マルクスと無縁な不破さんの「未来社会」論

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1、はじめに

 不破さんは、この間、マルクスの『資本論』の紹介をするような体裁をとって、『赤旗』に連載した「『資本論』刊行150年に寄せて」という文章をまとめた冊子と「『資本論』探求 全三部を読む」という著作を、相次いで出版しました。その内容は、いずれもマルクスの思想を歪曲し、マルクスを利用して自らの誤った考えを普及させようとするもので、日本の閉塞した状況に光明をえるために科学的社会主義の思想を学ぼうとする人たちにとって、〝百害あって一利なし〟の有害な図書といわざるをえない代物です。

 このような中で、またまたマルクスにかこつけて、自らの貧困な「未来社会論」を売り込もうと『「資本論」のなかの未来社会論』なるものを刊行し、『赤旗』を私物化して、さかんに宣伝させています。

 この機会に、これまで不破さんが披瀝してきた〝不破さんの描く『未来社会』の陳腐な姿〟を紹介し、陳腐で貧困な「未来社会論」を生む不破さんの〝現実を見る目の欠如〟をみなさんに知っていただくことは、科学的社会主義の思想を自らの人生の指針として生きてきた者として果たさなければならない義務だと思い、このページを作成した次第です。

 まずはじめに、不破さんの描く「未来社会」がいかに陳腐で貧困なものか、一緒に、見ていきましょう。

2、不破さんの描く「未来社会」の陳腐な姿

 

Ⅰ、不破さんは、「未来社会」の〝自由の国〟とは、余暇時間が増えることだという

 

マルクスの言う〝自由の国〟と不破さんの言う「自由の国」

 マルクスは『資本論』で、いわゆる社会主義社会について、「しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。」〈『資本論』第3巻 第2分冊 大月版 ⑤ P1051〉と述べ、「いわゆる共産主義社会=発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階の社会」のことを〝自由の国〟と言っています。

 これに対し、不破さんは、「赤旗」の「『資本論』刊行150年に寄せて」という連載の第10回「マルクスの未来社会論(2)」で、「マルクスは、人間の生活時間のうち、この時間(物質的生産にあてるべき時間──青山補注)部分を『必然性の国』、それ以外の、各人が自由にできる時間部分を『自由の国』と名付けました」と言って、マルクスが「物質的生産にあてるべき時間」を「必然性の国」と言い、それ以外の余暇時間を「自由の国」と呼んで、資本主義社会にも〝余暇〟があり「自由の国」があるとでも言っているかのような創作をします。

 このように、不破さんの言う「自由の国」とは「自由な時間」のことで、資本主義社会にもある〝余暇〟のことで、マルクスの言う〝自由の国〟とはまったく異質のものです。

※詳しくは、ホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」ホームページAZ2-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。

 

〝資本主義的生産様式を変えることの重要性〟を隠蔽する不破さん

 このような「余暇時間」が増えることが人間の目的だという不破さんは、①『賃金、価格、利潤』の解説で〝資本主義的生産様式を変えることの重要性〟を隠蔽した「解説」をおこない、②エンゲルスとレーニンを「マルクスの未来社会像の核心」を欠いているといって誹謗し、③不破さん考案の「桎梏」論で資本主義的生産関係を覆い隠し、資本主義的生産様式を変えることの重要性を包み隠します。

 

1、マルクスの『賃金、価格、利潤』をガラクタに変える不破さんの「解説」

 不破さんは、マルクスの『賃金、価格、利潤』の「解説」で、その主題である〝資本主義的生産様式を変えることの重要性〟を隠蔽した、とんでもない、「解説」をおこないます。

 マルクスは、インターナショナル中央評議会(1865年6月)での講演の記録──『賃金、価格、利潤』(原題は『価値、価格、利潤』)──で、①「賃金を上げても物価が上がって取り戻されるから無駄だ」とかいう考えは誤りであること、②「賃上げ闘争は、たんにそれに先だつ諸変化の跡を追うものにすぎず」労働者階級は「もろもろの結果とたたかいはしているが、それらの結果の原因とたたかっているのではない」こと、③労働運動は「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとはせず、その組織された力を労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に失敗する」ことを述べています。

 しかし、不破さんは、『賃金、価格、利潤』をテキストにした「講義」で、マルクスがインターナショナル中央評議会で、労働者に「どんな情勢の時でも賃金闘争で頑張らなければダメだという立場」で講演したのを踏まえて、「社会的バリケードをかちとり、『ルールある経済社会』へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだということを」強調した講義をした──不破さんの部下の山口氏の解説──とのことです。

 このように、不破さんは、『賃金、価格、利潤』から、「根性」で頑張って、「ルールある資本主義社会」へ道を開いてゆくことを学び、そのことが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道であり、日本の勤労人民の「肉体的および精神的再生」へ道であると言い、マルクスは、資本主義的生産様式の搾取の仕組みを明らかにして、資本主義的生産様式の社会の変革の必要性を訴えました。

 このように、不破さんとマルクスとでは、まったく観点が異なります。

※詳しくは、ホームページの4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を『「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく』闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」ホームページの4-2「☆不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない。」とを、是非、ご覧下さい。

 

2、資本主義的生産様式の変革の必要性を訴えるエンゲルスとレーニンを誹謗・中傷する不破さん

 不破さんは、『前衛』(2014年1月号)の「『古典教室』第2巻(第三課エンゲルス『空想から科学へ』)を語る」という山口富男氏と石川先生との鼎談で、「レーニンが『国家と革命』で示した未来社会の定式というのは、結局、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです。」と事実を捏造したあと、「人間の全面的な発達が保障される社会ということが、マルクスの未来社会像の核心にあるのです。私が『空想から科学へ』で〝飛んでいる〟点があるといった二つ目は、この問題でした。」とエンゲルスを誹謗し、『国家と革命』と『空想から科学へ』が「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると、これらの著作を読んでいない人たちにしか通じないようなデマを、平気で、言います。

 そして、これらのデマで資本主義的生産様式の社会の変革を隠蔽した不破さんは、資本主義的生産様式の社会の変革を通じて人類は未開から文明へと新しい歴史を切り拓くことができるというマルクスが発見した科学的社会主義の思想を「利潤第一主義」と「人間の能力の発達」の問題にすり替え、一気に、空想的に乗り越えて、「資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、こうして、人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう」、「未来社会では発展の推進力が上部構造に移ってゆきます」と、前へ進んでいきます。

 不破さんがここで言っている『国家と革命』と『空想から科学へ』に関することは、全くの捏造です。『国家と革命』と『空想から科学へ』で、レーニンもエンゲルスも資本主義的生産様式の社会の変革の必要性を強く訴えるとともに、不破さんが『前衛』(2014年1月号)で抽象的に述べている以上に人間の発達についての深い洞察をおこなっています。大体において、科学的社会主義の思想──マルクス・エンゲルスが発見し、レーニンが発展させた思想──は人間の解放の科学です。だから、エンゲルスやレーニンが〝人間の全面的な発達が保障される社会〟を視野の外に置くなどと言うのは、反共文筆家以外にはいないでしょう。不破さんがそこまで堕ちたということなのでしょうか。

 是非、みなさんは、『国家と革命』と『空想から科学へ』を読んで確かめて下さい。とりあえず、ホームページの4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」を読んで、ご確認ください。

 「人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆく」ような社会は、資本主義的生産様式の社会の変革を通じて、生産力の発展と主権者である国民の豊かな発達を通じて実現することができます。しかし、「利潤第一主義が経済発展の最大の推進力」である「資本主義社会」から、一足飛びに、「人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆく」「未来社会」へジャンプする不破さんの「未来社会」はこれとは異なります。 不破さんは、「『生産手段の社会化』が未来社会の土台」などと言ってマルクス主義者を装おうとしますが、「資本主義社会では利潤第一主義が経済発展の最大の推進力ですが、未来社会では、こうして、人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆくでしょう」と言って、資本主義的生産様式の社会の変革を通じて、生産力の一層の発展を基礎として社会の主人公である国民全体の物心両面の豊かな発達を図ろうとするマルクス・エンゲルスとレーニンの思想を否定し、「利潤第一主義」だけを問題にして、一足飛びに、「人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力」になる社会を対置します。国民全体の人間の能力の発達する過程を正しく見ることができません。

 その結果、不破さんの言う「未来社会」は、「自由の国」でも「指揮者はいるが支配者はいない」社会で、労働が依然として「社会の構成員にとって義務的な活動」の社会だそうです。そこでは不破さんのような(ずる)賢い知識人が「人間の能力の発達」を独占した「指揮者」階級として、依然として、「社会の構成員」を「義務的な」労働に駆り立てている社会らしいのです。

 この点については、後ほど、もう少し詳しく紹介しますが、不破さんのエンゲルスとレーニンに対する誹謗・中傷は、不破さんのこのような文脈のなかで行なわれています。

 

3、不破さん独自の「桎梏」論は、資本主義的生産関係を覆い隠し、資本主義的生産様式を変えることの重要性を包み隠す

 「土台で生産力と生産関係の矛盾が発展し、生産関係が生産力(発展──青山挿入)の『桎梏』になったときに社会革命の時代が始まる」と、マルクスが『資本論』で言っているように、科学的社会主義の思想は、「資本主義的生産関係」の中に生産力発展の「桎梏」を見ます。これがマルクスの〝桎梏〟論であり、私たち科学的社会主義の思想を持つものの〝桎梏〟の捉え方です。だから、「生産力と生産関係の矛盾」を注視し、その発展の仕方を研究し、その現れ方を暴露し、資本主義的生産様式の社会の限界を指摘して、その変革を呼びかけます。

 しかし、不破さんは、「人間社会の存続をおびやかす有害物」を「桎梏」と捉え、「桎梏」(生産力と生産関係の矛盾)の一時的な現れである恐慌と、まったく次元の違う地球温暖化や原発を同列にあつかうことによって、科学的社会主義の経済学と革命観・歴史観を滅茶苦茶にし、資本主義的生産関係を覆い隠し、資本主義的生産様式を変えることの重要性を包み隠してしまいます。※詳しくは、ホームページ4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を参照して下さい。

 

Ⅱ、「未来社会」は指揮者はいるが支配者はいない社会だという

 マルクスは『フランスにおける内乱』の第一草稿で、資本主義社会を「共産主義社会」に置き換えるには時間がかかること、そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならないことを述べています。 マルクスは、この場合の「奴隷制」という言葉も、『資本論』等の他の著作物同様、「賃金奴隷制」という意味で使用しており、資本主義的生産関係からの解放と「対(つい)」の概念として使っています。

 しかし不破さんは、「『奴隷制のかせ』からの解放」とは、「自由な生産者の連合という、生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」話で、「指揮者はいるが支配者はいない」という「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」だと言います。不破さんは、労働者階級の団結した力を〝核心〟として「資本主義的生産様式の社会」を変革する〝仕事〟を「生産現場」での「仕事」の問題に矮小化し、〝未来社会〟を「指揮者はいるが支配者はいない社会」に置き換え、科学的社会主義の思想を台無しにしてしまいます。

 問題の〝核心〟が分からない不破さんは、『前衛』2015年5月号で、「共産党」でありながら労働者階級の歴史的使命についての記述を削除してしまった現在の党綱領について、「この見地から、党綱領は」、「『生産者が主役』という問題を社会主義の原則として強調しています」と言って自慢しています。※詳しくは、ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

 

 

Ⅲ、未来社会になっても労働は義務的で辛いものだという

 マルクスは、「諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち」の社会を「いわゆる共産主義社会」と言い、そのような社会での労働について、「労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこと」となると考えており、私たち科学的社会主義の思想を支持する人たちも、皆そのように考えています。

 しかし、不破さんは、物質的生産にあてるべき時間を「必然性の国」と呼び、その理由として、「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動(物質的生産のための活動──青山)は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動」だからだと言い、未来社会においても、労働は「社会の構成員にとって義務的な活動」の域を出ないものと、一面的に、捉えています。

 そして、不破さんは、「結合社会」の理想的な人間関係は「指揮者はいるが支配者はいない」という関係の社会だと考えています。しかし、科学的社会主義の思想の〝未来社会〟、「いわゆる共産主義社会」は、「分業」に「奴隷的に従属する」「精神的労働と肉体的労働との対立」のある社会、不破さんの言う「指揮者はいるが支配者はいない」という社会を超えた、その先にある社会のことです。

 そもそも、「社会の構成員にとって義務的な活動」以外の時間が「自由の国」だとすると、人間は社会的動物であり、各人が社会的義務を分担し果たしているのですから、「自由の国」など無いに等しいでしょう。そして不破さんが「自由の国」だという「余暇」も一定の目標をもって「時間」を消費する場合、例えば、健康維持のためにスポーツクラブへ通う場合、その「時間」は健康維持のための「義務的な時間」となり、それらを除いた「余暇」のなかの真に自由な時間とは、本能と欲求にもとづいて行動できる時間だけになってしまいます。不破さんの言う「自由の国」は、煎じ詰めれば、このようなものです。

※詳しくは、ホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」ホームページAZ2-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。

 このように、不破さんの言う「未来社会」とは、マルクス・エンゲルス・レーニンの考え、つまり、科学的社会主義の思想とはまったく無縁なものですが、このマルクス主義と無縁な不破さんの「未来社会」は「未来社会」=「社会主義社会・共産主義社会」と定義され、マルクス・エンゲルス・レーニンが考えていた、「生まれたばかりの共産主義社会」・「共産主義社会の第一段階の社会」と「発展した共産主義社会」・「共産主義社会のより高度の段階の社会」という区分と発展がありません。だから、不破さんの描く「未来社会」は、こんなにも陳腐な姿になってしまうのです。なお、マルクス・エンゲルス・レーニンが考えていた〝未来社会〟を否定する不破さんのレーニンへのお粗末な言いがかりについて論及は、このページの最後の章である「不破さんの「『資本論』のなかの未来社会論」を読む人へ」の「「補篇:レーニン的未来社会論の克服」について」の項をお読み下さい。

 そして何よりも不破さんがこのような陳腐な「未来社会」しか描けない最大の理由は、一言でいって〝現実を見る目の欠如〟です。

3、不破さんの現実を見る目の欠如

 

Ⅰ、賃金を中心とする待遇改善にしか目がいかず、構造問題を語れない

 不破さんは『前衛』2014年1月号で、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、科学的社会主義の思想を否定する驚くべき発言をしています。「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえるのはおかしいと思い、ほぼ10年間考えてきたという不破さんは、資本主義的生産に内在する「基本的矛盾」から「利潤第一主義」だけを抽出し、資本主義の矛盾を資本の「利潤第一主義」だけに矮小化してしまいます。資本主義の矛盾を資本の「利潤第一主義」だけに矮小化した不破さんは、資本主義的生産様式が生み出す構造問題を視野の外に置いて、「利潤第一主義」を緩和するために、「内部留保を取り崩して」「賃金を上げろ」、「賃金が上がれば経済は成長する」と言い、資本家に「ルールある資本主義」を認めさせて、資本主義社会に生活と権利を守る「バリケード」を築くことに専念するよう、共産党を導きます。

 

資本主義的生産様式の社会の二つの矛盾と不破さん

 マルクスは資本主義の矛盾について、大きく次の二つの矛盾を指摘しています。

 一つは資本主義的生産に内在する矛盾で、一方での無政府的に拡大される生産と無政府的に増大する諸商品と他方での生産者大衆の制限された最終消費という矛盾で、マルクスのいう「基本的矛盾」といわれるものです。このマルクスのいう「基本的矛盾」──資本主義的生産に内在する矛盾──に起因する労働者の生活条件の悪化に対抗するマルクスのたたかいかたと不破さんのたたかいかたについて、一緒に、見てみましょう。

 「生産者大衆の制限された最終消費」を拡大するために、労働者の生活を守るために、賃金を上げるためのたたかいは絶対に必要です。マルクスは、先に見た『賃金、価格、利潤』においても、『資本論』の「労働日」の章においても、この資本主義的生産に内在する矛盾に起因する、労働者の生活条件の悪化に対抗する「社会的障害物」を強要する闘いについて、「もろもろの結果とたたかいはしているが、それらの結果の原因とたたかっているのではない」ことを明確に述べています。そして、マルクスは、労働者の団結の重要性と団結した力で要求を実現することの正当性と重要性を明らかにするとともに、資本の本質をしっかり摑み、労働運動が「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとはせず、その組織された力を労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に失敗する」ことを述べ、労働者の団結を組織して資本主義的な生産関係を変えることこそが、問題の真の解決の道であることを教えています。このようにマルクスは、『共産党宣言』でも『資本論』ででも、「賃金」についても「労働時間」についても、それらの要求の必要性と正当性とともに要求実現の一時的な性格性と根本的な解決のための「社会変革」の必要性、そして、そのための労働者の団結について、いつも一体のものとして私たちに教えています。

 これに対し、マルクスを学び損ねた不破さんは、資本家に「ルールある資本主義」を認めさせて、資本主義社会に生活と権利を守る「バリケード」を築くことで「経済は成長する」と言い、「バリケード」の範囲の中に労働者の意識を閉じ込めてしまいます。不破さんは、「労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のため」の闘いに労働者の意識を発展させるような提起などせず、「バリケード」を築くことの重要性だけを主張して、「未来社会」について、「自由な時間」と「指揮者はいるが支配者はいない」などというノー天気な「未来社会論」の説教を行なって、自画自賛しています。情けない限りです。

 それでは、次に、資本主義のもう一つの矛盾についての不破さんの認識を見てみましょう。

 資本主義のもう一つの矛盾とは、分配関係・生産関係と社会的生産力とのあいだの矛盾と対立で、エンゲルスのいう「根本矛盾」といわれるものです。この「根本矛盾」=「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」があるからこそ、資本主義的生産様式は社会的生産力発展の「桎梏」とならざるを得ないのです。

 ところが不破さんは、前述のように、「人間社会の存続をおびやかす有害物」を「桎梏」と捉えてはばからない人ですから、資本主義的な生産関係・分配関係と生産の社会的性格との矛盾という観点から物事を見ることができず、マルクスの言う「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」のレベルに留まり、そこに安住しています。

 資本が一層の富の蓄積を図るために高い生産性の企業が海外に出て行き、国内産業の「空洞化」が起き、賃金が上がらず非正規雇用が増えると、「賃金を上げろ」「非正規を正規にしろ」と言うだけで、日本の経済構造がどのように変化し、それが分配関係にどのような影響をもたらしているのかを見ようともしません。〝生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾〟というエンゲルスのいう「根本矛盾」を捨て去った不破さんには、二一世紀に新しい生産様式の社会を築く上でカギとなる「経済は資本のためにあるのではなく、経済は社会のため国民のためにある」という思想潮流など感じ取ることができず、将来の日本を作るうえでその土台となる今を正しく見ることができません。相変わらず、「内部留保を取り崩して」「賃金を上げろ」、「賃金が上がれば経済は成長する」という言葉しか頭に浮かびません。

 この「根本矛盾」=「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」があるからこそ、資本主義的生産様式は社会的生産力発展の「桎梏」となるのです。今日の日本の経済・社会の危機の最大の原因である「産業の空洞化」は、グローバル資本によって生産の社会的性格が破壊された結果です。そのことが理解できない不破さんは、「産業の空洞化」には目をつむり、ただただ、「内部留保を取り崩して」「賃金を上げろ」、「賃金が上がれば経済は成長する」と言うだけです。

 そして、日本と世界の現状には無関係に「自由な時間」と「指揮者はいるが支配者はいない」社会の説教を行なっています。何とも恐ろしい「共産主義者」だ。

※資本主義の二つの矛盾についての詳しい説明は、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を、不破さんの資本主義的生産様式の超歴史的な「利潤第一主義」への歪曲については、ホームページ4-11「☆不破さんは「資本主義の矛盾」を「利潤第一主義」に変え、社会主義革命を「資本主義の害悪」の改善に変えようとするのか」ホームページ4-15「☆不破さんによって『空想から科学へ』から資本主義的生産関係の変革の課題が取り去られ、超歴史的な概念としての利潤第一主義の改善が目標になり、〝科学〟が「空想」に変革される。」を、是非、参照して下さい。

 

Ⅱ、経済に関する国際的な視野がない

 不破さんの「未来社会」論には、経済に関する国際的な視野がありません。リーマン・ショックについて、トンチンカンなことを言っているくらいで、日本と日本国民を踏み台にして世界中の人民を搾取しようとしている日本のグローバル資本の行動をどのようにコントロールして世界中の人民との連帯を図るのか、まったく何の考えも持っていません。不破さんは、科学的社会主義を標榜しながら、アメリカやヨーロッパで起こっていることを見ようともしません。

 いま、世界に混乱の種を捲き続けているのは、人権の乏しい国では人々を奴隷のように使い、技術力をもたない生活水準の低い国では低賃金で搾取し、自国の産業は「空洞化」させてまともな仕事の不足を演出して低賃金に甘んじさせる、世界でグローバルに展開する資本群であることは、明らかです。

 グローバルに展開する資本群が、国民が創った富と労働の場を海外に持ち出すことを厳しくチェックするとともに、海外での企業の活動が当該地域の国民の生活の質の向上になるような規範を作ることは、世界中で民族的な対立を煽る右派的な潮流が勢いを増しつつあるなかで、喫緊の課題です。

 世界に文明社会を創っていくことは、「未来社会」論の欠かすことのできない重要な構成要素です。不破さんには国際社会にたいする多くの視点が欠けています。

※国際関係、人民の国際連帯に関するより詳しい内容は、ホームページ2-5「国際社会とどう向き合うか」及びホームページ6-2-23 「国際収支が示す日本経済の深部の深刻さ」を、是非、参照して下さい。

 なお、私は、2-5「国際社会とどう向き合うか」には書きませんでしたが、企業がますます社会的存在になっていることを考えるとき、資本主義社会であっても、企業が配当や自社株買いを行なう場合、その半分程度は国家に帰属させるべきだと考えています。

 また、「企業がますます社会的存在になっていること」と資本主義的生産様式の社会と新しい生産様式の社会との関係の詳しい解明については、ホームページ2-1-5「二一世紀はどこに向かって進んでいるのか」を、是非、参照して下さい。

 

Ⅲ、科学的社会主義の思想と異なる革命観と革命運動の担い手

 不破さんは、①革命運動の担い手を二一世紀になって変えてしまいましたが、②「未来社会」(=発展した共産主義社会)に向かう革命観も科学的社会主義の思想(=唯物史観)とはかけ離れたものです。そして、③革命運動を守り支え、〝革命運動の助産婦〟であるべき〝前衛党〟のあり方と国家のあり方についての考え方も、不破さんとマルクス・エンゲルス・レーニンの考え方とではまったく違います。

 

①革命運動の担い手の位置づけの違い

 これは科学的社会主義の理論のイロハですが、科学的社会主義の思想は、資本主義的生産様式の社会の変革は労働者階級の歴史的使命であり、労働者階級は社会変革の主体であると考えています。

 不破さんと対極にいるレーニンは、レーニン27歳のとき、1897年末に流刑地で執筆した「ロシア社会民主主義者の任務」(全集第二巻P323~342)で、「ロシアの政治体制と社会体制を民主化」することと「階級的体制をうちこわして、社会主義社会を組織する」ことというロシア社会民主主義者の二つの任務を明らかにし、ロシア社会民主党が「実践上で工場労働者のあいだでの活動に自分の全力をそそぐ」必要性を指摘して、次のように述べています。

「われわれの活動は、まず第一に、またもっとも多く都市の工場労働者にむけられる。ロシア社会民主党は、自分の勢力を分散させてはならない。党は、社会民主主義思想をもっとも受けいれやすく、知的にも政治的にももっとも発達しており、人数からいっても、また国内の政治的大中心地に集中されている点からいっても、もっとも重要な、産業プロレタリアートのあいだでの活動に集中しなければならない。だから都市の工場労働者のあいだに強固な革命的組織をつくりだすことは、社会民主党の第一の緊急任務であって、げんざいこの任務からそれることは、極度に愚かなことであろう。だが自分の勢力を工場労働者に集中する必要をみとめ、勢力の分散を非難しながらも、われわれは、ロシア社会民主党はロシアのプロレタリアートと労働者階級の他の諸層を無視するものだと言うつもりでは、まったくない。けっしてそんなことはない。ロシアの工場労働者は、その生活条件そのものによって、ごくしばしば、クスターリ──都市や農村で工場の外にちらばっていて、ずっと悪い条件におかれているこの産業プロレタリアート──ともっとも密接な関係に立たないわけにはいかないのである。ロシアの工場労働者はまた農村の住民とも直接に接触しており(工場労働者が農村に家族をもっていることはめずらしくない)、したがって、農村プロレタリアート、すなわち、職業的な雇農や日雇いの幾百万の大衆にも、またみじめなかけらほどの土地にしがみついて、雇役やあらゆる種類の臨時の「手間仕事」、つまり、同じ賃仕事をしている零落農民にも近づかないわけにはいかない。ロシアの社会民主主義者は、自分の勢力をクスターリや農村労働者のなかへ差しむけるのは適切でないと考えているが、しかし、この層に注意をはらわずに放置するつもりはまったくなく、クスターリや農村労働者の日常生活の問題についても先進的な労働者を啓蒙することにつとめる。こうして、それらの先進的な労働者が、プロレタリアートのよりおくれた諸層と接触するさいに、彼らのなかに階級闘争や社会主義や、一般的にはロシア民衆の、特殊的にはロシア・プロレタリアートの政治的任務の思想をもちこむことのできるようにするであろう。都市の工場労働者のあいだにこれほどたくさんの仕事がのこっているうちは、クスターリや農村労働者のところに煽動者をおくるのは実際的でないが、しかし社会主義者の労働者は、多くの機会におもいがけなくこういう層に接触することがあるものであって、そこで彼らは、これらの機会を利用する道を心えていなければならず、ロシアにおける社会民主党の一般的任務を理解しなければならないのである。だから、ロシア社会民主党は見識が狭く、工場労働者だけを見て勤労住民の大衆を無視しようとつとめているといって非難するものは、ひどい考えちがいをしているのである。それどころか、プロレタリアートの先進的な諸層のあいだでの煽動は、ロシアのプロレタリアートの全体をも目ざめさせる(運動が拡大するにつれて)ためのもっとも正しい唯一の道である。都市の労働者のあいだに社会主義と階級闘争の思想とがひろがれば、もっと小さな、もっと細分された水路へも、かならずこれらの思想をそそぎこむであろう。そのためには、上述の思想が、いっそうよく準備のできた環境のなかにもっと深く根をおろして、ロシアの労働運動とロシア革命とのこの前衛のあいだに、十分にしみとおることが必要である。」と。

 そしてレーニンは、資本主義社会で最も抑圧されている労働者階級のあいだでの活動に自分の勢力を集中して、学び、宣伝し、組織することを通じて科学的社会主義の思想をひろめ、労働者がその歴史的使命をしっかりと自覚すれば、大きな力を発揮することができのこと、そして、労働者だけが最後まで民主主義を徹底することができ、他のすべての勢力を前方へ駆り立てることができることを述べています。

※詳しくはホームページ「A・科学的社会主義」の「2、マルクス主義者と、その生き方」の「2-7 社会民主主義者の実践活動──2つの任務」のPDFファイルを参照して下さい。また、合わせてホームページ「B・党」の「4、綱領、綱領上の任務、党、党(員)の任務」PDFファイルも、是非、参照して下さい。

 対する不破さんは、労働者を搾取する私的資本主義的取得の変革を「夢がない」と否定し、「夢のある自由の国」の実現のために日本共産党の綱領から労働者階級の歴史的使命を取り除き、『前衛』2015年4月号では労働者階級を「社会変革の闘士」に格下げしてしまいました。不破さんは、その「仰天思想」の実現のために、労働者を「社会変革の闘士」として、「電話かけ」に酷使しようというのです。

※「革命運動の担い手の位置づけの違い」についての、詳しい内容は、ホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

 

②科学的社会主義の革命観と不破さんの革命観の違い

 科学的社会主義の革命観は、資本主義的生産様式の社会の分配関係・生産関係を変え、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織することを通じて」社会主義社会(=「生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階の社会」)を実現していくなかで、一人ひとりの国民が新しい社会の構成員として能力と個性を伸ばしていくことです。

 これに対し、不破さんは、このような従来の理論は「不破さんの仰天思想」と両立するものでないと言い、不破さんの未来社会論は、「自由な時間」の拡大と「指揮者はいるが支配者はいない」という「生産現場」(民主的な職場)作りだというのです。

 確かに、資本主義的生産様式の社会の変革と、不破さんの言う「自由な時間」の拡大と「指揮者はいるが支配者はいない」民主的な職場作りとは、次元の違う、「両立するものでない」。不破さんのこの主張は、正しい。

※「科学的社会主義の革命観と不破さんの革命観の違い」についての、詳しい内容は、ホームページ4-13「☆レーニンの資本主義観、社会主義経済建設の取り組み、革命論への、反共三文文筆家のような歪曲と嘲笑、これでもコミュニストか」及びホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

 

③〝前衛党〟のあり方と国家のあり方についての違い

  ちょっと古い話ですが、いまから40年近く前に、政治学者の田口富久治氏と当時日本共産党の書記局長だった不破哲三氏との間で「前衛党」は分派を認めるべきかどうかをめぐって、不毛な空中戦が行われ、その中で、ソ連の党が大衆のなかでの権威を、自分の「無制限な」権利のうえに築いたことについて、これまた不毛な「論戦」がおこなわれました。その内容を、ごくごく大雑把に見てみましょう。

 

考える芽をつみ党を崩壊させる、民主なき「集中制」

 まず、「前衛党」のあり方について、田口氏が、スターリンが「『批判の自由と行動の統一』という意味で理解されてきた『民主集中制』の原則」を変質させることによってスターリンの「個人独裁」が成立したと言うと、不破さんは「批判の自由と行動の統一」というのは党内に革命的潮流と日和見主義的潮流が混在した1912年までで、「新しい型の党」は「批判の自由と行動の統一」を「民主集中制」の構成要素としていないと言います。

 不破さんは、「新しい型の党」である「日本共産党」について、「党大会が開かれるときには、議案について全党討議がおこなわれ、少数意見が一定の比重をもって存在する場合には、代議員選挙を通じてその意見を党大会に反映することができるし、代議員は、どんな反対・修正の意見でも、党大会で自由に開陳することができる。……とくに重要な意義をもつ問題の全党討議のさいには、特別の討論用機関紙(誌)を発行して、個々の党員の意見でもその内容が全党に知らされ、事前の討議が十分におこなわれるよう、特別の努力がはらわれてきた」と言い、だから、「民主」が確保されているといいます。

 しかし、それは、宮顕さんが指導部の中心にいた頃の話です。残念ながら、現在の「共産党」に「民主」が確保されているという不破さんの認識は事実と異なります。日本共産党に「民主」がどう欠落しているのか、実態を見てみましょう。

  党の「規約」には、党員の権利として「党の会議で、党の政策、方針について討論し、提案すること」、「中央委員会にいたるどの機関にたいしても、質問し、意見を述べ、回答をもとめること」、「出された意見や提起されている問題、党員からの訴えなどは、すみやかに処理する。党員と党組織は、党の政策・方針について党内で討論し、意見を党機関に反映する」旨の立派な規定があります。しかし、共産党の基礎組織は「支部」という少人数の蛸壺のような組織からなっており、この蛸壺のような組織から党員や支部の意見が広く他の党員や支部へ伝わる仕組みはなく、機関に党の政策・方針について提案や意見を述べても、それについての回答はきたことがないのが通例であり、万一回答がきたとしても、それは当事者である党員や支部と関係機関との一対一の対応関係になっています。

 そのような条件・状況のもとで、「国際的・全国的な性質の問題については、個々の党組織と党員は、党の全国方針に反する意見を、勝手に発表すること」が禁止されており、党として集団的に組織員全体の考えを認識するための機能と条件がありません。『前衛』等に掲載された「論文」への疑問という最低限の意見表明というかたちで読者の投稿欄に投稿しても採用されることはなく、投稿欄はそれらの「論文」を礼賛する感想で埋め尽くされています。中央の方針とそれにもとづく「成果」だけが、機関紙・誌や会議等を通じて、一方的に流される仕組みになっています。

 このような条件のもとで、定例の地区党会議以上の機関の会議で限られた時間の中で中央委員会の方針と異なる意見を述べた場合、十分な議論を尽くせば多数となるような考えの表明であっても、多数意見となる蓋然性はありません。

 このように、現在の日本共産党には、「共通の認識」を得るために「民主的な議論をつくす」という前提条件が欠けており、一人ひとりの視野と能力の拡大・発展よりも「指揮者」に従うことが求められています。このような「民主」集中制と「機関」の構成員の「信頼に満ちた」(白紙委任的な)不思議な選出方法が「党が自分の誤りを再検討し、それを訂正しようとしない」ような条件をつくりだしています。

 その結果、党中央は独占資本の行動の分析を怠り、現実にあわない提起をし続けることができます。70年代以降、ロシアや戦前の日本のように党員が大量逮捕されたり殺されたりすることもなく、公然と自由にはっきりした言葉で党の主張を国民に伝えることのできる時代、レーニンが生きていれば夢のように感じるであろう時代、同時に資本主義的生産様式のたそがれ時として、産業の空洞化がすすみ、ほんとうに危機的な状況に日本経済と日本社会が陥り続けている時代に、党はますます活力を失っています。議員のなり手がいないからといって、国民大衆との結びつきもない定年退職後の党員が立候補し、選挙の手引きが役にたつと党中央に「低級紅」ぶりを発揮して、『赤旗』を賑わしています。「人民的議会主義」もへったくれもありません。

 なお、不破さんが「論争」をいどんだ田口氏の論文『先進国革命と前衛党組織論』には上田耕一郎氏の文章が引用されており、その中に「党内民主主義は、前衛党が宣伝団体から構造的改良の党へと成長するとともに、いっそう重要性を増す」という文があります。 日本共産党は、先述のレーニンの「ロシア社会民主主義者」の「二つの任務」からも学び、資本主義的生産様式のもとでの民主主義の確立をめざすとともに、資本主義的生産様式そのものの矛盾と限界を克服して新しい生産様式の社会への展望と正当性、必然性を訴え、その実現のために行動してきました。上田耕一郎氏の言う「前衛党が宣伝団体から構造的改良の党へ」の成長という見方は、科学的社会主義の思想からかけ離れた誤った考えです。同時に、「党内民主主義は、……いっそう重要性を増す」というのも誤っています。

 しかし、不破哲三氏は、お兄さんの意志を継いで「前衛党」を「宣伝団体から構造的改良の党」へと〝転進〟させようとしているようです。不破さんが影響力を行使し続ける日本共産党の現指導部は、人民が社会変革の主体であり党はその援助者であるという〝by the people〟の思想を忘れ、マルクス主義の闘争の根幹である曝露・宣伝・煽動を放棄して「宣伝団体」を卒業し、「賃金が上がれば経済は成長する」と言って、「利潤第一主義」の改善をめざす「資本主義の構造」改良の党、改良主義の党、「構造的改良の党」へと党を変質させています。そして、上田耕一郎氏は、「党内民主主義は、……いっそう重要性を増す」と言っていますが、集団的認識と党内民主主義は科学的社会主義の党の必修要件であり、〝党内民主主義〟は絶対的に必要なものです。「党に民主がない」から〝正しい方針〟を持てず、「党が正しい方針を持てない」から「党」は「ますます活力を失って」しまうのです。

 科学的社会主義の党ならば、より闊達な討論を通じて真理に近づく方策を積極的に探究し、意志を統一して、一層団結を強めるべきなのです。激烈な階級闘争がたたかわれたレーニンの時代にもなかった蛸つぼ内に意見を閉じ込めるような組織原則は、中央「独裁」をもたらす有力な手段の一つといってまちがいありません。

 不破さんの「未来社会論」には、そのような問題意識のかけらもなく、あるのは「指揮者はいるが支配者はいない」という自らが「支配者」であることを隠蔽する言葉だけです。※詳しくはホームページ「新しい人、新しい社会」→「共産党よ元気をとりもどせ」→「民主主義を貫く党運営と闊達な議論の場の設定を」を見て下さい。

 

〝by the people〟の視点を欠く不破さんの国家観

 田口氏との「論争」で、不破さんは、ソ連の党が大衆のなかでの権威を、自分の「無制限な」権利のうえにきずいたことについて、「スターリン的専制の一時代を生みだした歴史的要因は」、「スターリン個人の性格や資質だけに帰せられるべきものではない」と述べ、原因を「旧国家機関の残存物」と「全般的な文化水準の低さ」に求めました。その結果、不破さんによればスターリンの専制は「『官僚主義』をスターリンの専制というもっとも極端な形態にまで肥大化させた」問題、官僚主義の肥大化の問題となってしまいました。そして、この不破さんの考えはいまも変わっていません。

 しかし、この「旧国家機関の残存物」と「全般的な文化水準の低さ」による官僚主義の肥大化を悪の根源とする不破さんの考えは、根本的に間違っています。確かに、「旧国家機関の残存物」や「全般的な文化水準の低さ」は突破すべき障害です。しかし、問題は、レーニンがマルクス・エンゲルスから学び、これらの問題を突破しようとして最も重視してきた、社会主義社会を築くための〝新しい芽〟をスターリンがその「性格」と「資質」によって踏みつぶしてしまったことにあます。その責任の多くは「スターリン個人の性格や資質」に「帰せられるべきもの」で、「旧国家機関の残存物」や国民の「全般的な文化水準の低さ」のせいにして、「指揮者」の不作為の責任を免罪すべきものではありません。不破さんのこのような考えは、マルクス・エンゲルス・レーニンの考えとまったく異なり、パリ・コミューンなどなければよかった、ロシア革命などなければよかったという考えに通じるものです。

 残念ながら、この二人の「議論」「論争」には〝by the people〟の視点がまったく欠落していました。「論争」の中で不破さんは、「全住民が行政に参加するときにだけ」という文を含んだ文章を引用していますが、不破さんには、残念ながら、その意味がわかりませんでした。マルクス・エンゲルス・レーニンがパリ・コミューンで学んだことをまったく理解できませんでした。田口氏も不破さんも、お互いに、党が権力を持つことを前提に、分派を認めるか認めないかに問題が収れんされ、不毛なものになってしまいました。この二人にはマルクス主義がないので、泥棒のケンカなら(曝露合戦によって)社会的に意味がありますが、マルクス主義を理解していない者同士のののしりあいには何の意義もありませんでした。

  「スターリンの専制」を許したのは、「官僚主義の肥大化」ではありません。最大の問題は、レーニンの言う、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織する」ことが欠けてしまったからです。もちろん、「指導」党に問題があるのは言わずもがなです。

 もしも、不破さんに、科学的社会主義の思想の持ち主であらんと思う心が少しでもあるのなら、もう一度じっくりと下記のレーニンの言葉を読み、深く考えて欲しいと思います。

「わが国の革命がおこなっていることが偶然ではなく──われわれは、それが偶然ではないことを、深く確信しているが──、またわが党の決定の産物でもなくて、マルクスが人民革命と名づけたあらゆる革命、すなわち、人民大衆が、古いブルジョア共和国の綱領を繰りかえすことによってではなく、彼ら自身のスローガンにより、彼ら自身の奮闘によって、みずからおこなうあらゆる革命の不可避的な産物であるなら、もしわれわれがこのように問題を提出するなら、われわれはもっとも重要なものをなしとげることができるであろう」(レーニン全集第27巻P138)

※田口富久治氏と不破さんの「論争」については、ホームページ5「温故知新」→5-3「レーニンの大切な考え」の中のPDFファイル「レーニンが生きた時代の特殊性から学ぶ」を、是非、参照して下さい。

 

Ⅳ、不破さんは科学的社会主義の思想の持ち主でないことを自ら告白する

 不破さんは、現実を見る目が欠如していますから、『前衛』2015年5月号の「社会変革の主体的条件を探究する」というタイトルの文章のなかで、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と社会変革の客観的条件をまったく探究できないことを、堂々と、告白しています。

 「社会変革」を「予測」するとは、いかにも不破さんらしい文章表現です。

 論語読みの論語知らずの不破さんは、自ら編集したマルクスの書簡集(1)の1865年2月18日付けのマルクスからエンゲルスへの手紙の中に、次のような文章があるのを覚えているでしょうか。

「労働者党も、もしビスマルク時代とか他のなんらかのプロイセン時代によって王様の恩寵のおかげで金のリンゴが自分の口にころがりこんでくると思い込むならば、もっとずっとひどい物笑いの種になるでしょう。プロイセン政府の社会主義的干渉というラサールのいまわしい幻想にたいする幻滅が現われるであろうということは、少しも疑問の余地がありません。事物の論理がものを言うでしょう。しかし、労働者党の誇りは、このような妄想の空虚さが経験によってはじけるより前に、そのような妄想を退ける、ということを要求しています。労働者階級は革命的なのであり、そうでなければそれはなにものでもないのです。」

 覚えていなくても、科学的社会主義の思想を学ぼうとするするものがこの文章を読めば、合点して、前衛党の役割を再確認することでしょう。科学的社会主義の思想を会得した人は「事物の論理」を理解しているから、支配階級がふりまく「妄想の空虚さが経験によってはじけるより前に、そのような妄想を退ける、ということ」が求められているのです。それが、科学的社会主義の思想を会得した前衛党の役割なのです。

 しかし不破さんは、「社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と、いまの資本主義社会の矛盾がどのように現れているのかをつかめず、社会変革の客観的条件をまったく探究できないことを、堂々と、告白しているのです。科学的社会主義の思想の持ち主としては失格ですが、「桎梏」についての独創的な持論に基づいて、何でもかんでも「資本独占の『桎梏』化」の現れとして現代の危機を描くのですから、「この危機的な世界」なるものがどんな「世界」のどんな「危機」なのかも、分からないのは当然といえば当然なのでしょう。

 このような人が「未来社会」を論じるのですから、不破さんの描く「未来社会」は先に見たような陳腐な姿にならざるを得ないのです。

※不破さんの「社会変革の主体的条件を探究する」というタイトルの文章の詳しい解説は、ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

4、不破さんの『「資本論」のなかの未来社会論』を読む人たちへ

 

不破さんの『「資本論」のなかの未来社会論』を読む人たちへ

 不破さんの『「資本論」のなかの未来社会論』に〝ケチを付けたい〟のなら、正面から『「資本論」のなかの未来社会論』を取り上げて批判すればよいではないか、と思われるかもしれません。もっともなことです。

 しかし私は、不破さんの著書『「資本論」のなかの未来社会論』の誤りの暴露ではなく、〝マルクスと無縁な不破さんの「未来社会論」〟の全体像を明らかにすることを、このページの主たる仕事とし、〝不破さんの描く『未来社会』の陳腐な姿〟を紹介し、そのような「未来社会論」を生む不破さんの「現実を見る目の欠如」をみなさんに知っていただくことを、このホームページの目的としました。

 その理由の第一は、今回出版された不破さんの著書は、「主な目次」によると、不破さんの「未来社会論」の全体を現しているものではないので、不破さんの著書を読まれた方がこのページを読んで頂くことによって、この機会に、不破さんの言っていることの本当の意味をトータルに理解していただくことができると思ったからです。

 そして、第二の理由は、不破さんの「未来社会論」は、これまでの不破さんの著作の中で基本的に言い尽くされており、発展の可能性をもたず、新たな検討課題を提起する余地などありません。だから、私は、不破さんの『「資本論」のなかの未来社会論』を読んでいませんし、今後も読む予定などないガラクタだと思っており、『「資本論」のなかの未来社会論』をこのホームページで取り上げること自体ムダだと考えているからです。

 しかし、不破さんの『「資本論」のなかの未来社会論』を読まれる方は科学的社会主義の思想を学ぶ意欲をお持ちの方でしょうから、不破さんの『「資本論」のなかの未来社会論』に惑わされてはいけない人たちです。だから、お節介にも、『「資本論」のなかの未来社会論』の範囲を越える不破さんの「未来社会論」の批判を、科学的社会主義の思想にもとづいて、行なわせていただきました。

 ですから、『「資本論」のなかの未来社会論』の誤りを知るには、このページとこれまでの不破さんの謬論の全てを暴露したホームページ4「不破さんの思い違い」の各ページをお読みいただければ、もう何も補足することはないと思いますが、「各ページを読め!!」ではあまりにも不親切なので、不破さんの『「資本論」のなかの未来社会論』の各編の〝不破マジック〟の種明かしのためのページを、『「資本論」のなかの未来社会論』の各編に沿って、紹介させていただきます。なお、参照していただくホームページについては、これまで紹介したページと重複しているものが多数ありますが、ご了承ください。

 

「第一篇 資本主義の『必然的没落』の法則性をつかむ」について

 不破さんは、マルクス・エンゲルス・レーニンと異なり、資本主義的生産様式の矛盾の根源を超歴史的な「利潤第一主義」に求め、すべての「人間社会の存続をおびやかす有害物」を資本主義社会の「桎梏」とみなすという、資本主義的生産様式の社会の矛盾の誤った捉え方と資本主義社会の「桎梏」についての非科学的な捉え方から、資本主義の「必然的没落」を導き出すという誤った考えに立脚しています。だから、「二一世紀の資本主義は危機的な時代を迎えている」と、分かったような、勇ましいことを言っても、先ほど見たように、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と社会変革の客観的条件をまったく探究できないことを告白する以外なにも「探究」することができません。

 不破さんのこの「篇」の誤りをよりよく理解するために、ホームページ4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を、是非、参照して下さい。

 

「第二篇『生産手段の社会化』でどんな社会が生まれるか」について

 不破さんがこの「篇」で『資本論』からどんな「未来社会」を「発見」するのか、これまでの不破さんの「研究」から見てみましょう。

 最初の「『資本論』冒頭での未来社会論の登場」という「節」は、これまでの不破さんの「研究」での「発見」からして、『資本論』「第一篇」「第四節 商品の呪物的性格(物神的性格)とその秘密」のなかで、「一つの自然法則にまで神秘化されている資本主義的蓄積の法則(大月版『資本論』② P810)」に支配されている資本主義的生産様式の社会の「人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係」に比べ、社会主義社会(生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階の社会)では、「生産においても分配においてもやはり透明で単純である」(大月版『資本論』① P105)ことを述べた箇所を扱ったものと思われます。

 これは、分配の資本主義的な性格を剥ぎ取った姿について述べたもので、『資本論』の第三部でも、より詳しい、同様の内容の文章があるので紹介します。

「とにかく、労賃をその一般的な基礎に、すなわち労働者自身の労働生産物のうちの労働者の個人的消費にはいる部分に、還元するとしよう。この分け前を資本主義的な制限から解放して、一方では社会の現存生産力が(つまり現実に社会的な労働としての彼自身の労働の社会的生産力が)許し他方では個性の十分な発展が必要とする消費範囲までそれを拡張するとしよう。さらに、剰余労働と剰余生産物を、社会の与えられた生産条件のもとで一方では保険・予備財源の形成のために必要な、他方では社会的欲望によって規定された程度での再生産の不断の拡張のために必要な限度まで縮小するとしよう。最後に、第一の必要労働と第二の剰余労働とのうちに、社会の成員のうち労働能力のある者がまだそれのない者やもはやそれのない者のために常に行なわなければならない労働量を含めるとしよう。すなわち、労賃からも剰余価値からも、必要労働からも剰余労働からも、独自に資本主義的な性格をはぎ取ってしまうとしよう。そうすれば、そこに残るのは、もはやこれらの形態ではなくて、ただ、すべての社会的生産様式に共通な、これらの形態の基礎だけである。」(大月版『資本論』⑤ P1119B6-1120F4)

 マルクスは、『資本論』のなかで、常に、資本主義的生産様式のもつ矛盾と「新たな社会の形成要素」と「古い生産様式の解体の諸要素」の発展を一貫したテーマにしてきましたが、同時に一貫したテーマとして常に意識していたのが資本主義的生産様式の社会と新しい生産様式の社会との違いです。上記の文章も資本主義的生産様式の社会と新しい生産様式の社会との違いを明らかにしたものです。

 不破さんは、『資本論』等の「解説」のなかで、「突然現れた未来社会論」等の表現をよく使いますが、マルクス・エンゲルス・レーニンにおいては、資本主義的生産様式の社会と新しい生産様式の社会とは〝対〟で認識されています。〝新しい生産様式の社会〟は『資本論』のなかで、突然、幽霊のように現れるものではありません。

 『資本論』を読むとき、資本主義的生産様式のもつ矛盾と「新たな社会の形成要素」と「古い生産様式の解体の諸要素」の発展について、資本主義的生産様式の社会と新しい生産様式の社会との違いについて、常に意識して読むようにしましょう。

 次の「節」の表題は「『生産手段の社会化』が未来社会の土台」となっています。

 しかし、不破さんは、先に見た『賃金、価格、利潤』の学習会においても、肝心要のこのことには触れず、生産と分配の仕方を変えること──生産手段の社会化──を訴えるレーニンを激しく攻撃し、「従来の社会主義論」について、「たいていが、生産物の分配どまり、経済的土台の変化だけに目を向けて」などと述べて、〝生産手段の社会化〟が〝新しい生産様式の社会〟の根幹であることを否定し続けてきました。

 なお、不破さんには、「生産手段の社会化」以前の問題として、近い将来、日本社会の混乱の最大の原因となるであろう「産業の空洞化」について、まったく眼中にありません。「産業の空洞化」を回復していく力が、〝生産手段の社会化〟の推進力になるのですから、不破さんが「生産手段の社会化」を言っても、何をか言わんやで、現実を見て、現実に立脚したものではない、「社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測」もできないなかでの言葉だけの「生産手段の社会化」以外はなにも出て来ないでしょう。

 そして不破さんは、「未来社会の主要な特徴」として、「生産者が主役の社会になる」、「生産活動のあり方が変わる」、「経済の飛躍的発展の新しい時代が始まる」というタイトルを並び立てますが、レーニンの言う、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織する」という〝新しい人〟を作るうえで決定的に重要なことを欠落させています。

 

「第三篇 国家の死滅と過渡期」について

 「過渡期」にもいろいろありますが、不破さんは、マルクスの言っている「過渡期」の「内容」の違いを無視して、一括りに「過渡期」と言って、マルクスを批判したり自分の都合のいいように解釈したりして、マルクスの「過渡期」論なるものを作り上げ、自分の蘊蓄の深さを誇ります。

 「第三篇 国家の死滅と過渡期」で不破さんの『資本論』の〝誤読のテクニック〟に惑わされないために、不破さんの『資本論』の読解力のなさと、読解力のなさからくる誤読にもとづくマルクスに対する誹謗・中傷がどんなに誤ったものであるのか、一緒に、見てみましょう。

 

不破さんは、「資本主義的所有の社会的所有への転化」を「資本主義から共同社会への転化」に読み替えてマルクスを批判する

 目次には、この「篇」のはじめに「『資本論』第一部初版(1867年)での記述」という「節」があります。この「節」に関して、不破さんがこれまでに取りあげた、誤読にもとづくマルクスに対する的外れの誹謗・中傷を見てみましょう。

 不破さんは、『前衛』2015年5月号で、『資本論』から「諸個人の自己労働にもとずく分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的生産経営にもとづいている資本主義的所有の社会的所有への転化よりも、比較にならないほど長くかかる、苦しい、困難な過程である」という文章を引用して、「この(資本主義から共同社会への歴史的──青山注)転化過程は急速に進めることができるだろう。これが、1867年に、マルクスが第一部完成稿の筆をおいた時にえた結論でした」(P119)と述べて、あたかもマルクスがエンゲルスと同様に、「『国有化』で生産手段の社会化を実現する話から、その国家が死滅するという話にすぐ行く」(注『前衛』No904(2014年1月号)でのエンゲルスに対する誹謗・中傷の不破さんの発言)と考えていたかのような、巧妙なトリックで私たちを騙そうとします。

 しかし、マルクスがここで言っていることは、「資本主義的所有の社会的所有への転化」は「分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化」よりも比べものにならないほど簡単だということで、「資本主義から共同社会への転化」が簡単だなどと述べているのではありません。「資本主義的所有の社会的所有への転化」は、「事実上すでに社会的生産経営」になっている経営・所有権を独占資本がすなおに社会に引き渡せばすむことで、「分散的な私的所有の資本主義的な私的所有への転化」のときのような「頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてきた」資本の本源的蓄積のときのような蛮行などありません。そのことをマルクスは言ったのです。

 不破さんの次の「節」(「過渡期の研究が始まる(1871年)──パリ・コミューンを転機に」)に関連しますが、マルクスはパリ・コミューンの歴史的意義として、コミューンによって「労働の経済的解放」のための巨大な進歩──資本主義的生産関係からの解放を一挙に実現できること、そしてその時期がきていること──を労働者が学んだことを述べていますが、ここでも、「資本主義的所有の社会的所有への転化」の可能性とその意義について述べているのです。不破さんだってそのくらい分かっていたはずです。確信犯の罪は重い。共産党員を見下してはいけない。

 「『資本論』第一部初版(1867年)での記述」という「節」の記述は、99.99%上記の蒸し返しであること、請け合いです。

 

パリ・コミューンの意義を理解できない不破さんの妄想

 それでは、次に、「過渡期の研究が始まる(1871年)──パリ・コミューンを転機に」という「節」で不破さんが何を妄想するか見てみましょう。

 まずはじめに、パリ・コミューンについてマルクスはどのように捉えていたのか、見てみましょう。

 不破さんが、同じく『前衛』の2015年5月号で、『フランスにおける内乱』の第一草稿の文章を(1)から(5)に分けて掲載しているので、その区分に沿って、その内容を要約して紹介します。

(1)コミューンの組織が全国に確立されると資本家(賃金奴隷の所有者)は反乱を起こすだろうが、それを鎮圧することによって、「労働の経済的解放」の運動は加速するだろう。

(2)資本主義社会を「共産主義社会」に置き換えるには時間がかかる。そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から救いだし(解放し)、対等な人と人との関係をつくりださなければならない。

(3)この資本主義的生産関係を社会主義的生産関係に刷新する仕事、「共産主義社会」をつくる仕事は、既得の権益や階級的利己心の諸々の抵抗によって再三再四妨げられ、多くの困難にあうことを、パリの労働者階級は知っている。

(4)現在の資本主義社会で自然に見えているものが「共産主義社会」で自然に見えてるものものにおきかわるためには、そう見えるようになるための様々な条件が成熟し整わなければならない。そのための長い過程が必要である。それは、奴隷制社会や農奴制社会が新しい社会に代わっていったときそうであったように。そのことをパリの労働者階級は知っている。

(5)このように、「共産主義社会」への道のりは長いが、労働者階級の政府であるコミューンをにぎった労働者は、コミューンが「労働の経済的解放」のための巨大な進歩、つまり、資本主義的生産関係からの解放を一挙に実現できること、そしてその時期がきていることを学んだ。

 以上が要約です。

 不破さんは、『前衛』の2015年5月号で、このマルクスの『フランスにおける内乱』の第一草稿をもとに、マルクスが(2)で「奴隷制のかせから」「救いだす」と言っていることの意味は「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」だと言い、それが「過渡期」の仕事だとマルクスがいっているかのように言い、「自由な生産者の連合という、生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく。この時期を卒業して初めて、資本主義から社会主義への過渡期が終わったと言える、これが、この時、マルクスが到達した『過渡期』論の大事な内容があったのでした」と述べ、そのためにマルクスは「環境と人間をつくりかえる一連の歴史的過程」が必要だと『フランスにおける内乱』でいっていると言います。

 そして、この「節」のタイトルは、「過渡期の研究が始まる(1871年)──パリ・コミューンを転機に」で、このとき(1871年に)、「過渡期の研究」が始まったというのです。

 不破さんは、パリ・コミューンの歴史的意義をまったく理解していないからこそできるのでしょうが、一つの事実誤認──「奴隷制のかせから」「救いだす」と言っていることの意味は「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」だという──と、一つの概念のすりかえ──「自由な生産者の連合」が「生産現場での新しい人間関係」だという──を行なっています

 そして、「未来社会」を「社会主義社会・共産主義社会」と一括りにする不破さんは、資本主義社会から社会主義社会への「政治的な一過渡期」についても、「社会主義社会」(「生まれたばかりの共産主義社会、共産主義社会の第一段階」)と「共産主義社会」(「発展した共産主義社会、共産主義社会のより高度の段階」)との差異についても認識していたマルクスについて、「パリ・コミューンを転機に」1871年に「過渡期の研究」が始まったなどと、二一世紀になって「革命観の転換」をした不破さん同様に、知恵の無い、遅咲きの桜のように言って、自ら創作したストーリーにマルクスをはめ込もうとします。

 

不破さんの事実誤認──ウソ──について

 まず、不破さんの、「奴隷制のかせから」「救いだす」というのは「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」だという意味だという事実誤認──ウソ──について見てみましょう。

 (2)でマルクスは何を言い、「奴隷制のかせ」とは何か、ちょっと長くなりますが、(2)の原文を、『前衛』から転載します。なお、分かりやすいように若干補筆します。

 (2)「労働者階級は、彼らが階級闘争のさまざまな局面を経過しなければならないことを知っている。労働の奴隷制の経済的諸条件(資本主義的生産様式のこと──青山注)を、自由な結合的な労働の諸条件(共産主義的生産様式のこと──青山注)におきかえることは、時間を要する漸進的な仕事でしかありえないこと(その経済的変換)、そのためには、分配の変更(資本主義的生産関係が生みだす資本主義的分配の変更──青山注)だけでなく、生産の(変更、つまり、社会主義的な──青山加筆)新しい組織が必要であること、言い換えれば、現在の組織された労働という形での社会的諸形態(資本主義的生産関係のもとでの社会的労働のこと──青山注)(現在の工業によってつくりだされた)を、(資本主義の賃金──青山加筆)奴隷制のかせから、その現在の階級的性格から救いだす(解放する)ことが必要であり、(労働者階級の──青山加筆)国内的にも国際的にも調和のとれた対等関係をつくりだすことが必要であることを、彼らは知っている」。

 この文章を、私は先に、「資本主義社会を『共産主義社会』に置き換えるには時間がかかる。そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放して、対等な人と人との関係をつくりださなければならない」と要約しました。

 文脈から見ても、「分配の変更」だけでなく「現在の組織された労働という形での社会的諸形態」を変え、「現在の階級的性格から救いだす(解放する)」とは資本主義的生産関係から解放することであり、「奴隷制のかせ」とは資本主義社会において労働者が賃金奴隷制に縛られて生存しなければならない状態をあらわしていることはあきらかです。

  つまり、社会主義社会を作っていくためには、社会を社会主義的生産様式に変えるためには、資本主義的分配を社会主義的分配に変えるとともに労働を真の社会的労働に変えて──一人は万人のために、万人は一人のために──の労働の組織にしなければならないということをマルクスは言っているのです。

 このように、「奴隷制のかせから」「救いだす」とは資本主義的生産様式という「賃金奴隷制」から「解放する」ことで、不破さんが言うように、新しい人間関係を「生産現場」でつくりあげることではありません。不破さんのまったくの事実誤認であり、不破さんほどの知識の持ち主が言う以上、単なる事実誤認の域を超えた、「ウソ」とさえいえるでしょう。

 

「自由な生産者の連合」=「生産現場での新しい人間関係」という概念のすりかえ

 次に、「自由な生産者の連合」が「生産現場での新しい人間関係」だという概念のすりかえについて、見てみましょう。

 まず、不破さんの上記の文章は、『フランスにおける内乱』の第一草稿の(2)と(4)を根拠に言っているものと思われますが、「自由な生産者の連合という、生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」話などまったく出てきません。

 念のために、もう一度、転写します。

 (2)資本主義社会を「共産主義社会」に置き換えるには時間がかかる。そのためにはまず、生産物をどのように分けるかだけでなく、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならない。

 (4)現在の資本主義社会で自然に見えているものが「共産主義社会」で自然に見えてるものにおきかわるためには、そう見えるようになるための様々な条件が成熟し整わなければならない。そのための長い過程が必要である。それは、奴隷制社会や農奴制社会が新しい社会に代わっていったときそうであったように。そのことをパリの労働者階級は知っている。

 このように、これらの文章には「自由な生産者の連合という、生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」話など出てきませんが、しかし、不破さんは、資本主義的生産関係から解放された「対等な人と人との関係」、「自由な生産者の連合」という「人と人との関係」を、「生産現場での人間関係の新しい体制」にすり替え、この「生産現場での人間関係の新しい体制」をつくることが「資本主義から社会主義への過渡期」論で、「マルクスが到達した『過渡期』論の大事な内容」だと言うのです。

 このように、自ら生みだした「生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」という「過渡期」論が「マルクスが到達した『過渡期』論」に格上げされ、共産主義社会が「生産現場」の話に矮小化され、(4)でマルクスが述べていることの意味がなくなってしまいます。

 不破さんが自ら創作したストーリーにマルクスをはめ込んだのはいいが、不破さんの貧困な「未来社会論」のために、とんでもない「過渡期」論になってしまいました。

 マルクスは、新しい社会を作るうえでの困難さ、その道のりについて(2)(3)(4)で述べているが、パリ・コミューンの歴史的意義については(1)(2)(5)で述べられています。つまり、パリ・コミューンの歴史的意義とは、労働者階級の政府であるコミューンを労働者が手にしたことによって、「生産物をどのように分けるか」だけでなく「『奴隷制のかせ』からの解放」つまり「資本主義的生産関係からの解放」、「労働の経済的解放」のための巨大な進歩をなし遂げたということ、そしてそのことによって、現実に労働者階級が歴史の主人公になれるということを証明したということです。

 不破さんは、我田引水のためにパリ・コミューンの歴史的意義さえないがしろにします。こんな不破さんだから、日本の「産業の空洞化」など目もくれず、自ら創作したストーリーに従って「共産党」と党員を疲弊させ続けています。

 

『ゴータ綱領批判』における「政治的な一過渡期」の意味

  最後に、「『ゴータ綱領批判』での前進(1875年)」の「節」に関して、不破さんがこれまで流布してきた的外れな主張を見てみましょう。

 不破さんは、同じく、『前衛』の2015年5月号で、「四年後(『フランスにおける内乱』の四年後──青山の注)に書いた『ゴータ綱領批判』(1875年)では、資本主義社会から共産主義社会への転化に必要な歴史的時期を『過渡期』という言葉で表現しました。これが、マルクスが『過渡期』という言葉を使った最初の文章でした。」(P113)と述べています。

 しかし、ここで使われている「過渡期」という言葉の意味は、「資本主義社会から共産主義社会への転化に必要な歴史的時期」を述べているものでは、まったく、ありません。

 『ゴータ綱領批判』で、マルクスがどのような文脈のなかで「過渡期」という言葉を使ったのか、見てみましょう。

  「資本主義社会と共産主義社会のあいだには、前者から後者への革命的な転化の時期がある。この時期に照応してまた政治的な一過渡期がある。この過渡期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない。」(岩波文庫P53)

 これが、『ゴータ綱領批判』に出てくる「過渡期」という言葉です。

 この文章は、資本主義社会から共産主義社会への「革命的な転化の時期」には、政治権力の確立期としての「政治的な一過渡期」があり、この過渡期の国家は、必然的にプロレタリアートの「革命的独裁」の国家になることを述べたものです。

 そして、ここでマルクスが述べているのは、不破さんが言うような「資本主義社会から共産主義社会への転化に必要な歴史的時期」について述べたものではなく、資本主義社会の「革命的な転化の時期」、「政治的な一過渡期」の「過渡期の国家」がプロレタリアートの「革命的独裁」の国家であることが述べているのであって、「国家制度」の話であって、「生産現場での人間関係の新しい体制をつくりあげてゆく」話などでは、まったく、ありません。

 なお、マルクスとエンゲルスは、「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」(『ゴータ綱領批判』)と言っていますので、プロレタリアートの階級的独裁のもとでの「民主主義的共和制」の国家=「資本主義から社会主義への過渡期の社会」も「生まれたばかりの共産主義社会」と見ていたのではないかと思われます。

 不破さんは、マルクスと『資本論』を自らの修正主義に付き合わせようとして、マルクスは1865年までは正しい資本主義観も、正しい革命観も持っていなくて、未来社会への展望を「研究」し始めたのは1871年になってからだと言うのです。無知ほど恐ろしいものはない、とはこのことをいうのでしょう。

 同時に不破さんは、二一世紀になってマルクスが「資本主義の見方も、革命の見方も変わ」ったことに気づき、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたと言います。つまり、不破さんは、二一世紀になるまで、「資本主義の見方も、革命の見方も」誤っていて、誤った「資本主義の見方」と誤った「革命の見方」でウソをついて共産党を指導し、現在いる共産党員の大部分はだまされて共産党に入ったというのです。

 しかし、事実は違います。現在いる共産党員の大部分はだまされて共産党に入ったのではありません。マルクス・エンゲルスが発見し、レーニンが発展させた科学的社会主義の思想の正しさを宮顕さんが『日本革命の展望』等で明らかにし、それに確信をもったから、日本共産党に入党したのです。1990年代以降、こんな薄っぺらな「考え」しかもつことのできない不破さんの影響力のもとで、共産党は日に日に力を失ってきました。それにもかかわらず、不破さんは日本共産党の社研の所長としてマルクスを修正し、「共産党」の「理論」をコントロールし続けています。

※〈「第三篇 国家の死滅と過渡期」について〉で指摘している詳しい内容は、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」及びホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を、是非、参照して下さい。

 

「補篇:レーニン的未来社会論の克服」について

  「補篇:レーニン的未来社会論の克服」でどんなレーニンの歪曲・捏造をしようとしているのか、不破さんがこれまで「レーニン的未来社会論」として捏造し、レーニンを誹謗・中傷してきたことを簡単に見てみましょう。

 

レーニンが示した未来社会の定式は、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてだという、不破さんのウソ

 不破さんは『前衛』(2014年1月号)で、「レーニンが『国家と革命』で示した未来社会の定式というのは、結局、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです」(P116)と言い、『「資本論」探究』〈上〉では、不破さんが『「資本論」全三部を読む』を刊行した2003~04年(73~4歳のとき)にはまだ、マルクスの未来社会論が、「生産物の分配方式の変化を最大の基準にして未来社会を論じた従来の理論(レーニンが『国家と革命』で理論化)と両立するものでないことにまでは、考えがおよびませんでした。」(P15)と述べています。

 この二つの文章はまったく質の違うことを言っているのですが、言っている本人はまったく理解できていないらしい。

 新しい生産様式の社会への移行の中に〝生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくか〟を見るのは正しい見方ですが、「生産物の分配方式の変化を最大の基準にして」新しい生産様式の社会への移行を見るとしたら大まちがいです。「生産物の分配方式の変化を最大の基準にした未来社会」論が科学的社会主義の思想と相容れないことは、『ゴータ綱領批判』でも『資本論』でも繰り返し指摘しており、マルクス・エンゲルス・レーニンの共通認識です。

 「生産物の分配方式の変化を最大の基準にして」新しい生産様式の社会への移行を見るというのが、不破さんにとって2004年まで「従来の理論」の理論で、いまだに上記の二つの文章の違いも分からず日本共産党の社研の所長としてマルクスを修正し続けているというのですから、驚きです。一刻も早く、〝殿、ご乱心!!〟と言って、後ろから羽交い締めにして退治すべきです

 参考に、〝生産物の生産と分配の仕方〟についてマルクスが論及している文章を二つ紹介します。

 

生産諸条件の分配を変えなければ消費諸手段の分配は変わらない

「これまで述べてきたことは別にしても、いわゆる分配について大さわぎをしてそれに主たる力点をおくことは、なんといっても誤りであった。

 どんなばあいにも、消費諸手段の分配は生産諸条件の分配そのものの結果にすぎないのであって、生産様式そのもののひとつの特徴をなすのは生産諸条件の分配のほうである。たとえば資本主義的生産様式の基礎は、物象的な生産諸条件が資本所有と土地所有という形態で働かざる者たちに分配されている一方、大衆は人格的な生産条件つまり労働力の所有者でしかない、ということにある。生産の諸要素がこのように分配されているからこそ、消費手段の今日のような分配方式がおのずからうまれているのである。」(マルクス『ゴータ綱領批判』(ドイツ労働者党綱領評注)岩波文庫P39-40)

 

「分配関係」と「生産諸力」とのあいだの矛盾と対立

「だから、いわゆる分配関係は、生産過程の、そして人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、またこの諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表しているだけである。資本主義的分配は、他の生産様式から生ずる分配形態とは違うのであって、どの分配形態も、自分がそこから出てきた、そして自分がそれに対応している特定の生産形態とともに消滅するのである。

 ただ分配関係だけを歴史的なものと見て生産関係をそういうものと見ない見解は、一面では、ただ、ブルジョア経済学にたいするすでに始まってはいるがしかしまだとらわれている批判の見解でしかない。しかし、他面では、この見解は、社会的生産過程を、変則的に孤立した人間がなんの社会的援助もなしに行なわなければならないような単純な労働過程と混同し同一視することにもとづいている。労働過程がただ人間と自然とのあいだの単なる過程でしかないかぎりでは、労働過程の単純な諸要素は、労働過程のすべての社会的発展形態につねに共通なものである。しかし、この過程の特定の歴史的な形態は、それぞれ、さらにこの過程の物質的な基礎と社会的な形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したということがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立とが、広さと深さとを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。」(『資本論』第3巻 第2分冊『資本論』⑤ P1128-1129)

 この二つの文章からも分かるように、マルクスは、新しい生産様式の社会への移行の中に〝生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくか〟を見るており、これが私たちにとっての〝従来の理論〟であり、不破さんが2004年まで信じ込んでいた「生産物の分配方式の変化を最大の基準にして」新しい生産様式の社会への移行を見るという不破さんにとって「従来の理論」の理論とは異なります。

 だから、「生産物の分配方式の変化を最大の基準にして未来社会を論じた」ものが、不破さんが73~4歳になっても、「両立するものでないことにまでは、考えがおよびませんでした」と言うのには驚きます。しかし、本当は、不破さんは、70歳を過ぎて、資本主義的生産関係を変えて「生産物の分配方式」を変えることを含む「従来の理論」を否定して、共産党を巻き込んだ暴走をはじめたのです。

 不破さんは、「レーニンが『国家と革命』で示した未来社会の定式というのは、結局、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです」と言いますが、レーニンは『国家と革命』の中で、「民主主義を徹底的に発展させること、このような発展の諸形態を探しだすこと、これらの形態を実践によって点検すること等々、すべてこうしたことは、社会革命のために闘争するという任務を構成するものの一つである」(国民文庫P113)と述べ、社会革命と民主主義との切っても切れない関係と民主主義の多彩な発展の必要性について述べています。レーニンは「生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくか」が「すべて」だなどと一言も言っていません。そして、レーニンは、革命後も、社会を民主的に組織するために全力でたたかい続けたことは、周知のとおりです。

 このように、不破さんが述べていることは、またくの、デマです。

※〈レーニンが示した未来社会の定式は、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてだという、不破さんのウソ〉で指摘している詳しい内容は、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」及びホームページ4-18「☆「人間の発達」は資本主義を社会主義に変え、生産力を発展させなければ保障されない〈階級社会の本質を曖昧にし、「生産物の分配の仕方」より「人間の発達」を重視する不破哲三氏〉」を、是非、参照して下さい。

 

不破さんは、「記帳と統制」の概念を「消費物資の分配や統制」と歪曲して非難する

 不破さんは、パリ・コミューンとロシア革命からマルクス・エンゲルス・レーニンが汲みとった〝by the people〟の思想がまったく理解できませんから、レーニンの言う「記帳と統制」が、「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織すること」であり、「資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展とを結びつける」ものであることが理解できません。

 不破さんは、〝神の手〟を使って「秩父原人」を発見した人のように、レーニンが「経済的変革を意識革命から始めようという根本路線」を持っていたと捏造し、レーニンのいう「記帳と統制」の概念を「消費物資の分配や統制」のことだと歪曲・矮小化して、勝手な推測をまじえて自ら創作した「記帳と統制」を攻撃します。

 不破さんは、その弊害が顕在化し、レーニン自身もその誤りを公然と認めた「市場の廃止」について、あたかもそれだけが、革命直後の数年間の「記帳と統制」のすべてであるかのように言い、「記帳と統制」の概念の歪曲と矮小化をおこなって、「レーニン」と「ロシア革命」の貧弱な姿を私たちに見せようとします。

 不破さんは新経済政策を「市場経済否定路線から市場経済活用路線への転換」と戯画化していますが、新経済政策の〝きも〟は資本(富)の活用と「市場経済」を全人民の「記帳と統制」によってコントロールすることでした。レーニンが「市場の廃止」の誤りを克服して、新しい目で模索した新しい経済政策の基礎は、「生産の無政府性」をなくして、「労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分」を行うための「統制」と「それに関する簿記」を、全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織することを通じて実現していくことでした。

 レーニンには〝by the people〟の思想が、変わることなく、脈々と流れており、レーニンの施策には〝by the people〟の思想が貫かれています。そのことを不破さんは理解できないから、レーニンのいう「記帳と統制」を正しく理解することができず、その今日的な意義もまったく理解できないのです。

 価値の根源を〝資本〟に変え、傍若無人に世界中を動きまわる資本を、現実の価値創造過程から遊離した資本の架空的性格を、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織すること」によって、「記帳と統制」によってコントロールする。そのことを通じて「市場経済」は変革され、搾取の実現の場である「市場(しじょう)」は人々の暮らしを豊かにする〝市場(いちば)〟へと変わって行きます。

 なお、「記帳と統制」の概念の歪曲が載っている『経済』2000年1-2月号には、「市場経済」についての不破さんの驚くべき見識が載っています。不破さんには「市場」と「市場経済」(=資本主義的生産様式のもとでの市場を基礎とする経済)との区別もないので、悪びれることなく、できの悪い落語家の「謎かけ」のような理論構成をもって、「何十億回となくくりかえされる」「市場経済」は神聖な「公理」だから、触れてはいけないと、堂々という始末です。

※だいぶ端折ってしまいましたが、不破さんの「記帳と統制」の概念の歪曲と「市場経済」不可侵論に関する詳しい解説は、ホームページ4-12「☆不破哲三氏によるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲」を、是非、ご覧ください。

 

不破さんは、マルクスとエンゲルスの〝未来社会〟についての見方を否定し、「未来社会」を「社会主義社会」=「共産主義社会」とのっぺらぼうに見るために、レーニンを悪者に仕立てあげる

不破さんのでっち上げ

 不破さんは、「『資本論』探求〈下〉」で「未来社会を表現する用語について」という「節」を設け、『資本論』の「解説」はそっちのけで、レーニンを悪者に仕立てあげてマルクスとエンゲルスの〝未来社会〟についての見方を否定するために、レーニンが『ゴータ綱領批判』の「注意書き」を見落としたために「独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした」と言って、レーニンへの驚くべき非難をおこないます。

 不破さんは、マルクスが「未来社会への中心問題は『生産手段の社会化』という生産様式の変化にあるのだ、そこを見ないで、もっぱら分配問題で大騒ぎをして、未来社会を分配問題を中心に考えるような誤りに落ち込んではならないよ、という注意書きで、この議論をしめくくっ」たのに、レーニンは「生産物の分配方式の進化にこそ未来社会の発展の尺度があるとし、『労働に応じての分配』を原則とするのが低い段階、『必要に応じての分配』が原則になるのが高度に発展した段階だとする、独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした。これは、マルクスが未来社会の最大の積極的内容がここにあるとした『自由の国』──そこでの人間の能力の限りない発展など、まったく視野の外において(ママ──青山)貧しい未来社会論でした」と述べて、あたかもレーニンが『ゴータ綱領批判』の「注意書き」を見落としたかのように「推測」して〝断定〟し、それを前提に、あたかもレーニンが「二段階発展論」をつくったかのような創作をおこなって、レーニンが「人間の能力の限りない発展など、まったく視野の外におい」た、貧困な頭の持ち主ででもあるかのような非難を行ないます。

 「レーニン批判」の必要からなされた、不破さんのこの文章は、読者への印象操作とそれを前提とした『ゴータ綱領批判』の歪曲と捏造で成り立っていますが、『ゴータ綱領批判』を読めば、不破さんの人間性と人格がよく分かります。

 

『ゴータ綱領批判』でマルクスが言っていること

 まずはじめに、不破さんが「もっぱら分配問題で大騒ぎをして、未来社会を分配問題を中心に考えるような誤りに落ち込んではならないよ」というマルクスの「注意書き」というのは、マルクスが、「ゴータ綱領」が「ラサールの影響をうけて、この綱領は偏狭にも『分配』しか眼中においていない」ことを指摘して、「これまで述べてきたことは別にしても、いわゆる分配について大さわぎをしてそれに主たる力点をおくことは、なんといっても誤りであった。

 どんなばあいにも、消費諸手段の分配は生産諸条件の分配そのものの結果にすぎないのであって、生産様式そのもののひとつの特徴をなすのは生産諸条件の分配のほうである。」(マルクス『ゴータ綱領批判』(ドイツ労働者党綱領評注)岩波文庫P39-40)という文章のことで、資本主義的生産様式を理解しないラサール批判の文章です。

 この認識は、マルクス・エンゲルス・レーニンの共通認識で、この章の冒頭の「レーニンが示した未来社会の定式は、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてだという、不破さんのウソ」という項で明らかにしたように科学的社会主義の思想の持ち主ならば常識ともいえるものです。しかし、科学的社会主義の思想を理解できない不破さんは、「生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくか」ということを「生産物の分配方式の変化を最大の基準にして」と歪曲してマルクス・エンゲルス・レーニンを「ラサール主義者」しているのです。「生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくか」ということと、不破さんの言う「『生産手段の社会化』という生産様式の変化」ということが同じ内容の異なる表現であることを理解できない不破さんは、もう一度『ゴータ綱領批判』の前記の文章を読み直した方がよさそうです。

 そして、マルクスの「労働に応じての分配」と「必要に応じての分配」という「消費諸手段の分配」についての論及は、「生まれたばかりの共産主義社会」と「発展した共産主義社会」とでの「消費諸手段の分配」され方の変化を推論したもので、「未来社会への中心問題は『生産手段の社会化』という生産様式の変化にあるのだ」という〝資本主義的生産様式の社会〟と〝新しい生産様式の社会〟との違いを論じたものではありません。だから、不破さんが、「ところが、レーニンは、この注意書きを見落としたのか」などというのはまったく的はずれの暴論です。

 

〝共産主義社会〟を連続する二つの発展段階の社会と見ることの意義

 不破さんは、的はずれの暴論に続けて、レーニンが「生産物の分配方式の進化にこそ未来社会の発展の尺度があるとし、『労働に応じての分配』を原則とするのが低い段階、『必要に応じての分配』が原則になるのが高度に発展した段階だとする、独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした」と言います。

 しかし、万々が一、レーニンの二つの発展段階のわけ方のなかに正しくないと思われる推論が含まれていたとしても、あたかもレーニンが「独特の二段階発展論」をつくったかのように言って、不破さんのように資本主義社会から生まれた新しい社会を「未来社会」=「社会主義社会」=「共産主義社会」と一律に見て、その差異とその原因を見ないのは、まったくの誤りです。

 私たちは、先に、「2、不破さんの描く「未来社会」の陳腐な姿」の「Ⅰ、「未来社会」の〝自由の国〟とは、余暇時間が増えることだという」で、マルクスが『資本論』で「発展した共産主義社会」を〝自由の国〟と言っていることを見てきましたが、マルクスは『ゴータ綱領批判』でもこのように、「共産主義社会」を「生まれたばかりの共産主義社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」をというように区分し、その違いを明確にしています。

 マルクスもエンゲルスも〝共産主義社会〟を、「生まれたばかりの共産主義社会」又は「共産主義社会の第一段階の社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」又は「発展した共産主義社会」というように区分し、前者を「民主主義」や「平等な権利」が残り、「労働が義務」で「死滅しつつある国家」のある「必然性の国」とみて、後者を「民主主義」や「平等な権利」という概念の不要な、「労働が生活にとってまっさきに必要なこと」となる「国家」のない「自由の国」と見ていました。

 このようにその違いを明確にできるからこそ、資本主義的生産様式の社会の次にくる新しい生産様式の社会の可能性と限界が明らかになるのです。

 不破さんの「未来社会論」が貧困で陳腐で混乱に満ちたものとなる原因は、〝不破さんの現実を見る目の欠如〟とともに「現実を見る目の欠如」が育んだ「未来社会」を「社会主義社会・共産主義社会」と一律に見る貧困な見方にあります。

※〈不破さんは、マルクスとエンゲルスの〝未来社会〟についての見方を否定し、「未来社会」を「社会主義社会」=「共産主義社会」とのっぺらぼうに見るために、レーニンを悪者に仕立てあげる〉に係る詳しい説明は、ホームページAZ-3-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)、「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。完結篇」及びホームページAZ-1-6「不破さんの『資本論』(反面教師)講座の解説」(その6)の「102」を、是非、参照して下さい。

5、最後に皆さんに訴えたいこと

 

最後に皆さんに訴えたいこと

  ここまで、不破さんの「未来社会」論がいかにマルクスの思想とかけ離れているかを見てきましたが、もしも不破さんが善意でこのようなことを言っているのであるとすれば、その原因は現実を歴史的、俯瞰的に正しく見ることができないからでしょう。

 私が皆さんに訴えたいことは、不破さんを反面教師として、今の世界と日本に起きていることを直視して、その打開の道筋を自分の頭で考え、そこから見えてくる新しい世界と新しい日本の姿、そして、そのような新しい世界と新しい日本を創る〝by the people〟の思想の発現のしかたとその発展について、深く考えていただきたいということです。

 日本経済の脆弱性は誰の目にもあきらかになり、日本の経済的、社会的危機は深刻さの度合いを増しています。日本の科学的社会主義の思想を覆ってきた30年間以上におよぶ深い霧を、いま晴らさなければ、私たちは未来に取り返しのつかない禍根を残すことになります。

 みなさん!!日本の科学的社会主義の思想を覆ってきた深い霧を〝by the people〟の力で吹き飛ばすために、騒然たる議論を巻き起こそうではありませんか。このページが、そのための一助になれば幸いです。(2020/12/18)