「資本」のための経済から〝人間〟のための経済へ
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〈目次〉
①変革の必要性…2
②変革の結果がもたらすもの…2
③資本の力を法的に奪う(削ぐ)…3
④労働者と社会による企業の統治…6
⑤新しい社会を支える真の〝民主主義〟の社会全般での実現…7
⑥労働者階級の歴史的役割と労働者と国民の新しい人への脱皮と飛躍…8
⑦そのために推進すべき当面の課題…15
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「資本」のための経済から〝人間〟のための経済へ
なぜ、私たちは資本主義的生産様式の社会を変革しなければならないのか
☆これまで見てきたように、資本主義的生産様式の社会は、〝生産手段の私的占有者が企業の支配権をもつ〟ことが神聖な社会規範となっており、社会を発展させるためには企業が拡大再生産を維持し続けるために儲けを求めて走り続けることなしには存続できない仕組みの社会です。つまり、資本の拡大が社会の発展を支える仕組みの社会です。それゆえ、企業は貪欲に儲けを求めて、一方で、相対的過剰生産の芽を育み、極限まで発展させますが、それはまた、同時に、必然的に労働者の賃金を抑制し、国民の購買力を弱めることによて市場を狭め、生産拡大のための資本の投資機会を消失させることにより、資本主義社会の発展のエンジンである資本による拡大再生産の条件を制限し、生産力の発展と資本主義社会の発展を制限します。
最大の目的が儲けることである企業によって成り立っている資本主義的生産様式のもとで行われる「社会的な生産」は、合理的な、社会が本当に必要とする〝社会的な生産〟を目的として行われるのではないために、社会に多くの歪みや弊害をもたらします。加えて、資本主義社会が必然的にもたらす、一方での「富」の蓄積と他方での「貧困」の蓄積の固定化とその一層の拡大は、経済的「財産」の不平等が人間的発達の不平等の主要な原因となって、社会全体の発展のための豊かな基礎を失わせます。資本主義的生産様式の社会とは、このような仕組みの社会なのです。
★だから、私たちは、この生産手段の私的占有による企業の支配が貫徹している〝資本主義的生産様式の社会〟を変革して、〝国民のための経済をつくる〟ことのできる新しい生産の仕方の社会をつくらなければならないのです。社会の発展、人間の豊かな発展の可能性を担保するために、それを保証する富の生産と分配に関する人とモノ、人と人の新しい結びつきのシステムを築きあげなければならないのです。
これらのことを国民の共通理解にして、国民が新しい生産様式の社会の具体的なイメージをしっかりと持つ必要があります。
★この新しい生産様式の社会のことを、天才マルクスは、〝共産主義社会〟といい、「結合労働の生産様式」の社会と言いましたが、〝結合労働の生産様式の社会〟とは、レーニンの言う、社会を「社会主義的経済的有機体に組織する」ために「全人民の民主主義的管理を組織する」ことを通じて〝民主主義の完全な発展〟を図るという思想を内包した社会のことです。この科学的社会主義の思想こそ、資本主義的生産様式の社会を乗り越えて〝国民のための経済をつくる〟ための思想であり、二一世紀の新しい社会づくりに光と力を与えるものです。
〝新しい生産様式の社会〟は、
「資本」が生産と社会の発展を支配するのではなく、
人間が生産と社会をコントロールすることにより、
社会の豊かな発展を促す
☆〝新しい生産様式の社会〟では、「資本」による生産の支配がなくなり、「儲かる」かどうかが製品作りやサービスを提供するための基準ではなくなり、社会として必要な産業や製品等に必要な資源が投入され、社会の豊かな発展を促します。社会が必要とするサービスやモノを提供できるようになる。
☆生産性を上げることは、より豊かな社会を創るための必須条件ですが、〝新しい生産様式の社会〟では、「儲け」や「利潤率」という資本主義的生産様式の社会を支配する概念がなくなるので、生産性の低い産業・企業だから労働者の賃金が低く抑えられるということがなくなり、その仕事の難易度と労働者の能力・スキルによって賃金は決定され、生産性は低くても社会的に必要な仕事なら、ないがしろにされたり、そこで働く労働者が劣悪な労働条件を甘受するということもなくなります。社会に必要な労働が正当に評価されるようになる。
☆このように、〝新しい生産様式の社会〟では、現状では生産性が低い分野でも社会的に必要な仕事なら必要な資源が投入される結果、技術革新等も進み、社会的に必要な仕事は、資本主義的生産様式の社会では考えられないような生産性の向上が図られることになります。社会に必要な労働の生産性が向上し、人々の生活を豊かにする。
☆〝新しい生産様式の社会〟では、人々が等しく豊かになることによって、人々の将来設計の自由度が増し、多様で豊かな文明的な社会への礎が築かれます。人々の自由度が増し、多様で豊かな文明的な社会への礎が築かれる。
☆国家間の貿易に於いても、資本主義的生産様式の社会では他国の国民を搾取し収奪するための手段であった「資本」や知的財産権が持つ力は、〝新しい生産様式の社会〟ではその力を失い、先進国の高い技術と生産手段は、純粋に、生産性の低い国々の人々を豊かにするために使われる。その結果、世界中の人々の賃金格差も縮まり、やがて、解消し、国家間、民族間の争いの種がなくなります。経済覇権をめぐる争いがなくなり、世界中の人々が豊かになるための条件がつくられる。
☆これが、「資本」の消滅した〝新しい生産様式の社会〟が辿り着く、必然的な結果です。
「資本」が成長のエンジンである社会の仕組みを
国民の労働が社会の成長エンジンである
まともな社会の仕組みに変える
☆『資本論』は、資本主義的生産様式の社会は私的「資本」による「資本」の拡大再生産を前提として成り立っている社会であることを証明し、同時に、資本主義的生産様式そのものが生産拡大の妨げとなる矛盾を内包していることを証明しました。科学的社会主義の思想は、資本主義社会が「資本」の拡大再生産を前提としているがゆえに必然的に搾取を前提としていることを認め、この私的「資本」の経済支配の中に資本主義的生産様式の社会の没落の根拠を認め、資本家による〝生産手段の私的占有〟に基づく経済の支配と経済の成長から解放された〝経済〟システム、国民の労働が社会の成長エンジンであるような〝経済〟システムの社会をつくることによって、賃金奴隷の軛から自らを〝解放〟して社会の主人公となった労働者階級が資本主義的生産様式の軛から〝解放〟された生産力を使って、人々の生活を飛躍的に豊かにすることができることを明らかにし、そのような新しい社会をつくる条件を資本主義的生産様式の社会自身が準備していることも明らかにしました。
マルクスは、この新しい社会のことを「結合労働の生産様式」の社会と呼びましたが、このように、マルクスとその真の同志であるエンゲルスによって、資本主義社会の次にくる〝経済が社会全体と人々の生活を豊かにする社会〟(=社会主義社会)を実現する道が科学的に、はじめて、明らかにされたので、マルクスとエンゲルスが発見したこの思想のことを〝科学的社会主義の思想〟と言います。
マルクス・エンゲルスから学ぶ
★マルクスは、「資本」の未来について、『資本論』で「資本主義のではなく共産主義の社会(この場合の「共産主義の社会」とはいわゆる「社会主義社会」のこと──青山)を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる。」(大月版③P385)と言い、「社会的生産では貨幣資本はなくなる。社会は労働力や生産手段をいろいろな事業部門に分配する。生産者たちは、たとえば指図証を受け取って、それと引き換えに、社会の消費用在庫のなかから自分たちの労働時間に相当する量を引き出すことになるかもしれない。この指図証は貨幣ではない。それは流通しないのである。」(同②P437-8)と述べ、第三部「第五篇 利子生み資本」では次のように言います。
「最後に、資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろうことは、少しも疑う余地はない。とはいえ、それは、ただ、生産様式そのものの他の大きな有機的な諸変革との関連のなかで一つの要素として役だつだけである。これに反して、社会主義的な意味での信用・銀行制度の奇跡的な力についてのもろもろの幻想は、資本主義的生産様式とその諸形態の一つとしての信用制度とについての完全な無知から生まれるのである。生産手段が資本に転化しなくなれば(このことのうちには私的土地所有の廃止も含まれている)、信用そのものにはもはやなんの意味もないのであって、これはサン・シモン主義者たちでさえも見抜いていたことである。他方、資本主義的生産様式が存続するかぎり、利子生み資本はその諸形態の一つとして存続するのであって、実際にこの生産様式も信用制度の基礎をなしているのである。」(同⑤P783)
このようにマルクスは、新しい生産様式の社会では「貨幣資本」がなくなること、「生産手段が資本に転化しなくなる」ことを述べています。
☆なお、このように、資本主義的生産様式から結合労働の生産様式の社会へ移行が行なわれるということは、信用制度の基礎をなす生産様式がなくなり、生産手段が資本に転化しなくなり、貨幣が利子を生まなくなるということですから、貨幣がもっている、①流通手段、②価値表現、③「資本」の循環形態の一局面である「貨幣資本」、④利子生み資本としての「貨幣資本」という四つの機能から③と④の機能がなくなるということす。
※なお、私は、「資本主義のではなく共産主義の社会を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によってはいってくる取引の仮装もなくなる」という社会において、それがまだ「社会主義社会」であり人間の労働に依拠した社会である以上、人間の労働に根拠をおく「価値表現」はなくならないし、その価値に根拠をおく「流通手段」も必要だと考えています。
「生産手段が資本に転化しなくなる」社会とは、
そして、
それはどう創られるのか
☆このように、『資本論』第五篇の最後の「章」の最後の文章で、マルクスとエンゲルスが示した「結合労働の生産様式」の社会とは、「貨幣資本」などというもののない、搾取の根拠のなくなった社会です。「貨幣」が「貨幣資本」として、搾取の手段として機能できなくなる、「貨幣」から「貨幣資本」の力を削いだ社会を実現することなしに、搾取のない、〝経済は社会全体と人々の生活を豊かにするためにある〟という社会をつくることはできません。
それは、生産手段の所有者が企業を支配することができない社会、財産を所有する者が企業を支配して労働者を搾取することによって「資本」を大きくすることのできない社会であり、私的土地所有や知的財産の私的所有等による労働の成果の収奪も法的に認められない仕組みを規範とする社会です。そのためには、私たちは、「富」の所有者が「財産権」に基づいて搾取と収奪を自由に行うことのできる権利をその「富」の所有者から法的に削いだ社会制度・規範を確立しなければなりません。生産手段を「私」から「公」にしただけでは、資本主義的生産様式の社会は生き続け、搾取の仕組みは生き続けます。
★経済的「財産」を私的占有することに基づいて発生する「権利」の正当な制限は資本主義的生産様式の是正につながり、その否定は資本主義的生産様式を否定し「資本」の力を法的に削ぐことに直結していますが、「利潤第一主義」の「是正」では資本主義的生産様式の是正にまったく繋がりません。「利潤第一主義」の「是正」は、資本と国民のイタチごっこの新たな始まりにしか過ぎません。(だから私たちは、「利潤第一主義」の「是正」だけの「思想」を「改良主義」と言って嘲笑するのです。)
☆しかし、「貨幣資本」の「資本」的性格をなくしていく、その度合いは、〝企業〟による〝社会的生産〟の意義を社会(国民)が認識していく度合いの深さに依存します。生産における民主主義の発展の深さに依存します。最初は企業の純利益を「株主」と社会がどう分け合うのか、そして最後は「企業」は社会のなかでどんな役割を担うのかまでの「社会」と「企業」との関係は、国民が「企業」の「社会的生産」の意義をどれだけ正しく認識しているか、その認識の度合いの深さに依存しています。そしてこの「社会」と「企業」との関係は、「株式」の所有のあり方と「株式」の機能の変化に反映され、「株式」の所有のあり方と「株式」の機能の変化を通じて変化していくものと考えられます。
「生産手段が資本に転化しなくなる」社会の萌芽のきざし
☆資本主義的生産の矛盾が深まり、従来の資本主義の運営ではその解決の糸口を摑むことが益々困難になるなかで、目を凝らせて世の中を見てみると、「生産手段が資本に転化しなくなる」社会の萌芽のきざしとでも言えるようなものが、「現代の資本主義」のなかに見ることができます。
★2020年の「ダボス会議」(世界経済フォーラム(WEF)の年次総会)について、『日経』新聞は、「資本主義の再定義が主題になった。株主への利益を最優先する従来のやり方は、格差の拡大や環境問題という副作用を生んだ。そんな問題意識から、経営者に従業員や社会、環境にも配慮した『ステークホルダー(利害関係者)資本主義』を求める声が高まる。中国主導の『国家資本主義』に抗する新たな軸への模索が始まった。……今回の会議は『株主至上主義』の見直しをグローバルな場で再確認する機会になったといえる。」(2020/01/23)と報じています。
『日経』までもがこのように言わざるを得ないように、社会主義は私たちのすぐ近くまできています。
☆このように、最初は企業の利益を「株主」と社会がどう分け合うのかにはじまり、そして、社会主義者の介入によって、「企業」は社会のなかでどんな役割を担わされているのかが問われ、社会における企業の〝社会的生産〟の意義が明らかになり、その正しい認識の深まりの度合いに応じて、〝資本のない社会〟に向かって「株式」のもつ機能を変化させ、「社会」と「企業」と「労働者」との関係を変化させます。
このような企業の再定義と〝資本のない社会〟を実現させるための、国民へのたゆまぬ説明がなければ、資本主義社会から新しい生産様式の社会への発展などありえません。そして、その任を先頭に立って担うのは、正しい〝科学的社会主義の思想〟を身につけた人たちです。「科学的社会主義の思想」の持ち主を自認する人は、このことをしっかり考えて、肝に銘じなければなりません。「賃金が上がれば、経済が発展する」などという「資本主義発展論」を吹聴するだけのニセ「科学的社会主義」者を科学的社会主義の世界から摘まみ出して下さい。
★国民の認識の変化の過程は忍耐に満ちたものとなるかも知れませんが、財産の持つ「資本」的性格をなくしていくという、その方針と目標は旗幟鮮明なものでなければなりません。「言うは易く行うは難し」という言葉がありますが、どんなに困難でもそれ以外に道がない以上、この道を一歩一歩切り拓いていく以外に他に方法などありません。だから、その目標は、安易な、資本と国民のイタチごっこの「ルールある資本主義」の実現などであっては、絶対に、ならないのです。
〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会を実現させるための、
新しい社会の仕組みを担保し・維持発展させる、
労働者と社会による企業の統治の確立。
☆私は③で、マルクスとエンゲルスが資本主義社会の搾取と発展の仕組みとそこから生まれる資本主義社会では解決しがたい資本主義社会そのものの発展を妨げる矛盾を発見し、その克服の道を、はじめて、科学的に明らかにしたので、マルクスとエンゲルスが発見したこの思想が〝科学的社会主義〟と呼ばれていることを記しました。
マルクスとエンゲルスの思想を〝科学的社会主義の思想〟という理由は、資本主義的生産様式の社会の発展の中に〝新たな社会の形成要素〟としての、資本主義的生産様式を打ち破るまでにいたった社会的生産と生産力の発展と、〝古い社会の変革契機〟としての、資本主義的生産様式の社会の発展にともなう経済的「財産」の私的占有がもたらす矛盾の激化とその矛盾の絶対的な解決者であり社会的生産の担い手である労働者階級の存在を発見し、そのことを明らかにすることによって、社会主義を絵空事ではないものにした点にあります。つまり、新しい生産様式の社会を生みだし、新しい生産様式の社会の主役となるのが労働者階級であることを、願望ではなく、科学的に明らかにしたことです。
労働者階級こそが新しい生産様式の社会への道を開く中心的な担い手であり、新しい生産様式の社会は〝労働者と社会〟が〝企業統治〟の中心にいることによって成立する社会的生産の仕方の社会です。〝労働者と社会〟による〝企業統治〟は新しい生産様式の社会を成り立たせるための絶対的に不可欠な構成要素です。
★社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするうえで、その最大の阻害要因となっているのは、〝生産手段の私的占有者〟が企業の支配権をもち、社会を支配していることです。そこで働く人々とその地域社会、そして国家の現在と未来のためにあるはずの企業は「資本」を貸しているだけの資本家たちによって支配されています。資本主義的生産様式の社会においては、〝生産手段の私的占有者が企業の支配権をもつ〟ために、企業とそこで働く人々や地域社会や国家の現在と未来のあり方など──企業の社会的責任──についてこれらの利害関係者が協議するための権限のある機関を作ることなど御法度です。しかし、新しい生産様式の社会は〝労働者と社会〟による〝企業統治〟によって、企業が私欲ではなく社会的責任を果たせるように生まれ変わった新しい生産の仕方の社会です。
レーニンから学ぶ
国事への全国民大衆の、
完全な、真に全般的な参加
☆「資本」に代わって社会を支配する〝力〟となるのは何かという問題について、レーニンは次のように言います。
「一般に資本主義、とくこ帝国主義は、民主主義を幻想に変える──だが同時に資本主義は、大衆のなかに民主主義的志向を生みだし、民主主義的制度をつくりだし、民主主義を否定する帝国主義と、民主主義をめざす大衆との敵対を激化させる。資本主義と帝国主義を打倒することは、どのような、どんなに『理想的な』民主主義的改造をもってしても不可能であって、経済的変革によってのみ可能である。しかし、民主主義のための闘争で訓練されないプロレタリアートは、経済的変革を遂行する能力をもたない。銀行をにぎらないでは、生産手段の私的所有を廃止しないでは、資本主義に打ちかつことはできない。しかし、ブルジョアジーから奪いとった生産手段にたいする、全人民の民主主義的管理を組織することなしには、全勤労大衆を、すなわち、プロレタリアをも、半プロレタリアをも、小農民をもひきいて、彼らの隊列、彼らの勢力、彼らの国事参加を民主主義的に組織する方向にむかわせることなしには、これらの革命的措置を実行することはできない。…………社会主義は、あらゆる国家の死滅へ、したがってあらゆる民主主義の死滅へ導く。しかし社会主義は、プロレタリアートの独裁を通じるよりほかには実現されない。ところでこのプロレタリアートの独裁は、ブルジョアジーすなわち国民のなかの少数者にたいする暴力と、民主主義の完全な発展、すなわち、あらゆる国事への、また資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展とを結びつけるのである。」(『ぺ・キエフスキー(ユ・ピャタゴフ)への回答』1916年8月~9月に執筆 全集 第23巻P17~18注:この色の部分は青山が強調するために付けた)
「あらゆる国事への」国民の「真に全般的な参加の完全な発展」のもつ意味
☆レーニンが言うように、「資本」の力を法的に削いだあとに「資本」の力に代わって社会を支配す力となるのは、「民主主義の完全な発展、すなわち、あらゆる国事への、また資本主義廃絶のあらゆる複雑な問題への全国民大衆の、権利を真に同じくした、真に全般的な参加の完全な発展」(注:この色の部分は強調するために「全集」に付けられている)以外にありません。「資本」家が打倒されても、民主主義が、人民の参加がなければ特権階級を生み、特権階級の支配を生みます。そのことは、ソ連が証明しています。不破さんは、ソ連について、「官僚制」が問題だったと言いますが、あらゆる国事への民主主義の欠如こそが問題だったのです。(*1)
★世界経済フォーラム(WEF)は、2020年6月3日、2021年のWEFの年次総会のテーマを「グレート・リセット」と決め、『日経』とのインタビューでWEFの創設者のクラウス・シュワブ会長は、「世界の社会経済システムを考え直さないといけない。第2次世界大戦から続く古いシステムは異なる立場のひとを包み込めず、環境破壊を引き起こしてもいる。持続性に乏しく、もはや時代遅れとなった。人々の幸福を中心とした経済を考え直すべきだ」「次の世代への責任を重視した社会を模索し、弱者を支える世界を作っていく必要がある。」と言い、「自由市場を基盤にしつつも、社会サービスを充実させた『社会的市場経済(Social market economy)』が必要になる。政府にもESG(環境・社会・企業統治)の重視が求められている」(2020/06/04付け)と述べています。(*2)
このように、「現代の資本主義」は資本主義に幻想を抱いている人たちにも私たちと同じ方向を向くことを強制しています。しかし、企業を「資本」が支配する「自由市場」を「基盤」とし、企業経営にその企業を動かしている労働者やその企業の存立している地域社会の人々の声が反映されないならば、「あらゆる国事への」国民の「真に全般的な参加の完全な発展」が保障されないならば、それは絵に書いた餅です。
(*)詳しくは、ホームページ5-3-4「レーニンが生きた時代の特殊性は科学的社会主義に何を強いたのか」を参照して下さい。また、ホームページ5-3-3「レーニンは国家と社会を民主的に組織することこそが社会主義社会への途であることを示した」も併せてお読みいただければありがたいです。
(*2)なお、WEFは毎年1月にダボスで年次総会を行いますが、2021年の年次総会は、「COVID-19」の影響で、延期に延期を重ね8月にシンガポールで開催される予定でしたが、中止となりました。
新しい社会を支える真の〝民主主義〟の社会全般での実現を!
☆「現代の資本主義」が抱える問題は、企業を「資本」が支配するという今ある制度を変え、〝資本の支配〟から〝人民の支配〟へと社会をコントロールする〝力〟を〝グレート・リセット〟しなければ解決することはできません。新しい生産様式の社会を実現し、支えるためには、政治の場で、生産の場で、生活の場で、「真に全般的な参加の完全な発展」を図ることが必要です。そして、〝全人民の民主主義的管理を組織する〟ためには、国民一人ひとりの自覚的な成長が必要ですが、〝全人民の民主主義的管理を組織する〟過程は、同時にまた、一人ひとりの国民の自覚的な成長を助ける過程でもあります。そしてこの〝全人民の民主主義的管理を組織する〟過程は、同時にまた、起こりうる「特権」の発生する余地をも狭めてくれます。
★生産の場での、資本を排除した、地域と労働者の意向が反映されるような経営への労働者階級と国民の民主的参加を保障し実現することは、特別に重要です。そのような方向性を労働者と市民の側から追求した小さな萌芽の一つともいえる、初歩的な、その兆候のような一つの例として、自治体労働者がおこなう「自治研」活動という運動があります。この運動は、〝労働者・国民〟の立場で、自らの仕事に関係のある住民等と話し合い、かれらと認識を共有して、住民本位の自治体行政を進めるための糧・エネルギーとしようとする自治体労働者の運動ですが、労働者階級は自らの企業の経営にコミットできるだけの能力を身につける努力をし、その能力を獲得しなければ、新しい生産様式の社会をつくることなど望みようもありません。(*)そして、その能力を生かせるような制度が実現したときから、新しい生産様式の社会が始まります。いわゆる「社会主義社会」、〝結合労働の生産様式〟の社会とは、このような努力を通じてのみ生まれることのできる社会です。
なお、この「自治研」活動は、1970年代に燎原の火のように拡まった革新自治体とともに発展しますが、残念ながら、革新自治体の衰退とともに衰退して、大きなムーブメントではなくなってしまいました。自治体労働者が自らのアイデンティティを作るためにも、未来の公務労働のあり方を探究するためにも、再び「自治研」活動が全国で活発に行なわれることを願ってやみません。
(*)労働者階級の自らの企業経営へのコミットのしかたについては、「⑦そのために推進すべき当面の課題」でより詳しく触れます。
労働者階級の歴史的役割
☆これまで見てきたように、資本主義社会を変え新しい生産様式の社会を創り、維持発展させるのは、資本主義社会で「資本」に搾取され賃金奴隷として資本主義の発展のために働かされている、資本主義的生産様式の申し子である労働者階級です。労働者階級こそが資本主義社会を覆し、企業経営への参加を含めあらゆる国事への真に全般的な参加によって〝全人民の民主主義的管理を組織する〟ことにより新しい生産様式の社会を組織し、維持発展させることのできる中心部隊であり、新しい生産様式の社会の主役です。
★だから、マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』(1847年)で「時々労働者が勝つことがあるが、ほんの一時的にすぎない。かれらの闘争の本当の成果は、その直接の成功ではなくして、労働者のますます広がっていく団結である。」(岩波文庫P51)と述べて、新しい生産様式の社会をつくる原動力を〝労働者のますます広がっていく団結〟に求めました。
このマルクスとエンゲルスの思想を、正しく、最も忠実に受け継いだ若きレーニンは、1895~1896年に獄中で「社会民主党綱領草案と解説」執筆し、1899年末に執筆した「わが党の綱領草案」(*1)で、「ロシア社会民主労働党の綱領の構成部分は、つぎのようなものでなければならない」として、以下の項目を列挙しています。
(一)ロシアの経済的発展の基本的性格をしめすこと。
(二)資本主義の不可避的な結果、すなわち、労働者の貧困の増大とその憤激の増大をしめすこと。
(三)プロレタリアートの階級闘争をわれわれの運動の基礎としてしめすこと。
(四)社会民主主義的な労働運動の終局目標、この目標の実現のために政治権力をたたかいとろうとするその志向、運動の国際的性格をしめすこと。
(五)階級闘争の必然的な政治的性格をしめすこと。
(六)~(一〇)略
☆このように、資本主義社会を変革して新しい生産様式の社会を創る科学的社会主義の運動は、科学的社会主義と言われるゆえんの労働者階級の歴史的な使命を正しく認識しているからこそ、〝プロレタリアートの階級闘争〟を自らの運動の基礎としてきたのです。しかし、戦前から、厳しい弾圧のなか、科学的社会主義の旗を守ってきた日本共産党は「2004年綱領」(*2)でこの労働者階級の歴史的な使命・役割を「党綱領」から削除し、ニセ「共産党」に脱落してしまいました。残念でしかたありません。
(*1)詳しくは、ホームページ3-2-1「『2004年綱領』にみる不破哲三氏の転落の証明」の〈党綱領はどうつくられなければならないのか〉の項を、是非、参照して下さい。
(*2)詳しくは、ホームページ3-1-1「不破さんと志位さんの『共産党100年』史…科学的社会主義の大地に『資本主義発展論』の種を蒔く」及びホームページ3-2-1「『2004年綱領』にみる不破哲三氏の転落の証明」を、是非、参照して下さい。
「賃金奴隷」として資本家に支配されている労働者階級の生存状況
☆このような歴史的使命をもつ労働者階級は、今、どのような社会環境のなかで生きているのか、一緒に見てみましょう。
資本主義的生産様式の社会は、〝生産手段の私的占有者が企業の支配権をもつ社会〟で、価値の分配を平等にすることを妨げ、国民全体が義務的に働く時間を短くするとともに享受できる価値を多くすることによって文化的に生活する権利を奪い、〝経済は社会全体と人々の生活を豊かにするためにある〟という社会の成立を妨げているだけでなく、資本主義的生産様式そのものが生産性の向上をも妨げる原因を生み出していることは、これまで見てきたとおりです。この資本主義的生産様式の社会を支える基盤としてのエセ「民主主義」とエセ「自由」(*)の基で「賃金奴隷」として資本家に支配されて生きざるをえない労働者階級の生存状況は、一人ひとりの労働者・国民の社会についての正しい認識能力を低め、主体的に判断して社会的な行動を行う力を弱めざるをえません。
★今日の「民主主義国」を自称する国々のいわゆる「民主主義」は、行政の執行官や議員を選ぶことに矮小化され、「全人民の民主主義的管理を組織する」ことを通じて「民主主義の完全な発展」を図るという考えも、そのような道も、閉ざされており、「自由」も与えられた環境での「自由」であり、搾取される「自由」であり、翼のない「自由」ですが、この環境に馴染んでしまった人々は、今あるエセ「民主主義」とエセ「自由」こそが本物の自由であり民主主義であると思い、企業での資本の圧迫は感じても「賃金奴隷」として資本家に搾取されているなどとは思わず、矛盾を感じることもなく、平穏に時が過ごせることを願って生活しています。
(*)詳しくは、ホームページ2-1-3「〝社会のあり方〟と〝自由と民主主義〟の現在・過去・未来」をご覧下さい。
労働者階級が社会変革の主役としての目ざめを妨げられているワケ
☆科学的社会主義の思想の持ち主たちは、二十一世紀が、私欲まみれの資本主義的生産様式の社会から〝経済は社会全体と人々の生活を豊かにするためにある〟という社会に変わることが、合理的で、ごく自然なことだと思っています。
しかし、資本主義的生産様式の社会を変えるうえで最もエネルギーを発揮すべき立ち位置にいる、階級闘争の当事者である労働者階級は、資本の激烈なグローバル競争のなかに放り込まれ、資本主義的生産様式の社会に埋没させられ、労働者の多くが資本の論理に浸潤され、社会を正しく認識する力を麻痺させられ、眠り込まされてしまったかのような状況に、今、置かれています。支配階級の思想が支配的な思想として社会を支配しています。
★生産力がGDP世界第四位(2024年現在)にまで落ちてしまった日本は、いま、働く人々の「再生産」の条件さえもが掘り崩され、人の一生のあらゆる局面で人として生きつづけるための条件が失われ続けています。しかし、残念ながら、まだ、その真の原因が「生産手段の私的占有者が企業と社会の支配権をもつ社会」(=資本主義的生産様式の社会)の最大利潤を求める「資本」どおしの競争の必然的な結果であり、その現れが日本の「産業の空洞化」であることに、多くの国民は気づいていません。
自分の肉体以外なにも生産手段を持たず、それ故、この社会の富を生み出し社会を支えている真の主役でありながら、「賃金奴隷」として資本家どもに支配されることに甘んじている労働者階級は、日本の「産業の空洞化」を生み出す真因を突きとめることができず、資本主義的生産様式の社会がつくりだした〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟を正しく見ることが妨げられ、〝経済は社会全体と人々の生活を豊かにするためにある〟という社会のイメージを明確につかむことができずにいます。資本主義に変わる新しい社会誕生の歴史的必然性とその新しい社会を実現する主役が自分たち労働者階級であるといことに気づくことができずにいます。
☆労働者階級が、これらのことを認識できないのはなぜでしょうか。
資本家やその太鼓持ちが詭弁を弄して資本主義社会の正当性を喧伝し、マスコミが焦点をずらし、争点をずらして、世論をミスリードし続けていることが最大の原因の一つであることは言うにおよびません。しかし、これらは想定内のことで、自由な言論が封殺された戦前の日本からみれば、いまの日本は、当時の社会主義者にとって、天国のように見えることでしょう。
★問題は、いま自分たちが置かれている状況の本当の原因は〝生産手段の私的占有者が企業と社会の支配権をもつ社会〟がつくり出したものであること、そして、この社会の中から〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟が生み出され成長していることを具体的に明らかにし、労働者階級こそが社会変革の主役であることを明言し続けるような労働運動が、いま日本には、無いに等しい状態にあるということです。そうした中で国民が「井の中の蛙」のように、現在与えられている条件を当然のものとして、あるいはやむを得ないものとして受け入れさせられているのです。
労働者階級を眠り込ませる最善手
☆「井の中の蛙」のように「資本主義社会の中の労働者」として、現在与えられている資本主義的生産様式を当然のものとして労働者階級に受け入れさせるうえでの「最善手」と思われる手法があります。
それは、労働者階級の中に潜り込んで、内部から、労働者階級の闘いを〝資本主義の廃止〟から〝資本主義の改善〟へと導くことです。資本主義がもたらす様々な問題について、その改善のために努力するのは、誰もが認める、良いことです。資本主義の信奉者でも、資本主義の廃止論者でも、誰も反対はできません。資本主義の廃止論者なら、なおさら、大いに力を尽くさなければならないことです。しかし、それだけでは資本家の思うつぼです。
資本家階級の指示に基づいてそのような行動をとっているのか、自らの意志で行っているのかは不明ですが、客観的に、そのような役割をはたしている人物の一人に、いまだ「共産党」に絶大な影響力を持ち続ける、不破哲三氏がいます。不破さんは、「賃金制度の廃止!」を訴えたマルクスの『賃金、価格、利潤』をテキストとして「ルールある資本主義社会」へ道を開いていくことを訴えて、労働者階級の政治的目覚めを妨げます。不破さんが『賃金、価格、利潤』をテキストとして何を「講義」(という名で「歪曲」)したのか、ちょっとだけ、一緒に見てみましょう。
★マルクスは、『賃金、価格、利潤』の中で、「「公正な一日の労働にたいして公正な一日の賃金を!」という保守的なモットーのかわりに、彼らはその旗に「賃金制度の廃止!」という革命的な合言葉を書きしるすべき」(大月書店国民文庫 P88)であり、労働運動は「現存の制度の諸結果にたいするゲリラ戦だけに専念し、それと同時に現存の制度をかえようとはせず、その組織された力を労働者階級の終局的解放すなわち賃金制度の最終的廃止のためのてことして使うことをしないならば、それは全面的に失敗する。」(同上 P89)と言って、労働者階級が資本主義の改善だけのたたかいに騙されないように訴えています。
しかし、「講師」(という名の「ペテン師」?)の不破さんは、マルクスは「どんな情勢の時でも賃金闘争で頑張らなければダメだと」いっていると、『賃金、価格、利潤』のとんでもない「歪曲」を行ない、この「講義」を「拝聴」したであろう不破さんの部下のA氏(不破さんが「党社会科学研究所所長」でA氏は「副所長」)は「資本主義世界でも異常な日本社会の状態を打開して、社会的バリケードをかちとり、『ルールある経済社会』(「ルールある資本主義社会」のこと──青山)へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道なのだということを強調して、講義を終わります。……『賃金、価格および利潤』を読む中で、この呼びかけのところまで現代的には行き着くのだなと思いました」と述べて不破さんの『賃金、価格、利潤』の、許しがたい、修正を絶賛する始末です。
★不破さんはこの「講義」で、資本主義的生産様式がある限り労働者階級の生活は良くならず、この社会を変えない限り自分たちに明るい未来などないという『賃金、価格および利潤』を通じてのマルクスのメッセージを伝えず、「『ルールある資本主義社会』へ道を開いてゆくことこそが、日本の勤労人民の『肉体的および精神的再生』であり、日本社会を健全な経済的発展の軌道に乗せる道」だなどと言って、労働者階級を「井の中の蛙」のように「資本主義社会の中の労働者」として、現在与えられている資本主義的生産様式の存続を当然のものとして労働者階級に受け入れさせ、労働者のたたかいを資本主義の枠内に閉じ込めさせる役割を立派に果たしています。
☆資本家階級の指示に基づいてそのような行動をとっているのか、自らの意志で行っているのかは不明ですが、これでは、不破さんが、ニセ「科学的社会主義」者だと断言されても弁解の余地はないでしょう。意識的か無意識かにかかわらず、結果的に、「連合」を含む、このような資本家階級にとっての「最善手」を打つ人たちによって、労働者階級は社会変革への展望を見失わさせられ、その闘うエネルギーは削がれています。
労働者階級・国民の新しい社会を創るための主役としての目ざめを
☆このような困難を克服するためには、非常な努力が必要です。
〝非常な努力〟とは、下記のような希望をもって、その希望をもつことができた人一人ひとりが大河の一滴となって、倦まず弛まず、労働者階級にかれらの歴史的役割を訴え続けることです。このこと以外に道はありません。確信と熱い心と勇気のある者は、困難なことを「不可能」だなどといって、困難さに屈服してはなりません。たとえ明日潰える命であっても、希望をもって、5年後10年後に叶えられる夢に向かって今日一日を生きなければなりません。
その希望とは、〈労働者階級が、自分たちの置かれている状況の真の原因が「生産手段の私的占有者が企業と社会の支配権をもつ社会」にあること、そして、この資本主義的生産様式の社会のなかで〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟が形成されていることに気づいたとき、社会を見るかれらの目は一変し、〝経済は社会全体と人々の生活を豊かにするためにある〟ということの本当の意味が理解され、そのような社会を実現することの歴史的な必然性とそのためのかれらの歴史的役割がしっかりと認識されて、社会を豊かにし、人々の生活を豊かにするためには「生産手段の私的占有者が企業と社会の支配権をもつ社会」を改革する以外に道がないことを確信し、その運動の中心を担うのが労働者階級であることを、はっきりと理解するはずである〉という確信です。
★そして、このような社会をつくり変える運動は、米国の覇権維持のための中国との争いに象徴されるような排他的な競争と異なり、世界の労働者階級を中心とする全ての国民の利益に完全にかなう、本当の民主主義と本当の自由の獲得をめざす、世界の労働者階級の団結・連帯を築き強める国際的な意味をもつ運動だということ、そのことも、同時にはっきりと労働者に理解されるようになるでしょう。そのとき、今では死語となりかけているかに見える〝万国の労働者、団結せよ!!〟という言葉を、再び、人々の心に新鮮に蘇らせることとなるでしょう。
☆〝経済は社会全体と人々の生活を豊かにするためにある〟という社会を実現し、私たちが日本を変え、世界を変えるためには、労働者が主役となって、日常的に生活を守る運動を大きくするだけでなく、いまの社会システムのもとでは問題の真の解決が不可能なことをみんなが理解し、みんなが資本主義的生産様式の社会を大嫌いになって、新しい社会の実現を求めるようになり、労働者階級全体の新しい社会への渇望と新しい社会づくりへの参加がはじまるとき、新しい人が続々と生まれ、育っていきます。
労働者と国民の〝新しい人〟への脱皮と飛躍
★〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会を実現させるための社会全体の民主的再編とその過程を通じて、労働者と国民の〝新しい人〟への脱皮と飛躍が生まれる。
☆いよいよ、〈新しい生産様式の社会をつくる運動は人間をどこへ導くか〉というテーマを一緒に考えていきましょう。
科学的社会主義の思想によって発見された新しい生産様式の社会は〝資本の支配〟を法的に排除し、〝人民の支配〟が参加によって保証された社会です。だから、資本主義的生産様式の社会を打倒する運動も、誰か指導者がいて、国民はその指導者に〝ウラー〟と叫んでついていくだけの運動ではだめです。それは、レーニンが『ロシア共産党(ボ)第七回大会』で「わが国の革命がおこなっていることが偶然ではなく──われわれは、それが偶然ではないことを、深く確信しているが──、またわが党の決定の産物でもなくて、マルクスが人民革命と名づけたあらゆる革命、すなわち、人民大衆が、古いブルジョア共和国の綱領を繰りかえすことによってではなく、彼ら自身のスローガンにより、彼ら自身の奮闘によって、みずからおこなうあらゆる革命の不可避的な産物である」(全集第27巻P135、1918年3月8日)と述べているような〝人民革命〟でなくてはなりません。そしてそのためには、国民一人ひとりの自覚的な行動が必要ですし、そのための国民一人ひとりの成長が必要です。
そのような自覚的な個人を生み出すために、新しい生産様式の社会は企業と社会にたいする〝全人民の民主主義的管理を組織する〟ことなしに存続することも発展することもできないことを明らかにし、労働者階級を中心とする国民一人ひとりの自覚と成長を促すなかで、この〝全人民の民主主義的管理を組織する〟ための運動を組織し発展させることを通じて、その中で、自然に国民一人ひとりの自覚的な成長が図られていきます。
こうして、労働者と国民の新しい社会をつくる〝新しい人〟への脱皮と飛躍がおこなわれていきます。
〝新しい生産様式〟の社会での人々の自由と労働
☆このように、人々の「真に全般的な参加」によって構成された〝新しい生産様式〟=〝結合労働の生産様式〟の社会で、〝労働〟はどのように変わっていくのか、二つの視点から見てみましょう。
★マルクスの思想を曲解して止まない不破さんは、「未来社会論」なるもので、マルクスのいう〝自由の国〟について、「自由の国」とは「自由な時間」のことで資本主義社会における「余暇」も「自由な時間」だから「自由の国」だと言い、未来社会において労働が「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動」となるから、物質的生産にあてるべき時間は未来社会においても「必然性の国」だなどと、わけの分からないことを言い続けてます。
☆しかし、本当の〝自由な時間〟とは、その時間を自由な意志にもとづいて使えるだけでなく、自由に使うための物質的な条件も整っていなければなりません。資本主義的生産様式の社会は、一般国民にとって、時間を自由に使うための物質的な条件が非常に狭められていますが、不破さんは、「自由な時間」をどんな社会にでも必ず少しはある「余暇」に一般化し、矮小化し、「未来社会」での〝生きがい〟の一つに転化した労働を「必然性の国」なるものにでっち上げるために、仕方なく行う「義務的な活動」だといいはります。
★もちろん、今でも、極わずかではあるが自分の望む研究等に寝食を忘れて没頭することのできる〝生きがい〟としての労働を行う機会を享受している人もいますが、マルクスとエンゲルスは、〝自由な時間〟と〝労働〟の関係について、概ね、次のように述べています
〈人々の「真に全般的な参加」によって構成された〝結合労働の生産様式〟の社会では、労働が「他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わ」り、生産性の向上によって人間の労働から単純反復労働が排除されるとともに「労働日の短縮」も本格的に実現し、個人の「自由な時間」も飛躍的に拡大する。同時にその過程で、個人の発展にともなって「諸個人が分業に奴隷的に従属する」システムの解消も進み、「精神的労働と肉体的労働との対立」もなくなり、「労働」そのものが「生きがい」となり、「諸個人の全面的な発展」が保障される社会へと変化していく。〉
マルクスとエンゲルスは、このような展望を示し、こうして出来た未来社会を〝共産主義社会〟(共産主義社会のより高度の段階の社会)とよび、〝自由の国〟と呼びました。
☆このように、不破さんとマルクス・エンゲルスとでは「自由の国」についても、「労働」と労働者との関係の見方についても、まったく異なります。
そして不破さんは、未来社会のもう一つの特徴として「指揮・監督労働」が「指揮者はいるが支配者はいない」ものに変化することだと言いますが、この考えは、次のように、二重に間違っています。
まず第一に、不破さんは社会の進歩によって「精神的労働と肉体的労働との対立」もなくなり「労働」そのものが「生きがい」となる社会を否定し、労働が、未来永劫に特定の指揮者のもとで「諸個人が分業に奴隷的に従属する」「社会の構成員にとって義務的な活動」として続くものと見ています。
第二に、人々の「真に全般的な参加」によって構成された〝結合労働の生産様式〟の社会での企業経営の問題が、不破さんによって生産過程での「指揮・監督」の問題に矮小化され、革命──つまり、生産様式の変革──の本当の意味、革命の核心が隠蔽され、人民による統治(by the people)に多くの国民が目覚めることが妨げられます。
※不破さんの「自由の国」とは「自由な時間」のことで資本主義社会における「余暇」も「自由の国」だと言う謬論の詳しい紹介は、ホームページAZ-2-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定する不破哲三氏」を、不破さんが「指揮者はいるが支配者はいない」という職場を未来社会の理想としていることについての詳しい紹介は、ホームページ4-16「☆不破さんは、エンゲルスには「過渡期論」が無いと言い、『国家と革命』と『空想から科学へ』は「マルクスの未来社会像の核心」を欠いていると誹謗・中傷する。」(PDFのページ14以降)及びホームページ4-20「☆「社会変革の主体的条件を探究する」という看板で不破さんが「探究」したものは、唯物史観の否定だった」(PDFのページ14以降)を、是非、参照して下さい。
★これまで、不破さんの謬論を俎上に載せて、〝新しい生産様式の社会は人間をどこへ導くか〟ということを極々簡単に見てきましたが、新しい生産様式の社会への途は、あからさまな資本主義弁護論者ととも不破さんのように誤った考えをあたかも「社会主義」者の考えででもあるかのように国民の中に持ち込むペテン師たちの謬論を国民が克服することを通じて前進します。
新しい生産様式の社会をつくるこのようなたたかいを通じて生まれた新しい人たちが、〝諸個人の全面的な発展〟を保証する〝結合労働の生産様式〟の社会をつくり、長く続いた「野蛮」の時代を終わらせ、人間の新しい文明の時代を、立派に、築きあげていくことは間違いありません。
☆現代の資本主義に生きる私たちは、幸運にも、その岐路に立ち、最も生き甲斐のある時代に生を受けたのです。そのことを意識して悔いのない人生を生き抜こうではありませんか。
旗幟鮮明に、そして、ねばり強く新しい社会への道を訴え続ける
☆私たちはまず、〝経済は社会全体のため、人々の生活を豊かにするためにある〟という共通認識に立って、豊かな国民生活を築くうえで失われたもの、欠けているものの再生・復興に着手しなければなりません。
今の日本で〝社会を豊かにし、人々の生活を豊かにする〟ためには、まず、日本経済の危機の最大の原因であり、1995年以降その悪影響が顕著にあらわれた「産業の空洞化」とその結果でもある〝地域と地域経済の衰退〟とをくい止め、再生・復興させるために、国家の機能を最大限発揮させる必要があります。しかし、その進展は先ほど見たように、〝社会的生産〟の意義を社会(国民)が正しく認識していく度合いの深さに依存しています。
★そして、社会(国民)の認識を変えるためには、
〈①生産手段の私的個人的所有から得られる特権をなくし、②企業の民主的運営が確保され、③企業の目的が利潤の増大から社会への貢献に変わり、④資本を増殖させるための企業による労働者の搾取をなくし創造された富を労働者に正当に還元させるために、社会として必要な富の増加のための企業の設備の拡充に要する資金は企業への社会の貸付と企業の減価償却とで相殺させる仕組みをつくり、設備投資のために労働者を搾取して「内部留保」を貯め込む根拠をなくし、⑤「資産家」への富の偏在を解消してすべての人が平等に自己の能力を発展させる基礎のある社会をつくる。〉
このような社会の実現を、私たちは、旗幟鮮明に、そして、ねばり強く訴え続ける必要があります。
今の日本の問題を指摘し、
その解決策を提示し、
新しい生産様式の社会を展望する
☆いまある、資本主義的生産様式の基で経済が円滑に回り、拡大基調で推移するためには、たえず、投資がなされ続けることが必要です。そのためには、「資金」がどこかに滞留したり、死蔵されたりしていてはなりません。
日本は、「企業」が経済成長に必要な国内への「投資」を怠り続けたために生産性の低下と「産業の空洞化」をもたらし、国力と国民に多くのダメージを与え続けていますが、その「企業」は「内部留保」を増やし続け、「資金」の滞留と死蔵が資本主義的生産様式の社会にとって罪悪であることを無視し続けています。
★「産業の空洞化」をなくし生産性を高めて国力と国民生活を豊かにするために、海外に富と雇用を持ちだした企業に対し国内への投資を義務付けて「産業の空洞化」の責任をとらせるとともに、企業の富の死蔵をなくし「投資」を促すために、富の死蔵となっている「内部留保」に「投資促進税」をかけ、「内部留保」を積極的に投資にまわした企業には「投資報奨減税」を行うこと等を、当面の、施策として提起し、資本主義的生産様式の仕組みを現実の経済のあり方を通じて国民が理解できるようにしなければなりません。
☆同時に、現在の日本の産業・経済の状況に照らして、社会インフラの適正な配置と生産手段の適正な配分を行うために、私的資本が支配する資本主義的生産様式の社会では実現不可能な①同一産業内の「資源」のその産業内での必要な再配分の調整や②各産業ごとの必要生産額に見合った「資源」の再配分を含め日本全体の拡大再生産のための総合的な「資産」の配分について、その例を示し、社会の代表である国家がおこなうことの意義を明らかにし、国民に訴えることも忘れてはなりません。
☆また、急速に劣後しつつある〝技術革新と生産性のたゆまざる発展〟のために、社会として、基礎研究をはじめとして、各フェーズの研究開発の規模と水準を飛躍的に高める必要があります。
そのために、軍事費等の浪費的予算を研究開発に向けて研究開発のための国家予算の大幅な増額をはかるとともに民間に眠っている資金を吸収して財源を充実させる等により社会全体の資金の分配のあり方を抜本的に変えるとともに、大学・研究機関等の枠を越えた智の集積と交流の場として、例えば筑波とか和光等に、唯一無二の拠点となる地域を作り、官民挙げた国家総動員の研究開発体制を確立する必要があります。そして、それらの研究と開発の成果は、すべての国民に対価なく利用可能に解放されなければなりません。
多くの大発明は既存の知識の新しい組合せによって実現します。そして、「既存の知識」を拡大するためには、社会総がかりのこのような基礎的な研究を含む重層的な研究を行なう場と多くの人財が必要です。社会に役立つ人財を雲霞の如く輩出させるためにも、〝社会を豊かにし、人々の生活を豊かにする〟ことが大切です。そして、生産性が高まって、短い時間で多くの価値が得られるようになれば、義務的に働く時間が短くなり、享受できる価値も多くなるだけでなく、創造性に満ちた新発見がおこなわれる可能性はますます拡大していきます。
みんなが資本主義的生産様式の社会を大嫌いになって、
新しい社会の実現を求めるような世論をつくろう
☆資本主義的生産様式の社会から〝経済は社会全体と人々の生活を豊かにするためにある〟という社会へのパラダイムシフトのためには、当面の問題の解決だけに目を奪われるのではなく、自分たちの置かれている状況の本当の原因が〝生産手段の私的占有者が企業と社会の支配権をもつ社会〟にあること、そしてこの社会を変えない限り自分たちに明るい未来はないことを労働者階級がしっかり理解して、みんなが資本主義的生産様式の社会を大嫌いになることが必須条件です。
★そのために、「創られた富の配分の仕方」と「社会の主役」とが転倒している資本主義的生産様式の社会の仕組みとその結果起きていることについて、100回でも、1000回でも、一万回でも説明して、世間のみんなが資本主義的生産様式の社会の本当の姿を理解し、資本主義を大嫌いになってもらう必要があります。
そして、同時に、世間のみんなが、新しい社会への揺るぎない確信と希望をもって、新しい社会の実現を求めるようになることもまた、必須条件です。
そのためには、〝新たな社会の形成要素〟と〝古い社会の変革契機〟がどのように形成されているのかを、グローバル資本の行動を中心に資本の動向と社会・経済のありようを正確に分析し、明らかにすることです。
〝経済は社会全体と人々の生活を豊かにするためにある〟という言葉をすべての国民の共通認識にして、あなたが、私たちが日本を変え、世界を変えましょう。そのために、グローバル資本の行動を中心とする資本の動向と社会・経済の今を凝視しましょう。
※グローバル資本の行動を中心とする資本の動向と社会・経済の今についての詳しい説明は、ホームページ1「今を検証する」の各ページおよびホームページ2「二一世紀は何処に向かって進んでいるのか」の各ページを、是非、参照して下さい。
〝結合労働の生産様式〟の社会を準備する
労働者階級の企業でのたたかい
☆日本の「産業の空洞化」を「資本」に許した原因は、「賃金が上がれば、経済は良くなる」とうい政党の口車に労働組合が乗って「資本」の本能にもとづく富と雇用の海外流出を、抵抗することなく、放置し続けていることによりますが、そのようになった最大の原因は、労働組合の幹部たちが自らの企業の経営に目を向けず、自己の当面の保身だけに汲々とし、社会的な存在としての企業のあり方に無関心であったことによります。
労働者階級が、「資本」との賃金をめぐるイタチごっこだけに汲々とすることをやめて、かれらを中心とする国民が主人公の社会をつくるためには、企業での新しい職場闘争の展開が求められています。
★青山は、労働者階級が自らの企業の経営にコミットできるだけの能力を身につけることの必要性について、「⑤新しい社会を支える真の〝民主主義〟の社会全般での実現」の「☆新しい社会を支える真の〝民主主義〟の社会全般での実現を」の項で、「生産の場」から「地域と労働者の意向が反映されるような経営への労働者階級と国民の民主的参加」を「追求した小さな萌芽の一つ」の例として「自治体労働者がおこなう『自治研』活動」をあげ、「労働者階級は自らの企業の経営にコミットできるだけの能力を身につける努力をし、その能力を獲得しなければ、新しい生産様式の社会をつくることなど望みようもありません。そして、その能力を生かせるような制度が実現したときから、新しい生産様式の社会が始まります。いわゆる「社会主義社会」、〝結合労働の生産様式〟の社会とは、このような努力を通じてのみ生まれることのできる社会です。」と述べ、(*)で「労働者階級の自らの企業経営へのコミットのしかたについては、「⑦そのために推進すべき当面の課題」でより詳しく触れます。」と予告しておきました。
☆それでは、労働者階級が展開すべき企業での新しい職場闘争とはどのようなものなのでしょうか。一緒に見ていきましょう。
それは、戦略的には、資本主義社会を〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会に革命的に転化するための労働者階級の準備作業といっても良いでしょう。そして、〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会を実現するために、「資本」という私的財産に認められている「企業を支配する権利」を制度的に消滅させ、企業を社会が統治する制度を誕生させるに当たって企業の内部にいる労働者が果たすべき役割は、今ある資本主義社会の企業においても労働者階級が果たさなければならない役割の延長線上にあります。
★それでは、今ある資本主義社会の企業を、〝経済は社会のため、国民のためにある〟という社会での企業に限りなく接近させるためにおこなうべきこととは何か、一緒に見ていきましょう。
企業の本来の使命は、労働者の生活を豊かにし、地域の経済を豊かに発展させることです。そのための前提として、その企業とその地域にある企業が、どれだけその地域の労働者の雇用に貢献しているのか、どれだけその地域の資源を活用しているのか、どれだけ生み出した富をその地域に還元しているのか、等を普段から把握しておく必要があります。だから、労働者階級はまず、地域住民とともに、関連自治体が企業の協力を得てこれらの情報を収集・整備することを働きかけ、その成果を労働者の生活を豊かにし、地域の経済を豊かに発展させるために活用する必要があります。そして、これらの情報の収集・整備を待つことなく、それぞれの企業の労働者は各企業がこれらの課題の前進のために意をもちいるよう継続的に働きかける必要があることは、言うまでもありません。
また、企業は社会の発展のために自らの進路を革新していかなければなりませんが、労働者は自らの企業が経営方針の変更をする場合、その企業を一番よく知り尽くした当事者として、どのような事業分野や研究領域を対象とし、その結果、雇用や地域経済にどのような影響がでるのか等の質疑や意見の表明をおこなうとともに、その質疑や意見が真に尊重されることが保障された協議の場が設けられるよう企業に求めるなど、単なる「賃金奴隷」から企業経営の舵取りの一員へと転化するための新しい職場闘争を運動の主軸の一つにおいた労働組合づくりに全力で取り組む必要があります。
新しい生産様式の社会〟は国民による国家の統治と社会による企業の統治が行なわれる社会す。私たちは、企業と国家の運営に労働者階級を中心とした国民が全面的に参画した社会を実現するために、これらのことを成し遂げなければなりません。
労働者を「義務的労働」に縛りつける不破さんの貧困な思想
☆私は、「⑥労働者階級の歴史的役割と労働者と国民の新しい人への脱皮と飛躍」の「☆〝新しい生産様式〟の社会での人々の自由と労働」の項で、不破さんが、未来社会においても労働は「社会の構成員にとって義務的な活動」だから、マルクスの言う「自由の国」とは「自由な時間」のことで、資本主義社会における「余暇」も「自由な時間」だから「自由の国」だと言い張り、マルクスとエンゲルスが未来社会を「精神的労働と肉体的労働との対立」もなくなり「労働」そのものが「生きがい」となる社会になると言っていることを否定して「指揮者はいるが支配者はいない」という、〝リーダーシップはあるがヘッドシップのない〟「民主的な職場管理」の方法として資本主義的生産様式の社会でも認められ推奨されている職場関係を理想としていることを紹介しました。
★不破さんが、このように未来においても労働者を「義務的」な労働に縛りつけ、人間としての全面的な発達を妨げるのは、不破さん自身の貧困な思想によるものです。不破さんの貧困な思想とは、「日本共産党第29回大会決議」(2024年1月)(*)に示されている──社会主義社会は「生産手段の社会化」によってつくられ、社会主義社会になれば賃金も上がり労働時間も減って自由な時間ができる、現在の日本経済の「失われた30年」は自民党が企業の「コストカット」を応援し続けた結果なので「コストカット」でため込んだお金の一部を政治の責任で労働者に還元することによって「経済の発展を促す」、これが日本経済「再生」の「抜本的方策である」──というものです。
☆「失われた30年」が企業の「コストカット」を自民党が応援し続けた結果だという謬論はとりあえず脇に置くとして、ここには科学的社会主義の思想の欠けらもありません。いまの社会を誰がどのよううに変えていくのかもなければ、資本主義社会の二大主役である資本も労働者も出て来ないし、社会主義への道筋もなければ社会主義社会での労働者階級の役割もない。不破さんたちの頭の中には、資本主義的生産様式のもとでの「民主的な職場」で「義務的」な労働に縛りつけられた労働者が「生産手段の社会化」された社会で〝生きた化石〟のように生き続けている姿しか見ることができないのかもしれません。だから、不破さんの未来社会では労働が「義務的」なまま継続し続けるでしょう。
★資本主義的生産様式の社会から〝結合労働の生産様式〟の社会への途は、労働者階級が企業と社会の現在と未来を考えることを目隠しされた“賃金奴隷”から新しい社会を創る主役として“新しい人”に自己を実現していく途でもあります。不破哲三氏と現在の「共産党」にはこのような観点が全く欠けています。だから、「党綱領」から労働者階級の歴史的使命を、平然と、除去することができるのでしょう。誠に残念でしかたがありません。
(*)詳しい説明は、ホームページ3-2-5「“科学的社会主義の思想”とは何か…「日本共産党第29回大会決議」を検証する…共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。」を、是非、参照して下さい。
これらを踏まえた〝新しい生産様式の社会〟の実現をめざす人たちの闘い方
★これらを踏まえた〝新しい生産様式の社会〟の実現をめざす人たちの闘い方とはどのようなものか。
それは、ひと言でいうと、運動の主体・中心に労働者階級・国民が置かれた、普通の労働者・国民が運動の担い手となることのできる運動体の構築でなければならないということです。
☆そのためには、まず、政党は、国民の中のその政党を支持する人たちを「後援会」に組織し、党勢を拡大して党の影響力を大きくすることによって党の政策を実現させるという、これまでのような運動のスタイルから脱却しなければなりません。政党は、なによりもまず、労働者階級・国民の一員として、広範な労働者階級・国民が参加できる革新的な政策を持ったオープンな組織をつくるために全力で注力しなければなりません。政党の応援団として労働者階級・国民を迎え入れるのではなく、政党が労働者階級・国民の運動を支え発展させ、労働者階級・国民が〝人民革命〟を成就するための助産師の役割を果たすのです。
レーニンは、──偶然でも、わが党の決定の産物でもなく、彼ら自身のスローガンにより、彼ら自身の奮闘によって、みずからおこなう社会変革──を「マルクスが名づけた人民革命」と言いましたが、労働者階級・国民があらゆる国事に参加することによって成り立つ〝新しい生産様式の社会〟は、この〝人民革命〟なしに実現させ維持させることはできません。だから、ある特定政党の関係者以外参加していない「民主市政をつくる会」や政党を大きくするための「市民と野党の共闘」は、「民主」とか「共闘」とかを謳っても、労働者階級・国民が実際に運動に参加しなければ、万が一、一時的に要求が前進したとしても、労働者階級・国民の〝団結〟がないために、〝新しい生産様式の社会〟をつくる〝人民革命〟への道に通じるものではありません。
★なお、青山が、もう一度〝人民革命〟をめざす党へと願って止まない「共産党」に、この問題について求めている詳しい内容については、ホームページ3-3-1「〝前衛党〟は市民革命の助産師に徹しよう…科学的社会主義の党が輝くとき」及びホームページ3-2-5「“科学的社会主義の思想”とは何か…「日本共産党第29回大会決議」を検証する…共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。」のPDFの「自民党政治を変える統一戦線とは」(13ページ)以降を参照して下さい。
以上、悪文にもかかわらず、明日の日本のためと思い、耐えて、お読みいただいたことに感謝します。
次は、
ホームページ2-1-6「〈資本主義社会〉と〈21世紀に生み出される新しい社会〉との違いのまとめ」です。