AZ-4-3

不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その3)

『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えさせるな!!!

──『資本論』第二部での不破さんの歪曲と捏造──

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『資本論』第二部での不破さんの歪曲と捏造

マルクスは『1861~1863年草稿』中の『剰余価値学説史』執筆の前後で、「経済学批判」の研究の方法に基づく叙述の仕方から、「本質」と「直接的な現象」とのシームレスな貫徹メカニズムを示し体系的に論述する叙述の仕方に、『資本論』の叙述の内容と方法とを変えました。しかし、不破さんはマルクスが1865年に不破さんと同じ資本主義観に立ったという虚構が正しいかのように見せるため、この『資本論』の成立過程の捏造から「『資本論』探究」の「Ⅱ『資本論』第二部を読む」の「解説」は始まります。

※このホームページに注釈なしで書かれているページは、「『資本論』探究〈上〉」のページです。

「第二部 資本の流通過程」

P162-169 不破さんらしい「第二部」の成立過程のスケッチ

⦿マルクスは、第一部草案を書き終えたあと、1864年の夏頃から、「第3部」を第2章→第1章→第3章の順に書き、その後、1865年の前半に「第2部 資本の流通過程」の草案を書きはじめました。

⦿このことについて、不破さんは、「『流通過程』論のこの出遅れ(「第2部」の執筆のこと──青山)には、構想のその後の発展から見て、三つの問題があったようです。」(P162-163)と述べ、次の三点をあげて、マルクスを誹謗します。

「固定資本」と「流動資本」という概念を確立するにあたって、「マルクスが誤った固定観念から出発して、正確な規定に到達するまでに、混迷と曲折にみち」ていたこと。

マルクスは、『経済学批判』の続編としての著作の「資本」の部の編成を「資本一般」、「競争」、「信用」、「株式資本」としようとしていたが、「資本の流通過程」を「『資本一般』の枠内でどう解決(?意味不明──青山)するか」、答えをもっていなかった。

「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論(第三篇)について、まったく構想をもっていなかった」。だから、マルクスは、「単純再生産の社会的過程の」「グラフ的な図表」について、エンゲルスあての手紙で「これは僕の本の最後の諸章のうちの一章のなかに総括として載せるものだ」と言っていた。「しかし、マルクスが苦闘の末に仕上げた再生産論は、その著作の最後の諸章に〝付録〟的に扱って済むような、部分的発見ではありませんでした。」と、不破さんは言います。

⦿これら「三つの問題」なるものは、字面だけ追って見ると、一見もっともらしくみえるかもしれませんが、事実に反する、マルクスを誹謗し『資本論』の成立過程を改ざんするとんでもない内容なのです。

 この、不破さんの「第二部の成立過程」のスケッチの誤りの主な原因は(1)『資本論』の成立過程の無理解と改ざん、(2)マルクスを誹謗して自分の評価を高めようとする自己顕示欲、(3)マルクスと違って物事を発展的に見ることができない、の三点にあります。

⦿まず、「三つの問題」のうちの①の概念規定に関していえば、新しい発見、新しい理論には、新しい言葉や古い言葉の新しい定義、新たな概念規定が必要です。マルクスが、当初、資本の流通過程において、さまざまな局面を通過する資本そのものを「流動資本」、局面のうちの一つに固定されている資本を「固定資本」と定義しようとしたことは、貨幣と資本の神秘性を明らかにするうえでの一つの区分方法であり、「マルクスが誤った固定観念から出発して」などと言って批判されるべきものではなく、何の問題もありません。マルクスがマルクス主義経済学を確立していく過程で、新しい概念規定の方法を試みることを「誤り」と言うのは、それこそ、誤りです。そして、新しい概念とそれを現す規定(言葉)がコンクリートにならなければ、「資本の流通過程」の研究が行なえないなどというものではありません。例えば、いまだに「貨幣資本」という言葉で、多様な「資本」形態にある「貨幣」をすべて「貨幣資本」といっています。

⦿つぎに、不破さんは、「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」を書いたのは②と③という理由からだと言いますが、それが、いかに誤っているか知るためには、『資本論』の成立過程を正しく知る必要があります。

 マルクスは「61~63年草稿」の執筆過程で『資本論』の構想をより確固たるものにし、その当然の結果として、『資本論』の第一部草案を書き終えたあと、1864年の夏頃から、「第3部」を第2章→第1章→第3章の順に書き、その後、1865年の前半に「第2部 資本の流通過程」の草案を書くという順で『資本論』の草案を書き進めました。

 なぜ『資本論』の構想をより確固たるものにした「当然の結果として」、「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」を書いたのでしょうか。その理由について、大谷禎之介氏の「『マルクスの利子生み資本論』2」に収録されている、MEGA第Ⅱ部門第4巻第2分冊に収められたマルクスの『資本論』第三部第1稿についての「『解題』と『成立と来歴』」の文章の「解題」は、次のように述べています。

 「第1部から第3部に移ったことは、明らかに、マルクスが、本質と直接的な現象との、問題を孕んだ関連を矛盾なく説明すること、運動法則それ自体を暴くばかりでなく、同じくこの法則の貫徹メカニズムを証明することにも努めていたことに帰せられるべきものであった。彼の考えでは、理論全体の内的な一貫性はこのこと(資本の運動法則の貫徹メカニズムを証明すること──青山)にもとづいているのである。彼にとってまずもって肝心であったのは、問題の二律背反を明示的にはっきりさせ、科学的に批判的な解決を与えることであったが、最後には、体系的に論述することに重きが置かれていた。」(P389-390)と。

 そして、第3部の執筆を中断し第2部の草案を書いた理由については、同じくMEGAの「成立と来歴」は、「その理由はたぶん、『1861~1863年草稿』のノートⅩⅦでは利潤の平均利潤への転化がまだ包括的には仕上げられていなかったことにあったのであろう。……叙述の論理によって、結局マルクスは、当該の欠落部分を埋めることを、それゆえに第3部の執筆を中断してまず第2部を仕上げることを強制されたのである。」(P403-404)と述べています。

⦿このように、「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」の第2章(『資本論』では「章」は「篇」となっている──青山)→第1章→第3章と書いた理由と、今度は第3部の執筆を中断し第2部の草案を書いた理由とは、基本的に同じものです。

 そして、1862年12月のプラン草案の「8)産業利潤と利子とへの利潤の分裂。商業資本。貨幣資本。」を『資本論』では「第4章」と「第5章」との二つの章に分割したことについて、次のように述べていますが、この間の事情をよく現しており、マルクスの「叙述の仕方の転換」に関わるものです。

 「第2部の執筆からえられたもろもろの認識がすでにこの変更の根拠となっていたのかもしれない。剰余価値を生産する諸資本のあいだの競争戦のもろもろの基本的な法則性を論じている、草案の最初の三つの章(「章」は『資本論』の「篇」のこと──青山)を書いたのちに、マルクスが直面したのは、特殊的、派生的な資本諸形態の叙述は生産的資本の諸変態の叙述からどのようにして厳密に区切られるべきか、両者のあいだの諸移行は個々的にはどのような姿態をとるのか、という問題であった。この問題の解決は、資本の流通過程の分析を前提していた。最後に第3部で展開されているような諸資本の現実的運動を論じることができるようになる前に、まずもって、諸資本のそのような自立化の可能性が──つまり諸資本の形態的運動が──表現されなければならなかった。そのさいに、商人資本と利子生み資本とは二つの質的に異なる自立的な資本形態だ、という認識が固まったのであって、このことが、この両形態を別個に叙述することを要求したのである。」(P405)

⦿これらの執筆の軌跡は、マルクスが『1861~1863年草稿』中の『剰余価値学説史』執筆の前後で、「経済学批判」の研究の方法に基づく叙述の仕方から、『資本論』の本質と直接的な現象とのシームレスな貫徹メカニズムを示し体系的に論述する叙述の仕方に、叙述の中身と方法を変えたことの現れです。

 私は、これらの説明が理にかなったものだと思います。

※『資本論』の成立過程と、なぜ不破さんが『資本論』の成立過程を改ざんしようとするのかの詳しい説明は、ホームページ4-27-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)──「『資本論』第三部を読む」を検証する。──」に譲りますが、不破さんは『資本論』の成立過程を改ざんしないと、不破さんが二一世紀になって、やっと、見つけた「大発見」(創作)を、あたかもマルクスの考えででもあるかのように見せかけることができなくなるのです。

⦿ただし、私はこの文章の最後のセンテンスには同意できません。マルクスは、当然、「商人資本と利子生み資本とは二つの質的に異なる自立的な資本形態だ」という「認識」はもっていたが、研究から著作として『資本論』を世に出すにあたって、搾取の分け前として一括りにするのではなく、「質的に異なる自立」性を明確にした「章」立てにすることが、有効であり枝ぶりの良い作品になると考えたのだと思います。

1865年まで『資本論』を『経済学批判』の続編にしがみつかせようとする不破さん

⦿このように、マルクスは『資本論』の叙述の中身と方法を「経済学批判」の研究の方法に基づく叙述の仕方から変えたのに、不破さんは、②のように、マルクスは『経済学批判』の続編としての著作の「資本について」の部の編成を「資本一般」、「競争」、「信用」、「株式資本」としようとしていたが、「資本の流通過程」を「『資本一般』の枠内でどう解決(?意味不明──青山)するか」、マルクスは答えをもっていなかったと言って、『資本論』を『経済学批判』の続編にしがみつかせようとします。

⦿このように、私たちが不破さんから「解説」を受けようとしているのは、『資本論』の「第2部 資本の流通過程」についてなのに、不破さんが問題にしているのは、『経済学批判』の続編としての「資本の流通過程」の位置づけの問題なのですから、あまりにもピントがずれています。

 不破さん監修の「新版『資本論』」で、このようなピンボケの頭で「批判」されたら、マルクスもたまったものではありません。

⦿マルクスは、「資本一般」の「C資本」の研究過程(「61~63年草稿」の執筆過程)で、その研究成果を『経済学批判』の続編としての「著作」という構想のままでは「著作」として収まりきれないことを理解し、1863年に、『剰余価値学説史』執筆前の研究の方法に基づく叙述の仕方から、『資本論』として、「C資本」の「資本の生産過程」、「資本の流通過程」および「両過程の統一または資本と利潤」という三つの理論的な部分に経済学のすべての理論的な問題を取り入れた、本質と直接的な現象とのシームレスな貫徹メカニズムをもった、より豊かな内容の三部編制の著作を生みだすことを決意したのです。

〈参考:マルクスが1858~1862年頃からあたためていた「経済学批判」の構成プラン〉

Ⅰ 資本について

 1 資本一般

  a 商 品

  b 貨 幣

  c 資 本

     資本の生産過程

      1 貨幣の資本への転化

      2 絶対的剰余価値

      3 相対的剰余価値

      4 両者の組合せ

      5 剰余価値に関する諸学説

     資本の流通過程

     両過程の統一 または資本と利潤 利子

 2 競  争

 3 信  用

 4 株式資本

Ⅱ 土地所有

Ⅲ 賃労働

Ⅳ 国家

Ⅴ 外国貿易

Ⅵ 世界市場

 なお、『経済学批判』は、上記プランの「資本一般」の「商品」と「貨幣」を収めたものです。

不破さん得意の〝三段飛び論法〟でマルクスを中傷する

⦿③についていえば、このページの後半で見るように、資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産のもつ意味をほとんど理解していない不破さんが、マルクスは「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論(第三篇)について、まったく構想をもっていなかった」と言うのだから驚きです。

⦿不破さんは、マルクスがエンゲルスあての手紙で、「単純再生産の社会的過程の」「グラフ的な図表」について、「これは僕の本の最後の諸章のうちの一章のなかに総括として載せるものだ」と言っていることを、ねじ曲げて、「しかし、マルクスが苦闘の末に仕上げた再生産論は、その著作の最後の諸章に〝付録〟的に扱って済むような、部分的発見ではありませんでした」と言って、あたかも、「苦闘の末に仕上げた再生産論」をマルクスが「著作の最後の諸章」に〝おまけ〟としてつける〝付録〟として扱ってかのような印象を読者に与え、マルクスを傷つけています。

⦿マルクスが、「資本の流通過程」の「最後の諸章」である「再生産論」のなかの「一章のなか」に「総括」として「載せる」ことが、どうして「苦闘の末に仕上げた再生産論」を〝付録〟として扱って「済む」ことになるのでしょうか。資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の意味をほとんど理解していない不破さんにこんなことを言われたのでは、マルクスも、〝馬鹿に付ける薬はない〟と、草葉の陰で呆れかえっていることでしょう。マルクスを馬鹿にしようとして、自分が馬鹿であることを証明してしまいました。

⦿このように不破さんは、マルクスの研究の進展に伴う著作の構想の変化を無視して、マルクスが「『資本一般』の枠内でどう解決するか」答えをもっていなかったとか、読者を無知な人間とみて、「最後の諸章に〝付録〟的に扱って済むような、部分的発見ではありませんでした」とか言って、マルクスを誹謗し、マルクスの不十分さを得意げに「解説」します。不破さんは『資本論』の解説をしているのですから、『資本論』の成立過程をマルクスに寄り添って述べなければなりません。『経済学批判』の続編から『資本論』への発展について、なぜ『資本論』が今あるような「三部構成」になったのかを一生懸命調べて、その中で「資本の流通過程」の成立過程と位置づけをしっかり読者に語るべきなのです。

⦿マルクスが「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論について、まったく構想をもっていなかった」と草稿の執筆順序から「推測」し、その「推測」をもとに、マルクスの無能さを暴露した不破さんは、P168では、マルクスが『五七~五八年草稿』のなかで、「五つの生産部門を取り上げ、五部門の資本家と労働者のあいだの生産物交換の表式を作り上げてみせる、というみごとな解決をおこなってい」たことを言い、マルクスが「価値実現が、ここでは、資本家相互間の交換のなかで行われている」と書いていることを述べ、『五七~五八年草稿』の時点で、マルクスが「再生産論」について、まとまった知識をもっていたことを認めざるを得ません。

⦿しかし、不破さんは、自分が「黒」と決めたら、なにが何でも「黒」としてしまう人です。往生ぎわのわるい不破さんは、「四年後にプルードンの同じ設問にふたたび立ち向かったとき、かってのこの成功例を思い出したという形跡はまったくありません。〝ルール違反〟の研究成果でしたから、マルクスの頭のなかでもお蔵入りになっていたのかもしれません。」(P168-169)と言います。『五七~五八年草稿』の時点で、マルクスは「再生産論」についてまとまった知識をもっていたが、それを「思い出したという形跡」がないようなので、マルクスは「第2部 資本の流通過程」の「最も重要な部分となっている再生産論について、まったく構想をもっていなかった」というのです。

⦿そして、「思い出したという形跡」がない〝根拠〟として、「〝ルール違反〟の研究成果」だから、「マルクスの頭のなかでもお蔵入りになっていた」のかもしてませんと〝推測〟します。開いた口がふさがりません。こんな推測が成り立つならば、私たちはどんな「推測」でも可能です。そしてこれが「推測」などではなく、軽口、マルクスに対する当てこすりであるならば、自分の正当化のためにマルクスを利用するのはやめるべきです。

⦿マルクスの「資本の流通過程」の研究は真実・真理を求める研究であり、研究成果は「資本の流通過程」を解明したことですが、不破さんはその研究成果が古い構想に合わないから、「研究成果」が〝ルール違反〟だと言います。マルクスのこれまでの研究成果にもとづく新しい構想の『資本論』に載せる「資本の流通過程」の「研究成果」が〝ルール違反〟なのではなく、『経済学批判』の続編という古い構想にしがみつき、わけの分からない「ルール」を振りかざす不破さんのほうが間違っているのです。マルクスは真理に向き合っており、不破さんは『経済学批判』の続編の構成にしがみついています。

⦿これまで見てきたように、「第二部構想の成立にいたる前史の簡単なスケッチ」で不破さんが設けた「ルール」の障壁はマルクスの研究態度とはまったく異質のものであり、不破さんが言う「流通過程」論が出遅れた三つの理由とは、(1)『資本論』の成立過程の無理解と改ざん、(2)マルクスを誹謗して自分の評価を高めようとする自己顕示欲、(3)マルクスと違って物事を発展的に見ることができない、の三点に基づくものです。

⦿マルクスは「資本」の研究を深め、「第1部」の執筆のあと「第2部」ではなく「第3部」を書くことによって、運動法則それ自体を暴くだけでなく、本質と直接的な現象との関連を矛盾なく説明し、この法則の貫徹メカニズムを証明することに努めました。その結果、このような執筆の順序になったのです。そのことを知らない不破さんは、書かないのは知識がないからだと自らの無知を根拠にマルクスは「再生産論」について無知だったというのです。

⦿しかし、不破さんが、マルクスは「再生産論」について無知だったなどという馬鹿げたことを言うのには、もう一つ理由があります。それは、あとで十分説明しますが、不破さんは「第二一章」の解説で、エンゲルスの編集のまずさを私たちに示すために、資本家や経済学者の思いをマルクスの主張ででもあるかのように捏造して、マルクスの「再生産論」の考察の馬鹿さ加減を主張します。その前提として、マルクスは、当初は、「再生産論」について無知でなければならなかったのです。

⦿この、不破さんの「第二部構想の成立にいたる前史の簡単なスケッチ」のウソ、誤りを頭に入れて、不破さん責任編集の「新版『資本論』」のペースに巻き込まれないようにして下さい。

P169~172 不破さんは、どこまで陰険なのだろうか

⦿不破さんは、「マルクスは、自分の仕事について、第三部を仕上げるごく大まかな構想と、再生産論や地代を発見した時の喜びにみちた報告以外には、エンゲルスにほとんど知らせていませんでした。そのために、エンゲルスの編集の作業は、ゼロからの出発に近い内容をもたざるを得ず、そこに、多くの弱点が生まれたのは、当然のことでした。私は、それらの点を是正するのは後世の者に託された仕事であり、それを果たすことは、エンゲルスの仕事を受け継いでそれをより完全なものにする意義がある、と考えています。本書でも、第二部、第三部の内容検討にあたっては、そういう部分がかなり出てきますが、そういう意味で受け取っていただきたいと思います。」(P172)と、エンゲルスの『資本論』編集を「是正」する理由を述べます。この文章だけを読めば、至極まっとうなことを言っていると誰でも思うでしょう。ここが、不破さんの陰険なところです。

⦿まず、小さな問題として、「マルクスは、自分の仕事について、第三部を仕上げるごく大まかな構想と、再生産論や地代を発見した時の喜びにみちた報告以外には、エンゲルスにほとんど知らせていませんでした」というのは、不破さんの完全な推測です。その「推測」を基にして、「そのために」「多くの弱点が生まれたのは、当然のことでした」と言ってエンゲルスを誹謗するのです。「推測」にもとづいて「断定」し「非難」する。これは不破さんの常套手段です。

⦿ここで不破さんが言っていることは、ホームページ4-28-1「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その1)」でも述べましたが、不破さんによると、マルクスはエンゲルスに『資本論』を「〝速く仕上げよ〟と言われるから」、マルクスとエンゲルスにとって最も大切な「世界観」や「革命観」が変わっても、無二の親友であり同志であるはずのエンゲルスにそのことを「報告」しなかった。その結果、マルクスの「世界観」や「革命観」が反映されない『資本論』が編集されたので、それを不破さんが改めるというのです。

⦿ストレートに上記のようなことを言ったら、みんなに大笑いされるので、文章だけを読めば、至極まっとうなことを言っていると誰でも思うような文章を書いて、読者をだましているのです。不破さんという人は、どこまで陰険なのだろうか。

※なお、マルクスとエンゲルスが共通認識を持っていなかったという不破さんのデマについては、ホームページ4-14「☆科学的社会主義の旗を掲げて共に闘ったマルクスとエンゲルスが、経済(社会の土台)についての共通認識を持っていなかったという不破さんの無責任な推論」も参照して下さい。

『資本論』「第二部 第一章 貨幣資本の循環」

P177 「画期的な搾取様式」の〝画期〟性についての、不破さんの「画期的な推測」

⦿不破さんは177ページで、『資本論』「第二部」の「第一章 貨幣資本の循環」の中の「第二節」にある次の文章を引用して、マルクスが、「資本主義的商品生産を、社会の経済的構造全体を変革する『画期的な搾取様式』と特徴づけていることも、注目すべき点です。この〝画期〟性のなかには、搾取社会を超える次の新しい時代を準備するという意味も、こめられているのではないでしょうか。」と言います。

⦿「資本主義的商品生産がはじめて画期的な搾取様式となるのであって、この搾取様式は、その歴史的発展の進行のなかで、労働過程の組織と技術の巨大な発達とによって、社会の経済的構造全体を変革し、従来のすべての時代を比類なく大きく凌駕する」(『資本論』大月版③P49-50)

⦿不破さんが「画期的な搾取様式」に「注目」していただくのは大変結構なことですが、上記のように言われては、『資本論』が台無しになってしまいます。『資本論』の内容をミスリードしてもらっては困ります。

⦿この文章は、不破さんが176ページで引用した、「資本主義的商品生産」がそれ以前の「商品生産のすべての形態を破壊する」、つまり、それ以前の生産様式を「破壊する」ことを述べたマルクスの「第七稿」から取った文章に続く、「第六稿」からの文章で、引用文の前に、「資本主義的生産過程」では「商品生産の営みはすべて同時に労働力搾取の営みになる」ことが述べられています。

⦿実はこの「第二節」の「第七稿」と「第六稿」の二つの文章を合わせた、その〝原型〟ともいえる文章が、「第五稿」からの文章として、「第三節」にありますので、紹介します。

 「産業資本は、資本の存在様式のうち、剰余価値または剰余生産物の取得だけではなく同時にその創造も資本の機能であるところの唯一の存在様式である。だから、それは生産の資本主義的性格を条件とする。産業資本の存在は、資本家と賃金労働者との階級対立の存在を含んでいる。産業資本が社会的生産を支配して行くのにつれて、労働過程の技術と社会的組織とが変革されて行き、したがってまた社会の経済的・歴史的な型が変革されて行く。産業資本に先だって、すでに過ぎ去ったかまたはもはや没落しつつある社会的生産状態のなかで出現した別の種類の資本は、産業資本に従属させられて自分の諸機能の機構を産業資本に適応するように変えられるだけでなく、ただ産業資本を基礎としてのみ運動するようになり、したがって、それら自身のこの基礎と生死存亡をともにするようになる。」(大月版③P69-70)

⦿この二カ所の文章を熟読していただけば分かるように、「資本主義的商品生産」がはじめて「画期的な搾取様式」となったのは、資本主義社会が「産業資本が社会的生産を支配する社会」で、「産業資本が社会的生産を支配して行くのにつれて、労働過程の技術と社会的組織とが変革されて行き、したがってまた社会の経済的・歴史的な型が変革されて行く」ことによって、「すべての商品生産を資本主義的商品生産に変えて行く」(大月版③P49)からです。そして、同時に、「資本主義的生産過程」では「商品生産の営みはすべて同時に労働力搾取の営み」であり、「産業資本の存在は、資本家と賃金労働者との階級対立の存在を含んでいる」にもかかわらず、労働力が「商品」となることによって、「搾取」が隠蔽されてしまう。だから、「画期的な搾取様式」なのです。つまり、この「〝画期〟性」とは、すべての生産様式の中に入りこみ、すべてを呑みこむ「〝画期〟性」であり、搾取を覆い隠す「〝画期〟性」なのです。

⦿不破さんのように、「画期的な搾取様式」の「〝画期〟性のなかには、搾取社会を超える次の新しい時代を準備するという意味も、こめられているのではないでしょうか」などと呑気なことを言って、「画期的な搾取様式」の本当の意味を暴露しなかったら、マルクス・エンゲルスが『資本論』を書いた意味がなくなってしまいます。

⦿「画期的な搾取様式」の社会を暴露し、「産業資本」(=現代のグローバル資本)をコントロールしないで、「画期的な搾取様式の社会」(=資本主義的生産様式の社会)をそのままにして、「利潤第一主義」を抑え、「余暇」を増やそうとしても、「搾取社会を超える次の新しい時代」は実現しません。

「第二章 生産資本の循環」

P178-182 マルクスへの誹謗を抑えた、抽象論による自説への導入に惑わされず、マルクスが教える「産業循環」の本当の姿を「頭において」、『資本論』第二部を学ぼう

⦿不破さんは、「一八六五年、恐慌の『運動論』の発見」というタイトルで、「次は『第二章 生産資本の循環』です。」と述べ、「恐慌の『運動論』」なるものの中身はまったく語らず、マルクスの産業循環等についての考えに不破さんが依拠しているかのように、自説に誘導するための文章をならべ、「以上のことを頭において、『第二章 生産資本の循環』での恐慌問題の扱いの検討に入りたいと思います。」と、不破さん得意の刷り込みをおこないます。

⦿不破さんは、「マルクスが最初に立てた運動論は、恐慌という形態での資本主義的生産の矛盾の爆発を、利潤率の低下の現象から説明し、それを社会変革の展望と結びつけることでした。マルクスはこの立場から、恐慌の運動論を確立しようとして、『五七~五八年草稿』から一八六四年後半の『資本論』第三部第三編の執筆まで努力を続けましたが、」と虚構をつくり、その上で、「確信の持てる理論展開には、ついに成功しませんでした。」と断罪します。

 マルクス・エンゲルス・レーニンの意図と違うことを提起して、それを批判する。不破さんの、いつもの、絶対に負けない、論法です。

⦿そして不破さんは、マルクスが、不破さんの作った「虚構」から脱却するために、「マルクスの頭脳に、一八六五年初め」、「恐慌の運動論を解明するまったく新しい視点がひらめいたようです。」と、またまた〝推測〟し、第二部の第一草稿に「そのとき、ごく簡単な文章で、新しい運動論の要旨を」「書きつけました」がと、今度は見てきたかのようなことをことを言い、〝ひらめいた〟ことなので、「その内容をよく研究したうえで、第一草稿の少し先の部分に、より詳細な内容をあらためて書き込みました。」と、えん罪事件の供述調書のように、具体的なことは何も言わずに、「これは、ただ恐慌を節目とする経済循環という運動形態の解明に成功したというにとどまらず、資本主義の現在の発展段階の評価から、その没落の展望のとらえ方にもかかわる大発見となりました。」と言って、不破さんが二一世紀になって「大発見」した、不破さんが自ら創作したストーリーを、読者に、刷り込もうとします。

⦿不破さんは、「以上のことを頭において、『第二章 生産資本の循環』での恐慌問題の扱いの検討に入りたいと思います」と、言います。トンキン湾事件の米国の第一報のような刷り込み方です。

P182-192 エンゲルスへの言いがかりとしか思えない不破さんの主張

⦿不破さんはエンゲルスを次のように批判します。

 マルクスが、「第二章 生産資本の循環」の草稿で、「W'-G'」という行為=生産資本にとっての「価値の実現」──たとえその生産物(商品)が消費者の手に渡らず、商人の手の中にあって、さらに流通しているとしても──が、資本主義的生産を進行させることを述べて、「〔これは〕恐慌の考察にさいして重要な一点。」と文章を結び、続けて「注」をつけて、この点に関するコメントの文章を書いているのに対し、エンゲルスがコメントの文章を「自己流に書き変えたうえ、本文に組み込んでしまった」。その結果、この文章は、「恐慌にいたる経済過程の説明ですが、なかなか趣旨の読み取りにくい部分となって」しまい、「マルクスがなぜ、ここでそこまで詳しく恐慌を論じたのか、その恐慌論の中身は何だったのか。おそらく多くの場合、その意味が理解されないまま、読みすごされてきた」と言います。そして、エンゲルスが「自己流に書き変えた」文章は、「経済循環の過程の叙述という平凡な文章に、性格を変えることになってしまったのです」と言って、エンゲルスを責め立てます。

⦿なお、新日本新書版の、上記の、「〔これは〕恐慌の考察にさいして重要な一点。」というぶっきらぼうな訳は、大月版では、「この点は、恐慌を考察する場合に重要である。」と訳され、続けて、「すなわち、……」と、「恐慌を考察する場合に重要である」文章として、大変スムーズに、エンゲルスが「自己流に書き変えた」と不破さんによって中傷された文章につながっており、「第二章」の守備範囲の中に違和感なく収まるように訳されています。

⦿まずはじめに確認しておきたいのは、この章のテーマは、「第二章 生産資本の循環」ということです。そして、このマルクスの文章が、「〔これは〕恐慌の考察にさいして重要な一点。」という「未完」の、マルクスの「草稿」のもつ「荒削りの形態」で終わっており、その説明のための仕上げが必要だったということです。そして、エンゲルスはその仕事を忠実に、完璧にやりぬきました。

⦿不破さんは、マルクスが「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明すること」として述べている文章に、「恐慌の新しい運動論」(P185)というレッテルを貼って、その構成要素を、①「流通過程の短縮」②「経済循環の全過程の追跡」③「世界市場と信用の問題」の三つに分けていますが、エンゲルスが「自己流に書き変えた」という文章は、不破さんの言う②の部分、つまり、「生産資本の循環」と「恐慌」との関係を述べた部分です。

⦿不破さんは、マルクスが、「第二章 生産資本の循環」の草稿で、「W'-G'」という行為(=生産資本にとっての「価値の実現」)が、資本主義的生産を進行させることを述べて、「〔これは〕恐慌の考察にさいして重要な一点。」と文章を結び、続けて「注」をつけて、この点に関するコメントの文章を書いていることを述べているのですから、不破さん自身も「注」記された文章が「この点に関するコメントの文章」であることを認めているわけです。ですから、エンゲルスが、「〔これは〕恐慌の考察にさいして重要な一点」という「未完」の文章を引き継ぎ、そのあとに、「この点に関するコメントの文章」を「重要な一点」の内容を説明する文章としてシームレスにつないだことは、何の問題もない、適切な編集だったことは明らかです。

⦿そして、不破さんは、「経済循環の過程の叙述という平凡な文章に、性格を変えることになってしまったのです」とエンゲルスを責め立てますが、この章は「第二章 生産資本の循環」について論及するところで、「恐慌論」を本格的に展開する場ではないのですから、当然のことで、エンゲルスを責める理由にはなりません。不破さんは、「恐慌論が突然登場」したとエンゲルスを責め、マルクスの「注」記の範囲にとどめると、今度は、「恐慌論」を本格的に展開していないと言って責めるのです。困ったものです。

⦿また不破さんは、エンゲルスがマルクスの「注」記の文章を「自己流に書き変えたうえ、本文に組み込んでしまった」ために、「恐慌にいたる経済過程の説明ですが、なかなか趣旨の読み取りにくい部分となっています」とか「おそらく多くの場合、その意味が理解されないまま、読みすごされてきた部分だったのではないでしょうか」とか言っていますが、皆さんが直接『資本論』のこの箇所を読んでいただければ分かりますが、私程度の頭の持ち主でも分かる『資本論』の中では普通の文章です。だから、これらの不破さんの言い分は、マルクスとエンゲルスを陥れるためのデマか、本当にそう思っているのであれば、残念ながら、不破さんの知能が相当低下しているということになるのではないでしょうか。しかし、私には、これほど巧妙な文章を操る不破さんが、知能が低下しているとは思えません。だからよけい、不破さんのこのような態度は残念でなりません。

「第二章 生産資本の循環」の守備範囲を守ったエンゲルス

⦿エンゲルスが「自己流に書き変えたうえ、本文に組み込んでしまった」と不破さんが言う文章は、マルクスの文章「(資本の再生産過程は、商品が──青山補筆)現実には消費にはいっていなくても、ある範囲内では──というのは、一定の限界を超えると、市場の供給過剰と、そしてそれにともなう再生産過程自体の停滞が起こるであろうから──拡大された規模ないし同じ規模で進行することができるのである。」から、青色の文章の部分を削除し、この文の前後に、〝商品総量は直接の買い手である「他の産業資本家たち」と「卸売商人」の需要によって決まること〟と〝生産物が販売される限り、資本の再生産過程は中断されないこと〟とを詳しく述べた文章を挿入したものです。

⦿それではなぜエンゲルスは「というのは、一定の限界を超えると、市場の供給過剰と、そしてそれにともなう再生産過程自体の停滞が起こるであろうから」という文章を削ったのでしょうか。それは、その後で、削除した内容が具体的に書かれているからです。そして、前後に文章を挿入したのは、具体的に補筆することによって、内容を理解しやすくするためです。どちらが、理解しやすいか、是非、読み比べて下さい。

⦿「その意味を理解できず」、「読みすごしてきた」不破さんには、どちらが理解しやすいか、理解することは無理かも知れませんが、皆さんは、そういう人(=「その意味を理解できず」、「読みすごしてきた」人)が責任編集した「似而非『資本論』」を読んでいるのだということを、くれぐれも忘れないで下さい。

⦿このような(=「その意味を理解できず」、「読みすごしてきた」)不破さんなので、そしてまた、二一世紀になって、マルクスが生きた時代の恐慌をマルクスが「資本の現象的な流通形態から説明すること」から、「流通過程の短縮」と価値実現の「架空の軌道」による「架空の需要」が経済を拡大させ、恐慌をより一層深刻なものにさせることを知り、「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたという、何かのきっかけによって「『資本論』の解釈」を「まったく違った」ものにしてしまう不破さんなので、責めることはできないのかもしれませんが、2003年にはマルクスが書いたものと思っていた文章がエンゲルスによる加筆・編集だと分かると、「前回の解釈で訂正すべきところが大きく出てきました」(P190)と「前回の解釈」を「訂正」すると言うのです。同じ文章の意味がころころ変わり、その都度もっともらしいことを言う不破さんの著作を信じて読んでいる人、読まされる人、そのような不破さんに指導されている人は、ほんとうに可哀想でなりません。

⦿これだけエンゲルスに厳しい態度で臨んだ不破さんは、③「世界市場と信用の問題」については、「本格的に論じる機会はなかったようで」、「今後の研究課題が大きく残されることになり」、「具体的な展開は今後の問題となります」と、他人ごとのように言うだけです。これだから、リーマン・ショックについても、「『架空の需要』にもとづく生産の無制限的拡大とその破綻という過程が典型的に現われていた」などとトンチンカンなことを言い、グローバル資本による「産業の空洞化」についても、われ関せずで、「賃金が上がれば、経済はよくなる」と言って平然としていられるのでしょう。不破さん自身は「滑稽」だが、その影響下にいる「党員」にとっては、たまったものではありません。

⦿マルクスは、1858年の時点で、『経済学批判』の体系を、資本・土地所有・賃労働の前半3部と国家・外国貿易・世界市場の後半3部からなるプランを持っており、『資本論』の続編においても、「世界市場と恐慌」を論じる予定でしたが、残念ながら、その望みは果たすことができませんでした。マルクスには、残念ながら、本格的に論じる「機会」がなかったのではなく「時間」がなかったのです。

⦿マルクスは「世界市場と信用の問題」について、その生涯にわたる研究から、『資本論』の中で、「信用制度は資本主義的生産様式を最高最終の形態まで発展させる推進力」であること、「世界市場こそは一般に資本主義的生産様式の基礎をなしその生活環境をなしている」ことを、私たちに教えています。これは大変重要なことです。不破さんが発見した、「架空の需要=恐慌」という矮小化された「新しい恐慌論」の誤りを、このマルクスの「世界市場」と「信用制度」の捉え方は、私たちに教えてくれます。皆さんもこれらの言葉と、いま世界と日本で起きていることをつなぎ合わせて熟考してみて下さい。

※リーマン・ショックについての認識の不破さんの誤りについては、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、マルクスの「信用制度」の捉え方については、ホームページ「5温故知新」→「1マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「E資本主義社会Ⅲ」を、マルクスの「世界市場」の捉え方については、ホームページ「F世界市場・恐慌」を、是非、参照して下さい。

「第九章 前貸資本の総回転。回転循環」

P199-200  研究の「幅」と「柔軟性」という不破さんの「通俗性」

⦿不破さんは、「第九章」の解説で、「マルクスが、重大な発見(固定資本の耐用年数の平均的な長さが、恐慌の周期性の一つの物質的基礎をなすという発見──青山補筆)をしながら、それが周期性の唯一の根拠ではなく、多くのありうる『規定的根拠』のなかの『一つ』だということを、この時期(1857~8年頃──青山補筆)にも、また現行『資本論』のなかでも、くりかえし指摘していることは、重要な点です。現代の世界と日本での恐慌を考える場合にも、そういう研究の幅が必要だからです。」(P199)と述べています。

⦿不破さんは、「第二章」では、正常に行われている「生産資本の循環」のなかに「恐慌」の原因が隠されていることから「恐慌」の起こり方に触れたエンゲルスの編集を、「恐慌論の突然の登場」と言って非難しましたが、今度は、固定資本の耐用年数の平均的な長さが「恐慌」の周期性の一つの物質的基礎をなし、「恐慌」が前貸資本の「回転循環のための一つの新たな物質的基礎をつくり出す」として、前貸資本の回転循環のなかに「恐慌」が出てきても、「恐慌論」が出てきたなどとは言いません。マルクスの「研究の幅」をほめるばかりです。

⦿しかし、ここに不破さんの真骨頂があります。「重要な点」は「研究の幅」にあるのではありません。「重要な点」は、マルクスの〝研究方法〟と〝研究成果〟にあります。その〝研究方法〟とは、資本と資本主義的生産様式をトータルに捉えて、恐慌の構成要素、恐慌の物質的基礎を全面的に明らかにするということです。そして〝研究成果〟とは、固定資本の耐用年数の平均的な長さが、恐慌の周期性の一つの物質的基礎をなし、恐慌が前貸資本の回転循環のための一つの新たな物質的基礎をつくり出すという発見のことです。

⦿そして、ここで不破さんが、「恐慌論」なる言葉を持ちださず、「研究の幅」をほめるのは、不破さんが発見した「架空の需要=恐慌」という矮小化された「新しい恐慌論」をマルクスがここで否定していることを見えにくくするためなのかも知れません。

⦿「マルクスの目」とか、「科学的社会主義」とかを、軽々しく、自分の考えと同一視する人が、「現代の世界と日本での恐慌を考える場合」に「研究の幅が必要だ」などと、非マルクス的なことを言っていたのでは、〝科学的社会主義〟の進歩など到底見込めません。不破さんは、この本の31ページから32ページで、マルクスを見下すような態度で、「マルクスの研究と叙述の弁証法」について述べていた言葉を、すっかり忘れ、捨て去ってしまったようです。

⦿同様に不破さんの非科学性、非マルクス性を示す文章が、同じページにありますので紹介します。

 不破さんは、「『循環の周期はしだいに短縮されるであろう』というマルクスのこの時の結論は、的確なものではありませんでした。しかし、恐慌の周期と固定資本の回転期間との関係で重大な発見をおこないながら、それを絶対化しないでいくつかの『規定的諸根拠』の一つとして扱い、周期そのものについても、歴史のなかで変化が起こりうるものとしたマルクスの思考の柔軟性は、現代の恐慌を考えるうえで、心に刻んでおくべきことだと思います。」(P199-200)と述べて、「第九章」の解説を結んでいます。

⦿私たちが、この『資本論』の文章から「現代の恐慌を考えるうえで、心に刻んでおくべきこと」、学ぶべきことは、「絶対化しない」「変化が起こりうるもの」とする「マルクスの思考の柔軟性」なる似非「科学的社会主義」などではありません。物事を事実に基づいて総合的に見ることです。

⦿日本は90年代初めのバブル崩壊以降、ここに書かれているような、多少なりとも労働者の生活向上をもたらすような、資本主義的生産様式における「正常な」「資本の回転循環」はおこなわれてきませんでした。それは、バブルが崩壊しても「前貸資本の回転循環のための一つの新たな物質的基礎をつくり出す」ことがなかったし、「固定資本の耐用年数の平均的な長さが恐慌の周期性の一つの物質的基礎」をなすような固定資本の拡大再生産がなかったからです。グローバル資本は海外の景気がどんなによくても、過去最高の利益を上げても、日本国内における設備投資を、基本的には、現在の設備の維持のための投資に抑えてきました。その結果、白井さゆり氏(前日本銀行政策委員会審議委員)のような真面目な資本主義経済学者たちは、日本経済の先行きに希望を見いだすことができないことを素直に告白しています。

 このように物事を事実に基づいて総合的に見ることです。

⦿不破さんの「マルクスの思考の柔軟性」なる似非「科学的社会主義」にだまされて、資本主義を正しく見ることができなくなり、グローバル資本による日本経済の空洞化に目をふさぎ、「賃金が上がれば経済はよくなる」などと言っていたのでは、社会の危機が深刻化したとき、「九条を守れ」という平和の声などその対抗軸になりえなくなる、そんな社会の状況が近づきつつあることを、ヨーロッパと米国の政治状況が私たちに静かに語りかけています。

⦿なお、不破さんは、「『循環の周期はしだいに短縮されるであろう』というマルクスのこの時の結論は、的確なものではありませんでした」と、マルクスの非を責めますが、この文章には三つの誤りがあります。まず、一つは、不破さんの解説の仕方です。不破さんの特徴の一つに理由や根拠を示さずに断言するという性癖がありますが、「的確なものではありません」と非難する以上、その論拠を示すべきです。そうでなければ、読者は納得して理解することができません。読者の知的後退を招くような「解説」は正しくありません。二つ目は、不破さんは突然フランス語版からの書き込みを持ち出して、「この時の結論」などと言っていますが、固定資本の回転循環の期間については、「固定資本の発達」によってその期間が長くなり、同時に、「不断の変革」によって短縮されることが、不破さんが196ページに抜粋した文章の前に書かれており、不破さんが抜粋した文章の「……」の部分には、「とはいえ、ここでは特定の年数が問題なのではない。」ことが述べられています。だから、「この時の結論」でも何でもなく、『資本論』を読んでいない人に誤った印象を与えるだけです。そして三つ目は、設備投資に主導された4年程度の景気循環の波があることからも、不破さんの「結論」は正しとはいえません。景気循環の周期は、より生産効率を上げたい、好景気をなるべく長く続けたい、「恐慌」は避けたい、そして、儲けられるときにできる限り儲けたいという資本の思惑のなかで、「周期」に係わる相矛盾する要素が複雑に絡み合って周期の長さは決まっていきます。だから、どの要素がそれぞれの時代で重視されるかによって周期の長さも決まっていきます。「より生産効率を上げたい」と思って「不断の変革」を一層進めれば周期は短縮されます。不破さんは、唐突に、「『循環の周期はしだいに短縮されるであろう』というマルクスのこの時の結論は、的確なものではありませんでした」などと言って、『資本論』を読んでいない人に誤った印象を与えるのではなく、「周期」の長さについて言いたいのであれば、私がいま述べたようなことを言えばいいのです。

※白井さゆり氏の考えについては、ホームページ6「適時論題」→「『書籍等の評論』の紹介」→「白井さゆり氏の『東京五輪後の日本経済』をテキストに「日本経済の構造問題」を考える」を、是非、お読み下さい。

「第一五章 回転期間が資本前貸の大きさに及ぼす影響」

P200-203「第一五章」を〝マルクスの失敗〟例にする不破さんの『資本論』の読み方

⦿不破さんは、「第一五章 回転期間が資本前貸の大きさに及ぼす影響」でマルクスは「資本の通常の運動の過程そのものに『資本の過多』を引き起こす一つの根源があるという角度から」論証を行ったが、「失敗」したとして、この章の解説の結びで、次のように述べています。

「だが、マルクスのこの論証には大きな錯覚がありました。編集したエンゲルスも、この章のマルクスの論証には不安をもったようで、この章の『第四節 結論』の末尾にエンゲルス自身の一文を書きくわえ、論証過程に若干の訂正をくわえたものの、資本の回転のなかで遊離資本が周期的に生まれるというマルクスの結論そのものは正しいとしました。

 ただ、私の見解では、マルクスの論証も、そこに追記を書いたエンゲルスの論証も、誤っていました。マルクスが描いてみせた資本の回転の具体例とは、資本の周期的な遊離が生まれるような条件を設定したうえでの具体例であって、……すべての資本が回転を続ける具体例はいくらでもつくることができるのです。率直に言えば、〝マルクスにも失敗あり〟ということで、ここには、私たち後世の研究者を、ある意味でほっとさせる響きがあります。」、と。

「第一五章」でマルクスとエンゲルスは何を言っているのか

⦿マルクスは、冒頭、「この章と次の第一六章では、回転期間が資本の価値増殖に及ぼす影響を取り扱う。」ことを述べ、「例」を使って、前貸資本の「一方の部分が生産資本として機能することは、他の部分が商品資本または貨幣資本の形態で本来の生産から引きあげられている」ことを示し、このような条件のもとでしか資本主義的生産は成り立たないことを述べ、「このことが見落とされるならば、総じて貨幣資本の意義も役割も見落とされてしまうのである。」と、「第一五章」と「第一六章」での「研究」の意義を明らかにしています。

⦿そして、「次にわれわれが研究しなければならないのは、回転期間の両部分──労働期間と流通期間──が等しいか、または労働期間が流通期間よりも長いか短いかによって、どのような回転上の相違が現れてくるのか、さらにまた、このことが貨幣資本形態での資本の拘束にどのように作用するかということである。」(大月版③P325)と「第一五章」での研究の方向を示しています。

⦿マルクスは、①労働期間が流通期間に等しい場合②労働期間が流通期間より長い場合③労働期間が流通期間より短い場合の三つのケースに分けて、貨幣資本形態での資本の拘束状況について調べ、①の場合には回転期間中に貨幣形態での資本の生産過程からの遊離はないこと②の場合には二回転目以降「労働期間-流通期間」の期間、流通期間分の資本が生産過程からの遊離していること、③の場合には、労働期間をaとし流通期間をna+bとすると、b=0の場合は貨幣形態での資本の生産過程からの遊離はなく、bが0でない場合はn回転目以降「a-b」の期間、b期間分の資本が生産過程からの遊離していることを、表を使って説明します。なお、大月版③の336ページの後ろから五行目以降の同ページの「労働期間」は「回転期間」の誤植として理解して読みましたが、誤植と思われる箇所は他にも幾つもありますが、マルクスの立場に立って理解しました。

 皆さんも、是非、「回転期間」を「労働期間」と「流通期間」に分けた進行表を作って確かめてみて下さい。

⦿これらを基礎として、「第四節 結論」では、回転期間に係わる様々なテーマが提起されます。

 まず、これまでの研究の結論として、「一年間に何回も回転する社会的流動資本の非常に大きな部分は、一年間の回転循環のなかで周期的に遊離資本の形態にあるであろう。」こと、そしてさらに、「この遊離した資本の大きさは、労働過程の大きさまたは生産の規模とともに、したがって一般に資本主義的生産の発展につれて、増大するということである。」(大月版③P343)と述べています。なお、ここまでの「結論」の中で、「B」として、②の場合と③の場合でbが0でない場合は、「総流動資本の一部分が第二回転以降はいつでも周期的に各労働期間の終わりに遊離する。」ことが述べられていますが、正確には、私が先ほど見てきたとおりだと思います

「第一五章」を〝マルクスの失敗〟例にする不破さんの『資本論』解説のミスリード

⦿これに対し不破さんは、前述のように、「マルクスが描いてみせた資本の回転の具体例とは、資本の周期的な遊離が生まれるような条件を設定したうえでの具体例であって、……すべての資本が回転を続ける具体例はいくらでもつくることができるのです。率直に言えば、〝マルクスにも失敗あり〟ということで、ここには、私たち後世の研究者を、ある意味でほっとさせる響きがあります。」などと述べて、この点が「第一五章」のすべてででもあるかのようなミスリードをして、読者に、「資本の遊離を生まない回転の具体例」として不破さんの『「資本論」全三部を読む』を参照するよう推奨します。

⦿不破さんの『「資本論」全三部を読む』にどのような「具体例」が載っているのか、拝読しておりませんので分かりませんが、上記のとおり、マルクスとエンゲルスに対して共感的で前向きの読書態度で「第一五章」を読めば、マルクスとエンゲルスは私がここで要約した内容のことを述べていることは不破さんでも分かるはずです。

⦿不破さんの『「資本論」全三部を読む』の「第一五章」のところにどのようなことが書かれているのか分かりませんが、「第一五章」の解説の中心点として〝マルクスにも失敗あり〟などと言っている不破さんが書いた、『「資本論」全三部を読む』を読まされた読者は、不憫でなりません。そして、そのような偏った『資本論』の読み方をする不破さんが責任編集する「似非『資本論』」がどのように『資本論』を改ざんするのか、心配でなりません。

私たちは、「第一五章」をさらに読み進んでいきましょう

⦿続けて、「第四節 結論」は、「このように単なる回転運動の機構によって遊離させられる貨幣資本は(固定資本の順次的還流によって遊離させられる貨幣資本や毎回の労働過程で可変資本として必要な貨幣資本と並んで)、信用制度が発達してくれば、重要な役割を演じなければならないのであり、また同時に信用制度の基礎の一つにならなければならないのである。」と述べて、「信用制度の基礎」に触れていることは重要です。

⦿なお、資本主義的生産の主たる商品は大量生産化された商品ですが、流通期間が短いほど資本の効率はよく、回転期間が短いほど資本の効率はよいので、資本主義的生産は、常に、その期間の短縮に努め、より高度な高額商品はそれだけ労働期間は長くなりますが、受注生産等により流通期間を極力短くし、資本効率の向上に努めます。

⦿つぎに「第四節 結論」は、「流通期間の短縮」により遊離した貨幣が増大し、生産拡大や金融市場の緩和をもたらし、「流通期間の延長」により金融市場の圧迫を引き起こすことを述べています。マルクスのこれらの分析は、景気の良し悪しによる「流通期間の短縮」や「流通期間の延長」が、景気循環の目鼻立ちをよくすることを示唆しています。

⦿最後に「第四節 結論」は、エンゲルスの「追記」で結ばれています。

 エンゲルスは、まず、『資本論』に、マルクスの「多くの計算例」のうち「最も簡単なものと算術的に正しいものだけを保存した。」ことを述べ、続いて、「このめんどうな計算の不確実な結果のために、マルクスは、一つの──私の見るところでは──事実上あまり重要でない事情を不当に重要視するようなことになってしまった。私が言うのは、彼が貨幣資本の『遊離』と呼んでいるもののことである。」(大月版③P348)と言います。

⦿先ほど見たように、「事実上あまり重要でない事情を不当に重要視するようなことになってしまった」のは、マルクスだけではありません。不破さんも同様でした。マルクスは「めんどうな計算の不確実な結果」のためかもしれませんが、不破さんは「自己顕示欲」からのように思われます。

⦿話を戻すと、この章のここ(第四節)までの要点は、エンゲルスの「追記」のむすびの文章、「本文のなかで肝要なのは、一方では産業資本のかなり大きな一部分が絶えず貨幣形態で存在しなければならないが、他方ではそれよりももっと大きな部分が一時的に貨幣形態をとらなければならないということの指摘である。」ということです。そしてこの文章に続くエンゲルスの文章、「この指摘は、この私の追記によってはせいぜい補強されるだけのことである。」は、この章をめぐる、エンゲルスの優しさと不破さんの「自己顕示欲」の強さを際だたせるものとなっています。

⦿なお、私は、「第一五章」をはじめて読んだとき、マルクスは随分細かい計算表を書くもんだなと感心しながら読み、エンゲルスの「追記」を読んで、エンゲルスの苦労を推しはかるとともに、この章のここまでの要点の整理に「追記」が役立ったのを、思い出しました。

「価格変動」等が資本前貸の大きさに及ぼす影響について

⦿「第一五章」の最後の節は、「第五節 価格変動の影響」として、①流通期間が変わった場合②生産材料の価格が変動した場合③生産物そのものの市場価格が変動した場合、の資本前貸の大きさに及ぼす影響等について詳しく論究されています。

⦿私はこの節を読みながら、前FRB議長のイエレン氏が、なかなか物価が上がらない状況を「ミステリー」と評したことを思い出しました。

 一般的に物価は、生産性が向上すれば、下がります。物価が上がるのは、①生産性の向上を上回る強い需要②生産性の向上を上回る賃金の上昇③生産性の向上を上回る利潤率の上昇、の三つの要因によります。今注目されているのは、U6失業率という失業者の区分で、日本も米国も、U6失業率は8%前半だといわれており、日本にいたっては、潜在成長率が低いうえに、政府は需給ギャップがプラスに転じたと言いますが、需給ギャップは明確なプラスになっていません。

 皆さんも、この節にインスパイアされて、これらのことを、是非、くわしく研究してみて下さい。

⦿「第一五章 回転期間が資本前貸の大きさに及ぼす影響」は、不破さんが、全体を見ることなく、「事実上あまり重要でない事情を不当に重要視するようなことになってしまった」ので、そのことを明らかにするために、やむを得ず、「第一五章」全体を大雑把に紹介いたしました。

「第一六章 可変資本の回転」

P203-207 仰天「桎梏」論への転落に導く不破さんの「理性」の混乱

⦿不破さんは、204ページから206ページにかけて、「社会的理性」と「祭りが終わってから」というマルクスの言葉を使って、不破さん独特の「思想」に私たちを導こうとしています。不破さんの文章はしっかり読むことが肝要です。

⦿まずはじめに、マルクスが「社会的理性」という言葉を通じて言い表していることは何か、「祭りが終わってから」という言葉を通じて言い表していることは何かを確認して、つぎに、不破さんが、「社会的理性」という言葉と「祭りが終わってから」という言葉を使って、如何にトンチンカンなことを言い、マルクスの思想を台無しにしているかを見てみましょう。

⦿マルクスの言う共産主義社会の「社会的理性」とは、生産手段を社会的所有にして、社会の発展を社会の構成員が望む方向に向かうよう、あらゆる資源を社会全体でコントロールする「社会的能力」のことです。そして、「社会的理性」が「事後になってからはじめて発現することを常とする資本主義社会」の「事後」=「祭りが終わってから」という言葉の意味は、「私的資本によって担われる社会的生産の成果が市場での競争の結果」として現れるという意味で、資本主義的生産様式の社会の「社会的理性」とは私的資本どうしの「市場での競争の結果」だということです。

⦿しかし不破さんは、このことがまったく理解できなかったようです。

 不破さんは、「政府が公共工事に熱を入れると、労働力がそちらに流れて、一番大事な東北災害地の復興が停滞をきたす──こうした〝社会的理性〟の欠落状態」と述べて、科学的社会主義の思想を「味噌もクソも一緒」のものに変えてしまいます。「東北災害地の復興が停滞をきた」しているのは、「政府が公共工事に熱を入れ」たからではありません。「産業の空洞化」という日本経済の構造問題があるなかで、政府があらゆる手段を使って全力で「東北の復興」にあたらないからです。前「共産党」委員長の不破さんが、「政府が公共工事に熱を入れ」たから、「東北災害地の復興が停滞をきた」したというのですから、驚きです。全国の自治体の「公共工事」が「東北の復興」の足を引っ張っているというのです。

⦿そして不破さんは、「資本主義社会における〝社会的理性〟の欠落」(=「利潤第一主義」)の例として、「地球温暖化」や「原発」をあげ、今回新たに、「日本の政府・財界の態度」も「その集中的な現れ」に加えました。不破さんは、これまで、「生産力と生産関係の矛盾が発展し、生産関係が生産力発展の『桎梏』になった」ことの一時的な現れである恐慌と、次元の違う「地球温暖化」や「原発」を同列にあつかい、「『桎梏』化」の現れなどと言い、「独自の理論」を展開してきましたが、資本主義社会において「社会的理性」を取りもどすための「ルールある経済社会」づくりを「日本の政府・財界の態度」を変えることによって、不破さんのいわゆる「資本の知恵」によって、実現しようとしているようです。

⦿しかし、資本主義的生産様式の社会の「社会的理性」、私的資本どうしの「市場での競争の結果」だけ変えても、資本主義的生産様式の社会は死にません。私たちは結果の原因である資本主義的生産様式の社会の資本の行動を暴露し、資本の行動をコントロールしなければならないのです。

⦿そして不破さんは、「実は、『資本論』のなかでも、未来社会が『共産主義社会』というそのものズバリの名前で出てくる数少ない場所の一つです。そのことを頭において読むと、その味わいが一段と深くなるのではないでしょうか。」(P205)、などと言っていますが、ここで必要なのは、『資本論』の「味わい」などではなく、マルクスが明らかにした、共産主義社会の「社会的理性」と資本主義的生産様式の社会の「社会的理性」との違いの説明なのです。

⦿私たちは、『資本論』を、自己顕示欲の強い評論家による、共産主義社会の「社会的理性」と資本主義的生産様式の社会の「社会的理性」との質的な差異を意識的に混同させるための道具にさせてはなりません。

※不破さんの「地球温暖化」や「原発」の「桎梏化」論についての詳しい説明は、ホームページ4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を参照して下さい。

私の「古典」の読み方

⦿206~207ページに、エンゲルスの「草稿」の「写し違い」により、「いままで意味のとりにくかった箇所」があるとの注釈付きで、「恐慌論にかかわる論及で、見逃せない箇所」として、マルクスが、資本主義的生産における「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」について「論及」した文章が掲載されています。

⦿幸い、私が読んでいる「大月版」は、訳者が優れていて、「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」の内容をよく理解しているためか、私には、それほど「意味のとりにくかった箇所」とは思えませんでした。しかし、翻訳には「誤訳」は付き物だし、印刷には「誤植」はつきものです。

⦿そんな時のために、ホームページ「☆マルクス・エンゲルスの大事な発見──マルクス・エンゲルスが私たちに教えたことで、私たちにとっていま特に大事なこと──」での、ドイツ語もロシア語もまったく出来ず、英語でさえ、大学一年のとき、サミュエルソンの『経済学』第七版の英語版と日本語訳版とをにらめっこしたくらいの語学力しかない私の、「古典」の読み方を、参考にしていただければ幸いです。

「第二〇章 単純再生産」

P219-222 不破さんが若きレーニンから学んだこと、二一世紀まで学び損ねていたこと

⦿不破さんは、219~221ページで、『資本論』の第二部第三篇を読む前にレーニンの『いわゆる市場問題について』(1893年、レーニン二三歳)を読んでいたので、「第二〇章 単純再生産」と「第二一章 蓄積と拡大再生産」の内容は「かなりとっつきにくい」ものだが、「エンゲルスが言うほどの困難を感じないで」「わりあい楽には入れた」ことを回顧しています。若き不破さんが、若きレーニンから学んだことを素直に振り返っています。

⦿しかし、21世紀になって、『資本論』の「第二部第一草稿」で「マルクスの発見」のヒントを発見し、「激しい理論的衝撃」を受けた不破さんは、かつての素直さを失ってしまったようです。

※これらの詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、参照して下さい。

P223-225 「第三部」へつながる、現代を考察するうえでの多くの示唆に富んだ「章」

〝貨幣の還流〟についての不破さんのトンチンカンな推測

⦿不破さんは、「マルクスは、還流問題を再生産論の基本にかかわる問題として非常に重視し」たが、「資本主義的生産のもとでの再生産過程の諸関係は、すべてが商品交換の関係から成り立っているのだから」、「貨幣の還流」を「いちいち検証する必要はない」ので、「清く飛ばすべし」と言います。そして、マルクスが「還流問題にそれほどこだわる」のは、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨にあったのではないか」と「推測」します。

⦿開いた口がふさがらないとは、このことでしょう。マルクスが似非「マルクス主義者」の不破さんに、「資本主義的生産のもとでの再生産過程の諸関係は、すべてが商品交換の関係から成り立っている」ことを説教され、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」から必要のない「貨幣の還流」を書いたのではないか、と揶揄される。

⦿エンゲルスは「「取得の資本主義的形態」のうちに「資本家による労働者の搾取」を見ない」等々、マルクス・エンゲルス・レーニンについて、常識では考えられない暴言をはく不破さんだから、仕方のないことと諦めるべきなのかもしれないが、マルクスがこれらの文章を見たら、「罵倒によって敵を批判する者」には、「真の批判によって敵を罵倒する」ことを決意することでしょう。

※なお、エンゲルスは「「取得の資本主義的形態」のうちに「資本家による労働者の搾取」を見ない」という不破さんの暴言については、ホームページ4-7「☆エンゲルスは「「取得の資本主義的形態」のうちに「資本家による労働者の搾取」を見ない」という、不破さんの暴言。」を参照して下さい。

「社会的資本」の「単純再生産」の可能な条件の論究

⦿不破さんに「清く飛ばすべし」と言われ、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」しか語られない「第二〇章」は、大月版『資本論』第二部全645ページのうち123ページを占めています。

⦿不破さんによって、「ケネーの「経済表」に接した時の感慨」などと揶揄され、後足で砂をかけるように、「清さ」などまったくなく、「飛ばされた」第二〇章で、マルクスは私たちに何を訴えているのか、二一世紀に生きる私たちは何をつかむことができるのかを、一緒に見てみましょう。

⦿「第二〇章」の第四節までは、「社会的資本」(個別的諸資本が統合された総資本の意味)をモデル的に「Ⅰ生産手段」を生産する部門と「Ⅱ消費手段」を生産する部門の二つに分け、それら二つの部門の「単純再生産」が可能な条件を導き出しています。

 再生産表式を使っての検証が行われていますが、読み進むに当たっては、「単純再生産」が可能な条件として、「Ⅰ生産手段」生産部門のv(労働者の労賃)とm(剰余価値)の合計が「Ⅱ消費手段」生産部門のc(不変資本部分)と等しいこと及び「Ⅱ消費手段」生産部門のvとmが「Ⅱ消費手段」に消費されることを念頭において読んで下さい。そうすれば、再生産表式を使ってマルクスが何を言おうとしているのか、理解できます。ただ、大月版の500ページの最終行から501ページの五行目までに書かれている数式による説明については、私には理解できませんでした。

 これら二つの部門の「単純再生産」が可能な条件については、大月版の501ページから502ページに(1)(2)としてまとめられています。ぜひ、お読み下さい。

⦿最後に「第四節」には、恐慌と繁栄期についての記述があり、恐慌は奢侈品消費を減少させ、必要消費手段の売れ行きをも減少させること、繁栄期には貨幣の相対的価値が下がるだけでなく労働者階級も資本家階級だけの消費財(贅沢品等)の一部の消費に参加すること等によっても物価が上昇することなどが述べられています。「繁栄期には貨幣の相対的価値が下がる」というマルクスの指摘は、不破さんの薄っぺらな「恐慌の運動論」にはない、現代の景気循環を見る上で大切な指摘です。

⦿そして、この文章に続いて、「賃金が上がれば経済が成長する」という誤った「理論」を「共産党」に押しつけている不破さんが、見たくもない、聞きたくもない文章が出てきます。マルクスは、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」が「労働者階級はそれ自身の生産物のあまりにも少なすぎる部分を受け取っているのだから、労働者階級がもっと大きな分けまえを受け取り、したがってその労賃が高くなれば、この害悪(恐慌──青山補足)は除かれるだろう」と考えていることの誤りを指摘し、不破さんを粉砕します。そして、資本主義的生産の基では「労働者階級の相対的な繁栄」(安定した雇用と多少の労賃の増加)は「ただ恐慌の前ぶれとしてしか」許されないことを述べます。

⦿これらは、大変大切な指摘です。現代を正しく解明し未来を切り拓くために熟考し、「共産党」の「修正主義」を修正しましょう。

※なお、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」についての詳しい文章は、ホームページ「5温故知新」→「1マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「D資本主義社会Ⅱ」中の「12、賃金」の12-14「労賃が増加すれば恐慌がなくなると考える健全で「単純な」常識は誤りである」を参照して下さい。

⦿「第四節」は、最後に、①単純再生産は事実上消費を目的としていること、②といっても、剰余価値の獲得が個別資本家の推進的動機として現れること、③しかし、その剰余価値は結局ここではただ資本家の個人的消費に役だつだけであること、④獲物(資本家の剰余価値)を分け合う仲間が、資本家から独立な消費者として現れるから、事柄はもっと複雑な形で現れることが述べられ、文章が結ばれています。

 単純再生産の場合にも、「恐慌」につながる私的資本主義的生産の「困難」さが示されています。

「貨幣流通」が産業循環に及ぼす影響への論及

⦿「第五節 貨幣流通による諸転換の媒介」は「貨幣流通」が産業循環に及ぼす影響の導入的な「節」となっています。

⦿まずはじめに、①資本の回転期間が短ければ諸転換のため貨幣は少なくて足りることと②単純再生産が可能なのは流通に投じられた貨幣が資本家のもとへ還流される場合だけであることを資本・商品の諸転換の「例解」を使って説明します。そして、貨幣が資本家のもとへ還流する、つまり、前貸資本価値と剰余価値が「実現」するためには、「資本家階級全体について見れば」、「自分で貨幣を流通に投ずるよりほかはない」が、資本家は「いつでも等価と引き換えでなければ貨幣を手放さない」ことを述べ、これらをめぐる「現実の成り行きは二つの事情によってわかりにくくされる」として、「二つの事情」に簡単に触れています。

⦿「二つの事情」とは、①産業資本の流通過程での「商業資本」や「貨幣資本」の役割、②剰余価値の「地代」や「利子」への分割等の問題で、①産業資本の流通過程での「商業資本」や「貨幣資本」の役割の問題は、「貨幣流通」が産業循環に及ぼす影響、「恐慌」問題等に直接つながるテーマです。また、②の剰余価値の「地代」や「利子」への分割等の問題は「第三部」の「三位一体的定式」につながるものです。

生産的消費を見ることができない「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」

⦿「第六節 部門Ⅰの不変資本」では、重要な点として、部門Ⅰ(生産手段の生産部門)の生産物は、「ただ不変資本の要素としてのみ役だつことのできる使用価値から成っている」ので、「資本主義的生産様式のもとでは」市場での幾つかのやり取りを通じて分配されるが、「仮に生産が資本主義的でなく社会的であるとすれば」、「部門Ⅰのこれらの生産物はいろいろのな生産部門のあいだに、再生産のために」、「絶えず再び生産手段として分配され」ることが論及されています。是非、留意して下さい。

⦿「第七節 両部門の可変資本と剰余価値」と「第八節 両部門の不変資本」とでは、両部門の連関を再確認し、「第八節」では、「部門Ⅰ」の個別資本はその生産物が再び生産手段としていろいろのな生産部門に入ることができるかどうかは感知しないことが述べられ、資本主義的生産様式の社会の社会的総資本の再生産を見る場合、その独自な歴史的経済的性格、つまり、自分が作り市場に投げ入れるものは知っていてもそれが市場でどうなるかはわからないことを述べています。

⦿前節で「社会的年間生産物の再生産は、一見、このような不合理な仕方で行われるように見える(年間総労働日全体は消費手段の生産に支出され、不変資本部分は含まれていないかのように見えること──青山)」ことが述べられているが、「第九節 アダム・スミス、シュトルヒ、ラムジへの回顧」は、シュトルヒはその理由を説明できないが「察知」していることを述べ、ところが、アダム・スミスは「社会的生産物価値の全体が収入すなわち労賃・プラス・剰余価値」であるという「とりとめのない説を立てている」として、そのもっともらしさを説明し、「第八節」に立ちかえってアダム・スミスを論破しています。

⦿この「第九節」を取り上げようともしない不破さんは、アダム・スミス同様、生産的消費を見ることができず、生産的消費の重要な意味が理解できないようです。だから、日本における「産業の空洞化」に何の興味も示さず、「賃金が上がれば経済はよくなる」などと、「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」に成り下がってしまったのでしょう。

⦿「第一〇節 資本と収入 可変資本と労賃」は資本と収入、可変資本と労賃を「資本」とは何かという観点から説明しています。まず、この節に出てくる重要な言葉、リアルな現実を見てみましょう。これまでの復習ですが、次の言葉は大変重要なので、しっかり頭に入れておきましょう。

⦿「資本主義社会は、その処分可能な年間労働のより多くを生産手段(つまり不変資本)の生産に使用するが、これは労賃の形態でも剰余価値の形態でも収入には分解できないもので、ただ資本として機能することができるだけである。」(大月版P539)

⦿もう一つは、「彼の労働力は、それ自体、商品形態にある彼の資本なのであって、そこから絶えず彼の収入がわいてくるのだ」という〝身体は資本論〟について、次のようにリアルな現実を突きつけています。

 「じっさい、労働力は彼の財産(絶えず更新され再生産される財産)ではあるが、彼の資本ではない。労働力は、彼が絶えず売ることのできる、また彼が生きて行くためには絶えず売らなければならない唯一の商品であり、そして、ただその買い手すなわち資本家の手のなかではじめて資本(可変資本)として働く商品である。」(大月版P541)

⦿さらに、「第一〇節」では、先ほど抜粋した『資本論』(P539)の文章とともに、P548で「年間生産物は再生産のすべての要素を含んでいなければならず、生産資本のすべての要素、したがってまたことにその最も重要な要素である可変資本を回復しなければならない。」と述べています。

⦿おっちょこちょいの「健全で「単純な」(!)常識の騎士たち」は、この文章の「その最も重要な要素である可変資本」の「回復」という言葉があることに飛びついて、「可変資本」=「労働者」の「賃金が上がれば経済はよくなる」と不破さんと同じことを言っていると、ぬか喜びするかもしてません。

⦿しかし、物事(経済)は全体を見なければなりませんし、文章は一部だけを切り取って自分の好きなように加工してはなりません。539ページの文章と合わせて読めば、どう逆立ちしても、けっして不破さんの「賃金が上がれば経済はよくなる」という謬論の支援材料にはなりません。539ページでマルクスは「資本主義社会は、その処分可能な年間労働のより多くを生産手段の生産に使用する」と述べていますが、日本は「産業の空洞化」によって「生産手段の生産」の場が海外に「輸出」され、労資関係は資本家優位になり、低賃金と不安定雇用が広がり、その結果、「最も重要な要素である可変資本」が回復しない状態が続いているのです。さらにいえば、その結果、最終需要は伸びず、日銀が金融の〝異次元緩和〟の大ばくちを打っても、依然として物価が上昇しない状況が続いているのです。だから、やはり、これらの文章は、「産業の空洞化」に無関心な不破さんにとっては、耳の痛い言葉なのです。

⦿「第一〇節 資本と収入 可変資本と労賃」は、最後に、可変資本Ⅰが①貨幣資本から労働力に転換され②労働力が可変資本として働き③価値生産物(v+m)へと転化することを述べ、「可変資本はいつでもなんらかの形態で手のなかにあるのだから、それがだれかにとっての収入に転換されるとはけっして言うことができないのである。」ことを確認するとともに、貨幣資本が、「不変資本も可変資本も、再び貨幣資本として回復されるということは、年間生産物の転換における一つの重要な事実なのである。」と文章を結んでいます。

資本主義的生産の矛盾と対外貿易の役割

⦿「第一一節 固定資本の補填」は、まず、「生産手段を生産する部門Ⅰでは、それが一方では部門Ⅱの不変資本の流動成分を供給し他方ではその固定成分を供給するかぎり、均衡のとれた分業が不変に保たれなければならない」(大月版P572)ことを表式を使って説明します。

⦿つぎに、分業のバランスが崩れた二つの例をあげて、「第一の場合」には「貨幣」が余り、「第二の場合」には「商品」が余ることを示し、「第一の場合」には労働の「生産性や長さや強度の増大によって、より多くの生産物を供給すること」によって補うことができるが、「第二の場合」には「その生産を縮小しなければならないことになり、それはこの生産にたずさわる労働者と資本家とにとって恐慌を意味する。」こと、「商品」が余ること自体は「害悪ではなく、かえって利益である。だが、資本主義的生産では害悪なのである。」ことを指摘します。

⦿そして、「第一の場合」の解決策として、「外国商品の輸入」を、「第二の場合」の解決策として、外国への「輸出」をあげ、「どちらの場合にも対外貿易が必要である」(同、P574)ことを述べ、「しかし、対外貿易は、それがただ諸要素を(価値から見ても)補填するだけでないかぎり、ただ諸矛盾をいっそう広い面に移し諸矛盾のためにいっそう大きな活動範囲を開くだけである。」(同、P577)と、「対外貿易」の役割を正しく指摘しています。

⦿この、「対外貿易」が「ただ諸矛盾をいっそう広い面に移し諸矛盾のためにいっそう大きな活動範囲を開くだけである」というマルクスの指摘は、グローバル資本が世界中を闊歩する現代においても、的を射た指摘です。

⦿国内での成長の限界に突きあたった資本が、海外での事業展開によって一層の資本蓄積を図ろうとするとき、国内での生産と雇用を確保し、海外での生産にあたってその国の国民がほんとうに豊かになるように生産技術も移転し自国なみの賃金も保証するのであれば、両国の国民にとって万々歳で何の矛盾も生じませんが、それでは資本主義的生産様式の社会を超えた未来の新しい国際関係になってしまいます。

⦿グローバル資本が生き抜くためには、国内産業は「空洞化」させ、海外では、コカコーラの原液(アヘンではないからまだスマートなのか?)を高く売りつけるように技術は独り占めして、労働者を低賃金で働かせる、それ以外に資本が「資本」として生きていく道はありません。グローバル資本は、「対外貿易」によって、「ただ諸矛盾をいっそう広い面に移し諸矛盾のためにいっそう大きな活動範囲を開くだけ」でした。だから今、世界は大揺れに揺れているのです。マルクスの指摘は、まことに的を射た指摘ですが、このことを「発見」できない前「共産党」委員長の不破さんは、やはり、マルクスの学び方を間違えているようです。

⦿そして、この「節」は、「もし再生産の資本主義的形態が廃止されてしまうならば、事柄は次のことに帰着する。」として、分業のバランスが崩れるのを防ぐために、「社会がそれ自身の再生産の対象的手段を調整する」ために「継続的な相対的過剰生産」を行うが、「資本主義社会のなかではそれは一つの無政府的な要素」であることを述べ、経済学者たちは「固定資本と流動資本との生産における不均衡」を恐慌を説明するために「愛用する論拠の一つ」としているが、単純再生産の場合にさえもこのような不均衡が起こらざるをえないということは、「彼らには耳新しいことなのである。」と述べて結ばれています。

⦿私たちが『古典』を読む時は、現代を凝視し、未来への道筋のヒントをつかむ努力を忘れないようにしましょう。

⦿「第一二節 貨幣材料の再生産」は「毎年の新たな金生産にもとづいてそれと並行的に行われる貨幣蓄蔵」について論究し、固定資本の更新のための年々の貨幣蓄蔵との違いを明らかにし、生産過程での貨幣蓄蔵の今後の展開への布石としています。また、「第一三節」は、「社会的再生産の考察で経済学者たちの混乱と大言とにみちた無思想の例として」、産業資本家が大きな利益を上げられるのは「自分たちが生産するものをすべて自分がその生産に費やしたよりも高く売ることによってである」というデステュツトの謬論を暴露しています。

⦿このように、不破さんに「清く飛ばすべし」と言われ、「ケネーの『経済表』に接した時の感慨」しか語られなかった「第二〇章」は、資本主義を動かす〝骨格〟の重要な一部である「社会的総資本の再生産と流通」の基礎をなす「単純再生産」を扱っており、「第二一章」へと?がるウォーミングアップの「章」であり、であるからこそ、「第三部」へつながる、現代を考察するうえでの多くの示唆に富んだ「章」となっています。「清く飛ばす」ことなく、みなさんは、そのことをしっかりと理解して下さい。

「第二一章 蓄積と拡大再生産」

P226-227 「第二一章 蓄積と拡大再生産」のマルクス・エンゲルスの意図を理解できない不破さんのマルクスに対する見当違いの「推測」とエンゲルスへの誹謗・中傷

⦿不破さんは、「第二一章 蓄積と拡大再生産」について、「おどかすわけではありませんが」と、共に科学的社会主義の思想を学び、新しい未来を切り開いて行く同志にたいする言葉と言うよりも、趣味の同好会の先生が上から目線で「おどかす」ような枕詞をつけて、「ここはおそらく、全三部のなかでもっとも理解の難しいところです」と言います。

⦿不破さんは、その理由として、①マルクスの試行錯誤の経過がそのまま本論として本文に再現されていること、②エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまったこと」、の二点をあげています。

⦿不破さんは、①のマルクスの試行錯誤(これが不破さんの最初の「推測」──青山)の原因を次のように述べていますが、よくもまあ、自分の「推測」(マルクスの試行錯誤という──青山)に合わせるために勝手な「推測」をかさね、その例証のために『資本論』の一言半句を使ってデマを仕立て上げるものだと、不破さんのペテン師ぶりには感心して、怒りが込み上げてきました。

⦿不破さんは、言います。

「私はそこには、〝単純再生産の難題を解決した以上、拡大再生産論はその応用問題のようなもので、特別な困難はないだろう〟と考える楽観論があったのではないか、と見ています。たとえば、第八草稿そのもののなかでも、例のスミス批判の文章(第三篇第一九章)のなかで、『主要な困難……は、蓄積〔拡大再生産のこと──不破〕の考察のさいではなく、単純再生産の考察のさいに現われる』と書いたりしていました。」、と。

⦿この文章を普通の人が読めば、「たとえば」以下の文章は、「単純再生産の考察のさいに」「主要な困難」があると理解するでしょう。しかしマルクスは、そんなことは一言も言っていないのです。

⦿不破さんが自分の「推測」に合わせるためにした「推測」の根拠となる「継ぎはぎ」の文章は、「第一九章 対象についての従来の諸論述」の「第二節 アダム・スミス」の節のマルクスの結びの文章です。全文を抜粋します。

⦿「主要な困難、といってもその最大の部分はこれまでに述べたことによってすでに解決されているのであるが、それは、蓄積の考察ではなく単純再生産の考察で現れる。それだからこそ、アダム・スミス(〔『諸国民の富』の──青山〕第二篇)の場合も、またそれ以前にはケネー(経済表)の場合も、社会の年間生産物の運動と、流通によって媒介されるその再生産とが問題にされるときは、いつでも単純再生産が出発点にされるのである。」(大月版P453)

⦿ここでマルクスが「主要な困難」と言っているのは、「ただ流通の手品によってひき起こされるにすぎない思考の混乱」、つまり、「社会的生産物価値の全体が収入すなわち労賃・プラス・剰余価値」であるという「思考の混乱」のことです。そして、「主要な困難」を抱えているのはマルクスではなくA・スミスです。

⦿次に、「蓄積の考察ではなく単純再生産の考察で現れる」と言っているのは、「(1)アダム・スミスはここでは明白にただ単純再生産を論じているだけで、拡大された規模での再生産または蓄積を論じているのではない。」(同前P445)からです。だから、「社会の年間生産物の運動と、流通によって媒介されるその再生産とが問題にされるときは、いつでも単純再生産が出発点にされるのである」とマルクスは言っているのです。

⦿ご覧のとおり。不破さんの言っていることとマルクスの述べていることとでは全然違うでしょう。このように、不破さんが自分の最初の「推測」に合わせるために勝手な「推測」をした根拠となる文章は、まったくのデマだったのです。だから、私が不破さんのことを「ペテン師」扱いしても、まったく正当なことだと思います。

※若干はしょってしまったので、分かりにくかったかもしれませんが、詳しくはホームページ4-27-2「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説②「『資本論』第二部を読む」を検証する。」を参照して下さい。

⦿なお、マルクスの試行錯誤の経過がそのまま本論として本文に再現されていると、なぜ、「全三部のなかでもっとも理解の難しいところ」となるのか、まったく理解できません。「理解の難しさ」はマルクスの草稿のもつ荒削りな性格と不破さんの「理解」力の問題で、エンゲルスの責任などではありません。不破さんは、不破さんの言う「本論」だけを「本文」として、「マルクスの試行錯誤」の部分を「注」とすれば、「理解の難しいところ」が易しくなるとでも言うのでしょうか。

⦿つぎに、不破さんは、エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまったこと」と、「エンゲルス流」などという偏見に満ちた言葉遣いまでしてエンゲルスを責め立てますが、「本文」の「筋道」がどのように歪められたのかについて、まったく述べていません。

⦿『資本論』の解説者なら、どう「いちだんと筋道のたたないものにしてしまった」のか、本当の筋道はこういうことだというくらい、しっかりとた言うべきです。エンゲルスは不破さんのいう「本文」に沿うように編集したのに、不破さんは、ただ抽象的に責め立てるだけです。これでは、まったくの誹謗・中傷というものです。

⦿不破さんは、184ページでも、どこが科学的社会主義の思想に反して誤っているかも示さず、「自己流に書き変えた」とレッテル貼り、ここでも「エンゲルス流」などと意味ありげに誹謗・中傷します。そして、デマをまじえて『資本論』を攻撃します。どう考えても、「エンゲルスの仕事を受け継いでそれをより完全なものにする」態度とは思えません。

「第二一章 蓄積と拡大再生産」でマルクス・エンゲルスが言っていること

⦿「第二一章 蓄積と拡大再生産」でマルクス・エンゲルスが言っていることはホームページ4-27-2「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説②「『資本論』第二部を読む」を検証する。」を参照して下さい。

エセ「マルクス主義」者からペテン師、詐欺師への不破さんの跳躍

⦿不破さんは、「第二一章 蓄積と拡大再生産」について、①「第一回目の挑戦。単純再生産の表式を出発点におく」失敗、「第二回目の挑戦。単純再生産の均衡条件を起点に」失敗、「第三回目の挑戦。解決への道に踏み出したが予想外のつまずき」で失敗、というマルクスの無能さが、そのまま本論として本文に再現された編集になっていること、②加えて、エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまった」と言い、この「第二一章」は、不破さんの言う『資本論』の二つの「エンゲルスの編集上の誤り」の一つに数え上げられています。

⦿だから私は、『資本論』に沿って、マルクスとエンゲルスの思想に寄り添って、忠実に『資本論』を再現してきました。(上記ホームページ4-27-2を参照)『資本論』とこの拙文をあわせて読んでいただければ分かるとおり、マルクスの論旨は一貫しています。それは、資本家が、「だが、待て!ここにちょっとしたもうけ口はないものか?」と悪知恵を働かせて、新たな貨幣資本の形成のための源泉を探し求めても、「消費が資本主義的生産の目的であり推進的動機であって、剰余価値の獲得やその資本化すなわち蓄積がそうなのではない、ということを前提としている」単純再生産のもとでは資本蓄積の条件はなく、単純再生産の前提は資本主義的生産とは両立しないということです。ここに資本主義的生産様式の社会の〝宿命〟があります。

⦿そのことが書かれている『資本論』を使って、不破さんは、マルクスを資本主義を知らない間抜けに描き、『資本論』の内容をマルクス・エンゲルスの意図と真逆のものに見せようとします。私が解説した箇所にある『資本論』の中の文章の一部を借用して、驚くべき創作を行います。これはもう、エセ「マルクス主義」者などという範疇を遙かに超えて、ペテン師、詐欺師とでもいうべきものです。すこし長くなりますが、不破さんの驚きの『資本論』「解説」を読んで下さい。

⦿「しかし、マルクスは、そこまで(拡大再生産の継続が不可能だということ──青山)話を進めず、第一年度の表式に、あれこれの問題を見つけだして、議論の空転をはじめました。……(青山の略)が大問題だとして、きりきり舞いするのです。これは、率直に言って、問題のないところに無理に問題をつくり出すといった式の話でしたが、この時点では、それが解決のつかない重大問題に見えたのでした。

 マルクスはそこからぬけだそうとして、あれこれの奇策や邪道にまで考えをめぐらせたようで、その様子はあちこちにちりばめられた溜息まじりの言葉からもうかがわれます。

 『しかし待て!ここにはなにかちょっとした儲け口はないか?』、『突然、仮定をすり替えてはならない』、資本主義的機構に固着している『汚点』を『理論的諸困難をかたづけるための逃げ道として利用してはならない』

 マルクスは、ついに、考察の途中で筆を投げたようで、第三回目の挑戦は、『Ⅱの資本家たちの一部のあいだにおける追加貨幣資本の形成が、他の一部の明確な貨幣喪失と結びつく……』と書いたところで、ぷつんと途切れています。こういうことも、マルクスの草稿では、珍しいことでした。」 

⦿これが、不破さんの、悪意に満ちた、「解説」です。

 マルクスもとんでもない人物に見込まれてしまったものです。マルクスはここまでの論及で、部門Ⅰの内部での拡大再生産について述べるとともに、なによりも、単純再生産のもとでは資本蓄積の条件はなく拡大再生産の継続が不可能だということを説明し、単純再生産の前提は資本主義的生産とは両立しないということを、謬論に反論しながら論証してきたのです。マルクスは、不破さんが言うように謬論にしがみついたのではなく、謬論に反論し克服してきたのです。

⦿不破さんが、「マルクスはそこからぬけだそうとして、あれこれの奇策や邪道にまで考えをめぐらせたようで、その様子はあちこちにちりばめられた溜息まじりの言葉からもうかがわれます」と言う、マルクスの「溜息まじりの言葉」とは『資本論』のどのような場面で使われてきたのか、『資本論』と私の解説をお読みになった方には不要な説明ですが、不破さんの「解説」だけを読んでその気にさせられている人のために、不破さんのペテン師ぶり、詐欺師ぶりを明らかにするために、いっしょに見てみましょう。

⦿まず最初に出てきた、「しかし待て!ここにはなにかちょっとした儲け口はないか?」とは、悪知恵を働かせて、新たな貨幣資本の形成のための源泉を探し求める、あくどく、狡猾な、資本家の言葉をマルクスが代弁したものです。そして次の「突然、仮定をすり替えてはならない」は、そのような考えにもとづいて、「賃金をその正常な平均水準よりも低く圧し下げる」ことによって新たな貨幣資本の形成のための源泉を見つけだそうとすることにたいして、「正常な資本形成」からの逸脱として、「突然、仮定をすり替えてはならない」とマルクスが述べたものです。最後の「資本主義的機構に固着している『汚点』を『理論的諸困難をかたづけるための逃げ道として利用してはならない』」という言葉は、これら全体を総括して、マルクスが「要するに、資本主義的機構の客観的な分析にあっては、今なおこの機構に例外的に付着しているある種の汚点を理論的な困難を除くための逃げ道として利用してはならないのである。」(大月版)と述べた言葉を不破さんがつまみ食いしたもので、「あれこれの問題を見つけだし」たり、「あれこれの奇策や邪道にまで考えをめぐらせ」ようとする、大多数の「ブルジョア的批判者」や不破さんたちをマルクスが戒めたものです。だから、これらの言葉は、マルクスの「あちこちにちりばめられた溜息まじりの言葉」などではまったくありません。

⦿そして不破さんは、「マルクスは、ついに、考察の途中で筆を投げたようで、第三回目の挑戦は、『Ⅱの資本家たちの一部のあいだにおける追加貨幣資本の形成が、他の一部の明確な貨幣喪失と結びつく……』と書いたところで、ぷつんと途切れています。」と述べていますが、最初に確認しておきたいのは、『資本論』でマルクスが論及しているのは、新たな貨幣資本の形成のための源泉を探し求めることではなく、そのようなことは「おぼつかない」、理屈に合わないことだということです。

⦿そして、その理屈に合わない方法は「ただ二つの道だけによって可能」だとして、そのうちの一つである「資本家Ⅱの一部分が他の部分をだまして銭盗りに成功すること」をあげています。そして、草稿はここで中断され、もう一つの理屈に合わない方法は示されていませんが、しかし、そのこと(理屈に合わないもう一つの方法が示されていないこと)をもって、「マルクスは、ついに、考察の途中で筆を投げたようで」などと言い、「『Ⅱの資本家たちの一部のあいだにおける追加貨幣資本の形成が、他の一部の明確な貨幣喪失と結びつく……』と書いたところで、ぷつんと途切れています」などと表現するのは、お門違いの、理不尽な攻撃としか言いようがありません。

⦿不破さんは、マルクスは理屈に合わない方法なら二つあると言ったのにマルクスは一つしか示していないから「マルクスは、ついに、考察の途中で筆を投げた」と言って攻撃していますが、もともとマルクスは、新たな貨幣資本の形成のための源泉を探し求めることはできないと言っているのですから、「理屈に合わない方法」が一つしか例示されなかったとしても、何ら問題はありません。「マルクスは、ついに、考察の途中で筆を投げた」などと言われる筋合いのものではありません。この調子だと、そのうち、不破さんが、「マルクスは、ついに、資本主義の考察の途中で『資本論』執筆の筆を投げたようで、1881年に草稿の執筆がぷつんと途切れています」などと言い出さないことを願うばかりです。

⦿そして、不破さんは、エンゲルスが、「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け、時にはエンゲルス流の解説までくわえて」、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまった」と言います。

⦿確かに「内容にそぐわない節の区切りや見出し付け」や不破さんの気づかない計算間違い等はあるかもしれませんが、エンゲルスの編集は、『資本論』とこれまでの私の解説を見ていただければ分かるとおり、十分「筋道」は立っており、以降の展開のうえでも「筋道」の立ったものとなっています。

⦿そして、この草稿で示されなかった「もう一つの方法」を必死にさがし、マルクスの草稿とマルクスの意図を最大限生かそうと努めたエンゲルスの編集にたいし、不破さんは、「ゲルス流の解説までくわえて」と揶揄し、「いちだんと筋道のたたないものにしてしまった」と悪罵を投げつけます。

⦿そのくせ、不破さんは、「ゲルス流の解説」とは何かも言わず、どこがどう「筋道」が立っていないのかも言わない。読者を馬鹿にしているとしか思えません。

「第二一章」はマルクスの試行錯誤をエンゲルスが誤って「本論」に入れてしまったものではない

⦿不破さんの「第二一章」の解説は10ページで、そのうちの7ページ半はマルクスの馬鹿さ加減とエンゲルスの編集のまずさの紹介で、不破さんの言う「本論」の解説は2ページ半に凝縮されており、その中には自らの著著の紹介も1/3ページほどあり、盛りだくさんの内容となっています。

⦿たった2ページ半にも満たない、不破さんのいう「第二一章」の「本論」で不破さんが「解説」していることは、マルクスが拡大再生産の順調な進行のために必要な条件として、Ⅰ(v+m)>Ⅱcという関係を発見したということだけです。

⦿そして、不破さんは、「この発見は、マルクスを大いに喜ばせたようで、その条件の重要性を、短い文章の中で言い方を換えながら四回もくりかえしたほどでした。」と自らの理解力のなさをマルクスにたいする罵倒で補っています。

⦿不破さんは、「言い方を換えながら四回もくりかえした」という文章の一つに「Ⅰ(v+m)がⅡcに等しいという単純再生産の前提は、資本主義的生産と両立しない」という文章の一部をあげていますが、このマルクスの認識は、不破さんの言う「二回目の挑戦」まででマルクスが論証したことを別な表現(拡大再生産が行われる場合の)表現であらわしたものです。なお、不破さんが抜粋した「Ⅰ(v+m)がⅡcに等しいという単純再生産の前提は、資本主義的生産と両立しない」という文章は「だけではない。」という重要なシッポが付いていますが、その点の解説はもう少し後でおこないます。

⦿このように、不破さんの言う「本論」なるものは、不破さんの言う「エンゲルスの編集上の誤り」を土台にして書かれています。そもそもⅠ(v+m)>Ⅱcという関係は「一 第一例」の表式Bで初めて出てきたものではありません。「一 第一例」の表式Bの説明で「(1000v+500m)Ⅰが1500Ⅱcと取り替えられることは、単純再生産の過程であって、すでに単純再生産のところで明らかにしておいた。」(大月版P632)と述べられていますが、不破さんの言う「第三回目の挑戦」の「表式a」として出てきたものです。そして、この文章に続く「……は、すでに論究した。だから、それはそのままⅠcに合体されてよいのであって、……」(大月版P633)という文章のなかの「すでに論究した」とは、不破さんの言う「第一回目の挑戦」のところで述べられていることです。

⦿そして、滑稽なのは、不破さんが、マルクスの試行錯誤の経過をそのまま本論として本文に再現した「エンゲルスの編集上の誤り」によって『資本論』の載ってしまったという文章を、不破さんの次の「解説」の「(9)資本主義的生産の前途をめぐって」という節で、「再生産論が何を明らかにするのか、という根本問題について述べた次の言葉」として、恥も外聞もなくページの半分を使って引用していることです。

⦿このように、不破さんによって「エンゲルスの編集上の誤り」というレッテルを貼られ、「マルクスの試行錯誤の経過」などと揶揄されたマルクスの草稿は、『資本論』にとって必要であっただけではなく、不破さんにとっても必要な文章だったのです。

「第二一章」で述べられている二つの大事なこと

⦿マルクスは、これまでの論及のなかで、資本主義的生産様式の社会であるがゆえに、まさに「資本」という貨幣の存在が、円滑な拡大再生産の足かせとなること(大月版P606参照)を述べてきましたが、「信用制度のもとでは一時的に追加的に遊離させられた貨幣がすべてすぐに能動的に追加貨幣資本として機能することになる」(大月版P643)ことに論及し、「信用制度」が上記のような困難を緩和させることを述べます。ここで大事なことは、資本主義的生産様式の社会における拡大再生産は常に相対的過剰生産の芽をもっており、信用制度による「貨幣」の「資本」化と金融の円滑化がその芽を包んでいるということです。これが一つ。

⦿もう一つの大切な指摘は、これもこの章のマルクスのこれまでの論究で明らかにしてきた、「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」(大月版P646)ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということです。つまり、資本主義的生産様式の社会において「資本」は大海原を走り続けるマグロのようにⅠ(v+m)>Ⅱcという関係のなかで走り続けなければならず、走り続けることによって生産と消費の矛盾は拡大し、それはなんらかの方法で調整されなければならないということです。

⦿不破さんは、不破さんの言う「本論」以前の論及を無視して、Ⅰ(v+m)>Ⅱcという関係の本当の意味を理解することができず、「この発見は、マルクスを大いに喜ばせたようで、その条件の重要性を、短い文章の中で言い方を換えながら四回もくりかえしたほどでした」などと自らの理解力のなさをマルクスにたいする罵倒で補い、自らの著著の宣伝に明け暮れています。これでは、『資本論』とマルクス・エンゲルスがあまりにも可哀想すぎます。そして、このような解説書を書く人が責任編集した「似而非『資本論』」を読まされる人たちは、よほどの注意が必要です。

「第二一章」をまったく理解していない不破さん

⦿「(9)資本主義的生産の前途をめぐって」という節の「再生産論と恐慌の可能性」という最初の小見出しの文章は、不破さんが、「第二一章 蓄積と拡大再生産」の内容をまったく理解していないことを自ら語っています。

⦿不破さんは、開口一番、「こうしてマルクスは、単純再生産に続いて、拡大再生産の問題でも、資本主義的生産のもとで順調な進行が可能であることの証明に成功しました。」と言います。不破さんは、「第二一章 蓄積と拡大再生産」で何を学んできたのでしょうか。

⦿不破さんが「第二一章」の「本文」について言っているのは、マルクス・エンゲルスと『資本論』の悪口と、「マルクスが拡大再生産表式を描き出す方法を会得した」ことと、拡大再生産の条件として「Ⅰ(v+m)>Ⅱc」という関係がなりたつということでした。

⦿そして、私はこれまで、不破さんが「マルクスが拡大再生産表式を描き出す方法を会得した」と間抜けなことを言っているなどということは、不破さんの名誉のために、このページに書きませんでした。しかし、私は、上記の文章を読んで、不破さんがなぜ「間抜け」なのかを説明せざるを得なくなりました。

⦿マルクスは「拡大再生産表式を描き出す方法を会得した」のではありません。マルクスは、単純再生産表式と拡大再生産表式を使って、資本主義的生産様式の発展法則をあぶり出し、「資本」と「拡大再生産」との関係を明らかにしたのです。その大まかな内容は、ホームページ4-27-2の「『第二一章』で述べられている大事なこと」にまとめてありますので、是非、ご覧下さい。

⦿不破さんの、マルクスは「拡大再生産表式を描き出す方法」を会得するために失敗を繰り返し、それを誤ってエンゲルスが「本論」に入れてしまったという主張は、科学的社会主義の思想の無理解と深く関わっています。

⦿マルクスは不破さんが言うように、「単純再生産に続いて、拡大再生産の問題でも、資本主義的生産のもとで順調な進行が可能であることの証明に成功し」たのではありません。マルクスは、「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということを「第二一章」を通じて明らかにしたのです。

⦿不破さんは、続いて、「再生産論が何を明らかにするのか、という根本問題について」語っているらしい文章を書いていますが、私にとっては『資本論』の「第二一章」を遙かに超える「難解さ」のため要約することができませんので、ちょっと長くなりますが、全文を掲載したうえで論評したいと思います。以下、不破さんの文章の抜粋です。

⦿「マルクスが、単純再生産の場合でも、拡大再生産の場合でも、一定の均衡条件が必要であることを明らかにしたことは、その条件が失われたときには『社会的総資本の再生産と流通』に破綻が生じうることを、具体的に示したことにほかなりません。

 この点では、マルクスが拡大再生産の理論の探究を始めた時期、はっきり言って、一八八〇年から八一年という、これから第一回の挑戦に向かおうという模索の時期に、再生産論が何を明らかにするのか、という根本問題について述べた次の言葉は、まさに問題の本質をついたものだと言えるでしょう。

『商品生産が資本主義的生産の一般的形態であるという事実は、貨幣が資本主義的生産において単に流通手段としてばかりでなく、貨幣資本としても演じる役割をすでに含んでいるのであり、また、この生産様式に固有な、正常な転換の一定の諸条件を、したがって再生産──単純な規模でのであれ拡大された規模でのであれ──の正常な進行の諸条件を生み出すのであるが、これらの諸条件はそれと同じ数の異常な進行の諸条件に、すなわち恐慌の可能性に急転する。というのは、均衡は──この生産の自然発生的な姿態のもとでは──それ自身一つの偶然だからである。』(大月版P613)」

⦿どうです、難しいでしょう。文脈が流転しているのです。この文章をもとに、「この文章でいう根本問題とは何か」また「問題の本質とは何か」、具体的に答えなさい、という国語の試験問題でも出されたら不破さんといえどもお手上げでしょう。もっとも、不破さんの文章の特徴の一つは、前にも指摘した通り、何だかよくわからない抽象的なことを言ってその気にさせるという、いかさま「宗教」のような説得術を旨とするものですから、この文章もそれほど変わったものというわけではありません。

⦿上記の文章ではっきりしていることは、ここでの「根本問題」は「再生産論が何を明らかにするのか」ということで、上記の『資本論』からの引用文はその「根本問題」を述べた文章で、それは「問題の本質をついたもの」だと言うのです。「再生産論が何を明らかにするのか」ということ、つまり、「再生産論」の目的は上記の引用文の内容だというのです。つまり、不破さんによって「エンゲルスの編集上の誤り」というレッテルを貼られ、「マルクスの試行錯誤の経過」などと揶揄されたこのマルクスの草稿は、『資本論』にとって必要な構成部分であっただけではなく、不破さんにとっても、「再生産論が何を明らかにするのか」という「根本問題」を述べた文章で、それは「問題の本質をついた」重要な文章と言うのです。

⦿確かに、この文章は、マルクスが、「第二一章」「第一節 部門Ⅰでの蓄積」の「一 貨幣蓄蔵」のなかで、部門ⅠのAが「貨幣蓄蔵をなしとげるのは」、彼の剰余生産物を売って、それを「流通から引きあげて貨幣として積み立てる」ことによってであることを述べた後で、「ここでついでに次のことを言っておきたい」として、「資本主義的基礎の上での年間生産物の正常な転換」は、一方的な諸商品の売り買いの「均衡」という仮定のもとでのみ保たれていること、そして、そこで流通する貨幣についていえば、「商品生産が資本主義的生産の一般的形態だという事実は、すでに、貨幣が単に流通手段としてだけではなく貨幣資本としてもそこで演ずる役割を含んでいる」ことを述べ、この「均衡」は「それ自身一つの偶然」であり、非常に複雑な資本の流通過程がその正常な進行の妨げとなる多くのきっかけを与えていることを述べた文章の一部で、「流通する貨幣」の資本主義的生産様式の社会での役割と「資本」として利潤追求のためにしか使えない限界等じっくり考えていただきたい点を含む有意義な文章です。

⦿しかし、この文章に書かれていることがマルクスの「再生産論」の目的だというのは、不破さんらしいあまりにも視野の狭い、「第二一章」をまったく理解していない、とんでもない謬論です。

⦿そして、次に、「第二一章」の不破さんのいわゆる「本論」などお構いなしに「再生産論が何を明らかにするのか」という「根本問題」を探し当ててしまった不破さんは、マルクスが再生産に係わる論及のなかで私たちに気づかせてくれた資本主義的生産様式の社会の生産の仕組みの特徴などまったく無視して、「(10)書かれなかった恐慌論の内容を推理する」とのタイトルで、「第二一章」の先にあるものを論究します。

不破さんの、自説へ誘導するためのマルクスの改ざん

⦿不破さんは、「(10)書かれなかった恐慌論の内容を推理する」として、「ここで、残されたマルクスの論述をもとに、それぞれの問題(①恐慌の可能性②恐慌の根拠③恐慌の運動論──青山注)のより立ち入った検討を試みたいと思います。」と述べて、論を進めます。

「恐慌の可能性」についての不破さんの「より立ち入った検討」

⦿不破さんは、「(1) 恐慌の可能性」について、マルクスが「再生産の正常な進行の諸条件」について、「これらの諸条件はそれと同じ数の異常な進行の諸条件に、すなわち恐慌の可能性に急転する」と指摘した点に「恐慌の可能性のもっとも重視すべき形態があることは、間違いないところだと思います。」と「より立ち入った(?──青山)検討を試み」ます。

⦿マルクスのこの文章は、「ここでついでに次のことを言っておきたい」として述べられているからこそ、そして、「商品生産が資本主義的生産の一般的形態であるという事実は、貨幣が資本主義的生産において単に流通手段としてばかりでなく、貨幣資本としても演じる役割をすでに含んでいるのであり、また、」として続けて述べられているからこそ意味があり、「均衡は、資本主義的生産様式の生産のもとでは、それ自身一つの偶然だからである」という重要だがマルクス主義者にとっては当たり前のことが述べられているのであり、残念ながら、「より立ち入った検討」の試みなどと言えるものではありません。

⦿「恐慌の可能性」についての「論究」が「均衡は、資本主義的生産様式の生産のもとでは、それ自身一つの偶然だからである」だけではあまりにも寂しいので、「恐慌の可能性」についての科学的社会主義の思想に「論及」してみたいと思います。

⦿資本主義的生産様式のもとでの資本主義的商品生産は、社会全体の経済が私的な商品資本の生産によって成り立っており、社会全体のバランスのとれた必要を満たすための生産ではなく、私企業が利潤を得るための生産であり、金融機関の与信業務も私的資本主義的に行われています。そのために、価値実現(商品資本から貨幣資本への転換)の正常な進行、資本の正常な運用は保証されていません。これが、資本主義的生産様式の社会での「恐慌の可能性」が常に存在する理由です。社会的生産を私的資本が担っていることが、「恐慌の可能性」が常に存在する理由なのです。

「恐慌の根拠」についての不破さんの「より立ち入った検討」

⦿「(2)恐慌の根拠」で不破さんは、まず、「資本主義以前の経済は、恐慌という現象を知りませんでした」と述べ、「その原因は、資本主義が、剰余価値の取得と拡大を唯一の推進的動機、規定的目的とする生産体制だというところにあります」と言います。

⦿しかし、この説明は、正しいようで正しくありません。これが正しい答えだとしたら、資本主義社会で起きる問題はすべてこう答えれば正解になってしまいます。

⦿資本主義以前の経済が、恐慌という現象を知らなかった理由は、①資本主義以前の経済は資本主義的商品経済が支配的ではなく②資本主義的生産は拡大再生産を前提とし、拡大再生産なしには存立できないということ③資本主義的商品経済は景気循環を伴って発展するということ、の三点です。

⦿そして不破さんは、「恐慌の根拠」として、「資本主義的生産の衝動と対比しての……大衆の貧困と消費制限」を挙げています。これも、残念ながら、重要だがマルクス主義者にとっては当たり前のことが述べられているのであり、「より立ち入った検討」の試みなどと言えるものではありません。

※不破さんが抜粋した「恐慌の究極の根拠」の全文は、ホームページ「温故知新」→「1、マルクス・エンゲルスの大事な発見」→「F、18世界市場、19恐慌」の「19-20恐慌の究極の根拠(原因)は」をご覧下さい。

⦿「第二一章 蓄積と拡大再生産」は、不破さんも述べているとおり、『資本論』の最後の草稿です。このマルクスの『資本論』の最後の草稿で、マルクスが「第二一章」の草稿を執筆する中で論究し、そして、私たちに論及しようとしたことは、「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということでした。これが、資本主義的生産様式の社会での「蓄積と拡大再生産」の法則です。

⦿このマルクスの理論的到達点を踏まえて「恐慌の根拠」について「より立ち入った検討」をするならば、資本主義的生産は拡大再生産を前提とした生産であり、資本主義的生産様式の社会における「恐慌の根拠」は、この拡大再生産に基づく日々拡大する生産力と労働力の再生産費の漸増・漸増的な消費力との矛盾にあります。

「恐慌の運動論」についての不破さんの「より立ち入った検討」

⦿不破さんは、「(3)恐慌の運動論」で、「マルクスは『五七~五八年草稿』を書いたときに、自分は恐慌の運動論を解決したという確信をもっていた」が、「その時、マルクスがもっていたという解答は、利潤率低下の法則に恐慌の根源を求めるもので、数年後には、マルクス自身がその誤りを認めて、放棄せざるを得なくなる解答でした」と述べて、恐慌問題についてのイギリス議会の報告書に対し、当時、マルクスが「自分は恐慌の運動論を解決したという」誤った「確信」に基づいて、「痛烈な批判をおこなった」かのように言い、その後、「一八六五年に到達したのが」、「『流通時間の短縮』という運動形態の発見に始まる新しい運動論でした」と述べて、「より立ち入った検討」を終えています。

⦿不破さんらしいといえば不破さんらしいですが、不破さんが「より立ち入った」のは、なんの具体的事実も示さず、土足で踏み込むようにマルクスにデマを浴びせかける。不破さんが「健闘」したのは、それだけです。「利潤率低下の法則に恐慌の根源を求める」というデマについては、以下で、不破さんの誤りを正しますが、「マルクス自身がその誤りを認めて、放棄せざるを得なくなる」という点について、私は、そのような事実を知りませんので、是非、ご教示いただきたいと思います。

不破さんのマルクスの改ざんの中身

⦿不破さんは、『前衛』2014年12月号で、自ら創作した「マルクスの恐慌論」なるものについて、「恐慌と革命の相互作用によって資本主義社会の変革の時代が始まるのだ──これが、マルクス、エンゲルスが当時の革命経験から引き出した資本主義社会の『必然的没落』の理論でした。この見方を、『恐慌=革命』説と呼ぶことにします」と述べています。

⦿しかし、この不破さんの主張は出発点から間違っています。マルクスもエンゲルスも「恐慌」は「政治的変革の最も強力な槓杆のひとつである」と考えていたが、「革命」は「恐慌」によってのみ起こるなどとは考えていませんでした。つまり、「恐慌=革命」説などとっていませんでした。マルクスとエンゲルスは「恐慌」を含む資本主義の歩みの一歩一歩が資本主義の矛盾を深め労働者の団結を拡げ社会主義社会への物質的基礎を準備するものと考えていました。

⦿そして、マルクスは、「利潤率低下の法則のなかに資本主義の『必然的没落』の最大の根拠を求め」てなどいませんでした。今から25年以上前に書かれた、不破さんがマルクスに「『恐慌=革命』説」のレッテルを貼るまえに書かれた、『科学的社会主義』(新日本出版)と『社会科学事典』(新日本出版)での「恐慌」についての説明でも、「恐慌の原因は資本主義の基本的矛盾」=「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」(エンゲルスのいう「根本矛盾」)にあること、「恐慌の究極的な根拠」は、「生産と消費の矛盾」(マルクスはこの「生産と消費の矛盾」をもたらす資本主義生産に内在する矛盾を「基本的矛盾」と言いました)にあることが述べられていますが、マルクスもエンゲルスも当時(今から25年以上前)の「共産党」の幹部もみな、「生産の社会的性格と取得の私的資本主義的形態との矛盾」こそ「資本主義の『必然的没落』の最大の根拠」と考えていました。

⦿不破さんは『資本論』第一巻 第2分冊の「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる」(大月② P995F6-9)ではじまる、有名な文章を忘れてしまったのでしょうか。これは当時の共産党員の共通理解のはずです。不破さんが21世紀になって、出来損ないの「恐慌の運動論」をやっと発見したとたんに、なぜ、「資本主義の『必然的没落』の最大の根拠」まで変えられてしまうのでしょうか。これでは、マルクスが、あまりにも、かわいそうすぎます。

⦿レーニンも、『経済学的ロマン主義の特徴づけによせて』(1897年3月執筆、全集 第二巻P150~151,154~155) で、恐慌は「ただ一つの制度――資本主義制度だけの特殊な標識」であり、「生産(資本主義によって社会化された)の社会的性格と取得の私的な、個人的な様式との矛盾」の現れとして必然的に起こること、つまり、資本主義的生産関係の基で、資本主義の固有の現象として起こるのであり、資本主義の歴史的に過渡的な性格を証明するものであることを述べ、「資本主義の批判」は、資本主義的生産関係ときりはなされた「全般的な福祉とか、『自由に放任された流通』のまちがいとかいう言葉のうえに基礎づけてはならないのであって、生産関係の進化の性格のうえに基礎づけなければならない」ことを述べています。

 これらが、マルクス・エンゲルス・レーニンを含む科学的社会主義の思想の持ち主の変わることのない基本的な考え方です。

「利潤率の傾向的低下の法則」の持つ意味

⦿「利潤率の傾向的低下の法則」は「剰余価値」の発見によってはじめて、科学的に明らかにされました。利潤率は「繁栄の絶頂期」には極限まで低くなり、資本主義的生産の「健全な」運動に対応する諸関係が回復する過程で資本の減価により上昇しますが、長い期間のうちに傾向的に低下します。景気循環のなかで、利潤率はこのような変動を繰り返しながら傾向的に低下し、それに応じて、資本主義社会における資本の価値、役割も傾向的に低下して行きます。

⦿この法則の下で、資本主義的生産を前提として、国家の富を増大できるのは、拡大再生産が際限なく続く条件のもとにおいてのみです。先進資本主義国は60年代末から70年代初めに、日用品が国民に広く行きわたり、「飛躍的に拡大していく生産」に見合うだけの消費の拡大が見込めなくなり、利潤率の低下を利潤の量によって償うことがますます困難になってきました。「利潤率の傾向的低下の法則」が資本に「資本」としての機能を低下させ、私的資本主義的所有のもとにある「資本」がますます活用されなくなり、社会的生産と社会的生産力への「桎梏」へと転化し始めたのです。

⦿先進資本主義諸国の経済停滞、「産業の空洞化」、海外の安い労働力の受け入れ、これらすべて、「利潤率の傾向的低下の法則」のもとでの資本の行動によって引き起こされたものです。

マルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」の意味を理解できない不破さんは、マルクスを自分の自己顕示欲のレベルまで引き下げる

⦿不破さんは、『前衛』2015年1月号で、「これまでスミスもリカードゥも解明できなかった難問を自分が解決した」ことを誇っていると言って、マルクスを自己顕示欲の強い不破さんと同じレベルにまで引き下げ、「利潤率の傾向的低下の法則」の解明の意義を消し去ろうとします。

⦿不破さんの言う「『利潤率の低下の法則』に現われた生産力の発展と生産関係との衝突」とは、〝「利潤率の低下の法則」により、資本主義的生産関係のもとで「資本」がますます利益を得られなくなり、「社会の生産諸力の発展」の「桎梏」になる〟という意味で、不破さんの生きている21世紀で現に起きている事実です。

⦿そして、不破さんの主張する「架空の需要」にもとずく「恐慌」は、資本と国家がコントロールする能力を相当程度身につけましたが、不破さんは相変わらず「『流通時間の短縮』という運動形態の発見に始まる新しい運動論」にしがみついて、『資本論』とマルクス・エンゲルスを誹謗し続けています。

マルクス・エンゲルス・レーニンの頭と心でいまの日本を見る

⦿国内需要の充足のもとで「利潤率低下の法則」がはたらくと、資本は、海外への「資本」の移転──それは、国民が創った富を海外に持ち出し、海外で活用し、雇用を海外に移転すること──と賃金の抑制にはしり、その結果、国内産業の空洞化がもたらされ、労働需給が資本家優位となり、賃金の一層の低下と雇用・労働条件の悪化が進行します。同時に、福祉をはじめ、国内の労働集約型の産業の健全な発展も阻害されます。まさに、私的資本主義的生産が社会の生産諸力の「桎梏」となるのです。

⦿このように、剰余価値の発見によって証明された「利潤率低下の法則」は、日本における「資本主義的生産の役割の終了」を国民に曝露し説明する、ブルジョア経済学者も認める、重要な武器です。

⦿それにひきかえ、「恐慌の運動論」なるものを発見した不破さんは、リーマン・ショックについても、先進資本主義諸国の成長の限界とそのもとでの資本の運動を、まったく、見ることができず、事実に合わない「架空の需要=恐慌」説をベースに、資本とマネーの「現象的な流通」に問題を矮小化し、「過剰生産恐慌と金融危機の結合」などという、分かったような分からないような、観念論的で抽象的な規定をおこなって満足しているしまつです。

不破さんは、デマと捏造で、マルクスを観念論者に仕立てあげる

⦿許せないのは、不破さんがマルクスと「利潤率低下の法則」を攻撃するために、「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がないというのは、あまりにも現実離れした議論に見えます。しかし、『恐慌=革命』説を背景に、利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定がさきにあり、そこから恐慌の運動論が引き出せるはずだという思い込みが、マルクスを、こうした無理な立論に固執させたのではないでしょうか。」(『前衛』2015年1月号P129)とデマと捏造でマルクスを観念論者に仕立てあげ、マルクスの身上の研究方法を誹謗することによって人格を傷つけていることです。同じことを何回も言ってすみません。私は、この件に関しては、ほんとうに怒っています。

⦿マルクスは「経済恐慌やそれに先行するバブル現象(熱病的な投機)まで、すべて小資本の冒険がなせる業で、大資本には責任がない」などと言ったことはありません。反論するのもばかばかしく、紙幅のむだなので、詳しくは下記のホームページをご覧下さい。

⦿「利潤率低下の法則を資本主義の『必然的没落』の表われとする断定」をでっち上げ、そこから、「恐慌の運動論が引き出せるはずだ」という虚構をつくりあげたのは、マルクスではなく不破さんであり、「無理な立論」を捏造したのは不破さん自身です。マルクスを現実を見ない「観念論者」に仕立てあげる、こんなやり方は、絶対に許せません。

⦿そして、不破さんは『前衛』2013年12月号(P97)で、マルクスは、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がなく、資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」ということを解明し、資本主義観の大転換を行ったと言います。

⦿しかし、マルクスは、「利潤率の低下の法則」が「恐慌の根源」だと言ったこともなければ「恐慌と関係ない」と言ったこともなく、「恐慌」が「資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること」の深い理解をもっていました。だから、「恐慌」が「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点」をつくることを認識するとともに、より一層矛盾が深まって行くことも理解していました。

⦿けれども、不破さんの発見した「恐慌の運動論」なるものは、恐慌を「前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」「一局面」としか見ず、資本主義が進むにしたがって深まり拡大する資本主義的生産様式の矛盾を見ることがでません。このように、不破さんは、マルクスの「資本主義観の大転換」に名を借りて自らの資本主義観の合理化と公然化を図ろうとします。

⦿以上、不破さんの3行余りの暴言を批判するのに、大変なスペースを費やしてしまいました。

※これらの不破さんの暴言についての詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、参照して下さい。

不破さんの「第二部の最後の章」の「推論」は不破さんの謬論の宣伝でしかない

⦿不破さんは「第二部の最後の章」として、「三つの要素を含む体系的な恐慌論を展開したでしょう」と言います。しかし、これまで見てきたように、不破さんの言う((1)恐慌の可能性、(2)恐慌の根拠、(3)恐慌の運動論という「三つの要素」はマルクスの考えとは異なり、不破さん自身の考えです。

⦿だから、不破さんの言う「第二部の最後の章」とは、『資本論』という舞台を借りて、不破さんの「恐慌の運動論」を展開する場になるということになります。

⦿不破さんの責任編集の「似而非『資本論』」に、このような「第二部の最後の章」が加筆されたらたまったものではありません。

資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の限界

⦿私は、『資本論』の流れを踏まえて、「第二部 資本の流通過程」の「最後の章」を推測するとすれば、「資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の限界」または「拡大再生産の崩壊・資本の流通過程の崩壊」というようなタイトルになるのではないかと思います。

⦿私は、マルクスが、「第二部 資本の流通過程」で明らかにした「資本主義的拡大再生産」の条件を踏まえて、資本主義的拡大再生産の延長線上での「資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の限界」とは何か。そのことをマルクスは論究し論及すると思います。

⦿資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の限界は、次の二つです。

①「利潤率の傾向的低下」により資本が「『資本』としての価値の傾向的低下」をもたらし、資本主義的生産様式の社会の発展的エネルギーを低下させること。

②拡大再生産を続けていく以外に存続の道のない資本主義的生産様式(「Ⅰ(v+m)=Ⅱcという単純再生産の前提は、資本主義的生産とは両立しない」ということ、「資本主義的蓄積という事実は、Ⅱc=Ⅰ(v+m)を排除する」ということ)は拡大再生産の推進エンジンである部門Ⅰの絶えざる拡大と部門Ⅱの拡大を抑制する消費能力の逓増という二つの要因により制限されるということ。

⦿マルクスは、資本主義的生産が持つこの二つの要因が「資本主義的生産様式のもとでの拡大再生産の限界」であり、資本主義的生産様式における「拡大再生産の崩壊」と「資本の流通過程の崩壊」とをもたらすことを、徹底的に暴露するものと、私は考えます。

むすび……「『資本論』探究」の迷走から私たちが学ぶべきこと

 不破さんの『資本論』の歪曲・捏造は、不破さんの「推測」と『資本論』の中の言葉の断片を継ぎ合わせた創作から成っているために、私は、『資本論』の中の事実を積み重ねることによって、『資本論』をまだ読んでない人にも正当な判断ができるよう、このページの編集を心がけてきました。

 その結果、かなりのボリュームのページになってしまいましたが、不破さんが「似而非『資本論』」を編集する意図と「似而非『資本論』」のポイントとなるべき点については必要かつ十分に、みなさんに提示することができたのではないかと思います。

 不破さんの「『資本論』探究」の「Ⅱ『資本論』第二部を読む」は『資本論』の成立過程の捏造から始まりましたが、みなさんはその意味を、もう一度、思い起こしてください。そして私たちは、「本質」と「直接的な現象」とのシームレスな貫徹メカニズムを示し体系的に論述する『資本論』の研究と叙述の方法をグローバル資本主義を暴露し追い詰める武器として使いこなしましょう。

 マルクスが「第一章」で資本主義的生産における搾取の仕方を「画期的な搾取様式」と言っている意味を、もう一度、思い起こしてください。

 不破さんが「似而非『資本論』」の編集において、「自己顕示欲」から、「事実上あまり重要でない事情を不当に重要視する」(エンゲルス)ことによって、「第一五章」を『資本論』とは別のものにしてしまわないか、注視して下さい。

 不破さんは、「第二〇章」を「清く飛ばすべし」と言いますが、この章は、資本主義を動かす〝骨格〟の重要な一部である「社会的総資本の再生産と流通」の基礎をなす「単純再生産」を扱っており、「第二一章」へと?がるウォーミングアップの「章」であり、現代を考察するうえでの多くの示唆に富んだ「章」となっています。「清く飛ばす」ことなく、みなさんは、しっかりと学んで下さい。

 「第二一章 蓄積と拡大再生産」についての不破さんの「推測」、それにもとづく「捏造」は、この『資本論』「解説」のなかでも三本の指の一つに入るひどい内容です。この悪質さを胸に刻んで下さい。

 これらを踏まえて、『資本論』を私たちが科学的社会主義の思想の育てるテキストとして守り抜きましょう。 

次のページへのアピール

 「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その4)──『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えさせるな!!!──『資本論』第三部での不破さんの歪曲と捏造(その1)」は、『資本論』第三部の「第一篇」から「第四篇」までを取り上げます。

 不破さんは「第三部」について、「これから研究するのは、『社会の表面』に現れる世界」で「常識的な社会の見方そのものだ」とマルクスがいっていると言って、「目に見える単に現象的な運動を内的な現実の運動に還元する」という「科学の仕事」を忘れ、「第三部」に泥を塗ります。

 そして、不破さんは、第三篇について、最初の「第一三章」は、「マルクスの最大の経済学的発見を記録した輝かしい章」、最後の「第一五章」は、ここで「展開した理論の主要部分を以後の草稿で取り消した章」、中間の「第一四章」は、「第一五章の準備のため」の章で、「不要になった章」だと言って、不破さんの「資本主義観の大転換」に都合の悪いことを隠そうとします。

 不破さんにだまされないために、是非、「不破さん監修の「新版『資本論』」の読み方について(その4)」もお読み下さい。