23、総括 1 不破さんの「批判」の方法と思想

 

 

読者を思い込ませる八つのテクニック

四つの非マルクス主義の思想

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Ⅰ不破さんの「批判」の方法

 不破さんの「批判」の方法には、大雑把に分類すると次の八つの方法があります。
①書いてあることを書いてないと言い、言ってることを言っていないと言う
 書いてあることを書いてないと言い(4-10)、他の文献でより多面的に述べていることを無視して、言っていないと言う(4-1)。
②文章、主張を歪曲する
 自分の主張に合うところだけをピックアップして、重要な部分を無視(4-1、4-2)したり、歪曲のための文章の恣意的な継ぎはぎ(4-20)をしたり、自分の都合の良さそうな文章を歪曲してマルクス経済学を歪曲(4-19)する。

③ひとまとまりの文章を二つに分け、中に自分の主張を挿入する
 ひとまとまりの文章を二つに分け、中に自分の主張を挿入する(4-3)

④事実の否定、推論による批判
 事実を否定(あることを無いといい)し、かってな創作(4-16)をおこない、事実に基づかない(事実をかくしての)一方的な評価(4-4、4-7)をし、自分の推論を根拠に他者を批判(4-12)する。

⑤主張の矮小化、概念を狭く歪曲

 主張の矮小化(4-11)、概念を狭く自己流に歪曲して、本来の概念に含まれている意味と対立させる(4-12)。
⑥マルクスとエンゲルスの考えが異なっているかのように言ってエンゲルスを中傷する
  マルクスとエンゲルスが主張していることを、エンゲルスが主張していると言い、歪曲して誤りだと言う(4-6、4-9)。エンゲルスがマルクスと異なる 「我流」の持ち主であるかのように推論しレッテルを貼り、印象づけ、その推論に基づき評価・断罪する(4-10、4-14)
⑦弁証法的に捉えることができず、批判する
  〝発展〟的に見ることができず、「延長」として捉えて批判(4-5)したり、原因とその現れ方が理解できず、相手を非難(4-8)する。
⑧自分の力不足が原因なのに、それを棚に上げて、他者を揶揄する
 自分の力不足が原因なのに、それを棚に上げて、他者を揶揄する(4-13)。
 ※文の末尾の(4-○□)は、4(不破さんの思い違い)の○□ページに該当する文章があることを表示しています。是非、参照して下さい。

 

 

 

2015.12.06 日比谷公園

 

〝by the people〟への胎動

Ⅱ不破さんの思想

  不破さんの文章は、このような八つのダマシのテクニックと次の四つの非マルクス主義(非科学的社会主義)の思想によって構成されています。
①資本主義の矛盾を正しく捉えられない
②本質・根本を見ない
③観念論に支配されている
④変革の主体を正しく捉えられない
  以下で、順次、見ていきましょう。

①不破さんは、資本主義の矛盾を正しく捉えられない

  不破さんには科学的社会主義の考え方(マルクス・エンゲルス・レーニンの考え方)とは異なる幾つかの「独創的」な科学的社会主義の歪曲があります。
 その一つが「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」の否定です。
  マルクスとエンゲルスは資本主義的生産に内在する矛盾と資本主義的生産様式そのものが持つ体制的矛盾の二つの矛盾を資本主義の矛盾と捉えていました。資本主義的生産に内在する矛盾とは、「剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾」(大月『資本論』④ P306-7)で、マルクスの『剰余価値学説史』では「一方では、生産力の無拘束な発展、および、同時に諸商品から成っていて現金化されなければならない 富の増加、他方では、基礎(グルントラーゲ)として、必需品への生産者大衆の制限、という基本的矛盾」と述べられており、私は「マルクスの言う基本的矛 盾」と言っています。資本主義的生産様式そのものが持つ体制的矛盾とは、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」で、マルクスが「一方の分配関 係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立」(大月『資本 論』⑤ P1129)と述べているもので、エンゲルスは資本主義的生産様式の根本矛盾と言っています。私はこれを「エンゲルスの言う根本矛盾」と言っていますが、 共産党も資本主義社会の「基本矛盾」として、つい最近まで重要な概念として認めていました。
 しかし、不破さんは、「マルクスの言う基本的矛盾」 をマルクスが「資本主義の本来の限界とか、資本主義の矛盾」といっているから、「より大きい剰余価値の獲得、…(略)…、『利潤第一主義』の問題を中心に すえることなしに、資本主義の害悪を語ることはできない」として、「利潤第一主義」に資本主義的生産の害悪のすべてを矮小化してしまいました。
  不破さんは「エンゲルスの言う根本矛盾」はエンゲルスが唱えた誤りだと言って「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」を否定し、その結果、 「独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏になる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和 できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」(大月『資本論』② P995)という文章の意味が分からなくなってしまいました。「生産手段の集中も労働の社会化も」=「生産の社会的性格」ということと、「その資本主義的 な外皮」=「取得の資本主義的形態」ということが分からなくなってしまった。その結果、資本主義的生産様式が生産力の発展の「桎梏」になるという意味が分 からなくなり、資本主義的生産様式の内在的矛盾から取り出した「利潤第一主義」(「利潤第一主義」は資本主義的生産様式を含む私的生産につきものだが資本 主義的生産様式に固有のものではない。)にもとずく資本主義の弊害を全て「桎梏」化と言うに至っている。その結果、「ルールある資本主義」、「利潤第一主 義」の改善が最大の目的となり、「桎梏」となった「資本主義的生産様式」の変革の課題は視野から外され、「利潤第一主義」にもとづく「地球温暖化」等あり とあらゆる未解決問題の解決が課題となり、大企業の内部留保の一部を吐き出すことが「利潤第一主義」を緩和させて経済成長を実現させる道となってしまっ た。
  「社会的生産と私的資本主義的取得とのあいだの矛盾」を認めたくない不破さんは、エンゲルスもレーニンも配分方法のみを問題にし、夢がないといい、マルクスは労働時間の短縮による「自由の国」を未来社会として描いたと言って、資本主義的生産様式の要である私的資本主義的取得を変革することを「夢がない」と 否定し、唯物史観を忘れさって、無政府主義者ばりに「自由の国」を吹聴する。労働者を搾取する私的資本主義的取得の変革を「夢がない」と否定する不破さんは、「夢のある自由の国」の実現をめざす日本共産党の綱領から労働者階級の歴史的使命を取り除いてしまいました。
  この、不破さんの、資本主義の矛盾を正しく捉えられないという欠落した思想は、マルクスが「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明」した一つの環・要素である短縮された価値「実現」による「架空の需要」だけを取り出し、それが資本主義的生産様式の恐慌の原因であるとする「恐慌の運動論」、「架空の需要=恐慌」説を「大発見」します。このように、ボタンをかけ間違えた不破さんはマルクス経済学を次々と破壊していきます。
 詳しくは、HP「不破さんの思い違い」の1、2、3、9、11、14、15、16、18、19、20を参照して下さい。
 まず、9と3を読んでみて下さい。

 ②不破さんは、物事の本質・根本を見ない

 不破さんは、『賃金・価格・利潤』での賃金闘争の意義と位置づけにしても、『空想から科学へ』と『資本論』での社会的障害物の意義と位置づけにしても、 その必要性(改善の必要性)を述べるだけで、結果の原因の曝露とその除去の必要性(原因を除去しなければ改善ももとのもくあみになってしまうということ) を述べることはしません。「桎梏」にかんしても、資本主義から「利潤第一主義」を抽出して、「利潤第一主義」からくる禍のすべてを「桎梏」化の現れだと言 い、現代資本主義の中で資本がどんな行動をとり、それがどう社会発展の「桎梏」になっているのかは一切語りません。同様に、「恐慌」にかんしても、マルク スの景気循環の現象形態からの説明を引用して資本主義の発展を述べるだけです。このように、不破さんは、資本主義という制度の中で、その本質・根本に目を 向けさせようとしません。
  だから、今の日本の現状についても、深い認識をもたず、マルクスの言う「平凡な常識の騎士」のような処方箋しか提示しません。不破さんは、勃興期の資本主義も、帝国主義時代の資本主義も、グローバル資本の時代の今の日本の資本主義の現状も理解しようとせず、労働者がなぜ低賃金なのかも、なぜ不安定雇用がこ うも大手を振ってまかり通っているのかも、マルクス・エンゲルス・レーニンの視点で解明しようとはしません。だから、ルールある資本主義を大目標に掲げ、 北欧のすばらしさを説き、賃金を上げれば経済成長すると、マルクスの言う「平凡な常識の騎士」のような処方箋しかだせません。
 詳しくは、ホームページ「不破さんの思い違い」の1、2、3、11、15、19、20を参照して下さい。
  まず、1と2を読んでみて下さい。

 

 

国民の要求実現に最大限の努力をすることと

党の真価をひろく訴えることとは

同時に追求しなければならない

天皇制を認めて本当に民主主義政党と言えるのか

開会式に出席しなくても国会から閉め出されはしない

 

 

③不破さんは、観念論に支配されている

 不破さんは観念論に支配されていて、現実を科学的に見る目が欠けています。
 不破さんは「自 由の国」と「必然性の国」について、マルクスの『資本論』から言葉を抜き書きして、「『必然性の国』とは、人間が物質的生産労働にあたる時間のこと、『自 由の国』とは、それ以外の、人間が自分の思うがままに使える時間のことです」と述べ、「必然性の国」と「自由の国」の〝国〟とは「人間の生活時間の区別」 だとマルクスの思想を葬り去ります。こ の不破さんの「自由な時間」が「自由の国」だという創作は、「資本主義社会では、社会的発展の推進力は、経済的土台に属する資本の利潤第一主義にありまし た。しかし、新しい社会では、発展の推進力は、明らかに、『自由の国』における人間の発達にあります」と言う、唯物史観を「超越」した、マルクスも仰天するような思想(空想)に発展します。
  こ のような唯物史観を「超越」した不破さんの思想は、弁証法的な正しい認識のしかたと異なり、次のような三つの誤りを含んでいます。それは、レーニンの「マ ルクス主義の全精神、その全体系は、おのおのの命題を、(α)歴史的にのみ、(β)他の諸命題と関連させてのみ、(γ)歴史の具体的経験と結びつけての み、考察することを要求しています。」(全集 第35巻『111イネッサ・アルマンドヘ』、「レーニンの著作の抜粋」)という考え方の対極にあるように思われます。
ⓐ他の諸命題と関連させて全体的に見ることができない
ⓑ時空を超えた評価を行う
ⓒ物事を発展的に見ることができない
ⓓ原因とその現れ方が理解できない
 以下で、それぞれの誤りの例証をしましょう。

「ⓐ他の諸命題と関連させて全体的に見ることができない」について

不破さんは、物事を全体的に捉えることができないようです。私が批判した「4-14」の、科学的社会主義の旗を掲げて共に闘ったマルクスとエンゲルスが、 経済(社会の土台)についての共通認識を持っていなかったという不破さんの無責任な推論にしても、マルクスとエンゲルスの著作を全体として見ることができ ればありえない「推論」です。また、不破さんには、エンゲルスが「取得形態という角度から」のみ「生産関係」をとらえているようにしか見えなかったり (4-6)、「取得の資本主義的形態」のうちに「資本家による労働者の搾取」を見ることができない(4-7)と思っているとしたら、不破さんはエンゲルス の著作をトータルに理解する能力が致命的に欠けているといえます。そして、「生産の社会的性格と取得の資本主義的形態の矛盾」という形で資本主義の矛盾を とらえることは誤りだとマルクス・エンゲルス・レーニンを否定する不破さんの主張は、「他の諸命題と関連させて全体的に見ることができない」不破さんの弱 点を最もよく現しています。
 詳しくは、ホームページ「不破さんの思い違い」の6、7、9、13、14、19、20、21等を参照して下さい。
  まず、6と9を読んでみて下さい。

「ⓑ時空を超えた評価を行う」について

  不破さんは、マルクス・エンゲルス・レーニンの著作が書かれた状況を無視して、マルクスは「恐慌=革命」説をとっていたとか、レーニンは「革命近し」と 言ったのにいまだに起きていないか、マルクス・エンゲルスが生きた時代の「恐慌」の意味、レーニンが生きた時代の「帝国主義」の意味を理解せず、時空を超 えて、言いたい放題のことを言っています。これは、不破さんが観念論に支配されていて、現実を科学的に見る目が欠けているためです。
 詳しくは、ホームページ「不破さんの思い違い」の12、13、16、18、19、20、21等をを参照して下さい。
  まず、13と19を読んでみて下さい。

「ⓒ物事を発展的に見ることができない」について

  「不破さんの思い違い」の5や8を参照していただけば分かるように、不破さんは「物事を発展的に見ること」ができません。この誤りは、マルクスとエンゲル スが「恐慌」を、レーニンが「帝国主義」を運動の「環」と位置づけたことが理解できず中傷し、「二つの敵」という言葉は繰り返すが現在の資本の行動をリア ルに見ることができない誤り・不十分さと密接な関連があるように思われます。
  まず、5と8を読んでみて下さい。

「ⓓ原因とその現れ方が理解できない」について

  不破さんは、「資本主義的生産様式の内在的な諸法則」が競争を通じて現れること(4-10)が理解できなかったり、「資本主義の矛盾」を「利潤第一主義」 の問題に解消したり(4-11)、マルクスが「恐慌を資本の現象的な流通形態から説明」していることにヒントを得て、短縮された価値「実現」による「架空 の需要」だけを取り出し、それが資本主義的生産様式の恐慌の原因であるとする「恐慌の運動論」を「大発見」し、「恐慌は、利潤率の低下の法則とは関係がな く、資本主義が循環的に運動してゆく一局面である」と捉え原因を現象に帰着させたり(4-19)、「原因とその現れ方が理解できない」。
 詳しくは、ホームページ「不破さんの思い違い」の10、11、14、19等を参照して下さい。
  まず、19を読んでみて下さい。

④不破さんは、変革の主体を正しく捉えることができない

  不破さんは、マルクスの『フランスにおける内乱』の第一草稿のなかの「奴隷制のかせ」という言葉をみつけ、──ここで、マルクスは、資本主義的に社会化された生産を、奴隷制のかせ、つまり資本主義的生産関係から解放し、対等な人と人との関係をつくりださなければならないということを言っているのですが──伝言ゲームのトンチンカンな伝達者のように、資本主義的生産関係からの解放などそっちのけで、「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」、「指揮者はいるが支配者はいない」という関係を職場でつくることが共産主義社会への「過渡期」の仕事ででもあるかのようにマルクスが言っているかのような創作をします。
 そもそも、『フランスにおける内乱』の第一草稿の当該部分は、「共産主義社会」への道のりについてのマルクスの見通しを述べ、パリ・コミューンの歴史的な意義として労働者階級の権力の実現を褒めたたえたものであり、「共産主義社会」への道のりは長いが、労働者階級の政府であるコミューンを実現した労働者は、コミューンが「労働の経済的解放」のための巨大な進歩、つまり、資本主義的生産関係からの解放を一挙に実現できることを示したことを述べたものです。「新しい人間関係を生産現場でつくりあげる仕事」、「指揮者はいるが支配者はいない」という関係を職場でつくることが「過渡期」の仕事ででもあるかのような内容など述べたものではありません。マルクスの『フランスにおける内乱』は、変革の主体を明確にし、その歴史的な意義を明らかにしています。ここにマルクス(エンゲルスとレーニンとも)と不破さんとの決定的な違いがあります。不破さんとマルクス・エンゲルス・レーニンとでは視点も異なり、引き出す教訓も異なります。主役が片や〝労働者階級(人民)〟であり、片や〝指揮者〟です。(4-20参照)
 ついでにいえば、不破さんは「〝指揮者はいるが支配者はいない〟といういわば自治的な関係が完成したときには」、「社会全体が、次第に、強制的な権力を不要とする自治的な体制に移行してゆくでしょう」と言っていますが、マルクスとエンゲルスは「共産主義社会」という「自由な結合的労働」の社会では、「諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなる」ことを述べ、不破さんの言う「指揮者はいるが支配者はいない」などという恒常的な「指揮者」がいる社会を未来社会として考えてはいませんでした。
  また、レーニンは、新しい国家の建設に当たって、「新しい組織者的才能のある人々を国家統治の仕事へ幅広く参加させ」、「大衆を代表するソヴェト諸機関の成員の統制のもとで大衆によって実施されている諸原則を基礎として、短期間のうちに生産の実際的組織者の新しい層を生みだし、彼らに地歩をかためさせ、彼らにふさわしい指導的地位を占めるようにさせる」(第42巻『論文『ソヴェト権力の当面の任務』の最初の案文』)ことを追求しました。このようにレーニンには〝by the people〟の思想が貫かれており、不破さんのように「指揮者はいるが支配者はいない」という関係を職場でつくることにきゅうきゅうとなどしていませんでした。
 だから、「生産の無政府性」をなくし、「労働時間の規制やいろいろな生産群のあいだへの社会的労働の配分」のための「統制」と「それに関する簿記」を、全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織することを通じて新しい社会(社会主義社会)を実現しようとしたレーニンにたいし、不破さんは、レーニンが「国民経済にたいする『記帳と統制』を組織すれば、それがそのまま社会主義経済の建設につながる」と考えていたなどと誹謗中傷するだけで、不破さんには大切なもの(変革の主体)がまったく見えず、薄っぺらな「批判」しかできないのです。
 もう一つついでに言えば、大昔、不破さんと田口富久治氏との不毛な「論争」に使われた田口氏の論文『先進国革命と前衛党組織論』には上田耕一郎氏の文章が引用されており、その中に「党内民主主義は、前衛党が宣伝団体から構造的改良の党へと成長するとともに、いっそう重要性を増す」という文章があるが、「前衛党」が「宣伝団体」から「構造的改良」団体へと成長するという意味が革命の主体が〝人民(労働者階級)〟から〝党(指揮者)〟へという意味へ飛躍し「進化」すれば、現在の不破さんの思想とピッタリ一致する。これは私の単なる妄想ではない。現在の日本の資本主義の曝露・宣伝・煽動はマルクス主義者の党の命であり、他のいかなる課題も取って代わることのできないものです。そのことを忘れて、「構造的改良」団体をめざし、これだけ政治的自由がある国で選挙の時以外は全戸配布などせず、系統的な曝露を通じての国民の主体的な成長を軽視して、歪んだ「党勢拡大」と電話での「支持拡大」に励む。その結果として、革命の主体が〝人民〟から〝党〟へとなるのは必然である。〝by the people〟の思想を持ち合わせていない不破さんの〝革命の主体〟のとらえ方は、前出の「資本主義社会では、社会的発展の推進力は、経済的土台に属する資本の利潤第一主義にありました。しかし、新しい社会では、発展の推進力は、明らかに、『自由の国』における人間の発達にあります」と言う言葉にピッタリと符合します。
 封建主義社会から資本主義社会を超える〝未来社会〟は生み出せない。そして、資本主義的生産様式は許しがたい非人間的な側面を持っているが、生産力を飛躍的に発展させ生産の社会化を「歪んだ形」で推し進め、〝国民の新しい共同社会〟をつくる基礎を築く。それゆえに、資本主義的生産様式の歴史的な意義がある。そして、資本主義社会発展の推進力は資本主義社会の発展のなかで生まれ、資本主義社会の墓堀人となり、〝国民の新しい共同社会〟を築く歴史的使命をもった労働者階級だ。資本主義社会発展の推進力は、賃金奴隷を入れておくオリ(=資本主義社会)ではないし、「新しい社会」「発展の推進力」も「『自由の国』における人間の発達」などという抽象的なものでもない。「新しい社会」「発展の推進力」は、資本主義の曝露・宣伝・煽動を通じてウンカのごとく生みだされる〝by the people〟の思想を持った労働者階級が、「全勤労大衆の国事参加を民主主義的に組織し、全人民の民主主義的管理を組織する」ことを通じて新しい社会(社会主義社会)を築く中にある。「新しい社会」「発展の推進力」は、唯物史観を「超越」した、マルクスも仰天するような思想(空想)の中にではなく、〝by the people〟の思想を持った労働者階級のなかにある。
  詳しくは、ホームページ「不破さんの思い違い」の12、13、19、20、を参照して下さい。
  まず、19を読んでみて下さい。

最後に。是非、HP「不破さんの思い違い」1~22をお読み下さい 

最後に。是非、HP「不破さんの思い違い」1~22をお読み下さい 
 以上が、「不破さんの「批判」の方法と思想」の総括ですが、私のHP「不破さんの思い違い」1~22を読まずにこのページをお読みの方は、私がずいぶん 極端なことを言っているとお思いになる方もいるかも知れません。不破さんをここまで否定しなくてもいいのではないかと思うかもしれません。しかし、ここに 書いた私の不破さんの評価・感想は、不破さんの文章と不破さんが取り上げている古典を読みくらべて、素直に感じたままを表現したもので、みなさんがHP 「不破さんの思い違い」をお読みになれば、納得していただけるものと思います。ですから、私のHP「不破さんの思い違い」1~22を、批判的検討の対象と してで結構ですから、是非、お読み下さい。そして、長年月をかけて培われてきた〝文化の関〟を打ち破って下さい。