう。しかし、労働者党の誇りは、このような妄想の空虚さが経験によってはじけるより前に、そのような妄想を退ける、ということを要求しています。労働者階級は革命的なのであり、そうでなければそれはなにものでもないのです。」(マルクスからエンゲルスへの手紙(1865年2月18日)不破哲三氏編 書簡集1)

「世界市場」はどのように形成されているか

「世界市場」とマルクス

 結局、不破さんは、「『世界市場』の形成」という大見出しのこの節で、「世界市場」についてなにも語らなかったので、まずはじめに、「世界市場」に係わるマルクスの記述を大雑把に見ることにしましょう。

「世界市場」の包括的叙述は資本論の研究範囲の外

「われわれがこの章で研究する諸現象は、その十分な展開のためには、信用制度と世界市場での競争とを前提するのであって、この世界市場こそは一般に資本主義的生産様式の基礎をなしその生活環境をなしているのである。しかし、これらの資本主義的生産のいっそう具体的な諸形態を包括的に叙述するということは、資本の一般的な性質を把握してからはじめてできることである。しかも、このような諸形態の叙述はこの著作の計画外のことであって、もし続巻ができればそれに属することである。」〈1-9参照〉(大月版『資本論』Ⅲ④ P140F2-6)

世界市場に係わる主な記述の抜粋

「世界市場」の役割

◎「この世界市場こそは一般に資本主義的生産様式の基礎をなしその生活環境をなしているのである。」〈18-2参照〉(大月版『資本論』④P140F2-6)

◎「貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によって、この生産様式自身の産物になったのである。」〈18-3参照〉(大月版『資本論』④ P297B4-298F3)

◎「対外貿易はどちらの場合にも助けになることができるであろう。……しかし、対外貿易は、それがただ諸要素を(価値から見ても)補填するだけでないかぎり、ただ諸矛盾をいっそう広い面に移し諸矛盾のためにいっそう大きな活動範囲を開くだけである。」〈18-7参照〉(大月版『資本論』③P577B8-5)

輸出中心の一本足打法の哲学。

◎「節度ある勤勉な国民は、奢侈にふける富裕な国民の需要を満たすためにその活動力を使用する。」「貧しい国とは、そこの人民が安楽に暮らしている国のことであり、富裕な国とは、そこの人民が通例貧しい国のことである。」〈18-5参照〉レキシコン⑥-[31]P99下3~全部 (マルクス『剰余価値学説史』Ⅰ)

◎「重商主義の通訳たちのもとでは次のような説教を長々と聞かされるのである。すなわち、個々の資本家はただ労働者として消費すべきであり、また、資本家国民は、自国の商品の消費を、またおよそ消費過程を、他の愚かな諸国民にまかせておいて、反対に生産的消費のほうを自分の一生の任務にするべきだ、というのである。このような説教は、しばしば、形式からも内容からも、教父たちの口から出る同じような禁欲の訓戒を思い出させるのである。」〈18-6参照〉(大月版『資本論』③P73B4-74F1)

自由貿易のデマ(「大きなパン」のウソ)

◎「『大きなパン』を祝って10%以上の一般的な賃金引き下げ。」自由貿易主義者(工業ブルジョアジー)の「穀物法」の廃止キャンペーンで用いたデマゴーグ。(注解7、87参照)〈18-10参照〉(大月版『資本論』①P594)

資本の国際展開の影響

 「したがって、歴史上のあらゆる衝突は、われわれの見方によれば、生産諸力と交通形態との矛盾のうちにその根源をもっている。……国際的交通の拡大によって、産業的により発展した諸国との競争がよび起こされれば、この競争だけで、産業的により未発展な諸国のなかにも、同じような矛盾がじゅうぶんに生みだされる(たとえば、ドイツの潜在的プロレタリアートを顕在化させたのは、イギリス産業の競争であった)。」〈18-4参照〉レキシコン⑤-[135]全部 P253 (マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)

資本が外国に送られるとすれば 重要!!

◎「資本が外国に送られるとすれば、それは、資本が国内では絶対的に運用されえないからではない。…この資本は、就業労働者人口にとっては、またその国一般にとっては、絶対的に過剰な資本である。この資本は、そのようなものとして、相対的過剰人口と並んで存在する。そして、これは、この両者が相並んで存在し、しかもたがいに制約し合っている一つの例である。」〈18-9参照〉(大月版『資本論』第3巻 第1分冊 ④ P315F6-9) 

 

マルクスは生産諸力の物質的発展と世界市場の形成とを新たな生産形態(社会主義的生産形態のこと──青山)の物質的基礎として見ている〈20-4参照〉(大月版『資本論』Ⅲ P562-3)

現代の「世界市場」におけるグローバル資本がもたらす矛盾

 上記のとおり、「世界市場」についての包括的な叙述は『資本論』の研究範囲の計画外のことでしたが、若干の抜粋を見れば分かるとおり、マルクスは『資本論』の中で折に触れ大変重要で適切な指摘をしています。

 しかし、マルクスが『資本論』を書いた時期は、まだ、現在の先進資本主義諸国さえもが勃興期で、国家の力を借りて大きく成長し始めた時期でした。その後、資本は一層国家との結びつきを強め、レーニンの生きた帝国主義の時代をむかえます。そして遂に、1970年代に入り、国内市場での高度成長の限界に突き当たりますますが、当時は「社会主義国」の「ソ連」を中心とする資本家階級を「敵視」する非民主的な「共産党独裁」国家群も存在しており、先進資本主義諸国の国家と資本の一体関係は維持され、資本主義の維持・防衛のための帝国主義的干渉と侵略が継続されます。しかし、1970年代に国内市場での高度成長の限界に突き当った資本が、海外への「もの」の輸出だけでなく「資本」の輸出も強化しはじめることによって、維持されてきた国家と資本の一体関係は徐々に崩れて行きます。米中国交正常化と「ソ連」崩壊は資本のグローバル展開の強い追い風となります。すでにこのとき、資本は、「資本が外国に送られるとすれば」〈18-9参照〉でマルクスが述べている程度の「力」をはるかに凌駕する社会への影響力を獲得していました。だから、九二年版『通商白書』で、「企業活動の国際的展開が進むにつれ、従来の国家と企業との関係にも変化がみられるようになってきている。……ある国の資本による企業の利益がその国民の利益と一致する度合いが減少しつつある」といい、「国際展開が進んだ企業は資本の国籍にかかわらず、現地の雇用者を多数擁し、現地の市場を中心として財・サービスを提供する。したがって自国籍企業の収益向上が直接に国民生活と関係するところは、収益の分配が主として当該国の投資家にたいして行われるという点に限定されていく傾向を有する。さらに投資家が国際的に分散していけば、その意味すら失われる」と述べられているように、資本のグローバル展開は「国民の利益」と相反するようになっていました。

 資本主義的生産様式の晩年期に入った先進資本主義諸国は、資本の海外移転によって「産業の空洞化」を押し進め、自国の資本主義的生産様式の基礎を掘り崩します。グローバル資本は、外国では「資本主義的生産様式を発達させ」、国内では過剰な労働力を生みだします。グローバル資本をコントロールして、富の「資本」としての運用をやめさせなければ、産業の空洞化は止められないし、国民に必要な福祉のための社会資本も保障されず、日本は、〝危機〟を増幅させる以外他に道はありません。

 日本ではグローバル資本の立場から、とんでもない人物のように見られているトランプ米国大統領は、グローバル資本と折り合いをつけながら、「産業の空洞化」を克服しようと必死にもがいています。それに引き換え、日本の与野党は「産業の空洞化」についてなんの関心もなく、マスコミもトランプ氏を「ビジネスマン」と揶揄するだけです。先の日本の総選挙と米国の大統領選挙を見ると、米国の大統領選挙はトランプ氏とサンダース氏がグローバル資本主義に異を唱えることによって少なからぬ米国民に大きな刺激をあたえましたが、日本の総選挙はグローバル資本主義の理解を助けるどのような材料もあたえることはありませんでした。バブル崩壊後の長い閉塞感が国民を茹でガエルのような状態に陥らせています。グローバル資本が国家と国民から自由になった意味が、まったく、理解されていません。

 黒田日銀総裁による「異次元緩和」で、幸い日本は円安により、「産業の空洞化」がもたらす「危機」の進行はペースダウンしていますが、これはまったく一時的なものです。

 元日銀審議委員の白井さゆり氏は、近著で、「円安によって輸出数量と輸出物価がともに増えていくという好循環を生む、いわゆる『円安効果』は実現しなかったのです。これは、長引く円高の影響などもあり、企業がどんどん海外へと工場を移したことが、その大きな原因として挙げられるでしょう。」と述べ、「このような状況(「なかなか需要が大きく拡大する状況」にない状況──青山注)では、金融緩和によって金利が下がったからといって、企業は、積極的にお金を借りてまで国内の設備投資を増やそうとはしません。実際、大企業でも、生産設備が老朽化し、稼働率がいっぱいの状態になっているにもかかわらず、なかなか設備投資には積極的になっていないところが少なくありません。」とも言っています。もう少し白井さんの話を続けます。「日本の場合、1990年代末から、毎年春に繰り広げられる春闘労使交渉において、労働組合はベースアップの要求を見送るようになり、しかも従業員の非正規化が進んだことの影響などもあって、名目賃金と実質賃金ともに、緩やかに下がっていく状況が続いてきました。」(私青山は、この原因は「産業の空洞化」の中で、労使関係が資本家優位になったことと資本のイデオロギー攻撃によるものと考えています。)と白井氏は述べ、こうした中で、多くの日本人が「先行きに不安を感じ」ているだけでなく、「企業の側も、売上高が増えない中、この先も簡単には売上が上がらないことをよくわかっています。そのため、設備投資には慎重になります。……こうした現実を見れば、今日の企業の多くが過去最高益を実現しているにもかかわらず、顔色がさえない経営者が多いというのにも、納得がいきます。」(『東京五輪後の日本経済』)と言います。

 このように、グローバル資本がつくった「世界市場」は、母国の「産業の空洞化」を押し進めることによって、労働者・国民の生活・福祉を破壊し「先行きに不安」を増大させるだけでなく、「人格化された資本である」資本家の代理人である「経営者」は、「資本の歴史的任務であり、歴史的存在理由である」「社会的労働の生産力の発展」のための「設備投資には慎重になり」、「顔色がさえない経営者が多い」と言う。

 資本が、「資本の歴史的任務」を果たせなくなれば、資本の「歴史的存在理由」もなくなります。「資本の歴史的任務」が果たせないために、「顔色がさえない経営者」が多くいる未来への展望の持てない資本主義社会、労働者・国民が「先行きに不安」を感じている社会、支配する側も支配される側も先行きに不安をもつ社会は、本来、変えられるべき社会です。蓄積された富を「資本」としてその増殖を唯一の目的とする社会に代わって、生産力を社会の福祉の増進のために使う社会に変えなくてはなりません。元日銀審議委員はそのことを無意識のうちに言っているのです。

 マルクスが生きた時代の「世界市場」とレーニンが生きた時代の「世界市場」、そして今の「世界市場」をしっかり見ることもせず、「『世界市場』とマルクス」という大見出しを掲げて「諸大国が世界のすべてだった時代は、確実に終わりを告げつつあるのです」と言っているだけでは、「ウラー」と叫ぶだけの空元気は出ても、なんの役にも立ちません。不破さんは、〝『資本論』刊行150年〟に当たって、「世界市場」にかこつけて、私たちが「世界市場」を正しく見る目を塞いで、「大国と小国の序列のない新しい世界秩序」の問題にすり替えています。

 なお、「資本の国際展開の影響」について触れた『ドイツ・イデオロギー』からの引用文のなかに、「ドイツの潜在的プロレタリアートを顕在化させたのは、イギリス産業の競争であった」という文章がありますが、不破さんは、『前衛』(2014年1月号)で、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」は「資本主義の発生の時点から」あるのに、事態の発展のなかで明るみに出るのは矛盾だと、エンゲルスを誹謗しています。エンゲルスを誹謗した不破さんは、『ドイツ・イデオロギー』は1865年以前のマルクスの革命観・資本主義観に基づいておりマルクスはエンゲルスの無知に同調させられたのだ、とでも言うつもりなのだろうか。

 上記文章に出てくる「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」に関する不破さんの謬論についての詳しい説明は、ホームページの4-8「☆不破さんは、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」は「資本主義の発生の時点から」あるのに、事態の発展のなかで明るみに出るのは矛盾だと、自分の理解力のなさを根拠にエンゲルスを誹謗している」を、「マルクスの革命観・資本主義観」についての不破さんの捏造についての詳しい説明は、ホームページの4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった」を参照して下さい。

〈参考〉

 この節の最後に、参考として、「世界市場」と「資本の歴史的使命」とに関連するマルクス・エンゲルスの著作の抜粋のページを紹介します。詳しくは、是非、こちらを参照して下さい。「おまけ」として、『資本論』に出てくる日本に関する記述も付けました。各項目をクリックすれば、リンクしています。

Aマルクス・エンゲルスと資本論

1、資本論について

1-9資本論の研究範囲(『資本論』第3巻) PDF有り

F、資本主義社会Ⅳ

18、世界市場

18-1生産諸力の発展の所有諸関係による妨げと近代の労働者の歴史的使命 

    (『共産党宣言』) 重要!!  PDF有り

18-2「この世界市場こそは一般に資本主義的生産様式の基礎をなしその生活環境をなして     いるのである。」〈『資本論』第3巻 〉※ 全文は「1-9」PDF有り。

18-3貿易の拡大は資本主義的生産様式の内的必然性の産物である〈『資本論』第3巻 〉  PDF有り

18-4資本の国際展開の影響 (『ドイツ・イデオロギー』)

18-5節度ある勤勉な国民は… (『剰余価値学説史』Ⅰ) 抜粋等有り

18-6重商主義者の説教と教父たちの禁欲の訓戒〈『資本論』第2巻 〉抜粋等有り

18-7対外貿易は……諸矛盾のためにいっそう大きな活動範囲を開くだけである

  〈『資本論』第二巻〉抜粋等有り

18-8一年間に再生産される生産物価値を分析するときに対外貿易を考慮しないわけ

  〈『資本論』第二巻 〉

18-9資本が外国に送られるとすれば 重要!!

  (大月『資本論』第3巻 第1分冊 ④ P315F6-9) ※「19-5」と同一文章。PDF有り

18-10「大きなパン」のウソ〈『資本論』第一巻 〉抜粋等有り

18-11世界市場が利子率と利潤率とに及ぼす影響の差〈『資本論』第3巻〉 抜粋等有り

19、恐慌

19-4資本主義的生産の「健全な」運動に対応する諸関係が回復するのは

   〈『資本論』第3巻〉PDF有り

19-5資本が外国に送られるとすれば ※「18-9」と重複。「19-4」の続き。重要 PDF有り

G、資本の歴史的使命

20、資本の歴史的任務と資本による資本の止揚

20-1資本家の歴史的な存在権〈『資本論』第一巻 〉※「13-4」にPDFあり。抜粋等有り

20-2資本の歴史的任務 (『資本論』第3巻) 抜粋等有り

20-3資本主義的生産様式の歴史的使命〈『資本論』第3巻 〉抜粋等有り

20-4生産諸力の物質的発展と世界市場の形成とを促進すること (『資本論』第3巻)注目

  抜粋等有り

20-5資本そのものによる資本の止揚(マルクス『経済学批判要項』Ⅱ) 抜粋等有り

20-6グローバル資本は資本主義的生産様式の桎梏になる、収奪者が収奪される

  〈『資本論』第一巻 〉抜粋等有り

 なお、おまけとして、「I日本関係」も参照して下さい。

I、日本関係

26、日本関係

26-1日本の封建制の崩壊の必然性について〈『資本論』第一巻 〉         抜粋等有り

26-2日本でも生活条件の循環はもっと清潔に行われている(『資本論』第一巻)抜粋等有り

26-3日本の封建制〈『資本論』第一巻 注192〉                          抜粋等有り

 

ホームページの「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏」(その3)へリンクします。

好評連載中!!! 是非、お読み下さい。