AZ-1-6〈連載〉その6〈シリーズ最終ページ〉

国民のための経済がある、新しい共同社会を創るために、

不破さんのマルクス・エンゲルスと『資本論』の歪曲・捏造を暴き、

科学的社会主義の思想のエネルギーを取り戻そう

「国民のための経済がある新しい共同社会を創るために、科学的社会主義の思想を正しく知るための、不破さんの「マルクス『資本論』反面教師講座」の解説」(その6)

不破さんによって、『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想はどう変えられたのか、不破さんの「『資本論』探究」の第三部「第七篇」の「解説」を中心に俎上にのせて、二一世紀に生きる『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想を見ていきましょう。

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不破さんの、「第七篇」のビックリ「解説」

棒グラフの中程の減少は、2008年四川大地震のためです。

 不破さんは「第七篇 諸収入とそれらの源泉」を、「スミスのドグマ批判」に矮小化し、マルクスが「三位一体的定式」とそれに関連する謬論とを解明し、暴露することを「うんざりしていた」と言い放ちます。不破さんの「第七篇」での謬論の数々をビックリしながら、見ていきましょう。

不破さんの、隔靴掻痒の「三位一体的定式」の解説

  不破さんは、「『資本論』探求〈下〉」で、まず、『新メガ』の成果にもとづき、文章Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの編集順序を組み換える必要があることを述べ、続けて、「第四八章 三位一体的定式」には「三位一体的定式」に係わる部分といわゆる「未来社会論」に係わる部分とが混在していること指摘し、はじめに、「三位一体的定式」に係わる部分の「解説」を行ないます。

 不破さんは、まず、「マルクスはこの言葉(「三位一体」という言葉──青山)によって、資本主義社会を支配する神秘化の極致を表現したのでした。」と、「『三位一体』的定式とは?」の「意味」を解説します。

 続けて不破さんは、マルクスの「三位一体的定式」の「まちがった外観と偽瞞」の産物である「俗流経済学」への論及の文章について、「簡潔な論評ですが、ブルジョア経済学の両派(「古典派経済学」と「俗流経済学」(今日、主流の「経済学」)のこと──青山)にたいする的確な特徴づけがおこなわれています。」、と述べて「『三位一体』的定式とは?」という「節」での「解説」を終えます。

※なお、不破さんが上記の「解説」で抜粋した文章は、ホームページ4-26-2-3「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その3)」(PDFファイルP20参照。)で、既に、その全文(大月版 ⑤ P1063-1065)を「抜粋」して紹介しています。また、「第四八章」の主要な抜粋とその解説については、別添のPDFファイル「第48章 三位一体的定式」を参照して下さい。

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「第48章」でマルクスが論究していること

 不破さんの、この「解説」は、マルクスが『資本論』の草稿を書き、エンゲルスが『資本論』を編集した時代のマルクス・エンゲルスの歯痒さと『資本論』の資本主義経済学批判としての意味を忘れた、「隔靴掻痒」の文章で、科学的社会主義の経済学を学ぼうとする人たちにとって、けっして、適切な〝解説〟とは言えません。

 『資本論』の「三位一体的定式」にかかわる文章で、マルクスは私たちに何を訴えているのか、見てみましょう。

 マルクスは、既に、『資本論』第一部「第六篇 労賃」「第一七章 労働力の価値または価格の労賃への転化」(大月版② P696~ )で、既に、資本家に買われた労働力の価値が、「労働の価格」=「貨幣で表現された労働の価値」として資本主義的生産関係のなかで現されると、価値の源泉である労働者は、その寄生虫である資本家の価値を創造するための手段のように転倒して見えることを指摘しています。

 これを引き継いで、「三位一体的定式」は、資本家に買われた労働力の価値が、「労働の価格」=「貨幣で表現された労働の価値」として資本主義的生産関係のなかで現わされ、そのことを通じて、生産関係の物化と富のいろいろな社会的要素の相互間の独立化と骨化がおこなわれ、その結果、いっさいの内的関連が消し去られた、まちがった外観と偽瞞によって、魔法にかけられ、転倒され、逆立ちした世界として、資本主義的生産様式の神秘化がおこなわれること、つまり、資本─利子、土地─地代、労働─労賃という内的関連が消し去られ疎外された不合理な形態である「経済的三位一体」が「定式」として承認されることを論及しています。

 そして、マルクスは、この定式が支配的諸階級の利益にも一致していることを述べ、その理由は、「三位一体的定式」が支配的諸階級の収入源泉の自然必然性と永遠の正当化理由とを宣言され、それを一つの教条にまで高めたものだからだといいます。

 最後にマルクスは、この経済的神秘化は、以前のいろいろな社会形態では、ただ、おもに貨幣と利子生み資本とに関連してはいってくるだけであることを述べ、「資本主義的生産様式においてはじめて──」と述べたところで原稿は中断しています。

 なお、青山は中断された欠損部分の内容を次のように推測します──①経済的三位一体が完成し、あからさまな暴力による支配から「経済的神秘化」による「まちがった外観と偽瞞」による支配が完成したこと、②資本主義的生産様式においてはじめて資本も労働も社会から無拘束なものとして現われたこと、③その結果、資本主義的生産様式は(資本主義)社会そのものを掘り崩す矛盾を抱えこんでしまったこと、をマルクスらしい表現で力強く述べているであろう、と。

 

「第48章」でマルクスが私たちに訴えていること──まちがった外観と偽瞞の「三位一体的定式」に騙されるな

 これらを通じて、ここで『資本論』が訴えていることは、おおむね下記のとおりです。

①「三位一体的定式」による資本主義的生産様式の「神秘化」にごまかされてはいけないということ。だから、不破さんのように「資本主義社会を支配する神秘化の極致を表現した」などと述べるだけの「解説」は、まったく、正しくありません。

②俗流経済学は、「現実の生産当事者たちの日常観念の教師的な多かれ少なかれ教義的な翻訳以外のなにものでもなく」、「いっさいの内的関連の消し去られている三位一体のうちに、自分の浅はかな尊大さの自然的な、いっさいの疑惑を越えた基礎を見いだす」ものであり、だから、「この定式は同時に支配的諸階級の利益にも一致している」ことを述べています。だから、不破さんのように、「ブルジョア経済学の両派にたいする的確な特徴づけがおこなわれています」などと呑気なことを言っている場合などではありません。「俗流経済学」の存在意義を正しく認識して、「俗流経済学」を徹底的に暴露する必要性があります。このことが認識できない不破さんの弱点が、「国家」を捨て我が物顔で振る舞っている今日のグローバル資本主義を弁護する「俗流経済学」への無関心な姿勢につながっています。

③資本主義的生産様式においてはじめて資本も労働も社会から無拘束なものとして現われ、あからさまな暴力による支配から「経済的神秘化」による「まちがった外観と偽瞞」による支配が完成しました。このようにして、資本主義的生産様式は(資本主義)社会そのものを掘り崩す矛盾を抱えこんでしまいましたが、それはまた、新しい国民の共同社会への途を開く準備を整えることにもなりました。

 「資本主義的生産様式においてはじめて資本も労働も社会から無拘束なもの」となり、自由に行動する資本のグローバルな活動により産業の空洞化が進み、われわれは今、日本社会そのものの存亡の危機に直面しています。

 このような現在の日本を頭の真ん中に置いて、「三位一体的定式」のまちがった外観と偽瞞を暴露し、資本主義的生産様式の社会の陳腐さをすべての国民が認識したとき、新しい国民の共同社会への途が開かれることを、科学的社会主義の思想を学ぶ労働者階級が確信できるようにするために、『資本論』は書かれているのです。

 だから、『資本論』の解説は、この意図に沿ったものでなければなりません。そういう点で、不破さんの「解説」は科学的社会主義の思想にもとづく解説といえるものでは、まったく、ありません。

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不破さんの、「未来社会論の核心をついたスケッチ」の恐れ入る「解説」

 続けて不破さんは、「『資本論』探求〈下〉」の「未来社会論の核心をついたスケッチ」という「節」で、「第四八章」の中にある「必然性の国」と「自由の国」とに関するマルクスの論及に「解説」を移したかと思いきや、『資本論』の「解説」のための著作であるにもかかわらず、「二〇〇四年に最初の研究結果を発表して以来、いろいろな機会にかなり詳しい解説をしてきましたので、ここでは解説を控えます」と「解説」しないことを宣言して、「解説」の載っている自分の他の著作を紹介して「解説」を終えてしまいます。

 恐れ入る以外、なにも言うことはありません。

不破さんは、マルクスの『剰余価値学説史』の中の文章を自ら創作した「自由の国」=「余暇」論の支援材料ででもあるかのように見せようとします

 続けて不破さんは、行なわなかった『資本論』の「解説」の代わりに、『資本論』の「未来社会論の部分」についての「文章の性格(?意味不明──青山)について、若干のことを述べておきます」といって、『剰余価値学説史』の中の文章──それは、「資本に対立する労働者階級の利益」を主張するパンフレットの著者(匿名氏)が、労働者階級の搾取がなくなり、怠け者たちも労働者階級と同じだけ労働することによって、「万人が、自由に利用できる時間を、自分たちの発展のための自由な時間を、もつこと」の意味を、著者自身はっきりわからずに書いたものをマルクスが取り上げたもの──を「未来社会で人間がもつ『自由に利用できる時間』の意義について鋭く解明するとともに、それによって、労働する時間そのものも『はるかにより高度な質をもつ』だろうことを、次のように指摘しました」(P156)と言いって紹介します。

 

不破さんは、マルクスの言っていることを真摯に聞くべきでした

 しかし、不破さんは、自ら抜粋した『剰余価値学説史』の中の文章を、我田引水のために使うことばかり考えず、しっかり読み込んでいれば、「マルクスは、人間の生活時間のうち、この時間(物質的生産にあてるべき時間──青山補注)部分を『必然性の国』、それ以外の、各人が自由にできる時間部分を『自由の国』と名付けました」とか、「必然性の国」以外の余暇時間をマルクスは「自由の国」と呼び、資本主義社会にも〝余暇〟があり「自由の国」があるなどと言ったり、物質的生産にあてるべき時間を「必然性の国」と呼び、その理由を、「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動」だからだなどと言わずにすんだことでしょう。

マルクスの一言半句を使ってマルクスを改竄する不破さん

 科学的社会主義の思想から離れ、科学的社会主義の思想が理解できなくなってしまった不破さんは、この文章の中にある「社会的義務」という言葉や、賃金労働者たちが「社会の他方の部分のために──したがってまた賃金労働者たちの社会のためにも──余暇を、自由な時間を、つくりだす」(大月文庫版『剰余価値学説史』⑧P41)というマルクスのいう「余暇」や「自由な時間」という言葉に飛びついて、物質的生産にあてるべき時間「部分を『必然性の国』、それ以外の、各人が自由にできる時間部分を『自由の国』と名付け」、資本主義社会にも「余暇」があり「自由の国」があるという自論と結びつけ、物質的生産にあてるべき時間を「必然性の国」と呼ぶのはそれが「社会の構成員にとって義務的な活動」だからだなどと言うのです。

 このように、不破さんが『剰余価値学説史』の中の文章まで使って、もっともらしい言葉のすり替えを行ない、『資本論』の「解説」の代わりに明らかにした『資本論』の「未来社会論の部分」についての「文章の性格」とは、反共主義者も思いつかないような滑稽な代物の、無謀な、正当化でした。

 

科学的社会主義の思想がイメージする〝未来社会〟の〝自由の国〟

 マルクス・エンゲルス・レーニンが、そして私たち科学的社会主義の思想をもつものがイメージする〝未来社会〟の〝自由の国〟とは、〝共産主義社会の高い段階〟のことで、〝自由な時間〟があるだけでなく、その「基礎」としての新しい共同社会があり、新しい共同社会で生まれ、新しい共同社会を支え発展させる新しい人がいて、〝自由な時間〟の一部となった質的に変化した〝労働時間〟を使って労働する〝労働〟そのものが〝生きがい〟となる社会で、「諸個人が分業に奴隷的に従属する」システムから解放された、〝諸個人の全面的な発展〟が完全に保障された社会のことです。

※不破さんのここでの『剰余価値学説史』を使ってのマルクスの歪曲・改竄についての詳しい説明は、ホームページ4-26-2-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)「『資本論』第三部を読む」を検証する(その3)」PDFファイルP36以降を参照して下さい。

 また、「自由の国」とは資本主義社会にも「余暇」のことだ不破さんの自論等科学的社会主義の思想とはかけ離れた「未来社会論」についての詳しい内容はホームページ4-26-1-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」及びホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」を、是非、参照して下さい。

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不破さんは、マルクスを「ひらめき」しかもたない不破さん並みの人間だと「推測」し、マルクスの「未来社会論の核心をついたスケッチ」を突然の「ひらめき」の賜物のように言う

 不破さんは、「第四八章」の中にある「必然性の国」と「自由の国」とに関するマルクスの論及の「解説」をする代わりに、「なぜマルクスは、その未来社会論を、〔〕付きの不完全な形で、『三位一体的定式』の論述の冒頭に書き込んだのか」と自問し、「未来社会の特質を、『自由の国』と『必然性の国』との相互関係でとらえる」という「ひらめきが、『三位一体的定式』を書き始めた時点でマルクスをおそ」ったからではないかと、自ら「推測に過ぎ」ないことを認めたうえで、マルクスが不破さん同様に思想の薄い人間であることを「推測」します。

 確かに、唯物史観と無縁な、不破さんの「未来社会」論なるものの「『自由の国』と『必然性の国』との相互関係」なる〝独創的な考え〟は、不破さんの「ひらめき」以外に誰も考えつくことなどできないでしょう。

唯物史観を深く理解しようとしない人の「ひらめき」で、マルクス・エンゲルスの著作の「解説」をされたのではかなわない

 科学的社会主義の思想を理解できない人が「ひらめき」に頼って、二一世紀になって、70歳を過ぎて、「革命観の大転換」をするのも、「推測に過ぎない」ことを言うのもその人の自由ですが、『資本論』の中でもたいへん有名な、それなのに不破さんが「解説」しなかった一節は、科学的社会主義の思想に貫かれたマルクス・エンゲルスの思想そのものです。だから、エンゲルスもマルクスに倣って、『反デューリング論』では「自由の国」と「必然性の国」という言葉(『空想から科学へ』では「自由の王国」と「必然性の王国」という言葉)を、「第三篇 社会主義」の「二 理論的概説」の中で使って、科学的社会主義の思想を展開しています。

 そして、マルクスはエンゲルスあての1868年の手紙で、『資本論』で資本の一般的本性を究明するとともに、三つの階級、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴き、資本主義的生産様式の「解体」を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもりであることを予告していました。だから、マルクスは、そしてエンゲルスも、これらの文章を、最後に一気に書き上げる最後の「章」で使う重要な文章の一部として考えていたのだと思います。

 しかし、エンゲルスが「編集」においてそれをしてしまったら、エンゲルスが序文で述べているように、『資本論』は最後の肝心なところでマルクスの作品ではなくなってしまいます。だから、エンゲルスは、創作などせず、あるがままの編集を、序文で示した編集方針に従って、おこなったのでしょう。

 そのような事情には一切触れずに「不完全な形」などと言い、文章が、あたかも一時的な「ひらめき」の産物ででもあるかのようにいうのは、科学的社会主義の思想を共有することのできない不破さんだからこそできることで、マルクスとエンゲルスに対して大変失礼なものいいだと思います。

 面従腹背の虎の威を借るキツネかタヌキのような不破さんは、「ここにあるのは、未来社会のスケッチですが、マルクスの未来社会論の核心を鋭く表現したスケッチだと思います。」とも言いまが、本当の科学的社会主義の思想の持ち主だからできた「マルクスの未来社会論の核心」を「ひらめき」の産物ででもあるかのように「推測」できるのは、二一世紀になってマルクスの「資本主義観」と「革命観」を大転換させて「激しい理論的衝撃」を受けた、「ひらめき」の持ち主である、不破さんくらいなものでしょう。

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不破さんは、よせばいいのに、「社会がその商品をどれだけ必要としているかは、市場での価格の運動によって」計れるなどと蛇足して、科学的社会主義の経済学の無理解を暴露します

 不破さんは、「未来社会論」関連として、「第四九章 生産過程の分析によせて」の下記の文章の中で、「第二に、」として、資本主義的生産様式の解消後の価値規定の重要性について論及している部分を抜粋して、科学的社会主義の経済学をまったく理解していないことを暴露します。

「第一に、その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である。

 第二に、資本主義的生産様式が解消した後にも、社会的生産が保持されるかぎり、価値規定は、労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後にそれに関する簿記が以前よりもいっそう重要になるという意味では、やはり有力に作用するのである。」(大月版 ⑤ P1090)

 この「第二に、」の文章は、先に見た『剰余価値学説史』の「労働時間は、たとえ交換価値が廃棄されても、相変わらず富の創造的実体であり、富の生産に必要な費用の尺度である」という言葉と符合しています。

 不破さんは、このピンク色の文章について、「商品生産社会では、あれこれの商品について、社会がその商品をどれだけ必要としているかは、市場での価格の運動によってしか計れません。………新しい共同社会では、この分配を、市場での動揺を通じての結果としてではなく、最初から計画的、意図的におこなうことが可能になります。価値規定こそが、その基準となる、ここにマルクスの言明の意味があるのでした。」と述べて、科学的社会主義の経済学をまったく理解していないことを暴露します。

不破さんは、資本主義的生産様式の社会での「富」の「分配」と社会全体が国民的欲望を満たすために計画的、意図的におこなう「富」の「分配」という、質的に異なる二つの「富」の「分配」を同一視して「この分配」と言いうのですから、開いた口がふさがりません。

 不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだといって、マルクス・エンゲルス・レーニンの考えを否定する人ですから、上記のように言い張るのはやむを得ないことかもしれませんが、こんな人にレーニンの〝記帳と統制〟の概念についてとやかく言われていたかと思うと、レーニンが、あまりにも、可哀想すぎます。

 普通の人なら、不破さんが抜粋した文章の前の「第一に、その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である。」という文章を読んでいるでしょうから、不破さんのような誤りはしないでしょう。

 不破さんの言う、「商品生産社会では、あれこれの商品について、社会がその商品をどれだけ必要としているかは、市場での価格の運動によってしか計れません」という認識は、大まちがいで、資本家(ムッシュー・ル・カピタル)の立場からの認識です。①市場での商品の価格は一義的には需要と供給によって決まりますが、つねに利潤が平均利潤に収れんするのにしたがって商品の価格も収れんしていきます。これが商品交換を規制する資本主義的生産様式の原則です。②しかし、需要は購買能力のある人の購買意欲によってきまるもので、「社会がその商品をどれだけ必要としているか」によってきまるものではありません。③供給も「社会がその商品をどれだけ必要としているか」にもとづいてきまるものではなく、ただ単にその商品の需要にもとづいて儲かる範囲でおこなわれるだけです。④だから、社会全体が国民的欲望を満たすために「その商品をどれだけ必要としているか」ということと、その商品の「市場での価格の運動」とは、まったく無関係です。

 そのことを理解できない不破さんは、「新しい共同社会では、この分配を、市場での動揺を通じての結果としてではなく、最初から計画的、意図的におこなうことが可能になります」と誤りを重ねます。不破さんは、「富」の「分配」という共通点だけから、購買能力のある人への需要と供給にもとづく市場での「富」の「分配」と社会全体が国民的欲望を満たすために計画的、意図的におこなう「富」の「分配」とを、この質的に異なる二つの「富」の「分配」を、同一視して「この分配」と言いうのです。開いた口がふさがりません。

 「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」を否定し、「資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみな」して、「賃金が上がれば日本は良くなる」としか言わない、不破さんならではの謬論です。

 なお、蛇足ですが、不破さんは、『カール・マルクス』の中に商品交換が「何十億回となくくりかえされる」という言葉があることから、いつもけなしているレーニンから学び損ねて、レーニンが説明しているマルクスの商品の分析の意味を理解するのではなく、商品交換は「何十億回となくくりかえされる」のだから、「市場経済」(=資本主義社会)は神聖な「公理」で、だから触れてはいけないなどという、とんでもない結論にたどりついてしまったことも、申し添えておきます。

※なお、不破さんの資本主義の矛盾の捉え方の誤りについての詳しい説明は、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」を、不破さんのレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲についての詳しい説明は、ホームページ4-12「☆不破哲三氏によるレーニンの「記帳と統制」の概念の歪曲」を、「市場経済」は神聖な「公理」だから触れてはいけないという不破さんの暴論については、ホームページ4-10「☆不破さんの、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」と言う暴言」を、是非、参照して下さい。

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マルクスとエンゲルスの「未来社会」についての見方を否定するために、レーニンを悪者に仕立てあげる不破さん

 次に、「『資本論』探求〈下〉」で「未来社会を表現する用語について」という「節」を設けた不破さんは、『資本論』の「解説」はそっちのけで、レーニンを悪者に仕立てあげてマルクスとエンゲルスの「未来社会」についての見方を否定するために、レーニンが『ゴータ綱領批判』の「注意書き」を見落としたために「独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした」と言って、レーニンへの驚くべき非難をおこないます。

 それでは、不破さんの『ゴータ綱領批判』の歪曲と捏造、デマで固めたレーニンへの非難の実態を、一緒に、しっかりと、見ていきましょう。

『ゴータ綱領批判』の不破さんの解説とレーニンへの謂われなき中傷

 不破さんは、『ゴータ綱領』(草案)の中の第三パラグラフの文章にかんしてのマルクスの「評注」について、「マルクスは、このなかで、未来社会でも、生産物の分配の方法は固定したものではなく、社会の発展とともに変化するものだということを例をあげて示し、未来社会論の根本問題は別のところにある、ということを懇切に説明しました。そして、その論の締めくくりの部分で、ここでは、ラサール批判の必要から分配問題を論じたが、未来社会への中心問題は『生産手段の社会化』という生産様式の変化にあるのだ、そこを見ないで、もっぱら分配問題で大騒ぎをして、未来社会を分配問題を中心に考えるような誤りに落ち込んではならないよ、という注意書きで、この議論をしめくくっていました。」と「解説」し、続けて、「ところが、レーニンは、この注意書きを見落としたのか、マルクスのこの文章を根拠に、生産物の分配方式の進化にこそ未来社会の発展の尺度があるとし、『労働に応じての分配』を原則とするのが低い段階、『必要に応じての分配』が原則になるのが高度に発展した段階だとする、独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした。これは、マルクスが未来社会の最大の積極的内容がここにあるとした『自由の国』──そこでの人間の能力の限りない発展など、まったく視野の外において(ママ──青山)貧しい未来社会論でした。」と述べて、あたかもレーニンが『ゴータ綱領批判』の「注意書き」を見落としたかのように言い、それを前提に、あたかもレーニンが「二段階発展論」をつくったかのような創作をし、レーニンが「人間の能力の限りない発展など、まったく視野の外におい」た、貧困な頭の持ち主ででもあるかのような非難を行ないます。

 「レーニン批判」の必要からなされた、不破さんのこの文章は、読者への印象操作とそれを前提とした『ゴータ綱領批判』の歪曲と捏造で成り立っていますが、『ゴータ綱領批判』を読めば、不破さんの人間性と人格がよく分かります。

 

『ゴータ綱領批判』でマルクスが言っていること

 『ゴータ綱領批判』は『ゴータ綱領』(草案)へのマルクスの「評注」の文章で、文章全体が「評注」で、「注意書き」の文章です。しかし、ずる賢い不破さんは、「注意書き」という言葉を巧みに使って、「ところが、レーニンは、この注意書きを見落としたのか」と述べて、あたかもレーニンが『ゴータ綱領批判』の「注意書き」を見落としたかのような印象を読者にあたえ、そのために、あたかもレーニンが「独特の二段階発展論」をつくったかのように言います。

 ここで不破さんが「解説」しているのは、『ゴータ綱領批判』の中の第三パラグラフの文章、「労働の解放のためには、労働手段を社会の共有財産に高めること、そして労働全体を協同組合的に規制して労働収益を公正に分配すること、が必要である。」という文章に関してですが、そこでマルクスがなにをいっているのか、一緒に見てみましょう。

 『ゴータ綱領批判』でマルクスはまず、「労働手段を共有財産に高める」という表現について「労働手段を共有財産に転化すること」と書くべきだと指摘しますが、「もっともこの点はあまり大したことではない」と述べて、「労働収益を公正に分配すること」という「お座なり」で意味不明な表現の批判、暴露に論点を集中します。

 そのなかでマルクスは、「今日の分配」が「今日の生産様式という基礎のうえでは唯一の『公正な』分配」であること、「法的な諸関係は経済的諸関係から発生する」ことを述べ、「今日の生産様式」の批判を「利潤第一主義」に矮小化し、「社会的バリケードをかちとり、『ルールある経済社会』へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだという」今日の「ラサール主義者」ともいうべき不破さんの謬論をも暴露・批判しています。

 続けて、マルクスは、第一パラグラフの「労働はすべての富とすべての文化の源泉である。そして効用を生む労働は、ただ社会のなかでのみ、また社会を通じてはじめて可能であるがゆえに、労働の全収益は、平等な権利にしたがって、すべての社会成員に属する。」という文章の「労働の全収益は、平等な権利にしたがって、すべての社会成員に属する」という言葉を取り上げて、科学的社会主義の観点からみて、「『すべての社会成員』とか『平等な権利』とかは、明らかにお座なりのことばでしかない」ことを指摘します。

 さらに続けて、マルクスは、「社会的総生産物」から六つの性質の異なる「控除」があることを明らかにし、これに対し「ラサールの影響をうけて、この綱領は偏狭にも『分配』しか眼中においていない」ことを指摘し、これらの「控除」によってようやく「個人的な生産者たちのあいだで分配される消費資料の部分に到達する。」ことを述べます。

 そして「労働収益」ということばについて、「生産手段の共有にもとづいた協同組合的な社会」では、生産物を「価値」として交換(実現)することがなくなり、「個人的な労働は、もはや間接にではなく直接に、総労働の諸構成成分として存在する」ようになるので、「『労働収益』ということばは」、「まったくその意味をうしなってしまう」ことを述べ、いよいよ「生まれたばかりの共産主義社会」での「消費諸手段の分配」の問題の論及に移っていきます。

 「発展した共産主義社会」ではなく、「生まれたばかりの共産主義社会」では、「個々の生産者は、彼が社会にあたえたのときっかり同じだけのものを──あの諸控除(前述の「六つの控除」のこと──青山)をすませたあと──とりもどす」のであり、「ある形態の労働がそれと等しい量のべつの形態の労働と交換される」ことを述べ、「だから、平等な権利とは、ここでもまだやはり──原則的には──ブルジョア的権利である。」と、マルクスは言います。

 そして、この労働の量で測られる「平等な権利」は、「労働者の不平等な個人的天分」にもとずく「不平等な労働にとっての不平等な権利である。」「だからそれは、すべての権利と同様に、内容においては不平等の権利である」ことを述べ、「これらすべての欠陥を避けるためには、権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなければならないだろう」と、マルクスは言います。

 続けてマルクスは、このような「共産主義社会の第一段階の社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」との差異を明らかにし、「発展した共産主義社会」=「自由の国」を展望した、下記の、有名な文章を述べます。

「しかしこのような欠陥は、長い生みの苦しみののち資本主義社会から生まれたばかりの、共産主義社会の第一段階では避けられないものである。権利は、社会の経済的な形態とそれによって制約される文化の発展よりも高度であることは決してできない。

 共産主義社会のより高度の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち──そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」(『ゴータ綱領批判』岩波文庫P38-39)

 先に私たちは、マルクスが『資本論』で「発展した共産主義社会」を〝自由の国〟と言っていることを見てきましたが、マルクスは『ゴータ綱領批判』でもこのように、「共産主義社会」を「生まれたばかりの共産主義社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」をというように区分し、その違いを明確にしています。

 そして、最後に、不破さんが「注意書き」ででもあるかのように読者の誤解を誘った『ゴータ綱領批判』の「締めくくりの部分」で、マルクスが何を言っているのか、一緒に、見てみましょう。

 マルクスは、これまで、「労働の全収益」や「平等な権利」、「公正な分配」という「時代おくれの駄弁」や「観念的な駄ぼら」に「かなり詳しく立ち入って」論及し、それを党に押し付けようとすることが、「どんなに犯罪的な行為であるかを示そう」としてきたことを述べ、続けて次のように言います。

「これまで述べてきたことは別にしても、いわゆる分配について大さわぎをしてそれに主たる力点をおくことは、なんといっても誤りであった。

 どんなばあいにも、消費諸手段の分配は生産諸条件の分配そのものの結果にすぎないのであって、生産様式そのもののひとつの特徴をなすのは生産諸条件の分配のほうである。たとえば資本主義的生産様式の基礎は、物象的な生産諸条件が資本所有と土地所有という形態で働かざる者たちに分配されている一方、大衆は人格的な生産条件つまり労働力の所有者でしかない、ということにある。生産の諸要素がこのように分配されているからこそ、消費手段の今日のような分配方式がおのずから生まれているのである。」(マルクス『ゴータ綱領批判』(ドイツ労働者党綱領評注)岩波文庫P39-40)

 以上が、『ゴータ綱領批判』(ドイツ労働者党綱領評注)の中で、『ゴータ綱領』(草案)の第三パラグラフの文章にかんしてマルクスがおこなった「評注」の概要です。

 

同様に『資本論』で「分配関係」について述べている文章

「だから、いわゆる分配関係は、生産過程の、そして人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、またこの諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表しているだけである。……

 ただ分配関係だけを歴史的なものと見て生産関係をそういうものと見ない見解は、一面では、ただ、ブルジョア経済学にたいするすでに始まってはいるがしかしまだとらわれている批判の見解でしかない。」(大月版 ⑤ P1128-1129)

 

不破さんの、レーニンが「独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした」と言う真っ赤なウソ

 このように、『ゴータ綱領批判』をみれば分かるとおり、不破さんは、レーニンが「独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした」と、あたかもレーニンが「二段階発展論」をつくったかのような創作をしてレーニンを非難しますが、マルクスは「共産主義社会の第一段階」と「共産主義社会のより高度の段階」との違いを明らかにしています。

 だから、不破さんが、レーニンが『ゴータ綱領批判』の「注意書き」を見落としたために「独特の二段階発展論をつくりあげてしまったのでした」と言うのは真っ赤なウソで、不破さんの捏造以外の何ものでもありません。

 このように、マルクスもエンゲルスも〝共産主義社会〟を、「生まれたばかりの共産主義社会」、「共産主義社会の第一段階の社会」と「発展した共産主義社会」、「共産主義社会のより高度の段階の社会」というように区分し、前者を「民主主義」や「平等な権利」が残り、「労働が義務」で「死滅しつつある国家」のある「必然性の国」とみて、後者を「民主主義」や「平等な権利」という概念の不要な、「労働が生活にとってまっさきに必要なこと」となる「国家」のない「自由の国」と見ていました。

 なお、不破さんの「未来社会」についての主張の混乱の原因の一つは、資本主義社会から生まれた社会を「未来社会」=「社会主義社会」=「共産主義社会」と一律に見ているところにあります。

103

 

もう一度、不破さんの『ゴータ綱領批判』の歪曲と捏造の文章を見て下さい

 『ゴータ綱領批判』の説明が長くなってしまったので、もう一度、不破さんの、「マルクスは、このなかで、未来社会でも、生産物の分配の方法は固定したものではなく、社会の発展とともに変化するものだということを例をあげて示し、未来社会論の根本問題は別のところにある、ということを懇切に説明しました。そして、その論の締めくくりの部分で、ここでは、ラサール批判の必要から分配問題を論じたが、未来社会への中心問題は『生産手段の社会化』という生産様式の変化にあるのだ、そこを見ないで、もっぱら分配問題で大騒ぎをして、未来社会を分配問題を中心に考えるような誤りに落ち込んではならないよ、という注意書きで、この議論をしめくくっていました。」と言う『ゴータ綱領批判』の「解説」を見て下さい。

 ここには、不破さんの二つの誤り──歪曲と捏造──があります。

マルクスはここで、「分配の方法」の問題を「未来社会」の問題の「例示」にしたのでもなければ、「未来社会論の根本問題」を扱ったのでもない(不破さんの第一の誤り)

 不破さんは、マルクスが、「未来社会でも、生産物の分配の方法は固定したものではなく、社会の発展とともに変化するものだということを例をあげて示し、未来社会論の根本問題は別のところにある、ということを懇切に説明し」たと言いますが、これまで見てきたように、ここでの論点は「分配の方法」の問題であり、「未来社会」の問題の「例示」として「分配の方法」について論及しているのではありません。

 これまで見てきたように、マルクスはここで、「労働の全収益」や「平等な権利」と「公正な分配」という「時代おくれの駄弁」や「観念的な駄ぼら」を党に押し付けようとする「犯罪的な行為」を暴露し、「共産主義社会の第一段階」での「消費諸手段の分配」の意義と限界を述べ、「分配方法」の「共産主義社会のより高度の段階」との違いと展望を述べています。

 「分配の方法」の問題を「未来社会」の問題の「例示」として出したものではありません。ましてや、そのことを通じて「未来社会論の根本問題は別のところにある、ということを懇切に説明し」たものなどでは、まったく、ありません。

 不破さんの、まったくの、創作「解説」(=『ゴータ綱領批判』の捏造)です。

104

 

『ゴータ綱領批判』を自分のシナリオに都合がいいように合わせようとして、『ゴータ綱領批判』の内容を「本末転倒」させる不破さん(不破さんの第二の誤り)

 次に、「ここでは、ラサール批判の必要から分配問題を論じたが、未来社会への中心問題は『生産手段の社会化』という生産様式の変化にあるのだ、そこを見ないで、もっぱら分配問題で大騒ぎをして、未来社会を分配問題を中心に考えるような誤りに落ち込んではならないよ、という注意書きで、この議論をしめくくっていました」と言うのも、まったく間違っています。

 これまで見てきたように、『ゴータ綱領』(草案)の第三パラグラフの「評注」は、はじめに、「労働の全収益」や「平等な権利」と「公正な分配」という「時代おくれの駄弁」や「観念的な駄ぼら」を党に押し付けようとする「ラサールの影響をうけ」た「綱領」(草案)の「犯罪的な行為」を暴露しようとしたもので、「ラサール批判の必要から分配問題を論じた」のではありません。「労働収益の公正な分配」という「分配問題」の捉え方を批判したもので、「ラサール批判の必要から分配問題を論じた」のではありません。

 不破さんは、『ゴータ綱領批判』を自分のシナリオに都合がいいように合わせようとして、『ゴータ綱領批判』を「本末転倒」させています。

 不破さんは、「未来社会への中心問題」とか「未来社会を分配問題を中心に考える」とか「未来社会」という言葉を使って「問題」を曖昧にしますが、ここでの主要な論点は、資本主義の問題点を「労働収益の公正な分配」の問題に矮小化することの誤りについて述べているのです。不破さんの言う「自由の国」は「余暇」で「自由な時間」であるという「未来社会」について述べているのではありません。

 不破さんは、曖昧で意味不明な言葉をちりばめて、『ゴータ綱領批判』を読んでいない人に、『ゴータ綱領批判』でマルクスが不破さんと同じようなことを言っているかのように誤解させようと、テクニックを駆使しますが、マルクスがここで言っているのは、「賃金制度の廃止!」という『賃金、価格、利潤』の〝核心〟のテーマを、不破さんが『賃金、価格、利潤』の「講義」で「ルールある経済社会」に解消しようとした誤りと同じ誤りを、『資本論』や『空想から科学へ』で注意喚起しているのと同じように、私たちに、繰り返し注意喚起してくれているのです。

※なお、『賃金、価格、利潤』でのマルクスの主張と不破さんによるその歪曲についての詳しい説明は、ホームページ4-1「☆不破さんは、『賃金、価格、利潤』の賃金論を「「ルールある経済社会」へ道を開いてゆく」闘いに解消し、『賃金、価格、利潤』を労働運動にとって何の意味もないガラクタの一つに変えてしまった。」及びホームページ4-2「☆不破さんが言うように、「社会的バリケード」をかちとり「ルールある経済社会」へ道を開いてゆくことこそが、資本主義社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だなどと、マルクスは一度も述べたことはない。」を、是非、参照して下さい。

 

不破さんとつき合う時は、必ず、元の文章を読むようにして下さい。

 不破さんは、資本主義的生産様式の変革、社会変革を「未来社会」と言い換え、『ゴータ綱領』(草案)の第三パラグラフの「評注」の中に「注意書き」があるかのように、巧みに、読者をミスリードして、「ところが、レーニンは、この注意書きを見落としたのか」と言います。

 不破さんは、また、「という注意書きで、この議論をしめくくっ」たと言いますが、この文章は「労働収益の公正な分配」という「分配問題」だけを問題にする考えに対し引導を渡したもので、「注意書き」などではなく、マルクスが『資本論』でも述べている本論中の本論です。

 レーニンが見落とすはずがないことは多少科学的社会主義の思想を学んだ人なら誰でも分かることです。しかし、不破さんは、レーニンが見落としてくれないと今後の「創作」が続きませんから、『ゴータ綱領批判』の本論を「注意書き」ででもあるかのように私たちに見せようとして、「ところが、レーニンは、この注意書きを見落としたのか」と言うのです。

 涙ぐましい努力ですが、じつに情けない。

 このように、不破さんは『ゴータ綱領批判』の中にある文章を自分の都合のいいように言い換えて、自分の都合のいいように組み合わせて、『ゴータ綱領批判』の内容とは似ても似つかないものにしてしまいます。ですから、不破さんとつき合う時は、必ず、元の文章を読むようにして下さい。

105

 

不破さんの、「第四九章」は「『スミスのドグマ』批判」という、『資本論』を理解しない捉え方

 不破さんは、「第四九章 生産過程の分析によせて」のなかの〝資本主義的生産様式の解消後の剰余労働のあり方〟に関する文章と、この「第四九章」の結びに書かれている〝資本主義的生産様式の解消後の価値規定の重要性〟について注意喚起している文章を「未来社会論」として取り上げるとともに、「第四九章」の前半はスミス批判の序論としての「再生産論の復習」であり、「『第四九章 生産過程の分析によせて』の後半と『第五〇章 競争の外観』はすべてスミスのドグマ批判に充てられてい」ると言います。

 しかし、「第四九章 生産過程の分析によせて」を「未来社会論」と「スミスのドグマ批判」として捉える不破さんの『資本論』「第四九章」の捉え方は、残念ながら、「第四九章」の趣旨を理解しない、『資本論』の「解説」としては失格の代物という以外ありません。

「第四九章」は、「三位一体的定式」に幻惑された考えの誤りの原因と「三位一体的定式」の暴露を通じて論究した「価値」のあり方をテーマに論述されたものです

 「第四九章 生産過程の分析のために」は「第四八章 三位一体的定式」でおこなった「三位一体的定式」の「まちがった外観と偽瞞」の暴露の続きとして、セー氏に見られるような幻想は、「ただ、アダム・スミス以来全経済学を一貫している次のようなばかげた説の必然的で最後の表現でしかないのであって、その説によれば、諸商品の価値は結局は残らず諸収入に、つまり労賃と利潤と地代とに、分解する」(P1076)という「三位一体的定式」に幻惑された考えの誤りの原因と私たちが中心に置くべきテーマについて論及したものです。

 「第四九章」は、「第四八章」で明らかにしたように、「利潤〈企業者利得・プラス・利子〉と地代は、商品の剰余価値の別々の部分がとる特有な形態にほかならない」こと、「収入の第三の独特な形態をなしている労賃は、つねに資本の可変部分に等しい」こと、「年間生産物の価値は、労賃・プラス・利潤・プラス・地代・プラス・Cに等しい」ことを述べ、単純再生産の表式(第二部第二〇章第二節)による再生産過程の説明をし、続けて、総生産物の内訳と総収入の内訳の説明をします。

 これらを踏まえ、「これに反して、」上記のような誤った考えに至る原因は、「要するに次のようなものである」として、次の五点を挙げます。

 (1)不変資本と可変資本との根本関係、したがって剰余価値の性質、したがってまた資本主義的生産様式の全基礎が理解されていないということ。

 (2)労働が、新たな価値をつけ加えることによって、古い価値を、この価値を新たに生産することなしに、新たな形態で保存するその仕方が理解されていないということ。

 (3)再生産過程の関連が、個別資本の立場からではなく総資本の立場から見た場合に、どのように現れるか、ということが理解されていないということ。

 (4)剰余価値のいろいろな成分が互いに独立ないろいろな収入の形で現れるようになり、収入と資本という固定した規定が入れ替わってその位置を変え、その結果、それらはただ個別資本家の立場からの相対的な規定でしかなく、総生産過程を見渡す場合に、不変資本はただ商品価値の一つの外観上の要素でしかなく、この要素は全体の関連のなかではなくなってしまうかのように見えること。

 (5)商品の価値は労賃、利潤、地代の価値総額から生じ、そして労賃、利潤、地代の価値はそれ自身また商品の価値によって規定されているという、価値がそれ自身の諸成分から発生するかのような外観と関連して、商品の価値が基礎だということは忘れられてしまうこと。

 このような事情から、「すべての新たな資本は利潤や地代やその他の収入形態から、すなわち剰余労働から生ずるという事情は、商品の全価値が収入から生ずるというまちがった観念をもたせるようになる。」こと。

 しかし、「前年から受け継がれた古い不変資本は、その価値から見れば、新たに追加される労働によって再生産されるのではない」こと、そして、「利潤の資本への転化が意味するものは、超過労働の一部分が新たな追加生産手段の形成に充用されるということにほかならない。これが利潤の資本への転化という形で行なわれるということは、ただ、労働者がではなく資本家が超過労働を自由に処分することができるということを意味しているだけである」こと。

 だから、私たちが「第四九章」から学び、中心に置くべきテーマは、「三位一体的定式」の「まちがった外観と偽瞞」に騙されることなく、資本主義的生産様式の社会の経済をしっかり学んで、「第一に、その生産様式が価値にもとづいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望のためにだけ労働する一つの全体とみなすことは、まちがった抽象である」ことを国民に明らかにし、「第二に、資本主義的生産様式が解消した後にも、社会的生産が保持されるかぎり、価値規定は、労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分、最後にそれに関する簿記が以前よりもいっそう重要になるという意味では、やはり有力に作用するのである」ということをしっかり踏まえ、〝国民の新しい共同社会〟づくりは、国民福祉のための社会的労働の配分を正しく行なうための記帳と統制の民主的制度をしっかりと創り、合理的なものとしなければならないということ。

 「第四九章 生産過程の分析のために」は、私たちにこのようなことを明らかにし、注意喚起をしています。

 なお、〈注53の最後の言葉〉「ブルジョア世界のなかに、ありとあらゆる世界のうちの最良の世界を発見しようとする親切な善意が、俗流経済学では、真理愛や科学的探究欲のどんな必要にもとって代わるのである」は、21世紀になって「資本主義観の大転換」と「革命観の大転換」を成し遂げた不破さんのことを指して言っているように思えてなりません。

106

 

「第四九章」をスミス批判に矮小化し、「第四九章」の意味を理解できないものにする不破さん

 「第四九章」は、概ね上記のようなことを述べていますが、不破さんは「第四九章」を「スミスのドグマ批判」の文章と矮小化したために「第四九章」の意味が理解できず、「第四九章の前半は、一見、再生産論が主題のように見えますが、……不変資本の再生産と流通が再生産過程のなかに位置をしめていることを確認したうえで、スミス批判に入るというところにあったのだと思います」と強引に「スミス批判」に話をもっていこうとします。 続けて不破さんは、「スミス批判」のはずの「第四九章」にもかかわらず、「マルクスの考察は、その誤りの立証よりも、なぜこのドグマが、無批判に『全経済学』を貫いてきたのかの状況分析に向けられます」と述べて、「スミス批判」のはずの「第四九章」が「その誤りの立証よりも」前述の「諸商品の価値は結局は残らず諸収入に、つまり労賃と利潤と地代とに、分解する」という誤った考えに至る五つの原因の詳細な論及に「向けられ」たことを認めざるをえません。

 しかし、「革命観」や「資本主義観」まで確たる根拠もなく思い込む人ですから、今まで誰も気付かなかった「第四九章」を「スミス批判」の「章」と見るアイデアを一度発見したからには捨て去る訳にはいきません。「誤った考えに至る五つの原因」の粗雑な説明のあと、続けて、木に竹を接ぐように、「まさに、スミスのドグマは、古典派経済学の弱点の集中的表現だったのでした。」と「第四九章」がまるで「スミス批判」ででもあるかのように言います。

 〝恐れ入りました〟というか、〝開いた口がふさがらない〟というか、何とも表現のしようがありません。ただ、言えることは、エンゲルスが不破さんのような人でなくて、本当に、よかったということです。不破さんのような人が『資本論』の編集をしていたら、とんでもない代物ができあがっていたことでしょう。こんな取り越し苦労にたいして、〝私たちは友を選ぶ〟と、マルクスとエンゲルスに叱られそうです。

 このように、不破さんは、「第四九章」を編集した意図、意味がまったく理解できません。資本はそっくり残り、労働者が諸商品の価値を生みだすのであり、「諸商品の価値は結局は残らず諸収入に、つまり労賃と利潤と地代とに、分解する」という誤った考えに騙されてはいけないこと。「三位一体的定式」の「まちがった外観と偽瞞」に騙されることなく、資本主義的生産様式の社会の経済をしっかり学んで、前述した、私たちが「第四九章」から学び、中心に置くべきテーマをしっかり捉えることを、「第四九章」は私たちに求めているのです。

 このような内容なのに、不破さんは『資本論』の中身抜きで、「スミス批判」に「第四九章」を矮小化してしまいます。不破さんにとっては『資本論』の中身など、まったくどうでもよいことかもしれませんが、『資本論』の「解説」だと思って不破さんの著作を買った、真面目に科学的社会主義の思想を学ぼうとする人たちにとっては、詐欺同然の行為と言うべきものでしょう。

※なお、「第四九章」の主要な抜粋とその解説については、別添のPDFファイルを参照して下さい。

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3-49「第四九章 生産過程の分析のために」.pdf
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不破さんの、「マルクスが、スミスのドグマ批判を、第七篇の中心をなす主題と位置づけた」とまで言う、とんでもない妄想の自転車操業

 「第四九章」の前半はスミス批判の序論としての「再生産論の復習」であり、「『第四九章 生産過程の分析によせて』の後半と『第五〇章 競争の外観』はすべてスミスのドグマ批判に充てられてい」ると言いきった不破さんは、「第五〇章」について、たったの三行だけの、しかし、向かうところ敵無しの「解説」を行ないます。

 不破さんは、「そこでは、スミス理論が『資本─利潤、土地─地代、労働─労賃』という『三位一体』的定式に支配されている生産者たちの日常意識にとって、きわめて受け入れやすい見方であることが実証されてゆきます。」と「第五〇章」が「スミス理論」の暴露の「章」──スミスのドグマ批判の「章」──ででもあるかのようなミスリードを行ない、「マルクスが、スミスのドグマ批判を、第七篇の中心をなす主題と位置づけた意味が、腑に落ちた思いがしました。」と言います。

 これが、「第五〇章」の「解説」のすべてです。

 

読めばわかる事実を無視して、妄想の自転車操業を行ない悦に入る不破さん

 しかし、先ほど見たように、「第四九章」は「三位一体的定式」に騙されないために資本主義的生産過程を科学的に見ることの必要性を訴えた「章」であり、「第五〇章 競争の外観」は、「三位一体的定式」が資本主義的生産様式の社会ではなぜ「定式」としてみなされ、スミスのような誤りが生まれるのかを徹底的に暴露した「章」です。これらは、「経済的諸関係がブルジョア社会の諸表層で現れている物象的外観」(大谷禎之介「『マルクスの利子生み資本論』2」のMEGA「成立と来歴」P401)を科学的に解明している「章」です。

 この事実を無視して、不破さんが「第四九章」と「第五〇章」を「スミス批判」の章に歪曲して主張しているだけなのに、今度は、「マルクスが、」「第七篇の中心をなす主題と位置づけた」と、これまた事実に反することを捏造して、「腑に落ちた思いがしました」などと悦に入ります。まさに、妄想の自転車操業とでもいうべきもので、向かうところ敵無しです。恐れ入ります。

 

第七篇のこれまでの内容をみれば明らかなのに、不破さんはマルクスを自分の妄想に引きずり込もうとする

 そして、何とかしてマルクスを自分の妄想に引きずり込もうとする不破さんは、『資本論』の構想を報告しているマルクスのエンゲルスあての手紙(1868年4月30日付け)の中に「さらに、これまでのすべての経済学の礎柱となってきたアダム・スミスの愚論、すなわち、諸商品の価格はかの三つの収入から、つまりただ可変資本(労賃)と剰余価値(地代、利潤・利子)とだけから、成っている、という愚論が、ひっくり返される」という文章があるのを発見し、「これが、マルクスが書いた第七篇の最後の構想となりました」と述べて、不破さんの「マルクスが、」「スミス批判」を「第七篇の中心をなす主題と位置づけた」という言葉と合わせて、あたかもマルクスがスミス批判を第七篇の中心をなす主題と位置づけたかのような印象を与えようとします。

 

マルクスは、「スミス批判」などという小さな問題を「第七篇の中心をなす主題と位置づけた」りはしない

 不破さんが抜粋した先ほどのマルクスのエンゲルスあての手紙の中の「アダム・スミスの愚論」に関する文章は、『資本論』の第一部と第二部の論究によって、そして第三部での利潤・利子および地代の論究によって、諸商品の価格が労賃と利潤・利子と地代という三つの収入だけから成っているというアダム・スミスの「愚論」の存在余地のないことを述べた文章です。

 不破さんがいくら印象操作をしようとしても、「スミス批判」などという小さな問題を「第七篇の中心をなす主題と位置づけた」ことを宣言した文章などでないことは、明らかです。

 私たちは、マルクス・エンゲルスから学んで、資本主義的生産様式の社会で市民権を得ている、新たにつけ加えられた労働を表す価値を労賃、利潤、地代という収入形態に分解させることの不当性を、国民に広く、徹底的に明らかにしなければなりません。そのことこそが、私たちがこの「章」を学ぶ意義であり、それを、「スミスの批判」のための「章」ででもあるかのように矮小化するのは全くの誤りであり、『資本論』の「解説」者として失格だといっても間違いないでしょう。

107

 

「第五〇章」の次の文章を読んで感じたこと

 「第五〇章」には、次のような文章があります。この文章を読んで、感じたことを一つ述べさせていただきます。

 それは、「ある国では、資本主義的生産様式が一般に発展していないために労賃や土地の価格は低いが資本の利子は高く、別のある国では労賃や土地の価格は名目的に高いが資本の利子は低いとすれば、資本家は一方の国ではより多く労働や土地を充用し、他方の国では比較的より多く資本を充用する。この場合に両国間の競争がどの程度まで可能かという計算には、これらの要因が規定的な要素としてはいる。だから、この場合に経験が理論的に示しており資本家の利害計算が実際的に示していることは、商品の価格は、労賃、利子、地代によって、すなわち労働、資本、土地の価格によって、規定されているということであり、また、実際にこれらの価格要素が規制的な価格形成者であるということである。」(大月版⑤P1118)という文章です。

 まさに「資本家」は上記のような行動をとり、それ以外の行動を取れば「資本」にたいする背信行為になります。現代の世界は、「資本家」のこのような行動によって、「別のある国」の労働者の「職」が失われ、「ある国」の労働者の「労働条件」が「別のある国」の労働者の「労働条件」よりも悪くなることが前提にされています。このように、「資本家」の行動には〝社会〟への視点が欠落しており、〝社会〟は「資本家」にとって考慮の外になければなりません。

 だから、現代の「国家」は「資本家」のこのような行動を「権力」によって封じ込める義務があります。そのための世論喚起に私たちは努めなければなりません。

※なお、「第五〇章」の主要な抜粋とその解説については、別添のPDFファイルを参照して下さい。

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3-50「第五〇章 競争の外観」.pdf
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108

 

不破さんの「マルクス、最後のスミス批判」のミスリード

 不破さんは、続けて、「マルクス、最後のスミス批判」という「節」を設けて、「マルクスは、第三部第七篇をスミス批判の決着をつける場にするつもりでしたが、その後、もう一度、この問題を取り上げる気になったようです」と、マルクスが「スミス批判」を「第七篇の中心をなす主題と位置づけた」にもかかわらず、不十分なために「その後、もう一度、この問題を取り上げる気になった」かのようなことを言います。

 そして、「その後、もう一度、この問題を取り上げる気になった」第二部「第一九章」でのスミス批判は、「第一九章」の「全体の九割近くをスミス批判が占めるという独特の構成に」なったが、それは、「全経済学を貫いてきたこのドグマにとどめを刺しておきたいというマルクスの執念」の現れだと言います。『資本論』は、マルクスがスミスの「ドグマにとどめを刺す」ための、「マルクスの執念」の発露の場だというのです。いかにも自己顕示欲の強い不破さんらしいマルクスと『資本論』の見方です。

 不破さんは、これまで見てきたような「第三部第七篇」についての自らの誤った認識を前提として、それに輪をかけて、「その後、もう一度、この問題を取り上げる気になったようです」と、またまた一人相撲を取って、「マルクスの執念」の現れである「マルクスのスミス批判」なるものを『資本論』の「主題」にしようとして、読者をミスリードします。

 

第三部第七篇の意味も第二部「第一九章」の意味もまったく理解していない不破さん

 不破さんの言うマルクスの「スミス批判」が、第三部「第七篇」では「生産物の価格が労賃、利潤、地代の三つの部分に分解する」という「一点」に絞られていて、不十分なために「その後、もう一度、この問題を取り上げる気になった」第二部「第一九章」では「網羅的に取り上げた全面的なもの」となっているのは、当たり前のことです。

 なぜなら、前者は「三位一体的定式」という「一点」に関して論究されるべきものであり、後者は再生産に関するスミスの諸叙述について全面的、網羅的に論及すべき内容だから「網羅的に取り上げた全面的なもの」となっているのです。そして、「第一九章 対象についての従来の諸叙述」の「全体の九割近くをスミス批判が占める」のは、スミスの『諸国民の富』が「従来の諸叙述」の代表的な著作だからであり、「独特の構成」でもなんでもありません。

 

不破さんの、マルクスの「スミス批判」の立ち入った検討とは、自らのスケールに合わせてマルクスを〝推測〟するということなのか

 なお、不破さんは、「『資本論』探求〈上〉」の第二部の「解説」の「(7)再生産論の学習のすすめ」の「章」で、「本書では、立ち入ったスミス批判の検討は、第三部第七篇のところでおこなうことにしたいと思います」と述べ、「立ち入ったスミス批判の検討」を「第三部第七篇のところでおこなうこと」を約束していました。しかし、これまで紹介したことが不破さんの「スミス批判の検討」の全てです。「(7)再生産論の学習のすすめ」の「章」よりも「立ち入っ」て「検討」していると思われるのは、「独特の構成」という誤った評価とそれにもとづく「このドグマにとどめを刺しておきたいというマルクスの執念」などと言う、『資本論』を科学的社会主義の著作として学ぶことの意味をまったく理解することのできない不破さんが、自らのスケールに合わせてマルクスを〝推測〟したということだけです。

 そしてこのように「第四九章」と「第五〇章」を「スミス批判」に矮小化して、「第四九章」と「第五〇章」をまともに読もうともしない不破さんは、次の「(18) 最後の諸章について」の「章」で、目を疑うような、とんでもない、いや、もしかしたら不破さんの『資本論』にたいする正直な気持ちを現した、「解説」を行ないます。

109

 

不破さんは、「三位一体的定式」とそれに関連する謬論とを解明し暴露することを「うんざりしていた」と言う

 不破さんは、「(18)最後の諸章について」という「章」の冒頭で、「三位一体的定式」という資本主義的分配関係に焦点をあてて書かれた『資本論』第三部の「第四八章」から「第五〇章」までについて、つぎのように述べて、驚くべき評価をしています。

「『第五一章 分配諸関係と生産諸関係』は、『三位一体的定式』が支配する非科学的、神秘的な世界とそれへの批判にうんざりしていた頭が、久方ぶりに科学的な資本主義世界論に出会い、またそこで『資本論』全巻の簡潔きわまる科学的総括というべきものに出会って、爽快な思いをする章です。」、と。

 不破さんは、第七篇を、ここまで「うんざり」しながら読んできたようです。この文章を読んで、不破さん流に言えば、不破さんの第七篇の「解説」に「腑に落ちた思いがしました」。

いまだに「共産党」の「指導部」をコントロールしている不破さんが、ここまで『資本論』を歪曲し、ここまで『資本論』の悪口を言うのですから、公安警察も経団連も笑いがとまらないことでしょう

 

 不破さんは、マルクスが「第四八章」で「三位一体的定式」とは「まちがった外観と偽瞞」の表現であり、支配的諸階級の階級的利益に一致した認識であり、「三位一体的定式」による資本主義的生産様式の「神秘化」にごまかされてはいけないということを述べているのに、「三位一体」という言葉によってマルクスは「資本主義社会を支配する神秘化の極致を表現した」などと言うだけでした。そして、「第四八章」は「資本主義的生産様式においてはじめて資本も労働も社会から無拘束なもの」となることっを述べており、その結果、日本は、自由に行動する資本のグローバルな活動により産業の空洞化が進み、日本社会そのものが存亡の危機に直面している、そのことを私たちに教えてくれる大事な「章」でもあります。それもわからず、「第四八章」を「うんざりし」たと言うのです。

 そして、「第四九章」と「第五〇章」を「スミス批判」と歪曲して解説らしい「解説」もぜず、「それへの批判にうんざりし」たと言うのです。ここまで『資本論』を歪曲し、ここまで『資本論』の悪口を言うのですから、公安警察も経団連も笑いがとまらないことでしょう。

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「第五一章 分配諸関係と生産諸関係」の概要

 不破さんの「解説」の誤りや足りない点に触れるまえに、「第五一章 分配諸関係と生産諸関係」でマルクスとエンゲルスは私たちに何を訴えかけているのか、簡単に見てみましょう。

 「第五一章」はまず、「普通の見方にとっては、これらの分配関係(「三位一体的定式」のこと──青山)は、自然的関係として、あらゆる社会的生産の本性から生じ人間的生産そのものの諸法則から生ずる関係として、現れる」こと、「三位一体的定式」という分配関係が資本主義的生産関係と一体不離のものであることを述べます。

 そしてマルクスは、「労賃は賃労働を前提し、利潤は資本を前提する」ところの「これらの特定の分配形態は、生産条件の特定の社会的性格と生産当事者たちの特定の社会的関係とを前提するのである。だから、特定の分配関係は、ただ歴史的に規定された生産関係の表現でしかないのである」ことを述べ、「分配関係は本質的にこの生産関係と同じであり、その反面であり、したがって両方とも同じ歴史的な一時的な性格をもっているということ」を、詳しく、述べています。

 その論及の中で、マルクスは、「資本主義的生産様式をはじめから際立たせる二つの特徴」として、①この生産様式はその生産物を──商品であることがその生産物の支配的で規定的な性格であるという──商品として生産すること、②生産の直接的目的および規定的動機が剰余価値の生産であることを述べ、そのなかで資本主義的生産の無政府性が現れることを明らかにします。ここも重要です!!

 そして最後に、「だから、いわゆる分配関係は、生産過程の、そして人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、またこの諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表しているだけである。資本主義的分配は、他の生産様式から生ずる分配形態とは違うのであって、どの分配形態も、自分がそこから出てきた、そして自分がそれに対応している特定の生産形態とともに消滅するのである。」と述べ、資本主義的生産様式における特定の分配関係が特定の生産形態とともに消滅する理由を、「この過程の特定の歴史的な形態は、それぞれ、さらにこの過程の物質的な基礎と社会的な形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したということがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立とが、広さと深さとを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。」(大月版⑤ P1128-1129)と述べて、この章を結んでいます。

※なお、「第五一章」の主要な抜粋とその解説等については、別添のPDFファイルを参照して下さい。

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不破さんは、自ら「『資本論』全体のなかでもっとも重要なものの一つ」だと言う文章の「解説」をなぜしないのか

 不破さんは、「第五一章」の「解説」の最後に、私が「第五一章」の概要で引用したこの「章」の結びの文章(ブルーの文章)を抜粋し、続けて、「第一部、蓄積論の最後の部分で叙述された、変革の主体的条件についての論究はまだありませんが、この文章は、社会変革の歴史的必然性について記述した、『資本論』全体のなかでもっとも重要なものの一つだと思います。」と言います。

 不破さんもこの文章が「『資本論』全体のなかでもっとも重要なものの一つだと思」うのであれば、「変革の主体的条件についての論究はまだありませんが」などと余計なことを言う前に、「清く飛ば」すことなく、『資本論』の解説者らしく、しっかりと解説すべきです。

「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」を否定する不破さんには、どんな重要な文章でも、黙殺する以外に方法はない

 「第五一章」の「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立」というマルクスの言葉は、資本主義を終わらせなければ解決しない資本主義的生産様式がもつ「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」を言い現したもので、エンゲルスの言う「根本矛盾」で、科学的社会主義の思想の正しさを確信しているものはみな認めている考えで、不破さんも二一世紀になるまで認めていたものです。

 しかし、二一世紀になって新しい資本主義観を大「発見した」不破さんは、『前衛』2014年1月号(No904)では、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、驚くべき発言をするようになります。

 このような立場の不破さんには、文章を抜粋して、「変革の主体的条件についての論究はまだありませんが」とケチを付け、あとは「解説」せずに褒めちぎる以外に方法がなかったのでしょう。

 

「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」を否定する不破さんの行き着く先

 もう一度、この章の結びの部分(ブルーに印字した不破さんが「抜粋」した文章)を見て下さい。

 マルクスは、「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立」、つまり、一方の分配関係、それに対応する生産関係の特定の歴史的な姿(=私的資本主義的分配と資本主義的生産関係)と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展(=社会化された生産力とその一つ一つの生産能力およびその発展可能性)とのあいだの矛盾と対立について述べています。

 これは、資本主義を終わらせなければ解決しない資本主義的生産様式がもつ「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」で、エンゲルスの言う「根本矛盾」です。

 このエンゲルスの言う「根本矛盾」を、不破さんは、エンゲルスが唱えた謬論だと言って否定します。その結果、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月『資本論』② P995)という有名な言葉の意味も、まったく分からなくなってしまいます。

 「生産手段の集中も労働の社会化も」とは「生産の社会的性格」ということであり、「その資本主義的な外皮」とは「資本主義的私有」、つまり「取得の資本主義的形態」のことであるということが分からなくなってしまった不破さんは、資本主義的生産様式の「桎梏」──それは、「資本主義的私有」の最高形態である「独占資本」が社会的生産力の発展の足かせになるということ──の意味が理解できません。この科学的社会主義の思想が理解できない不破さんは、資本主義的生産様式の内在的矛盾から取り出した「利潤第一主義」、それにもとずく資本主義の弊害の全てを「桎梏」だと言うに至ってしまいます。

 その結果、「利潤第一主義」の改善、「ルールある資本主義」の確立が最大の目的となり、不破さんの眼中から資本主義的生産様式の「桎梏」である独占資本(資本主義的私有)は消え去り、「利潤第一主義」にもとづく「地球温暖化」等ありとあらゆる未解決課題が「『桎梏』化」(?)のあらわれとなり、大企業の内部留保の一部を吐き出すことが「利潤第一主義」を緩和させて経済成長を実現させる大道になってしまいます。

  「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」を認めたくない不破さんは、エンゲルスもレーニンも配分方法のみを問題にし「夢がない」と言って、資本主義的生産様式を変え私的資本主義的取得を変革することを「夢がない」と否定し、マルクスは労働時間の短縮による「自由の国」を未来社会として描いたと言って、マルクスの考えを捏造します。

 労働者を搾取する私的資本主義的取得の変革を「夢がない」と否定する不破さんは、夢のある「自由の国」の実現のために日本共産党の綱領から労働者階級の歴史的使命を取り除き、労働者階級は社会変革の主体から「社会変革の闘士」──不破さんの誤った「共産党」拡大のための手子──に格下げされてしまいました。

 このように、「第五一章 分配関係と生産関係」は、科学的社会主義の思想のポイントを表現した、現代の私たちが留意しべき内容を含んだ大変重要な「章」ですが、不破さんにとっては鬼門の「章」とも言えるでしょう。不破さんが「『資本論』全体のなかでもっとも重要なものの一つだと思います」などと言いながら、一切「解説」しなかったのは、こんな理由からなのでしょうか。

※なお、ホームページ4-27-1「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その1)①「『資本論』第一部を読む」を検証する。」で、私は、マルクスが、『資本論』第一部の「第一三章 機械と大工業」で、唯物史観と弁証法の助けをかりて、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことを、事実に基づいて明らかにしていることを述べ、この「章」の結びの文章とシームレスに繋がっていることを明らかにしています。

 

不破さんの、「変革の主体的条件についての論究はまだありません」というトンチンカンな『資本論』批判について

 不破さんは、「第一部、蓄積論の最後の部分で叙述された、変革の主体的条件についての論究はまだありませんが、」とトンチンカンな批判をしていますが、「第五一章」は「分配諸関係と生産諸関係」を扱っている「章」で、「変革の主体的条件についての論究」は「第五二章 諸階級」で扱うメインテーマです。だから「論究」はまだないのです。

 なお、不破さんはしばしば、マルクス・エンゲルス・レーニンの著作で彼らがテーマにしていないことを持ち出して、そのことを「述べていない」といって非難します。ご注意下さい。

※ご注意していただく例として、ホームページ4-10「☆不破さんの、エンゲルスは「競争が悪の根源だという結論を引き出した」、「剰余価値の搾取を抜きにした資本主義論を展開した」と言う暴言」及びホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」等がありますので、参照して下さい。

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不破さんの、「科学的社会主義の思想の伝道師」を装った「第五二章」の完璧な「解説」に、騙されるな

 不破さんは、最後の「第五二章 諸階級」の「解説」(「『階級闘争』とその前途」)で、「労働者階級による資本主義社会の変革こそが、『諸階級』の章の最大の主題となったであろう」と正しいことを述べ、加えて、「そしてそこ(「第五二章」のこと──青山)がまた、未来社会論を本格的に展開する舞台となったであろう」と述べて、マルクスが「資本主義社会の変革」と「未来社会論の本格的な展開」という二つのテーマを「第五二章」で論述しようとしたと考えるのは「決して無理な予想ではないと思います。」と、労働者階級の歴史的使命同様、正しいことを言います。

 そして最後に、不破流「未来社会論」の「自由の国」を資本主義社会の「余暇」にまで発展させた不破さんは、「マルクスは、未来社会論のこの本論は書かずに終わりましたが、……未来社会論を理論的に完成させ、さらにはその実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す、ここに、マルクスのあとを継いだ後世に活動する私たち自身の任務があることを、ここでも痛感するものです。」と、不破流「未来社会」の「実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す」という、固い決意を披露します。

綱領から「労働者階級」の「歴史的使命」を消し去り、「連帯」すべき「すべての人民」の一員に変えておいて、「社会変革」の展望も持たずに「未来社会論」を理論的に完成させるという──こういう人を「ペテン師」と呼ばないとしたら、何と呼べばいいのか

 私は、不破さんが「第五二章」の内容について、「労働者階級による資本主義社会の変革こそが、『諸階級』の章の最大の主題となったであろう」と正しいことを述べた点について評価いたしましたが、私がここに書いたことが不破さんの「第五二章」の「解説」のすべてです。

 不破さんには、これ以上、本当のマルクスに近づくことができないのです。なぜなら、不破さんは、日本共産党の綱領から、その不可欠の命題である労働者階級の「歴史的使命」を消し去り、労働者階級を「共産党」が「連帯」すべき「すべての人民」の一員に変えてしまった張本人ですから、「労働者階級による資本主義社会の変革」など語ることはできません。不破さんが党員労働者に語るのは、「共産党」を大きくするための『赤旗』と「党員」の拡大と「票読み」だけです。こんな不破さんですから、〝社会変革〟についてのなんの知識も持ち合わせず、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と言ってはばからず、ただただ、資本主義の「利潤第一主義」を「賃上げ」と「社会的バリケード」でやめさせようと考えているだけの人です。

 ですから、不破さんに、これまで見てきた『資本論』の思想から「労働者階級による資本主義社会の変革」の展望を具体的に示してもらおうなどと思うのは、無いものねだりで、この程度の「解説」で良しとしなければなりません。

 「社会変革」について、なんの展望ももっていない不破さんが、「社会変革」とは別個に、「未来社会論を理論的に完成させ」、「さらにはその実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す」「活動」をすると言うのですから、マルクスやエンゲルスやレーニンが聞いたらビックリして卒倒してしまうことでしょう。

 しかし、不破さんにとっては、「社会変革」についての展望などもたなくても、「未来社会論を理論的に完成させ」、「その実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す」ことは可能なのです。なぜなら、不破さんの「未来社会論」は、「自由の国」を資本主義社会の「余暇」にまで発展させていますから、「社会変革」なしでも「その実現に実践の足を一歩でも二歩でも踏み出す」ことができるのです。

 だから、不破さんの言う「新しい社会」では、社会発展の推進力は自分自身のために使える「自由な時間」を使って人間が発達することで、「人間の能力の発達が社会発展の最大の推進力になってゆく」のです。このように、不破さんの「未来社会論」には、「社会変革」の過程と「社会変革」によって創り変えられてゆく現実の〝社会〟の発展が欠落しています。すべてが個人の「自由な時間」に還元されています。そして、これが不破さんの「未来社会論」の真の姿です。

 科学的社会主義の思想の伝道師のような顔をして、こういうことを言っている人を、私たちは「ペテン師」と呼ばなければなりません。

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「第五二章 諸階級」でマルクスは私たちに何を訴えようとしたのか

 エンゲルスは『資本論』第三部の「序文」で、第七篇の「最後の章ははじめのほうがあるだけである。ここでは、地代、利潤、労賃という三つの大きな収入形態に対応する発展した資本主義社会の三つの大きな階級──土地所有者、資本家、賃金労働者──と、それらの存在とともに必然的に与えられている階級闘争とが、資本主義時代の事実上現存する結果として示されるはずだった。このような最後の総括をマルクスは印刷直前の最後の改訂のために保留しておくのが常だったが、その場合には最新の歴史的な諸事件がいつもまちがいなくきまって彼の理論的展開の例証を最も望ましい現実性において提供したのである。」と、述べています。

 そして、大谷禎之介の「『マルクスの利子生み資本論』2」のMEGA「成立と来歴」(P401)でも、マルクスのエンゲルスあて1868年4月30日の手紙から、『資本論』で「資本の一般的本性」を究明したマルクスが第七篇で「三つの階級の、すなわち資本家、土地所有者および賃労働者の経済的な諸関連を暴」き、「資本主義的生産様式の『解体』を、ブルジョア社会の克服にまでいたるべき階級闘争として論じるつもりで」であったことが推測されています。

 また、マルクスは、『資本論』の「初版序文」で「この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式と、これに照応する生産諸関係および交易諸関係である。……一国は他国から学ばなければならないし、また学ぶことができる。たとえある社会がその運動の自然法則の手がかりをえたとしても、──そして近代社会の経済的運動法則を暴露することがこの著作の最終目的である──、その社会は自然的な発展の諸段階を跳び越えることも法令で取り除くこともできない。しかし、その社会は、分娩の苦痛を短くし緩和することはできるのである。」(大月版①P8-10)と述べ、資本論の最終目的が近代社会の経済的運動法則を暴露し、分娩の苦痛を短くし緩和することであることを述べています。

 

未完の「第五二章 諸階級」は、私たちへのマルクスの宿題

 マルクスが、エンゲルスの「序文」に書かれているようなかたちで、そして、マルクスのエンゲルスあて1868年4月30日の手紙のとおり「第五二章 諸階級」を完成させていてくれたら、私たちはどんなに多くのことを学ぶことができ、同時に、「科学の目」などともっともらしいことを言って人々を騙す似非マルクス主義者たちが大手を振って跋扈するのを、今よりもっとたやすく、防ぐことができたことでしょう。

 しかし、同時に、マルクス・エンゲルスが生きた時代とレーニンが生きた時代と私たちが生きている時代とでは資本主義社会の発展度合いが違い、国家と資本、国際社会と資本との係わり方が違いますから、私たちはマルクス・エンゲルス・レーニンから〝学ぶ〟ことはできても「真似」することはできません。

 似非マルクス主義者の不破さんは、マルクス・エンゲルス・レーニンが生きた時代と現代との違いを利用し、逆手にとって、マルクス・エンゲルスは「恐慌=革命」説をとっていたとか、レーニンは「『革命近し』という世界的危機論なるもの」を主張していたとか、マルクス・エンゲルス・レーニンを歪曲して、誹謗・中傷を繰り返しています。これまで見てきたように、似非マルクス主義者の不破さんは、マルクス・エンゲルスとレーニンが生きていたそれぞれの時代が提起する社会変革の道筋を正しく理解することができないうえに、マルクス・エンゲルス・レーニンが言っていることを歪曲・捏造してマルクス・エンゲルス・レーニンを誹謗・中傷します。このように、不破さんという人は、教条主義者と同様に、マルクス・エンゲルス・レーニンから〝学ぶ〟ことのできない人です。

 これまでマルクスとエンゲルスが『資本論』で教えてくれた資本主義的生産様式が必然的に辿り着く諸結果が、現代の日本でどのように現れるのか、そしてそれはどの様に解決されるのか、未完の「第五二章 諸階級」は、私たちに、『資本論』を学んだものへの宿題として、その答えを書くことをマルクス・エンゲルスが求めているようにみえてなりません。

 だから、私たち『資本論』を学んだものとして、上記のような観点で、「第五二章 諸階級」の編集意図に従って、マルクス・エンゲルスの期待に応えられるよう、現代の日本の危機的な経済状況を変革し、〝新しい国民の共同社会〟を創るための革命の展望を国民に提示することは、私たちにとって、今という時代から負わされた歴史的な責務であると考えます。

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マルクス・エンゲルスは私たちに何を与え、何を求めているのか

 その、今という時代の歴史的な責務の「答え」に近づくために、もう一度、『資本論』全体のなかで、〝社会の変革〟に論及している文章を見てみましょう。

『資本論』第一部「第一三章 機械と大工業」((大月版①P654)

 マルクスは、資本主義の発展が「生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを(成熟させ──青山加筆)、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」ことを、事実に基づいて明らかにしています。

『資本論』第一部「第二四章 いわゆる本源的蓄積」(大月版② P995)

 マルクスは、「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」という有名な文章をのこしています。

『資本論』第三部「第五一章 分配関係と生産関係」(大月版⑤ P1129)

 マルクスは、「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立」について述べています。

 これらの文章に共通して論及されているのは〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟で、それを整理すると下記のようになります。

新たな社会の形成要素

◎生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させる

◎生産手段の集中も労働の社会化も(=生産の社会的性格)

◎他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展(=社会化された生産力とその一つ一つの生産能力およびその発展可能性)

古い社会の変革契機

◎生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを成熟させる

◎資本主義的な外皮(=「資本主義的私有」、つまり「取得の資本主義的形態」のこと)

◎一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿(=私的資本主義的分配と資本主義的生産関係)

 このように、〝新たな社会の形成要素〟とは、資本主義的生産様式における私的資本主義的性格をもった、技術的進歩であり、〝古い社会の変革契機〟とは、私的資本主義的性格による、社会的欠落面のことで、〝新たな社会の形成要素〟によって〝古い社会の変革契機〟が形成されます。だから、〝新たな社会の形成要素〟がどのように形成されたか、つまり、資本がどのような行動をしたかということをしっかり見ることが重要です。

 そして、〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟の、それぞれの中心にいるのが労働者階級です。

 

〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟は、今、どうなっているのか

 それでは、今、日本で〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟はどうなっているのか、その現状を見てみましょう。

 この間、その蓄積を増大させた資本は、対外的には、資本のグローバル展開という形で生産の国際化を推進しましたが、資本の進出先の国の労働者の賃金は低く抑えられ、加えて、知財権という名目での収奪がおこなわれ、富は資本に吸い上げられ、貧しい国は貧しいままでいます。

 そして、日本国内に目を移せば、高い生産性を獲得した富の源泉である製造業が海外に出て行った結果、生産性の低いサービス業の比重が増し、経済の低成長と低賃金が長期にわたって続き、その結果、年金・福祉・医療の基礎が掘り崩され、社会的分業の恩恵を受けることを前提に暮らしが成り立つ労働者階級は、生きる術がなくなりつつあります。

 このように、今の日本は、〝新たな社会の形成要素〟である、生産過程の社会的結合は強まり、生産手段の集中と労働の社会化が進み、2020年の新型コロナウィルスのような災害に際したとき、労働者・国民は社会的なケアーなしには生存が保証されないほどになり、同時に、〝新たな社会の形成要素〟である生産諸力はグローバル資本の蓄積欲求によって海外に流失し、国内生産の空洞化が進むという、きわめて深刻な事態に直面しています。

 その結果、〝古い社会の変革契機〟は、産業の空洞化による労働者階級の資本に対する劣勢はあるものの、間違いなく拡がっています。社会の資本主義的な外皮(=「資本主義的私有」、つまり「取得の資本主義的形態」)への疑問、経済は誰のためにあるのか、企業は誰のためにあるのかという根源的な問いかけ、生産の社会的性格と取得の私的資本主義的なあり方を問う声が、まだ、朝の小鳥のさえずり程度の音量ではあるが、あちこちから聞こえ始めています。

 2020年のダボス会議はその一端を示しています。2020ダボス会議の討論会で、米セールスフォース・ドットコムのマーク・ベニオフ最高経営責任者(CEO)」は「我々の知っている資本主義は死んだ」と言い、『日経』の記事は、ダボス会議の主題は資本主義の再定義だといい、企業価値・株主利益の最大化をめざす「株主資本主義」が格差是正や環境問題への貢献により長期的な成長をめざす「ステークホルダー資本主義」への転換を模索しているといいます。

 「ステークホルダー資本主義」とは、行きづまった現代の資本主義が生んだ資本主義の礼賛者たちが抱く夢、「ユートピア」で、それは、現実の資本主義社会では実現出来ない〝空想的資本主義〟ですが、かれらが描く社会は、それは「共産党」の理想とする「ルールある株主資本主義」社会を超えた内容をも含む、〝社会主義社会〟へとつながる要素を内包したものです。

 企業経営の革新をリードするセールスフォースのCEOが「我々の知っている資本主義は死んだ」と言わざるを得ないほど〝古い社会の変革契機〟が資本主義的生産様式に圧力をかけ、マルクス・エンゲルス・レーニンの時代には想像できなかったような事態が進行しています。

 資本主義的生産様式を「解体」し、ブルジョア社会を克服するための階級闘争は、今の、現在の、現実をしっかり見ることを通じて、資本主義的生産様式の社会の不合理・限界を明らかにし、資本主義的生産様式を「解体」して、社会のための企業を、そして、国民のための経済を作るためのたたかいです。マルクス・エンゲルスは『資本論』を通じて、私たちにそのことを教えてくれています。だから、私たちの闘いの方向とたたかい方は明確です。

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社会変革の道筋をまったく「探究」できないことを告白している不破さん

 しかし、「共産党」の前委員長の不破さんは、『前衛』2015年5月号の「社会変革の主体的条件を探究する」という立派なタイトルの「論文」で、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と言い、「この危機的な世界」などと、なにが「危機」であるかを理解しているかのような、もっともらしい枕詞を使っていますが、その実、「危機」の実態がわからないから、今の日本の「社会変革」の「形態」をつかむことができず、「この危機的な世界」なるものが何であるかわからず、社会変革の道筋をまったく「探究」できないことを告白しています。

今の日本の〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟を見ることのできない不破さん

 不破さんが社会変革の道筋をまったく「探究」できないのには理由があります。

 不破さんは、『『資本論』探究〈上〉』(P154)で「『必然的没落』の客観的条件」としてマルクスの言う〝新たな社会の形成要素〟だけを挙げ、資本主義的生産様式のもとでの〝新たな社会の形成要素〟が〝古い社会の変革契機〟を形成することを視野の外に置いています。不破さんの「資本主義的生産様式の『必然的没落』」の理論は、この〝古い社会の変革契機〟を欠いた「『必然的没落』の客観的条件」と「『必然的没落』の主体的条件」とで成り立っています。

 マルクスは、〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟を述べ、そのなかで、「資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大する」ことを述べていますが、不破さんは〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟の内の〝新たな社会の形成要素〟だけを取りだして「『必然的没落』の客観的条件」と言い、〝古い社会の変革契機〟を見ることなく、「資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗」を「『必然的没落』の主体的条件」だと言って、これがマルクスの「『必然的没落』論の定式」だと言います。

 不破さんが〝古い社会の変革契機〟の形成を視野の外に置くのは、マルクスは恐慌について「資本主義が循環的に運動してゆく一局面であること、一回ごとに資本主義の危機が深まるわけではなく、恐慌は、前よりも高い所で経済的発展が進む新しい循環の出発点になる」ということを解明し、「資本主義観の大転換」をおこなったと述べ(『前衛』No903参照。)て、マルクスの「資本主義観の大転換」を捏造し、捏造したマルクスの虎の威を借りた不破さんが、「恐慌」のたびごとに資本主義は発展するとの見方に立って資本主義の発展をみることにより、資本主義の矛盾の深まり、〝古い社会の変革契機〟を正しく見ることができなくなってしまったためです。

 不破さんは、資本のグローバル展開による〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟がどのようになっているのかを見ようともぜず、資本主義の諸悪の根源は「利潤第一主義」だと言うだけです。前にも述べたように、不破さんがその「改訂」を自慢する現在の日本共産党の綱領には「労働者階級」という言葉は出てきますが、「社会変革の主体」という意味での出番はありません。そういう人が「社会変革の主体的条件を探究する」ことなど、逆立ちしても不可能なことで、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と正直(?)に白旗を振る以外ありません。

 

書かれなかった『資本論』の最後の章に私たちが書き込むべきこと

 だから、私たちが書かれなかった『資本論』の最後の章に書き込むべきことは、衆知を結集して、日本の現状をしっかり見て、資本のグローバル展開による〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟の変化を正しくつかみ、資本主義的生産様式を「解体」し、ブルジョア社会を克服するための階級闘争をすすめるための旗幟鮮明な日本革命の展望をつくりあげることです。

 そして、その実現のためには、旗幟鮮明な日本革命の展望を倦むことなく伝わるまで広く国民に訴え続けるとともに、その時、その場所で、より少しでも国民のためになることには躊躇することなく加担することです。

 これらをはっきりと党の旗に書き込むとともに、科学的社会主義の思想を捨て去り社会主義者のふりをして「自由の国」談義に現を抜かす不破さん、いまだ献身的に党のためにたたかい続ける団塊世代をだまし続け、日本共産党から革命の展望とそのために闘うエネルギーを奪い去り人々の結集を妨げ続けてきた不破さんに、科学的社会主義の思想にもとづく正当な批判をおこない、労働戦線から放逐することです。

 これらのことを、『資本論』の書かれなかった最後の章の〝現代〟の論究のなかに見いだすことは、不破さんの「マルクス『資本論』反面教師講座」の「解説」を『資本論』に照らして見てきた私たちにとって、時代が私たちに与えた義務とも言えるのではないでしょうか。

 

不破さんは、『資本論』にこれ以上泥を塗るのをやめろ、『赤旗』はニセ『資本論』の宣伝をこれ以上するのをやめろ!!

 不破さんは、『資本論』を革命の武器から改良主義の弁明書に変えるために、読者をこれ以上混乱させようとするのはやめるべきです。そして、「共産党」の幹部は勇気を出して、〝殿!ご乱心!〟と言って、不破さんを羽交い締めにすべきです。

 同時に、『赤旗』はマルクスの名を借りた不破さん監修のニセ『資本論』の宣伝を連日大々的に行なっており、5月(2020年)に入り、『資本論』のニセ「第二部」の宣伝を積極的に行なっていますが、そこには不破さんが二一世紀になって発見した「恐慌の運動論」をマルクスの「恐慌論」ででもあるかのように見せかけようとする意図が表明されています。

 不破さんは、このページの〈連載〉その2ですでに見てきたように、「第二章 生産資本の循環」の「解説」の中で、──「第二章 生産資本の循環」は生産資本の循環について論及する場で、利潤率の低下が直接恐慌を引き起こすとマルクスが考えていたなどという不破さんの創作を証明する場ではありませんが──「マルクスが最初に立てた運動論は、恐慌という形態での資本主義的生産の矛盾の爆発を、利潤率の低下の現象から説明し、それを社会変革の展望と結びつけることでした。マルクスはこの立場から、恐慌の運動論を確立しようとして、『五七~五八年草稿』から一八六四年後半の『資本論』第三部第三編の執筆まで努力を続けました」と言って、マルクスが利潤率の低下が直接恐慌を引き起こすと考えていたかのようにマルクスの考えをねじ曲げた上で、「確信の持てる理論展開には、ついに成功しませんでした。」と、一人相撲のマルクスの断罪を行なっています。

 そして、ここで不破さんがマルクスの新たな考えででもあるかのように持ち出したのが、不破さんが二一世紀になって発見した「『流通過程の短縮』を主眼とする恐慌の運動論」なる、資本主義以前からある商業信用にもとずく価値実現の短縮による見切り発車的な拡大再生産に恐慌の原因を求めるという──マルクスの、資本主義的生産様式のもとでの景気循環の中で貨幣資本が「市場」で「架空資本」化することによるバブル経済の破裂という、あくまでも資本主義的生産様式のもとでの景気循環を基礎に置く恐慌の捉え方とは似ても似つかぬ──矮小化された陳腐な「恐慌の運動論」なるものです。しかし、「『流通過程の短縮』を主眼とする恐慌」なるものは、マルクスの生きた時代と違って、現代では生産技術の向上によって基本的に克服されています。

 このようにマルクスの考えとも異なり、恐慌が「『流通過程の短縮』を主眼とする」などと言ったら御用学者にさえ笑われるような陳腐な「恐慌の運動論」なるものを、科学的社会主義の党を「自認」する「党」の機関紙で宣伝するのはもう止めるべきです。そうしないと、『赤旗』が科学的社会主義の党の機関紙でないことを自ら認めることになってしまいます。 

以上で、不破さんの「マルクス『資本論』反面教師講座」の「解説」を俎上に載せての科学的社会主義の思想の擁護のページは完結です。