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『資本論』と『人新世の「資本論」』

斎藤幸平氏は、『資本論』から何を学び、何を学ばなかったのか

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『資本論』と『人新世の「資本論」』

斎藤幸平氏は、『資本論』から何を学び、何を学ばなかったのか

 

マルクス・エンゲルス・レーニンの時代の資本主義とその対峙のしかた

☆マルクスとエンゲルスは、『資本論』を通じて明らかにした資本主義の仕組み、法則、矛盾、そしてそれが社会や自然に与える影響から、当時の資本主義の発展段階における最も重要で解決不能な矛盾の現れが〝恐慌〟にあると捉え、「恐慌が政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」(1882年1月、エンゲルスはベルンシュタインあての手紙)と確信して、労働運動をリードしてきました。

 そして、マルクス・エンゲルスから科学的社会主義の思想を学んだレーニンは、当時のロシアが資本主義への発展期であることから、ロシアの革命の目標を民主主義革命から社会主義への発展と捉え、同時に、当時の世界の資本主義の発展段階が「帝国主義」であることを明らかにし、世界の資本主義国間における最も重要な矛盾の現れが「帝国主義戦争」であり、世界の進歩勢力が「帝国主義」の打倒のために一致団結して戦うことを訴えました。

 このような形でマルクス・エンゲルス・レーニンが資本主義と対峙してきたことは、資本主義の発展過程にリンクした、正しいたたかい方でした。

『人新世の「資本論」』の意義

☆しかし、資本主義の深刻な危機は「社会」から「地球=自然」へと、より広くより深く拡がり、資本主義との対峙の方法は、これまでの資本主義の発展過程にリンクした「社会」に対する短期的な影響への対峙だけではなく、『人新世の「資本論」』で扱っているような「自然」に与える長期的な影響への対峙が、焦眉の問題として私たち人類に提起されるようになりました。

 斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』は、現代の資本主義がもたらす「短期」と「長期」の災禍のうちの「長期」の問題に焦点をあてた、科学的社会主義の思想に立脚した素晴らしい入門の書です。資本主義の改善によって資本主義的生産様式と「地球=自然」を守ることが両立するかのような資本主義にしがみつく輩を論破し、資本主義を断罪して新しい生産様式の社会の必要性を説く斎藤氏の姿勢は、資本主義の改善に未来を見る不破哲三氏に牛耳られている「共産党」内の真面目な党員たちに大きな勇気を与えるものです。

 しかし、『人新世の「資本論」』には、科学的社会主義の思想の立場から見て、訂正したり補筆したりすべき点も少なからずあり、残念ながら、〝革命〟の要素である生産様式のあり方の大切な部分が欠落しています。私がこのページであえてそれらの点を取り上げるのは、斎藤氏の『人新世の「資本論」』を高く評価するからこそであり、斎藤氏が『人新世の「資本論」』の改訂版を作る際の多少なりとも手助けになればとの思いからです。

資本主義的生産様式が「社会」に及ぼす深刻な危機の除去

☆まずはじめに、『人新世の「資本論」』がまったく触れなかった今の日本の社会の危機について、ごく簡単に見ておきましょう。

 現代における資本主義的生産様式が「社会」に及ぼす深刻な危機の主たる原因は、グローバル資本の傍若無人な行動です。グローバル資本は先進資本主義国から資本と雇用を持ち出して先進資本主義国の産業を空洞化させて雇用と社会を不安定化させる。同時に、資源と低賃金を狙って侵入した国では知的財産権と低賃金で労働者を搾取し、資源を収奪して「資本」の増強を図る。

 だから、日本に於いて健全な社会を作るためにキーとなるのは、グローバル資本の傍若無人な行動による「産業の空洞化」をやめさせることで、その他の弥縫策によっては、決して、解決しません。つまり、資本のための経済から社会のため国民のための経済になるように生産のしかたを変えることが必要です。

※なお、「グローバル資本の傍若無人な行動」については、ホームページ1-4「70年代始め以降、財界がすすめた政策」ホームページ1-2「2015年8月からタイムマシンに乗って、日本を遡る」及びホームページ6-2-4「バブルは「日本迷走の原点」なのか」を、是非、参照して下さい。

 マルクスは『資本論』で、「結合労働の生産様式の社会」では「生産手段が資本に転化」しなくなり、「社会的生産では貨幣資本はなくなる」と述べています。生産手段が資本に転化しなくなり、知財権を含む「財産権」が搾取の道具とならないためには、必ずしも私的「所有権」を奪う必要はありません。資本主義を含む階級社会が、斎藤氏の言う「コモン」から「財産」を奪って私物化し、「財産」に特別な「権利」を付与したのを元に戻して、「財産」に与えられた特別な「権利」を剥奪しさえすればよいのです。革命の政府は、企業への出資者が「資本家」として企業を支配することができないように法律を変え、企業は社会の公器であることを明らかにしさえすればよいのです。

 それでは、社会の公器である「企業」はどのように運営されなければならないのか。レーニンは、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織する」こと、「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織する」ことを訴え続けてきました。社会の公器である「企業」は「全人民の民主主義的管理を組織する」ことによって、運営されなければならないのです。

 私たちは、このような社会を作るために、資本主義的生産様式の社会の矛盾を明らかにし、企業支配の民主化と企業運営の民主化を求めて戦わなければなりません。資本主義的生産様式の社会を維持するためのカッコ付きの「民主主義」を突き破る、新しい生産様式の社会の原理となる本当の〝民主主義〟を提起して戦わなければなりません。

 このような、資本主義的生産様式が「社会」に及ぼす深刻な危機についての除去方法を頭に入れて、まずはじめに、『人新世の「資本論」』の中の、科学的社会主義の思想の立場から見て、訂正したり補筆したりすべき幾つかの点について見て、その次に、『人新世の「資本論」』での論究が十分におこなわれていない、新しい生産様式の存立条件について見ていきます。

『人新世の「資本論」』の訂正すべき点等

その1

資本家は失業率を下げるために「規模を拡張」することなど、絶対にない

☆70ページに、次のような文章があります。しかしこの文章は、マルクスの考えとはまったく異なります。

「資本主義は、コストカットのために、労働生産性を上げようとする。労働生産性が上がれば、より少ない人数で今までと同じ量の生産物を作ることができる。その場合、経済規模が同じままなら、失業者が生まれてしまう。だが、資本主義のもとでは、失業者たちは生活していくことができないし、失業率が高いことを、政治家たちは嫌う。そのため、雇用を守るために、絶えず、経済規模を拡張していくよう強い圧力がかかる。」

 マルクスは、こんなことは言っていません。資本家が労働生産性を上げて他者よりも利益をあげようと設備投資をすると結果的に利潤率が下がる。マルクスは、利潤を増やすためには、利潤率が下るのを防ぐために労働者の搾取を強めるか、下がった利潤率のもとで利潤の量を増やすために生産の規模を拡大するかの方法を資本家がとることを述べており、「規模を拡張」するのは、失業率を低めるためなどではなく、利潤の量を増やすためです。資本主義的生産様式と資本家は、常に失業者の新しい層をつくり、労働予備として待機させて置きたいのです。これが、『資本論』でマルクスが述べていることです。

 そして、マルクスは「資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わない」ので、労働者は「自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない」と『資本論』で述べていますが、自民党の政治家か「共産党」の政治家か分かりませんが、「政治家」が資本家に「失業率が高い」と困るから「もっと工場を作ってくれ」などと言ったら、「私たちは慈善事業をやってるんじゃない。転職が円滑にできるよう職業訓練をしたり、公共事業等によって失業率を下げるのが政治の役割じゃないか。」と資本家に言い返されるのが関の山です。資本家を甘く見てはなりません。

その2

斎藤氏は、「失われた三〇年」の本質にまったく触れていない

☆124ページでは、「日本では、脱成長が「団塊の世代」、「失われた三〇年」と結びつけられている。」と言い、133ページでは、「本来成長を目指す資本主義を維持したままの脱成長とは、「失われた三〇年」の日本のような状態を指す。」と「資本主義を維持したままの脱成長」路線が「失われた三〇年」をもたらしたかのように言い、「失われた三〇年」間の惨状が述べられています。

 しかし、「失われた三〇年」は「団塊の世代」とも、「資本主義を維持したままの脱成長」とも、まったく関係ありません。「失われた三〇年」はグローバル資本が日本から資本と雇用を持ち出して「産業が空洞化」した結果、需要が喪失し、労資の力関係が資本優位になり、生産性の低いサービス業が雇用を支えることとなった結果です。

 「産業の空洞化」をこのままにして──内蔵が腑分けされて空っぽになった人間が自立して生きていくことができないように──、日本の再生はありません。『人新世の「資本論」』ではあっても、そのことにしっかりと触れるべきです。

その3

斎藤氏の歪んだマルクス像

斎藤氏によって、マルクスは「資本主義がもたらす近代化が、最終的には人類の解放をもたらす」という典型的な「進歩史観」の思想家に生まれ変わらされた

☆斎藤氏は152ページで、マルクスは、「資本主義がもたらす近代化が、最終的には人類の解放をもたらす」という典型的な「進歩史観」の思想家で、「『共産党宣言』のころのマルクスはこう考えた。たしかに資本主義は、一時的に労働者の困窮や自然環境の破壊を引き起こすかもしれない。けれども、他方で資本主義は、競争によってイノベーションを引き起こし、生産力を上げてくれる。この生産力の上昇が、将来の社会で、みなが豊かで、自由な生活を送るための条件を準備してくれる」と考えていたと言います。

 正義の抵抗をしない人を「辛抱強い」と言ったり、正義の抵抗をする人に「過激」という言葉を足したり、ちょっと言葉を言い変えたりするだけで、フェイクは簡単に作れます。そのような手法を使って印象を操作し、支配階級の思想に誘導する名人に池上彰というペテン師がいます。上記の文章は、そこまでの「ペテン」性を意識したものではないのかもしれませんが、マルクスの思想を正しく現しているものではまったくありません。

 

マルクスとエンゲルスが本当に考えていたこと

☆マルクスが、『共産党宣言』のころ本当に考えていたことを、資本の歴史的存在条件と資本主義的生産様式の社会の存在の必然性を含めて、少し詳しく、見てみましょう。

 マルクスは『資本論』で、「資本の歴史的存在条件は、商品・貨幣流通があればそこにあるというものではけっしてない。資本は生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである。」(大月版①P223)と述べて、資本の歴史的存在条件と資本主義的生産様式の社会の存在の必然性を述べています。

 このように歴史的に存立した資本主義について、エンゲルスは『共産党宣言』の「1883年ドイツ語版」の序文で、「『宣言』をつらぬいている根本思想」として、「おのおのの歴史的時期の経済的生産およびそれから必然的に生れる社会組織は、その時期の政治的並びに知的歴史にとって基礎をなす。したがって(土地の太古の共有が解消して以来)全歴史は階級闘争の歴史、すなわち、社会的発展のさまざまの段階における搾取される階級と搾取する階級、支配される階級と支配する階級のあいだの闘争の歴史であった。だがいまやこの闘争は、搾取され圧迫される階級(プロレタリア階級)が、かれらを搾取し圧迫する階級(ブルジョア階級)から自分を解放しうるためには、同時に全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から解放しなければならないという段階にまで達した。」(岩波文庫、大内兵衛・向坂逸郎訳)と述べ、「全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から解放しなければならないという段階にまで達した」ことを明らかにしています。

 このようにマルクスもエンゲルスも、「資本主義がもたらす近代化が、最終的には人類の解放をもたらす」などという〝ノー天気〟なことなど考えたことはなく、搾取され圧迫される階級であるプロレタリア階級が、資本主義的生産様式の社会を打ち破って、全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から解放すると考えていました。

 そして、資本主義的生産様式の歴史的使命と〝資本家の歴史的な存在権〟及び〝資本の歴史的任務〟について、マルクスは『資本論』で次のように述べています。

「資本家は、ただ人格化された資本であるかぎりでのみ、一つの歴史的な価値とあの歴 史的な存在権……をもっているのである。……価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類に生産のための生産を強制し、したがってまた社会的生産諸力の発展を強制し、そし てまた、各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会形態の唯一の現実に 基礎となりうる物質的生産条件の創造を強制する。」(大月版② P771-772)

「社会的労働の生産力の発展は、資本の歴史的任務であり、歴史的存在理由である。まさにそれによって資本は無意識のうちにより高度な生産形態の物質的諸条件をつくりだすのである。」(大月版 ④ P325) 

「この生産様式(資本主義的生産様式──青山)の歴史的使命(ベルーフ)は、人間労働の生産性の発展を容赦なく幾何級数的に(おし──青山)進めて行くということである。」(大月版④ P328 )

「信用制度は生産諸力の物質的発展と世界市場の形成とを促進するのであるが、これらのものを新たな生産形態の物質的基礎として或る程度の高さに達するまでつくり上げるということは、資本主義的生産様式の歴史的任務(アオフガーベ)なのである。」(大月版④ P562-3)

 

これらを踏まえて、マルクスが本当に考えていたことを、斎藤氏になぞっていうと、つぎのようになる

「『共産党宣言』のころのマルクスはこう考えていた。歴史的に存立した資本主義は、資本家が支配階級として、価値増殖の狂信者として、労働者階級を搾取し、労働者の困窮や自然環境の破壊を引き起こす。この価値増殖の狂信者は、競争によってイノベーションを強制され、容赦なく人類に生産のための生産を強制し、したがってまた社会的生産諸力の発展を強制し、そしてまた、各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会形態の唯一の現実に基礎となりうる物質的生産条件の創造を強制する。このように、生産諸力を新たな生産形態の物質的基礎として或る程度の高さに達するまでつくり上げるということは、資本主義的生産様式の歴史的任務(アオフガーベ)なのである。全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から解放しなければならないという段階にまで達した資本主義は、搾取され圧迫される階級であるプロレタリア階級によって死を宣告される。」

 このように、『共産党宣言』のころのマルクスとエンゲルスの考えは、斎藤氏の言うところの「進歩史観」とは相いれないものであり、この考えはその後も変わることはありませんでした。

マルクスと無縁な「生産力至上主義」と「ヨーロッパ中心主義」

☆斎藤氏は、153ページで「マルクスの「進歩史観」には、ふたつの特徴がある。それが「生産力至上主義」と「ヨーロッパ中心主義」」だと言う。そして、「「生産力至上主義」とは、資本主義のもとで生産力をどんどん高めていくことで、貧困問題も環境問題も解決でき、最終的には、人類の解放がもたらされるという近代化賛美の考え方である。」と言い、「「生産力の高い西欧が、歴史のより高い段階にいる。それゆえ、ほかのあらゆる地域も西欧と同じように資本主義のもとでの近代化を進めなくてはならない」というわけだ。これが「ヨーロッパ中心主義」である。」と言って、「「進歩史観」──いわゆる「史的唯物論」」とまで言って、斎藤氏のいう「進歩史観」とはマルクスが発見した「唯物史観」であることが明らかになります。

 反論するのも、ばかばかしいが、斎藤氏も『共産党宣言』のころのマルクスが、資本主義が「労働者の困窮や自然環境の破壊を引き起こす」と思っていたことを認めており、どんな寝ぼけたマルクス主義者でも、『共産党宣言』を読んで、「資本主義のもとで生産力をどんどん高めていくことで、貧困問題も環境問題も解決でき、最終的には、人類の解放がもたらされる」などと思う人は一人もいないでしょう。

 また、マルクスとエンゲルスは、資本主義のもとで「生産諸力を新たな生産形態の物質的基礎として或る程度の高さに達するまでつくり上げる」ことが「資本主義的生産様式の歴史的任務」であることを確認していますが、先ほど見た、『資本論』のなかで述べられている「資本の歴史的存在条件」の捉え方やエンゲルスの『共産党宣言』の「1883年ドイツ語版」の序文を読めばわかるように、「生産力」の発展が社会の発展度合いをはかる〝唯一の尺度〟ででもあるかのようなことは一切述べていません。

 資本主義社会が封建社会より「歴史のより高い段階にいる」ことは明らかですが、そのことがなぜ「資本主義のもとでの近代化」を「ほかのあらゆる地域も西欧と同じように」「進めなくてはならない」ことになり、「ヨーロッパ中心主義」となるのか。マルクスの歴史観(唯物史観)のどこをどのように読めば斎藤氏の言う「進歩史観」のような考えに辿り着くことができるのか、このような画期的な発見をした斎藤氏は私たちに示す責任があります。そのこと抜きで、このようなことを言うとしたら、ちょっときつい言い方をすれば、反共文筆家ばりのデマ・捏造といわれてもしかたがないでしょう。

『共産党宣言』を見たこともない人に向けたマルクスの思想の歪曲とマルクス主義の冒涜

──マルクスの「生産力至上主義」が「近年のマルクス主義の衰退の理由のひとつ」だと言う暴論──

☆斎藤氏は154ページで、マルクス・エンゲルスが『共産党宣言』のなかで10項目にわたるブルジョア階級の歴史上の「革命的な役割」を述べた、その最後に述べられている──資本主義的生産様式のもとでの社会的労働による大規模な生産諸力の創出──という「革命的な役割」についての部分を「抜粋」して、つぎのように言います。

「この発言だけを取り出せば、批判されるのも無理はない。資本主義のもとでの生産力の発展を素朴にマルクスが賛美し、さらなる生産力の発展が豊かな社会を作り出して労働者階級解放のための条件を準備すると彼が考えていたと人々は思うことだろう。

 生産力の発展が人間による自然の支配を可能にし、それが将来の社会の条件を用意するのだとすれば、自然的制約は克服対象でしかない。

 ただ、それではマルクスの思想にエコロジカルな要素は存在しないことになってしまう。そのせいで緑と赤は相容れないといわれてきた。近年のマルクス主義の衰退の理由のひとつもここにある。」

 『共産党宣言』のなかで、資本主義的生産様式のもとでの社会的労働が大規模な生産諸力を生み出したことをマルクスとエンゲルスが客観的に述べたことが、「資本主義のもとでの生産力の発展を」「賛美」して、「資本主義のもとでの」「さらなる生産力の発展が」労働者階級・国民のための「豊かな社会を作り出し」て、それが「労働者階級解放のための条件を準備」するなどとマルクスとエンゲルスが「考えていたと」「思う」「人々」が『共産党宣言』を読んだ人の中に一人でもいたら、お会いしたいものです。こんなことを「思う」ことができるのは、資本主義的生産様式のもとでの「豊かな社会」の意味もわからないノー天気な「資本主義発展論者」だけでしょう。

 斎藤氏は、資本主義的生産様式が生みだす新たな社会の形成要素(生産力の発展)と古い社会の変革契機(資本主義社会と労働者階級の矛盾の深まり)をまったく理解できないようだ。

 斎藤氏は、経歴によれば、哲学科博士課程修了の立派な方だ。人間が自然についての一定の知識を獲得し、その知識を利用して「生産力の発展」を図り、そのことが「将来の社会の条件を用意する」にしても、そのことによって、私たちが自然や宇宙のすべてを理解した訳ではありません。だから、私ですら、「自然的制約は克服対象でしかない」などとは思わないし、宇宙や自然を制御できるなどとは思いません。ましてや、マルクスとエンゲルスは、弁証法を〝現実〟を正しく認識するための武器として活用することを私たちに教えてくれた科学的な思想の持ち主です。斎藤氏は、本当に、『共産党宣言』のころのマルクスとエンゲルスが「自然的制約は克服対象でしかない」などという主観的な認識を持っていたとでも思っているのでしょうか。マルクスとエンゲルスが、こんなことも分からない、ノー天気で愚鈍な人物であるというのであれば、「自然的制約は克服対象でしかない」などと述べた動かぬ証拠の文章を提示すべきです。

「マルクスの思想にエコロジカルな要素は存在しない」というデマ

☆また、斎藤氏は「マルクスの思想にエコロジカルな要素は存在しない」、「そのせいで緑と赤は相容れないといわれてきた」と言います。残念ながら、私には、斎藤氏の言う「緑」と「赤」が、どんな「緑」とどんな「赤」なのか分からず、どのように相容れないのかもわかりませんが、少なくとも日本では、戦前からのマルクス・レーニン主義者の宮顕さんが、1970年代に公害のことを「資本による緩慢な殺人」と呼んで断罪し、当時の日本の「赤」のなかに「エコロジカルな要素」が含まれていたことだけは確かです。

  そしてマルクスも、『資本論』で「一方では農業の合理化がはじめて農業の社会的経営を可能にしたということ、他方では土地所有の不合理を示したということ、これは資本主義的生産様式の大きな功績である。」(大月版⑤ P796)と述べ、「より高度な経済的社会構成体の立場から見れば、地球にたいする個々人の私有は、ちょうど一人の人間のもう一人の人間にたいする私有のように、ばかげたものとして現われるであろう。一つの社会全体でさえも、一つに国でさえも、じつにすべての同時代の社会をいっしょにしたものでさえも、土地の所有者ではないのである。それらはただ土地の占有者であり土地の用益者であるだけであって、それらは、よき家父〔boni patres familias〕として、土地を改良して次の世代に伝えなければならないのである。」(同⑤ P995)と「地球」の唯一無二性と私有の「一人の人間のもう一人の人間にたいする私有」のようなばかばかしさを指摘し、資本主義のもとでは、「小さな土地所有」でも「大きな土地所有」のもとでも、「どちらの形態でも、土地を、共同的永久的所有として、入れ替わって行く人間世代の連鎖の手放すことのできない存在・再生産条件として、自覚的合理的に取り扱うことに代わって、地力の搾取や乱費が現われるのである。」(同⑤ P1042)と、資本主義的生産様式を断罪しています。

 また、MEGAによれば『「資本論」の第一草稿』である『経済学批判要項』(1857~8年)で、マルクスは、資本は「生産力の発展・欲望の拡大・生産の多様性・自然力及び精神力の利用と交換・をさまたげるいっさいの制限をうちこわす」が、それは、「けっして、資本がその制限を現実に克服したということにはならない」、「この制限は、資本の発展のある一定の段階で資本そのものがこの傾向の最大の制限となることを認識させ、したがってまた資本そのものによる資本の止揚に追いやることになる。」と述べて、「資本そのもの」が「自然力及び精神力の利用と交換をさまたげる」最大のものとなることを明らかにしています。

 だから、戦前からのマルクス・レーニン主義者の宮顕さんが、マルクス・エンゲルス・レーニンから学び、公害のことを「資本による緩慢な殺人」と呼んで断罪し、そして、その思想を正しく引き継いでいる日本の〝REDS〟於いては、緑は赤の中に包摂されています。

日本に於ける「マルクス主義の衰退」の理由

 そして、日本に於けるニセ「マルクス主義」の「衰退」の最大の理由は、

☆1970年代中盤以降、日本の資本は自己資本比率を高めるとともに海外で利益を上げることに一層重心を移しはじめ→1981年に発足した第二臨調は政府開発援助の規模の一層の拡大を前提に、資本の海外展開を積極的に支援する方針を明確にし→1985年のプラザ合意を受けて1986年に報告された前川リポートは、「国際的に調和のとれた産業構造への転換」として、直接投資の促進等を提言し→その結果、1992年版『通商白書』が、企業活動の国際的展開が進むと企業の利益が国民の利益と一致する度合いが減少すること指摘する状況まで「産業の空洞化」が進行し、→1995年以降、国内の設備投資は低迷し、GDPは伸びず、雇用需給が変化して労使の力関係が変わり、輸出拡大を口実に賃金は抑制され、非正規雇用が激増しはじめ、長く続く国民生活の低迷が本格的に始まった。

☆このような状況にもかかわらず、「科学的社会主義」を自称する党は、不破さんの「資本主義発展論」に基づく「賃金が上がれば経済は成長する」、「社会的バリケードでルールある資本主義社会をつくる」というグローバル資本の行動を一顧だにしないデマにだまされて、〝世界を見る目〟と〝日本を見る目〟を失い、グローバル資本の行動による「産業の空洞化」によって日本の高度化された社会的生産が破壊され、「産業の空洞化」によってもたらされる諸結果が「古い社会の変革契機」となって労働者の社会変革のエネルギーを引き出すべき時であるにもかかわらず、そのことを国民に知らせるべき任務をもった、科学的社会主義の思想をもった労働者階級の前衛党がいなくなってしまったからです。

 緑と赤が相容れないから、「日本共産党」が活力を衰退させているのではありません。不破さんの支配によって、マルクス・エンゲルス・レーニンの思想から遠ざかっているから、「衰退」しているのです。

「それらしい」マルクスの文章を抜粋してマルクスを「単線的な進歩史観」の持ち主にでっち上げる斎藤氏は、ペテン師に成り下がってしまったのか

☆斎藤氏は、165ページで、「マルクス主義の進歩史観によれば、生産力の発展こそが人類の歴史を前に進める原動力である。」と言います。先に、152ページで、マルクスは「資本主義がもたらす近代化が、最終的には人類の解放をもたらす」という(人間のたたかい不在の「人類の解放」論をもつ──青山)典型的な「進歩史観」の思想家だと言った斎藤氏は、今度は、人間抜きの「生産力の発展」が「人類の歴史」を「前に進める原動力」になると言います。このように、斎藤氏が見たマルクスからは、「人類の解放」だけでなく「人類の歴史」にも、人間が登場しません。

 斎藤氏は、「マルクス主義の進歩史観」はこのように資本主義的生産様式の社会を変えることなく「人類の解放」に至り、階級闘争をすることなく生産力の発展によって「人類の歴史」を前に進めることができるという「生産力至上主義」だから、「最悪の場合、植民地主義さえも、それが「野蛮な人々」に文明化と近代化をもたらすという理由で、マルクスの思想体系のなかでも正当化されてしまう」と言って、マルクスが日本の右翼が侵略戦争を擁護する時に使う方便のような「思想」の持ち主だと言うのです。

 そして、斎藤氏は、『資本論』第一版へのマルクスの序文(1867年7月25日)の中の「産業のより発展した国は、発展の遅れた国にたいして、ほかならぬその国自身の未来の姿を示している。」という文章を「抜粋」して、産業の「発展の遅れた国」は「産業のより発展した国」の後についていくというマルクスの「単線的な進歩史観」の例証とします。

 しかし、待って下さい。こんなペテン師まがいのことをしたら、洛陽の紙価を高めようとする『人新世の「資本論」』の価値を下げてしまいます。この文章は、斎藤氏の言う「単線的な進歩史観」の例証などではありません。この文章の前には、資本主義の発達の遅れているドイツの読者がイギリスの工業労働者や農業労働者の状態をみて、「ドイツではまだまだそんなに悪い状態にはなっていないということで楽天的に安心したりするとすれば、私は彼に向かって叫ばずにはいられない、ひとごとではないのだぞ!と。」いう文章があり、続けて「資本主義的生産の自然法則から生ずる社会的な敵対関係の発展度の高低が、それ自体として問題になるのではない。この法則そのもの、鉄の必然性をもって作用し自分をつらぬくこの傾向、これが問題なのである。」(大月版①P9)と述べ、それに続けて斎藤氏が「抜粋」した文章が書かれています。

 つまり、マルクスはここで、資本主義が発展すれば「人類の解放」に至り、「人類の歴史」を前に進めるなどという「単線的な進歩史観」の講釈などしているのではなく、〝資本主義の発展が「遅れ」ていようが「より発展」していようが、資本主義的生産様式の社会を変えなければイギリスのようになってしまうぞ!〟、と警告を発しているのです。

マルクスは「オリエンタリスト」で、「植民地支配を正当化」し、「新自由主義のイデオローグ」だったというデマ

☆斎藤氏は、165ページで、マルクスが1853年に「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」でイギリスの植民地支配が「無意識に歴史の道具の役割を果たした」と述べている点について、サイードの「結局、最後に勝利を収めるものはロマン主義的なオリエンタリズムのビジョンである。」という言葉を紹介したあと、「イギリスによるインド植民地支配の残虐さを、もちろんマルクスも認めている。だが、ここでは、人類史的な進歩という観点から、植民地支配を、最終的には正当化してしまっているように見える。」と言います。

 しかし、イギリスによる残虐な植民地支配のもとにおかれたインドの人たちがイギリスのおこないが「無意識に歴史の道具の役割を果たした」とみて、イギリスの残虐な植民地支配とたたかうことが、どうして「植民地支配を、最終的には正当化してしま」うことになるのか。作用には反作用があり、進歩のための倍返しがある。

 なお、斎藤氏は、続けて、「インドを中心とするアジア社会はそれ自体では、静的で、受動的なため、「まったく歴史をもたない」。だから、イギリスのような資本主義の国が外から介入して、歴史を押し進める必要がある、とマルクスは言うのである。ここには、サイードの指摘する、オリエンタリスト(非ヨーロッパを野蛮で、劣った存在とみなすヨーロッパ人)的な考えが姿を見せている。」と言っている。もしも、この文章が事実を述べているのであれば、マルクスは正真正銘のオリエンタリストであり、尊敬に値する人物ではない。斎藤氏は、このような、マルクスがオリエンタリストである決定的な証拠を握っているのであれば、サイードの後ろ盾など仰がずに、根拠となる文章を包み隠さず書かれるのが筋であろう。

 そして、ついに斎藤氏のマルクス批判は、171ージで最高潮に達する。シスモンディらを批判した『資本論』準備草稿のなかのマルクスは、「個人が犠牲になっても、生産力を上げよ!市場と資本主義を世界中に!それこそが自由と解放の条件である!まるでマルクスは、新自由主義のイデオローグだったかのようだ。」というのです。

 斎藤氏の「抜粋」した文章は、いかようにもとれる文章ですが、『資本論』で、生産力を上げても資本家に搾取されるだけで、資本を強くすればするほど労働者は立場が弱まるということを力説しているマルクス、あの『共産党宣言』をエンゲルスと一緒に書いたマルクスが、『資本論』の「準備草稿」を書いた時には「新自由主義のイデオローグ」であったことを暴露したというのです。こんなビッグニュースは、眉にツバして読まなくてもわかるように、「抜粋」した文章の前後の文章も示し、詳らかに教えていただきたいものです。

※「ジャン-シャルル-レオナール・シモンド・ド・シスモンディ」──スイスの経済学者、歴史家、古典派ブルジョア経済学の終わりに登場し、小ブルジョア的経済学を基礎づけた。「小ブルジョアの立場から」(レーニン)資本主義を批判し、小生産を理想化した。1773-1842。(大月版③付録P15参照)

斎藤氏の品格が疑われる〝マルクスからザスーリチへの手紙〟の解説

☆ロシアの女性革命家ザスーリチが1881年(明治14年)にロシアの「村落共同体のありうる運命について」どのような見解をもっているのかをマルクスに教えて欲しい旨の手紙を出したことについて、斎藤氏は、173ページで次のように言います。

「ロシアの革命家たちのあいだでは、資本主義という段階を経ずに、ロシアは社会主義に至ることができるかどうかをめぐって、激しい論争が生じていた。

 問題となったのは、先にも引用した、『資本論』第一巻の一節だった。もう一度引用しよう。

 産業のより発展した国は、発展の遅れた国にたいして、ほかならぬその国自身の未来の姿を示している。

 果たして、この記述がロシアにも当てはまるのか──つまり、ロシアはこの記述どおりに、まずは資本主義のもとでの近代化を目指さなくてはならないのかどうか──が、論争になったのである。そこで、ザスーリチはマルクス本人にその真意を問いただそうとしたのだ。

 ……(略)

 ここで重要なのは、資本主義という段階を経ることなしに、ロシアはコミュニズムに移行できる可能性があると、マルクスがはっきりと認めている事実である。」

 この文章には、大きく言って、二つの点で事実誤認があります。

 一つは、ザスーリチが手紙で「問題」としたのは、「先にも引用した、『資本論』第一巻の一節だった」のではありません。ザスーリチが知りたかったのは、「村落共同体のありうる運命について」マルクスがどのような見解をもっているのかということでした。

※なお、「先にも引用した」文章というのは、「④「それらしい」マルクスの文章を抜粋してマルクスを「単線的な進歩史観」の持ち主にでっち上げる斎藤氏は、ペテン師に成り下がってしまったのか」で明らかにしたように、マルクスの言っている意図とまったく違うようにねじ曲げられた、的はずれの文章であることを思い出して下さい。

 マルクスは、この「村落共同体のありうる運命について」の質問に対し、資本主義的生産の起源についての分析で、「この進化全体の基礎をなしているのは、耕作者の収奪なのである。」と述べ、「西ヨーロッパの他の国々はどれも、同じ運動を通過するであろう」と言っているのは、西ヨーロッパの土地の「自己の労働を基礎にした私的所有は……(……は手紙の原文のまま──青山)他人の労働の搾取、賃金制度を基礎にした資本主義的私的所有にとって代わられるようになる。」ということを言っているのであり、土地の私的所有のない(ロシアの「村落共同体」のような──青山)「農村共同体の生命力を肯定する理由も、否定する理由も提供してはおりません」と述べ、同時に、マルクスのこれまでの特殊研究によれば「この共同体がロシアの社会的再生の支点だと確信するようになりました。」と答えています。

 このように、マルクスの確信は、ロシアの村落共同体が「ロシアの社会的再生の支点」になりうるということで、「資本主義という段階を経ることなしに、ロシアはコミュニズムに移行できる可能性があると、マルクスがはっきりと認めている事実」などでは、まったくありません。これが斎藤氏の二つ目の事実誤認です。

 資本主義的生産様式は、財産の私有と財産によって搾取する権利が認められ、生産力が向上して商品経済が発展し、自由な市場が存在して、生産手段から解放された自分の労働力を売る以外に生きる術のない「自由」な労働者が存在するとき、必然的に存立します。だから、ロシアの村落共同体が「ロシアの社会的再生の支点」の一つになることはできても、「資本主義という段階を経ることなしに、ロシアはコミュニズムに移行できる可能性がある」などと軽々しく言うことはできません。実際にロシアは、その後、資本主義の途を歩み続けました。

斎藤氏は、資本主義のもとでの「経済成長」と「生産力の向上」の意味をまったく理解していない

☆斎藤氏は、186ページで「資本主義のもとでの生産力の上昇は、人類の解放をもたらすとは限らない。……資本主義がもたらすものは、コミュニズムに向けた進歩ではない。」と言い、188ページでは「資本主義が「科学との闘争状態」にあるという発言は、これまで、マルクス・レーニン主義の生産力至上主義の立場をとる人々によって、より一層の生産力の発展が必要であるという風に解釈されてきた。つまり、生産力の向上が、資本主義のもたらす危機を克服するための方法だというわけである。」と、まったくトンチンカンなことを述べています。

 斎藤氏の「資本主義のもとでの生産力の上昇は、人類の解放をもたらすとは限らない」という言葉は、完全に間違っています。「資本主義のもとでの生産力の上昇は、」資本主義経済を成長させ、資本の蓄積を増大させて資本の立場を強め、「人類の解放をもたらす」どころか、労働者の立場を弱めて隷属関係を強化します。資本主義の「発展」によってもたらされる労働者階級の状態は〝古い社会の変革契機〟となり、「生産力の上昇」は労働時間を短縮さ、せよりクオリティーの高い──斎藤氏流にいえば、「使用価値」の高い──モノを作る条件を整え、〝新たな社会の形成要素〟となります。だから、マルクスは、「資本主義」の発展が「もたらす」〝古い社会の変革契機〟と〝新たな社会の形成要素〟をしっかり見ろと言っているのです。この意味は、斎藤氏が誤解すると困るので、念のために言っておくと、これは、資本主義をありがたく受け入れろという資本主義礼賛の言葉ではありません。

 そして、斎藤氏は、これまで、「マルクス・レーニン主義の生産力至上主義の立場をとる人々によって、」「生産力の向上が、資本主義のもたらす危機を克服するための方法だ」と言われてきたと言います。

 こんなことを「マルクス・レーニン主義」を自称する人が言ったとしたら、その人は『資本論』も真面に読んでいないエセ「マルクス・レーニン主義」者で、斎藤氏のように、それらの人々を「マルクス・レーニン主義」者と勘違いする人がいるとすれば、マルクス・エンゲルス・レーニンは草葉の陰で悔し涙を流していることでしょう。

 マルクスとエンゲルスは『資本論』第二部で、資本の蓄積を図ることによって成り立っている資本主義的生産様式の社会は、泳ぎ続けなければ死んでしまうマグロにように経済の拡大をし続けなければ存続できない社会であることを、証明しました。

 そして、『資本論』第三部で、資本主義的生産様式のもとで、労働の社会的生産力が累進的に発展すればするほど、一般的利潤率の累進的な低下が起こるという、資本主義的生産様式のもつ内的な矛盾を明らかにしたマルクスは、「利潤率の傾向的低下の法則」の発見によって、「資本主義的生産様式は生産力の発展に関して富の生産そのものとはなんの関係もない制限を見いだ」し、「この特有な制限は、資本主義的生産様式の被制限性とその単に歴史的な一時的な性格とを証明するのである。それはまた、資本主義的生産様式が富の生産のための絶対的な生産様式ではなくて、むしろある段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明するのである。」(大月版④P304)と述べています。

 このように、マルクスは、「生産力の向上が、資本主義のもたらす危機を克服するための方法だ」などとは言っていません。「生産力の向上」という科学技術の発展と資本主義との関係について、マルクスは、資本主義的生産様式の発展のある段階では、資本主義的生産様式そのものによって、富の発展とその技術的基礎である生産力の発展が阻害されると言っているのです。資本主義が生産力の発展を制限すると言っているのです。

 ですから、斎藤氏は、「生産力の向上が、資本主義のもたらす危機を克服するための方法だ」などとは言う人を〝マルクス・レーニン主義〟の思想の持ち主だなどと、口が裂けても言ってはなりません。

 斎藤氏は、203ページで、「共同的富」を共同で管理する生産のしかたという〈コモン〉の「思想が見落とされてきたことが、現在のマルクス主義の停滞と環境危機の深刻化を招いている。旧来のマルクス主義は、現在に至るまでずっと生産力至上主義にとらわれてきたのだ。」と言います。しかし、〝マルクス・レーニン主義〟の思想が、資本主義的生産様式の先にある生産様式の社会を「共同的富を共同で管理する生産のしかた」の社会とし、マルクス・レーニン主義者がコミュニズムの実現をめざして戦ってきたことは周知の事実です。だから、レーニンも「協同組合機構は、資本家の私的なイニシァティヴではなく勤労者自身の大衆的参加に期待した物資供給機構である。カウツキーが、背教者になるずっとまえに、社会主義社会は単一の大きな協同組合であると言ったのは、正しかった。」(第28巻『モスクワ党活動家会議』P234、1918年11月27日)と言っているのです。

 なお、日本の「現在のマルクス主義の停滞」の原因は、「③『共産党宣言』を見たこともない人に向けたマルクスの思想の歪曲とマルクス主義の冒涜──マルクスの「生産力至上主義」が「近年のマルクス主義の衰退の理由のひとつ」だと言う暴論──」でも指摘したとおり、「資本主義発展論」に転落した不破さんに牛耳られている「日本共産党」が現代資本主義のアキレス腱であるグローバル資本による「産業の空洞化」の原因と結果、つまり、資本主義的生産様式の矛盾から目を背け、「賃金が上がれば経済がよくなる」などと寝ぼけたことを言っているからなのです。

斎藤氏は、資本主義的「成長」を「生産力」に、資本主義的生産様式の社会の「解体」を「自制」にすり替えて、資本のための「無限の経済成長」を「阻止」することを「断念」することに置き変えます

☆斎藤氏は266ページで、「〈コモン〉が目指すのは、人工的希少性の領域を減らし、消費主義・物質主義から決別した「ラディカルな潤沢さ」を増やすことなのである。」と言い、272ページでは、「「自由の国」を拡張するためには、無限の成長だけを追い求め、人々を長時間労働と際限のない消費に駆り立てるシステムを解体しなくてはならない。……闇雲に生産力を上げるのではなく、自制によって「必然の国」を縮小していくことが、「自由の国」の拡大につながるのだ。」と言い、276ページでは、「無限の経済成長を断念し、万人の繁栄と持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが、「自由の国」を拡張し、脱成長コミュニズムという未来を作り出すのである。」と言います。

 しかし、コミュニズム〈コモン〉が目指すのは、消費主義・物質主義をあおり、人工的希少性の領域を作って利潤を得るととを目的とする資本主義的生産様式の社会を変えることであり、「必然の国」から「自由の国」への道は、「生産力を上げる」のやめるのではなく、利潤の拡大のために「無限の成長だけを追い求める」ことをやめ、「自制」によって「自由の国」への途を歩むのではなく、「人々を長時間労働と際限のない消費に駆り立てるシステムを解体」することによって、「自由の国」への道を切り開くのです。

 斎藤氏は、資本主義的「成長」を「生産力」に、資本主義的生産様式の社会の「解体」を「自制」にすり替えて、資本のための「無限の経済成長」を「阻止」することを「断念」に置き変えます。そして出来上がった、「脱成長コミュニズム」──資本主義的成長の社会を超克したコミュニズム──という〝厚化粧のコミュニズム〟の中に「生産力」の向上の否定を忍び込ませます。

 このように、斎藤氏は、「旧来のマルクス主義」に「生産力至上主義」のレッテルを貼るために、涙ぐましい努力をします。

 

ここで、「自由の国」について、ひと言

☆斎藤氏は、271ページで、「「自由の国」とは、生存のために絶対的に必要ではなくとも、人間らしい活動を行うために求められる領域である。例えば、芸術、文化、友情や愛情、そしてスポーツなどである。」と言いますが、これは誤解です。

 斎藤氏が270ページで『資本論』から「抜粋」したのは、『』で囲った部分です。全体の文意がわかるように全文を見て下さい。

「……しかしまた、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行なわれるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」〈『資本論』第3巻 第2分冊 大月版 ⑤ P1050B3-1051B6〉

  ここで述べられていることを要約すると次のようになります。

「物(富)がどれだけ生産されるかは生産性の高さにかかっており、生産設備等の進歩にかかっている。『自由の国』は強制されてはたらく必要がなくなったときに、はじめて始まる。つまり、それは、当然のこととして、遠い将来のことである。未開人も文明人も、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならない。この『自然必然の国』は社会の発展につれて拡大する。この『自然必然の国』での『自由』とは、盲目的な力に支配されていた生産が計画的、意識的におこなわれるようになり、共同的統制のもとに置かれることである。しかし、この『自由』を獲得した『社会主義社会』もまだ『必然性の国』である。この国のかなたで、強制的な労働のない、自分の人間的な能力の発展のみを追求することのできる真の『自由の国』が始まる。しかし、それは、『社会主義社会』という『必然の国』を基礎として、その上にのみ花開くことができる。そのための根本条件(前提条件)は労働日の短縮、つまり、生産性の向上である。」

  これがマルクスが『資本論』で述べていることです。

 そしてエンゲルスも、『空想から科学へ』(新日本文庫P72と75)で、『資本論』のこの部分よりも1ページ先の部分を含めて基本的に同じ内容のことを言っています。ただし、エンゲルスは、ここでは、「必然の王国から自由の王国への人間の飛躍」の時期である「社会主義社会」までを述べ、「自由の王国」の内容については述べていませんが、P71で「自由の王国」の内容について、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保する」と述べています。

 マルクスとエンゲルスは、資本主義社会から「共産主義社会の第一段階の社会」へ、そして「共産主義社会のより高度の段階の社会」への途を、『資本論』と『空想から科学へ』で、このようにスケッチしていました。

 そして、マルクスは、『ゴータ綱領批判』で「生まれたばかりの共産主義社会」(〝必然の国〟)と「共産主義社会のより高度の段階」(〝自由の国〟)との違いを、「共産主義社会のより高度の段階において、すなわち諸個人が分業に隷属的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち──そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」(岩波文庫P38)と述べいます。

 このように、マルクスとエンゲルスは、「生まれたばかりの共産主義社会」=「共産主義社会の第一段階の社会」=いわゆる「社会主義社会」を「民主主義」や「平等な権利」が残り、「労働が義務」で「死滅しつつある国家」のある「必然性の国」とみて、「発展した共産主義社会」=「共産主義社会のより高度の段階の社会」=いわゆる「共産主義社会」を「民主主義」や「平等な権利」という概念の不要な、「労働が生活にとってまっさきに必要なこと」となる「国家」のない「自由の国」と見ていました。

 これが、マルクスとエンゲルスの言う、〝必然性の国〟と〝自由の国〟の意味です。だから、「「自由の国」とは、生存のために絶対的に必要ではなくとも、人間らしい活動を行うために求められる領域である。例えば、芸術、文化、友情や愛情、そしてスポーツなどである。」と言うのは間違っています。〝自由の国〟とは、自分たちと自然との物質代謝を合理的に規制して自分たちの共同的統制のもとに置き、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うことによって「生存のために絶対的に必要」なものを確保するようになった社会主義社会を基礎として、その上に開花する「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保する」社会、つまり、いわゆる「共産主義社会」のことで、個人の「活動」の「領域」のことではありません。

 なお、脱「資本主義的成長」ではなく、「脱成長」=「脱生産力の向上」という自らの誤った主張に誘導するために、「彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。」という文章を(中略)とするのは、いかがなものでしょうか。そして、この「抜粋」した文章のむすびの「労働日の短縮こそは根本条件である。」とは、〝生産性の向上こそが根本条件である〟という意味です。

『人新世の「資本論」』が描く、国家抜きの未来社会

☆斎藤氏は、「コミュニズム」への途について、264ページで、「経済を民主化する」、「最終的にはシステム全体を変えなくてはならない。」、そして「ウーバーを公有化」と言い、287ページでは、「国家や専門家に依存したくなる気持ちをぐっと抑え、自治管理や相互扶助の道を模索すべきなのである。」と言い、290ページで、トマ・ピケティについて、「「参加型社会主義」を謳っていても、その移行のプロセスは、租税という国家権力に依存するところが大きい。この点は問題だ。」とも言いう。

  そして、斎藤氏は、「では、どうすればいいのか。いよいよ、その問いに答えていきたい。」として、五つの「脱成長コミュニズムの柱」を提示します。

使用価値経済への転換

☆まず、300ページで、①─使用価値経済への転換として、〝「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する〟と言い、そのために、「生産を社会的な計画のもとに置く」(P302)という。

 これは、資本主義的生産様式の社会の法体系を変えなければ実現できない。なお、この項に、「資本蓄積と経済成長を目的とする資本主義」という文章があるが、資本主義の目的は資本蓄積で、経済成長はその手段であり必然的な結果です。

労働時間の短縮

☆次に、②─労働時間の短縮として、〝労働時間を削減して、生活の質を向上させる〟(P302)と言います。

 しかし、資本主義のもとでは、生産性の向上によって単位生産物当たりの労働時間が短縮されても、自らの拡大を目的とする資本は労働者の「労働時間の短縮」など、絶対に、自ら進んで行なうことはありません。〝経済は国民のためにある〟という〝結合労働の社会〟においてはじめて、生産性の向上が正しく労働時間の短縮に反映されます。だから、資本主義的生産様式の社会を脱却してはじめて、本当に〝労働時間を削減して、生活の質を向上させる〟社会が実現します。なお、この項に、「労働者という賃金奴隷の代わりに、化石燃料という「エネルギー奴隷」が働いている」という文章がありますが、技術革新により生産性を向上させた機械や化石燃料が、価値を生みだす「賃金奴隷の代わり」にはなりません。

画一的な分業の廃止

☆次に、③─画一的な分業の廃止として、〝画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる〟(P307)と言います。斎藤氏は、「オートメーション化による資本の「包摂」が、労働の単純化に拍車をかけている。」と言い、「労働者が資本による「包摂」を克服し、真の意味で、産業の支配者となるために、」「生涯にわたる平等な職業教育をマルクスは重視していた」と言います。

☆しかし、この文章には、大きな混乱があります。

 マルクスは、『資本論』で、職業教育の「大工業」にとっての意義を述べたあと、「工場立法は、資本からやっともぎ取った最初の譲歩として、ただ初等教育を工場労働と結びつけるだけだとしても、少しも疑う余地のないことは、労働者階級による不可避的な政権獲得は理論的および実際的な技術教育のためにも労働者学校のなかにその席を取ってやるであろうということである。また同様に疑う余地のないことは、資本主義的生産形態とそれに対応する労働者の経済的諸関係はこのような変革の酵素と古い分業の廃棄というその目的とに真正面から矛盾するということである。とはいえ、一つの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展は、その解体と新形成とへの唯一の歴史的な道である」(大月版①P635)と述べています。なお、「初等教育」と「工場労働」と結びつけるのはいささか毛沢東的だが、ノーベル賞を受賞し、2021年7月に死去された益川敏英氏や島精機製作所の創業者で発明王の島正博氏も「工場労働」における「技術教育」の意義を高く評価しています。

 マルクスがここで言っているのは、労働者階級が政権を取れば学校教育のなかに「理論的および実際的な技術教育」をしっかりと位置づけるということ、そして、「資本主義的生産形態とそれに対応する労働者の経済的諸関係」のもとでの「古い分業」と本当の「技術教育」とは「真正面から矛盾する」が、この矛盾の発展が新しい生産様式の社会をつくり、「古い分業の廃棄」を実現するということです。

 「生涯にわたる平等な職業教育」によって、「労働者が資本による「包摂」を克服」することなどできません。労働者階級が政権を獲得することによって、「労働者が資本による「包摂」を克服」し、真の意味で、産業の支配者となる」ことができるのです。そして、そうなったとき、本当の「技術教育」が発展し、「古い分業の廃棄」への途が開かれるのです。

 なお、斎藤氏は、307ページで「既存の脱成長派の議論の枠組みにおいては、あくまでも、労働以外の時間において、創造的で、社会的な活動を実現することが目指されるのである。」と言っていますが、「必然性の国」以外の余暇時間をマルクスは「自由の国」と呼び、資本主義社会にも〝余暇〟があり「自由の国」があると言い、いわゆる〝共産主義社会〟(発展した共産主義社会・共産主義社会のより高度の段階の社会のこと)になっても、「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動となります」など〝労働〟を位置づけることしかできない、エセ「マルクス主義者」の不破さんとその助さん角さんたちを念頭において言っているのであれば、はっきりとそう言うべきで、味噌も糞も一緒にされたのでは、科学的社会主義の思想を自らの信条としている多くの人たちに対して失礼であり、名誉を傷つけるものです。

生産過程の民主化

☆次に④─生産過程の民主化として、〝生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる〟(P310)と言います。斎藤氏は、「「社会的所有」によって、生産手段を〈コモン〉として民主的に管理するのだ。」と言い、「脱成長コミュニズムが目指す生産過程の民主化は、社会全体の生産も変えていく。例えば新技術が特許によって守られて、製薬会社やGAFAのような一部の企業にだけ莫大な利潤をもたらす知的財産権やプラットフォームの独占は禁止される。」と言う。

☆大賛成だ。レーニンも、1916年8月~9月に執筆の『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』(全集 第23巻P16~20)で、「資本主義と帝国主義を打倒することは、どのような、どんなに「理想的な」民主主義的改造をもってしても不可能であって、経済的変革によってのみ可能である」ことを述べ、同時に、「しかし、民主主義のための闘争で訓練されないプロレタリアートは、経済的変革を遂行する能力をもたない」こと、「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織することなしには」、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには」、資本主義に打ちかつことはできないことを述べ、新しい生産様式の社会が「生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理」が組織された社会であることを明らかにしています。

 そして、このような「生産過程の民主化」は、新しい生産様式の社会が組織されなければ実現しません。「生産過程の民主化」は、資本主義的生産様式の社会を正当化する「資本」という〝財産〟が企業を支配する権利をなくし、企業を、財産を持つ者の〝私〟の企業から〝公〟の企業にしなければ実現しません。このような〝経済的変革〟を国家を使って、国家の新しい法規範に基づいておこなう必要があります。

 マルクスは『資本論』で、「およそ権利をつくりだしたものは生産関係である。この生産関係がある一点に達して脱皮せざるをえなくなれば、権利とそれにもとづくいっさいの取引との物質的な源泉、経済的および歴史的に是認される源泉、社会的な生命生産の過程から発する源泉は、なくなってしまう。」(大月版⑤P995)と指摘しています。

 だから、「資本が企業を支配する権利」だけでなく、「知的財産権やプラットフォームの独占」を含め、資本主義的生産様式を成り立させている「財産」に基づく「権利」をなくさなければ新しい生産様式の社会を組織することはできません。新しい生産様式の社会を組織することと、資本主義的生産様式を成り立させている条件を奪うことは、まさに、表裏一体なのです。

 しかし、先に見たように、「最終的にはシステム全体を変えなくてはならない」とシステム全体を変えることを曖昧にして、「国家や専門家に依存したくなる気持ちをぐっと抑え、自治管理や相互扶助の道を模索すべきなのである」と言う斎藤氏は、「その(知的財産権やプラットフォームの独占を禁止した──青山)際、利潤獲得や市場シェア競争という動機が失われるなら、私企業によるイノベーションの速度は遅くなる可能性が高い」などと混乱したことを言いますが、「その際」には、「利潤獲得や市場シェア競争という」不純な「動機」はなくなり、「私」が支配する「企業」はなくなってます。これらのものがなくならなければ、「その際」は存在しません。

 このように、「資本」の軛から解放された〝技術〟は、万人によって利用され、改良され、多くの人たちに使われることによって「イノベーションの速度は遅くなる」どころか一層加速されることでしょう。

 なお、このように「システム全体」のあり方を提示することができず、「自治管理や相互扶助の道を模索」ところに留まっているところに、『人新世の「資本論」』の画竜点睛を欠く最大のウイークポイントがあります。しかし、その詳しい説明は、もう少し待って下さい。

エッセンシャル・ワークの重視

☆最後に、⑤─エッセンシャル・ワークの重視として、〝使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークの重視を〟(P312)と言います。

 斎藤氏は、316ページで、「だからこそ、「使用価値」を重視する社会への移行が必要となる。それはエッセンシャル・ワークが、きちんと評価される社会である。」と述べ、相互扶助の強化が「うまくいけば、より民主主義的な相互扶助のコミュニティ再形成が可能となり、別の社会への道が開けるはずだ。」(P317)言い、「自治管理の実践」例として、突然閉園された保育園の「自主経営の試み」を上げ、「労働者たちが、経営者によるやりがいの搾取を拒絶できることを証明した」ことを述べています。

☆しかし、資本主義社会で、国民が「労働集約型のエッセンシャル・ワーク」の需要性をどれだけ認めたとしても、国家が特別な手立てでもしない限り、資本主義的生産様式の社会では、「労働集約型」の生産性の向上が緩やかな産業・職種は相対的に低い賃金に放置されざるをえず、保育園の「自主経営の試み」によって、「労働者たちが、経営者によるやりがいの搾取を拒絶できることを証明した」としても、それは、資本主義のルールのなかで「労働者たち」の自己犠牲のうえに成り立つものです。「使用価値経済に転換」するということは、社会主義社会になるということです。資本主義に変わる社会・経済体制にならない限り、「使用価値経済に転換」することなどできません。

『資本論』から学び、コミュニズムを実現するために

斎藤氏が描くコミュニズムへの道

☆斎藤氏は、「国家だけでは、資本の力を超えるような法律を施行できない(そんなことができるならとっくにやっているはずだ)。だから、資本と対峙する社会運動を通じて、政治的領域を拡張していく必要がある。」(P215)と述べ、「コミュニズム」への途について、「経済を民主化する」、「最終的にはシステム全体を変えなくてはならない」(P264)と言い、「国家や専門家に依存したくなる気持ちをぐっと抑え、自治管理や相互扶助の道を模索すべきなのである」(P287)とも言う。そして、斎藤氏の言う「脱成長コミュニズム」は、「電力や水の公営化、社会的所有の拡充、エッセンシャル・ワークの重視、農地改革などを含む、包括的なプロジェクトにならなくてはいけない」(P320)し、それは、「経済成長という生産力至上主義を捨て、「使用価値」を重視する社会のビジョンが生まれてくる」(P351)と言う。

 そして、斎藤氏は、再び国家との関係について、「本書では、〈コモン〉に注目しながら、生産の場における変革の可能性を考察してきた。そして、政策や法律、制度変更だけに頼る社会変革の道を、トップダウン型の「政治主義」として批判した。そして、政治は経済に対して自律的ではなく、他律的だとも述べた。」(P353)と言い、「〈コモン〉、つまり、私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理こそが、コミュニズムの基礎になると唱えてきた。だが、それは、国家の力を拒絶することを意味しない。むしろ、インフラ整備や産業転換の必要性を考えれば、国家という解決手段を拒否することは愚かでさえある。……(略─青山)。

 その際、専門家や政治家たちのトップダウン型の統治形態に陥らないようにするためには、市民参画の主体性を育み、市民の意見が国家に反映されるプロセスを制度化していくことが欠かせない。

 そのためには、国家の力を前提にしながらも、〈コモン〉の領域を広げていくことによって、民主主義を議会の外へ広げ、生産の次元へと拡張していく必要がある。協同組合、社会的所有や「〈市民〉営化」がその一例だ。」(P355)と述べ、このような取り組みこそが、「「資本主義の超克」、「民主主義の刷新」、「社会の脱酸素化」という、三位一体のプロジェクトだ」と主張します。

 そして、この「三位一体のプロジェクト」達成への途について、「このプロジェクトの基礎となるのが、信頼と相互扶助である。……(略─青山)……、結局は、顔の見える関係であるコミュニティや地方自治体をベースにして信頼関係を回復していくしか道はない」と言い、このような運動が広がることによって、「ボトムアップ型の社会運動とトップダウン型の政党政治は、お互いの力を最大限に発揮できるようになるはずだ」と言い、「ここまでくれば」、「持続可能で公正な社会に向けた跳躍がついに実現するだろう」と述べて、『人新世の「資本論」』は結ばれている。

 

『資本論』とマルクス・エンゲルス・レーニンが示したコミュニズムへの道

☆斎藤氏は、「おわりに」で「資本主義が引き起こしている問題を、資本主義という根本原因を温存したままで、解決することなどできない。」と述べています。そして、この『人新世の「資本論」』は、そのような観点に立って綴られています。だから、「資本主義的生産様式の社会の成長」と「生産力」との混同、味噌も糞も一緒にして「旧来のマルクス主義者たち」として切り捨てる唯我独尊的な態度、革命の政府の持つ意味の無理解等を除けば、青山は、斎藤氏の主張の多くに賛成です。

 しかし、『人新世の「資本論」』には、「電力や水の公営化」や「〈市民〉営化」と「相互扶助」はあっても、「資本主義の超克」のための「民主主義の刷新」と「企業の資本からの解放」という、〝三位一体の革命思想〟がありません。

 マルクスとエンゲルスは、

「生産手段が資本に転化しなくなれば(このことのうちには私的土地所有の廃止も含まれている)、信用そのものにはもはやなんの意味もないのであって、……資本主義的生産様式が存続するかぎり、利子生み資本はその諸形態の一つとして存続するのであって、実際にこの生産様式も信用制度の基礎をなしているのである。」(大月版『資本論』⑤P784)と述べ、「およそ権利をつくりだしたものは生産関係である。この生産関係がある一点に達して脱皮せざるをえなくなれば、権利とそれにもとづくいっさいの取引との物質的な源泉、経済的および歴史的に是認される源泉、社会的な生命生産の過程から発する源泉は、なくなってしまう。」(同前⑤ P995)と言っています。

 資本主義的生産様式の社会は、「生産手段」が「資本」に転化し、「資本」の所有者が労働者を賃金奴隷として搾取する「権利」を持つように作られた社会です。だから、〝資本主義を超克する〟ためには、国法をもって「資本」による「生産手段」と企業の支配を廃止させなければなりません。つまり、問題は、個別の経営体の社会的所有か私有かの問題ではなく、経営体全体について、資本の支配か人民の支配かという問題なのです。だから、個別の経営体が協同組合や社会的所有や「〈市民〉営化」になったところで、その個別の意義はあるにしても、残念ながら、「資本主義の超克」にはなりません。

 それでは、国法をもって「資本」による「生産手段」と企業の支配を廃止させた〝社会と企業〟はどのように運営されるのか。その実践の緒に就いたのがレーニンでした。

 マルクス・エンゲルスから正しく学んだレーニンは民主主義とは何かをよく理解していました。だから、レーニンは、ロシア革命の10年以上前の1905年6~7月に執筆した『民主主義革命における社会民主党の2つの戦術』(第9巻 P16~17、)で次のように述べています。

「われわれはみな確信している。

──労働者の解放は労働者自身によってしか行われえない、大衆の自覚と組織がなくては、また全ブルジョアジーとの公然たる階級闘争によって大衆を訓練し教育しないでは、社会主義革命は問題になりえない、と。……(略─青山)……政治的民主主義の道をとおらずに別の道をとおって社会主義にすすもうとするものは、かならず、経済的な意味でも、政治的な意味でも、愚劣で反動的な結論に達するのである。」

 そして、レーニンは、封建的なロシアで、民主的な生活の乏しい社会で、その変革を武力によって成し遂げなければならなかった十月革命の前から、社会主義社会を建設するうえで、民主主義の重要性を一貫して訴え続け、1916年8月~9月に執筆の『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』(全集 第23巻P16~20 )で、「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織することなしには」、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには」、資本主義に打ち勝つことはできないことを述べています。

 このように、レーニンは、新しい生産様式の社会の存立要件として、〝生産手段にたいする全人民の民主主義的管理を組織すること〟と〝全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織すること〟をあげ、そのために努力しました。しかし、レーニンの早すぎる死は、レーニンをして、「スターリンは粗暴すぎる」、「粗暴な大ロシア人的デルジモルダなのだ」(*)と言わせたスターリンによる党の破壊と独裁をもたらし、新しい生産様式の社会の存立要件を粉砕してしまいました。

(*)なお、レーニンは、1922年12月24日付の手紙で、スターリンについて、「同志スターリンは、党書記長となってから、広大な権力をその手に集中したが、彼がつねに十分慎重にこの権力を行使できるかどうか、私には確信がない。」と述べ、1923年1月4日に書いたこの手紙への追記で、「スターリンは粗暴すぎる。そして、この欠点は、われわれ共産主義者のあいだや彼らの相互の交際では十分がまんできるものであるが、書記長の職務にあってはがまんできないものとなる。だから、スターリンをこの地位からほかにうつして、すべての点でただ一つの長所によって同志スターリンにまさっている別の人物、すなわち、もっと忍耐づよく、もっと忠実で、もっと丁重で、同志にたいしてもっと思いやりがあり、彼ほど気まぐれでない、等等の人物を、この地位に任命するという方法をよく考えてみるよう、同志諸君に提案する。この事情は、とるにたりない、些細なことのようにおもえるかもしれない。しかし、分裂をふせぐ見地からすれば、また、まえに書いたスターリンとトロッキーの間がらの見地からすれば、これは些細なことではないとおもう。あるいは、些細なことだとしても、決定的な意義をもつようになりかねないそういう種類の些細なことだとおもう。」と述べています。そして、レーニンは、「ソヴェト社会主義共和国連邦の結成」に関して、エリ・ベ・カーメネフヘあてた手紙(1922年9月26日)で、スターリンについて、「スターリンには事をいそぎすぎる傾向が多少ある。」と言い、1922年12月30日に書いた大会への手紙(覚え書)では、「スターリンの性急なやり方と行政者的熱中が、さらに評判の「社会民族主義者」にたいする彼の憎しみが、致命的な役割を演じたとおもわれる。総じて憎しみは、政治では、通常、最悪の役割をはたすものである。」と言い、12月31日の覚え書では、スターリンについて、「「社会民族主義」という非難を不注意に投げつけるグルジア人(ところが、彼自身がほんとうの、真の「社会民族主義者」であるばかりか、粗暴な大ロシア人的デルジモルダ(警察支配──青山)なのだ)は、実はプロレタリア的階級連帯の利益をそこなうものである。なぜなら、民族的不公正ほど、プロレタリア的階級連帯の発展と強固さを阻害するものはなく、また平等の侵害──たとえ不注意によるばあいでさえ、たとえ冗談としてでさえ──ほど、自分の同志であるプロレタリアによってこの平等が侵害されることほど、[侮辱された」民族の人々の心にするどくひびくものはないからである。」と言って非難しています。詳しくは、ホームページ5「温故知新」→「レーニンの考えの紹介」→3-F「レーニンの人柄等、全集マメ知識」を参照して下さい。

 このように、『資本論』とマルクス・エンゲルス・レーニンが示したコミュニズムへの道は、資本主義的生産様式の社会を卒業するために、①国法をもって「資本」が「生産手段」と企業を支配する権利を剥奪し、知的財産権等「財産」に基づく特権を廃止し、②〝生産手段にたいする全人民の民主主義的管理を組織すること〟と〝全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織すること〟を中心に、社会を民主的に組織すること、を国民の合意にすることです。

 しかし、残念ながら、斎藤氏が描くコミュニズムへの道には、〝国法をもって「資本」が「生産手段」と企業を支配する権利を剥奪する〟ことも、労働者が先頭に立って〝生産手段にたいする全人民の民主主義的管理を組織する〟ことも、まったく視野にありません。資本主義的生産様式の社会のなかに〝桃源郷〟をつくることは、〝ユートピア〟そのものです。

おまけ

(その1)

「従来のマルクス主義」への雑駁な批判

 ☆斎藤氏は、「従来のマルクス主義」について次のように述べています。

「資本主義で実現された物質的な潤沢さを自国の労働者階級のために使うような社会を志してきたのだ。

 そうやって実現される将来社会というのは、資本家がいないというだけで、あとはそれほど今の社会と変わらない。実際、ソ連の場合は、官僚が国営企業を管理しようとして、結果的には、「国家資本主義」と呼ぶべき代物になってしまった。

 ……(略─青山)……。資本主義の矛盾がこれほどまで深まっているにもかかわらず、マルクス主義の衰退が止まらないのはそのせいだ。」(P351)

☆しかし、これでは、あまりにも乱暴すぎる。

まず第一に、

 まず第一に、「マルクス主義」は、「資本主義で実現された物質的な潤沢さを自国の労働者階級のために使うような社会を志してきた」のではありません。マルクスは、生産力の発展による社会的生産が私的資本によって歪められるとともに生産力の発展そのものも阻害される資本主義的生産様式の社会を国民のための経済の社会に変革することの必然性とその担い手(労働者階級)を科学的に明らかにしました。そして、その科学的社会主義の思想を信念としているのが、いわゆるマルクス主義者です。

次に、

 また、ソ連が科学的社会主義の思想とは無縁な「国家資本主義」の国であったのは、上記のマルクス主義者によって「実現」された「社会」だからではありません。

 ロシア革命は、レーニンが言うとおり、「わが国の革命がおこなっていることが偶然ではなく──われわれは、それが偶然ではないことを、深く確信しているが──、またわが党の決定の産物でもなくて、マルクスが人民革命と名づけたあらゆる革命、すなわち、人民大衆が、古いブルジョア共和国の綱領を繰りかえすことによってではなく、彼ら自身のスローガンにより、彼ら自身の奮闘によって、みずからおこなうあらゆる革命の不可避的な産物であるなら、もしわれわれがこのように問題を提出するなら、われわれはもっとも重要なものをなしとげることができるであろう」、という「マルクスが人民革命と名づけた」革命そのものでした。

 資本主義の発達の遅れている、〝人民革命〟の道を歩み始めた、小農民的な国であるロシアは、当初、十分な考慮もせずに、「物資の国家的生産と国家的分配とをプロレタリア国家の直接の命令によって共産主義的に組織しようと、考え」実践します。しかし、実践を通じてその誤りを理解したロシアは、「直接に熱狂にのってではなく、大革命によって生みだされた熱狂の助けをかりて、個人的利益に、個人的関心に、経済計算に立脚して、小農民的な国で国家資本主義を経ながら社会主義に通じる堅固な橋を、まずはじめに建設する」という、「新経済政策」への道を見出し、労働者階級の権力のもとでの「国家独占資本主義」の道を歩むこととしました。

*この詳しい経過は、ホームページ「温故知新」→「レーニンの考えの紹介」→「B.4綱領、綱領上の任務、党、党(員)の任務」の「☆4-34ソヴェトロシアの経済建設」のPDFファイルを参照して下さい。

 そして、その労働者階級の権力は、前にも見たように、〝生産手段にたいする全人民の民主主義的管理を組織すること〟と〝全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織すること〟がその存立要件でした。しかし、レーニンの早すぎる死は、レーニンをして、「スターリンは粗暴すぎる」、「粗暴な大ロシア人的デルジモルダなのだ」と言わせたスターリンの独裁を許し、党の民主的基盤は破壊され、〝全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織する〟という新しい生産様式の社会の存立要件が粉砕され、その結果、ソ連は「ソ連共産党」独裁の、「社会主義」の仮面をかぶった独裁国家となってしまいました。

 だから、ソ連は、上記のマルクス主義者によって「実現」された「社会」などではありません。

最後に、

 最後に、「資本主義の矛盾がこれほどまで深まっているにもかかわらず、マルクス主義の衰退が止まらないのは」、「③『共産党宣言』を見たこともない人に向けたマルクスの思想の歪曲とマルクス主義の冒涜──マルクスの「生産力至上主義」が「近年のマルクス主義の衰退の理由のひとつ」だと言う暴論──」及び「⑦斎藤氏は、資本主義のもとでの「経済成長」と「生産力の向上」の意味をまったく理解していない」で指摘したとおり、「資本主義発展論」に転落した不破さんによって牛耳られている「日本共産党」が、現代資本主義の主役でありアキレス腱でもあるグローバル資本による「産業の空洞化」の原因とその結果、つまり、資本主義的生産様式の矛盾から目を背け、「賃金が上がれば経済がよくなる」などと寝ぼけたことを言っているからです。

おまけ

(その2)

資本主義の「進歩性」について考える

☆マルクスは、『資本論』で、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」(大月版①P654)と述べ、マルクスとエンゲルスは、極々大雑把にいうと、資本主義的生産様式のもとでの独占資本による「近代的生産諸力」の発展と団結した「近代的労働者」の形成を、資本主義の『必然的没落』の根拠とみていました。

 このマルクスとエンゲルスの科学的社会主義の思想を受け継いだレーニンは、『「人民の友」とはなにか』で、大資本への隷属は──労働の抑圧のもたらすあらゆる恐怖、すなおち、死滅、野蛮化、婦人や子供の肉体組織の不具化、等々にもかかわらず──小吸血鬼への隷属にくらべれば進歩的であると言い、その理由として、なぜならそれは、労働者の思想を目ざめさせ、漠然とした不明瞭な不満を意識的な抗議に転化させ、全勤労者の解放のための組織的な階級闘争に転化させるからであり、この大規模な資本主義の存在条件そのもののなかにプロレタリアートの確実な勝利の根源があることを述べて、社会変革の主体としてのプロレタリアートを作り出す資本主義の進歩的・革命的な作用、労働者を団結させる資本主義の「統合的役割」を明らかにしています。

*『「人民の友」とはなにか』のこの部分の詳しい内容は、ホームページ「温故知新」→「レーニンの考えの紹介」→「A.1科学的社会主義の理論」の「☆1-11社会民主主義者が大規模資本主義を進歩的現象と見なしているわけ」及び「☆1-12資本主義の進歩的・革命的作用」のPDFファイルを参照して下さい。

 しかし、残念ながら、日本では「前衛党」を名乗る政党が、資本主義的生産様式の基での経済と社会と企業の実態とそのもとでの労働者階級の状態に目を向け、労働者階級を社会変革の主体として位置づけ、社会の変革を求めるのではなく、「賃金が上がれば経済はよくなる」などといって資本主義のもとでの待遇改善を求める人たちの一員としか見ることができない状態に陥り、〝漠然とした不明瞭な不満を意識的な抗議に転化させる〟場が反共攻撃の場に転化しています。

 この状況を打破できるのは、やはり、社会変革の主体としての〝プロレタリアート〟以外にはいません。そのために、〝経済は社会のため国民のためにある〟という社会正義の立脚点から自らの企業の統治のあり方を提起し、全労働者の共通の認識とする新しい労働運動が、今、求められています。そして、この新しい労働運動を成功させ、〝プロレタリアートが社会変革の主体となる〟ためには、グローバル資本の行動とその結果を理解し、自らの企業の社会的使命・位置づけをしっかりとつかむ能力を身につけなければなりません。必ず来る、新しい生産様式の社会の準備を、今から、しっかりと整えましょう。プロレタリアートが社会変革の主体となるとは、そういう準備をしっかりと整えるということだと思います。

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6-2-7『資本論』と『人新世の「資本論」』.pdf
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