自分の意見をもった〝新しい人〟が作る〝新しい社会〟

    ──私たちは世界をどう認識すればよいのか、何処に向かって何をすればよいのか──

3-1

〝新しい社会〟をつくるために〝新しい人〟が求められる理由

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〈目次〉

Ⅰ、自分の意見を持った〝新しい人〟とは

Ⅱ、自分のおかれている〝世界〟の正しい認識と〝新しい人〟が求められる理由

ⅰ、自分のおかれている〝世界〟の正しい認識

①歴史の正しい認識の仕方について

その1 科学的歴史観

その2 科学的歴史観にもとづく考察のしかた

その3 新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機

②今の社会はどのような社会ののか

③世界はどのような方向に向かっているのか

ⅱ、新しい生産様式の社会の息吹

④これらから見えてきた、新しい生産様式の社会の息吹

ⅲ、〝新しい人〟が求められる理由

⑤〝新しい人〟が求められる理由

3-1

〝新しい社会〟をつくるために〝新しい人〟が求められる理由

 

自分の意見を持った〝新しい人〟とは

自分の意見を持った〝新しい人〟は、自然や社会についての正しい認識をもっていなければなりません。社会の問題に限っていえば、①人類の歴史はどのように進んできたのか、②今の社会はどのような社会なのか、③世界はどのような方向に向かっているのか、ということをしっかり認識して、今の自分のる〝世界〟についての正しい認識を持つことが何よりも大切です。

 そして、同時に同様に大切なのは、その熟慮された認識に基づいて、臆することなく社会と向き合うことのできる自律的な個人となることです。

 それでは、その、「今の自分のおかれている〝世界〟についての正しい認識」は、どうしたら得られるのか、一緒に考えていきましょう。

 

自分のおかれている〝世界〟の正しい認識と〝新しい人〟が求められる理由

まずはじめに、①人類の歴史はどのように進んできたのか、②今の社会はどのような社会ののか、③世界はどのような方向に向かっているのかを見て、④これらから見えてくる新しい生産様式の社会について考え、⑤そこから必然的に導きだされる〝新しい人〟が求められる理由について、一緒に、見ていきましょう。

ⅰ、自分のおかれている〝世界〟の正しい認識

 

歴史の正しい認識の仕方について

歴史の正しい認識の仕方について、(その1)科学的歴史観、(その2)科学的歴史観にもとづく考察のしかた、(その3)新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機、という順序で見ていきます。

その1

科学的歴史観

私たちの認識は、当たり前のことですが、外部にあるものが情報として能に入ることによって得られます。私たちが認識する世界は、「モノ」の本質であるイデアなるものが「モノ」として現れたのでもなければ、神の力によって奇跡的にある日突然作られたのでもありません。存在するあらゆるものは、私たちの意識とは独立に存在していますが、合理的・必然的なものとして存在しており、私たちはその合理性・必然性を観察や実験を通じて明らかにし、科学を進歩させてきました。

 そして、人類の歴史について、その合理性・必然性を発見し、人類の歴史の合理性・必然性を明らかにしたのが、マルクスでありエンゲルスでした。

 そのことについて、エンゲルスは『共産党宣言』への序文で次のように述べています。

「『宣言』(『共産党宣言』のこと──青山)はわれわれの共同の著作であるが、私は、その核心をなす根本的命題はマルクスのものであることをのべる義務があると思う。その命題とは次の主張である。いかなる歴史的時期においても、経済的生産と交換の支配的な様式、およびそれから必然的に生れる社会組織が土台をなし、その時期の政治的並びに知的歴史はこの土台のうえに築かれ、この土台からのみ説明される。したがって、人類の全歴史は(土地を共有していた原始氏族社会が崩壊して以来)、搾取する階級と搾取される階級、支配する階級と圧迫される階級とのあいだの抗争である階級闘争の歴史であった。そしてこの階級闘争の歴史は、次第に発展し、現在では、搾取され、圧迫される階級──プロレタリア階級──が、搾取し支配する階級──ブルジョア階級──の支配から解放されるためには、同時に、また究極的に、社会全体をあらゆる搾取、あらゆる圧迫、あらゆる階級的差別、あらゆる階級闘争から解放しなければならない段階に達している。

 この命題は、私の考えによれば、ダーウィンの学説が生物学に対してなしたことを、歴史学に対してなすべきものであるが、われわれはふたりとも、1845年の数年前からだんだんこの命題に近づいていた。私が独力でどの程度この方向に進んでいたかは、私の『イギリスにおける労働者階級の状態』にもっともよく示されている。だが1845年の春、私がブリュッセルでマルクスに再会したとき、かれはこの考えを完成していて、それを、私がここにのべたのとほとんど同じように明瞭な言葉で私にのべた。」(エンゲルス『共産党宣言』(1888年英語版への序文)岩波文庫、大内兵衛・向坂逸郎訳 *『イギリスにおける労働者階級の状態』は1844年に書かれた。)

 このマルクスとエンゲルスの歴史の見方は、〝唯物史観〟とも〝史的唯物論〟とも呼ばれていますが、1859年6月刊行の『経済学批判』の「序言」で、マルクス自身が要点を簡潔に述べていますので掲載します。

「物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、……既存の生産諸関係と、……所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときから社会革命の時期が始まる。」

 そして、このマルクス・エンゲルスが発見した人間の歴史についての科学的見方は、マルクス自身が資本主義社会を研究するうえでも、その導きの糸として欠くことのできないものとなりました。

その2

科学的歴史観にもとづく考察のしかた

エンゲルスは、この科学的歴史観について、「マルクスによって1845年になされた『どこでもいつでも政治的な状態や事件はそれに対応する経済状態によって説明される』という発見。」(エンゲルス『資本論』第3巻の序文)と述べて、〝経済状態〟──資本の行動とその結果──によって、そのときの〝政治的な状態〟──労資の力関係の現状と支配階級の政策の方向──が支配されることを確認しています。だから、私たちは、今の日本を考察するにあたっても、〝資本の行動とその結果〟をしっかりと見なければなりません。そのこと抜きに、ただ「賃金を上げろ」とだけ、オウムのように言い続けるだけではダメです。

 そして、レーニンは、このような科学的歴史観にもとづく考察のしかたについて、「マルクス主義の全精神、その全体系は、おのおのの命題を、(α)歴史的にのみ、(β)他の諸命題と関連させてのみ、(γ)歴史の具体的経験と結びつけてのみ、考察することを要求しています」(第35巻『111イネッサ・アルマンドヘ』1916年11月30日に執筆P262~263)と述べて、物事を考察するにあたって、①歴史的に②他の諸命題と関連させて見ることを求めています。このことをまったく理解できない(まったく理解しようとしない?)不破さんは、マルクスを「恐慌=革命」論者だったとして誹謗(*1)したり、「レーニンの荒れた時期」(*2)などと情勢を無視してレーニンにレッテルを貼るのに都合の良い文章を切り貼りしてレーニンを誹謗します。

※なお、(*1)の詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、(*2)の詳しい説明は、ホームページ4-13「☆レーニンの資本主義観、社会主義経済建設の取り組み、革命論への、反共三文文筆家のような歪曲と嘲笑、これでもコミュニストか」を、参照して下さい。

 このように、科学的歴史観は、それぞれの時期(時代)の政治的な状態や事件とそれに対応する経済状態等を歴史的に考察し、その成り立ちをしっかり摑むことによって、誤った考えに陥ることなく、正しい認識を得るための〝導きの糸〟とすることができます。

その3

新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機

マルクスは『資本論』第一部「第一三章 機械と大工業」の中で、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことを述べていますが、科学的歴史観は、何が〝新たな社会の形成要素〟で、何が〝古い社会の変革契機〟であるかを明らかにします。

 科学的歴史観は、資本主義的生産様式の社会における〝新たな社会の形成要素〟とは、生産過程の諸条件と社会的結合の進展による生産手段の集中と労働の社会化(=生産の社会的性格)による生産力の発展とそのより一層の発展可能性のことで、〝古い社会の変革契機〟とは、生産過程の資本主義的形態──私的資本主義的分配と資本主義的生産関係──の矛盾と敵対関係のことで、その深化・成熟が〝新しい生産様式の社会〟をつくるための原因と原動力であることを明らかにしています。

 つまり、〝新たな社会の形成要素〟とは、資本主義的生産様式における私的資本主義的性格をもった、技術的進歩であり、それを基礎とする社会的生産の進展のことで、〝古い社会の変革契機〟とは、私的資本主義的性格による、社会的な欠落面・限界のことで、科学的歴史観は、資本主義的生産の発展が、この〝新たな社会の形成要素〟を発展させ、それがまた、〝古い社会の変革契機〟を発展させることを明らかにしました。

 だから、〝新たな社会の形成要素〟がどのように形成されたか、つまり、資本がどのような行動をし、その結果、社会がどのよに変化したかということを、しっかり見ることが重要です。

 そして、資本主義的生産様式の社会において、〝新たな社会の形成要素〟を生み出し、〝古い社会の変革契機〟を担う、その中心にいるのが労働者階級なのです。

 

今の社会はどのような社会ののか

私たちは、〝今の社会はどのような社会ののか〟ということを、最初のページ1「今を検証する」で見てきました。

 私たちは、このページ群で、日本資本主義はどのように発展してきたのかを、1970年代から現在までの財界(資本)と政府の動きと、この間の社会・経済に係わる統計数値等を一瞥・概括し、産業の空洞化、不安雇用・非正規雇用の増大、貧困化と格差の拡大、社会保障の危機、少子化、等々はなぜ起きたのかを、みなさんと一緒に見てきました。

 まだお読みでない方は、この機会に、是非、お読み下さい。

サイト1:「今を検証する」の各ページを簡単に紹介します。

1-1日用品が充足され、豊かさを感じはじめた時から、日本社会の深刻な変化が始まった

このページは、〝資本主義の「黄金時代」〟から〝日本資本主義の終わりの始まり〟までの流れを簡単に見て、2020年までの日本経済の推移を示す幾つかの数値を提示します。

1-2 2015年8月からタイムマシンに乗って遡る

2015年8月は、このホームページを作成しはじめた時です。なので、まず始めに、2015年現在の日本経済を見て、タイムマシンに乗って1955年まで遡り、続けて、2021年末の日本経済の断片を垣間見ます。

1-3 今の日本の経済を動かす力

まずはじめに、資本主義的生産様式の社会の生産のしくみを極々大雑把に見て、これを踏まえて、前のページ1-2「2015年8月からタイムマシンに乗って、日本を遡る」で見たものの意味を明らかにします。そして、〝ミネルバの梟は黄昏どきに飛び立つ〟という言葉の意味を噛みしめます。

1-4 70年代の始め以降、財界が進めた政策

このページは、〈70年代の始め以降、財界が進めた主な政策〉を見て、資本の国内の雇用や産業を犠牲にして海外での利潤拡大を図るという一貫した戦略が、今の日本(日本国民)の危機を作り出してきたことを明らかにし、資本の悪事を暴いて、資本と闘う以外に日本再生の道はないことを訴えています。

 

世界はどのような方向に向かっているのか

私たちは、〝世界はどのような方向に向かっているのか〟ということを、2番目のページ2「二一世紀は何処に向かって進んでいるのか」で見てきました。

 私たちは、このページ群で、資本主義社会での「民主主義」や「自由と平等」の問題を含め、〝資本主義的生産様式の社会〟とはどのような社会なのかを再確認し、〝二一世紀は何処に向かって進んでいるのか〟を多面的に見るなかで、〝経済は社会のため、国民のためにある〟という当たり前の社会はどうすれば実現できるのかを、みなさんと一緒に見てきました。

 まだお読みでない方は、是非、この機会にお読み下さい。

サイト2:「二一世紀は何処に向かって進んでいるのか」の各ページを簡単に紹介します。

2-1-1〝経済は国民のため、社会のためにある〟と考える人たちは社会主義者?

資本主義の仕組み、限界と〝新しい生産様式の社会〟への展望を見るページです。

2-1-2「資本」のための経済から「人間」のための経済へ

このページは「〝経済は国民のため、社会のためにある〟と考える人たちは社会主義者?」のより詳細なバージョンです。

2-1-3 現代の資本主義が準備する新しい生産様式の社会

「資本」のための経済から「人間」のための経済への転換の条件をみます。

2-1-4「資本主義的生産様式の社会」と「ポスト資本主義社会」との違いとは

それぞれの「生産様式」のもつ法則に基づき、「産業」と「労働」の面からその違い明らかにし、〝新しい生産様式の社会〟の優位性を検証した。

2-1-5「資本主義的生産様式の社会」に変わる〝新しい生産様式の社会〟とは

主権者である国民が創る〝新しい生産様式の社会〟とは、どのような社会なのかを見ていきます。

2-1-6 二一世紀はどこに向かって進んでいるのか

国連は世界をどのように「変革」しようとしているのか、ダボス会議は資本主義的生産様式をどのように「リセット」しようとしているのかを一瞥し、社会のあり方を考えます。

2-1-7〝社会のあり方〟と〝自由と民主主義〟の現在・過去・未来

資本主義社会における「自由」の特徴と「民主主義」の限界を明らかにし、〝新しい生産様式の社会〟における〝自由〟と〝民主主義〟との違いを見ていきます。

2-1-8 SDGsが実現される社会とは

国連がめざすSDGsとは、そして、国連がめざすSDGsはどうすれば実現されるのかを、一緒に考えます。

2-1-9 資本主義社会とはどのような社会なのか

「自由」な「契約」によって成り立っている資本主義社会とは、どのような社会なのかを、丸裸にするページです。

ⅱ、新しい生産様式の社会の息吹

 

これらから見えてきた、新しい生産様式の社会の息吹

私たちは、上記の考察を通じて、世界と日本を新しい生産様式の社会へ導く〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟を見てきました。

 もう一度、簡単に見てみましょう。

 資本主義的生産の発展による、新しい生産様式の社会へ導く〝新たな社会の形成要素〟とは、〝生産諸力〟の発展と〝生産過程の社会的結合〟の発展とによる社会的生産の飛躍的な発展のことです。資本による〝生産諸力〟の無秩序ですさまじい発展は、国連に「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」を採択させ、貧困や飢餓、エネルギー、気候変動、平和的社会など、持続可能な発展のための「持続可能な開発目標(SDGs)」を要求し、資本主義的生産様式のもとでの〝生産過程の社会的結合〟の発展は、世界経済フォーラム(WEF)のクラウス・シュワブ会長をして、「世界の社会経済システムを考え直さないといけない。第2次世界大戦から続く古いシステムは異なる立場のひとを包み込めず、環境破壊を引き起こしてもいる。持続性に乏しく、もはや時代遅れとなった。人々の幸福を中心とした経済を考え直すべきだ」「次の世代への責任を重視した社会を模索し、弱者を支える世界を作っていく必要がある」、「自由市場を基盤にしつつも、社会サービスを充実させた『社会的市場経済(Social market economy)』が必要になる。政府にもESG(環境・社会・企業統治)の重視が求められている」とまで言わしめ、〝新たな社会の形成要素〟である社会的生産の発展は私的資本主義的生産様式との矛盾を益々明らかにしています。

 そして、資本のグローバルな展開は、「産業の空洞化」をもたらし、中間層の没落をもたらし、社会全体の危機を深め、〝古い社会の変革契機〟を生みだしています。

 日本国内に目を移せば、高い生産性を獲得した富の源泉である製造業が海外に出て行った結果、生産性の低いサービス業の比重が増し、経済の低成長と低賃金が長期にわたって続き、その結果、年金・福祉・医療の基礎が掘り崩され、社会的分業の恩恵を受けることを前提に暮らしが成り立つ労働者階級は、生きる術がなくなりつつあります。

 これらの結果、産業の空洞化により労資の力関係は労働者階級に対する資本の優位はあるものの、貧富の差は拡大し、〝古い社会の変革契機〟は間違いなく増幅し続けています。社会の資本主義的な外皮(=「資本主義的私有」、つまり「取得の資本主義的形態」)への疑問、経済は誰のためにあるのか、企業は誰のためにあるのかという根源的な問いかけ、生産の社会的性格と取得の私的資本主義的なあり方を問う声が、まだ、朝の小鳥のさえずり程度の音量でではあるが、広範に聞こえ始めています。

※国連の「2030アジェンダ」と「世界経済フォーラム」とに関する詳しい説明は、前掲のホームページ2-1-6「 二一世紀はどこに向かって進んでいるのか」及びホームページ2-1-8「SDGsが実現される社会とは」を参照して下さい。

ⅲ、〝新しい人〟が求められる理由

 

〝新しい人〟が求められる理由

このように、〝経済は社会のためにある〟ということを最優先に考えなければならない時代に来ていることを、世界の人々(人民)が強く認識しはじめています。

 そして、〝経済は社会のため国民のためにある〟という社会は、私的「資本」が生産と社会を支配し、私的「資本」が大きくなることによって経済が発展するという特徴・法則をもつシステムの資本主義的生産様式の社会を〝経済は社会のため国民のためにある〟という命題を実現することの出来る〝新しい生産様式の社会〟に置き換えなければ実現しません。

 レーニンは、ロシア革命の前に書いた『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』(1916年8月~9月に執筆 全集 第23巻P16~20)で、「資本主義と帝国主義を打倒すること」は「経済的変革によってのみ可能である」こと、「しかし、民主主義のための闘争で訓練されないプロレタリアートは、経済的変革を遂行する能力をもたない」ことを述べ、「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織することなしには」、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには」、資本主義に打ち勝つことができないことを述べていますが、私たちがめざす〝経済は社会のため国民のためにある〟という〝新しい生産様式の社会〟は、政治がほんとうに〝民主的〟であるだけでなく、生産関係そのものが〝民主的〟でなければならず、企業が民主的に運営されていなければなりません。

 このような社会は、これまでになかった社会です。だから、労働者階級はこれらのことをしっかり理解し、本当の社会の主人公としての民主主義者に、〝新しい人〟に生まれ変わらなければなりません。そして、そのような〝新しい人〟によってしか〝新しい社会〟はつくることができません。

 それではどうしたら〝新しい人〟はつくられるのか、次のページで見ていきましょう。

ここから先は、ページ3-2「〝新しい社会〟をつくるために〝新しい人〟が生み出される理由」として編集中です。

 

再び、自分の意見を持った〝新しい人〟とは

 私は、冒頭で、「自分の意見を持った〝新しい人〟とは、今の自分のおかれている〝世界〟についての正しい認識を持ち、その認識に基づいて臆することなく社会と向き合うことのできる自律的な個人のことです」と言いました。

 そして、自分のおかれている〝世界〟の正しい認識とは何かを見てきました。

 それは、①私たち人間は社会的・歴史的な存在であり、その社会は「いかなる歴史的時期においても、経済的生産と交換の支配的な様式、およびそれから必然的に生れる社会組織(生産様式のあり方のこと──青山)が土台をなし、その時期の政治的並びに知的歴史はこの土台のうえに築かれ、この土台からのみ説明される」ということ、そして、②これまでの「人類の全歴史は(土地を共有していた原始氏族社会が崩壊して以来)、搾取する階級と搾取される階級、支配する階級と圧迫される階級とのあいだの抗争である階級闘争の歴史」であり、私たちのおかれている今ある社会(資本主義的生産様式の社会)は、生産が社会的に行なわれているにもかかわらず、私的「資本」が生産と社会を支配し、私的「資本」が大きくなることによって経済が発展するという特徴・法則をもつシステムの社会であるということ、そして、③〝人民のための経済システムの社会〟づくりは理念的には世界の共通認識となっているが、〝人民のための経済システムの社会〟は資本主義的生産様式の社会という「資本」のための経済システムの社会を変えなければならず、そのためには資本の行動とその結果をしっかり見て、〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟とを正しく摑まなければならないということです。

 そして、このような〝世界〟についての正しい認識は、粘り強い対話によって国民の共通認識となることができ、〝新しい人〟とは、それをやり遂げる能力を持っているということを自覚した人たちであり、なによりも、自分の意見しっかり持っている人のことです。

 

「資本」のための経済を〝国民のための経済〟に変えるとは

 これらのことを観念的に捉えているだけでは、赤子が念仏を唱えるようなもので、なにも「理解」したことにはなりません。

 経済が「資本」のためにある「資本主義的生産様式の社会」を〝新しい生産様式の社会〟に変えるということは、「私的財産権」が「企業」を支配し労働者を搾取する制度を変えて「私的資本主義的生産関係」を変え、「資本」の権能をなくすということです。

 そこに現れる〝新しい生産様式の社会〟は、民主主義を身につけた〝新しい人〟である労働者階級が「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織する」(レーニン)ことによって、社会と経済を人民がコントロールすることによって実現します。

 自分の意見を持った〝新しい人〟とは、このように〝世界〟についての正しい認識を持ち、社会全般の「全人民の民主主義的管理」を追求する自律的な個人の集団を担う人たちのことです。

 

資本主義のあがき、「ステークホルダー資本主義」という苦肉の策

 「今、〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟はどのようにつくられているのか」という「項」での、2020年のダボス会議についての『日経』の記事に、少し詳しく、触れてみたいと思います。

 「我々の知っている資本主義は死んだ」という声さえ飛び出したダボス会議について、『日経新聞』(2020/01/23)は、「株主への利益を最優先する従来のやり方は、格差の拡大や環境問題という副作用を生んだ。そんな問題意識から、経営者に従業員や社会、環境にも配慮した『ステークホルダー(利害関係者)資本主義』を求める声が高まる。……今回の会議は『株主至上主義』の見直しをグローバルな場で再確認する機会になった」と言っています。

 フェイクニュースというか、『日経新聞』らしい見事な文章です。

 まず第一に、「株主への利益を最優先する」から「格差の拡大や環境問題という副作用を生んだ」のではありません。〝資本主義的生産様式の社会〟は「資本」が生産と社会を支配し、労働者を搾取して「資本」が大きくなることによって経済を発展させるシステムの社会です。「資本」が労働者を搾取するから労働者が貧困化するのであり、「資本」が生産と社会を支配しているから「環境問題」がないがしろにされるのであって、〝資本主義的生産様式の社会〟そのものに問題があるのであって、労働者から搾取した利潤の一部を「株主」がもらうから「格差の拡大や環境問題」等が起きるのではありません。経営者が「資本」の化身として企業と社会を支配しているから問題なのです。

 次に『日経』は、経営者が「株主への利益を最優先する従来のやり方」を「株主資本主義」と言い、経営者が「従業員や社会、環境にも配慮」したやり方を「ステークホルダー資本主義」と言って、経営者が「資本主義」のもとで「株主への利益を最優先」する従来のやり方から「従業員や社会、環境にも配慮」したやり方へ大転換が出来るかのような印象を与えようとしていますが、これは、まったくのペテンです。「資本主義」は経営者が「資本」の化身として企業と社会を支配しているから、「資本主義」なのです。企業が社会と従業員という最大の「ステークホルダー」のための企業となるためには、〝最高経営委員会〟等の企業の最高の意志決定機関にこれらの「ステークホルダー」の代表が加わっていなければ、つまり、レーニンのいう「生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理」が組織されていなければ、空想の産物にしかすぎません。企業の真のステークホルダーが企業を支配したとき、社会は「資本主義」の足かせを脱ぎ捨てています。

 ダボス会議が、今後、どのような「資本主義のあがき」を見せるのか、興味が尽きない。

 

新しい社会を作る〝新しい人〟は、どのように作られるのか

  新しい社会を作る〝新しい人〟は、社会的な存在であることを自覚し、社会的な存在としての人間の成長を通じて作られていきます。「社会的な存在としての人間の成長」とは、資本主義のもとでのあるがままの「社会的な存在」としての自分を見直すことです。

 資本主義社会は、すべてのものを商品とし、労働者の労働力をも商品とすることによって搾取を隠蔽し、商品によって社会は高度に結びつけられ、すべての成員がその一翼を担ってはいるが、その商品世界を支配しているのは利己的な行動をとる〝資本〟という名の私的財産権です。資本主義社会は、資本が利己的に行動することを正当な行為として認め、社会の有り様は「神の手」という、物神化された〝資本〟の〝行動〟に委ねられています。

 労働者の、資本主義のもとでのあるがままの「社会的な存在」、つまり、商品としての存在というブルジョア民主主義社会の考え方を見直し、社会を担う自律的な個人であるという人民民主主義の考え方へ、さらに進んで、地球と調和した人間ををめざす地球民主主義の考え方へと「成長」することが、〝社会的な存在としての人間の成長〟です。

 それは、経済が資本のためにある資本主義社会においては、職場の労働者として、不破さんが理想とする「オーケストラの指揮者」のもとで隷属して働く労働者から、企業の「ステークホルダー」の一員として、その地位を獲得するための努力を重ね、その自覚と能力を付けることであり、主権者として、国民のための経済のための「全人民の民主主義的管理」によって運営される社会の実現をめざして考え行動するなかで培われるものです。

 なお、この〝新しい人〟の形成を万民に完全に保障するためには、資本主義を止揚して、①自由時間の平等の確保②学習権の平等の確保が必要ですが、生産の場と生活の場で資本主義の矛盾を徹底的に曝露し、〝新しい人〟の必要性を訴えることによって、その先進的的な層を雲霞のごとく生みだすことは、産業の空洞化による先の見えない危機の中にある日本において、決して、不可能なことではありません。

 

不破さんの言う「オーケストラの指揮者」が支配者とならないようにするために

  不破さんの言う「オーケストラの指揮者」が支配者とならないようにするためには、ムードに流されない「自律的な個人」の集団と人民による統治(by the people)を保障する仕組みと人民による統治(by the people)の制度が必要であり、その実効性を担保するための自由な言論の場が必要です。

 そのような「自律的な個人」は、これまで見てきたように、①社会と自然のしくみの正しい認識──「そのための探究心・批判的精神のかん養」と「そのための異なる考えを含む社会的討論・交流の場のでの検証──と、②その認識にもとづく実践の試行錯誤によって形成されます。

 そして、このような〝新しい人〟が生まれると、「民主政治」のあり方が変化し、その質が変化し、人民による統治(by the people)のあり方が必然の課題として提起されます。

 人民による統治(by the people)を保証するためには、社会においてもそれぞれの組織においても、多数意見とともに少数意見が同等のウエイトをもって反映されるような公開の場が設けられる必要があります。そうしないと、見せかけの人民による統治(by the people)、偽装された人民による統治(by the people)を許すことになります。

 そして、〝新しい人〟がふえ、社会や企業への重層的な参加ふえ、情報技術が進歩してコミュニケーションツールが高度化すると、これまでの「民主政治」のスタイル(制度)──多数の市民の支持する政策を一部の者が作り、多数が選挙でそれを支持するというもの──の転換が起き、〝真の民主政治〟への芽生えがはじまります。住民の代表を名乗っていた議員はコーディネーターになり、多数が何を考えているのかを多数に問いかけ、多数(市民)が要求実現の主体となり、或るときは住民の完全なイニシアチブで、また或るときは住民と議員と行政とが一緒に案を作り、住民に賛否を問い、その後に議会でそれを決定する、というような直接民主主義的な変化が起こることが予想されます。

 それは、マルクスとエンゲルスがパリ・コミューンで、レーニンがソヴェートで、その生まれつつある姿を目にした真の民主主義が、自分の意見を持った〝新しい人〟たちによって〝共同社会〟のあらゆる場所で花開かせる日がやって来ることを意味します。

 科学的社会主義の思想を指針とする党は、そのような自分の意見を持った〝新しい人〟たちを雲霞のごとく輩出させる運動を組織しなければなりません。そのためにも、党員を「支部」というタコ壺の中に閉じ込めて、豊かな意見交換を妨げてはなりません。

 

社会主義者を装う不破さんの「人間の発達」についての薄っぺらな考え

 不破さんは『前衛』No904の鼎談(P117)で、「従来の社会主義論」について、「たいていが、生産物の分配どまり、経済的土台の変化だけに目を向けて、人間の発達という肝心なことが出てこないのです。だから「未来社会」といってもあまりうらやましくない」と、もっともらしいことを言って、これまで見てきたような、人間の成長にとって経済的土台の変革の過程のもつ重要な意味を明らかにするのではなく、短絡的に、「自由な時間の国」での「人間の発達」を「未来社会」の重要な要素とすることで、「人間の発達という肝心なこと」を片づけてしまいます。

  「自由な時間の国」で「人間の発達」は図られる。一見、もっともな、大変立派な考えのように見えますが、大まちがいです。これまで見てきたように、労働者階級は「経済的土台の変化」に「目を向けて」、その変革のためのアイデアを考え実践してこそ、人民の人民による人民のための政治を担うことのできる「肝心な」「人間の発達」を獲得することができるのです。

 マルクスは『ゴータ綱領批判』で、「生産物の生産と分配の仕方」をかえ、そのことを通じて、「共産主義社会のより高度の段階において、すなわち諸個人が分業に隷属的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち──そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」(岩波文庫P38)という、「諸個人の全面的な発展」が実現した「未来社会」を展望しています。

 物事を立体的に見ることができない不破さんは、党勢拡大のために「多数者革命」を標榜していますが、「経済的土台の変化」がどのようにして起こるのかをまったく理解できないので、上記の『ゴータ綱領批判』のなかに「諸個人の全面的な発展」という言葉を見つけて、「人間の発達」を「未来社会」の「自由な時間の国」での「人間の発達」の問題に矮小化してしまったのかもしれません。

※不破さんの「自由な時間の国」に関する謬論については、ホームページ「☆不破哲三氏の「社会変革の主体的条件を探究する」を参照して下さい。なお、不破さんの「自由の国」は進化し続けて、今では資本主義社会にある「余暇」も「自由な時間」なので「自由の国」だとまで言うようになっています。ホームページ「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。また、「人間の発達」に関する空論についての詳しい説明も上記のホームページ「☆不破哲三氏の「社会変革の主体的条件を探究する」とホームページ「☆「人間の発達」は資本主義を社会主義に変え、生産力を発展させなければ保障されない」を参照して下さい。

 

おまけ:生まれたばかりの〝革命ロシア〟で、レーニンは青年たちに何を求めたのか

  レーニンは、生まれたばかりの〝革命ロシア〟で青年たちはどのようにして、新しい人、共産主義者へと成長することができると考えたのか、ちょっとだけ、一緒に見てみましょう。

  レーニンは『青年同盟の任務』(1920年10月2日)で、青年は、学習、教育、陶冶の一歩一歩を、古い搾取社会にたいするプロレタリアと勤労者とのたえまない闘争に結びつけてこそ、はじめて共産主義をまなぶことができること、青年共産同盟は生活体験・経験の中で学ぶことを全活動の基礎にしなければならないことを述べるとともに、新しい共同社会を作るために、いま欠けていることをなくす努力をすること、自分の活動、自分の力を共同の事業にささげるように仕事をすすめることを通じて、青年男女は真の共産主義者に変わることを述べています。

  また、レーニンはプロレタリアートが民主主義を身につける重要性について、『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』(1916年8月~9月に執筆 全集 第23巻P16~20)で、次のように述べています。

「一般に資本主義、とくこ帝国主義は、民主主義を幻想に変える──だが同時に資本主義は、大衆のなかに民主主義的志向を生みだし、民主主義的制度をつくりだし、民主主義を否定する帝国主義と、民主主義をめざす大衆との敵対を激化させる。資本主義と帝国主義を打倒することは、どのような、どんなに「理想的な」民主主義的改造をもってしても不可能であって、経済的変革によってのみ可能である。しかし、民主主義のための闘争で訓練されないプロレタリアートは、経済的変革を遂行する能力をもたない」と。

  そして、レーニンはロシア社会民主労働党(ボ)第七回大会の『戦争と講和についての報告』で、ソヴィエト政権の喫緊の課題として、民主主義を身につけた労働者階級が「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織する」ことによって〝経済的変革を遂行する〟ことを訴えました。

※参考に『青年同盟の任務』の該当箇所のPDFファイルを添付します。

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3-1-1〈参考〉『青年同盟の任務』の該当箇所.pdf
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おまけ:〝新しい人〟の形成過程についての不破哲三氏とマルクス・エンゲルス・レーニンとの間の違い

 このように、〝新しい人〟の形成過程についての不破哲三氏とマルクス・エンゲルス・レーニンとの間には、埋めることのできない大きな違いがあります。それは、思想が地に足がついているかどうかの違い、空想家と実践家との違いであるとともに、新しい共同社会と民主主義は主体的に行動する人民の人民による(by the people)運動を通じてしか実現しないこと、科学的社会主義の使命はこのような〝新しい人〟の形成にあることを理解しているか否かの違いにあります。