4-9

☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義 の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。

1、科学的社会主義を否定する不破さんの驚くべき主張。

2、「生産の社会的性格」と「資本主義的取得」との矛盾が、プロレタリアートとブルジョアジーの対立としてあかるみに出る。

3、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態」とは、あい対立し、根本的な矛盾をふくんだ資本主義的生産様式の基本   的な構成要素。

4、マルクスの言う「基本的矛盾」とは、資本主義的生産に内在する矛盾のこと。

5、エンゲルスの言う「根本矛盾」とは、資本主義を終わらせなければ解決しない矛盾。

6、マルクスの言う「基本的矛盾」の緩和の闘いの意味。

7、エンゲルスの言う「根本矛盾」は、どう解消されるのか。

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  マルクスは資本主義の矛盾について二つの矛盾を述べており、一つは資本主義的生産に内在する矛盾で「基本的矛盾」といい、もう一つは分配関係・生産関係と 社会的生産力とのあいだの矛盾と対立で、エンゲルスのいう「根本矛盾」です。この「根本矛盾」=「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」がある からこそ、資本主義的生産様式は社会的生産力発展の「桎梏」となるのです。

科学的社会主義を否定する不破さんの驚くべき主張

不 破さんは『前衛』2014年1月号(No904)で、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえる ことは誤りだと、驚くべき発言をしています。資本主義の矛盾についてマルクス・エンゲルスはどのように考え、私たちはどう捉えたらよいのか、見てみましょ う。

「生産の社会的性格」と「資本主義的取得」との矛盾が、プロレタリアートとブルジョアジーの対立としてあかるみに出る

  エンゲルスは『空想から科学へ』(新日本出版)のP51で「生産の社会的性格」に関して、資本主義は「生産手段を個人の生産手段から社会的な、ただ人間の 集団によってのみ使用できる生産手段に変え」、「生産手段と同様に、生産そのものが一連の個人的行動から一連の社会的行為に変わり、生産物は個人の生産物 から社会的生産物に変わる」ことを述べています。
  そして、P54では「一方では資本家の手に集積された生産手段と、他方では自分の労働力以外にはなにも持ち物がないようにされた生産者とのあいだの分離が 完了した。社会的生産と資本主義的取得との矛盾が、プロレタリアートとブルジョアジーの対立として、あかるみに出てきた。」ことを述べています。
 同時にエンゲルスは、P71で、「社会的生産によってすべての社会の成員にたいして」、「肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を」、「確保する可能性」が存在することも述べています。

「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態」とは、あい対立し、根本的な矛盾をふくんだ資本主義的生産様式の基本的な構成要素

  なぜ、「社会的生産と資本主義的取得との矛盾が、プロレタリアートとブルジョアジーの対立」をあかるみに出すのか。それは、この「社会的生産」と「取得の 資本主義的形態」とは一体になって資本主義的生産様式を構成し、「社会的生産」と「取得の資本主義的形態」とが資本主義的生産様式の矛盾の根源をなしてい るからです。
  「取得の資本主義的形態」を自由にさせれば、「生産の社会的性格」は歪められ生産者自体を貧困に陥れ、「生産の社会的性格」をすべての社会の成員の豊かな 生活のために発展させようとすれば、「取得の資本主義的形態」は影を潜めなければなりません。両者は、あい対立し、矛盾しています。だから、エンゲルスは 「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態」を資本主義的生産様式の「根本矛盾」といっているのです。

マルクスの言う「基本的矛盾」とは、資本主義的生産に内在する矛盾のこと

  マルクスは、資本主義的生産の矛盾について、『資本論』第3巻 第1分冊(大月『資本論』 ④ P306-7)で、ⓐ「社会の消費力は、さらに蓄積への欲求によって、すなわち資本の増大と拡大された規模での剰余価値生産とへの欲求によって、制限され ている。これこそは資本主義的生産にとっての法則」であり、資本主義的生産には「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」 があることを述べています。
  そして、『剰余価値学説史』Ⅲ(レキシコン⑦-[137]P251)では、ⓑ「一方では、生産力の無拘束な発展、および、同時に諸商品から成っていて現金 化されなければならない富の増加、他方では、基礎(グルントラーゲ)として、必需品への生産者大衆の制限、という基本的矛盾」ということを言っています。
  ⓐ「社会の消費力は、資本の増大欲求によって制限されている」。①剰余価値が生産される諸条件(資本の増大欲求によって作り出される諸条件)=「計画的 に+安く+より多く作る」と②それが実現される諸条件(消費の諸条件)=「無計画で+利益の極大化+制限された最終需要」とのあいだの矛盾。
 ⓑ一方の無政府的に拡大される生産と無政府的に増大する諸商品と他方の生産者大衆の制限された最終消費という基本的矛盾。
  この、ⓐとⓑは、基本的に同じことを言っており、これは、資本主義が存立する中で、資本主義が抱えている「生産と消費」の矛盾であり、資本主義的生産に内在する矛盾です。〝恐慌〟はその一時的な解決手段となります。

エンゲルスの言う「根本矛盾」とは、資本主義を終わらせなければ解決しない矛盾。

  マルクスは、同時に、『資本論』第3巻 第2分冊(大月『資本論』⑤ P1129)で、「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあ いだの矛盾と対立」について述べています。これは、先ほど示した、エンゲルスの言う「根本矛盾」と同じものです。
  一方の分配関係、それに対応する生産関係の特定の歴史的な姿(=私的資本主義的分配と資本主義的生産関係)と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力およ び発展(=社会化された生産力とその一つ一つの生産能力およびその発展可能性)とのあいだの矛盾と対立。これは、資本主義を終わらせなければ解決しない資 本主義的生産様式がもつ「根本矛盾」なのです。

マルクスの言う「基本的矛盾」の緩和の闘いの意味。

 こ の、資本主義的生産様式のもとでは、「資本は労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わない」(大月『資本論』 ①P352-353参照)ので、労働者が最低限の生活を確保するためには、資本に対して、「最も簡単な清潔保険設備でさえも国家の側から強制法によって押 しつけられなければならない」(大月『資本論』①P627-8参照)のです。
 「人間材料についてはどこまでも浪費をこととする資本主義的生産」(大月『資本論』④P109参照)に対し、「労働者たちは団結しなければならない、彼らを守る超強力な社会的障害物を、資本に強要しなければならない」(大月『資本論』①P396-397参照)のです。 「ルールある資本主義」の実現とは、マルクスの言うこの「基本的矛盾」を緩和させるためのたたかいで、労働者が最低限の生活を確保するためのささやかな要求を確保するためのたたかいです。
 だからこそ、このたたかいは、同時に、資本主義を終わらせるたたかいの一環としてたたかうことによってのみ意味を持つことを、マルクスは口をすっぱくして述べています。詳しくは、「不破さんの思い違い」のHP「4-1」「4-2」を参照して下さい。

エンゲルスの言う「根本矛盾」は、どう解消されるのか

 しかし、エンゲルスの言う、資本主義的生産様式のもとでの、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」は、これまで見てきたように、「生産の社 会的性格」が全面的に保証される、資本主義に代わる新しい社会=〝国民の新しい共同社会〟の実現なしには解消されません。
 いまや、個々の企業は 労働生産性を上げ、最高益を上げても、これまで生産力の発展に寄与した資本主義的生産関係が、GDPの増大に寄与しない。これまで生産の社会的性格──歪 んで、不完全にではあるが──に寄与し、社会生活を豊かにした資本主義的生産関係は、資本の企業統制力と社会支配力をますます強めるが、社会の福祉を発展 させない。労働者の生活を豊かにした資本主義的生産関係が、資産を持つものは益々富ませるが、好景気でも、貧困を蓄積させる。資本主義的生産関係のもと で、曲がりなりにも、発展していたものが、資本主義の発展によって、資本主義的生産関係そのものを止揚しなければ発展できないように、いまの日本は、なっ てしまった。
「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえるのはおかしいと思い、ほぼ10年間考えてきた という不破さんには、この日本の現実に頭が回らない。不破さんの頭にあるのは、資本主義的生産に内在する「基本的矛盾」から抽出し、資本主義的生産様式を すて去った「利潤第一主義」だけだ。不破さんの頭にあるのは、資本家に「ルールある資本主義」を認めさせて、資本主義社会に「バリケード」を築いてユート ピア(何処にもない理想郷)をつくることだ。
 そのために、仰天するような「桎梏」論を展開したり、資本主義的生産関係の止揚よりも豊かな生活時間の実現のほうが「うらやましい」という。
  そして、不破さんは、日本共産党に最も影響力を持つ人物として、社研の所長として、いま国民に曝露すべき課題などまったく眼中になく、次元の異なる趣味の 連載(スターリンの個人的資質を問い悪行を暴くもの。)を毎月30ページを越えるボリュームで『前衛』に執筆し、豊かな趣味の生活時間を楽しんでいる。
 不破さんは、確かに、自分の信念に従って、豊かな生活時間の実現によって、生活をエンジョイしているのかもしれない。しかし、いま国民が必要としているのは、日本のこの閉塞状況を打ち破る、資本主義的生産関係を止揚するための理論と運動です。
  ※資本主義的生産様式の超歴史的な「利潤第一主義」への歪曲についてはHP「4-11」を、仰天するような「桎梏」論については、「4-3」を、資本主義 的生産関係の止揚よりも豊かな生活時間の実現のほうが「うらやましい」という主張については「4-16」「4-18」及び「4-20」を参照して下さ い。

「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」は、今日の日本にどのように現われているのか

1、資本主義の隆盛期
2、暗転(資本主義の危機)
3、暗転2(したたかな資本の行動)

4、解決
5、解決を阻むもの
6、いま必要なことは何か

「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」は、今日の日本にどのように現われているのか。順をおって見てみよう。

資本主義の隆盛期

  生産が分業化し、あらゆるものが商品化し、「日用品」化して、日用品を大量に作る資本主義的生産は、その絶対量が不足し生産拡大を続けている間は、資本家 はその利益を生産設備の増大に廻して、雇用も増やし、労働者の賃金も少し上げ、労働者の福利厚生も多少よくして、税金も前年より多く払い、それを毎年繰り 返すことができる。もちろんその道のりは平坦ではなく、山あり谷あり、好不景の連続で、恐慌だってある。ここまでは、生産と消費の矛盾は恐慌が解決し、労 働者にも小さい春がやって来る。ここまでは、資本主義的生産様式が生産力の飛躍的発展のためにその歴史的役割を果たす時期だ。
 その間、生産は増加し、賃金も上がり、雇用も増え、社会の富が全体的に増えて国民生活も豊かになり、福祉や公共投資にも資金がまわり、社会全体が豊になる。

暗転

  しかし、これ以上資本主義的生産様式を続けると、資本主義的生産そのものが生産力の発展の〝桎梏〟となり、資本主義的取得形態が社会的生産の〝桎梏〟になるときがくる。 国民の需要が満たされ、事業拡大のできなくなった資本は儲ける続けるために、最初は、需要の範囲内での生産で儲けを増やし続けようとす る。設備投資の必要のなくなった資金を銀行に返し、内部留保を厚くし、必要最小限の設備更新をして生産性を高め、労働者の数を減らし、あれこれ理屈を付け て賃金を引き下げる。これが毎年続くと社会の富の生産は減り続け、社会は停滞する。60年代末から70年代初めに、先進資本主義国には、その徴候が現れだ した。GDPの伸びは急速に低下し、資本主義的生産関係が生産力のさらなる発展の「桎梏」となりはじめた。80年代には、新自由主義イデオロギーを武器に 福祉国家の諸政策の解体がすすみ、欲の深い博打ずきの資本家は国家財政を食い物にしながら、使いみちのないお金をバブルにつぎ込んだ。まさに資本主義の末期だ。
 国民国家を念頭に置いて、今日のグローバル資本の行動など想定していなかった、マルクスやエンゲルスやレーニンも、この現実を見れば、「革命近し」と思った かもしれない。これらの天才的な革命家は資本主義的生産関係が生産力のさらなる飛躍の「桎梏」となり、「社会的生産と資本主義的取得形態の矛盾」が明らか になる中で、後輩の革命家たちが、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」を曝露し、鮮明に浮かび上がらせ、社会主義革命を成就させるものと思ったことだろう。そしてそれは、不可能なことではなかった。そんな情勢もあった。

暗転2

 しかし資本はしたたかだ。国民国家と心中する気など毛頭ない。
  まずはじめは、国民国家のもとで、輸出中心の一本足打法で、国民が作った製品(富)を海外に売りさばくことで儲けることに専念する。マルクスが『剰余価値 学説史』Ⅰで述べている、「節度ある勤勉な国民は、奢侈にふける富裕な国民の需要を満たすためにその活動力を使用する」「貧しい国とは、そこの人民が安楽 に暮らしている国のことであり、富裕な国とは、そこの人民が通例貧しい国のことである」との言葉が身にしみる。輸出超過が永遠に続くならば、資本にとって は問題はない。もちろん、人民にとっては「貧しい国」であり続けるが。
 し かし、貪欲な資本は海外で生産して一層の儲けをえようと行動するようになる。蓄積した富を資本として国内で使用することに限界を感じた資本は海外での資本 蓄積の道を選ぶ。これが30年以上続き、その結果、国内産業の空洞化が起きた。資本の自己増殖本能によって、グローバル資本が海外での資本蓄積への道を選 択することによって、国民みんなで作った富が「生産の社会的性格」を裏切って海外に流出し、国民経済は危機に陥ってしまった。科学的社会主義の思想に基づく曝露のない、現在の日本は、閉塞感に満ちた社会として国民の目に映らざるをえない。これが、資本が国民国家を棄てた、今の日本だ。

解決

 では、どうすればよいのか。
「この解決はただ、現代の生産力の社会的性質を実際に承認し、したがって生産様式、取得様式、交換様式を生産手段の社会的性格と調和させるということのうちにしかありえない」(『空想から科学へ』新日本文庫P66)。
 グ ローバル資本の民主的統制を行い、生産様式と取得様式の一部変更を行う以外に道はない。生産様式と取得様式の変更とは資本と利潤を私的企業の専有物にしな いということである。一部資本の資本としての機能を一部制限することである。個別資本が利益のみを追求する社会システムをやめ、社会全体の福祉の向上を図 る社会システムのなかにグローバル資本を組み込むことである。社会全体が豊になる社会的生産の社会を実現するためにグローバル資本を組み込むことである。 産業の空洞化を阻止し、社会の必要なところに富が配分されるようにするために、グローバル資本の民主的統制をただちに行うことである。
 生 産様式と取得様式を変更し、各経営体がこれまで拡大再生産のために振り向けていた、今となっては使いみちがなくため込んでいる資金、労働者が作った富、海 外に投資することによって国内産業を空洞化させる富を、税として社会が吸い上げ、社会に還元する。社会はそれを原資として社会の発展・福祉の増進のための 分野の利潤率を上げるために再配分(補助)する。
 各 経営体は国民が必要とする量と質の日用品の生産性を高め、より効率的な方法で生産する努力を継続する。そのことによって、「社会的生産によってすべての社 会の成員にたいして」、「肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を」、「確保する」(『空想から科学へ』P71)原資を拡大す る。資本の拡大のみを目的としていた各経営体が、社会全体が豊になることを目的とする社会システムの構成要素となることによって、各経営体は無駄な消費を 煽ったり、無理して売ることも、ボロ儲けをしようとして作りすぎることもなくなる。その結果、余剰となった資金と労働力は再び豊かな社会づくりのための原 資として活用され、ますます多くの良質な日用品を、ますます少数のますます良質な労働者が生みだすようになる。これまで個別資本の拡大のために私的に使わ れていた〝利益〟の一部がその経営にとって不要なものとなり、〝社会の豊かさの拡大再生産〟のために使われるうようになる。労働者の努力が社会に還元され る。日本社会を豊かにするうえで〝桎梏〟となっていた資本主義的生産関係を〝国民の新しい共同社会〟の生産関係に変えることによって、「社会的生産と資本 主義的取得形態の矛盾」を解消することによって、〝生産力〟に発展の自由が与えられる。

解決を阻むもの

  このように、生産力が発展する中で、〝魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界〟(=自由主義国家の資本主義的生産)のなかで隠蔽されていた「プロレタリ アートとブルジョアジーの対立」が、はじめは〝社会の閉塞感〟として現れる。そして、科学的社会主義で武装した前衛党による資本主義の本質と仕組みを暴露 する働きを通じて、「産業の空洞化」が国民国家の危機の主要なファクターとして誰の目にも明らかになる。こ のように、資本主義的生産様式をとらえる上で、〝現代の資本主義〟をとらえる上で、「社会的生産と資本主義的取得形態の矛盾」という捉え方は、私達の闘い にとって必要不可欠な認識であり、「プロレタリアートとブルジョアジーの対立」を一層鮮明にさせることは民主主義を社会主義に発展させる上で非常に大切な 視点です。
 し かし、不破さんは「社会的生産と資本主義的取得形態の矛盾」を否定し、資本の行動を発展的に見ず、グローバル資本と社会の今を凝視せず、資本主義の構造を リアルに捉えず、「利潤第一主義」からくる「人間社会の存続をおびやかす」「すべての事態」が「桎梏」だなどと、超歴史的なことを言い(『前衛』 No903P111上段後ろから4行目から2行目)、『前衛』No904では、「資本主義が生産力の発展を制御できなくなって、」(もともと資本主義は 「生産力の発展を制御できない」と思うので、どんな状態を言おうとしているのかよく分からないが)「そのことが社会に大きな危機をもたらす場合には、」 (まえの文の意味がよくわからないのでこの文章もよく掴めませんが、12月号を踏まえると「利潤第一主義からくる人間社会の存続をおびやかすすべての事 態」のことかと思われる)「それも資本主義的生産関係の「桎梏」化の一つの深刻な表れ」だと言い、「資本主義的生産関係の桎梏化」などという訳の分からな い抽象的なことをいって、マルクスが天才とたたえたエンゲルスを誹謗して、天狗になっている。不破さんが否定したものはマルクスが肯定したものです。このように、不破哲三氏は、エンゲルスから遙かに遠いだけでなく、マルクスからも遙かに遠い思想の持ち主なのです。

いま必要なことは何か

 資本主義的生産関係が生産力発展の「桎梏」となる短期的な現れは〝恐慌〟であり、先進資本主義国における長期的な現れは〝産業の空洞化〟です。〝資本主義的取得形態〟の発展によって〝社会的生産〟は飛躍的に発展しましたが、いま必要なことは、〝資本主義的取得形態〟をコントロール(廃止)して富の配分を〝社会的取得形態〟に変え〝社会的生産〟を豊に発展させることです。「社会的生産と資本主義的取得形態の矛盾」を解消することです。〝産業の空洞化〟をやめさせ、富と人財を〝社会〟のために使う。そのことによって〝生産力〟を資本のくびきから〝解放〟することです。