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マルクスと無縁な不破さんの「未来社会」

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 不破さんは、マルクスと『資本論』の紹介のように見せかけて自らの誤った考えを拡めることを、ライフワークとしています。その不破さんの言う「未来社会」とは、どんな社会なのか、そこに至る道筋はどのようなものなのか、マルクス・エンゲルス・レーニンの思想(科学的社会主義の思想)とどれほどかけ離れたものなのか、一緒に見て行きましょう。

 

不破さんの「未来社会」への道筋と科学的社会主義

 マルクスは『賃金、価格、利潤』ででも、『資本論』ででも、賃金奴隷からの解放を未来社会のための条件としていますが、不破さんはマルクスが『賃金、価格、利潤』で「どんな情勢の時でも賃金闘争で頑張らなければダメだ」とだけいっているかのようなウソをついて「賃金奴隷からの解放」という最も重要な課題を隠蔽し、「社会的バリケードをかちとり、『ルールある経済社会』へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』」への道であるかのようにいって、「賃金奴隷からの解放」の必要性を説くマルクスを否定します。

※詳しくは、ホームページ4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」及びホームページ4-2「☆不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない。」を参照して下さい。

 不破さんは、レーニンの「賃金奴隷からの解放」をめざすたたかいを、「レーニンが『国家と革命』で示した未来社会の定式というのは、結局、生産物の生産と分配の仕方がどう変わってゆくかがすべてなのです」と歪曲・矮小化して、レーニンを揶揄します。そして、「人間の全面的な発達が保障される社会ということが、マルクスの未来社会像の核心にあるのです。私が『空想から科学へ』で〝飛んでいる〟点があるといった二つ目は、この問題でした」と言ってエンゲルスを誹謗します。「賃金奴隷からの解放」をめざすこと、生産手段を資本家の手から解放することを「人間の全面的な発達」の問題にすり替え、挙げ句の果てに、賃金奴隷からの解放の事業を「指揮者はいるが支配者はいない」職場づくりに置き換えてしまいます。

※詳しくは、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」及びホームページ4-18「☆「人間の発達」は資本主義を社会主義に変え、生産力を発展させなければ保障されない〈階級社会の本質を曖昧にし、「生産物の分配の仕方」より「人間の発達」を重視する不破哲三氏〉」を参照して下さい。

 なお、不破さんの言う「指揮者はいるが支配者はいない」職場のある社会とは、不破さんに言わせると、まだ労働者を「義務的な」労働に縛り付けたままの社会のようですが、レーニンは「十月革命で政権をとる」まえから、「ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織することなしには」、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには」資本主義に打ちかつことはできないことを述べて、「指揮者」と「それに従って演奏する人」という共同作業のイロハの関係を超えた新しい人間と社会の関係と、その関係の構築を通じての労働者階級の新しい人への成長を展望しています。不破さんは、「自由の国」でも労働は「義務的な」ものだと言っていますが、「自由の国」についての不破さんの〝珍論〟を見るところで、触れたいと思います。

※レーニンの上記の考えについては、ホームページ4-13「☆レーニンの資本主義観、社会主義経済建設の取り組み、革命論への、反共三文文筆家のような歪曲と嘲笑、これでもコミュニストか」を参照して下さい。

マルクスと無縁な不破さんの「未来社会」論

 

不破さんの「自由の国」とマルクス・エンゲルスの〝自由の国〟

 不破さんは、「自由の国」とは自由に使える時間のことで、資本主義社会にもある「余暇」時間も「自由の国」だと言い、物質的生産にあてるべき時間は「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動」なので、これを「必然性の国」と呼ぶという自論を展開します。

 この不破さんが剽窃した「自由の国」と「必然性の国」という言葉は、マルクスが『資本論』で、エンゲルスは『空想から科学へ』で使っています。マルクス・エンゲルスのいう〝必然性の国〟と〝自由の国〟について、関連部分を『資本論』から抜粋します。

  「……しかしまた、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行なわれるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」〈『資本論』第3巻 第2分冊 大月版 ⑤ P1050B3-1051B6〉

  ここで述べられていることを簡単にまとめると次のようになります。

①一定の時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によってきまる。だから、社会の富の増加も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、その生産性を保障する生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっている。

②ここで言う、「自由の国」は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まる。

③未開人も文明人も、どんな社会形態のなかでもどんな生産様式のもとでも、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならない。

④この自然「必然性の国」での「自由」とは、資本主義社会から「社会主義社会」になることによって、社会化された人間、結合された生産者たちが、資本の盲目的な力によって支配されるのをやめ、自分たちと自然との物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くことができるようになることである。

⑤しかし、資本主義社会から「社会主義社会」になること、これはやはりまだ「必然性の国」である。

⑥この「必然性の国」である「社会主義社会」をその基礎として、この「必然性の国」の先に、自己目的として認められる人間の力の発展が万人に保障される、真の「自由の国」が始まることができるのである。

⑦「社会主義社会」が資本主義的生産様式の持つ生産性向上の壁を打ち破って、「自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとで」生産性を保障する生産条件を豊富にすることによって、労働の生産性の飛躍的向上をはかり、労働日を短縮することこそが「自由の国」実現のための根本条件である。

 もう一つ、要約したものを紹介します。

「物(富)がどれだけ生産されるかは生産性の高さにかかっており、生産設備等の進歩にかかっている。『自由の国』は強制されてはたらく必要がなくなったときに、はじめて始まる。つまり、それは、当然のこととして、遠い将来のことである。未開人も文明人も自然と格闘しなければならない。この『自然必然の国』は社会の発展につれて拡大する。この『自然必然の国』での『自由』とは、盲目的な力に支配されていた生産が計画的、意識的におこなわれるようになり、共同的統制のもとに置かれることである。しかし、この『自由』を獲得した『社会主義社会』もまだ『必然性の国』である。この国のかなたで、強制的な労働のない、自分の人間的な能力の発展のみを追求する真の『自由の国』が始まる。しかし、それは、『社会主義社会』という『必然の国』を基礎として、その上にのみ花開くことができる。そのための根本条件は労働日の短縮、つまり、生産性の向上である。」

  これが〝必然性の国〟と〝自由の国〟についてマルクスが『資本論』で述べていることです。エンゲルスも『空想から科学へ』で同様なことを述べています。

  つまり、「必然性の国」とは「社会主義社会」までのことで、「自由の国」とは「共産主義社会」のことで、「自己目的として認められる人間の力の発展が」保障される国(『資本論』)、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保」された国(『空想から科学へ』P71)のことで、個人の発展にともなって「諸個人が分業に奴隷的に従属する」システムの解消も進み、「精神的労働と肉体的労働との対立」もなくなり「労働」そのものが「生きがい」となり、「諸個人の全面的な発展」が保障された社会のことです。この社会を、マルクスとエンゲルスは「共産主義社会」(共産主義社会のより高度の段階の社会)とよび、「自由の国」と呼んだのです。

 このように、『資本論』と『空想から科学へ』を見ればわかるように、マルクスもエンゲルスも「自由な時間」が「自由の国」だなどと一言もいっていませんし、不破さんの言う「自由の国」とマルクス・エンゲルスが描いた〝自由の国〟とはまったく別のものです。

 そして、不破さんは「社会主義社会」と「共産主義社会」の区別ができませんから、物質的生産にあてるべき時間は「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動」なので「必然性の国」と呼ぶなどといって、〝共産主義社会〟での物質的生産にあてるべき時間が「必然性の国」があるかのような、独走的な「必然性の国」を創りあげます。

※不破さんの「自由の国」とは資本主義社会にもある「余暇」のことだという主張等この項についての詳しい説明は、ホームページAZ-2-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏」ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する」及び、ホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を参照して下さい。

 

「社会主義社会」と「共産主義社会」の区別ができない不破さん

 不破さんは、『ゴータ綱領批判』(『ゴータ綱領』(草案)の「評注」)のなかで、マルクスが「発展した共産主義社会」ではなく、「生まれたばかりの共産主義社会」では、「個々の生産者は、彼が社会にあたえたのときっかり同じだけのものを──あの諸控除(「六つの控除」のこと──青山)をすませたあと──とりもどす」ことを述べ、続けて、「しかしこのような欠陥は、長い生みの苦しみののち資本主義社会から生まれたばかりの、共産主義社会の第一段階では避けられないものである。権利は、社会の経済的な形態とそれによって制約される文化の発展よりも高度であることは決してできない。

 共産主義社会のより高度の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち──そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」(『ゴータ綱領批判』岩波文庫P38-39)と述べ、「共産主義社会の第一段階の社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」との差異を明らかにし、〝自由の国〟=〝発展した共産主義社会〟への展望を示したこの有名な文章の意義を消し去るために、マルクスを攻撃できないので、そのかわり、レーニンを悪者に仕立て上げます。

 不破さんは、レーニンが〝共産主義社会の第一段階の社会〟を〝社会主義社会〟と呼び〝発展した共産主義社会〟を〝共産主義社会〟と呼んだことを歪曲して、「マルクスのこの文章を根拠に、生産物の分配方式の進化にこそ未来社会の発展の尺度があるとし、『労働に応じての分配』を原則とするのが低い段階、『必要に応じての分配』が原則になるのが高度に発展した段階だとする、独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした。これは、マルクスが未来社会の最大の積極的内容がここにあるとした『自由の国』──そこでの人間の能力の限りない発展など、まったく視野の外において(ママ──青山)貧しい未来社会論でした。」と述べ、レーニンが「人間の能力の限りない発展など、まったく視野の外におい」た貧困な頭の持ち主ででもあるかのような非難を行ない、あたかもレーニンが「二段階発展論」を創作したかのようにいってマルクス・エンゲルスの考えを否定します。

 私たちは、先に、マルクスが『資本論』で「発展した共産主義社会」を〝自由の国〟と言っていることを見てきましたが、マルクスは『ゴータ綱領批判』でも、このように〝共産主義社会〟を「生まれたばかりの共産主義社会」・「共産主義社会の第一段階」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」とに区分し、マルクス・エンゲルス・レーニンは前者を「民主主義」や「平等な権利」が残り、「労働が義務」で「死滅しつつある国家」が存在する〝必然性の国〟と見ており、後者を「民主主義」や「平等な権利」という概念の不要な、「労働が生活にとってまっさきに必要なこと」となる「国家」のない〝自由の国〟と見ていました。

 だから、レーニンが「二段階発展論」を「つくりあげてしまった」と言うのは真っ赤なウソで、不破さんの捏造以外の何ものでもありません。

 そして、不破さんの「未来社会」が貧困である原因の一つは、不破さんが、資本主義社会から社会主義社会へ、そして社会主義社会から共産主義社会へと〝社会〟が発展していくことを見ることができず、このような発展をもたらす人間の役割とそのなかでの人間の進歩を見ることができないこと、つまり、資本主義社会から生まれた社会を「未来社会」=「社会主義社会」=「共産主義社会」と一律にしか見ることができない貧困な「思想」にあります。

※この項のより詳しい説明は、ホームページAZ-3-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』探求」で欠落しているものと不破哲三氏の誤った主張(その5)⑤「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)。完結篇」及びホームページAZ 1-6「国民のための経済がある新しい共同社会を創るために、科学的社会主義の思想を正しく知るための、不破さんの「マルクス『資本論』反面教師講座」の解説(その6)」を、是非、ご覧ください。

 

不破さんの、「余暇」に閉じこもる暗い「未来」

 不破さんの「未来社会論」の社会は、「指揮者はいるが支配者はいない」という職場のある社会、つまり、資本主義社会にもある「ヘッドシップのないリーダーシップのある」職場のある社会ですから、そこでの労働は、依然として、「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても(ここは「自分のための苦役に性格が変わったとしても」とでもいうべきところだろう──青山」)、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動」であり、依然として自ら主体的に担う労働ではありません。それは、職場の主権者として「精神的労働と肉体的労働との対立」の解消をめざし、「労働」そのものが「生きがい」となり、「諸個人の全面的な発展」が保障された社会をめざす労働ではありませんから、永久に「諸個人の全面的な発展」のための「自由な時間」にはなりません。

 だから、不破さんは「自由な時間」を求めて、資本主義社会にもある「余暇」に閉じこもり、そこに「自由の国」を見いだすのです。不破さんは、資本主義社会から社会主義社会への発展のなかで労働者階級が社会の主人公として視野をひろめ、能力を伸ばし、社会主義社会から共産主義社会への発展のなかですべての人民が「諸個人が分業に奴隷的に従属する」システムから解放され「労働」そのものが「生きがい」となることをまったく理解できないのです。だから、「社会主義社会」「共産主義社会」と区別することの意味が分からず「社会主義・共産主義の社会」と一絡げにしてしまうのです。こんな「自由な時間」や「自由の国」では、金儲けのために嬉々として働く強欲な資本主義の守銭奴たちの「自由」のエネルギーを打ち負かすことなど、絶対に、できません。

 

不破さんの貧困な「未来社会」

 このように、不破さんの言う未来社会は、「人間の能力の限りない発展など」ともっともらしい枕詞を付けていますが、資本主義社会にでもある「余暇」を最大目的にして、そのために、労働者を「義務的な」労働に縛り付け続けるという、実に貧困で情けないものです。

 

不破さんの描く「未来社会」が貧困になるわけ

 それは、不破さんの「資本主義論」が貧困で、社会主義社会への途が貧困だからです。 

 不破さんは、資本主義社会を恐慌を乗り越えて発展する社会と認識し、〝資本主義的生産関係〟を「利潤第一主義」に矮小化して、「利潤第一主義」の阻害要因である低賃金「反対」!、長時間労働「反対」!、環境破壊「反対」!、等々!!と──資本主義的生産様式の社会を変えることなど何も考えず──“ウラー”と叫んで突進し、「利潤第一主義」を阻害するための「バリケード」を作ることが、新しい社会への途であると言います。 

 不破さんは、資本主義的生産様式の社会が私的資本の拡大によってのみ「発展」する社会であること、資本主義的生産様式の社会の「発展」の原動力である「資本」の力が無力化された社会が〝新しい生産様式の社会〟であること、そのような社会をつくるためには何も考えず“ウラー”と叫んで突進するだけではだめで、「生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織すること」、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織する」ことが必要であり、労働者階級はこれらの課題を遂行するなかで能力を伸ばし、新しい能力を獲得して新しい人へと生まれ変わっていくことが、理解できないのです。

 だから、不破さんの描く「未来社会」は、資本主義社会にでもある「余暇」を最大目的にして、相変わらず、労働者を「義務的な」労働に縛り付けるという、実に貧困で情けないものになってしまうのです。

※不破さんが、〝資本主義的生産関係〟を「利潤第一主義」に矮小化していることについての詳しい説明は、ホームページ4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」等を、新しい生産様式の社会をどうつくるかということについての詳しい説明は、ホームページ2-1-3「「資本主義的生産様式の社会」と「ポスト資本主義社会」との違いとは」及びホームページ2-1-4「「資本主義的生産様式の社会」に変わる〝新しい生産様式の社会〟とは──〝新しい生産様式の社会〟は主権者である国民が創る──」を参照して下さい。併せて、是非、ホームページ2-1-1「〝経済は国民のため、社会のためにある〟と考える人たちは社会主義者?」及びホームページ2-1-2「現代の資本主義が準備する新しい生産様式の社会──「資本」のための経済から「人間」のための経済への転換の条件──国民の新しい共同社会はどのように組織されるのか」もお読み下さい。