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(その1)の要旨
☆『しんぶん赤旗』に2017年8月1日から14回にわたって不破哲三氏の「『資本論』刊行150年に寄せて」という文章が掲載されました。しかし、残念ながら、これらの文章からは、マルクス・エンゲルスが『資本論』を通じて私たちに訴え、そして私たちに求めている、こんにちの「経済的生産と交換の支配的な様式、およびそれから必然的に生れる社会組織」の分析も、そこから導きだされる、私たちに求められている、現代の課題についての論究も、一切ありません。科学的社会主義の思想の生命線である〝変革の立場〟からの論述が全く欠落しています。「赤旗」連載の第1回①から順次見ていきましょう。
①
「「資本主義」─マルクスの命名が世界語になった」について
★不破さんは「赤旗」連載の第1回で、マルクスが150年前に刊行された『資本論』で、この社会を「資本主義」と命名し、それが世界語になったことを述べ、だから今年は「記念すべき年としてよいのではないでしょうか」と言います。
☆しかし、待って下さい。「導入」として、マルクスがこの社会を「資本主義」と命名し、それが世界語になったことを不破さんが述べることに関してなんの異論もありませんが、今年が「記念すべき年」なのは、マルクスが資本主義的生産様式の矛盾を暴露し、資本主義的生産様式の社会が新しい生産様式の社会への過渡的な社会であり、資本主義社会の変革の条件としての「新たな社会の形成要素」である「社会化された近代的生産諸力」の発展と「古い社会の変革契機」としての団結した「近代的労働者」の形成を明らかにした『資本論』を刊行し、150年という節目の年だからであって、マルクスがこの社会を「資本主義」と命名したからではありません。不破さんが科学的社会主義の思想の伝道者たらんとするのであれば、そのことをしっかりと言わなければなりません。
★そして、「21世紀の資本主義の前途は?」と題した「節」では、「ブルジョア経済学の目でも資本主義が現状のままで存続しつづけるとはいえない、今日の事態の重大さ」と述べるだけで、「21世紀の資本主義の前途」を探求することなく、読者の期待に肩すかしを食らわせ、「この連載では」、「世界の資本主義の現状」、「今日の世界の現状」を「探ってゆきたいと思います。(つづく)」と述べて、文章を結んでいます。
★あまりにも尻切れトンボなので、不破さんが(つづく)として探求したマルクスもビックリの〝珍論〟を紹介します。
不破さんは、「探ってゆきたいと思います。(つづく)」と言った「世界の資本主義の現状」についてはまったく触れることができず、「今日の世界の現状」について、米国を中心とする資本主義先進(搾取)諸国の存在などそっちのけで、資本主義的生産様式に覆われた世界の問題を「大国」と「小国」との「序列」の問題にすり替えて、「大国と小国の序列のない新しい世界秩序に向かって、大きく足を踏み出しつつあります」と、自らのノー天気な願望をなんの根拠も示さず事実のように語るだけです。
☆この、「資本」と「国家」が結託して搾取と収奪をおこなう資本主義先進(搾取)諸国のリアルな姿を見ようともしない、不破さんの「大国と小国の序列」論が、マルクス・レーニン主義(=科学的社会主義)の思想とはまったく相容れない、無縁な、とんでもない「珍論」であることは、誰の目にも、明らかです。
マルクスの資本主義批判の輝きを消してしまった
②
「現代に光るマルクスの資本主義批判(1)」について
★不破さんは、連載②の冒頭で、『資本論』の「資本主義社会では、社会的理性はいつも祭りが終わってからはたらく」( 社会的理性が事後になってからはじめて発現するのを常とする資本主義社会(大月版『資本論』③P385参照))という言葉を引用して、「これは、利潤第一主義を行動の原理とする資本主義社会が、経済を管理する理性的な力をもたないことを、痛烈な言葉で指摘したマルクスの警告です」と述べ、続けて、この文章のもつ革命的な意味を語ることなく、「社会的理性」という単語を独り歩きさせ、「この批判は、……資本主義の体質に向けられた言葉ですが、21世紀を迎えた今日、マルクスの警告は、いちだんと深刻な意味をもってきています」言って、「原発問題」と「地球温暖化問題」を「社会的理性」が問われる「問題」として取り上げ、米国のトランプ政権と日本を「社会的理性」を放棄した国として非難します。
☆しかし、上記の文章は資本主義的生産様式の〝本質〟を告発したもので、米国や日本の政権や少しでも多く儲けようという資本家の「体質」への「警告」の文章などではありません。そして、不破さんが持ち出した「原発問題」も「地球温暖化問題」も、マルクスの『資本論』のここでの指摘とは全く関連性がありません。不破さんが『資本論』等から「単語」だけを取り出して、勝手な解釈をして、自分の〝独走的な理論〟の援用に使うというのは、不破さんの常套手段で、不破さんのペテンのテクニックの最重要なものの一つです。(*)
不破さんが持ち出した「原発問題」と「地球温暖化問題」は、資本家の少しでも多く儲けようという金儲け「体質」によるものですから、資本主義的生産様式のもとでも「体質改善」によって改めることができ、改めても資本主義的生産様式を維持する上で何の問題も生じないものです。
☆このように、不破さんは、マルクスの資本主義的生産様式のもつ矛盾を告発する文章を、「資本主義社会の体質」への「警告」の文章に変え、資本主義的生産様式のもつ矛盾の問題を、米国のトランプ政権と日本が改めても資本主義的生産様式を維持する上で何の支障もない、不破さん捏造の「社会的理性」を放棄している問題にすり替えてしまいます。
詳しくは、添付のPDFの「不破さんが引用した冒頭の言葉のもつ意味」の「項」を参照して下さい。
(*)不破さんの「ペテンの常套手段」についての詳しい説明は、ホームページ4「新しい社会への歩みを邪魔する人」の子ページ4-23「総括1:不破さんの「批判」の方法と思想」を、是非、参照して下さい。
★不破さんが、本当に、科学的社会主義の思想の持ち主であらんとするならば、「資本主義社会の体質」への「警告」として、資本主義社会の基でも解決可能な「原発問題」や「地球温暖化問題」を出すのではなく、現代の資本主義社会が必然的に生み出す矛盾の現れをしっかりと摑み、それが現代の資本主義社会が私たちに示す、資本主義的生産様式の社会では解決することのできない矛盾の現れを指摘し、その解決の道を提示しなければなりません。
☆それは、独占資本が社会を支配する力がますます強くなる中で、「社会的理性」をもたない現代のグローバル資本による「産業の空洞化」が進行し、日本国民にとって深刻な「危機」が進行していること、そのことを曝露し、このまま「資本」が「祭り」を続けて我が世の春を謳歌し続ければ「社会的理性」(合理的必然性)によって国民がとんでもない災禍を味わうことになることに警鐘をならし、「社会的理性」を持たないグローバル資本の無謀な行動を強制力をもって規制するとともに、「資本」のない国民が企業と経済をコントロールする〝国民の新しい共同社会〟をつくる労働運動(科学的社会主義の運動)の必要性と必然性を、はっきりと、述べることです。こうしてこそ、「現代に光るマルクスの資本主義批判」というフレーズは意味をもちます。
③
「現代に光るマルクスの資本主義批判(2)」にみる
マルクスと不破さんの「二つの歴史的教訓」の違い
★連載③で不破さんは、『資本論』の「労働日」の章でマルクスが「社会的障害物」を勝ち取ることの重要性を述べていることを指摘し、「21世紀の今日なお有効な、二つの歴史的教訓をひきだしました」と言い、具体的事実を述べることなく「社会的ルール」の世界的な前進とそれらの進展の立ち遅れた「日本の状態」という認識を述べて、「この立ち遅れの克服こそ、日本社会が担っている大きな課題だということを強調したい、と思います。」との教訓を引き出して連載③の文章を結んでいます。
☆不破さんは、「社会的障害物」を勝ち取る意義とその限界を指摘することなく、「社会的バリケード」をかちとり、「ルールある資本主義社会」へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の肉体的および精神的再生であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道だと、事ある毎に、言います。ここでも、不破さんは「ルールある資本主義社会」への道を説くだけです。マルクスは賃上げを含む「社会的バリケード」をかちとるたたかいの重要性を説くとともに、たたかいがそこで留まっていては、それは、「奴隷制を基礎としながら自由」(『賃金、価格、利潤』同前P54)を保障するのと同じことで、そんな戦いは「全面的に失敗する」と言います。だから、不破さんの言う「社会的バリケード」とマルクスのいう「社会的障害物」の位置づけは180度異なっています。
④
「現代に光るマルクスの資本主義批判(3)」にみる
不破さんの大発見と大転落
★連載④で不破さんは、要旨次のようなことを述べています。
㋐「生産と消費の矛盾と言っても、市場経済は、そのバランスが崩れたらすぐそれを直す調節作用を持っているはずです」と、資本主義的生産様式における搾取の仕組を無視した、資本家が聞いたら泣いて喜ぶような、とんでもないことを言い、
㋑マルクスは1857年から7年半の間、「まったく間違った道──利潤率低下の法則の発動によって恐慌の運動法則を説明しようという、誤った道」に立っていたといってマルクスを捏造し、
㋒マルクスは、1865年に『資本論』第二部の「資本の循環」を書いているとき、商人資本が「再生産過程を、現実の需要から離れた『架空の軌道』に導き、生産と消費の矛盾を恐慌の激発にまで深化させるという、資本主義独自の運動形態を生みだす」という「大発見」をしたと〝大発見〟なるものを創作します。そして、その結果、「この発見は、恐慌問題にとどまらず、ⓐ資本主義の現段階の見方から、ⓑ社会変革の理論のとらえ方、さらには、ⓒ『資本論』そのものの構想の立て方にまで影響を及ぼ」したという不破さんの妄想を述べ、
㋓最後に、この恐慌論の到達点は、『資本論』の第4編第18章で読むことができるので、「ぜひ、目を通していただきたいと思います」と述べて、「現代に光るマルクスの資本主義批判(3)」を結んでいます。
以上が不破さんが④「現代に光るマルクスの資本主義批判(3)」で述べている、間違いだらけの、主張です。
☆『資本論』の光を消した不破さんのこの文章からは、「マルクスの資本主義批判」とは何で、それがどのように「現代に光」っているのかさっぱり分かりませんが、書かれていることの真偽のほどを見てみましょう。
順番は前後しますが、㋒で示したマルクスの「大発見」なるものの真偽がら見ていくことにします。
不破さんの言うマルクスの「大発見」なるものを「マルクスの資本主義批判」といい、それが「現代に光」っているというのであれば、不破さんの大間違いです。マルクスが「大発見」したと不破さんが21世紀になって〝大発見〟した「資本の現象的な流通形態から恐慌を説明する」方法は、科学的社会主義の思想を持っていなくても、いまの日本で経済学を多少学んだ者なら誰でもで説明できるきることで、社会変革の理論のとらえ方に影響を及ぼすものなどではありません。
☆そして不破さんは、この「大発見」なるものを口実にして、マルクスを不破さん自らが作り上げた「資本主義発展論」者にマルクスのⓐ「資本主義の見方」を改宗させ、ⓑ社会変革の理論のとらえ方を科学的社会主義の根本思想である〝人民革命〟の思想から「共産党」が議会で多数を占めて政治権力を握るという不破さんが創作した「多数者革命」論に改竄・矮小化し、ⓒマルクス・エンゲルスの『資本論』を不破版エセ『資本論』にかえる「構想」に置き換えたのです。
☆なお、㋓で「ぜひ、目を通していただきたいと思います」と不破さんが言った第4編第18章とは、「第4編 商人資本」の「第18章 商人資本の回転 価格」というタイトルの付いた章のことで、不破さんが、商人資本が「再生産過程を、現実の需要から離れた『架空の軌道』に導き、生産と消費の矛盾を恐慌の激発にまで深化させるという、資本主義独自の運動形態を生みだす」ということをマルクスが「発見」したと言っているところですが、これまで見てきたようにマルクスの「恐慌についての考え」も「資本主義の見方」も「社会変革の理論のとらえ方」も、微動だにしていません。
☆㋐に戻ると、「生産と消費の矛盾」とは資本主義的生産様式によって労働者を搾取して「資本」を大きくすることから生じる矛盾のことで、資本主義「市場経済」の需要と供給の「調節作用」によって直せるものではなく、資本主義的生産様式を新しい生産様式に変えなければ解消されません。そもそも、「生産と消費の矛盾」が「市場」の需要と供給の「調節作用」によって直せるのであれば、恐慌ど起こりません。こんなことは、マルクス経済学に少しでも触れた者なら誰でも分かることです。詳しくは、PDFファイルをご覧下さい。
☆㋑についても、不破さんの真っ赤なウソです。不破さんは、マルクスが1857年から7年半の間、「まったく間違った道──利潤率低下の法則の発動によって恐慌の運動法則を説明しようという、誤った道」に立っていたと言いますが、真っ赤なウソです。
マルクスが『資本論』第三篇(利潤率の傾向的低下の法則)で、まず、明らかにしたのは、「資本主義的生産様式が進展するうちに剰余価値の一般的平均率は低下する一般的利潤率に表されざるをえないということを、資本主義的生産様式の本質から一つの自明な必然性として示しているのである。」(大月版④P267)という、資本主義的生産様式のもとで、設備投資を拡大すればするほど、労働者の搾取によって成り立っている利潤の資本全体にたいする割合の低下が起こるという、搾取によって成り立っている資本主義的生産様式のもつ内的な矛盾がもつ資本主義の宿命=法則そのものです。この法則のもつこの矛盾を「軸」にして資本主義的生産様式を見ていくのが「第一五章」(この法則の内的な諸矛盾の展開)で、この「第一五章」の〝肝(きも)〟──マルクスが『資本論』の第三篇を通じて読者に理解してもらいたかったこと──は、「利潤率の傾向的低下の法則」の発見によって、「資本主義的生産様式は生産力の発展に関して富の生産そのものとはなんの関係もない制限を見いだ」し、「この特有な制限は、資本主義的生産様式の被制限性とその単に歴史的な一時的な性格とを証明するのである。それはまた、資本主義的生産様式が富の生産のための絶対的な生産様式ではなくて、むしろある段階では富のそれ以上の発展と衝突するようになるということを証明するのである。」(大月版④P304)ということです。このように、マルクスは『資本論』で、利潤率低下から「恐慌の運動法則」など説明していないし、「恐慌の運動法則」にもとづいて「恐慌=革命」説など主張したことはありません。
☆だから、不破さんがあらゆる機会に振りまいている、マルクスは第三篇で「恐慌の運動法則」を唱え、「恐慌=革命」説を主張しようとしたが失敗し革命観が変わったなどという虚構、これも、また、真っ赤なウソです。このデマが、㋒の「大発見」──〝恐慌〟の本質を見ない誤った見方──と一体となって、不破さんの誤った資本主義の見方と不破さんのエセ「革命論」のバックボーンを形成しています。
★この不破さんによって転落させられた「共産党」は、2024年1月に開かれた「日本共産党第29回大会」で、資本主義的生産様式における「資本」の役割や企業統治のあり方など一切問うことなく、「決議」で「『失われた30年』は自然現象ではない。財界・大企業の利益のための『コストカット』を応援し続けてきた自民党政治によってもたらされたものである」と断言し、すべての責任を自民党の「新自由主義」による政治になすりつけ、「資本」の行動と姿を国民の目から隠し、「民主主義の完全な発展、すなわち、あらゆる国事への、また資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展」(『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』1916年8月~9月に執筆 レーニン全集 第23巻P17~18)という〝人民革命〟の思想を、見事に、捨て去っています。「ルールある資本主義社会」をつくり「資本主義」を「発展」させ続けた先に「社会主義社会」を夢想する不破さんの弟子たちにとっては、「資本」の真の姿と行動を暴露することは「ルール」づくりを破壊する違反行為なのでしょう。
これが、不破さんのマルクスの「発見」から辿りついた「多数者革命」論の最も新しい姿です。
⑤
「現代に光るマルクスの資本主義批判(4)」にみる
不破さんの観念論
★連載⑤「現代に光るマルクスの資本主義批判(4)」のタイトルは「搾取と支配が社会全域に」ですが、不破さんは、「マルクスは、『資本論』のなかで、この問題(資本主義が生み出す社会的格差の拡大の問題──青山)に特別の1章を当て(第一部第7篇第23章)、格差拡大を鉄則とする資本主義の仕組みを明らかにしました。」と述べ、マルクスが解明した「産業予備軍」の仕組みと役割について大雑把に説明します。そして、「マルクスのこの目で、日本社会を見」ると、「『資本論』で分析されたような関係が、より巧妙・悪質な形で横行して」おり、「『過労死』を生む異常な労働条件が、大企業の職場でも当然視されている」と言い、なぜ「日本社会」にこのような「搾取と支配が社会全域に」蔓延しているのか、一切述べる(「見る」)ことなく、最後に「プロメテウス」と「マルクス」に関する不破さんのうんちくを披露してこの節を結んでいます。
☆不破さんが『資本論』を学んで、私たちにここで教えてくれたことは、「『資本論』で分析されたような関係が、より巧妙・悪質な形で横行して」おり、「『過労死』を生む異常な労働条件が、大企業の職場でも当然視されている」と述べて、「巧妙・悪質」なことが世間にまかり通っているということをただ単に述べているだけでした。不破さんは、なぜ「搾取と支配が社会全域に」蔓延しているような状況がつくられたのか、その原因にもその解決策にも一切触れることはしません。これでは、残念ながら、「マルクスの目で、現代の日本社会を見た」ものとは、とてもいうことはできません。
★『資本論』の学び方を間違えた不破さんは、いまなぜ、「『資本論』で分析されたような関係が、より巧妙・悪質な形で横行」できるのか、いまなぜ、「『過労死』を生む異常な労働条件が、大企業の職場でも当然視され」るような状況がつくりだされたのか、その解明など全く眼中になく、「プロメテウス」に関するうんちくを披露して、「プロメテウスとともに鉄鎖を断とう」と勇ましく叫ぶだけです。
こんな文章を読んでも、党員の質も士気も絶対に上がらないし、こんな文章を読んで、ただ「ウラー!!」と叫ぶだけの党員が生まれてしまったら、そら恐ろしいことです。
☆「『過労死』を生む異常な労働条件が、大企業の職場でも当然視されている」ような日本ができてしまったのは、「資本」が国内投資を設備の更新程度に極度に抑え、富と労働力を海外に輸出して、「産業予備軍」が必然的に増加するような状況をつくり出したからです。そして、そのような状況がつくり出されることを許した政治状況があったからです。
☆1992年版『通商白書』は、「企業活動の国際的展開が進むにつれ、従来の国家と企業との関係にも変化がみられるようになってきている。……ある国の資本による企業の利益がその国民の利益と一致する度合いが減少しつつある」とし、「国際展開が進んだ企業は資本の国籍にかかわらず、現地の雇用者を多数擁し、現地の市場を中心として財・サービスを提供する。したがって自国籍企業の収益向上が直接に国民生活と関係するところは、収益の分配が主として当該国の投資家にたいして行われるという点に限定されていく傾向を有する。さらに投資家が国際的に分散していけば、その意味すら失われる」と述べています。このように、今日の日本の「産業予備軍」をめぐる問題は、資本主義の上向過程での「資本」の搾取強化のための方策の問題ではなく、資本主義的生産様式のもとでのグローバル資本と国民・国家との最終的な分裂の問題です。
★日本の高度経済成長期は、大資本が中小企業と労働者階級を踏み台として「一本足打法」で輸出を伸ばして「資本」を大きくして国内経済を発展させた。だから、不破さんの「資本主義発展論」に従って、大企業が儲けた富の分配をより公平にしろと中小零細企業と労働者階級が叫び続けることで多少の成果を上げることもできた。「賃金を上げろ!」「労働条件を改善しろ!」と叫んで、「大資本」の横暴を抑える民主的な政府の樹立を求めるだけでも、ある程度「資本」への牽制となり、「共産党」も多少の支持を得ることができました。
これが「高度経済成長期」型のたたかいです。
★しかし、「資本」が、その成長と発展を維持するために富と雇用を海外に移し、海外での搾取に本格的に舵を切ると、これまでの「資本」のおこぼれにあずかる生活改善・待遇改善だけのたたかい方は無力になります。「企業の利益がその国民の利益」と「一致」しなくなり、「資本」の本質とのたたかい、〝企業そのもの〟の存在意義を問う、〝企業は社会のためにある〟という社会制度を展望したたたかいが必要不可欠になります。「高度経済成長期」型の「改良」のたたかいから、社会全体の民主主義を展望するたたかいに「戦い方」をシフトしなければ、国民の生活を改善する可能性を見つけ出すことができなくなります。
☆けれども、科学的社会主義の党のはずの「共産党」を変質させてしまった不破さんは、「『資本論』で分析されたような関係が、より巧妙・悪質な形で横行して」おり、「『過労死』を生む異常な労働条件が、大企業の職場でも当然視されている」と述べて、「巧妙・悪質」なことが世間にまかり通っていることをただ単に述べるだけで、その原因である「資本」の行動──その成長と発展を維持するための富と雇用の海外移転──から目を逸らせ、「70年代の高度成長期」のたたかいの延長線上で、「賃金が上がれば景気はよくなる」などとノー天気なことを言うだけです。
★青山が、先ほど、〝そのような状況がつくり出されることを許した政治状況があったからです〟と申したのは、今だ不破さんの影響力に汚染されている「共産党」が、科学的社会主義の党の本来の使命である──資本主義的生産様式のもとでのグローバル資本と国民・国家との最終的な分裂の問題である「産業の空洞化」の本質を明らかにして労働者階級を鼓舞し、反撃の援助をおこなう──ということを放棄したために、労働者階級が、グローバル資本の──企業と労働者が生き残るためには労働条件の低下も甘受しなければならない──というイデオロギー攻撃に屈服させられてしまうような〝政治状況〟がつくられてしまったことを指しています。
〈『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏〉
の
ここまでのまとめと今後の展開について
☆マルクスとエンゲルスは、資本主義社会の矛盾を明らかにし、その解決のためには資本主義的生産様式の社会を「資本」の支配しない〝結合労働の生産様式〟の社会に変えなけば駄目だということと新しい生産様式の社会を実現するための主体的条件と客観的条件とについて、常にセットで私たちに示してきました。しかし、これまで見てきたように、『資本論』にかこつけて不破さんがおこなってきたことは、マルクスの「資本主義批判」の今日的意義を明らかにし現代に生かすのはなく、マルクスの〝文章の一部〟を歪曲してちりばめて自分の主張があたかもマルクスの思想ででもあるかのように見せることによって、不破さんの誤った考えを私たちに刷り込もうとすることでした。
★このページに続く連載⑥「資本主義は人類史の過渡的一段階(1)」は、「マルクスの資本主義に対する見方は、批判一本やりではありませんでした。」という文章で始まります。これまで「マルクスの資本主義に対する見方」を歪めたうえで、自分の誤った考えを私たちに刷り込もうとした不破さんは、「批判一本やり」(?)を捨て、「資本主義は人類史の過渡的一段階(1)」から、その本領を発揮し、不破さんの「『資本論』刊行150年に寄せて」は、マルクス・エンゲルスも驚くような展開をします。
ホームページAZ-2-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏」(その2)を、是非、ご覧ください。
注)このホームページAZ-2-1「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏」(その1)は、付属の〈補論〉を加えると、PDFで30ページにおよぶものとなりましたので、本ページには〈要旨〉のみを掲載することといたしました。是非、PDFで、落ち着いてお読みいただければ幸いです。よろしくお願いします。