AZ-1-4〈連載〉その4

国民のための経済がある、新しい共同社会を創るために、

不破さんのマルクス・エンゲルスと『資本論』の歪曲・捏造を暴き、

科学的社会主義の思想のエネルギーを取り戻そう

「国民のための経済がある新しい共同社会を創るために、科学的社会主義の思想を正しく知るための、不破さんの「マルクス『資本論』反面教師講座」の解説」(その4)

不破さんによって、『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想はどう変えられたのか、『資本論』第三部を中心にして、不破さんの「『資本論』探究」を軸に見てみましょう。(その2)

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『資本論』第三部(その2)

今度は、「第二五章」~「第三六章」の内容を中心に見てみよう

〈このページのポイント〉

 「架空資本」の本当の姿、モンスター性を見ることのできない不破さんは、「第二五章」の表題にケチをつけ、内容を「改作だ」と言い、「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説が含まれていることがわかるとおもいます」などと間抜けな「解説」を行ない、続けて、「第二七章」の表題にも噛みつきますが、内容をまったく理解していないことを自ら暴露します。「第三〇章」に至っては、「恐慌論の改変」といい、「エンゲルスの改作版」とまで誹謗します。

 私たちは、不破さんのこのような「第五篇」への誹謗と歪曲に騙されることなく、「第五篇」で論及されている、信用制度が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということの意味をしっかりつかむとともに、「貨幣資本」の行動をしっかりつかんで余すところなく暴露し、貨幣をコントロールすることの必要性を正しく理解することが必要です。

 これらのことを、頭の片隅において、このページを読み進んで下さい。

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不破さんの「第二五章 信用と架空資本」の「解説」への備えをしよう

 不破さんの「『資本論』探求〈下〉」は、わざわざ「(8)信用制度下の利子生み資本(その一)」という「章」を設けての14ページ(P81-94まで)におよぶ長いエンゲルスとマルクスへの悪口が終わって、やっと「(9)信用制度下の利子生み資本(その二)」という「章」の最初の「節」である「第二五章部分を読む」に入ることができました。

 しかし、この「第二五章部分を読む」も前の「章」に負けず劣らずあるのは悪口だけで、楽しみにしていた、「第二五章」の内容の「解説」などまったくありません。そこにあるのは、とにかく『資本論』にケチをつけたいとしか思えないような不破さんの、『資本論』の内容にもその現代的意義にも触れようとしない、「第二五章部分を読む」という詐欺まがいのタイトルの「解説」を装っての自説の展開です。

 ですから、私たちは、まず最初に、『資本論』に何が書かれているのかを見ることによって、不破さんの謬論への備えをし、そしてその後で、現代に生きる私たちがそこから何を学び、不破さんが何を学ばなかったのかを見ていきましょう。

 

エンゲルスは〝第二五章〟を第五篇後半部分全体の導入とみました

 マルクスは第二七章の〝むすび〟で、これまで「信用制度の発展」を「おもに産業資本に関連させて考察」してきたことを述べ、以下の諸章で「信用」を「利子生み資本そのものとの関連のなかで考察」すること述べています。

 これを踏まえて、エンゲルスは、この「信用制度の発展」の部分を①草稿「5)信用。架空資本。」全体の導入部分として、②「必要最小限の手入れ」──その結果、やむを得ず行なわれた第二五章と第二六章の編集──を行なうこととし、その最初の「章」である「第二五章」を「信用と架空資本」として編集し、第五篇の後半部分全体の導入の「章」とました。

※なお、「〈連載〉その3」に「第二五章~第二七章の要約等」のPDFファイルは添付してありますが、ここに重複添付します。

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エンゲルスの編集への「古典」研究家の間での重箱の隅を突っつくような議論への蛇足

 第二五章は、『資本論』の第一草稿の「5)」の次のような冒頭のパラグラフから始まります。

「信用制度とそれが自分のためにつくりだす、信用貨幣などのような諸用具との分析は、われわれの計画の範囲外にある。ここではただ、資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考慮しないでおく。」(大谷氏訳)

 この文章のエンゲルスの編集が、「古典」研究家の間で重箱の隅を突っつくような議論の的にもなり、そして不破さんもそれに悪乗りしていますので、一言ご説明させていただきます。

 ご覧のとおり草稿は、信用制度とその諸用具との分析は、「ただ、資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけ」に留め、その詳しい分析は「われわれの計画の範囲外にある」ことを述べています。だから、エンゲルスは草稿の「分析」を「詳しい分析」として、より分かりやすくしました。これが一点めです。

 もう一つは、エンゲルスは「われわれはただ商業信用だけを取り扱う」というフレーズの「商業信用」という単語を「商業・銀行業者信用」に変えた点です。その理由は、本来の「商業信用」(再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用)だけを意味するとの誤解を避けるためです。そして、この「商業・銀行業者信用」という言葉は「大月版」等では「商業信用と銀行信用」と訳されています。なお、大谷氏も、ここでの「商業信用」という単語は、「私的信用一般」を指していて、「再生産に携わっている資本家が互いに与え合う信用」だけを意味するものではないことを認めています。

 このように、これらのエンゲルスの補足編集は極めて適切なものと思われます。

 

「第二五章」で述べられていること、是非、「第二五章」を読んでください

 上記の文章で始まった「第二五章」は、第三五章までの導入のための「章」として、「銀行制度」の基での「信用」が〝貸付資本〟という「monied Capital」を生み出すが、それは「現実資本」ではなく「架空資本」であることをMEGAでいう「総論」部分と「補録」の約半分を使って、エンゲルスによって〝編集〟されました。

 第25章は、エンゲルスの補足によって「恐慌」にまで踏み込んでいますが、信用制度の確立の経過と役割及び信用制度の抱える資本(貨幣)創出機能、そのもとでの資本の行動について、資本の行動を規定する「信用」の機能の説明とともに、第二二章の「(後の仕上げのための覚え書)」で簡単にふれられていたことと、第二四章の「利子生み貨幣資本」の「資本の神秘化」、あるいは、将来の儲けから現在の「資本」の価値をはかる、「資本」の「架空性と投機性」とが、資本の行動と「信用」の機能を通じて、資本主義的生産の循環過程を支配する様子が十分に展開され、マルクスの草稿の趣旨が十分に生かされた編集となっています。

 みなさんは、是非、「第二五章」を読んで下さい。そして読んだ後、ホームページ26-2-4「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その4)「『資本論』第三部を読む」を検証する。(その2)」PDFファイルの20~26ページを見て「第二五章」の意義が確かめて下さい。

 

けっして無駄ではない「第二六章」

 そして、これに続く「第二六章 貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響」は「第二五章」の続きで、貨幣資本の蓄積に関する「通貨理論論評」等からの抜粋、それを受けての、大谷氏の言う「捜論」部分での、『銀行委員会』での問答の引用を通じての、ノーマンやオーヴァストーン(主としてオーヴァストーン)の言い分を批判しています。「貨幣資本」とはどのような「資本」かということの理解を一層深めさせてくれるものとなっており、面倒かもしてませんが、是非、読んで下さい。けっして無駄にならないはずです。

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不破さんは、「信用と架空資本」という表題の「意図」も分からないくせにマルクス・エンゲルスを非難する

 不破さんは、大谷氏の受け売りかどうか分かりませんが、マルクスは第五篇の後半部分全体に「5)信用。架空資本。」という表題をつけたのに、第二五章を「信用と架空資本」というのはおかしいと言い、「エンゲルスの誤った編集ぶりを示すもの」だと非難します。

 そのくせ自分では、マルクスの草稿の「未完成さ」を強調し、力余って、マルクスを当てこするかのように「マルクスがこの草稿の全体に、『信用。架空資本』という表題をつけた意図を推定するのはなかなか難しいことですが」などといって、図らずも、第五篇全体が何を言っているかも分からないことを告白します。このように、何もわからないくせにエンゲルスを誹謗しておいて、「『信用』という言葉でこの部分で研究する経済的舞台を表現し、『架空資本』という言葉でそこで活動する主役──銀行に集積され、そこを通じて再生産過程に投入される貨幣資本(m)── を表現したものと理解することも、一案ではないでしょうか。」(P95)と表題の解釈を出して、平然としています。(実はこの理解が、不破さんの理解力の無さをよく示しており、間違っているのですが、そのことはもっと後でふれます。)

 

不破さんは、エンゲルスが分かりやすい編集をすると、「全体の論旨を読み誤らせる改作だ」という

 続けて不破さんは、一部大谷氏の受け売りのようですが、「まず、最初の文章ですが、重要なことは」として、第二五章の草稿の最初のパラグラフでマルクスは「信用制度そのものの分析を研究対象としないことを言明している」のに、エンゲルスが「『立ち入った』という一句をくわえ、第五篇での分析の主題についてのマルクスの限定づけを、あいまいにし」たことは、「全体の論旨を読み誤らせる改作だ」と述べ、「信用制度についての解明は、利子生み資本──銀行に集積され再生産過程に投入される貨幣資本(m)の活動舞台として、必要な範囲内での概説にとどめられています。」と言います。

 エンゲルスは、先ほど見たように、草稿で論及されているが「必要な範囲内での概説にとどめられている」から、「立ち入った」論究はしないと補足しているのに、不破さんは、ヤクザが因縁を付けるに等しいような非難をエンゲルスに浴びせます。

 

不破さんの第二五章の解説は、「第二五章」には「簡潔で要をえた解説が含まれていることがわかる」という間抜けな「解説」だけ

 そして不破さんは、「まず、」と言って第一の矢を放ちましたが、二の矢三の矢は見つからなかったらしく、不破さんの「第二五章部分を読む」は、〝打ち方止め!!〟となり、「全体の論旨」がどのように「読み誤ら」されたのかも言わず、「本文には、銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説が含まれていることがわかるとおもいます」とまったく内容に触れないだけでなく、マルクス・エンゲルスの資本主義的生産様式の社会における信用と架空資本の暴露を「簡潔で要をえた解説」などと分かったかのようなことを言い、真剣に科学的社会主義の経済学を学ぼうとしている人たちに向けての解説とは思えない「解説」(?)をして「第二五章」の解説を終えています。

「全体の論旨を読み誤らせる改作」とエンゲルスを誹謗しながら、「全体の論旨」について語らない不破さんの無責任さ

 不破さんに、「全体の論旨を読み誤らせる改作」とは〝何なのか〟の説明ができないのであるならば、不破さんは、せめて、第二五章の「全体の論旨」の説明くらいは行なうべきでしょう。しかし不破さんは、①ここでの研究対象すら明確にせず「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」が「含まれている」としか言わず、②第二五章でのマルクス経済学としての内容・到達点などまったく明らかにぜず、「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」とはマルクスのどのような論究だったのかも、サッパリ分かりません。だから私は、先ほど「ヤクザが因縁を付けるに等しいような非難」と、つい、きつい言葉を使ってしまいました。

 

「架空資本」とは何かをまったく理解していないことを告白した不破さん

 不破さんは、エンゲルスが第二五章に「信用と架空資本」というタイトルを付けて「信用と架空資本」の導入の章にするのは「エンゲルスの誤った編集ぶりを示すもの」だと言ってエンゲルスを非難し、資本主義的生産様式の社会における「架空資本」の役割についての考察など我れ関せずという態度でエンゲルスの編集を否定しておいて、「『架空資本』という言葉でそこで活動する主役──銀行に集積され、そこを通じて再生産過程に投入される貨幣資本(m)── を表現したものと理解することも、一案ではないでしょうか」と、「架空資本」は「再生産過程に投入される」ものという一面的で誤った認識を読者にもたせることによって、自らの無知を告白しました。

 

「架空資本」の本当の姿、モンスター性を見ることのできない不破さん

 「第二五章」を「銀行の機能や役割についての簡潔で要をえた解説」としか理解できない不破さんは、第二五章と第二六章をまともに読もうとしません。そのために、「架空資本」のもつ「架空」性を正しく理解することができませんでした。不破さんは、マルクス・エンゲルスにヤクザのようにいちゃもんを付けるだけで、『資本論』から真摯に学ぼうとせず、「架空資本」=「銀行に集積され、そこを通じて再生産過程に投入される貨幣資本(m)」(P95)あるいは「利子生み資本」=「銀行に集積され再生産過程に投入される貨幣資本(m)」という誤った認識を得てしまったため、「架空資本(「利子生み資本」)」の本当の姿、モンスター性を見ることができなくなってしまいました。

 不破さんの「第二五章」への、このような接し方、学び方は、不破さんの現代の資本主義を見る目の狭隘さ、それは、不破さんが二一世紀になって発見した「恐慌の運動論」と一体の狭隘さの原因でもあり結果でもあります。

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マルクス経済学の観点で「貨幣資本」関して、一寸、見てみましょう

 「貨幣」はその使用法により、①生産的資本の循環過程の中にある「貨幣」としての「貨幣資本」と②「利子生み資本」として市場で需要と供給にもとづいて取引される「貸付可能な貨幣資本」(moneyed capial)という二つの異なる機能をもつ「資本」になることができます。株式や債券と交換された最初の「貨幣」は、一般的に、生産的資本の循環過程の中に入り「現実資本」(=実物資本=生産的資本)を形成します。不破さんは、このことだけを言っています。

 しかし、「利子生み資本」がモンスターとして、「架空資本」として魔力を発揮するのはここからです。この、市場に出た、所有権原を表す「株式」や「債券」は「利子生み証券」であり「架空資本」です。なぜ「利子生み証券」を「架空資本」と言うのかといえば、その「利子生み証券」の資本価値は、生産的資本の循環過程の中にある「貨幣資本」と違って、その請求権の市場価格で決まる幻想的な資本価値だからです。この「架空資本」の架空性が遺憾なく発揮されたのがリーマン・ショックでした。

 

リーマン・ショックとリーマン・ショックについての不破さんのトンチンカンな見方

 リーマン・ショックのそもそもの原因はサブプライムローンにあります。

 まずはじめに、サブプライムローンを使って住宅を購入した人の住宅の資産価値が上がったために、ローンを組んだ人が儲かるとともにそのローンを組み込んで作られた債券を買った人も「架空資本」のプラスの架空性の恩恵を受けて大儲けし、資産価値上昇の好循環が生まれました。そのために、内閣官房内閣審議官などを歴任した水野和夫氏などは、当時、『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(2007年)で先進国は資産価格を上げる政策を進めなければならないと主張するほどでした。しかし、それが永遠に続くわけではなく住宅の資産バブルがはじけ、その結果サブプライムローンを組み込んで作られた債券が「架空資本」の負の架空性を発揮して暴落し、リーマン・ブラザーズの経営破綻をきっかけに、資本主義の100年に一度の危機といわれるような「危機」に発展してしまいました。「利子生み証券」の「架空資本」としての「架空」性が遺憾なく発揮された出来事でした。なお、水野氏の名誉のために申し上げると、2007年に上記のような考えを持っていた氏は、『資本主義の終焉と歴史の危機』(2014年)では、まだ「資本主義の先にあるシステムを明確に描く力は今の私にはありません」とのことですが、資本主義の限界を悟り「資本主義の終焉」に行き着くところまで進歩しています。

 しかし、不破さんは、この「架空資本」が資本主義的生産様式における「産業循環」で果たす役割をまったく理解できません。だから、不破さんは、『前衛』(2015年1月号)で、リーマン・ショックについて、「この経済危機は、文字通り、『過剰生産恐慌と金融危機の結合』だったのです」と、二一世紀になって大発見した「恐慌の運動論」、つまり「架空の需要=恐慌」説で「説明(?)」しています。しかし、ご覧のとおり、リーマン・ショックが明るみに出したのは、かつての様な「架空の需要」にもとづく「過剰生産」などではありませんでした。

 このように不破さんは、「架空資本」についてのマルクスとエンゲルスが教えてくれた知見を学ぼうとせず、自ら発見した「架空の需要=恐慌」説にしがみつき、現代を解明することができないでいます。

 なお、「架空資本」の架空性と同様なものとして、新会社を次々に作ってその将来価値を「時価会計」に計上して帳簿上の利益をあげるという、エンロンがおこなったような行為もあります。

※なお、不破さんの「恐慌の運動論」と「リーマン・ショック」についての詳しい説明は、ホームページ4-19「☆不破さんは、マルクスが1865年に革命観・資本主義観の大転換をしたという、レーニンも気づかなかった大発見を、21世紀になっておこない、マルクスの経済学をだいなしにしてしまった。」を、是非、参照して下さい。

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おまけ:第二六章でのエンゲルスの挿入文に関する青山のコメント

  『資本論』(大月版P544~547)に挿入されたエンゲルスのコメントのなかで、貨幣の前貸・資本の前貸等について述べられている部分で同意できない点がありますので、申し上げさせていただきます。

 エンゲルスは、①担保なしの貸付は貨幣の前貸であり資本の前貸であるといい②担保ありの貸付は貨幣の前貸ではあるが資本の前貸ではないといい③手形の割引は前貸ではなく売買だといいます。ここでいう「資本の前貸」が、生産的資本・現実資本の増加のための資本の前貸という意味であるとすれば、エンゲルスの①と②の区分は正しくありません。なぜなら、担保の有る無しは「資本の前貸」かどうかには関係ありません。「担保」された〝モノ〟は、ただ「担保」とされているだけで、資本としてその人のもとで生きています。「資本の前貸」であるかの基準は、「貨幣の前貸」が一時的な支払手段としてではなく、商品の購入として、それも消費財の購入ではなく資本財の購入の手段であるかどうかにあります。

 なお、エンゲルスは、第28章(P582-583)でも同様な主張を行っていまが、ここでは「有価証券」を担保に入れ、その有価証券は「準備資本として機能するべき任務をもっていた」との前提があるので、この場合は「貨幣の前貸」ではあるが「資本の前貸」ではありません。

 

突然のおまけ、マルクスが資本主義社会を捉える〝キー〟となることば

 『資本論』には、資本主義的生産様式の経済と社会を特徴づける〝キー〟となる次のような言葉、文章が繰り返し出てきます。是非、頭に入れておいて下さい。

経済──「資本の制限を越える拡大要求」と「資本が拡大の制限を設ける」

 資本の制限を越える拡大要求

 絶えず拡大する市場がなければ資本主義は行きづまる

 資本が拡大の制限を設ける

 資本が経済発展の桎梏になる

社会──「新たな社会の形成要素」と「古い社会の変革契機」

 新たな社会の形成要素

 社会的生産諸力と社会的生産の発展、独占

 古い社会の変革契機

 私的資本主義的生産による「生産の無政府性」とその矛盾の現れである恐慌など私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾と労働者階級の運動の前進

矛盾── 私的資本主義的生産による矛盾

 生産と消費

 資本主義的生産に内在する矛盾で、マルクスは「基本的矛盾」と言った

 生産の社会的性格と取得の私的性格

 分配関係・生産関係と社会的生産力とのあいだの矛盾で、エンゲルスは「根本矛盾」と言った

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「第二七章」で何が述べられているのか

 不破さんの「第二七章 資本主義的生産における信用の役割」でのエンゲルスに対する支離滅裂な批判を見るまえに、「第二七章」で何が述べられ「第二七章」から私たちは何を学ばなければならないのかを見てみましょう。

 第二七章は、「信用制度の発展」と産業資本の発展の問題に立ち戻って、「資本主義的生産における信用の役割」だけでなく、「信用制度の発展」による他人の資本や他人の所有に対する絶対的な支配力の獲得による「資本所有の潜在的な廃止」の問題まで述べられています。

 マルクス・エンゲルスは、第二七章の最後で、「なお前もって次のことを言っておきたい」として、①「信用制度が過剰生産や商業での過度な投機の主要な槓杆として現われるとすれば、それは、ただ、その性質上弾力的な再生産過程がここでは極限まで強行されるからである」こと、②「資本主義的生産の対立的な性格にもとづいて行なわれる資本の価値増殖は、現実の自由な発展をある点までしか許さず、したがって実際には生産の内在的な束縛と制限とをなしている」が「この制限は絶えず信用制度によって破られる」ということ、③このように、「信用制度は生産力の物質的発展と世界市場の形成とを促進する」が、「これらのものを新たな生産形態の物質的基礎としてある程度の高さに達するまでつくり上げるということは、資本主義的生産様式の歴史的任務」だということ、④「同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進する」という「信用制度」の役割・意義を述べます。

 そして、最後に、この「信用制度に内在する」㋐資本主義社会を(架空資本によって──青山)「最も純粋で最も巨大な賭博・詐欺制度にまで発展させて、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格」と、㋑「新たな生産様式への過渡形態をなすいう性格」との「二面的な性格」が、「信用の主要な告知者に山師と予言者との愉快な雑種性格を与える」ことを述べて、「第二七章」は結ばれています。(大月版④P562-563参照。)

 不破さんの援軍であるはずの大谷氏も、「第二五章本文部分と第二七章とを『信用制度概説』としてつかんでみる」ことによって、「第二五章本文部分は、信用制度とはどのようなものかを述べ、第二七章はその信用制度がどのような役割を果たすのかを述べている」ことが分かると言っていますが、「第二七章」のテーマは「資本主義的生産における信用の役割」ですが、マルクスは、しっかりと、信用制度が「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ことを述べ、「第三六章」の結びの文章で述べている、「資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろう」という認識と共通の問題意識を持って論を進めています。

 

『資本論』の解説者を名乗るものがやるべきこと

 ですから、ここで、『資本論』の解説者なるものを名乗るのであれば、「古い生産様式の解体の諸要素」とは何なのかを、文脈のなかでしっかりと読者に示さなければなりません。「古い生産様式の解体の諸要素」とは、『資本論』の第一部で述べられている「私的資本主義的生産による『生産の無政府性』とその矛盾の現れである恐慌など私的資本主義的生産がもたらす様々な矛盾と労働者階級の運動の前進」のことであること、そしてそれを現代日本に移し替えて考えると、「私的資本主義的生産による『生産の無政府性』とその矛盾の」最大の「現れ」とは、一方の極での対外直接投資・証券投資の拡大──直接投資の残高は185兆円(2018年9月末)で直接投資の収益は10兆308億円(2018年)、証券投資の残高は473兆円(同年9月末)で証券投資の収益は9兆8529億円──であり、他方の極での「産業の空洞化」とそれがもたらす低賃金・不安定雇用・低生産性・少子化・社会保障制度の崩壊であり、それにもかかわらず「労働者階級の運動の前進」が実現していない最大の弊害は、「前衛党」を名乗る政党がマルクスの言う「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の水準に転落してしまっていることであること、このことを不破さんはしっかりと読者に説明しなければならないのです。

 

不破さんは、第二七章の位置づけと内容をまったく見ることが出来ない

 不破さんが「第二七章」についての「解説者」としての責任を果たしていないことは、すでに述べましたが、「『資本論』探求〈下〉」の第二七章の「解説」の「信用問題のこれまでの考察の総括」という「節」の冒頭で、エンゲルスに次のように噛みつきます。

 「第二七章部分にエンゲルスがつけた『資本主義的生産における信用の役割』という表題は、これから踏み入ろうとする第五篇全体の研究の主題そのもの」なのに、「その本格的な研究に先だつ序章的な位置にある」第二七章を「資本主義的生産における信用の役割」というのは「あまり適切なものではありません。」(P98)と。

 しかし、このエンゲルスに対する不破さんの「噛みつき」は、先ほど見たように、第五篇全体のなかで占める第二五章から第二七章までの役割とその内容をまったく理解していないことを示しています。「第二七章」は、産業資本の発展にあわせての「信用制度の発展」という文脈での「資本主義的生産における信用の役割」を述べており、だからこそ、先ほど見たように、不破さんが援軍と頼る大谷氏も、「第二七章はその信用制度がどのような役割を果たすのかを述べている」と言っているのです。

 

不破さんの、エンゲルスに対する支離滅裂な批判

 本当に不破さんは、困ったものです。

 何にでも噛みつく「噛みつきガメ」のように噛みつく不破さんは、〝むすび〟の部分のエンゲルスの編集に噛みついて、馬脚を現します。

 先ほど見たように、不破さんは、「第二七章部分にエンゲルスがつけた『資本主義的生産における信用の役割』という表題は、これから踏み入ろうとする第五篇全体の研究の主題そのもの」と言っていました。しかし、「項」が五ページ変わった先では、今度は、「マルクスが研究の主題を『利子生み資本そのものの考察』と規定した」のに、エンゲルスの編集によって、「引き続き信用が研究の主題であるかのようにその規定をゆがめた言い換え」をされてしまったと言います。

 不破さんは、まず最初にエンゲルスを誹謗するために、「第五篇全体の研究の主題」は「信用」だと言っていたのが、今度はまたエンゲルスを誹謗するために、「引き続き信用が研究の主題であるかのように」言い換えたと言うのです。こんなご都合主義には、いつも鼎談に付き合う「介さん」「角さん」と思われる二人の人物以外は、誰もついて行くことなどできないでしょう。

 

マルクスの言う「利子生み資本そのものの考察」の意味と、天にツバする不破さん

  不破さんが噛みつくためにもちだした文章でマルクスが言っているのは、「利子生み資本そのもの──信用制度による利子生み資本への影響、ならびに利子生み資本がとる形態──の考察」、つまり、資本主義的信用制度のもとにおける「利子生み資本」の考察、つまり、資本主義的生産様式のもとでの〝架空資本〟の考察を行なうと言っているのであって、不破さんのように没歴史的な「利子生み資本そのものの考察」なるものを行なうなどと言っているのではありません。マルクスは、資本主義的信用制度と一体不可分なものとしての「利子生み資本」の考察をすると言っているのです。

 だから、不破のように、資本主義的信用制度を抜きにした「利子生み資本そのものの考察」なるものがマルクスの「研究の主題」ででもあるかのようにようにいうことは、それこそ、「マルクスの考察の本旨」を見誤り、第二五章から第三五章までを「信用。架空資本」としたマルクス・エンゲルスの意図に反するものと言えます。

 不破さんはエンゲルスの文章の言葉尻を捉えてエンゲルスにツバをかけようと天にツバして、『資本論』に書かれていることについての自らの理解力のなさを暴露してしまいました。

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結局、資本主義の将来についてまったく分からないという不破さん

 なお、この「『資本論』探求〈下〉」の第二七章の「解説」には不破さんのエセ「マルクス主義者」としての面目を躍如させる名文がもう一つありますので紹介します。

「信用制度が協同組合工場の発展を助けるというマルクスの予見は実現しませんでしたが、株式企業の通過点的意義についての予見がどういう意味をもつかは、今後の世界的な変革の展望のなかで試される問題点の一つとなるでしょう。」(P101)

 自分は科学的社会主義の思想を理解し、その実現のために心血を注いでいると信じている人で、この迷文を読んで、不破さんをエセ「マルクス主義者」だと思わないとしたら、残念ながら、もう一度エンゲルスの『フォイエルバッハ論』からでも科学的社会主義の思想を学び直した方がよいかもしれません。

 その説明をするまえに、不破さんのエセ「マルクス主義者」ぶりをあらわすもう一つの名文を紹介します。

 不破さんは、『前衛』2015年4-5月号を占拠して執筆した「社会変革の主体的条件を探究する」という迷論文の中で、「この危機的な世界で、社会変革が、現実に、いつどこで、どういう形態で起こるかの予測はできません」と〝古い社会の変革契機〟をまったくつかむことのできないエセ「マルクス主義者」であることを自慢しています。

 グローバル資本の行動がもたらす矛盾・社会変革の客観的条件をまったく探究することができず「賃金が上がれば経済はよくなる」などといっている人が「社会変革の主体的条件」を「探究」するのですから、世の中のことはよく分からないと告白するのは正直でよいことです。しかし、そういう人には科学的社会主義を語る資格はありません。このように、不破さんは根っからのエセ「マルクス主義者」のようです。

 さて、本題に戻ると、「株式企業の通過点的意義についての予見がどういう意味をもつかは、今後の世界的な変革の展望のなかで試される問題点の一つとなるでしょう」とは、恐れ入ります。不破さんの、エンゲルスを誹謗しつつ行なわれた、もっともらしい『資本論』からの抜粋と「解説」は、煎じ詰めると、①マルクスが明らかにした「株式企業の通過点的意義」についての「意味」などまったく分からず、②「株式企業の通過点的意義」とは「どういう意味をもつ」「予見」なのか「今後」「試される問題点の一つとなる」と言うのです。

 不破さんの言う「株式企業の通過点的意義」とは、「株式企業」は資本家がいなくても成立するということ、「株式企業」の資本は生産のための諸要素を準備するだけであるから「株式企業」を資本が支配するのは資本の越権行為であるという認識の芽ばえを育むということです。だから、マルクスとエンゲルスは私たちに、資本の私的所有による資本主義的生産様式の社会における権利を剥奪して、新しい社会の経済統治機構をどのようなものに構築していけばよいのか、つまり、新しい生産様式の社会をどのようなものに構築していけばよいのかを真剣に考えろと言っているのです。それを、不破さんのように、「株式企業の通過点的意義」とは「どういう意味をもつ」「予見」なのか「今後」「試される問題点の一つとなる」などと言ったのでは、マルクスとエンゲルスの論及が台無しになってしまいます。

 「賃金が上がれば経済はよくなる」といい、「自由の国」とは〝余暇〟のことだと言う「未来社会」論を得意になって吹聴している不破さんが、「今後の世界的な変革の展望」などまったくもっていないことは明らかですが、自分の無知をこれだけ立派な文章に仕上げることのできる希有の才能の持ち主であることには驚くばかりです。

 「無知」といえば、不破さんは「信用制度が協同組合工場の発展を助けるというマルクスの予見は実現しませんでした」と言い切っていますが、国家独占資本主義国の中国の『華為技術』や日本の各種「生協」などをどのように見ているのか、あるいは、何も見ていないのかは、この「『資本論』探究〈下〉」の「マルクスと日本」というばかばかしい文章に示された不破さんの見聞の広さ(たまたま自分が見た本に書いてあることをその著者のオリジナルな考えだと思い込む偏狭な知識)からでも推し測る以外に、知る由もありません。

※なお、不破さんの『前衛』2015年5月号での発言の詳しい説明は、ホームページ4-20「☆『社会変革の主体的条件を探究する』という看板で不破さんが『探究』したものは、唯物史観の否定だった」を、「自由の国」とは〝余暇〟のことだと言う不破さんの発言についての詳しい説明は、ホームページ4-26-1-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その2)」を参照して下さい。

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マルクス・エンゲルスが「第二八章 流通手段と資本 トゥックとフラートンとの見解」で教えていること

 不破さんの「第二八章」と「第二九章」の「解説」を見るまえに、それぞれの「章」でマルクス・エンゲルスが何を私たちに教えているのかを見てみましょう。

 マルクスは第二七章の〝むすび〟で、「第二八章」以降の諸章で「信用」を「利子生み資本そのものとの関連のなかで考察」すること述べていますが、「第二八章」はそのための橋渡し的な「章」で、資本主義的生産様式における信用制度の中核を担う「利子生み資本」の本格的な論究は「第二九章」から始まります。

 「第二八章」は、貨幣が流通手段、価値表現、資本の循環形態の一局面である貨幣資本、利子生み資本としての貨幣資本という機能をもっていることを述べ、トゥックやウイルソンが通貨と資本との区別と流通手段がそのときどきにもつ機能の区別を混乱させて、通貨の機能を㋐資本の流通という機能と㋑通貨の流通という機能とみていることを述べ、その混乱ぶりを指摘しています。

 貨幣のもつ、流通手段、価値表現、資本の循環形態の一局面である貨幣資本、利子生み資本としての貨幣資本という機能をしっかりつかむことによって、「利子」は貨幣のどのような機能によって生みだされるものか、「資本の過多」とは何か、「金融恐慌」はなぜ起こるのか、等これから論究していく課題を混乱なくつかむことができます。

 このようにエンゲルスは、「現にあるものをできるだけ整理することに限り、ただどうしても必要な補足だけを加えるということしかしなかった」という編集方針で、「第二八章」を草稿の順序通りに配置し、その後の論及の理解を助けられるような編集を行ないました。

※なお、「第二八章」のより詳しい概要等のPDFファイルを添付します。お役立て下さい。

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第二八章のあらすじと大谷氏の主張等.pdf
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「第二九章 銀行資本の諸成分」の要約と現代の私たちが留意すべき点

 「第二九章」は、銀行資本の構成について述べ、蓄積された貨幣資本の転化形態である「利子生み資本」の基本的な特徴──貨幣資本の蓄積の大きな部分を占め、資本主義的信用制度のもとで二倍にも三倍にもなった「幻想の産物=支払がその子(利子)とみなされる資本」に転化し、その信用制度に決定的な影響をあたえるという──を説明し、「利子生み資本」は、ただ現実の収入によってだけでなく予想され前もって計算された収入によって規定された市場価格をもつ、その価格が独特な運動をし独特な定まり方をする商品となるのこと、この商品の市場価格は、その権利名義によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動するから、ある程度まで投機的であること、そのために、貨幣市場の逼迫の時期には「利子生み資本」の価格は二重に下がり、資本主義的信用制度は対応できないことなど、「利子生み資本」の「架空性」等、第三〇章以降の展開のベースとなる大切な論及がなされています。

 そして、今後の展開の中で分かることですが、貸付可能な貨幣資本の蓄積は、再生産過程の現実の拡大に伴って信用制度が拡張されるごとに、それにつれて増大せざるをえないので、資本主義的生産様式が延命されればされるほどその役割は大きくなり、「利子生み資本」の「架空性」は資本主義経済を翻弄することになります。

 だから、資本主義的生産様式に必然の産業循環の真の姿を正しくつかむためにも「利子生み資本」の「架空性」を正しく認識しておくことが必要です。

※「第二九章」のより詳しい概要等のPDFファイルを添付しますので、お役立て下さい。

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3-29第三部「第二九章」の抜粋・概略等.pdf
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不破さんのマルクス経済学への理解度を示す第二八章と第二九章の「解説」

 それでは、次に、「『資本論』探求〈下〉」の「(10)信用制度下の利子生み資本(その三)」という「章」での不破さんの第二八章と第二九章の「解説」を見てみましょう。

 まずはじめに、不破さんは、最初の「二つの『経済学的論評』」という「節」で、第二八章の「テーマは、トゥックとフラートンのあいだの論争問題」で、第二九章の「テーマは、銀行資本の主要成分が資金的な実態をもたない架空の資本であることの解明で、本論への予備的な性格をもった部分なので、」「説明は割愛」すると言います。

 しかし、「第二八章」のテーマは「トゥックとフラートンのあいだの論争問題」などではありません。貨幣の機能についてのトゥックやウイルソンやフラートンの混乱した考えを紹介し、貨幣のもつ上記の機能に論及したもので、「第五篇」を読み進むうえで、私たちの理解をたすけてくれる、必要な「章」です。

 そして、「第二九章」も、説明を「割愛」されるべき章ではないことは先ほど見たとおりです。

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貨幣資本は再生産過程にのみ投入されると思い込んでいる不破さんは、なんとかしてマルクスの論究と自論との折り合いをつけようと努力する

 「第三〇章 貨幣資本と現実資本Ⅰ」からはじまる、信用制度のもとでの、「現実の資本」と「貨幣資本」の運動が織りなす産業循環についてのマルクスの論究をまえに、自論との折り合いをどのように付けたらよいのかわからず、立ちすくんだ不破さんは、「第三〇章」~「第三二章」の部分は「貨幣資本(m)の投入が再生産過程と恐慌の問題にどのような影響を及ぼすかを大きな主題とした」ものであるが、「ここでは、問題をとらえる筋道の基本点の解説にとどめます」と言ったあと、「貨幣資本(m)の投入が再生産過程、とくに恐慌問題におよぼす影響という問題の研究にあたって、マルクスは二つの視角をもっていたと思います。一つは、『流通過程の短縮』を主眼とする恐慌の運動論からの視角であり、もう一つは、先ほど見た、信用制度が過剰生産と過剰投機を激発する梃子となり、恐慌という形態での矛盾の強力的爆発を促進する、という視角です。」(P106)と述べて、マルクスの論究と自論との折り合いをつけようと努力します。

 

しかし、不破さんの言っていることは無茶苦茶です

 二一世紀になって「恐慌の運動論」を発見して、資本主義観も革命観も変わった不破さんは、リーマン・ショックを含め何でもかんでも「恐慌の運動論」だと言っていたのが、マルクスの論究と自論との折り合いをつけようとして、急に、「マルクスは二つの視角をもっていた」と言い出しました。

 しかし、言っていることが無茶苦茶です。

 まずはじめに、不破さんは「貨幣資本(m)の投入が再生産過程、とくに恐慌問題におよぼす影響という問題の研究」と言っていますが、これまで何回か指摘してきたように、マルクスは「貨幣資本」の活動の場を「再生産過程への投入」に限った問題設定などしていません。

 そして、「信用制度が過剰生産と過剰投機を激発する梃子となり、恐慌という形態での矛盾の強力的爆発を促進する」という「信用制度」の中身は、「第二五章」でのべられている、「流通過程の短縮」のための「生産者や商人どうしのあいだの相互前貸」から発展した「信用制度」の側面と、貨幣取引業の発展が利子生み資本の管理という「信用制度」のもう一つの面を発展させ、銀行に集中された貨幣を「利子生み資本」という形の「架空資本」へ転化させた側面との、両面を含んでいます。

 だから、「二つの視角」と言うのは誤りで、「『流通過程の短縮』を主眼とする恐慌の運動論」なるものは、「信用制度が過剰生産と過剰投機を激発する梃子となり、恐慌という形態での矛盾の強力的爆発を促進する、という視角」の一部を構成するものです。マルクスは「第二五章 信用と架空資本」と「第二七章 資本主義的生産における信用の役割」でそのことを述べているのです。だから、独立の「恐慌の運動論」なるものなど、存在しません。だから、不破さんがいくらマルクスの論究と自論との折り合いをつけようとしても、無理なのです。

 

不破さん、黙して語らず

 だから不破さんは、ここで「問題をとらえる筋道の基本点の解説にとどめ」ただけで、その後、マルクスの「二つの視角」については、まったく、語ることができません。黙して語らず、です。

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不破さんの「解説」の「不破流の試み」を行なうための完璧な文章

写真は天地を逆にしてあります。

 第三〇章以降の解説について、不破さんは、「マルクスのここでの考察は、いろいろと錯綜しており、筋道をたどるのは容易ではありませんが、恐慌の運動論を基礎に置きながら、貨幣資本の投入がどういう状況の下で『資本のプレトラ』あるいは過剰投機といった事態を生み出し恐慌の様相を激化させるのか、という点に、研究の焦点の一つがあったことは、間違いないと思います。以下の説明は、その観点からⅢ)を解読する不破流の試みとして、読んでいただければ幸いです」と、「解説」の「不破流の試み」を行なうための完璧な文章を書いています。

いつもながらの不破さんのマジックに、だまされないで下さい

 しかし、この文章で不破さんが言っていることは、マルクスの「考察」は、「筋道をたどる」のが容易ではないから、不破さんが創作した「恐慌の運動論を基礎に置きながら」「不破流の試みとして」『資本論』を「解読する」というのです。

 不破さんは、「信用制度が過剰生産と過剰投機を激発する梃子となり、恐慌という形態での矛盾の強力的爆発を促進する」という産業循環の一部を構成するに過ぎない、自ら創作した「恐慌の運動論」に市民権を与え、「恐慌の運動論」を基礎に置いて『資本論』を「不破流の試み」で「解読する」というのです。

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まずはじめに、マルクス・エンゲルスの『資本論』の筋道を見てみましょう

 このような「不破流の試み」での「解読」を見るまえに、マルクス・エンゲルスの『資本論』がどのような筋道をたどっているのか、このあと見ていく「第三六章 資本主義以前」までについて、『資本論』で述べられている内容を簡単に見てみましょう。

 「第三〇章 貨幣資本と現実資本Ⅰ」は、主として、「産業循環」のなかでの「現実の資本」の行動と第二九章で見た「銀行資本の諸成分」の動きと信用の展開(商業信用と利子生み資本の膨張と収縮)について、つまり、産業循環過程をつじて貨幣資本と現実資本とが織りなす資本主義的生産様式の経済・社会の発展を総合的に論究しており、その前提としての、商業信用とその延長線上の「商業証券、手形」のより詳しい論述もおこなっています。

 続いて、「第三一章 貨幣資本と現実資本Ⅱ(続き)」は貸付資本の量、「貨幣資本の蓄積」の変化の原因と結果とその影響等を考察するとともに、貸付可能な貨幣資本の蓄積は、再生産過程の現実の拡大に伴って信用制度が拡張されるごとに、それにつれて増大せざるをえないことを述べています。

 次に、「第三二章 貨幣資本と現実資本Ⅲ(結び)」は、貨幣資本の蓄積方法と産業資本家と貨幣資本家について、貨幣資本の過剰について、利子率について、逼迫期の貨幣資本と商品と恐慌について、そして最後にオーヴァストーンの誤りについて述べられています。

  そして、第五篇の最後の「第三六章 資本主義以前」の最後の文章で、マルクスとエンゲルスは未来の「結合労働の生産様式」の社会は「貨幣資本」のなくなった、搾取のない社会であることを示します。

 私たちはこのあと、第三六章まで見ていきますが、その中で、資本主義的生産様式の基での信用制度が、社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」という「第五篇」の学習の意義をしっかりつかむとともに、「貨幣資本」の行動をしっかりつかんで余すところなく暴露することの必要性を理解することが重要です。

 ですから、産業循環の一部を歪曲して不破さんが作り上げた「恐慌の運動論」を基礎にして、「不破流の試みとして」『資本論』を「解読する」ことなど、絶対にしないで下さい。

※なお、「第三〇章」、「第三一章」、「第三二章」及び「第三六章」のより詳しい概要等は、別添のPDFファイルを参照して下さい。

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3-30第三部「第三〇章」の抜粋・概略等.pdf
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3-31第三部「第三一章」の抜粋・概略等.pdf
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3-32第三部「第三二章」の抜粋・概略等.pdf
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3-36第三部「第三六章」の抜粋と要約等.pdf
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なんとか自説(「恐慌の運動論」)と折り合いをつけようとする不破さん

 不破さんは、まずはじめに、「第三〇章 貨幣資本と現実資本Ⅰ」の冒頭で述べられている「貨幣資本と現実資本」の論究のポイント等の「解説」を飛ばして、「あらかじめもっと詳しく研究しなければならない」商業信用の分析と、この商業信用に本来の貨幣信用が加わった場合の論究の「解説」を行ないます。

 ここでの不破さんの「解説」で気になるのは、「この商業信用は、『流通過程の短縮』に直接かかわる信用です。」(P107)という文章と「マルクスは、この二回にわたる追跡作業(商業信用の詳しい研究とそれに本来の貨幣信用が加わった場合の研究のこと──青山)によって、信用制度が過剰生産、過剰投機の槓杆になるとすれば、その危険をはらむ中心点は、商業信用ではなく、銀行業者の信用のなかにあるという結論を引き出したようです。」(P109)という二つの文章です。

不破さんは自分の思考能力に合わせてマルクスを評価する

 随分あいまいな文章ですが、これらの文章と不破さんがこれまで言ってきた、マルクスは「恐慌の運動論を基礎に置きながら」これらの問題を考察しているという「推測」とマルクスは「二つの視角」を持っているという「推測」──これらは、どちらも正しくないが──との折り合いを、不破さんは、どう付けようとしているのか、是非、教えていただきたいものです。

 同時に、後半の文章には、不破さんが一貫して持っている認識能力の欠陥、物事を弁証法的、立体的に見ることのできない「二次元的」認識方法の欠陥がよく現れています。

 資本主義社会になって現れた〝恐慌〟が資本主義社会以前からある商業信用ではなく、資本主義的生産様式のもとにおける信用制度に決定的に依拠していることはあきらかで、言わずもがなですが、不破さんが「恐慌の運動論」を「発見」して何でもかんでも「恐慌の運動論」で説明しようとするように、「銀行業者の信用」を「危険」の「中心点」として捉えて、何でもかんでも「銀行業者の信用」で説明しようとするような薄っぺらな思考など、マルクスはしていません。

 マルクスは、「貨幣資本」と「現実資本」の運動をふくむ資本主義的生産様式における「産業循環」を総合的・立体的に論究していますが、それこそが資本主義的生産様式の諸矛盾を正しくつかみ資本主義的生産様式を克服していくための唯一の道です。なお、「銀行業者の信用」は「信用制度」の一部ですが、「銀行業者の信用」と「信用制度」とはイコールではありません。

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不破さんは、何も知らない人に自説を刷り込む天才

この写真も、天地を逆に掲載しています。

 なお、不破さんは「不破流の試みとして」貨幣資本の源泉についての「解読」をしていますが、「これまでに述べてきたことで最も重要なのは、収入のうち消費に向けられている部分の膨張はさしあたりは貨幣資本の蓄積として現われるということである。つまり、貨幣資本の蓄積には、産業資本の現実の蓄積とは本質的に違った一つの契機がはいるのである。」(大月版⑤P646)という、「貨幣資本の蓄積」を論究するうえで最も肝心な事実の一つである「産業資本の現実の蓄積」との関係についてはいっさい触れていません。

 そして、不破さんは、「第三二章 貨幣資本と現実資本Ⅲ(結び)」の下記の文章の「……このような、」以下の文章の抜粋までして、あたかもマルクスが「不破流の」「解読」に沿った論究をしているかのような印象を私たちに与えます。

 「貸付資本の蓄積とは、ただ単に、貨幣が貸付可能な貨幣として沈殿するということである。この過程は、資本への現実の転化とは非常に違うものである。それは、ただ、資本に転化できる形態での貨幣の蓄積でしかない。……このような、現実の蓄積からは独立したものでありながらしかもそれに伴って現れる諸契機によって、貸付資本の蓄積が拡張されるという理由からだけでも、循環の一定の段階では絶えず貨幣資本の過多が生ぜざるをえないのである。そこで、また同時に信用の発達につれて生産過程をその資本主義的制限を乗り越えて推進することの必然性、過剰取引や過剰生産や過剰信用が発展せざるをえないのである。それと同時に、これはまた、つねに、ある反動を呼び起こすような形で起こらざるをえないのである。」(大月版⑤P649)

 不破さんは、この抜粋に続けて、「マルクスは、第二七章部分の後半で述べていたように、信用制度下の利子生み資本を研究するにあたっての最大の問題意識を、それが『過剰生産および商業における過度投機の主要な梃子』となり、資本主義的生産様式の『矛盾の暴力的爆発』をどのように促進するかの探究においていました。」と事実と違うことを「事実」のように言い、それを前提に「探究」「研究」目標を変えて設定し、「この点から見ると、研究はいよいよその問題に立ち向かう本舞台に来たと言えるのですが、草稿の続く部分では、この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません。」と「不破流の」「解読」の「試み」をおこないます。

 

不破さんの使う常套手段にだまされないようにしよう

 私は、この文章を見て唖然とすると同時に〝またか〟という不破さんにたいする強い失望感と憤りの念を禁じえませんでした。

 私は、不破さんとそのお友達の書いた文章を読む時は必ず「元」になる文章を読むよう、これまで、幾度となく警鐘を鳴らし続けてきましたが、誠に残念ながら、前掲の文章もそういうたぐいのものと言わざるをえません。

 不破さんは、相手を打ち負かす手段として、①事実と違うことを「事実」のように言う②目標を勝手に変えて相手を攻撃する、という方法を多用しますが、今回はその両方を連続的に使って読者に誤った情報を伝えています。

「第二七章」について、事実とまったく異なることを「事実」のように言う不破さん

 第一に、不破さんは、信用制度下の利子生み資本が資本主義的生産様式の「矛盾の暴力的爆発」をどのように促進するのかを探究することが、信用の役割を研究するにあたっての最大の問題意識であると「第二七章部分の後半」でマルクスが述べていたと、事実とまったく異なることを「事実」のように言います。

 もう一度、思い出して下さい。

「第二七章」は、資本主義的生産様式の社会におっける「信用制度」の「二面的な性格」を暴露し、「資本主義的生産における信用」が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ことを明らかにした

 「第二七章」のテーマは「資本主義的生産における信用の役割」ですが、生産的資本を発展させるうえでの「資本主義的生産における信用の役割」について、「信用制度の発展」による他人の資本や他人の所有に対する絶対的な支配力の獲得が、「資本所有の潜在的な廃止」であり、「新たな生産様式への過渡形態をなすいう性格」をもっていることにまで論及します。そして、マルクスは、第二七章の最後で、「なお前もって次のことを言っておきたい」として、信用が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということを述べ、「信用制度」には、①資本主義社会を「最も純粋で最も巨大な賭博・詐欺制度にまで発展させて、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格」と、②「新たな生産様式への過渡形態をなすいう性格」との「二面的な性格」が「内在する」ことを述べています。

「第二七章」は、「第三六章」の結びの文章で述べられている「資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度」の役割と共通の認識と共通の問題意識を持っている

 もう一度、見て下さい。

 マルクスは、「同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進する」という信用の歴史的役割・意義を述べるなかで、「矛盾の暴力的爆発」という言葉を使っています。

 しかし、信用が「矛盾の暴力的爆発」をどのように促進するのかということを探究することが、信用を研究するにあたっての最大の問題意識などではありません。

 マルクスは、不破さんのように、簡単に、「恐慌=革命」説をとったり「恐慌の運動論」を唱えたりするような平面的で薄っぺらな思考の持ち主ではありません。マルクスは、不破さんと違って、科学的社会主義の思想を会得した革命家です。

 マルクスはしっかりと信用制度が「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ことを述べ、「第三六章」の結びの文章で述べている、「資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろう」という認識と共通の問題意識を持って論を進めています。

 不破さんは、この「信用制度」の役割・意義の重みをしっかり受け止めるべきなのです。ところが不破さんは、上記の文章から自分の主張に使えそうなフレーズを切り取って継ぎ接ぎして自分の考えに合わせて「不破流の」「解読」をして、それをマルクスが言っているかのように言うのです。

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不破さんは自分が無能なことを省みず、マルクスの無能ぶりを攻撃する

 そして次に、その創作にもとづいて目標を勝手に作って、「この点から見ると、研究はいよいよその問題に立ち向かう本舞台に来たと言えるのですが、草稿の続く部分では、この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」と、マルクスの無能ぶりを攻撃します。

 しかし、不破さんの言う「草稿の続く部分」である「第三三章 信用制度のもとでの流通手段」を見なくても、「信用制度下の利子生み資本」が産業循環のなかでどのような役割を果たすか、したがってまた、「資本主義的生産様式の『矛盾の暴力的爆発』をどのように促進するか」の探究は十分に行なわれています。

 「草稿の続く部分では、この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」などという不破さんの誹謗は事実と異なりますが、「第二八章」以降の『資本論』の探究の主眼は「貨幣資本」と「現実資本」のリアルな絡み合いを明らかにし資本主義的生産様式の矛盾を明らかにするとともに「新たな生産様式」の社会への展望を示すことでした。

 このマルクス・エンゲルスの論究を真摯に学ぶことによって、現代の私たちは、グローバル資本主義時代の現代の問題を解決するヒントと展望を得ることができるのです。

不破さんは、「この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」などと泣き言を言わずに、秩父原人を見つけた人のように、不破さんらしくマジックハンドをつかたらどうだ

 「第三〇章」でも述べられている、「信用制度下の利子生み資本」が産業循環のなかで果たす役割には目もくれず、「草稿の続く部分では、この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」と言う不破さんは、マルクスは「恐慌の運動論を基礎に置きながら」これらの問題を考察していると言ったものの、マルクスの論究が不破さんからどんどん離れていくのが気に入らなくてこのようなことを言っているのでしょうか。それともマルクスよりも「偉く」見せようと虚勢を張っているのでしょうか。それとも、まだ未発見の草稿かメモでもあるのでしょうか。

 二一世紀になって「恐慌の運動論」を発見し、その結果「激しい理論的衝撃」を受け、「ここを理解して『資本論』を読むと、多くの点で、『資本論』の解釈がこれまでのそれとはまったく違って」きたという不破さんならば、マルクスの理論的未熟さを責め立てるだけでなく、自らの〝独想的〟な考え──これまで、私たちを仰天させた、「自由の国」とは「自由な時間」のことで、〝余暇〟のことだとか、共産主義社会とは〝指揮者はいるが支配者はいない〟、生産現場でこういう人間関係をつくりあげることだとかいう──を読者の皆さんに披露し、私たちをアッと驚かせるべきではないのか。

 それとも、不破さんが依拠し、消化し切れていない大谷禎之介氏の『マルクスの利子生み資本論③』で、大谷氏がmonied capital(信用制度のもとでの貨幣市場での利子生み資本)と実物資本の蓄積の関係及びmonied capitalの量と貨幣量との関係について、マルクスの論究が不十分であることを述べ、「この点から見れば、第3部第5章(第五篇のこと──青山)のかなめである「Ⅲ)」での論述の完成度は低い、その意味で第3部第5章は未完成のままに終わっている、と言うことができるであろう。」(P400)と言っているのを見て、とにかく、「この問題のそれ以上の追究はおこなわれていません」などと同調しただけなのでしょうか。

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不破さんの「第三三章」、「第三四章」、「第三五章」の解説

 不破さんは、続く「第三三章 信用制度のもとでの流通手段」と「第三四章 通貨主義と一八四四年のイギリスの銀行立法」にはいっさい触れずに、「第三五章 貴金属と為替相場」については、「引用ノート的な部分」と「本文の草稿」からなっているが「本文部分も端緒的な考察だけで終わっていますので、解説は割愛することにしました。」とのことです。

「第三三章」、「第三四章」、「第三五章」のエンゲルスの編集についての大谷氏の評価

 「第三三章」から「第三五章」までの編集について、エンゲルスは序文で、「『混乱』からあとの、そしてすでにそれ以前の箇所で取り入れられなかったかぎりでの、すべてのこれらの材料から、私は第三三~三五章をまとめ上げた。」と述べていますが、前出の大谷氏も『マルクスの利子生み資本論④』で、第三三~三四章の編集について、次のように絶賛しています。ただし、「monied capitalの量と貨幣の量」との関係の問題の明確化等、その編集が完璧であるがゆえにマルクスの構想と異なるものになったとの「批判」もしていますが。

 「エンゲルスが『混乱』および『混乱。続き』(および一部は「地金と為替相場」)から第33章と第34章をまとめた編集ぶりは、ただただ見事と言うほかはない。草稿のこの両方の部分を読んでみると、このような抜粋の集録からよくもあのようなまとまった二つの章が編成できたものだと思わずにはいられない。エンゲルスにしてできたこの作業によって、第3部の第5篇は、草稿の状態からは考えられないほどの完成度の高いものに仕上がったのである。読者に完成度の高い、完結した第3部を提供するという観点から見るかぎり、エンゲルスはまさに巨匠的な仕事をしたと言うべきであろう。」(P50)

 さらに大谷氏は、第三五章について、「草稿の状態から見ても草稿での記述の内容から見ても、この章立てに十分な理由がある。……ここからエンゲルスが、そのうちの圧倒的な部分を利用して第35章をつくったのは、マルクスの草稿の意図を実現したものであったと見て差し支えないであろう。」と肯定的、積極的に評価しています。不破さんとは雲泥の差があります。

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「第三四章」についての、不破さんが触れなかった、マルクスの科学的社会主義者としての真骨頂

 第三四章は「エンゲルスの加筆部分」がたいへん多い章ですが、エンゲルスの加筆によって一つのまとまった「章」に仕上げられています。そして、「第五篇」のエンゲルスの編集について〝辛口〟過ぎる大谷氏も、先に見たとおり、「エンゲルスが『混乱』および『混乱。続き』(および一部は「地金と為替相場」)から第33章と第34章をまとめた編集ぶりは、ただただ見事と言うほかはない」と絶賛していますが、不破さんが触れなかった「第三四章」には、マルクスの科学的社会主義者としての真骨頂をみることができますので、不破さんは触れていませんが、紹介します。

 一八四四/四五年の銀行立法は、オーヴァストーンを先頭とする通貨学派の、国内に貨幣が多すぎたので商品が高すぎたのであり、高い利子率や製造工業の不況は産業や商業の目的に充用できる物的資本の減少の必然的な結果であり、十分な資本がないために起きる貨幣逼迫や高い利子率は、銀行券の発行をふやすことによって緩和することはできない、厳密に金属流通の諸法則に従う理想的紙券流通が実行されれば恐慌は永久に不可能にされるという主張によって成立しました。

 しかし、マルクスは、恐慌の原因は、産業や商業の目的に充用できる物的資本の減少の結果でも、国内に貨幣が多すぎたために商品が高くなりすぎたためでもなく、商品資本が倉庫にあふれているのにそれがまったく売れないこと、また、それだからこそ、売れもしない商品資本をこれ以上生産しないようにするために、生産資本が全部かまたは半分も遊休してしまうこと、そして何よりも、当面支払うべき貨幣が無いために信用の連鎖が破壊されることにあることを明らかにし、一八四四年の銀行法は、恐慌が起こりそうになるといち早く銀行券の予備を貯えさせ、貨幣の量は、まさにそれが最も多く最も切実に必要になる瞬間に縮小され、その結果、恐慌を速くさせ激しくさせたことを述べています。

 そして、この銀行立法が「産業の利潤を周期的に高利貸の財布に入れるにはまったく巧妙な制度」であることも暴露しています。

 このように、「第三四章」は、「恐慌」と「貨幣」に対する誤った見方とそれに伴う誤った「銀行立法」、そしてその結果として誰が利益を上げるかが、科学的社会主義の思想に基づいて述べられています。

 いまの日本は、「貨幣」が不足していないのに、日銀が、国債を買うだけでなく株まで買って、市場にジャブジャブ資金を供給し、株高・資産高を起こそうと躍起になっています。成功する見込みはまったくありませんが、しかし、その結果、確実に儲かっている人たちがいます。

 私たちは、「市場にジャブジャブ資金を供給」する当面の政策を批判するだけでなく、そのような政策をせざるを得なくなった、疲弊しきった、日本の経済・社会の姿を正しく国民に伝え、その変革の道を明確に示す必要があります。

 「第三四章」を読む時も、必ず、いまの日本を、一時も、忘れないで下さい。

※なお、「第三三章」、「第三四章」及び「第三五章」のより詳しい概要等は、別添のPDFファイルを参照して下さい。

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3-33第三部「第三三章」の抜粋・概略等.pdf
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3-34第三部「第三四章」の抜粋とポイント等.pdf
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3-35第三部「第三五章」の抜粋と要約等.pdf
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70

 

またまたエンゲルスに噛みついた不破さん

 不破さんは、「『資本論』探求〈下〉」で、「恐慌問題。マルクスの文章のエンゲルスによる改作」という「節」まで起こして、エンゲルスに噛みつき、「エンゲルスによる恐慌論の改変は、信用論のほかの箇所でも見られますので、要注意というところです」と、自分がマルクスを歪曲・改竄しておいて、白を黒と、まるでエンゲルスが不破さん同様のペテン師ででもあるかのような心象を読者に与えようとします。

 怒りが、こみ上げてきます。

「恐慌論の改変」とまで言って、不破さんが噛みついた文章を見てみましょう

 不破さんが噛みついた文章は、下記の文章の「すべての現実の…」以下の部分です。

「労働者たちの消費能力は、一方では労賃の諸法則によって制限されており、また一方では、労働者は資本家階級のために利潤をあげるように充用されうるかぎりでしか充用されないということによって制限されている。すべての現実の恐慌の究極の原因は、やはり、資本主義的生産の衝動に対比しての大衆の窮乏と消費制限なのであって、この衝動は、まるでただ社会の絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのように生産力を発展させようとするのである。」(第三〇章、大月版⑤P619)

 よく、読んで下さい。

「二つの矛盾する傾向を指摘するだけ」と言う、不破さんらしいエンゲルスへの中傷

 不破さんは、草稿は、「すべての現実の恐慌の究極の原因は、どこまでも、一方では大衆の窮乏、他方では生産諸力を、その限界をなすものがあたかも社会の絶対的な消費能力であるかのように発展させようとする、資本主義的生産様式の衝動なである」となっていて、マルクスの草稿は、「『大衆の窮乏』を自分でつくり出しておきながら、そんな制限など存在しないかのように、生産諸力を無制限に発展させようとする『資本主義的生産の衝動』そのものに焦点をあてた、生き生きした、能動的な告発の文章となってい」るのに、「エンゲルスの改作版では、それが消えて、二つの矛盾する傾向を指摘するだけの静態的な文章に変わっています」と言います。

 

『資本論』の任務は、資本主義的生産様式の社会の仕組みを明らかにし、その矛盾を暴露し新しい生産様式の社会の必然性を示すこと

 上記の文章は、言わずもがなだと思いますが、まさに「すべての現実の恐慌の究極の原因」を捉え、資本主義的生産様式の矛盾を暴露したもので、下記の内容を述べていますが、「二つの矛盾する傾向を指摘するだけ」という不破さんには、『資本論』の重要さが理解できないようです。

 すべての現実の恐慌の究極の原因は、やはり、資本主義的生産の衝動──この衝動とは、まるでただ社会の絶対的消費能力だけが生産力の限界をなしているかのように生産力を発展させようとするところの衝動──に対比しての大衆の窮乏と消費制限──それは、労賃の諸法則によって制限され、それとともに、労働者は資本家階級のために利潤をあげるように充用されうるかぎりでしか充用されないということによって制限されているところの労働者たちの消費能力の制限──なのである。

※なお、マルクスは、「社会の絶対的消費能力」と言っていますが「社会の絶対的生産能力」いうほうが正しいと思います。なぜなら、「生産力の限界」をなしているのはその時代の「生産性」であり、資本は無限の利潤拡大への衝動をもってその「生産性」の限界まで突き進もうとするからです。

 

マルクスがここで読者に知ってもらいたいこと

 私は、大谷氏の『マルクスの利子生み資本論』(③P446)で草稿の日本語訳を読んだとき、「恐慌の究極の原因」をマルクスが「一方」と「他方」と言って強調して読者に明確に提示するのはいいが、「他方では」以下がわかりにくい文章だったんだなと思うとともに、エンゲルスの編集をもとにした日本語訳のわかりやすさに敬意を表した次第です。

 だから、不破さんの推奨する「すべての現実の恐慌の究極の原因は、」「一方では大衆の窮乏、」「他方では生産諸力を……発展させようとする、資本主義的生産様式の衝動なである」と書いてある『資本論』をそのまま読まされた人は、ずいぶんわかりにくい文章だと思うことでしょう。

 そして、不破さんの言う、マルクスが、「『大衆の窮乏』を自分でつくり出しておきながら、そんな制限など存在しないかのように、生産諸力を無制限に発展させようとする『資本主義的生産の衝動』」そのものに焦点をあてたという表現は正しくありません。

 マルクスは、「恐慌の究極の原因」について、「一方」として「大衆の窮乏と消費制限」をあげ「他方」として「資本主義的生産の衝動」をあげていますが、「生産諸力を無制限に発展させようとする『資本主義的生産の衝動』そのもの」に「焦点をあてた」のではありません。

 マルクスがここで読者に知ってもらいたいことは、「恐慌の究極の原因」は、①労働者たちの消費能力が、資本主義的生産様式の社会の労賃の諸法則によって制限されているだけでなく資本家階級は社会の生産能力を最大限に使うのではなく儲かる限りでしか資本を、したがって、労働者を充用しないということによって制限されいるということと、②生産力をその限界まで発展させて利潤を最大限にしようとする資本主義的生産の衝動に基づく生産の拡大との矛盾にあるということです。

 つまり、マルクスは、ここで、「恐慌の究極の原因」(=資本主義的生産様式の社会の矛盾の現れの原因)をみなさんに正しく認識してもらいたいのであって、「資本主義的生産の衝動」──もしかしたら、不破さんは「資本主義的生産の衝動」=「架空の需要」として、自ら創作した「恐慌の運動論」の萌芽を夢想したのかもしれない──そのものに「焦点をあてた」文章などでは、絶対に、ありません。

 

マルクスのいう「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の一人であり、「恐慌問題」を正しく理解していない人であることを暴露しただけの不破さん

 マルクスは、「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」が「労働者階級はそれ自身の生産物のあまりにも少なすぎる部分を受け取っているのだから、労働者階級がもっと大きな分けまえを受け取り、したがってその労賃が高くなれば、この害悪(恐慌──青山補足)は除かれるだろう」(大月版『資本論』第2巻P505~506)と考えることの誤りを指摘していますが、この文章はあらためて「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の謬論に引導を渡しています。

 不破さんは、「賃金が上がれば経済が良くなる」といって、「一方」の資本家階級は社会の生産能力を最大限に使うことを通じて社会を豊かにすることなど考えず儲かる限りでしか投資しないということを見ようともせず、「他方」の「資本主義的生産の衝動」の現れである、資本のグローバルな展開を視野の外に置いて、低賃金の是正だけを求めて、社会主義者を装っています。 

 不破さんは、このように「恐慌問題」にかこつけてエンゲルスに噛みつき、エンゲルスに対するいわれのない中傷をおこないましたが、畢竟、「不破さん」とは、マルクスのいう「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の一人であり、「恐慌問題」を正しく理解していない人であることを暴露しただけでした。

71

 

事情の分からない人にエンゲルスの編集が誤っているかのような印象を植え付けるために、エンゲルスの「独特の恐慌論」をでっち上げ、それを論拠にありもしないことを「推測」し、恥の上塗りをする不破さん

 それだけではありません。

 エンゲルスがマルクスの考えを理解しやすく編集することによってマルクスの草稿だけを見た人が不破さんのようなトンチンカンな理解に陥らないようにした文章を「エンゲルスの改作版」と誹謗した不破さんは、事情の分からない人にエンゲルスの編集が誤っているかのような印象を植え付けるために、「エンゲルスの恐慌論について」という注意書きまでつけて、「推測」という「偽情報」まで流します。

 「噛みつきがめ」のように噛みつく不破さんは、「エンゲルスは、恐慌の原因をもっぱら資本主義的生産の『無政府性』に求める、という独特の恐慌論をもっていました。(『空想から科学へ』など参照)。それが、ここに直接影響したとする証跡はありませんが、恐慌問題でのマルクスの文章を安易に書き換えてしまうという編集態度には、そのことも多少は影響していたかもしれません。」と、「独特の恐慌論」なるものをでっち上げ、それを論拠にありもしないことを「推測」します。

私たちは、こういうふう人たちのことを〝札付きの反共主義者〟と呼んできました

 あらゆる前提ぬきで、この文章を見ただけでも、この文章を書いた人は、科学的社会主義の思想からはほど遠いところにいる人だということがわかります。

 「証跡」がなく類推するにしても、エンゲルスがマルクスの考えを理解しやすく編集したということを、エンゲルスが「恐慌の原因をもっぱら資本主義的生産の『無政府性』に求める」というデマと関連があると推測するのであれば、その根拠くらい示すのは、「科学」をかたる人の最低限の義務でしょう。しかし不破さんは、なんの根拠も示さずに「独特の恐慌論」をもっていたから「マルクスの文章を安易に書き換え」「たのかもしれません。」と言うのです。

 私たちは、こういうふうに、マルクス・エンゲルス・レーニンに対して「推測」という「偽情報」を好んで流す人たちのことを〝札付きの反共主義者〟と呼んできました。

 

不破さんは、デマを振りまくのをやめろ

 不破さんは、エンゲルスが、「恐慌の原因をもっぱら資本主義的生産の『無政府性』に求める、という独特の恐慌論をもっていました」と言いますが、『空想から科学へ』を読めば分かるとおり、エンゲルスは「恐慌」を「生産手段の膨張力」が「資本主義的生産様式がそれにはめた束縛を爆破する」行為とみており、まさにここで述べられていることとまったく同じことを言っており、だから、マルクスも『空想から科学へ』を科学的社会主義の思想の最適のテキストとして推奨しています。

※詳しくは、ホームページ4-14「☆科学的社会主義の旗を掲げて共に闘ったマルクスとエンゲルスが、経済(社会の土台)についての共通認識を持っていなかったという不破さんの無責任な推論」を、是非、参照して下さい。

72

 

なお、科学的社会主義の経済学は〝資本主義的生産の無政府性〟を生産の社会的性格が発展した資本主義的生産様式の致命的弱点、社会主義・共産主義の社会へのパラダイムシフトの最大の理由の一つと考えてきました

 ただし、科学的社会主義の経済学は〝資本主義的生産の無政府性〟を生産の社会的性格が発展した資本主義的生産様式の致命的弱点、社会主義・共産主義の社会へのパラダイムシフトの最大の理由の一つと考えてきました。

 「資本主義的生産の無政府性」の意味を理解できない不破さんと不破さんのエセ「科学的社会主義」に騙されている人のために、資本主義的生産の無政府性についての『資本論』での論及と資本主義的生産様式がもつ二つの矛盾──クスの言う「基本的矛盾」とエンゲルスの言う「根本矛盾」──について、簡単に触れさせていただきます。

資本主義的生産の無政府性についての『資本論』での論及

「(1)商品としての生産物の性格と、(2)資本の生産物としての商品の性格とは、すでにすべての流通関係を含んでいる。……前述の二つの性格、すなわち、商品としての生産物の性格、または資本主義的に生産された商品としての商品の性格からは、価値規定の全体が、また価値による総生産の規制が、生ずる。価値のこのまったく独自な形態では、一方では、労働はただ社会的労働として認められるだけであり、他方では、この社会的労働の配分も、その生産物の相互補足すなわち物質代謝も、社会的連動装置への従属や挿入も、個々の資本家的生産者たちの偶然的な相殺的な活動に任されてある。資本家的生産者たちは互いにただ商品所有者として相対するだけであり、また各自が自分の商品をできるだけ高く売ろうとする(外観上は生産そのものの規制においてもただ自分の恣意だけによって導かれている。)のだから、内的な法則は、ただ彼らの競争、彼らが互いに加え合う圧力を媒介としてのみ貫かれるのであって、この競争や圧力によってもろもろの偏差は相殺されるのである。ここでは価値の法則は、ただ内的な法則として、個々の当事者にたいしては盲目な自然法則として、作用するだけであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な諸波動のただなかをつうじて維持するのである。」(大月版『資本論』⑤P1124-1125)

「資本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、(資本の──青山)厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程の、完全な階層性として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している。──といっても、この権威の担い手は、ただ労働に対立する労働条件の人格化としてのみこの権威をもつのであって、以前の生産形態でのように政治的または神政的支配者として権威をもつのではないのである。──ところが、この権威の担い手たち、互いにただ商品所有者として相対するだけの資本家たち自身のあいだでは、最も完全な無政府状態が支配していて、この状態のなかでは生産の社会的関連はただ個人的恣意にたいする優勢な自然法則としてその力を現わすだけである」(同上P1126)

 このように、「資本主義的生産の無政府性」は互いに競争する資本家たちがつくる「無政府性」であって、それは、資本主義の発展とともにますます強くなる生産の社会的性格と矛盾します。

 

マルクスの言う「基本的矛盾」とエンゲルスの言う「根本矛盾」

 マルクスは、資本主義的生産の矛盾について、『資本論』第3巻 第1分冊(大月『資本論』 ④ P306-7)で、「社会の消費力は、さらに蓄積への欲求によって、すなわち資本の増大と拡大された規模での剰余価値生産とへの欲求によって、制限されている。これこそは資本主義的生産にとっての法則」であり、資本主義的生産には「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」があることを述べています。これが、マルクスの言う「基本的矛盾」です。

 マルクスは、同時に、『資本論』第3巻 第2分冊(大月『資本論』⑤ P1129)で、「一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿(=私的資本主義的分配と資本主義的生産関係──青山)と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展(=社会化された生産力とその一つ一つの生産能力およびその発展可能性──青山)とのあいだの矛盾と対立」について述べています。これは、資本主義を終わらせなければ解決しない資本主義的生産様式がもつ「根本矛盾」なのです。だから、エンゲルスはこの矛盾を「根本矛盾」と言いました。

 このように、マルクスは資本主義の矛盾について二つの矛盾を述べており、一つは資本主義的生産に内在する矛盾で「基本的矛盾」といい、もう一つは分配関係・生産関係と社会的生産力とのあいだの矛盾と対立で、エンゲルスのいう「根本矛盾」です。この「根本矛盾」=「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」があるからこそ、資本主義的生産様式は社会的生産力発展の「桎梏」となるのです。

 

科学的社会主義を否定する不破さんの驚くべき主張

 「恐慌の原因をもっぱら資本主義的生産の『無政府性』に求める、という独特の恐慌論をもっていました」とマルクス・エンゲルスの上記の思想をねじ曲げ、生産の社会的性格と取得の私的資本主義的性格という資本主義的生産様式の社会の根本的欠陥から目を背ける不破さんは、『前衛』2014年1月号で、エンゲルスが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと言って、マルクスとエンゲルスの共通の認識を否定する、驚くべき発言をしています。

 このようにして、「健全で『単純な』(!)常識の騎士たち」の一人に成り下がった不破さんは、エンゲルスをターゲットにして、マルクスの言う「基本的矛盾」とエンゲルスの言う「根本矛盾」からエンゲルスの言う「根本矛盾」を削除し、マルクスの言う「基本的矛盾」を「利潤第一主義」に矮小化して、科学的社会主義の思想の修正を完了させます。 その結果、不破さんの頭の中では、「賃金が上がれば、経済はよくなる」という考えが市民権を得て、「利潤第一主義」に懐疑的なポーズをとるだけの、立派な財界の一員である盛田昭夫氏等を天まで高く持ち上げることとなります。

 不破さんが「エンゲルスの恐慌論について」という注意書きを書いた理由は、不破さんの修正主義を隠すための姑息な隠蔽工作の一つなのです。

 取り巻きの介さん角さんは騙せても、お天道様は騙されません。

※詳しくは、ホームページ4-9「☆不破さんは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾をとらえることは誤りだと、マルクス・エンゲルス・レーニンを否定する。」ホームページ4-3「☆「桎梏」についての不破さんの仰天思想」を、是非、参照して下さい。

73

 

不破さんの「第三六章」についての、「社会変革の展望」や「未来社会」についての「多くの示唆」というだけの「解説」

 第五篇最後の「第三六章 資本主義以前」の不破さんの「解説」を見てみましょう。

 不破さんは、「『資本論』探求〈下〉」で、資本主義的生産様式のもとにおける信用制度の成立史、つまり、「資本主義以前」をはしょって、あらためて信用と貨幣との関係そして信用制度のもつ意味について述べられているところから「解説」をはじめます。

 まず、「信用=銀行制度が果たす」「社会的機能」を列挙し、これらの機能によって、「資本主義的生産様式の運命にかかわる二面的な結果を引き起こす」ことが述べられ、「信用=銀行制度」について、「マルクスが、資本主義社会の内部で社会主義社会の諸要素を準備するものとして、特別の注意を向けている」ことを指摘し、「レーニンも注目」していることを述べます。

 そして最後に、この章の最後のパラグラフの一部をとりだして、「現代における社会変革の展望にも、多くの示唆を含む文章」であることを述べ、「信用=銀行制度」の研究が、「『資本論』全体のなかでも、未来社会について最も多くの示唆を含む篇の一つとなった」と言います。

 このように、不破さんは「第三六章」を読んでも、頭に何も詰まっていない評論家のように、「レーニンも注目」していたという雑学と、「社会変革の展望」や「未来社会」についての「多くの示唆」という漠然とした希望以外、何も語ってくれません。

 

「第三六章」は「利子生み資本」の一生を展望したもの

 不破さんは、何をもって、「信用=銀行制度」の研究が、「『資本論』全体のなかでも、未来社会について最も多くの示唆を含む篇の一つとなった」と言っいるのか、なんの説明もしていませんが、マルクスとエンゲルスは、第五篇までの第三部全体を通じて資本主義的生産様式に未来がないことを明らかにするとともに、この章の最後のパラグラフで〝未来社会についての最も肝心な示唆の一つ〟を行なっています。しかしそれは、不破さんが抜粋した最後のパラグラフの不破さんが省略した部分に書かれています。

 不破さんが省略した部分に書かれている「利子生み資本」のもつ究極の意味を不破さんが理解できず、スルーしてしまったのは、「利子生み資本」の一生を展望している「第三六章」の「解説」で、「資本主義以前」をはしょってしまった不破さんへの、天罰のように見えます。

74

 

不破さんが語らなかった大切なこと、その1

資本主義的生産様式の産物としての信用制度を結合労働の生産様式の社会への槓杆に

 信用制度は、その貸し手もその充用者もこの資本の所有者でもなければ生産者でもなくすることによって、資本の私的性格を廃棄し、潜在的に、資本そのものの廃棄を含んだものとすることによって、結合労働の生産様式の社会を展望させます。

 そして、銀行制度は、資本の分配を一つの特殊な業務として、社会的な機能とし、資本主義的生産様式をその可能なかぎりの最高最終の形態まで発展させる推進力となるとともに、銀行と信用とは、資本主義的生産をそれ自身の制限を越えて進行させる最も強力な手段となり、また恐慌や思惑(詐欺的幻惑)の最も有効な媒介物の一つとなります。

 このように、第五篇の最後の「章」である第三六章は、信用制度が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」という、「第二七章」で述べられていることを、再確認しています。

 科学的社会主義の思想とは無縁の人たち、労働者階級・国民をバカにして、「賃金が上がれば経済が良くなる」としか言わず、労働者階級・国民を眠り込ませる役割を担わされている人たちは、ここでいま、私たちが指摘しているようなことなど、一言も言おうとはしません。

 私たちは、このマルクス・エンゲルスからのメッセージを、労働者階級・国民に、分かりやすく、しっかりと、伝えなければなりません。

 

不破さんが語らなかった大切なこと、その2。

「利子生み資本」の未来

 

 「利子生み資本」の資本主義以前を一瞥してきた「第三六章」は、最後に、利子生み資本の未来を展望します。資本主義的生産様式から結合労働の生産様式の社会へ移行が行なわれるということは、信用制度の基礎をなす生産様式がなくなり、生産手段は資本に転化しなくなり、貨幣が利子を生まなくなるということです。貨幣が利子を生むことを前提とする「信用制度」はもはやなんの意味もなくなります。つまり、第二八章で述べられている資本主義的生産様式のもとで貨幣がもっている、①流通手段、②価値表現、③「資本」の循環形態の一局面である「貨幣資本」、④利子生み資本としての「貨幣資本」という四つの機能から③と④の機能がなくなるということです。

 関連してマルクスは、「資本主義のではなく共産主義の社会(この場合の「共産主義の社会」とはいわゆる「社会主義社会」のこと──青山)を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる。」(大月版『資本論』③P385)と言い「社会的生産では貨幣資本はなくなる。社会は労働力や生産手段をいろいろな事業部門に分配する。生産者たちは、たとえば指図証を受け取って、それと引き換えに、社会の消費用在庫のなかから自分たちの労働時間に相当する量を引き出すことになるかもしれない。この指図証は貨幣ではない。それは流通しないのである。」(大月版②P437-8)と述べています。

 なお、この点について、私は、「資本主義のではなく共産主義の社会を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる」という社会において、それがまだ「社会主義社会」であり人間の労働に依拠した社会である以上、人間の労働に根拠をおく「価値表現」はなくならないし、その価値に根拠をおく「流通手段」も必要だと考えています。

 このように、第五篇の最後の「章」の最後の文章で、マルクスとエンゲルスが示した「結合労働の生産様式」の社会とは、「貨幣資本」のなくなった搾取のない社会の姿でした。私たちはこの「貨幣資本」の行動をしっかりつかんで余すところなく暴露しなければなりません。そのことなしに、貨幣に付与された「貨幣資本」の機能を停止させ「貨幣資本」のなくなった、搾取のない社会をつくることなどできません。

75

 

「第三六章」の学習で、もう一つ、私たちが頭に入れておきたいこと

 「第三六章」には、信用制度のもとでの企業家支援の意義と高利貸しに関する記述があります。

 ここで述べられている、「財産はないが精力も堅実さも能力も事業知識もある一人の男がこのようにして資本家に転化することができるという」、「経済学的弁護論者たちによって非常に賛嘆される」、信用制度のもとでの起業家支援策や中小企業支援策は、資本による「支配の基礎を拡大して、それが社会の下層からの新鮮な力によって絶えず補充されることを可能に」し、「被支配階級の最もすぐれた人物を自分のなかに取り入れ」、その支配をますます強固にするだけでなく、国民に資本主義の幻想を植えつけるうえでも非常に重要です。私たちはそのことをしっかり見ておく必要があります。

 同時に、資本主義的生産様式の意味では借入れができないような諸個人や諸階級にたいしては、利子生み資本は、資本主義的生産様式以前の時代の産物である「高利資本」の形態を保持しているという指摘は、いかにも資本主義らしいご都合主義を現しているなと、あらためて思いました。

76

 

エンゲルス・レーニンと不破さんとの差

 なお、この章の中で、マルクスがサン・シモンについて、オーエンと対比して、厳しい評価をしていることに関して、サン・シモンに対するマルクスのその後の評価を踏まえ、エンゲルスは文中の「注」で、マルクスへの優しいまなざしをもって訂正していますが、不破さんはこのことを『前衛』2014年1月号で「相当なサン・シモンびいきでしたね。」(P89)と言ってエンゲルスを嘲笑しています。

  また、エンゲルスが不正確な表現を用いた場合(『国家と革命』国民文庫P98参照)でも、レーニンはそれを責めることなどしていませんが、不破さんは、議会を通じての「革命」などできない情勢、歴史的な時期に、そのことを明確にしたレーニンの文章の一部を抜き出してレーニンを全否定し、悪口を言います。

 この不破さんの現在の態度は、共産党が科学的社会主義の立場に立っていて元気だった頃、「毛沢東一派」と闘った「4.28論文」のスタンスとはまったく異なりますが、不破さんは、『しんぶん赤旗』を占拠して掲載した「『資本論』刊行150年に寄せて」という科学的社会主義の思想の「修正」文章の中で、「4.28論文」──それは、共産党が輝きを増してきた60年代後半の理論的到達点を示すものです──の成果を否定して、「レーニンの誤解をただし」たと、「レーニンの誤」を印象づけるために、歴史的事実まで否定して、真っ赤なウソをつきます。(詳しくは、ホームページ4-26-1-3「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏(その3)」を、是非、お読み下さい。)

 このように、マルクスのサン・シモンの評価へのエンゲルスの優しいまなざし、レーニンのエンゲルスへの優しいまなざし、これらと不破さんのマルクス・エンゲルス・レーニンへの接し方とは、大きく異なります。どうして、不破さんは、同志的なあたたかい眼差しでエンゲルスやレーニンを見ることができないんでしょうか。それは、不破さんにとっては、これらの人たちが、同志ではないからなのでしょうか。

77

 

「第五篇」学習の意義

  以上から、「第五篇」学習の意義は、信用制度が社会的生産諸力と社会的生産の発展という「新たな社会の形成要素」の発展と「古い生産様式の解体の諸要素を促進する」ということの意味をしっかりつかむとともに、「貨幣資本」の行動をしっかりつかんで余すところなく暴露し、貨幣をコントロールすることの必要性を正しく理解することあると思います。

 そして私は、「貨幣資本」の「資本」的性格をなくしていくその度合いは、「社会的生産」の意義を社会(国民)が認識していく度合いの深さに依存していると思っています。最初は企業の純利益を「株主」と社会がどう分け合うのかから始まって、そして最後は「企業」は社会のなかでどんな役割を担うのかまで、「社会」と「企業」との関係は、社会の「社会的生産」の意義の認識の度合いの深さに依存していると思います。そしてこの「社会」と「企業」との関係は、「株式」の所有のあり方と「株式」の機能の変化を通じて変化していくものと考えます。

※なお、項目連番の「78」は欠番とし、「〈連載〉その5」は「79」から始まります。

連載4完結。〈連載 その5〉への招待

不破さんによって、『資本論』とマルクス・エンゲルスの思想はどう変えられたのか、『資本論』第三部「第六篇」を中心不破さんの「『資本論』探究」を批判の軸において、検証していきます。

 不破さんは、マルクスの地代論についての論及を、「マルクスが、この新理論を、一般的利潤論の『例解』問題として第三部に滑り込ませるという、かなり無理筋の計画を立てた」などと中傷し、「マルクス自身、満足のゆくような解決にはまだ到達していなかった」と自らの理解力のなさをマルクスに転化して、『資本論』から学ぼうとはしません。

 私たちは、「地球の一断片」である土地を資本主義的生産様式のもとで私的に所有することの経済的意味をマルクス・エンゲルスからしっかり学び、資本主義的生産様式の社会の克服のための力にしましょう。